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慈光寺本『承久記』の成立時期について(その2)

2022-12-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本『承久記』の作者がものすごく正直な人で、制作の時点で自分が得ていた全ての情報を用いて正確無比な記述を試みた、という仮定が正しければ、慈光寺本は1240年までの成立したということになりますが、実際はどうなのか。
血湧き肉躍る誇張表現も多い軍記物語の作者が、そこまで正直者なのか。
ま、私も「侍従殿」のエピソードについて、慈光寺本の作者が成立時期を誤魔化すために、意図的に挿入したものとまで強く疑っている訳ではありません。
しかし、普通の古記録・古文書と異なり、歴史物語は作者によって入念に構成された創作物であり、どの部分が正確な事実の記録で、どの部分が創作なのかを厳密に区別することは極めて困難です。
そのため、作品内部の僅かな記述を手掛かりに作品の制作時期を推定して行くという手法は、そうした手掛かりに作者による意図的な改変が含まれていたら機能しなくなります。
作品は作者が自由に作れる世界ですから、作品内部の僅かな記述をめぐってあれこれ想像しても、結局は観音様の掌の内側を飛び回っている孫悟空になりかねません。
これが内部徴憑で作品の成立時期を探ろうとする手法の根本的・原理的な欠陥ですね。
さて、野口実氏は「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」の「はじめに」で、「本稿は『 承久記』諸本のうち、最古態本とされる慈光寺本について、歴史資料としての側面から検討を加えることを目的とするものである」とされます。(p46)

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1917/1/0160_018_003.pdf

そして、第一節「従来の研究における慈光寺本の評価」に入ると、前回投稿で引用した部分の後、

-------
 東国武士の描かれ方については、松尾葦江「承久記の成立」( 同『 軍記物語論究」若草書房、一九九六年)が、慈光寺本には京都の王権に決して全人格的に隷従しては行かない東国武士の生態が描き出されていて、古態性として評価されることが多いことを述べており【後略】

 なお、荻原さかえ「 慈光寺本『 承久記』における政子呼称に関する一考察」(『駒澤国文』第三四号、一九九七年)は、慈光寺本において『蒙求』に見える「孟光」が政子の姿に重層化された点に注目するが、これは中世前期における妻の地位に関する歴史学の成果と照合すれば、慈光寺本の古態たることを示す根拠の一つとなるものとなるのではなかろうか。
-------

といった具合に(p48)、「古態性」を極めて重視された指摘を重ねた上で、

-------
 以上、本稿の意図に基づいて、しかもまったく表面をなぞったに過ぎないが、慈光寺本『 承久記』に関する研究史を概観してみた。鎌倉時代政治史研究の立場からこれらの成果の中で関心が持たれるのは、言うまでもなく、その成立時期の古さやイデオロギーの束縛を受けていないという史料としての純粋さ、そしてその成立に三浦氏関係者が関わっている可能性のあることである。まさしく、この慈光寺本こそ承久の乱解明のための基礎的な史料足りうるものであり、鎌倉御家人中唯一、北条氏に対抗しうる実力を有したとされながら不明な点の多い宝治合戦以前の三浦氏の幕府内における位置を再検討する上で、重要な役割を果たしうると思われるのである。
-------

とされ(p49)、慈光寺本の「成立時期の古さやイデオロギーの束縛を受けていないという史料としての純粋さ」を強調されます。
しかし、ごく素直に考えれば、「古態」かどうかは、当該史料が事実の記録として正確かどうかとは別問題で、偏った見方をする人が書いたら、どんなに「古態」であっても、その史料は事実の記録としては信頼性に乏しいものとなります。
諸本間の細かな異同はさておき、巨視的に慈光寺本の最大の特徴を考えると、やはり勢多・宇治の合戦を無視し、尾張・美濃の戦闘描写しか存在しないことが第一です。
承久の乱の経緯を知っている人が素直に書いたら、宇治川合戦を無視するなどありえません。
従って、常識的な見方をする人が慈光寺本以外の本(の元となった一番最初に成立した本)を書いたあと、いやいや尾張・美濃の戦闘こそ重要なのだと考える特異な立場の人が自己流に修正したのが慈光寺本だ、とする方が自然ではないか、と私は考えます。
また、慈光寺本は他の諸本に比べて余りに面白エピソードが多すぎます。
これも慈光寺本が一番最初に成立して、他の諸本が慈光寺本から面白エピソードを丁寧に削ぎ落した、と考えるよりは、慈光寺本以外の本(の元となった一番最初に成立した本)の成立後、それに飽き足らない慈光寺本の作者が面白エピソードを追加的に満載した、と考える方が自然ですね。

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慈光寺本『承久記』の成立時期について(その1)

2022-12-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

日下力氏の『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)を入手してパラパラ眺めてみたのですが、慈光寺本『承久記』の成立時期そのものに関係する記述はそれほど多くありません。

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自らの敵を討ち取ることが誉れであると同時に,あらたな悲しみの輪廻のはじまりであることを知っていた時代,人々は何を思い物語のことばを紡いでいったのか.承久の乱以降,激動する歴史の更新のなかで,宮廷社会における平氏たちの後栄,武家社会の動向,そして一般世情を視座に,物語の生成と展開を総合的に展望する.

https://www.iwanami.co.jp/book/b265715.html

従来の研究史の整理という点では野口実氏の「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要』18号、2005)の方が簡潔で良いですね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1917/1/0160_018_003.pdf

この論文は、

-------
 はじめに
一 従来の研究における慈光寺本の評価
二 幕府東海道軍第五陣の大将軍
三 三浦義村の位置
 むすびにかえて─課題と展望─
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と構成されていますが、第一節の冒頭の研究史の部分を少し引用します。(p46以下)

-------
 『承久記』の歴史資料としての評価について、はじめて本格的に検討を加えたのは龍粛「承久軍物語の成立」( 『 鎌倉時代─上・関東─』春秋社、一九五六年)であろう。しかし、ここでは慈光寺本は取り上げられておらず、『承久軍物語』が『承久記』と『吾妻鏡』の記事を合わせて近世に成立したことを明らかにしたものであった。
 慈光寺本については、早く富倉徳次郎「慈光寺本承久記の意味─承久記の成立─」( 『 国語・ 国文』第一三巻第八号、一九四二年)が、その成立年次を「大体承久の乱の翌年の貞応元年以後貞応二年五月までの約一年間」とする説を提出していたが、これに異論をとなえたのが益田宗「承久記─回顧と展望─」(『国語と国文学』軍記物語特輯号、一九六〇年)である。すなわち、同本に「此君ノ御末ノ様見奉ルニ天照大神正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」とある記事をもって「此君」=土御門院の皇子後嵯峨天皇・皇孫後深草天皇の即位以降の成立と見るべきだとし、また作者を「鎌倉武士の立場」に求めたのである。
 これを批判・克服したのが、杉山次子「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」(『 軍記と語り物」第七号、一九七〇年)である。杉山は「末=すゑ」の用法を検討して益田の上記引用部分に対する解釈を難じた上で、成立の上限を「惟信捕縛」の記事から寛喜二年(一二三〇) 、下限は北条泰時に助命された十六歳の「侍従殿」=藤原範継の没年から仁治元年(一二四〇)としたのである。さらに、杉山は「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」(『日本仏教』第三一二号、一九七一年)において、慈光寺本に三浦氏の記述が詳しいことに着目して作者圏を源実朝室の側近だった源仲兼周辺の一団に求め、また「承久記諸本と吾妻鏡」(『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)では、慈光寺本は『吾妻鏡』とは無関係に、藤原将軍期に成立したと述べている。
-------

長々と引用しましたが、結局のところ、慈光寺本が一番古いとされるのは、杉山次子氏が指摘した、北条泰時に助命された十六歳の「侍従殿」藤原範継が存命している、という記述によるものですね。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)を見ると、この記述は、

