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「殉教する宗教─孤独な自我の萌芽」(by 山崎正和)

2016-01-31 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月31日(日)09時40分52秒

念のため書いておくと、私が「殉教」の観点から種々論じたことに対し、「殉教」を基準にするのは暗黙の内に「宗教」なるものの基準をキリスト教に求めているのではないか、みたいな批判をする人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。
私は神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する人々に対して前々から違和感を持っていたので、もう少し冷静に、客観的に見るべきではないか思って、あくまで比較のための一つの視点として「殉教」に着目しただけです。
ちなみに私は、殉教者がやたらと多いキリスト教は特殊な宗教だなと思っていて、山崎正和氏が『世界文明史の試み─神話と舞踊』(中央公論新社、2011)に書かれている次の見解に賛同しています。(p274以下)

-------
殉教する宗教─孤独な自我の萌芽

 今日、世界のあらゆる場所に信者を持ち、地理的にもっとも普遍的な宗教であるキリスト教だが、これほど文明史的に特異な宗教はほかにはあるまい。開祖のキリストがユダヤ人であり、ユダヤ教の神をみずからの神としながら、その教義を改革したために同じ民族から迫害を受け、十字架上に殉教したという異例の成立事情が、この特殊性を生んだと考える。
【中略】
振り返るとキリスト教は異様に殉教者の多い宗教であって、それも伝道者や聖人だけでなく、平凡な市民や農民の殉教者のおびただしさは他に例を見ないのである。
【中略】
前掲『ギリシアとローマ』は「殉教者行伝」という当時の記録を引いて、カルタゴのヴィクトリアという少女の宗教裁判の模様を詳しく描いている。役所の要求は皇帝を神と認め偶像に犠牲を捧げるという一点だが、「誓願女」を名のる少女は皇帝に忠誠を誓いながらも、その皇帝の繁栄はキリストにたいしてのみ祈ると譲らない。拷問にも役人の懇切な説得にも抗して、彼女は従容と死を選ぶのである。
 この平凡な少女の殉教は、二つの点でキリスト教の生んだ新しい信仰のかたちと、人類の倫理観の深化の画期的な一歩を物語っている。第一はいうまでもなく、この少女がたった一人で拷問と刑死を受け、純粋に内面的な個人の信仰を守ったことである。過去の民族宗教の信者も迫害と殺戮に耐えたし、後のイスラム教徒も聖戦に斃れたが、その苦痛はつねに同胞と共有され、その勇気は隣人の見る目によって励まされていた。彼等の倫理はベルクソンのいう「閉じられた」社会のなかの規範であったが、このキリスト者の少女の周囲には隣人の励ましも見る目の強制もない。そこにはベルクソンの「開かれた」世界があるばかりであって、そのなかで彼女は孤独な死への飛躍を選んだのであった。【後略】
--------

『ギリシアとローマ』とは村川堅太郎編『世界の歴史2、ギリシアとローマ』(中央公論社、1961)のことです。
殉教にも二種類あり、「聖戦」における「戦死」はけっこうありますね。
「三河国大浜騒動」や「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」における浄土真宗の「殉教者」もこのタイプに分類されるはずです。
しかし、「周囲には隣人の励ましも見る目の強制もない」にもかかわらず行われる「孤独な死への飛躍」は珍しく、日本ではキリシタンくらいではないですかね。
山崎氏は上記引用部分の少し後で、「興味深いのは、後世の日本の初期『キリシタン』も同じ選択をしていることである。彼らはキリスト像を描いた『踏み絵』を踏むことを要求されたのだが、多くは一枚の板切れにすぎないものを踏むことを拒んで殉教を遂げた」としていて(p277)、もちろん間違いではありませんが、明治に入ってからの「浦上四番崩れ」を忘れているかのような書き方には若干の不満を覚えます。
「隠れキリシタン」については、長期の孤立により本来のキリスト教と異なる土俗的な宗教に変質してしまった、みたいなことを言う人もいますが、「殉教」の点では全く変わっていないですね。
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廃仏毀釈に殉教者はいるのか?(その3)

2016-01-30 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月30日(土)09時28分29秒

今までの検討で廃仏毀釈に「殉教者」がどの程度いるのかについては一応の結論が出たと思うので、ここで整理しておきます。
まず、浄土真宗の「護法一揆」の代表とされる「三河国大浜騒動」では死罪2名、牢獄での病死者4名が出ていて、真宗大谷派・正念寺「殉教記念会」サイトを見ると、おそらくこの6名が真宗大谷派の公式に認定する「殉教者」なんでしょうね。
また、『明治維新神仏分離史料』に言う「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」、『福井県史』の美しい名称によれば「越前真宗門徒の大決起」での死者は死罪6名は確定していますが、牢獄での病死者については不明、というか私は知りません。
ただ、『福井県史』によれば、処罰された8439人の中に懲役1年から3年の者が19人、懲役5年から10年の者が9人いるとのことなので、当時の監獄における劣悪な衛生状態を考えると、合計28人中の何人かは病死しているかもしれません。

「越前真宗門徒の大決起」「官側の対応」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-06.htm

ということで、合計12名プラスαで、どんなに多くても20名くらいかと思います。
なお、「護法一揆」の代表例とされる「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」も、『福井県史』によれば、その性格は、

--------
そこで、本一揆の歴史的性格については、いわゆる「真宗地帯」での「護法」的課題を直接的な契機としながらも、一揆勢の諸要求や攻撃目標・主導的諸階層などからみて、本質的には、明治初年の「世直し型」の性格をはらみながら、同時に「惣百姓型」一揆の動向がきわめて顕著に現れている。したがって全国的にみて、おもに明治四年から六年にかけて生起し、とくに六年段階でピークを迎える「護法一揆」の特質を、きわめて明瞭に示すものであった。
--------

というもので、発端の農村部での活動はともかく、全体としてみると「護法」的要素は意外と少ない、というか希薄な印象を受けます。
また、『福井県史』の上記引用部分は前半・後半がどうして「したがって」でつながるのかが不思議であり、論理的におかしいような感じもしますが、これは<明治四年から六年にかけて生起し、とくに六年段階でピークを迎える「護法一揆」>には、「護法」純度100%のポンジュースのような「護法一揆」など実際には存在しておらず、ピークの明治六年段階では特に不純物が多いのだ、と考えれば説明がつきそうです。
さて、「護法一揆」の代表例とされる三つの一揆の三番目、「信越地方土寇蜂起」となると、正直、こんなものは「護法一揆」でも何でもないのでは、という感じが否めないのですが、まあ、処刑された「月岡村安正寺の僧月岡帯刀」くらいは「殉教者」に入れてよいのかもしれません。
ということで、「殉教者」は三つの「護法一揆」合計でやっぱり20名程度ですかね。
以上は浄土真宗関係の一揆参加者に限った「殉教者」ですが、他宗派を含め、廃仏毀釈の混乱の中で事故に巻き込まれたり病死したり自殺したりした人はそれなりにいたとしても、それら「廃仏毀釈関連死」の当事者を「殉教者」とは呼びにくいですから、結局のところ廃仏毀釈全体で「殉教者」はせいぜい20名程度ではないかと思います。
「廃仏毀釈に殉教者はいるのか?」で書いたように、この時期、明治新政府の下で行われたキリシタン弾圧(浦上四番崩れ)ではキリシタン信者3394人が全国各地に流され、その中で拷問されて死んだり病死した人は613人います(『国史大辞典』、片岡弥吉「浦上四番崩れ」)。
とすると、死者の数では廃仏毀釈の殉教者は「浦上四番崩れ」の3%程度の「宗教弾圧」となりそうですね。
ちなみに「浦上四番崩れ」では、キリシタンはキリシタンであることそれ自体を理由として殺されているのに対し、廃仏毀釈では仏教を信ずるが故に殺された人は皆無です。
それは最初からわかっていたので、私は廃仏毀釈の殉教者の典型として、例えば仏像を破壊しようとする暴徒に逆らって殺された僧侶のような人をイメージしていたのですが、どうやらそういう人もいないようです。
そして殉教者らしい人たち、というか浄土真宗が「殉教者」として認定しているであろう人たちは全て一揆参加者で、殺人・放火・建造物破壊・器物損壊等の犯罪行為の実行者、ないし暴動の計画立案・煽動者だけですね。

