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「広沢兵助と近かった」(by 安丸良夫)は本当なのか?

2016-02-29 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月29日(月)10時44分39秒

ネットで神仏分離・廃仏毀釈について熱く語っている人を観察してみると、実際には安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書、1977)くらいしか読んでいなさそうな人がけっこう多くて、安丸氏の影響力はすこぶる強いですね。
松岡正剛氏は、

--------
 明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の実情がどういうものであったかということについては、それなりに詳しい資料はある。辻善之助と村上専精と鷲尾順敬による『明治維新神仏分離資料』全10巻(最初は全7巻)という全国的な調査にもとづいた資料はとくにすばらしい。名著出版から新版が刊行されていて、ぼくも図書館でざっと見てきた。
 もちろん研究書もある。村上重良の『国家神道』から羽賀祥二の『明治維新と宗教』にいたる研究は、すぐれた問題提起や問題整理をした。圭室(たまむろ)文雄の『神仏分離』や安丸良夫の『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈』といった読みやすい新書もある。とくに安丸の著書は短いものながら、明治の神仏分離・廃仏毀釈が「日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換をもたらした」という視点で貫かれていて、たんに神仏混淆の禁止がおこったというより、「権威化された神々の系譜の確立」こそが神権国家樹立のための神仏分離政策の狙いだったことを強調した。安丸にはこれを発展させた『近代天皇像の形成』もある。

http://1000ya.isis.ne.jp/1185.html

と言われていて、松岡氏の主張の意図とは別に、安丸氏の見解が広く受け入れられている精神的土壌を窺うことができます。
なお、どうでもよいことですが、『明治維新神仏分離資料』ではなく、『明治維新神仏分離史料』が正しくて、「最初は全7巻」も正しくは5巻ですね。
さて、その安丸氏は『神々の明治維新』において、林太仲について、

--------
 富山藩は、明治三年十月に藩政の大改革をおこない、林太仲を大参事に抜擢した。太仲は、幕末に長崎で学び、明治元年には貢士となった。彼はまた、長州藩出身の参議で、神道国教主義的な教化政策に熱心な広沢兵助と近かった。太仲の藩政改革は、四十歳以上の者は時代の進運に暗いからことごとく到仕させる、というようなはげしいもので、銃砲を整備するために金具を集めるというのが、廃仏毀釈の理由とされた。
--------

と述べています。(p107)
広沢兵助(真臣、1834-1871)は林太仲が富山藩で権力を握ってから間もなく、明治四年一月に暗殺されてしまった人で、執拗な犯人捜査にもかかわらず事件は迷宮入りですね。
ま、それはともかく、安丸氏がどのような史料から林太仲が「神道国教主義的な教化政策に熱心な広沢兵助と近かった」と断定されたのか、私はその事情を知らないのですが、私が調べた限りでは浄土真宗側でそういうことを言っている人がいる、程度の話のように思います。
『富山市史』でも、「彼の人物評価については、開明派とか、長崎遊学中長州の広沢真臣参与につき平田神学に心酔したともされる」(p81)という具合に、あまり自信のなさそうな書き方ですね。

「一枚の畳に五人つまるばかりにあいなり候」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aee1a66debd1c4dae71a866bd83e8df1

仮に林太仲と広沢真臣の交友が史料で基礎付けられるとしても、一個人の中で急進的な「開明派」と「平田神学」が思想的に同居するのはなかなか困難ですから、林太仲が「平田神学に心酔」したといえるかは相当に疑問です。
また、本当に安丸氏の言われるように林太仲が「神道国教主義的な教化政策に熱心な広沢兵助と近かった」としても、広沢だって革命家・政治家として多面的な活動を行っていたわけですから、このことから直ちに林太仲も「神道国教主義的」な人間だったと断定するのは、私にはちょっと躊躇われます。
ま、別に安丸氏がそう断定している訳ではありませんが、安丸氏の文章を読んだ人の大半は、ああ、富山藩も「神道国教主義」か、要するに平田国学か、と思うでしょうね。

>筆綾丸さん
「謎の女・メルケル」の後半、筆綾丸さんの投稿に触発されて私の頭に浮かんだことを書いただけなのに、まるで筆綾丸さんの見解への反論のような書き方になってしまっていて、申し訳ありませんでした。
『薔薇の名前』などについては、また後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Merkel-Raute 2016/02/28(日) 19:08:08
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
『世界最強の女帝 メルケルの謎』にメルケルの斜方形の話が出てきますが、エーコに敬意を表して『薔薇の名前』の映画をDVDで観ていると、バスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)が修道院長との初対面の場面で、この斜方形の仕草をしているのに気づきました。ウィリアムは頭脳明晰な修道士という設定なので、メルメルに通ずるものがあります。「対称性へのある種の愛 (eine gewisse Liebe zur Symmetrie)」というのは物理学者らしい自己分析で、菱形の半分は旧東ドイツ、もう半分は旧西ドイツ、などと愚かなことを云わないところもいいですね。

舞台は1327年の北イタリアですが、なぜアヴィニョン捕囚の時期(1309 - 1377)なのか、とか色々考えると、『薔薇の名前』はよくわからん話だ、と思いました。日本では、後醍醐天皇の治世ですね。

映画のエンドクレジットに、歴史の考証として、アナール学派の巨匠ジャック・ル・ゴフの名があり、びっくりしました。

長崎「言定」が「言霊」学者になったのは、「言霊」の影響としか考えられないものがありますね。

平等主義のトップランナーにはなれなかったけれども、仰る通り、「識字率の向上により、幕末にはほぼ脱宗教化が済んでいた」のでしょうね。
コメント (2)
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母方はオランダ外科医の長崎家

2016-02-28 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月28日(日)10時26分1秒

未だに林太仲の後半生が見えてこないのですが、前半生については意外なことに平田学派との接点などなくて、むしろ圧倒的に洋学の影響を受けていますね。
木々康子氏『林忠正』のつづきです。(p14)

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長崎追放と新知識
 事件後、林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立った。宗藩に頭を押えられ、狭い領国に盲目同然に縛られていた若者は、長崎に溢れている新知識や海外の知識に驚愕した。長崎言定の親友高峰精一の息子の譲吉も、加賀藩士五十人とともに長崎に送られ、ポルトガル領事の武器商人ロレイロのもとで学んでいた。次いで譲吉はアメリカ人宣教師フルベッキ博士のもとに移ったので、太仲はそれらの西欧人とも知り合い、西洋事情の片鱗を学ぶことができた。ここでは土佐の坂本、中岡、佐賀の大隈、大木、副島などの俊秀が集まって、熱い討論を交していた。
 彼らは各藩での海軍の結成、陸軍の改革を急務の問題と主張していた。長崎での薩摩藩は、すでに海軍生は異人服を、陸軍生は銃を担うという改革を終えていた。長州、薩摩の強さは、この軍制改革の結果と認められていた。攘夷論など、もはや空論であった。偉大な祖父長崎浩斎が垣間見ていた西洋や、伯父長崎言定から教えられた西洋の政治思想が、実現可能なものとして太仲の眼前にあったのである。その実践に至るまでの大きな苦難や犠牲や試行錯誤の数々などには、考えも及ばなかった。そして長崎ではもう、オランダ語も英語も古く、フランス語が主流になっていたのだった。
---------

親族関係を整理しておくと、長崎浩斎は加賀藩領高岡のオランダ流外科医で蘭学者ですが、その三人の子のうち、長女「ふき」が富山藩士林太仲(二代)に嫁ぎ、林太仲(三代)の母となります。
そして「ふき」の弟、言定は蘭学の初歩を学んだ後、「国学者、歌人、言霊学者」(p8)に転じたそうですが、幅広い分野にわたる知識人だったようですね。
また、国学といっても平田国学とは別系統ですね。
そして、この言定の次男、幼名志芸二(しげじ)が後に林太仲(三代)の養子、忠正となります。
林太仲(三代)の母方長崎家は初代の萩原孫兵衛が「元禄の頃(一七〇〇年以後)、長崎でオランダ流外科術を習い覚え、高岡で開業した」(p2)のが最初で、周囲から「オランダ医者」「長崎医者」「長崎先生」と呼ばれるようになり、孫兵衛も自ら「長崎」を名乗るようになったのだそうで、地方都市の高岡には極めて珍しい洋風一家ですね。
もともと洋学の素養のあった林太仲(三代)は、長崎で更に西洋の最新知識を吸収した訳ですね。
なお、「長崎言定の親友高峰精一の息子の譲吉」は言うまでもなくタカジアスターゼの高峰譲吉です。

高峰譲吉(1854-1922)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89

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林太仲の藩政改革?

