学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『La La Land』が待ち遠しい。

2017-01-31 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月31日(火)21時22分27秒

>キラーカーンさん
>冥王星だけに「カロン」という訳ではないでしょうが・・・

天体に詳しくないので、何のことか直ぐには分かりませんでした。

------
カロンは1978年6月22日にアメリカの天文学者ジェームズ・クリスティーによって発見された。その後、冥王星が冥府の王プルートーの名に因むことから、この衛星はギリシア神話の冥府の川・アケローンの渡し守カローンにちなんで「カロン」と命名された。なおクリスティーは当初から一貫してCharonの「char」を妻シャーリーン (Charlene) のニックネーム「シャー (Char)」と同じように発音していたため、これが英語圏で定着して「シャーロン」と呼ばれるようになった。


ウィキペディアの日本語版を引用しましたが、例によってリンクは英語版の方です。
やはりカロンさんのお名前は冥王星の衛星、カロンに由来するのでしょうね。

>筆綾丸さん
>『SNOWDEN』

福島第一原発の事故の後、オリバー・ストーン監督は非科学的な言動を繰り返していたので、すっかり嫌いになってしまいました。
この映画もテーマは興味深いのですが、今一つ観たいとは思いません。
私が今、一番期待しているのは『La La Land』で、2月24日の公開が待ち遠しいですね。


こちらは過去のミュージカル映画の引用・参照部分を編集したものですが、編集者のセンスの良さが光ります。

La La Land - Movie References

Movie References の一番最後は『踊るニューヨーク』(Broadway Melody of 1940)のフレッド・アステアとエレノア・パウエルですね。

Begin the Beguine - Broadway Melody of 1940

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2017/01/30(月) 00:12:48(キラーカーンさん)
>>高萩カロン氏「冥王星からこんにちは」
冥王星だけに「カロン」という訳ではないでしょうが・・・

>>イギリス人が英語で書いた<I>が<am>な小説を
>>ドイツ人がドイツ語で<Ich>が<bin>のミュージカルに仕立て直し、
>>それを日本人が<わたし>が<です>に翻案した

映画「君の名は」では「僕」、「私」を含め一人称が全て「I」となっている
ことが、ごく一部で話題のようですが、ある作品では、日本語での様々な「兄」の言い方を
語彙力の粋を極めた形で、英訳していることにも吃驚しました(中国語での「潔さ」もなかなか)

日本版北米版香港・台湾版
お兄ちゃんbig brother哥哥
お兄ちゃまbrother哥哥
にぃbig bro老哥
お兄様dear brother哥哥
おにいたまbro-bro哥哥
兄上様brother mine哥哥殿下
にいさまelder brother哥哥
アニキbro老哥
兄くんbrother darling大哥
兄君さまbeloved brother哥哥大人
兄チャマbrother dearest哥哥
兄やmon frère[3]哥哥
あんちゃんbud哥哥

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%82%B9

雪云々(ゆきでんでん) 2017/01/30(月) 13:03:25(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://www.snowden-movie.jp/
映画『SNOWDEN』(邦訳名は雪云々)を見たあと、東京駅前の丸善で、本郷和人氏『天皇にとって退位とは何か』を少し立ち読みしましたが、皇室典範に関連して、皇太甥(悠仁親王)の可能性があることなど、大胆な仮定に言及されていました。

キラーカーンさん
brother mine や beloved brother や brother dearest などは、殆ど男色の世界ではあるまいか、という感じもしますね。中国では福建省の男色が有名ですが、哥哥に関して、広東語には独特の表現があるかもしれないですね。どうでもいいことですが、哥哥の発音は Google の発音に若干似ていますね。
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その6)

2017-01-29 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月29日(日)11時04分38秒

茅野美ど里(みどり)氏の翻訳はちょっと軽いというか、アメリカンなところがあって、批判する人も多いみたいですね。
少し検索してみたところ、例えば小谷野敦氏は、

-------
うーん。誤訳があるという指摘もあったがそれは確認できない。しかし、新訳らしさを出そうとしたムリの痕跡はある。「体育会系」とか「サイコー」とか、新しげな言葉遣いが、この作品の上品で古風な雰囲気をぶち壊しにしている。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110406

と言われています。
他方、茅野訳の読みやすさを評価する人もいますね。

高萩カロン氏「冥王星からこんにちは」
http://meiousei.tokyo/2008/03/24/%E3%80%8E%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%80%8F%E8%8C%85%E9%87%8E%E7%BE%8E%E3%81%A9%E9%87%8C%E8%A8%B3%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%80/

私は原文も大久保康雄訳も読んでいないので何とも評価できないのですが、茅野訳には『問はず語り』を Karen Brazell氏の翻訳(The Confessions of Lady Nijo)で初めて読んだときのような、若干の落ち着かない気分を味わいました。
原文の雰囲気は伝わらないものの、逆に原文が醸し出す雰囲気に幻惑されることなく、対象作品の本質をそれなりにあっさりと掴んでしまっているのかも、という感じですね。

Lady Nijo
https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Nij%C5%8D

さて、フランス系のイギリス人が英語で書いた<I>が<am>な小説をドイツ人がドイツ語で<Ich>が<bin>のミュージカルに仕立て直し、それを日本人が<わたし>が<です>に翻案した舞台を見る。
これだけでもなかなか興味深い出来事で、ダフニ・デュ・モーリエの小説原文、ミヒャエル・クンツェのドイツ語脚本、東宝での脚本、武正菊夫氏の脚本を全て丁寧に分析すれば面白い発見が多々ありそうですが、それは現在の私の手に余る仕事なので、「レベッカ」についての初歩的な検討はとりあえずこれで終わりとします。
私は去年の11月、共愛学園前橋国際大学で行われた公開講座「演劇の起源と国際的な展開・現代ミュージカルのメソッドを学ぶ」で武正菊夫氏の講演を聞きました。
武正氏は1946年生まれとけっこうなお年で、非常に穏やかな話し方をする人ですが、その動作は俊敏・軽妙・優雅と変幻自在で、只者ではないですね。
ミュージカルの世界も本当に奥が深そうなので、少しずつ勉強して行こうと思います。