「廃仏毀釈に殉教者はいるのか? 」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a09e60902e246fbb8816c149dcc3c2
「廃仏毀釈に殉教者はいるのか?」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfcc86fc9bb305fd6c2c64f68efc8f70

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私の好きな言葉─「愚民」

2016-01-28 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月28日(木)09時47分16秒

井上勝生氏『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』から、前回投稿で引用した部分の続きです。(p200以下)

--------
 北条県で、白衣を着た「血取り」役人が来るという流言を流したのは、旧村役人で、県庁に徴兵・地券・学校・屠牛・斬髪・解放令などの反対を歎願し、ついで戸長、下級県吏、小学校、被差別への焼き討ちへと向かう。戸長への反発は特に激しかった。「戸長征伐」と称され、戸長宅がことごとく焼き討ちされた。
--------

流言は民衆の間に自然発生的に生じるのではなく、事情を詳しく知っている地域のそれなりのインテリ層から生まれるのは「耶蘇衆」も同じでしょうね。

--------
 北条県血税一揆では下級官吏と戸長五九戸、小学校一八ヵ所、被差別三一四戸が焼き討ちされた。一揆後、斬罪は一五名、全体で二万七〇〇〇名が処罰された。最大の蜂起となった筑前竹槍一揆では、官吏、戸長、豪農商一一三三戸が、さらに被差別一五〇〇戸も焼き討ちされた。この一揆は県庁に突入し、書類などを焼き捨てた。四名が死刑、最も軽い笞三〇以下を含めて全体で六万四〇〇〇名が処罰され、福岡県の総戸数の七一パーセントが処罰された。襲撃が多いのは、前述のように、上から政府の都合を先にして行われた解放令の問題と、民衆が差別意識を根強く持っていたことを示している。
--------

「上から政府の都合を先にして行われた」というのは、1871年8月の解放令(廃止令)が人道的な観点からではなく、地租改正の障害を除くために行われたことを示します。
若干分かりにくいので「前述」の部分を引用すると(p195以下)、

--------
 しかし廃止令が発令される直接のきっかけは、地租改正関連法案の発令だった。廃藩置県後、すぐに地租改正が政府の政策課題になり、土地売買を自由にして地券を出す政策がとられる。それまで「※※」や「※※」は「社会外」の存在とされ、その宅地も「土地外の土地」であった。下級の刑吏役や「弊牛馬」(牛馬の死骸)処理をつとめるかわりに年貢が免除されていた。いわゆる無租地であり、「※※」や「※※」の居住地も特定の場所に制限されていた。一方、明治政府はあらゆる土地に画一的に地券を発行して税をとるために、社寺地や武家地などを含めた無租地の自由売買を許可し、租税も負担させた。すべての土地の自由売買化こそが、人民の活力を引き出すのであり、それが旧弊の否定だという、きわめて単純な文明化の理解に基づいていた。こうして七一年八月、すべての無租地廃止が布告される。「※※」、「※※」の宅地も売買を認め、租税をかけた。同時に、「※※」、「※※」の居住制限の解除も必要になる。「社会外」という隔離支配は不可能になり、結局、無租地廃止の九日後に、身分自体の廃止令が出された。
--------

ということですね。
なお、伏字はその用語で検索をかけて来る人との無用な掲示板トラブルを避けるために用いただけで、知りたい人は井上氏の著書を読んでください。
さて、一揆関係の資料を読んでいると、「愚民を煽動して」云々、といった表現をよく見かけます。
私はこの「愚民」という言葉の力強い響きがけっこう好きなのですが、やはり新政府反対一揆の中でも「学校反対」や「解放令反対」を叫ぶ一揆の「愚民」度はひと味違いますね。
まあ、明治新政府の官吏も相当強引ですが、この種の「愚民」を相手にする苦労を考えると、若干の同情を禁じえなくもありません。
この種の一揆から比べると、詳しく見ればいろいろ問題の多い「護法一揆」すら、ずいぶん上品な、格調高い一揆のように思えてきます。
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政府要人を「異人」「耶蘇衆」と呼ぶ流言

2016-01-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月27日(水)11時46分40秒

ここで視野を少し広げて、当時の新政府反対一揆の概要を眺めておきます。
井上勝生氏の『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』(岩波新書、2006)はコンパクトにまとまった良書だと思うので、少し引用させてもらいます。
同書によれば、「江戸時代の一揆勢の規律は厳重で、家屋をこなみじんに打ちこわしても、『放火』は厳しく禁じられていた」そうですが、1866年に各地で起きた「世直し一揆」の段階で放火も登場し、「一線がのりこえられはじめた」(p165)そうです。
そして、新政府の東征軍が江戸城に到着する直前の1968年2月下旬に発生した「上州世直し一揆」は「『世直し大明神』の旗を掲げて、上州ほぼ全域をおおい」、四月まで続き、「関東に入った新政府軍は、一揆指導者を多数、斬首刑に処したが、今のところ、その処刑数は明らかでない」(p166)ほどで、更に同時期に「武州世直し一揆」も発生し、東征軍の東北諸藩攻撃を遅らせるほどの影響をもたらします。
ついで1869年になると、大凶作にもかかわらず、急進的な開化政策を急ぐ新政府は「地方官の判断による貢租減額を一切厳禁し」、「六九年の農民暴動の件数は、新政府の苛政のために、六八年をしのぎ、江戸時代最多の一揆件数を示した六六年に次ぐものと」なります。(p183)
1871年7月の廃藩置県後には広島県の「武一騒動」以下、16件の「廃藩反対一揆」が起きますが、「放火を自制した江戸時代の一揆とは激しさの質がまったく異なって」(p194)おり、それに対応して政府側も一揆に厳罰で臨み、「死刑たりとも即決」となり、「播但一揆(兵庫県)で一九名が即決裁判で死罪に処せられた」そうです。(p195)
そして、

-------
 一八七三年は、明治初年一揆の一つのピークとなった。主なものをあげれば、五月から六月にかけて北条県(岡山県北部)血税一揆がおき、その後、最大の筑前(福岡県北西部)竹槍一揆、そして鳥取県会見郡(同県西部)徴兵令反対一揆、広島県徴兵令・解放令反対一揆、讃州竹槍騒動、天草血税騒動、島根県徴兵令反対一揆とつづいてゆく。
 戸長からの徴兵名簿提出起源の六月から反対一揆がそれ以前にもましてつぎつぎにおこる。徴兵告諭に「血税」の文字があり、徴兵を「血取り」、「子取り」とし、政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言が流れた。江戸時代、百姓は、年貢はおさめていたが、兵事にはかかわらなかった。明治政府は、貢租を減らさないし、しかも庶民を兵にとる。人民の負担は明治政府によって格段に加重されたのである。徴兵を「血取り」、「子取り」と言う流言は、的を射ていた。
-------

とのことですが(p200)、この<政府要人を「異人」とか「耶蘇衆」と呼ぶ流言>は興味深いですね。
井上氏の書き方だと「耶蘇衆」云々は1873年に初登場のようにも読めますが、「護法一揆」関係では既に1870年の三河大浜騒動に登場しています。
そして徴兵令反対一揆が活発化する少し前の1873年3月に発生した「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」でも、参加者を煽動するために「耶蘇」という表現が頻繁に用いられたことは既に見たとおりです。

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「神仏分離反対一揆」の不存在

2016-01-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月27日(水)09時59分25秒

>筆綾丸さん
>神道や神仏分離などへの言及が全くない
「神仏分離反対一揆」は存在しないみたいですね。
『国史大辞典』の「護法一揆」(吉田久一氏)の項を見ると、冒頭に、

