学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その37)─『吾妻鏡』五月三十日条との関係

2023-04-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本の「三浦筑井四郎太郎」エピソードと慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードの関係をしつこく論じてきましたが、最後に『吾妻鏡』承久三年五月三十日条との関係を検討したいと思います。
実は私は、最初から慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードは胡散臭いと思っており、『吾妻鏡』には(「打田三郎」ではなく)「内田四郎」と「下総前司盛綱近親筑井太郎高重」が登場しているから、『吾妻鏡』編者は流布本を読んでいて、流布本の内容を信頼したのだろうと思い込んでいました。
ところが、改めて『吾妻鏡』を見ると、

-------
承久三年(1221)五月大晦日癸丑。相州着遠江国橋本駅。入夜勇士十余輩潜相交于相州大軍。進出先陣。恠之令内田四郎尋問之処。候于仙洞之下総前司盛綱近親筑井太郎高重令上洛云々。仍誅伏之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあります。
それほど難しい文章ではありませんが、正確を期すために『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を借用すると、

-------
晦日。癸丑。相州(北条時房)が遠江国橋本宿に到着した。夜になって勇士十余人が密かに時房の大軍に紛れ込み、先陣に進み出た。(時房が)不審に思って内田四郎に尋問させたところ、「仙洞(後鳥羽)に祗候している下総前司(小野)盛綱の近臣である筑井太郎高重が上洛する」という。そこで高重を誅殺したという。
-------

ということで(p110)、時房が橋本宿に到着した日の夜になって、「勇士十余輩」が「相州大軍」に紛れ込み、「進出先陣」し、それに時房が気付いた、ということですから、この部分は流布本ではなく、慈光寺本そのものです。
うーむ。
とすると、仮に『吾妻鏡』の編者が流布本と慈光寺本の両方を読んでいたとすると、人名については流布本を信頼し、事件の経過については慈光寺本を信頼したということになります。
もちろん、『吾妻鏡』編者が流布本や慈光寺本以外の全く別の史料から事実関係を抽出して書いた可能性もありますが。
ま、私は慈光寺本では「玄蕃太郎」が橋本宿を「夜立」したと改変したために、以降のストーリーが全てチグハグになっていて信頼できないと考えたのですが、仮に『吾妻鏡』編者が流布本も慈光寺本も読んでいたとすれば、『吾妻鏡』編者の解釈は私と全く異なっていたということになりますね。
けっこう良い感じで分析できたなと思っていたので、ちょっとショックではあります。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その36)─「相模殿ノ被居ケル橋下ノ宿ニ帰参」

2023-04-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿では「阿房国」(ノ住人)を阿波と解しましたが、久保田淳氏は脚注で「安房国」の宛字とされており(p336)、そうであれば鎌倉への「官物」の海上輸送は理解しやすいですね。
なお、「官物」の一般的な意味は私も一応理解していますが、朝廷ではなく鎌倉へ納める物品を「官物」と呼ぶのかは少し気になります。

官物(「コトバンク」)
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E7%89%A9-471369

また、「玄蕃太郎」が安房国の住人であるとすると、流布本で、

-------
筑井、とある小家に走入て、四方の垣切て押立、六人楯籠〔たてこもつ〕て矢束〔やたば〕ねといて推くつろげ、指攻〔さしつめ〕々々是を射る。内田の者共、谷を隔てゝ扣へたるが、被射落者もあり、目の前に疵を蒙り失命者数多〔あまた〕あり。筑井、矢種〔やだね〕少なく射成して、「今は如何にせん。可打勝軍にも非ず。さのみ罪造ても無詮〔せんなし〕。いざや思切ん」とて、後見安房郡司と差違てぞ臥にける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

という具合いに「三浦筑井四郎太郎」と刺し違えて自害したとされる「後見安房郡司」と重なる要素も出てきますね。
さて、流布本の「三浦筑井四郎太郎」エピソードと慈光寺本の「玄蕃太郎」エピソードを比較すると、前者はすっきりと理解できますが、後者はどうにもチグハグで、奇妙な話のように思われます。
両者とも十九騎であることは共通ですが、従者を含めれば相当の人数の集団になるはずで、「玄蕃太郎」はその集団を連れて「阿房国」(安房国?)から船で鎌倉に移動していたのか。
また、橋本宿での時房の旅宿の周辺は厳重な警備が行なわれていたはずですが、その前を通って「玄蕃太郎」の十九騎の集団が「夜立」することは可能なのか。
加えて東海道軍の総大将格である時房が、夜間に不審な通行人がいないか見張りをしていたというのも相当に変な話です。
ところで橋本宿(静岡県湖西市、旧新居町)と「音羽原」(音羽川?)は直線距離で30㎞以上離れていますが、昼間であれば、その先の「石墓」までの移動もさほど時間はかからないのかもしれません。
しかし、「打田三郎」は「夜立」を見た時房から追跡を命じられていますから、夜間の馬での移動はなかなか大変そうです。
まあ、慈光寺本の描写からも戦闘は翌朝以降であることが明らかですが、激戦の後、十一人の首を「本野原」に曝した「打田三郎」は「相模殿ノ被居ケル橋下ノ宿ニ帰参」したのだそうで、時房ものんびりそれを待っていたことになります。
この点、流布本では、時房は夜中に見張りをすることはなく、橋本宿で「十九騎連れたる勢の高志山へ入ぬ」という報告を受け、「内田四郎」等に「追懸て敵か御方か尋聞。敵ならば討て被進よ」という明確な命令を下します。
これを受けた「内田四郎」は、三河と遠江の境にある「高志山」から「音羽河の端」まで移動していた「三浦筑井四郎太郎」に追いついて、時房の命令通り敵か味方かを聞き、敵であることを確認した後に攻撃しています。
そして激戦の後、「十九騎が首を本野が原にぞ懸」けますが、「次日」、それを見た時房が、「十九騎と聞へつるが一人も不落けるや。哀れ能〔よ〕かりける者共哉、御大事にも値〔あひ〕ぬべかりける物を。惜ひ者共を」と、敵ながらあっぱれと思って「阿弥陀仏」と祈って通過した、ということで、時間の流れは慈光寺本より遥かに自然です。
結局、「玄蕃太郎」が橋本宿を「夜立」したとしたために、以降のストーリーが全てチグハグになっていますね。
さて、慈光寺本が「最古態本」であるとする近時の有力説(通説?)の立場からすれば、流布本の作者は慈光寺本のチグハグな「玄蕃太郎」エピソードを添削して「三浦筑井四郎太郎」エピソードを作ったことになりますが、それは殆ど新たに創作するに等しい大変な作業ですね。
「玄蕃太郎」エピソードは基本的な構造が歪んでいるので、こんなものを参照するよりは最初から新しい話を作る方がよっぽど簡単です。
私としては、「三浦筑井四郎太郎」エピソードの方が先行しており、その内容、特に時房の優れた指導者像を描いた部分が気に入らなかった流布本の作者が奇妙な改変を加えて、結果的になんともチグハグなエピソードになってしまった、と考えます。
また、藤原能茂を慈光寺本作者、三浦光村を読者と想定する私の立場からは、「三浦筑井四郎太郎」エピソードから「玄蕃太郎」エピソードに転換するに際し、三浦氏の要素が一切消えてしまったことが気になります。
「三浦筑井四郎太郎」は系図類からもその存在を追うことができるのに対し、「玄蕃」を家名とする一族は鎌倉期の史料に全く出てこないようなので、この家名は慈光寺本作者の創作ではなかろうかと思われます。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その35)─「時房、今度ノ軍ニハヤ打勝タリ」

2023-04-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「都ニオハシケル下野守ノ郎等玄蕃太郎」は「阿房国ノ住人」ですが、「鎌倉ヘ官物漕テ上リケル」とあるので、幕府が「下野守」に賦課した何かの物品を阿波から鎌倉まで海上輸送(「漕テ」)するために鎌倉に来ていたということでしょうか。
私には「官物」と「漕テ」の意味がよく分りませんが、ま、それはともかく、「玄蕃太郎」がたまたま鎌倉に滞在していた時に承久の乱が勃発し、「玄蕃太郎」は「相模守ノ手ニカラレテ」(北条時房の手勢に駆り出されて)、遠江の橋本(橋下)宿まで「御供」します。
しかし、「弓箭取身トナリヌレバ、都ニオハシマス我君ノ守殿ヲ、今一度見マイラセタラバコソ、世ニ在カヒアラメ」(武士となった以上、都におられる我が主君・下野守にもう一度お会いしたならば、武士として世の中に存在する意義があろう)と思って、「十九騎ノ勢」で橋本宿を「夜立」して、時房の前で下馬もせず、「ヘリモオカズシテ」通ります。
久保田淳氏の脚注によれば、「ヘリモオカズシテ」は「遠慮会釈なく」という意味だそうです。
そして、「夜立」であるにも拘わらず、時房がそれを見ていたのだそうで、時房は「打田党」を召し寄せて「私の宿の前を下馬もせずに通るとは奇怪な所業である。いったいあれは何者なのだ。よく見て来い」と命令します。
そこで「打田三郎」は様子を探りに行き、戻ると「下野殿ノ郎等玄蕃太郎ニテ候ナリ」と報告します。
時房は誰かだけを知りたかったのではなく、「奇怪」な行動を取った動機も知りたかったでしょうから、この報告は何とも中途半端な、気の利かないものですね。
そして、これを聞いた時房は「軍ノ尤〔いう〕ハ天ヨリ下〔くだり〕、地ヨリ湧ケルモノカナ」と言いますが、私にはこの意味がよく分りません。
「尤(ゆう)」には「優れている」といった意味があるので、久保田氏は「軍ノ尤」に付した脚注で「すぐれた軍兵の意味か」とされていますが、優れた兵士が天から降るとか、地から湧くというのはいったい何なのか。
「玄蕃太郎」一行の十九騎が時房には優れた軍兵と見えて、それが突然現れたのは不思議だと言いたいのか。
また、それが「坂東武者ハ馬足〔うまあし〕クルシキニ、遠江ノ侍カケヨ」とどうつながるのか。
よく分りませんが、とにかく時房は、「関東から進軍してきた武者の馬は疲れているから、遠江のお前たちが行ってこい」と命じたので、「打田党」は「百騎ノ勢」で「玄蕃太郎」を追いかけます。
そして、「三河国高瀬・宮道〔みやぢ〕・本野原〔ほんのがはら〕・音和原〔おとわばら〕ヲ打過テ、石墓〔いしはか〕ニテコソ追付タル」とのことですが、この地名もよく分かりません。
久保田氏の脚注をそのまま転記すると、

 高瀬…高師山のことか。三河国。現、愛知県豊橋市高師町。歌枕とされる。
 宮道…三河国。現、愛知県宝飯郡音羽町と御津町の境にある丘。歌枕とされる。
 本野原…三河国。現、愛知県豊川市の西方。
 音和原…古活字本「音羽河」。音羽川は御津町の東部を流れ、渥美湾に注ぐ。
 石墓…未詳。あるいは「石塚」か。現、豊橋市に石塚の地名がある。