そういえば、この公開講座の司会者が、日本中世史の研究者で女院や女院領に関する論文もある野口華世氏だったので、ちょっと驚きました。
野口氏が共愛学園前橋国際大学の准教授になっていることは知っていたのですが、公開講座などの社会教育の窓口も担当されているようで、大学の先生もなかなか大変ですね。
私は歴史学研究会の会員ではないにもかかわらず、同会中世史部会の月例会に何回か参加させてもらったことがあって、まだ大学院生だった野口氏の発表を聞いたこともあります。
野口氏は独特の愛敬のある話し方をする人で、十年以上経っても話し方は全く同じでしたが、服装はすっかりマダム風になっていましたね。

>筆綾丸さん
本郷和人氏が全体的に荒俣宏に似ているのではなく、単に「話し方と声音」についてのご指摘ですから、「そうですね」で済ませれば良かった話でしたね。
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その5)

2017-01-28 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月28日(土)11時12分38秒

前回の投稿で、過去十数年、まともに小説を読んだ記憶がないと書きましたが、昨年、この掲示板でも触れた森鴎外の『かのやうに』とか、最近ではユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』とか、まあ、世間で小説とされているものをチラホラと読んではいます。
ただ、それも歴史研究の対象であったり準備作業だったりして、ストーリーそのものを楽しむことがなくなったなあ、という感懐があって、『レベッカ』にしても、グレート・ブリテン島の最西端、コーンウォール半島に存在するというマンダレーからロンドンに車で向かう道中の描写は当時の交通事情を考える上で良い資料になるなあ、みたいな妙なことをついつい考えてしまいます。
マンダレーについては、茅野美ど里氏の「ダフネのふたつの顔─訳者あとがき」にも若干の説明がありますね。(p583)

------
マンダレーのモデルは、メナベリーという実在の屋敷です。フェリーサイドに滞在するようになってダフネはその存在を知ったのですが、無人の家は林の奥深くにひっそり隠れるように建っており、姉とともについに辿り着いて屋敷が目の前に姿を現したときの感動がダフネを虜にしました。初めて目にしてから十七年近く経った一九四三年に、二十年の賃貸契約で借りられることになると、修繕やメンテナンスは借り手の責任という不利な条件だったにもかかわらず、大満足でした。人目を避けるように建っているメナベリーは、ひとりにならないとほんとうの自分を取りもどすことができなかったダフネにとって、うってつけの家だったのです。のちに契約が切れかかったときも、延長を求めて必死に家主と交渉しましたが、残念ながら希望はかないませんでした。
------

ダフネは1907年生まれですから、1943年の17年前というと1926年、ダフネが19歳の時ですね。
1938年4月に出来上がった原稿にダフネはあまり自信が持てなかったそうで、出版社に原稿とともに送った手紙には「サスペンスを醸しだすようにしたのですが、最後はちょっとあっけなくて、なんだか暗いです」とあったそうです。(p582)
しかし、出版社はヒットを確信して一大広告キャンペーンを行ない、実際に刊行と同時にイギリスのみならずアメリカでも大ベストセラーとなり、1940年に早くも映画化ですから、印税が山ほど入って来て、メナベリーの賃借も可能になったのでしょうね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Menabilly
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本郷和人氏の「現象学的歴史学」

2017-01-28 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月28日(土)10時03分41秒

>筆綾丸さん
荒俣宏云々(でんでん)につきましては、諸事情からコメントを控えさせていただきたいと存じます。

本郷和人氏の最新刊『天皇にとって退位とは何か』(イースト・プレス、2017)を地元の割と大き目の書店で探したのですが、在庫がありませんでした。
いかにも時流サーファー的なタイトルである上に、出版社に全く馴染みがないので、アマゾンで買うのも躊躇われますね。

-------
「生前退位」で、いったい何が起こるのか。「お気持ち」の核心はどこにあるのか。そして、日本人にとって天皇とは何か。2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の発表、同年9月23日の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の設置で皇室の今後に注目が集まっている状況を、テレビで人気の歴史学者が徹底分析。皇室と日本の未来を考える上で必読の書。


以前、本郷氏の共著『歴史と哲学の対話』(講談社、2013)に若干批判めいたことを書きましたが、これも責任の主体が明確でない記述への疑問を述べただけで、本郷氏の「現象学的歴史学」の試み自体を批判した訳ではありません。
さすがに本郷氏も今後の研究者人生をテレビ中心の社会教育だけで過ごそうとされているのではないでしょうから、「現象学的歴史学」の展開にも期待したいところです。

「現象学的歴史学?」
「編集の方」
「その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね」
『天皇制史論』との比較
「お見捨てなく。」(by 本郷和人氏)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

荒俣宏 2017/01/27(金) 17:57:31
小太郎さん
クマモン体型の本郷和人氏の番組「姫旅」(再放送)を見ましたが、本郷さんの話し方と声音は荒俣宏によく似ているのですね。川柳作家(やすみりえ)の下手な句はなんとかならないのか、と思いました。次回は美人の橋本マナミとの共演ですね。

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-15209.html
官僚たちが原稿に片っ端からフリガナを振っているから大丈夫と聞いていましたが、そうでもないようですね。
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その4)

2017-01-27 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月27日(金)13時07分48秒

あまり寄り道している訳にも行かないのですが、一応、原作だけは確認しておこうと思って最新訳らしい『レベッカ』(茅野美ど里訳、新潮社、2007)を手に取ってみました。
実は私、ここ十数年、その時々の状況に応じて読まねばならない書籍を山ほど抱えていて、フィクションなど読むヒマがあるか、みたいな余裕のない状態が当たり前になっており、まともに小説を読んだ記憶がないのですが、さすがに伝説的なベストセラーだけあって『レベッカ』にはグイグイ引き摺り込まれてしまいますね。
同書巻末の「ダフネのふたつの顔─訳者あとがき」には原作者とその周辺についての簡明な解説があるので、少し引用させてもらいます。(p575以下)