-------
明治初年に仏教に関係する一揆は愛知・福井・島根・大分などに発生し、未発に終ったものを含めて七例に達する。この中でいわゆる宗教一揆と呼ばれるものは三河碧海・幡豆郡、越前大野・今立・坂井郡、信越土寇蜂起の三件で、信越土寇蜂起も純粋な意味では宗教一揆といえない。一揆は大部分真宗、特に大谷派が中心で、従来「護法一揆」と呼ばれてきた。この見方はいわば「殉教史観」であるが、一揆の発生理由は廃仏への反抗、僧侶の生活権擁護、新政府の農民に対する無理解、耶蘇教排撃、江戸幕府との親密な関係等々で、いずれも農民一揆と結合しているのが特徴である。
-------

とあります。
この後は「最も著名なのは三河藩菊間一揆(愛知県三河大浜騒動)である」として同騒動のそれなりに詳しい説明がありますが省略して、後半を見ると、

-------
六年三月発生した福井県三郡(大野・今立・坂井郡)宗教一揆の目的は耶蘇教反対・一向宗擁護・洋学廃止で、一揆期間十二日、参加人員一万人といわれ、護法的側面ばかりでなく、地券の廃棄などの農民の経済的要求も加わっていた。指導者は専福寺住職金森顕順と檀家の竹尾五右衛門である。信越土寇蜂起(新潟県分水騒動)は廃仏問題と新政府による人民課税の重圧、更に朝幕関係が加わり、五年発生した。首謀者は安正寺住職月岡帯刀、会津藩士渡辺悌輔である。通常「護法一揆」といえば、三河菊間藩一揆が典型となっている。
-------

ということで、まあ、近年の一揆研究は相当進展しているようなので、あるいはこの『国史大辞典』の記述も若干古くなっているのかもしれませんが、概要はこんなものなのでしょうね。
仏教関係の一揆は未発を含めて七件、その中で宗教一揆と呼べるのは三件で、更に「純粋な意味では宗教一揆といえない」信越土寇蜂起を除くと僅かに二件ですから、膨大な件数の新政府反対一揆の中では、その割合は僅少です。
そして、一揆を起こしてまで新政府の宗教政策に反対したのは浄土真宗だけで、浄土真宗はもともと神祇不拝ですから、廃仏毀釈には反対しても神仏分離それ自体には反対するはずがありません。
ということは、この時期の民衆は神仏分離などに特に切実な関心は持っていない、という結論を出してよさそうですね。
神仏分離に直接の影響を受けるのは僧侶の身分で神前に奉仕していた人たちだけで、その人たちにも還俗して神職となるルートが推奨されており、それに従えば従来と同じような地位と収入を期待できた訳ですから、まあ、それほど熱く反対する理由もありません。
ましてや一般民衆は、江戸時代以上の重税や新たな徴兵の負担など、時代の激動に伴う遥かに深刻な問題を抱えていた訳ですから、神仏分離などはどうでもよく、廃仏毀釈も浄土真宗の門徒を除けば、わざわざ一揆を起こして反対するほどの切実な問題ではなかったということですね。
「護法一揆」の「典型」だという三河菊間藩一揆は既にそれなりに検討を加え、その官吏殺害の残虐さには少し驚きましたが、この一揆ですら処罰を受けたのは死罪二人を含む四十人程度ですから、当時の数多くの激烈な新政府反対一揆の中ではさほど目立たない存在ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Sonderkommando の Arbeit 2016/01/25(月) 13:16:29
小太郎さん
三河国の騒動は中世比叡山の悪僧などをイメージしていたのですが、越前国の場合は戦国期の一向一揆の追体験のような感じがしないでもないですね。
『福井県史』にある「一揆勢の諸要求」を見ると、呉座氏の言われるように、「新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策=「新政」全てに反対している」(『一揆の原理』33頁)ようですが、神道や神仏分離などへの言及が全くないのは意外な感じがします。それはともかく、要するに、旧儀は善、新儀は悪、旧幕時代に戻せ、ということなんですね。三か条の願書(明治6年)のはじめが「耶蘇宗門越前へ不入願之事」とあるのは、意図的な書き方のようですね。

『サウルの息子』をみました。
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──「ゾンダーコマンド」とは何ですか? 彼らは実際には何をしたんでしょうか?
親衛隊に選ばれた囚人で、新たに移送されてきた囚人たちをガス室のある建物に連れて行き、衣服を脱がせ、彼らを安心させてガス室に入れる役目をする者のことです。その後、死体を運び出し、焼却している間、ガス室の掃除もします。それらすべては迅速に済ませなければなりません。というのは、すぐにも次の囚人たちの貨車が着いてしまうからです。
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親衛隊員が連呼する arbeiten の響きとドイツ語以外聴き取れぬ複数の言語と大量の死体を焼却する音が、バッソ・オスティナート(執拗低音)のように延々と続く映画です。土曜日の有楽町とはいえ、館内ほぼ満席なのには驚きました。

追記
昨日、鎌近を訪ねました。
「県と敷地を共有する鶴岡八幡宮」と「県は八幡宮との借地契約が切れる来年3月末までに閉館し、更地にして土地を返還する」という朝日新聞の記述では、敷地の所有関係がよくわかりません。所有権はあくまで八幡宮にあり、神奈川県には借地権しかない、と思うのですがね。
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一揆のプロフェッショナルたち

2016-01-25 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月25日(月)11時17分12秒

『福井県史』の記述は綺麗に整理されすぎている感じが若干するので、参考までに辻の「神仏分離の概観」も少し引用しておきます。(『明治維新神仏分離史料』上巻、p63以下)

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三、明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動

 維新の初、越前今立郡定友村に、真宗本派末寺唯宝寺良厳といふものがあつて、法主光沢の選により、長崎に至り、新知識を得て帰つた、終に還俗して、石丸八郎と称し、教部省出仕となり、五年十一月、国に帰り、門末に寺院廃合の急務を説き、且神道を弘め、王政復古の実を挙ぐべきことを主張した、これによりて、信徒等は所々に会合して、如何にせんかと論談するものあり、一部の民心恟々たる有様であつた、これが遂に暴動の導火線となつたのである、石丸の行動は同郡庄境村明光寺の住職から、大野郡据村最勝寺柵専乗に急報せられ、大野郡の信徒は大に動揺した、
---------

石丸八郎は「法主光沢の選により、長崎に至り、新知識を得て帰つた」とのことですから、真宗本願寺派(西本願寺)の中ではエリート中のエリートだったのでしょうね。
浄土真宗といえども勿論一枚岩ではなく、他宗派と同様、内部には新時代に適用しようとする改革派や、更には石丸八郎のような棄教派もいて、相当に揺れ動いていたのでしょうね。

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偶々六年一月、太政官は令を発して、教導職の中に、東西両部の名号を廃し、爾後一般に神道教導職と称すべき旨を布告し、大野の町々に高札を建て、之を掲示した、事理に暗き信徒は、之を解して、両部は東西本願寺の事、名号といふは、即六字の名号と早合点して、全く仏法破却の世となつたと、村より村へ、人より人へといひ伝へ、家業を廃して、鳩首凝議した、
--------

ま、「事理に暗き信徒」が独自の解釈で「両部は東西本願寺の事、名号といふは、即六字の名号と早合点」することなどありえないですから、これも事理に明るい僧侶たちが門徒を暴動に引き摺ることを狙って、意図的に誤解するように仕向けた、または誤解が広まるのをしめしめと放置したのでしょうね。

--------
二月一日、最勝寺専乗は、大野郡友兼村専福寺金森顕順、並に檀家竹尾五右衛門等重立つ者五六人と会し、石丸若し来郡して、廃寺毀釈を宣伝したならば、早鐘を撞き、信徒を召集して之を退くべしと約した、ついでまた附近の僧侶とも最勝寺に会議し、今立坂井二郡の門徒にも移牒して同意を得た、専乗はまた竹尾五右衛門等四十三ヶ村の檀徒と会し、若し一人と雖も就縛せらゝる者あらば、直に出動すべきを議し、連判状を作りて、最勝寺に保管しておいた、
--------

