学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

山元町・八重垣神社

2011-12-31 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月31日(土)23時57分52秒

本年度最後の更新は宮城県亘理郡山元町の八重垣神社です。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52715631.html

皆様、良いお年をお迎えください。
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亘理郡山元町

2011-12-31 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月31日(土)19時31分13秒

今朝参詣した山元町の「青巣稲荷神社」と「浄土宗・浄正寺」をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52711368.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52712453.html

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掲示板タイトルの変更について

2011-12-31 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月31日(土)07時40分13秒

平成24年(2012)1月1日をもって、この掲示板のタイトルを「Japanese Medieval History and Literature」から新ブログと同じ「被災地の神社・寺院の復興のために」と変更したいと思いますので、ご理解をお願いします。
この掲示板とは別に新ブログ独自の掲示板を設けることも検討しましたが、二つの掲示板を管理するのは少々荷が重く、また、3月11日の東日本大震災発生以降、この掲示板に蓄積された情報の大半は震災に関係するものですので、実態とタイトルを適合させたいと思います。
日本史と日本文学に関する情報発信は今後も継続して行うつもりですが、対象は中世から主として近世に拡大し、かつ東北文化と他の地方の文化を比較するとの視点を新たに導入したいと考えています。
タイトルは変更しても、実際上はそれほど大きな変化が生じる訳でもないので、投稿者の方々は従来通りの投稿スタイルで引き続きご参加をお願い致します。
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経済史学会・栗田啓子騒動続報

2011-12-31 | 経済史学会・栗田啓子騒動
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月31日(土)07時17分3秒

今日の『河北新報』に経済史学会・栗田啓子騒動の続報が出ていたので、保存しておきます。
栗田啓子氏は自分の判断の科学的根拠を何故言わないんですかね。
東京女子大学教授、文理学部・現代文化学部長の栗田啓子氏は<弱い立場にある人々や苦しい状況におかれた人々と「ともに生きる力」>を持とうという信念の持ち主なので、今回の代表幹事としての行動は、栗田啓子氏の宗教観・倫理観においては、かかる信念と矛盾しないはずですね。
とすると、例えば栗田啓子氏が、「今の福島県は極めて危険な状況にあって、住民も直ちに避難しなければならないのに、政府が巧妙な情報操作を行っているから、避難がなされていない。だから自分は、経済史学会の決定という形で広く社会に警鐘を鳴らしているのだ」、といった判断を下しているのであれば、今回の行動は<弱い立場にある人々や苦しい状況におかれた人々と「ともに生きる力」>を持とうという信念には全く反しないはずですね。
栗田啓子氏の判断過程は私が上述したものとは違うかもしれませんが、ご自身の行動が、原発事故の結果、「弱い立場にある人々や苦しい状況におかれた人々」になってしまった福島県民に新たな不安を与えている訳ですから、自分の判断の過程とそれを支える科学的根拠をきちんと説明すべきではないですかね。

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経済学史学会 福島開催の変更問題 審議方法に陳謝も

 経済学史学会(代表幹事・栗田啓子東京女子大教授)が福島第1原発事故を理由に来年度の全国大会の会場を福島大から北海道の大学に変えたことに会員有志から抗議声明が出た問題で、同学会の常任幹事会は30日、審議方法などを釈明する文書を会員にメールで送った。
 文書は18日の常任幹事会の報告として送信。「会場変更は科学的根拠が薄い」と声明が反論を求めた点には、「大会がある来年5月に福島がどのような状況にあるかは不確実」と従来の説明に終始し、焦点の被ばく論議には触れなかった。
 「審議誘導とも言える不透明な点があった」との指摘には、代替校を示した上で各幹事にメールで変更の了承を求めたことを挙げ、「方向性が決まっているとの印象を各幹事に与え、反省している」と陳謝した。
 「福島大の担当会員の意向を無視した」との批判には、担当会員に事前に相談せず、常任幹事会で同大での開催断念の方針を決定後に了承を求めたことを明らかにした。
 抗議声明を出した発起人らは「開催の意向が強かった福島大の担当会員をないがしろにしていたことがはっきりした。本質的な質問に答えず不誠実な内容。要求した責任問題にも触れていない」と批判している。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111231t65008.htm

参照の便宜のため、掲示板投稿の保管庫である「学問空間」のカテゴリーに「経済史学会・栗田啓子騒動」を追加しました。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/c04c3390a02606203cede985c50c3b66

「ともに生きる力」─栗田啓子氏のお言葉
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/48f1729b99e9b78209c40d1420ad6685
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宮戸島大浜