2016-02-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月27日(土)11時49分23秒

少し脱線してしまいましたが、木々康子氏の『林忠正』に描かれた林太仲の経歴のつづきです。(p13以下)

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林太仲の藩政改革
 太仲は若い同志と謀って、早くからひそかに藩政改革を企てていた。彼らの攻撃の対象は、当時、国家老として権力を振るっていた山田嘉膳であった。数年前、経済的な困窮から脱すべく、藩は宗家に隠れて五万石の増封を図ったが、成功の寸前に秘密が宗家に漏れ、家老も自刃し、年若の藩主は発狂を理由に隠居させられた。代って宗藩から三歳の若君が、富山藩を継いだ。宗家からの圧迫はいよいよ強くなった。その騒動の中で、他国者でありながら山田嘉膳は巧妙に立ち回り、国家老までのし上がったのである。彼の存在は藩士の融和を欠き、藩内はいっそう無気力になった。
 太仲たちは彼を中心に血判の誓いを交し、先ず宗家に、嘉膳の行状を訴える直訴を試みた。しかし、藩始まって以来の、宗家に対する直接行動に驚愕した藩庁は、彼らを蟄居閉門に処した。しかし、宗藩からの処罰もない代り、彼らの訴えの効果もなく、藩政も嘉膳の処置も一向に変わらなかった。
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「藩は宗家に隠れて五万石の増封を図った」云々は分かりにくいですが、『図説富山県の歴史』(河出書房新社、1993)によれば、これは「富田兵部の自刃一件」と呼ばれる事件で、「当時富山藩政の全権を掌握していた江戸詰家老富田兵部」が「飛騨高山五万石を富山藩の預(あずかり)領とし、自ら代官たらんとし、幕府要路に働きかけていたことを宗藩が探知し、前藩主利保に密使を派遣して糾した」(p173)のだそうです。
そして宗藩から来た「三歳の若君」が前田利同(としあつ、1856-1921)ですね。
富田兵部の自刃は安政四年(1857)四月、利同の第十三代富山藩主就任は安政六年(1859)十一月で、その間にはなかなか複雑な経緯があったようですが、『林忠正』では省略されています。

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 お咎めが解けたあと、太仲たちは城下の南にある八尾(やつお)の本法寺に籠って、ひそかに次の手段を練ったが、効果ある手段は浮かばなかった。だが、同士の中で最も剣の腕が立ち、剛直な性格の島田勝摩は、仲間にも告げずに、登城する家老を襲って斬殺した。事件後、同志六人は自ら名乗り出て、直ちに金沢の公事場(審問所)へ送られた。元治元(一八六四)年八月一日、京都では禁門を巡って長州藩との闘いがあった直後のことである。
-------

結局、翌年三月に島田一人が責任を負って切腹し、他の五人は無罪放免になったそうですね。
そしてこの後、「林太仲は家老の温情によって、勤学の名目で長崎に旅立」ち(p14)、以後幕末の混乱期はずっと長崎にいたそうですが、このときに培った知識と人脈が後の出世につながった訳ですね。
ということで、「林太仲の藩政改革」という小見出しはありましたが、結局のところ林太仲は特に藩政改革を行うこともなく、長崎で時代の変化を眺めていただけのようです。
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謎の女・メルケル

2016-02-27 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月27日(土)10時16分4秒

>筆綾丸さん
昨日は二分違いのニアミスでしたね。
ご紹介の『世界最強の女帝 メルケルの謎』を読んでみましたが、西ドイツに生まれて「赤い牧師」の父と東ドイツに移り、35歳まで東ドイツで暮したという経歴はずいぶん珍しいものですね。
ただ、出自の点ではキリスト教系政党の党首になっても特に違和感はない人なんですね。
「三メートルの飛び込み台からプールにダイブするよう教師に指示された少女メルケルは怖気づき、台の縁に立ったままいつまでも飛び込もうと」せず、「授業時間いっぱいのほぼ四五分間、プールの水面を見つめ続け、何やら思案していた様子だったが、授業終了間際になってようやく、意を決して飛び込んだ」(p34)といった「運動音痴」のエピソードの数々には笑いましたが、犬をめぐるプーチンとのやりとりは妙なものですね。
ま、「メルケルの犬嫌いを知ったとき、プーチンの目は怪しく光ったに違いない」(p187)とか、メルケルがプーチンの愛犬である黒いラブラドルを怖がるのをプーチンが「どかりと椅子に座り、にやにやとしたサディスティックな笑みを浮かべてその光景を眺め」(p189)たとかいう筆者の描写も、そこまで意地悪く書くかなあ、という感じはしますが。
一番興味深いエピソードは筆綾丸さんが既に引用されたヴォルフ・ジンガー教授の講演の話ですが、これは何とも不可解で、確かにメルケルは謎の女ですね。

>江戸期の日本の識字率は世界のトップクラスだったはずなのに
平等思想として純化された訳ではありませんが、明治に入ってからの「四民平等」を可能にしたのは、やはり既に識字率の向上が達成されていたからではないでしょうか。
また、識字率の向上により、幕末にはほぼ脱宗教化が済んでいたようにも思います。
弾圧を受けていた江戸初期にキリシタンが一大勢力だったにもかかわらず、明治に入って布教に障害がなくなってからはさほど流布しなかったことは、結局のところ江戸初期と末期の識字率の違いではなかろうかという感じがします。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

Autoroute française A10 と東海道五十三次 2016/02/26(金) 11:54:57
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
メルケル首相の事情とは比較になりませんが、盛岡藩出身の原敬が首相になったときも、かなり変な感じがしたのでしょうね。それはともかく、洗礼名はダビデですか。

--------------
・・・カトリック信仰の退潮は、一八世紀にパリ盆地および地中海沿岸地方の平等主義システムの中心部で始まった。「平等主義的」脱キリスト教化の基本的なロジックは単純なものだ。要するに、読み書きを覚えた人びとが、人間に優越する神と、教区の一般信者に優越する司祭という形而上学的な仮説を拒否するのである。反対に、カトリシズムの防衛拠点ともいえる地域では、平等主義的な家族的無意識が存在せず、どんな形のそれも宗教の権威を脅かすことがなかった。
 家族的平等の地図と脱キリスト教化の地図は不完全にしか一致しない。唯一、それらの中心がどこにあるのかだけが明瞭だ。よく看て取れるのは、当初、家族構造の平等主義によって構造的に決定された脱キリスト教化の動きが、その後のコミュニケーションの主要なルートに沿って伝播したということである。脱キリスト教化の波がパリ/ボルドー軸、つまり、のちの国道一〇号線、そしてさらに高速道路A一〇号線に沿って南西部へと浸透していき、その後ガロンヌ川の流域を遡ったのが分かる。(『シャルリとは誰か?』66頁~)
--------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88_A10
パリ/ボルドー軸が、フランスの国旗で言えば、真ん中の「白(平等)」の部分に相当するわけですね。TGV(フランスの新幹線)の一つも、ちょうどこのラインを走っています。これはパリを起点とするサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路とも重なりますが、巡礼は関係ないのでしょうね。
(パリーリヨンーマルセイユという南北軸に平等主義の進展がみられなかったのは、不思議といえば不思議ですね。現在、このラインを走るA6・A7とTGVはフランスの大動脈ですが)
「パリ盆地の中心部では農村地帯の家族も核家族で、子供たちを早々と解放していた」(同64頁)とありますが、江戸期の日本の識字率は世界のトップクラスだったはずなのに、青(自由)も白(平等)も生み出せなかったのは残念なことです。東海道五十三次で、日本橋から三条大橋に向けて、白い襷(平等)が伝達される、という夢のような事件はついに起こらなかった。