金森顕順・柵専乗・竹尾五右衛門はいずれも後に死刑になる六人に含まれていて、その罪状は「兇徒聚衆」ですね。

--------
既にして大野出張所にては、この事を探り知つて、三月五日邏卒を遣して、竹尾五右衛門及専福寺顕順を捕へて往く途に、五右衛門は隙を窺ひ、邏卒を突き放して逃走した、邏卒は已むを得ず、顕順一人を引連れてゆく内に、五右衛門は附近の寺院にかけつけて、早鐘をつき立てたので、かねての諜し合せにより、忽ち遠近の寺々相伝へて早鐘をつき始め、村々の人々聞き伝へて、それ取戻せ奪ひ返せと、竹槍手々に身繕ひし、南無阿弥陀仏の六字の紙旗、蓆旗など押立てゝ、繰出した、邏卒は之を見て、事の意外に驚き、遂に顕順をすてゝ逃げうせた、
--------

実に見事な連繋プレーです。
浄土真宗の組織統制の手腕は水際立っていますね。

--------
かくて一揆の農民は、次第に其数を加へ、同月七日出張所を襲うて、之を破壊し、戸長其他商家の平生怨あるものゝ家を焼き、又上庄木本領、下庄村菖蒲池等の区長戸長豪農等の家を襲ひ、勢猖獗を極めた、明けて八日には、尚遠方より馳せ加はり、一揆の人数幾万とも計り難くなつた、
--------

まだ少し続きますが、省略します。

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「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」

2016-01-25 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月25日(月)10時10分14秒

辻善之助「神仏分離の概観」の「六、廃仏反抗と地方の暴動」に出てくる三つの暴動のうち、三番目の「明治六年越前大野今立坂井三郡の暴動」ですが、これはネットで公開されている『福井県史』に詳しい説明がありますね。
『福井県史』では「越前真宗門徒の大決起」というなかなか美しい名称に変更されていますが、やっていることは現住建造物放火・建造物損壊・器物損壊・脅迫・強要等ですから、「暴動」の方が適切なような感じもします。

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第一章 近代福井の夜明け
第一節 明治維新と若越諸藩
五 越前真宗門徒の大決起
明治政権の教化政策
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm

この事件の発端はなかなか興味深くて、真宗本願寺派の寺に生まれ、還俗して教部省に出仕した石丸八郎という人物の発言が波乱を呼びます。
「耶蘇」云々は三河の菊間藩大浜騒動とも共通しますね。

--------
「石丸発言」が、「耶蘇」の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の「護法連判」が行われた。石丸を「耶蘇宗の者」とみなし、「耶蘇」の侵入には、村ごとに「南無阿弥陀仏」の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。

石丸発言とその波紋
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm

そして「石丸発言」をきっかけに大野・今立・坂井の三郡で合計三万人以上が参加する大暴動が発生します。
鎮台兵が出動して暴動が鎮圧された後、関係者が捕縛され、金森顕順(真宗高田派、41歳)と柵専乗(真宗本願寺派、38歳)の僧侶二人と農民三人・商人一人の合計六人が処刑されることになります。
まあ、浄土真宗側からすれば、この六人は「護法一揆」で活躍して宗門のために犠牲になった「殉教者」なんでしょうね。

大一揆の展開とその顛末
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

暴動参加者の要求を見ると、やはり「耶蘇」という表現がやたら目立ちますね。
『福井県史』の執筆者は、これを

--------
大一揆の直接の発端に寺院側の大きな働きかけがみられる以上、彼らが護法的立場から民心を掌握する便法として、「耶蘇」の語を機会あるごとに喧伝したものとみてよい。したがって、こうした諸要求事項のなかでは、「耶蘇」の語は教義そのものを問題とするのではなく、単に「反対すべきもの」とか「好ましからざるもの」という、嫌悪意識の表現として掲げられたといえよう。
--------

と評価します。
大浜騒動に関する諸記録には、「耶蘇」の影響を受けたのは民衆だけで僧侶側は無関係みたいな書き方をしているものが多いのですが、民衆の情報源は僧侶なのですから、大浜騒動でも僧侶が<民心を掌握する便法として、「耶蘇」の語を機会あるごとに喧伝したものとみてよい>のでしょうね。
要は無教養な門徒を暴動に駆り立てるためのアジテーションとして、「耶蘇」という表現が最適だった訳ですね。

一揆勢の諸要求
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-04.htm

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初瀬川健増の「漆の木の栽培普及にかけた一生」

2016-01-25 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月25日(月)08時54分31秒

「信越地方土寇蜂起」の執筆者・初瀬川健増の「初瀬川」という名字はなかなかお洒落な感じがしますが、会津の人なんですね。
会津若松市公式サイト内の「あいづ人物伝」によれば、初瀬川健増(1851-1924)は漆の木の栽培普及に一生をかけた人だそうです。

-------
初瀬川家は、小谷(おや)村(現在の大戸町小谷)で村方役人の肝煎を勤める家柄でした。建増は嘉永4年(1851)に生まれ、17歳で肝煎となり会津藩の蝋漆(ろううるし)取締役も勤めています。
戊辰(ぼしん)戦争後、漆の栽培は会津藩の保護制度が無くなり著しく衰退しました。その衰退を危惧した建増は、「漆蝋制度秘書」を著し、漆の有用性を説き、さらに「漆樹(うるしじゅ)栽培書」によりその普及を図りました。建増の栽培普及は、日本はもとより国外にまで及び、明治22年のパリ万博や明治24年のシカゴ万博には漆器などを出品し、褒(ほうしょう)章を受けるまでに至っています。

http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin07.htm

この経歴からすると、「信越地方土寇蜂起」の執筆も、悌輔騒動首謀者の元会津藩士・渡辺悌輔への愛惜の念に基づくのかもしれません。
なお、このタイトルが「信越地方」となっていて、本文にも「信越の間に土寇が蜂起した」とあるのは少し変で、少なくとも初瀬川による記述を見る限り、信州は全然関係ありません、
あるいはこれは騒動の舞台が「信濃川」流域であることから会津人・初瀬川に生じた小さな誤解の現われでしょうか。
ま、それはともかく、初瀬川は1851年生まれなので、青年期に会津落城を見て、神仏分離・廃仏毀釈の様子も実見している人なんですね。
1851年というと、『明治維新神仏分離史料』の編者三人のうちの一人、村上専精(むらかみ・せんしょう、1851-1929)も同年の生まれです。
『明治維新神仏分離史料』全五巻・五千七百ページの編纂実務の中心は言うまでもなく辻善之助(1877-1955)ですが、神仏分離・廃仏毀釈の半世紀後に編まれた同書の編者の中で、実際に神仏分離・廃仏毀釈を実見したのは真宗大谷派(東本願寺)の高僧でもある村上専精ただ一人ですね。
鷲尾順敬(わしお・じゅんきょう、1868-1941)は辻より9歳年上ですが、それでも一連の騒動が最も激しかった頃はまだ幼児です。


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悌輔騒動

2016-01-24 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月24日(日)09時56分56秒

悌輔騒動については、とりあえず辻善之助の「神仏分離の概観」から関係部分を引用しておきます。
この辻の文章には参考文献が全く挙げられていませんが、実は『明治維新神仏分離史料』下巻に掲載されている「初瀬川健増氏報」の「信越地方土寇蜂起」〔<自文久二年八月 至明治五年>年次私記〕(p1011以下)と全く同文です。
事情は分かりませんが、辻にしてはちょっと奇妙な書き方ですね。

------
明治五年信越の間土寇蜂起

明治五年四月、信越の間に土寇が蜂起した、是より先、旧会津藩渡部悌輔、近藤慶治、吉田藤太郎、村上藤治、及旧庄内藩吉川大介、米沢藩竹田何某等、奥羽鎮定の後、信越の間に流寓して居つた、会々信濃川を北海へ疎鑿の土工の工事起り、官より地方民に課して、湟渠を鑿つて居た、又訛言あり、官廃仏を決すと、土民是を信用し、相屯集し、課役を停め、仏教を興し、或は新潟港を鎖し、租税法を復する等を県庁に請うた、官吏は諭して潰散させんとした、土民等肯ぜず、是に於て、渡部以下四人機に乗じ、密に月岡村安正寺の僧月岡帯刀と謀つて、其党を煽動した、土民大に勢を得、遂に渡部以下月岡を推して主将とし、渡部等徳川氏回復の五文字の籏章を樹て、共に一隅に拠らんとした、其徒殆ど二万人に及んだ、是月二日、遂に大河津の川口に向ひ、沿道の民家を火き、進んで新潟港に迫らうとした、時に松平参事南部権参事等賊中に入り、説諭したけれども、賊徒益猖獗を極め、官吏を傷け、大道盈伊之に死し、県庁、鎮台兵四小隊を請ひ平島村に派し、急に賊を砲撃し、賊辟易四散し、事平いだ、後渡部月岡以下数人を斬つた。
-------

新潟県新発田市に月岡温泉というそれなりに高級な温泉街がありますが、「月岡村安正寺」の月岡は月岡温泉とは全然関係なくて、現在の三条市ですね。
地図を見たら、信濃川に架かる三条大橋の近くに安正寺という寺があります。
たまたま私は悌輔騒動の関係地域に土地カンがあって、新潟県に住んでいた頃、信濃川や大河津分水路沿いの道を何度もドライブしました。
悌輔騒動から52年後の1924年に完成した大河津分水路は、春になると雪解け水が怒涛の勢いで川幅一杯に流れ下り、じっと水面を眺めていると怖いようでしたね。
ま、そんな個人的感懐はどうでもよいことですが、「神仏分離の概観」を見る限り、会津戦争の敗北者が煽動した「徳川氏回復」を主たるスローガンとする暴動において、雑多な要求の中に仏教維持もある程度の話のようで、これが「護法一揆」の代表例というのもちょっと変な感じがします。

検索したところ、「信濃川大河津資料館」サイト内の「大河津分水の歴史」に「1872(明治5)年大河津分水工事反対などを掲げた渡辺悌輔騒動が起きる」とありますね。

http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/toha/toha-history.htm
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首級への執着

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)13時54分46秒

服部少参事の和歌云々の話とは時間が前後しますが、暴徒が逃げ遅れた藤岡薫を竹槍で殺害して首を切る場面と、その首を川に流す場面は興味深いので、これも引用しておきます。(p366以下)

-------
藤岡薫は殿であつたので、暴徒が群つて竹槍をさし付て、逐ふて来る、暴徒の一人が、薫の背に槍先を付て居る、之を一人が後から推倒した、倒るゝはづみに藤岡の衣服を貫いたので、藤岡も倶に倒れた、此ありさまを見た多数の暴徒は、それ耶蘇が倒れたと、群つて来て、づぶづぶ竹槍をつきさした、目に余る多数の暴徒だから、藤岡も力及ばず、悲惨の最期を遂げた、暴徒は代る代る来て、罵りながら藤岡の死体を竹槍で突きこかしたり、蹴つたりして、後ちには田の中へころがし落した(三浦氏の談による、)
又、藤岡薫は如何にせしか、田の畦の細道を往き、過つて転倒せしといふ説もある、

暴徒藩吏の首級を挙ぐ 附、首級を矢作川に投ず

多数の中に、耶蘇の首を取れといふものがある、気早の一人は、魚切包丁を持ち来て、切りはじめたが、よく切れぬといふので、一人が水を灌けよと、田の水を手に掬ふてかけて、漸く切り落とした、(専修坊一乗の実見談であると伝へてある、)側らの水溜りで血潮と泥とを洗ひ落して、意気揚々と首級を提げ、左右からは堤燈を翳して、蓮成寺へ持込んで来る、多数は口々に、夫れ耶蘇の生首だ、見て置ふと、先を争ふて見物して居る、蓮成寺の玄関に来て、耶蘇の首を打ちとつたと高声に呼ばはつた、二三の僧侶が立出で、呆れて見て居たが、是までやるではなかつたといふて居つた、(三浦氏の談による、)このまゝにしては置かれまいといふので、藁包にして矢作川へ流さした、

柳某氏の談によれば、此流したものは、小川安政の小兵衛といふ者であつたが、小兵衛は自身が捕縛になれば、指図した僧侶の名前を白状せねばならぬと、逃亡して、九ヶ年間行方不明であつたと、

暴徒大浜陣屋を襲はんとす

僧侶は議すらく、一人にても殺害した上は、我々の身命も最早之までゝある、しかじ大挙して大浜を襲はんにはと、直ちに議は一決したが、先頭する者がない、暫く喧々して居つたが、多勢の中から、一人年齢四十許の男が、抽(ぬきで)て、我れが先頭するとて、高張を持ち出した、三十余名の僧侶は、之に従うた、無数の蓑笠竹槍が入乱れて、騒然として繰り出した、稀には銃を持つたのもあつて凄いありさまであつた、(三浦氏の談による、)
---------

呉座勇一氏の『一揆の原理』(洋泉社、2012)によれば、一般人の「『カムイ伝』(白土三平著)的なイメージ」とは異なり、「竹槍で闘う一揆が登場するのは、実は明治になってからのこと」(p21)で、しかも「こうした竹槍一揆は明治十年代には沈静化し、民衆の反政府運動は自由民権運動へと移行する。よって、竹槍一揆の歴史はわずか十年ちょっとに過ぎない」(p22)そうなので、大浜騒動は時期的にはまさにこの竹槍一揆の時代と重なります。
そして、これも意外なことに、江戸時代の百姓一揆の場合、百姓のシンボルである鎌や鋤は持っても人を殺す武器は持たず、村には鉄砲もあるのに鉄砲を武器として使わなかったそうですが、明治の新政府反対一揆は凶暴で「新政府側の役人が殺されている例が少なくない」(p33)そうです。
ま、ここまでは私も呉座氏の著書で知っていたのですが、凶暴な明治新政府反対一揆の一例とはいえ、大浜騒動ほど残虐に役人を殺した例は他にあるんですかね。
竹槍での殺害は騒乱状態ということでまだ理解できますが、その後、「魚切包丁」で首を切り、寺に持って行って見世物にする経緯は、周りにいる人を含め、かなり冷静に、というか面白半分にやっている感じがします。
何となく「イスラム国」のジハーディ・ジョンを連想させる光景ですね。

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「殉教者」は酔っ払いの集団

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)13時22分11秒

菊間藩少参事・服部純の人柄は私にとってもかなり意外だったので、『明治辛未殉教絵史』から関係する部分を少し引用しておきます。(中巻、p345以下)

-------
明治三年十二月、菊間藩大浜出張所(駿州沼津の城主水野出羽守領三河国碧海幡豆両郡中一万石余の管轄庁、元大浜陣屋といひししなり、)は服部少参事が赴任以来、新政を施行し、敬老会を開き、管下の高齢七十歳以上の者を旧陣屋に招待して饗応し、民心を懐け、又藩士及び領民子弟の教育をなすに、新民序塾といふ学校を立て、村童教育短歌といふ勤皇主義の字句三百三十四を編纂せしものを幼童に教へ、年齢に応じて漢籍を授け、教師及び世話掛等周到の方法である、又領民の階級を新製し、或は頼母子講に類したものを興して、公衆貯蓄ともいふべき事を計画して、着々励行し、一方には庄屋或は富豪を挙げ、帯刀を許し、役名を附し、各々任務に就かしめたり、当時の役名は左の人々でありき、(石川三碧翁の記録による、)
【中略】
服部少参事は属吏に対して、敏腕を揮ふので、各々よく服従して勉励し、村民も亦長官が頗る平民的であるのを喜んで、敢て不平もなかつたが、茲に断髪令公布のことで、稍々民心が抗した、又教諭使が巡りて村民を集め、神前のりと文を奨励し、又一般寺院の廃合問題が、民情に反して之が導火となつて、終に火のてはひろがりくる次第である、

或服部少参事に直接した人の説に、服部は決して悪人ではない、又破仏家といふでもない、尊皇主義の至りて早分りの性質であつたが、当時のやり口が急激なので、人民の度に合はず、あたら手腕を挫折(くぢき)たるのみならず、汚名を鷲塚に残したのは、可惜事でありたりと、
-------

他方、三月八日に「暮戸の会所」に集まった僧侶たちは酒を飲み、武器も揃えていたそうで、どうにも品位に問題のある人達だったようですね。(p253)

-------
暮戸の会合

三月八日、蓮泉寺台嶺は、暮戸の会所に赴いた、会所の座敷にて、二三の声で、来たのは誰れかと尋ねた、台嶺だと答へて、中に入りて見ると、万国寺依白、専超寺猛了、西方寺(里村)景晃、専修坊弟翔雲等が、酒杯を汲んで居つて、傍らに手槍が一筋立てかけて、依白の風体が白の筒袖襦袢を着て、白布でうしろ鉢巻をして、一見粗暴の有様で、剰へ其の言ふ処が、「平素の学問は勿論、其他渾てが諸士に遠く及ばぬが、護法の赤心に至りては他に一歩も譲らぬ」と、腕を撫して居る、台嶺は戒しめた、護法の随喜は悦ぶべきだが、粗暴の行は決して悦ぶ処でないと、二階の別間に居らしめた、(台嶺口書による、)
--------

この後も、騒動の参加者が酒を飲む場面が出てきます。(p363)

--------
暴徒蓮成寺の鐘を乱打す

九日も日没になつた、多数の集合は、朝来の騒擾で空腹になつた、食を求めて居る、時はよし酒樽を舁ぎ込んだものがある、忽ち樽の鏡をはねて、我れ勝ちに飲みかけた、一方では握り飯を運んで来た、腹はふくれる、酔はまはる、談判はまだぐずぐずして居るか、推しかけて潰して仕舞へと、騒ぎたつた、ソレといふので、鐘を撞き初めた、蓮成寺は驚いた、台嶺初め談判に苦辛して居る最中、障礙となつては大変だと、役僧をやつて、しゆもくの縄を切らしめた、他に屯ろして居た連中は、先きに一大事には早鐘を撞くと触れてあつたから、スハ事だと騒ぎ立てゝ、仕舞には麦打槌を持つて来て乱打した、騒擾は殆ど極に達した、(三浦氏の談による、)
--------

ということで、談判の場である庄屋屋敷を取り囲んでいた人々は、酔っ払いの集団でもあった訳ですね。
どうも「殉教者」と呼ぶにはいささか躊躇いを感ぜざるをえない品のない人が多いようです。
さて、騒動も終盤になって、服部少参事に関する妙な記述があります。
大浜陣屋に押しかけようと気勢を挙げる暴徒に対し、大浜陣屋側が反撃に出ようとする場面です。

--------
暴徒は益々騒擾して、鷲塚を根拠として居り、鐘を撞く、銃声を放つ、如何に思ふも、僅か十数名の少人数では、無謀に飛び込む訳にもゆかぬので、或は畑畦或は土手江溝によりて、追々進む中、鷲塚の村端れに、高張をさし上げて多数の襲来を認めた、勝呂は側らの地蔵堂に依ることを命令した(杉浦氏の談による、)

服部少参事が、当夜一首の和歌を詠じたといふ説がある、
 花散らば花なき里に花見せん雨ふらばふれ風ふかば吹け
人評して、勇はあるが義がないといひしと、(大浜の某氏の書記による、)
又服部少参事は、当夜屠腹するといひしを、皆々推し止めたといふ、(名倉某氏の談による、)
--------

屠腹(切腹)はまだ分かりますが、ここで和歌を詠んだのが本当だとしたら、何じゃそれ感が漂います。

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『廻瀾始末』と『明治辛未殉教絵史』

2016-01-23 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月23日(土)12時04分43秒

辻善之助が「神仏分離の概観」で大浜騒動の参考資料として挙げている『廻瀾始末』『明治辛未殉教絵史』・『仏教遭難史論』のうち、前二者は『明治維新神仏分離史料』の中巻に掲載されているので(p227以下)、読んでみました。
ちなみに『明治維新神仏分離史料』は全5巻、合計5700ページもあって、私も全部読むどころか特別に興味を持った寺社をパラパラ眺めていただけです。
また、同書を所蔵している地元の県立図書館が耐震補強工事中で利用できないという事情があったので、ここ暫くはずいぶん前にコピーした辻の「神仏分離の概観」で間に合わせていたのですが、さすがに今の流れでは読まない訳にはいきません。
さて、その感想ですが、平松理英著『廻瀾始末』(明治23年)は全く駄目な本で、辻が言うように「多少芝居じみた書き方の所もあり、且つその中心人物を回護せんとした為めに、筆を枉げたのではないかと思はるゝ嫌もないではない」どころか、最初から最後まで芝居じみていて、「筆を枉げたのではないかと」思われない箇所がありません。
他方、田中長嶺著『明治辛未殉教絵史』(明治44年)は筆致が冷静かつ客観的で、とても参考になります。

>筆綾丸さん
>「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象
『廻瀾始末』では極悪非道の人物とされているのですが、『明治辛未殉教絵史』では意外なことにけっこう好人物として描かれていますね。
その部分を紹介すると長くなるので、次の投稿で書きます。
なお、菊間藩からの処分もないと思います。

>「五年信越の間における土寇蜂起」
これは首謀者のひとりに浄土真宗の僧侶がいるだけで、浄土真宗との関係はあまり深くはないですね。
ウィキペディアでは中心人物の元会津藩士・渡辺悌輔の名を取って「悌輔騒動」として立項されています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「菊間藩少参事」2016/01/22(金) 14:08:17
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%96%93%E8%97%A9
正念寺のサイトに「明治四年二月、三河における所領およそ一万石を統轄するため、大浜に陣屋を構えた菊間藩(旧沼津藩)は」とありますが、ウィキによれば、菊間藩の三河国の領地は「碧海郡のうち16村、幡豆郡のうち5村」なので、一村当り500石前後となり、ごく平均的な村々のようですね。年貢米を差し引くと、21村合わせて何人位の農民が生存できたのか、つまり、騒動の背景というか、分母の規模を知りたいですね。最終的に土寇の数が数千人になるものかどうか。

ご引用の文を読むと、ひとえに「菊間藩の服部純少参事」が無能だった、という印象を受けますが、この人は藩から処罰されなかったのですか。

「本藩より少参事服部純が来任して、・・・各村を巡回して、神前念仏を禁じ、神を拝する作法として、祝詞を読み習はせ」は神道のことでしょうが、それがなぜ、「かの少参事服部某は、耶蘇であらう、・・・仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらう」と、耶蘇になってしまうのか、よくわからない話ですね。

辻善之助のいう「明治四年三河大浜の騒擾」と「六年越前今立郡坂井郡に於ける暴動」の背景には、ともに浄土真宗の強い影響があるのでしょうが、「五年信越の間における土寇蜂起」の背景も同じでしょうか。
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真宗大谷派・正念寺「殉教記念会」の見解

2016-01-21 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月21日(木)12時06分56秒

単なる「人殺し」じゃないのかな、というのはもともと浄土真宗があまり好きではない私の個人的感想で、浄土真宗側の見方はもちろん違います。
検索してみたら、大浜騒動の舞台、愛知県西尾市の真宗大谷派(東本願寺)正念寺のサイトに、同寺に事務局を置く「殉教記念会」の見解が掲載されていました。

http://www.shonenji.jp/jyunkyo.html

同会によれば、まず事件の前提として、

-------
維新政府は、天皇崇拝を核とする国家神道によって、国民の思想教育をはかった。
その神道国教化のの第一歩として「神仏判然令」が発せられた。
これは、仏と神が混然となった信仰の姿から、神道を独立・純化させ、それまでの仏が主で神が従という関係を、逆転させる狙いのものであった。
従って、ただちに仏教の弾圧を意味しなかったが、実際には江戸時代を通して保護された仏教に対する反発や、急進的な国学者・地方官吏の指導により、全国各地で寺院や仏像の破壊などの仏教排撃運動、いわゆる廃仏毀釈が展開された。
--------

という状況があったそうです。
「神仏判然令」は文字通り神と仏を分離せよ、と言っているだけで、別に「仏が主で神が従という関係を、逆転させる狙い」はないように思いますが、ま、そういう狙いが見える人もいるんでしょうね。

-------
明治四年二月、三河における所領およそ一万石を統轄するため、大浜に陣屋を構えた菊間藩(旧沼津藩)は、管内の寺院・領民に対し、天拝・日拝(歴代天皇・天照大神の神霊を拝す)の強要や、神前念仏の禁止等の政策を打ち出した。
これらは、神道国教化を強力に推し進める維新政府の方針に忠実に従ったものであった。
-------

キクマハンは歴史に詳しい人でもあまり聞かない名前だと思いますが、ウィキペディアによれば「明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に駿河沼津藩の水野家が移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。石高は5万石で、越後国や三河国にも領地があった。藩庁は上総国市原郡菊間村(現在の千葉県市原市菊間)の菊間陣屋」だそうです。
「日拝」について、私は圭室著に、騒動が鎮圧された後、菊間藩の服部純少参事が東本願寺に出した文書に「一 朝日を拝むことはもとよりなかったこと」云々とあったので(p203)、日拝=朝日を拝むこと、だと思っていましたが、この点は改めて調べてみます。
さて、上記引用部分では何故か寺院統廃合についての言及がありませんが、圭室著によれば2月15日に服部純少参事が大浜出張所に参集した各宗僧侶に提示した「十二か条の問題」は全て寺院合併についての話で(p201)、僧侶側からも「合寺・廃寺があたかもきまったような話であるがそれはおかしい。十二か条の下問はすでに合寺・廃寺を前提としているのではないか」という質問が出たそうです。
「殉教記念会」は何故この寺院統廃合の問題に言及しないのですかね。

--------
同年三月九日未明、台嶺をはじめ三十数名の有志が血誓し、政策に同意を示した二ヶ寺の糾弾と、菊間藩との談判を目的に、暮戸会所から大浜へ向かった。
途中門徒農民が次々と一行に加わり、鷲塚へ到着した時には数千人に達していた。
菊間藩はこの動きを知り、急遽杉山少属以下五名を鷲塚へ派遣した。
そして、庄屋片山俊次郎宅で台嶺ら護法会代表との談判が行われたが、双方の主張は日暮れになっても平行線のままで、帰りを待つ僧侶・門徒は次第に殺気立ってきた。
やがて、蓮成寺の鐘を乱打し、片山邸へなだれ込み、逃げ出そうとした役人を襲い、そのうちの一人、藤岡薫を殺害してしまった。
--------

一連の事件の経緯には何故か「耶蘇」のことが出てきません。
圭室著と辻善之助の「神仏分離の概観」を見ると、大浜騒動の特徴は浄土真宗側が終始一貫「耶蘇」への強烈な敵愾心を持って行動した点にあります。
着任当初から「少参事服部某は、耶蘇であらう」と噂され、「血判志士」の僧侶三十数名に同行した門徒は「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加わらん」と思って参加し、「袋の中の鼠」の一人、「杉浦某」が脱出を図ると「それ耶蘇が出た、ぶち殺せ」と竹槍が突き出され、倒れた藤岡薫は「ヤソが倒れたぞ!」と叫ぶ群衆から次々と竹槍で刺された挙句、その首は藁包み状態で矢作川に流され、「興奮した人々の中にはさらにヤソの本拠地である大浜陣屋を襲おうと檄をとばす者もいた」のですから、「耶蘇」のない大浜騒動なんて、まるでクリープのないコーヒーのような感じがします。
昭和のCMのフレーズです。
気にしないで下さい。

--------
翌十日、台嶺をはじめ事件に加わった者は逮捕され、取調べを受けた。
四月末に岡崎城で裁判が行われ、判決は十二月二十七日に申し渡された。
事件の中心人物である台嶺と藤岡薫殺害犯とされる榊原喜代七が死刑、以下血誓僧に懲役刑が課せられた。
--------

榊原喜代七はやはり「藤岡薫殺害犯」なんですね。

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「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」(その2)

2016-01-20 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月20日(水)13時32分57秒

続きです。

-------
夜に入つて群集は、庄屋の宅を囲み、折々鬨の声を挙げて示威運動を起し、終に瓦や石を投げ込むものあり、乱暴狼藉に及んだ、一方吏員と僧侶の談判は、終に破裂して、法沢等は斯まで歎願しても御聴入れなくば、最早これまでなりと座を立つた、是時に当り吏員五名は恰も袋の中の鼠の如くであつた、
-------

辻は「吏員五名」としていますが、圭室著では六人になっていますね。
ま、「袋の中の鼠の如」き状況の点では特に違いはありませんが。

-------
杉山は大浜に急を告げんと欲し、杉浦某を遣すことゝとした、杉浦は、袴の裾を高く括り、襷をあやどり、後鉢巻をし、玄関に現れた処、群集はそれ耶蘇が出た、ぶち殺せと、竹槍を突出すを、杉浦は刀を抜いて、無二無三に囲を衝いて、近傍の天満宮の石橋の下に隠れて、辛うじて難を免れた、民衆は庄屋の屋内に乱入し、杉山は随員と共に刀を抜いて躍り出で、逃れたが、その中一人の随員は、終に竹槍で突殺された、暴徒はその首をあげ、藁包みにして矢作川に流した、
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「それ耶蘇が出た、ぶち殺せ」という具合に、この騒動の場合、「神仏分離」も「廃仏毀釈」も正面からは問題とされず、終始一貫「耶蘇」にこだわっていますね。
辻は竹槍で突き殺された「その中一人の随員」の名前を出していませんが、圭室著には「藤岡薫」とあります。
この人は単に殺されただけでなく、首を切られて「藁包みにして矢作川に流」されてしまったとのことなので、ちょっと「イスラム国」っぽいですね。

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是に於て、三十余名の僧侶は、無数の群集を従へ、大挙大浜に向ふた、菊間藩出張所にては、急を聞いて、少属一人をして、士二人農兵十余人を引率して、出張せしめ、鷲塚の村端に於て、群集に遭うた、藩兵狙撃して、民衆の内負傷漸く多く、終に右往左往に散乱し、藩兵その二十余人を捕へた、三十余名の僧侶も亦逃れて自坊に匿れた、
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圭室著では「大砲二門を引き出したり」とありますが、辻はその点は特に記述していません。

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既にして岡崎、西尾、刈屋等近隣諸藩の援兵続て至り、暴徒の嫌疑者数百人を捕へ、其巨魁蓮泉寺台嶺、専修坊法沢等を始め、悉く岡崎に移され、審判あり、同年十二月に至り罪科を宣せられた、台嶺は斬罪に処せられ、法沢は准流十年、其他三十余名各差あり、俗人刑せらるゝもの九名、中一人絞罪、其他差あり、明治廿二年大赦を行はれ、これ等の罪名は悉く消滅した、
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辻の大浜騒動に関する記述はここまでです。
処罰については圭室著に詳しく、

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死罪斬罪 三河国碧海郡小川村蓮泉寺住職 石川了英養男 石川了円(二九)
死罪絞罪 三河国碧海郡城ヶ入村 農民 榊原喜与七(三七)
准流十年 三河国碧海郡高取村専修坊住職 星川勇精(三八)

この三人が最も重く、そのほか、

懲役三年 僧侶二人
懲役二年半 僧侶一人
懲役二年 僧侶六人
懲役一年半 僧侶一八人 農民二人
懲役一年 農民一人
禁錮十ヶ月 僧侶二人
杖百 農民五人

以上合計四十人が処刑されることになった。榊原喜与七は十二月二十七日、西端藩の絞台において命終し、石川了円は十二月二十九日西尾藩の獄舎において斬刑に処せられた。残りの者たちも悪条件の牢舎で病におかされ、翌年から六年にかけて、順静(三七)・徹観(二九)・了順(三一)・法沢(三八)の四人があいついで没した。
-------

とあります。
「法沢」は星川勇精の法名ですから、星川勇精は「准流十年」の刑であっても、結局は死んでしまったんですね。
農民で一番重い「死罪絞罪」となった榊原喜与七は、あるいは藤岡薫殺害に関与した程度が最も重い人だったのでしょうか。
ま、結局のところ、大浜騒動の死者は菊間藩側が1名、浄土真宗側が死罪2名、牢屋での病死4名の合計7名ですが、果たして浄土真宗側の6名は「殉教者」なんですかね。
もともと浄土真宗があまり好きではない私の目からは、単なる「人殺し」のような感じがしないでもありません。
少なくともこの浄土真宗の門徒たちは、「耶蘇」ならば殺して当然、という宗教的信念を持っていたことは間違いないですね。

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「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」(その1)

2016-01-20 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 1月20日(水)10時58分36秒

圭室文雄氏(明治大学名誉教授、1935-)が42歳の頃に書かれた『神仏分離』(教育社歴史新書、1977)は神仏分離・廃仏毀釈の全体像をコンパクトにまとめて分かりやすく解説した良書なのですが、「民衆」の捉え方に生ぬるいところがあって、ちょっと物足りないですね。
もう少しリアルな「民衆」像に近づくため、内容的にはかなり重複しますが、『明治維新神仏分離史料』上巻(東方書店、1926)の辻善之助「神仏分離の概観」から大浜騒動(辻の表現によれば「三河大浜の騒擾」)の部分を紹介してみます。(p58以下)

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六、廃仏反抗と地方の暴動
 一、明治四年三河大浜の騒擾
 ニ、五年信越の間における土寇蜂起
 三、六年越前今立郡坂井郡に於ける暴動

 明治四年三河大浜の騒擾については、夙く明治廿三年に平松理英氏の廻瀾始末といふ四六版凡二百頁許りの書が著されてある、この書の内容については、多少芝居じみた書き方の所もあり、且つその中心人物を回護せんとした為めに、筆を枉げたのではないかと思はるゝ嫌もないではない、その後、明治四十四年十月に、田中長嶺氏の明治辛未殉教絵史が出版せられた、これには廻瀾始末に見えぬ事も多く載せられ頗る詳かなものである、また近頃、滋賀県堅田の羽根田文明氏が編せられた仏教遭難史論には、稍異聞もある、これは同氏がその地へ出張して、古老について聞き、親しく其実地に臨んで調べたものださうである、こゝにこの一件の経過の大略を一言しやう、
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『廻瀾始末』『明治辛未殉教絵史』・『仏教遭難史論』は未読ですが、辻が紹介する内容と「殉教」「遭難」というタイトルから、いずれも浄土真宗側の立場から事件を描いたものなのでしょうね。
この後、辻は一切改行せず、句点も打たずに4ページほど文章を続けるのですが、さすがに読みづらいので適宜分割して紹介します。

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駿河沼津城主水野出羽守の領地が、三河碧海幡豆両郡にあつて、碧海郡大浜に陣屋を設けて支配して居た、維新の際菊間藩大浜出張所といひ、本藩より少参事服部純が来任して、新政を施行すと称し、称名寺藤井説冏、光輪寺高木賢立二名を教諭使に任命し、各村を巡回して、神前念仏を禁じ、神を拝する作法として、祝詞を読み習はせた、三河の国は数百年来殊に真宗の勢力最盛なる地であるから、この事を聞いて、信徒等は頗る喜ばなかつた、或は曰く、かの少参事服部某は、耶蘇であらう、彼の教諭使なるものは、其れと一しよになつて、仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらうと、其噂でもちきつた、
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ということで、浄土真宗が勢力を誇る大浜に来た服部純は最初から「耶蘇であらう」と疑われ、「教諭使」もその表現がどこかキリスト教的な印象を与えたのか、「仏教徒を耶蘇に引き入れやうとするものであらうと」疑われてしまうんですね。

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明治四年二月十五日、服部少参事は、大浜部内一般各宗寺院の僧徒を呼出して、寺院の併合及僧尼の制限について、下問書を出し、強制的に其請書を差出しめた、真宗僧侶は、本山へ伺の上にしたいと日延を願出たが、許されなかつた、僧侶は夜を日にかけて奔走し、三月二日、暮戸会所に集合して議を凝した、蓮泉寺台嶺専修坊法沢の二人が、其盟首となつた、
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「蓮泉寺台嶺」は圭室著には裁判判決の部分に「三河国碧海郡小川村蓮泉寺住職 石川了英養男 石川了円(二九)」と出て来る人物で、「死刑斬罪」となります。
また、「専修坊法沢」は圭室著では「三河国碧海郡高取村専修坊住職 星川勇精(三八)」で、「准流十年」です。

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三月八日に、再暮戸会所に集合して、最後の所決をしやうとした、当日参集の僧侶は百有余名に及んだ、衆議は、大浜西方寺、棚尾光輪寺が擅に合寺の請書を差出したのを難じた、台嶺は先ず大浜に赴き、両寺に問責の上、当局に論議に及ばうといふ、衆僧之に賛成するもの多く、直に連判帳を作りて、之に署名捺印しやうとした、時に如意寺源到は今騒ぎ立るは却て不利である、本山を経て堂々と出るが得策であらう、今大挙大浜に赴けば、真宗僧侶の乱一揆を起すと見られては、却て為めにならぬと、かたく之を止めた、之が為めに連判する者が減少した、台嶺は之にも屈せず、血判志士三十余人と共に、翌暁七つ時(午前四時)出発して、大浜に向うた、途中信者が三人五人と加はり、耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらんと漸く増して数十人となつた、
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ということで、集会に集まった僧侶の多数派(7割程度?)は「真宗僧侶の乱一揆」と思われるような行動に出るのは駄目と考えたけれども、台嶺(石川了円)はそれを押し切って「血判志士三十余人」とともに大浜に向かい、その途中、「耶蘇退治の為めならば、我等も助勢に加はらん」と考えた信者が加わって総勢「数十人」となった訳ですね。

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夜があけて三月九日、群集は米津村龍讃寺に繰込み、休息した、台嶺は衆に対し、決して暴徒に類する振舞のなきやうにと注意した、同日午後には、夜の用意にと、提灯を高張に造る為めに、近傍の藪に入つて、竹を切つた所、中には、この竹を竹槍に凝して、振つて居るものがあつたのを群集が見てわれもわれもと之に習うて、竹槍を作り終にその藪を切り尽くしたといふ、其日没に、鷲塚村に至り蓮成寺外二寺に分屯した、
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台嶺(石川了円)が「決して暴徒に類する振舞のなきやうにと注意した」のが仮に事実としても、その後、「藪を切り尽くし」たほどの数の竹槍を持参することは容認していた訳ですから、裁判では注意云々はあまり重視されなかったのでしょうね。

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この日、大浜出張所からは、杉山少属をして、四五の随員を従へて鷲塚村の庄屋の宅へ派出せしめた、専修坊法沢は、台嶺及び七八名の僧侶と之に会して、願意を陳述したが、杉山等はたゞ成らぬ出来ぬと答ふるのみであつた、その中に、僧侶の数は次第に増して、四十名近くとなり、加ふるに鷲塚には、信徒の集団があつて、声援をして居る、その日日没に至り、群集の気勢益々張り、談判はまだか、押かけてぶち殺せなどゝ叫び、終に蓮成寺の鐘をつき始めた、住僧が之を制すれども、聴かず、終にその撞木の縄を切り放つた処、今度は※打槌を以て乱打し、騒擾は極点に達した、
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ということで、菊間藩の役人六人は庄屋宅で「談判はまだか、押かけてぶち殺せ」などと叫ぶ群衆に取り囲まれてしまうことになります。
ここでいったん切ります。

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