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『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その5)─「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」

2023-10-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」に入ります。

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 山道遠江井助〔とほたふみのゐすけ〕ハ、尾張国府ニゾ著〔つき〕ニケル。其時、洲俣〔すのまた〕ニオハシケル山田殿、此由聞付テ、河内判官請〔しやう〕ジテ宣給〔のたま〕フ様、「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一〔ひとつ〕ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡〔うちわたし〕テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取〔うちとり〕、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過〔うちすぎ〕テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并〔ならびに〕相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄〔おしよせ〕、義時討取テ、谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕、北陸道ニ打廻リ、式部丞朝時討取、都ニ登〔のぼり〕テ、院ノ御見参ニ入ラン、河内判官殿」トゾ申サレケル。判官ハ、天性臆病武者ナリ。此事ヲ聞〔きき〕、「其事ニ候。尤〔もつとも〕サルベキ事ナレドモ、山道・海道一〔ひとつ〕ニ円〔まろ〕ゲ、洲俣渡シテ、尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取、鎌倉ヘ下〔くだる〕モノナラバ、北陸道責〔せめ〕テ上〔のぼる〕ナル式部丞朝時、山道々々〔せんだうのみちみち〕固メテ上ナル武田・小笠原ガ中ニ取籠ラレテ、属降〔ぞくかう〕カキテ要事ナシ。京ヨリ此マデ下〔くだる〕ダニ馬足ノクルシキニ、唯、是ニテ何時日〔いつのひ〕マデモ待請〔まちうけ〕テ、坂東武者ノ種振〔たねふる〕ハン、山田殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

「山道遠江井助」は鎌倉方の極めて重要な人物のように描かれますが、北条義時が「軍ノ僉議」で決定した鎌倉方の軍勢一覧には登場しておらず、ここで突如として名前が出てきます。
流布本や『吾妻鏡』にも登場せず、全くの謎の人物です。

(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

「山道遠江井助」が尾張国府に着いたことを聞き付けて、「山田殿」(重忠)は「河内判官」藤原秀澄を招いて「我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ」と、秀澄が決定したことになっている第二次軍勢手分を正面から批判した後、

 京方軍勢を洲俣に集中
    ↓
 尾張国府を攻撃して「遠江井助」を討ち取る
    ↓
 東進して遠江「橋本ノ宿」を攻撃し、北条泰時・時房を討ち取る
    ↓
 鎌倉へ攻め入り、北条義時を討ち取って、「谷七郷」に火を懸ける
    ↓
 北陸道に廻って北条朝時を討ち取る
    ↓
 都ヘ上る

という大胆な戦略を提案をします。
承久の乱が僅か一か月で鎌倉方の圧勝で終わったことを知っている現代の歴史研究者にとっては、この「山田殿」の提案は京方の実力を全く無視した空論であり、莫迦げた誇大妄想に見えるはずです。
慈光寺本だけにしか存在しない長江庄の地頭が北条義時だという記述を信じたり、同じく慈光寺本だけにしか存在しない北条義時追討院宣を本物と考えたりする歴史研究者であっても、さすがにこの「山田殿」による鎌倉攻撃案を史実だと信じる人はいないと思います。
しかし、数少ない軍勢を分散配置して個別撃破されるよりは、一点に集中して突破を図る方が勝つ確率が上がるのではないか、と考えることは全く不合理でもないような感じがします。
そして、仮に京方の全軍が集中した戦場で、北条泰時や時房など鎌倉方の総大将クラスの武将を討ち取ったなら、戦争の流れが一気に変わり、高見の見物を決め込んでいた連中が京方に加わる可能性も皆無ではないと思われます。
そして、膨れ上がった軍勢で鎌倉を攻めれば、鎌倉も安泰ではなかったかもしれません。
このように考えてみると、慈光寺本の作者は「山田殿」の鎌倉攻撃案をけっこう真面目に考えていたのではないかと思われてきます。
そして、森野宗明論文を踏まえて、無位無官の「山田殿」の「言語待遇」を見ると、「(洲俣ニ)オハシケル」、「宣給フ」と、敬語が用いられており、以後もほぼ一貫して敬語が用いられています。
下巻が始まってからここまで、武士に対する「言語待遇」を見ると、

 藤原秀康:「此宣旨ヲ蒙リ、手々ヲ汰テ分ラレケリ」(岩波新大系、p334)
      「瀬田ヲバ山ノ口ニ仰付ラレケリ」(p335)
      「奈良印地ニ仰附ラレケリ」
      「伊予河野四郎入道ニ仰附ラレケリ」……以上、敬語使用
 藤原秀澄:「軍ノ手分セラレケリ」(p335)……敬語使用
 北条時房:「遠江国橋本ノ宿ニゾ著ニケル」(p336)……敬語不使用
      「打田党ヲ召寄、申サルゝ様」(同)、「相模守重ネテ申サレケルハ」(同)
      「申サレケレ」(p337)
      「打田党仰ヲ蒙リ」(p338)
      「上差抜テ軍神ニゾ奉ラレケル」(同)……以上、敬語使用
 小野盛綱:「都ニオハシケル下野守ノ郎等」(p336)……敬語使用
 「山道遠江井助」:「尾張国府ニゾ著ニケル」(p337)……敬語不使用

と、京方は敬語が用いられていますが、鎌倉方は時房には概ね敬語が用いられるのに、「山道遠江井助」には用いられないなど、敬語使用の「不斉性」が見られます。
ただ、藤原秀康・秀澄は、この後、敬語が用いられない場面もかなり多いのに対し、無位無官の「山田殿」の場合、最初から最後まで、ほぼ一貫して敬語が用いられている点で、やはり特別な扱いですね。
私は「山田殿」の鎌倉攻撃案は慈光寺本作者の創作であり、「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」を「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と判断しますが、作者が相当真剣にこの場面を創作していることが、「山田殿」に対する敬語使用からも窺えるように思います。

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