2011-12-30 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月30日(金)23時30分43秒

「宮戸島大浜」の(その1)(その2)をアップしました。
大浜から月浜に向かう途中、道路脇の岩に梵字(ア?)が書いてあったのですが、ちょっと謎です。
(その2)の一番下に写真を載せています。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52657339.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52658619.html
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宮戸島室浜

2011-12-30 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月30日(金)09時39分26秒

今日の『河北新報』に東松島市の室浜漁港の記事が出ていたので、どのような場所かを紹介するために、「宮戸島・室浜」(その1)(その2)(その3)(その4)をアップしました。
http://chingokokka.sblo.jp/article/52612895.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52614259.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52615563.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52656342.html

記事に出てくる山口スティーブ氏は、スタンフォード大学を出た後、三菱商事に入り、山形県の建設業者の娘である日本人女性と結婚するために同社を退職、以後は山形県の田舎町で建設会社を経営し、現在は旅行会社の社長という方ですね。

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小さな浜の文化守りたい 宮戸島に番屋建設 東松島

 宮城県東松島市の宮戸島の室浜漁港に、漁業者の作業小屋「番屋」が来年1月上旬に完成する。建設に奔走したのは、山形県最上町の旅行代理店社長山口スティーブさん(51)。「行政支援の行き届かない地域を守りたい」と、持ち前の明るさで浜の復興を後押ししている。
 番屋は木造平屋で広さ24平方メートル。宮城県漁協宮戸支所が無償で提供を受ける。出資者は食品メーカー「ハインツ日本」(東京)で、山口さんが仲介した。
 室浜漁港では29日、棟上げの儀式の「建前」があり、地元住民ら約40人が集まった。山口さんと漁協幹部らが屋根に上り、餅をまいて地域の繁栄を祈願した。
(中略)
 山口さんは来年3月、津波で流された島唯一の居酒屋を復活させる計画も進める。宮城県南三陸町の戸倉地区では、各浜への番屋の建設支援を予定する。
 米国生まれで、結婚を機に山形で暮らし始めた山口さんが流ちょうな山形弁で力説する。「三陸の小さな浜の一つ一つに、先祖から受け継いできた大切な文化がある。行政の支援が届かず、みんな困っている。んだがら、そこの人たちを応援したいんだ」
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111230t15007.htm

山口スティーブ氏
http://www.traveltohoku.co.jp/?page_id=131


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雄勝町水浜・作楽神社

2011-12-29 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月29日(木)21時11分43秒

同じく9月18日に参詣した「雄勝町水浜・作楽神社」をアップしました。
ここは例年10月17日に「雄勝法印神楽」が奉納されているそうですが、今年は無理だったようですね。
石巻近辺には作楽(さくら)神社という名称の神社が多く、祭神は概ね木花咲耶姫となっていますが、神仏分離前は観音を祀った修験のお堂だったのではないですかね。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52561752.html

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小網倉浜・神明社

2011-12-29 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月29日(木)07時37分49秒

9月18日に参詣した「小網倉浜・神明社」の(その1)(その2)をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52557229.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52558351.html

神社に向かう途中に石仏・石碑を集めた場所があり、その中のひとつの「津浪記念碑」には、

「昭和八年三月三日旧二月八日
紀元二千五百九十三年
午前四時 大津浪忘レルナ
強イ地震ニ油断スルナ
地震後海ガどんト鳴ツタラ津浪ト思ヒ
津浪ト知ツタラ高所ヘ逃ゲヨ
永久子孫ニ伝ヘンガタメニ是ヲ建テタリ」

とありました。

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狐崎浜・狐崎稲荷神社

2011-12-28 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月28日(水)22時19分12秒

9月18日に訪問した牡鹿半島の「狐崎浜・狐崎稲荷神社」と「石巻市立東浜小学校」をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52551980.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52554085.html

渋沢敬三のアチックミューゼアムが収集した資料の中に「宮城県狐崎大肝煎平塚家文書」というものがあるそうですね。
http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/08-k.pdf

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『祈りのかたち─宮城の正月飾り─』

2011-12-28 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月28日(水)08時50分6秒

宮城の正月飾り刊行会編『祈りのかたち─宮城の正月飾り─』(日貿出版社、2003年)という本に、南三陸町・上山八幡宮の工藤祐允宮司が執筆された「きりこの製作」という文章が載っているので、引用しておきます。
同書には「きりこ」を制作中の工藤宮司の写真が5ページ分載っていて、作業手順の詳細が理解できるようになっていますね。

