学問空間

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再興中世前期勉強会月例会のご案内

2007-08-31 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月31日(金)20時15分55秒

直前の掲示で恐縮ですが、明日、再興中世前期勉強会月例会で田井秀氏が「将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―」という発表をされますので、摂家将軍に興味のある方は是非ご参集ください。

日時:9月1日(土) 14:00~
場所:滝野川会館 303集会室
    東京都北区西ヶ原1-23-3
http://www.kitaku-town.com/map/ki007302
交通:JR上中里駅(京浜東北線)東口 徒歩7分
 JR駒込駅(山手線)北口 徒歩10分
 地下鉄南北線西ヶ原駅 徒歩7分
報告者:田井 秀 氏
タイトル:将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―
コメント:摂家将軍の九條頼経は、北条氏との対立の末に京都に戻されてしまう。それは、宮騒動(寛元の政変)として有名であるが、そこに至るまでの対立は、具体的には、どのようなものであったのか、定かではない。そこで、本報告では、その両者の具体的な対立の様子を、五大堂明王院の建立経過に見出し、以後の幕府政治への影響を考えていこうとするものである。
参考文献:
工藤勝彦「九條頼経・頼嗣将軍期の将軍権力と得宗権力」(『日本歴史』513号、1991年2月)
野口実「執権体制下の三浦氏」(同『中世東国武士団の研究』第Ⅲ部第二章、高科書店、1994年 ※初出『三浦古文化』34号、1983年11月)
秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)

http://www.toride.com/~czb/

なお、発表者の田井秀氏についてはこちら。↓
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/e/d6a8ab63c9cffc01c665cf4e0cea9194


>筆綾丸さん
すみませぬ。
レスはのちほど。
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「相撲は葬送儀礼として始まった」(by 松浪健四郎文部科学副大臣)

2007-08-30 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月30日(木)02時15分31秒

朝日新聞によると朝青龍問題にからめて松浪文科副大臣が、

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「協会は、伝統、歴史、文化を言う資格はない。相撲は葬送儀礼として始まったのに、元横綱の琴桜(先代佐渡ケ嶽親方)が亡くなった時も、相撲も土俵入りもしなかった」と批判。
http://www.asahi.com/sports/update/0829/TKY200708290261.html
----------------

したそうですが、何じゃこれ、と思って新田一郎氏(東大相撲部監督)の『相撲の歴史』(山川出版社)を引っ張り出し、最初からずっと読み直したところ、同書29頁以下に、

----------------
(前略)『日本書紀』の皇極玉天皇元(六四二)年七月、百済より来朝した使者智積(ちせき)を迎えた際に、健児(宮廷の衛士)らに相撲をとらせた、という。この相撲については、従来ともすれば、百済の使者の饗応のための宮廷でのもよおしと理解されがちであったが、この記事には「百済使人大佐平智積等を朝(=宮廷)に饗す」とある一方、「健児に命じて、翹岐(ぎょうき)の前において相撲をとらしむ。智積等、宴おわりて退き、翹岐の門を拝す」とあることに注意すべきである。翹岐は、当時在日して河内にあった百済の王族であり、相撲は翹岐の前でおこなわれ、一方、宮廷でおこなわれた饗宴の後に智積が翹岐の門前におもむいて拝礼したというのであるから、この相撲は宮廷における饗宴とは別のものであり、使者の饗応のためでなく、翹岐のためにおこなわれたものと考えた方がよいだろう。じつは翹岐はこれよりさき、五月下旬に子を亡くしており、翹岐の門前における智積の拝礼が、このことに関わるものであるとすれば、この相撲もまた、翹岐の子の葬送に関わる百済の習俗に関連するものかもしれない。
 この点について、考古学者の森浩一などは、高句麗の古墳壁画にみられる相撲図像や、日本における力士埴輪の広汎な分布ともあわせて、相撲と葬送儀礼とのあいだに密接な関係があり、それは東北アジアから朝鮮半島を経て、日本にいたる文化の流れに沿うものだったのではないか、と推測している。「相撲の祖」であるスクネ(野見宿禰)がまた埴輪製作にたずさわる土師臣の祖とされていることを、この点とむすびつける論者もある。もっとも、相撲節と葬送儀礼とのあいだには、直接の関連をみいだすことはできず、スクネと埴輪製作との関係も、『日本書紀』ではクェハヤとの「力くらべ」とは別の箇所で語られており、相撲との関連で考えるべきではない、とする指摘もあるのだが。
----------------

とあって、松浪氏もそれなりに勉強しているのだなあと感心はしましたが、まあ、古代まで遡ればそれに類する学説もあることはある程度の話なのに、「相撲は葬送儀礼として始まった」と断定するのは若干変な感じがしますねー。
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骨のある怖い地名

2007-08-29 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月29日(水)23時56分34秒

それは中尊寺の荘園、骨寺村。
http://ww21.tiki.ne.jp/~honedera/

>kariさん
>「杉坂史蹟」
ありがとうございます。
自分で検索してリンクしておいた写真を見ると、一番上は明らかに「杉」ですね。
何故か人名が彫ってあるものと思い込んでいた自分が恥ずかしい。

