学問空間

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「歴研幕府」の繁栄

2014-04-30 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月30日(水)22時02分26秒

私が「歴研幕府」について書いたことが、まんざら全くの冗談でもないように響くとしたら、それは歴史学研究会が、普通の学会・研究会と異なって、もともと戦闘的性格を持っているからですね。
元東大総長の林健太郎氏が書かれたエッセイなどを読むと、戦前の歴史学研究会発足時には意外に雑多な要素が混ざっていたようですが、戦後、活動を再開して以降、歴史学研究会は一貫して正義の戦いのために集まった聖なる騎士たちの集団です。
倫理的水準の高い御家人たちは、日々、犬追物などで鍛錬を積み重ね、年一回、初夏に全国から集まったエリート騎士が都内有名大学のキャンパスで壮大な巻き狩りを行います。
この一大ページェントへの参加を通じて、各御家人は幕府への忠誠の誓いを新たにするとともに、御家人相互間の親睦を深める訳ですね。
そして、時には実戦があります。
1950年代に中国に密航して、帰国・逮捕後は暫く裁判闘争をやっていた犬丸義一氏のように革命のために戦おうと本気で思っていた人たちはせいぜい1960年代止まりでしょうが、70年代以降も軍国大国化反対とか教育反動化反対とかスパイ防止法反対とか国際日本文化研究センター設立反対とか天皇の死去にあたって天皇制美化に反対とか消費税反対とか中東危機を利用した海外派兵の策動に反対とか国連平和協力法案に反対とかバレンタインデーはアメリカ帝国主義の陰謀だから反対とか、まあ、歴史学研究会の年表を見ると本当に次から次へと戦闘の連続ですね。
なかでも歴史学研究会にとって絶対に譲れないのは教科書戦線で、家永教科書裁判への30年以上の支援は本当に大変だったようであり、また近時の「新自由主義史観」派との壮絶な戦いはなかなかの見ものでしたね。
西尾幹二氏の『国民の歴史』に対し、歴史学研究会が有力御家人・身内人を総動員して反撃し、執拗に追撃して殲滅に至らしめたのは、まるで元寇の再来を見るようでした。
一時は野火のように全国に広がった「新自由主義史観」派も相次ぐ内ゲバで弱体化し、その教科書採用率は殆ど無視できるほど少なく、一連の戦いは歴史学研究会の完全勝利に終わったと言ってよいでしょうね。
では、このように隆盛を誇る「歴研幕府」には弱点はないのか、衰亡のきざしは全くないのかと言うと、私の見るところ、全くないわけでもなさそうです。
(続く)

「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)

>ザゲィムプレィアさん
いらっしゃいませ。
軍事は全く疎いので、いろいろ教えてください。

>筆綾丸さん
河添房江氏の『唐物の文化史』、少し読んでみましたが、『宇津保物語』に触れた箇所、ちょっと面白いですね。
石母田氏の「宇津保物語についての覚書」に刺激されて、岩波古典大系の『宇津保物語』三巻を読み始めたところ、何分厚いので、第一巻の半分ぐらいで座礁していたのですが、また続きを読みたくなりました。

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
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「歴研幕府」の「地頭職」補任権

2014-04-28 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月28日(月)22時53分7秒

歴史学研究会が全国各地の「荘園」の「地頭職」補任権を実質的に掌握していることを証明せよ、と言われたら、まあそれは大学・研究機関の人事の問題ですから、外部から内情を知るのは極めて困難であり、もちろん私も特に情報源を持っていません。
ただ、私は10年くらい前に歴史学研究会中世史部会の月例会に参加していたことがあり、その当時の中世史部会の委員諸氏が、今はほぼ全員、国立・私立大学の准教授クラスになっているのを見ると、それが偶然だとはとても思えず、歴史学研究会の実力はすごいな、と感じています。

>筆綾丸さん
文章の稚拙さはともかくとして、「歴史学研究会綱領」で一番分かりにくいのは第三条、「国家的な、民族的な、そのほかすべての古い偏見」という表現に示された「国家」「民族」への否定的評価と、第五条の「祖国」への高い評価の関係でしょうね。

