不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

大家族と養蚕の関係(小山隆説)

2016-11-29 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月29日(火)12時48分14秒

>筆綾丸さん
児玉幸多『近世農村社会の研究』(昭和28)に小山説批判が出ているようですが、未入手です。
そこで、取り急ぎ「山間聚落と家族構成」から関係部分だけ引用しておきます。
庄川流域は上流の岐阜県側に旧天領の白川郷(明治8年に荘川村・白川村に分離)があり、中流の富山県側に旧加賀藩領の五箇山(平村・上平村・利賀村)があって、白川郷は経済的には代官所のある高山よりも富山県側との結びつきが強かったそうですが、小山は「山間聚落と家族構成」に先行する複数の論文で五箇山と荘川村の状況、特に家族形態を検討しています。
そして白川村と周辺地域を比較し、整理し直したのが「山間聚落と家族構成」ですね。
まず、宗教との関係については次のように書いています。(p160以下)

------
 次に白川の史実の中では宗教関係が最も重要な部分を占めて居り、殊に大家族の存在する中切及び山家地方が大部分照蓮寺領となっているところから、宗教と大家族、殊に寺領と大家族の関係も一応考慮されるべき問題である。寺領民の生活と幕府直轄領民の生活とは確に比較考察に値する興味ある問題ではあるけれ共、自分のこれ迄観た範囲では、大家族の問題に関する限りこれを説明するに足る有力なる資料と目すべきものなく、却つて次の様な見地から両者の関係を否定しなければならないように思う。寛永年間金森家より又元禄十年幕府より引継ぎ寄進された照蓮寺領十六ヶ村三百石は悉く白川郷の内であるが、それは今の荘川村区内に於いて岩瀬、赤谷、中野、海上、尾上郷の五ヶ村、又白川村中切区内に於いて尾神、福島、牧、御母衣、平瀬、木谷の六ヶ村(同区内の長瀬村は除いてある)大郷に於いて萩町の一部、山家地方に於いて椿原、有家ヶ原、小白川の四ヶ村である。従つて寺領内部にあつて大家族の形を留めぬ荘川諸部落があり、又大家族の形態を最も顕著に有して寺領ならぬ長瀬村の如きがあり、寺領と大家族地帯とは明かに食違つて居るのである。従つて此の点からも寺領生活と大家族との関係は考慮の外に置いてよいであろう。
------

富山県側の五箇山を含め、庄川流域全体が真宗王国の一部ですから、宗教と大家族自体は直接には結びつかず、小山も天領と寺領の相違を論じているだけですが、結論として特に大家族と結びつくような関係は見出せない訳ですね。
そして、次に養蚕についてです。(p164以下)

------
 左の二表の示す通り荘川地方は大郷地方と共に米の生産に稍恵まれているが、更に畑作の稗の収穫量も多く、繭の産出は最も不振である。大郷地方は米の産出量最も多く、稗は少く、養蚕は荘川地方よりは盛んである。之に反して中切地方と山家地方とは同じ程度で米、稗共に少く、代りに養蚕は最も盛である。乃ち知る、中切地方と山家地方とは、其の広大なる山地に桑を栽培して、専ら養蚕によつて生活を立てて来た地方であつた。更に古老の談によれば、過去に於ける両地方の養蚕は左の統計に表れた程度より遥に多く、一家に百貫乃至百五十貫の繭を産出したところも少くなく、いづれもそれを絲にとつて売出したという。又飛騨後風土記によつて見ても、飛騨一国を通じて此の中切・山家両地方程一戸当りの繭産出量の多いところは他に類例なく、こゝに吾々は此の両地方の産業、随つて又その生活の特殊性をはつきりと認識せざるを得ないのである。されば白川奇談の筆者も亦、中切地方については、特に「夏はこかひ(蚕飼)を専飼ふ家毎に絲十貫二十貫と取得ること也」と記して居る。厳密な計算にはならないが、試みに安政四年当国余業産物年内売出高大積取調書上帳によつて見れば『糸凡二百駄代金凡三萬六千両、但一駄四個付一個三十把入一把目方産百目一個代凡金四十五両』(大野郡史中間一一五一頁)とあるから、中切地方で家毎に十貫二十貫の絲をとつたとすれば、毎戸五十両乃至百両の収入があつたわけである。殊に此の地方の絲はその光沢を喜ばれ、白川絲の名によつて京都方面で歓迎されて居たというからその盛であつたことは想うべきである。従つて夏期になれば多くの人手を必要とし、家族で足りない場合には美濃方面から婦女子を雇入れたという。又此の地方では冬期高山其他へ出稼して居た者も雪解けと共に帰村するのが慣わしとなつている。天保十二年特に奉公人の年季を確実ならしむべしとの廻状にも、

近来奉公人共、風儀不宜、……別而女奉公人共は絲挽時節に差向候得は、病気又は用事差支有之抔申偽、強而暇を乞請、糸挽稼に罷出候も多分有之由、……(大野郡史中巻一〇〇二頁)

とあるが、今以て白川方面ではこの慣習があり、現に筆者も高山で白川出身の女中は家に居付かぬとの非難を聞いたが、想い合せて養蚕の流行につれて自然に生じた慣行であることを知つたのである。
 此のような産業の特殊性が此の地方の家族構成の上にも大きな影響を齎したであろうことは察するに難くない。現に群馬、長野、山梨地方の如く、養蚕・機業の盛に行われ、女性の労働に対する需要の多い地方では、娘を永く家庭に引留めるところから、女性の婚期の遅れる傾向さえあるのである。経済的の余力と女性の労働に対する需要とが、中切・山家地方に於いても娘を生家に引留め、『まかなひ子の一人や二人出来ても人にやらぬ』(御母衣故大戸肥太盛氏談)だけでなく、寧ろ進んで『家の娘に男の子が出来れば牛飼が出来たと云つて喜び女の子ならば桑摘みが出来たと云つて祝ふ』(平瀬故高畠由五郎氏談)ようにさえなつたのである。一方に於いて分家が殆んど不可能であり、他方に於いて此のような事情のあるところに、大家族が出現することは蓋し必然の過程といわねばなるまい。特に中切山家両地方に養蚕が盛となつた原因に就いては、白川糸の喜ばれたというようなところから本願寺との関係等も考えられるのであるが、未だ直接これを証明するに足る資料を見出さない。寺領関係を離れても、これ等両地方が最も平地に恵まれず、其代りに桑を栽培する山野に事欠かなかつたところから、養蚕が盛になつたものと思われるのである。
 畢竟白川の大家族は養蚕を離れては有り得ず、而もそれは女性の労働力に対する需要が根抵となついて居たのである。養蚕による経済的余力の為にそれ等の女性の子女の殖える事は敢て拒まなかつたのである。そうして男性をもその生家に拘束したのは、必ずしも家長の権力によつてだけでなく、分家の制限の規定されて居た当該狭隘な地に住む者の事情已むを得なかつたところであり、只一家に多数を抱擁することが自家の勢力を示すものであると云う観念から、それが分離を喜ばなかつたと云うことは第二次的な現象に過ぎない。
------

>キラーカーンさん
>『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア』
トッド畢生の大著ですから、なかなか難しいですね。
本格的な検討は来年になりそうですが、社会学の基礎知識がない私にとって「中切」は丁度良い準備作業です。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

・・・・ 2016/11/27(日) 23:09:41(キラーカーンさん)
>>『家族システムの起源? ユーラシア』
購入しようかと思ったのですが、大部だったこともあり、後回しにしたので、
購入前の参考になります(いつ購入するかは分かりませんが)

フィヨン 2016/11/28(月) 18:16:17(筆綾丸さん)
小太郎さん
「これは単純に小学校が六学年、中学校が三学年だから」・・・仰る通りですね。我ながら、バカだなあ。

やはり浄土真宗なんですね。

前の方で引用された別府春海のところで、
---------------
中切のシステムは、十八世紀もしくは十九世紀初頭に始まったというが、それは、閉ざされた空間に人口が増加したという事実によって、世帯の核分裂が不可能になったと推定される時代である。
---------------
という文があって、たしかに大家族制を維持できる産業は養蚕以外思いつかないのですが、ただ、このような地域は日本国内に相当数あったはずで、なぜ中切地域と山家地域にだけ大家族制が発生したのか、となると、かなり難しい問題になるのでしょうね。