「日本のいちばん長い日」に、平沼騏一郎は約二十万冊の蔵書を誇る私設図書館(無窮会)に逃げ込んで叛乱部隊の襲撃を逃れた訳ですから、書物に命を救われたようなものですね。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_04.html

財団法人無窮会
http://www.mukyukai.jp/

>むらじさん
>足利尊氏の女性的ともいえる流麗な筆跡
一般論としては筆跡と人格は必ずしも結びつかないとしても、尊氏の書と例の有名な伝足利尊氏像(騎馬武者像)はおよそ接点がありえない感じがします。

>筆綾丸さん
>女騎
国文学研究資料館の「国文学論文目録データベース」で検索すると、「『女騎あまた』の記事」(安井久善、「季刊ぐんしょ」10号、1990 /10)という論文がひとつだけひっかかりました。
わずか5ページ、しかも 「ぐんしょ」だから本当に短いものでしょうが。
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平沼兄弟

2007-08-27 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月27日(月)03時49分2秒    

>筆綾丸さん
確かに後深草院の書は決して弱々しくはないですね。
リンク先の解説では、「後深草天皇の遺墨の多くに見られるごとく淡墨で、また筆力もたくましい。持明院統と大覚寺統という皇統を巡る争いのなか、自らの皇統を守ろうとした天皇の気性の強さがあらわれている」などと言われているのですが、「気性の強さ」まで読み取るのは若干無理がありますかね。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/fujii/051201/HomePage/kaisetsu18.htm

>kariさん
kariさんの写真を見ると塔身に何か書かれているのかと思ったのですが、窓の形に彫ってあるだけでしょうか。
私は何となく九段会館(旧・軍人会館)のような帝冠様式の建物を連想しました。
建立が昭和6年だとすると、設計者の美意識への影響という点で、まんざら的外れな感想でもないのかなと思います。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tsuyama/mimasaka.htm
http://www.town.sayo.lg.jp/kanko/kanko/mokuteki/sightseeing.html

>平沼淑郎
ウィキペディアと平沼赳夫代議士のホームページを見たところ、淑郎が兄で、騏一郎は弟ですね。
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ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いたが騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_01.html
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同ホームページによると、淑郎は
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津山市の生まれ。1923年より約15年にわたり早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献した。商学部校舎の1階に、朝倉文夫作の胸像がある。平沼の学徳を慕う商学部卒業生により寄贈されたもので、その逝去にあたり会津八一が追慕した「言念君子、温其如玉( ここに君子をおもえば温としてそれ玉のごとし )」の風貌を漂われている。また、第3代学長として、早稲田騒動直後の対立・抗争の収拾にあたった。学外では、社会経済史学の全国的組織「社合経済史学会」の創設にあたり初代代表理事となって活躍した。
http://www.hiranuma.org/japan/gallery/family02.html
--------------------------
とのことですが、「社合経済史学会」は多分モトにした資料をOCRで読み取った際のミスで、正しくは「社会経済史学会」でしょうね。

>相国入道さん
できれば行を詰めてもらえるとありがたいです。
携帯で読むときはちょっとつらいので。
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『恋時雨稚児絵姿』

2007-08-23 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月23日(木)10時33分39秒

>筆綾丸さん
>むらじさん
カメ気味レス、すみませぬ。
似せ絵の一例である『天子摂関御影』という作品が残されているのですが、それを見ると後嵯峨院・亀山院・後宇多院・伏見院がほぼ同じくらいの体格なのに対し、後深草院は明らかに小さく描かれていて、後深草院が小柄な人物であったのは確かみたいですね。
『増鏡』の閑院炎上の場面、話が面白すぎるので私も事実とは思えないのですが、微妙な記事ではありますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu5-gofukakusatenno-genpuku.htm

『徒然草』第33段を見ると、玄輝門院は聡明で思慮深い女性だったようです。
『とはずがたり』の粥杖事件での活躍ぶりは、監督二条による演出だと思いますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-33-imanodairi.htm

>『中世しぐれ草紙』
私は高橋昌男氏の名前を知らなかったのですが、1935年生まれで、『三田文学』の編集長を務め、何度も芥川賞候補となっている練達の小説家なんですね。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun78TM.htm

『中世しぐれ草紙』は「鎌倉末期の京。公卿邸で出会った美しい姫君と吉野山の稚児の恋が、宮中の陰謀に火をつける-。上方で出版された読本のひとつ、『恋時雨稚児絵姿』なる中世譚の現代語訳。作者未詳の戯作を恋愛心理小説として自在に訳出」した小説だそうで、この『恋時雨稚児絵姿』というのが気になりますね。
http://www.maruzen.co.jp/shop/item_detail.html?item_cd=MJ07061190&category_cd=30100160130

>松本さん
はじめまして。

>なんで、これが、平和でかわいいんだ。
『中世しぐれ草紙』が出発点で、鎌倉末期の話をしている訳でしょ。
京都の鎌倉への陳情合戦など「平和つーか、かわいいモンですよね」という釈さんの評価は別におかしくないと思いますが。
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The Confessions of Lady Nijo