南仏のイスラム教徒の墓 2016/02/26(金) 16:39:23
http://bigbrowser.blog.lemonde.fr/2016/02/25/des-tombes-musulmanes-du-haut-moyen-age-decouvertes-a-nimes/
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0148583
ル・モンドの記事に、南仏ニームで中世初期(haut Moyen Age)のイスラム教徒の墓が発見された、とあります(英語の論文は長いので読んでませんが)。12世紀のイスラム教徒の墓ならば、マルセイユやモンペリエで見つかっているが、今回のものはそれらよりずっと古く(7~9世紀)、三体の遺骨の頭部は南東即ちメッカの方を向いている・・・云々。
フランスの現在のイスラム恐怖症に対して、この墓はどんな影響を与えるのだろうか。ささやかな記事として、一般の人々には話題にすらならないのでしょうね、おそらく。 
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高埜利彦氏とフランス

2016-02-26 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月26日(金)11時56分45秒

安丸良夫氏に脱線したついでに、ちょっと高埜利彦氏にも脱線してみます。
近世史に疎い私でも、高埜利彦氏が近世宗教史研究のリーダー的役割を担ったことは知っていましたが、1947年生まれの高埜氏が1989年に出した『近世日本の国家権力と宗教』(東京大学出版会)の「序」には、俄かエマニュエル・トッド信奉者にとってはなかなか興味深い記述がありますね。

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  序

 戦後生まれの私が育った東京の街には、戦争への反省が至るところに溢れていた。そんなころ、子供であった私の耳に、はかり知れぬ奥深い響きを伝えていたのが、「赤紙一枚」という言葉であった。
 大日本帝国の軍隊による召集令状、俗に赤紙は、その紙切れ一枚で、突然、否も応もなく家族から父親や息子を引きさき、学徒たちからは学問を、挙句に命をも奪ったのであった。戦いすんで、かろうじて生き還れた大人たちが、折にふれ、重い口調で「赤紙一枚で」と言の葉に乗せた時の口元には、一様に口惜しさに似たゆがみのあったことを、子供心に感じたことを覚えている。
 大人たちはなぜ赤紙を破り捨てて召集を拒まなかったのだろうか、と子供心に思った。しばらくしてから思ったのは、誰もが破ることのできなかった赤紙の、奥の威圧感とは何だったのだろうか、という疑問で、これはその後も抱かれ続けてきた。その後、歴史学を学んだ私なりの粗略な理解を試みれば、かつて大人たちが破ることのできなかった赤紙とは、それが戦前の圧倒的な国家権力そのものであり、これに比べて個人の権利はあまりに微弱であったこと、そしてその対比が赤紙について語る時の生き残れた大人たちの口惜しさの原因であった、と今の私は考えるのである。
 この圧倒的な国家権力を形づくった主要素に、天皇制と国家神道があったことも、歴史学を通して学んできた。「近世日本の国家権力と宗教」を本書のテーマに据えたことの、これが遠い所以である。
-------

ま、ここまではエマニュエル・トッドは全然関係ありません。
同書の「あとがき」を見ると、「東京大学史料編纂所の公募に辛うじて合格」(p316)した高埜氏は歴史科学協議会の中心メンバーでもある山口啓二氏の指導を受け、先輩には宮地正人氏などがいたそうですから、ごく普通の左翼的な歴史研究者の一員として「国家権力」・「天皇制」・「国家神道」に対する強い否定的感情を共有していただけの話ですね。
気になるのはその後の部分です。

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 強力な国家権力と個人の脆弱な権利、という戦前の関係は、アジアや欧米、そして日本の人々の筆舌に尽くせぬ犠牲によって改められ、戦後は天皇制や国家神道の改廃とともに、個人の権利は保証されるようになったと確かに思ってきた。しかし、戦前とは異質ながらも、依然、今日(一九八九年)に至っても、国家に対する個人の権利の薄弱さ、共同体や社会の目からは決して自由になれない自主性の乏しさは、フランス社会の中で僅か一年間(一九八六年)ながら身を置いて外から日本を眺めた私に、改めて痛感された。フランスでは、個々の人が国家や社会や共同体からじつに自立して、堂々と生きていることが感じられ、彼我の違いを強く意識させられたのである。このようなフランスの国民性は、もちろん一朝一夕に成ったものではなく、多大の犠牲(フランス革命やレジスタンスなどなど)を国民が払って、歴史が積重ってできあがったものであるのは言うまでもない。
--------

ま、これ自体も特に珍しい見解ではなく、1970年代くらいまでは、いわゆる進歩的文化人、岩波文化人はみんなこんなことばかり言っていました。
近代的革命を経ていない日本人には近代的自我がない、みたいな話ですね。
俄かエマニュエル・トッド信奉者の私が面白いと思ったのは、高埜氏が「個々の人が国家や社会や共同体からじつに自立して、堂々と生きていることが感じられ、彼我の違いを強く意識させられた」フランスとは、おそらくパリ周辺の平等主義的なフランスであって、「ゾンビ・カトリシズム」のフランスではない、ということです。
1989年といっても「あとがき」は「一九八九年四月」となっているので、この本を出されたときの高埜氏は同年6月の天安門事件、11月のベルリンの壁崩壊を知らない訳ですが、あれから四半世紀が過ぎてフランスもずいぶん変化しましたから、最近のパリ留学生は、どんなにのんびりした性格の人でもかつての高埜氏ほどの無邪気なフランス賛美はできないでしょうね。

安丸良夫氏と異なり、高埜利彦氏はあまり政治的な発言はされないようですが、あるいは既にゾンビ・マルクス教徒になっていて、残っているのは国家への否定的感情くらいなんですかね。

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/takano.html

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ゾンビ浄土真宗とマルクス主義の「習合」

2016-02-26 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月26日(金)09時35分28秒

ウィキペディアによれば東砺波郡高瀬村は1959年に二分割されて森清は東礪波郡福野町に編入され、更に2004年に福野町は周辺町村と合併して南砺市になったそうですが、地図を見ると南砺市森清の数キロ東には有名な井波の瑞泉寺がありますね。
さて、昨日引用した部分のつづきです。(岩波モダンクラシック版、p302以下)

--------
 生家は、水田ばかり二町余りを耕す専業農家だったが、家族だけでこの面積を耕作することは、私の子供のころの技術的条件ではやたらに多忙なものだった。【中略】
 ところで、私の生れたあたりの農村は、浄土真宗、とりわけ東本願寺の篤信地帯で、どの家にも立派な仏壇がある。抽出しなどのついている台の部分もいれれば、大人の背丈よりもはるかに高く、灯明を点ずると黄金色に輝く、複雑な造りのものである。毎朝、御仏飯が供えられ、老人が読経し、そのあと「御文(おふん)さま」(蓮如『御文章』)を詠む。何人かの死者の毎月の命日には、「月忌(がっき)まいり」といって、隣村の寺の住職が読経に来宅するが、家人が留守でも所用中でもかまわずに、住職は玄関で一声かけるだけで上りこみ、仏壇をあけて灯明を点じ、読経して帰る。私の生家のばあい月に数回で、こうした宗教行事はいまも続いている。これとはべつに、年に一回、誰かの命日を選び、親戚も招いて御馳走のでる「ほんこさま」(報恩講)がある。また、私の生れた村は農家ばかりで寺はないが、すこし大きな家では、襖、障子をとり払って三つ四つの部屋をあけはなち、「ごぼさま(御坊さま)」を招いて説教を聴く会を開くことができる。年齢集団を基礎にした念仏講などが主催して、農閑期にはこうした説教がいくつかの家で開催され、数十人の村人が集る。真宗特有の来世信仰からしても、老人の方が信仰心が篤いが、農家の嫁などもこうした説教には喜んで出席する。
--------