キラーカーンさん
トッドは、現在、望みうる最良の論客だと思います。

http://www.rfi.fr/france/20161127-france-politique-primaire-resultat-droite-fillon-juppe-presidentielle-2017
フランスの次期大統領はどうもフィヨンになりそうですが、「フランスのサッチャー」と呼ばれるところをみると、トッドはフィヨンを評価しないのだろうな、と思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉念坊善俊と二つの照蓮寺

2016-11-27 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月27日(日)22時08分44秒

>筆綾丸さん
>中部を除いて、なぜ北部と南部に大家族制が発生したのか
小山隆は中切地域と山家地域では養蚕が盛んに行われていたことが一番重要な要因だと言っていて、私にはかなり説得的に思えるのですが、児玉幸多からの批判があるそうです。
そこで、一応、児玉幸多の見解を確認してから小山説を紹介したいと思います。

>江戸時代における白川郷の仏教各派の分布
これは圧倒的に浄土真宗ですね。
嘉念坊善俊(後鳥羽院の皇子?)という人物が鎌倉時代前期に白川郷に入り、白川郷は真宗の教線が飛騨に広がる一大拠点だったようですね。
小山は宗教と大家族との関係も検討していて、結論は否定的(特に関係はない)ということなのですが、これも後で紹介します。

「荘川桜を語り継ぐ者たち」
真宗大谷派高山別院照蓮寺

>生徒数がほぼ半減
一瞬、あれっと思いましたけど、これは単純に小学校が六学年、中学校が三学年だからじゃないでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

不思議な村 2016/11/26(土) 14:12:00
小太郎さん
中部を除いて、なぜ北部と南部に大家族制が発生したのか、という問題が残りますね。
合掌造りで有名な萩町地区は、意外に平地が広くて驚いた記憶があります。大家族制の背景には耕作地の狭さが要因の一つかもしれませんが、ただ、そんな場所は日本全国、至る所にあったわけですから、理由にはならないですね。
江戸時代における白川郷の仏教各派の分布も知りたいところですが、やはり浄土真宗が強いのか。大家族の宗門改め帳などは、一体、どうなっていたのか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E6%9D%91
ウィキに、1875年(明治8年)の町村制施行の記述がありますが、異質な村々の合併はさぞ難儀だったろうな、と思われますね。
「庄川沿いのわずかな平坦地に集落が散らばっている。」という記述は、せめて「・・・散在している」くらいにしてほしい。

http://shirakawa-go.org/mura/toukei/754/
平瀬小学校は廃校になったようですが、生徒数は大家族と同じくらいだったのですね。
白川小学校から白川中学校に進むと、生徒数がほぼ半減してしまうというのは、事情がわからないながら、域外に就学するという意味なんでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山隆「山間聚落と家族形態」

2016-11-26 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月26日(土)11時12分18秒

古島敏雄が『家族形態と農業の発達』(初版は学生書房、1947)において「この地〔白川村〕の家族形態の研究として、最も精緻」と評している小山隆「山間聚落と家族形態」(『年報社会学四輯』、日本社会学会、1936)は、小山が亡くなった後に纏められた論文集『山間聚落の大家族』(家族問題研究会編、川島書店、1988)に掲載されていますね。
私は同書を読んで、やっと「中切」の意味が正確に把握できました。
古島も「中切部落の小字御母衣」といった紛らわしい書き方をしているのですが、同書の「第1図 五箇山及び白川地方略図」(p142)と「第2表 白川村諸部落個数並に人口(明治9年)」(p145)によれば、白川村を南北に三分割して、南部が中切、中部が大郷、北部が山家となっており、三地域はそれぞれ次のような集落から構成されています。

中切(7集落):尾神・福島・牧・御母衣・長瀬・平瀬・木谷
大郷(10集落):保木脇・野谷・大牧・大窪・馬狩・萩町・島・牛首・鳩谷・飯島
山家(6集落):内ヶ戸・加須良・椿原・有家ヶ原・芦倉・小白川

この集落名と地図と照らし合わせれば、中切の範囲が分かります。
木谷から南が中切ですね。

「白川村の地図」(白川村公式サイト内)

そして大家族は南部の中切地域と北部の山家地域だけに存在し、真ん中の大郷地域は一戸平均人員(明治9年)が5.4人(鳩谷)から9.1人(馬狩)までの間であって、別に大家族ではないんですね。
例えば有名な合掌造り集落は大郷の萩町にありますが、萩町(99戸)の一戸平均人員は7.0人です。
従って、白川村に大家族が生れた理由については、大郷との相違も合理的に説明できなければ説得的ではありませんが、小山以前の研究は次のような相当粗っぽいものだったようです。(p156以下)

------
三 白川地方に於ける大家族の起源に就いて

 従来白川中切地方の大家族は家族の原始形態をとゞめるものであり、わが国太古の遺制であるとの見方が一般に行なわれ、今も尚そのような宣伝によつて多数の好事家を集めている。福田徳三博士の如きは原始的プロミスキュヰテー否定の一資料として迄白川の家族制度を取り上げられた。(福田徳三、経済学原理、総論第二編第九章)又岡村利平氏は『遥かに古代に於いて我朝一般に行われたる家族制度は殆ど現時白川村中切のものと同一なりしこと疑なきなり』と断じ、『上古以来の住民が血統連綿として古風俗を存し以て今日に至れる事は更に大寶二年戸籍と明治三十八年戸籍との比較研究に拠りて推断し得べし』となし、大寶二年御野国味蜂間郡春部里戸籍の内最初に記載されて居る四戸を引用して、白川の遠山、大塚二家の戸籍との比較を試みて居る。(岡村利平、白川村家族制と大寶二年戸籍比較研究、飛騨史壇第一巻第二号)
------

「プロミスキュヰテー」は promiscuity=(性的な)乱交のことで、福田徳三は中切に「私生児」が多かったとしても、父母は別居しているだけで男女関係はきちんと固定されており「乱交」があった訳ではないことを知り、これは「原始的プロミスキュヰテー否定の一資料」に使えると思ったのでしょうね。
ちなみに福田徳三は日本に初めてマックス・ウェーバーを紹介した人で、福田がミュンヘン大学に提出したドイツ語論文(坂西由蔵訳『日本経済史論』寳文館、1907年)はマックス・ウェーバーも読んでいて、何かに引用しているはずです。

福田徳三(1874-1930)
ヴォルフガング・シュヴェントカー『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』

ま、それはともかく、小山の文章の続きをもう少し引用します。

-------
 白川の大家族を太古の遺制と見るものはいづれも此の程度の推論以上に出るものではない。福田博士の所論の如きは単なる外形の類似を以て直ちに一般化乃至法則化せんとする謂わゆる simplicist theory の一適例であつて、事実に関する真相を充分に確めずして、独断的に処理することは、却つて科学的知識の困乱に導くものと云わねばならない。岡村利平氏は篤学なる郷土史家として折角新旧戸籍の比較を試みながらも、只両者の中から二三のものを示例的に取上げて比較すると云う程度に留まり、全般に亘つて夫々の特質を充分に把握することをしなかつた為に、徒らに恣意的な結論に導いている。両者の特質と差異から、ひいて白川の大家族を以て日本古来の遺制と見ることの不当であるということは、既に戸田貞三教授によつて論証された。然らば何時の時代から此のような大家族は発生し、又何故に特に白川の一部にのみ存在したかということが、当然次の問題とされなければならない。【後略】
------

結局、小山以前の研究には実証的と呼べるものはひとつもなかったようですね。

小山隆(1900-83)

>筆綾丸さん
>田舎の小学校の全生徒数より多い
『山間聚落の大家族』の編者による「あとがき─解題にかえて」には「小山の調査資料のみによっても、かつては白川村に最高四六人の大家族(長瀬部落大塚家、明治三三年)が存在したことが報告されている。明治中期頃までは三〇人以上の大家族は珍しい存在ではなかった」(p245)とあり、びっくりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

天璋院様の・・・ 2016/11/25(金) 14:04:43
小太郎さん
田舎の小学校の全生徒数より多いというのは、不思議を通り越して不気味な感じがしてきますね。

