学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

森見作品に触発された綾小路きみまろ的感慨

2018-09-29 | 映画・演劇・美術・音楽

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月29日(土)12時31分20秒

>筆綾丸さん
>『夜は短し 歩けよ乙女』
私は映画『ペンギン・ハイウェイ』の原作から始めて、短期間にほぼ全ての森見作品を読み尽くしてしまったのですが、どの作品も面白いですね。
変てこな内容であっても文章に清潔感があって、読んでいて気持ちが良いです。
ただ、デビュー作の『太陽の塔』(新潮社、2003)だけは少し異質で、生々しい失恋の記憶を反芻する一種のストーカー小説ですから、そこまで書かなくとも、と少し戸惑う部分もありますね。
森見登美彦は寮生活の経験はないそうですが、『太陽の塔』などの四畳半シリーズを読んでいると、自分が寮生活をしていた頃の出来事が思い出されてきます。

「モスクワ横丁」こと駒場寮中寮二階
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7864f25db25bc54b188200c10925ac6f

私と同室で一年上だった人に開成高出身の哲学青年がいて、群馬の田舎でのんびり育った私は、難解な書物で溢れていたその人の書棚を見て、都会の秀才は違うな、とびっくりしたのですが、その人を時々訪問してきた仲間の中に、その人を更に上回る博識の人物がいて、難解な哲学・思想用語が飛び交う会話にはとてもついていけませんでした。
後にその人物が研究者として大学に残ったことを知り、やはり学者になるような連中は違うな、とずっと思っていたのですが、最近になってその人物が書いた『迷走する民主主義』(ちくま新書、2016)という本を読んだら、意外なことにそれほど感心するような内容でもありませんでした。
不遜な言い方ですが、あれだけ才能に満ち溢れていたように見えた人でも、結局はこの程度なのか、みたいな感じですね。

森政稔『迷走する民主主義』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068811/
松岡正剛の千夜千冊、森政稔『変貌する民主主義』
https://1000ya.isis.ne.jp/1277.html

石川健治教授なども昔は周囲から羨望の目で見られるような秀才だったのでしょうが、四十代で清宮四郎のストーカーを始めて以降、すっかり隘路に入り込んでしまっている感じがしますね。

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf4f5a44c409b736631232d49b35e0f1
石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bf547fcd41f62a1df77cc76e0277f3b

苅部直教授も昔は大変な秀才と目されていたのでしょうが、少なくとも『「維新革命」への道』と『歴史という皮膚』はあまり感心しませんでした。

山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81a04f41be09e3c6518fc6d6fd26b766
真夏のスランプ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8cbc35f8111d92298f989fe9adbf48bf


私など、自分が研究者になって大学に残ろうなどと一かけらも思ったことはなく、その能力もなかったのですが、それでも地味にコツコツと色んな本を読んでいるうちに、それなりに知識も増えて学問が楽しく思えるようになりました。
逆に若い頃、まかりまちがって研究者の世界に入り込んでいたら、今ごろはすっかり燃え尽きていたかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

言葉の発酵 2018/09/27(木) 13:29:34
小太郎さん
森見登美彦氏『夜は短し 歩けよ乙女』の第一章を読みましたが、大変な才能ですね。農学部卒とは思えぬほど語彙が豊富で、専門は(言葉の)発酵学かもしれないですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パウル・ティリヒと南原繁

2018-09-27 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月27日(木)09時13分28秒

『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)には、前回投稿で引用した部分の少し後にパウル・ティリヒが出てきますね。(p118)

-------
福田 哲学の講義はお聞きになりませんでしたか。
南原 ときどき聞きに行きました。エドワルト・マイヤー教授のソクラテス、ギリシャ哲学ですね。それにカール・ホルの神学。これらはいずれも小さな教室で地味な講義でした。
 それからパウル・ティリヒがいた。ティリヒは、私の関心─マルクスとカント─に近い宗教的な立場から社会主義を見るということをやっていた。それを私は一覧広告で知って聞きに行きました。彼は私より三つばかり年上ですね。十人か二十人くらいを相手に、全部書いてきた原稿を読むといった調子で顔もあげずに、一生懸命やっていました。今から考えると『ルーテル主義と社会主義』ではなかったかと思います。
 このティリヒさんには、数年前(一九六〇年)日本に来たときあって話をしました。そのときはハーヴァード大学のユニヴァーシティ・プロフェッサーになっていました。フランクフルトの大学にいたとき、教場に暴れこんできたナチの学生を、あの人は正義派で、処罰する方に立ったのだね。それでナチににらまれて、アメリカにわたったということです。なつかしかったですよ。
-------

深井智朗氏の『パウル・ティリヒ─「多く赦された者」の神学』(岩波書店、2016)をきっかけにパウル・ティリヒについて少し調べた後に上記部分を読み直すと、何だか妙な気分です。
パウル・ティリヒは天才的な説教師としての社会的活動の裏で、常に複数の愛人を持ち、酒乱で、高級ワインとSM趣味に湯水のように金を注ぎ込んだ人格破綻者で、一種の詐欺師のような人物であり、お人好しの南原もうまく騙されたようですね。
南原と話し合ったという来日中の期間も、パウル・ティリヒは毎日銀座で豪遊していたはずです。

マイスタージンガーの「ちゃりん」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2517a81650541c274c62bb0df2b14ca1
ラインホールド・ニーバーが浅薄?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2d99d04f2ad8bdd8ea18a528dfb31d8

『聞き書 南原繁回顧録』を初めて読んだ頃は南原繁を立派な人物だと思っていたので、同書のささいな記述にいちいち感心したりしていたのですが、改めて読み直してみると、上記以外にも、なんだかなー、と感じる部分が多いですね。
世間では無教会主義の人々を持ち上げる傾向があるので、私も何となく彼らを立派な人たちと思っていたのですが、矢内原忠雄や藤林益三などの人生を探ってみると幻滅を感ぜざるをえず、さらに内村鑑三と生育環境が近い深井英五について調べているうちに無教会主義の本家本元である内村鑑三にも多大な疑問を感じるようになってしまいました。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac000927b58e09af2b961f5d1a194bed
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1

「近代日本における宗教と民主主義」を読んでみた。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/694f6e7502e0b374f82911403026d6f6
藤林益三の弁明(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20acfbd6dc3353989316d646ce2fb6ec
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7229fb2278bfdc4a2f067053b7a69896

深井英五『回顧七十年』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605b63aac3f2e40c619f3245c4fd32f3

そうなると、坊主憎けりゃ袈裟まで、ではありませんが、かつては輝いていた『聞き書 南原繁回顧録』のいくつかのエピソードも、何だかずいぶん色褪せてしまいました。
また、ところどころに挟まれる南原の短歌の莫迦さ加減は本当に耐え難いですね。

歌人としての南原繁
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cabcef3a47943005fc6d46793f9291d

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」(by 南原繁)

2018-09-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月26日(水)10時36分27秒

成城大学名誉教授・池田浩太郎氏は2012年に87歳で亡くなられたそうですね。
池田氏の論文に、

-------
1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
-------

とあったのを見て、ドイツ留学中の南原繁が有名教授から個人授業を受けていたことを思い出し、『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)を確認してみました。
1922年5月にベルリンに行った南原は、矢内原忠雄の紹介で「カイゼル時代からの元軍人、カンターという中佐か少佐」が「戦後数年をへたころですから、恩給生活でうらぶれて暮らして」いた家に下宿したそうですが(p110)、当時の経済状況はというと、

-------
福田〔歓一〕 インフレは如何だったのですか。
南原 そう、ひどいインフレーションで私らも週に一回ずつ銀行へ行かなければならない。ビールを飲んで、そのビールビンが高く売れて儲かったという笑い話があったくらいの時代です。マルクが下落してゆくから、私ら日本人はドイツ人に気の毒なほど金をもっていた。内務省の役人なんかも多勢きておりましたが、金があるものだから贅沢をして、なかには悪い病気になるものもおったほどです。ぼくらは文部省の留学生ですけれど、それでも本が沢山買えた。乱費というほどでもないけれど、恵まれたいい時代でした。私の唯一の贅沢といえば、私に似合わないんだけれども、オペラ・ハウスに通った。いい席を買って、下宿のお嬢さんのイムハルトと一緒に馬車に乗ってゆく。雪の降る晩にね。ぼくの唯一の楽しみでした。
丸山〔眞男〕 当時の文部省留学生は、本屋にあるだけの本を買い占めたとか、いろいろ伝説がありますね。
-------