とのことですが、橋本宿(現、静岡県湖西市新居町)から東海道を京都方面に向かうと、豊橋市→(旧)豊川市→宝飯郡御津町(現、豊川市)→宝飯郡音羽町(現、豊川市)という順番ですから、「石墓」が豊橋市なら逆行してしまうことになります。
結局、「石墓」は不明としか言いようがないですね。
このあたり、流布本では、

-------
十九騎続ひたる勢、高志山をも馳過て、宮路山へ打懸り、音羽河の端に下立て、「今は去共〔さりとも〕続く敵、よも非〔あら〕じ」とて、馬の足ひやさせて、片〔かたはら〕なる岳〔おか〕に扇開きつかふて休ける処に、内田の者共馳来て【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

となっていて、「内田の者共六十余騎」は「音羽河の端」で「三浦筑井四郎太郎」一行十九騎に追いついたことになっています。
さて、慈光寺本では、「石墓」で「玄蕃太郎」一行十九騎に追いついた「打田党」の「打田三郎」は、「アレハ玄蕃太郎ト奉見〔みたてまつる〕ハ僻事〔ひがごと〕カ。ソニテマシマサバ、相模殿御使ニ打田党参テ候ナリ。帰〔かへり〕給ヘ、見参セン」と、「玄蕃太郎」に戻るように呼びかけます。
これに対し、「玄蕃太郎」は「殿原、聞召〔きこしめ〕セ。弓矢取身ト成ヌレバ、都ニオハシマス我君守殿ヲ、今一度見参セントテ上ルハ、何カ僻事ナルベキ。我モ人モ互ニ討死セン」と答え、直ちに戦闘が始まります。
うーむ。
確かに「打田三郎」は「僻事」という表現を使ってはいますが、それは「貴殿は玄蕃太郎殿で間違いないか」という意味ですね。
別に「打田三郎」は「玄蕃太郎」が京都に向っていることを「僻事」と非難している訳ではなく、それは「帰〔かへり〕給ヘ」という、あまり緊張感のない呼びかけとも対応しています。
それなのに、「玄蕃太郎」は「都ニオハシマス我君守殿ヲ、今一度見参セントテ上ル」云々と言った後、いきなり戦闘行動に移りますが、ここは何とも唐突です。
確かに同様の説明は前に出て来ていますが、それはあくまで「玄蕃太郎」の内心の問題であって、「打田三郎」はここで初めて聞いたことになります。
また、そもそも「玄蕃太郎」の動機も、主君と一緒に戦いたい、というのなら武士の精神として理解できますが、先に「都ニオハシマス我君ノ守殿〔かうのとの〕ヲ、今一度見マイラセタラバコソ、世ニ在〔ある〕カヒアラメ」とあり、ここで再び「我君守殿」に「今一度見参」したい、とあって、もう一度会いたい、が繰り返されます。
まあ、何となく意味は通りますが、どうにもすっきりしない動機であり、「打田三郎」とのやり取りもチグハグな感じが残ります。
さて、続く戦闘・自害の場面は、

-------
十九騎ノ兵〔つはもの〕、十一騎ハ打物取、八騎ハ弓取矢合シテ、懸合入組ミ散々ニ戦ケリ。百余騎ノ討手モ三十五騎ハ被討〔うたれ〕ニケリ。手負〔ておふ〕モノ数多〔あまた〕アリ。十九騎ノ兵モ十一騎ハ討レニケリ。八騎ハ大道〔おほぢ〕ヨリ南ノ頬〔つら〕ナル宿太郎〔しゆくたらう〕ガ御前家〔おまへのいへ〕ニ遁入〔のがれいり〕、門〔かど〕ドモサシマハシ、火ヲ懸テ、面々自害シテコソ失〔うせ〕ニケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e9741e43ebc317ce16dbbe742207dbc

という具合いに分量は流布本より遥かに少なく、死を覚悟した武士に相応しい感情表現もありません。
「十一騎ハ打物取、八騎ハ弓取」といった具合に、妙に正確な数字に拘るところが、数字マニアというか、どこか無機的な気味の悪さも感じさせます。
なお、「宿太郎」もちょっと意味が分かりにくくて、久保田氏は脚注で「あるいは宿の責任者という意の普通名詞か」とされています。
そして、「打田三郎」が焼死した八人を除く「十一騎ガ頸ヲ取〔とり〕、本野原ニ竿〔さを〕ヲ結テゾ、カケテ」から、橋本宿まで帰って時房に報告すると、「時房、今度ノ軍〔いくさ〕ニハヤ打勝タリ」トテ、上差〔うはざし〕抜テ軍神〔いくさがみ〕ニゾ奉ラレケル」となりますが、これも何だか奇妙な終わり方です。
流布本では、

-------
次日、相模守被通けるが、是を見て、「十九騎と聞へつるが一人も不落けるや。哀れ能〔よ〕かりける者共哉、御大事にも値〔あひ〕ぬべかりける物を。惜ひ者共を」とて、各歎惜み、「阿弥陀仏」と申て通りけり。
-------

となっていて、武士としての意地を貫いた十九騎に時房が同情と共感を寄せており、戦場美談となっています。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その34)─「下野守ノ郎等玄蕃太郎ト云者」

2023-04-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

幕府軍の勝利まで流布本を読み進めるか、それとも慈光寺本に戻るかで少し悩みましたが、流布本の上巻が終わって区切りが良いところなので、慈光寺本に戻ることにします。
慈光寺本では「押松」が「鎌倉ヲ出テ五日ト云シ酉ノ時ニハ都ニ上リ、高陽院殿ノ大庭ニゾ著ニケレ」で上巻が終わって、

-------
十善ノ君ヲ始〔はじめ〕マイラセテ、大臣・公卿・納言・宰相・女房・諸人集リ、「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」トテ、御簾ヲ挑〔かか〕ゲ、門前市〔いち〕ヲ成〔なす〕。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/233d606a92d0f07c661e4806fddd6b6e

で下巻が始まります。
別に刺客としてではなく、単なる使者として鎌倉に行った「押松」が義時の首を持って帰るはずはないのですが、とにかく慈光寺本の下巻はこうした変な文章で始まります。
そして、宇治川合戦に関する記事が存在しない慈光寺本では、尾張河(木曽川)での敗北後に新たに京都防衛の第二次軍勢配備が行なわれることはなく、尾張河への派遣とともに、

-------
 瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者〔りつしや〕・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾〔みを〕ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向〔たちむか〕フ。行桁〔ゆきげた〕三間引放〔ひきはなち〕、大綱〔おほづな〕九筋引ハヘテ、乱杭〔らんぐひ〕・逆木〔さかもぎ〕引テ待懸〔まちかけ〕タリケリ。
 宇治ノ手ニハ、甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道ヲ始トシテ、奈良印地〔ならのいんぢ〕ニ仰附ラレケリ。真木島〔まきのしま〕ヲバ、佐々木野中納言有雅、伏見ヲバ、中御門中納言宗行、芋洗〔いもあらひ〕ヲバ、坊門新中納言忠信、魚市ヲバ、吉野執行、大渡〔おほわたり〕ヲバ、二位法眼尊長、下瀬〔しものせ〕ヲバ、伊予河野四郎入道ニ仰付ラレケリ。残ル人々ハ、按察殿ヲ始トシテ一千騎、高陽院殿ニゾ籠〔こもり〕ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

という具合いに、勢多・宇治へも軍勢が派遣されたものと構成されています。
そして、尾張河方面では、何故か藤原秀康の弟の秀澄が「美濃国垂見郷小ナル野」で「軍ノ手分」をします。(岩波新大系、p335以下)

-------
 去程〔さるほど〕ニ、海道大将軍河内判官秀澄、美濃国垂見郷〔たるみのがう〕少ナル野ニ著〔つき〕、軍〔いくさ〕ノ手分〔てわけ〕セラレケリ。「阿井渡〔あゐのわたり〕、蜂屋入道堅メ給ヘ。大井戸〔おほゐど〕ヲバ、駿河判官・関左衛門・佐野御曹司固メ給ヘ。売間瀬〔うるまのせ〕ヲ神土殿、板橋〔いたばし〕ヲバ萩野次郎左衛門・伊豆御曹司固メ給ヘ。火御子〔ひのみこ〕ヲバ、打見・御料・寺本殿固メ給ヘ。伊義渡〔いぎのわたり〕ヲバ、開田・懸桟・上田殿固メ給ヘ。大豆戸〔まめど〕ヲバ、能登守・平判官固メケリ。食渡〔じきのわたり〕ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ。上瀬〔かみのせ〕ヲバ、滋原左衛門・翔左衛門固メ給ヘ。洲俣〔すのまた〕ヲバ、山田殿固メ給ヘ」。山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸〔きど〕ヘ散ス事コソ哀レナレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

4月21日の投稿でここまで紹介済みですので、その続きを見て行きます。(p336以下)

-------
 去程〔さるほど〕ニ、海道ノ先陣相模守、遠江国橋本ノ宿ニゾ著〔つき〕ニケル。都ニオハシケル下野守ノ郎等玄蕃太郎〔げんばのたらう〕ト云者ハ、阿房国ノ住人ナリ。鎌倉ヘ官物〔くわんもつ〕漕テ上〔のぼ〕リケルガ、弓矢取ノ哀〔あはれ〕サハ、妻子ニ暇〔いとま〕モコハズシテ、相模守ノ手ニカラレテ、遠江ノ橋下ノ宿マデ御供シテマイイリケルガ、思様〔おもふやう〕、「弓箭取〔ゆみやとる〕身トナリヌレバ、都ニオハシマス我君ノ守殿〔かうのとの〕ヲ、今一度見マイラセタラバコソ、世ニ在〔ある〕カヒアラメ」ト思ヒ、十九騎ノ勢ニテ橋下〔はしもと〕ノ宿ヲ夜立〔よだち〕ニシテ、相模守ノ前ヲ下馬〔げば〕モセズ、ヘリモオカズシテ通リケル。
 相模守是ヲ見テ、打田党〔うちだたう〕ヲ召寄〔めしよせ〕、申サルゝ様〔やう〕、「何〔いか〕ナル者ゾ、時房ガ宿ノ前ヲ、下馬モセズシテ通〔とほる〕条コソ奇怪〔きつくわい〕ナレ。立出〔たちいで〕テ見ヨ」トアリケレバ、打田三郎出テ見、帰参〔かへりまゐり〕テ申ケルハ、「下野殿ノ郎等玄蕃太郎ニテ候ナリ」トゾ申ケル。相模守重テ申サレケルハ、「軍ノ尤〔いう〕ハ天ヨリ下〔くだり〕、地ヨリ湧ケルモノカナ。坂東武者ハ馬足〔うまあし〕クルシキニ、遠江ノ侍カケヨ」トコソハ申サレケレ。打田党仰ヲ蒙リ、百騎ノ勢ニテカケ出テ、三河国高瀬・宮道〔みやぢ〕・本野原〔ほんのがはら〕・音和原〔おとわばら〕ヲ打過テ、石墓〔いしはか〕ニテコソ追付タル。打田三郎申ケルハ、「アレハ玄蕃太郎ト奉見〔みたてまつる〕ハ僻事〔ひがごと〕カ。ソニテマシマサバ、相模殿御使ニ打田党参テ候ナリ。帰〔かへり〕給ヘ、見参セン」トゾ申タル。玄蕃太郎是ヲ聞、立帰ル。馬ノ鼻ヲ一〔ひとつ〕ニ立並テ申ケルハ、「殿原、聞召〔きこしめ〕セ。弓矢取身ト成ヌレバ、都ニオハシマス我君守殿ヲ、今一度見参セントテ上ルハ、何カ僻事ナルベキ。我モ人モ互ニ討死セン」トテ、十九騎ノ兵〔つはもの〕、十一騎ハ打物取、八騎ハ弓取矢合シテ、懸合入組ミ散々ニ戦ケリ。百余騎ノ討手モ三十五騎ハ被討〔うたれ〕ニケリ。手負〔ておふ〕モノ数多〔あまた〕アリ。十九騎ノ兵モ十一騎ハ討レニケリ。八騎ハ大道〔おほぢ〕ヨリ南ノ頬〔つら〕ナル宿太郎〔しゆくたらう〕ガ御前家〔おまへのいへ〕ニ遁入〔のがれいり〕、門〔かど〕ドモサシマハシ、火ヲ懸テ、面々自害シテコソ失〔うせ〕ニケレ。打田三郎ハ是ヲ見テ、十一騎ガ頸ヲ取〔とり〕、本野原ニ竿〔さを〕ヲ結テゾ、カケテ帰〔かへる〕。相模殿ノ被居〔ゐられ〕ケル橋下ノ宿ニ帰参シテ、此由申ケレバ、守殿申サレケルハ、「時房、今度ノ軍〔いくさ〕ニハヤ打勝タリ」トテ、上差〔うはざし〕抜テ軍神〔いくさがみ〕ニゾ奉ラレケル。
-------

