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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その8)

2019-08-31 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月31日(土)11時17分5秒

前回投稿で引用した部分に「甲〇号証」という表現が出てきますが、裁判に馴染みのない方のために説明すると、原告側の証拠が「甲号証」、被告側の証拠が「乙号証」ですね。
裁判所に証拠として認めてもらうためには、そもそも何を立証するために当該証拠を提出するのかを説明する必要がありますが、その点は「証拠説明書」という書面に書きます。
そして、「証拠説明書」において、ある資料を「甲〇号証」と特定したら、当該資料の原本、または資料の性質に応じて、そのコピーに「甲 号証」というハンコを押して、空白部分に数字(連番)を書いて裁判所に提出する訳ですね。
『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』には「Ⅰ 名古屋高等裁判所判決」の最後に、昭和46年2月17日付の「証拠説明書(控訴人側)」が掲載されていますが(p113以下)、それを見ると、例えば「甲五四号証」は(一)(二)に分れていて、

-------
54 (一) 甲第五四号証の一「国家神道」
(作成)村上重良著、岩波書店昭和四五年発行、著者は龍谷大学講師、宗教学者でありかつ、神道人以外の神道学者としては第一人者である。
(立証事実) 国家神道のなりたち、思想、構造、政教分離をめぐるその危険性
(二) 甲第五四号証の二「『国家神道』の書評(昭和四五・一二・二八付朝日新聞朝刊)」
右著書の書評である。本件地鎮祭に関し、「とりたてて大騒ぎするほどのことではないと考えられがちであるが、国家や公共団体が神社と公に関係を持つということがどのように重大な結果をもたらすか反省してみる必要がある」との指摘は正鵠を得ている。
-------

と書かれています。
村上重良が「神道人以外の神道学者としては第一人者」云々はあくまで弁護団の主観的評価ですが、当時の研究水準に照らせば、決して的外れな評価ではないでしょうね。
さて、この証拠説明書の中で「甲第八号証」の加藤玄智著『神道精義』に関する記述はけっこう重要なので、詳しい説明は後で行ないますが、とりあえず引用だけしておきます。(p117以下)

-------
8 甲第八号証「神道精義」(表紙、二三二~二三三頁、二七〇~二七一頁、三〇八~三〇九頁、三四八~三四九頁、三五六~三五七頁)
(作成)大日本図書株式会社発行(発行年は不詳、昭和一〇年代前半ごろか)著者加藤玄智は文学博士、国学院大学、東京帝国大学等の宗教学神道学教授を歴任した戦前宗教学の権威とされた者である。本書は同人の主要著書の一つである。
(立証事実)
① 明治憲法下では前述のとおり"神社は神道に非ず"として宗教政策上、国法上神社神道(国家神道)は宗教として取扱われなかったのであるが、当時宗教学の第一人者であった著者は神道の本質は宗教である旨を明らかにしていた(二七〇頁)。
② 右に関し、著者の「宗教」の定義は注目に値する(二七一頁)。即ち、著者は宗教とは「最も広汎なる意味にて、神と称せられる所のものと、人間との特殊の関係である」と定義し、ここでいう神とは、キリスト教のゴッドのようないわゆる神人懸隔教系の造物主たる神を意味するばかりでなく人神即一教の仏教、如来のようなもの神道の神も、劣等自然教の精霊のようなものを含み、そういう神の救済や助けを信じ、求めることが宗教であると述べているのである。前記のような経歴を有する著者の見解からしても神道が宗教であることは明らかであり、本証は控訴人の神社神道は宗教であるとの主張(準書三四~三五頁)を正に裏付けるものである。
③ 右のような神社神道の宗教性について正直に見解を述べた著者は、反面、神社神道の国教化における危険な一面をこれ又文字通り率直に述べる。即ち同人の見解によれば、神道は国民的宗教であるから、個人個人の信教の自由は入りこむ余地がないとする。「神様の国に生まれて神様の道がいやなら外国へ行け」とまで極言する。そして右神道信仰─天皇信仰に背反しない限りにおいてのみ憲法(明治憲法)は信教の自由を与えたのだと言う(三四八頁)。これは戦前戦中の国家神道による信教の自由、思想、良心の自由迫害の生(なま)の理論であり、生の事実である。まことに怖ろしいといわざるを得ない。しかしながら、このことは戦前のことだから今とは関係がないと楽観することはできない。新憲法下の現在でもその思想は依然として残っており又戦前へ戻ろうとする動きがあるからである。右は神社神道を国民道徳として天皇崇拝、神社参拝などを国民全体の守るべき道徳とした大石鑑定や靖国神社国営化の動きなどに端的に表れている。
-------

加藤玄智『神道精義』の「発行年は不詳、昭和一〇年代前半ごろか」とありますが、これは1938年(昭和13)ですね。
『神道精義』のような古色蒼然とした大部の書物を、「全部読め」と言わんばかりに丸々提出するのは殆ど嫌がらせに近い行為なので、弁護団側で重要と思われる個所を抜粋し、そのコピーを裁判所に提出した訳ですね。
ちょっと気になったのは加藤玄智が「戦前宗教学の権威とされた者」「宗教学の第一人者であった」云々という部分で、もちろんこれは弁護団の主観的評価ではありますが、相当問題があります。
というのは、加藤玄智と同年(1873年)の生まれで、学歴も似ていながら、加藤玄智よりずっと早く東京帝国大学の教授となって多くの門下を育てた姉崎正治という宗教学者がいて、姉崎こそが当時の「宗教学の第一人者であった」ことは衆目の一致するところだからです。
加藤玄智が「神道学の第一人者」ということであれば、まあ、それなりに妥当かもしれません。
そのあたりの事情も詳しくは後で論じます。

加藤玄智(1873-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%8E%84%E6%99%BA
姉崎正治(1873-1949)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E6%B2%BB
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その7)

2019-08-30 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月30日(金)22時46分51秒

それでは「Ⅲ 論稿」に掲載された小池健治「5 戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」(p286)を少し紹介してみます。
この論文は全部で24頁で、その構成は、

-------
1 はじめに
2 大本教に対する弾圧
3 ひとのみち教団に対する弾圧
4 日本基督教団に対する弾圧
5 むすび
-------

となっています。

-------
  1 はじめに

 国または公共団体が神道式地鎮祭を主催・挙行すること、それに公金を支出することが憲法に違反するか否かを争っている津地鎮祭違憲訴訟において、もっとも本質的な問題点は、国や公共団体と神道という特定宗教との癒着・結合を許すか否か、もしこれを許した場合国民の信教の自由を初めとする精神的自由が侵害される危険はないか、ということである。控訴人側は、この訴訟において、地鎮祭は日常行われている習俗行事である、といった表面的な見方で結局のところ国と特定宗教たる神道との結合を許容したとすれば、政教分離の憲法原則を冒すことはもちろん、国民の宗教の自由や精神生活の自由に多大の危険をもたらすであろうことを憂え、絶対にこれを許してはならないとの考えから、一見些事にみえるこの訴訟を戦い抜いてきたのである。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。
小池氏も一般人からは「一見些事にみえる」であろうことを認めた上で、次のように続けます。