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=219634
漱石の猫にある話を思い出します。
------------
「あなたもよっぽどわからないのね。だから天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって、さっきから言ってるんじゃありませんか」
「それはすっかりわかっているんですがね」
「それがわかりさえすればいいんでしょう」
------------

https://fr.wikipedia.org/wiki/Cousin_(famille)
ウィキのイラストでいえば、「従兄弟違」とは、Moi(私)から右に二つ目の「Cousin issu de germain」、または、Moi(私)の右斜め下の「Cousin germain éloigné au premième degré」ということになるのですね。
(ちなみに、germain はゲルマン人と紛らわしい単語ですが、これはラテン語起源の用語らしい)
イラストの右上から右下まで全部に名称があって、偏執狂的ですらありますが、日本なら大雑把に遠縁の人で済ますところですね。??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旧遠山家民俗館」に住んでいた28人

2016-11-24 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月24日(木)20時57分59秒

>筆綾丸さん
>不思議な家族システムの村
大阪毎日新聞の1922.7.16-1922.7.22 (大正11)記事、「別世界 (一~七) : 飛騨白川の大家族」には冒頭に遠山家の戸籍が出ており、それを素人なりに整理すると、

------
Aグループ(14人)
戸主・父前戸主・継母・妻・長男・二男・四男・弟・妹・伯母・叔父・叔母・叔父・叔母

Bグループ(「私生児」7人)
従姉・従弟・従弟・従弟・従妹・従妹・従妹

Cグループ(2人)
亡大叔父※※二男再従弟・亡従兄※※三女再従妹

Dグループ(「私生児」5人)
再従弟違・再従兄違・再従弟違・再従弟違・従妹違
-------

の合計28人ですが、Bグループの「私生児」7人はいずれもAグループの伯母・叔母・叔母3人の子で、Dグループの「私生児」5人はCグループの再従妹の子4人とBグループの「私生児・従妹」の子1人で、「私生児」は合計12人、その内、最後の1人は「私生児の私生児」ですね。
Dグループの「違」も、正直、そんな言葉があったのかみたいな感じがするくらいの珍しい表現ですが、辞書で確認したところ、例えば「従兄弟違」は「父母の従兄弟」、または「自分の従兄弟の子」という意味だそうですね。
当該記事にはこの戸籍について、

------
右の驚くべき尨大な戸籍は岐阜県大野郡白川村の役場で、「裁付」を穿いた助役さんから貰って来た同村きっての旧家御母衣百二十五番戸の遠山家の戸籍面から 除籍者をのけた現住戸口である。正行が如意輪堂の扉に彫り付けた程の数であるが一族でなく一家だ、雄大なる茅葺き四階建間口十五間奥行九間の大廈一軒の中に住む一家である。これが所謂白川の大家族で遠山家の他に御母衣に一戸、同村長瀬に三戸の代表的大家族があり、家族制度初期の吾人の祖先の生活をさながらに写して居る。

そしてエルウッド流に家族生活を第一義集団とすれば直系尊卑二等親以下を包括して成る我等の家族生活と三世代以上及傍系属をも加えた此大家族生活とは正しく別の世界である。我等は此別世界を探しに山に這入った、山の中は昔ながらに別天地であるが文化の勢いは山を越えて滲透し別世界は日々に破壊されて行く、大家族の戸口も著しく減少し脱走者あり婚姻するものあり昔日の戒律行われず瓦解の日も遠くはなかろうと思われるばかりであるが、それでも尚我等小家族組織から純然たる個人本位組織に移って行こうとするものどもを驚かすに足る数字と属柄関係である。今十年前の調査を挙げて見ようなら更に警異をまそう
-------

という説明がありますが、これを読んでやっと遠山家が「旧遠山家民俗館」の建物と結びつきました。
「旧遠山家民俗館」については、例えば次のページに、

-------
旧遠山家民俗館の開館について | 白川村役場
【中略】
旧遠山家住宅は白川村を代表する合掌造りであり、国の重要文化財に指定されています。明治から昭和20年代にかけて大家族制研究の舞台として、また柳田國男(民俗学者)やブルーノ・タウト(建築家)など数々の著名人が訪れ、世界遺産をはじめ、合掌造りの存在を世に知らしめるきっかけとなった合掌造りです。


といった解説がありますが、これを読んだ人も、いくら大家族とはいえ、まさか28人もいたとはなかなか想像できないでしょうね。

>ゴーギャンのようなマティスのような絵
私は「マチス」と書いてしまいましたが、ちょっと訛ってましたね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

異常な雪 2016/11/24(木) 19:11:39
小太郎さん
むかし、富山から白川郷に入り、国道沿いに御母衣湖を見ながら飛騨高山に抜けたことがありますが、不思議な家族システムの村があったのですね。

https://www.youtube.com/watch?v=B16Ru1URfCc
さきほど、YouTubeで「Conférence Iségoria : Emmanuel Todd "L'origine des systèmes familiaux"」を聴いてみました。はじめの方で、二度、Frédéric le Playの名がでてきましたが、ル・プレと発音しています。

原著の表紙は、仰る通り、ゴーギャンのようなマティスのような絵ですが、作者は誰なのでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中切」の謎(その2)

2016-11-24 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月24日(木)15時10分5秒

下の投稿、「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫」サイト内の記事にリンクを張ろうとしたら、Teacup掲示板のルールに反するためか投稿が拒否されてしまいましたが、同サイトトップページの「検索」欄に「御母衣」と入れると、先の記事に加え次の二つの記事、合計三つの記事が出てきます。

新愛知新聞1921.8.2 (大正10)
「家族が二十八九人と大ザッパな勘定の家長さん : 稀代な家族制を伝うる飛騨白川の大家族を訪う : 涼を趁うて」
大阪毎日新聞1922.7.16-1922.7.22 (大正11)
「別世界 (一~七) : 飛騨白川の大家族」

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/

さて、正確を期すために、念には念を入れてトッド著から先に引用した部分の続きも少し引用してみると、

-------
 このシステムは、その要素と背景から中国のナ人のシステムを連想させる。ただし重要な差異もあるが。それは、支配的な父系制と被支配的な母系制を組み合わせた、夫婦関係の脆弱化を伴うシステムで、広大な空間を包括する父系制システムの外縁部の、山岳地帯の真ん中にぽつんと孤立した場所で営まれるという点も同じである。違うのは、ナ人では夫婦の繋がりは破壊されているが、ここではそんなことはないという点である。また、父系制の次元と母系制の次元は、〔ナ人では〕分離され、貴族と平民という二つの異なる社会集団によって体現されているが、ここでは二つの次元は、家庭集団のまさに内部で組み合わさっている。
 別府春海は、このシステムに対して日本で加えられた数多くの解釈を検討した後、これが相対的に最近のシステムであるとの結論に達した。私としては、正確な結論と思う。中切のシステムは、十八世紀もしくは十九世紀初頭に始まったというが、それは、閉ざされた空間に人口が増加したという事実によって、世帯の核分裂が不可能になったと推定される時代である。そこで、それ以前の数世紀にわたって日本で頻繁に行なわれた慣行である、結婚当初の一定期間、妻がまだ夫と同居しないでいるという一時的な分処居住の古い習慣が、恒久的な状態となったと言うのである。
 この解釈は妥当であるが、ある種の形式論理の上に維持されている。【後略】
------

ということで、トッド理論を反映した若干難しい表現があるとはいえ、対象は明らかに飛騨白川村の「中切」ですね。
岐阜の地名に疎くても「御母衣」でピンと来た人は多いと思いますが、結局、トッドの言う「中切」は「訳注*3」の説明とは全く違い、富山湾に注ぐ庄川流域の、今は御母衣ダムの底に沈んでしまった集落を含む地域のことですね。

御母衣ダム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0
「荘川桜~受け継がれて行く人々の思い~」(電源開発株式会社)
http://www.sakura.jpower.co.jp/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中切」の謎(その1)

2016-11-24 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月24日(木)14時36分37秒

『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア』(上)「第4章 日本」に、「中切のケース」というタイトルの一節があり(p245以下)、かつ「中切」には「訳注」を示す「*3」が付されていて、「訳注」(p258)を見ると、