といった具合ですね。(p113)
丸山眞男の言う「伝説」の例は大内兵衛の回想に出てきますね。

「ベルリンで櫛田、リヤザノフの大格闘」(by大内兵衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a556772a8d3947693c24610f5ade90d3

南原の回顧録に戻ると、

-------
【前略】ですからベルリン大学に登録だけして、もっぱら家にいて本格的にカントの全集に取り組んだ。そのときに、名前は忘れてしまったけれども文学士を頼んで、それを相手に質問したり、ディスカッションをしたりして三批判を読みました。
 またそれに並行してルードルフ・シュタンムラー先生の所に通いました。シュタンムラー先生はベルリン大学で法理学と民法を講じていた。先生の講義は人気があって、ほとんど講堂を満員にしていました。黒板に数行書きましてね。ごく少し筆記をさせる。それから、それをとうとうと説明するというような講義の仕方だった。老境でしたけれども、渋い大きな声で、ひげを動かしながら、なかなか雄弁だった。みんな感心して聞いておったものです。名講義の一つでしょうね。私は先生に手紙を書いて訪問を許された。先生は大きなアパートに住んでいて、外国人の留学生に興味をもっていたのか、私だけでなく、日本人の留学生を何人か世話しておりました。田中耕太郎君もいったのではないですかね。
丸山 一種の家庭教師ですか。
南原 こっちから出向いて、対でやるのです。お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました。ま、それはそれとして、カントの『実践理性批判』を一年近く読むことができました。
【中略】
福田 シュタンムラーの「近世法学の系列」という論文は……。
南原 なにか使い途があったら使ってくれといって私に下さったものです。カメノコ文字とラテン文字が半々くらいずつの、上手なハンドライティングの原稿です。いまでも私の手許にあります。本当のオリジナルですね。私に読ませたいということだったのでしょう。私も礼儀として日本語に訳して出しましょうと申し上げて、まあ原稿料に当るようなものを差し上げました。
丸山 それはたいへんに貴重なものですね。また考えられないほど、親切なことですね。
-------

などと思い出話が続くのですが(p114以下)、「お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました」や「原稿料に当るようなものを差し上げました」といった部分には皮肉な響きがあり、南原の優越感が少しイヤミったらしいですね。
また、同書の冒頭は8ページ分の写真集になっていますが、その中に「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」と題する一葉があって、シュタンムラーが椅子に座って足を組み、その右横に高級なテーラーで仕立てたと思われるスーツに身を固めた南原が立って、その右手をシュタンムラーの椅子の背に置いています。
撮影場所は明らかに高級写真館であって、わざわざ老教授にそこまで行ってもらうにも、それなりの「お礼」を差し上げる必要があったかもしれません。
南原がどんな「使い途」を意図してこの写真を撮ったのかは知りませんが、いろいろと嫌味な想像をしたくなります。
「ま、それはそれとして」、シュタンムラーにしても、別に「外国人の留学生に興味をもっていた」のではなく、おそらく留学生が持っていたドルに興味があり、そのドルを自分にもたらしてくれる留学生に「考えられないほど、親切」だったのでしょうね。
さて、南原はゾンバルトにも少し言及していて、

-------
南原 シュタンムラー先生とならんで、もう一つベルリン大学で人気を集めていたのは経済学のゾンバルトです。彼は若かったけれど多くの聴講生を集めていた。当時、教授の収入は聴講生の数に応じて上下していたから、たいへんなものだったでしょう。社会政策をやっていました。内容はもう忘れてしまったが。
-------

とあります。(p117)
「彼は若かったけれど」とありますが、ゾンバルトは1863年生まれなので、南原がシュタンムラーと写真を撮った1923年には既に六十歳ですね。

ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゾンバルトが蔵書を売却した理由

2018-09-25 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月25日(火)10時02分47秒

一昨日、ツイッターで大阪市立大学にゾンバルト文庫があることに触れた複数のツイートを見かけて、少し検索してみたら、佐々木建という経済学者が『名城大学経済・経営学会会報』11号(2002年11月30日)に載せた記事として、

-------
 ヴェルナー・ゾンバルトは、19世紀末から20世紀前半を代表するドイツの経済学者であるが、彼は私の今の年齢と同じ66歳の時に、その蔵書の約3分の2を実に見事に売却したのである。
 1929年、11,574冊を大阪商科大学(現在の大阪市立大学)に売却している。その蔵書は「ゾンバルト文庫」として日本におけるドイツ社会経済思想史研究の最重要の源となっている。ご子息のニコラウス・ゾンバルトの回想によると(注1)、1928年に3万冊売却したことになっているが、この年代と冊数は明らかに間違いである。彼によると、売却後も6千冊から7千冊の蔵書が残されていたというから、ゾンバルトの個人文庫は全体でおよそ2万冊にものぼる巨大なものであった。ゾンバルトの邸宅は、二階建ての円形の書庫を中心に家族の部屋はその周辺に配置されるというものだったようだ。いかに蔵書が巨大なもので、彼と家族の生活の中心にあったかが想像される。その3分の2を、彼は現役の教授時代に売却したのである(注2)。
 ゾンバルトはなぜ現役の時に大量に蔵書を処分したのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは、増えすぎて維持できなくなったのだろう。もう一つは、想像するに、60歳代半ばにして彼は学者としての先が見えてきたのではないだろうか。彼は売却の前年に、刊行に5年を費やした大著『近代資本主義』全6冊を完成させている。彼が学者としてめざしたライフワークに一応の一区切りがついたのである。

http://www.focusglobal.org/kitanihito/think/03.html

と書いていました。
私はゾンバルトが蔵書を売却したのは経済的理由に決まっているではないか、と思っていたので、ちょっとびっくりしました。
以前、ゾンバルトのことを少し調べていた際に見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授、財政学)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」(『成城大學經濟研究』151号、2001年3月)には、蔵書を売却したときのゾンバルトの経済状態について、次のような指摘があります。(p30、注1)

-------
【前略】しかもかかる境地への到達には、第1次大戦末期から1920年代前半におよぶ(ないしは1930年代にもおよぶ)、破局的インフレーションを含むドイツの政治的・社会的・経済的大混乱や大変革の時期に際会し、老年期の人間ゾンバルトも、大いなる不安と苦しみを経験したであろうことにも、かなりの程度由来するのかも知れない。 1)
【中略】
1)この時期にこの時期に味わったゾンバルトの苦悩の大きさは、当時の日本人とかかわりをもった若干の事柄を、ゾンバルトの側に立って想像するだけでも、そのおおよその見当はつくであろう。たとえばゾンバルトには、
1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
2. ゾンバルトが現役の研究者、大学教授であるにもかかわらず、経済学および社会主義に関する彼の貴重な蔵書11,574冊を、売却するに至ったこと、そしてこの数年に亘る懸案であった、蔵書の売却先が1928年には決まり、それが日本の大学(大阪商科大学)であったこと(大阪市立附属図書館所蔵『ヴェルナー・ゾンバルト文庫目録』ゾンバルト文庫目録刊行会編、日本評論社、1967年)、などがあった。

http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/151-152/151-152-ikeda.pdf

ということで、私は妙な義憤にかられて直ちに、

-------
佐々木建氏は著名な経済学者らしいが、1920年代のドイツにおける学者の経済的状況について何も想像できないのだろうか。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1043810951043018752