------
第一 われわれは、科学的真理以外のどのような権威をも認めないで、つねに、学問の完全な独立と研究の自由とを主張する。
第二 われわれは、歴史学の自由と発展とが、歴史学と人民との、正しいむすびつきのうちのみにあることを主張する。
第三 われわれは、国家的な、民族的な、そのほかすべての古い偏見をうち破り、民主主義的な、世界史的な立場を主張する。
第四 われわれは、これまでの学問上の成果を正しくうけつぎ、これをいっそう発展させ、科学的な歴史学の伝統をきずきあげようとする。
第五 われわれは、国の内外を問わず、すべての進歩的な学徒や団体と力を合わせ、祖国と人民との文化を高めようとする。

このあたり、文章をいくら眺めていても理解は困難で、知りたい人は終戦後から1950年代までの歴史学研究会の歴史を辿ってみるしかありませんが、その際には小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)が便利ですね。
同書には石母田正氏が「国民的歴史学」運動の挫折の後、病気になってろくな業績も残さず死んでしまいました、といった無茶苦茶な記述があり、けっこういい加減な本ですが、少なくとも「民族」「祖国」といった当たり前の言葉の意味の変遷を丁寧に追った点は評価できますね。

『〈民主〉と〈愛国〉』

>帝国主義
藤田達生氏の著書の内容は知りませんが、仮にも大学教授なのに、こういう用語の雑さは何とかならないんですかね。
藤田氏がレーニンあたりを凌駕する「帝国主義論」をどこか別な場所で詳細に論じているなら、独自な用法も良いとは思いますが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

帝国主義時代の織田信長? 2014/04/28(月) 16:10:46
小太郎さん
「総じて・・・」以下の御考察、格段に冴えていますね。歴史科学協議会と歴史学研究会の関係が、よくわかりました。
「歴研幕府の中枢にあって甘い汁を吸っていた特権的支配層を除く九九パーセントの人間が反感を抱いていたと言っても過言ではない。だが、そのことと、彼らが幕府打倒を現状打開の手段として現実に検討するかどうかは、全く別の問題である」
「歴研幕府」の綱領・会則をみると、赤子の手を捻るようなもので、すぐ打倒できそうにみえますが、打倒しても「現状打開」にはならないのでしょうね。綱領・会則には時代遅れの文言もあり、そろそろ全面改正の時期かとも思われますが、それが難しいなら、追加法のような形でもう少し充実させたほうがいいような感じがしますね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/04/102265.html
藤田達生氏『天下統一』を読んでみました。
------------------
天下統一の時代、歴史の推進剤は紛れもなく軍事(火薬)がもたらした地球規模の植民地主義=帝国主義だった。(9頁)
帝国主義の時代には、なにはともあれ国家的自立を守らねば意味がない。内憂外患状態の日本を短期間で統一し、しかも強力な軍事国家へと育て上げることこそ、信長にとっての焦眉の急となったのだ。(150頁)
------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
藤田氏によれば、16世紀末はすでに「帝国主義の時代」ということなんですね。うーむ。後段の文中の「信長」を「明治政府」とすれば、「帝国主義の時代」の説明にはなるけれども。

---------------------
徳川家康が購入したカルバリン砲(最大射程約六三〇〇メートル)やセーカー砲(最大射程約三六〇〇メートル)などのヨーロッパ製の長距離砲も実戦に投入され、少なからぬ威力を発揮した。(11頁)
---------------------
http://en.wikipedia.org/wiki/Culverin
ウィキには、
A replica culverin extraordinary has achieved a muzzle velocity of 408 m/s, and a range over 450 m using only minimal elevation.
とあり、(レプリカの)最も性能の良いものは、初速が 408 m/s、最少射角での射程距離が 450 m とのことで、これらの数値から最大射程距離をどう導くのか、その計算式は不明ながら、藤田氏の記述によれば、家康の時代に最大射程約6,300メートルの大筒があった、ということになりますね。砲弾に爆発力はなくとも、相当な運動エネルギーではありますね。
最適の角度で二条城から発射すれば、東は大文字山、西は嵯峨野、南は鳥羽街道、北は上賀茂神社あたりに着弾するわけで、鳥羽伏見ではなく関ヶ原の戦いの時代に、かくも強力な大筒が存在したというのは・・・ちょっと信じられない気がしますが、本当なんだろうか。
弾道が放物線を描くことをガリレオ(1564-1642)が発見したのが関ヶ原の戦いの前後だとしても、遠く離れた日本においては、おそらく弾道はわからず、大筒の砲弾をどの方向に打ち出せば最適になるのか、まるでわからない。・・・・・・
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「歴史学研究会幕府」

