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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その12)─「それは、黒田俊雄氏が指摘した権門体制論的な考えに近似」(by 岡田清一氏)

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p175以下)

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 この間の事情について、慈光寺本『承久記』に、

 義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ十善ノ君ハ、加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、
 百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ、義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍
 〔サナガラ〕頸ヲ被召トモ努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

とあり、頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否したとある。この院宣拒否の姿勢が、義時に新たな不安をもたらすことになる。
 こうして地頭解任を拒否された後鳥羽上皇は、後続将軍の東下を認めず、この二つの問題はまったく解決の目途を失ってしまった。
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岡田氏が引用される部分を含め、亀菊エピソードの全体は2月17日付の下記投稿を参照してください。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

長江庄の地頭を北条義時とする研究者は多いものの、岡田氏は「頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否した」ことまで慈光寺本を信頼されており、これはかなり珍しいですね。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年五月十九日条には、

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【前略】武家背天気之起。依舞女亀菊申状。可停止摂津国長江。倉橋両庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之処。右京兆不諾申。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあって、三度の「院宣」ではなく、二度の「宣旨」となっています。
ま、それはともかく、慈光寺本では、亀菊エピソードは「医王左衛門能茂」が登場するなど、相当に複雑な展開となっていて、私にはずいぶん胡散臭い話のように思えるのですが、岡田氏のように細部まで全面的に信じる研究者もおられる訳ですね。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e21be7919eb73b747f9f322c7880af

さて、岡田氏が権門体制論者か否かですが、岡田氏の次の叙述は極めて興味深いですね。(p184以下)

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 将軍実朝の暗殺は、後鳥羽上皇の計画に大きな狂いを生じさせた。正統な「治天の君」たろうとする上皇は、幕府の軍事力さえ、その意のままに動かすべきと考えていた。それは、黒田俊雄氏が指摘した権門体制論的な考えに近似する(黒田 一九六三)。「治天の君」のもとに、公家権門(執政)、寺社権門(宗教)、武家権門(軍事)=幕府が保管して国政を担当するというこの考えは、幕府を排除の対象と見るのではなく、その体制内に位置づけるという考えでもある。
 実朝に接近し、頼家の跡を継ぐや否や「実朝」の名を与え、継承者としての正統性を与えたのも後鳥羽上皇であった。実朝を介して軍事権門(幕府)を支配する構図は、公家に宗教と軍事を加えて基盤とする新しい「王権」でもあった。実朝に後継者が誕生しないなかで、政子が皇子の東下を求めた時、これを受け入れたのも、皇子を介して軍事権門を支配するだけでなく、実朝がそれを後見するという体制が、正統な「治天の君」としては必須であった。
 しかし、その構想は実朝の死によって潰えたのである。軍事権門を繰ることができなければ、皇子の東下は将来における王権の分裂を招きかねず、それは、後鳥羽上皇にとってあってはならない将来像でもあった。しかも、寵姫亀菊の所領に対する地頭職停廃を求める三度の院宣を拒否した義時の存在は、幕府という軍事権門を体制的に位置づけることの難しさを示した。実朝の没後、幕府内で大きな権力を掌握しつつある義時の姿は、後鳥羽上皇の描く未来図にあってはならないものであって、その排除なくして自ら考える体制も構築できなかったのである。
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うーむ。
この岡田氏の発想は本当に珍しいですね。
普通の権門体制論者は、古記録・古文書を調べて、そこから当時の国家の形態が「権門体制」と呼ぶべき構造を持っていたと論じます。
「権門体制」は、あくまで現代の研究者が、過去の体制を説明するために考案した学術用語であり、分析概念ですね。
ところが、岡田氏は、もちろん「権門体制」という言葉は過去に存在したはずはないものの、それに「近似」した「権門体制論的な考え」が、後鳥羽上皇の頭の中に実在したと言われる訳ですね。
ここは、通常の権門体制論を相当に逸脱しているように思われます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その11)─岡田清一氏の場合

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
木下竜馬氏(東京大学史料編纂所助教)は1987年生まれ、山本みなみ氏(鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師)は1989年生まれだそうですが、ここで若手からいきなり長老クラスに移って、岡田清一氏(東北福祉大学名誉教授、1947生)の『北条義時』(ミネルヴァ書房、2019)を見て行くこととします。
岡田氏は國學院大学文学部卒、学習院大学大学院満期退学とのことで、安田元久氏の門下生ですね。
安田門下に「慈光寺本妄信歴史研究者」が多いことは以前から少し気になっていたので、そのケーススタディとして岡田氏の見解を検討したいと思います。

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ミネルヴァ日本評伝選『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』

