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0119 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その4)

2024-07-16 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第119回配信です。


一、前回配信の補足

小川氏は風巻景次郎以来の通説を批判。
確かに兼好が堀川家の家司だったとの従来の通説を維持するのは無理。
しかし、小川氏が、

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 通説では兼好の主家とされてきた公家、堀川家との縁も、実は兼好出家後の正和年間後半、真乗院と金沢貞顕を介して結ばれたと考えられる。
【中略】
ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
-------

とされるのも問題。

堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)(その2)〔2017-11-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a555dacdfa3c255e4ffe5f8979a992f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c00fd81296ddc93e0110093a72a4e6f

金沢貞顕と堀川家の関係は貞顕が東二条院蔵人に補任された永仁二年(1294)に遡る。
従って、兼好と堀川家との関係も正和三年(1314)に突然始まった訳ではないと考えるべき。

二、兼好と堀川家との関係に関する従来の通説

旧サイト(『後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について- 』)において、風巻景次郎説を基礎とする見解をいくつか紹介しておいた。

『徒然草』-久我家と堀川家の対立を軸として-従来の学説とその批判
http://web.archive.org/web/20150831083955/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ture-juraino-gakusetu.htm
五味文彦「堀河家の記憶」(『「徒然草」の歴史学』、朝日選書、1997)
http://web.archive.org/web/20061006214944/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/gomi-rekishigaku-horikawake.htm
風巻景次郎「家司兼好の社会圏-徒然草創作時の兼好を彫塑する試み-」
http://web.archive.org/web/20061006214926/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kazamaki-keijiro-1.htm

三、小川剛生氏の新説

小川『兼好法師』p89以下
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生前の後二条天皇とは無関係

 これまで兼好の伝記では、早くに堀川家との縁が生じ、そこから後二条天皇に親しく仕えたと考えられてきた(図版3-6)。後二条の母は具守の娘基子〔きし〕で、堀川家は外戚であったからである。しかし、後二条朝の蔵人在職の事実はなく堀川家との関係も兼好三十代になって初めて確認されるとすれば、後二条との関係も再考すべきである。
 家集・五七番歌は、その後二条の追善のため、生母の基子(延慶二年正月院号宣下、西華門院と号す)の命に応じた詠歌で、兼好と後二条との関係を考えるのに必ず引き合いに出されていた。

  後二条院のかゝせ給へる歌の題のうらに、御経かゝせ給はむとて、
  女院より人々によませられ侍しに、夢逢恋を
うちとけてまどろむとしもなきものをあふとみつるやうつゝなるらん
(夢で思う人に逢えましたが、その逢瀬は気を許してまどろむことすらなかったのに、それでも逢ったと思えたのは、結局そちらが現実なのでしょうか)

【中略】詞書は省略があって分かりにくいが、これも後二条が生前に書いた歌題に従って新たに歌を詠み、その和歌の料紙を継いで、裏面に写経したのである。したがって必ずしも没後すぐの催しではない。むしろ、こうした追善和歌は七回忌の例が最も目立ち、十三・三十三回忌の例もある。後二条の七回忌は正和三年(一三一四)、十三回忌は元応二年(一三二〇)、三十三回忌は暦応三年(一三四〇)、いずれかの機会であろう。なお施主の西華門院は文和四年(一三五五)まで健在であった。
 兼好が西華門院・堀川家との関係により加えられたことは確かであるが、生前の後二条に知られていたとか、まして恩顧を蒙ったとはいえないのである。また和歌も純粋な題詠であり、追悼の意は見出せない。
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「追善和歌は七回忌の例が最も目立」つのであれば、後二条院の七回忌は正和三年(一三一四)の可能性が最も高いはず。
しかし、小川新説によれば、まさに貞顕が「正和三年(一三一四)十一月に六波羅探題北方の職を解かれて東下した。その直前、定有なる人物が、貞顕の女子一人を堀川家に迎えることを称名寺の剱阿に持ち掛けた」はず。
時間的に無理が多く、また西華門院側の感情としても、兼好の参加は不自然であろう。
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