私も富山の仏壇が立派なことは知っていましたが、この種の宗教行事については不案内で、留守でも住職が家に上がって読経して帰って行く云々にはびっくりしました。
さて、岩波新書編集部編『子どもたちの8月15日』(岩波新書、2005)に寄せられた安丸氏のエッセイなどを読むと、終戦まではそれなりの軍国少年だったらしい安丸氏も京都大学入学後はすっかりマルクス主義に染まり、思想的には浄土真宗とは縁が切れている、というかもともと特に信仰心があった訳ではないのでしょうね。
しかし、安丸氏の時事評論的エッセイをいくつか読むと、エマニュエル・トッド風にいえば、安丸氏は今でも「ゾンビ真宗門徒」だなあ、という感じがします。
『神々の明治維新』に映し出された光景も、ゾンビ浄土真宗とマルクス主義が「習合」した安丸レンズを通して見た映像なんじゃないのかな、と私は思っていますが、この点はあとでもう少し詳しく述べます。
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富山県出身の安丸良夫氏

2016-02-25 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月25日(木)10時37分8秒

>筆綾丸さん
>『世界最強の女帝 メルケルの謎』
ご紹介のメルケルのエピソードは、かつてイスラム教が支配的であった地域でも、いったん共産化されて識字率が100%近く向上したところではソ連崩壊後もイスラム教支配は復活していない、というエマニュエル・トッドの指摘を思い出させます。
東ドイツに生まれた高学歴の女性がキリスト教系政党の指導者になるというのは、考えてみれば非常に奇妙なことですね。
さっそく、この本を読んでみます。

『新ヨーロッパ大全Ⅰ・Ⅱ』は全然進んでいないのですが、エマニュエル・トッドの発想は日本の宗教関係の本を読むときにも本当に参考になります。
例えば左翼的な傾向はあっても、故・村上重良氏のように自分の理論的な鋳型に歴史的事実を無理やり押し込むような強引なタイプではなく、実証的に民衆と宗教の関係を考えている研究者の一人に安丸良夫という人がいて、同氏の『神々の明治維新』(岩波新書、1977)は名著の誉れ高く、研究者とともに一般人の明治維新観にも多大の影響を与えていますが、私は以前から安丸氏に若干の違和感を抱いていました。
今回、『神々の明治維新』を読み直して、安丸氏が富山県出身であることに気付いたのですが、『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992)の「あとがき」には次のような記述があります。

--------
 富山県東砺波郡高瀬村森清。これは町村合併前の名称だが、私の生家は、この水田単作農村の中農である。このあたりにも新しい道路や建造物ができて、昔の景観は大いに損なわれたが、水田ばかりが続く礪波平野に「かいにょう」(防風林)に囲まれた農家が点々とする散村風景は、いまも残っている。周囲の風物と響きあう私個人の幼少時の経験の記憶から小さな証言を記して、「あとがき」にかえたい。
 私は戸籍上は三男だが、私の生後間もなく次兄がジフテリアで急死したので、実質的には二人兄弟の次男として育った。村人の相互の呼名には、階層・性別・状況などによる複雑な使いわけがあるが、普通は長男を「あんちゃん」、次男以下を「おっちゃん」と呼ぶ。生家の屋号は「やすきゃ(安清屋)」なので、昔も今も私に対する村人の呼称は「やすきゃのおっちゃん」である。【中略】村で生まれた長男は、学齢に達したころに氏神の祭礼のさいに演じられる獅子舞いの子役となり、やがて若者組に加入するが、次男以下はいずれにもかかわらない。行政村には青年団があるが、私の子供のころには村の若者組の方がより大きな活動領域を持っていたと思う。それはともかく、長男が家をつぎ、次男以下と娘たちは村を出てゆくことが予定されているわけだ。
--------

エマニュエル・トッドを読む前だったら、ふーん、で終わっていたのですが、トッドの俄か信奉者にとってみれば、安丸氏が兄弟間・男女間の平等が全く存在しない家族制度の下で生まれ育ったということは非常に興味深い事実です。
この後、「富山県東砺波郡高瀬村森清」は浄土真宗の影響が極めて強い地域であることが紹介されるのですが、長くなったのでいったん切ります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

物理学者メルケルの言語ゲーム 2016/02/24(水) 17:26:19
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82)
以前、瑞龍寺を訪ねたとき、富山藩くらいの石高でこれほど壮大な寺院を建立できたのか、疑問に思いましたが、現在の高岡市は加賀本藩の領地だったのですね。富山県の事情は不案内ですが、富山市に対する高岡市の感情は、現在でも案外複雑かもしれないですね。支藩の分際で何を言うか、というような、昔の格付けの名残が揺曳している風土。

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610679
『世界最強の女帝 メルケルの謎』は軽い読物ですが、結構、面白いです。
CDU党首のメルケルは自分の五十歳の誕生パーティに脳神経学の権威ヴォルフ・ジンガー教授を招き、党幹部の前で講演させたそうです(2004年7月)。演題は「指揮者なき脳」。
-----------
 「人間の脳には決断を司る中心はなく、指揮者などはない。すべてはニューロンのなせるわざであり、人間が自分は自由だ思うのは勘違いであり、幻想にすぎない」
 「脳は『私』をつくる工場なのではなく、化学的実験室にほかならない。人間はニューロンのかたまりにすぎない」「『われ思う、ゆえにわれあり』というデカルトの発見は現代の脳神経学の理解とは随分異なっている」「『私』のしていることは『私』のせいではなく、ニューロンのなせるわざである・・・・・・」
 こうした説明が次々と続く講演の最中、メルケルは固く目を閉じ、深く集中して聞いていた。講演の後、CDUの幹部連は、なぜメルケルはわざわざこのような話を一同に聞かせたのかと誰もが内心、怪訝に思った。無論、メルケルのことであるから、この講演には「政治的メッセージがまぶされている」ということは想像がつく。が、その謎かけの意味となると、すっきりした答えは出ない。
 ーCDUの幹部連に対し、人は皆、ニューロンの束が入った皮袋にすぎないという冷笑的なメッセージを送ったのか?
 ーメルケルの行動もまたニューロンのなせるわざであって、誰にも止めることはできないというメッセージなのだろうか?
 メルケルはときおり、このような「禅問答」のようなことをするらしい。謎かけをして周囲を不安にさせ、揺さぶるのだ。それもメルケル流統治術、権力操縦法の一端である。(22頁~)
-----------
CDU(キリスト教民主同盟:Christlich-Demokratische Union)のキリスト教に関して、エマニュエル・トッドの高説を伺いたいですね。

https://neuerung.wordpress.com/2005/12/28/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97%E8%AB%96/
ジンガー教授が甲なる者に殺害されたとして、教授の学説によれば、犯人はニューロンであってヒトではないから、現代の刑法は適用されず、甲に殺人罪を問うことはできない、めでたし、めでたし、ということになるのか。あるいは、犯人はあくまでニューロンであるが、「かのように」の法理により、甲に殺人罪を問うてよい、となるのか。デカルトならば何と答えるか。
(余談ながら、引用サイトの主はわかりませんが、シンガーではなくジンガーと書いてほしい。マイスタージンガーと言うだろ、と)
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前田利同の立場と「岡田重家氏談」の信頼性

2016-02-25 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月25日(木)09時40分3秒

>筆綾丸さん
>現在の高岡市は加賀本藩の領地
私も富山県の西部、石川県に近い方は加賀藩の領地、程度の認識だったのですが、東部も加賀藩で、富山藩は東西の加賀藩領に挟まれた細長い地域なんですね。
越中国に占める富山藩領の狭さに気付いたときは、本当にびっくりしました。

富山市郷土博物館サイト、『富山藩領絵図』
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori23/tayori23.htm

上記ページの「とやま幕末物語<その5>に、

--------
富山藩への加賀藩介入で、安政6年(1859)には家老の山田嘉膳(やまだかぜん)が加賀藩より遣わされます。しかし元治(げんじ)元年(1864)7月1日、嘉膳(かぜん)は富山藩士の島田勝摩(しまだかつま)らによって城内三の丸で暗殺されてしまいます。加賀藩に反発する一派の行為でした。
--------