----------------
◇きりこの製作
  本吉郡志津川町 上山八幡宮
          宮司・工藤祐允
●概要
 上山八幡宮では十二月十五日から二十五日までの間に、宮司が各地区の集会場に出向いて行き、氏子が幣束やきりこを受け取りにくるようになっている。もし来れなかった場合は直接神社に受け取りに来る。家々によって頒布される「お正月様」の種類や数には違いがあるので、各地区ごとの台帳によって頒布している。

 現在製作しているものは八種類ある。
①片幣・・・「お祓い・悪魔祓い」と呼ばれる幣束。
②本幣・・・「ほんぬさ」と呼ばれる幣束。
③幣束・・・「おへそく」と呼ばれる幣束。
④赤幣・・・同 右。
⑤紙垂・・・「かきたれ」と呼ばれる注連縄に下げる紙垂。
⑥おかざり・・・「瓶子(へいし)」「重ね餅」「巾着(蕪)」の三枚一組の切り透かし形式のきりこ。
⑦えびすの幣・・・網の下に鯛と扇が付いた紙注連形式のきりこ。
⑧古峯山・・・兼務の古峯神社の講員に配る切り透かし形式のきりこ。

 ①~⑤は型紙を使って切る。①は紙を一枚、②③④は二枚重ねの紙を四つ折りにして切る。①は白がほとんどだが、②は白のほかに金と銀もある。④は赤くて小型。⑤は二十枚一組で四垂れの形をしている。⑥⑧は紙を二つ折りにして鯛と扇は型紙を使い、網やその他の部分はフリーハンドで切り、いずれも左右対称とする。
 ⑥は約六百組、⑦は漁師が大漁祈願、商店が商売繁盛を祈願して「事代主神」の前に飾る。⑧は講員約百六十名に配布する。
 毎年九月になると紙の購入から始まって、翌年の旧正月まで奉製が続く。

●心得
 毎年、神棚にお供え物を供えて神様を拝むのが正しいのだが、生活様式の変化や家族構成の変化によって毎朝お供え物を供えることができなくなっている。そこで、それに代わるものを紙で作り、神棚に一年間飾っていただくのであるから、清浄な心と身体で奉製するように心掛けている。

●製作の手順
(1)「えびすの幣」
 幅九寸五分(約二十八センチ)、長さ一尺二寸五分(約三十七・二センチ)の障子紙四枚を二つ折りにして、中央部に鯛の型紙を当てて鯛を型取りする。これには順番があって、背ビレから切り始める。次に下の部分に扇の型紙を当てて扇を型取りする。鯛と扇の間にできる余白に三蓋菱を切り抜いた飾りができる。鯛の上の網の部分は三分の一は広げたときに正面となる網二枚と左右に広げられる網になる。残りの三分の二は左右に広げたときに網となる。網目は決められた切り目の数の間隔で切る。広げたときに鯛は二枚重ねの形で中央に二尾、左右に一尾ずつ、扇も同様の形になる。
 切り終わった「えびすの幣」は、受けた氏子が神棚に正しく飾れるように前もって組み立てて配布する。一尺六寸五分(約五十センチ)の三本の竹に網の上を挟み、竹の先に小さい幣束を付ける。竹は以前は自生のものを切って使っていたが、採集が難しくなって、現在では市販のものを使用している。
 「えびすの幣」は宮城県神社庁によって頒布される「お正月様」の「ご神像、大国主神、事代主神」の前に飾られる。志津川町では「おだいこくさん・おえびすさん」と呼ばれて、農業、漁業、商売の神様として祀られているので、豊漁、五穀豊穣、商売繁盛を願って受ける。

(2)「おかざり(巾着)
※写真のみ。省略。

参考のため、『河北新報』の記事も改めて載せておきます。

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新しき年「きりこ」に託す 宮城・南三陸で正月飾り制作

 宮城県南三陸町志津川の上山八幡宮で、正月の神棚飾り「きりこ」の制作が終盤を迎えた。
 宮司の工藤祐允さん(75)と権禰宜(ごんねぎ)の娘婿庄悦さん(40)が、重ねた和紙に型紙を添え、縁起物の投網やタイ、扇を刃物で切り込む。棒を挿して折り広げると、しめ飾りのようなきりこが完成した。
工藤さんの自宅は震災の津波で全壊したが、長年使ってきた型紙や装束は無傷だった。登米市南方町の仮設住宅から毎日神社へ通い、きりこ作りを続ける。
 昨年より1カ月ほど遅い9月中旬に制作を始めた。氏子の多くが被災し、作る数は約1600枚と例年の3分の1ほどという。
 祐允さんは「震災を乗り越え生かされたという気持ちを持って、前向きに新年を迎えてほしい」ときりこに思いを託す。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111214t15020.htm
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宮城の正月飾り(キリコ)

