学問空間

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666の謎

2009-07-31 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月31日(金)18時23分25秒

Hexakosioihexekontahexaphobia (literally, "fear of [the number] six hundred sixty-six") is the fear that originated from the Biblical verse Revelation 13:18 which indicates that the number 666 is the Number of the Beast, linked to Satan or the Anti-Christ.

http://en.wikipedia.org/wiki/Hexakosioihexekontahexaphobia

「666恐怖症」とでも訳すべきでしょうか。
私にとっては、数字よりも"Hexakosioihexekontahexaphobia"という言葉の方がなんだか怖いですね。
数えてみたら29文字もありました。

2007年12月には、米国ルイジアナ州で、ある町の市外局番「666」が変更されたそうな。

A town in the US state of Louisiana is to be allowed to change its telephone prefix so that residents can avoid a number many associate with the Devil.

Mayor Scott Walker said CenturyTel's decision was "divine intervention".
However, he admitted it helped that Louisiana's two senators had also lobbied for the change with the phone company and the state Public Service Commission.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7163767.stm

"divine intervention"は神の関与=ミラクルという意味だと思いますが、ルイジアナ州の二人の上院議員の関与もあった訳ですね。
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Amalfi

2009-07-31 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月31日(金)01時18分21秒

今日は勉強をサボって「アマルフィ」を見に行ってしまいました。
最初からそれほど期待していた訳ではないのですが、東京で平凡に暮らしていた看護婦さん(天海祐希)が、いくら子供を人質にとられたからといって、いきなりテロリストの仲間に入って銃を持って暴れる、という展開は無理がありますね。
それも本隊と離れて一番重要な場所をたった一人で襲撃、というのはあんまりです。
おまけに、そのあんまりな犯罪者・天海祐希に、それまでクールに決めていた外交官の織田裕二が唐突に加担してイタリア警察相手に大立ち回りとなると、どうにもシュールすぎて忍耐の限界を超えます。
ま、それでもローマとアマルフィは美しく、観光地めぐりとしては楽しめました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Amalfi

>筆綾丸さん
>獣の数字
英語版の方はすごい分量ですね。

In May 2005, it was reported that scholars at Oxford University using advanced imaging techniques had been able to read previously illegible portions of the earliest known record of the Book of Revelation(a 1,700 year old papyrus), from the Oxyrhynchus site, Papyrus 115 or P115, dating one century after Irenaeus. The fragment gives the Number of the Beast as 616 (chi, iota, stigma), rather than the majority text 666 (chi, xi, stigma). The other early witness Codex Ephraemi Rescriptus (C) has it written in full: hexakosiai deka hex (lit. six hundred sixteen).

正直、どっちでもいいんじゃないの、という感じもするのですが、論争に参加している学者は気合が入ってますね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Number_of_the_Beast
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ヴァザーリ『芸術家列伝』

2009-07-28 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月28日(火)00時41分12秒

ジォット研究の出発点となるのは、何といってもヴァザーリ『芸術家列伝』ですね。
その雰囲気を味わうために、佐々木英也氏の訳文を少し引用してみます。
(ヴァザーリ『芸術家列伝』研究-38-フィレンツェの画家,彫刻家,建築家ジォット」、雑誌『心』1979.06)