-------
それでは何故そんなに心配するのか。何を根拠に大騒ぎするのかと反問されるであろう。それに対する答えとして、われわれ弁護団は、国家と神社が一体化した戦前戦中の国家神道による人権侵害とくに他宗教に対する弾圧について生〔なま〕の事実を証人や書証(証拠書類)で立証し、裁判官にそれらの事実に対する直接の認識とそのような苦い体験を経たからこそ憲法で政教分離原則が制定されたのであり、だからこそその原理は、慎重にかつ厳しく、考えなければならないということの深い洞察と理解を求めたのである。以下私は、控訴審で立証した宗教弾圧を中心とする国家神道の人権侵害について述べようと思う。

 初めに控訴審において、右の立証テーマで提出・採用された証拠の主要なものを列記しておく。
(証人)滝沢清(元日本基督教団総務局主事)
(書証)
(1) 加藤玄智著「神道精義」(甲第八号証)
(2) 河野省三著「神道読本」(甲第九号証)
(3) 米田豊、高山慶喜共著「戦時ホーリネス受難記、昭和の宗教弾圧」(甲第一一号証)
(4) 出口栄二著「大本教事件」(甲第一二号証)
(5) 出口栄二監修「写真図説民衆の宗教・大本」(甲第一三号証)
(6) 津田騰三著「ひとのみち教団の裁判」(甲第一四号証)
(7) 村上重良著「国家神道」(甲第五四号証の一)
-------

ということで、「2 大本教に対する弾圧」以下、「国家と神社が一体化した戦前戦中の国家神道による人権侵害」の実例が列挙されています。
それを読んでみると、まあ、各事例の関係者はそれぞれに大変だったのだろうな、とは思うのですが、「戦前戦中」、即ち明治維新から敗戦までの約八十年間に万遍なく宗教弾圧が起きていたかというと、そんなことはありません。
大本教に対する第一次弾圧が1921年(大正10)であることを例外として、大本教第二次弾圧は1935年(昭和10)、ひとのみち教団弾圧は1936年(昭和11)、ホーリネスへの弾圧は1942年(昭和17)という具合に、宗教弾圧の大半は昭和十年代ですね。
美濃部達吉の天皇機関説事件が1935年(昭和10)ですから、帝国憲法下の国家運営の仕組みが軍部の強大な圧力によって変容させられて以降の出来事です。
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その6)

2019-08-30 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月30日(金)10時36分32秒

「回顧と展望」座談会における佐木秋夫氏の発言の続きです。(p347)

-------
そこでちょうど靖国神社国営化の反対運動に私もタッチしていた関係上、関口さんからご連絡いただくと、すぐにその集まりの中で発表し、皆さんの注意をよびおこそうとしました。そこで支援を訴えたのですが、靖国神社問題で戦っておりましたから、すぐ皆さんは理解されまして、これは大変だぞ、ということで支援の体制が始まったのです。それでそういうバック・アップを受けながら私は最初の鑑定人として、名古屋に行ったわけでございます。キリスト教は信教自由の問題では、明治以来ずっとたたかっておられるわけですね。靖国神社問題でも先頭に立っておられる。キリスト教だけでなく、宗平協の諸君、それだけではなくさらに一般の仏教、新宗教の方々─靖国問題に結集しておられる方々─が腕を組む。【後略】
-------

「宗平協」は「日本宗教者平和協議会」の略称で、共産党に近い団体のようですね。

http://n-syuhei.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E8%80%85%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

佐木秋夫氏の獅子奮迅の活躍は今村嗣夫弁護士の発言の中にも出てきます。(p354)

-------
 それからもう一つ、この裁判の一番の功労者は佐木先生でしょう。あの田舎の三重県で起こった事件を靖国の問題と結びつけて中央へ持ってこられたのは実は佐木先生なのです。新宗連の清水さんが申していましたが、靖国の会合がある度に佐木さんは何とかの一つ覚えのように、「津、津」と言って説いて回ったそうです。その中に靖国の人たちが皆「津、津」と言うようになった……。(笑い)それでやがて弁護団ができ、「守る会」ができたわけです。ですから佐木先生こそ勝訴をもたらした最大の功労者ということになる……。(笑い)
-------

「何とかの一つ覚え」には傍点が付されています。
「新宗連」は「新日本宗教団体連合会」の略称で、いわゆる「新宗教」関係の教団の集まりですね。

http://www.shinshuren.or.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E5%9B%A3%E4%BD%93%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A

「新宗教」の教団の大半が民衆的・大衆的な基盤に根ざしているので、理屈っぽい人が多い共産党とはあまり相性が良くないように思われますが、宗教学者の佐木氏は従前から「新宗教」との人脈も豊富だったようですね。
さて、今村弁護士から「この裁判の一番の功労者は佐木先生」、「あの田舎の三重県で起こった事件を靖国の問題と結びつけて中央へ持ってこられたのは実は佐木先生」、「佐木先生こそ勝訴をもたらした最大の功労者」と持ち上げられた佐木氏はまんざらでもない気分だったでしょうが、

-------
佐木 私はメッセンジャーみたいなものですよ。この問題はなかなか分かりにくいですからね。
-------

と控え目な返答をします。
「守る会」の軍師として、かの黒田官兵衛並みに大活躍された佐木氏が率直に認めておられるように、確かに地鎮祭問題には分かりにくさがあります。
「靖国の問題」、すなわち当時具体化していた靖国神社国家護持法案のような問題であれば、誰もが憲法の政教分離原則と抵触する可能性を理解できますが、地鎮祭みたいな地味な習俗的儀式の場合、一般人にとっては「靖国の問題」との結びつきは自明ではなく、憲法を持ち出すこと自体があまりに大袈裟な感じがしてピンと来ません。
そこで「守る会」側としては、自己の主張をアピールするために、地鎮祭は「国家神道」と、従って「靖国の問題」と重大な関係があるのだ、という論証をする必要が生じます。
そのあたりを小池健治弁護士の「5 戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」(p286以下)に即して見て行くことにします。
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その5)

2019-08-29 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月29日(木)06時27分38秒

1971年5月14日の控訴審勝訴を受けて行なわれた座談会は、

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  1 二審の勝因

司会 皆さん今晩は。いろいろな都合で来られない方もいらっしゃいますが、最高裁での連続勝訴をめざして、「回顧と展望」という題のもとに、しばらくの間、皆さんの自由な発言また決意といったものをいただきたいと願っております。
 私たちは皆、去る五月十四日において、文字通り、「名古屋の空は青かった」という大変うれしい思い出を持っているのですが、一体何が名古屋高裁において、あのような歴史的勝訴をもたらしたということについて、最初に皆さんからお話を承りたいと思います。原告の関口先生からまず最初に発言していただきたいと思います。
-------

という司会(西川重則氏)の高揚感に満ちた発言(p345)を受けて、関口精一氏が、

-------
関口 裁判に勝ったということですが、こういう機会を持てて、全国的な課題として深めていただくことに感謝しています。
 まず第一審の結果と比べましても、問題が全国的な問題と言いますか、全国に、そういう知的な高い水準の問題としてとらえられていたことと、それから「守る会」が出来てそのバック・アップが種々な専門家を結集する力となった。そういうことが非常に大きな力となったと、相手方と対比してみますと一目瞭然だと思います。第二に、もう一つの側面は、司法反動というか、靖国問題を含めてですね。このことは私は非常に一面的にとらえて、どの裁判官も最高裁の判決になびいて迎合的でないかと考えていましたが、むしろあの司法反動の空気そのものが真面目な裁判官の気風を引きしめさせ、判決という形で自分たちの姿勢を明らかにしていくという一つの機縁になったのではないかということですね。これは、ごく最近では、新潟の水俣病とかそのほかいろいろな判例を見ても何かそのような事を私は考えるわけですね。それから第三にはやはり、これは靖国問題、また、もっと底流と言えば軍国主義の復活に対する反対ですね。国民が具体的に日常生活の中であれこれということでは、わたしの提起した裁判という形ではやっていませんけれども、何かしらなじまない、こう戦争反対というか、根強い流れを社会も特にマスコミなどは敏感にとらえて、それが一つの表面の事象としてこれを批判し支持するという形、これがあったと思うのです。それだけに反動側、神社本庁側、こういう方はですね、非常にヒステリックになって、しかも、論理になっていないということが裏の現象となっていたと思うのです。【後略】
-------