-------
 サテ、此〔この〕人々ノ子ドモ、一々次第ニ召出シテ、同〔おなじく〕首ヲゾ切給フ。中ニモ勝〔すぐれ〕テ哀〔あはれ〕レリケルハ、甲斐宰相中将子息ノ侍従ト、山城守勢多賀児〔せいたかご〕ニテゾ留〔とどめ〕タル。侍従ハ、生年〔しやうねん〕十六歳也。六波羅ノ大床〔おほゆか〕ニ召出シテ、武蔵守見給ヒ申サレケルハ、「是ヤ、承〔うけたまは〕ル宰相中将殿ノ御子ニテオハシマス。ミメウツクシサヨ。姿・事ガラノイトオシサヨ。我子ノ武蔵ノ太郎ヲ宇治・勢多・槙島ニテ思ヒシ思〔おもひ〕ハ、イカ計〔ばかり〕ゾ。サレバ侍従殿ヲバ生〔いけ〕マイラセタリトモ、泰時ガ冥加〔みやうが〕ノアラン限〔かぎり〕ハ、別〔べち〕ノ事、ヨモ候ハジ。侍従殿ヲ切マイラセタリトモ、冥加尽〔つき〕ヌルモノナラバ、世ニアル事有ベカラズ。サラバ、トクトク侍従殿ニハ暇〔いとま〕マイラセ候。帰ラセ給ヘ」トゾ申サレケル。聞諸人〔きくしよにん〕、「サシ当〔あたり〕テハ、神妙〔しんべう〕ナル計〔はから〕ヒ哉〔かな〕」トゾ讃〔ほめ〕アヒケル。冥加マシマス侍従殿ニテ、今ニマシマストコソ承ハレ。
-------

というもので(p362)、「甲斐宰相中将」藤原範茂の子息の「侍従殿」範継(十六歳)は死罪に処せられるべきところ、その容姿の立派さを見た「武蔵守」北条泰時は、自分の息子の時氏が宇治・勢多・槙島などで戦った際に自分が息子を心配したときの気持ちを思い出して範継を釈放してあげたところ、この話を聞いた諸人は立派なご判断だと褒め称えた、という泰時讃美のエピソードですね。
このエピソードは他の諸本には見えないそうですが(脚注13)、杉山次子氏は藤原範継の没年を調べて、それが仁治元年(1240)であることを知り、「冥加マシマス侍従殿ニテ、今ニマシマストコソ承ハレ」という一文がある以上、慈光寺本が成立した時点では藤原範継は存命であり、従って同年以前に慈光寺本は成立していた、という結論を得られたのでしょうね。
まあ、一応は合理的な推論ではありますが、逆にいえば、僅かにこの一文を付け加えただけで、慈光寺本はものすごく古い本なのだ、古態を残しているのだ、という印象を与えることができる訳です。

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2020年6月の私は何故に慈光寺本『承久記』を信頼したのか?

2022-12-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本を歴史研究者がどのように評価しているかをもう少し見ておくと、細川重男氏は『頼朝の武士団』(朝日新書、2021)において、「義時と対面した忠綱は、後鳥羽院の寵姫である白拍子(アイドル歌手)亀菊(伊賀局)の所領、摂津国長江荘・倉橋荘の地頭改易を命ずる院宣を突きつけたのであった。長江荘の地頭は義時自身であった(慈光寺本『承久記』)」とされていますね。(p330)
また、高橋秀樹氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、

-------
 後白河法皇と源頼朝の時代から、朝廷が幕府に求めていたものは、朝廷の求めに応じて治安を維持し、費用の調進を請け負ってくれる、都合のいい存在としての幕府だった。院が地頭の停廃を要求しても、それを聞き入れてくれなければ、朝廷主導とはいいがたい。頼朝時代には、ほとんどの場合、地頭停廃要求は聞き入れられていた。
 ところが、後鳥羽上皇が寵愛する舞女亀菊に与えた摂津国長江荘の地頭停止を義時に要求したところ、義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ。慈光寺本『承久記』はこのことが承久の乱のきっかけだったと記している。古活字本『承久記』は義時が地頭だったとは記していないが、亀菊に与えた摂津国長江・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭停止を義時が拒んだことを理由としている点は同じである。【後略】
-------

とされていて(p99)、「義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ」と義時を地頭と断定しているような書き方でありながら、読みようによっては単に史料を紹介しているだけのようにも受け取れる微妙な書き方ですね。
坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)の場合、慈光寺本にも言及しつつ、義時とは断定しておらず、少し意外でした。
坂井著のこの点について、以前、何か書いたような微かな記憶があったので、自分のブログを検索してみたところ、2020年6月10日の投稿「慈光寺本『承久記』を読む。(その2)」において、私は、坂井著の、

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 表向きは三寅が将軍予定者、北条政子が尼将軍として幕府を代表している。しかし、後鳥羽が鎌倉に送った弔問使藤原忠綱は、実朝の生母である政子に弔意を伝えた後、義時の邸宅を訪れて長江・倉橋両荘の地頭改補要求を突き付けた。実質的に幕府を動かしているのは義時だと、後鳥羽が認識していたことの表れである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821

という記述(p135)を引用しつつ、

-------
なお、長江庄は「故右大将家より大夫殿の給はりてまします所」、即ち源頼朝から北条義時が地頭職を得た荘園ですが、坂井孝一氏の『承久の乱』では、【中略】とあって、問題の荘園の地頭が北条義時であることに触れていません。
直接の当事者が義時なのだから、義時を相手にするのは当たり前、とも言える訳で、坂井氏の書き方は自分の立論に不利な要素を意図的に排除しているような感じがします。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6596f9364d5ed04b9b546d542014a272

などと坂井氏を批判しており、これを見たときは、思わず頭を抱えたくなりました。
ま、他人に指摘されるよりは自分で発見できたのが不幸中の幸いでしたが、2020年6月の私が何で長江荘の地頭が北条義時だと思っていたかというと、どう考えても特に深い理由はなく、みんながそう言っているから、程度の認識でしたね。
ということで、「歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?」などと他人を批判していたら、めぐりめぐって過去の自分自身を批判するというコントのような展開になってしまいました。
ただ、二年半前の私と今の私は、慈光寺本『承久記』の成立年代について、現時点で国文学の研究をリードし、歴史研究者に影響を与えているらしい日下力氏について、その方法論的限界を確認している点で、大きな違いがあります。
歴史学と国文学の狭間で、国文学が主に扱っている史料について、歴史学の立場からどのように利用できるのか、その際には何に注意したらよいのかを考え続けてきた私にとって、日下氏の『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)は、軍記物語の研究者でもこの程度の認識なのか、と落胆させるレベルの本でした。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1c8071a1e7f7a7ba567218ff7d624f5

そのため、まだ『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)を見てもいませんが、おそらく日下氏の慈光寺本の成立年代論は多くの欠陥を抱えているだろうと私は予測します。
ま、その予測ははずれるかもしれませんが、日下説の論拠は丁寧に整理するつもりなので、従来、漠然と慈光寺本が古態であるから信頼できそうと思っていた歴史研究者の方々にも、それなりの判断材料を提供できるものと思います。

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歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?