2007-08-18 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月18日(土)21時43分21秒

>むらじさん
Karen Brazell氏の翻訳( The Confessions of Lady Nijo)を確認したところ、玄輝門院が「東の御方」として登場していた時期から、すでに「Lady Genki」にしてますね。
欧米で『とはずがたり』に言及する人の大半は Karen Brazell氏の翻訳一冊だけしか読んでいないのですが、1973年の時点で彼女が全訳を出したことは確かに偉業ではあるものの、荒っぽさ・強引さは否めないですね。
参考までに粥杖事件の部分を引用してみます。

--------------------
On the day of the Full-moon Gruel Ceremony,events occurred that were almost more than we women could bear: Not only did His Majesty beat us severely, but he then summoned his attendants and had them strike us too. This annoyed me, and so I connived with Lady Genki to retaliate on the eighteenth by beating His Majesty in return. On that morning, while GoFukakusa was finishing his breakfast, we assembled the ladies in the tray room and assigned each of them to a station. The ladies Shindainagon and Gonchunagon were placed at the door to the imperial bathing room; Betto and Kugo remained outside; Chunagon went to His Majesty's living room; and Mashimizu was stationed in the corridor. Lady Genki and I stood chatting in one of the end rooms.
“His Majesty is certain to come in here,isn't he?" she asked nervously. Then,just as we had expected, he entered the room, dressed informally in wide-legged trousers. His Majesty was blissfully unaware of what was about to happen.
“What's this? There doesn't seem to be anyone in my room. Is anybody here? " At this moment Lady Genki seized him. “Oh, that hurts. Is nobody here? Someone help !” he called, but no one came.
Morotada was immediately outside the room and made an effort to come to GoFukakusa's aid, but Mashimizu, who was standing guard in the corridor, told him that we were busy and that he would not be allowd in. Seeing that she was armed with a stick, he turned and fled.
While this was going on I beat His Majesty so soundly that he apologized profusely and made a solemn vow: “Never again will I order others to strike you.”
--------------------------------

原文と読み比べると、けっこう面白いですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

Karen Brazell氏の略歴(コーネル大学のサイトより)
http://lrc.cornell.edu/asian/graduate/EAL/faculty

>釈さん
>こねこ
海外で日本文学研究を始めたばかりの人が読んだら、本気にすると思われまする。
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ゴーフキャキューサ

2007-08-17 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月17日(金)12時19分3秒

ご無沙汰しております。
メタボリックな私は健康維持のために運動しなければならないのですが、ここ数日は、熱中症で死ぬよりはマシだよね、という口実のもとにサボり気味です。
ま、昨日の最高気温40.9度っていうのはさすがに尋常ではないので、健康に自信のある人も暫くは無理しない方がよいみたいですね。

筆綾丸さんがリンクされているページの岩田一男氏の名前はなんだか懐かしいですね。
自分が受験生だった頃に比べれば今は本当に英語学習のための教材が豊富ですが、私が今どきの受験生にお奨めしたいのは英文読み上げソフトです。
いくつかのサイトで好意的に紹介されていた「ReadPlease」というソフトを半信半疑で試してみたところ、予想していたより遥かに自然に読み上げるので、ちょっとびっくりしました。
後深草院二条に関する英文サイトを読ませたら、Towazugatari が「トゥワズギャタリ」、GoFukakusa が「ゴーフキャキューサ」になったりするのはご愛嬌ですね。
ああ、素晴らしきキャマキュラ時代・・・。

http://www.readplease.com/
http://home.infionline.net/~ddisse/nijo.html#anchor258249
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桃栗三年

2007-08-02 | その他
桃栗三年 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2007年 8月 2日(木)01時12分43秒

収穫まで稲よりもずっとのんびり育つ栗の栽培が農業でないのであれば、稲作も農業ではないと言った方が一貫性がありそうですね。
最近、網野善彦氏が過言ではないと言っている殆どの見解は過言だと言っても過言ではないのではないかと思っております。
http://www.proto-ex.com/gentaiken/qa16momokuri.html

>皆様
先月26日の鎌倉遺文研究会例会では守田逸人氏が「常陸国府中の中世的展開と大掾氏」という発表を行いました。
このとき、常陸に詳しい前川さんが鋭い質問を連発し、面白い議論となったのを私が横で見ていまして、今回の前川さんの発表も武士団や宗教関係に詳しい人に広く来てもらった方がよい、必ずやそれだけの意義のある発表になるはずだと思って法眼さんに公開を提案した次第です。
是非、大勢の方にお越しいただきたいと思います。

という具合に、まだ若い前川さんにたっぷりプレッシャーをかけてみました。
わはは・・・。

>筆彩丸さん
>なぜ塩商人などという姓を撰んだのか
亀レスですみませぬ。
これは「レンヌ・ル・シャトーの謎」の主人公である司祭の名を借りたものであることを著者自身がどこかで書いているはずですね。
http://www.voynich.com/seminar.htm
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