とありますが、この島田勝摩が属する改革派グループの中心にいたのが林太仲ですね。
「とやま幕末物語<その4>」には、

--------
やがて、時の加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)の九男利同(としあつ)が、富山前田家の養子に迎えられ、13代藩主となります。しかし利同はその時わずか4歳。よって加賀藩が後見するという形をとり、富山藩への介入が本格的になります。家老・十村役の派遣、加賀藩からの借金など、富山藩は本藩の加賀藩へ飲み込まれていくようでした。

http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori21/tayori21.htm

とありますが、明治維新は富山藩にとって干渉ばかりする加賀藩からの独立を果たせる願ってもない機会であって、合寺令についても加賀藩に事前相談などしないのは当然だった訳ですね。
加賀藩からわずか四歳で藩主に送り込まれ、反抗的な家臣団に囲まれていた前田利同(1856-1921)の立場もずいぶん微妙なものです。
先に紹介した『明治維新神仏分離史料』の「岡田重家氏談」を読んだ人は、合寺令発布後から「有耶無耶の間に自然消滅」になるまで、岡田重家はずっと富山にいたと思うはずですが、木々康子氏の『林忠正』によれば合寺令発布時には前田利同は既に東京にいたようです。(p17以下)

--------
 忠正はこの年〔明治三年〕の十月、東京に発った。そして早速、磯部四郎の紹介で村上英俊のフランス語塾「達理堂」に入った。忠正のフランスへの道も、養父太仲の選択によるものである。
 「達理堂」には、忠正と同い年の藩主と、それに従う老臣たち五十人の姿もあった。自分の急進的な改革を拒む老臣たちを、太仲が東京に追い払ったのである。禿頭の老臣たちは、若い藩主に従って、ちんぷんかんぷんのフランス語に必死に追いすがっていた。
 忠正は翌明治四年の一月、富山藩貢進生(藩選抜の南校留学生。藩の禄高によって定員がある)として大学南校に入学し、フランス学を学び始めた。富山藩の定員二人はすでに決まっていたが、多分太仲の権限によって、忠正と交代させたのである。【後略】
--------

合寺令が出たのは明治三年(1870)閏十月二十七日ですから、この文章を素直に読むと、その時点では前田利同は既に東京にいて、仮に岡田重家が「それに従う老臣たち五十人」に含まれるのであれば岡田重家も合寺令の実施状況は直接目撃していないことになり、「岡田重家氏談」の信頼性にも影響を与えることになりますね。
ただ、木々康子氏の面白すぎる話には出典が明示されていないので、裏付けを取らなければなりませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

物理学者メルケルの言語ゲーム 2016/02/24(水) 17:26:19
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82)
以前、瑞龍寺を訪ねたとき、富山藩くらいの石高でこれほど壮大な寺院を建立できたのか、疑問に思いましたが、現在の高岡市は加賀本藩の領地だったのですね。富山県の事情は不案内ですが、富山市に対する高岡市の感情は、現在でも案外複雑かもしれないですね。支藩の分際で何を言うか、というような、昔の格付けの名残が揺曳している風土。

『世界最強の女帝 メルケルの謎』は軽い読物ですが、結構、面白いです。
CDU党首のメルケルは自分の五十歳の誕生パーティに脳神経学の権威ヴォルフ・ジンガー教授を招き、党幹部の前で講演させたそうです(2004年7月)。演題は「指揮者なき脳」。
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 「人間の脳には決断を司る中心はなく、指揮者などはない。すべてはニューロンのなせるわざであり、人間が自分は自由だ思うのは勘違いであり、幻想にすぎない」
 「脳は『私』をつくる工場なのではなく、化学的実験室にほかならない。人間はニューロンのかたまりにすぎない」「『われ思う、ゆえにわれあり』というデカルトの発見は現代の脳神経学の理解とは随分異なっている」「『私』のしていることは『私』のせいではなく、ニューロンのなせるわざである・・・・・・」
 こうした説明が次々と続く講演の最中、メルケルは固く目を閉じ、深く集中して聞いていた。講演の後、CDUの幹部連は、なぜメルケルはわざわざこのような話を一同に聞かせたのかと誰もが内心、怪訝に思った。無論、メルケルのことであるから、この講演には「政治的メッセージがまぶされている」ということは想像がつく。が、その謎かけの意味となると、すっきりした答えは出ない。
 ーCDUの幹部連に対し、人は皆、ニューロンの束が入った皮袋にすぎないという冷笑的なメッセージを送ったのか?
 ーメルケルの行動もまたニューロンのなせるわざであって、誰にも止めることはできないというメッセージなのだろうか?
 メルケルはときおり、このような「禅問答」のようなことをするらしい。謎かけをして周囲を不安にさせ、揺さぶるのだ。それもメルケル流統治術、権力操縦法の一端である。(22頁~)
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CDU(キリスト教民主同盟:Christlich-Demokratische Union)のキリスト教に関して、エマニュエル・トッドの高説を伺いたいですね。

ジンガー教授が甲なる者に殺害されたとして、教授の学説によれば、犯人はニューロンであってヒトではないから、現代の刑法は適用されず、甲に殺人罪を問うことはできない、めでたし、めでたし、ということになるのか。あるいは、犯人はあくまでニューロンであるが、「かのように」の法理により、甲に殺人罪を問うてよい、となるのか。デカルトならば何と答えるか。
(余談ながら、引用サイトの主はわかりませんが、シンガーではなくジンガーと書いてほしい。マイスタージンガーと言うだろ、と)
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「養父林太仲」

2016-02-24 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月24日(水)10時01分30秒

木々康子氏の『林忠正』から林太仲に関連する部分を少し引用してみます。(p11以下)

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 前田百万石の支藩である富山前田家十万石は、越中神通川の西に位置した、南北に細長い領国である。閉鎖的な宗家加賀藩のもとで、その宗家にひたすら怖れ慎んで二百年を過してきた富山藩は、めぼしい資源も産業もなく、富山(外山)の名のとおり高い山々に囲まれ、神通川の激流を抱えて不毛な鎖された国であった。
-------

旧富山藩領内の人が読んだらちょっとムカッとする記述になっていますが、著者は林忠正の出生地で前田宗家の領内である高岡を「・・・町人代表による自治が許されていた。町には自由の空気がみなぎり、穀倉地帯を背負う町の経済も豊かで、家柄町人たちの文化や教養の水準も高かった」(p1)と持ち上げていて、この対比は若干の小説的脚色を感じさせます。

-------
 幕末期になって、富山藩はいよいよ経済的に逼迫した。宗藩の経済自体が破綻しているので、打開策もないまま、藩士の知行を減らしに減らしたあげく、商家からの借金ばかりが返却不能の額に膨れ上がっていた。だが、町の半分を占める南西部の寺町だけが、善男善女の布施によって隆々と栄えていた。
-------

最後の一文は合寺令への布石になっていますが、これは当時の人の感覚に適合するのでしょうね。
「真宗王国」富山の寺院は今でも大変立派ですが、一般民衆の家屋が貧弱だった当時は寺院の建物の立派さとの落差は大きく、それに苛立つ人も多かったはずです。

-------
 林家は百石から二百石の知行を得ている中士の階級だったが、代々、勘定奉行、金穀奉行、改作奉行、郡奉行、若年寄など藩政の中枢の地位を歴任していた。初代の林太仲は代々の中での出世頭で、役料も含め、二百五十石まで栄進した。しかし、勘定奉行の時に贋札事件が起き、連座した彼は閉門に処せられ、八十石まで減知された。【中略】
 三代目太仲は子供の頃から異端児、悪童で鳴らしていた。仲間を引き連れて、商店から品物を強奪して、「それで何が悪い」と居直る彼の心中は、自堕落な僧侶たちだけが贅沢に暮す中で、藩や武士が疲弊し無力化していく無念さ、藩政改革の芽も出ない気概のなさへの憤りで一杯だった。林家は二人の娘以外は、三人の弟すべてを養子に出していた。特に末の秀太郎(のちの法学者磯部四郎)は、最も地位の低い石高三十六俵の「足軽列」(足軽に準ずる低い身分)の家に、赤子のうちから養われた。口減らしに、一刻も早く手放さなければならなかったのである。
-------

巻末の「参考文献」(p349以下)を見ると、「第一章 生い立ちから渡仏まで」全体の参考文献が<木々康子「磯部四郎断章」『磯部四郎研究』平井一雄・村上一博編 信山社 二〇〇七年>だけなので、研究者の文章に慣れている人には若干の戸惑いを感じさせるところもありますね。