-------
 ダフネは内なる自分と現実の生活をしている自分が大きくずれていました。本人もそれはよくわかっていて、前者を「ナンバーツー」、後者を「ナンバーワン」と称していました。ナンバーツーを満足させるためには、作品を通じて内面を昇華することが必要で、それがうまくいっていた時期は精神的にも安定して幸福でした。しかし、五〇年代の終わりごろから両者の乖離がすすみ、七〇年代後半に実質的に書けなくなると、ほんとうの自分であるナンバーツーを想像の世界に開放できなくなり、心身ともに追い詰められていきます。
 その内なる別人格には、著名な俳優で、劇場の支配人・プロデューサーとしても活躍した、父親のジェラルドの影響を考えないわけにはいきません。そもそもデュ・モーリア一族は芸術の分野で秀でた人材を輩出しており、デフネにもその血が濃く流れています。
 祖父のジョージはフランスからイギリスに移り住んだ画家で、トーマス・ハーディーやヘンリー・ジェームスなどの挿画を描くかたわら、「パンチ」誌のスタッフとして風刺画を手がけ、人気を博しました。晩年は作家としても活躍、六十歳になってからパリ生活を懐かしんで書いた小説『トリルビー』(Trilby・一八九四年)がヒットしました。作中、催眠術を弄してヒロインを繰るスヴェンガーリ(Svengali)というミュージシャンが登場しますが、その名は転じて、他人を思いどおりに繰る抗しがたい力をもっている人物を指す言葉として、いまでは辞書に載っているほどで、いかにこの作品が親しまれたかがわかります。
 父・ジェラルドはジョージの次男ですが、五人きょうだいの末っ子として一八七三年に生まれ、母親に溺愛されて育ちました。俳優としても、才能と運に恵まれすぎて失敗を知らず、その恵まれた境遇に若くして興醒めしていたというのがダフネの見方で、中年になると精神的に不安定になりました。『ピーター・パン』の作者J・M・バリーと親交が深く、ダフネも小さいころから親しんで、「ジムおじさん」と呼んでいました。『ピーター・パン』誕生にまつわるエピソードを扱った映画『ネバーランド』(Finding Neverland・二〇〇四年)でケイト・ウィンスレット演じるシルヴィア・ルウェリン-デイヴィスは、ダフネの伯母にあたります。ジェラルドは、姉と甥たちのために書かれた『ピーター・パン』の初演(一九〇四年)でフック船長を演じて大好評を博し、これは恒例の出し物となりました。
------

私は「スヴェンガーリ」を知りませんでしたが、確かに辞書にも出ており、ウィキペディアにも項目がありますね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Svengali

ダフネの身近には演劇の世界もあり、大変な美人ですから本人が希望すれば女優への道もありえたのでしょうね。

http://www.dumaurier.org/index.php

さて、『レベッカ』を通読してみると、コミカルな描写も多少ありますが、全体としては暗い色調で彩られていて、よくこれをミュージカルにしたなあ、という感じがします。
やはりミヒャエル・クンツェは天才ですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Kunze
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その3)

2017-01-26 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月26日(木)10時52分58秒

さて、レベッカの死因について、ミヒャエル・クンツェが脚本・作詞を担当し、2006年にウィーンにおいてドイツ語で上演されたミュージカルではどうなっているかというと、ウィキペディアの英文記事では必ずしも明確ではありませんが、ドイツ語記事には、

------
Am nächsten Tag wird nach einem Sturm ein Bootswrack mit einer Leiche gefunden. Es stellt sich heraus, dass es sich dabei um die verstorbene Rebecca handelt. Maxim jedoch hatte bereits Monate zuvor eine andere Leiche als seine verstorbene Frau identifiziert. Er gesteht seiner neuen Frau, dass er ihr die Wahrheit über Rebeccas Tod verheimlicht hat. Bei einem Streit hat er sie fortgestoßen und sie dabei versehentlich getötet.

https://de.wikipedia.org/wiki/Rebecca_(Musical)

とあり、映画とは若干異なり、マキシムが押し倒したら死んでしまった、ということですね。
こんな風に書くとまるで私がドイツ語をスラスラ読めるように見えるかもしれませんが、私のドイツ語能力はドイツの幼稚園児以下で、ま、グーグル翻訳のおかげですね。
現時点でのグーグル翻訳では、<ドイツ語→日本語>はまだまだですが、文法と語彙が似ているだけあって<ドイツ語→英語>は十分実用に耐えますね。
ちなみに上記部分は、

------
The next day a boatwreck with a corpse is found after a storm. It turns out that this is the deceased Rebecca. Maxim, however, had already identified a corpse other than his deceased wife. He confesses to his new wife that he has concealed the truth about Rebecca's death. In a dispute, he pushed her away and accidentally killed her.
------

と訳されています。
喧嘩の最中にマキシムがレベッカを押し倒したら打ちどころが悪くて偶発的に死んでしまった、ということですね。
結局、原作の小説でのマキシムによる故意の殺人が、ヒチコックの映画では傷害の故意のある傷害致死となり、ミヒャエル・クンツェのミュージカルでは傷害の故意もなく、暴行の故意のみの傷害致死に弱まっている訳ですね。
そして、おそらく東宝ミュージカルでもミヒャエル・クンツェの脚本に忠実に演じられたはずですが、これをミュージカル劇団A-ile(エール)の公演では、マキシムが気を失っているときにレベッカが自殺した、と変更したのですね。
ま、これは別に悪い方向への改変ではなく、上演時間も比較的短い制約の中で、すっきりと筋をまとめ、観客に悪い後味を残さないための工夫ですね。

Ich hab' geträumt von Manderley | REBECCA - Das Musical | 1. Akt |
https://www.youtube.com/watch?v=xMOzFynSsak&list=PL-1HT_kBnNXgFWlKgoD6vfCrAp2Ww5rrD
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その2)

2017-01-25 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月25日(水)11時20分23秒

「レベッカ」という女性名のそもそもの由来は『旧約聖書』「創世記」に登場するアラム人の女性で、イサクの妻ですね。
ウィキペディアの日本語版にリンクすると無意味な記号がダラダラ並ぶので、美的観点から英語版にリンクを張ります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rebecca

かなり昔ですが、レベッカの愛称がベッキーだと初めて知ったときは、ちょっと妙な感じがしました。
ちなみにタレントのベッキーさんの本名はレベッカ・英里・レイボーンだそうですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Becky_(television_personality)

さて、ミュージカル劇団A-ileの公演(脚本・演出は武正菊夫氏)ではレベッカの死因は自殺となっていましたが、ダフニ・デュ・モーリエの小説では、

-------
Maxim confesses the truth to our heroine: how his marriage to Rebecca was nothing but a sham; how from the very first days husband and wife loathed each other. Rebecca, Maxim reveals, was a cruel and selfish woman who manipulated everyone around her into believing her to be the perfect wife and a paragon of virtue. She repeatedly taunted Maxim with sordid tales of her numerous love affairs. The night of her death, she told Maxim that she was pregnant with another man's child, which she would raise under the pretence that it was Maxim's and he would be powerless to stop her. In a rage, he shot her, then disposed of her body on her boat and sank it at sea.

