学問空間

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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その5)

2018-02-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月28日(水)13時16分30秒

2月25日の投稿で、清水克行氏(と五味文彦氏)の『兼好法師』評には賛同できる、みたいなことを書いたのですが、清水氏が、

-------
文学作品は読者のものであり、作者の意図は必ずしも重要ではなく、まして生涯・境遇などは顧慮しなくてよいとする立場もある。しかし、解釈の前提となる最低限の知識が根拠を欠いたまま、作品論が独り歩きして良いとは思えない。この著者の意見に耳の痛い国文学研究者は少なくないだろう。「よく知らぬよしして、さりながら、つまづまあはせて語る虚言は、恐しきことなり」(『徒然草』73段)。

http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20171211-OYT8T50031.html

などと述べている点は、国文学研究者をのんびり批判しているヒマがあったら、何故、今回の小川氏の業績が清水氏を含めた中世史研究者から出て来なかったのかを恥じ入るべきではないか、という感じもします。
勅撰集の作者表記に着目された小川氏の慧眼は国文学者ならではと思いますが、系図の偽造を扱うのは歴史学研究者の基礎訓練の範囲で、特に吉田家が詐欺師の集団であり、吉田兼倶(1435-1511)はその元締めだということは、中世史研究者の大半が知っていた訳ですからね。
ま、それはともかく、早歌などの中世歌謡についても歴史学研究者が本気になって取り組めば相当面白い結果が出て来るように思うのですが、五味、じゃなくてゴミのような武家古文書の研究をチマチマやっている人が多い一方で、中世歌謡を扱うことができる歴史学研究者は五味文彦氏などごく僅かです。
そんな訳で、国文学者の早歌研究には歴史学研究者の検証が殆ど入っておらず、私も1911年生まれの外村久江氏の業績にそのまま乗っていいのか、若干の不安はあるのですが、早歌の創始者であり大成者でもある明空(月江)の高弟・比企助員が金沢北条氏の被官であったこと、「助員の背後にもうひとり与州という物心両面の庇護者のいた事が知られ」「この予州というのは伊予守のことで、金沢文庫で知られる金沢貞顕の兄弟の顕実ではないかと考え」られること、「顕実の子の顕香は作曲者の一人」であること(『鎌倉文化の研究』「第八章 早歌の大成と比企助員」)等からすれば、金沢北条氏が早歌の隆盛をもたらした、いわば早歌の温床のような空間であったことは間違いないと思います。
そして、そこに永仁四年(1296)までに現われた、「源氏」「源氏恋」の二曲を作詞・作曲したシンガーソングライターの「白拍子三条」とは何者なのか。
早歌の作詞はある程度の漢籍・和歌の素養があればそれほど難しいものではなく、貴族・僧侶、そして上級武士にも可能ですが、作曲もできる人は相当珍しいはずです。
ところで『とはずがたり』によれば、正応二年(1289)三月、三十二歳の尼二条は鎌倉を初めて訪れ、将軍に伺候する「土御門定実のゆかり」の「小町殿」と交流し、放生会を見物したりしているうちに惟康親王が将軍を廃されて京都に追放されることとなって、その様子を見物します。
また、新将軍の後深草院皇子・久明親王が鎌倉入りする前に、「小町殿」の依頼で時の実質的な最高権力者、「内管領」の平頼綱の正室のもとへ行き、その人が東二条院から贈られた「五衣」の調製の仕方を知らないということで指導してあげ、ついでに将軍御所内の「常の御所」の「御しつらい」についても指導してあげます。
また、平頼綱の息子の「飯沼の新左衛門」と「度々寄り合ひて、連歌、歌など詠みて遊び侍」ったりしていたのだそうです。
他方、後深草院二条の音楽の才能については、琵琶血脈等の客観的な史料の裏づけはありませんが、少なくとも本人は琵琶の腕前を繰り返し自慢しています。

『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d624c6d4c245b64874dcb63f05afd55c
白河殿「山上御所」と四条隆親
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5e8f269f9ecb348798cbcd019aa22ed
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その6)─醍醐の真願房
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00

『とはずがたり』がどこまで事実を語っているかについて、私は全般的にかなり懐疑的ですが、そんな私でも後深草院二条が鎌倉で武家社会の最高レベルの人々と交流していたことは事実だろうと思っています。
そして後深草院二条の音楽的才能も、後嵯峨院から褒美をもらったのは後深草院二条だけではないなどの点で若干の水増しはあるにしても、基本的には事実だろうと思います。
とすると、「白拍子三条」は後深草院二条の「隠れ名」であり、後鳥羽院が自作の和歌を「女房」の名前で記したように、後深草院二条も自己の出自を隠すために、あるいは一種の洒落・ユーモアとして「白拍子三条」を用いたと考えるのが最も素直だと私は考えます。
すなわち、後深草院二条は金沢北条氏と密接な交流があり、早歌の興隆に多大な刺激を与えたであろうことは確実だと私は考えます。
そして、更に後深草院二条は若き日の金沢貞顕(1278-1333)とも面識があり、貞顕作詞の「袖余波」は二条の指導の成果、二条の袖の余波ではなかろうか、と想像します。

>筆綾丸さん
>早熟な金沢貞顕

三角洋一氏校注の「岩波新日本古典文学大系50」には『とはずがたり』と『たまきはる』が収録されていて、後者の末尾に「乾元二季二月廿九日、書写校合畢。此草子者、建春門院中納言書之。俊成卿女云々。 貞顕」とあります。
『とはずがたり』と『たまきはる』は時代も離れていて、両者が一緒になっているのは単なる編集上の都合ですが、『たまきはる』の良本が現代に伝わるのは、書写の前年、乾元元年(1302)六月に六波羅探題南方として上洛していた金沢貞顕のおかげです。
まあ、武家社会だけしか見ない研究者にとっては、六波羅探題もけっこうヒマだったのだな、程度の感想しか浮かばないかもしれませんが、ある程度古典に詳しい人にとっても、『たまきはる』のようなマイナーな、通好みの作品を貞顕が書写しているのは、ちょっと意外ではなかろうかと思います。
ただ、若い時期から貞顕が源氏に親しんでいたとすると、この程度の書写は貞顕にとっては簡単な話だったのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

狭筵やつれなく見えし在明に 月を片敷くアンドロギュノス 2018/02/28(水) 11:01:39
小太郎さん
早熟な金沢貞顕については、国文学と歴史学に通じた、謂わば両性具有的な小川剛生氏の見解を聞いてみたいですね。(紛らわしい言い方ですが、これは褒め言葉です)

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さてもこのつれなく見えし在明に や<助音> きぬぎぬの袖の名残
  忘る間なきは 暁思ふ鳥の空音
-----------
ほとんど近松の浄瑠璃を聴いているような塩梅ですね。復元は無理でしょうが、「や<助音>」の発声はどのようなものだったのか、いろいろと想像させるものがあります。

http://www.geocities.jp/keisukes18/sinkokin42.html
「きぬぎぬの袖」で思い出すのは定家の歌で、「月をかたしく(片敷く)」というシュールな表現はいいですね。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その4)

2018-02-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月27日(火)11時43分16秒

前回・前々回の投稿で外村久江氏の『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』(三弥井書店、1996)から引用した部分は、私の旧サイト、『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でも掲載していたものです。
私はかねてから鎌倉時代を専門とする歴史研究者が早歌に関心を持っていなさそうなことを不思議に思っていて、例えば永井晋氏の『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書、2003)では「主要参考文献」に早歌関係の書籍・論文は見当たらず、本文でも早歌への言及は一切ありません。
そして、同書では祖父実時が源氏物語の良い写本を所有しており、金沢家の学問として漢籍と和歌が重んじられたことの説明はあっても、貞顕自身が源氏物語に深い関心を持っていたことへの言及はありません。
しかし、貞顕は自身が早歌「袖余波」「明王徳」の作詞者であり、「袖余波」は源氏物語を題材としたものです。
貞顕が早歌作詞者であることは外村氏が「早大本」を確認後に主張されたもので、「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」の「四 作詞者通阿について」に、次のような説明があります。(p295以下)

-------
 余波(なごり)の曲にはこの他に、袖余波(宴曲集三)・留余波(同四)・行余波(同)等の類似の曲があるが、袖余波は諸本皆「或人作・明空成取捨調曲」となっているのに、早大本は「越州左親衛作・明空成取捨調曲」となっていて、作詞者の名が明らかになっている。越州左親衛は金沢貞顕に比定され、この他にも明王徳(究百集)の作詞をしている。この曲も諸本は作詞者が「自或所被出之」とあるのが、竹柏園文庫本・早大本の二本は越州左親衛作となっている。この人の名を諸本が隠した理由は不明だが、早大本の原本は家元的な相当中心となる家に伝えられて、続群書類従系・安田本の諸本は執権職にもついた幕府有力者の貞顕の名を秘していることなどより、他の家の伝授者にわかたれたものではないかと考えられる。
 袖余波は宴曲集三にあるが、これは恋の部で、吹風恋・遅々春恋・恋路・竜田河恋・袖志浦恋・袖湊・袖余波・源氏恋・名所恋という九曲中の一曲である。留余波・行余波は明空の作詞・作曲で、共に宴曲集四雑部上付無常にあり、旅立ちの人へのなごりを歌ったものである。この歌謡にはこの他に旅の歌が多く、当時のこういう方面の関心の強さを示しているが、通阿の余波の曲はこれらとも違ったものである。【後略】
-------

