続きです。(p95以下)
泰時が懸念していた弟の「式部丞」朝時が率いる北陸道軍の動向が描かれます。
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(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰〔そろへ〕あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界〔さかひ〕に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈〔はげし〕き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能〔あたはず〕、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛〔はづ〕し懸んと用意したり。人々、「如何が可為〔すべき〕」とて、各区〔まちまち〕の議を申ける所に、式部丞の謀〔はかりごと〕に、浜に幾等〔いくら〕も有ける牛を捕へて、角先に続松〔たいまつ〕を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵〔かたき〕の寄るは」とて、石弓の有限り外〔はづ〕し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故〔ことゆゑなく〕打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄〔はやりを〕の若者共、汀〔なぎさ〕に添て、馬強〔つよ〕なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除〔のけ〕させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
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北陸道軍は「越後国府中」(上越市北部、旧直江津市)で「勢汰」をした後、「越中・越後の界に蒲原と云(難)所」に向かいますが、ここは現在の親不知付近ですね。
親不知
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5
直江津から西に向かうと「子不知」・「親不知」・「浄土崩(じょうどくずれ)」と北陸街道有数の難所が続きますが、「市降浄土」はおそらく「浄土崩」のことですね。
ここに京方の「宮崎左衛門」という者が逆茂木、「石弓」を設けて防備を固めていますが、「石弓」は、ここでは単に石を積み上げ、止め具をはずすと落ちる仕掛けのようですね。
さて、このように厳重に固められた「市振浄土」を突破するため、軍議で様々な案が出された後、「式部丞の謀」として、「浜に幾等も有ける牛を捕へて」、その牛の角に松明を結び付ける案が採用されます。
そして、「七八十匹追続けた」ところ、火を恐れた牛が突進し、「上の山より」それを見た敵方は、幕府軍と誤解して「石弓の有限り外し懸」たので、「多くの牛、被打て死」んだものの、石弓の脅威はなくなって無事に通過できました、とのことですが、これはどこかで聞いたような話ですね。
『源平盛衰記』に描かれた俱利伽羅峠の「火牛の計」のエピソードによく似ています。
倶利伽羅峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「倶利伽羅古戦場」(『津幡町観光ガイド』サイト内)
https://www.town.tsubata.lg.jp/kankou/content/detail.php?id=40
いったい、流布本の「市振浄土」エピソードと『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードはどのような関係にあるのか。
従来は流布本の成立は相当に遅いと考えられていたので、流布本が『源平盛衰記』からヒントを得たのか、『源平盛衰記』が流布本からヒントを得たのかは難しい問題となります。
しかし、私は流布本が慈光寺本に先行していると考えるので、当然に後者、即ち『源平盛衰記』が流布本にヒントを得たとの結論になります。
さて、では流布本の「市振浄土」エピソードは事実の記録なのか。
『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードは中国の戦国時代の故事をもとに創作したものとする考え方が定説になっていると思いますが、『源平盛衰記』が「牛四五百疋」を突進させた、という大規模なものであるのに対し、流布本の「市振浄土」エピソードは「七八十匹」ですから、まあ、そんなこともあるのかな、という感じがしないでもありません。
ま、それはともかく、続きです。(p96以下)
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(又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥〔ふし〕たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能〔よき〕敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。
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「越中と加賀の堺に砥並山」とありますが、「砥並山」(砺波山)は『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードの舞台である俱利伽羅峠のすぐ近くですね。
親不知とは直線距離で100㎞ほども離れた場所です。
そして、「砥並山」に向かった仁科次郎は、流布本において後鳥羽に義時追討を決意させる直接のきっかけとなった二つの事件のひとつに登場する「仁科二郎平盛遠」です。
もう一つは亀菊エピソード(「摂津国長江・倉橋の両庄」の問題)ですが、慈光寺本には亀菊エピソード(「摂津国長江庄三百余町」の問題)だけが載り、仁科盛遠エピソードは存在しません。
流布本も読んでみる。(その4)─仁科盛遠エピソードと亀菊エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82
また、「志保」は、松林氏の頭注には「石川県羽咋郡志雄町付近というが未詳」とありますが、羽咋郡志雄町(合併により2005年から羽咋郡宝達志水町)では「砥並山」から北に十数㎞以上離れており、幕府軍の進路を塞ぐために向かう場所としては考えにくいですね。
「志保」の位置は不明といわざるを得ませんが、ここに向った「伊王左衛門」は、私が慈光寺本の作者ではないかと考える藤原能茂です。
慈光寺本には何度も奇妙な形で登場する能茂は、流布本では、伊賀光季追討場面の後、「推松」派遣の直前に、
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北陸(道)へは、討手を可被向〔むけらるべし〕とて、仁科次郎・宮崎左衛門尉親式〔ちかのり〕・糟屋左衛門尉・伊王左衛門尉、是等を始として官軍少々被下ける。東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請〔こふ〕によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3
と名前だけ出て来ますが、ここで再び名前だけ登場した後の動向は不明です。
要するに能茂は流布本では名前が他者と並記で二度出て来るだけで、全く重要人物としては扱われていません。
さて、以上で流布本の上巻は終りです。