というツイートをしてしまったのですが、よくよく佐々木建氏の記事を見てみると、

-------
注2 ゾンバルトの蔵書の壮大さと1929年の売却の意義については、次の書物でも取り上げられているが、その議論はニコラウス・ゾンバルトのエッセーに依拠している。
Bernhart vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Eine Einfuehrung in Leben, Werk und Wirkung, in : Bernhart vom Brocke (Hrsg.), Sombarts "Moderner Kapitalismus". Materialien zur Kritik und Rezeption, Muenchen 1987.この英訳は次に納められている。
Bernhard vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Capitlism-Socialism - His Life, Works and Influence, in : WERNER SOMBART 1863-1941 - Social Scientist, Volume 1 ( His Life and Work ), Marburg. さらに、Friedrich Lengler, WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie, Muenchen 1994, pp.184-5.
-------

とあります。
他方、池田浩太郎氏の論文には、引用済みの部分の次に、

-------
 なお、上記の二つの調査にあたっては、大阪市立大学出身の安田保氏(三菱商事)に協力いただいた。また、上記の1、2の記述とも、主としてFriedrich Lengler,1957-,WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie,München 1994, S.259-278.によった。
-------

とあるので、佐々木氏も池田氏と同じく Friedrich Lengler のゾンバルトの伝記を読んでいるのですね。
となると佐々木氏が上記のようなのんびりした、少し莫迦っぽい感想を抱いた経緯が奇妙に思われてくるのですが、引用ページが違うので、佐々木氏がきちんと読んでいないだけなのでしょうか。
それとも佐々木氏は Friedrich Lengler著を全て精読した上で、池田氏とは異なる推論過程から上記感想に至ったのでしょうか。
謎は深まります。
なお、私はウェーバーとの比較のために、一時期、ゾンバルトの本を纏めて読んでいたのですが、掲示板には全然反映することができなくて、投稿は次のひとつだけでした。

ゾンバルトの Der moderne Kapitalismus
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b72b0ab377ab2169fb952393fcb512d9

>筆綾丸さん
五百羅漢を建立した梅谿東天という禅僧は、宗永寺の住職を経て、曹洞宗の関東の寺院の中ではかなり寺格の高い雙林寺(群馬県渋川市)に移ったのだそうで、有能な人ではあったようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

一億総玉砕と生きやもめ 2018/09/24(月) 12:23:58
小太郎さん
「住職は号泣し必ず仏罰を加えると絶叫したといいます「」ですが、仏罰などという概念は高邁な仏教思想ではなく低級な世迷言で、高僧はこんな戯言は言わない気がしますね。

キラーカーンさん
http://shojiki496.blogspot.com/2013/07/blog-post_19.html
「いざ生きめやも」は完全な誤訳なんですね。堀辰雄は、なぜ、こんなバカな訳をあえてしたのか、ヴァレリーの原詩を読んでもわからない(ヴァレリーは狷介で食えないジジイではありますが)。この誤訳が太平洋戦争末期になされたのだとすれば、理由がわからないでもない。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる、ではないけれど、大倭豊秋津島の神風は死に絶えて、ほら、古今和歌集的な秋風の音が聞こえる、さあ、大和民族よ、みんな仲良く討ち死にしようね、と言いたかったのかな、と。そう解釈すれば、「いざ生きめやも」と反語に訳した理由がわかるのです。
なお、紛らわしい表現で性差別的になりますが、「生きやもめ」とは、夫の死後もしぶとく生き延びる後家さんのことですね(?)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀越二郎と七輿山古墳

2018-09-23 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月23日(日)12時48分56秒

>筆綾丸さん
お帰りなさい。

堀越二郎の生家は藤岡市の上落合という地区にあり、七輿山古墳からほんの数百メートルの距離ですね。
検索したところ、リンク先のブログに詳しい説明がありました。

ジブリ映画「風立ちぬ」 堀越二郎の郷里

春山基二氏の『三ツ木物語 小さな村の歴史と人』(私家版、平成20年)には「名刹七輿山宗永寺(上落合、白石、北原、三ツ木の菩提寺)」とあり、地図を見ると七輿山古墳はこの四地区にぐるっと囲まれていますね。
とすると、七輿山を入会地(「共有の草かり場・秣場」)とする「住職の高遠な構想を理解できない地元の農民」と宗永寺の檀家は重なり合うはずで、「元三ツ木住人茂木英次氏の報告文」を要約したという春山氏の説明にも若干の疑問が生じてきます。
もしかしたら上層農民とそれ以外の農民の間の対立なのか。
そもそも住職の行動は本当に高邁な仏教思想の現われなのか。
あるいは住職には観光名所を作って一儲けしようという下心があって、それに加担し、利益を得ようとする連中と、甘い汁を吸えない連中の対立なのか。
更には石仏の首を切るという行為の乱暴さから見て、純朴な農民ではなく博徒のような存在を仮定すべきなのか。
という具合にだんだん想像(妄想?)が広がって行きますが、二百年前の出来事なので地元の古老の言い伝えも鵜呑みにはできず、歴史学者にきちんと当時の史料に当たってもらわない限り、何とも言えないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ゼロ戦と風立ちぬ 2018/09/23(日) 01:15:16
帰国すると、日本はもう秋で、風立ちぬ、という感じですね。

http://www.ghibli.jp/kazetachinu/
『風立ちぬ』を見て、ゼロ戦の設計者堀越二郎関係の本を読み、堀越の生家は七輿山古墳の近くだということを知りましたが、以来、前方後円墳の形状はゼロ戦の主脚にちょっと似ているな、と思うようになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七輿山古墳の五百羅漢像(その2)

2018-09-19 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月19日(水)22時07分25秒

ま、かく言う私も最初に七輿山古墳の五百羅漢像を見た時には廃仏毀釈が原因なのだろうと思ったのですが、ちょっと変な感じもしたので、地元の図書館の郷土資料コーナーを眺めていたところ、『栃木・群馬のタリバン 両毛の廃仏毀釈』という本に関係する記述を見つけました。
ただ、「出流天狗山幸福寺 松原日治」という僧侶らしい著者が書かれたこの本は奥付を見ても出版年次が不明で、内容的にもびみょーなところがあるので、ちょっと引用しづらいですね。
そこで、地元の旧家の当主で、中学校の校長先生をされていたという春山基二氏(故人)が書かれた『三ツ木物語 小さな村の歴史と人』(私家版、平成20年)から少し引用してみます。(p59以下)

-------
名刹七輿山宗永寺(上落合、白石、北原、三ツ木の菩提寺)

一、宗派 曹洞宗(禅宗)
二、本山 永平寺 総持寺
三、本尊 釈迦牟尼仏
四、開山 名僧石室関簗和尚 元和元年(一六一五)
【中略】
六、中興梅谿東天大和尚
 第十六代住職となり文化五年(一八〇八)に、聖地にするため五百羅漢石像などを七輿山古墳に建立しました。
【中略】

(注)五百羅漢像の由来
 最近(平成七年)檀家の古老から古墳東側にある五百羅漢の由来を伝聞した記録が藤岡市史編さん室へ寄せられて事情が解明されました。要約すると次の通りです。
 江戸時代の文化五年(一八〇八)以前から、七輿山宗永寺の有名な住職が七輿山を仏教信仰の霊地にする大願を立て造成を企てました。巨大な古墳の後円部の頂上に趣旨を刻んだ宝篋印塔及び釈迦三尊像を安置して、囲繞する(取り囲む)ように蛇行しながら登る小道の所々に五百羅漢像を立て並べました。(この際に西側の前方部から登る参道を造り、後円部の東側も切り崩して平坦面を造成しました)
 ところが、住職の高遠な構想を理解できない地元の農民にとって、七輿山は共有する草かり場・秣〔まぐさ〕場だったため寺に占有されるのは死活問題であるとの危機感から反対運動を起こしました。ある朝早く七輿山に参集した農民が阿修羅のごとくに五百羅漢の首を悉くはねて山の下へ投げ捨てました。この大騒ぎに駆けつけた檀家の者も見ているばかりで、住職は号泣し必ず仏罰を加えると絶叫したといいます。
 たまたま数か月後に流行病(赤痢)が発生して集落から死亡者が続出し、祈祷者等から仏のたたりだと告げられました。村人は恐れおののいて寺に詫びることとなり、交渉を重ねて和解が成立、五百羅漢は首を鉛で接合して東側の平坦部へ移し安置して、一段落しました。
 以来百数十年を過ぎて、五百羅漢は頭も鉛も次々に持ち去られた無惨な姿を残しているばかりとなりました。(以上、元三ツ木住人茂木英次氏の報告文より要約)
 現在、五百羅漢は頭を欠く石像三七六体・文字塔七〇体、計四四六体が古墳の東側の平坦部に南北一一列に並んでいます。
 後円部の頂上には頭を欠いた釈迦・文殊・普賢三尊像が東面しており、西よりの所に宝篋印塔の基礎石があって文化五年(一八〇八)に建立した趣旨や住職名が刻んであります。(『藤岡市史』資料編民俗・近世参照)
-------