「この人の名を諸本が隠した理由」について、外村氏は「注(八)」において、「貞顕は宴曲集撰集時期は十九才前、究百集は二十四歳という若さであるから、幕府の重職に就いた頃はその名を秘すことも考えられる。このことからみると、最初の撰集は永仁四年をあまり遡ることは考えられない」と補足されています。(p306)
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので、永仁四年(1296)に十九歳であり、早歌に関心を抱いたのは非常に若い時期ですね。
なお、通阿についての説明の部分は省略しましたが、この人は久我通忠(1216-51)孫、久我具房(1238-89)息の醍醐寺僧で、具房が後深草院二条(1258-?)の従兄弟ですから、後深草院二条にとっては従甥です。
さて、貞顕が作詞した「袖余波」「明王徳」については、『鎌倉文化の研究』の「結語」「一 早歌における「なごり」の展開」(初出は『国語と国文学』46巻4号、1969)に次のような説明があります。

-------
 初期の宴曲集三は恋を集めたものであるが、その中の袖余波の曲は、先に引いた物語の人物によるなごりをつらねて一曲にまとめたものである。これは、

  さてもこのつれなく見えし在明に や<助音> きぬぎぬの袖の名残
  忘る間なきは 暁思ふ鳥の空音

ではじまり、源氏物語の空蝉、柏木、朧月夜や狭衣物語の飛鳥井の女君、伊勢物語の伊勢における恋等を歌っているものである。この作詞は金沢文庫で有名な金沢貞顕で、この集が永仁四年までに出来ていたとすると、数え十九才で(元弘三年五十六才より逆算)、随分若い時の作品ということになる。なお、貞顕は明王徳(究百集)という曲も作詞しているが、これは堯舜をはじめ、中国日本の明王を挙げたもので、その主題はまことに対象的ではあるが、故事をつらねる作詞方法は前のものと全く同様である。
-------

「なごり」は別に『とはずがたり』の独占物でも何でもありませんが、「袖余波」が描く世界は、例えば後深草院二条の父・雅忠が死去した後、「雪の曙」が見舞いに訪れる場面などと良く似ていますね。

>筆綾丸さん
>『兼好法師』は不滅の業績ですね。

小川剛生氏もなかなか複雑な人で、『兼好法師』の明晰な論理性と『二条良基研究』「終章」の非論理性が小川氏の中でどのように統合されているのか、ちょっとミステリアスですね。

「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f997bafafa8b1a1bb6d5bd12546fa69


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Der Tod in Venedig 2018/02/27(火) 09:56:07
小太郎さん
本郷和人氏には、研究一筋の愚直な人と違って、余裕が感じられますね。あの野郎、と嫉妬する狭量な研究者も多いだろうな、と思います。

小川剛生氏の『二条良基研究』には、おぼろな記憶ながら、良基と世阿弥との関係の類比として、アッシェンバッハとタージオ(『ヴェニスに死す』)との関係を論じた件があって、なるほど小川氏はそういう人なんだ、とその論文らしからぬ高踏的な記述に驚いたものですが、『兼好法師』は不滅の業績ですね。 

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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その3)

2018-02-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月26日(月)22時26分12秒

外村久江氏の『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』(三弥井書店、1996)には、前投稿で紹介した部分に加え、「白拍子三条」についてもう少し詳しく検討した部分があります。
それは「第二篇 早歌研究」、「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に─」(初出は『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学19集、1967年12月)の「三 早大本作者朱注について」です。
この章の構成は、

-------

一 現存の伝本とその主な相違点
二 早大本・竹柏園文庫本について
三 早大本作者朱注について
四 作詞者通阿について
五 明空・月江について
結び
-------

となっていて、「序」の冒頭によれば、

-------
 中世の長編歌謡である早歌は、鎌倉時代の末に近い頃に十六冊に撰集されて、百六十一曲を残している。【中略】この他に外物(十二曲)と呼ばれるものがあって、総てで、詞章・曲譜のわかるものは百七十三曲になるが、外物を除く鎌倉期の撰集については、その集められた年月・撰集の意図などがわかる撰要目録第一巻が残っている。これにはまた、各曲の作詞・作曲者の官職・名等が記されているので、歌謡としてはまことに珍しく、さまざまの事が明らかとなり、貴重な存在である。
-------

とのことです。
そして、外村氏は『早歌の研究』(至文堂、1965)において、撰要目録に載る作者を調べて、例えば「藤三品」が藤原広範、「二条羽林」が飛鳥井雅孝、「或女房」は阿仏尼などと比定していたところ、その上梓後に早稲田大学図書館で新しい伝本の存在が確認された上、「早大本のもっとも貴重な点は、作者の傍らに朱の注記があり、これが作者の調査にはまことに好資料」となったのだそうです。
例えば「藤三品」には「広範卿」、「二条羽林」には「雅孝朝臣飛鳥井」との朱注があって、外村氏の研究の正しさが証明された一方で、「源氏恋」「源氏」の作者「或女房」には「白拍子号三条」とあって、阿仏尼との外村説は無理であることが明らかになったそうです。
以上を前提に、「白拍子三条」に関する部分を読んでみることにします。(p291以下)

-------
(一一)宴曲集三の源氏恋、
(一二)同四の源氏の作者或女房には「白拍子号三条」の朱書きがある。この人については、作品が初期の撰集に属し、序に六歌仙の一人にあげられている。また、作詞と作曲との両方を二曲とも行っている点からも、早歌の創始に関して相当大きな役割を果たしている実力者とみて、阿仏尼またはこれに相応する人物と比定した。しかし、これまで見て来たように、朱注が皆重視できる結果を示しているので、これも重視したい。当時、白拍子に三条というような呼び名があったかどうかはやや疑問である。また、同時代に三条という白拍子は勿論、時代をはずしても白拍子三条というのはみあたらないようである。
-------

「白拍子に三条というような呼び名があったかどうかはやや疑問である」には注(六)が付され、これを見ると、

-------
(六)白拍子の名は多く伝わっていないが、静をはじめ、後鳥羽院の寵姫亀菊、阿古女・牛玉・明一(以上尊卑分脈)、石・滝・姫法師(明月記)・若千歳(続古事談)、わらはべ(十訓抄)、春日・金王(承久記)、微妙(吾妻鏡)、春菊・若菊(とはずがたり)、玉王(倭名類聚鈔紙背文書)等がみられるが、三条という局のような名は見当たらない。ただ、遊女だが梁塵秘抄口伝集に出る乙前はその住居から後に五条の尼とも書かれている。
-------

とあります。(p306)
要するに「三条」はどう考えても白拍子っぽくない名前ということですね。
ちなみに『とはずがたり』の「春菊・若菊」とは、近衛大殿が久我家の来歴を語った場面の直ぐ後、伏見殿での今様伝授の場面で、善勝寺隆顕が連れてきたという設定で登場する白拍子の名前です。
さて、本文に戻ります。

-------
 この源氏という曲は六条院の女楽の場を歌謡にしたもので、正月梅の盛りに、柳・藤・桜・花橘等にたとえられる女三の宮の琴・女御の君の箏・紫の上の和琴・明石の君の琵琶の様子を歌いあげている。源氏物語を歌うことは興福寺延年唱歌にも簡単ではあるがみられ、源氏秘義抄付載仮名陳状には相当信頼できる源氏物語を主題とした白拍子があったようであるが、その詞章は残されていない。これは鎌倉の宮将軍の時期のことであるが、早歌の撰集とほぼ同時代の『とはずがたり』に作者二条は後深草・亀山両院の小弓の負け態として、この六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事がある。これは、建治三年(一二七七)の事になっているが、『とはずがたり』は嘉元四年(一三〇六)著者四十九才までの記載が見られ、この頃の作品といわれている。六条院の女楽のまねごとが、事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても、とにかく、当時源氏物語を代表する場面として、人気があって、歌謡化などにも格好のものであったことが知られる。
-------

段落の途中ですが、ここでいったん切ります。
『とはずがたり』の「六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事」は既に紹介しました。
「事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても」という表現は外村氏の慎重さを示していますね。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その4)─「こは何ごとぞ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ffd2d11e2bc080d6e41548fd343d5d
-------
増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。この作者は女西行を理想として、各地を旅行したが、鎌倉にも来て、平頼綱入道の奥方の為に五衣の調製の指導をしたり、新将軍久明親王の為の御所のしつらいの助言等をしている。その際は身分や名を秘し、ただ京の人といって出かけている。鎌倉入りは既に尼となった正応二年(一二八九)の事で、早歌の最初の撰集時期と重なっている。早歌には生みの親とも考えられる明空は極楽寺の僧侶ではなかったかとみられるが、彼女の鎌倉入りはこの寺に真っ先に入って、僧の振る舞いが都に違わず、懐かしいという感想を述べている。以上のことや音楽・文学の才能の点から、或女房としてはふさわしい人のようであるが、口伝の白拍子号三条の朱書きとどう結びつけるかが難しい。白拍子にも高貴にはべって才能の豊かな人もいた時代だから、今は朱書きを信ずることにしておきたい。
-------