------------
 画家たちは自然から恩恵を受けている。自然の最良最美の部分から良きものを引き出して模写模倣に努力している画家たちに対し、つねづね自然は手本の用を勤めてくれるためであるが、私の信ずるところ、これと同じ恩恵を彼らはフィレンツェの画家ジォットからも受けている。なぜなら、戦争による災禍のもと、優れた絵画を描くための方法やそれらの絵の様相が長年にわたって人目に触れずに居った時代に、彼ひとりが、いまだ無能なる芸術家たちの間に生まれ乍ら、その天与の才によって道を踏外していた芸術を甦えらせ、良好と呼び得る状態にまでこれを引き戻す役割を果たしたからである。あの粗野にして無能な時代にジォットがあれほど制作の諸般に通暁し、彼の手によって当時の人々がほとんど、いや全くもって認識していなかった造形(ディセーニョ)の理法が完全に息を吹き返したとは、まことに大いなる奇蹟としか呼びようがない。かくも偉大なこの人物の出生を問えば、彼はフィレンツェから十四哩の周辺の周辺の地にある田舎の村ヴェスピニャーノで、一二七六年に生を享けた。父はボンドーネという質朴な農夫で、この息子を儲けるとジォットと名付け、境遇が許すかぎり躾よく育てた。
 ジォットは十歳になると、やることなすこと未だ子供らしい中にも、驚くべき利発さ、才気煥発ぶりを示して、父親ばかりでなくこの子を知る村の内外のすべての人々に可愛がられたものだったが、父のいいつけで羊の番をさせられると、羊に草を食ませるためにあちこち牧草地を経めぐりながら、ディセーニョの芸術への天成の好みに促されて、平らな石や砂の上に、目に映った自然の事物あるいは胸に泛んだ空想を、絶えず描いているのであった。さてある日のこと、チマブーエが所用のためにフィレンツェからヴェスピニャーノにやって来て、ジォットの姿を目に留めた。羊が草を食べている間、少し尖きのとがった石でもって平らなすべすべした石の上に自然以外の何ものからも学ぶことなく、一匹の羊の写生をしていたのである。チマブーエは驚嘆して立ち止り、一緒に自分のところへ行ってみないかね、と訊ねると、父ちゃんがウンというならついて行きたいな、と少年は答えた。そこでチマブーエはボンドーネにその旨を頼みこむと、父親は心優しく承諾し、息子がフィレンツェに連れていってもらえることを喜んだ。こうしてフィレンツェにやって来ると、己が天稟に助けられまたチマブーエの教導よろしきを得て、少年はたちまち師の手法様式に匹敵するところまで上達し、そればかりか、きわめて優れた自然の模倣者となってかのぶざまなギリシャ様式を完全に放逐し、実在の人間を巧みにそのまま写し出すという二〇〇年以上も前から廃れていた画法を導入することによって、近代的な良き絵画をつくる技術を再興させた。この実物写生の方法は、前述のように誰かがすでに試みていたとしても、首尾よい結果を生んではいなかったし、成功してもジォットほどにゆかなかったものである。(後略)
---------

>筆綾丸さん
>Goddio
私は何となくGiottoのアナグラムみたいな名前だな、と思いました。
ご紹介のウィキペディアの解説にWilliam Blakeの作品が載っていますが、不思議な絵ですね。

http://it.wikipedia.org/wiki/William_Blake
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2ヶ月遅れの”The Cherry Orchard”

2009-07-24 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月24日(金)18時05分9秒

5月27日にアマゾンに注文したJames N. Loehlin著『 Chekhov: The Cherry Orchard』がやっと届きました。
もともとこの本を注文したのはメイエルホリドが『桜の園』に対してどのような態度を取ったのかを知りたかったからなのですが、それは他の資料で確認済みだったので、注文したのを忘れたころに来てもらっても困るなあ、などと思ってしまいました。
だいたい昭和天皇の時代だったり新疆ウイグル自治区あたりに住んでいるならともかく、2009年に東京で暮らしていながら、何でアメリカで出版されている新刊本を2ヶ月待たねばならんのか。
どないなっとるねん、と思いつつ、パラパラとページをめくると、後ろの方で鈴木忠志演出の『桜の園』について妙に詳しい解説がありました。
1990年版の映画についても3行だけ触れてますね。
せっかくなので、後で少し紹介してみます。

http://www.cambridge.org/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521825931&ss=exc
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DIA CHRSTOU O GOISTAIS

2009-07-23 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月23日(木)18時29分5秒

>筆綾丸さん
これですね。

http://www.msnbc.msn.com/id/26972493/

Goddio said, "It is very probable that in Alexandria they were aware of the existence of Jesus" and of his associated legendary miracles, such as transforming water into wine, multiplying loaves of bread, conducting miraculous health cures, and the story of the resurrection itself.