ということで、一部「日本昔話」風に流れた部分もありますが、文化五年の建立直後に五百羅漢像の首がはねられた事情は概ね把握できると思います。
もちろんこれは主として寺側の主張であって、農民側にはもっと別の言い分があったかもしれませんが、「元三ツ木住人茂木英次氏の報告文」自体は『藤岡市史』に出ていなくて、今のところ、これ以上の事情は分かりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七輿山古墳の五百羅漢像(その1)

2018-09-19 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月19日(水)12時44分37秒

神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する人びとが取り上げる事例をいくつか検討して、その種の悲憤慷慨の連鎖に関わる人々を醒めた目で眺めるようになった私ですが、その私から見ても少し珍しい例をひとつ紹介しておきます。

松岡正剛氏の悲憤慷慨(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a80fe944a26ac2247dabaf7b3eadd7a
松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dcfc06e6340821f7355bf5a32f3b089
神仏分離をめぐる悲憤慷慨の連鎖
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f5b478b31f88f143e12cc1ea9951e53

それは群馬県藤岡市の七輿山古墳に存在する破壊された五百羅漢像のケースです。
私が少し調べた限り、専門的な歴史研究者がこの件を廃仏毀釈の事例として検討している例はないようなのですが、ネットの世界では、これぞ廃仏毀釈の典型例、みたいな形で論じている人が多いですね。
例えば、「赤城山の熊さん」というブログでは、

-------
首無し石仏群に人間の怖さを見た(^_^;)七輿山古墳

群馬県藤岡市にある七輿山古墳は、スケールの大きな前方後円墳ですが、そこを訪ねると異様な光景が!(^_^;)
【中略】
理由は後で調べてわかりました。明治維新の際に「廃仏棄釈」という運動が各地に起こり「我が国は神の国なのだから、仏像なんか叩き壊してしまえ!」と、極端な行動に走った人々がいたのだそうです。

https://blog.goo.ne.jp/koba340419/e/2eec642e77e585fd2817756735a4302d

とあります。
また、古墳の全容が分かりやすく紹介されている「日本すきま漫遊記」の記事には、

-------
明治時代の廃仏毀釈が原因だったのかとも思うが、子供ごころにはタタリとか呪いがありそうなオカルトスポットに思えたものだ。
とにかく徹底して首が落とされているのは、いま見てもその破壊の執念に恐ろしいものを感じる。

http://www.sukima.com/33_takasaki08/45nanakosi.html

とあり、古墳好きらしい人のブログ「古墳探訪記」には、

-------
ビックリした五百羅漢ガーン ことごとく首から上がありませんショボーン この五百羅漢の現状を知らずに訪れたので、かなりの衝撃・・。廃仏毀釈の時に壊されたものでしょうか・・。墳頂にも首がない仏像がありました。

https://ameblo.jp/fookky/entry-12343914665.html

とあります。
そして一番悲憤慷慨されているのは「神使像めぐり」というブログで、

-------
群馬県藤岡市にある 七輿山古墳には、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の爪跡を生々しく伝える、首なしの釈迦三尊像と五百羅漢像があります。
【中略】
全ての石像の首が破壊され、もぎ取られています。実に恐ろしい光景です。これは、単なる悪戯(いたずら)ではありません。明治の廃仏毀釈の嵐の結果と思われるものです。
【中略】
人影の全くない、古墳丘の中腹に、首をもがれた五百羅漢の石像が目前に広がっています。廃仏毀釈のあおりで破壊された羅漢像です。原爆の図や、テロや戦争による大量虐殺の映像とも重なります。一度見たら決して忘れられない、背筋が寒くなる光景です。

http://shinshizo.com/2012/07/%E9%A6%96%E3%81%AA%E3%81%97%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%82%92%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E8%B1%A1%E3%81%A8%E7%8D%85%E5%AD%90%E3%83%BB%E3%83%BB%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88/

などと論じられています。
確かに首を切られた五百羅漢像は不気味であり、これを見て多くの人が廃仏毀釈の恐ろしさに悲憤慷慨するのももっともなのですが、この五百羅漢破壊は明治初年の神仏分離・廃仏毀釈時の混乱の中で生じたのではなく、文化五年(1808)の出来事なんですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件のまとめ(その2)

2018-09-18 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月18日(火)14時14分28秒

前投稿を(その1)にしたのは、続いて安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」を少し検討してみようかなと思ったからでした。

御岳行者皇居侵入事件(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c4fdba133d1819f8db996c4b53606c0

まあ、安丸氏が御岳行者皇居侵入事件を「強権的近代化政策の全体を"敵"として措定し、天皇制国家に真正面から挑戦した興味深い事例」などと纏めるのは、正直、ちょっと莫迦っぽい感じがしますが、私がそう感じるのは安丸氏と基本的な思想が違うからであって、安丸氏にはこう見えることを批判しても仕方のない話ですね。

ゾンビ浄土真宗とマルクス主義の「習合」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33c77b57ad5d51d0ef3bdbfbe9c1e67d
「真宗貴族」との階級闘争
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5cb6dd902d3193b7c5b9e868a853bb3e

また、宮地正人氏の解説「国家神道形成過程の問題点」(p565以下)にも多少の意見がない訳でもないのですが、また後の課題としたいと思います。
ただ一点だけ、「解題」で宮地氏が「民衆的宗教意識の点からは、陸地が汚されてしまい、船のみが神仏の下る所だといった船の位置づけの問題も看過されるべきではない」(p168)とされている点は明らかにおかしいと思います。
御嶽講の信者だって大半は陸地に生きている訳ですから、「陸地が汚されてしまい、船のみが神仏の下る所だといった船の位置づけ」は他の御嶽講関係者ですら共有できない「民衆的宗教意識」であって、これは熊沢利兵衛が久宝丸の乗組員を天皇暗殺に誘導するために適当に思いついた即興的表現じゃないですかね。
熊沢利兵衛は「神託」を疑う庄吉に執拗に暴行を加え、その様子を見せつけるなどして他の乗組員を威迫する一方で、今や神仏の降る場所は船しかないのだ、海に生きる我々こそが神仏に選ばれた特別な存在なのだと称揚し、選ばれた民としての崇高な義務を遂行するように檄を飛ばしたのだと思います。
近世の身分制社会の中では非常に低い地位に置かれていた船員たちの自己認識を、卑下から一挙にプライドに転化させるウルトラC的な話術であり、僅か十人程度とはいえ、天皇暗殺団を組織することのできた利兵衛は、この程度の表現を即座に工夫できるアジテーターとしての天性の資質を持っていたのではなかろうかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件のまとめ(その1)

2018-09-15 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月15日(土)10時24分58秒

昨日は「このあたりで一応終りにしたいと思います」などと書いてしまいましたが、『日本近代思想大系5 宗教と国家』以外の資料を特に見ていない段階でのとりあえずのまとめをしておきます。
今回の一連の投稿は、ブログ『学問空間』に頂いた、

-------
私たち、扶桑教として教派神道になる前の、富士講時代の行者や神主や坊さんや山伏たちがデモ隊を率いて廃仏毀釈反対の請願陳情に皇居にいったらライフル銃で撃たれて死んだんだよ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c4fdba133d1819f8db996c4b53606c0