と発言します。
地鎮祭のような地味な行事を扱い、金額的にも僅か7,663円という少額の事件が全国的な問題に発展した理由としては、やはり靖国問題と連動させた運動方針の的確さが挙げられるでしょうね。
そして、「最高裁があることですから、そんな有頂天になってはいけませんけどね」という「有頂天」な気分に溢れた感想で終わった関口発言を受けて、司会は、

-------
司会 この勝訴がもたらした要因の中で、この際改めて確認しておきたいと思うのですが、佐木先生が第一審の判決について、宗教学者として冷静に分析され、そして鑑定人の立場から、宗教の本質論と言いますか、相手側の習俗論に対して、真正面から対決をされたと承っておりますが、そのような鋭い理論的な掘り下げをされたことによって、その後の裁判に大きな影響を与えたという意味で、非常な重責を果たされたわけですね。そのような立場から、次に佐木先生からお話を承りたいと思います。
-------

と佐木氏に発言を促します。
佐木氏が理論面のみならず組織・運動面でも「守る会」の中で大きな役割を果たしながら役職にはついていないのは、鑑定人としての立場を優先させたからでしょうね。
一宗教学者として、あくまで客観的な立場から鑑定を行ないました、というイメージを損うのはまずい、という訴訟戦略上の判断だと思います。
さて、この後、佐木氏の非常に長い発言があります。(p346以下)

-------
佐木 私はこの事件を関口さんから連絡をいただいて初めて知ったのですが、その時はすでに名古屋高裁にかかっている段階でした。それを知りまして、非常に驚いてですね。これは大変だと思ったのです。というのはサンフランシスコ講和条約が発効するとまもなく、急テンポで国家神道を復活させる動きが起こってまいりました。【中略】これはいかん、と思って、いろいろな立場の方々と一緒になっていろいろやっておったことがあるのですが、なかなかはっきりした戦いにはならない。そうするうちにさっきおっしゃっていたような靖国神社問題が起こってきた。つまり、一九六六年にまず紀元節復活、その次の段階で靖国神社問題、次は伊勢だ、とこういうふうにわれわれは見た。ところが靖国神社、伊勢神宮を公的なものにするには、政教分離の条項をあいまいにしなければならないという絶対の条件がある。この地鎮祭の問題は、まさにここにぶつかっています。つまり神道行事を公的にやっても違憲ではない、という論理がここにあるわけですね。で、第一審判決はそれを認めている。これをこのままうっちゃっておいたら、えらいことになると非常に驚きました。
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途中ですが、長くなったのでいったんここで切ります。
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)

2019-08-28 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月28日(水)13時53分8秒

日本において宗教学を学問として確立したのは姉崎正治(嘲風、1873-1949)ですが、佐木秋夫は姉崎門下の最左翼ですね。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)には、「(姉崎に)学んだ者の政治的傾向を見ても、左木秋夫【ママ】のような左翼陣営から、大川周明・蓑田胸喜のような極右思想家に至るまで実に多彩である」(p98)とありますが、大川周明(1886-1957)・蓑田胸喜(1894-1946)と並ぶとなかなかの大物感が醸し出されますね。
1906年生まれなので、佐木の二十代は戦前の共産主義運動の全盛時代であり、ウィキペディア情報ですが、佐木も「日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす」とあります。
この「日本戦闘的無神論者同盟」というのはちょっと気になるので、後で調べてみるつもりです。

佐木秋夫(1906-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9C%A8%E7%A7%8B%E5%A4%AB

さて、佐木は「守る会」で特に役職についていないにも拘らず、「Ⅳ 回顧と展望<座談会>」に参加しています。
この座談会のメンバーは、

-------
  出席者(発言順)
原告/控訴人・被上告人 関口精一
宗教学者 佐木秋夫
日本キリスト教団社会委員会幹事 戸村政博
被上告人代理人弁護士 今村嗣夫
被上告人代理人弁護士 小池健治
宗教学者 日隈威徳
新教出版社出版部 西川重則(司会)
-------

となっています。(p343)
この中で、戸村政博氏は熱心な政治活動で有名なプロテスタントの牧師ですね。
また、西川重則氏も「政教分離の会」事務局長を務めるなど、プロテスタントの政治運動家として有名な人です。

戸村政博(1923生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%8D%9A
西川重則(1927生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%89%87

弁護士の今村嗣夫氏は、リンク先サイトによれば、

-------
1932年生まれ。弁護士。韓国・朝鮮人元BC級戦犯者の戦後補償裁判、津地鎮祭違憲訴訟、自衛官「合祀」拒否訴訟、定住外国人の指紋押捺拒否裁判など国家と宗教、少数者の人権、外国人と憲法に関わる裁判を多数担当。主な著書に、『象徴天皇制と人権を考える』(日本キリスト教団出版局、2005)、『一匹の羊の教え―いま問われる少数者の人権』 (共著・日本基督教団出版局、2000)、『戦後補償法―その思想と立法』(共著、明石書店、1999)、『アイデンティティーへの侵略―いま高校生と語る戦後補償・人権』(共著・新教出版社 、1995)、『こわされた小さな願い―自衛官〈合祀〉拒否訴訟』(キリスト新聞社 、1989)などがある。

http://gendainoriron.jp/vol.05/feature/f07.php

という経歴の方ですね。
小池健治氏については、ネットでは次のような記事がありました。

http://www.shinshuren.or.jp/page.php?id=371
http://www.naganolaw.co.jp/attorneys/koike.html

また、「日本キリスト教団 百人町教会」サイトによれば、今村嗣夫氏と小池健治氏は同教会の会員だそうですね。

http://hyakunincho-church.com/
http://hyakunincho-church.com/6column/aso/hncc-as132.html

ということで、座談会参加者はプロテスタントが戸村政博・今村嗣夫・小池健治・西川重則の四名、共産党系の無神論者が関口精一・佐木秋夫・日隈威徳の三名という組み合わせです。
座談会記録を通読した印象としては、「守る会」の実態は「国家神道」の復活に対して抵抗する(神社神道を除く)全宗教勢力の連合体というよりは、共産党系の無神論者と政治活動に熱心な一部プロテスタントの集まり、といったところのようです。
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その3)