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『林忠正─浮世絵を越えて日本美術のすべてを』

2016-02-24 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月24日(水)08時24分34秒

林太仲に関する情報を求めて「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊、作家の木々康子氏が執筆した『林忠正─浮世絵を越えて日本美術のすべてを』(ミネルヴァ書房、2009)を少し読んでみたのですが、「あとがき」によれば著者の配偶者は林忠正の子孫だそうですね。

-------
 二人のいとこ同士、林忠正と磯部四郎は、私の夫の父方(林)の祖父、母方(磯部)の曽祖父に当る。つまり、二人の子孫が結婚して生れた私の夫は、豊富な資料と身内からの情報を持っており、"日本の近代とは何か"をテーマに小説を書いてきた私には、二人は私の作品の恰好のモデルとなって、『蒼龍の系譜』『陽が昇るとき』の二作品が生まれたのである。
-------

とのことです。(p360)
磯部四郎はパリ大学を卒業後、ボワソナードと一緒に旧民法案を編纂した法学者で、大逆事件の主任弁護人でもあったそうですが、私は名前くらいしか聞いたことがありませんでした。

磯部四郎(1851-1923)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E5%9B%9B%E9%83%8E

「ミネルヴァ日本評伝選」は「狭義の歴史学の研究者だけでなく、多くの分野ですぐれた業績をあげている著者たちを迎えて、従来見られなかった規模の大きな人物史の叢書」(「刊行のことば」)だそうなので、田村俊子賞も受賞されている作家であり、身内の資料も利用できる木々康子氏は林忠正の執筆者として適任とされたのでしょうね。
実際、非常に詳しく取材されていて大いに参考になるのですが、研究者のように厳密に参考文献の出典を明示せず、また文章が流麗すぎるので、どこまで信頼できるのかなあと若干の懸念が生じる箇所がなきにしもあらずですね。
また、林太仲の出自と失脚までの経歴は相当に詳しいのに、その後の人生については全く記述がなく、五十二歳の若さで死んだ林忠正の葬儀の写真(p239)に登場するだけなのはちょっと残念でした。
この写真には「婆やに手を引かれて歩く」「四歳の次男と大きな位牌を持つ長男の忠雄」の後ろにシルクハットをかぶった林太仲が小さく写っていますが、ずいぶん長身で、また相当高齢のはずなのに姿勢が良いですね。

木々康子氏のホームページはなかなか充実していて、『林忠正』の概要を把握するにも便利ですね。

http://homepage3.nifty.com/kigiyasuko/list.html#whole_tanko
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林太中(はやし・たちゅう)について

2016-02-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月23日(火)10時06分38秒

土井了宗・金龍教英著『目でみる越中真宗史』(桂書房、1991)に佐田介石が本山に送った報告書の内容が紹介されているので、その部分を引用してみます。(p148)

-------
 一方、両本願寺からは松本厳護(東派)、佐田介石(西派)が実情調査のために派遣されている。このことについては「越中国諸記」(西本山と末寺との往復書状を書き留めたもの・西本山蔵)に介石の報告書状が数通収められている。介石はそのなかで、「今日の富山藩の勢、筆紙に尽し難し、十万石高に候へとも仏式兵隊七大隊相揃へ、もし人気動揺つかまつり候はば、それを幸いとして、一時に滅寺つかまつる覚悟の手当に相成り─中略─たとい藩を相手取、合寺は開きども、藩を怒らせ藩の憎みを蒙り候て、如何たち行き申すべきや、今日の寺院寮、徳川家の寺社奉行と雲泥いたし候へば、寺院寮を当に致し藩の事を讒し候はば、富山合寺所へ毒害いたすも同様にてござ候」と報じている。大洲鉄然・島地黙雷らが寺院寮へ掛け合っていることに対し、富山藩は小藩なれども、フランス式兵隊を七大隊も擁し、下手な手出しをすれば滅寺にもなりかねない。寺院寮や、寺社奉行とは大違いと強い口調で述べている。大洲らと意見を異にした介石は結局京都に呼びもどされた。
--------

この後、「東派・西派の割合」で引用した「この時、帰俗を望む者には、元の建物(庫裏)・跡地を与えるとの「触」があった」という文章に続きます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3365389aafdc7e8376a99e4567c23b2a

「寺院寮や、寺社奉行とは大違い」とありますが、「今日の寺院寮、徳川家の寺社奉行と雲泥いたし候へば」は、現在の寺院寮は江戸時代の寺社奉行とは全然異なって、寺社奉行のような強い権限はないから寺院寮を頼りにしてはいけない、と読むべきではないですかね。
ま、それはともかく、佐田介石(1818-82)の報告書を読むと、佐田はまるでミイラ取りがミイラになったような有様ですが、これでは高杉晋作の奇兵隊に参加し、第二次長州征伐に際しては僧侶を集めた部隊を組織して陣頭指揮した大洲鉄然(1834-1902)や、大洲鉄然ほどの武闘派ではないにしろ、一時は自ら武装した島地黙雷(1838-1911)から見れば、何を生ぬるいことを言っているのか、という感じになりそうですね。
ただ、林太仲による富山藩の兵制改革は相当本格的なものだったようで、検索してみると「近世越中国のお話」というブログにその概要が紹介されています。

「近世越中国のお話 ②西洋式藩兵の編成」
http://ettyuutoyama.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=3145764

また、林太仲は三十そこそこの若年とはいえ、凄絶な藩内闘争を勝ち抜いた辣腕家だったようですね。
富山市郷土博物館サイトにも、藤田呉江という画家の業績を紹介する中で、藩政改革のために家老を暗殺した林太仲らのグループの活動に触れています。

「富山藩人物帳 藤田呉江」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori48/tayori48.htm

林太仲についてもう少し詳しく知りたいのですが、太仲の養子に浮世絵を海外に売りまくった画商の林忠正(1853-1906)がいるそうなので、この人が手がかりになりそうです。

「クールジャパン列伝 林忠正」
http://www.apparel-web.com/column/kurita/vol_13.html

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「有耶無耶の間に自然消滅になりました」 (by 岡田重家氏)

2016-02-22 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月22日(月)12時15分7秒

「伯爵前田利同氏の家扶」の「岡田重家氏談」、続きです。

--------
 かくして翌年三四月頃に至りますと、僧侶の中からも苦情を申出ますし、本山からも種々交渉があり、太政官からも穏当に処置するやうにとの交渉がありました、元来当藩は他藩に比して過激であつたのです、当藩でも稍々之を自覚して居つたものですから、以前廃毀した堂宇を没収した地所の、旧藩士に下されたものは、再び還す訳には行きませんでしたが、その代りに他に相当の地面を下附し、一旦破壊せられた寺院は、再び建立せらるゝ事となり、急遽帰農帰商した僧侶も、復た僧籍に入るやうになり、寺院合併の令は、茲に解放の観を呈し、仏教は漸く復興するに至りました、
 かくて四年七月十四日廃藩置県となり、利同氏は東上して大学南校に入り、六年に洋行し、五年三月三府七十二県の制定と共に、新川県が出来て、旧藩の事務は県知事の引継となり、是に於て藩政の革新も、兵備の拡充も用ないことゝなり、随つて寺院合併の挙も、有耶無耶の間に自然消滅になりました、
--------

これで談話の部分は終わりです。
岡田重家氏からの聞き取りは何時行われたのか、日付は書いてないのですが、この後で、<記者曰はく、富山藩の寺院合併の状況等に就いて、左に「越中史料」に依り、当時の文書を附記せん>として「海秀閣合寺規則」と「富山市沿革志」を転載し、最後に「(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編一号所載)」とあるので、仮に明治45年(1912)だとすれば合寺令布達の43年後ですね。
岡田重家氏の語る合寺令の内容は、必ずしも記録に残る合寺令の内容とは一致しないので、あるいは若干の記憶の混乱があるのかもしれません。
また、「寺院合併の令は、茲に解放の観を呈し、仏教は漸く復興するに至りました」と書いた後で廃藩置県の話になるので、このあたりも安丸良夫氏のような研究者の書き方とはずいぶん違います。
興味深いのは前回投稿で引用した「代々武庫に蔵めてあつた古い武具なども、藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに、甲冑を除く外は、総べて神通川の半島河原と云ふ地に取出しまして、焼いて仕舞ひました、鎧などは金ばかり取残して、皆焼払いました」という部分で、このような話は浄土真宗側の記録・主張には出てきませんが、武士にとっては相当強烈な、廃仏毀釈よりむしろこちらの方がよっぽど時代の変化を痛感させられた驚天動地の出来事なのかもしれません。