-----
*3 中切 岐阜県で中切という地名は四カ所見られるが、記述された条件に当てはまるのは、板取村、馬瀬村内の中切であろう。
-----

となっています。
私は岐阜県の地名に疎いので最初は読み流したのですが、ウィキペディアを見たら板取村は武儀郡にあった村で、「2005年2月7日に武儀郡内の他5町村とともに関市と合併」し、馬瀬村は益田郡にあった村で、「2004年3月1日に益田郡の他4町村と合併し、下呂市となった」そうです。
とすると、この二つの「中切」は同じ岐阜県内といっても古島敏雄の『家族形態と農業の発達』に出てくる「飛騨白川村」の「中切の小字御母衣」とはかけ離れた場所ですね。
そこで改めて「中切のケース」を読んでみると、

------
 直系家族の観念の伝播は、日本において他にも独自の適応を生み出した。日本の中央部(岐阜地方)の内陸山岳地帯の孤立した地域では、独特の家族形態が特定されている。それは、外から到来した支配的規範への適応の結果である。中切の共同体は、高い山に囲まれた谷底の川沿いに並んだ複数の小集落からなっていた。そこでは、一八五〇年から一八七五年頃にはまだ、父系制と母系制のまことに独特な組み合わせによって形成され再生産された巨大な(一八五三年には世帯ごとに一六・六人)家庭集団が見られた(45)。世帯の長は、父系長子相続の原則に従って継承されていた。つまり直系家族の標識は、はっきりと姿を見せていたわけである。ところが世帯の他の男性成員は、妻と同居することができず、妻たちはそれぞれ出身世帯に留まるのであった。婚姻はたしかにあったのだが、それは夫婦が別々に生活する「分処居住」類型の婚姻なのである。婚姻から生まれた子どもたちは母親の家族に留まるのであり、したがってこれは、母系的(子どもの母方居住)統合のメカニズムに属することになる。これらのメカニズムが組み合わされた結果は、長子相続を実践する父系家族によって指揮されるきわめて巨大な母系共同体家族の出現および永続となったわけである。
------

という具合に、なかなか難しい表現で特異な大家族制度が紹介されています。
そして、これは古島の言う飛騨白川村の「中切」ではなかろうかと思って「御母衣」&「中切」で検索してみると、「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫」サイト内の次の記事が出てきます。

------
大阪毎日新聞 1929.6.13(昭和4)

白川の大家族制
時代の風はここにも吹く

 人が霞を食って生きていられたら、飛騨の白川は天下の極楽境だ。風土記子は、ここに形容詞たっぷりの自然描写はしない。古今文人の名文も借らない。ただ山水美の極致ここにあつまるとだけいって置こう。
 昔は四十二ヶ村、今は白川、荘川の二村、白川郷は、西、加賀山脈と東、飛騨の西部とを南北に走る天生峠、籾糠山の連峰の間に南流する庄川流域一帯の峡谷である。ここに昔ながらの大家族制度が、昭和の今日まで維持されているのだ。しかし時代の波に洗われて年毎に崩壊し今日なお不完全ながらも余命をつないでいるのは白川村のうち主として中切地方、中切でも長瀬、御母衣、平瀬の三ヶ所と大郷地方の荻町とだけである。
 台湾の新竹州にも、この原始的集団生活形態がまだ残っているというが、白川の本制度の特徴は大体次の三つにつきる。

一、家長は絶大の権力を有し家族の分家を認めぬ
二、家長と嗣子のみが正当の婚姻権を有し、以外の子女の結婚は正式には認められぬ
三、家長は家族扶養の義務を負い家族は家長のために労力を提供する

 白川の土地を踏めば、この土地の自然に直面すれば、この制度の成因も、その必要も独りでに肯ける。就学児童僅に三百五十名の一村に本校舎以外に七つの分教場がある、しかも各分教場では一名の先生が一年から六年まで十人たらずの児童教授を受持つのである。これだけで如何に交通の不便の土地であるかが判るであろう。庄川激流の両岸には、山裾狭く六七十度の急角度で奇岩怪石を抱きながらせまっている。スロープがやや緩く、杉の木立がすくすくと延びている所には、必ず段々の耕地がある。御母衣、戸数五戸、現住人口八十人の所に田地二町一反、長瀬戸数十五戸、二百十一人の地に田地六町歩というのだ、しかもその田地の収穫反当たり平均一石三斗五升で、普通の田地の半年分にも足らぬ磽埆の地である。分家すれば新しく家を建てる。その家の敷地が惜しいのだ、また本家の生産力は減殺され、生活費は高まって来る。辛うじて生活線の上に立っている彼等に、どうしてそんな無謀なことが出来よう。成因の第一、しかも絶対的なものは、この経済的条件である。従って今日では、このを出さえすれば分家は認められている。その他家長権の尊重とか、家族の独立心の欠乏等を学者は数え挙げているが、これらは要するに副因である。
 嗣子以外の正式の婚姻を認めないのも族員の増加を防ぐ消極的手段に外ならぬが、彼等とても人間、性慾本能を封鎖することは半殺しにするようなもので「生めよ殖えよ」の神意にも反する。そこで嗣子以外の子女の正式の結婚を認めぬが私通は黙認する。男女相互に意気投合すれば、男は女の家に通うのである。かくして女の生んだ子供は女の私生子として届出る、即ち生児はその母の家に属するのである。読者諸君は、ここで極度の乱倫を想像されるであろう。しかし違う。一度配偶者が定まれば終身変らず、夫婦間の関係はごく厳粛なもので、昔は姦夫姦女はこれを簀巻にして庄川の流れに放り込んだものだそうだ、今日では家の顔を汚すような不埒者があれば家長が強意見を加える。この意見がまた絶大な権威を有し、これを受ければ世間への顔出しは出来なくなる。で私通関係といっても同棲せざる内縁関係と見れば間違いはない。
 これらの大家族の全部は猫額大の田地、山畑の耕作によってその生計を立てているが、白川村の総面積の九割八分は山林であり、彼等の重なる資産はこれら山林である。従って族員の日常の仕事は耕作と養蚕と山仕事である。家長は絶大な権力をもって家族を監督し稼業の全体を統御し、一家の会計を管掌するが耕耘その他の労役には服せぬ。族員中の男の老齢者が鍬頭となって、家族の労働を指揮命令するのだ。家内には鍋頭(或は茶頭という)があって、炊事その他の屋内労働を監督する。
 従って家族は鍬頭、鍋頭の命によって家長のために、一家のために労働するので、断じて自己のために労働するのではない。この労働の報酬として日々の食事にありつき、夏になると一着の夏衣が給与されるのだ。これが家長の扶養義務の履行である。しかし彼等には時々休暇が与えられる。この休暇の利用間は、彼等の全く自由であるが、多くはこれを利用して焼畑の耕作、その他の労働に従事して、いくばくかの金を稼ぐ、これが彼等唯一の特別収入で酒代ともなり、色女の着物ともなり、可愛い子供の玩具とも代り、他処行きの晴衣の代ともなるのである。如何に自然が美しかろうと、これでは極楽境とはいい得ない。(池松生)【写真は大家族の家】
-------

ま、若干興味本位の記述もありますが、トッドの記述と整合しており、トッドの言う「中切」は飛騨白川村の「中切」のようですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノストラダムス・トッド

2016-11-23 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月23日(水)21時32分58秒

私は古島敏雄を近世・近代農業史の研究者と思っていたので、19日の投稿で、

------
230pには「中根は、十二世紀の長野県において、一時的ではあるが、ひじょうに巨大な世帯が存在したことを喚起していた。(13)」とあり、「原註」(13)を見ると「……中根は、この点については、1947年のフルシマの研究に依拠している」とあるので(p402)、これはおそらく古島敏雄でしょうから、古島の研究対象から考えて「十二世紀の長野県」ではないはずです。
------

などと書いてしまいましたが、『古島敏雄著作集』第二巻(東大出版会、1974)所収の『家族形態と農業の発達』(初版は学生書房、1947)を確認したところ、この著作の構成は、

------
一 問題の所在
二 原始末期の家族と農業
三 古代における家族形態と土地所有
四 古代における農業技術と経営形態
五 中世における家族制度と相続制度
六 中世農業技術の特質と農業経営
七 近世封建制と家族制度
八 近世農業技術と経営形態の特質
 1 自給肥料を中心とした典型的形態
 2 農業への商品流通の侵入と零細小作経営の分離
九 明治時代における農民の家族形態
------