https://en.wikipedia.org/wiki/Rebecca_(novel)

ということで、マキシムはレベッカの侮辱に耐えかね、激怒してレベッカを射殺し、遺体を船に載せて海に沈めた訳ですね。
これがヒチコックの映画では、

------
Maxim admits to his new wife that he had earlier misidentified another body as Rebecca's, in order to conceal the truth. His first marriage, until now viewed by the world as ideal, was in fact a sham. At the very beginning of their marriage Rebecca had told Maxim she intended to continue the scandalous life she had previously lived. He hated her for this, but they agreed to an arrangement: in public she would pretend to be the perfect wife and hostess, and he would ignore Rebecca's private wanton lifestyle. However, Rebecca grew careless, including an ongoing affair with Jack Favell. One night, Rebecca told Maxim she was pregnant with a child that was not his. Laughing at Maxim's dismay, Rebecca proclaimed that the child, presumed to be a boy and legally Maxim's son, would thus inherit his beloved estate Manderley. During the ensuing heated argument she fell, hit her head and died. Maxim took the body out in her boat, which he then scuttled.

https://en.wikipedia.org/wiki/Rebecca_(1940_film)

となっています。
マキシムとレベッカが言い争っている最中にレベッカが倒れ、頭を打って死んでしまった訳ですから、故意による殺人ではないですね。
ウィキペディアの記述ではレベッカが倒れた具体的な状況は分かりませんが、「映画ウォッチ」というサイトの記事によれば、

-------
レベッカのネタバレあらすじ4
 ダンヴァース夫人が私にレベッカへの敗北を認め、窓から海に身投げをするように説得しようとした時、急に大きな爆発音がした。難破船が緊急の信号弾を上げている音だった。私は我に返り、マキシムを探し回った。彼はコテージにいたが、私に自分の驚くべき秘密を話した。それは、レベッカとの愛のない結婚生活と彼女の死の真相だった。彼女は、マキシムの仕事の右腕のフランクを誘惑しようとするが失敗し、従兄のジャックを始め他の男の友人達と密通していた。マキシムは耐えかねて彼女の密会場所のコテージに行って話をつけようとしたが、彼女は笑みを浮かべながら妊娠を告げ、彼を挑発した。

レベッカのネタバレあらすじ5
 マキシムが気がついた時にはレベッカは床に倒れていた。彼がかっとなって彼女を殴った時、倒れて船の重い滑車に頭をぶつけた。マキシムはレベッカの死体をヨットに運んだが、それがずっと船の底に沈んでいたらしい。以前打ち上げられた死体は彼女のものだと思われて埋葬されたのだが、別人のものだった。
-------

ということなので、マキシムはレベッカを殴っていますから殺人の故意はなくとも傷害の故意はあり、日本の刑法では結果的加重犯の傷害致死罪に該当することになりますね。
何故かその記事にリンクすると掲示板に投稿できなくなるので、リンクは省略します。
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トランプは「なんちゃってクリスチャン」

2017-01-24 | 古代オリンピックと近代オリンピック
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月24日(火)20時52分53秒

>筆綾丸さん
>こんな奴でも一応はクリスチャンのようですね。

私もちょっと気になっていたのですが、クリスチャンポスト紙の去年2月27日付記事によれば、

------
トランプ氏は今年、リバティ大学で、家族研究協議会(FRC)のトニー・パーキンス氏が聖書個所を提示した際、「コリントの信徒への手紙二(Second Epistle to the Corinthians)」を「Two Corinthians」と読んだ。パーキンス氏は、その失言の原因が「2 Corinthians 3:17(コリントの信徒への手紙二3章17節)」というメモを渡したことにあるとしてトランプ氏が自分を責めたことを受け入れたが、トランプ氏の過ちによって「彼があまり聖書に親しんでいないことが明らかになった」と語った。
【中略】
のちにトランプ氏は、好きな聖書個所は「ねたみに屈してはならない」だと答えたが、聖書にはこういった箇所はない。
トランプ氏は、自身は長老派の信者でマーブル協同教会の会員だと称しているが、マーブル協同教会は長老派の教会ではなく、トランプ氏が会員である記録もない。
【中略】
アイオワ州の党員集会の前、トランプ氏は福音派へのアプローチの一環として、アイオワ州の教会の礼拝に出席した。しかしその教会は、同性婚を支持する主流派のプロテスタント教会だった。アイオワ州のほかの教会の礼拝では、トランプ氏は献金皿と間違えて聖餐皿に金銭を置いた。


ということなので、トランプは純度100%の「なんちゃってクリスチャン」ですね。
ただ、私はこの記事を読んで非常に安心しました。
少なくともトランプは宗教的信念に基づく戦争は起こさない訳ですからね。

前にも少し書きましたが、ジョージ・W・ブッシュの自伝『決断のとき』はけっこう面白い本でした。
宗教的回心の場面も、なるほどなと思わせる叙述になっていて、たぶんブッシュは私人としては非常に良い人なんでしょうね。
ただ、ブッシュのような強い信念を持った真実のクリスチャンたる大統領が9・11に遭遇したというのも、今から振り返ってみれば歴史の皮肉の最たるもので、宗教的信念の正面衝突が戦争の無限の拡大を招いたように思います。
検索してみたら、池内恵氏もブッシュ自伝の書評で、

------
 宗教的な信念から、「誘惑」に打ち勝ち、「利己心」を退けることに自らの人生の(そしておそらくは政体としてのアメリカの)課題を見出すブッシュは、9・11事件という、まさに宗教的な信念によってアメリカに挑んでくる事象に直面した時の大統領として、ふさわしかったのだろうか。確かに、前例のない極限の状態で、さかしらな理屈は通用しなかったに違いない。頑固に単純な信念をもった大統領の下でこそ、アメリカは団結して立ち上がることができた、と言えよう。
 しかしやはり、「ふさわしすぎた」という疑念が拭えない。信仰に信仰で真っ向から対峙してしまったところに、「対テロ戦争」を収集困難に拡大させた一つの原因が見出せるのではないだろうか。