ということで、私には外村氏が99%問題を解明されているように思えるのですが、外村氏は「白拍子三条」が後深草院二条の隠名ではないか、という単純明快な結論は採りません。
なお、『増鏡』で「二条が後に三条と改名させられている」場面は後で紹介します。

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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その2)

2018-02-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月26日(月)17時02分30秒

出家前の兼好について、小川氏は前投稿で引用した部分に続けて、

-------
 兼好の生年は確定できないものの、江戸時代以来行なわれてきた弘安六年(一二八三)誕生説はおよそ正しいといわれている。嘉元三年は二十三歳、延慶元年に二十六歳となる。不自然ではなく、当面この説に従ってよいであろう。
 嘉元三年、兼好は既に元服はしていたものの、任官せず、仮名「四郎太郎」で呼ばれ、必要な場合のみ実名「卜部兼好」を用いたことになる。貞顕との関係では、広義ではその被官といえ、「四郎太郎」の仮名も侍の出自を思わせるが、三十近くなっても、他の被官のように任官しなかったのは、亡き父もまたそのような曖昧な身分であったからではないか。
 想像を逞しくすれば、幼いうちに父を失い、母に連れられて京都に上り、そこで成長したが、ゆかりの関東に下向し、姉の庇護の下、無為の生活を送っていた若者の姿が思い浮かぶ。もちろん十分な経済的余裕が前提である。
-------

と書かれています。(p54以下)
小川氏自身の記述によれば父親が亡くなったのは正安元年(1299)ですから兼好は推定十七歳で、「幼いうちに」という表現にはかなり違和感があります。
ま、それはともかく、後深草院二条は正嘉二年(1258)生まれなので兼好より二十五歳程年上ですが、この二人は共に京と関東を往還し、公家文化を武家側に提供する異文化間のブローカー的な存在である点で共通です。
もちろん後深草院二条の方が社会的には圧倒的に上層であり、後深草院二条にとって兼好など歯牙にもかけない存在だったでしょうが、兼好にとってはどうだったのか。
実は「早歌」という武家社会で流行した芸能に着目すると、兼好と同様に後深草院二条も金沢北条家と接点を持っていた可能性が出てきます。
早歌を芸能として確立したのは寛元三年(1245)頃の生まれと推定されている明空という人物なのですが、明空を庇護したのが金沢貞顕の同母兄の甘縄顕実です。
そして外村久江氏は「袖余波」「明王徳」という作品の作詞者「越州左親衛」を金沢貞顕に比定されています。(『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』、三弥井書店、1996、p296)

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
甘縄顕実(1273-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%A1%95%E5%AE%9F

また、外村氏は初期の早歌の重要な作者として「白拍子三条」という人物に着目されています。
『鎌倉文化の研究』「第一篇 鎌倉幕府下の文芸・教養」の「第十六章 源氏物語の芸能化」から引用してみます。(p243以下、初出は『桜蔭会会報』99号、昭和53年5月)

-------
 二 源氏物語の歌謡化、早歌の創始

 今様・白拍子・延年などの芸能化の傾向を集大成するような長大歌謡が鎌倉の武士の社会を中心に歌われるようになってきた。それが早歌である。「そうか」または「そうが」と呼ばれ、既存の歌謡より、テンポの早い歌謡で、歌詞を文学用語で宴曲と呼んでいる。はじめの百曲は鎌倉末期正安三年(一三〇一)に集められ、続いて次々と集められて、現在百七十三曲がのこっている。源氏物語の引用は二百箇所にのぼっていて、このことだけでもこの物語との関係の深さを知ることが出来るが、引用のみではなくて、「源氏恋」・「源氏」と題する曲が早くから歌われていた。作詞・作曲・撰集に大活躍の明空が書きのこした撰要目録序にはこの作者について、

  ……もしほ草かきあつめたる中にも、女のしわざなればとてもらさむも、いにしへの
  紫式部が筆の跡、おろかにするにもにたれば、かるかやのうちみだれたるさまの、
  おかしく捨がたくて、なまじゐに光源氏の名をけがし、二首の歌をつらぬ。……

と記し、目録にも或女房と書きのこしている。この序文には早歌の創始期に活躍した人のなかから六人をとり挙げて、六歌仙になぞらえているが、その一人に源氏物語を主題とした歌謡の作者或女房をわざわざ記しているのはみのがすことは出来ない。この或女房は室町期の書き入れと思われる朱書きに白拍子三条と号したとある。他の五人が、洞院公守・花山院家教らの摂関家の人や藤原広範のような文章博士、冷泉為相・為通の和歌の専門家といった人々であることを思うと、単に六歌仙のためにとりあげたとばかりはいえないのである。
 「源氏」は若菜下の六条院の女楽を紹介して、批評を加えたもので、

  藻塩草書集めたる其中に 紫式部が筆の跡 おろそかなるはなしやな
  六条の院の女楽 伝て聞も面白や

と歌い出されて、歌謡の口調にふさわしくアレンジはしているが、源氏物語の本文に忠実にそったものである。「源氏恋」の方はより進んだ仕方で、源氏物語から四つの恋を、即ち、藤壺と源氏・朧月夜と源氏・女三宮と柏木・浮舟と匂宮とを歌っているが、

  好〔よし〕とても善〔よき〕名もたたず 苅萱のやいざみだれなん……

とはじめられ、第三者の介在する複雑な恋をとりあつかい、また、原作にない批評もはさまれていて、「源氏」曲よりは内容的にも一層こなされている。
 こういう原典のふまえ方の二つの型を鮮やかに示している点は創始期の早歌にとって、祖型の役割を果しているかに見える。
-------

「洞院公守・花山院家教らの摂関家の人」は外村氏のケアレスミスで、正しくは「清華家」ですね。

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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)

2018-02-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月26日(月)14時27分10秒

前回投稿の最後で些か皮肉めいたことを書いてしまいましたが、もちろん私は小川剛生氏の兼好法師研究の意義を軽んじている訳ではなく、二十年以上前から『徒然草』と『とはずがたり』・『増鏡』の関係について考えてきた私ほど小川氏の『兼好法師』を真剣に受け止めた人間は、一般的な古典・歴史愛好家のみならず、専門的な国文・歴史研究者の中でも稀ではないかと思います。

『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』の関係について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62535f75170a4e3aae07abc9d453aee1

さて、小川氏は出家前の兼好について、

-------
 以上、金沢文庫古文書から得られた情報をもとに、兼好の在俗期を再現してみたい。
 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍坊釼阿とも親しく交流し、正安元年(一二九九)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(一三〇五)夏以前、恐らくはこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(一三〇八)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。
-------

と整理されています。(『兼好法師』、p53以下)
そして、従来金沢貞顕の書状とされていたものの、小川氏が倉栖兼雄の書状と判断されている次の文書(金文五〇三号)、

-------
 先日拝謁の後、何条の御事候や、久しく案内を啓さず候の際、不審少からず候、
そもそも来る廿二日は故黄門上人位の仏事、先々の如く御寺に於いて定めて行はるべ
く候か、よつて小林の女房よりかの仏事の為に五結進らせられ候、最少の事に候ふ事、
返す返す歎き入り候の由、よくよく申さるべく候ふ由、内々申し遣はされて候、□分何
様にも廿二日ハことさら聴聞<〇後闕>
-------

に登場する「故黄門上人位」が兼好の父で、「小林の女房」が兼好の母ではなかろうかと推定されています。(p52)
私は『兼好法師』を初めて読んだとき、この「小林の女房」を何かで見た覚えがして心がざわめいたのですが、『とはずがたり』に後深草院二条の乳母の母として出てくる「宣陽門院の伊予殿」が住んでいる場所が「伏見の小林」なんですね。
既に紹介した「女楽事件」で後深草院二条が行方不明になる場面には、「小林といふは、御ははが母、宣陽門院に伊予殿といひける女房、おくれ参らせてさまかへて、即成院の御墓近く候ふところへ……」とあります。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30

そして、小林から下醍醐の勝倶胝院にある久我一族の真願房の庵室に移った二条のもとを「雪の曙」が訪問し、善勝寺隆顕と三人で語り合った後、

-------
 今日は、一すじに思ひ立ちぬる道も、またさはり出で来ぬる心地するを、あるじの尼御前、「いかにも、この人々は申されぬと覚ゆるに、たびたびの御使に、心清くあらがひ申したりつるも、はばかりある心地するに、小林の方へ出でよかし」といはる。さもありぬべきなれば、車のこと善勝寺へ申しなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。
 今宵は何となく日も暮れぬ。御ははが母伊予殿、「あなめずらし。御所よりこそ、これにやとてたびたび御尋ねありしか。清長もたびたびまうで来し」など語るを聞くにも、……
-------

という具合に、再び「伏見の小林といふ所」が出てきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p379以下)

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『兼好法師』の衝撃から三ヵ月

2018-02-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月25日(日)10時00分1秒

小川剛生氏の『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017年11月)が刊行されて三ヵ月が経ち、書評等もある程度出尽くした感じがします。
ネットでは、ツイッター界の怪人で、まだ若い人らしいキリュー氏の、