2014-04-26 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月26日(土)22時02分36秒

>筆綾丸さん
>獺祭
図書館で誰も借りないような古い本を書庫から沢山出してもらい、黒光りした長い机の上に180度ぐるっと並べてあれこれ読みふけるのは私にとって至福の時間ですが、周囲からは近寄り難いオーラを発している怪しいカワウソ男と思われているかもしれません。

呉座勇一氏の『戦争の日本中世史』から、先に引用した部分の続きを少し引用してみます。(p98以下)

----------
 そんなバカな、と思われるかもしれないが、これはまごうことなき事実である。一例を挙げよう。二〇〇七年の日本史研究会大会・中世史部会で熊谷隆之氏が「鎌倉幕府支配の展開と守護」という報告を行った。これは従来の理解と異なり、時代が下るにつれて鎌倉幕府の地域支配が強化されていることを論じた斬新なものであった。討論では「熊谷氏の説明では、なぜ鎌倉幕府が滅びたのか分からない」という批判が起こったが、熊谷氏は「制度が強化される一方で結果として幕府は滅びるが、その理由を一言で説明するのは難しい」と応答した。つまり「分からない」のである。
(中略)
 右に掲げた諸説に共通して言えることは、体制から疎外された勢力が蜂起し、体制を打破するという筋立てである。読者諸賢は既にお気づきであろう。そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない。
 御家人・非御家人を問わず、鎌倉幕府、特に北条氏の専制に不満を持っていた人は確かに大勢いただろう。鎌倉幕府の中枢にあって甘い汁を吸っていた特権的支配層を除く九九パーセントの人間が反感を抱いていたと言っても過言ではない。だが、そのことと、彼らが幕府打倒、北条氏打倒を現状打開の手段として現実に検討するかどうかは、全く別の問題である。
 後世の歴史家は「専制支配によって表面的には人々の反発を押さえこむことができたが、社会の深奥では矛盾が拡大していった」などともっともらしく解説するが、それは結果を知っているから言えることであって、当時の人間は鎌倉幕府の滅亡など想像もしていなかった。後醍醐天皇の統幕計画は、北条氏の専横を苦々しく思っていた側近の貴族、吉田定房からも「東国武士は一騎当千の強者ぞろい、幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません。倒幕は時期尚早で、現時点では敗北の公算が大です。天皇家がここで滅んでしまっても良いのですか」(吉田定房奏状)と諌められるほど無謀なものだった。
 そもそも前近代の権力はおしなべて専制的であるので、「専制支配への不満が高まり、体制打倒の機運が生じた」といった説明は無内容なのだ。(後略)
---------

興味深い指摘が多々ありますが、鎌倉幕府滅亡を既に知っている我々にとって、当時の人々が幕府の将来をどのように予想していたのかを想像するのは意外に困難な作業ですね。
そこで、鎌倉幕府滅亡前の状況を想像する思考実験として、歴史研究者には馴染み深い歴史学研究会の滅亡可能性を少し考えてみたいと思います。
一般の歴史愛好者の世界は別として、職業として歴史に携わっている人々とその予備軍から成る部分社会を考えた場合、そこでの歴史学研究会の支配は非常に強固なものがありますね。
仮にこれを「歴史学研究会幕府」、略して「歴研幕府」と捉えて、佐藤進一氏に倣ってその主従制的支配・統治権的支配の態様を検討してみると、まず、統治権的支配においては、意外に貧弱だなとの印象を禁じえません。
統治権的支配の中核となる「歴研幕府法令集」を見ると、まず憲法に比すべき「綱領」には条文が僅か五条しかありません。
その文章は、非常に若々しい、というか、気品と格調を欠き、ひらがなの多さは聊かたどたどしい印象すら与えて、高度の知的権威を感じさせる要素がありません。
また、「会則」も僅かに十条であり、統治機構は極めて簡素で、規定内容も組織運営上予想される様々な事態において問題解決の基準とするにはあまりに貧弱ですね。

