学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0117 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その2)

2024-07-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第117回配信です。


一、前回配信の補足

金沢貞顕(1278‐1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
顕助(1294生、母不明、1305仁和寺真乗院入室。ただし、入室にあたって前院主、転法輪三条家出身の教助が反対したため、顕助は内大臣転法輪三条公茂の猶子となった)

堀川具守(1249‐1316)
琮子(後伏見天皇(1288‐1336)の大嘗会御禊で女御代)
具親(1294‐?、『尊卑分脈』に「母〔藤〕為雄卿女 擬祖父子」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%85%B7%E8%A6%AA

久我通忠(1216‐51)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%BF%A0
小坂禅尼(久我通忠女、通基姉、後深草院二条の従姉)

剱阿(1261生、称名寺長老)
定有(生没年不明、醍醐寺関係者?)

小川氏は正和三年(1314)、二十一歳の顕助が具親母と「一躰」(=婚姻関係)で、「小坂禅尼の遺命に任せて」具親母を「扶持」していたとする。
しかも、そのような「醜聞」にもかかわらず、「顕助と具親もまた隔てなく交際」していたとする。
しかし、これはあまりに不自然ではないか。
京都に馴染みのない顕助を、「小坂禅尼の遺命に任せて」具親母が「扶持」していた、だから「顕助と具親もまた隔てなく交際」していたと考えるべきではないか。

二、「一躰」の意味

金沢文庫古文書には「一躰」=婚姻関係と考えるべき例は他にもある。

永井晋氏『金沢貞顕』(吉川弘文館人物双書、2003、p17)
-------
吉田前大納言室家三位局逝去の旨、同じく承り候ひ了んぬ、宮々母儀、民部卿三品、
吉田と一躰の由その聞こえ候ひし、その事にて候やらん、別人に候か、委細承る
べく候、吉田に籠居し候や、民部卿三品は梨下門主宮<当代御子>、聖護院准后
<亀山院御子>母儀に候なり、(『金沢文庫古文書』四〇八号、以下『金文』と略す)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36eb4735087661ffe7e310c6ee757a84

しかし、「一躰」=婚姻関係に限られるのか。

『日本国語大辞典』(第二版)
-------
いったい【一体】
🈩〔名〕①全体が一つのものになっていること。一つにまとまっていて、分離できないもの。
(イ)一つの身体。同じからだ。同一体。*光悦本謡曲・三輪(1465頃)「思へば伊勢と三輪の神々、一体分身のおんこと」*俳諧・奥の細道(1693‐94頃)室の八島「此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰成」
(ロ)一つの関係。分離しがたい関係。同類。*栄花(1028‐92頃)玉のうてな「衆生の三道、弥陀の万徳と、もとより空寂にして、一体無礙(むげ)なりといひき」*東寺百合文書‐へ・文保元年(1317)七月晦日・僧定縁起請文(大日本古文書二・三六)「彼母与件狼藉人一躰同心之間」*中華若木詩抄(1520頃)上「孝行も忠節も一体成」*西国立志編(1870‐71)<中村正直訳>一一・一六「学問は善良の心端正の行と一体となるべし」*儀礼‐喪服子夏伝「父子一体成、夫婦一体成」
②(「体」は助数詞)仏像、彫刻の像などの一つ。神や仏そのものにも用いる。【中略】
③一つの風体。一つの風趣。一つの様式。【中略】
④(「に」を伴って副詞のように用いられることもある)全体。全般。一般。おしなべて。【中略】
🈔〔副〕【後略】
-------
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 0116 兼好法師と堀川家の関... | トップ | 0118 兼好法師と堀川家の関... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (筆綾丸)
2024-07-13 18:35:30
兼好の「内助の功」
「顕助僧正にともなひて、加持香水を見侍りしに、いまだ果てぬほどに、僧正帰りて侍りしに、陣の外まで僧都見えず」(徒然草238段)
「僧都」とは誰のことなのか、従来の注釈書は比定していないが、何の説明もなく「僧都」だけで読者に伝わるとすれば、これは顕助の弟で、仁和寺真乗院の後継者に迎えられていた少僧都貞助とすべきだろう、と小川氏は言われています(『徒然草を読みなおす』162頁)。
なお、三木紀人「徒然草全訳注」では、賢助(洞院公定の子)か顕助(金沢貞顕の子)か、説が分かれ、決着をみない、とあります。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-14 11:59:43
追記
小川氏の説明と三木氏の解説を比べると、なんでこんなに違うの、と驚きます。古典の誤解は易く、理解は難い。
ただ、小川氏の説明でわからぬことがあります。裹頭姿が、たとえばユニクロの服のように、みんな似たようなものだとすれば、混雑するなかで兼好が即座に貞助を探しあてられたのは何故か、ということです。
① 兼好は幼い頃から接しているので、たとえ裹頭姿であっても、背格好からすぐ識別できた、ということなのか。
② 似たような裹頭姿とはいえ、なんらかの差異、たとえば金沢北条氏の出であることを示す印(兼好にはよくわかるもの)があって、すぐ識別できた、ということなのか。
③ 兼好は事前に、お坊っちゃま、はぐれたら、どこそこにいてくださいね、と言い聞かせておいたところ、案の定、迷子になってしまい、約束の場所に赴くと、貞助が待っていた、ということなのか。
返信する
『徒然草を読み直す』 (鈴木小太郎)
2024-07-14 12:36:18
>筆綾丸さん
『徒然草を読み直す』は購入済みでしたが、『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』の簡易版のような印象があったので今まできちんと読んでいませんでした。
「顕助」or「賢助」問題は小川氏によって完全に解決済みでしょうね。
堀川家関係だと、兼好歌集の「延政門院一条」が具守の娘だという指摘も説得的です。
ただ、兼好と堀川家が結びついたのが正和年間という小川説は明らかな誤りで、その誤りが堀川基具と久我通光を対比する『徒然草』第九十九段・百段の解釈(p89以下)にも影響を与えているように感じられます。
この点はあとでまとめてみたいと思っています。

>混雑するなかで兼好が即座に貞助を探しあてられたのは何故か、
これは①のような感じがします。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-14 17:29:25
小太郎さん
兼好と延政門院一条の歌にある早蕨は宇治十帖早蕨巻を踏まえたものだ、という解釈は素晴らしいですね。一条を具守の娘とすれば、哀れも一入です。
『徒然草をよみなおす』所載の北条氏系図にも朝時の名がなく(126頁)、なんとも奇妙です。
「空の名残」(徒然草20段)の空は、空即是色色即是空の空も含意しているのかな、という気もします。
返信する

コメントを投稿

鈴木小太郎チャンネル「学問空間」」カテゴリの最新記事