2022-12-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

大河ドラマは後鳥羽院が「院宣」を有力御家人八人に送ったとするなど、完全に慈光寺本『承久記』に依拠したストーリーとなっていましたね。
ま、慈光寺本は義時を極悪非道の野心家に造型したり、山田重忠を大戦略家としたり、武田信光を「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付きなんず。弓箭取る身の習ぞかし」などと言う日和見の卑怯者とするなど、劇画的な面白さに満ちていますから、脚本家が目いっぱい活用したくなるのは理解できます。
しかし、多くの歴史研究者が、最も古態を伝えるのは慈光寺本だと信じて、やたらと慈光寺本を持ち上げるのはいったい何故なのか。
例えば、後鳥羽院の愛妾・亀菊の所領である長江荘の地頭が北条義時だったと書いているのも慈光寺本『承久記』だけですが、大河ドラマの時代考証をされた長村祥知氏は、『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)において、

-------
 いま一つの問題は、後鳥羽院領摂津国長江庄・倉橋(椋橋)庄の地頭職である。『吾妻鏡』承久元年三月九日条・承久三年五月十九日条には、後鳥羽が、寵女亀菊の申状を受けて、使者藤原忠綱を関東に遣わし、両庄の地頭職の停止を要求したが、北条義時が拒絶したとある。流布本『承久記』上にも、両庄の地頭が領家亀菊をないがしろにしたので、泣きつかれた後鳥羽が鎌倉に地頭改易を仰せ下したとある。ただし慈光寺本『承久記』上によれば、亀菊が所職を有した長江庄は院領で、長江庄の地頭は北条義時であったらしい。『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、義時が執権として鎌倉御家人の権益を保護したように描くが、むしろ義時自身が地頭職を有する所領にかんして、後鳥羽からの要求を拒絶したのが真相のようである。
-------

とされています。(p108)
呉座勇一氏も『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)において「忠綱は摂津国長江荘・倉橋荘(現在の大阪府豊中市)の地頭を解任するように要求した。両荘は、後鳥羽が寵愛する伊賀局亀菊の荘園であり、地頭は義時だった」と断定されています。(p281)
また、山本みなみ氏も『史伝北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)において、「側近の藤原忠綱を鎌倉に遣わし、実朝の死を弔うと同時に、寵愛する白拍子亀菊の所領で、義時が地頭である摂津国長江荘・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭を改補するように命じてきた」と断定されていますね。(p225)
更に岩田慎平氏も『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』(中公新書、2021)において、「忠綱が義時と面会する際に、義時自身が地頭職を務めている摂津国長江荘(大阪府豊中市)の地頭職停止を通達した(小山靖憲「椋橋荘と承久の乱」)」と断定されていますが(p164)、小山論文で長江荘の地頭が北条義時であることが解明されているのでしょうか。
私は小山論文は未読ですが、少し検索してみたところ、『Web版 図説尼崎の歴史』の「後鳥羽院政と尼崎地域」に、

-------
 ところで、この承久の乱の発火点となった長江・椋橋荘のうち長江荘の所在地は、残念ながら未詳ですが、椋橋荘は倉橋荘とも書き、現在の大阪府豊中市庄本〔しょうもと〕町付近に比定されています(注2)。この地域は、神崎川と猪名川の合流点に位置するため、早くから交通や交易活動の要衝〔ようしょう〕として発展し、諸権門によって複雑な支配・領有関係が形成されてきた場所でした。この当時も、亀菊の椋橋荘のほかに、摂関家領の椋橋荘や、二位法印尊長(注3)が領家職を持つ頭陀寺領椋橋荘などもありました。
 これらの荘園は、入り組み関係をとって存在したものと考えられますが、その実態はあきらかではありません。

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei2-1.html

とあり、筆者が田中文英氏なので信頼できる記述と思われますが、長江荘は関係史料がなくて所在地も未詳とのことですから義時が地頭だったことを示す客観的な証拠はありそうもなく、小山説も結局は慈光寺本に依拠しているようですね。
ま、小山論文を見ないことには確実なことはいえませんが、近時の若手研究者の著作を見る限り、長江荘の地頭が北条義時であったことは既に中世史学界の通説を超え、定説となっているようです。
しかし、何故にこれらの人々は慈光寺本を信じるのか。
長村氏は何故に慈光寺本が「真相」を語っていると思われるのか。
慈光寺本は義時を極悪非道の強烈な野心家として造型していますから、そうした義時像に適合的なように長江庄の地頭は義時だ、義時は私利私欲の塊りだ、と話を盛った可能性は十分にあり、むしろその方が自然ではないかと私は考えます。
正直、私には慈光寺本のような面白すぎる軍記物語を妄信するこれらの研究者は、最も古態を伝えるのは私です、という慈光寺本の「オレオレ詐欺」に引っかかっている気の毒な被害者のように見えます。
ま、慈光寺本の作者と成立年代の検討は来年行い、これらの研究者が気の毒な詐欺被害者なのか、それとも私が猜疑心の強すぎる陰険な人間なのかについて、一応の結論を出したいと思います。

※追記。
2020年6月の私は何故に慈光寺本『承久記』を信頼したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f7d97621d88d35d73046714ce3e72e5

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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その5)

2022-12-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

さて、慈光寺本『承久記』の「四方ノ逆輿」の問題に戻ると、『国史大辞典』によれば、「四方輿」は「屋形の前後左右に青簾を懸け垂れただけの吹放しの造作」の輿で、「四方輿」を「急坂・険阻の山路の際」に「棟や柱などを撤去して手輿(たごし)として用い」たものが「坂輿」ですから、「四方輿」の特定状況に限定した用い方が「坂輿」ですね。
そして、「坂輿(さかごし)」は他の史料にいくらでも出て来るのに「逆輿」は慈光寺本だけに出て来る言葉であり、「四方ノ逆輿」は「四方輿」の特定状況に限定した用い方である点で「坂輿」と共通ですから、素直に考えると、慈光寺本の「四方ノ逆輿」は「四方ノ坂輿」を転写する過程で生じた単なる誤記である可能性はけっこう高いと思います。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)の「四方ノ逆輿」の脚注には、

-------
進行方向と逆にかく輿。逆馬逆輿は罪人を送る時の作法。「先例なりとて、「御輿さかさまに流すべし」といふ」(とはずがたり四)。
-------

とありますが(p355)、「逆馬」はともかく、「逆輿」が「罪人を送る時の作法」とされる例は朝廷側には存在しないようであり、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)の記述が単なる誤記である「四方ノ逆輿」の解釈に影響を与えた可能性が高そうです。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359

ま、以上のように、私は慈光寺本『承久記』と『とはずがたり』(&『増鏡』)は全く無関係という身も蓋もない結論に達している訳ですが、仮に「四方ノ逆輿」が誤記でないのであれば、この表現は慈光寺本の作者と制作年代の問題に関わってくることになります。
即ち、「逆輿」は関東で将軍を鎌倉から追放するときの作法であり、その作法を借用すれば後鳥羽院の配流の場面がより劇的になって面白いと考えた人が慈光寺本の作者であって、かつ、慈光寺本の成立年代は、関東で当該作法が確立された時期以降、という話になります。
そして、(その4)での検討の結果、関東での「逆輿」の作法は、早くても建長四年(1252)三月、第五代将軍・九条頼嗣が鎌倉を追放された時が初例となりそうなので、慈光寺本の成立もそれ以降となるはずです。
しかし、この結論は従来の国文学界の理解と異なります。
ま、大晦日も近いので、慈光寺本の作者と制作年代の問題は来年の課題となりますが、この問題は「四方ノ逆輿」を離れてもけっこう面白そうですね。
佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号)には、「日下によれば、『保元物語』、『平治物語』、慈光寺本『承久記』、『平家物語』の原型は一二二〇・三〇年代に成立したという」とあり(p13)、注を見ると、これは日下力氏の『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)です。
ネットでは、呉座勇一氏も「慈光寺本『承久記』は『承久記』諸本の中では成立が最も古いと考えられているが、それでも成立は1230~40年頃と推定されており」と書かれていますが、これも多分日下説ですね。
久保田淳氏などはもう少し遅いとしています。

「ついに完結!鎌倉幕府方はいかにして承久の乱を制したのか?」(講談社サイト内)
https://gendai.media/articles/-/103332?page=2

私は『平家物語の誕生』は未読ですが、日下氏の『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)を読んだ感想としては、正直、日下氏は分析の仕方が甘すぎるな、と思っています。
日下氏はおそらく慈光寺本の細かな表現から制作年代を推定されているのでしょうが、こうした手法では、作者が意図的に古くみせようと思っていたら、簡単にだまされてしまいますね。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1c8071a1e7f7a7ba567218ff7d624f5

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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その4)

2022-12-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

一応の初歩的な調査の限りでは、どうも「逆輿」という表現は慈光寺本『承久記』にしか存在せず、また、流罪に際して輿を逆さまに寄せる例を記したのは『とはずがたり』が初めてで、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)にしか出て来ない話のようでした。
となると、『とはずがたり』がどこまで信頼できるか、という根本的な問題を検討する必要が生じてきます。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風小説で、あの小川剛生氏すら実在を信じている「有明の月」も架空の人物と考える立場ですが、もちろん私も『とはずがたり』の全てが虚構だと考えている訳ではありません。