2019-08-27 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月27日(火)10時58分10秒

関口氏は問題となった地鎮祭に自身も出席し、「神式地鎮祭の全容を、市議になってから市政チェック用にと「月賦で購入した」カメラ─当時の歳費は一万四〇〇〇円で生活もきつかったから、と苦笑する─におさめた」(田中信尚『政教分離』、p6)そうですが、『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』の口絵には、そのカメラで撮影したと思われる地鎮祭の模様を中心に15枚の写真が載っています。
その最後は「違憲判決直後、共同記者会見でその喜びを語る原告の関口氏(中)、小池弁護士(左)、松島栄一氏(右)」というキャプション付きの一枚ですが、私はこれで初めて関口氏の風貌を知りました。
1915年生まれで北海道帝国大学工学部機械科卒の共産党員という経歴から、頑固なエンジニア風のごつい人、みたいなイメージを抱いていたのですが、意外なことに関口氏は非常に穏やかな感じの人ですね。
顔がそっくりという訳ではありませんが、雰囲気は出会い系バーでの「貧困調査」で有名になった前川喜平氏(元文部科学事務次官)に似ていて、育ちの良さを感じさせます。
ま、戦前の帝国大学を出ているだけあって、それなりに裕福な家庭の人なのかもしれません。
私は佐伯真光氏が関口氏に行ったインタビューを読んだ感想として、「1915年生まれの古参の共産党員である関口氏は、政治的に利用できそうなものは何でも利用しようとする貪欲なマキャベリストで、煮ても焼いても喰えない古狸、といった感じ」などと書いてしまったのですが、これも些か思い込みが過ぎたようです。
そもそも私は関口氏の共産党入党の時点を確認していなかったので、「古狸」は特にまずかったですね。

「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」(by 佐伯真光氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2c1d321a6354d3aff64c888c9d16be3

さて、「守る会」の「常任世話人」や『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』の執筆者を見ると、佐伯真光氏の「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」という認識は若干不正確なようで、「代表世話人」の松島栄一氏の他にも共産党関係者がやはり多いですね。
その中でも一番共産党色が強いのは「常任世話人」の一人、日隈威徳(ひぐま・たけのり、1936-2019)氏です。
日隈氏が書いた『戸田城聖─創価学会─復刻版』(本の泉社、2018)の「著者略歴」を見ると、

-------
1936年鹿児島市に生まれる。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業、同大学院修士課程修了。気象大学校、文教大学で非常勤講師。鈴木学術財団研究部、春秋社編集部を経て、日本共産党中央委員会に新設された宗教委員会に勤務(1976~2004年)、その間、同委員会責任者(1982~2004年)、参院比例代表名簿登載者(1983~1995年)、中央委員(1987~2004年)。
<現在>
勤労者通信大学講師、アジア・アフリカ研究所会員、部落問題研究所会員、日本共産党を支持する全国宗教人の会・代表委員
-------

とのことで、共産党のスーパーエリートですね。
創価学会に詳しい日隈氏の、この異常に輝かしい経歴と、1977年に「共産主義政党と宗教─「創共協定」を再考する」(『世界』1977年10月号)という論文を書いて宮本顕治委員長を批判し、共産党を除名されてしまった村上重良の人生を比較すると、いろいろ想像したくなります。

村上重良(1928-91)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%87%8D%E8%89%AF
日隈威徳(1936-2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9A%88%E5%A8%81%E5%BE%B3

ま、それはともかくとして、「常任世話人」ではありませんが、「Ⅲ 論説」に「地鎮祭と習俗」という論説を寄せ、「Ⅳ 回顧と展望<座談会>」に日隈氏と一緒に参加している佐木秋夫氏も共産党系の研究者ですね。
この座談会記録を読むと、佐木氏は関口氏の孤独な闘いを靖国問題と関係づけて全国レベルの戦いに連結・拡大させることにずいぶん貢献したようですが、その点は次の投稿で書きます。

佐木秋夫(1906-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9C%A8%E7%A7%8B%E5%A4%AB
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その2)

2019-08-26 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月26日(月)10時07分39秒

「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」の「代表世話人」三人の中、「序文」を書いている「神田寺前主管」友松円諦氏は仏教学者ですね。
ウィキペディアによれば「無宗派の寺院である神田寺を設立」とあります。

友松円諦(1895-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%9D%BE%E5%86%86%E8%AB%A6

飯坂良明氏は政治学者で学習院大学名誉教授。
聖学院大学学長在職中に死去されたとのことなので、プロテスタントですね。
著書・訳書にもキリスト教関係のものが多数あります。

飯坂良明(1926-2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%9D%82%E8%89%AF%E6%98%8E

松島栄一氏は歴史研究者ですが、学者というよりは歴史学研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会などで「科学運動」に励んだ活動家の印象が強い人ですね。
山口昌男は「柳田に弟子なし─若き民俗学徒への手紙─」において、「松島栄一のごとき大した学問的関係のないようなどこへでも顔を出す会魔が、かえって自分が柳田先生と斯々しかじかの関係にあったなどと得々と語っている姿は哀悼どころかむしろ滑稽と言うべきであります」などと揶揄しています。

「柳田の嫁でございます」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec3a9ccf5935e20ad1d4fefed1d0bf81

また、共産党の指令で中国に密航した犬丸義一に対し、松島は「井上清なり、山辺健太郎なりを送るから待っていろ」、と言ったそうですが、結局、誰も来なかったそうですね。

網野善彦を探して(その16)─「『井上清なり、山辺健太郎』なりを送るから待っていろ」(by 松島栄一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/97491474634c9e8f8f70bc5ffe3305ae

ウィキペディアによれば、松島は「54年から史料編纂所助手、77年講師、1978年定年退官」とのことなので、1972年当時は55歳で助手という微妙な立場ですが、犬丸に中国密航を指示できるくらいですから、共産党内部の序列では早くから相当高い地位にあったのでしょうね。

松島栄一(1917-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%A0%84%E4%B8%80

松島の「津地鎮祭裁判と学問・教育の自由」を読んでみましたが、「心ひそかにわきおこる興奮をおさえつつ、津地鎮祭の第二審判決を聞いた」(p238)ときの感想などを綴ったエッセイで、特に学問的価値のある記事ではありませんでした。
「津地鎮祭違憲訴訟を守る会の代表世話人の一人として、この判決は、いずれにせよ聴いておかねばならないと思ったからである。友松老師は御無理であろうし、飯坂良明氏が忙しいとなれば、それはわたしの役であろうと思ったし、宗教の問題・思想の問題にかかわり、言論の自由の問題や、とくに学問・教育の自由の問題について関心をはらわずにはおれなかったわたしとしては、以上のことがなくとも、この判決は聴きたいとおもった」(p239)とありますが、史料編纂所の仕事が暇だっただけのようにも読めますね。
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『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その1)

2019-08-25 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月25日(日)22時16分5秒

地鎮祭訴訟で関口精一氏を支援した「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」を編者とする『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1972)を入手して、パラパラ眺めてみました。
同書の構成は、

-------
序文……友松円諦
Ⅰ 名古屋高等裁判所判決
Ⅱ 研究
 1 「地鎮祭」判決と「靖国神社法」……飯坂良明
 2 地鎮祭違憲判決について……佐藤功
 3 政教分離の原則……高柳信一
 4 憲法二〇条三項にいう宗教的活動の意……熊本信夫
Ⅲ 論説
 1 国家神道の本質……村上重良
 2 津地鎮祭裁判と学問・教育の自由……松島栄一
 3 なぜこの裁判を提起したか……関口精一
 4 レポート「津地鎮祭違憲訴訟」控訴審……今村嗣夫
 5 戦前戦中の国家神道による人権侵害……小池健治
 6 地鎮祭違憲判決の波紋……松浦基之
 7 習俗と少数者の信教の自由……更田義彦
 8 津地鎮祭違憲判決の現代的意義……縄田早苗
 9 地鎮祭と習俗……佐木秋夫
Ⅳ 回顧と展望<座談会>……関口精一・佐木秋夫・戸村政博
             今村嗣夫・小池健治・日隈威徳
Ⅴ 資料
Ⅵ 活動
Ⅶ 年表
 1 「信教自由・政教分離」関係近代宗教史年表
 2 津地鎮祭違憲訴訟の経過と「守る会」活動年表
あとがき
-------