となっていて、対象となる時代は非常に幅広いですね。
ただ、「十二世紀の長野県において……」に対応する記述はありませんでした。
「七 近世封建制と家族制度」には古島の出身地でもある信州伊那の大家族形態に関する記述も若干ありますが、そこと混同しているようにも思えず、トッドないし翻訳者に何らかの誤解がありそうです。
また、別府春海氏の論文は未確認ですが、『家族形態と農業の発達』には「日本の中央部(岐阜地方)の内陸山岳地帯の孤立した地域」「中切」に関する次のような記述があります。(p351)

-------
 明治以後に存在した大家族制度として有名なものに、飛騨白川村の例がある。明治九(一八七六)年の戸籍によれば、同村中切部落の小字御母衣にあっては、四戸ある農家の平均家族員数は二一人であり、木谷では二〇・三人となっている。中切部落の最大家族は三一人家族二戸となっている。これは古代家族の残存物として喧伝され、またその中における傍系成年家族の婚姻関係、生活形態等に対する民俗学的興味からも多くの報告を持っている。この地の家族形態の研究として、最も精緻な小山隆氏の研究によれば(小山隆氏「山間聚落と家族形態」『年報社会学』第四章)、傍系血族を多く含み、傍系が正規の結婚をしない大家族形態は、庄川上流の山間部一帯にあっても、白川村中切・山家両部落を除いては発達を遂げていない。しかもそれも明治末期より大正にかけては次第に変質し、昭和に入るとともに急速にかつての形態を失っている。
-------

スタンフォード大学名誉教授・Harumi Befu〔別府春海〕氏の華麗な経歴から見て、同氏に「中切」についての独自研究があるとも思えず、おそらく日本の研究者の基礎研究に依拠した何らかの分析なのでしょうね。

>筆綾丸さん
>上巻の表紙に、久隅守景の「納涼図屏風」

原著ではゴーギャン風というかマチス風というか、なかなか個性的な絵になっていますね。
日本版は翻訳者か藤原書店関係者の趣味かもしれないですね。

L'origine des systèmes familiaux T1

少し検索してみたところ、Aude Lancelin というジャーナリストの記事には「Nostradamus Todd」などという表現があり、ちょっと面白いですね。

L'incroyable M. Todd

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

数学者と詩人の会話 2016/11/22(火) 16:26:53
小太郎さん
レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』における群論的な個所は、20世紀を代表する大数学者アンドレ・ヴェイユが協力したと言われていますが、トッドの「15の家族型」に数学者の協力はあったのかどうか。「15の家族型」を眺めながら、私にはとても理解できそうにないな、と感じました。

http://kanshokyoiku.jp/keymap/tnm06.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%A1%94_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
上巻の表紙に、久隅守景の「納涼図屏風」を用いたのは、トッドの茶目っ気なんでしょうね。
この絵の夕顔は、私には源氏物語「夕顔巻」を踏まえているような気がしてなりません。王朝の恋物語を江戸期の市井に移植したもので、男は光源氏の、女は夕顔の君の、子供は玉鬘の、それぞれの生まれ変わり、というわけです。もちろん、何の根拠もない解釈ですが、トッドにはわかるめえ、という自信があります(笑)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
物理の世界では、現在、素粒子は17個とされていて、ビッグバン以前の未分化な状態が、なぜ、17個の素粒子に分岐するのか、不可解な話です。
石崎氏の解説によれば、トッドの云う家族システムの時系列的順序は、未分化・双方性→父系制→母系制、ということになるそうですが(下巻834頁)、未分化なものが、なぜ、15の家族型に分岐するのか、素粒子同様、わからない話ではあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A6
アンドレ・ヴェイユの妹は思想家シモーニュ・ヴェイユですが、兄の頭が良すぎたため、妹は破滅的な人生を送らざるを得なかったのだろう、と言えば、シモーニュ・ファンに叱られるのだろうな。
ヴェイユが31歳の若さでコレージュ・ド・フランスに迎えられたとき、ポール・ヴァリーと交わしたとされる会話がありますが、こんな会話が似合いそうな数学者と詩人は日本には生まれそうにないですね。

「君はいくつになったのかね」
「31です」
「素数だな。大事にしないといけない」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十五銃士」になったトッドの家族類型論

2016-11-22 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月22日(火)12時40分57秒

今朝は午前5時59分の地震で目が覚めて、その後、ニュースをこまめに見ていましたが、それほどの被害がなかったようで良かったですね。

>筆綾丸さん
ウィキペディアを見ると麗澤大学教授・黒須里美氏は1962年生まれ、京都大学教授・落合恵美子氏は1958年生まれで、黒須氏は速水融氏の直弟子、落合氏は国際日本文化研究センターで速水氏と接し、「ユーラシア人口・家族史プロジェクト」などで共同研究をされているようですね。
「黒須里美と落合恵美子による一八七〇年の研究」の謎はまだ解けませんが、あるいは1870年の何らかの史料を利用した研究かな、などと妄想しています。

落合「ユーラシアプロジェクトの達成─歴史人口学と家族史」(PDF)

>ご引用の文にある「ル・プレイ的なもの」とは、おそらくこの人のことで、
>Play=Plaiだから、ウィキにある通り、「プレイ」ではなく「プレ」と発音しますね。

まさにその人ですね。
この掲示板でも以前に話題となりました。

「三銃士であったル=プレの家族類型はいまや四銃士になった」
「souche という言葉」(筆綾丸さん)

筆綾丸さんのご指摘を受けて、『世界の多様性』所収の『第三惑星─家族構造とイデオロギーシステム』では「プレ」だったのに『家族システムの起源』では何故「プレイ」なのかな、と思いましたが、前者の訳者は石崎晴己氏ではなく荻野文隆氏でしたね。
なお、下巻の「訳者解説」には、

------
 翻訳には、年来の私の協力者、東松秀雄氏を始め、北垣潔、中野茂、片桐友紀子氏の諸氏にご協力を仰いだ。初稿の分担としては、序説、1、2章は石崎、3、4章は片桐、5、6章は中野、7、8、9、10章は東松、11、12章は北垣となるが、文責は、統轄・推敲に当たった石崎にある。また、訳語などについて、慶應義塾大学名誉教授、速水融氏、筑波大学教授、木下太志氏、青山学院大学教授、鳥居正文氏に、貴重なご教示を戴いた。厚く御礼申し上げる次第である。
------

とあります。(p838)
ま、名前は細かな話ですが、重要なのは家族類型の数が増えて非常に精妙になった点です。
私の3月19日の投稿「三銃士であったル=プレの家族類型はいまや四銃士になった」も、トッドの類型論に関しては中途半端な整理だったのですが、石崎氏の「訳者解説」によれば、

------
 本書においてトッドは、従来の類型体系(『第三惑星』では、類型の名に値しない「アフリカ・システム」を除いて七つの類型)を一変し、一五類型からなる新たな類型体系を提唱している。『第三惑星』の七類型のうち、アノミー的家族と非対称型共同体家族は、完全に却下され、また共同体家族の外婚制と内婚制の区分は、家族類型としては取り下げられた。ただし、内婚制を含む婚姻システムは、本書の主要な検討課題をなしている。一方、絶対核家族と平等主義核家族の区別は、遺産相続規則の違いから生じるが、この区別は「有益」であるとして保持された(明示的な説明はなされていないが、忖度することはできる)。
 この新たな類型体系は、夫婦という最小単位がどの方向に所属するか(方向性)を示す「父方居住」、「母方居住」、「双処居住」の三つの概念の他、「統合核家族」「一時的同居(もしくは近接居住)を伴う核家族」という新たな概念も組み込んでいる。これは、家族システムの定義におけるトッドの新発見とも言うべき新たな視点ないし分析方法によって掘り起こされた概念である。すなわち、世帯そのものを見ると核家族であるが、親族の複数の核家族と近接して居住していたり、集住していたりするケースがしばしば見受けられる。この場合、世帯そのものだけでなく、それらの世帯の集まりという一段上のレベルにも目を向けないと、重大な見落としをする危険がある。【後略】
-----