>筆綾丸さん
譴責されたのは富山藩だけで、東本願寺には富山藩に対してこういう指示を出したぞ、と連絡しただけだと思います。
西本願寺に言及していないのは、おそらく参照した史料(「旧富山藩管内寺院合併諸達等」)が東派のものだからで、実際には西本願寺にも同様の連絡が行っているはずですね。

「すこぶる下情怨屈のおもむきあい聞こえ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7290be1432b841907da85c976fc0f9a5

>佐田介石
佐田が合寺令に関して本山に送った報告書があるので、後で少し紹介します。
対応をめぐって大洲鉄然・島地黙雷とは対立したそうです。
晩年は西本願寺からも離脱し、奇人で鳴らした人みたいですね。

>マサムネ・東・ぽ~るじゃんさん
昨日は投稿した後、掲示板を見直さずにそのまま外出してしまったので、「拝復」を無視したような形になってしまってすみません。

※マサムネ・東・ぽ~るじゃんさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

拝復 2016/02/21(日) 09:14:15(マサムネ・東・ぽ~るじゃんさん)
>「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」
去年の大晦日までは確かにあったのですが、正月三日に見たら無くなっていて、So-net に削除されたみたいですね。

残念ですね。御労作を別の様式でも拝読する機会を楽しみに致しております。
元より論考に浅い吾人の見解については、日を改めたく存じます。

Umberto Eco è morto 2016/02/21(日) 10:26:16(筆綾丸さん)
小太郎さん
「すこぶる下情怨屈のおもむきあい聞こえ」(2月13日)の所で興味深いのは、「真宗西派佐田介石・同東派松本厳護が富山に派遣され藩庁と掛け合」った結果、富山藩と東本願寺は太政官に譴責されたけれども、西本願寺への叱責はなかったのか、ということですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E4%BB%8B%E7%9F%B3
真宗西派佐田介石は面白い人ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E4%B8%8B%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E8%A6%9A
京都常楽台は、親鸞の玄孫の存覚が開基なんですね。「台」の字は寺院としては珍しいと思いますが、存覚への敬慕の念を含意するのでしょうね。

http://www.repubblica.it/cultura/2016/02/20/news/morto_lo_scrittore_umberto_eco-133816061/?ref=HREA-1
ところどころ拾い読みしてみましたが、草臥れました。

追記
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000001082_all.html
「怠け蟻」とは、この話のことですか。
人間社会においてアリの研究をしている人の「反応閾値」はどうなんだ、という問題が出てきますね。アリやゾウムシの研究者がいるので人間社会は長く存続できるということを、ファーブルは立証したかったわけではないでしょうね、たぶん。
アリの天敵がアリのコロニーを総攻撃するような状況のとき(動機は不明で、反自然な仮定ですが)、「反応閾値」が高く「働かない」アリが存在するかどうか、実験してほしいと思います(残酷ですが)。そんな極限状態でもなお、「働かない」アリの存在を立証できれば面白い。つまり、仲間たちがバタバタ死んでゆくのを冷静に眺め、天敵がコロニーの全滅を確信して去るのを我慢強く待ち続けるようなクールなアリ。至上命題は、弱虫め、卑怯者め、とどんなに罵られようが、たとえ一匹になろうとも生き残るということのみで、あとは何もない。一匹ではコロニーを維持できないが、それは別問題で、ハムレット的な悩みは起こらない。・・・・・・

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「藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに」 (by 岡田重家氏)

2016-02-22 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月22日(月)11時23分13秒

浄土真宗の側から合寺令がどのように見えたかは充分すぎるほど紹介しましたので、ここで富山藩側に視点を移したいと思います。
参考になるのは『明治維新神仏分離史料』上巻に出ている「富山藩の寺院合併 岡田重家氏談」です。(p785以下)
冒頭に「氏は旧富山藩主なる伯爵前田利同氏の家扶なり、明治三年同藩寺院併合の挙を目撃し、その事情を熟知せらる」とあります。

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 旧富山藩では、水戸藩の廃仏に倣ひ、主として藩政の刷新、兵備の拡充の為めに、廃仏の挙を実行しました、
 当藩主前田利同氏は、明治二年藩知事となられましたが、十五六歳の幼年でありましたから、大小の政務は、大参事林太仲氏によりて決せられました、三年十月に至り、藩令を発して、僧侶の帰俗を望む者は、之を聴許し、寺町(今の梅沢町)にて、一宗一個寺を残す外、一藩の寺院全数を廃毀することを達しました、即ち合寺の令を発したのです、時に合置せられた各一宗一個所の寺院は、禅宗光厳寺、日蓮宗大法寺、浄土宗来迎寺、一向宗(真宗)常楽寺、真言宗来迎寺です、
 是等数寺に於て、従来僧侶の布教教育の賑はなかつたのを策励し、宗門の学問研究なさしむる方針でした、若しその見込みなき者は、帰俗を聴許したのですが、帰俗を申出る者には、その堂宇地所を給与して自由に農商の業務を営ましめ、又然うでない者には、堂宇地所を一切上納せしめたのです、さうして両三日中に決行すべしと云ふ急激の命令でありまして、此藩の命令に違背したり、異議を申立つる者があつたら、直に厳刑に処すと云ふ達でありましたから、その混雑は実に名状すべからざるものでした、特に最も困難を感じたのは、真宗の寺院でした、他宗では妻子がありませんでしたから、処置も着き易いが、真宗では妻子眷属がありますので、大勢一処に一寺に集合すると云ふことは、実に困難なことでした、けれども藩から厳重の命令でありますから、一時皆服従して異議を申立てなかつたのです、其中には帰俗を申出た者も多くありまして、長沢村の覚願寺の如きは、帰俗して、堂宇を申受て、百姓をしてゐました、
 寺院の梵鐘などの重なる金物類は、皆献納せしめて、兵器の鋳造に用ゐやうとした、三重郡桜谷村長慶寺の丈六羅漢の如きも、その目的の為めに没収せられました、此兵器鋳造の為めには、寺院のみでなく、俗家にも及ぼしまして、その燭台火鉢等の金物類は、皆献納せしめられたのです、又代々武庫に蔵めてあつた古い武具なども、藩士の守旧思想を破壊して、進取の志気を鼓舞せん為めに、甲冑を除く外は、総べて神通川の半島河原と云ふ地に取出しまして、焼いて仕舞ひました、鎧などは金ばかり取残して、皆焼払いました、此等の金物は、城内の一隅に高く積まれてありました、後仏像仏具等を東京に運送せんとして、船に積みて出帆しましたが、途中難船して、その大半を失ひ、到頭不成功に終りました、
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まだ続きますが、いったんここで切ります。
さて、禅宗で光厳寺、日蓮宗で大法寺が残ったのは両寺が富山藩の菩提寺だったからですね。
富山藩の菩提寺はちょっと奇妙で、まず初代藩主前田利次が菩提寺を曹洞宗の光嚴寺に定めたのに、二代藩主正甫が日蓮宗大法寺に変更してしまったのだそうです。
ということは、二代目以降は大法寺なのかな、と思いきや、藩主の宗門を一代毎に変えてしまったのだそうで、結果的に菩提寺もかわりばんこですね。
まあ、面倒なトラブルに発展しかねない問題を足して二で割った合理的解決なのかもしれませんが、宗教の問題なのにそれでいいのか、という感じがしないでもありません。
おまけに江戸で藩主の妻子が亡くなった場合の菩提寺は日蓮宗3、曹洞宗3、浄土宗3、臨済宗2、その他3の合計14寺で、一番多いのは臨済宗の下谷・円満山広徳寺だそうですから、何を考えているのか訳が分かりません。
ま、富山藩はもともと宗教的には結構いい加減な藩だったような感じもします。
考えてみれば「一宗一寺」というのもずいぶん中途半端というか、そこまでやるなら薩摩藩のように全廃すればすっきりするのに、と思いますが、あるいは藩主の菩提寺の問題がなかったら全廃を狙ったのかもしれません。