と書かれていて、私も基本的に同感です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

We are protected by God 2017/01/23(月) 20:18:34
小太郎さん
昔、映画の『レベッカ』は観たことがありますが、ほとんど覚えていません。

http://eyesky.jp/
TOHOシネマズシャンテで観た『アイ・イン・ザ・スカイ』は優れた映画でした。来週の『スノーデン』も観ようかと思います。
私の好きな『HOMELAND』のシーズン6が始まりましたが、残念ながら、日本ではまだ見られません。アメリカに知人でもいれば録画を送ってほしいものですが、このドラマのテーマは Allāh と God の対決で、シーズン5までは、血みどろの互角の戦いになっています。

http://diamond.jp/articles/-/115155
トランプの就任演説にも、数回、神が出てきますが、こんな奴でも一応はクリスチャンのようですね。これからさき、こいつのツラを見続けなければならぬのかと思うと、ウンザリします。
----------------
There should be no fear - we are protected, and we will always be protected.
We will be protected by the great men and women of our military and law enforcement and, most importantly, we are protected by God.
----------------

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784040821207
橋本崇載氏の『棋士の一分』を立ち読みしましたが、米長邦雄をかなり批判していて面白いですね。
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ミュージカル「レベッカ」についてのメモ(その1)

2017-01-23 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月23日(月)13時42分14秒

先週末は二日連続でミュージカル劇団A-ile(エール)の第6回公演(「REBECCA」&オリジナルミュージカルショー「Wings」)を観劇しました。
「レベッカ」はダフニ・デュ・モーリエの原作を読んでおらず、ヒチコックの映画も遥か昔に観たものの内容は忘れており、ほぼ白紙の状態で観劇したので、一回目はミステリー仕立てのストーリーを追うことが精一杯でした。
二回目は少し余裕ができて、演出家・武正菊夫氏による台詞や歌詞の繊細なニュアンスも少しは感じ取れたかなと思います。

https://twitter.com/A_ile

A-ileのアカウントでRTされた感想ツイートを見ると、性別や世代を超えて「そうそう」「確かに」と共感できるツイートが多いので「いいね」を押しまくったのですが、閲覧者にミュージカルファンが多いとは到底思えない当掲示板であまり熱く感激を語っても浮いてしまうので、代わりに「レベッカ」について少し調べたことをメモしておきます。

「レベッカ」と聞くと、私の世代ではNOKKOをボーカルとするバンドを連想してしまいますが、このバンド名は、「ケイト・ダグラス・ウィギンの小説『黒い瞳の少女レベッカ』(原題:Rebecca of Sunnybrook Farm)から命名した」(ウィキペディア)のだそうで、ダフニ・デュ・モーリエの小説とは全然関係ないですね。

「秋元書房ジュニアシリーズ1 少女レベッカ」
http://www.geocities.jp/heartland_kaede_8456/hyosi-j/akj001.html

ちなみに、こちらのレベッカも1938年にシャーリー・テンプル主演で映画化されているそうです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rebecca_of_Sunnybrook_Farm_(1938_film)

当該項目の日本語版を見ると、邦題は「農園の寵児」で、

------
実の両親が亡くなった少女レベッカ。けれども彼女には歌の才能があった。シリアルのメーカーの番組でオーディションがあり、プロデューサーのアンソニー・ケントは彼女に決めるが、オーヴィル・スミザーズから間違って不合格と言われてしまう。レベッカは伯母さんの農園に預けられる。
------

という内容だそうです。
さて、ミステリーの方の「レベッカ」に戻りますが、ダフニ・デュ・モーリエというフランスっぽい名前にも拘らず、本人はロンドン生まれなんですね。
祖父はフランスに生れ、イギリスに移った著名な風刺漫画家のジョージ・デュ・モーリエで、父母は俳優だそうですから、芸術家一家に育った人ですね。

Daphne du Maurier(1907-89)
https://en.wikipedia.org/wiki/Daphne_du_Maurier
George du Maurier(1834-96)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_du_Maurier

ダフニ・デュ・モーリエの一番有名な作品はやはり「レベッカ」(1938)で、これが1940年にアルフレッド・ヒッチコックにより映画化された訳ですね。
ミュージカル化はずっと遅れて、ミヒャエル・クンツェ(脚本・作詞)、シルヴェスター・リーヴァイ(音楽)の共同制作によりウィーンのライムント劇場で行なわれた初演は2006年9月。日本での初演は2008年だそうですね。
ウィキペディアの日本語版へリンクするとむやみに長くなるので、便宜上、英語版の方にリンクを張っておきます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rebecca_(musical)
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マイク・ペンス副大統領とレーガンの聖書

2017-01-21 | 古代オリンピックと近代オリンピック
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月21日(土)11時10分55秒

アメリカ大統領就任式では新大統領が聖書に手を置いて宣誓しますが、トランプはオバマを真似てリンカーンの聖書を用いたそうですね。
クリスチャントゥデイ紙によると、

-------
ドナルド・トランプ氏は、20日に行われる米大統領就任式で、第16代大統領のアブラハム・リンカーンが就任時に使った聖書と自身が家庭で使っている聖書を用いて宣誓を行う。
リンカーンの聖書は、バラク・オバマ現大統領が2009年と13年の就任式で、リンカーン本人が1861年に使って以来、初めて使用した。副大統領となるマイク・ペンス氏は、第40代大統領のロナルド・レーガンの聖書を使って宣誓する。レーガンの聖書が使われるのは、本人が使用して以来、今回が初めて。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/23053/20170119/turmp-lincoln-bible-inauguration.htm

だそうです。
同記事に、

-----
大統領や副大統領が宣誓する際、聖書に手を置いて誓うことは義務ではないが、初代大統領ジョージ・ワシントンの1789年の就任式以来の伝統となっている。米国の憲法は、大統領が職務を忠実に遂行し、憲法を堅持することを宣誓するよう義務付けているものの、聖書などの宗教的文書を用いることについては言及していない。
-----

とあるように、聖書に手を置いての宣誓は明文の憲法上の根拠に基づくものではありませんが、しかし、これが法律的には全く無意味な慣例・儀礼であって無視しても大統領就任の有効性について全然問題が生じないかというと、そこは若干面倒な議論が出てきそうですね。
ま、現時点では大統領選に勝利するには少なくとも「なんちゃってクリスチャン」であることが必要でしょうから、当面はその種の問題は顕在化しないでしょうが。
ところで、この記事の最後の方で、