北条義時(1163~1224)鎌倉幕府執権
源氏将軍が途絶えた後、実質的に権力をふるう。政治の主導権をめぐる朝廷と幕府の関係悪化から発生した承久の合戦では、幕府軍がはじめて武力で朝廷を制圧した。戦後、後鳥羽上皇ら、三上皇を配流し、その後の朝幕関係を大きく変えた。本書では時代により評価が揺れる義時の実像にせまる。
[ここがポイント]
◎ 細かな事実の積み重ねから北条義時の実像にせまる。
◎ 時代とともに揺らいできた評価を再検討する。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b439551.html

まず、メルクマール(1)関係を見て行きます。(p175以下)

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 そうしたなかで、後鳥羽上皇は鎌倉に滞在していた一条信能(頼朝の義弟能保の子)に対し、即座に帰洛すること、受け入れなければ解官すると伝えた。困惑した信能は、政子邸に伺い、参洛の意志を伝えたところ、政子は勝手な帰洛を拒否している。嫌がらせとも取られかねない上皇の命令であった。
 さらに後鳥羽上皇は、幕府の申し入れを拒否した直後、藤原忠綱を派遣、実朝の死を悼むとともに、摂津国長江荘と倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭職解任の院宣を伝えた。この荘園は、上皇の寵愛していた伊賀局亀菊の所領であったが、地頭は義時であった。当然のことながら、地頭職の改廃は御家人の死活問題であり、幕府にとって最重要課題であった。将軍を失った今、安易に朝廷の要求を受け入れるわけにはいかなかった。
 忠綱の帰洛後、政子邸に参会した義時、時房、泰時、広元が評議した結果、拒否の態度を明らかにし、三月十五日、時房を千騎の御家人とともに上洛させた。時房が地頭職解任を拒否するとともに、千騎の軍勢を背景に、後続将軍の東下を要請したことはいうまでもない。
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いったん、ここで切ります。
一条信能の帰洛問題については、『吾妻鏡』建保七年(1219)閏二月二十九日条に、

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一条中納言信能朝臣参二品御亭。申云。依不忘右府御旧好。于今祗候之処。叡慮頗不快。剰去十九日可解官之由。及御沙汰云々。然者可参洛歟云々。無左右不可被帰洛之由。有二品御返答云々。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-02b.htm

とありますが、前日条を見ると、京都で一条信能の青侍と大番役の武士との間に何かトラブルがあったようですね。
後鳥羽の帰洛命令に相応の理由があったとすれば、政子の命による帰洛拒否の方が、むしろ「嫌がらせとも取られかねない」可能性があったのかもしれません。

一条信能(1190-1221)

ま、それはともかく、上記の叙述は基本的に『吾妻鏡』に依拠していますが、長江・倉橋荘の地頭については、これに言及する三月九日条、及び承久三年五月十九日条のいずれにも誰が地頭かは明記されておらず、義時とするのは慈光寺本だけです。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-03.htm

仮に長江・倉橋荘の地頭が義時でなければ、この問題は「御家人の死活問題であり、幕府にとって最重要課題」となりますが、地頭が義時であれば、義時個人の私的利益の問題ともいえます。
権門体制論者は「予定調和」のまったりした世界に生きているので、一般論として、何かトラブルがあっても、それを貴族「階級」と武士「階級」の「階級的対立」の問題とか、そこまで古臭い表現は用いずとも、ある社会集団と別の社会集団との間の、互いに相容れない根本的な利害対立のような大きな問題にはしたがらない傾向があります。
そこで、長江・倉橋荘の問題も、これを義時個人の利害の問題とすれば比較的小さなトラブルとなり、権門体制論者の基本的な発想に馴染みやすいですね。
まあ、権門体制論者ならば絶対に義時を地頭とする慈光寺本を「妄信」するとまでは言いませんが、親和性は高いですね。
果たして岡田清一氏は権門体制論者なのか。

第一回中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3db8eba6474bd92bf295c5e187f93141

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続々)

2023-10-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
呉座勇一氏は『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)において、幕府軍の構成を、先ず『吾妻鏡』に基づき東海道十万・東山道五万・北陸道四万、総勢十九万騎、次いで慈光寺本に基づき東海道七万・東山道五万・北陸道七万、総勢十九万騎と紹介した後、

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 六月三日、幕府方の東海道軍が遠江に到着したという知らせを受けた後鳥羽方は追討軍を派遣した。慈光寺本『承久記』によれば総大将は藤原秀康、総勢一万九千余騎だという。これを信じるなら、幕府軍の十分の一ということになる。既に大勢は決したと言える。
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と書かれています。(p300)
まあ、別に不自然な書き方ではなく、読者も特に変には思わないでしょうが、これが慈光寺本では、