というコメントがきっかけでしたが、基本的事実の点で、この方にも相当な誤解があったようですね。
まず、明治五年二月十八日に皇居に侵入したのは木曽御嶽山を信仰の中心とする御嶽講のグループであって、富士講とは全く関係ありません。
また、「デモ隊」は観衆を意識した示威行動ですが、早朝、密かに皇居侵入を試みた十人を「デモ隊」とは言い難いですね。
十人の目的は「廃仏毀釈反対の請願陳情」との点は全くの的外れではありません。
しかし、熊沢利兵衛の思想と行動に賛同するも「病弱」のために皇居侵入には加わらなかった「久宝丸船頭 角佐十郎」の供述によれば、利兵衛等の天皇への直訴の目的は、「天下神仏混淆に致し、経文・珠数を以て諸人拝礼致し候様、かつ夷人追討、神社仏閣・諸侯の領地旧に復したき旨、直に奏聞」することではあったもののの、「勅許これなき節は 玉体に迫り奉るべき心組み」です。

御岳行者皇居侵入事件(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a84432b35477261c163cd06cddcf3db

この「玉体に迫り奉るべき心組み」は何かというと、明治天皇をハグしたいという意味ではなく、殺害を狙った訳ですね。
実際の供述ではもっと露骨な表現が用いられたのでしょうが、供述を聞きとって文書にした役人が、多少は穏やかな表現に変更したのだと思われます。
イギリス駐日代理公使のF・O・アダムスが外務卿の副島種臣からこの事件の供述書を受け取ってアーネスト・サトウが翻訳し、アダムスの書簡とともに供述書の翻訳を本国外務省に送付したのは、この事件が天皇暗殺未遂事件として受け取られたことを反映していますね。
そうした不穏な目的を持った集団が突然来襲した時に皇居を警備する側がどのような対応をしたかというと、そもそもこの集団の目的が分からなかったので、どこから来たのかと質問したら、我々は高天原から来た行者で天皇に直訴したいから通せ、という回答であり、暴言を吐いたり門扉を棒で叩くなど、「廃仏毀釈反対の請願陳情」とは受け取りにくい状況が生じます。
しかし、警備側も直ちに発砲したのではなく、最初は威嚇射撃に止め、それでも刀を振り回すなどの行動をやめなかった利兵衛等を射殺し、抵抗しなかった者は捕縛した、ということで、警備側には宗教弾圧の意図など全くなく、皇居に侵入しようとする武装した不審者への相応の対応をしただけですね。

御岳行者皇居侵入事件(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f53ec287f76da45b01086f892f7793e

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』

2018-09-14 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月14日(金)11時17分7秒

御岳行者皇居侵入事件は細かく調べて行くと面白いことが色々出てきそうな予感はするのですが、後日の課題とし、このあたりで一応終りにしたいと思います。
私も山岳信仰には全然詳しくないので、熊沢利兵衛の師が「讃州坂出茶臼山」の篠田虎之助夫婦と聞き、何故に香川県に御岳信仰があるのか、と思いましたが、菅原寿清・時枝務・中山郁編『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』(岩田書院、2009)によれば、四国、特に徳島県は御岳信仰が盛んな土地柄だそうですね。

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-569-0.htm

同書の「第三章 御嶽信仰の広がり」は、

一 東海地域の講社と霊神さん
二 関東の講社と霊神さん
三 広がる御嶽信仰

と構成されていて、「三 広がる御嶽信仰」の「2 藍商人─西開行者と四国伝播」には、

-------
 御嶽信仰が四国に伝播した理由は幾つかあります。その中でも、とりわけ重要な役割をなしたのは、阿波徳島の藍商人たちでした。【中略】
 そして、御嶽信仰と四国をつなぐ際に最も重要な人物、それが阿波藍の商人であった西開行者でした。西開行者は四国の御嶽信仰の嚆矢とされ、徳島県名西郡石井町高原桑島の白川神社(御嶽太祖福寿講)には、この西開行者に関わる「白川神社御由緒並に起源」の縁起が伝えられています。それによれば、西開行者は、名西郡藍畑村高畑の藍商人で、俗名を小川増助といい、尾張、美濃、駿河、遠江を販路として藍玉を商っていました。その小川増助(西開行者)が、天保八年(一八三七)、尾張本町六丁目の玉屋町※屋小七方に滞在中、突然病に罹り重篤となり、医師や薬も効果がなく、死を待つのみの状態になってしまいました。その折に、奇しくも尾張の御嶽行者木村庄右衛門(寿覚行者)に出会い、加持祈祷を受けたところ、病気が全快したのでした。そして、全快した際に神勅を授かり、西国での御嶽講の開基と拡張を託されました。増助は、「万死に一生を得たる無限の御霊験」に感激し、それ以後身命を賭して西国における御嶽信仰の拡大に奔走したのでした。そして、天保十二年(一八四一)には、百七十余人の同行を率いて御嶽山へ登拝するまでに興隆していたと、縁起書には記されています。
-------

とあります。(p155以下)
篠田虎之助夫婦は、おそらく西開行者の直弟子か孫弟子くらいの世代なのでしょうね。
熊沢利兵衛が入信する理由もやはり病気の治癒で、これはこの時期の新興宗教発展の典型的なパターンのひとつですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件(その8)

2018-09-12 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月12日(水)10時45分53秒

五つの供述書の最後は「元韮山県下 豆州加茂郡片瀬村農 久次郎倅 山西小伝次」のものです。(p176以下)
なお、供述書という表現は私が便宜的に用いただけで、それぞれの史料は各人の名前の後に「申口」とあり、その後本文となっています。

-------
     元韮山県下
     豆州加茂郡片瀬村農
         久次郎倅
          山西小伝次
            申口

去る十八日暁、異容の出立ちにて久宝丸水夫頭利兵衛等御城門へ相迫り乱暴仕り候者へ同意候や、御吟味御座候。

この段、私儀父久次郎、元鹿児島県卒に召し抱えられ、私儀も同様召し抱えられ水夫に相成り、鹿児島表へ遣され蒸気安行丸・桜島丸等へ乗込み仰せ付けられ、その後土州帆前船にて函館表へ罷り越し、砲剣等請け帰京、御賞金等給り候後、御暇を乞ひ、瘡所等療治仕り全快仕り、追々産業相営み候へども、利を失ひ蒸気水夫稼ぎ致しおり、それより東京辺に遊び居り、八町堀山口幸七等懇意に致し、折々食客同様同家に罷りあり候。
-------

山西小伝次は父九次郎が「農」でありながら父子ともに官軍の軍船の水夫となり、小伝次は函館戦争も経験しているとのことなので、この経歴は、信仰に守られている我々には弾丸も当たらない、といった狂信者の戯言を信用しない一要因になったでしょうね。

-------
然るところ、当二月十四日、久宝丸に乗組みの水主の由にて常吉・斧吉と申す者、幸七方へ罷り越し、何か密々申し談じ候後酒宴に相成り、私も同座し酒呑み、同夜は右両人一泊、明十五日に相成り申し談義これあり候間久宝丸へ同道致すべき由申し聞け候につき、その意に従ひ兼て右両人より頼みにつき、私世話を以て買い入れ遣り候にたり船に乗り、品川沖に碇泊候久宝丸に乗組み候ところ、舟中一同に恭しく神棚を飾り置き信心致しおり候て、利兵衛・常吉・嘉七等申し聞けるには、この度神々の告げにより、御一新以来神仏領ならびに諸侯の領地等も御引揚げに相成り、かつ肉食等にて神の居所もこれなきにつき、なお船中へ天降り御託宣には、右郡県を改めて旧政の如く致したく、因て 朝廷へ直訴致し候につき同意致すべき旨、一と間に伴ひ幸七・常吉等申し聞けこれあり候へども、全く狂気にも候やと存じ、同意仕らず候へども、一同剣術稽古致し候ところへ立入り、同様稽古仕り候。
-------