流布本では「下総守の縁者に三浦筑井〔つくゐ〕四郎太郎」が主役でしたが、慈光寺本では「下野守ノ郎等玄蕃太郎」のエピソードとなっています。

流布本も読んでみる。(その18)─「下総守の縁者に三浦筑井四郎太郎と申者にて候」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

その他、非常に多くの異同がありますが、全体的な印象として、流布本の方は構成や登場人物の意図がすっきりしていて分かりやすいのに対し、慈光寺本では最後まで読んでも今一つ分かりにくいところがあります。
次の投稿で細かく検討します。

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流布本も読んでみる。(その27)─「浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て」

2023-04-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p95以下)
泰時が懸念していた弟の「式部丞」朝時が率いる北陸道軍の動向が描かれます。

-------
(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰〔そろへ〕あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界〔さかひ〕に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈〔はげし〕き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能〔あたはず〕、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛〔はづ〕し懸んと用意したり。人々、「如何が可為〔すべき〕」とて、各区〔まちまち〕の議を申ける所に、式部丞の謀〔はかりごと〕に、浜に幾等〔いくら〕も有ける牛を捕へて、角先に続松〔たいまつ〕を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵〔かたき〕の寄るは」とて、石弓の有限り外〔はづ〕し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故〔ことゆゑなく〕打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄〔はやりを〕の若者共、汀〔なぎさ〕に添て、馬強〔つよ〕なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除〔のけ〕させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
-------

北陸道軍は「越後国府中」(上越市北部、旧直江津市)で「勢汰」をした後、「越中・越後の界に蒲原と云(難)所」に向かいますが、ここは現在の親不知付近ですね。

親不知
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5

直江津から西に向かうと「子不知」・「親不知」・「浄土崩(じょうどくずれ)」と北陸街道有数の難所が続きますが、「市降浄土」はおそらく「浄土崩」のことですね。
ここに京方の「宮崎左衛門」という者が逆茂木、「石弓」を設けて防備を固めていますが、「石弓」は、ここでは単に石を積み上げ、止め具をはずすと落ちる仕掛けのようですね。
さて、このように厳重に固められた「市振浄土」を突破するため、軍議で様々な案が出された後、「式部丞の謀」として、「浜に幾等も有ける牛を捕へて」、その牛の角に松明を結び付ける案が採用されます。
そして、「七八十匹追続けた」ところ、火を恐れた牛が突進し、「上の山より」それを見た敵方は、幕府軍と誤解して「石弓の有限り外し懸」たので、「多くの牛、被打て死」んだものの、石弓の脅威はなくなって無事に通過できました、とのことですが、これはどこかで聞いたような話ですね。
『源平盛衰記』に描かれた俱利伽羅峠の「火牛の計」のエピソードによく似ています。

倶利伽羅峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「倶利伽羅古戦場」(『津幡町観光ガイド』サイト内)
https://www.town.tsubata.lg.jp/kankou/content/detail.php?id=40

いったい、流布本の「市振浄土」エピソードと『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードはどのような関係にあるのか。
従来は流布本の成立は相当に遅いと考えられていたので、流布本が『源平盛衰記』からヒントを得たのか、『源平盛衰記』が流布本からヒントを得たのかは難しい問題となります。
しかし、私は流布本が慈光寺本に先行していると考えるので、当然に後者、即ち『源平盛衰記』が流布本にヒントを得たとの結論になります。
さて、では流布本の「市振浄土」エピソードは事実の記録なのか。
『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードは中国の戦国時代の故事をもとに創作したものとする考え方が定説になっていると思いますが、『源平盛衰記』が「牛四五百疋」を突進させた、という大規模なものであるのに対し、流布本の「市振浄土」エピソードは「七八十匹」ですから、まあ、そんなこともあるのかな、という感じがしないでもありません。
ま、それはともかく、続きです。(p96以下)

-------
 (又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥〔ふし〕たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能〔よき〕敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。
-------

「越中と加賀の堺に砥並山」とありますが、「砥並山」(砺波山)は『源平盛衰記』の「火牛の計」エピソードの舞台である俱利伽羅峠のすぐ近くですね。
親不知とは直線距離で100㎞ほども離れた場所です。
そして、「砥並山」に向かった仁科次郎は、流布本において後鳥羽に義時追討を決意させる直接のきっかけとなった二つの事件のひとつに登場する「仁科二郎平盛遠」です。
もう一つは亀菊エピソード(「摂津国長江・倉橋の両庄」の問題)ですが、慈光寺本には亀菊エピソード(「摂津国長江庄三百余町」の問題)だけが載り、仁科盛遠エピソードは存在しません。

流布本も読んでみる。(その4)─仁科盛遠エピソードと亀菊エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

また、「志保」は、松林氏の頭注には「石川県羽咋郡志雄町付近というが未詳」とありますが、羽咋郡志雄町(合併により2005年から羽咋郡宝達志水町)では「砥並山」から北に十数㎞以上離れており、幕府軍の進路を塞ぐために向かう場所としては考えにくいですね。
「志保」の位置は不明といわざるを得ませんが、ここに向った「伊王左衛門」は、私が慈光寺本の作者ではないかと考える藤原能茂です。
慈光寺本には何度も奇妙な形で登場する能茂は、流布本では、伊賀光季追討場面の後、「推松」派遣の直前に、

-------
 北陸(道)へは、討手を可被向〔むけらるべし〕とて、仁科次郎・宮崎左衛門尉親式〔ちかのり〕・糟屋左衛門尉・伊王左衛門尉、是等を始として官軍少々被下ける。東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請〔こふ〕によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

と名前だけ出て来ますが、ここで再び名前だけ登場した後の動向は不明です。
要するに能茂は流布本では名前が他者と並記で二度出て来るだけで、全く重要人物としては扱われていません。
さて、以上で流布本の上巻は終りです。

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流布本も読んでみる。(その26)─「義村昔より御大事には度々逢て、多の事共見置て候」

2023-04-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本における「山田次郎重忠」と「伊佐三郎行正」の奇妙な戦いについての情報量と、『吾妻鏡』六月六日条の「山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電」という一文の情報量の差は圧倒的です。
従って、『吾妻鏡』の編者が流布本を参照したのであれば話は簡単ですが、野口実氏が信頼されている杉山次子氏のように、流布本は『吾妻鏡』を素材の一つとして『吾妻鏡』に後れて成立した、と考える立場からは、このエピソードなど、流布本作者は執筆にあたって別のルートから大量の情報を集める必要があって、大変な作業になりそうですね。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

ま、それはともかく、続きです。(p93以下)

-------
 東山(東海両)道の大勢一に成て上りければ、野も山も兵共〔つはものども〕充満して、幾千万と云数を不知。野上・垂井に陣を取て、駿河守軍の手分けをせられけるは、「相模守殿は勢多へ向はせ御座〔ましまし〕候へ。供御〔くご〕の瀬へは武田五郎被向候へ。宇治へは武蔵守殿向はせ給ひ候へかし。芋洗〔いもあらひ〕へは毛利蔵人入道殿向はれ候べし。義村は淀へ罷向候はん」と申せば、相模守殿の手の者、本間兵衛尉忠家進出て申けるは、「哀れ、駿河守殿は悪〔あし〕う被物申哉。相模(守)殿の若党には、軍な仕〔せ〕そと存て被申候か」。駿河守、「此事こそ心得候はね。義村昔より御大事には度々逢て、多の事共見置て候。平家追討の時、関東の兵共被差上〔さしのぼせ〕候しに、勢多へは(大手なればとて)三河守殿向はせ御座〔おはしま〕して、宇治へは(搦手なれば)九郎判官殿向はせ給ひ、上下の手雖同、三河守殿、勢多を渡して、平家の都を追落し、輙〔たやす〕く軍に打勝せ給ふ。是は先規も御吉例にて候へばと存てこそ、加様には申候へ。争〔いかで〕か軍な仕〔せ〕そと思ひて、角〔かく〕は可申候。加様に被申条、存外の次第に候。勢多へは敵の向ふ間敷〔まじき〕にて候歟。軍は何〔いづ〕くも、よも嫌ひ候はじ。只兵〔つはもの〕の心にぞ可依」と申しければ、本間兵衛尉、始の申状は由々敷〔ゆゆしく〕聞へつれ共、兎角〔とかく〕申遣〔やり〕たる方もなし。武蔵守泰時は、駿河守の議に被同ぜ。其時に被申は、「宇治へ向はんずる人々は、皆被向候べし。但式部丞北陸道へ向ひ候しが、道遠く極たる難所にて、未著たり共聞へ候はず。都へ責入ん日、一方透〔すい〕ては悪〔あし〕かりなん。小笠原次郎殿、北陸道へ向はせ給へ」。「長清は、山道の悪所に懸て馳上候つる間、関太良にて馬共乗疲らかし、肩・背〔せなか〕・膝かけ、爪かゝせて候、又大炊渡にて若党共手負て候へば、(無勢旁〔かたがた〕以て)叶はじ」と申ければ、武蔵守、「只〔ただ〕向はせ給へ、勢を付進〔つけまゐ〕らせん」とて、千葉介殿・筑後太郎左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎・是等を始て一万余騎被添ければ、小関に懸りて伊吹山の腰を過、湖の頭を経て西近江、北陸道へぞ向ける。
-------

東海・東山道の両軍が合流して大勢力になった後、野上・垂井(いずれも現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で京攻めの「軍の手分け」を行います。
その際、「駿河守」三浦義村が、