 幕府軍: 東海道 七万騎 東山道 五万騎 北陸道 七万騎
 朝廷軍: 東海道 七千騎 東山道 五千騎 北陸道 七千騎

となっていることを知ると、さすがに妙だな、数字があまりに綺麗に整い過ぎているな、と思う人も多いでしょうね。
ま、それはともかく、山本氏は北条政子の演説についても、『吾妻鏡』に加え、慈光寺本を丁寧に説明されていて、これも意外に珍しい感じがします。
『史伝 北条義時』(小学館、2021)にもほぼ同文の文章がありますが、「承久の乱 完全ドキュメント」から引用してみます。(p78以下)

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第三章 『吾妻鏡』で読む義時追討の宣旨と政子の歴史的演説

【中略】この演説については、『吾妻鏡』と慈光寺本『承久記』に詳しいが、前者については『六代勝事記』の記述をもとに編纂していることが明らかになっている。したがって、政子の演説は、『六代勝事記』を第一とし、これに『吾妻鏡』『承久記』を併せて、おおよその内容を知り得る。
 すなわち、政子が武士たちを庭中に集めて語ることには、
「それぞれ心を一つにして聞きなさい。これは私の最後の詞〔ことば〕である。亡き頼朝様は、源頼義・義家という清和源氏栄光の先祖の跡を継ぎ、東国武士を育むために、所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した。その恩は山よりも高く、海よりも深い。不忠の悪臣らの讒言によって後鳥羽上皇は天に背き、追討の宣旨を下した。汝たちは、男を皆殺し、女を皆奴婢とし、神社仏寺は塵灰となり、武士の屋敷は畠になり、仏法が半ばにして滅びることになってもよいのか。恩を知り、名声が失われるのを恐れる者は、藤原秀康・三浦胤義を捕らえて、家を失わず名を立てようと思うはずである」
 というものであった。これを聞いた武士たちは、涙に咽び、つぶさに返事を申すことができなかったという。
 なお、慈光寺本『承久記』だけは、政子がまず大姫・頼朝・頼家・実朝に先立たれたことを嘆き、さらに弟の義時までも失えば、5度目の悲しみを味わうことになるとして、武士たちの同情を引いてから演説に入っている。また、実朝への恩を説き、頼朝・実朝の墓所を馬の蹄で踏みつけさせることは、御恩を受けた者のすることではないとして、京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに申せと選択を迫っている。
 結局、鎌倉の町が戦場になることはなかったが、ここで政子が京方の鎌倉襲撃という、最悪の事態を武士たちに想像させている点は興味深い。『六代勝事記』では神社仏寺と武士の屋敷、『承久記』ではより具体的に頼朝・実朝の墓所に触れ、鎌倉の町が潰滅的な打撃を受けると想定していたことがわかる。
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『六代勝事記』での政子の演説は4月23日付の下記投稿で紹介していますが、確かに『吾妻鏡』の原型となったと思われる内容です。

使者到来と幕府軍発向までの流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』の比較(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04abaaa6ae901cd308f291c7437fd023

また、慈光寺本での政子の演説の原文は、4月18日付の下記投稿で紹介しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その26)─「和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21a9dd0aae9f78d209bd0a3cd8161afa

さて、『六代勝事記』には「男をばしかしながら殺し。女をばみなやつことし。神社仏寺ちりはいとなり。名将のふしどころ畠にすかれ。東漸の仏法なかばにしてほろびん事を」という文言はありますが、別に神社仏寺も鎌倉のそれと明示している訳ではありません。
しかし、「名将のふしどころ」は頼朝を連想させるので、やはり鎌倉のことを言っているのでしょうね。
そして、慈光寺本では「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」とあるので、場所が鎌倉であることは明確です。
ただ、こちらも鎌倉を焼払うといった文言はないので、私は今まで、政子の演説と「谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕」云々との山田重忠の鎌倉攻撃案を結び付けてはいませんでした。
しかし、確かに山本氏の言われるように「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」は「鎌倉の町が潰滅的な打撃を受ける」ことと同義であり、鎌倉を焼払うこととも殆ど同義ですね。
山本氏が鎌倉という「町」に特別な関心を寄せられ、鎌倉という「町」の潰滅を討幕と同義のように語られる点には私は批判的です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その7)─山本みなみ氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7f4bd139e9a1a7d96c41ba539906b86

しかし、山本氏が慈光寺本に鎌倉潰滅のヴィジョンが繰り返し描かれていることに注目された点は、まことに慧眼と言うべきですね。
そして、私の立場からすると、

(1)政子の演説の「大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ」
(2)義時の演説の「義時モ谷七郷ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上、陸奥ニ落下リ」
(3)山田重忠の鎌倉攻撃案の「鎌倉ヘ押寄、義時討取テ、谷七郷ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上」

の三つは密接に関連していて、(1)(2)は(3)が名案であり、実現可能性が高いことを読者に印象付けるための伏線のように思われます。
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