歴史学研究会綱領・会則

総じて「歴研幕府」の統治権的支配は弱体としか言いようがありませんが、反面、主従制的支配はしっかりしていますね。
主従制的支配の中核は「御恩」と「奉公」ですが、歴史学研究会自体は公的な組織ではないものの、全国の多くの大学等の研究組織(以下、総称して「荘園」という)において、配下の「御家人」を「教授職」「准教授職」等の諸職(以下、総称して「地頭職」という)に補任する権限を実質的に掌握していて、「歴研幕府」にきちんと「奉公」すれば、「御恩」として名誉と報酬を伴う「地頭職」を得られる可能性が高くなります。
「歴研幕府」の「御家人」のうち、中心的構成員は歴史科学協議会にも属していて、歴史科学協議会と歴史学研究会の双方に属しているのが「身内人」、歴史学研究会のみに属しているのが「一般御家人」ですね。
「歴研幕府」の「特権的支配層」は「身内人」が相当多数を占めています。
また、京都には「日本史研究会探題」があって、相対的に独自性を発揮しています。
もちろん、「歴研幕府」(「日本史研究会探題」を含む)が「地頭職」を掌握していない本所一円地も多く、またそれぞれの「荘園」には様々な由緒や関係者の利権があって、「歴研幕府」への奉公の有無・程度だけが「地頭職」獲得の決め手になる訳ではありません。
(続く)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

獺祭と流鏑馬 2014/04/26(土) 13:06:32
小谷野さん
ご丁寧にありがとうございます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%95%86%E9%9A%A0
http://asahishuzo.ne.jp/
「無題」と云えば、獺祭李商隠が有名ですが、敬称については、鷗外の疑問がありますね。安倍晋三を例にとると、姓に氏をつけて安倍氏ならいいけれども、名もいれて安倍晋三氏は何か変だ、安倍晋三さんというのが無難か、といったような。
首相は、銀座の鮨屋で、山口県の大吟醸獺祭を振舞ったのでしょうね。TPPはまあ獺祭のようなもんですな、ハハハ、とか言いながら。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140425-00077392-kana-l14
http://www.kanaloco.jp/article/70059
この明治神宮の流鏑馬の儀式は鶴岡八幡宮の四月の神事の時と同じ武田流で、オバマさんとキャロラインさんの前を疾走した葦毛は名馬メジロマックイーンの仔ですね。女性射手の又吉さんは、しづやしづの静御前ではありませぬが、キリリと颯爽とした女性ですね、たしか。
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『マックス・ウェーバーの政治理論』

2014-04-24 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月24日(木)21時08分25秒

少し前に「石母田氏の戦前の論文をパラパラ見たところ、明らかにウェーバーの研究を前提にしているのにウェーバーに触れていないものがあり・・・」と書きましたが、これはもちろん剽窃とか無断引用といった話ではありません。
実際、ウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」と石母田氏の「宇津保物語についての覚書」を読み比べても、普通は両者の間に特別の関係があるとは気づかないですね。
先に述べたことは、石母田氏がウェーバーの考え方を自己の発想のヒントとしたであろう程度のつもりだったのですが、いかにも書き方がまずかったですね。
小保方騒動の時節柄、妙な方向に誤解されても困るので、念のため書いておきます。

今日は牧野雅彦氏の『マックス・ウェーバーの政治理論』(日本評論社、1993)を読み始めたのですが、1955年生まれの牧野氏が論文を発表し始めてから10年間ほどのものをまとめた論文集で、どれも気合が入っていますね。
マックス・ウェーバー熱は当分冷めそうもありませんが、さすがに宗教社会学方面、特に『古代ユダヤ教』あたりに入り込むと数年間は戻って来れなくなりそうな予感がするので、何とか踏みとどまっています。