山口幸七の供述書には、「兄利兵衛挨拶終りて後、船中の者ども撃剣試合、次に一同経文等を唱へ御嶽山その外諸神仏を祈念致しおり、実に発狂の形勢にこれあり候」などとありましたが、幸七自身が積極的に小伝次を説得しているようなので、「発狂の形勢」は事後的な弁解なのでしょうね。
他方、小伝次の「全く狂気にも候やと存じ」は、その時点での率直な印象だと思われます。

-------
十六日は船中滞留、十七日帰宅仕るべきと存じ候ところ、幸七申し聞けるには、同意これなく候はば同人宅にて二十五日の間は他出指留め置くべき旨申し聞けられ、同日久宝丸立ち出で候節、金三分人力車にても乗り帰るべき由にて貰ひ請け、幸七同道品川へ送られ帰り、途中宮本某に行き逢ひ、三人とも人力車にて幸七方に帰宅、右車賃は私相払ひ申し候。
-------

小伝次は「朝廷へ直訴致し候につき同意」しなかったけれども、以前から幸七に世話になっており、また人力車代として金ももらったので、多少の協力はやむをえないという心境になったようですね。

-------
同夜幸七方に泊りおり候ところ、十八日暁第二字頃幸七呼び起こし候につき承り候ところ、利兵衛外九名 皇居へ出訴、鍛冶橋より上陸候につき、幸七同道鍛冶橋へ罷り越し、右船私漕ぎ、幸七隣家堅木屋川岸へ繋ぎ置き、そのまま陸へ相揚り、同夕に至り八町堀辺り立廻りおり候ところ、御召捕りに相成り、右の段御糺問を蒙り、右乱暴の徒に同意は仕らず候へども、情実をも相心得、船中へも乗込み、かつにたり引取り方等周旋仕り候段、一言の申し上ぐべき様これなく重々恐れ入り候。
-------

皇居侵入の十人が鍛冶橋近辺に乗り捨てた船を小伝次が一人で漕いで「幸七隣家堅木屋川岸へ繋ぎ置き」とあるので、幸七の家も川岸にある訳ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件(その7)

2018-09-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月11日(火)23時15分49秒

『日本近代思想大系5 宗教と国家』の「御岳行者皇居侵入事件」に関連する五つの供述書を全部紹介するつもりはなかったのですが、細かい違いがけっこう面白いので、熊沢利兵衛の弟、「八町堀長嶌町六番地 山口幸七」の供述書も引用しておきます。

-------
去る十八日暁、旧本丸大手御門に於て久宝丸乗組水夫利兵衛はじめ十人の者凶暴相働き候事件に同意致し候段、御吟味御座候。

この段、私儀豆州加茂郡白田村農幸左衛門二男にて、当申四十七歳に御座候。私若年の頃東京へ罷り出、八町堀に住居仕り候ところ、当月十四日久宝丸乗組兄利兵衛儀、八、九年前より木曽御嶽山信仰し、行者と相唱へ、船中に於ても益々信心罷りあり、今度神勅の儀につき、同乗組常吉・斧吉と申す者使いのため差し越し、にたり船一艘買いくれ候様頼みにつき、小伝次世話にて小楠金兵衛より金二十五両にて買取り遣し申し候。その節外に金十五両・羽織一つ・鳶合羽一つ兄利兵衛より貰ひ受け候。
-------

小伝次は少し後に「兼々懇意仕り候伊豆国産山西小伝次と申す者」との説明が出てきます。
また、小伝次の供述書には「食客同様」として幸七宅にいたとあります。
小伝次のような者を養っていた幸七の商売が気になりますが、『国家と宗教』所収の史料には特に言及がありません。

-------
然るところ容易ならざる事ども神託の趣申し出し、私久宝丸まで相越し候様申し聞けこれあり、委細承知仕り候。かつ行者着用候白単衣至急入用候につき相求めたく、何方へ注文候て宜しきや相談候間、急ぎの儀に候へば、白木屋然るべしと相答へ候につき、両人同家へ相越し誂え候趣にて、夜八時頃帰宅、暫時酒食致し取臥し申し候。
-------

白木屋(しろきや)は日本橋にあった有名呉服店ですね。

-------
翌十五日右両人の者白木屋より白単衣私分ども持参仕り候につき、兼て買い求め遣し候端船〔はしふね〕にて常吉・斧吉・私外に兼々懇意仕り候伊豆国産山西小伝次と申す者船方心得おり候間召し連れ、四人にて乗り出し、三字頃品川沖碇泊致しおり候久宝丸へ乗り付け候て、兄利兵衛挨拶終りて後、船中の者ども撃剣試合、次に一同経文等を唱へ御嶽山その外諸神仏を祈念致しおり、実に発狂の形勢にこれあり候。その後酒宴席に於て神託の趣申し聞けるには、近頃外国人渡来、終に御変政かつ肉食等盛に相成り、皇国内自然相穢れ、その上諸侯知行・神仏領とも召し上げられ、実に歎くべくの至り、依りて宮城へ直訴興復の儀歎願の趣、右は元より神勅の儀故成就は勿論、来る十八日朝五字宮城へ相迫り候様、私・小伝次とも同意信心致すべき旨頻りに申し聞かせ候。
-------

ここでは「主上」でも「玉体」でも「朝廷」でもなく、「宮城」という漠然とした表現を用いていますね。
もちろん、これも幸七自身がこの表現を使ったのか、それとも供述書の作成者の判断によるのかは分かりませんが。

-------
船中水主庄吉と申す者とかく不信心と利兵衛・嘉七両人にて罵り、棒を以て打擲に及び、なお不同意に候へば切り殺すべきと申し聞け候間、その始末を見受け大いに驚き、容易ならざる儀とは相心得候へども、同意願意書取下案私仕候。然るところ、小伝次不承知の様子につき、船中別のところへ連れ出しかれこれ申し宥め候へども、何分小伝次篤〔とく〕と同意仕らず候につき、よんどころなき儀に候間、今日より二十五日の間他出差し留め申し聞かせ、
-------

先に「発狂の形勢」という表現がありましたが、庄吉への対応などを踏まえた感想なのでしょうね。
「同意願意書取下案私仕候」は意味が取りにくいのでそのままにしました。
幸七は「宮城」への直訴に同意するも、小伝次は同意せず、妥協案として二十五日までは幸七宅から外出禁止としたのでしょうね。

-------
この度の事件は全く兄利兵衛巨魁にて、嘉七・常吉その余の者ども御嶽の神を信仰の極み、神心迷乱発狂の体に相成り、容易ならざる事件企てるに及び候儀にて、その願意は前談の通り、神仏・諸侯等の知行を元に復し候等の儀、直に奏聞の心得にて、右の節通路於て阻攩候者これあり候節は、兵器を以て打ち果たし申すべく、かつ利兵衛はじめ咒文を唱へ候へば銃丸も決して当たらずと申し聞かせ候。私儀も終に惑乱同意参謀仕り候。翌十七日に至り私金一両貰い受け、小伝次ともども二字頃久宝丸より帰り候節、私金一両、小伝次三分貰い受け、水主に送られ元の端船に乗組み、品川へ上陸致し候ところ、人力車に乗り帰宅、端船は元船へ乗り戻り申し候。
-------

利兵衛らは「神心迷乱発狂」、幸七自身も「惑乱」していたという弁解ですね。

-------
然るところ翌十八日暁二字、十人の者端船にて私方へ立寄り、鍛冶橋辺より上陸、旧本丸大手御門へ相向ひ、出願の約束につき、同時私ひそかに暁五字明け六時頃小伝次へ申し付け、十名の者乗り捨て置き候端舟召し連れ候一人に乗り廻し方取り計らわせ、私儀は馬場先まで同道仕り、その後帰宅、船ならびに残し置き候衣類ども持ち帰り候につき、私預り置き申し候。同十九日十字頃兄利兵衛以下の者ども、旧本丸大手御門にて乱暴に及び候につき御討取り相成り候旨承知、恐愕仕りおり候ところ、今度御召捕り相成り、一味仕り候次第厳重御糺問蒙り、前顕容易ならざる大謀に与し候上は、如何様の厳科に処せられ候とも一言申し披くべき様御座なく重々恐れ入り奉り候。
-------