となっています。
また、「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」の組織は次の通りです。(p442)

-------
代表世話人
(学習院大学教授)飯坂良明
(神田寺前主管)友松円諦
(東京大学史料編纂所)松島栄一
常任世話人
 今村嗣夫 沖中百合子
 加藤一彦 神田弘之
 小池健治 権田一正
 戸村政博 西川重則
 日隈威徳 松浦基之
 吉馴明子
世話人四一名
(歴史、宗教、法律、政治各学者、文化人、法律家、仏教・キリスト教・新宗教等各宗教家、一般市民、学生、平和運動家等)
上告審弁護団弁護士
 今村嗣夫 大橋堅固
 大矢和徳 小池健治
 佐藤典子 妹尾晃
 高谷進  中村亀雄
 西垣道夫 原山剛三
 羽生雅則 更田義彦
 藤原寛治 松浦基之
 宮原守男
(アイウエオ順)
-------

田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』には「弁護団は一〇人以上にもふくれ上がった」とありましたが、上告審では15人ですね。
まあ、それなりの規模の弁護団ではありますが、共産党系の自由法曹団などが本格的に取り組んだ政治・労働事件の裁判では数百人規模の弁護団が結成されることも頻繁にあったようなので、その種の裁判とはやはり傾向が異なりますね。
「守る会」の弁護士はキリスト教関係者が多い、と書いている資料も見かけましたが、詳しいことは分かりません。
ただ、この中に、私がある会社の法務の仕事をしていたときに敵対的な立場で少しやり取りした弁護士さんがいて、その人は共産党系のはずですね。
ま、もちろん津地鎮祭訴訟より遥か後の出来事ですが。
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田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(その3)

2019-08-23 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月23日(金)22時22分51秒

関口精一氏が生れた八雲町は、

-------
町名は明治14年に徳川御三家の一つ、尾張徳川家(旧尾張藩)の17代当主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引いて名付けました。

https://www.town.yakumo.lg.jp/soshiki/seisaku/content0310.html

とのことで、八雲神社も徳川家経由で熱田神宮から祭神を勧請したのだそうですね。
「デジタル八雲町史」によれば、「熱田神宮の分霊を祭っている神社は、全国でも唯一のものであることを誇りとして」おり、「祭神は、熱田大神・天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命であり、さらに昭和9年5月4日には、許可を得て八雲町開拓の始祖と仰ぐ徳川慶勝命を合祭した」のだとか。

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep13.htm

さて、関口氏の神社がらみのエピソードはもうひとつあります。(p10以下)

-------
 大学(旧北海道帝国大学)は工学部機械科で、卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前でした。東京・蒲田の航空兵器の軍需工場に無理やり就職させられ、戦争末期の一九四四年二月に三重県の津市の工場へ疎開転勤を命じられたんです。こちらへ来てすぐ、会社から伊勢神宮に旅費会社持ちで参拝に行けって言われたんです。必勝祈願ですね。僕はいやだから、断ったんですよ。そんなバカげた参拝なんか意味ないからね。そのときは、何も言われなかったが、彼奴〔あいつ〕は気をつけろって言われていたと思いますよ。月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てましたから。
-------

「卒業したときは日中戦争が泥沼化し太平洋戦争直前」とあるので、1938年から40年くらいでしょうか。
関口氏が旧制高校・大学時代に左翼運動をしていたのかは不明ですが、1915年生まれというのは微妙な年代で、旧制高校時代はともかく、大学時代には共産党中央は壊滅しており、組織的な運動はしたくても出来なかったでしょうね。
ま、関口氏はそれなりに立派な会社に入れたようなので、「月に一回、特高(特別高等警察)が労務課に来てました」という思わせぶりな表現はありますが、特段の華々しい活動歴はなかったのでしょうね。
ということで、神社がらみの二つのエピソードはありますが、それほど深刻な内容でもなく、もともと「あらゆる宗教に戦前から懐疑的だった」無神論者の関口氏が、戦前から「国家と宗教が癒着したら、絶対に個人が圧迫されると感じ」ていたかというと、ちょっとどうかな、という感じがします。
「控訴代理人の陳述」には、「控訴人は、昭和19年から今日に至るまで津市に居住する津市民であり、昭和30年津市議会議員に当選し、昭和42年春まで3期12年間特別職地方公務員たる市議会議員の職にあつた」とありますが、関口氏が市会議員となった1955年が共産党にとってどんな時期だったかというと、ちょうどこの年の7月、第6回全国協議会(六全協)が開かれ、武装闘争路線の放棄が決議され、「五〇年問題」の混乱に一応の解決が図られるものの、その後も分派抗争の名残りと除名の嵐が続きます。

日本共産党第6回全国協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

こうした難しい時期を乗り切っただけでも関口氏は相当のツワモノであり、厳しい抗争の中で独特の政治的カンを育てて、神社は政治運動に使えるな、という確信を得たのでしょうね。
そして、最初は周囲の共産党関係者の理解すら得られなかったものの、

-------
【前略】先に述べた靖国神社国家護持問題は、関口さんの一審敗訴後あたりから一気に政治問題化し、大きな問題として浮上し、各地で「反靖国」の集会が連日のようにもたれた。そのなかで、関口さんの小さな訴訟が「ミニ靖国訴訟」として俄然、注目を集めるようになった。
 自民党衆議院議員が議員立法として靖国神社の国家護持を目的とした法案(靖国神社法案)を提案したのは一九六九年六月三〇日だが、そのころには弁護団は一〇人以上にもふくれ上がった。政教分離訴訟では、草分け的な弁護士として知られる今村嗣夫、小池健治両弁護士もこの年には加わっている。
-------

という具合に状況は大きく変化して行きます。(p14)
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田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(その2)

2019-08-23 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月23日(金)10時54分45秒

前回投稿の最後の方に「競艇神社」という妙な神社が登場しますが、これは控訴審判決での「控訴代理人の陳述」にも出てきます。

-------
二、津市と宗教行事
 三重県津市は、人口12万5000人余、三重県の県庁所在地である。津市には、従来から、公共団体と宗教との結びつきを示す事例が少なくなかつた。例えば、市の功労者の市葬、議会葬は殆ど仏式或は神道式で行なわれ、市の霊柩車も仏式のものである。水源地には水神を祭るために市有地の中に神社を設けて市の費用で毎年水神祭を行い市会議員も列席する。市が主催している競艇のため、競艇神社を設けてお祭をする。市役所の庁舎に火災よけとして秋葉山の神礼を掲げる等々がその例である。そして、橋の渡り初めや地鎮祭も神職を招いて儀式を行う。本件の地鎮祭もその一例であつた。

https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/25-2.html

そして、訴訟提起後に、

-------
六、本訴提起後の津市における“政教分離”他
 控訴人の監査請求、本件住民訴訟提起の後、津市における市と特定宗教との関係をみるに、競艇神社は廃止され、秋葉山の守礼は庁舎から除去され、水源地の水神の祭に市の費用で神職を呼ぶことも取止め地元有志が主催するように改め、市有の霊柩車も宗教色を除き、送迎用普通自動車を当て、市葬、市議会葬も無宗教で行なわれ、故人の写真を飾つて菊花で埋め、参列者は花を一輪づつ献花することとなつた。
-------