2011-12-28 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月28日(水)07時26分55秒

私は今野家の建物よりも「お正月飾り」に興味を持っています。

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12月15日
旧河北町皿貝の大日靈神社(おおひるめじんじゃ)でオショウガツサマを持ってくる。大日靈神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の別称である。
同神社では12月15日頃から500戸の氏子に毎年頒布する。先々代までは10軒ほどの宿が決まっていて、その家で幣束などを製作していた。今野家は宿のひとつで、3軒の別家分も合わせて宮司が切っていた。
現在はあらかじめ製作したものを配布している。幣束等のお礼は米1升。
15日にうけた幣束はザルに入れ神棚に上げておく。

12月28日
午前に餅をつき、メンダマギを作る。木はモミジで枝は7本と5本のを使う。
午後は松迎え。松を迎える場所にはお供えを上げて拝む。

12月31日
午前に注連縄を作る。風呂に入り、身を清めてから、オカミで作業する。
日が変わる最後に、アクマハライの幣束を持って「アクマハライ、アクマハライ」と唱えながら各部屋を廻り、悪魔祓いをする。終わるとアクマハライの幣束は冠木門の近くに挿す。

http://www.thm.pref.miyagi.jp/guidance/institution/konnoke_shousai3_shogatu11.html

この中で特にすごいのは大日靈神社が配布するキリコ(切り紙)で、大変なレベルの芸術作品ですね。
大日靈神社は元は修験なのですが、宮城県、特に北部沿岸部の修験系の多くの神社で、お正月飾りとして非常に複雑な図柄のキリコを氏子に配っています。
私は、キリコは復興のために使えるのではないか、と思っています。

あるボランティア団体が推奨している「浜のミサンガ」も悪くはないのですが、そんなものより遥かに芸術性が高い作品を、被災地の神社は既に持っているんですね。

「浜のミサンガ」
http://www.sanriku-shigoto-project.com/about/

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北上町橋浦、愛宕神社

2011-12-28 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月28日(水)06時22分10秒

8月11日と12月24日に石巻市北上町橋浦の愛宕神社を参詣した時の様子をアップしました。
北上川(追波川)北岸、新北上大橋の1.5㎞ほど上流に位置している神社ですね。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52492673.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/52503880.html

東北歴史博物館に「今野家住宅」が展示されていますが、これは「宮城県石巻市北上町橋浦から移築したもの」なので、元の所在地は愛宕神社にも近いでしょうね。

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この建物は宮城県石巻市北上町橋浦から移築したものです。今野家は江戸時代に村の責任者である肝入を代々つとめていました。ホンヤは1769(明和6)年に建てられた屋敷の中では最も古い建物です。チュウモンは馬屋と物置としても使用されていました。その他にフロ、ベンジョ、キゴヤ、カブキモン、ウジガミサンもあります。ホンヤとチュウモンは、宮城県の有形文化財に指定されています。
http://www.thm.pref.miyagi.jp/guidance/institution/konnoke.html

私は9月に「今野家住宅」を見学し、ボランティアでガイドさんをしている70歳くらいの女性と話をしたのですが、その方によれば、今野家の人から博物館に、ご家族もご自宅も無事との連絡が入ったそうですね。
ただ、そのボランティアの女性は今野家の正確な位置は知らなくて、近くに釣石神社があるらしい、みたいなことを言われていたので、私が「釣石神社なんか、御神体の石が残っただけで、下の建物は全滅ですよ。何も残っていません。その近くだったら、今野家の方も危なかったんじゃないですか」と言うと、びっくりしていましたね。
まあ、釣石神社のある追波(おっぱ)と橋浦は少し離れていますし、今野家は山に近い場所らしいので、直接の被害はなかったのでしょうが、橋浦地区は全体として大変な被害を蒙っていますね。

朝日新聞「震災に耐えた「合格祈願」巨石 釣石神社、復興への願い」
http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201112080509.html

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8月の名振浜

2011-12-27 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月27日(火)11時48分50秒

12月24日の午後4時過ぎという陰気な時間帯の陰気な写真を沢山アップしてしまったので、比較のため8月11日に撮った名振浜の写真もアップしてみました。
この時は永沼家の位置について知識がなく、名振浜の西の端、小浜集落の写真しか撮っていないと思っていたのですが、永沼家周辺も、それと知らないまま一枚だけ撮っていましたね。
http://chingokokka.sblo.jp/article/52446279.html