「有明の月」は実在の人物なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3127914da2ef6d6d1afc9ce61dbbbaec

むしろ、作者がストーリーの骨格と関係のない細部にこだわり、背景(舞台装置)のリアリティを尊重しているからこそ、全体として、とても嘘八百とは思えないリアルな雰囲気を醸し出しているのだ、と思っています。
とすると、『とはずがたり』巻四の、

-------
 さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出で来べしとささやく。誰がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿を対の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官といひしやらん、奉行して渡し奉るところヘ、相模の守の使とて、平二郎左衛門出で来たり。
 その後先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人といふ者のいやしげなるが、藁沓はきながら上へのぼりて、御簾引き落しなどするも、いと目もあてられず。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

という第七代将軍・惟康親王配流の場面も、後深草院二条が見物する群衆の中に紛れ込んでいたかはともかく、全体としては事実の記録のように感じます。
ただ、京都の貴族である二条にとって「御輿さかさまに寄すべし」という配流の作法が「先例なりとて」(先例だとのことで)と感じられたのですから、この「先例」はあくまで東国武家社会の「先例」だろうと思われます。
とすると、この「先例」はどこまで遡ることができるのか。
『吾妻鏡』には、第六代将軍・宗尊親王、第五代将軍・九条頼嗣の鎌倉追放に際し、「逆輿」の存在もしくは不存在を推定させるような記事はありません。
ただ、第四代将軍で、退位後も「大殿」として鎌倉に残っていた九条頼経が「宮騒動」で鎌倉を追放される際には、『吾妻鏡』寛元四年(1246)六月二十七日条に「入道大納言家渡御于入道越後守時盛佐介第。是可有御上洛御門出之儀也。近習之輩多以供奉云々」、七月一日条に「左親衛被進酒肴等於入道大納言家御旅宿云々」とありますから、少なくとも「逆輿」というような露骨に殺伐とした雰囲気ではありません。

「吾妻鏡入門」(「歴散加藤塾」サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-06.htm
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-07.htm

ちなみに六月二十七日条には、追放前の九条頼経が「入道越後守時盛佐介第」に移されたとありますが、九条頼嗣の追放に際しても、『吾妻鏡』建長四年(1252)三月二十一日条に「今日。三位中將家出幕府。入御于入道越後守時盛佐介亭」とあるので、こちらは立派な「先例」になっていますね。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-03.htm

宗尊親王の場合も、『吾妻鏡』文永三年(1266)七月四日条に「将軍家入御越後入道勝円佐介亭。被用女房輿」と佐介亭に入るのは「先例」ですが、使用しているのは「女房輿」とあるのみで、「逆輿」であったか否かは不明です。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma52b-07.htm

『吾妻鏡』は宗尊親王追放で記事が終わっているので、以後は他の史料を見るしかありませんが、惟康親王の場合、『とはずがたり』で先に引用した部分の少し後に「佐介の谷といふところへまづおはしまして」とあるので、やはり佐介亭に入っていますね。
ということで、九条頼経の時に「先例」が全て揃っていればすっきりしますが、「逆輿」は別扱いの方が良さそうですね。

「越後入道勝圓の佐介の第」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/901723cd1a63e83e035a45d18dddfa9d

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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その3)

2022-12-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

大河ドラマ最終回をきっかけに「逆輿」について少し調べてみたところ、いささか予想外の展開となりました。
私としては、流罪に際して「逆輿」にすることは朝廷の古くからの慣習であって、先行研究もたくさんあるのだろうな、などと思っていたのですが、まずは調べものの定石として図書館で小学館の『日本国語大辞典』を見たところ、「坂輿」はあるものの「逆輿」の項目が存在しません。(但し、初版。第二版以降は未確認)
ちなみに「坂輿」は、

-------
さか-ごし【坂輿】《名詞》手輿の一種。山坂の小路を通行する際に四方輿の柱を除き屋形を取り去って、台だけにした輿の称。*輿車図考-上・坂輿「二水記云永正十七年十一月二十八日早旦参伏見殿今日四宮御方御入室<梶井>御登山也<略>俗中従是乗坂輿力者舁也云々」
-------

というものです。
「坂輿」はあるのに「逆輿」はないのは変だなと思って、「さか」ではなく「ぎゃく」かなと考えて「ぎゃく……」も全てみましたが、やっぱりありません。
あれれ、と思って吉川弘文館の『国史大辞典』を見ると、こちらも「坂輿」のみ、しかも「四方輿」を見よ、という指示だけです。
そこで「四方輿」を見ると、

-------
しほうごし 四方輿 
中世の貴族乗用腰輿(ようよ)の一種。屋形の前後左右に青簾を懸け垂れただけの吹放しの造作から四方輿という。上皇・摂関・大臣以下の公卿をはじめ、僧綱などの遠行の際の所用とした。四方吹放しは、高所からの眺望がよいためと、左右いずれよりも乗降しやすいためであり、ときに前面からも降りた。棟(むね)は、俗人は左右に流した庵形(いおりがた)、僧侶は唐破風(からはふ)とした雨眉形(あままゆがた)で、網代張りを例とした。輿舁きの力者(ろくしゃ)は六人で一手という。前後各三人で、中央の一人は轅(ながえ)の中に入り、綱を肩に懸けて舁き、左右両人は轅に手を副えて付随する。長途の際は手替りとして二手、または三手を召具とする。また急坂・険阻の山路の際は、棟や柱などを撤去して手輿(たごし)として用い、坂輿ともいう。『康富記』嘉吉三年(一四四三)五月二十八日条の延暦寺参向に「到雲母坂之麓、於不動堂前、撤四方輿之棟柱等、為手輿、被登山」とみえる。→輿(こし)
(鈴木敬三)
-------

とあります。
このあたりで、もしかしたら「逆輿」は慈光寺本『承久記』だけにしか出てこない言葉ではなかろうかという疑惑が浮かぶとともに、慈光寺本に、

-------
 去程〔さるほど〕ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、伊王左衛門入道御供ニテ、鳥羽殿ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ、西ノ御方・大夫殿・女官〔によくわん〕ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕にても御命尽〔つき〕サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649

とある「四方ノ逆輿」は、単に「四方ノ坂輿」の誤記ではなかろうか、という疑惑も浮かんできました。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)の「四方ノ逆輿」の脚注には、

-------
進行方向と逆にかく輿。逆馬逆輿は罪人を送る時の作法。「先例なりとて、「御輿さかさまに流すべし」といふ」(とはずがたり四)。
-------

とありますが(p355)、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)の記述が「四方ノ逆輿」の解釈に影響を与えた可能性も一応考慮した方がよさそうです。
ま、それは後でもう一度考えるとして、「逆馬逆輿は罪人を送る時の作法」が本当に存在するのかが当面の最大の問題ですが、『国史大辞典』の「輿」の項を見ても、「逆輿」への言及はありません。
ここでウィキペディアを見たところ、法政大学出版局の「ものと人間の文化史」シリーズに『輿』(櫻井芳昭著、2011)というタイトルの本があるのを知り、さっそく入手して通読してみたところ、若干のエッセイ風の雰囲気はあるものの、実に丁寧に「輿」に関する文献を渉猟して分かりやすく解説している良書でした。

-------
『ものと人間の文化史156 輿(こし)』

輿は天皇を初めとする貴人の乗用具として、古代から明治初期まで、千二百年以上にわたって用いられてきた。その延長としての神輿(みこし)は、神の乗り物として現在の祭礼にも受け継がれている。本書は、その種類と変遷を探り、天皇の行幸や斎王群行、姫君たちの輿入れ、さらには葬送における使用の実態を明らかにするとともに、輿を担いだ人々の生活や諸外国の人担乗用具にも言及する。

https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-21561-2.html

しかし、同書にも「逆輿」に関する記述はありません。
そこで、最後の希望を託して『古事類苑』「器用部二十九 輿」を見たところ、全部で63頁もあるのでちょっと確認に手間取りましたが、「逆輿」に関する記述はありません。
ということで、初歩的な調べものとしては一応の手を尽くしてみた結果、私の暫定的な結論は、「逆馬」はともかく、「逆輿」が「罪人を送る時の作法」というのは、少なくとも古代から連綿と続く慣習などではなく、『とはずがたり』に初めて出て来る東国武家社会の慣習なのではないか、というものです。