-------
小川剛生『兼好法師―徒然草に記されなかった真実―』(中公新書)読了。みなさんのおっしゃる通り、今年一番の本。「吉田兼好」の出自の通説を根本的に覆し、兼好を軸とした14世紀京都のソシアビリテを芋づる式に白日にさらす、「池の水ぜんぶ抜く」的な名著。ヤバいです。
前著『足利義満』でもそうだったが、とにかく使う史料のジャンルの幅が尋常でないし、読みの次元が違う。空手家が柔道の大会で優勝するようなもの。系図、和歌、勅撰集の作者表記、紙背文書、古記録……中世史料を取り扱える限界を、小川剛生ひとりで押し上げているかのようだ。
特に兼好が被官として仕えたとする金沢貞顕と六波羅探題周辺の人脈掘り起しは圧巻で、手法、素材ともに、人脈の次元での公武関係論として示唆されるところ非常に大きかったです。

https://twitter.com/quiriu_pino/status/934778492696145920

という評価が非常に早い段階で出て、新聞では、

読売新聞(朝刊)2017年12月10日/清水克行(明治大学教授)
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20171211-OYT8T50031.html
日本経済新聞(朝刊)2017年12月16日/五味文彦(歴史学者)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO24689030V11C17A2MY6000/
産経新聞2018年1月14日/松岡心平(東京大学教授)
http://www.sankei.com/life/news/180114/lif1801140034-n1.html

の諸氏が高い評価を与えられていますね。
清水克行・五味文彦氏の見解には賛同できますが、松岡心平氏は、

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 使者として登場する若者、兼好は「遁世(とんせい)」によってさらに自由の身となり、抜群の記憶力と博識を生かし、文学的才能と実務能力の両方を生かし、京都を舞台として、階層間や多元的権力間をつないで動乱の世を生き抜いた。
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などと言われていて、東京大学教授にしては万事に軽薄な松岡氏の美辞麗句には若干の疑問があります。

スカイブリッジな人
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd4cc5797cba8255f937aba9a9527589

本郷恵子氏も『文藝春秋』2018年3月号で、

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 国文学者の著者は当時の政権や社会の構造を適切に踏まえたうえで、兼好が登場する史料を探索し、丁寧に読み解いていく。歴史的背景を歴史学者以上にわかっているどころか、歴史学者が知らなかったことまで明らかにしてしまうのが著者のすごいところで、兼好の生きた姿が鮮やかに立ち上がってくる。

http://bunshun.jp/articles/-/6135

と激賞されており、本郷恵子氏にここまで絶賛される国文学者は小川剛生氏の他にはいないでしょうね。
ただまあ、歴史研究者であれば吉田兼倶が変なことばかりやっている怪しい人物であることはみんな知っていた訳で、『兼好法師』の衝撃から三ヵ月も経つと、前科十犯の詐欺師・吉田兼倶が前科十一犯だと分かっただけ、というような感じがしないでもありません。

吉田兼倶(1435-1511)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%80%B6

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「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)

2018-02-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月24日(土)21時59分57秒

東京大学史料編纂所教授・本郷恵子氏の『とはずがたり』論、参考までに若干の解説を付した上で紹介しておきます。(『京・鎌倉 ふたつの王権』、小学館、2008、p302以下)

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コラム4 『とはずがたり』の世界

 後深草・亀山をめぐる宮廷生活に関しては、前者に仕えて二条と呼ばれた女性の自伝的作品『とはずがたり』に詳しい。二条の父は大納言久我雅忠、母は四条隆親の娘で、父方は大臣まで昇る高い家格を誇り、母方も経済力を蓄えた権勢家であった。彼女は幼いころから後深草の手もとで養育され、文永八年(一二七一)一四歳の春には正式に仕えるようになった。『とはずがたり』は、院や天皇、女院、上級貴族らの私的生活の側面を語る、稀有な内容をもつ。宮廷の奥向きで生活する女性の体験を、しばらく追ってみよう。
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『とはずがたり』には確かに「彼女は幼いころから後深草の手もとで養育され」たように書いてあるのですが、内親王でもないのにこのような養育の例は他に見当たらないようで、本当のことなのか私は若干の疑問を抱いています。

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 後深草は心身ともに強靭さに欠ける人物だったらしく、父の後嵯峨も弟の亀山に期待していたらしい。いきおい、この兄弟は「御仲快よからぬ」間柄であった。しかし幕府が宮廷内の宥和を求める意向を示していたため、両者は意識的に交流の機会をもった。互いの御所を訪問しあい、ぜいたくな遊興をともにしたのである。そのような折に、家柄もよく、容貌や教養にも恵まれた二条は、女房たちのなかの花形的存在であった。さらに彼女は、幼くして母を、出資後すぐに父を亡くしており、母方の祖父四条隆親からも十分な後見を受けられない立場にあった。魅力的なうえにうるさい親族がいない女性は、男性たちからまことに都合のよいものとして扱われたのである。
-------

二条の家柄が良いのはその通りで、教養に恵まれていたこともその文章から明らかですが、容貌に恵まれていたか、「女房たちのなかの花形的存在」だったかについては『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料はありません。
もちろん『とはずがたり』の作者は自分が美人であり、粥杖事件などで「女房たちのなかの花形的存在」であった旨を記してはいます。

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 亀山院は初対面の翌日から求愛の和歌を贈ってくるし、前関白の鷹司兼平も機会を見ては彼女の袖を引く。仁和寺の性助法親王(後深草の異母弟。彼女は「有明の月」と呼ぶ)とは、後白河院の追善仏事の際に出会うのだが、それ以来すっかり思いつめて強引に言い寄ってくる。そのほかに、後深草に侍る前からの恋人西園寺実兼(雪の曙)がいる。いずれも超一流の地位・身分をもつ男性ばかりで、二条の周囲はじつに豪華である。
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「有明の月」については本郷氏が採る性助法親王(1247-83)説の他に九条道家の息子、開田准后法助(1227-84)説もあります。
私は「有明の月」は後深草院二条が御所を追放されるに至った経緯を読者に納得してもらうために創作された架空の存在であって、歴史上の人物に結びつけようとする国文学者の努力は無意味と思っています。

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 ところが、いずれの関係にも後深草が関与しているので、話はややこしい。彼の暗黙の了解、あるいは積極的な後押しにより、彼女の周囲には濃密にもつれた関係が積み重ねられていった。二条の男性関係を操作することで優位に立とうとする後深草の態度は、まことに陰湿・倒錯的であり、屈折した性格の持ち主であることをうかがわせる。一方、彼女に対して積極的に好意を示す亀山の態度は、『源氏物語』の"色好み"の系譜に連なるともみえて、あくまで比較の問題であるが、いっそ気持ちがよい。
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「有明の月」との関係は後深草院の「暗黙の了解」に基づいており、鷹司兼平としか思えない「近衛大殿」との関係は後深草院の「積極的な後押し」によるものです。

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 二条は、後深草とほかの女性たちとの密会の手引きをも命じられる。院の漁色の対象は広範で、前斎宮から遊女まで、つぎつぎと使い捨てにしていく。二条は複雑な立場のわが身を嘆きつつ、院が相手をする女性たちについて、簡単になびきすぎておもしろくないとか、容姿がやぼったいなどの批評を加えることも忘れない。自分の家柄の高さや、男性たちからもてはやされる様子をさりげなく強調するなど、屈折した優越感が随所に現われており、痛々しく感じられるほどである。明確な自我をもった女性であるだけに、胸中の葛藤に出口を与えるために、『とはずがたり』は書かれなければならなかったのだろう。
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女房蹴鞠の場面には「二三日かねてより局々に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはし候ふほど、傅たち経営して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし」という興味深い表現があり、この「推しはかるべし」から、『とはずがたり』が一定の読者を想定した作品であることは明らかだと私は考えています。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その2)─女房蹴鞠
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef

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 『とはずがたり』の後半は、宮廷生活を逃れた二条の旅の記録になっている。平安文学の女性たちは、国司となった父や夫に従って行くぐらいしか地方を体験する機会がなかったが、鎌倉時代の女性にはみずから旅するという選択肢が用意されていた。化粧坂から鎌倉の街を見下ろした彼女が、階段状に建物が折り重なっているように見える様子を「袋のなかに物を入れたるやうに住まひたる」と描写したくだりは、鎌倉の景観をよく伝えるものとして、しばしば引用される。二条は、前半の宮廷生活の部分では『源氏物語』を、後半の遍歴については西行を意識して本書を執筆したといわれる。
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本郷氏が『とはずがたり』を「自伝的作品」と捉えることと『源氏物語』を意識云々がどのように関係しているのかは必ずしも明確ではありませんが、文章全体の印象からは、虚構の部分の割合はかなり低いものと考えておられるようです。
ちなみに私は「自伝的作品」ではなく「自伝風小説」と思っています。

-------
 嘉元二年(一三〇四)、二条は都に戻る。七月には後深草院が崩御。長く宮廷を離れ、尼姿となった彼女は親しく弔問することもできず、院の葬列を裸足で追う。後深草の三回忌をもって『とはずがたり』は閉じられる。
-------

この「院の葬列を裸足で追う」場面は、私には虚構の多い『とはずがたり』の中でも屈指の嘘くさい場面のように思われます。

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本郷恵子教授の退屈な『とはずがたり』論

2018-02-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月24日(土)09時06分20秒

>筆綾丸さん
わざわざ書く必要もないかなと思ったのですが、ラウンド君のように筆綾丸さんと私の見解を混同する人もいるので、念のため、

>作家は処女作を超えられないではないけれど、本郷氏においても、この書を超えるものはないですね。
>『中世朝廷訴訟の研究』以外は、あってもなくてもいい、と言えば語弊がありますが、また、紐解いてみます。