 勢多   相模守(北条時房)
 供御の瀬 武田五郎(信光)
 宇治   武蔵守(北条泰時)
 芋洗   毛利蔵人入道(大江季光)
 淀    三浦義村

という案を提示すると、「相模守の手者、本間兵衛尉忠家」が、「勢多では時房の下の若党が活躍できない、我々に軍をするなと言うのか」と不満を述べます。
すると義村は、「自分は昔から大事な戦闘を何度も経験して、多くの事を見て来ている。平家追討の時、勢多は大手なので「三河守殿」(源範頼)が向かい、宇治は搦め手なので「九郎判官殿」(源義経)が向かった。そして三河守殿は勢多を渡って平家を都から追い落とした。先例も吉例だから、先の案を出したのだ。全く心外である。勢多には敵が向かわないとでも言うのか」と反論すると、威勢の良かった「本間兵衛尉忠家」も返答できなかったのだそうです。
ただ、この話はちょっと変で、範頼・義経は木曽義仲を討ったのであり、平家の都落ちは義仲入京の時ですね。
なお、三浦義村は生年不明ですが、高橋秀樹氏は仁安三年(1168)生まれと推定されており(『三浦一族の研究』、p185)、この推定が正しければ承久三年(1221)には五十四歳となります。

三浦義村(1168?-1239)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%BE%A9%E6%9D%91

さて、総大将の北条泰時が三浦義村案に賛成して、この案で決定となります。
そして泰時は「式部丞」北条朝時率いる北陸道軍が遅れていることを懸念し、小笠原次郎長清に北陸道に向かうように命じますが、長清は馬が疲れている、大炊渡で若党の多数が負傷している、などと言って従いません。
しかし、泰時は長清に直ちに北陸道に向かうことを厳命します。
ただ、同時に泰時は一万余騎の援軍を長清に付しており、このエピソードは泰時が厳格であると同時に思慮深い、優れた指導者であることを讃美しているようです。
ちなみに小笠原長清は応保二年(1162)生まれで、承久の乱の時点でちょうど六十歳であり、寿永二年(1183)生まれの泰時より二十一歳も年上ですから、泰時にとってはなかなか扱いにくい老武者ではあったでしょうね。
長清は非常に長命で、没年は泰時と同じ仁治三年(1242)です。

小笠原長清(1162-1142)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85
北条泰時(1183-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82

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流布本も読んでみる。(その25)─「主が軍せば寄て手伝もせず。打合時は立のき見物し」

2023-04-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「伊具六郎有時」は北条義時の息子、泰時や朝時・重時の弟なので、最高に恵まれた出自の人ですが、その経歴は今一つパッとせず、子孫もあまり目立たない家柄になってしまいますね。

北条有時(1200-70)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%89%E6%99%82

さて、「伊具六郎有時が手者、伊佐三郎行正」は山田次郎重忠を討ち取ろうと思って進みますが、岸には草が生い茂り、「河の底」も見えない状態だったため、馬が後ろ足を踏み外して逆さまにひっくり返ってしまいます。
すると、山田重忠が「堀の底」に立っています。
「河の底」と「堀の底」の関係がよく分かりませんが、草に隠れた窪地があって、そこにまず山田次郎が落ち、ついで伊佐三郎も落ちたということでしょうか。
あるいは伊佐三郎は転倒しただけで落ちはせず、下を見たら山田次郎がいたということでしょうか。
ま、それはともかく、伊佐三郎は「堀の底」にいる人物に馳せ寄り、「如何なる者ぞ」と問い、互いに名乗ります。
その次の「鐙を越えて落合て」もよく分りませんが、とにかく二人は「底の堀」で「引組」ます。
しかし、何しろ「底の堀」なので、敵も味方も二人がそんなことをしていることに気づきません。
そして、山田次郎には乗り換えの馬も、それを引く下人もいませんが、伊佐三郎には雑色が一人います。
ところが、その雑色は主人が戦っているのに近寄って手伝うこともなく、二人が「打合」う時は立ち退いて「見物」しており、二人が戦いに疲れて休んでいるときは主人に近寄って傍らにいます。
そんなことを三回繰り返していたところ、山田次郎より先に落ちて行った山田の郎従「藤兵衛尉」が、主人はどうしてしまったのだろうと引き返して様子を窺うと、「底の堀」で「太刀打の音」がします。
そこで近寄って見ると主人だったので、ここにおられたのかと思って、馬から飛び降り、主人の「底の堀」から引っ張り出して、自分の馬に乗せようとします。
しかし、伊佐三郎が山田次郎の「甲のしころ」、即ち兜の周りに垂れ、首を守る部分を掴んで引いたので、「大力なれば」兜の緒が切れてしまい、山田は兜を残して逃げ出すことが出来たのだそうです。
伊佐三郎は山田を討ち取ることはできなくて残念だったけれども、山田の兜・馬・鞍を奪い取ることができたので名を挙げました、で終わってしまうこの奇妙なエピソードは、まず、場所が変ですね。
まるでコロセウムで戦う古代ローマの剣闘士というか、プロレスラーの金網デスマッチというか、とにかく変な場所で二人が「太刀打」をすることになった訳ですが、場所よりも更に変なのは伊佐三郎の雑色の役割です。
三回ラウンドのボクシング試合のセコンドでもあるまいし、何でこの雑色は主人が戦うのに加勢せず、ボーっと「見物」していたのか。
何とも不合理というか、シュールな味わいを感じさせる展開ですが、ここは前田家本では次のように描かれています。(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本『承久記』、汲古書院、2004、p252以下)
原文は少し読みづらいので、私意で句読点等を若干加えます。

-------
残りは敵を追ける大将とみえて兵〔つはもの〕共はせ行〔ゆく〕に目をかけて落行〔おちゆく〕を、伊佐三郎をしならべて組〔くむ〕処に古堀の有けるを、敵越けるとて馬まろびけるに、伊佐が馬も続てまろびけり。山田おき直て、汝は何者ぞ、我は源重忠なり、伊佐は信濃国住人伊佐三郎行政也とぞ答ける。さては恥ある者こそとて太刀をぬきけるを見て、山田が郎等に藤兵衛と云者、馬より下、伊佐三郎を切る。三郎居尻に打すへられて居ながら太刀を以て合せけり。伊佐が乗替〔のりかへ〕の郎等二人まもり居たりけるが、主の既にうたるゝをみて二人走よりけるが、敵太刀を取直し討んとすれば逃けり、又主を討んとすれば二人走りよる。如此すること三四度なり。其後々より大勢馳来けり山田をば藤新兵衛馬かきのせて落て行。
-------

前田家本では、伊佐三郎が「敵」の馬に並んで戦おうとしたところ、「古堀」があって、「敵」はそれを越えようとして転落し、続いて伊佐三郎の馬も転落します。
そして山田と伊佐は互いに名乗り合い、伊佐が太刀を抜いたのを見て、山田の郎等の「藤兵衛」という者が馬から降りて伊佐に切りつけます。
「伊佐が乗替の郎等二人」は主人が戦うのを見物していた訳ではなく、一応は主人を助けようとしますが、あまり強くないので逃げたり近づいたりを三、四度繰り返した後、山田は「藤新兵衛」が自分の馬に乗せて去って行った、という展開です。
この少し前に「山田が郎等藤兵衛父子」とあるので(p252)、伊佐に切りつけたのは父親、山田を自分の馬に乗せたのは息子のようです。
さて、流布本の奇妙なエピソードと前田家本のそれなりにまともなエピソードの関係をどう考えるべきか。
かつては前田家本の位置づけについては学説が混乱していましたが、西島三千代・日下力氏等による研究で、現在では流布本が前田家本に先行していることが確定しています。
従って、この部分も、流布本の内容に疑問を抱き、それが武家社会の常識に合わないことに憤慨した前田家本作者が「合理的」な解釈を加えたものと思われます。
なお、慈光寺本には類似エピソードは存在しませんが、『吾妻鏡』承久三年六月六日条には、

-------
今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。

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流布本も読んでみる。(その24)─「道にては如何にも療治難叶間、進らせ候」

2023-04-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ここで「尾張河」(木曽川)の「九瀬」に分散配置された京方の軍勢を確認しておくと、一番上流で一番東の(1)大炊の渡(大井戸)には「駿河大夫判官」大内惟信以下二千余騎が置かれます。
そして下流(西)に向って順に、(2)鵜沼の渡、(3)板橋、(4)気瀬には各一千余騎、(5)大豆渡(慈光寺本も同じ。『吾妻鏡』では「摩免戸」)には藤原秀康・三浦胤義・小野盛綱ら一万余騎が置かれていて、ここが主力です。
ついで(6)食渡、(7)稗島には各五百余騎、(8)墨俣に藤原秀澄・山田重忠以下一千余騎が置かれています。
(9)市河前は墨俣の南方になって、ここは五百余騎です。

流布本も読んでみる。(その17)─藤原秀康は本当に「総大将」なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65e9394f6bb0c90f3a7875fee81abd75

重要なのは六月五日、東山道軍と最初に戦闘に入った(1)大炊の渡と、主力が置かれた(5)の大豆渡、そして地元の地理を知り尽くした戦略家の山田重忠が配置された(8)墨俣ですね。
大豆渡は現在の岐阜県各務原市前渡のあたり、墨俣は旧墨俣町(現在は大垣市の飛び地)で、(1)大炊の渡と(5)大豆渡とは直線距離で15㎞ほど、(5)大豆渡と(8)墨俣も直線距離で同じく15㎞ほど離れていて、約30㎞ほどの距離の間に(1)~(8)が含まれることになります。
さて、幕府軍が(5)大豆渡を渡河するのは六月六日で、京方が総崩れになって落ち行く中、山田重忠が踏みとどまったのは「杭瀬河の西の端」ですが、杭瀬川は今の揖斐川なので、(8)墨俣より少し西と思われます。
そして、この後の「武蔵国住人高枝次郎」のエピソードも杭瀬川での出来事ですね。(p91以下)

-------
 武蔵国住人高枝次郎、河瀬を渡して、只一騎細縄手〔なはて〕に懸り、敵に向て追懸て行。七八騎有ける勢取て返し、高枝を中に取籠て(散々に)戦ふ。高枝次郎、片足を田へ踏入、片足をば縄手に跪〔ひざまづい〕て被切伏ぬ。甲も被打落て、痛手負て横様に臥たりけり。敵一人寄合ひて、取て押へ首取んと仕〔し〕ける所に、東国の兵、颯〔さつ〕と続たりければ、首をも不取、打捨て落行ぬ。御方勢近付て見れば、鎧・物の具・面も朱〔あけ〕に成て、誰共不見。大将軍武蔵守、「あら無慙〔むざん〕やな。此者、痛手負たり。誰ぞ」と問給へば、未〔いまだ〕死やらで片息したりけるが、「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候」(と申)。武蔵守、「不便〔ふびん〕の事や。手を能〔よく〕々見よ」(とありければ、人々走寄りて見るに)甲被打落て、頭の疵より物具の裾〔すそ〕まで、大小の疵廿三箇所ぞ負たりける。「如何に、此手にては可死か」。「よも此手にては死候はじ」と申。「如何が可仕〔すべき〕。道にては不叶〔かなふまじ〕」とて、御文遊し、御使一人添て、其より鎌倉ヘぞ被下ける。「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候。六月六日、杭瀬河の軍に、手数多〔あまた〕負候。道にては如何にも療治難叶間、進〔まゐ〕らせ候。随分忠を致せし者にて候へば、相構へて々々扶かり候様に、御計ひ可有」由、権大夫殿へぞ被申ける。
-------