ということで(p833)、<いまや十五銃士になった>訳ですね。

>「父系性と母系制のまことに独特な組み合わせ」
すみませぬ。
これは私の打ち間違いで、原文では「父系制」となっています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

天命というなら、天を変えてしまえー中国共産党 2016/11/21(月) 17:06:32
小太郎さん
落合恵美子氏は上品そうなおばさまですが、共著の題名にある「The Stem Family」がトッドの「la famille souche」にあたる訳ですね。iPS細胞のsと同じですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Guillaume_Fr%C3%A9d%C3%A9ric_le_Play
ご引用の文にある「ル・プレイ的なもの」とは、おそらくこの人のことで、Play=Plaiだから、ウィキにある通り、「プレイ」ではなく「プレ」と発音しますね。
「日本の家族構造の知覚」の「知覚」の原語を確認しなければなりませんが、日本語としては「日本の家族構造の認識」でしょうね。「近代化促進者」は「近代化推進者」、「男性長子相続」は「男系長子相続」、「遺産相続規則」は「遺産相続制」でしょうか。「遺産相続規則」というと、何か具体的な規定があるかのような印象を与えてしまいますが、ここは、共同の観念として制度的なものになっている、ということでしょうから。また、「父系性と母系制のまことに独特な組み合わせ」の「父系性」は「父系制」ですね。
多くの研究者が寄ってたかって念入りに翻訳したはずですが、変なところは残るものですね。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%AB%E4%B8%80%E5%8F%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%A1%E4%BD%93%E5%AD%97
昨日、テレビではじめて知って驚いたのですが、「天」の簡体字は下の横棒の方が長いのだそうで、中文の天宮を見ると、確かにそうなっています。
歴代皇帝の正統性を保証する概念である天命の「天」の字を改変することは、中国共産党にとっては重大なイデオロギー闘争だったのだろうな、と思いました。簡体字の「天」を使って「天皇」と記すと、なんというか、やや不謹慎な感じがしないでもありません。ただのエクリチュールにすぎないのですが。

http://www.rfi.fr/france/20161121-primaire-droite-fillon-juppe-sarkozy-hollande
私は右の人(ジュペ)が中道・右派の代表になると思っていましたが、どうも左の人(フィヨン)のようですね。下品なサルコジが落ちて、エマニュエル・トッドともども、ひとまず、めでたしめでたし、ですが。俊英マクロン(左派)とフィヨンとルペンおばさん(極右)の三人の戦いになるのだろうな。

付記
昨日の日経読書欄(21面)のベストセラー(新書)で、呉座氏の「応仁の乱」が1位になっていて、すこし驚きました。ちなみに、トッドの「問題は英国ではない、EUなのだ」は3位でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア』

2016-11-19 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月19日(土)22時01分29秒

>筆綾丸さん
今日は地元の地方史家の講演を聞いてから自宅で関連の調べものをしていたのですが、気晴らしにちょっと『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア』(上)を手にとったら止まらなくなってしまいました。
やはりトッドは読ませますね。
ただ、小さなミスが気になるところもあります。
「序説 人類の分裂から統一へ、もしくは核家族の謎」「第1章 類型体系を求めて」を読んだ後、少し飛ばして「第4章 日本」を眺めると、

------
日本の直系家族についての近年の論争

 今から三〇年前には、日本の家族構造の知覚は単純で統一的だった。十九世紀末の日本の近代化促進者によって公布された民法典は、男性長子相続と直系家族を制度化していた。それに続いて、人類学者が行なったフィールド研究は、それなりにきわめてル・プレイ的なものとなった、明治時代の支配的なイデオロギーの有効性を確証したのである。一九三九年に発表された、須恵村〔九州〕についてのジョン・エンブリーの研究は、その嚆矢であった。日本の「イエ」すなわち家屋=家族に関する中根千枝と福武直による記述は、どちらも一九六七年のものだが、それ以前の研究をみごとに要約している。喚起された唯一の地域的多様性は、いずれも直系家族であるが、遺産相続規則の変異によってその態様が異なるというものにすぎなかった。遺産相続規則は、古典的には三分の四のケースで男性長子相続だった。ヨーロッパのように、男性長子相続は、息子がいない場合の娘による相続を妨げなかった。それは、前工業時代の人口条件の中で二〇%の家族に見られた状況である。性別による相続の分析は、日本では養子を相続人とすることが頻繁に行われたことによって、込み入ったものとなっている。相続人を養子に取るという手法は、ヨーロッパでは排除されている。東京西部に位置する地域についての、黒須里美と落合恵美子による一八七〇年の研究は、養子の半数以上が、現実には世帯主の娘の夫であることを明らかにしている。養子縁組は、実際には母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。【後略】
------

とあるのですが、「遺産相続規則は、古典的には三分の四のケースで男性長子相続だった」は「四分の三」の間違いなんでしょうね。
よく分からないのが「黒須里美と落合恵美子による一八七〇年の研究」で、麗澤大学教授・黒須里美氏と京都大学教授・落合恵美子氏は1870年にはまだ生まれていないようです。

麗澤大学大学院・言語教育研究科
京都大学大学院文学研究科・社会学研究室

「原註」403pから辿って『Ⅰ ユーラシア』(下)の「参考文献」896pを見ると Journal of Family History という雑誌に二人の共著論文が出ているそうですが、これは1995年ですね。
何がどうなっているのか分かりません。
また、230pには「中根は、十二世紀の長野県において、一時的ではあるが、ひじょうに巨大な世帯が存在したことを喚起していた。(13)」とあり、「原註」(13)を見ると「……中根は、この点については、1947年のフルシマの研究に依拠している」とあるので(p402)、これはおそらく古島敏雄でしょうから、古島の研究対象から考えて「十二世紀の長野県」ではないはずです。

古島敏雄(1912-95)

更にp245には、

------
 直系家族の観念の伝播は、日本において他にも独自の適応を生み出した。日本の中央部(岐阜地方)の内陸山岳地帯の孤立した地域では、独特の家族形態が特定されている。それは、外から到来した支配的規範への適応の結果である。中切の共同体は、高い山に囲まれた谷底の川沿いに並んだ複数の小集落からなっていた。そこでは、一八五〇年から一八七五年頃にはまだ、父系性と母系制のまことに独特な組み合わせによって形成され再生産された巨大な(一八五三年には世帯ごとに一六・六人)家庭集団が見られた。(45)
------

とあり、「原註」(45)を見ると「Befu H.〔別府春海〕<Origin of large households and duolocal residence in central Japan>を参照のこと」となっていて、「十九世紀の岐阜県」ではありますが、これと230pの「十二世紀の長野県」は同じ対象を扱っているような感じもします。
ま、色々と謎ですが、後で出典を個別に確認するしかなさそうですね。

Harumi Befu(スタンフォード大学名誉教授)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

京都のことなど 2016/11/18(金) 19:24:22
小太郎さん
京都の観光客に占める外国人の割合が年々高くなり、寺院の拝金主義を恥ずかしく感ずるようになりました。寺院と神社の相違は何かと外国人に尋ねれば、ただたんに拝観料の有無ということになるのでしょうね。一週間以上も滞在して、この程度の感想しかないというのは、我ながら浅ましいかぎりです。

白人の45歳から54歳の層の死亡率の上昇というトッドの指摘は、自殺者の増加だけでは死亡率を押し上げることはできないはずで、なんとも不気味ですね。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92779/2779237/
選挙前にNHKの番組を見て、トッドは左側がやや斜視気味なんだな、と思いました。サルトルほど極端ではありませんが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『シャルリとは誰か?』再読

2016-11-18 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月18日(金)11時51分52秒

16日から再開すると言いながらまたまた遅れてしまいましたが、この二日間、エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』(文春新書、2016年1月、原著は2015年5月)を読み直していました。
トランプ当選について、トッドは昨日付の朝日新聞記事で、