については、私は賛成できないことを書いておきます。

ラウンド君の教訓
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8304076f3ff25df843015e68cedd5389

筆綾丸さんは戦国から江戸にかけても詳しいので、おそらく本郷氏のそのあたりの時期に関する著書を念頭に置かれているのだろうと思いますが、私は当該時期にあまり興味がなく、本郷氏の本も読んでいません。
以前、少し言及した『歴史と哲学の対話』(講談社、2013)にしても、業界的にはそれなりに有名らしい編集者の見解が、責任の所在が不明確なまま混入していることを疑問に思っただけです。

本郷和人氏の「現象学的歴史学」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d844e03c1705afed504b266d217f5b88

本郷氏も多面的に活躍されているので、歴史研究者業界内ではあまり評判がよくないのかもしれませんが、私は本郷氏にある種「遊び人」的側面があることで、逆に信頼できるような感じがします。
最近、本郷恵子氏が天皇退位問題に関連して石原信雄(元内閣官房副長官)・園部逸夫(元最高裁判所判事)・所功(京都産業大学名誉教授)の諸氏とともに「有識者」として華々しく活躍されている姿を見て、本郷和人氏もあまり専門外に手を出さずに地味な論文を書き続けていれば、あるいは「有識者」として政府からも重んじられる立場になったのかもしれない、などと想像するのですが、そこはそれぞれの個性ですから、自分に合った生き方が一番ですね。

「退位儀式 憲法整合性に配慮」(毎日新聞2018.2.21)
https://mainichi.jp/articles/20180221/ddm/002/040/121000c

本郷恵子氏といえば、「小学館創立八五周年企画 全集日本の歴史」シリーズで同氏が担当された第六巻『京・鎌倉 ふたつの王権』(2008)を読んでみたところ、「コラム 『とはずがたり』の世界」として三ページ分の記述がありました。
ただ、その内容がいささか期待外れというか、過去の多くの国文学者と同様の古色蒼然たる認識というか、生真面目な高校生の読書感想文みたいな陳腐なものだったので、ちょっとびっくりしました。
私も素人ながら歴史研究者の世界を少し覗き見て、史料編纂所に入るような人たちは本当に秀才揃いであり、本郷恵子氏もすごい人だなあ、などと思っていた時期があったのですが、生真面目すぎるのも考えものですね。

-------
全集 日本の歴史 第6巻 京・鎌倉 ふたつの王権

院政期から、鎌倉幕府の誕生とその滅亡までを描く。公家政権の暴力装置に過ぎなかった武士が、いかにして権力の中枢に食い込んだのか。権力を握った幕府は、なぜ朝廷を滅ぼして唯一絶対の地位を求めなかったのか。そして、「武家の棟梁」として誕生した幕府が、どのようにして日本の統治者としての自覚に目覚めていったか……。こうした疑問の背景には、殺生と信仰の狭間で苦悩する武家の姿や、原理原則を柔軟に現実世界に対応させていく公家たちのしたたかな生き様が隠されている。公家と武家、京と鎌倉を対比しつつ、以後七百年に及んだ日本独自の二重権力構造の源泉を探る。

https://www.shogakukan.co.jp/books/09622106

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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その5)

2018-02-23 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月23日(金)10時46分53秒

『とはずがたり』の「近衛大殿」エピソードと現実の政治情勢について何か関連を導きだせないだろうかとあれこれ考えてみたのですが、ちょっと無理筋なので、あきらめることにしました。
私は『とはずがたり』に後嵯峨院崩御の後、後深草院と「近衛大殿」が密接に連絡を取っていたように書いてあることと『中世朝廷訴訟の研究』の鷹司兼平の権勢に関する記述を結びつけ、

(1)文永十二年(建治元、1275)四月九日の後深草院の出家の意思表示は西園寺実兼ではなく鷹司兼平の主導によるものではないか、
(2)同年十一月四日、幕府の斡旋により煕仁親王が皇太子となったことにより、鷹司兼平の目論見通り亀山院の権勢が崩されたのではないか、
(3)四条隆親・隆顕父子の不和と、それに結びついた中御門経任の権大納言任官は、鷹司兼平の権勢への亀山院側の巻き返しの初期段階として説明できるのではないか、

などと考えていたのですが、これは出発点からして『とはずがたり』の虚構性が極めて高いと考える私の基本的姿勢と整合的ではない発想でした。
また、後深草院の出家の意思表示は「どうぞご自由に」と言われればそれっきりの一か八かの大勝負で、誰々の影響を受けたというよりは後深草院自身の熟慮と決断に基づくものと考えるのが一番自然ですね。
(3)については『続史愚抄』に、

〇九日庚戌。本院被献尊号兵仗等御報書<被辞申由也>。御報書前菅宰相<長成>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言<公孝>。公卿兵部卿<隆親>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言<経俊>及為方。仰依皇統御鬱懐可有御楽色故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云<〇増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>。

とあるので、四条隆親も文永十二年(建治元、1275)四月九日の時点では後深草院・鷹司兼平を支える側であり、それが建治三年(1277)に亀山院側の中御門経任の計略で切り崩されたのかな、みたいなことを考えたのですが、当該記事の「奉行院司」の吉田経俊(1214-76)は経任と並ぶ亀山院の側近でもあり、中御門為方(1255-1306)は経任の息子ですから、当該記事に名前の出ている人たちはたまたま後深草院に仕える役職についていて、後深草院の決断に従っただけと考えるのが自然ですね。
そして四条隆親・隆顕父子の不和と時期的に重なる中御門経任の権大納言任官も、主役はあくまで隆顕を切り捨てる決断をした四条隆親であって、中御門経任は脇役です。
四条家の内部対立により結果的に中御門経任が得をしたのは確かでしょうが、中御門経任にしてみれば、自分の才能と多年にわたる朝廷への献身を鑑みれば権大納言任官は当たり前、ちょうど良い時期に大納言のポストがひとつ空いただけ、程度の認識だったかもしれません。
四条隆親(1203-79)が隆顕(1243-?)を切り捨てる決断をした理由については、隆顕の母・能子が足利義氏(1189-1255)の娘であって、かつては隆親にとって大きなメリットと思われた足利氏との結びつきが、義氏没後の足利氏の急激な弱体化により、むしろ重荷に転化してしまったことにあるのではないかと思っているのですが、この点は後で論ずることとします。

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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その4)

2018-02-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月22日(木)13時09分2秒

西園寺家に少し脱線してしまいましたが、鷹司兼平の権勢の限界と亀山院の巻き返しについて話を戻すこととし、本郷氏の見解を確認してみます。
『中世朝廷訴訟の研究』の「第5章 亀山院政─朝廷訴訟の確立─」、「(2)権勢と文書」に入って、本郷氏は南都・春日社関係の文書を検討され、「長者の意志が二段構えで仰々しく南都に伝達される」型式の文書が「使用されているのが鷹司兼平の活躍していた時期であり、それも建治三(一二七七)年頃に集中してみられるのである。兼平の強権は文書形式の上にも反映さるのではなかろうか」と指摘されます。
そして、「それではかかる兼平の権勢は、先にふれた九条道家のそれと、同性質のものだったのか。朝廷は再び、摂関を頂点とする訴訟機構に服していたのだろうか」という問題を提起し、「建治三(一二七七)年に興福寺衆徒は神木を動かして朝廷を威嚇し、悪党化した寺領内の御家人、矢田宗兼を流罪に処することを求めた」事案に関して、

 北条時宗→関東申次西園寺実兼→伝奏中御門経任→亀山上皇

と伝達される文書等を検討した上で、次のように書かれています。

-------
 関東申次の実兼の役割にまず注目してみよう。かつて同じ申次の立場にあった九条道家は、第三章(5)でみた文書授受の事例からも明らかなように、独自の判断に基づいて関東と連絡を持った。これに対し実兼は、あくまでも上皇の下位に位置し、上皇の意向を奉じる立場にある。伊勢神宮や賀茂社に奉行が置かれていたように、実兼は幕府との交渉を排他的に司るいわば関東奉行として、上皇のもとに統轄されている。そもそも後嵯峨院政が幕府の積極的な援助をうけて発足したという字王によると思われるが、幕府の意向は、何度かの仲介は経ても、最終的には必ず後嵯峨上皇・亀山上皇のもとにもたらされる。そして上皇の働きの重要性を証明するかのように、両上皇は吉田経俊・中御門経任ら特定の側近を用い、身分を越え、西園寺氏を経ずに、武家と直接連絡をもとうとすらしている。
-------

ということで、ここは前回投稿で紹介したp146の注(37)と同趣旨ですね。
ついで、兼平の権勢の限界についての検討となります。

-------
 一方、道家の失脚後、摂関は直接に武家と連絡をとりあうことはなくなっていた。武家との交渉権は上皇の手中にあり、朝廷の訴訟制が下す判断を保全するための武力の行使の要請も、上皇によって行われている。鷹司兼平の執政期にもこの関係は変化していない。いかに朝廷内部に勢力を扶植しようとも、諸権門の強訴など外から加えられる現実的な暴力に対しては、摂関である兼平は対処する術をもっていない。立太子問題を抱えているとはいえ、この武家との関係が変わらぬ限り、統治機構としての朝廷における亀山上皇の地位は、摂関に代わられることはなかったのではなかろうか。
-------