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福島県北部海岸沿い駆け足南下紀行(その3)

2022-12-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

大震災時にはもちろん至る所で道路は寸断され、特に小高区に入って太田川より南は約一年間、警戒区域として立ち入りが禁止されていたので、復興は相当遅れましたね。
小高区が立ち入り可能となった2012年4月、国道6号線の方から海岸に近づいてみましたが、村上第二排水機場の近辺は本当に荒涼とした雰囲気でした。

村上第二排水機場
http://chingokokka.sblo.jp/article/55512318.html

小高区浦尻まで進むと浦尻公会堂の近くに綿津見神社があります。
社殿は全壊状態でしたが、2014年という比較的早い時期に、地元住民の手により立派な社殿が再建されましたね。
以前、南相馬市サイトでその様子を見ることができたのですが、今は当該ページがなくなってしまい、かろうじて新潟県三条市のサイト内の「週刊避難者応援情報誌 浜通りXさんじょうライフ」160号に、2014年6月1日の落成式の様子が出ています。

https://www.city.sanjo.niigata.jp/material/files/group/2/hamadori160.pdf

浦尻・綿津見神社周辺(その1)
http://chingokokka.sblo.jp/article/55356048.html

綿津見神社に参詣してから、どのルートを進むか少し迷いましたが、なるべく海岸沿いにという当初方針に従って、林の中の狭い道(県道391号線)を進んだところ、浪江町に入ったあたりに「福島水素エネルギー研究フィールド」という立派な施設が出来ていました。
もともとこの付近は東北電力が「浪江・小高原子力発電所」の建設を予定していた地域で、原発事故により、さすがにその計画は撤回されたものの、買収が進んでいた広大な土地の利用方法として、やはりエネルギー関連の用途が目指されているようですね。

「再エネを利用した世界最大級の水素製造施設「FH2R」が完成」(東芝エネルギーシステムズ株式会社サイト内)
https://www.global.toshiba/jp/news/energy/2020/03/news-20200307-01.html

高瀬川を越えて浪江町請戸地区に入ると、請戸漁港は立派に再建されていましたが、周囲は寂しい光景が広がっていました。
請戸地区を含む浪江町の主要部は警戒区域の解除が南相馬市小高区よりも更に一年遅れ、合計二年のタイムラグがありました。

請戸漁港(その1)(その2)
http://chingokokka.sblo.jp/article/64835247.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64881599.html

それでも請戸漁港は2020年4月に新しく荷捌き施設が完成し、競りが再開されたそうで、かつての「請戸夕市」も「請戸魚市」と改称した上で復活となったようですね。

10日に「請戸魚市」 福島県浪江町の請戸漁港で12年ぶり復活 水産加工品を販売(福島民報サイト内)
https://www.minpo.jp/news/moredetail/20221205103017

以上、本当に慌ただしい行程でしたが、震災遺構の請戸小学校だけはしっかり時間を取って見学してきました。
請戸小学校からJR双葉駅周辺に行き、更に少し北に戻ってJR浪江駅周辺を歩いた後、浪江ICから常磐自動車道に入って帰路につきました。

震災遺構浪江町立請戸小学校
https://namie-ukedo.com/

なお、請戸に関する私のブログ記事はリンク先にまとめてあります。

『浪江町消防団物語 無念』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7984a749ef5a7f56e13e9bbf6b8b7536

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福島県北部海岸沿い駆け足南下紀行(その2)

2022-12-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

完全に修復された市道大洲松川線(大洲松川ライン)を走行した後、相馬市磯部地区の慰霊碑に寄ってみました。
相馬市で津波犠牲者が一番多かった地区ですね。

磯部地区慰霊碑(曹洞宗東北管区教化センターサイト内)
http://soto-tohoku.net/inorinomitisirube/f64.html

近くの高台にある寄木神社にも参詣しましたが、2012年の訪問時には修復されていた石灯籠が再び崩れてしまったようで、一番下の台座と最上部の笠が重ねられて、中間部がありませんでした。
これもやはり今年3月16日の震度6の地震の影響なのかもしれません。

「2011年夏の磯部・寄木神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/64107592.html
「2012年夏の磯部・寄木神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/64103507.html

南相馬市に入って八沢浦干拓地の功労者を顕彰した山田神社に参詣しました。
この神社はもともと八沢干拓排水機場の近くにありましたが、2012年2月、顕彰碑等のあった高台に遷座し、その際には熊本県の神社・教育関係者の尽力で仮社殿が建立されました。
その後、更に立派な社殿が建立されていますね。

山田神社(南相馬市かしま観光協会サイト内)
http://www.kashima-kankou.jp/2016/01/17/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

「山田神社遷座祭・復興祈願祭」(その1)~(その6)
http://chingokokka.sblo.jp/article/54176731.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54183853.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54187427.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54187824.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54193284.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54196146.html

ついで真野川を渡って真野川漁港と相馬野馬追の調教場でもある烏崎海浜公園に行ってみましたが、両施設とも本当に立派に再建されていますね。

真野川漁港(南相馬市かしま観光協会サイト内)
http://www.kashima-kankou.jp/2017/05/18/%E7%9C%9F%E9%87%8E%E5%B7%9D%E6%BC%81%E6%B8%AF/

真野川漁港の近くに崩壊した神社跡があって、そこで見た狛犬が妙に印象に残っていたので探してみたのですが、少し場所を移動し、新設された公会堂の近くに遷座していましたね。

「2012年6月の烏崎・津神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/77170812.html

ついで東北電力原町火力発電所の巨大な煙突を見つつ、北泉海浜総合公園(原町シーサイドパーク)に行ってみましたが、ここも本当に立派に整備されていました。

原町シーサイドパーク(「海と日本PROJECT in ふくしま」サイト内)
https://fukushima.uminohi.jp/report/haramachi/

新田川を渡って原町区雫地区に行くと、大内新興化学工業(株)の原町工場がありますが、震災後、この先が立ち入り禁止地区になってしまい、その後の復興も大きく遅れることになりましたね。
小高区に入って、村上城跡の貴布根神社に行こうかなとも思ったのですが、周辺はまだまだ整備が遅れている様子で、今回はパスしました。
村上第二排水機場は立派に再建されていましたね。

「村上・貴布根神社(その1)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55515508.html

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福島県北部海岸沿い駆け足南下紀行(その1)

2022-12-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

二日間、ブログの更新をしませんでしたが、福島県に行っていました。
先日から大雪による混乱のニュースが続いていたので、念のため、遥か昔に登山をしていた頃のシュラフ(寝袋)を車に積み込むなど万全の準備をして北関東自動車道・東北自動車道経由で向かったのですが、「中通り」を移動していただけとはいえ、雪は全然なく、ちょっと拍子抜けでした。
所用を済ませた後、宿泊先の新地町に向かいましたが、日没までに若干の余裕があったので、少し県境を跨いで宮城県最南部の山元町へ行き、立派に再建された八重垣神社に参詣しました。

八重垣神社(山元町公式サイト内)
https://www.town.yamamoto.miyagi.jp/site/kankou/5774.html

時間が遅かったので山元町震災遺構中浜小学校は外側から見るだけでしたが、すぐ近くの、西大寺叡尊塔を模して造られた「千年塔」に寄って、摩尼車を廻すなどしてみました。
「千年塔」は2012年7月に丸森町で開催された「日本石塔展覧会」の入賞作品ですね。

