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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その7)─「8.北条時房による軍勢手分 4行」

2023-10-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「8.北条時房による軍勢手分 4行」と「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」は、

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 去程ニ、海道ノ先陣相模守ハ、橋下ノ宿ヲ立テ、参河国矢作・八橋・垂見・江崎ヲ打過テ、尾張ノ熱田ノ宮ヘゾ参リ給フ。上差〔うはざし〕抜テ進〔まゐら〕セテ、其夜ハ赤池ノ宿ニゾ著〔つき〕給フ。明日、尾張ノ一ノ宮ノ外〔そと〕ノ郷ニ打立テ、軍〔いくさ〕ノ手駄〔てだて〕セラレケリ。「今度ノミチノ固〔かため〕ハ、上﨟次第ゾ、大豆渡〔まめど〕ヲバ武蔵守、高桑ヲバ天野左衛門、大井戸・河合〔かはひ〕ヲバ」、武田・小笠原ハ美濃国東大寺ニコソ著〔つき〕ニケレ。此両人ノ給フ事、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」。武田、返事セラレケルハ、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝〔かた〕バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習〔ならひ〕ゾカシ、小笠原殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908

という具合に切れ目なく続いていますが、しかし、前半と後半の内容は明らかに異なり、何らかの「欠落」があったものと思われます。

慈光寺本の「大炊の渡」場面と流布本の「河合・大井戸」場面との比較(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd9d2121f83b3c02da06dbb3057f5e5d

おそらく本来の原文には時房による軍勢配備に関する記述が「武田・小笠原」以降も続いていて、その後に武田・小笠原の密談エピソードという全く別の話題が書かれていたのに、「武田・小笠原」が重なったために、転写した人が中間部分、即ち時房による軍勢配備の後半部分をうっかり飛ばしてしまった、のではないかと思われます。
ただ、「欠落」よりも重要なのは、「海道ノ先陣相模守」北条時房が「尾張ノ一ノ宮ノ外ノ郷」で「軍ノ手駄」をした際に、「今度ノミチノ固〔かため〕」、即ち、軍勢の配備については、

 大豆渡〔まめど〕ヲバ武蔵守
 高桑ヲバ天野左衛門
 大井戸・河合〔かはひ〕ヲバ

と「大井戸・河合」についても時房が決定していることです。
しかし、東山道軍の担当である「大井戸・河合」について、時房はいったいどのような資格・権限で軍勢配備を決定できるのか。
そもそも『吾妻鏡』承久三年六月五日条によれば、

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辰刻。関東両将着于尾張国一宮辺。合戦間事有評議。自此所。相分方々道。鵜沼渡。毛利藏人大夫入道西阿。池瀬。武藏前司義氏。板橋。狩野介入道。摩免戸。武州。駿河前司義村以下数輩〔候侍輩也〕。洲俣。相州。城介入道。豊嶋。足立。江戸。河越輩也。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とのことで、軍勢配備は時房一人で決めたのではなく、泰時・時房の「関東両将」の下で「評議」で決定されていますが、大井戸渡は東山道軍の担当ですから、「評議」の対象からは外れています。
従って、慈光寺本作者は「海道ノ先陣相模守」の資格・権限、そして幕府軍の東海道軍と東山道軍の役割分担という本当に基礎的な部分についての理解を欠いていることになります。
鎌倉方内部での諸将の権限については慈光寺本などより『吾妻鏡』の方が信頼できますから、「8.北条時房による軍勢手分 4行」の評価は「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)となります。
ただ、時房の資格・権限について、単純に慈光寺本作者が誤解していたのかというと、そうではなさそうです。
というのは、武田信光と小笠原長清の密談の直後、「10.北条時房の手紙と武田・小笠原の渡河開始 3行」において、

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 去程ニ、相模守ハ御文カキ、「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜〔わたしたま〕ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」ト書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、「サラバ渡セ」トテ、武田ハ河合ヲ渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ。
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と、北条時房が武田信光・小笠原長清に「大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」と約束しますが、これは時房に武田・小笠原に対する何らかの指揮権(とそれに対応する恩賞賦与の権限)があったことを示しています。
とすると、時房が「大井戸・河合」について武田・小笠原の担当と決めたとの「欠落」前の記述は、武田・小笠原の密談、そしてそれを受けた時房の恩賞約束の「御文」とストーリーが綺麗につながることになります。
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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その6)─「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」

2023-10-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「山田殿」の鎌倉攻撃案に対する藤原秀澄の返答は、