九条道家(1193-1252)の没落は摂関家にとっては大変なショックで、建長四年から弘長元年までと建治元年から弘安十年まで前後二度、合計二十三年の長期間にわたって摂関の座を占めていた鷹司兼平にしても「武家との関係」を取り戻すことはできず、その権勢の最盛期であっても、本当に重要な案件では亀山上皇に譲らざるを得なかったということですね。

-------
 道家の時期にみられた摂関に直属する諮問機関が置かれていないことで分かるように、兼平はあくまでも伝統的な内乱の地位にとどまり、道家のように自ら評定を開き、また記録所を統轄しようとはしていない。訴訟の制度に即していえば、彼は(それが如何に強力なものであるにせよ)口入を行なう存在にすぎない。これは幕府との独自の連絡を持たぬ摂関の限界を、明らかに示したものであろう。
 兼平は、消去されかけていた内覧の働きを再び活性化させたにすぎず、その限りにおいて訴訟の真の主催者たる上皇の役割を代行していたのである。こうしてみると兼平の権勢のあり方は、制度としての根拠をもたぬ一回的なもの、非常に不安定なものと評価せざるを得ない。たとえば道家の地位と権力は制度の裏づけを有するがために、子息や女婿に譲渡することも可能であった。しかし兼平の権勢は彼個人のあり方に左右される性質のものであり、当然の帰結として、他の何人にも継承させ得なかったのである。
-------

このように「制度史」と「政治史」を明確に区別するのが本郷史学の要諦ですね。
この観点から本郷氏は鎌倉時代の公家政権をトータルに分析されており、その力強い一貫性が従前の学説とはレベルの異なる強い説得力を生み出しています。
そして、次に鷹司兼平の権勢が衰える時期が問題となります。

-------
 弘安二(一二七九)年五月十六日、亀山上皇への奏事を行なう時刻が厳密に定められた。同時に伝奏が三番に結われ、交代で任にあたることになった。一番が中御門経任・日野資宣、二番が源雅言・高階邦経、三番が源資平・吉田経長である。奏事の手続きを整えようとするこの努力は、亀山上皇の訴訟掌握への意欲を表している。そしてこれこそは兼平の権勢の衰えを示す事件ではないか。
-------

ということで、本郷氏は弘安二年(1279)を重視されています。
以上の政治情勢と『とはずがたり』の「近衛大殿」エピソードがどのように関係するのか、あるいは関係しないのか。
非常に難しい問題ですが、次の投稿で検討したいと思います。

>筆綾丸さん
本郷氏も鎌倉時代の公家政権研究から離れて久しいようにお見受けしますが、三十代半ばであれほど緻密な研究をしてしまうと、もう公家はいいや、みたいな気分にはなりそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

海辺のカフカ 2018/02/22(木) 12:48:40
小太郎さん
数年前に海辺の町に転居した折、大半の本は二束三文で処分したのですが、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』は残しておきました。作家は処女作を超えられないではないけれど、本郷氏においても、この書を超えるものはないですね。『中世朝廷訴訟の研究』以外は、あってもなくてもいい、と言えば語弊がありますが、また、紐解いてみます。
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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その3)

2018-02-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月22日(木)11時36分41秒

前投稿の追記にも書きましたが、本郷氏が「後深草上皇は同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで親王の東宮立坊を幕府に働き掛け、ついにその承認を引き出したという」に付された注(37)を見ると、「(37)『増鏡』第九 草枕」となっていて(p146)、まるで『増鏡』に煕仁親王の立太子に西園寺実兼が関与したと書いてあるように読めますが、『増鏡』にはそのような記述はありません。
『増鏡』の「巻九 草枕」では、まず、

-------
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随人ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、遅れ聞えじと御心づかひし給ふ。
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これから東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
-------

と後深草院が出家の意思表示をしたところ(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197)、それが幕府にも聞こえ、幕府中枢で議論がなされたと記されます。
後深草院が「出家します」と正式に表明したのは文永十二年(建治元、1275)四月九日で、『続史愚抄』には、

〇九日庚戌。本院被献尊号兵仗等御報書<被辞申由也>。御報書前菅宰相<長成>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言<公孝>。公卿兵部卿<隆親>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言<経俊>及為方。仰依皇統御鬱懐可有御楽色故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云<〇増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>。

とあります。
『増鏡』はこの後、北条時頼(1227-63)が非常に立派な人物で、諸国を修行して歩いたという、後の廻国伝説の基となる変なエピソードを挟んだ後、

-------
 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
-------

【私訳】その子だからであろうか、今の執権時宗朝臣も大変立派な人物で、「後深草院がこのように出家をなさろうとすることは、まことにおそれ多く、お気の毒なことである。故後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるのだろうが、後深草院は大勢の御兄弟の御兄上で、これといった御過失もおありにならないだろうに、どうして急に御出家のようなことがあってよいものだろうか。それはよくないことだ」といって、亀山院へも奏上し、両方の対立を和らげ申して、東の御方の若宮(煕仁親王)を皇太子にお立てになった。

と続けており(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p203)、北条時宗が新院(亀山院)に奏上して煕仁親王立坊を図ったとあるだけです。
「同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで」は本郷氏が『増鏡』以外の史料から導き出した推論のようですね。
その一番の根拠は、おそらく煕仁親王立太子とともに西園寺実兼が東宮大夫になったことだと思いますが(『公卿補任』)、少なくとも『増鏡』には西園寺実兼の直接の関与を示す記述はありません。
なお、注(37)は、万事に緻密な本郷氏にしては少し妙なミスがあります。
p147に、

-------
 もともと後嵯峨院政が幕府の積極的な援助を受けて発足したという事情によると思われるが、幕府の意向は、何度かの仲介は経ても、結局は後嵯峨上皇・亀山上皇にもたらされる仕組になっている。そしてそれを裏づけるように、両上皇は吉田経俊・中御門経任らの側近を用いて、実兼を経ずに武家と連絡をとろうとすらしている。
 たとえば正元元年六月、関東の使者が御所に参入した。このとき後嵯峨上皇は西園寺実兼ではなく吉田経俊を申次に指名し、使者に伝言の要旨を問い質している(『経俊卿記』正元元年五月二十九日、同年六月一日)。実兼のもとへはこの後経俊が出向いて「仰合わせて」いるにすぎない(『経俊卿記』同年六月一日)。この二日後、関東への返書の下書きを作成した上皇は、経俊にこれを見せて意見を求めた。ところが実兼には「不可然之由有仰」と、見せるのを嫌がっている(「重事であるから」と経俊が強くすすめたために、結局は実兼にみせることになった。『経俊卿記』同年六月三日)。そして文書を清書する段には、やはり経俊しか同席を許されていない(『経俊卿記』同年六月六日)。この他の場合にも、経俊は武家と上皇の連絡に介在しているようである(『経俊卿記』正嘉元年四月二十三日。文永七年三月十一日、後嵯峨上皇院宣、『鎌』九八八七)。彼は上皇の側近として、次の図式、
  上皇─奉行─西園寺氏─武家
の奉行の地位を占めることが多く、その結果、上皇の意によって、右のように西園寺氏を介さずに武家との交渉を持とうとするのではないか。
-------

とありますが、ここは「文永七年三月十一日、後嵯峨上皇院宣、『鎌』九八八七」を除き、すべて西園寺実兼(1249-1322)の祖父・実氏(1194-1269)が関東申次となっている時期であり、本郷氏は実氏と実兼を混同されていますね。
亀山院(1249-1305)と同年の生まれの西園寺実兼が後嵯峨院(1220-72)から軽く見られるなら理解できますが、後嵯峨院は正室・大宮院の父である実氏に対しても距離を置きたいと考えていたようで、その点が興味深いですね。
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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その2)

2018-02-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月21日(水)18時14分36秒

さて、建治三年(1277)頃の朝政を主導していたのは誰かについて、本郷和人氏の見解を『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)で確認してみます。
同書の全体的な構成と「訴訟」概念についてはリンク先の投稿を参照してください。

中御門経任とは何者か。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81ee8dfb5c58c74b86780883f87bceba
中御門経任とは何者か。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f833bdc97f4232da6f5ce3475d238e7

そして、今回の問題は「第五章 亀山院政─朝廷訴訟の確立─」に関係しますので、第五章の構成をみると、

(1)鷹司兼平
(2)権勢と文書
(3)文殿の改革
(4)亀山院政の展開と中断

となっています。
冒頭を紹介すると、

-------
(1)鷹司兼平

 後嵯峨上皇の没後、訴訟制の一応の頂点に立ったのは亀山天皇であった。継承者の選定は後深草・亀山天皇の母である大宮院によって為されたが、それが幕府の認可をふまえての選択であったことは付言しておかねばなるまい。亀山上皇は文永十一(一二七四)年から院政をしくが、政務をとるようになった直後の同十(一二七三)年四月に後嵯峨上皇の下した弘長制符の遵守を呼び掛けているように、それは後嵯峨院政の延長と考えてよいものであった。では当時の朝廷の政治情勢がどのようなものであったのか、ひとつの相論を手がかりに見ていくことにしよう。
-------