「千年塔」(「曹洞宗東北管区教化センター」サイト内)
http://soto-tohoku.net/inorinomitisirube/m50.html

日石展(日本石塔展覧会)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75041668d02c512d46702c27532141c0
中浜墓地跡の「古代五輪塔」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2652589d8d423016ba7a650f3151cf46

ついで磯浜漁港にも寄ってから宿泊先に向かいました。
翌日は新地町の釣師浜防災緑地公園からなるべく海岸沿いに南下することとし、原釜尾浜で「伝承鎮魂祈念館」に寄ろうとしたら、開館一時間前だったので入れませんでした。
原釜尾浜は大震災の二ヶ月後に天皇・皇后両陛下が訪問された地で、おそらくその関係の展示もあるはずですが、海辺で一時間も風に吹かれているのはつらいので、入館はあきらめました。
ちなみに天気は少し雲があるものの良く晴れていて、牡鹿半島の先にある金華山までくっきり見えていました。

「被災状況ご視察(相馬港原釜・尾浜地区(相馬市))」(宮内庁サイト内)
https://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/photo/3593

ついで松川浦大橋を渡ってトンネルを抜けたところにある夕顔観音堂に参詣し、鵜ノ尾埼灯台にも行こうとしたら、今年3月16日の震度6の地震で途中の道が崩れたのか、灯台に行く道は通行禁止でした。

大洲海岸・夕顔観音堂(「相馬観光ガイド」サイト内)
https://soma-kanko.jp/trip/oosu-yuugao/

市道大洲松川線(大洲松川ライン)は大震災で崩壊しましたが、2018年4月に再開通した後、今年3月16日の地震でひび割れや落石があって再び通行止めとなり、10月に復旧したそうですね。
今は完全に本来の快適なドライブウェイに戻っています。

「大洲海岸」(その1)~(その6)
http://chingokokka.sblo.jp/article/64054581.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64058332.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64065424.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64066160.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64070201.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/64096223.html

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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その2)

2022-12-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

まあ、結局のところ、慈光寺本にしかない記事をどこまで信頼できるか、という話となりますが、これは大河ドラマの時代考証を担当された長村祥知氏が強く主張されるところの、義時追討の「院宣」の問題と同じ状況ですね。
史実としては、北条義時追討の「官宣旨」が出されたことは間違いないのですが、『承久記』の諸本には、後鳥羽院は東国の有力御家人に七通の院宣を送ったと書かれています。
そして、慈光寺本『承久記』だけは院宣は八通だとし、かつ、その文面まで引用しています。
大河ドラマには「官宣旨」は登場せず、「院宣」だけ、しかも八通だったので、長村説をそのまま採用した内容になっていましたね。
さて、古文書学に疎い私は、長村氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)を読んで、いったんは長村説に納得してしまいました。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

しかし、呉座勇一氏が『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)で長村説を批判されているのを知り、過去の自分の投稿を読み直してみて、現在では、やはり院宣は慈光寺本作者による創作と考えるのが正しいのではないか、などと思っています。
呉座説の骨子はリンク先で読めます。

「ついに完結!鎌倉幕府方はいかにして承久の乱を制したのか?」
https://gendai.media/articles/-/103332?imp=0

ところで、慈光寺本の特徴の一つとして、義時が極悪非道の強烈な野心家として造型されている点が挙げられます。
即ち、実朝の横死を知った義時は、「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」(p304)と考えます。
そして、泰時からの勝利の報を聞くと、「是見給ヘ、和殿原。今ハ義時思フ事ナシ。義時ノ果報ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生マレテリケル」(p352)などと喜んだりします。
要するに義時はものすごく嫌なタイプとして描かれていますが、他の諸本ではそんなにひどく描かれている訳ではないんですね。
そして、「逆輿」エピソードは、こうした義時像とは極めて親和的です。
まあ、私自身は慈光寺本の義時像はあまりに戯画化されているような感じがして、全くリアリティを感じることはできません。
そのため、「逆輿」エピソードもあまり信頼できないですね。
なお、一般論として、慈光寺本は諸本の中で最も古く、従って比較的信頼できるのだ、みたいなことを言われる人もいますが、古いといっても、土御門院配流の記事で「此君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」との言い方は後嵯峨践祚を知っているように見えるので仁治以降、という話です。(久保田淳解説、p611)
二十年以上経っていたら、事実の記録か否か、という観点からは、他の諸本とたいして変わらないような感じがしますね。
以上、あまりまとまらない議論でしたが、「逆輿」の慣習がどこまで遡るかなど、もう少し知識を深めてから、改めて検討してみたいと思います。
なお、『とはずがたり』には、鎌倉幕府第七代将軍惟康親王の鎌倉追放の場面に、

-------
 さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出で来べしとささやく。誰がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿を対の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官といひしやらん、奉行して渡し奉るところヘ、相模の守の使とて、平二郎左衛門出で来たり。
 その後先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人といふ者のいやしげなるが、藁沓はきながら上へのぼりて、御簾引き落しなどするも、いと目もあてられず。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

とあって、「逆輿」での流罪ですね。
証言者が後深草院二条だという問題はありますが、さすがにこんなところでは嘘はつかないだろうと思います。
この記事は『増鏡』にも、

-------
 其の後いく程なく鎌倉中、騒がしき事出できて、みな人きもをつぶし、ささめくといふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕まつる男・女いと心細く思ひ嘆く。たとへば御位などのかはる気色に異ならず。
 さて上らせ給ふ有様、いとあやしげなる網代の御輿をさかさまに寄せて乗せ奉るもげにいとまがまがしきことのさまなる。うちまかせては都へ御上りこそ、いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かくあやしきはめづらかなり。

http://web.archive.org/web/20150513074932/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-koreyasushinno.htm

という具合いに引用されています。
『とはずがたり』によれば、「先例」として「御輿さかさまに寄すべし」とのことですから、第五代将軍・藤原頼嗣、第六代将軍・宗尊親王も「逆輿」だった可能性が高いですね。

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後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)

2022-12-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

先日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終回では、後鳥羽院は「逆輿」で配流されていましたが、あれは慈光寺本『承久記』に基づくストーリーですね。
慈光寺本を底本とする『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)には、

-------
 去程〔さるほど〕ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、伊王左衛門入道御供ニテ、鳥羽殿ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ、西ノ御方・大夫殿・女官〔によくわん〕ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕にても御命尽〔つき〕サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。【後略】
-------

とあります。(p355)
『吾妻鏡』には逆輿云々はありませんし、『承久記』の諸本全てを確認した訳ではありませんが、どうも慈光寺本特有の記事のようです。
後醍醐天皇の場合はどうだったのかな、と思って、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)を見たら、

-------
  先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事

 先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
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とあります。(p195以下)
もちろん『太平記』は脚色の多い軍記物語ですから、どこまで正確かは分かりませんが、「先帝御遷幸の宣旨」という表現は刑罰としての流罪ではないようにも読めて、ちょっと面白いですね。
実際、律令法には天皇を流罪にする規定など存在するはずがないのですから、少なくとも律令法の具体的条文に基づく刑罰ではありえません。
さて、『太平記』が正しく「承久の例」を伝えているのであれば、後鳥羽院の場合も、新帝(後堀河)による「先帝御遷幸の宣旨」があったのでしょうか。
ここで『吾妻鏡』を見ると、承久三年(1221)六月十五日に泰時が六波羅に入って以降、六月中に京都と鎌倉で合戦首謀者への処分についてのやりとりがあり、七月に入ってから決定済みの処分を実行する一方、九日に新帝践祚、十三日に後鳥羽が鳥羽行宮から隠岐に出発、というスケジュールです。
興味深いのは七月一日条の「合戦張本衆公卿以下人々。可断罪之由宣下間」という表現で、公卿・殿上人の処罰は「宣下」、即ち天皇の命令によりなされた、という形式になっています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