また、同日に参詣した名振の山祇神社の様子もアップしました。
http://chingokokka.sblo.jp/article/52447783.html

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「名振のおめつき」

2011-12-26 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月26日(月)16時15分22秒

「雄勝町名振浜」をアップしました。
訪問したのが午後4時過ぎとだいぶ遅くなってしまったので、日没間際の少々陰気な風景になってしまいましたね。
「名振のおめつき」は面白いというか、下ネタだらけの抱腹絶倒のお祭りですね。

http://chingokokka.sblo.jp/article/52388626.html

与平氏の「仙台人が仙台観光してるブログ」に詳しい紹介があります。
http://senndai-tabi.seesaa.net/article/113198567.html
http://senndai-tabi.seesaa.net/article/113247181.html

同じく与平氏がYouTubeに投稿した動画もありますが、これは少しきれいにまとめすぎている感じですね。
http://www.youtube.com/watch?fmt=18&gl=JP&hl=ja&v=IkTSOmtbT3Q

YouTubeには別の人が平成17年(2005)1月24日の「おめつき」の様子を長時間録画した動画を投稿していますが、こちらは本当によく実際の様子が分かります。
まず①では神主の正装をした芸達者な「あきはさん」が登場し、祝詞パロディをやっていて、本格的に笑えますね。(全部で36分あるうちの14分あたりから)
http://www.youtube.com/watch?v=XepjmULhaQQ&feature=relmfu

②の方は方言がきつくて何を言っているのかよく分からないところがありますが、行列の様子は非常に丁寧に追っていますね。
http://www.youtube.com/watch?v=cyq7BNURmnI&feature=relmfu
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名振浜の永沼家

2011-12-26 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月26日(月)10時46分38秒

宮城資料ネットのネットニュース第137号には「地震発生後初めての被災地訪問で、以前に調査した古文書1万2千点の消滅を確認した、あの4月4日以来の雄勝町行き」とありますが、4月4日の記事を見ると、

--------------
 同町のN家は、戦国末期以来の地域有力者で、2000年から5年間の北上町史編さん事業で1万2千点あまりの古文書を整理・撮影しました。津波でえぐられた波打ち際の道路を進んでたどり着いた、そのN家の江戸時代に立てられた主屋と土蔵は、礎石を残して跡形もなく消滅していました。そのような状況であろうことは、事前の航空写真などの情報で把握してはいました。一方、先ほどのH家の状況もあり、わずかな可能性に期待してもいました。しかし、現実に広がる光景はそれを容赦なく打ち砕くものでした。それでも、なんとか一点でも資料を見つけたいと、がれきの中を必死に探し続けたのでした。

http://www.miyagi-shiryounet.org/03/news/2011/2011news_april.html#100

となっていますね。
掲載時点では所蔵者への配慮が必要だったのか、「N家」となっていますが、これは斎藤善之・高橋美貴氏編の『近世南三陸の海村社会と海商』にも出てくる名振浜の永沼家ですね。
私は『近世南三陸の海村社会と海商』を読んで永沼家がどうなっているのかを確認したいと思い、8月11日に名振浜まで行ってみたのですが、その時は何となく土地の有力者の家は、海から少し離れた高台にあるのだろうと思っていて、海沿いは特に見ていませんでした。
というか、海沿いは全滅であって、建物の土台しかないんですね。
それで結局、永沼家がどこにあったのかすら分からないまま引き返したのですが、今月3日に東北学院大学で行われたシンポジウム『大震災を越えて―歴史遺産を後世に残すために―』において、同大経営学部教授・斎藤善之氏の講演「三陸沿岸地域における史料所蔵家と震災の影響」を聴講し、永沼家は海に極めて近い場所に存在していたことを知りました。
ちょっと不思議に思ったのは、そんなに海に近かったら、今まで何故無事だったのか、ということです。
明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸地震、そして昭和35年のチリ地震による津波等、三陸には数十年毎に津波が押し寄せていますが、何で永沼家は大丈夫だったのだろうか、という素朴な疑問ですね。
まあ、詳しく調べた訳ではありませんが、津波被災地を歩いていると、甚大な被害を受けている地域からほんの少し離れているだけなのに被害の程度が軽微な地域をよく見かけます。
おそらく名振浜も、少なくとも今回の津波までは、特有の地形のおかげであまり津波被害を受けたことはなかったんでしょうね。
一昨日、24日(土)には名振浜も再訪して、永沼家付近の写真を撮ってきたので、後でアップしてみます。

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