ということで(p123)、「付言しておかねばなるまい」に付された注(1)を見ると、

(1)『増鏡』第八あすか川、『神皇正統記』第八十九代亀山天皇の項。

となっていますが(p143)、『神皇正統記』の当該部分の記述は極めてあっさりしたものであり、結局のところ、両統対立の一番根源的な部分は『増鏡』にしか書かれていないことになります。
とすると、『増鏡』の記述を信頼できるかどうかが問題となり、『増鏡』の史料としての性格を追及している私にとっては堂々巡り的な感じになってしまいます。
ま、この点はまた後で論ずるものとします。
さて、上記引用に続く部分は、中御門経任とその異母弟・吉田経長との関係を検討する際に既に引用済みです。

-------
 建治二(一二七六)年、この経俊が処分状を作成し、この中で摂津国小林上庄の子息俊定(当時正五位下、蔵人)への譲渡を指定した。そしてこれを機に、経俊の弟、万里小路資通(正四位下、散位)と俊定の間に相論が生起する。俊定は資通→為経→経藤→俊定の伝領を云い、資通は直接父資経から譲りを受けたと主張した。建長二(一二五〇)年に資経は遺領目録を作成していて、これによれば同庄が為経に譲られているのは明白であるが、資通はこの後に悔返しがあったことを述べ、以て自らの権益を正当づけるのである。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f0e838ed67afaa7a428441c314f83db1

この裁判と別のもう一つの例を検討した後で、本郷氏は、

-------
 以上の例から考えると、後嵯峨上皇の没後、近衛流の中心人物、鷹司兼平は、訴訟に強い力を振るっていたらしい。後嵯峨院政期に作られたばかりの上皇を中心とする訴訟系統の不完全さ、それに加え「兼参」の普遍性による上皇と廷臣の結びつきの不安定、といった条件が、亀山上皇の地位の動揺をもたらしたのであろう。
-------

と言われます。(p127)
『とはずがたり』の「近衛大殿」の発言の中に「兼参」への言及があるので、文脈は全然違いますが、ちょっとドキッとしますね。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00

そして、本郷氏は更に次のような極めて興味深い指摘をされます。

-------
 その直接の契機にあたるかもしれぬ事件として注目に値するのは、建治元(一二七五)年暮に決定された、後深草上皇の皇子煕仁親王の立太子である。後深草上皇は同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで親王の東宮立坊を幕府に働き掛け、ついにその承認を引き出したという。新東宮煕仁親王の遠からぬ即位はすなわち後深草院政の開始を意味し、幕府がそれを援助することがここで内外に示されたのである。幕府の支持のもと、摂関を乗り越え自ら訴訟の興行をはかってきた亀山上皇にとって、これはその権威の基盤をつき崩すような事態であったに違いない。近衛家基を婿に迎えて鷹司・近衛両家をまとめあげた兼平の積極的な意欲が更にそこに働いたときに、後嵯峨上皇によって用意された訴訟制度の頂点に、亀山上皇が十全には座し得ないという事態が生じたのだろう。
-------

ということで、本郷氏は亀山院の地位の動揺と鷹司兼平の権勢をもたらした「直接の契機にあたるかもしれぬ事件」は建治元年の煕仁親王立太子だとされます。
ただ、このすぐ後で本郷氏が書かれているように、鷹司兼平の権勢には限界があり、また亀山院の巻き返しがあります。

※追記
本郷氏が「後深草上皇は同じように不遇であった申次西園寺実兼と結んで親王の東宮立坊を幕府に働き掛け、ついにその承認を引き出したという」に付された注(37)を見ると、「(37)『増鏡』第九 草枕」となっていて(p146)、まるで『増鏡』に煕仁親王の立太子に西園寺実兼が関与したと書いてあるように読めますが、『増鏡』にはそのような記述はありません。
この点を含め、注(37)には若干の疑問があるので、後で検討します。

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鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その1)

2018-02-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月21日(水)11時26分51秒

『とはずがたり』の「近衛大殿」エピソードはこの後になかなか面白い、スリリングな展開となるのですが、そのあたりは他書や他のサイトに譲るとして、ここでは「近衛大殿」の口を借りた後深草院二条と久我家への自画自賛コメントの中に、それなりの歴史的真実が反映されているのではないか、という仮定から少し検討してみたいと思います。
前回投稿で紹介したように、「近衛大殿」は後嵯峨院崩御の際、後嵯峨院から「くれぐれも後深草院をお世話し、御守りされるように」とのお言葉を賜ったとのことで、後深草院との関係が深いことが強調されています。
そして、「だいたい、兵部卿(隆親)の老いのひがみは尋常ではありませんね。隆顕の籠居もあきれたことで、どうしてこういう御人事になるのかと思われます。経任が大納言を望んで、兵部卿に申し入れをしておいたいきさつでもあったのでしょう」などと語ったとされるのですが、中御門経任は実際に四条隆親・隆顕父子のトラブルの時期に権大納言に任ぜられています。
『公卿補任』によれば、建治二年(1276)に、

大納言正二位、<四条>藤隆親(七十四)
十二月廿還任(依明年正月主上御元服上寿事。罷子息隆顕諸職任之)。同廿七日賜兵部卿兼字。

権大納言正二位<四条>藤隆顕(三十四)
十二月廿辞退(依父隆親卿還任也)。

とあり、ついで、建治三年(1277)を見ると、

大納言正二位、<四条>藤隆親(七十五)
兵部卿。正月三日御元服上寿。二月二日辞退之由被仰下之。

とあります。また散位の方には、

前権大納言正二位<四条>同隆顕(三十五)
五月四日出家(法名顕空)。与父卿不和不調之所行等之故云々。

とあります。
他方、中御門経任はというと、同年正月二十九日、権中納言から権大納言に転じています。
整理すると、建治二年(1276)十二月二十日に四条隆顕が大納言を辞して隆親が大納言に還任となり、翌建治三年正月二十九日に中御門経任が権大納言に任ぜられ、その直後の二月二日に隆親が大納言を辞し、隆顕は大納言に復帰することなく五月四日に父親との不和により出家しています。
この経緯を見ると、確かに四条隆親が隆顕の「大納言」の地位を奪い、それを中御門経任に「権大納言」として譲ったように見えます。
勧修寺流の実務官僚の家に生まれた中御門経任にとって、権大納言任官は大変な名誉であったことは間違いないのですが、ではこの一連の変則的な人事を承認したのは誰なのか。

中御門経任とは何者か。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c95adfe0675886d8c95f14e4d93b96f

『とはずがたり』の記述を見ると、明らかに鷹司兼平を連想させる「近衛大殿」は、「地体、兵部卿が老いのひがみ、殊のほかに候ふ。隆顕が籠居もあさましきこと、いかにかかる御まつりごとも候ふやらんと覚え候。経任大納言申しおきたる子細などぞ候らん」などと他人事みたいに言っている訳ですが、鷹司兼平は建治三年には摂政であり、人事を含め、「御まつりごと」を主導する立場であったはずです。
とすると、仮に「近衛大殿」=鷹司兼平のこの発言が何らかの歴史的真実を反映しているとしたら、この人事を承認したのはいったい誰なのか。
もちろん、それは亀山院以外考えられません。
ということで、ここで『とはずがたり』をいったん離れて、建治三年(1277)頃の朝政を主導していたのは誰かという、リアルな政治情勢について知りたくなるのですが、この種の問題で信頼できる先行研究は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』以外見当たりません。
そこで、次の投稿で本郷氏の見解を紹介したいと思います。

>好事家さん
>孫の為行(1276-1332)で系譜は断絶。

『尊卑分脈』を見ると、為行の後も為宗・為治・経邦・経成・経保・経仲・為仲と続いていますね。
ただ、松本寧至氏の「経任出家せず─『とはずがたり』点景─」によれば、『海人藻芥』に、

勧修寺者、内大臣高藤公後胤也。当時朝庭ニ仕アル輩多之。経任卿子孫<中御門ト号ス。当時頗断絶歟>、甘露寺、吉田、勧修寺、中御門<又号長谷>、万里小路、九条、葉室、土御門<当時頗断絶歟>、坊城

とあるそうで、十五世紀前半には断絶しているようです。

海人藻芥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E8%97%BB%E8%8A%A5

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『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿

2018-02-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月20日(火)12時29分0秒

さて、「近衛大殿」が初めて出てくる場面です。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p392以下)

-------
 八月のころにや、近衛大殿御参りあり。後嵯峨の院御かくれの折、「かまへて御覧じはぐくみ参らせられよ、と申されたりける」とて、常に御参りもあり、またもてもなし参らせられしほどに、常の御所にて、内々九献など参り候ふほどに、御覧じて、「いかに、行方なく聞きしに、いかなる山に籠りゐて候ひけるぞ」と申さる。
-------

【私訳】八月のころだったか、近衛大殿が御所へおいでになる。後嵯峨院が御隠れになった時、「くれぐれも後深草院をお世話し、御守りされるようにとのお言葉でした」とのことで、大殿は日頃からおいでになり、また後深草院も大殿を歓待しておられたが、この時も常の御所で内々の御酒宴のあった際に、私を御覧になって、「おや、あなたは行方が分からないと聞いていたが、いかなる山に籠もっておられたのですか」と申される。