-------
「トランプ氏は真実を語った」 エマニュエル・トッド氏

 今年夏、米国に滞在しました。そして10月初め、日本での講演で「トランプ氏とクリントン氏の勝率は半々だ」と言いました。彼の当選を予言したというより、可能性を指摘したわけです。
 歴史家として見るなら、起きたのは当然のことです。ここ15年間、米国人の生活水準が下がり、白人の45歳から54歳の層の死亡率が上がりました。で、白人は有権者の4分の3です。
 自由貿易と移民が、世界中の働き手を競争に放り込み、不平等と停滞をもたらした、と人々は理解し、その二つを問題にする候補を選んだ。有権者は理にかなったふるまいをしたのです。
【中略】
 クリントン氏は、仏週刊紙シャルリー・エブドでのテロ後に「私はシャルリー」と言っていた人たちを思い出させます。自分の社会はすばらしくて、並外れた価値観を持っていると言っていた人たちです。それは現実から完全に遊離した信仰告白にすぎないのです。
 トランプ氏選出で米国と世界は現実に立ち戻ったのです。幻想に浸っているより、現実に戻った方が諸問題の対処は容易です。


と言っていますが、これは後出しジャンケンではなくて、『問題は英国ではない、EUなのだ』(文春新書、2016年9月)でも同じようなことを書いていますね。
私は今年2月に『シャルリとは誰か?』を読んでけっこう難解だなと感じ、至るところに「?」マークをつけていたのですが、トッドに非常に魅力を感じたので、その後、邦訳されているトッドの著作をかなり読み、またライシテを中心にフランス近現代史についても俄か勉強を重ねたところ、『シャルリとは誰か?』の二度目では全ての「?」が解消できました。
もちろんトッドがフランス人読者と共有しているフランスの現代社会・政治の動向そのものに私は疎いため、それらについてのトッドの認識が全て正しいと思ったのではなく、トッドの論理が理解できた、という意味です。
私はトッドほど明晰な頭脳は持っていませんが、信仰心が特にないにも拘らず宗教にやたら関心を抱き、また、共産主義に特に共感しないにも拘らず共産党の歴史、共産主義者の個人史についてやたら熱心に調べていたりしていて、思考の傾向はもともとトッドに近いものがあり、トッドの歴史人口学・家族社会学、特に「人類学的基底」の議論を受け入れる素地はありましたね。
一時的に少しトッドに熱く入れ込みすぎたような感じもあって暫く離れていたのですが、ほどよく頭が冷えてきたので、そろそろ『家族システムの起源』も読もうかなと思っています。

『不均衡という病』
松川浦のエマニュエル・トッド
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぎっくり腰のことなど。

2016-11-15 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月15日(火)09時36分28秒

冬を迎える前の時期、ぎっくり腰になるのが年中行事みたいになってしまって、今年も先週金曜の夜に、あちゃー、という状態になり、土日はひたすら寝て、昨日もロボットみたいな動きで必要最小限の移動をしつつ、なるべく刺激の少ない生活を心がけていました。
今日は雑用をこなして、掲示板は明日から再開します。
大川小学校のことは「裁判所」サイトの「最近の裁判例」で判決全文が出れば少し詳しくやるつもりですが、そうでなければ「仮想最低企業と七十七銀行の比較」・「常磐坂元自動車学校との比較(その2)」他数回で一休みします。
一審は原告勝訴でしたが、同じ裁判長裁判官が担当した常磐坂元自動車学校判決の論理には問題点が多く、この論理を承継した大川小学校判決も盤石どころか、二審でひっくり返る可能性もありそう、というのが現時点での私の一応の結論です。
大川小学校問題の後、すっかり気の抜けたビール状態になってしまった岸信介の「黙れ、兵隊!」を簡単に纏めてから、これも長く休んでいた「グローバル神道の夢物語」を再開する予定です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大川小裁判、遺族側の控訴について

2016-11-10 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月10日(木)11時59分22秒

石巻市・宮城県側だけでなく、遺族側も仙台高裁に控訴するとの報道がなされましたが、「懲罰的損害賠償」など認められるはずもなく、遺族側弁護士はちょっとおかしいですね。

-------
大川小訴訟
遺族側も仙台高裁に控訴 事後対応など主張へ
毎日新聞2016年11月9日

 東日本大震災の津波で児童・教職員84人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校を巡る訴訟で、市と県に14億円余りの賠償を命じた1審・仙台地裁判決について、児童23人の遺族は9日、仙台高裁に控訴した。1審で認められなかった学校の防災体制の不備や事後対応の問題を改めて主張する。市と県は7日に控訴している。
 遺族側は、被災後の保護者説明会で亀山紘市長が「自然災害における宿命」と発言したことなども踏まえ、繰り返し精神的苦痛を受けたとして「懲罰的慰謝料」を含む児童1人につき約1億円の総額約23億円の損害賠償を請求。だが1審判決は事後対応の違法性を認めず、「損害賠償制度は加害者に対する制裁目的ではない」として子どもを失ったことに伴う慰謝料や逸失利益、葬儀費用など児童1人当たり約5300万~6000万円とした。
 控訴後、仙台市内で記者会見した原告団長の今野浩行さん(54)は「我々は亡くなった教員を責めていない。行政のトップと教育委員会、当時の校長の責任を高裁で追及したい」と話した。
【百武信幸】

石巻市側の事後対応が遺族から見て不満だったとしても、そんなことは何故被害が生じたかの原因究明には何の関係もありません。
あれだけの大震災の後ですから、石巻市教育委員会が大川小対応だけに人員を集中できなかったのは当たり前で、「保護者説明会」がある種の糾弾会に変質してしまったことも石巻市側だけが悪い訳ではないですね。
そもそも本当に原因の解明をしたいのだったら、何よりも優先すべきなのは生存した唯一の教員からきちんと証言を得ることでした。
教育委員会との間で会合を何度重ねたところで、教育委員会側だって当該教員に強制的に証言させる手段は持たないのですから、不毛なやりとりが続くだけです。
後に政治家が介入して設けられた第三者委員会(「 大川小学校事故検証委員会」)でも、委員や調査委員に学識経験者や弁護士がいたとはいえ、所詮、特別な調査権限を持っている訳ではありませんから、最終報告書もずいぶん中途半端なもので、特に問題の教員の聞き取り調査は病気を理由に拒否され、何の資料も得られませんでした。
事故検証委員会の最終報告書が出たのは2014年2月で、大震災から三年経過しており、その後、国家賠償法の時効三年(国賠4条、民法724条)の直前に訴訟が提起され、これでやっと刑罰の威嚇を以て証言を強制することが可能となった訳ですが、結局、一審では病気を理由に証言が得られなかったようですね。
本当に重い病気なら仕方ありませんが、七十七銀行女川支店のケースで唯ひとり生存した「L行員」の証言があったために震災後の支店の状況が詳細に再現できたことと比べると、当該教員が協力的だった時期に専門家による証人尋問が行なわれなかったことが残念です。
石巻市教育委員会側の人だって家族や友人・知人に津波の犠牲者が全く存在しないような人はいないのですから、一部遺族の行動が被災の原因究明を超えて「巨大な社会悪の糾弾」みたいな変な方向に進んでしまったのも残念ですね。
私がもしも遺族だったら「保護者説明会」を数回重ねた段階で原因究明には訴訟しかないなと見極めて、後は淡々と証拠集めの努力をするだけだったと思いますが、そういう方向に助言する弁護士はいなかったんですかね。

石巻市公式サイト内
「大川小学校事故検証委員会について」

大川小学校の問題〔2012.7.11〕
大川小学校の事故検証委員会〔2013.12.23〕
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人的なご連絡

2016-11-09 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 9日(水)21時48分6秒

>〇〇学受講のSさん
今日、終了後にご挨拶しようと思っていたのですが、機会を失してしまいました。
差支えがなければ私のツイッターアカウントをフォローしていただくか、掲示板の一番下、「管理者へメール」にてご連絡いただけないでしょうか。
宜しくお願いします。

https://twitter.com/IichiroJingu
http://6925.teacup.com/kabura/bbs
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南三陸町・戸倉小学校と「七十七銀行女川支店」の比較