まあ、確かに磔の三日後の復活は、魔術といえば魔術ですね。
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連休中

2009-07-22 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月22日(水)01時04分53秒

少し風邪気味で、おとなしくしていました。
投稿をさぼってすみませぬ。

>如月さん
以前は18世紀のフランス思想史と新古今集の研究を並行してやっている如月さんを化け物のような人だと思っていましたが、最近は如月さんのような姿勢が当たり前なんだなあ、如月さんは意外にも普通のことを普通にやっている常識人だったのだなあ、と感じています。
私も日本の中世文学以外の拠点が欲しいので、ここ二三年、地味にヨーロッパ史の基礎を固めてから、どこかに橋頭堡を確保したいものだ、などと思って、とりあえず絵画と建築のあたりを物色中です。

>筆綾丸さん
>ダンテ
Giottoとほぼ同時代人なんですね。

Giottoは赤も独特ですね。
ネットで見ると、私が持っている画集の色とは少し違うのですが。
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Giotto Blue

2009-07-15 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月15日(水)08時57分10秒

一年前から通っている某学校で、今学期は美術史のクラスが定員不足のため開講が危ぶまれていたところ、少し運動して開講してもらえることになりました。
自分の学習計画の危機だったので、助かりました。
↓はそのクラスの講師が推薦するハンガリーのサイトですが、充実しています。

Web Gallery of Art
http://www.wga.hu/index.html

参考資料としてGiottoの画集を購入し、毎日眺めていますが、実にいいですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Giotto_di_Bondone

>筆綾丸さん
いえいえ、今となっては仲間内の笑い話です。

>亀井氏
津和野の殿様ですね。
菩提寺の永明寺には鴎外の墓を見に行ったことがありますが、落ち着いた良いお寺さんでした。

http://blowinthewind.net/koji/yomei.htm
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剣岳・落の記

2009-07-13 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月13日(月)23時04分12秒

>筆綾丸さん
『剣岳・点の記』、私も初日に見ました。
22年前の盛夏、私は山の友人と一緒に長次郎雪渓を登っていたのですが、途中で急に雨が降り出し、ガスで視界が全く効かなくなり、雪渓の最上部で迷ったことに気づきました。
そして正規のルートに向かってトラバースしている途中で新人が足を滑らせ滑落、それを止めようとしたサブリーダーも滑落して、二人ともものすごいスピードでガスの中に消えて行きました。
すり鉢状になった下部には滝で雪が切れた箇所があったため、死亡事故を覚悟しましたが、70メートルほど落下したところに岩が露出していて、二人とも奇跡的に止まり、全身打撲と足の骨折だけで済みました。
富山県警の山岳警備隊に救助を要請して、到着まで何時間も待ったときの心細さは今でもよく覚えています。
あの時は生まれて初めて警察に心から感謝しましたね。
翌日、天候の回復を待って二人はヘリコプターで富山市内の病院に搬送され、残りのメンバーはトボトボと下山しました。
結局、あれ以来、剣の頂上は踏んでいません。
剣から富士山があれほど綺麗に見えることも、今度の映画で初めて知りました。

>皇族出身
まあ、峰岸氏は二条や貴族社会のことなど、あんまり興味はないでしょうからねー。
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polychromy

2009-07-12 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月12日(日)18時54分11秒

六本木に行ったついでに国立新美術館のルネ・ラリック展を観てきました。
ジュエリーや超高級ガラス工芸品には全く縁のない私ですが、たまには贅沢な雰囲気に触れるのもよいものです。
ただ、宝石と貴金属以外の素材は経年劣化が目立ち、製作された当時の華麗さを思い浮かべるのには若干の想像力を要するものも多かったですね。

http://www.tokyo-np.co.jp/event/lalique/

大聖堂も今はただの白い、または黒ずんだ石の塊ですが、創建時には外観が非常に華やかな色彩で覆われていたものもあったようですね。
Alain Erlande-Brandenburg氏の"Cathedrals and Castles"は文章が平易で、史料も豊富な入門書ですが、その冒頭に次の一文があります。