ということで、『とはずがたり』を論ずる国文学者が一致して鷹司兼平に比定している「近衛大殿」が登場します。
「有明の月」の場合と異なり、近衛大殿の話の内容から、私もこの比定は正しいと考えています。
もちろん、私の場合は『とはずがたり』が鷹司兼平の実像を描いているという意味ではなく、作者が「近衛大殿」の人物像から読者に鷹司兼平を連想させるように描いている、という意味においてです。
鷹司兼平は安貞二年(1228)生まれなので、後嵯峨院(1220-72)より八歳下、後深草院(1243-1304)より十五歳上で、建治三年(1277)の時点ではちょうど五十歳です。

-------
「おほかた方士が術ならでは、尋ね出でがたく候ひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「地体、兵部卿が老いのひがみ、殊のほかに候ふ。隆顕が籠居もあさましきこと、いかにかかる御まつりごとも候ふやらんと覚え候。経任大納言申しおきたる子細などぞ候らん。さても琵琶は棄てはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさら物も申さで候しかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と御所に仰せられしかば、「むげに若き程にて候ふに、にがにがしく思ひ切られ候ひける。地体、あの家の人々は、なのめならず家を重くせられ候。村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。隆親の卿、女・叔母ならば、上にこそと申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。
-------

【私訳】「およそ神仙の術を使う人でなければ探し出すことができなかったのですが、蓬莱の山で見つけ出しまして」と後深草院が仰ると、大殿は、
「だいたい、兵部卿(隆親)の老いのひがみは尋常ではありませんね。隆顕の籠居もあきれたことで、どうしてこういう御人事になるのかと思われます。経任が大納言を望んで、兵部卿に申し入れをしておいたいきさつでもあったのでしょう。それにしても、琵琶はすっかり棄ててしまわれたのですか」
とおっしゃった。
しかし、私が特にお返事もしないでいたところ、後深草院が、
「本人一代だけでなく、子孫までもと深く八幡宮にお誓い申し上げたそうです」
とお答えになると、大殿は、
「まったく若いお年なのに、きっぱりと思い切られたものですな。だいたい、あの久我家の方々は、並々ならず家を重んぜられます。村上天皇の御子孫で、久しく続いてすたれないのは久我家ばかりです。二条殿の傅(めのと)の仲綱は久我家重代の家人ですが、岡屋の殿下(近衛兼経、1210-59、鷹司兼平の異母兄)が不憫に思われた事情があって、『当家にも兼参するように』と言われたところ、仲綱が『私は久我の家人ですので、どういたしましょう(お断りいたします)』と申したので、『久我大臣家は家格が高く、他の家に准じて考える必要はないので、兼参は差支えなかろう』と自筆の一筆を認めたと聞いております。隆親卿が今参りは自分の娘であり、二条殿の叔母であるから上座に座るべきだと申したことも、良くないことでございましたな」
と言われる。

ということで、近衛大殿は後深草院二条の傅(乳父)の藤原仲綱を誉めつつ久我家の家格が極めて高いことを語り、また、隆親の「老いのひがみ」に関しても二条に極めて同情的な見解を述べます。
なお、「ふびんに思はるる子細」とは、久我通光(1187-1248)が全財産を後妻の三条(西蓮)に渡すと遺言して死去した後、通忠(1216-51)が三条を相手に訴訟を起こし、久我荘だけは確保したものの、残りは全て三条のものとする後嵯峨院の院宣が下ってしまい、そして通忠も通光没の三年後に死んでしまった、という久我家の混乱を指すものと思われます。
さて、近衛大殿の発言はまだまだ続きます。

-------
前の関白、新院へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、『傾城の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりしなかにも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園八代の古風といひながら、いまだ若きほどにありがたき心遣ひなり。仲頼と申してこの御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々たづねありくと聞きしかば、いかなる方に聞きなさんと、我さへしづ心なくこそ』など、御物語候ひけるよし承りき」など申させ給ひき。
-------

【私訳】前の関白(鷹司基忠、1247-1313、兼平の長男)が新院(亀山院)のところに参って、ゆっくり御物語があった折に、新院は「女性の嗜みには歌ほどのものはない。あのように苦々しい出来事の中にも、あの歌は耳に残りました。具平親王以来、八代の古い伝統の家とはいえ、まだ若い年頃でめずらしい心遣いです。仲頼と申してこの御所に仕えている者は、その人の家人ですが、行方が知れないと聞いて山々寺々を尋ね歩いていると聞いていたので、どのようになることかと私さえ落ち着きませんでした」などと仰せがあったと伺いました、などと申される。

ということで、近衛大殿は「兵部卿が老いのひがみ」を非難し、隆顕の籠居に同情し、二条が琵琶を断念したことは残念だと言い、「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候」と久我家の伝統と隆盛を称賛し、更に岡屋関白が久我家の家人・藤原仲綱を高く評価したというエピソードを紹介して久我大臣家の家格の高さを改めて強調したばかりか、「前の関白」が亀山院から聞いた話として、亀山院が久我家の文化的伝統と二条の歌の才能を賞賛し、仲綱の子である仲頼が二条を捜しているのを見て自分も心が落ち着かなかったなどと言ったというエピソードを追加します。
近衛大殿は自分の兄、息子など一族を総動員し、更に亀山院まで加えて、久我家の伝統・家格と後深草院二条個人の豊かな芸術的才能を褒め称えている訳で、二条は近衛大殿の口を借りて言いたい放題、自画自賛の限りを尽くしていますね。

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『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その8)─「二条殿の御出家」の中止

2018-02-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月20日(火)08時27分25秒

昨日の投稿のタイトル、まるで中御門経任が「さしも思ふことなく太りたる人」のような感じになってしまいましたが、わざわざ直すのも面倒なのでそのままにしておきます。
「天子摂関御影」あたりを見るとふっくらタイプの人も多くて、当時の貴族社会において太っていること自体は別に否定的な評価をもたらすものではありませんが、「さしも思ふことなく」は世話になっている叔父への評価としては些か辛辣ですね。

天子摂関御影
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90%E6%91%82%E9%96%A2%E5%BE%A1%E5%BD%B1

さて、『とはずがたり』ではこの後、

-------
「かかる程をすごして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひつくし侍しりなかに、「さてもいつぞや、恐ろしかりし文を見し、我すごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ身といひ、かかることの出できぬるも、まめやかに報いにやと覚ゆる。【後略】
-------

【私訳】「こういう時期を過ごしたら、私も山深く籠もる決心ですから、あなたと同じ姿になりますね」などと申しつつ、互いにしんみりした話を残らず語り合った中に、善勝寺は「それにしても、いつぞやあの方(有明の月)からの恐ろしい手紙を見ましたが、私の過ちではないことながら、いったいどうした訳であろうかと、身の毛もよだちました。さっそく、あなたといい、私といい、こういうことが起こったのも、本当に報いなのではなかろうかと思われます。

という具合に、後深草院二条と四条隆顕の各々の不幸が「有明の月」の後深草院二条への妄執に起因するかのように描かれます。
『とはずがたり』に登場する「有明の月」が仁和寺御室という真言仏教界の最高レベルに位置する人物として設定されていて、国文学者はこれを九条道家息の開田准后・法助(1227-84)ないし後深草院の異母弟・性助法親王(1247-83)に比定していることは既に紹介しましたが、『とはずがたり』の虚構性・創作性が極めて高いと考える私はもちろんどちらの説にも懐疑的で、「有明の月」は後深草院二条が宮廷社会で挫折した原因を合理化するために創作された架空の人物と考えています。

法助(1227-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8A%A9
性助(1247-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%8A%A9%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

「有明の月」の人物比定はともかくとして、この後、『とはずがたり』では後深草院二条の行方が分からないことを嘆いて春日社に二週間の予定で籠もっていた「雪の曙」が、十一日目に春日社の第二の御殿の前に二条が昔のままの姿でいるという夢を見て急いで京に戻ることにし、藤の森のあたりで善勝寺の中間が細い文箱を持っているのに出会い、「勝倶胝院より帰るな。二条殿の御出家は、いつ一定とか聞く」(勝倶胝院より帰るところだな。二条殿の出家は何時に決まったと聞いているか)とカマをかけたところ、事情を知っている人と誤解した善勝寺の中間が二条の居所を教えたので、「雪の曙」は思った通りだと喜び、春日社にお礼の神馬を奉納した後、下醍醐の勝倶胝院に二条を訪問し、善勝寺隆顕と三人で語り合った、という御都合主義の展開になります。
そして二条が即成院近くの「伏見の小林」にある乳母の母、「宣陽門院に伊予殿といひける女房」の家に戻ると、そこに後深草院が来て、「兵部卿への恨みで、私まで恨まなくともよいではないか」などと説得するので、二条は堅く誓ったはずの出家をあっさり中止し、御所に戻って着帯することになります。
『とはずがたり』では更に「近衛の大殿」という第三の愛人が登場し、後深草院の暗黙の了解の下で妊娠九か月目くらいの二条と契るという、まあ、何というか、御都合主義を超えた、ちょっとシュールな味わいも感じられる展開となりますが、時の摂政・鷹司兼平(1228-94)に比定されている「近衛の大殿」の発言の中に中御門経任が登場するので、次の投稿でその部分を紹介します。

鷹司兼平(1228-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%B9%B3
コメント
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