-----
副大統領となるペンス氏は、レーガンが共和党に転向したことを評価しており、レーガンが用いたのと同じ歴代誌二7章14節を開いて宣誓する。
-----

とありますが、「レーガンが共和党に転向」云々は意味が分からないので、英語記事を確認してみたら、

-----
Mike Pence credits Ronald Reagan, the 40th US President, with his conversion to the Republican party. He will open the Bible to 2 Chronicles 7:14, the same verse Reagan used.

http://www.christiantoday.com/article/trump.to.swear.in.on.lincolns.bible.and.his.own.family.bible/103969.htm

となっています。
翻訳者は conversion の主体をレーガンとしていますが、ペンス氏じゃないかなと思ってウィキペディアでペンス氏の経歴を見ると、

------
In his childhood and early adulthood, Pence was a Roman Catholic and a Democrat. He volunteered for the Bartholomew County Democratic Party in 1976 and voted for Jimmy Carter in the 1980 presidential election,[16] and has stated that he was originally inspired to get involved in politics by people such as John F. Kennedy and Martin Luther King Jr..[16] While in college, Pence became an evangelical, born-again Christan.[16] His political views also starting shifting to the right during this time in his life, something which Pence attributes to the "common-sense conservatism of Ronald Reagan" that he began to identify with.[16][17]

https://en.wikipedia.org/wiki/Mike_Pence

ということで、もともとカトリックで民主党支持者の家庭に生れたペンス氏は、自身もケネディやキング牧師に心酔してカーター大統領に投票するような民主党支持者だったにもかかわらず、レーガン大統領の影響を受けて共和党支持者に変わった訳ですね。
とすると、やはり「副大統領となるペンス氏は、レーガンが共和党に転向したことを評価しており」は誤訳で、正しくは「副大統領となるペンス氏は自身が共和党に転向したことをレーガン大統領に帰しており」ですね。
もう少し分かりやすく訳せば、「自分が共和党員になったのはレーガン大統領のおかげ」くらいでしょうか。
レーガンがペンス氏にとってそういう重要な人物であったからこそ、ペンス氏は自身の宣誓にレーガンの聖書を用いた訳ですね。
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クマモン体型の本郷和人氏

2017-01-19 | 古代オリンピックと近代オリンピック
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月19日(木)12時36分1秒

先日、テレビで本郷和人氏が女優の伊藤かずえさんと話しているのをチラ見したのですが、検索してみたらEテレの「趣味どきっ! 姫旅 華麗なる戦国ヒロイン紀行」というシリーズの「第6回 トップレディーへの転身~北政所」だったみたいですね。

「伊藤かずえオフィシャルブログ」

たまたま私が見た場面では、本郷氏は伊藤かずえさんの少し軽目の発言を直ちに否定することなく、それをより洗練された表現に言い換えた上で丁寧な解説につなげていて、そのあたりの呼吸は実に上手だなと思いました。
もちろん台本に基づいたやりとりなのでしょうが、真面目一点張りの普通の学者ではどうしても流れが不自然になりますから、本郷氏の才能はたいしたものですね。
本郷氏のクマモンに似た体型は視聴者に安心感を与えますし、腹部での反響が良いのか、声も適度に深みがあって聞きやすく、本当にテレビというメディアに向いている感じがします。
一般論として、現代の歴史研究者は若い頃から非常に細かい実証的な研究を強いられますから、概ね三十代後半から四十歳前後で研究上の一つのピークを迎えて、その後の研究者としての人生が結構難しいのではないかと思います。
いつまでも狭い専門分野で反復横跳びをしていて前に進まない人も多いなか、本郷氏はテレビを利用した生涯教育方面に活路を見出しておられるようで、それはそれで個性を生かした良い選択なのでしょうね。

>筆綾丸さん
ご紹介のNHK記事に、宮内庁の西村泰彦次長の発言の引用として「早朝から祭しがありますし、国事行為として位置づけられている儀式である新年祝賀の儀が行われます」云々とあって、「祭し」の読み方に少し悩みましたが、これは「祭祀」なんですね。
NHKにも細かい表記のルールがあるのでしょうが、「祭し」はいくら何でも読みづらく、こういうのは漢字にしてほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Independence Day 2017/01/18(水) 14:00:30
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170117/k10010842741000.html
こんな記事を読むと、宮内庁は内閣府に属する一行政機関にすぎないくせに、一体、どこの国の組織なんだ、と不愉快になりますね。官邸との意思疎通はないのだろうか。

https://www.shogi.or.jp/match/nhk/
1月15日放映の将棋は、名人と竜王の対戦でしたが、内容的には唾棄すべき駄棋(?)とでも云うべきもので、こんな将棋のどこがトッププロのものなんだ、と不愉快になりました。

http://www.asahi.com/articles/ASK1L32MKK1LUCVL001.html
これで一件落着となるのかどうか。

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3917/1.html
これは伝説作りの番組でしたね。プロたちは8五歩(50手目)に驚いていましたが、そんなものですかね。
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オリンピア遺跡

2017-01-18 | 古代オリンピックと近代オリンピック
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月18日(水)10時56分40秒

ちょっと間が空いてしまいましたが、古代オリンピックについての予備的な投稿を少し追加しておきます。
本村凌二編著『ローマ帝国と地中海文明を歩く』(講談社、2013)は本村氏の東京大学定年退職を記念して企画された、本村氏の大学院セミナー(ラテン碑文演習)に集まっていた旧院生・現院生による「学術的観光案内書」だそうですが、洒脱な遊び人風の一面がある本村氏の門下生諸氏が書いただけあって、歴史の薀蓄を鏤めた洒落たエッセイが多いですね。

『ローマ帝国と地中海文明を歩く』
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062176958

宮崎亮氏(法政大学兼任講師)の「第一三章 オリンピア─「オリンピック発祥の地」を超えて」から、少し引用してみます。(p242)

------
【前略】
 今日オリンピアは「オリンピック発祥の地」ということになっている。確かに、現在行われている近代オリンピック大会は、古代オリンピック、すなわち前八世紀から後四世紀まで、一〇〇〇年以上にもわたってここオリンピアで行われた運動競技会の復活再生をうたい、一九世紀末に発足したものだ。古代とのつながりは今やお馴染みの式典演出で毎回示され、大会中燃え続ける聖火はオリンピアで採火されるし、開会式で各国選手団の先頭を切るのはギリシア選手団である。そもそも「オリンピック」という名称自体、オリンピアに由来する。
 しかし、古代オリンピックを近代オリンピックのようなスポーツ競技会だと思ってオリンピアの遺跡に足を運ぶと、いささか勝手が違うのに戸惑うことになるだろう。
------