まあ、「宣下」といっても、この時点での天皇は僅か四歳の仲恭天皇(1218-34、九条廃帝、「仲恭」の諡号が定められたのは明治三年)ですから、本当に形式的なものですが。
そして、八日に「持明院入道親王(守貞)」が天皇在位の経歴がないにもかかわらず「治天の君」として扱われることになり、翌九日、新帝(後堀河)の践祚となります。
その後、十三日に「上皇自鳥羽行宮遷御隱岐国」となっているので、仮に『太平記』に言う「承久の例」が正しいのであれば、これは新帝による「先帝御遷幸の宣旨」に基づくものとなりそうです。
『吾妻鏡』の表現も、刑罰としての配流と明示している訳ではなく、価値中立的な「遷」、即ち空間的移動と言っているだけですね。
ここで、「逆輿」=刑罰としない論理を考えてみると、前の天皇の御在位中にはいろいろあったかもしれませんが、新しい天皇の私に謀反を起こされた訳ではなく、私は単に後鳥羽院に御引越を願っているだけで、別に罪人と扱っている訳ではありませんよ、みたいな理屈も可能だと思います。
保元の乱の場合、崇徳上皇は後白河天皇と正面から敵対し、敗北して、後白河天皇の命令により讃岐に流されたのですから、刑罰であることは明らかですが、新帝を置けば上記のような理屈が一応成り立ちますね。

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その5)

2022-12-21 | 唯善と後深草院二条

京都では四条天皇の皇位を継ぐのは順徳院皇子だと考える人が大半で、親幕府派筆頭の西園寺公経すらそう予想していたにもかかわらず、何故か四条隆親は、鎌倉からの使者・安達義景が京都に到着する以前に、既に土御門院皇子に決定済みであることを知っていて、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏とすべく準備万端整えていた訳ですが、まあ、隆親の情報源は北条重時なんでしょうね。
寛喜二年(1230)以来、六波羅探題北方に在任していた重時は京都情勢を熟知しており、同母姉妹の竹殿の夫、土御門定通と相談の上、次の天皇は土御門院皇子にすべきだと判断し、鎌倉の泰時も間違いなく自分の判断を承認するだろうとの予測の下、新帝即位の準備の一環として隆親に里内裏の件を伝えていた、ということだろうと思います。

北条重時(1198-1261)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82
竹殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF

隆親と足利能子の結婚時期ははっきりしませんが、「准北条一門」で鎌倉在住の能子と、富裕な四条家当主の隆親の結婚を仲介できる人は実際上相当限定され、それは重時と竹殿だろうと私は想像します。
そうであれば、足利能子が寛元元年(1243)に隆顕を生んで間もなく死去したにもかかわらず、隆親が坊門信家女が生んだ房名(1229-88)に替えて隆顕を嫡子とした理由も説明しやすくなります。
結婚に際しては、当然に能子が産むであろう男児を嫡子とすることが関係者間で了解されていたでしょうし、能子が死んだからといって隆顕を粗略に扱えば、結婚の仲介者である重時・竹殿の機嫌を損ねることになってしまいますからね。
とにかくこの結婚で、隆親は「准北条一門」と強い縁を結ぶことができた訳であり、それは後嵯峨親政・院政下での隆親の政治的立場を強固にすることに相当役だったものと私は考えます。
なお、足利義氏の娘の名前が何故に「能子」なのかという問題について、私はあれこれ考えてみたことがあります。
足利家の系図を見ても祖先や周囲に「能」の字の人がいないのですが、「義」と「能」は「よし」という読み方は共通です。
角田文衛氏が女性名の訓読みに執拗にこだわった点については、女性名は正式な書類に名前を記す必要が生じたときに父親の名前等から一字を取ってつけたものであって、実際にその名で呼ばれることなどないのだから読み方など気にする必要はない、という批判が有力であり、私もそれは正しいと思います。
しかし、実際に名前をつける必要が生じた場合、父の二字だけでは選択肢が限られ、娘が何人もいるような場合には不便ですから、読み方が同じの他の字をつける、ということも考えられるように思います。
久保田淳氏の研究によれば、後深草院二条の母の名前は「近子」らしいのですが、これも父・隆親の「親」と「近」が「ちか」と読む点で共通だからではないかと思います。
二条の母の場合、一番シンプルなのは「親子」ですが、後嵯峨天皇の周辺には、源通親の娘で「大納言二位」と呼ばれていた「親子」という女性もいたので、この人と名前が重なることを憚ったのかもしれません。

四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b00ceaddfb29cda1d297e2865a68055a
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
二人の「近子」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cab06b8079de0a02dcc067ca30d4c4bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59c49697176f8ff9a16a3917041217e6

また、久保田氏は二条の「母方の祖母権大納言」が足利能子であり、二条の母「近子」と隆顕が同腹とされています。
『尊卑分脈』に「女子 従三位」とある女性が『天祚礼祀職掌録』に出てくる「近子」と思われますが、「近子」は寛元四年(1246)の後深草天皇即位式に褰帳なので、少なくともこの時点で十代後半にはなっているはずです。
とすると、「近子」は房名と同腹と考えるのが自然です。
房名と同腹であれば、「近子」の父はパッとしない経歴であっても、祖父(実は曽祖父)の忠信は権大納言ですから、「近子」の女房名が「権大納言」というのは極めて自然ですね。
他方、足利義氏の周辺には「権大納言」の官職を得た人がいるはずもありません。
ということで、久保田氏の見解とは異なり、隆親娘の「大納言典侍」=「近子」は坊門信家の娘と考えるべきです。

二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その4)

2022-12-20 | 唯善と後深草院二条

四条天皇の頓死から北条泰時使者の安達義景が京都に到着し、土御門院皇子の推挙(実質的には命令)を通知するまでの短い時間に、四条隆親がいち早く正確な情報を入手し、「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏に提供できた理由は、やはり足利義氏女・能子を妻としていたことが大きいように思われます。
隆親にとって能子は藤原範茂女・坊門信家女に次ぐ三番目の正室で、最初の妻は父・範茂が承久の乱の「合戦張本」の一人として殺されてしまった結果、隆親から離縁されます。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年七月十八日条によれば、甲斐宰相中将・藤原範茂は名越朝時に預けられて東海道を下り、足柄山の麓で斬罪に処せられるべきところ、五体が揃っていなければ来世の障りになるだろうという本人の希望で、替わりに早河に沈められた、とのことで、なかなか悲しいエピソードですね。

藤原範茂(1185-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E8%8C%82

そして、二番目の妻・坊門信家女との間には房名(1229-88)が生まれており、当初、隆親は房名を嫡子と定めていました。
しかし、能子が隆顕(1243-?)を生むと、隆顕が嫡子となります。
四条家と足利家がどのような経緯で結びついたのか、私にとっては長い間の謎だったのですが、北条家が間に入っていたのではなかろうか、というのが現在の私の仮説です。
足利義氏と北条家との関係について、花田卓司氏は「鎌倉初期の足利氏と北条氏─足利義兼女と水無瀬親兼との婚姻を手がかりに─」(元木泰雄編『日本中世の政治と制度』所収、吉川弘文館、2020)の「はじめに」において、

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【前略】
 しかし、前田治幸氏は足利氏と北条氏との対立・緊張関係を所与の前提とする通説的理解に疑問を呈し、通説とは逆に鎌倉後期の足利・北条両氏は協調関係にあったとの見方を示した。本稿は、足利氏は北条氏と対立する相手ではなかったという視角に学びつつ、鎌倉初期における両氏の関係をあらためて考えようとするものである。
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とされた後、第二節に入って、