のだそうですね。
市有地の競艇場に市が神社を建立し、市主催で神道祭事を行っていたとしたら、そちらの方が体育館工事の地鎮祭などよりよっぽど重大問題ではないかと思いますが、「競艇神社」では政教分離や国家神道を争う場としては些か格調が低いことは否めず、さすがの関口氏にも躊躇いがあったのでしょうね。
ちなみに「競艇神社」で検索すると、徳山オートレース場にある競艇神社が出てきますが、いくつかサイトを見ても祭神が何かは分りませんでした。
ま、祭神などには特に興味のないタイプの人たちが参拝する神社なのでしょうね。

https://nikkan-spa.jp/borejyo/ishihara/953536

さて、関口氏が無神論者であることは「控訴代理人の陳述」にも出てきます。
もっともそれは、

-------
その故控訴人は自分自身はいかなる宗教も信じていないうえ、右地鎮祭を市が主催することは憲法違反であると確信していたにも拘らず、議員たる職責上、これに参加せざるを得ない立場に追込まれた。
-------

という文脈においてですが。
ただ、そうはいっても、無神論者の関口氏が何故に宗教問題に執拗に拘るようになったのかは、少し興味を惹かれます。
この点、田中著には、

-------
 関口さんは、かつても現在も特定の宗教を信じてはいない。みずからを「無神論者」というほどで、あらゆる宗教に戦前から懐疑的だったと言い切る。戦前の国家神道の時代に、特定の宗教の信者として宗教弾圧の体験があるわけではない関口さんは、なぜ宗教の問題に鋭く反応し、訴訟まで提起したのだろう。
 北海道・八雲町生まれの関口さんは中学校時代にこんな経験をしている。

──中学校は函館に近い八雲中学校(現・八雲高校)というんですが、戦争中はしばしば神社へ集団参拝がありましてね。必勝祈願とか新しい勅語が出たとか、あるいは明治節(明治天皇の誕生日)などで必ず神社参拝がありました。八雲神社といって、名古屋の熱田神宮の分社で、わりと大きな神社でした。神社の神を信じていないのに参拝させられるのがイヤでね。みんなそうでした。でも怖いもんで習慣になっていました。それに公民科の成績にも影響するんで、三年生ぐらいまでは神社で礼と言われて、その通りしていたな。ところが、あれは四年生になったころだと思いますが、植物の先生が集団参拝のときに神社まで行って鳥居をくぐらないんですね。はっきり拒否するというわけではないんですが、いなくなるんです。僕らはたぶんあの先生は、キリスト教だって噂していました。その先生は結局辞めていきましたが、僕らは神社参拝しなかったため追いこまれたんだと思いました。ですから国家が宗教と癒着したら、絶対に個人が圧迫されると感じましたね。
-------

とあります。(p10)
関口氏は1915年生まれですから、旧制中学の四年生というと15歳前後、従って1930年前後の話になります。
とすると、治安維持法による共産主義者の弾圧が極めて厳しかった時期で、「植物の先生」が鳥居をくぐらなかった理由としては、キリスト教の他に共産主義者、あるいはそのシンパであった可能性も十分考えられますね。
治安維持法でキリスト教関係者が弾圧されるようになるのは昭和十年代、それも後半以降で、「控訴代理人の陳述」にも出てくる有名なホーリネス弾圧事件は昭和17年(1942)です。
1931年頃に「植物の先生」が学校を追われたことが仮に事実であったとしても、「神社参拝しなかったため追いこまれた」というよりは、共産主義者と疑われた可能性の方が大きいのではないかと思います。
ま、率直に言って、「植物の先生」のエピソードは関口氏の後付けの解釈、ないし意図的な創作のような感じを受けます。

ホーリネス弾圧事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B9%E5%BC%BE%E5%9C%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(その1)

2019-08-22 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月22日(木)12時35分38秒

何故に当初は共産党関係者が関口精一氏を支援しなかったかですが、まあ、その理由のひとつは問題となった地鎮祭関係の出費があまりに少額で、共産党関係者にとってもどうでもよいような話だったからでしょうね。
田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(岩波ブックレット、1997によると、問題の発端は、

-------
〇一通の案内状 それは前ぶれなく届いた一通の案内状から始まった。

……かねてから関係各位の絶大なる御協力のもとに建設を計画中の津市体育館(仮称)につきましては、このたび着工の運びとなり、次のとおり起工式を執り行なうこととなりました
 つきましては御繁忙中まことに恐縮に存じますが当日貴台の御臨席を賜りたく御案内申し上げます
 昭和四十年一月六日    津市長 角永 清
津市議会議員 関口精一殿
 日時 昭和四十年一月十四日午前十時から
 会場 津市船頭町 建設現場(津球場北)……

 三重県・津市議として三期目の関口精一さん(当時五〇歳)がこの案内状の入った封書を受け取ったのは、一九六五(昭和四〇)年一月七日である。なかには、起工式への出欠を問う津市教育委員会社会教育課宛ての返信用はがきが同封されていた。一日おいた九日、関口さんは社会教育課に出向き、どんなスタイルの起工式をするのかを訊いた。
「はい、地元の大市神社の宮司さんにお願いしています」
-------

とのことで(p4以下)、この「大市神社は体育館の建設現場に近く、関口さん宅からも遠くはない。戦前の国家神道の下でランクづけされた社格では郷社に属し、それほど規模の大きな神社ではなかったが、れっきとした宗教法人だ」(p5)そうです。
検索してみると、その社殿は、

大市神社(津市岩田)(『美里町の探検日記GP』サイト内)
https://blog.goo.ne.jp/misatotanken/e/6e38fcfd4a6a0018c077c2a77de0aff7

といった具合で、失礼な言い方になりますが、ま、どこにでもあるような小さな神社ですね。
そして、地鎮祭は「宗教法人大市神社の宮司ら四名の神職主催のもとに神式に則り挙行され、上告人が、同市市長として、その挙式費用金七六六三円(神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を市の公金から支出」(「津地鎮祭最高裁大法廷判決」、『ジュリスト』648号、p60)したとのことなので、神職一人当たり1,000円という巨額の「報償費」が支払われた上に、「供物料金」も3,663円という巨額ですから、さぞかし立派な「供物」が捧げられたのでありませう。
ちなみに大市神社の規模からすると四名の神職を抱えていたとは思われず、おそらく宮司さんが近隣の神社の神職に応援を頼んだのでしょうね。
このように争われたのが合計7,663円と巨額だったので、「関口さんへの周囲の反応も冷ややかで、たかが八〇〇〇円足らずの「端金〔はしたがね〕」で裁判するなんて変わり者とよく言われた」(p7)のだそうです。
また、おそらく関口氏周辺の共産党関係者の間では、そんな訴訟は無駄に敵を作るだけで、選挙に結びつかない、という判断もあったでしょうね。
さて、意外なことに関口氏は、当初は靖国神社問題との関係は全く考慮していなかったのだそうです。
「一九六四年二月、自民党の遺家族議員協議会が国家護持を決議」(p8)するなど、「靖国問題」が政治的争点となる動きが始まっていたものの、