「富山市郷土博物館」公式サイト内 『富山名所 光厳寺と大法寺』
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori35/tayori35.htm
同「特別展 お殿さまとお寺-富山前田家ゆかりの寺々」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h24/2403/2403.html
「富山藩の墓所・菩提寺 江戸の菩提寺」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/bodaiji/(1).htm
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/bodaiji/(2).htm
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「ばんどり騒動」との比較

2016-02-21 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月21日(日)09時31分2秒

昨日の投稿の補足ですが、一揆の発生に季節的要因はあっても、それが決め手になる訳ではないことは冬季に一揆が発生した事例から明らかで、富山の場合は合寺令の前年に発生した「ばんどり騒動」があります。
以前の投稿でも名前だけは触れましたが、その概要について『富山市史』の説明を紹介してみます。(p44)

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ばんどり騒動

 新政府による旧弊一洗の諸政策は、明治四年(一八七一)まで富山藩や金沢藩の藩庁を通じて村々に布達されたが、農村の暮らしを根底から変革させ得るものではなく、依然として藩政時代の延長の暮らしが続いた。江戸の公方様が今日との天長様に変わっただけで、年号が慶応から明治に変わったのは元治が慶応に変わったのと同じ響きでしかなかった。
 ただ富山町や新庄・水橋・東岩瀬町周辺の村々では、多少違っていた。これらの町では「御一新」を感じさせる大事件があったからである。京都に始まった戊辰戦争の討幕軍が、北陸鎮撫隊総督として三位高倉永祐に率いられ一五〇〇名が慶応四年(一八六八)三月十日富山町に入っている。その後四月十三日には薩長軍約一〇〇〇名が東岩瀬港に入っている。越中はこの越後・東北討伐軍の兵站基地としての役割を果たさせられることとなり、軍需品や兵糧米などの調達がなされ、これが周辺の農村へ課役された。この北越戦争による物資の調達、官軍の通行、役夫としての出陣などで、越中の農民は新しい維新の波を自覚したことになる。
 維新によって揺れ動く藩政を更に激しく動揺させたのは、版籍奉還の直後、新川郡一帯に起こった農民一揆であった。通過軍のための重税に加えて、明治二年は未曾有の不作の年となったためである。加賀藩では慣例として、凶作時には救米などの名目で年貢の減免をしていたが、新川郡治局や十村役人層が、凶作に対する対応をせず、かえって平常どおり年貢収納を求めたため、これに不満をもった農民たちが村ごとに集まり、十村や郡治局へ嘆願運動を始めた。十月十二日に始まったこの嘆願運動は、二十四日から暴動化し、三万人にもふくれ、十村役宅を襲い、十一月三日忠次郎らが捕まえられるまで、新川郡一帯は無法地帯化した。世にいう”ばんどり騒動”である。
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「忠次郎」というのは事件後に首謀者として死刑になった人で、中新川郡舟橋村の塚越八幡社には「義人宮崎忠次郎」の記念碑があるそうですね。
この人は遊民だったそうで、遊民といっても僧侶が国学者などから「世の中の役に立っていない人」ということで比喩的に非難された場合の「遊民」ではなく、文字通りの遊民、ヤクザ者だったらしいのですが、『富山市史』にはその旨の記述はないですね。
ま、それはともかく、「ばんどり騒動」が暴動化した明治二年十月二十四日はグレゴリオ暦で1869年11月27日ですから相当寒い時期ですが、それでも切実な要求の場合には一揆は起こる訳ですね。
逆に言うと、合寺令は農民にとってわざわざ寒い時期に一揆を起こすほどの切実な問題ではなかったことになります。
なお、「ばんどり」とは「肩かけだけで背あてのない蓑」のことだそうです。

舟橋村公式サイト内「村の歴史」
http://www.vill.funahashi.toyama.jp/welcome_new/history.html
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『後深草院二条』サイトのことなど

2016-02-21 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月21日(日)07時56分23秒

>マサムネ・東・ぽ~るじゃんさん
こんにちは。

>「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」
去年の大晦日までは確かにあったのですが、正月三日に見たら無くなっていて、So-net に削除されたみたいですね。


So-net には所定の料金をきちんと払っていたのに、削除にあたってSo-net 側からの連絡は特にありませんでした。
たぶん誰かが著作権法違反を通報するなり、書かれている内容に抗議するなりしたので So-net 側で削除したのだと思います。
ま、私としても膨大な参考文献を無断転載した著作権法違反のサイトをいつまでも維持しておくメリットはなかったのですが、それなりに手間隙をかけて愛着があり、自分では削除もできないままだったので、ちょうどよいタイミングでした。

>南北朝についての日記?
最近はすっかり日本中世史から離れているので、ご紹介のブログも知りませんでした。
ご教示、ありがとうございます。

>ビハインドザコーヴ
上映館がずいぶん限られているようですね。
ビデオ化されたら観たいと思います。


>廃仏毀釈という観点と、神仏判然という観点
この部分は、正直、よく理解できませんでした。
もう少し具体的な形で、私の見解に問題や疑問があれば指摘していただけるとありがたいです。

※マサムネ・東・ぽ~るじゃんさんの下記投稿へのレスです。

はじめまして。 2016/02/20(土) 17:13:18
謹啓 時々拝読、大した知見も無い通りすがりの者に過ぎませんが、お耳汚し御寛恕下さい。
「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」以来の読者ですが、研鑽及ばず自省いたしております。「被災地の神社・寺院の状況」も復興までの御高配、叩頭するばかりです。
壱:南北朝についての日記? nanbokuchounikki.blog.fc2.com/
とても面白い記事があります。貴サイトへの寸志となれば幸いです。
弐:キリスト教と共産主義
ビハインドザコーヴという映画に掲題の理解を進める端緒となりそうですので御紹介します。
虐殺の背景としての宗教或いは政治による粛清ということを論じることが無意味とは申しませんが、衒学的であることはよくある出来事に想います。映画のネタバレを避けると上手に表現できませんが、他者の文化を排するDNAの有無ということになろうかと存じます。
最近、怠け蟻の意義が報じられて賑やかですが、動物のうち社会性を持つことの定義が「自分の子孫でない個体を助ける個体の存在を集団として保有し、かつその活動を許すこと」にあるそうです。怠け蟻は働き蟻が卵の世話が出来なくなると、これを代替する活動を始めるそうです(蟻の卵は舐め続けないと雑菌に冒され死滅するため、怠け蟻が舐め出すそうです)。
この報道に触れて愚考するに、キリスト教と共産主義についても、社会性の逸脱と観るか、或いは適者生存或いは人口の調整として怠け蟻的集団が活動したものと観るか、論点を見いだせるような史的考察に出会えたらなぁ、というところで貴見を眺めている者であります。
参:廃仏毀釈という観点と、神仏判然という観点は同じ史的現象を観ながら別の論点の様に愚考いたしております。共産主義を宗教と捉える歴史学の態度が理解できない理由には、日本の史的論者が自らの歴史的経験である神仏判然を理解していないことにあるように想われます。
また、エルサレムのイエス墳墓はエチオピア(キリスト教的にはオルトドクス所謂正教)に護持されていた時機もあるのですが、十字軍やユダヤ教との関係で考察すると、これも廃仏毀釈的考察か神仏判然的論点かで見えてくる史実が異なってくるように想われます。なおエチオピアは現在でも独自の暦を継承した社会であり、廃仏毀釈ではなく神仏判然的歴史をたどった故に我が国と同様に異なる暦(日本の場合はクリスマスやバレンタインといった祭事となりますが)を持つ歴史経験となったものと愚考いたしております。
末筆乍らキリスト教圏におけるキリスト教に対する微妙な感情が何となく推察される映画を紹介して、益々の御健筆への応援に替へたく存じます。謹白
カトリック:マグダレンの祈り(映画)1996年までアイルランドに実在したマグダレン洗濯所(マグダレン精神病院)(英語版)を舞台としている。
正教会:汚れなき祈り DUPA DEALURI(監督クリスチャン・ムンギウ)
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