「武蔵国住人高枝次郎」が渡河してただ一騎、敵を追って行くと、七八騎が戻ってきて、高枝を取り囲み、滅多切りにします。
傷だらけで倒れ込んだ高枝が首を取られそうになっていたところに味方が来ますが、高枝は全身血まみれで、誰とも分かりません。
「大将軍武蔵守」北条泰時が「痛ましいことだ。この者は大変な傷を負っている。一体誰だ」と問うと、まだ死んでいなくて絶え絶えの息をしている高枝が「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候」と答えます。
全身二十三箇所の傷を負った高枝を見た泰時は、「この者は六月六日、杭瀬河の戦いで沢山の傷を負いましたが、こちらでは治療は困難なので、鎌倉に送ります。ずいぶん忠を致した者なので、是非とも命が助かるようにお計らい下さい」という北条義時宛ての手紙を書いて、使者を一人副えて鎌倉へ送ったとのことで、泰時讃美の戦場美談ですね。
さて、続いて「伊具六郎有時が手者、伊佐三郎行正」と山田重忠の戦いとなりますが、これは何とも奇妙なエピソードです。(p92以下)

-------
 去程に、京方落行けるを、各追懸々々行程に、伊具六郎有時が手者、伊佐三郎行正、山田次郎を目に懸て行程に、彼方端も此方の岸も草は生ひ茂り、河の底も見へざるに、馬の尻足踏外〔ふみはづ〕して倒〔さかしま〕に帰りければ、山田次郎、堀の底にぞ下立たる。伊佐三郎、馳寄て「如何なる者ぞ」。「山田次郎重忠ぞかし。わ君は誰ぞ」。「伊佐三郎行正」と名乗〔なのる〕。鐙〔あぶみ〕を越て落合て、底の堀にて引組間、敵〔かたき〕・御方〔みかた〕是を不知。山田次郎、乗替・下人もなし。伊佐三郎、雑色〔ざふしき〕一人具したり。主が軍せば寄て手伝もせず。打合時は立のき見物し、戦疲れて休時は寄て傍に居る。角〔かく〕する事、三度に及べり。(かかりける処に)山田が郎従藤兵衛尉、落行けるが、偖も我主は何と成給ひけんと思て、取て返し見ければ、底の堀に太刀打の音しけり。打寄りて窺へば主君也。是に御座〔おはし〕ける物をと思て、馬より飛をり、主を己〔おの〕れが馬に掻乗て落んとす。伊佐、山田が甲のしころを掴んで引たりけれ共、大力なれば甲の緒をふつと引切て、山田は延ぬ。伊佐、(山田を)被打取ぬは違恨なれ共、甲・馬・鞍を奪留たれば、伊佐が高名とぞ申ける。山田次郎落行けるに、美濃小関にて、高き梢に旗を結付てぞ落行けり。是は爰に敵有と思はせんが為なりと覚へたり。
-------

検討は次の投稿で行います。

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流布本も読んでみる。(その23)─「大将軍武蔵守、河端に打立て軍の被下知ければ」

2023-04-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

先に「三浦筑井四郎太郎」以下の十九騎が東海道軍に紛れて上洛しようとしていたところ、北条時房の命を受けた「遠江国住人内田四郎」六十騎に討たれたというエピソードがありましたが、この場面で「三浦筑井四郎太郎」は「下総守の縁者」と称しています。

流布本も読んでみる。(その18)─「下総守の縁者に三浦筑井四郎太郎と申者にて候」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

流布本だと「下総守」が誰だか分かりませんが、『吾妻鏡』承久三年五月三十日条によれば「仙洞(後鳥羽)に祗候している下総前司(小野)盛綱の近親である筑井太郎高重」とのことなので、「下総守」は小野盛綱と推測できます。
そして、前回引用した場面で、「平九郎判官」三浦胤義に「下総前司」が同行していることが分かりますが、実は「下総前司」は既に三浦胤義が初めて後鳥羽院に祗候する場面に、

-------
 一院、弥〔いよいよ〕不安〔やすからず〕思召ければ、関東を可被亡由定めて、国々の兵〔つはもの〕共、事によせて被召ける。関東に志深き輩も力不及、召に随ひて伺候しけり。其比、関東の武士下総前司守縄も伺候してけり。平九郎判官胤義、大番の次〔つい〕で在京して候ければ、院、此由被聞召て、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29c0c7bbf10b299d004770ef6c020b2a

と登場しています。
結局、「三浦筑井四郎太郎」の登場場面では「前」(下総守)が抜けていただけなのでしょうね。
ところで小野盛綱は胤義と一緒に大豆渡に配され(p79)、胤義と一緒に大豆渡から大炊渡に向おうとし(p89)、更に木曽川での敗北後、京方が再編成された時も、三浦胤義と一緒に供御瀬に配されており(p99)、胤義と行動を共にすることが多いようですね。
そうかといって、「其比、関東の武士下総前司守縄も伺候してけり」という書き方からも胤義と小野盛綱が特別な関係にあるようにも見えず、要するに鎌倉からの新参者としてまとめて扱われることが多かった、というだけのことでしょうか。
小野盛綱は横山党ですから、「筑井」(津久井)を名乗る「三浦筑井四郎太郎」とは地縁もあるのかもしれません。

小野盛綱(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%9B%9B%E7%B6%B1

ま、それはともかく、続きです。(p89以下)

-------
 大豆渡へは、相模守・足利武蔵前司被向たりけるに、足利小太郎兵衛・阿曽沼小次郎近綱を始として、各河を渡す。京方、宵に皆落たりければ、屋形は残て主もなし。敵無して軍をせぬ事を無念に思ひて、敵の香に逢んと向ふ輩誰々ぞ。伊具六郎有時・善左衛門太郎・奥岳嶋橘左衛門・山田五郎兵衛入道・紀伊五郎兵衛入道・安保刑部丞・由良左近・青木兵衛・新開兵衛小次郎・目黒太郎・佐賀羅三郎・加地丹内・同中務、是等を始として、敵の香に合んと道をば除〔のけ〕て進行。美濃国筵田〔むしろだ〕と云所にて、京方少々返合せ戦けり。坂東の兵共、願所にては有、悦〔よろこび〕を成て責戦ふ。京方、落武者にては有、組落され/\被討にけり。去〔され〕ば独〔ひとり〕して、頸のニ三取ぬは無けり。
-------

大炊渡に比べると、「相模守」北条時房・「足利武蔵前司」義氏が配された大豆渡の戦いはずいぶんあっさりしたものですね。
ちょっと気になるのは「足利小太郎兵衛」で、松林氏は頭注で「泰氏。義氏の子。足利系図に「雖二男、依本腹、立家嫡」とある。母は北条泰時の娘」とされていますが、泰氏は建保四年(1216)生まれ、承久の乱の時点で六歳ですから、戦陣に出るのは無理です。
とすると、いったいこれは誰なのか。

足利泰氏(1216-70)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B3%B0%E6%B0%8F

よく分りませんが、後日の課題として、続きです。(p90以下)

-------
 被討残て落ち行ける勢の中に、山田次郎申けるは、「打手に被向たる者共の尾張川にても有恥〔はぢある〕矢の一も不射、道の程(も)甲斐々々敷〔かひがひしき〕軍もせで(落行)、君の御尋有んには、何とか答可申。されば重忠は一軍〔ひといくさ〕せんと思ふ也」とて、杭瀬河〔くひせがは〕の西の端〔はた〕に、九十余騎にて扣〔ひかへ〕たり。奥岳嶋〔をかじま〕橘左衛門、三十余騎の勢にて馳来れば、御方〔みかた〕を待かと覚敷〔おぼしく〕て、河も不渡、軍もせず。去程に御方の勢少々馳著たり。河の端に打立て、「向の岸なるは何者ぞ。敵か御方か」(と問)。山田次郎、「御方ぞ」。「御方は誰ぞ」。「誠には敵ぞ」。「敵〔かた〕きは誰ぞ」。「尾張国の住人、山田次郎重忠なり」。「さては(よき敵なり)」とて、矢合する程社〔こそ〕あれ、打漬て渡しけり。山田次郎が郎等共、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊予坊・荒左近・兵部坊、是等を始として九十余騎、河の端に打下りて散々に戦ふ。その中に大弓・精兵数多〔あまた〕有しかば、河中に射被浸流るゝ者もあり。痛手負て引退者もあり。(左右なく渡しえざりけり)。其中に加地丹内渡しけるが、鞍の前輪鎧こめ、尻輪〔しづわ〕に被射付て、暫〔しば〕しは保て見へけるが、後には真倒〔まつさかさま〕に落ちてぞ流ける。佐賀羅三郎、真甲〔まつかふ〕の余を射させて引退く。波多野五郎、尻もなき矢にて、其も真向の余を射させて引退く。(かゝる所に)大将軍武蔵守、河端に打立て軍の被下知ければ、手負共、各参て見参に入。誠〔まことに〕由々敷〔ゆゆしく〕ぞ見たりける。薄手〔うすで〕負たる者共、矢折懸て臆たる気色もなく渡しけり。被討をも不顧、乗越々々渡す。東国の兵共、如雲霞続きければ暫戦ふて、山田次郎颯〔さつ〕と引てぞ落行ける。
-------

京方が落ちて行く中で、山田重忠のみは、このままではあまりに恥知らずだ、「君の御尋有んには、何とか答可申」と思って「杭瀬河〔くひせがは〕の西の端」に九十余騎でとどまります。
そこに「奥岳嶋橘左衛門」、『吾妻鏡』によれば「小鹿嶋橘左衛門尉公成」が三十余騎でやってきて、最初は味方を待ったのか川を渡りませんが、味方が増えると、対岸の山田重忠に名を質します。
奇妙に間延びしたやりとりの後、良い敵だと思って川を渡って戦い始めますが、山田重忠軍は精強で、犠牲者が続出します。
そうこうしていると「大将軍武蔵守」北条時房が現われ、その指揮の下、続々と軍勢が渡って来るので、山田次郎も「颯と引てぞ落行ける」ことになります。

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流布本も読んでみる。(その22)─「侍はわたり物、草の靡〔なびき〕に社〔こそ〕よれ」

2023-04-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は刀剣の世界に疎いので「御所焼」という言葉も知りませんでしたが、『日本大百科全書(ニッポニカ)』によれば、

-------
一般には後鳥羽院(ごとばいん)(院政1198~1221)作の刀剣を菊一文字と称している。この作は御所焼(ごしょやき)とも菊御作(きくのおんさく)ともよばれ、茎(なかご)に菊花紋を刻したものである。京鍛冶(かじ)・備前(びぜん)鍛冶・備中(びっちゅう)鍛冶を御所に召して鍛刀させ、自らも焼入れをしたと伝えられる。そのなかに作風が備前一文字派の作に似ているものがあって、菊一文字の呼称はそれに起因するものであろう。しかし実際にその茎に菊花紋と「一」の字を銘したものは江戸時代の刀工の作で、鎌倉時代の作には皆無である。備前国一文字派の作にも菊花紋の毛彫りをしたものがまれにあるが、これは菊一文字とはいわない。応永(おうえい)年間(1394~1428)の写本である観智院本(かんちいんぼん)『銘尽(めいづくし)』(国立国会図書館蔵)にも後鳥羽院番鍛冶(ばんかじ)の記事があり、また『承久記(じょうきゅうき)』にも、上皇自ら北面武士(ほくめんのぶし)にその太刀を与えたことが記されている。[小笠原信夫]

https://kotobank.jp/word/%E8%8F%8A%E4%B8%80%E6%96%87%E5%AD%97-472932

とのことで、最後の一文はまさに前回引用した部分に関するものですね。
リンク先サイトなどを見ると、なかなか奥深い世界のようです。

「後鳥羽上皇と御番鍛冶」(『刀剣ワールド』サイト内)
https://www.touken-world.jp/tips/23400/

ま、それはともかく、続きです。(p87以下)

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 又京方より、「大竹小太郎家任」とて喚〔をめい〕て出来たり。信濃国住人岩間三郎親子、向様に歩ませけるが、「如何に大竹殿か。哀れ、あしく計ひ給ふ者かな。わ殿は元は武蔵国住人ぞかし。今こそ京方へも参給たれ。其も関東より進らせたり。侍はわたり物、草の靡〔なびき〕に社〔こそ〕よれ。今日有事も無物を、能〔よく〕計ひ給はで」と云ば、真〔まこと〕にもとや思けん、扣〔ひかへ〕て案ずる所を、岩手父子押双べて、組取て引張。大力とは云へ共、指〔さし〕殺して首を取。此大竹小太郎と申は、関東へ「侍の相撲取て健〔したた〕かならん者を被進〔まゐらせ〕よ」と院より被召しかば、岳部〔をかべ〕右馬允五郎と、此大竹とを並べて、「何れ共有なん。され共、力は猶大竹にてこそ有め」とて被進たり。元は家光と名乗りけるを、西面に被召て、院の家任とは付させ給たりけり。
-------

京方から「自分は大竹小太郎家任だ」と大声をかけながら出て来た者に対し、「信濃国住人岩間三郎」は、「大竹殿か。今回はまずい選択をされたものですな。貴殿はもともと武蔵国住人でしたな。今は京方にお付きになっておられるが、それも元は関東から朝廷に進められたとか。武士は渡り者で、草が風に靡くように強く有利な方へ従うのがよいのに、よく思案されていたら、今日このようになることもなかったでしょうに」などと同情するようなフリをして話しかけ、大竹小太郎がそれを真に受けて馬を止めて考え込んでしまったところを、親子で殺してしまいます。
大竹は後鳥羽院が幕府に「相撲の強い武士を進上せよ」と命じられ、「岳部右馬允五郎」と二人候補になったものの、大竹の方が力が強いだろうとのことで院に参上し、元は家光と名乗っていたのを、西面に召されたときに家任と名を改めた人物とのことで、腕力はあっても頭は弱い人だったようですね。
なお、最初に「信濃国住人岩間三郎親子」とありながら、「岩手父子」となっていますが、これは底本のままとのことです。

-------
 京方、大妻太郎・中三郎・小嶋四郎、三騎連て落行けるが、大妻太郎が申けるは、「我は痛手〔いたで〕負たり。敵〔かたき〕に姿を見へじと思程に、山へ入て自害をせんずるなり。わ殿原は手も負不給。大豆渡に行向て、軍の様をも披露し給へ。君、軍に勝せ給ば、京に二つになる男子を持たり、是に勲功申宛〔あて〕給へ」とて、山の方へ馳けるが、死もやしけん、後には行末も不知。中三郎・小嶋四郎、大豆渡に行向て、此由申ければ、人々あざみ合、色を失ふ。
-------

大妻太郎は「武田が手の者、信濃国住人千野五郎・河上左近」の相手をした場面では颯爽としていましたが、ここではずいぶん落ちぶれていて、自害すると言って山に入り、そのまま行方不明になってしまいます。

流布本も読んでみる。(その20)─「六郎は諏訪大明神に免し奉る」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f16541cbbebd4930786b8182cd983a34

残された中三郎・小嶋四郎の二人は、大豆渡に行って大炊渡での敗戦の模様を人々に話すと、皆驚きあきれて色を失います。

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 平九郎判官、「已〔すで〕に大炊渡破るゝ事こそ安からね。胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向。能登守、被申けるは、「已大炊渡破れて、東山道の大勢打入たり。後ろを被推隔〔おしへだてられ〕、中に被取籠〔とりこめられ〕(ては)勇々敷〔ゆゆしき〕大事也。平九郎判官殿宣〔のたま〕ふは、事可然共不覚。君も『尾張河破れ(な)ば、引退て宇治・勢多を防げ』とこそ被仰下候しか。秀安に於ては罷上る成〔なり〕」とて引退く。平九郎判官、口惜は思へ共、宗徒の者共角〔かく〕云間、力不及引て落行けり。
-------

「平九郎判官」三浦胤義は大炊渡が敗れたと聞き、自分が行って戦うといって「下総前司」小野盛綱、「安芸宗内左衛門尉」惟宗孝親、「伊藤左衛門尉」工藤祐時以下の五百余騎で大炊渡に向かおうとしますが、「能登守」藤原秀康は、「既に大炊渡が破れて幕府の東山道の大軍が西岸に渡っている。このままでは包囲されてしまって大変なことになる。胤義殿のおっしゃることには賛成できない。後鳥羽院も「尾張河が破れたら、いったん退いて宇治・勢多を守れ」と仰せられていたではないか。私は退く」と言うので、三浦胤義は口惜しいとは思うものの、主だった者がそう言うのでは仕方ないと思って一緒に落ちて行きます。

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流布本も読んでみる。(その21)─「抜打に馬の首、手綱添てふつと切てぞ落したる」

2023-04-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「大炊の渡」での戦闘に関して、慈光寺本にも流布本に似ているといえば似ているようなエピソードが描かれています。
しかし、流布本の方は、珍しくはあっても戦場ならばそういうこともあるのだろう、と思わせる程度のリアリティがあるのに対し、慈光寺本の方は、例によって、ちょっと作り過ぎではないか、と思わせるような話になっていますが、それは後で慈光寺本に則して検討します。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p85以下)

-------
 (去程に)武田小五郎、軈〔やがて〕て打入て渡けり。伴ふ輩は誰々ぞ。兄の悪三郎・弟の六郎・同七郎・武藤五郎・新五郎・内藤七・黒河内次郎・岩崎五郎、以上九人、是等を始として、百騎に足ぬ勢にてぞ渡しける。京勢放ちける矢、雨の足の如なれば、或は馬を射させ、或は物具の間を射させて河へ入。是をも不顧、乗越々々渡しける。武田五郎、軈て続ひて河端に打望て、「小五郎、能こそ見ゆれ。日来の言に(似せ)て、能く振舞へ。敵に後ろを見せて此方へ帰らば、人手に掛間敷ぞ。只渡せ。其にて死ね」とぞ下知しける。小五郎、元来敵に目を懸て、思切たりける上、父が目の前にて角下知しければ、面も不振戦ける。小笠原次郎、被出抜けるぞと安からず思て、打立てぞ渡しける。
-------

武田小五郎が百騎に満たない軍勢で渡り始めると京方から雨のように矢が降ってきますが、かまわず進みます。
それを武田信光が河端から眺めて、「敵に後ろを見せて戻ってきたら、人手にかけずに父が殺すぞ。ひたすら渡れ。そこで死ね」と檄を飛ばします。
武田軍、実に気合が入っていますが、それを見ていた小笠原長清は武田に先陣を取られて穏やかならず、自軍にもどんどん渡れと命じます。

-------
 京方、各河端に歩向て、散々に戦けれ共、東山道の大勢如雲霞〔うんかのごとく〕打入々々渡しければ、力不及〔およばず〕引退て、上の段へ打上る。下の手に向たる者共、手負馬共・射捨たる矢(など)、西の岸に臨添ふて流れければ、御方の軍弱して、東の大勢西の岸に著てけり、左有〔さら〕ばこそ、手負西の岸に臨添て流るらんと思所に、「大炊の渡の京方破れ、大勢已〔すで〕に打入」と申ければ、鵜沼の渡に向たりける美濃の目代帯刀左衛門尉、口惜事と思て、五十騎計〔ばかり〕にて馳来る。中に隔たり、七八度が程取て返し取て返し戦けれ共、其も終〔つひ〕には可叶にも無ければ引退。美濃国住人蜂屋冠者も引退けるが、信濃国住人伊豆次郎に被組落て被討けり。
-------

京方も激しく応戦しますが、幕府側は大軍で、雲霞の如く渡って来るので力及ばず引きさがります。
そして死傷者や馬、射捨てられた矢などが西側の岸に沿って流れて来て、大炊の渡より下流にいた京方は、味方の不利を感じていたところ、大炊の渡の京方が破れ、大軍が岸を渡った、という情報が伝わってきます。
下流の鵜沼の渡に配置されていた「美濃の目代帯刀左衛門尉」などは、口惜しいと思って五十騎ばかりで上流に向かい、何度も戦いますが、衆寡敵せず、引き返します。
なお、慈光寺本には「蜂屋三郎」という人物の活躍が描かれています。

-------
 筑後六郎左衛門尉、黒皮威の鎧に、赤母衣〔ほろ〕懸て、白月毛なる馬に乗て落行けるを、武田七郎、「蓬〔きた〕なし、余〔あま〕す間敷〔まじき〕ぞ」とて追懸たり。六郎左衛門尉、取て返す。御所焼と云ふ聞ゆる太刀を帯〔はい〕たりけり。御所焼とは次家・次延に作らせて、君御手づから焼せ給けり。公卿・殿上人・北面・西面の輩、御気色好〔よき〕者は、皆給て帯けり。筑後六郎左衛門尉、都を出ける時、「今度帯〔はけ〕」とて給けり。只今其太刀をぞ帯たりける。武田七郎押双たる所を、抜打に馬の首、手綱添てふつと切てぞ落したる。武田、鐙〔あぶみ〕を越てひら(り)と下〔おり〕たつ。此間に筑後六郎左衛門尉、延にけり。武田七郎、馬は被切ぬ、乗替はなし、(いかゞせんと)四方見廻しければ、敵・御方は不知、馬共いくらも放れて走散ける中に、白蘆毛なる馬の轡も無〔なき〕が出来たりけるを、雑色〔ざふしき〕・下人寄合て、是を取りてぞ乗たりける。
-------

「筑後六郎左衛門尉」は八田知家の子・知尚です。
「御所焼」という、後鳥羽院が「次家・次延に作らせて、君御手づから焼せ給」た名刀を持っていて、それは「公卿・殿上人・北面・西面の輩、御気色好〔よき〕者は、皆給て帯」する太刀とのことで、八田知尚も今回の出陣に際して後鳥羽院から下賜されたのだそうです。
武田七郎が八田知尚に追いつくと、知尚は「抜打に馬の首、手綱添てふつと切てぞ落したる」とのことなので、よほどの切れ味だった訳ですね。

八田知尚(?-1221) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E5%B0%9A

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流布本も読んでみる。(その20)─「六郎は諏訪大明神に免し奉る」

2023-04-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』には承久三年五月二十二日に北条泰時が僅か十八騎で出発し、その後、時房・足利義氏・三浦義村以下が続々と出発、北条朝時も同日出発し、二十五日の明け方までにしかるべき東国武士は全て出発した旨が記されています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とすると、武田信光の「十死一生と云ふ悪日」云々の話は、いかにも東国武士の気風を感じさせる美談ではあるものの、みんな大体同じ時期に出発しているのだから、武田信光だけのエピソードにするのは変ではないか、という小さな疑問が私の胸に浮かびました。
その点、「同廿一日、十死一生の日なりけるに、泰時并びに時房両大将として鎌倉を立ち給ふ」とする『梅松論』は、論理的にはすっきりしています。

『梅松論』
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

ただ、承久の乱における幕府の東山道軍は、上野まで行って碓氷峠を信濃に抜けるのではなく、武田の本拠地である甲斐を通って信濃に向かうルートを取っています。
そして、流布本にも「武田五郎、国を立〔たち〕家を出る日(は)」とあるので、これは鎌倉出発の当日ではなく、甲斐での話のようですね。
『梅松論』の記述は、政子の演説などを見ても流布本の影響が窺われるので、『梅松論』作者は流布本を読んで私と同じような疑問を抱き、これは武田信光だけでなく泰時・時房の話にすべきだ、との「合理的」解釈を加えたのかもしれません。
さて、木曽川の「九瀬」の内、最上流、最も東に位置する「大炊の渡」(大井戸渡、現在の岐阜県可児市と美濃加茂市)だけが東山道軍の担当であり、ここで武田・小笠原の幕府軍と大内惟信以下の京方の間で最初の本格的戦闘が始まります。

「承久の乱古戦場跡 大井戸渡」(『岐阜の旅ガイド』サイト内)
https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7086.html
「「承久の乱」古戦場跡を訪ねる」(『サライ』サイト内)
https://serai.jp/tour/1102122

武田信光は「子共の中に憑たりける小五郎」(信政)に小笠原を出し抜いて「大炊の渡の先陣」をするように命じ、これを受けて武田小五郎は郎等の「武藤新五郎」(童名、荒武者)なる水練の達者に「瀬踏」と敵陣の偵察を命じます。
偵察して馬を岸に上げるのに都合の良い場所に目印を立てた新五郎が、その旨を武田小五郎に報告すると、武田小五郎の配下が川を渡ります。(p84以下)

-------
 武田が手の者、信濃国住人千野五郎・河上左近二人打入て渡けるが、向の岸に黒皮威の鎧に月毛なる馬に乗て、くろつはの矢負て、塗籠藤の弓持たりけるが、河の縁の下の段に打下て、「向の岸を渡(すは)何者ぞ」。「是は武田小五郎殿の御手に、信濃国住人千野六郎・河上左近と申者」と名乗けれ(ば)、「同国の住人大妻太郎兼澄也。真に千野六郎ならば、我等一門ぞかし。六郎は諏訪大明神に免〔ゆる〕し奉る。河上殿に於ては申承ん」とて、能引〔よつぴい〕て丁〔ちよう〕と射る。左近が引合〔ひきあわせ〕を篦深〔のぶか〕に射させて、倒〔さかしま〕に落て流れけるに、千野六郎是にも不臆〔おくせず〕、軈〔やが〕て続て渡しければ、「千野六郎は、元来〔もとより〕大明神に免し奉る。馬に於ては申受ん」とて、能引て丁と射る。六郎が弓手の切付〔きりつけ〕の後ろの余〔あまり〕、篦深に射させて、馬倒に転〔ころび〕ければ、太刀を抜て逆茂木の上へ飛立。歩行〔かち〕武者六人寄合て、千野六郎は討取にけり。同手の者常葉六郎、其も大妻太郎に鎧の草摺の余を射させ、舟の中に落ちたりけるを、先の六人寄合て討にけり。我妻太郎・内藤八、其も被射て流れにけり。
 内藤八は真甲の外〔はず〕れ射させて、血目に流入ければ、後〔うしろ〕も前も不見、馬の頭を下り様に悪く向て、軈〔やが〕て被巻沈けるが、究竟〔くつきやう〕の水練成ければ、逆茂木の根に取付て、心を沈め思けるは、是程の手にてよも死なじ、物具しては助らじ、此鎧重代の物なり、命生た〔い〕らば其時取べしと思ひて、物具解〔とき〕、上帯を以て逆茂木の根を、岩の立添ふたるに纏ひ付て、向たる方へ這ひける程に、可然〔しかるべき〕事にや、渡瀬より下〔しも〕、人もなき所に腰より上は揚りて後〔のち〕、絶入ぬ。程経〔へて〕後、生出たり。京方の者共、見付たりけれ共、死人流寄たりと思ひて目も不懸。其後、縁者尋来りて助ける。後に水練を入て、河底なる鎧を取たりけり。
-------

「信濃国住人千野五郎・河上左近」の二人が渡っていると、対岸に「同国の住人大妻太郎兼澄」がいて、千野六郎は「我等一門」だから諏訪大明神に免じて許してやるが、「河上殿」は一門ではないので殺すと宣言して、その通り射殺してしまいます。
千野六郎は臆せず進みますが、大妻兼澄は、千野は諏訪大明神に免じて許すが馬は許さないとして、馬を射たので千野は馬から落ち、そこを六郎配下の「徒歩武者六人」に囲まれて討たれてしまいます。
更に「常葉六郎」も大妻に射られ、「我妻太郎」・「内藤八」も射られて流されてしまいますが、「内藤八」は水練の達者だったので、鎧を付けていたら死んでしまうが外せば生き残れると計算して、水中で鎧を外し、川岸の岩沿いに移動しますが、下流の人のいない所に腰から上を出したところで気絶してしまいます。
暫くして蘇生しますが、京方の武士は死人が流れついたのだろうと思って無視していたので命拾いします。
そして、後で縁者に助けてもらい、脱ぎ捨てた鎧も水練の達者に回収させた、ということで、流布本作者が誰から聞いたのかは分かりませんが、ずいぶんと生々しい戦場エピソードですね。

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流布本も読んでみる。(その19)─「軍に出るよりして、再び可帰とは不覚。是こそ吉日なれ」

2023-04-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p82以下)

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 東山道に懸て上ける大将、武田五郎父子八人、小笠原次郎親子七人・遠山左衛門尉・諏訪小太郎・伊具右馬入道・南具太郎・浅利太郎・筒井次郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・筒井次郎・河野源次・小柳三郎・西寺三郎・有賀四郎親子四人・南部太郎・逸見入道・轟木〔とどろき〕次郎・布施中務丞・甕〔もたひ〕中三・望月小四郎・同三郎・禰津〔ねづ〕三郎・矢原太郎・鹽川三郎・小山田太郎・千野〔ちの〕六郎・黒田刑部丞・大籬〔おほまがき〕六郎・海野左衛門尉、是等を始として五万余騎、各関の太郎を馳越て陣をとる。
 其中に武田五郎、国を立〔たち〕家を出る日(は)、十死一生と云ふ悪日也。跡に留る妻子を始として、有と有物、「今日計〔ばかり〕は留らせ給ひて、明日立せ給へかし」と申けれ共、武田五郎、「何条さる事の可有ぞ。喩〔たとへ〕ば十死一生とは、多く出て少く帰ると云事なり。軍に出るよりして、再び可帰とは不覚。是こそ吉日なれ」とて、軈〔やが〕て打立ける。
-------

五月二十二日に鎌倉を出発したとされる軍勢一覧の記事には、

-------
東山道の大将軍には武田五郎父子八人・小笠原次郎父子七人・遠山左衛門尉・諏訪小太郎。伊具右馬允入道、軍の検見〔けんみ〕に被指添たり。其勢五万騎。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076

とありましたが、ここでより詳細な名簿が示されます。
「武田五郎」は信光、「小笠原次郎」は長清ですね。
後に武田信光は葉室光親を、小笠原長清は源有雅を処刑することになります。

武田信光(1162-1248)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
小笠原長清(1162-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85

「南具太郎」については松林氏の頭注に「前田家本「奈古太郎」。奈古・浅利・平井・秋山・南部・逸見は甲斐源氏、武田の一族」とあります。
なお、「十死一生」は、松林氏の頭注によれば、陰陽道でいう凶日の一つで、『梅松論』に「同(五月)廿一日、十死一生の日なりけるに、泰時并時房両大将として鎌倉を立ちたまふ」とあるそうです。
さて、続きです。(p83以下)

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 市原に陣を取時に、武田・小笠原両人が許〔もと〕へ、院宣の御使三人迄〔まで〕被下たりけり。京方へ参〔まゐれ〕と也。小笠原次郎、武田が方へ使者を立て、「如何が御計ひ候ぞ。長清、此使切んとこそ存候へ」。「信光も左様存候へ」とて、三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり。
 武田五郎、子共の中に憑〔たのみ〕たりける小五郎を招て、「軍の習ひ親子をも不顧、増て一門・他人は不及申、一人抜出て前〔さき〕を懸〔かけ〕、我高名せんと思ふが習なり。汝、小笠原の人共に不被知して抜出て、大炊の渡の先陣をせよと思は如何に」。「誰も左社〔さこそ〕存候へ」とて、一二町抜出て、野を分る様にて、其勢廿騎計河縁〔ふち〕へぞ進ける。武田小五郎が郎等、武藤新五郎と云者あり。童名〔わらはな〕荒武者とぞ申ける。勝〔すぐ〕れたる水練の達者也。是を呼で、「大炊の渡(の)瀬踏〔せぶみ〕して、敵の有様能〔よく〕見よ」とて指遣〔さしつかは〕す。新五郎、瀬踏しをほせて帰来て、「瀬踏こそ仕〔つかまつ〕て候へ。但〔ただし〕河の西方岸高して、輙〔たやす〕く馬をあつかひ難し。向の岸渡瀬七八段が程、菱を種〔うゑ〕流し、河中に乱株〔らんぐひ〕打、逆茂木〔さかもぎ〕引て流し懸、四五段が程菱抜捨て流しぬ。綱きり逆茂木切て、馬の上〔あげ〕所には誌〔しる〕しを立て(候)。其を守渡させ給へ」とぞ申ける。武田小五郎、先様に存知したりければ河の縁へ進む。
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武田・小笠原の許に「院宣の御使」が三人来て、「三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり」云々はいかにも殺伐とした戦場エピソードですが、使者というのは本当に危険な仕事でありながら、成功しても失敗しても、後世に名を残すことなどないのが普通な訳ですね。
それなのに、何故か「押松丸」は有名人です。

何故に「押松丸」は『吾妻鏡』に登場するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baf530ec127f42d6beefdff1027efaee

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流布本も読んでみる。(その18)─「下総守の縁者に三浦筑井四郎太郎と申者にて候」

2023-04-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本作者=藤原秀能という無理な仮説の重荷を下ろして身軽になったところで、また流布本と慈光寺本をずんずん読み進めて行きたいと思います。
流布本は「推松」の報告を受けて「京方」が尾張河(木曽川)の「九瀬」に軍勢を派遣したところまで紹介し、藤原秀康が本当に「総大将」なのかを少し検討しておきました。

流布本も読んでみる。(その16)─「如何に、義時が首をば誰か取て進らするぞ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce
流布本も読んでみる。(その17)─藤原秀康は本当に「総大将」なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65e9394f6bb0c90f3a7875fee81abd75

続きです。(松林靖明校注『新訂承久記』、p80以下)

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 東海道の先陣相模守、遠江の橋本に著けるに、「十九騎連れたる勢の高志山へ入ぬ」と申ければ、相模守、「如何なる者なれば先陣を越て先様に通る哉覧〔やらん〕」。遠江国住人内田四郎が申けるは、「駿河守殿、已に、『敵〔かたき〕、大勢に紛て如何様にも通る事も有んずるぞ』と宣ひつる也」。相模守、「さる事もや有(ん)。さらば各、追懸て敵か御方〔みかた〕か尋聞。敵ならば討て被進〔まゐらせ〕よ」とぞ仰ける。内田四郎・同六郎・新野右馬允、是を始として、六十余騎追懸たり。十九騎続ひたる勢、高志山をも馳過て、宮路山へ打懸り、音羽河の端に下立て、「今は去共〔さりとも〕続く敵、よも非〔あら〕じ」とて、馬の足ひやさせて、片〔かたはら〕なる岳〔おか〕に扇開きつかふて休ける処に、内田の者共馳来て、谷を隔て扣〔ひか〕へ宛〔つつ〕、使者を以て申けるは、「如何なる人なれば、先陣を越て通り給ふぞ。『敵か御方か承れ』とて、相模守殿の御使に、遠江国住人内田者共が参て候也」と云〔いは〕すれば、「実〔まこ〕と候、下総守の縁者に三浦筑井〔つくゐ〕四郎太郎と申者にて候。坂東に用事の有て下候つるが、都に事出来たると承て、大勢に交りて上り候つるに、被見付進らせ候けり。運の究〔きはま〕る所不及力、只一人も蓬〔きたな〕き死は仕間敷〔すまじ〕き物を。各相近に寄よ」と被申ければ、内田の者共六十余騎にて押寄たり。筑井、とある小家に走入て、四方の垣切て押立、六人楯籠〔たてこもつ〕て矢束〔やたば〕ねといて推くつろげ、指攻〔さしつめ〕々々是を射る。内田の者共、谷を隔てゝ扣へたるが、被射落者もあり、目の前に疵を蒙り失命者数多〔あまた〕あり。筑井、矢種〔やだね〕少なく射成して、「今は如何にせん。可打勝軍にも非ず。さのみ罪造ても無詮〔せんなし〕。いざや思切ん」とて、後見安房郡司と差違てぞ臥にける。残四人も同じう指違てけり。十三騎の郎等共、ある岨〔そは〕を打下りて大道に著〔つか〕んとしけるを、敵に「落るか」と言〔ことば〕を被懸て、「主の死る所にて死なで落る様あるか。軍せんずる為に社〔こそ〕」とて、引立たる馬なれば、ひたひたと打乗て、十三騎轡〔くつばみ〕を双べて大勢の中へ喚〔をめい〕て懸入、一騎に四五騎、推双々々組ければ、無勢多勢に可勝様無して、皆々被討取ぬ。十九騎が首を本野が原にぞ懸たりける。次日、相模守被通けるが、是を見て、「十九騎と聞へつるが一人も不落けるや。哀れ能〔よ〕かりける者共哉、御大事にも値〔あひ〕ぬべかりける物を。惜ひ者共を」とて、各歎惜み、「阿弥陀仏」と申て通りけり。
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東海道の先陣「相模守」北条時房が遠江の橋本に着いたところ、「十九騎の軍勢が高志山へ入りました」という報告を受けます。
時房は、「先陣を越えて先に行くとは何者だ」と聞くと、「遠江国住人内田四郎」が、「駿河守殿(三浦義村)は、京へ向かう敵が大勢に紛れ込むようなこともあるかもしれないとおっしゃっていました」と言うので、時房は、「そんなこともあるかもしれない。追いかけて敵か味方か尋ねよ。敵ならば討て」と命じます。
この命令を受けた内田等が六十騎で追いかけると、「下総守の縁者に三浦筑井〔つくゐ〕四郎太郎」と名乗る者が、見つかってしまったら仕方ない、汚い死に方はしないぞ、と徹底抗戦します。
多勢に無勢で、結局は十九騎全員が殺されてしまい、その首が「本野が原」に曝されますが、それを見た時房は「一人も脱落者がいなかったのは立派なものだ」と惜しみ、「阿弥陀仏」と言って通り過ぎた、というエピソードです。
ところで、『吾妻鏡』承久三年五月三十日条にも、

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相州着遠江国橋本駅。入夜勇士十余輩潜相交于相州大軍。進出先陣。恠之令内田四郎尋問之処。候于仙洞之下総前司盛綱近親筑井太郎高重令上洛云々。仍誅伏之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあります。
流布本だと「下総守」が誰だか分かりませんが、『吾妻鏡』によれば「仙洞(後鳥羽)に祗候している下総前司(小野)盛綱の近親である筑井太郎高重」とのことなので、「下総守」は小野盛綱ですね。
ただ、「筑井太郎高重」は津久井義道男で、三浦氏の一族です。
とすると、「駿河守殿」三浦義村は、自分の一族に怪しい動きをする者があると知って、内田に警告していたとも考えられますね。
さて、これと同内容のエピソードが慈光寺本にも載っていますが、こちらは「下総守の縁者に三浦筑井〔つくゐ〕四郎太郎」ではなく、「都ニオハシケル下野守ノ郎等玄蕃太郎」という「阿房国ノ住人」の話になっており、三浦氏との関係が消えています。
この点は後で慈光寺本に即して検討することとし、先に進みます。(p82)

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 六月五日辰時に、尾張の一宮に著て、軍〔いくさ〕の被手分けり。大炊の渡へは東山道の手、定て向はんずればとて、鵜沼の渡へは毛利蔵人入道、板橋へは狩野介入道、気が瀬へは足利武蔵前司、大豆の渡へは相模守時房、墨俣へは武蔵守・駿河守殿被向ける。
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「毛利蔵人入道」は大江広元四男の毛利季光、「狩野介入道」は狩野宗茂、「足利武蔵前司」は足利義氏ですね。

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流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。

2023-04-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

3月26日の投稿、「流布本の作者について(その1)」以降、流布本作者は藤原能茂を猶子とした藤原秀能ではないか、との仮説に基づいて藤原秀能の周辺を探り、4月13・14日の「孤独な知識人・藤原秀能について(その1)」「同(その2)」で一応の成果をまとめました。

流布本の作者について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93233b1dcf18f7be733b1bf66fc91c33
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b30ed265c22c723332caed683b7db19f
孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c4c93c1bc8fbffae925ce68caec6554

そして、15日の「流布本・慈光寺本『承久記』の検討を再開します。」において、新しい仮説を、

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 1.流布本の作者は藤原秀能
 2.秀能が想定した読者は北条泰時以下の幕府指導者
 3.秀能の目的は、承久の乱における幕府の対応と戦後処理が正当であったことを歴史的・思想的
  に検証して幕府指導者に安心感を与え、もって後鳥羽の還京を進めること。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a869e0e411418f40cc948250a4db0329

と整理しました。
それから僅か九日しか経っていませんが、再考の結果、この仮説は全面的に撤回します。
藤原能茂に関する奇妙な記事が多い慈光寺本と異なり、そもそも流布本には秀能は一切登場せず、秀能を作者と示唆するような記事も一切ありません。
それにもかかわらず、私が秀能を流布本作者と考えたのは、流布本と慈光寺本を比較して、流布本と慈光寺本の作者は思想的に対極の立場にあるにも拘わらず、その関心の対象が相当に重なっており、かつ、武家社会における擬制的関係を含めた父子相克と兄弟相克に特別な興味を抱いている点でも共通であることから、藤原能茂の周辺を探った結果として秀能の存在に着目しました。
いわば能茂を鏡として、その鏡に映る人物を流布本作者ではないかと想像してみたのですが、もともと私の基本的立場は、慈光寺本の作者は史実を正確に記録することに関心がない人物で、慈光寺本の内容は信頼できない、というものです。
従って、流布本の作者に関してだけ慈光寺本作者を信頼するというのは根本的な矛盾でした。
今となっては、流布本の作者を藤原秀能とすることは、合理的な推論の範囲を越えた、一種の妄想だったなと思います。
また、当ブログには一切書きませんでしたが、私は暫らく前からもう一つの妄想に執着していて、それは『海道記』の作者も藤原秀能ではないか、というものでした。

『海道記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%81%93%E8%A8%98

『海道記』は貞応二年(1223)四月に京都から鎌倉に旅をした人物が記した一種の歌日記ですが、作者の思想には流布本に通じるものがあります。
また、作者が中御門宗行等の承久の乱の犠牲者を悼む記述には作者との間の特別な交流が窺われ、作者自身も後鳥羽院に親近した人物のように思われます。
『海道記』の歌はさほどレベルが高くなく、作者は勅撰歌人クラスではない、といった評価もありますが、相当な歌人が社会的に不遇な状況に置かれ、歌壇での評価など気にせず、旅の感懐を素直に詠んだとしたら不自然なレベルとも言えず、私には直線歌人の秀能の歌であってもおかしくないと思われました。
更に承久の乱後の秀能の経歴には空白期間があり、その後の秀能の社会的活動を考えると、その間に鎌倉に行って幕府要人と会っていてもおかしくはありません。
古い論文にも秀能を『海道記』の作者とする説(野呂匡「『海道記』と藤原秀能」『歴史と国文学』8巻1号、1932)があり、あれこれ考えてはみたのですが、結局、『海道記』の作者を秀能とするのは合理的な推論の範囲を越え、あくまで漠然とした可能性に留まるとの結論となりました。
そして、『海道記』の作者を探る過程で、流布本の思想(「王法尽させ給ひて、民の世となる」)は決して少数の知識人の先鋭的な認識ではなく、相当広い範囲に共有されていた、ある意味、ありふれた思想なのだろうと考えるようになりました。
また、後鳥羽院の周辺には、戦前から京方の敗北を予想し、積極的な協力を拒んだ人も相当いて、私が想像する秀能像に類似する人も相当にいたと考えるのが自然のように思われました。
また、最勝四天王院に関する記述は、やはり作者が秀能ではありえないことを示しているように思われます。
結局、『海道記』との比較からも、私が流布本作者の条件としてあれこれ考えていたことは、秀能を作者として絞り込むには無理が多いという結論に至りました。
とはいえ、秀能は非常に興味深い人物なので、流布本の作者論とは切り離して、『承久記』の検討が終わった後に改めて少し論じたいと思います。

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