-------
 だが関口さんの提起した地鎮祭訴訟が、「靖国問題」と重なってとらえられるには、いま少し時間が要った。関口さん自身も、「あのころの正確な意識は言えませんが、最初は、靖国問題をにらんで訴訟を提起したのではなかった」と回想する。関口さんの訴訟当時の意識は、「靖国問題」というより「足元の政教分離問題」だった。
「以前から、市が水道の水源地に神社をつくり、そこで桜まつりをして、一杯やるんですね。市会議員を呼んで。それから、津市は競艇事業をやっていましてね。そこにも小さな競艇神社をこさえて、ときどき儀式をやるんです。私はいつもそれに反対してきたんです。そうしたら、同僚議員からも関口はウルサイことばっかりいう、と批判されていました」
-------

とのことです。(p8)
ま、「靖国問題」のような派手な話題とも結びつかないのでは、共産党関係者も応援への意欲は削がれたことでしょう。
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「国家神道」と村上重良

2019-08-22 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月22日(木)10時57分59秒

>好事家さん
好事家さんは「国家神道に毒された憲兵」という具合に「国家神道」との関係を強調されますが、ご説明を聞いても、また『キリスト教よもやま話』ブログを見ても、当該憲兵には、少なくとも通常の意味での「神道」との関係は見られないようですね。
戦前の日本において、憲兵は陸軍省の管轄下に置かれており、内務省神社局が管轄した神社神道とは組織上の関係はありません。
また、個々の憲兵も、神官の家系に育ったような人が皆無ではないでしょうが、まあ、普通は「神道」とは特別な縁はないと思われます。
私の受けた印象では、好事家さんが用いておられる「国家神道」は、左翼的な学者が好む「天皇制イデオロギー」や「天皇制ファシズム」と同義語のようですね。
確かにそのような「国家神道」の用法は広く見られるのですが、実はそのような用法を一般化させたのは村上重良という共産党系の研究者です。
村上の『国家神道』(岩波新書、1970)は多くの読者を獲得し、刊行翌年の津地鎮祭訴訟控訴審判決に著しい影響を与え、更に控訴審判決を覆した最高裁判決においても村上理論の影響を受けた裁判官が相当います。
ただ、現在の歴史学の水準に照らすと村上の国家神道論は実証面での欠陥が多く、少なくとも研究者の世界では村上の影響力は減退していますが、一般読者層にはそうした動きは殆ど伝わっていません。
また、津地鎮祭訴訟の最高裁判決で目的効果基準が示された後、後続の政教分離をめぐる裁判例でも「国家神道」の歴史認識そのものを問うことはなくなり、司法関係者の歴史認識と研究者の認識の間にかなりズレが生じてしまっています。
ま、このあたりは難しい話なので、少しずつ説明して行きたいと思います。
ウィキペディアの説明にも飛躍があって分かりにくいのですが、参考までに一応リンクを貼っておきます。

村上重良(1928-91)

-------
国家神道は,近代天皇制国家がつくりだした国家宗教であり,明治維新から太平洋戦争の敗戦まで八十年間,日本人を精神的に支配しつづけた.本書は,国家神道の成立から解体までの過程を詳細にたどり,その構造と思想を分析して本質的性格を明らかにすることによって,神道が日本人にとっていかなる意味をもったかを追求する.


※好事家さんの下記投稿へのレスです。

ブスケ神父の逮捕 2019/08/21(水) 14:43:43
当時の憲兵はブスケ神父がフランス人で同盟国ドイツの敵国なのでスパイ容疑で逮捕したようです。
国家神道とキリスト教から離れたいようです。
戦後この憲兵は、自分の行為を深く反省し生存していたら100歳近く。
70歳前後の子供もいるようですがカトリック夙川教会の神父は、どこに住んでいるか知っているようですが個人情報として教えてくれません。
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ブスケ神父

2019-08-21 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月21日(水)11時34分13秒

>好事家さん
プロテスタントの弾圧事例はある程度調べたことがあるのですが、ご紹介のブスケ神父のことは名前を聞いたことがある程度でした。
検索してみたところ、ネットではリンク先のブログが一番詳しいようですね。
ただ、この記事を読んでも、ブスケ神父の容疑が今一つはっきりしません。
ゾルゲ事件以降、特高・憲兵隊ともスパイ関係に異常に神経質になっているので、やはりその関係かなとも思うのですが。
また、好事家さんは「国家神道に毒された憲兵」と書かれていますが、「国家神道」と具体的にどのような関係があったかはご存じですか。

「ブスケ神父の虐殺 小林多喜二以外にもあった拷問死」

※好事家さんの下記投稿へのレスです。

カトリック夙川教会 2019/08/20(火) 23:43:52
カトリック夙川教会の創設者はフランス人ジルベン ブスケ神父(1877.11.19-1943.3.10)。
彼は阪神間に1921年はじめてカトリック教会を創設しました。
ところが国家神道に毒された憲兵が求道者を装いブスケ神父に近づく。
求道者を装った憲兵はブスケ神父に神と天皇はどちらが偉いか質問。
求道者を装った青年を完全に信頼した神父は神と答えた。
その後、神父は即刻逮捕連行され拷問の上獄死。
不当逮捕→獄死は共産党員だけではありません。

1603年~1868年、江戸幕府はキリスト教の破教のみを要求していましたが。
明治政府は1873年まで執拗にキリスト教から神道にするよう要求。
こんな事していたら条約改正絶対無理で諦めた。

またカトリックは東京、大阪、長崎の三本部制をとっていますが、大阪大司教区は、あの細川ガラシャが部下に殺させた細川屋敷の跡なのです。

全部御存知だったら、ごめんなさい!
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関口精一、かく語りき(その4)

2019-08-21 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月21日(水)11時12分1秒

意外に長くなってしまった「関口精一、かく語りき」シリーズ、これが最後です。
キリスト教関係者に批判的な佐伯氏が、「現在は、キリスト教の人は関口さんのやり始めたことに便乗している感じですね」と述べると、関口氏は、

-------
関口 アメリカやクリスチャン内部のことは私が今、とかくいう問題ではないとしておくことにします。信教の自由ですから。実は私は最初、クリスチャンの方たちが靖国神社問題に取り組んでいるのは知っていたが、それがこの地鎮祭訴訟に直結してもらうとは思ってもいなかったのです。ところが、共産党を含めて政党関係の人はこの問題にむしろ無関心で、かえってクリスチャンなど宗教関係の人たちといっしょにやって行くようになってしまった。
 どうも革新陣営は、こうした問題についての取り組みは弱いですね。抽象的に「平和」とか「靖国反対」とか叫んではいますが、こういう具体的な問題の実践となるとひじょうに弱い。もちろん共産党は、私がやっているので支持はしていますが、これをもっとひろげたり、各地でやるといった取り組みには弱い。靖国問題にしてもこの地鎮祭問題にしても、ほんとうに軍国主義復活の物理的側面とならぶ大切な精神問題だと思うのですがね。
 そういう中で、いまキリスト教など各宗教の人たちと無神論者がいっしょになって、矛盾をいくつもかかえながらやっているわけですが、これはこれなりに文化的現象としてひじょうに有意義な経験ではないかと思っています。ですから、これを成し遂げれば政教分離をどこで線を引くか、どうルールづくりするかといった点にも一つのメドがつくことになるだろうと思います。
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と答えます。(p302以下)
「共産党を含めて政党関係の人はこの問題にむしろ無関心」で、地鎮祭訴訟は「キリスト教など各宗教の人たちと無神論者がいっしょになって」行なわれた点、後で改めて少し論じる予定です。
さて、この後、佐伯氏は「インタビューを終えて」という感想を若干記していますが、そこに出てくるアメリカの著名な無神論運動家・オヘア夫人との比較は面白いですね。