『マックス・ウェーバーの政治理論』
http://www.nippyo.co.jp/book/834.html

>筆綾丸さん
南川高志氏は京大教授ですか。
ローマ帝国も面白そうですが、当面は手が出せないですね。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/european_history/eh-minamikawa/

>小谷野敦氏
小谷野氏は変人仲間の呉智英氏に対してはそれなりに敬意を持たれているはずですが、佐伯順子氏は宿敵?じゃないですかね。
本郷和人氏の位置づけは全然分かりませんが、三人だけ「さん」というのは妙な感じですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7304
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7303
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ウェーバーのサバサバ感

2014-04-22 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月22日(火)21時35分38秒

>筆綾丸さん
ウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」には、ギボンを明示しての言及は特にないですね。
最初の方を少し紹介してみます。

-------
 ローマ帝国の崩壊は、外的な事情、例えば、例えばその敵の数的優越とか或はその政治的指導者の無能とかによるものではなかった。その終末期においてすら、ローマはゲルマン的大胆さと洗練された外交技術を一身に兼ね併せた英傑スティリコの如き鉄腕の宰相を有っていた。何故彼等には、メロヴィンガー、カロリンガー及びザクセン族出身の、目に一丁字なき指導者が成就し且つサラセン人及びフン人に対して守りおうせた功業が許されなかったのか。──ローマ帝国が昔日の俤を失ったのは既に久しいことだったのである。崩壊は巨大な衝撃によって突如として起ったのではなかった。民族大移動はむしろ長期に亘ってつづけられた発展の結末をつけたものにすぎなかった。
-------

ここでローマ帝国没落に関するいくつかの説に触れた後の言い草が、いかにもウェーバーらしくて面白いですね。

-------
 俗説は以上で十分だ。──だが事態の検討に先立ってなお一言加えたい。
 語り手が聞き手に与える印象は、聞き手が自分こそ話中の人であると感じ、教訓に従わねばならぬと思うに至るを以て、よしとする。以下の説述はこのような好都合な状態にあるのでは決してない。今日、吾々が当面する社会問題にとって、古代の物語は殆んど或は全く関係するところがない。今日のプロレタリアートと古代の奴隷とは、恰もヨーロッパ人と中国人が互いに理解し合えないと同様に相互に諒解し合うことがないであろう。吾々の問題はこれとは全く種を異にするものである。吾々が観入る演劇を領するものは、ただ歴史的な興味にすぎない。だがそれは歴史の知る最も独特な興味、即ち古代文化の自己解体に関するものである。
 吾々が第一に解明しておかねばならないのは、かのいま指摘したばかりの、古代社会の社会構造の独自性である。古代文化の循環的発展は正にこの独自の社会構造の性格によって規定されていることは、やがて明らかとなるであろう。
-------

1896年、28歳のウェーバーが「吾々が当面する社会問題」と言っているのはウェーバーが『東エルベ農業労働者の状態』で検討した問題なのですが、それと「古代の物語は殆んど或は全く関係するところがない」と聴衆に向かって言い放つウェーバーのサバサバした姿勢は、1919年1月、第一次世界大戦の敗北後の混沌とした社会情勢の中で、54歳のウェーバーが行った有名な講演、「職業としての政治」の冒頭を思い起こさせます。(脇圭平訳、『マックス・ウェーバー政治論集2』、みすず書房、1982年所収)

-------
 諸君の希望でこの講演をすることになったが、私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっかりさせるだろうと思う。職業としての政治をテーマとした講演である以上、諸君の方ではどうしたって、今のアクチュアルな時事問題に対する態度の表明というものを期待なさるだろう。しかし、その点は講演の最後の方で、生活全体の営みの中で政治行為がもっている意味について、若干の問題を提起する際に、ごく形式的に申し述べるだけになると思う。一方、どういう政治をなすべきか、つまりどういう内容をわれわれの政治行為に盛るべきか、といった種類の問題となると、今日の講演では一切除外しなければならない。というのは、そんな問題は、職業としての政治とは何であり、またそれがどういう意味をもちうるのか、といった一般的な問題と、何の関係もないからである。──さっそく本論に入ろう。
-------