ということで、宮崎氏は遺跡内の中心部にヘラ神殿、ゼウス神殿などの宗教施設が置かれていることを紹介した後、

------
 古代の競技会と現代のそれとのあいだにはいくつか超え難い溝が存在するが、さしあたって古代ギリシアでは競技会が宗教と一体となっていた事実を指摘しておこう。ギリシア人が体育や馬術あるいは音楽などのコンテストを行なう場合、必ず神々への動物供犠を伴い、供犠なしにコンテストを行なうことはなかった。またコンテストを周期的に(隔年・四年に一度など)行なう場合には神域で開催される宗教祭典に組み込む形を取った(これを競技祭と呼ぶ)。つまり、コンテストの周期性は宗教行事の周期性によって保証されていた。実のところ、オリンピアはゼウス神を祭神とする神域であり、古代オリンピックとは体育と馬術のコンテストを組み込んで行なわれたゼウスのための競技会(オリンピア祭)に他ならない。ギリシア世界ではこうした競技会付き宗教祭典が多数開催されており、オリンピア祭はその中でも最古のものとされる。
-------

と述べます。
ただ、宮崎氏は「オリンピアはオリンピア祭のためだけに存在していたわけではない。祭典はあくまで神域の行事の一つにすぎない」ことを強調され、「前五世紀くらいまでと帝政期のオリンピアに光を当てて、この古代ギリシアきっての大神域の特徴と歴史を少しばかり考えてみることにしたい」と続け、以下、「国際神域の誕生」「エリスとオリンピア」「帝政期の神域と祭典」の三節に分けて論じられます。
個人的に一番興味深かったのは最後の「帝政期の神域と祭典」で、ローマ帝国の支配下に入ってしまった後も何故にオリンピックが続いたのかについて簡潔な説明がなされていますが、その点は後ほど。

検索すると日本語でもオリンピア遺跡の旅行案内サイトは沢山ありますが、正確で分かりやすい地図が伴っていないので、とりあえずウィキペディアの英語版にリンクを張っておきます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Olympia,_Greece

ついでに観光案内として綺麗な写真が多いサイトもひとつだけ。

「旅遊人」サイト内「古代オリンピックが初めて開催された地、オリンピアに行ってみたら」
http://yuuma7.com/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%8C%E5%88%9D%E3%82%81%E3%81%A6%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%9C%B0%E3%80%81%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3/
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「空想の建築―ピラネージから野又穫へ―」

2017-01-16 | 古代オリンピックと近代オリンピック
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月16日(月)22時10分54秒

ピラネージに関する邦文の書籍のうち、画集では『空想の建築-ピラネージから野又穫へ-展』(町田市立国際版画美術館編、エクスナレッジ、2013)が非常に良かったですね。
判型が大きいので細部まで確認できます。
時々訪問している群馬県立近代美術館の常設展示室に野又穫の作品があり、以前からちょっと気になっていたのですが、確かにピラネージに通じるものがありますね。

町田市立国際版画美術館サイト
http://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2013-181

それにしてもピラネージの『幻想の牢獄』は若干22歳の時の作品だそうで、かなりびっくりしました。
『ピラネージの黒い髄脳』では、p32に、

-----
 版画集≪牢獄≫、もっと正確に題を訳せば≪幻想の牢獄≫(Invenzioni Capric di Carceri 牢獄の気まぐれな考案)の初版には製作の日付が記されていないが、一七四五年の上梓と推定されている。ピラネージは、自分の作品目録のなかでこれにもっと古い日付を与えている、「一七四二年に作られた彫版」と。するとそのとき作者は二十二歳であった。
-----

とあり、またp34には、

------
 この前代未聞の一四枚の版画シリーズと、一七四四年のもっと軽い、装飾的な≪グロテスク≫の四つの画と、この二つの版画集だけがピラネージが自分で「気まぐれ」と呼んだもの、もっとよい言い方をすれば強迫観念や幻覚に身を任せた作品なのである。大きな差異はあるものの、≪牢獄≫と≪グロテスク≫とは、いずれも、ヴェネツィア人ピラネージにおよぼした古代的ローマ的なものの最初の衝撃を記録している。≪グロテスク≫は石柱の断片、壊れた薄肉彫の石板、それに十七世紀のある種の墓石の優雅にも不吉な装飾を少しとアレクサンドリアの細密彫りの軽やかな骸骨を少し想い出させる死者の頭部などを、魅力的なロココ風ごった煮のうちにまぜあわせている。高邁な≪牢獄≫は、幻視者の頭脳の黒い暗室〔カメラ〕に写しとられたローマ的バロック的壮大の、一種の倒立した影像を提供している。後には現実と具象のうちに吸収されてしまう暗い幻想─≪ローマ古代遺跡≫はそれにまたどっぷりと浸されることになるのだが─青春期のこの二つの作品には、何ものにも拘束されぬ、いわば化学的に純粋な状態で、その暗い幻想を生きている。とりわけ≪牢獄≫については、この尋常ならざる連作の作者が若干二十二歳であったことをぜひとも想い起こしておくべきである。もしもバロック時代の画家を後期ロマン派の詩人になぞらえることができるものなら、若きピラネージの連作牢獄〔カルチェリ〕を、ランボーの─ただしその後筆を折ることをしなかったもう一人のランボーの、『イリュミナシオン』に相当するもの、とあえていってもよいであろう。おそらくこれはピラネージにとっての「地獄の季節」であったのだ。
-------

とあります。
ユルスナールの名文を読むとピラネージに深入りしたい誘惑に駆られますが、諸々の都合があるので、今は止めておきます。
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「歌会始」の政治力学

2017-01-16 | 歌会始
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月16日(月)21時35分16秒

>筆綾丸さん
>「咲きのぼる」
勅撰集にはなさそうですね。
ただ、いかにも明るく華やかで、新春にふさわしい表現ですね。

篠弘氏は、歌人としての才能はともかく、ある種の政治的な能力に秀でた人ではあるのでしょうね。
私も短歌結社の世界など全く知らないのですが、歌人の内野光子という方は昨年の歌会始について次のように書かれています。