2016-11-09 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 9日(水)13時18分30秒

ここでちょっと視点を変えて、南三陸町・戸倉小学校のケースと七十七銀行女川支店のケースを比較してみたいと思います。
戸倉小学校は海のすぐ近くに位置し、校舎は鉄筋コンクリート三階建の頑丈な建物でしたが、約20mの津波に襲われて屋上の給水塔まで水没し、仮に地震発生当時校舎内にいた児童91人が屋上に避難していたら全員が死亡したはずでした。
隣接する戸倉保育所にも21人の園児がいたのですが、こちらも津波の場合、戸倉小学校屋上への避難をマニュアル化していて、仮に園児も含めて屋上へ避難していたら合計112人の園児・児童が死亡する事態となったはずです。
しかし、実際には校長・保育所長の判断で海と反対側の「宇津野高台」に避難し、全員が無事でした。
戸倉小学校の校舎は既に解体されて更地になっていますが、私は2012年3月に訪問し、屋上にも上ってみました。
また、翌4月に「宇津野高台」も訪問して、戸倉小学校と「宇津野高台」の位置関係を確認してみたのですが、これは七十七銀行女川支店と「堀切山」の位置関係に非常に似ていますね。
近い過去に津波の記憶のある土地に所在し、建物屋上と高台の二つの避難先があり、高台への距離と移動時間はほぼ同じ、襲来した津波の高さもほぼ同じです。
そして、戸倉小学校・戸倉保育所のケースでは管理者が直ちに高台へ避難することを選択して全員が生存、七十七銀行女川支店の場合は1人を除き死亡という対照的な結果となったのですが、この差異をもたらしたものは一体なんだったのか。
法的に「過失」と言えるかどうかは別として、結果的に銀行支店長の判断には何らかのミスがあった訳で、それはいったい何故生じたのか。
これを少し考えてみたいと思います。

戸倉小学校については『河北新報』2011年05月11日付の「とっさの判断高台へ 在校児童ら犠牲逃れる 南三陸」という記事が詳しく、リンク先ページに保存しておきました。
http://chingokokka.sblo.jp/article/54486582.html

2012年3月16日時点での戸倉小学校屋上の様子はこちらです。
http://chingokokka.sblo.jp/article/54486972.html

同日、屋上から「宇津野高台」を撮影したのが次の写真で、小さく見える鳥居あたりから下の杉林は伐採されていますが、これは津波をかぶって枯れてしまったからで、鳥居の上、五十鈴神社が鎮座するごく僅かな範囲だけが津波被害を免れました。
http://chingokokka.sakura.ne.jp/sblo_files/chingokokka/image/2012_0316_144345-IMG_9687.JPG

そして、2012年4月15日、「宇津野高台」から海側を見た様子がこちらです。
http://chingokokka.sblo.jp/article/56900217.html

戸倉小学校の屋上にあった給水塔は相当高いものですが、この全てが水没したそうですね。
http://chingokokka.sakura.ne.jp/sblo_files/chingokokka/image/2012_0415_144842-IMG_5629.JPG
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「七十七銀行女川支店」との比較(その4)

2016-11-09 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 9日(水)10時52分2秒

「日和幼稚園」事件の場合、園長はテレビ・ラジオによる情報収集をせず、サイレンを伴う大音量の防災行政無線にも注意を払わず、わざわざ高台の幼稚園から沿岸部に送迎バスを行かせた訳ですが、七十七銀行女川支店の場合、支店長は自ら、また部下に指示をして情報収集を継続していますね。
そして、その収集した情報に基づき、「堀切山」に向かうと避難途中で被災する恐れがあるから支店屋上の方が良いと判断した訳です。
判決では時系列に沿って気象庁その他の公的機関から提供された情報と、当該情報のマスコミによる伝達の経緯を詳細に辿り、後から判明した正確な情報ではなく、G支店長が当時、具体的に入手した情報に基づいてG支店長の判断の適否を問い、結論としてその判断は「合理的」であって過失はない、としました。
後から振り返れば、最重要情報である気象庁の地震規模判定と津波予測はいずれも相当に過小なものでした。
地震規模については、気象庁は地震発生直後の午後2時49分にマグニチュード7.9と発表し、午後4時にM8.4へ、午後5時30分にM8.8へと修正、更に3月13日午後0時55分になってM9.0と都合三回も修正を繰り返しています。
G支店長が入手した情報は一番最初のM7.9だけで、事前に想定されていた宮城県沖地震(連動型)のM8.0より小さい値です。
また、津波予測については、正確を期すために「二 本件において裁判所が認定した事実経過」の「(5)気象庁の大津波警報等の発表状況」から引用すると、

-----
(5) 気象庁の大津波警報等の発表状況
 気象庁は,次のとおり,大津波警報等を発表した。
ア 午後2時49分,「岩手県,宮城県,福島県」に大津波警報を発令し,「これらの沿岸では,直ちに安全な場所へ避難してください。岩手県,宮城県,福島県では直ちに津波が来襲すると予想されます。高いところで3m程度以上の津波が予想されますので,厳重に警戒してください。」,「きょう11日14時46分頃地震がありました。震源地は,三陸沖(北緯38.0度,東経142.9度,牡鹿半島の東南東130㎞付近)で,震源の深さは約10㎞,地震の規模(マグニチュード)は7.9と推定されます。」などと発表した(乙6の1)。
イ 午後2時50分,宮城県への津波到達予想時刻が午後3時であって,「予想される津波の高さ6m」(なお,場所によっては津波の高さが「予想される津波の高さ」より高くなる可能性があります。)などと発表した(乙6の2)。また,石巻市鮎川への津波到達予想時刻は午後3時10分であると発表した(乙6の3)。
ウ 午後3時01分,石巻市鮎川において午後2時52分(判決注 上記の津波到達予想時刻より8分早い時間)に高さ0.5mの津波を観測したとの津波情報を発表した(乙6の4)。
エ 午後3時14分,宮城県に津波到達が確認され,予想される津波の高さを10m以上とする大津波情報を発表した(乙6の5)。
---------

となっています。
(「裁判所」サイトのPDFではp28以下)
さて、裁判所は、最初から「堀切山」を目指すべきだったとの原告側主張に対して、次のように判断します。
ここも長いですが、正確を期すためにそのまま引用します。
(「裁判所」サイトのPDFではp44以下)

-------
(ア) 本件屋上は「津波避難ビル」としての適格性を有しており,高台まで避難する時間的余裕がない場合等には,本件屋上に緊急避難することについて合理性があったものといえる(前記(2)エ参照)。
(イ) そうであるところ,本件地震直後においては,前記2(5)認定のとおり,気象庁が午後2時50分,宮城県沿岸部への津波到達予想時刻は午後3時,予想される津波の高さは6mと発表していたから,午後2時55分頃に被告女川支店に戻ったG支店長としては,津波到達予想時刻である午後3時までの間に6m以上の高さのある場所に緊急に避難する必要があったといえる。特に,前記2(7)認定のとおり,G支店長は,外出先から被告女川支店への帰路において,大津波警報が発令されたことを認識していた上,海岸近くにおいて実際に潮が引いていることを現認し,自宅に帰るK(派遣スタッフ)にもその旨伝えていたから,迅速に高い避難場所に移動する必要性を自覚していたものと推認される。
 そして,前記1(2)認定のとおり,津波は陸上においてもオリンピックの短距離選手並みの速さで迫ってくるから,津波を見てから走って避難しても逃げ切れるものではなく,かつ,50㎝程度の高さの津波であっても人は流されてしまい,一旦流されると建物や漂流物に衝突して脳挫傷や外傷性ショックにより死亡する危険性が高いとされているから,津波が押し寄せてくると予想された午後3時までの間に高い場所に避難を完了させておくことが必要であり,余震が頻発する状況において,時間的にも緊迫した状態にあったものといえる。
(ウ) 他方,前記2(5)認定のとおり,気象庁が予想される津波の高さを6mから10m以上へと変更したのは午後3時14分のことであったから,避難を完了すべき午後3時までの時点においては,たとえリアス式海岸の湾奥部という特殊な立地に位置した海岸近くの場所において最大震度6弱の揺れを実際に体感していたとしても,本件屋上を超えるような約20m近くの巨大津波が押し寄せてくることまでをもG支店長において予見することは客観的にも困難であったといえる。
(エ) そうすると,当時の時間的にも緊迫した状況の下で,2階屋上まで約10mの高さを有し,3階も含めると約13.35mの高さを有する本件屋上へ避難するとのG支店長の判断が不適切であったとはいえず,G支店長において最初から堀切山へ避難するよう指示をすべき義務があったとはいえない。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/990/083990_hanrei.pdf

非常に論理的であって、多くの人はこの裁判所の判断に納得すると思います。
ただ、私はそうでもありません。
その理由は後の投稿で書きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする