学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「壮大な知の探究の旅」

2010-04-30 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月30日(金)01時56分43秒

検索してみたら、毎日新聞の書評で渡辺保氏が『源氏物語とその作者たち』を絶賛していますね。

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小説ならば読む方もこれはフィクションだと思って読む。しかし著者は小説を書いているわけではない。自由な空想をめぐらしながらもシッカリ実証している。実証の上に立つ空想は小説よりもはるかに面白い。ナマナマしい。これは事実に違いない(あるいはそれに近い)と読者に思わせるからである。

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20100418ddm015070012000c.html

渡辺保氏の「実証」のレベルは相当高度ですね。
ついでに他の書評も眺めてみたら、山折哲雄氏の『愛欲の精神史』を激賞している方もいますね。

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 途轍(とてつ)もなくスケールが大きい。インドから説き起こし、ヨーロッパや中国にまで話を広げ、最終的には日本に帰着する。仏教の経典や西洋の思想書を博引旁証(ぼうしょう)しながら、日本の古典から現代の小説にいたるまで縦横無尽に語る。
(中略)
 自らの感性と体験に即して宗教思想を理解しようとする姿勢は、空海の密教を解き明かす過程でも貫かれている。ルーブル美術館を訪ねた際、著者はおびただしい裸体の彫刻を目にした。そのとき受けた衝撃は、密教に出会った空海の内面を探究するのに役に立った。
 空海密教という試薬を加えると、王朝文学の定性分析は自(おの)ずと結果が出る。ヒンドゥー教に由来し、密教になだれ込んだエロチシズムがどのように『源氏物語』の「色好み」と接続しているか、著者一流の語り口で巧みに読み解かれている。
 女性の愛欲とその行く末について考察するのも忘れていない。圧巻は『とはずがたり』と宗教思想の響き合いについての分析である。性愛の過剰はいつの間にか女人出家へと変わり、最後には鎮魂と懺悔(ざんげ)の交響となる。「女であることの無意味」を生きることを示唆して、壮大な知の探究の旅がここでようやく終わりを告げる。単なる愛欲の歴史にとどまらず、茫漠(ぼうばく)たる時空を超えた文明論であり、深遠な比較思想論にもなっている。

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2010/04/20100411ddm015070004000c.html

世の中には「壮大な知の探究の旅」を『とはずがたり』で終わらせてしまった山折哲雄氏を「深遠」と評価する人もいるんですね。
この本は確か山折氏が国際日本文化研究センターの第三代所長だった時期に執筆したものですが、日文研には井上章一氏や平松隆円氏など、才能豊かな愛欲研究者が満ち溢れていますね。
井上章一氏が所長になるころには、国際愛欲文化研究センターに改名したりして。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-yamaori-aiyokunohate.htm
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猫の弄斎

2010-04-30 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月30日(金)01時02分52秒

下で引用した部分、けっこう難しいところもあるので、田中氏の解説も紹介しておきます。(p38以下)
恐るべき才能ですね。

---------
 右句は恋煩いで悩んでいる猫を詠んでいる。「らうさいけ」は「労※気(ろうさいけ)」で気鬱症の兆候があるという意味である。この句の場合は恋の悩みによる気鬱症である。これに「猫のらうさい」という小歌のタイトルを掛けた。当時「猫の弄斎(ろうさい)」という小歌があったようだが、どのような小歌か不明である。「弄斎」というのは弄斎節のことで江戸初期に流行した歌謡である。
 この句をほめて「よい作にや」(よい作ではなかろうか)と記し、そのあとに「きんにや。うにや」と続けているが、この言葉は小歌の合の手の「きんにゃらにゃ」のもじりで、「よい作にや」の「にや」に「きんにや。うにや」と続けて、猫の鳴き声の「にや、にや、にや」(ニャー、ニャー、ニャー)を利かせたのである。このような駄洒落に近い言葉遊びは、芭蕉の得意とするところであった。
---------

>筆綾丸さん
四番はまだ上品ですが、二番のテーマは男色、二十番は更に際どい作品で、とても国語の教科書には載せられないですね。
これだけ諧謔の精神に満ちていた人が、なぜ漂泊の求道者に変化してしまうのか。
田中善信氏が見出した芭蕉像を演じる役者を選ぶとしたら、お笑い芸人からあれよあれよという間に芸術家に転進した片岡鶴太郎氏がいいんじゃないですかね。

http://www.kataoka-tsurutaro.com/
http://www.kataoka-tsurutaro.com/blog/

>法華寺の鳥居
検索したら「やまとかんなび」というブログに若干の説明がありました。
丁寧な解説ですが、出典を明記してくれるとありがたいですね。

http://kannabi653.at.webry.info/200707/article_1.html

>出羽村山郡の白岩一揆
発生した場所は寒河江の慈恩寺のすぐ近くなんですね。

http://homepage2.nifty.com/nenkin-akita/rekisi/rekisi16.html
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言葉の花がつを

2010-04-28 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月28日(水)01時13分21秒

>筆綾丸さん
『芭蕉 「かるみ」の境地へ』はまだ途中ですが、面白いですね。
p36以下、少し引用してみます。

---------
 四番
   左      信乗母
さかる猫は気の毒たんとまたゝびや
   右勝    和正
妻恋(つまごい)のおもひや猫のらうさいけ
  猫にまたゝびを取つけられたる。左の句珍しき。ふしを。いひ出(いで)られたるは。言
  葉の花がつをともいふべけれ共(ども)。きのどくといふことば。一句にさのみいらぬ事な
  れば。少(すこし)難これ有て。きのどくに侍る。右又「猫のらうさい」と。いふ小哥(こうた)を。
  妻恋にとりあはされたるは。よい作にや。きんにや。うにや。
  (後略)
---------

戯文の天才で「陽気な野心家」であった芭蕉が、なぜ生真面目な俳聖になってしまったのか。
著者の説明はそれなりに説得的ですが、まだ何かあるような感じもします。
『芭蕉 二つの顔』も読んでみるつもりです。

>法華寺
聖徳宗は法隆寺を中心にして昭和25年(1950年)に法相宗から独立したそうで、こちらは戦後の混乱期の出来事といえそうですが、法華寺の光明宗は平成11年(1999年)に真言律宗から独立ですか。
まあ、想像される原因としてはやはり人事問題なんでしょうね。
そういえば、つい最近、宇佐八幡宮の宮司職をめぐって到津家の人が裁判を起こしたというニュースがありましたね。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/oita/news/20100423-OYT8T01362.htm
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遠藤基郎氏『中世王権と王朝儀礼』

2010-04-27 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月27日(火)00時14分27秒

今日は東京出張だったので、帰りに丸の内オアゾの丸善に寄って、遠藤基郎氏の『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008)と清水亮氏の『鎌倉府御家人制の政治史的研究』(校倉書房、2007)を購入してみました。
『中世王権と王朝儀礼』の「第10章 鎌倉中後期の天皇家王権仏事」と「第11章 鎌倉後期の天皇家御願寺」は、分量はそれほど多くないものの、それぞれのテーマについて丁寧に説明がなされていて参考になりました。
ただ、後醍醐の評価については、網野善彦氏の『異形の王権』に依拠した部分に疑問を持ちました。
それと、一箇所、非常に変な勘違いがありますね。
p379に、

------------
2 法勝寺の改革
 ほとんどの天皇家御願寺が、退転しあるいは他の寺院に附属される中、法勝寺のみは、それが治天の地位に密接に関わる以上、後醍醐としても興行せねばならなかった。それは最低限守るべき一線であった。後醍醐は、次の三つの興行策を図っている。
 第一は、嘉暦二年(一三二七)一〇月二四日の法勝寺大乗会行幸である(『園太暦』康永四年七月一六日)。元亨元年(一三二一)一二月九日以降は、後醍醐の親政期に属する。かつて後白河親政期、治天である後白河天皇が行幸した例があるものの、鎌倉後期にあっては親政期での行幸は存在しない。伏見親政期でも、その父後深草院が代わって臨んだ。天皇の仏事忌避という原則が優先されたものであろう。そして、嘉暦二年当時は、なお後宇多院がおり、その臨席も十分可能であった(後宇多没は元亨四年六月二五日)。しかし、後醍醐は仏事忌避の通例を破ってまで果たしたのである。この異例の行幸に後醍醐の積極性が示される。
(後略)
------------

とありますが、元亨4年は1324年なので、嘉暦2年当時、後宇多院死去から既に3年たっており、後宇多院の臨席は不可能ですね。

http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-026218-7.html
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笹川流れ

2010-04-26 | 新潟生活
笹川流れ 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月26日(月)01時17分40秒

24日(土)は「笹川流れ」の遊覧船に乗ってきました。
例によって出発が遅かったので、午後4時近くに遊覧船乗り場に着いたときは何となく店じまいの雰囲気が漂っていました。
切符売り場の女性に、まだ乗れますか、と聞くと、頭の回転の早そうなその女性が関係者とテキパキと連絡を取って最終便に乗せてもらえることになりました。
100人程度乗れる船に乗客は私を含めてわずか5人だったので、半ば貸切状態でしたね。
のんびりした船旅を想像していたら、船が結構大胆に揺れるのであせりました。
後で「笹川流れ観光汽船」のホームページを見たら、女性社長の名字が切符売り場の女性と同じなので、私が話した女性は社長さんだったようです。

笹川流れ観光汽船
http://sasagawanagare.net/

下の写真は遊覧船乗り場の近くにある弁天岩で撮りましたが、こちらもなかなか良い場所でした。
西園寺の妙音天の話題以降、旅行先で弁才天(弁財天)と聞くと足を向けない訳には行かないですね。

弁天岩
http://sasagawanagare.net/blog/2009/11/08/the-autumn-calm-sea-of-japan/

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5416
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「不思議な何箇条」

2010-04-26 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月26日(月)00時42分0秒

>筆綾丸さん
全く読まずに批判めいたことを書くのもどうかなと思って、『源氏物語とその作者たち』を途中まで読んでみました。
第三章のまとめとして、p86に、

-----------------
 桐壺から紅葉賀に至る七巻は現存する源氏物語の冒頭部として、物語世界の概略を紹介すべき重要な任務を負っているにも拘らず、
 ▽一貫した時間が流れていない。
 ▽作者の主人公光源氏に対するスタンスが一定しない。
 ▽巻と巻との関連が明らかでないものがある。
 ▽話に欠落があるのではないかと疑われる。
などという不思議な何箇条かがあって、読者を疑惑の雲に包んでしまう。源氏物語が一方に大きな人気を持っていながら、他方読みにくい、分からないと言われ、敬遠されている最大の理由はここにあるだろう。
-----------------

とありますが、▽の部分程度で「不思議」「疑惑の雲」がある、だから『源氏物語』は複数の人間が書いたのだ、と主張する西村氏に対しては、だったら時間的な矛盾や欠落が遥かに大きい『とはずがたり』は一体何人が書いたと思っているのだ、と質問してみたいですね。
西村氏が描く『源氏物語』の享受の様子は別に間違いではないでしょうが、だからといって読者が直ぐに作者に転化できたのか、紫式部レベルの文学的才能の持ち主がそんなにゴロゴロいたのか、は非常に疑問ですね。
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『芭蕉 「かるみ」の境地へ』

2010-04-22 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月22日(木)01時02分46秒

>筆綾丸さん
購入してみました。
「水無月の恋」はお洒落な表現ですが、129ページを見たところ、「水無月の鯉」になっていますね。
『源氏物語とその作者たち』は購入すべきかどうか迷ったのですが、ご紹介の文章を見て、やめることにしました。

ゲレンデの恋 左勝 水無月の花嫁

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『源氏物語とその作者たち』

2010-04-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月21日(水)00時34分15秒

>筆綾丸さん
「性の手ほどき」=「そのような教育」なので、おそらく後深草院の「新枕」の相手が二条の母、大納言典侍であったという話のことを言っているのだと思います。
一部の学者が真言立川流に関係すると主張している場面ですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm

ご紹介の文藝春秋のサイトには、西村亨著『源氏物語とその作者たち』の説明として、

------------
王朝文学の最高傑作にして、世界最古の長編小説とも言われている『源氏物語』。一般的には紫式部の作とされていますが、400字詰め原稿用紙に換算して2500枚にもなる長大な物語を、本当に彼女が1人で書いたのでしょうか。西村さんは、文体や登場人物の扱いなどに着目し、錯綜(さくそう)する物語の展開を少しずつ解きほぐしていきます。その結果見えてきたのは、光源氏死後の話である「宇治十帖」のみならず多くの部分が、読者によって自由に加筆や修正が行われ「成長」していった事実でした。最後に浮かび上がる男性筆者の存在とは――推理小説顔負けの面白さです。
------------

とありますが、まるで小川剛生氏の『増鏡』作者論のようですね。
複雑なストーリーは大勢で作ったことにするのが若手の学者の流行かと思ったら、西村亨氏は1927年生まれの慶応大学名誉教授なんですね。
語彙もいかにも折口の弟子っぽいですが、鎌倉時代の貴族社会の最上層を民俗学に結び付けるのは無理が多い感じがします。
笑いのセンスがなさそうなところも先生譲りのようですね。
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大宮院と新陽明門院

2010-04-20 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月20日(火)00時55分37秒

>筆綾丸さん
建治二年(1276)の時点で亀山院と同席する女院となると、後宇多天皇の母の京極院は4年前に28歳の若さで亡くなっていますし、西園寺実兼の妹である今出河院(当時24歳)は既に亀山院のもとを去っていますので、一人は前年に女院となったばかりの新陽明門院(近衛基平女、同15歳)だと思います。
もう一人はおそらく大宮院(後深草院・亀山院母)でしょうね。
大宮院は後嵯峨院の未亡人という立場であり、年齢も52歳なので、淫戒を文字通りの厳格な意味で受けることもあり得るでしょうが、新陽明門院は啓仁親王・継仁親王を生む人ですから(ただし夭折)、ちょっと無理ですね。
この点、淫戒そのものを除外するという方法の他に、淫戒を亀山院以外との不倫関係(という言葉が適切なのかはともかくとして)は避ける、という意味に限定することでクリアーする方法もあり得ると思います。
時期は後になりますが、新陽明門院の不倫関係は『増鏡』に非常に意地悪く書かれていますね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-shinyomeimonin.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/masu-nijosakushasetu.htm

菩薩戒
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/42439479.html

女院
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E9%99%A2
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亀山院と淫戒

2010-04-18 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月18日(日)11時28分15秒

『尊卑分脈』を見てみましたが、梅原氏の言われている通りの記載がありました。
ただ、系図についても膨大な研究の蓄積があって、素人には難しい話がありそうですね。

平松隆円氏の「日本仏教における僧と稚児の男色」、正直ちょっと鬱陶しい内容だらけですが、唯一私が爆笑してしまったのは次の箇所です。(p92以下)

-----------
『金剛佛子叡尊感身学正記下』の建治二(一二七六)年三月十五日において、「参嵯峨殿。奉授斎日五戒」と上皇が受戒していることが記録されている。しかし、同二十三日に、

 任勅定。参大多勝院。奉為太上天皇并両女院。女房一人。奉授
 菩薩戒。上皇十重除邪淫

とある。すなわち、「勅定に任せ、大多勝院に参ず。太上天皇に両女院、女房一人に菩薩戒を授け奉る。上皇には十重に邪淫を除く」と上皇は淫戒だけを除いて受戒したのである。上皇に戒を授けたのは、律宗の叡尊であるが、彼は全ての戒ではなく淫戒を除く戒のみ授与した。つまり、上皇は淫戒を授与されていない。すなわち、上皇は女性と交接を行わないという誓いをしていないのである。そのため、受戒後に女性と交接を行ったからといって、それを破戒とみなすことはできない。これは、他に例をみることはできない特殊なものではあるが、僧となる者にとって戒律を守るということの意味の大きさと、その反面、戒律に関係しなければ何の問題にもされないということを我々に伝える。
-----------

これ、嵯峨殿の話なので、太上天皇とは亀山院のことですね。
亀山院(当時27歳)にとって、淫戒を守れと言われることは死ねと言われるのと同じようなものだったのでしょうね。

『増鏡』巻10「老の波」、亀山院の後宮
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kameyamainno-kokyu.htm

平松隆円氏の文章、「上皇は淫戒だけを除いて受戒したのである」以下はトートロジーの連続で、もう少し簡潔に書いてほしいですね。
また、「僧となる者にとって戒律を守るということの意味の大きさと、その反面、戒律に関係しなければ何の問題にもされないということを我々に伝える」との一文はおかしいですね。
亀山院は別にこの時点で僧になろうとしている訳ではないので、論理的なつながりが理解できません。
ちなみに亀山院が出家するのは13年後の1289年のことで、出家後しばらくは女性関係は控えていたようですが、まもなく前よりひどくなったとは『増鏡』の伝えるところです。

『増鏡』巻11「さしぐし」、亀山院崩御
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-kameyamain-hogyo.htm

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華報寺再訪

2010-04-18 | 新潟生活
華報寺再訪 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月18日(日)02時42分15秒

日付変って昨日の土曜日、私は福島県に行くつもりで磐越自動車道を暴走していたのですが、途中で福島県内の高速が積雪のためチェーン規制となっているのに気づきました。
つい最近、地元の人の「4月中旬だから、いくら何でも、もう大丈夫」というアドバイスに従ってスノータイヤを夏タイヤに替えたばかりだったので、泣く泣く福島行きをあきらめて、代わりに1月に訪問していた華報寺にまた行ってみました。
華報寺は標高がそれほど高くない場所にあるので、雪はすっかり消えていました。
そして、寺内の共同浴場の横を通って本堂裏手の墓地に回り、中野豈任氏のお墓を探してみたのですが、結局見つかりませんでした。
本堂裏手は古くからの檀家さんらしき家の墓が多く、おそらく中野氏のお墓は山中に入ったところにあるのだろうと思いましたが、雨も降ってきたので訪問はあきらめました。
なお、墓地の中央には苔むしたかなり大型の宝筺印塔がありました。
ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」には、「塔の形態から鎌倉時代中期のものと推定されている。なおも検討の必要があると思うが関西様式のタイプと思う。」とありますね。

「新潟県北部の史跡巡り」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29526246.html

下の写真、日が射していますが、このわずか10分ほど後に強い雨になりました。
天気が不安定な一日でした。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5405
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系図の偽造?

2010-04-14 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月14日(水)23時46分55秒

『親鸞再考』p104には、

------------
 ところで、一六世紀に制作された本願寺系図では、玉日姫との結婚は事実とされている。
注目すべきことには、

         寺 大弐 阿闍梨
 範宴 ──範意 遁世印信
         母後法性寺摂政太相国兼実女

とあるように、親鸞と玉日姫との間には印信(範意)という子があり、園城寺僧であったというのである。
 従来の研究では、一六世紀に本願寺は、摂関家の一つである九条家と姻戚関係にあることをよしとし、系図を偽造してまで九条家との関係を強調したと考えている。しかし、そうであろうか。
------------

とありますが、この系図は『尊卑分脈』の記述を少し変更しただけじゃないんですかね。
ネットで少し検索したら、梅原猛氏の『京都遊行』を転載しているサイトがあって、

------------
ところが、この『尊卑分脈』は親鸞すなわち範宴の長男に印信という僧があるとしている。そして、その印信の母は月輪関白の娘とある。さらにそこにはわざわざ「藤兼実」という注釈がつけられ、月輪関白が九条兼実であることをはっきり示している。ところが、現代のほとんどすべての親鸞伝は、この親鸞の長男という印信の母が九条兼実の娘であることを認めようとしない。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mansukejii/diary/d337

とあります。
今、手元に『尊卑分脈』すらない環境にいるので、内容を確認できないのですが、十四世紀の『尊卑分脈』に書かれているのと実質的に同じ内容だったら、一六世紀に本願寺が系図を偽造した、とは言えないでしょうね。
それとも梅原猛氏に何か勘違いがあるのでしょうか。
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『正明伝』

2010-04-14 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月14日(水)23時20分20秒

>筆綾丸さん
筆綾丸さんが引用された部分、確かに文章は少し変ですが、松尾氏の主張は結局のところ、『正明伝』を信じましょう、に尽きるようですね。
『親鸞再考』からその内容を引用すると(p101以下)、

------------
 斯(かかる)に、同年十月上旬、月輪殿下兼実公、吉水禅坊に入御ありて、いつよりもこまやかに御法譚ましましけるに、殿下仰られていわく、御弟子あまたの中に、余はみな浄行智徳の僧侶にして、兼実ばかり在家にてはべり。聖の念仏と、我在家の念仏と、功徳につきて替目(かわりめ)やさぶろうやらんと。上人答て宣わく、出家在家ひとしくして、功徳に就て少も勝劣あること侍ずと。殿下宣わく、此条もとも不審にさぶろう。其故は女人にも近ず、不浄をも食せず。清僧の身にて申さん念仏は、定て功徳も尊かるべし。朝夕女境にむつれ、酒肉を食しながら申さんは、争(いかで)か功徳劣らざらん。上人答て宣わく、其義は聖道自力門に申ことなり。浄土門の趣は、弥陀は十方衆生とちかわせたまいて、持戒無戒の撰もなく、在家出家の隔なし。善導は一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏、大願業力為増上縁也と決判したまえり。努努(ゆめゆめ)御疑あるべからずと云云。其時殿下また宣わく、仰のごとく差別あるまじくさぶらわば、御弟子の中に、一生不犯の僧を一人賜て、末代在家の輩、男女往生の亀鏡(きけい)に備わべらんと。上人聊(いささか)も痛たまわず、子細そうろうまじ、綽空今日より殿下の仰に従申るべしと。
------------

ということだそうで、この後、松尾氏は内容を要約した上で、

------------
 すると九条兼実は、もしも相違がないというのであれば、弟子の一人を自分の娘(玉日姫)と結婚させて、その証拠を示してほしいと言った。
 そこで、法然は親鸞に白羽の矢を立て、親鸞が玉日姫と結婚することになったという。
 法然が親鸞を選んだ理由は長くなるので史料の引用を省略したが、法然が、なぜか親鸞の受けた夢告である女犯偈を知っており、親鸞が結婚しても極楽往生できると知っていたからであったという。親鸞はいったんは固辞したが、法然の命とあって玉日姫との結婚を受けたという。
------------

と書かれていますが、松尾氏自身が「法然が、なぜか親鸞の受けた夢告である女犯偈を知っており」と指摘されているように、いかにも御都合主義の変な話ですね。
松尾氏はこれが事実だと言われる訳ですが、発想の順番が逆なのではないかと私は思います。
松尾氏の言われるように、仮に親鸞と兼実娘との間に「結婚」という事実があったとしても、それは法然の「命令」によるのではなく、むしろ「結婚」の事実が先行していて、それをいかにも聖人にふさわしいもっともらしい話にするために法然の「命令」を作り出したのではないか、という感じがします。
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『親鸞再考』

2010-04-13 | 新潟生活
『親鸞再考』 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月13日(火)08時11分23秒

>筆綾丸さん
松尾剛次氏『親鸞再考』を購入し、ご紹介の部分を見たのですが、出典等についての注記が一切なくて、ちょっと読みづらいですね。
稚児灌頂については、ネットでは平松隆円氏の「日本仏教における僧と稚児の男色」(『日本研究』、国際日本文化研究センター、2007)という論文が一応参考になります。

即位灌頂を熱心に研究されている研究者の方々は稚児灌頂との関係をどのように考えているんですかね。
例えば稚児灌頂を理論化した学僧と即位灌頂を理論化した学僧が実際には重なっているようなことがあったとしたら、即位灌頂を真摯に検討しようとする気持ちも少し鈍りそうですね。
平松隆円氏は仏教大学卒のお坊さんだそうで、名前は年寄りっぽいですが、1980年生まれのまだ若い学者ですね。
ただ、仏教そのものの研究者ではないので、真言立川流に言及している部分などは単なる受け売りであり、参考にはなりませんね。

http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN3403.pdf
http://cosmetology.livedoor.biz/

NPO法人KGC『研究者図鑑』
http://www.zukan.tv/2007/03/10/ryuen-hiramatsu/
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彌永貞三氏との関係

2010-04-12 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月12日(月)21時55分25秒

史料編纂所元所長の彌永貞三氏(1915~1983)は昌吉氏の9歳下の弟ですね。
昌吉氏と貞三氏の父親は福岡県八女郡八幡村出身で、東京帝国大学を卒業した後、日銀に入り、日銀松本支店長時代に彌永貞三氏が生まれたのだそうです。
(『若き日の思い出 数学者への道』p3、p30)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E4%B8%89
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