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判官ハ、天性臆病武者ナリ。此事ヲ聞〔きき〕、「其事ニ候。尤〔もつとも〕サルベキ事ナレドモ、山道・海道一〔ひとつ〕ニ円〔まろ〕ゲ、洲俣渡シテ、尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取、鎌倉ヘ下〔くだる〕モノナラバ、北陸道責〔せめ〕テ上〔のぼる〕ナル式部丞朝時、山道々々〔せんだうのみちみち〕固メテ上ナル武田・小笠原ガ中ニ取籠ラレテ、属降〔ぞくかう〕カキテ要事ナシ。京ヨリ此マデ下〔くだる〕ダニ馬足ノクルシキニ、唯、是ニテ何時日〔いつのひ〕マデモ待請〔まちうけ〕テ、坂東武者ノ種振〔たねふる〕ハン、山田殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

というものですが、「尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守」とあるので、「遠江井介」のみならず北条泰時・時房の三人が尾張国府にいることになっています。
他方、「山田殿」は最初に「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ」と言っているのに、同じ発言の中で「尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取」、ついで「橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并相模守ヲ討取」とあるので、相模守・北条時房は尾張国府と橋本宿のどちらにいるのかはっきりしません。
何ともチグハグは応答ですが、どうしてこのような混乱が生じたのか。
私としては、慈光寺本作者は「気まぐれ」な人なので推敲は面倒だからやらなかった、くらいの理由しか思いつきません。
ま、それはともかく、「京ヨリ此マデ下ダニ馬足ノクルシキニ」云々と京方の戦闘力を客観的に認識している秀澄は、些か誇大妄想気味に思える「山田殿」に比べると沈着冷静な知将のように見えなくもありませんが、しかし、慈光寺本作者の秀澄に対する評価は「判官ハ、天性臆病武者ナリ」というものです。
武士に対してこれ以上の侮辱はないと思いますが、何故に秀澄はこのような人物として造形されているのかというと、素晴らしい鎌倉攻撃案を立案した「山田殿」の立派さを引き立てるための悪役ということでしょうね。
そもそも慈光寺本において、藤原秀康と藤原秀澄の二段階で軍勢手分を行っているのは極めて不自然ですが、これも「山田殿」の素晴らしい提案の是非を判断する資格が秀澄にあるとするための作為ですね。
秀澄に軍勢手分に関する何の資格・権限もないのに「山田殿」が鎌倉攻撃案を提案するのは無意味です。
慈光寺本作者は、既に秀澄の第二次軍勢手分に関する叙述で、

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【前略】山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸〔きど〕ヘ散ス事コソ哀レナレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

と秀澄案を酷評していましたが、ここで改めて「山田殿」の秀澄に対する発言で「我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ」と酷評し、「判官ハ、天性臆病武者ナリ」という総括的評価を加えている訳ですね。
ちなみに秀澄は流布本では全く影の薄い存在で、上下巻通してたった一箇所、尾張河合戦前の京方の軍勢手分において、

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【前略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

と山田重忠と並んで名前が出て来るだけです。
さて、「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」に入ると、ここは長大なストーリーではあるものの、その内容は、

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 山田次郎ハ是ヲ聞テ思様〔おもふやう〕、「憎ヒ河内ガ詞〔ことば〕哉。其儀ナラバ、重定〔しげさだ〕ガ勢バカリ渡〔わたし〕見ン」ト思ツゝ、井綱権八〔ゐづなのごんはち〕・下藤五〔しものとうご〕ト云〔いふ〕三人ノ主達〔ぬしたち〕召寄〔めしよせ〕云ハレケルハ、「相模守・山道遠江井介ガ尾張ノ国府ニ著〔つき〕タンナルゾ。行テ事ノ体〔てい〕見テコヨ」トテ遣〔つかはし〕ケリ。【中略】山田次郎ハ、道理有ケル武者ナレバ、中六男ヲバ、日ノ大将軍河内判官ニゾ奉ラレケル。判官ハ、心ノビタル武者ナレバ、御料食間ニ中六ヲバ早北〔にが〕シテケリ。山田殿ハ、中源次ヲ召寄セ、「鎌倉ニハ、イカゞ云」。有ノ儘ニ申テケリ。其後ニ権八ニ預ラル。森堤〔もりのつつみ〕ニテ遂ニ頸切テ懸タリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e18148ac5d76108499d797479633a933

というもので、「山田殿」と「遠江井助」がそれぞれ敵方に送った斥候同士の騙し合いという矮小な話です。
慈光寺本作者が何故にこんな話を長々と書いているかというと、それは「山田殿」が「道理有ケル武者」であるのに対し、「河内判官」藤原秀澄は「心ノビタル武者」だと言いたいからですね。
これも歴史上に実在した秀澄への評価というよりは、立派な「山田殿」の引き立て役・悪役として慈光寺本作者自身が造形した秀澄への評価となります。
「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」への私の評価は、もちろん「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)ですね。
なお、慈光寺本における藤原秀康と秀澄の比較は次の投稿でも少し行っています。

盛り付け上手な青山幹哉氏(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e124918c26563f3a23d912fcf7d373b5

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