投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月26日(月)10時46分38秒
宮城資料ネットのネットニュース第137号には「地震発生後初めての被災地訪問で、以前に調査した古文書1万2千点の消滅を確認した、あの4月4日以来の雄勝町行き」とありますが、4月4日の記事を見ると、
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同町のN家は、戦国末期以来の地域有力者で、2000年から5年間の北上町史編さん事業で1万2千点あまりの古文書を整理・撮影しました。津波でえぐられた波打ち際の道路を進んでたどり着いた、そのN家の江戸時代に立てられた主屋と土蔵は、礎石を残して跡形もなく消滅していました。そのような状況であろうことは、事前の航空写真などの情報で把握してはいました。一方、先ほどのH家の状況もあり、わずかな可能性に期待してもいました。しかし、現実に広がる光景はそれを容赦なく打ち砕くものでした。それでも、なんとか一点でも資料を見つけたいと、がれきの中を必死に探し続けたのでした。
http://www.miyagi-shiryounet.org/03/news/2011/2011news_april.html#100
となっていますね。
掲載時点では所蔵者への配慮が必要だったのか、「N家」となっていますが、これは斎藤善之・高橋美貴氏編の『近世南三陸の海村社会と海商』にも出てくる名振浜の永沼家ですね。
私は『近世南三陸の海村社会と海商』を読んで永沼家がどうなっているのかを確認したいと思い、8月11日に名振浜まで行ってみたのですが、その時は何となく土地の有力者の家は、海から少し離れた高台にあるのだろうと思っていて、海沿いは特に見ていませんでした。
というか、海沿いは全滅であって、建物の土台しかないんですね。
それで結局、永沼家がどこにあったのかすら分からないまま引き返したのですが、今月3日に東北学院大学で行われたシンポジウム『大震災を越えて―歴史遺産を後世に残すために―』において、同大経営学部教授・斎藤善之氏の講演「三陸沿岸地域における史料所蔵家と震災の影響」を聴講し、永沼家は海に極めて近い場所に存在していたことを知りました。
ちょっと不思議に思ったのは、そんなに海に近かったら、今まで何故無事だったのか、ということです。
明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸地震、そして昭和35年のチリ地震による津波等、三陸には数十年毎に津波が押し寄せていますが、何で永沼家は大丈夫だったのだろうか、という素朴な疑問ですね。
まあ、詳しく調べた訳ではありませんが、津波被災地を歩いていると、甚大な被害を受けている地域からほんの少し離れているだけなのに被害の程度が軽微な地域をよく見かけます。
おそらく名振浜も、少なくとも今回の津波までは、特有の地形のおかげであまり津波被害を受けたことはなかったんでしょうね。
一昨日、24日(土)には名振浜も再訪して、永沼家付近の写真を撮ってきたので、後でアップしてみます。