-------
When cathedrals were bright with paint, colonnettes, gables, pinnacles, and statues were rich in color. Red, blue, and yellow helped the viewer identify the holy figures and decipher the great book of stone. This application of polychromy, devised by the architect to create a synthesis between structure and sculpture, added a dimension to the finished building that has totally disappeared today. The largest medieval drawing in existence, measuring more than thirteen feet in height, provides exceptional evidence for this. Dating from c.1360-5, it represents the central part of the facade of Strasbourg Cathedral.
-------

同書にはこの Strasbourg Cathedral の図面も出ているのですが、聖人像など、確かに非常に色彩豊かだったようです。
ネットで画像を探してみたのですが、なかなか見当たらず、紹介できないのが残念です。
ただ、アメリカのアマゾンの「Look inside」を使うと少し見ることができますね。
何で日本版はだめなのか。

http://www.amazon.com/Cathedrals-Castles-Building-Middle-Ages/dp/0810928124

Cathédrale Notre-Dame de Strasbourg
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cath%C3%A9drale_Notre-Dame_de_Strasbourg
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ファースト・インプレッション

2009-07-12 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月12日(日)11時31分51秒

鹿島茂氏はサントリー学芸賞の選考委員なので、『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史』に関する一文は書評ではなく、選考理由なんですね。

http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0046.html

鹿島氏は同書を実に正確に要約されていて感心しますが、特に「ゴシック大聖堂の地下を掘ってゆくとケルト信仰の聖所に行き当たる」との記述は、酒井氏の思い込みを見事に凝縮しています。
私としては、バタイユのような特異な思想家の研究から出発し、文章が非常に感情的・感傷的な酒井氏の歴史研究者としての能力には若干の不安を覚えます。
「森を恐れないシトー会修道院」の役割は本当に酒井氏が言われるようなものだったのか。
「マリア信仰と大聖堂の建立は、じつは民衆の地母神崇拝と森への畏怖をキリスト教的に解釈し直すことで、自分たちの権威を強化しようと考えたカトリック教会と国王が生み出した表象的代理物にほかならなかった」という主張は、カトリックへの洞察を欠いたあまりに軽薄な断定ではないのか。
イエス像は本当に「元気のいい『勝利のキリスト』から、脇腹から血をしたたらせる『苦悩のキリスト』」に変容しているのか。
変容しているとして、その理由は本当に酒井氏の言われるようなものなのか。

酒井氏の基本的発想で一番変なのは、農民的心性の過度の重視ですね。
大聖堂の建設を企画・実行したのは最高レベルの聖職者・富裕な都市商工業者等のパトロン、そして最先端の技術者であった建築家ですが、建築家も急速に社会的地位を上昇させて、特権的階層の仲間になっています。
そのような人々が大聖堂建設の主体であり、農民は基本的には単なる観客ですね。
農民的心性が大聖堂に直接反映することは考えにくいと私は思います。

研究を始めるにあたって、ファースト・インプレッションはもちろん重要ですが、そのインプレッションが本当に正しいものなのかは、常に事実に基づいて検証しなければならないはずです。
酒井氏の議論は、私にはファースト・インプレッションに適合する材料だけを拾い集めて積み上げた、「おどろおどろしさ」と「崇高さ」に満ちたゴシック風建築物のように思われます。
ただし、数百年の歴史を誇る本物の大聖堂と異なり、基礎が弱くて、構造計算もきちんとなされていない建築物ですね。
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ランスの大聖堂

2009-07-11 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月11日(土)12時39分19秒

>筆綾丸さん
私は酒井健氏が訳したバタイユの『ランスの大聖堂』(ちくま学芸文庫)を購入し、少し読んでみました。
冒頭にバタイユが21歳のときの処女作で、カトリック信仰時代の唯一の作品とされている「ランスのノートル・ダム大聖堂」が載っていますが、これは非常に良いですね。