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「米国でもっとも憎まれている女(the most hated woman in the U.S.A.)を自称する女性がいる。公立学校での聖書朗読と主の祈りが憲法に違反するという訴えを起こした、無神論者マダレーン・マレイ・オヘア夫人である。彼女は現在、テキサス州オースチンで SOS(Society of Separation)という反宗教活動を主宰している。アポロ九号の飛行士が宇宙空間で創世記第一章を朗読したのは、憲法違反だとう裁判をおこしたのは彼女だった。キリスト教教会のすべての財産と収益事業に課税せよという運動(TAX CHURCH)を指導しているのも彼女である。
 関口精一氏に会うまで、私はオヘア夫人の日本版を想像していた。しかし、その予想ははずれた。氏は、北大工学部出身の温厚な共産党員だった。インタビューは三時間におよんだが、ここにはその抜粋しか掲げられなかった。政教分離の壁は具体的にどこに設けるべきかという点を私は執拗に追求したが、はっきりした解答がえられなかった。オヘア夫人が断乎として徹底分離を要求しているのに反して、氏が戦術上のさまざまな顧慮からクリアカットな線を引きかねているからであろう。霊柩車についている蓮華の模様を取りはずさせた氏が、郵便局のクリスマス・ツリーを弁護するのは首尾一貫しないのではないか。米国大統領の明治神宮訪問に反対しながら、天皇のウエストミンスター寺院訪問は「外交儀礼」だと主張するのは、おかしくはないか。橿原市の市長室にある神武天皇像を撤去するなら、公園にある高山右近像や日蓮上人像(九州博多)も撤去すべきではなかろうか。【後略】
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オヘア夫人(1919-95)はなかなか強烈なキャラクターで、息子を原告にした「公立学校での聖書朗読と主の祈りが憲法に違反するという訴え」は連邦最高裁での違憲判決を勝ち取っています。
他方、「アポロ九号の飛行士が宇宙空間で創世記第一章を朗読したのは、憲法違反」という NASA を相手とする訴えは却下されたようですね。
1963年に American Atheists という団体を創設し、初代会長となったオヘア夫人は活発に運動を続けますが、その最後は「米国でもっとも憎まれている女(the most hated woman in the U.S.A.)」に相応しい壮絶なもので、二代目会長である息子、そして孫夫婦と一緒に誘拐・惨殺され、バラバラ死体として埋められてしまったのだそうです。
といっても、無神論に反発する連中から攻撃を受けた、というのではなくて、American Atheists の資金を狙った内部メンバーによる犯行で、失踪当初はオヘア夫人らが債権者から逃れるために資金を持ち逃げしたと思われたようですね。
ま、1972年のインタビュー時点では佐伯氏もオヘア夫人の将来など全く知らない訳ですが、オヘア夫人の大胆で苛烈でアメリカンな人生と比べると、同じ無神論者であっても関口氏の人生は和風の穏やかなもののように思えてきます。

Madalyn Murray O'Hair(1919-95)
https://en.wikipedia.org/wiki/Madalyn_Murray_O%27Hair
American Atheists
https://en.wikipedia.org/wiki/American_Atheists
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関口精一、かく語りき(その3)

2019-08-20 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 8月20日(火)15時19分38秒

関口精一氏は「東ドイツも、例えば裁判で宣誓するときに共産党員でも「神に誓って」というのだそうですね」と言っていますが、これは本当なんですかね。
手元に東ドイツの宗教事情に関する資料がないので、とりあえずウィキペディアを見ると、

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信仰の自由は東ドイツでは憲法で公的に保証されていた。しかし政府は教会の影響力を抑え、特に若者を宗教から遠ざけようとしていた[62]。1953年に教会青年団(ドイツ語版)の活動が犯罪となり、学校や大学で退学者や逮捕者を出した。この措置は1953年6月には撤回されたものの、信仰を公言したキリスト教徒は、大学進学や国家のキャリアコースを歩む可能性が制限されることになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

などとあります。
こういう状況下では、もちろん裁判で宣誓するときに「神に誓って」という人はいたでしょうが、無神論者であるべき共産党員もそうだったのか。
少なくとも訴訟法に定められた正式の宣誓の手順で、共産党員を含む全ての人に「神に誓って」と言えと強制したとは思えないですね。
ま、そのあたりは後日調べるとして、関口氏のインタビューの続きです。
聞き手の佐伯氏は高野山真言宗・宝生寺の住職でありながら欧米のキリスト教事情にも詳しい人なので、次のようなやりとりもあります。(p301以下)

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─そのクリスチャンですがね。日本での神式の地鎮祭とか慰霊祭とかをきびしく批判するのですが、実は、それはそっくりアメリカにおけるキリスト教に対する批判として受けとることができるのです。定礎式や議会の開院式など、キリスト教の牧師はそのためにこそいる。新しい建物ができるときは、日本の地鎮祭にあたることをチャンと牧師がやって、まずキリスト教のお祈りを捧げる。公立高校であれ、船の進水式であれ同様です。
関口 大統領の宣誓式だってそうですね。日本でもお経をあげてやったら異様なものでしょうが、アメリカでは常識になっている。ただ、私は、「神」に対しては歴史的に好まないのですよ。
─その場合の「神」とは、日本の神道における神でキリスト教の神は含まないのですか。
関口 含みません。
─しかし、この「神のたそがれ」という、あなたの書かれた本の序文では、キリスト教批判をしておられますが……。
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長くなるので続きは省略しますが、このあたりは関口氏も些か苦しい対応が続きます。
そして、関口氏を「支援しているキリスト教の人々の気持ちが、どうしてもわからない」という佐伯氏とのやりとりの中で、関口氏の支援者であるキリスト教関係者の具体像が出てきます。

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関口 クリスチャンの若い弁護士さんは、戦争中の神社神道の横暴を問題にしている。だから同時に、キリスト教団の戦争中の行為に対しても、年配の牧師たちは恥ずべきだという考えをもっている。
 とくに山手教会の信者のみなさんたちが、訴訟を守る会には多いようです。
─山手教会は、場所がよいせいか、よく新左翼の過激派学生が集まって、逆に教会が占拠された形になり、大騒ぎしたり、それに内部の者もからんで、しばしば争ったりしているところです。ところでキリスト教自体がこんな問題と取り組むと宗派争いになると、私には思えるのですが─
関口 だから無神論者がやってよかったというわけですか(笑)。
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ここに出てくる山手教会は、横浜にあるカトリック山手教会ではなく、渋谷の日本基督教団東京山手教会ですね。

http://tokyoyamate.com/

いわゆる従軍慰安婦問題の活動家として著名だった朝日新聞の松井やより氏の父・平山照次氏が創立した教会です。

平山照次(1907-2004)
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%20%E7%85%A7%E6%AC%A1-1653553
松井やより(1934-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E3%82%84%E3%82%88%E3%82%8A
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