この文章では十八日当日の幸七と小伝次の行動が今一つはっきりしませんが、小伝次の供述書を読むと、幸七は十人が載った「端船」には同乗せず、「端船」が乗り捨てられた鍛冶橋近辺まで小伝次と一緒に歩いて行き、「端船」は小伝次一人が漕いで「幸七隣家堅木屋川岸」に繋留し、幸七は歩いて自宅に戻ったようですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件(その6)

2018-09-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月11日(火)10時55分20秒

供述書の三番目は不信心だとして皇居侵入の一行に参加させてもらえなかった「久宝丸水主 庄吉」のものです。(173以下)

-------
去る十八日暁、御城門に於て利兵衛以下九人の者容易ならざる所業に及び候儀につき、船中に於て御召捕相成り、右廉々御糺問に御座候。

この段、私儀紀州奥熊野甫母浦漁師にて、当申の二十九歳に御座候。去る午十一月二十三日、出稼ぎとして久宝丸水主に抱えられ乗組み相働き罷りあり候。然るに同人水主頭利兵衛儀、七、八年前より御嶽山信仰、去未十一月より行者に相成り居り候由にて、嘉七・常吉・斧吉等その外一同行者利兵衛に従ひ、私ども日々神仏を祈り罷りあり候ところ、当二月八日頃豆州網代滞船中、利兵衛に神託これある由にて、当今神国の政事宜しからざるにつき、神仏居処もこれなく、因て久宝丸へ天降りおり候につき、社寺料・諸侯知行御下げ相成り候様 朝廷に直訴致すべく、もし御門通行差し許さず候へば御城門破却致し候ても 朝廷へ相迫り、恐れ多くも容易ならざる所業に及ぶべき旨、一同申し談じおり候を承り、実に驚き入り罷りあり候。かつ先年来右利兵衛讃州坂出茶臼山に一祠を建立し守りおり候行者篠田虎之助妻みや方へ度々参り候砌、常吉・嘉七・秀吉その外の者等も撃剣試合等相学び候由にて、船中に於て毎度試合仕り候。
-------

源之助ら三人の供述書では「主上」「玉体」、船頭の佐十郎の供述書では「玉体」という表現を使っていましたが、ここでは「朝廷」と言っていますね。
ま、庄吉自身がこの表現を使ったのか、それとも供述書の作成者の判断によるのかは分かりませんが。
また、細かいことですが、「讃州坂出茶臼山に一祠を建立し守りおり候行者篠田虎之助妻みや方へ度々参り候」とあって、篠田虎之助の妻の名が「みや」であることが分かります。
この書き方だと、熊沢利兵衛は篠田虎之助ではなく妻の「みや」を師としたようにも読めますね。

-------
それより二月十三日伊豆網代表出帆、同夜浦賀御番所乗り抜け、同十四日品川沖へ着船碇泊仕り候ところ、同日常吉・斧吉上陸、行者着用の白単衣その外品々相調へ、翌十五日幸七・小伝次と申す者引き連れ帰船致し、酒宴相催し、その席に於て利兵衛始め嘉七・常吉・斧吉等へ神仏乗り移り、既に十八日暁五つ頃迄には願望成就疑いなき神託これあり候につき、一同信心怠らざる様致すべき旨申し聞け、船中の者一同大いに感心候へども、
-------

「利兵衛始め嘉七・常吉・斧吉等へ神仏乗り移り」とのことで、利兵衛だけに「神託」があった訳ではなさそうですね。

-------
私儀元来愚昧の性質にて、神託とは申しながら如何成り行き候や信じ難く、かつ右様の儀に係り、もし不慮の儀にてもこれあり候ては、国許に差置き候老母養い候者もこれなきにつき、この船に乗組みおり候ては恐ろしき事と存じ込み、過日以来度々脱走致すべきと日夜心配罷りあり候故、自然色に顕れ候か、度々厳責を請け、もし逃げ去り候へばたちどころに神力を以て手足叶わざる様致すべしなど申し威され候へども、透〔すき〕もこれあり候はば逃げ去りたく候へども、海上の儀如何ともなすべき様これなく、一日送りに致しおり候ところ、
-------

狂信者が支配する狭い船の中、「元来愚昧の性質」と謙遜しながらも健全な常識を働かせ、老母の心配をする庄吉は健気です。

-------
同十六日朝五つ時頃、利兵衛・嘉七等申し聞け候は、そこもとは平常不信心かつ小胆なる者にてこの時にのぞみ甲斐なき者と罵り、嘉七樫棒を以て二度に及び打擲致され、もし死し候へば菰に包み流すべき由申し威され、つらつら愚行仕り候ところ、人手に掛かり死候ては不本意につき、切腹仕りたくと決心、刀へ手を掛け候ところ、右両人の者差し留め候につき、そのまま相止まりおり候。然るに同十八日暁十人の者一同異体にいでたち出船の節、私は船番に残し置かれ候ところ、御軍艦へ御召捕りに相成り、一旦凶暴の徒に与しおり候段、御糺問を蒙り、一言の申し披きこれなく重々恐れ入り奉り候。
-------

紀州熊野の漁村に生まれた庄吉が「人手に掛かり死候ては不本意につき、切腹仕りたくと決心、刀へ手を掛け」るのは興味深いですね。
剣術の稽古を重ねる中で、発想も武士に近づいて行ったのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件(その5)

2018-09-10 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月10日(月)11時11分28秒

『日本近代思想大系5 宗教と国家』には「御岳行者皇居侵入事件」に関連して五つの供述書が掲載されており、最初が既に紹介ずみの源之助ら三名のものです。
ついで「病身」のため皇居侵入には参加しなかった「久宝丸船頭 角佐十郎」、臆病者だとして船内に残された「久宝丸水主 庄吉」、熊沢利兵衛の弟で侵入の準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「八丁堀長嶌町六番地 山口幸七」、幸七の知人で、やはり準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「元韮山県下 豆州加茂郡片瀬村農 久次郎倅 山西小伝次」の供述書が掲載されています。
重複が目立ちますが、参考までに「久宝丸船頭 角佐十郎」の供述書も紹介しておきます。(p173以下)

-------
去る十八日暁、大手御門に於て水夫頭利兵衛以下九名の者乱暴相働き候事件御吟味御座候。

この段、私儀尾州智多郡内海東端村農角佐兵衛倅にて、当申二十四歳に御座候。亡父佐兵衛代より久宝丸へ引続き船頭仕りおり候。然るに水主頭利兵衛儀は、亡父の時より抱え置き候者にて、私若年につき船の儀は万事同人へ任せ置き候。この者は八ヶ年前眼病にて困苦の節、讃岐国坂出茶臼山に一祠建立守りおり候篠田虎之助ならびに妻何某、両人行者の由にて祈念致しくれ、眼病平癒候につき、それより利兵衛同人の弟子と相成り、平日船中にても神仏信仰致し、終に神秘免許を受け、咒ひ・祈祷等の事ども相覚え、奇異の所業致し候につき、私始め水主一同偏に信仰仕りおり候。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。
角佐十郎は船頭ではあるものの、二十四歳という若年なので久宝丸は実際上全て熊沢利兵衛に支配されていた訳ですね。
利兵衛の年齢は分かりませんが、弟の山口幸七が四十七歳とのことなので(p175)、更に年上となります。

-------
去る正月中伊豆国網代と申す処に滞船中、神下し致し、種々容易ならざる事件申し出し、同所に於て売婦四人相惑し、信仰の余り髪を切り衣類等海中に投じ一味に相成り、十三日婦人乗組み候まま出帆仕るべき折から、売女屋主人どもかれこれ差支へ、右売女を連れ行き、かつ遊蕩勘定の代り、通ひ小船引き留められ候。右滞船中申し聞かせ候には、讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候旨承り候。
-------

「神下(おろ)し」という表現、そして「讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候」というのは源之助らの供述書には出てこない新情報ですね。

-------
当月十三日網代出帆、下田御番所を夜中に乗り抜け、既に十四日、品川に着船、又々神下し致し、無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由申し聞かせ、その余、容易ならざる事件等相語り申し候。水主一同へ撃剣組打稽古致すべき様申し付け、折々試合仕り候。
-------