--------------
 私もまた、この古い都に住んでいたときに、このような天国の夢のごとき美しい光景を目にしたものだった。当時、新市街の通りは喧騒で満ちていた。喧騒と華やかな光が溢れていたのだ──しかしいつも大聖堂がいてくれた、いつも大聖堂が勝ち誇る石のなかで息づいていた。大聖堂の左右の鐘塔は百合の束のようになって大空に向けまっすぐに伸び、また愛想のよい民衆のイメージが入口(ポーチ)に飾られた一群の聖人たちの表情のなかに忍び入っていた。この聖人たちの彫刻は、聖衣をまとって永遠の身振りを誇り、他方でかつて石がここまで微笑んだことがあろうかと思えるほどに嬉々とした表情を浮かべていた。そして、大きな冠をかぶった中央扉口の聖母マリア像は、王のようでありまた母親のようでもあったので、群れなす信者たちはみな子供や兄弟のごとくに楽しげにならないわけにはいかなかった。要するに大聖堂の石のすべてが母性的で神的な善意に包まれていたのだ。
 そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。我々の間にはあまりに多くの苦痛と暗闇がある。我々の間ではすべてのことが死の影のなかで大きくなってゆく。自分の声と希望で満ちていたジャンヌ・ダルクも投獄され火あぶりにされてしまった。我々自身も涙の日々を経験することになるだろうし、そもそも我々の死の日は前々から我々のことを盗人のように窺っている。それ故我々は慰めに飢えた者になっている。たしかに神の光は我々すべてのために輝いているのだが、我々は、冷たい部屋の埃に似た、十一月の霧に似た毎日の不幸のなかをさまよっている。ところである日、私はみすぼらしくこの不幸を嘆いていたときに、友人から「ランスの大聖堂を忘れるな」と言われ、すぐさま大聖堂を思い出したのだったが、そのとき追憶のなかの大聖堂はあまりに崇高であったため、私は、自分自身の外へ、永遠の新しい光のなかへ、投げ出されたような気がしたのだった。このとき私は、たとえ廃墟になっても大聖堂は我々のなかで、死にゆく者のための母親として在り続けるだろうと思ったのである。(後略)

http://en.wikipedia.org/wiki/Notre-Dame_de_Reims
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「犠牲」の混乱

2009-07-08 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 8日(水)18時48分51秒

酒井健氏の『ゴシックとは何か』に戻ると、「ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという。」との文章は、かなり変ですね。
シャルトルに深い井戸があったとしても、ケルト人が自らの宗教儀礼としてそこに「犠牲」を次々に投じたのではなく、反キリスト教のローマ総督がキリスト教徒を虐殺して井戸に投げ込み、後になってからキリスト教徒が殺された人々を弾圧の「犠牲」になった殉教者として祭っただけですね。
だいたい、狭い井戸に死体をどんどこ投げ込めば井戸として機能しなくなるのは明らかで、井戸の機能を必要としない人がそんなことをするわけです。
柳宗玄・遠藤紀勝著『幻のケルト人』は未読なので、泉の周辺で犠牲を捧げる儀礼があったのか、その場合、犠牲をささげる場所と泉の距離はどの程度離れているものなのかはまだ確認していませんが、少なくともそれで貴重な泉の機能が失われるようなことはないはずですね。
シャルトルの深い井戸とケルトの森の泉の話を結びつけるのは、イメージ操作としては効果がありますが、論理的とはいいがたいですね。
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Potentian and Modesta

2009-07-05 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 5日(日)23時06分18秒

ピッツバーグ大学のサイトにシャルトル大聖堂の写真集があり、その充実ぶりはちょっとした驚異です。
そこに聖女モデスタ像も出ていますね。

---------
Potentian and Modesta
Potentian (haloed, bearded, dressed as a bishop) was a disciple of Peter who, with his comrade Savinian, were sent to convert Gaul to Christianity.
Modesta was the daughter of the Roman governor, Quirinus. She was converted to Christianity, and begged her father to spare the life of Potentian when he was tried by her father. She was martyred, and her body was thrown down the sacred well in the crypt at Chartres.
Kidson argues on stylistic grounds that these two statues were "among the latest and most accomplished of all the large-scale statues at Chartres." (Kidson, Chartres, p. 54)
The story of Savinian, Potentian and Modesta is also shown in a window in the choir
(Deremble-Manhes no. 17, Delaporte window no. 43)