このサバサバした感覚がウェーバーの最大の魅力ですね。
「古代文化没落の社会的諸原因」に刺激されて石母田正氏が書かれた「宇津保物語についての覚書」も実に良い論文で、これが『中世的世界の形成』執筆前の時期に『歴史学研究』に発表されていたと知ったときは、いささか意外な感じがしました。
私も石母田氏との最初の出会いが『中世的世界の形成』ではなく「宇津保物語についての覚書」であったら、もっと前から石母田氏の熱心な読者になっていたのに、とついつい仮定法過去完了で考えてしまいます。

>『鎌倉幕府衰亡史』
呉座勇一氏は『戦争の日本中世史』で、

-------
鎌倉幕府滅亡の原因は何か。この難問に対する日本中世史学界の最新の回答をお教えしよう。
ズバリ「分からない」である。
-------

と言われ、この後に2007年の日本史研究会大会・中世史部会での熊谷隆之氏の報告に対する質疑応答を紹介したうえで「分からない」を強調していますが(p97・98)、私は細川重男氏の最近の著作にけっこう納得しています。
ただ、ウェーバーを読み進めて行く過程で、細川重男氏、というか佐藤進一氏の弟子・孫弟子の方たちへの疑問もフツフツと湧いてきているので、後で少し検討したいと思っています。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7300
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若きヴェーバーの「通俗講演」

2014-04-21 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月21日(月)12時34分59秒

今日はマックス・ウェーバー生誕150周年記念日ですね。

石母田正氏が「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての」を書くにあたって刺激を受けたというウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」には邦訳、それも堀米庸三氏によるものがあるんですね。
ただ、タイトルが「古代文化没落論」と変更されていて、『世界大思想全集 社会・宗教・科学思想篇 第21巻』(河出書房、1954年)という古風な本に載っていたので、気づいていませんでした。
同書の訳注には、

--------
ここに古代文化没落論として訳出した論文の原名は、古代文化没落の社会的諸原因(Die sozialen Gründe des Untergangs der antiken Kultur.)といい、一八九六年フライブルク・イン・ブライスガウのアカデミー集会で行われた通俗講演に基いて書かれたもの。ヴェーバーは一九八四年以来同地の大学の経済学正教授であり、時に三十二歳であった。この講演の構想は彼のベルリン大学への就職論文、「ローマ農業史」(Die römische Agrargeschichte in ihrer Bedeutung für das Staats- und Privatrecht, 1891.)の第四章、「ローマの農業と皇帝時代のグルントヘルシャフト」(Die römische Landwirtschaft und die Grundherrschaften der Kaiserzeit.)によるものであり、古代文化の没落をローマ史に内在する契機から説明しようとするもの。数ある古代文化没落論の中にあって、今日においても、最も重要なものであり、若きヴェーバーの溌剌たる才気を最も良く示す業績である。
--------

とあります。
「通俗講演」とありますが、内容は非常に高度で、いったいどういう聴衆が相手なんじゃ、という感じがしますね。

石井先生、「果たしてそれだけでしょうか」(by 小太郎)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7267
『古代文化没落の社会的諸原因』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7264
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その3)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)13時36分16秒