「無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由」というのは、船頭の佐十郎にとってはなかなか厳しい表現です。

-------
同十五日、兼ねて白衣誂えに遣し候斧吉・常吉両人、幸七・小伝次と申す者同道にて帰舟仕り候ところ、同様神託を以て撃剣駆引試合を致させ、右事件に同意致すべき旨申し聞かせ、全くこの度の大望は利兵衛に惑はされ、神の教へと存じ、その願意は天下神仏混淆に致し、経文・珠数を以て諸人拝礼致し候様、かつ夷人追討、神社仏閣・諸侯の領地旧に復したき旨、直に奏聞致すべき願書一枚づつ、皇城まで往来図面等幸七認めくれ候につき、一同御所へ出願の砌、もし道路差し留め候者これあり候へば打ち果たし、通行の上直に奏聞仕り、勅許これなき節は 玉体に迫り奉るべき心組みにこれあり、
-------

「神託」という表現はここを含め二箇所に出てきます。

-------
十八日朝八字までには大願成就疑いなき由神託につき、十人の者異体の行装にて出発の節、私儀病身、庄吉は臆病者ゆえ船に残し置き、小船にて鍛冶橋辺より上陸、大手御門に於て暴動仕り候趣、全く右利兵衛煽動に因り神仏の託宣と申すに惑はされ候より、容易ならざる事件に一味同心仕り候ところ、船中に於て御召捕りに相成り、右の廉々御糺問蒙り重々恐れ入り奉り候。この上如何様の厳科に処せられ候へども、一言の申し上ぐべき様御座なく候。
-------

「病身」の佐十郎は皇居侵入に参加せず、事件後、久宝丸内で逮捕された訳ですね。
佐十郎の供述書と安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」を読み比べると、安丸氏は事件の要約に際し、佐十郎の供述書を相当に利用していることが分かります。

御岳行者皇居侵入事件(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c4fdba133d1819f8db996c4b53606c0

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御岳行者皇居侵入事件(その4)

2018-09-09 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 9月 9日(日)22時53分42秒

続きです。(p171以下)

-------
既に十八日暁、私ども十人異体の装にてにたり船へ乗り組み、同正八つ時元船を離れ、八町堀幸七方へ立ち寄り、鍛冶橋へ着船、それより上陸の折、幸七一人を召し連れ来候につき、にたり船は幸七に任せ置き、旧本丸大手御門を御座所と相心得、利兵衛始め一同相進み寄せ、高声に御門相開き通り候様申し入れ候ところ、御守衛兵隊衆より、何れより来り何れへ通行の者にこれあり候や御尋ねにつき、我々は高天が原より天降る行者にて、 主上へ直訴候間通し候様大声に申し答へ候ところ、開門これなきにつき、常吉は短刀、嘉七は棒をもって御門扉を突きなど仕り候へども、曾て開門これなきにつき、常吉御門の下を潜り入り、潜り戸を開き候につき、一同込み入り、元の戸締め、なお内の門に至り高声に前申し候通り申し入れ候へども、開門これなく、
-------

途中ですが、ここで切ります。
熊沢利兵衛の弟、山口幸七は伊豆加茂郡白田村出身ですが、若年の頃に東京に出て八丁堀に居住しており(p175)、異装の十人を乗せた荷足船は、まず八丁堀の幸七方に寄って幸七を乗せた後、鍛冶橋に船を着けます。
そして幸七を荷足船に残して皇居に向い、最初の門で開門するように大声で申し入れるも、警備の兵隊は全く事情が分からないので、どこから来てどこへ行こうとするのか、という当然の質問をしたところ、我々は高天原から来た行者で天皇に直訴したいから通せ、という無茶苦茶な返答だったので、当然ながら門を開けてくれません。
そこで、常吉は短刀、嘉七は棒で門扉を突くなどして騒いだ後、常吉が何とか門の下を潜って潜り戸を開けたので、一向は中に入りますが、次の門で同様な申し入れをしたところ、これまた当然ながら入れません。

-------
その内御番の人々橋の方へ相廻り候につき、再三再四大音にて右の段申し入れ相迫り候へども、利兵衛申し聞けるには、このまま差置き候はば法力により自ら八字過ぎには開門相成り申すべき趣申し聞きおり候内、御門内より、刀棒等差出し候はば一人ずつ通行致さすべき由申し聞くこれあり候へども、利兵衛ほか先達二人より、その方ども兵卒にて何も心得まじく、一同相通すべく暴言致し候内、
-------

利兵衛は法力により八時過ぎには自然と門が開くのだ、などと言っていた訳ですが、当然ながらそんなことはありません。
ただ、警備側もそれほど居丈高ではなく、刀や棒を差し出せば一人ずつ通行させてもよいという対応だったにも拘らず、利兵衛・嘉七・常吉は、お前たちは下っ端の兵卒だから何も分っていないのだ、いいから通せ、と暴言を吐きます。

-------
囲内より五、六人顕れ出で、厳重の御取締りに相成り、升形内に囲い込められ候につき、利兵衛・嘉七等所持罷りあり候樫棒をもって御門扉を打ち破り候存じよりか、頻りに打ち叩き乱暴仕り候上、発砲相成り候につき、私ども相驚き逃げ去り候心得のところ、利兵衛・常吉等帯びおり候剣抜き離し、敵を見相退き候者は切り捨て申すべきと大音に呼ばはり、兼ねて申し聞きおる通り、銃丸などは決して当たり申さずなどと広言相発し、狂乱の体にて縦横に馳せ廻り、門扉へ暴突き打破申すべき体候へども、兵隊衆より烈しく発砲なされ候につき、ますます憤怒の気色にて乱暴仕り候、
-------

すると門内から五、六人の警備兵が出てきて厳しい態度を見せるも、いきなり発砲するようなことはしません。
しかし利兵衛等は門扉を棒で叩くなど反抗するので、ここでやっと警備兵は発砲するも、最初はあくまで威嚇射撃のようです。
発砲に驚いた源之助等が逃げ去ろうとしたところ、利兵衛らは剣を抜き、敵を見て逃げる裏切り者は切り捨てるぞと大声を出し、自分たちには銃弾など当たらないのだと言って、狂乱の体で走り回り、門扉を打ち破ろうとするので、さすがに警備兵は烈しく発砲しますが、利兵衛らの動作が早すぎてなかなか当たらないようです。

-------
私どもは容易ならざる者に随従、かく大変に立ち至り、遁るべき道もこれなく、三人とも塀の影に隠れおり候ところ、利兵衛・嘉七等臆病なる者と申し聞き、その方等を打て我等自殺致すと申し、私どもへ切り掛かり、少々ずつ怪我仕り候。右狼狽の折から、四人の者銃丸にて即死、三人怪我仕るうち一人ほどなく絶命仕り候。
-------

源之助等が塀に隠れていたところ、利兵衛・嘉七等は臆病者のお前たちを殺して我々は自殺するぞと言って源之助らに切り掛かり、三人とも少しずつ怪我をします。
そしてこの騒動の結果、利兵衛・嘉七等四人が射殺され、常吉が負傷後間もなく絶命。

-------
私ども三人実以て愚昧にして、右利兵衛・常吉・嘉七等に神勅などと申し聞き、相誑かされ、恐れ多くも 主上御側へ相迫り、容易ならざる所業に及ぶべくなど評議仕り候段、凶力を以て相迫られ、やむを得ず同組し候事故、今日に至り先非悔い悟り仕り候。前条の通り非常の形装にて御門へ相迫り、終に凶暴の挙動仕り御召し捕りに相成り、厳重の御吟味を蒙り、一言の申し上ぐべき様御座なく、重々恐れ入り奉り候、この上如何様の厳科に処せられ候へども、聊かも御恨みがましき儀御座なく候。
-------

ということで、源之助ら三人は、自分たちはあくまで利兵衛らに誑かされ、脅されたので仕方なく参加したのだ、と死人に口なしの言い訳をして証言を終えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする