学問空間

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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11)

2021-03-31 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月31日(水)10時00分9秒

ということで、石川論文に戻ります。

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 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70404a6c6ce74f0825a88c6a3bd3be77

に続く部分です。(p16)

-------
     世中さわがしく侍りけるころ、三草の山をとほりて大蔵
     谷といふ所にて
                     前大納言尊氏
 今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな
                       (風雅九三三)

 「大蔵谷」は明石の北東の地。二月十・十一日の西宮打出浜や豊島河原での戦に敗れ、大蔵谷から明石の浦に向かう、敗走の道中での詠という事になる。「明石」に「明し」を響かせるのは常套的手法。「明し」を連想させる「明石」に向かいながらも、「明し」とは程遠い暗澹たる気分だ、とその時の心境を詠んだ歌だが、詞書に大蔵谷の地名が明記されている事から察するに、大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい。
 官軍に敗れ敗走する朝敵の将、これがこの時の尊氏の立場である。『太平記』が伝えるようにこれ以前に持明院統の錦の御旗を得るための使いを出立させていたとしても、まだ思惑通りに事態が進む確証もない。九州まで西下しても、今の己の立場ではどれだけの軍勢を召集できるか不安もあっただろう。さぞや沈痛な思いであったろうと推測されるのだが、この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけだろうか。内容はさておき、詠み振りにどこか飄々としたものを感じてしまう。尊氏はカリスマ性を備え武士達の信望を集めた人物であったのだろうが、他方、鎌倉で天皇からの追討令を受けたショックで隠棲しようとする気弱さ、繊細さも持ち合わせていたらしい。その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが、しかし絶望的状況の中で読まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる。こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならないのである。
-------

「大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい」に付された注(7)には、

-------
(7) 次田香澄氏・岩佐美代子氏校注『風雅和歌集』(三弥井書店、昭和四九・七)、岩佐美代子氏『風雅和歌集全評釈』(笠間書院、平成一四・一二~同一六・三)ともに「大蔵谷」の名称との関わりは指摘していないが、試みにそう解した。
-------

とあります。
また、「その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが」に付された注(8)には、

-------
(7) 佐藤進一氏『日本の歴史九 南北朝の動乱』(中央公論社、昭和四〇)が尊氏の性格の多様性をそう指摘し、例えば近年の峰岸純夫氏『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、平成二一・六)もそれに従っている。
-------

とあります。
さて、私は実にこの部分を引用したくて、今まで長々と石川論文を検討してきました。
私も石川氏と同じく「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気が」しますし、「内容はさておき、詠み振りにどこか飄々としたものを感じてしま」います。
また、佐藤進一の乱暴な素人精神分析に対しては、私も「絶望的状況の中で読まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように」思います。
更に、夢窓疎石が語ったという、合戦で命の危険に際しても尊氏の顔には笑みが浮かんでいたというエピソードも連想されます。
近年では清水克行氏が尊氏の「死をおそれない不思議な性分」について「精神分析」を行なっていますが、果たして清水氏の「精神分析」は妥当なのか。
このあたり、もう少し検討を続けたいと思います。

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)

2021-03-31 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月31日(水)09時00分40秒

「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るため、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を読み、併せて『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点を検討してみましたが、細部を除き、井上氏の叙述は本当に水準が高いですね。
井上著は初版が1965年で、これは佐藤進一『南北朝の動乱』と同年です。
「改訂新版」は1987年ですが、このとき新規に追加された部分は「補注篇」(p881~925)としてまとめられており、大半の記述は1965年時点のものですね。
今までの投稿で、私も、井上氏は佐藤進一説に立脚している、みたいなことを書いてしまったかもしれませんが、「八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し、二日、尊氏は勅命を待たず東下(この辺の事情は高柳光寿氏の『足利尊氏』に詳しい)」(p371)という記述からすると、井上氏が主に参照しているのは高柳光寿の『足利尊氏』初版(1955、なお『改稿 足利尊氏』は1966年で、いずれも春秋社)ですね。
高柳光寿(1892-1969)は佐藤進一(1916-2017)より更に前の世代の歴史学者で、さすがに最近の論文で高柳著に言及する研究者は少ないですね。
ま、高柳も佐藤進一と同様に「『太平記』史観」に囚われていた訳で、『太平記』に頼らず、ひたすら歌壇の視点から尊氏を見ていた井上氏の到達点に、歴史研究者は今頃やっと追いついているような感じもします。
さて、「建武二年内裏千首」に寄せられた二つの尊氏詠、

  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば

を見ると、特に後者では尊氏が心理的に極めて安定した状態にあることが伺えます。
後者は後醍醐への忠誠心が堅固であることを示した政治的メッセージだ、などと読めない訳ではないでしょうが、これらはあくまで所与の題に受動的に対応した題詠なので、過剰な読み込みをすることには慎重であるべきです。
ただ、それでもこのときの尊氏の精神状態が極めて安定した、清澄とでもいうべき心境にあったことを伺うことはできそうなので、多くの歴史研究者の認識とのズレが非常に気になります。
例えば、細川重男氏は、

-------
 では、足利尊氏はなぜ反旗を翻したのか。一般的には、尊氏に天下取りの野望があったからと言われている。【中略】
 尊氏は「私にあらず、天下の御為」と言っているが、この様子からすると尊氏出陣の第一の理由は、直義救援であったようである。
 次に、後醍醐の帰京命令に従わなかったことについては、勅使(天皇の使者)の中院具光に対し尊氏は「すぐ京都に参上します」と答えている。ところが、直義に「運良く大敵の中から逃れてきたのだから、関東にいるべきです」、つまり「京都に帰ったら殺されますよ」と諫められると、あっさり帰洛をやめている。
 そして、後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠ってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味は無い!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。
 支離滅裂である。弟思いは美徳であろうが、どのような結果をもたらすかを深く考えずに行動し、これまた深く考えずに周囲の意見に流されている。清水克行氏は尊氏を「八方美人で投げ出し屋」と評している(清水:二〇一三)が、まったくそのとおりである。こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824

と言われていますが、「建武二年内裏千首」に寄せられた二首を見ると尊氏の精神状態が「支離滅裂」とは見えません。
そして、もう一つ、この時期の尊氏の精神状態を伺わせる極めて興味深い歌があります。
これはもちろん井上著にも出ていますが、石川泰水氏の論文の方が丁寧に分析しているので、次の投稿で石川論文に戻り、その歌を紹介します。
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『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その2)

2021-03-30 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月30日(火)23時05分4秒

結局、『大日本史料』建武二年十月十五日条に載せられている三つの史料のうち、「三浦文書」は勅使派遣とは全く関係なく、『梅松論』は勅使派遣が御所への移徙(十月十五日)より前であることを示唆するものの具体的時期は不明、『保暦間記』は記事内容そのものが胡散臭い感じですね。
そこで、いったん『梅松論』『保暦間記』を離れて、この時期の後醍醐と尊氏の関係を示す客観的事実を探ると、尊氏が八月三〇日に従二位に叙せられたこと(『公卿補任』)に注目すべきではないかと思います。
尊氏は元弘三年(1333)八月五日に従三位に叙せられて公卿の仲間入りをした後、五ヶ月後の建武元年(1334)正月五日に正三位に昇進し、ここで更に従二位に昇進します。
中先代の乱鎮圧の知らせが京都に届いたであろう直後の時期ですから、これが鎮圧への恩賞の一形態であることは明らかですが、以後の展開を考えると、同時に後醍醐による尊氏の離反防止のための懐柔策と思われます。
そうであれば、後醍醐は従二位昇進を直ちに尊氏に伝える必要がありますが、ここで『梅松論』の「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり」という記述を考慮すると、中院具光の派遣は九月初旬と考えるのが自然ではないかと思います。
後醍醐としては、後に現実化するように、尊氏が独自の判断で配下の武士に恩賞を与えるようなことを防止するため、早急に手を打つ必要があったはずです。
整理すると、中院具光は九月初旬、「今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三」の具体化として尊氏が八月三十日に従二位に叙せられたことを伝え、同時に恩賞を勝手に与えるな、早々に帰洛せよ、という指示も伝えたと思われますが、更に「建武二年内裏千首」の題も具光が伝えたと考えてよいと思います。
こうした行事についての連絡はそれなりの身分の者が行なうはずであり、具光自身には歌人としての格別な業績はなかったようですが、六条有房の孫ですから、尊氏と和歌をめぐる優雅な応答をする程度の教養も当然あったでしょうね。
また、「建武二年内裏千首」の時期を後ろにずらせばずらすほど、十一月に訪れる後醍醐・尊氏の破局とそれに伴う政治的・軍事的混乱に巻き込まれることになってしまうので、九月くらいが順当と思われます。
なお、『続史愚抄』も九月の記事の最後に、

-------
〇ゝゝ〇ゝゝ。蔵人左少将具光。<作中将者謬歟。>為勅使下向関東。召左兵衛督<尊氏。征東将軍。>固辞不参洛云<〇梅松論、保暦間記>
-------

としており、『梅松論』を素直に読めば、やはりどんなに遅くとも九月中の出来事と解することになると思います。
また、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅰ研究篇』(旺文社、1997)には「やがて十月十五日、京都から勅使蔵人頭中将中院具光が鎌倉に下着した」(p14)とあって、十月十五日が中院具光の鎌倉到着日になってしまっていますが、これは『大日本史料』建武二年十月十五日条に独自の想像を加味したものですね。
まるで伝言ゲームを見ているような感じがして、田中義成も罪作りだな、と思います。
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『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)

2021-03-30 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月30日(火)14時02分12秒

井上宗雄氏は「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」(p372)とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは相当問題がありますね。
同日の第二条の綱文は「中院具光ヲ鎌倉ニ遣リテ、足利尊氏ノ上京ヲ促ス、尊氏応ゼズ、第ヲ幕府ノ旧址ニ造リ、是日之ニ徙ル」とあって、この後に「三浦文書」『梅松論』『保暦間記』が引用されています。
まず、「三浦文書」は、

-------
 著到
   三浦和田四郎兵衛尉茂実
 一 十月八日御方違ニ、二階堂の東のらう(廊)を警固仕畢、
 一 十月十五日御所の御わたましに、南総門を警固仕畢、<〇中略、全文ハ三日ノ条ニ収ム、>
 右著到如件、
     建武二年十月廿日
             (高師泰)
           承候(花押)
-------

というもので、ここから分かることは十月十五日に御所の移徙があって、三浦茂実が南総門を警固したということだけです。
勅使派遣とは何の関係もない記事ですね。
ついで『梅松論』が引用されていますが、

-------
<〇前文八月十八日ノ条ニ収ム、> 又勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり、勅答には、大御所<〇尊氏>急き参るへきよし御申有ける所に、下御所<〇直義>仰られけるは、御上洛然るへからす候、其故は、相摸守高時滅亡して、天下一統になる事は、併御武威によれり、しかれは、頻年京都に御座有し時、公家并義貞隠謀度々に及といへとも、御運によつて今に安全なり、たまたま大敵の中をのかれて、関東に御座可然旨を以、堅いさめ御申有けるによつて、御上洛をとゝめられて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に、御所を造られしかは、師直<〇高>以下の諸大名、屋形軒をならへける程に、鎌倉の体を誠に目出度う覚へし、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>。
-------

ということで、中院具光の関東下着と尊氏への帰洛要請と、それに対する尊氏・直義の対応が語られ、更に御所造営の話となっています。
ただ、この記事の順番から見て中院具光の派遣が御所完成より早そうなことは分かりますが、具体的な時期は全く記されていません。
そして『保暦間記』の方でも、中院具光の派遣時期は不明です。
片仮名は読みづらいので平仮名に代えて引用すると、

-------
<〇前文八月十八日の条に収む、>然る所に、故兵部卿親王<〇護良>の御方臣下の中にや有けん、尊氏謀反の志有る由讒し申て、新田右衛門佐義貞を招て、種々の語ひをなして、左中将に申也て、<〇貞義の左中将に任ずるは、明年二月八日にあり、>上野国は尊氏分国也、義貞に申充けり、何なる明主も、讒臣の計申事は、昔も
今も叶ぬ事にて、尊氏上洛せは、道にて可打由を義貞に仰す、仍、尊氏を京都より召る、勅使蔵人中将源具光也、関東勢をは尊氏に付置、一身急馳参すへしと云々、尊氏勅定に応して上洛する所に、京都より内々此事を申ける人も有けるにや、又直義も、東国の侍も、不審に思て留めけれは、尊氏上洛せす、<〇下文十一月十九日の条に収む>
-------

ということで、『保暦間記』では後醍醐が義貞に、尊氏が上洛する途中で殺害せよ、と命じていて、中院具光は尊氏を誘い出すために鎌倉に派遣された、というストーリーになっています。
さて、この後に編者(田中義成)が次のように記します。
これも片仮名は読みづらいので平仮名に代えます。

-------
〇是より先き、尊氏鎌倉に入りて、二階堂別当坊に居りしが、<八月十八ニ日の条、>是に至りて、新第成るを以て之に徙りしなり、勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す、尊氏鎌倉に入りてより、或は神社仏寺に領地を寄せ、<八月二十七日、九月二十日、二十四日、二十八日、>或は八幡宮の座不冷行法を興し、<八月二十七日の条、>又部下の賞を行ひ<八月々末、九月二十七日の条、>奥州管領を補し、<八月々末の条、>自ら征夷将軍と称し、<八月十八日の条、>幕府の旧址に徙り、遂に奏状を上りて、新田義貞を伐たんことを請ふに至る、<十一月十八日の条、>各、本条あり、参看すべし、
-------

うーむ。
「勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す」とありますが、『梅松論』を見ても、別に「勅使発遣の月日」を詳らかにするための根拠はないのですから、「梅松論に拠りて」はおかしいですね。
結局、田中義成は「勅使発遣の月日詳かならざる」ことを知悉しつつ、「三浦文書」に十月十五日の御所移徙があり、『梅松論』に勅使発遣と御所造営の記事があることから、この二つを「合叙」してしまった訳で、何とも雑な作業です。
何じゃこれ、以外の感想が浮かんできません。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その12)

2021-03-29 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月29日(月)11時58分25秒

続きです。(p372以下)

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建武二年内裏千首  風雅(六六二のみ。以下の集に多くみえる)・新千載・新拾遺・新葉・藤葉の各撰集、光吉・草庵・兼好の各家集にこの詞書を持った歌がみえる。作者は天皇・覚助・尊道<慈道か>・尊良・恒守・尊円・慈道・邦省・道煕・雲禅・覚円・雲雅・良聖・後醍醐天皇典侍・公秀・為世・為親・為定・為明・実教・公脩・尊氏・光之・光吉・雅朝・隆淵・頓阿・兼好・浄弁・国夏・盛徳らである。
 ところで、新千載六二六・一七八三によると「建武二年内裏の千首の歌の折しも東に侍りけるに題を給はりて詠みて奉ける歌に、氷 等持院贈左大臣〔尊氏〕」とあり、この千首歌の折に尊氏は関東にいたのである。建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが、仮にこの東下を八月二日以降のものとしたら、この千首もそれ以後に行われた事になる。十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか。
 多くの詞書には「建武二年内裏にて人々題をさぐりて千首つかうまつりける時」とあり、千首歌を探題によって詠じたものである。ところが、上掲の人数の内、頓阿以下は「題を賜はりてよみて奉りける」と詞書に記されている。即ち殿上人以上は内裏において探題で、地下は題を下賜されて詠進したのである。そして殿上人は、花とか橘とかいうような一般の題と、春天象の如き題と両方あったが、地下の場合はすべて「春天象」……「恋雑物」の如き題のみであった。なお藤葉集は詞書の書き方が不完全で、巻三の隆淵の歌に「建武二年内裏にて講ぜられける千首歌に秋植物」とあるが、これも題を下賜された方(地下)ではなかったかと思われる。兼好は家集によると七首を進めているが、地下は各々その程度の歌数を詠じたのであろう。なお増補和歌明題部類には、
  千首<建武頃内第二度 出題御子左中納言(為定)> 春<二百首> 夏<百首> 秋<二百首> 冬<百首> 恋<二百首> 雑<二百首>
  天象 地儀 植物 動物 雑物<各有之>
とある。「第二度」とあり、二度行われたのであろうか。
 この千首歌が二条家の人々のリードで行われた事は明らかであるが、特に地下法体歌人まで加えられている事は注意される。為世や為定の推挙によるのであろうが、地下の法体歌人や国夏のような祠官を公宴に参加せしめるという事は、持明院統や京極派のそれにはみる事が出来ないのである。
-------

「建武二年内裏千首」の尊氏の詠歌は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、

-------
     建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、氷
                    等持院贈左大臣
  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
                   (新千載六二六)
     建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、月を
                    等持院贈左大臣
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
                    (同一七八三)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7af777a4ef4af1a8f901a142d74daca6

というものです。
さて、井上氏は「建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが」とされていますが、これはその通りで、尊氏が継続して京都にいたことを史料的に裏付けることは困難だと思います。
ただ、『中世歌壇史の研究 南北朝期』の初版(1965)、改訂新版(1987)が出された頃と比べると、建武政権下の尊氏の位置付けについては歴史学の方でかなりの進展があります。
即ち、通説であった佐藤進一説の枠組みは相当に揺らいでおり、吉原弘道氏が「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)で示した認識が比較的多くの研究者に支持されているように思われます。
吉原氏の結論は、

-------
 建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460

というもので、私自身は必ずしも全て吉原氏に賛同している訳ではありませんが、尊氏の建武政権下での位置づけは従来考えられていたよりも相当高く、「全国規模で権限を行使できる」治安維持の責任者と言ってよいと思います。
その尊氏が京都を離れるというのは大変な事態ですから、仮に尊氏が建武二年の前半にも東下していたならばそれなりの記録が残っていたはずであり、やはり尊氏の東下は中先代の乱に対応しての一回だけと考えるのが自然です。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その11)

2021-03-28 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月28日(日)10時39分9秒

続きです。(p370)

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 建武二年正月十三日晴儀に準ずる内裏両席会、まず歌会で、題は竹有佳色、次に御遊(御遊抄・貞治六年中殿御会記・続史愚抄等)。尊氏の詠が風雅二一八〇、新千載二二八六にみえる(同一の詠歌)。前者詞書には元年、後者は二年、続史愚抄に「作元年謬歟」とある如くである。
-------

この尊氏詠は『新千載和歌集』では巻第廿の「慶賀歌」に載っていますが、前後の詠とともに紹介すると、

-------
       平重時朝臣子をうませて侍りける七夜によみてつかはしける
                               前大僧正隆弁
二二八四 ちとせまで行末とほき鶴の子をそだてても猶君ぞみるべき

       返し                      平重時朝臣
二二八五 千年ともかぎらぬものを鶴の子の猶つるの子の数をしらねば

       建武二年正月十三日内裏にて、竹有佳色といへることを講ぜられ
       けるに                   等持院贈左大臣
二二八六 百敷や生ひそふ竹の藪ごとにかはらぬ千世の色ぞ見えける

       式部卿久明親王家にて、竹不改色といふことを読み侍りける
                          平貞時朝臣
二二八七 万代も色はかはらじこの君とあふげばたかきそののくれ竹
-------

ということで、四条家出身で『徒然草』第216段に北条時頼・足利義氏とともに登場する「前大僧正隆弁」の後に北条重時・「等持院贈左大臣」尊氏・北条貞時と武家歌人が三人続いていますね。
尊氏が尊氏によって滅ぼされた鎌倉幕府の重鎮に挟まれていますが、何だか面白い配列です。
尊氏詠の「百敷や生ひそふ竹の藪ごとにかはらぬ千世の色ぞ見えける」は、いかにも慶賀の場にふさわしい目出度い歌で、尊氏の洗練された社交感覚を窺わせますね。
さて、井上著に戻ると、井上氏は二月四日に没した二条道平(良基の父)について少し論じられますが、省略して七夕の「内裏七首会」に進みます。(p371以下)

-------
 七夕には内裏七首会が行なわれた(題は七夕舟─光吉集。明題和歌全集等の年時不記「内御会」七夕舟=作者は為定・為親・為明・公時・行房=もこの時か)。しかしこの頃から新政府に対する不満はいよいよ嵩じ、七月には北条時行の挙兵があり、成良親王を奉じて鎌倉にいた足利直義はこれと戦って敗れ、幽閉の護良親王を殺して三河に退去した。時行は鎌倉に入った。京都ではこれより先に北条氏の残党と連絡して謀叛の挙兵を行なおうとした計画が漏れ、西園寺公宗・日野氏光・三善文衡らが捕えられていたが、八月二日に殺された。公宗と日野名子の間には建武元年に実俊が生まれていたが、名子は実俊とともに隠れ、西園寺の名跡は弟公重が嗣いだ。
 八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し、二日、尊氏は勅命を待たず東下(この辺の事情は高柳光寿氏の『足利尊氏』に詳しい)、十九日早くも鎌倉を回復、その功によって三十日従二位に叙せられ、九月召還の命が下ったが尊氏はそれに応じなかった。
 この騒乱によってであろうが、十五夜・十三夜の記録はない。この年内裏千首が行なわれた。
-------

「八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し」とありますが、成良親王が征夷大将軍となった時期については、私は田中義成以降の定説(八月一日説)は誤りだろうと考えています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
帰京後の成良親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9263c48e615c99949952173370ff559
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/509a8a7307af6da03899e5bc1e1ed0e3
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その10)

2021-03-28 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月28日(日)08時22分44秒

ということで、「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るために、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を繙いてみることにします。
下記リンクのうち、一番上が事実上の(その1)で、ここに同書の全体の構成が分かるように目次を引用しています。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」「第五章 建武新政期の歌壇」の途中(p370)まで進みましたが、この後、「鎮西探題歌壇」と『臨永集』を検討するために時代を遡っています。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8e8bfb71441c2e578be836c0f4215a6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/53f686b935e3f1dac4013edd87d7465c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dce23fb995dd1b94a833f744bba9ad78
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfe007b7d6b954ab20cfdaaad8d09115

そして、これから検討する部分は(その5)で引用した箇所の少し後になります。
井上氏は、

-------
 かくして尊氏も直義も、関東で育ったとは言い条、頗る文化的な雰囲気に包まれていたと思われる。既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事は前章に述べた。続後拾遺に尊氏は一首入集、臨永の作者にもなった。建武新政下に公卿となり、京に滞在して多忙ではあったが、暇をぬすんで歌会を行なったのも当然である。武士の中で最も実力・声望ある尊氏の会に、歌道家の人々や法体歌人を含めた文化人が参集したであろう事は想像に難くない。
-------

と書かれた後、若干の武家歌人について論じられます。
「建武二年内裏千首」に至るまでの情勢を知るため、少し引用してみると、

-------
 貞藤は勅撰歌人ではないが、優れた文化人であり、かつ歌も作ったらしい事は既に述べたが、十二月に至って謀叛の嫌疑を受けて子兼藤ら五人と二十八日六条河原で斬られた(金剛集第六巻裏書・六波羅南北過去帳・蓮華寺過去帳)。
 因みに、建武二年正月廿八日中宮珣子の平産を祈る事があり、またこの頃しばしば修法が行なわれたが、その為に美濃で続観音経偈三十三首歌が詠まれ、土岐頼貞がその内八首を詠じたという(『美濃国稲葉郡志』・『土岐頼貞公』<その三十三首歌の所在は不記>)。
-------

ということで(p370)、乱暴者の土岐頼遠の父・頼貞(1271-1339)はなかなかの文化人ですね。
同じく「優れた文化人」であった二階堂貞藤(道蘊)は、『太平記』には、

-------
 二階堂出羽入道道蘊は、朝敵の最頂〔さいちょう〕、武家の補佐たりしかども、賢才の誉れ、かねてより叡聞に達せしかば、召し仕はるべしとて、死罪一等を許され、懸命の地を安堵して居たりけるが、また陰謀の企てありとて、同年の秋の末に、つひに死刑に行われけり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c

と出てきますが、この「同年」は元弘三年(1333)のことです。
しかし、道蘊は実際には「同年の秋の末」ではなく、翌建武元年(1334)十二月に斬られている訳で、ここも『太平記』が「公武水火」の事例を前倒しに記述して、建武新政が最初から緊張を孕んでいたと印象づけている一例ですね。
また、中宮珣子の平産祈祷については、三浦龍昭氏に「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文があります。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その10)

2021-03-27 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)21時40分7秒

「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の通りです。(p15以下)

-------
 権力を巡って対立を見せ始めても未だ二人は風雅においては結び付いていたのだ、と見る事もできるかもしれないし、尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方も成り立つかもしれない。だがここでは、後醍醐天皇にとっての和歌活動が政治的意味合いを帯びていた事を考え併せたい。和歌活動に参加させる事で離反しつつある尊氏を自らの統制の中に組み込もうとした、或いは題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた、天皇のそんな意図を汲み取ってみたいと思う。
------

石川氏の見解は佐藤進一説、即ち「『太平記』史観」の枠組みの中での考察なので、私は基本的に賛成できませんが、今は議論しません。
ただ、「尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方」までは良いとしても、「題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた」となると、ちょっと陰謀論めいた雰囲気も漂ってきますね。
さて、続きです。(p16)

-------
 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。
-------

中先代の乱をうけて尊氏が京を離れたのは建武二年(1335)八月二日です。
そして同月十九日には時行軍が最終的に敗北し、尊氏は鎌倉を奪還することになります。
この間の事情については今まで何度か触れてきました。

永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824

中先代の乱の勃発以降、本当にめまぐるしく情勢が変化して行きますが、その中で「建武二年内裏千首」はあまりにのんびりした話のようで、本当に不思議な感じがします。
いったい尊氏は何時、後醍醐からの題を受け取り、そして何時、自分の歌を送ったのか。
この辺りの事情について、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』に即して、もう少し考えてみたいと思います。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その9)

2021-03-27 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)17時04分28秒

石川氏は「一方で護良親王との確執等も既に起こっていた」とされますが、これは恐らく佐藤進一『南北朝の動乱』の影響ですね。
ただ、佐藤説そのものが『太平記』の枠組みの中で想像を重ねた「『太平記』史観」に過ぎず、この時期の「護良親王との確執」を一次史料で裏付けることはできません。
護良の確実な事跡としては、元弘三年(1333)一二月一一日に南禅寺に参詣して元僧・明極楚俊の法話を聴いた、というエピソードがあるだけなので、素直に考えれば護良もけっこうヒマだったのでは、ということになりそうです。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

さて、続きです。(p15)

-------
 一三三五年、これも尊氏にとって転機となる重要な年であるが、後醍醐天皇内裏において千首歌会が催行された。この「内裏千首」の全貌は明らかでないが、地下の出家歌人をも含めた広範囲の歌人が参加しており、尊氏も歌人の一人として名を列ねている。
     建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、氷
                    等持院贈左大臣
  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
                   (新千載六二六)
     建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、月を
                    等持院贈左大臣
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
                    (同一七八三)
この詞書によれば折しも尊氏は東国に下向しており、そこで題を受け取って歌を都に送ったという。この年の尊氏の東国下向という事から直ちに想起されるのは、中先代の乱であろう。七月、幕府最後の執権であった北条高時の遺児時行が諏訪頼重等とともに挙兵し、足利直義の軍を撃破して鎌倉を占領、直義は鎌倉を出奔し(この時に預かっていた護良親王を殺害した)、三河国に逃れた。事件を聞いた尊氏は征夷大将軍の称号と追討令を望んだが後醍醐天皇はこれを許さず、尊氏は勝手に軍勢を率いて下向し、天皇は慌てて征東将軍の号を与えて、自らが出兵を命じたかの如く体裁を繕った。尊氏に征夷大将軍の号を与える事で名実ともに武士の棟梁となって統率権を握られる事を危惧するとともに、そうする事が武士の体制からの離反をも招来しかねない、その苦渋の結果の措置であったろうが、後醍醐天皇としては顔に泥を塗られたような思いもあったであろう事は想像に難くない。尊氏は三河で直義と合流し、東下して時行軍を駆逐し、直ちに鎌倉を回復した。そのどの段階で先の歌題が届いたのかは定かでないが、これ以前に生じていた両者の間の溝は東国への出兵の件を巡って一層深刻化したはずであろう。そんな状況のなかであったにも拘わらず天皇は宮廷和歌活動の題を敢えて遠征中の尊氏に送って参加させ、尊氏もそれに応じて和歌を詠んで送ったのである。この問題をどう考えたらよいのだろうか。
-------

「最後の執権であった北条高時」とありますが、これは「最後の得宗」の誤りですね。
「最後の執権」は尊氏の正室・赤橋登子の兄、赤橋守時です。
さて、このあたりの記述も概ね佐藤進一説を前提としていますが、「尊氏は征夷大将軍の称号と追討令を望んだ」の「追討令」については石川氏に若干の誤解があるようですね。
『太平記』によれば尊氏が望んだのは「追討令」ではなく「東八ヶ国の管領」権であり、また『神皇正統記』によれば「諸国惣追捕使」です。
私自身は尊氏が「征夷大将軍の称号」を望んだという点についても懐疑的で、これも「『太平記』史観」の一環だろうと思っています。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

それにしても、佐藤進一『南北朝の動乱』では、中先代の乱で尊氏が京都を離れた時点で後醍醐と尊氏の間に大きな衝突があり、その緊張状態がずっと続いて十一月の決裂に至る、というストーリーとなっており、これは他の歴史学研究者の著作でも基本的に同じ構図です。
しかし、「建武二年内裏千首」をめぐる歌壇での動きを見ると、なんだかずいぶんのんびりとした雰囲気ですね。
「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の投稿で紹介します。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その8)

2021-03-27 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)10時19分40秒

石川論文に戻って、続きです。(p14)

-------
 後醍醐天皇の和歌活動に政治的意味が含まれていた事は夙に指摘されている。宮廷和歌の盛行が親政や中央集権の一つの証であった。しかし新政権を樹立させたばかりのこの時期、政務は多忙を極めたであろう。大規模な晴儀の歌会など企画する余裕もなかったかと推察される。これは裏付けもない憶測であるが、記録に残らない小歌会等の折に天皇は尊氏の詠に接する機会でもあったのだろうか。
 或いは、頓阿の『草庵集』や『続草庵集』には「等持院贈左大臣家三首に」「等持院贈左大臣家五首に」といった、尊氏邸での歌会で詠まれた事を表す詞書を有する夥しい数の歌が載っている。同様の機会に詠まれたと思しき詠は勅撰集等からも若干が拾えるのみであり、小規模の、身近な歌人を中心とした歌会であったかと想像されるが、『草庵集』『続草庵集』を根拠に推測する限り、尊氏邸では相当頻繁に歌会が行なわれていたらしい。その殆どは年次未詳であるが、「建武の比、等持院贈左大臣家に、寄花神祇といふ事をよまれしに」(『草庵集』一四〇二)と年号が記されたものが一つだけ見え、尊氏の動向を踏まえると建武三年、一三三六年とは考え難く、従って建武元年または二年、一三三四、五年の事と見るのが妥当であろうが、もし仮にそうした企画が一、二年遡った時点から始まっていたならば、頓阿から尊氏の好士ぶりを聞いた二条家歌人がそれを天皇の耳に入れる可能性もあったかもしれない。
-------

「建武の比、等持院贈左大臣家に、寄花神祇といふ事をよまれしに」の詞書がある頓阿の歌は、『和歌文学大系65 草庵集・兼好法師集・浄弁集・慶運集』(明治書院、2004)を見ると、

  男山花の白木綿〔しらゆふ〕かけてけり影なびくべき君が春とて

というものですね。
なお、和歌文学大系では1399番となっています。
さて、建武新政期の歌壇の状況については、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1987、初版1965)に基づいて、ある程度検討済みです。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

重複は避けますが、井上氏が「八月五日の叙位除目で高氏は従三位となって公卿に列し、後醍醐の諱尊治の一字を与えられて尊氏と改名した。その月十五夜、新拾遺一六四八には殿上人が探題で詠歌したという詞があって、為冬の月前霧の詠がある。この日は除目であり、恐らく九月十三夜会の誤りであろう」(p366)と言われている為冬の歌は、

-------
       元弘三年八月十五夜うへのをのこども題をさぐりて月の歌よみ侍
       りけるに、月前霧              藤原為冬朝臣
一六四八 空にのみたつ河霧のもひまみえてもりくる月に秋風ぞ吹く
-------

というものですね。
さて、石川論文の続きです。(p15)

-------
 要するに一三三三年から一三三五年前半頃までは、一東国歌人であった尊氏が都の伝統文化の中に身を置きその風流に浸った時期、と言えようか。公的な会への出詠も経験し、おそらく小規模だったとはいえ、都の好士達を集めての歌会も主催した。二条為世邸の桜を密かに賞翫した翌朝に贈答歌を交わしたのもこの期間であろう。

     家の花おもしろかなりとて等持院贈左大臣月夜に忍びて見
     侍りけるを朝にききて、かの花につけて申しつかはしける
                      前大納言為世
  夜半に見し人をも誰としらせねば軒端の花を今朝ぞ恨むる
                      (新千載一七一五)
     返し               等持院贈左大臣
  しられじと思ひてとひし夜半なれば軒端の花のとがやなからん
                        (同一七一六)

歌壇のリーダーとしてかつては雲の上の存在のように思えたであろう為世が、今はこうして親しく和歌を送り、風流を共有しているのである。但し、一方で護良親王との確執等も既に起こっていたから、尊氏にとって終始平穏な時期ではなかったであろうが。
-------

この時期の二条派の総帥・為世は建長二年(1250)生まれで、尊氏より五十五歳も上ですね。
建武五年(暦応元年、1338)に八十九歳という高齢で亡くなっており、尊氏とのなかなか洒落た贈答歌は為世最晩年のエピソードです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その7)

2021-03-26 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月26日(金)21時14分6秒

ということで、『新千載和歌集』だけで考えると尊氏の位置づけがものすごく高いことになりそうですが、『新拾遺和歌集』を見ると若干の修正を図る必要が出てきます。
『新千載和歌集』は尊氏主導の事業でしたが、『新拾遺和歌集』は『新千載和歌集』成立の僅か四年後、貞治二年(1363)に義詮が執奏し、公家社会の抵抗をかなり強引に押し切って推進した事業です。
井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』によれば、

-------
 貞治二年二月二十九日、為明は勅撰集を撰進すべき命を後光厳天皇から受けた。後愚昧記三月十九日の条に「勅撰事日来武家執奏、子細有之、而重々被経御沙汰、被仰前中納言為明卿云々、仍賀遣之、為悦之由有返報」とある。すなわち義詮が撰集あるべく執奏し、宮中ではかなり議論があったらしい。恐らくこれは新千載成立後わずか四年目にしかも同じ後光厳天皇の綸旨を請うたからであろう。翌三年二月二日近衛道嗣が「今度勅撰事衆人不甘心歟、然而大樹骨張之間、不能是非」と愚管記で記しているように、人々は非常に批判的であったが、義詮が強く主張した為に文句がつけられなかったのである。天皇が在位の間に二度も勅撰集を撰進せしめるのは異例であるが、将軍の側から言えば初度である。撰集発企の権限は既に新千載の折に掌中にした、と解する武家の考え方を示すものである。異例の事であっても撰者となりうる機会を得た為明が悦んだのは想像に難くない。
-------

といった具合です。(p613)
撰者の二条為明は永仁三年(1295)生まれでかなり高齢であり、結局、完成を待たずに貞治三年(1364)十月二十七日に死んでしまいます。
そして、編纂作業は地下歌人の実力者・頓阿が受け継いで十二月に完成させます。
ま、そうした事情はともかくとして、『新拾遺和歌集』に採られた「元弘三年立后屏風」の歌は八首です。
それらを『新編国歌大観 第一巻 勅撰集編』から転記すると、

-------
       元弘三年立后屏風に   藤原雅朝朝臣
二四三 おほあらきのもりのうき田の五月雨に袖ほしあへず早苗とるなり

       元弘三年立后屏風に、蛍  前大納言為世
二七八 くるるより露とみだれて夏草のしげみにしげくとぶ蛍かな

       元弘三年立后屏風に、おなじ心を  前権僧正雲雅
二九六 夏衣たちよる袖の涼しさにむすばでかへる山の井の水

       元弘三年立后屏風に、七夕  前参議経宣
三四二 七夕のいほはた衣かさねても秋の一夜となにちぎりけん

       元弘三年立后屏風に     正二位隆教
五六六 三輪山は時雨ふるらしかくらくの初瀬のひばら雲かかるみゆ

       元弘三年立后屏風に、五節をよませたまうける  後醍醐院御製
六二二 袖かへす天つ乙めも思ひいでよ吉野の宮のむかしがたりを

       元弘三年立后屏風に   後宇多院宰相典侍
七一六 さき初そむるまがきの菊の露なから千世をかさねん秋そ久しき

       元弘三年立后屏風に、石清水臨時祭   後醍醐院御製
一四〇五 九重の桜かざしてけふは又神につかふる雲のうへびと
-------

となります。
こちらの詞書は「元弘三年立后屏風に」で統一されていますね。
296に「おなじ心を」とありますが、これは直前の295が「百首歌たてまつりし時、納涼」という詞書の「等持院贈左大臣」尊氏の歌で、要するに「納涼」ということですね。
さて、『新千載和歌集』十五首と『新拾遺和歌集』八首の合計二十三首で考えると、「後醍醐院御製」は、

「春日祭の儀式ある所を」
「五節をよませたまうける」
「石清水臨時祭」

の三首があって、この中で「五節」は「弾正尹邦省親王」の「宮人のとよのあかりの日かげ草袂をかけて露むすぶなり」と場面が重なるようです。
つまり、尊氏の歌だけが後醍醐の歌と同じ場面に登場するのではなく、邦省親王と後醍醐の組み合わせもある訳ですね。
従って、尊氏だけが特等席を与えられた訳ではありませんが、それでも邦省親王と同様の立場ですから、唯一の武家歌人である尊氏にとっては破格の待遇であることは間違いないと思われます。
なお、私は勅撰集の扱いに不慣れなものですから、律儀に『新編国歌大観』をコピーしてあれこれ考えてきましたが、国文学研究資料館の「二十一代集データベース」に「元弘三年立后」と入れれば、たちどころに、

『新千載和歌集』十五首
『新拾遺和歌集』八首
『新後拾遺和歌集』一首

の合計二十四首が出てきますね。
最後の『新後拾遺和歌集』の歌は、

-------
    元弘三年立后屏風に、新樹を  藤原為冬朝臣
167 青葉にも/しはし残ると/見し花の/ちりてさなから/しける比哉
-------

というものです。
ただ、「おなじ心を」などとなっているものはやはり書籍で確認する必要があり、歌集全体の雰囲気や該当の歌の周辺の配列なども確認できる点で、やはり書籍の方が確実ですね。

国文学研究資料館「二十一代集データベース」
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G000150121dai
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その6)

2021-03-26 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月26日(金)11時11分47秒

尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作が発表された珣子内親王立后の屏風は、後醍醐と尊氏の関係を考える上でけっこう重要と思われるので、少し丁寧に検討してみます。
井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』によれば、珣子内親王立后の事情と屏風歌の作者は次の通りです。(p366以下)

-------
 この間、新政府の為すべき事は頗る多く、雑訴決断所、次いで記録所・侍所・武者所などが次々に設けられた。十二月十七日には珣子内親王を中宮とした。西園寺公宗が中宮大夫となった。公宗は持明院統の有力な廷臣で、六月いったん権大納言を辞せしめられ、八月還任はしていたが、その沈淪は蔽うべくもなかった。珣子は後伏見院を父とし、公宗の叔母にあたる西園寺寧子(広義門院)を母とする。この立后の措置が持明院統の不満を緩和する為のものであった事は明らかである。この立后の屏風に歌人がそれぞれ詠を進めた。新千載及び新拾遺に多く採られ、なお新葉五〇〇・五九三、新後拾遺一六七、慈道親王集、或は明題和歌全集・類題和歌集にみえる。作者は天皇・慈道・邦省・尊良・道平・冬教・公宗・実教・公明・公脩・実忠・経宣・惟継・尊氏・為世・為定・為明・為冬・為親・隆教・雅朝・覚円・雲雅・後宇多院宰相典侍ら。二条派の人々が中心であるのはいうまでもない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41

そこで、まず尊氏が執奏し、尊氏没の翌延文四年(1359)に成立した『新千載和歌集』で立后の屏風歌を探してみると、以下の十五首があります。
『新編国歌大観 第一巻 勅撰集編』から転記してみます。

-------
      元弘三年立后四尺屏風に、六月祓する所 後円光院前関白左大臣
三〇六 みそぎ河きよきながれにうつすなりならの都のふるきためしを

      元弘三年立后四尺屏風に    前大納言実教
三六八 いくたびかさかりみすらむ宮城野のおなじふるえの秋萩の花

      元弘三年立后屏風に、田家のほとりに鹿たてる所 権中納言為明
四七一 秋の田のかりほの庵の遠近にいとひもあへず鹿の鳴くなる

      元弘三年立后屏風に、紅葉を     藤原為冬朝臣
五七〇 はれくもり染めずはいかで色もみむ時雨ぞ秋の紅葉なりける

      元弘三年立后屏風に        侍従為親
六〇七 しがらきのと山をかけて雲はらふ嵐の跡も又しぐれつつ

      元弘三年立后屏風に、五節     弾正尹邦省親王
六五六 宮人のとよのあかりの日かげ草袂をかけて露むすぶなり

      元弘三年立后四尺屏風に、寒草ある所 二品法親王慈道
六三九 あのづから残る小篠に霜さえてひとつ色なる野べの冬草

      元弘三年立后四尺屏風に、網代ある所 前大僧正覚円
六八四 のどかにやひをもよるらむもののふの八十氏川の波たたぬ世は

      元弘三年立后四尺屏風に、雪    前大納言為世
六九四 久方の空につもるとみゆるかな木だかき嶺の松の白雪

      元弘三年立后四尺屏風に、鷹狩する所  前中納言公脩
七二五 狩りくらすとだちの鷹のをしえ草あすもやおなじ跡を尋ねん

      元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
九八二 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ

                  等持院贈左大臣
九八三 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり

      元弘三年立后月次屏風に、朝賀の所 後光明照院前関白左大臣
一六六一 をさまれる御代のしるしも大君のすすみてまうす春はきにけり

      元弘三年立后四尺屏風に、苗代   前中納言惟継
一七二五 あら小田にまかする水もゆたかなる民の心はにごらずもがな

      元弘三年立后四尺屏風に、花の木に鶯なく所 後宇多院宰相典侍
二三〇四 立帰る御代の春とや鶯の花になくねものどけかるらむ

      元弘三年立后月次屏風に、旬の儀ある所  弾正尹邦省親王
二三三〇 をさまれる御世のみつぎとよるひをを大宮人にかふたふなり

-------

「後円光院前関白左大臣」は鷹司冬教(1305-37)、「後光明照院前関白左大臣」は二条道平(1287-1335)ですね。
詞書は「四尺」「月次」の有無で、

「元弘三年立后四尺屏風に」 306・368・639・684・694・725・1725・2304
「元弘三年立后屏風に」   471・570・607
「元弘三年立后月次屏風に」 982・1661・2330

の三種類に分かれていますが、これは同じものと考えてよいのでしょうね。
そして「後醍醐院御製」(982)は「元弘三年立后月次屏風に」タイプですが、肝心な「等持院贈左大臣」尊氏の歌には詞書はなくて、その前の「後醍醐院御製」を受けて、「元弘三年立后月次屏風」の歌だと考えられている訳ですね。
ま、二首を比べれば、そう考えるは当然ですが。
さて、詞書には「六月祓する所」(306)、「田家のほとりに鹿たてる所」(471)、「紅葉を」(570)、「寒草ある所」(639)、「五節」(656)、「網代ある所」(684)、「雪」(694)、「鷹狩する所」(725)、「春日祭の儀式ある所を」(後醍醐院御製、982)、「朝賀の所」(1661)、「苗代」(1725)、「花の木に鶯なく所」(2304)、「旬の儀ある所」(2330)といった具合に、その歌が書かれた具体的場面を明示しているものが大半ですが、この中で尊氏の歌は「後醍醐院御製」と同じ位置にあるのですから、数多くの場面の中でもまさに特等席といってよいのではないかと思います。
これは後醍醐の尊氏に対する破格の優遇を可視化しているものと考えてよさそうです。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その5)

2021-03-25 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月25日(木)13時57分43秒

『新千載和歌集』には詳しい注釈書がなくて、明治書院の「和歌文学大系全80巻(別巻1)」シリーズには含まれていますが、現時点では未刊です。

https://www.meijishoin.co.jp/news/n3341.html

仕方がないので『新編国歌大観』から尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作を引用しようかと思っていたところ、松本郁代・ 鹿野しのぶ氏の論文を見つけました。
『中世王権と即位灌頂 聖教のなかの歴史叙述』(森話社、2005)の著者である松本郁代氏(横浜市立大学教授)については、当掲示板でも2010年に少しだけ言及したことがあります。
また、鹿野しのぶ氏には『冷泉為秀研究』(新典社、2014)という著書があるそうですが、私は未読です。

『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1058856b8db18635f9180226eca27545
「寺家即位法」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/108e85b9adc442d8da8840000edeb296
「人の精魂を喰う恐るべき女鬼神」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce94ad96f90bb65fad5b176d8284b9b2

さて、『新千載和歌集』は尊氏と後醍醐の関係を考える上で非常に重要な歌集ですが、石川論文の検討を始めたばかりの段階で詳しく論じる訳にも行かないので、尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作とその直前にある後醍醐御製の解説だけ、松本・鹿野論文から引用しておきたいと思います。
「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(二) ―附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈―」(『横浜市立大学論叢.人文科学系列』71号、2020)から引用します。(p137・138)

-------
     元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を   後醍醐院御製
(45) 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ(九八二)
                             等持院贈左大臣
(46) 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり(九八三)

【中略】
 後醍醐天皇詠の(45)は、元弘三年(一三三三)十二月十七日、珣子内親王(一三一一~一三三七)立后月次屏風に寄せた春日祭の和歌である。ここで、春日祭を勤める朝廷官人らに「こころせよ」と示した場所は、「藤の鳥居のしたかげ」である。藤原氏を春日社鳥居のそばに咲く藤の花に喩え、その下の影となり祭に奉仕する官人らの存在を表わしている。元弘三年は、倒幕と帰京を果たした後醍醐天皇が建武新政を始めた年であり、対立した持明院統の後伏見天皇皇女を皇后とした祝意の和歌が配列されている。
 配列上の意味からこの「花のしたかげ」をとらえると、藤原氏の陰にあっても、(43)に詠まれた躬恒の「かすがの野べの草も木も」 のように、再び春の訪れに巡り会えることを示唆するものである。「春日山」と「藤波」(44) は、「藤の鳥居の花」(45)にも及んでいるが、花の盛りの下陰にも目を留め、「こころせよ」とした後醍醐天皇の政道を示している。
 (46)は、(45)と同様に、元弘三年珣子内親王の立后月次屏風のうち、春日祭が描かれた屏風に足利尊氏が寄せた和歌である。「春日野や道ある御代に神まつるなり」と、後醍醐天皇による正しい治世や政道を讃えた祝意を表わす。「諸人」が「春日野」に「踏み分けて」行く、人々を導く道筋をつける天皇の治世に春日神を祀る、「諸人」と後醍醐天皇と春日神との関わりが、「春日野」という場所をつうじて示されている。
-------

「附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈」にはより詳しい解説がありますね。
あまり長く引用するのもためらわれますが、ここまで充実した注釈があるのですから、こちらも転載しておきます。(p109・108)

-------
       元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を   後醍醐院御製
九八二 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ
【作者】後醍醐院―前稿(一)参照。
【通釈】春日祭の勅使として、身を寄せて仕えるのであれば、家臣各々、心して仕えよ。藤の鳥居の傍に咲いている花の下影で。
【語釈】●詞書―「元弘三年立后」は元弘三年十二月十七日、後醍醐天皇は隠岐から帰京ののち、後伏見院皇女・珣子内親王を中宮としたことをさす。「春日祭」は二月および十一月の上申日に行われる。その様子が描かれた?風を見て詠んだ。●つかさづかさ―現存の用例では初見。当該歌の影響を受けたと思われる後村上院に「名をとへばつかさづかさも心して雲井にしるきけさの初雪」 (『新葉集』冬・四六八「初雪見参のこころを」)という詠がある。
【参考】 「春日山藤のとりゐの春の色に身をもはづべき宿とみゆらん」(『公義集』春・四八・ 「忠光卿の家の障子の絵に、春日社鳥居ふぢかかりたる所」)
【他出】『新葉集』(神祇・五九四・「元弘三年立后屏風に、春日祭 )『六華集』 (神祇・一八五八)

                  等持院贈左大臣
九八三 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり
【作者】足利尊氏―前稿(一)参照。
【通釈】諸人も今日は踏み分けて春日野の、正しい政道が行われる御代に神を祀るのであるよ。
【語釈】●諸人―多くの人々。衆人。●春日野―九八〇番歌参照。●道ある御代―秩序があり、首尾良く治まっている世。「近江のや坂田の稲をかけつみて道ある御世のはじめにぞつく」(『新古今集』賀・七五三・「仁安元年嘗会悠紀歌たてまつりけるに、稲舂歌」・藤原俊成)
【参考】「おく山のおどろがしたもふみわけて道ある代ぞと人に知らせん」(『新古今集』雑中・一六三五・「住吉歌合に山を」・後鳥羽院)
【補説】九八二番歌の詞書を受ける。為定・後醍醐院・尊氏の配列構成。「道ある御代」については、尊氏が正しい政治、治世を詠んだ歌として、「道ありておさまれる世をしら雪のふるきみゆきにうつしつるかな」(「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事 」)がある。これは【参考】に挙げた後鳥羽院の歌を念頭に置いたかと思われる。当該歌も後醍醐の代を治世とし、これを意識した配列が成されたのであろう。
-------

「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事」の「京」は「卿」の誤変換でしょうか。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その4)

2021-03-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月24日(水)12時49分55秒

(その3)では五行しか進みませんでしたが、続きです。(p14)

-------
 一三三三年、鎌倉幕府から船上山に向けて下された尊氏は後醍醐天皇側に翻心し、五月に六波羅探題を滅亡させ、呼応するかの如く関東で挙兵した新田義貞の軍勢(そこには尊氏の嫡男義詮もいた)が幕府を急襲して、鎌倉時代は終焉を迎える。そして後醍醐天皇の所謂建武新政期に入り、軍功を高く評価された尊氏も大きな存在感を示すようになるが、武士をも一元的に自らのもとに統括しようと目論む後醍醐との間に溝が生じ、次第にそれが深まって衝突するのは周知の通りである。
 同年十二月、後伏見院皇女珣子内親王が中宮となり、立后の屏風和歌が行なわれたが、尊氏もその歌人の一人となった(『新千載集』九八三)。現存する尊氏の和歌事跡を辿る限りではこの出詠が都の歌壇へのデビューという事になるようだが、いささか唐突な印象を拭えない。今や公卿に列しているとはいえ、出詠者の中で東国の武家歌人尊氏はやはり異色の存在であるように感じられる。新政権樹立以前の詠が今さら見直されて出詠歌人として選抜されたと見るのは不自然に過ぎるだろう。
-------

珣子内親王はなかなか面白い存在で、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、西園寺公宗の陰謀に関連して少し検討されています。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41

私自身も三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文を素材として、亀田氏とは異なる観点から少し検討したことがあります。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1) ~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f733ba40d8e3f29a3e37d779a2304137
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/451545f9a06ffcb47decb7852eff1cfc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b07826c5e0793f9459319d63f3099f45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdc2c396262ac0da5481ec383fdb6ec5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba29eebcfe587bb836dfc166c642603
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18af00a5ef28c16a1d00e19454e7975a
珣子内親王ふたたび
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/483c599c2e02190951746258d81671cc

さて、『新千載集』は尊氏の執奏により撰集が進められた勅撰集で、その完成は尊氏没の翌延文四年(1359)ですから、珣子内親王立后の実に二十六年後ですね。
その成立にはなかなか複雑な事情があって、現在の私には論じる準備が全くありませんが、松本郁代・ 鹿野しのぶ氏に「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(一) ―附 『新千載和歌集』神祇歌九三八~九六〇番歌註釈―」(『横浜市立大学論叢.人文科学系列』70号、2019)と「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(二) ―附 『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈―」(同71号、2020)という論文があって、幸いなことにこれらは「横浜市立大学学術機関リポジトリ」で読むことができます。

https://ycu.repo.nii.ac.jp/

そして、「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(一)」には、

-------
 その延文元年六月十一日、後光厳天皇は二条入道大納言為定に勅撰集撰集の綸旨を下した。これは将軍足利尊氏の執奏によるものである。この後の『新拾遺集』 『新後拾遺集』 『新続古今集』は全て武家執奏となった。
【中略】
 さて、『新千載集』の撰集意図については、深津睦夫氏の論に詳しい。それは後醍醐天皇を讃頌しまたその御霊を鎮魂するものであるという。これは足利尊氏の後醍醐天皇に対する強い意志が背景にあった。それが故に法体であったにもかかわらず南朝にも通じていた二条為定を撰者とし、下命者の後光厳天皇が撰者とする意向があったであろう冷泉為秀は、どんなに歌道家としての力を持っていても、撰者から完全に漏れるのである。深津氏は本歌集が崇徳院の鎮魂を目的とした『千載集』の例に倣ったものであることも、書名が『新千載集』であることとともに指摘する。さらに氏はこの後醍醐天皇の鎮魂という意図を慶賀部において読み取っておられる。このことは本稿で松本郁代氏が考察するように『新千載集』神祇歌でも大いに表現されている。
-------

といった指摘があります。(p270)
まあ、非常に複雑な背景があるのですが、ひと言でいえば『新千載集』は尊氏が歌の世界に造った天龍寺のようなものですね。
次の投稿で尊氏の歌を紹介します。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その3)

2021-03-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月24日(水)11時00分28秒

続きです。(p14)

-------
 一三三一年に成立した『臨永集』に三首、同じ頃に成立した『松花集』の現存部分に二首採られた。この頃には二条派内で存在を知られるようになったのだろうか。ただ二集ともに九州と縁深い私撰集である事を考慮すると、前述の赤橋家が仲介して入集せしめた可能性も想定されよう。
-------

『松花集』については今まで殆ど検討してきませんでしたが、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題(p955)によれば、

-------
 撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている。原形は四季(各一巻)恋(二巻)雑その他(計四巻)の一〇巻約六~七〇〇首であったと推測されるが、完本は伝わらず、現在ある程度まとまって伝存するのは、次の四部分である。【後略】
-------

という歌集です。
「源高氏」の二首は、

251 露にしほれ 嵐になれて 草枕 たびねのとこは 夢ぞすくなき
263 あらましに 幾度すてて いくたびか 世には心の 又うつるらむ

ということで、手慣れた感じはしますが、まあ、率直に言ってちょっとしみったれた歌ですね。
さて、石川論文からは少し脱線気味になりますが、『臨永集』との比較を兼ねて、鎮西探題・赤橋英時、「平守時朝臣女」、大友貞宗、少弐貞経の歌も紹介しておきたいと思います。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3

まず、「平英時」(赤橋英時)を見ると、

65 吉野がは はやせの浪に ちる花の とまらぬものと 春ぞくれ行く
84 けさみれば うつろふ色も なかりけり まだ霜とけぬ 庭の白菊

170は前の「よみ人しらず」の歌とセットになっていて、

    人のもとにつかはしける         よみ人知らず
169 なげかじな 猶おなじ世に ながらへて ふるもかひある ちぎりなりせば
    かへし                        平英時
170 われもげに おなじうき世と かこちきぬ ふるにかひなき 人の契は

196は北畠具行の歌の後に「おなじ心を」と出てきます。
ま、編者がそういう配列にしただけでしょうが。

     内裏にて五首歌講ぜられ侍りける時、月前恋 権中納言具行卿
195 なほざりに またれしまでや 月みるも なぐさむよはの 思ひなりけん
     おなじ心を
196 月影の ふけぬる後も 偽に ならはぬほどは 猶ぞまたるる

246も小倉実教の歌の後に「おなじ心を」と出てきますね。

     元亨三年八月十五夜亀山殿にて人人題をさぐりて歌つかうまつり
     けるに、旅                 前大納言実教卿
245 もろともに おなじ山路は こえつれど やどとふ暮は 行きわかれつつ
     おなじ心を                 平英時
246 われよりも いそぐとみえて 夕ぐれの やどとふさとを すぐる旅人

ということで、残存二八七首のうち、赤橋英時の歌は五首ですね。
ついで「平守時朝臣女」の歌は、

182 ながきよの 月にやいとど ちぎらまし 人の心の あきはしらねど
     山家を
237 よそにては うき世のほかと 聞きしかど すめばかはらぬ 山の奥かな

ということで二首。
少弐貞経と大友貞宗の歌は各一首です。

                            藤原貞経
151 あはれともたれかいはせのもりの露きえなんあとの名こそをしけれ

                            平貞宗
253 末も猶 遠きたびねの 草枕 夢にもあすの 道いそぐなり

以上、武家歌人を中心にほんの少しだけ見てきましたが、「同じ心を」がちょっと気になります。
この詞書は別に赤橋英時だけではなく、

67 前大納言実教卿/ 68 宰相典侍
75 惟宗光吉朝臣/ 76 源清兼朝臣
130 丹波忠守朝臣/ 131 玄観法師
136 前大納言為世/ 137 中宮
176 従三位藤子/ 177 権律師浄弁

という組み合わせでも登場していますが、二回登場するのは赤橋英時と小倉実教だけで、しかも小倉実教はいずれも前の方、赤橋英時はいずれも後の方です。
二つの歌が「同じ心」であることは編者の評価ですが、赤橋英時の歌が二回とも後ろにあることは、あるいは英時が「自分だったらこう詠むな」と言っているようにも感じられます。
つまり、英時が編者の可能性もあるのではないですかね。
全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然であり、となると一番有力な候補は英時となりそうです。
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