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 二 足利義氏と北条政子・義時

 足利義兼は建久六年(一一九五)に出家・隠遁し、頼朝と同じ正治元年(一一九九)に没した。義兼のあとを継いだのは、時政女(北条政子の同母妹)が生んだ義氏である。
 義氏は建長六年(一二五四)に六六歳で死去したとされるので、生年は文治五年(一一八九)となる。義兼が死去した時点では一一歳という若年で、元服以前だったと考えられる。なお、生母時政女の没年は不明だが、義兼から密通の嫌疑を受けて死去したと伝承されており、義兼の生前に没していた可能性がある。
 元服以前に父を亡くした義氏とその姉妹がいかなる境遇にあったのかをうかがえる史料はないが、佐藤雄基氏は、元久二年(一二〇五)六月の畠山重忠の乱で北条義時率いる軍勢の先陣・後陣を除く筆頭に義氏の名が挙がり、また、建保元年(一二一三)五月の和田合戦でも北条泰時・朝時とともに義氏が将軍御所の防衛にあたっている点から、義兼の死後、義氏は北条政子・義時の保護下にあったと述べている。後年、義氏は政子の十三回忌にあたり高野山金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六大日如来像を造立・安置して実朝と政子の遺骨を納め、美作国大原保を寄進している。これは政子が若年の義氏の保護者であった縁によると考えられる。
【中略】
 『吾妻鏡』などには、足利義氏が北条氏一門と行動をともにし、親密な交流があったことをうかがわせる記載がみられる。特に、義氏が北条時房の後を承けて武蔵守に、同じく義時の後に陸奥守となり、時房没後には政所別当に就任し、泰時が没した翌年の寛元元年(一二四三)正月垸飯では第一日の沙汰人を務めていることなどは象徴的である。義時の遺領配分とあわせて、義氏に対する厚遇は北条政子・義時の保護下で義氏が「猶子」的な扱いを受けていたことを示唆する。政子・義時に後見されて成長した義氏は、時房や泰時に准じ、時に彼らの代役となり得る「准北条一門」とでもいうべき存在だったと考えられる。
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と書かれていますが(p53以下)、高野山金剛三昧院の件など、確かに義氏が政子・義時の「猶子」的な、「准北条一門」的な立場でないと説明が困難ですね。
義氏の立場がこのようなものであれば、四条隆親は決して北条氏から独立した有力御家人である足利義氏と結びつきたいと考えたのではなく、北条氏との関係を強化するために足利義氏に近づいたと考えることができそうです。
あるいは、北条氏が四条隆親と足利義氏女の結婚を斡旋・仲介したと考える方が自然なのかもしれません。
このように考えると、具体的に二人を結び付けた存在として、六波羅探題北方の北条重時と、その同母姉妹である土御門定通室の名前が浮かんできます。
実は、能子は隆顕を生んだ翌寛元二年(1244)三月一日以前に死去していて(『平戸記』同年三月二日条)、足利家との縁が弱まった後、なお隆親が隆顕を嫡子とした理由も謎だったのですが、北条氏との縁こそが重要だったのだと考えれば、これも自然です。

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)

2022-12-19 | 唯善と後深草院二条

四条隆親の生年は、『公卿補任』の早い時期の記録の方が信頼できそうなので、建仁二年(1202)としておきます。
さて、承久の乱に際し、武装して後鳥羽院に近侍していた隆親(1202-79)が何故に処罰を免れたのかについて、姉の四条貞子(1196-1302)が親幕府派の西園寺実氏(1194-1269)室だったから、という理由が考えられます。
秋山論文の注(104)によれば、

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 嫡男降親も早くから後鳥羽に接近し、院御給で正五位下、従四位上に叙されたのだが、興味深いのは彼が承久の乱の最中、後鳥羽の比叡山御幸に武装して供奉したことである(『吾妻鏡』承久三年六月八日条)。ちなみにその時同行したのは、源通光、藤原定輔、親兼の兄弟、親兼の息子信成、尊長という院近臣ばかりであったが、承久の乱の張本の一人と見做された尊長は別としても、隆親以外は皆乱直後の七月二十日に恐懼に処された(『公卿補任』)。あまつさえ親兼、信成は六波羅に拘禁され、その際親兼は出家してしまった(同上)。通光もその後ずっと籠居し、安貞二年になってようやく出仕している(同上)。隆親一人何の処分もうけず、乱後も順調に昇進したのである。彼が処分を免れ得たのは姉貞子が幕府と親密な西園寺実氏の妻であったことによるのかもしれない。(但し貞子所生の長女姞子が嘉禄元年か二年の誕生であるので〈『女院次第』『五代帝王物語』『平戸記』仁治三年六月三日条など〉この婚姻が乱以前に成立していたかどうかには疑問が残る。)

http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm

とのことで、西園寺実氏と姉・貞子との結婚時期という問題が一応ありますが、しかし、姞子(大宮院)が嘉禄元年(1225)生まれとして、その時に実氏は三十二歳、貞子は三十歳ですから、当時の上級貴族の結婚年齢としては高すぎます。
従って、二人の結婚自体はかなり前で、ただ子供が暫く生まれなかった、と考えるのが良さそうですね。
こうした西園寺家との関係の他に、承久の乱の時点で隆親は二十歳という若年であり、実際上の加担の程度が低かった、という事情も加味されたと思われます。
後鳥羽の比叡山御幸に同行した源(久我)通光など、上卿として義時追討の官宣旨に直接関与したのですから、殺されなかっただけマシかもしれません。
ま、それはさておき、四条家は承久の乱の影響を受けることなく、後堀河・四条天皇期にも北白河院(1173-1238)と密着して権勢を誇りますが、では何故、皇統が大きく変化した後嵯峨践祚後にも権勢を維持し得たのか。
再び秋山論文の引用となりますが、「〔四条天皇が〕嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している」に付された注(112)によれば、

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『百練抄』嘉禎四年二月十一日条。しかしこの直後の閏二月、隆親は「禁中狼籍事行不調事等之故」突然権大納言に任じられる代わリに近習を放逐されてしまった(『玉蘂』閏二月十五日条)。すなわち乳父をやめさせられてしまった訳である。こののち四条天皇生存中は殆ど朝廷の表舞台に登場しなくなるのだが、仁治三年正月、四条が急死し後嵯峨天皇が推戴されるとその近臣として再浮上した。しかも妻能子(足利義氏女)は後嵯峨の乳母と称されている。この点に関して深く言及することは避けるが、とりわけ注目されるのは四条が死去した閑院内裏に替って彼の冷泉万里小路殿が新内裏となったことである。それは幕府の使者が上洛する以前に内定していたようなので(『平戸記』仁治三年正月二十日条)、一早く彼が後嵯峨の許に参じたことがわかる。その後は後嵯峨の皇嗣久仁(後深草)の乳父となリ(久仁の母姞子は隆親の姪)、建長二年には家格を破って大納言に進み、また院の評定衆に加えられ、更に後深草院の執事別当となった(『民経記』正元元年十一月二十四日条)。かくして『とはずがたり』の著者二条の外祖父として知られる隆親は、『正元二年院落書』に「四条権威アリアマリ」と書かれるに至るのである。
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とのことで、嘉禎四年(1238)に隆親は何かトラブルを起こして乳父からはずされてしまいますが、結果的には、むしろこのトラブルで後高倉院の系統と距離を置いたことが良かったようですね。
仁治三年(1242)正月五日、四条天皇は近習や女房を転ばして笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、そのまま寝込んで九日に死んでしまいます。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca597edec3cd8bc67c6d4495b5080308

歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいと思いますが、僅か十二歳なので四条天皇に子供はなく、これで後高倉院の系統は断絶してしまいます。
そこで次の天皇を、後鳥羽院の系統のうち、土御門院皇子と順徳院皇子のいずれにするかが問題となりますが、承久の乱の結果、朝廷独自で皇嗣を決定することはできず、鎌倉の判断を待ちます。
この経過について『増鏡』や『五代帝王物語』には面白いエピソードが載っていますが、実際には朝廷対応の経験が長く、沈着冷静な六波羅探題北方・北条重時(1198-1261)が義兄・土御門定通(大江親広と離縁後、定通と再婚した妻が「姫の前」所生で、重時と同母)と相談した上で作成した対処案、即ち土御門院皇子案を執権・北条泰時に提示し、それを泰時が了解したということだと思います。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c9b7d4f4b0df1e7801da6e5240cea61
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

そして四条隆親は新しい天皇が土御門院皇子となることをいち早く察知し、幕府の使者が上洛する前に、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏として提供すると申し出て内定を得たのだそうで、まことに機敏な対応ですね。

「巻四 三神山」(その5)─後嵯峨天皇践祚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d01cc8b88bb37aacbf623cc62fd4e6d5

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