University of Pittsburgh photo collection
http://images.library.pitt.edu/cgi-bin/i/image/image-idx?c=chartres&page=index

http://images.library.pitt.edu/cgi-bin/i/image/image-idx?sid=17adf1b76abab45db01d2f22877a4694;q1=modesta;rgn1=chartres_all;size=20;c=chartres;lasttype=boolean;view=entry;lastview=thumbnail;subview=detail;cc=chartres;entryid=x-fcsp22938100;viewid=FCSP22938100.TIF;start=1;resnum=3
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サン・フォールの井戸

2009-07-05 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 5日(日)22時47分36秒

馬杉宗夫氏の『シャルトル大聖堂―ゴシック美術への誘い』(八坂書房,2000年)から、少し引用してみます。(p57以下)

---------------
ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』(前52-前51頃)の中に、「一年間のある時期にガリア(今日のフランス)の中心地と思われているカルヌーテース(carnutes)族の領地の神聖な場所に会合する。争いのあるものは、すべて各地からここに集まって僧侶の裁決を待つ」(近山金次訳)と記されているが、シャルトルの地名は、このカルヌーテースからきているのである。そして、会合に選ばれたこのカルヌーテース族の神聖なる場所こそ、今日大聖堂が建つ所なのである。(中略)

シャルトル大聖堂は、「フランスのアクロポリス」と呼ばれたように、あくまで平らなボース平原の一番高い丘の上に建ち、そこには地下の泉があったのである。(中略)

今日大聖堂が建つ小高い地、そこがキリスト教化される以前のガリア人たちの巡礼の地であった。大聖堂はその上に建てられたにすぎない。そこには、地下の泉があった。人々は自然の恵みを得るため、地下の泉に遠隔の地からやって来た。(中略)

大聖堂外陣南側入口からクリプト(地下聖堂)に入れば、そこは別世界である。シャルトルの古い歴史は、地下に埋没しながらなお生き続けている。冷たい石肌をした大きな石組の一つ一つに、歴史の重みが伝わってくる。霊気がただようような薄暗い空間を右手に進むと、アーチに囲まれた井戸が見えてくる。それが「サン・フォールの井戸」と呼ばれ、ガリア人によって崇拝された泉である。かつて人びとは、この地下の泉に、病気の治癒を求めてやってきた。十七世紀、泉に対する一般の崇拝を嫌った聖職者が、この井戸を埋め立ててしまったが、一九〇一年に再び発見された。四世紀に遡るこの井戸は、地面から三十三メートルにもわたる深さの中に、深い謎を秘めている。
 伝説によれば、シャルトル地方のローマ総督クイリヌスは、最初の教会堂を破壊させたうえ、多くのキリスト教徒を殺し、自分の娘聖女モデスタを含めて、洞窟の近くにあった井戸の中にその屍を投げ込んでしまった。そして、それ以降、この井戸は「聖なる勇者たち(サン・フォール)の井戸」と呼ばれたという。この物語を裏付けるように、北袖廊扉口に立つ聖女モデスタの台座の上には、「サン・フォールの井戸」が表現されているのである。
---------------

>筆綾丸さん
>聖骸布
その記事をエキサイト翻訳でイタリア語から日本語に翻訳したらわけが分からず、次いで英語に翻訳してみて一応理解しましたが、それでも肝心な聖骸布の描き方はわからないですね。

http://www.excite.co.jp/world/italian/
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Archangel Saint Michael

2009-07-03 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 3日(金)01時51分30秒

リンク先がなくなってしまうと困るので、念のため保存しておきます。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5055

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