------
「歌会始」の政治力学
もう、ここでは詳しく繰り返さないが、歌壇における「歌会始」への無関心という状況は、あくまでも表面上のことであって、水面下では、ヘゲモニーをめぐっての過酷な争いが展開しているとみてよい。いや、ある友人によれば、すでに決着がついたのではないか、とも言われている。実にくだらないことながら、選者の出身結社ないし師の系統図からみて、かつては、少なくとも、2000年前後までは、 良くも悪くも、バランスがとられていた。その出自は、アララギ系(アララギ、未来)、佐佐木信綱系(心の花)、窪田空穂系(まひる野)、北原白秋系(コスモス)、太田水穂系(潮音)、尾上柴舟系(水甕、創作)、前田夕暮系(詩歌、地中海)、釈迢空・岡野弘彦系などに分かれていた。しかし、現在は、そうした結社の違いが薄弱になっていく一方、逆に、「選者」になることは、選者自身の歌壇上のステイタス、短歌メディアへの影響力を強固にし、自らの結社の会員獲得のいわば「広告塔」としての役割をいっそう強めている。


実は前回投稿の六首のうち、二首目はここに出てきた「政治力学」という表現を借りました。
内野光子氏も相当に政治的に熱いタイプのようで、ブログに散見される「天皇制」への憎悪にはいささか辟易しますが、近年の歌会始選者のバランスの悪さについては同意せざるをえないですね。
内野氏の別のブログ記事には、

-------
 きのうの「しんぶん赤旗」(2015年12月28日)によると、また、一つのサプライズがあった。短歌という狭い世界の話になるが、来年から赤旗「歌壇」の選者の一人に今野寿美がなったというお知らせである。私としては「ああ、やっぱりここまで来たか」との思いなのである。これまで、私は、著書やこのブログ記事でも「歌会始」が、「歌会始」の選者たちが、表に裏に、日本の歌壇をいかに牽引してきたかを、幾度も述べてきた。それは、やはり、現代短歌が当然のように「天皇制」の呪縛から解かれていないことを意味していた。今野寿美は、今年2015年の歌会始の選者として、2014年に、岡井隆の辞めたあと、代わる形で就任していた。すでに2008年からの歌会始選者、三枝昂之の妻である。夫婦での選者は永田和宏・河野裕子に次いで、2例目であった。その今野寿美が赤旗「歌壇」の選者になるという。歌会始の選者が赤旗「歌壇」選者になるのは初めてのことだ。これは、「赤旗の勝手、今野寿美の勝手でしょ」で済む問題なのだろうか。


とあります。
まあ、私は赤旗「歌壇」などには何の興味もないので、今野寿美氏がその選者になろうがどうでもよいのですが、今野氏と三枝昂之氏が夫婦で歌会始の選者になっていて、しかもそれが「永田和宏・河野裕子に次いで、2例目」というのはずいぶん奇妙、というか異常な感じがしますね。

内野光子(1940-)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

お題ー表は野、裏は玉 2017/01/16(月) 16:08:06
小太郎さん
ここ数年の篠弘の歌をみると、心を(あるとして)病んだ老耄という以外、ほとんど意味のない人ですね。歌壇の政治力学によるのか不明ながら、なんでまたこんなのを撰者に据えておくのか、宮中の深い闇のひとつではありますね。

狂歌並びに反歌二首

ひがしがた 総玉砕 ノモンハン 外蒙古出身 春日野部屋

春の夜の 梅の匂ひに さそはれて タマを殺がれる 野良猫の恋

玉かぎる きのふのゆふべは あるものを 涙にかすむ 野辺の送り火

皇后陛下は相変わらず巧みな歌詠みで、天皇陛下の歌は邯鄲の枕を踏まえつつ、あれから四半世紀あまり、夢幻の如くに abdication は近づきぬ、というような思いが虫の音に仮託されているのでしょうね。

召人の久保田氏は定家研究でも著名ですが、「咲きのぼる」という歌語ははじめて知りました。何時頃からあるのかしらん。
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歌会始選者・篠弘さんに捧げる歌六首

2017-01-14 | 歌会始

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 1月14日(土)21時30分37秒

なかなか扱いの難しい天皇譲位問題の折でもあり、皇室行事に積極的に言及するつもりはなかったのですが、昨日行なわれた歌会始における選者筆頭の篠弘氏の歌は、私のスルー(through)力の限界を試すものでした。

------
篠弘さん

 書くためにすべての資料揃ふるが慣ひとなりしきまじめ野郎

http://www.sankei.com/life/news/170113/lif1701130016-n1.html

「お題」が「野」なので、天皇陛下は「那須の野に」、皇后陛下は「野蒜(のびる)を引きてさながらに野にあるごとく」、皇太子殿下は「野を流れゆく」といった具合に、多くの人は野原・草原・平原をテーマとされていますが、たった一人、篠弘氏だけが「野郎」をテーマとしていますね。
天皇・皇后両陛下を始め、皇族の方々は語彙としては「野郎」を御存じだったでしょうが、皇室の公式行事の場で、朗々と「野郎」という上品な言葉が響き渡る情景はかなり意外なものではなかったであろうかと拝察いたします。
ま、これが趣味・傾向を同じくする歌人仲間の私的な場であれば「野郎」も結構だとは思いますが、何もわざわざ新春を寿ぐ歌会始の場で「野郎」呼ばわりしなくてもよいのに、と私などは思います。
ということで、選者筆頭・篠弘氏に捧げる歌を六首ほど。


篠弘 粗にして野だが 卑でもあり
 珍を極むる きまじめ野郎

年の初めに 不協和音を 轟かす
 前衛歌人の 政治力学

ブレーキと アクセル 違(たが)えて 幾星霜
 皇宮警察 取り締まるべし

歌の野を 燃やし尽くして 生真面目に
 暴れまくるは 篠ゴジラかな

東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて
 かへり見すれば 篠ゴジラかな

ひろしです
きまじめ野郎の
ひろしです
八十過ぎて野生児の
ひろしです


最後のが歌かと問われれば若干のためらいもありますが、仮に「書くためにすべての資料揃ふるが慣ひとなりしきまじめ野郎」を歌と呼べるならば、これも歌ではなかろうかと思います。

日本文藝家協会理事長・篠弘氏の変てこな歌
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbf607c361a3c38d6efe16507b30c93

コメント (2)
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