更に続きます。

--------
 そのことを問題にする前に一言しておかなくてはならぬことがある。それは、私が父の日本主義者への変貌の内面的過程をはなはだ不十分にしか知らないということである。たしかに父は私をつかまえて、「惟神(かんながら)の道」を語ったことはしばしばであった。しかし、私が本当に批判的関心をもちえた頃には、父はすでに日本主義者だったのである。明治人として、恐らく父は最初から愛国者であったにちがいない。大正デモクラシーの時代、軍人が軍服で街を歩くのを好まなかったことについて、父は後年、これを異常なことと語っていたし、私のもの心ついた頃から、反社会主義的であったことも知っている。社会大衆党に好意をもっていなかったのも事実であるし、吉野作造氏らの民本主義にも疑念をもっていた。しかし普通選挙法の実施に対し、時期尚早論をとなえた人に対する批判をもっていたことも、他方における事実であった。
 昭和初年の大恐慌は、父の事業にも大きい影響があった。それだけに満州事変は一つの開放として映じたようである。この頃から父の日本主義は、きわめて明確な形をとってきた。前述の三井甲之氏との関係から『原理日本』を購読するようになり、戦争中には何がしかの資金援助も行ったらしい。
 私が神戸に去ったのちには、三井氏のみならず蓑田胸喜氏をはじめとする原理日本社の人々が来宅したことも何度かはあったようである。そうはいうものの、河合事件にさいしては、自由主義者としての河合栄治郎氏の主張を全面的に否定することはなかったし、一方では、柳宗悦氏、河井寛次郎氏、棟方志功氏などの民芸派の人々との交際も頻繁であった。とはいえ、父はれっきとした原理日本社の支持者であり、蓑田氏の狂熱よりは三井氏を最後まで買っていたにしても、熱烈な反共主義者であったことに変りはない。
 これは、一貫して父の人間と学問に尊敬を感じていた私にとって、苦痛の種であった。私はマルクシストになったことはかつてなかったが、私の学んだ東大西洋史学科は、いわばヒューマニスト社会主義者の集まりの観を呈しており、私は家庭と大学の間に立って苦しんだ。神戸商大予科から招きがあったとき、即座に承諾した私の心のなかには、左右両派の強い影響からのがれて、独自に自分の立場を定めたい気持が濃厚だったのである。(後略)
---------

この後、「日本文化の自閉性」のタイトルで、父親の思想的遍歴についての若干の分析が続くのですが、長くなりすぎたので一応終わりにします。
まあ、前半の話の流れからすると、歌人としてそれなりに著名であった三井甲之はまだしも、蓑田胸喜の登場はちょっとびっくりですね。
ちなみに蓑田胸喜は堀米康太郎氏より10歳下ですね。

蓑田胸喜(1894-1946)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その2)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)09時06分57秒

続きです。

----------
 父はまた書を能くし、和漢の詩文にも心得があったので、新聞や雑誌に投稿する一方、尊敬する学者に向っての文通にも、少なくとも若い時代、熱心であった。私が旧制中学の受験にさいし、不勉強から公市立の学校に失敗し、私立の芝中学(現在の芝学園)に入学したのは、父が郷里にいる時代から「新仏教会」に加入し、故高島米峯氏とよく知り合っていた関係からであった。悪名高い『原理日本』と後年関係ができたのも、その思想的指導者であり歌人でもあった故三井甲之氏を、若い頃からの和歌の師─もちろん文通による─と仰いでいたからであった。
 父は人一倍の正義漢で、また私たちをいましめるのに「自らの精神をけがすな」と説くのをつねとしていたが、決してストイックではなかった。ひどく子煩悩ではあったが、私が三男であったせいもあって、干渉がましいことはいわなかった。一口でいえばリベラルな教育者であった。
(中略)
 しかし西洋史への興味は、父の蔵書中にあった西洋文学によることなしには育たなかったであろう。ゲーテやトルストイは小学校時代の私には興味をそそらなかったが、ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、これも何度か読んだものの一つであった。その頃の記憶にはまた石川戯庵訳のルソー『懺悔録』がある。私が読んだのではない。父はこれを毎年の正月の休みに読むのをつねとしていたのである。ゲーテの『イタリア紀行』も同じであった。ゲーテはわかるが、なぜ、父が正月にルソーを読むことにしていたのかは、いまもってわからない。
 このように書いてくれば、私が学者たるべくどんなに恵まれた家庭に育ったかを宣伝するに等しいが、実際に私が学問の道に入る決心をしたのは、大学入学直前のことだったといってよい。私は子供の頃から一貫して運動に熱中し、小学校から大学卒業後にいたるまで、選手ないしコーチ生活をつづけたのである。このスポーツ狂の私がなぜ学者の生活を選んだかは、やはり父の影響ぬきには考えられないが、それはいま私の語ろうとしていることではない。
 私が父を語ったのは、この教養にとみ、個人倫理に徹し、またリベラルな心情の持主でもあった父が、後年にどうして熱烈な日本主義者になったのか、その理由を考えてみたかったためである。それを考えることは恐らく、明治大正期の文化人の精神的遍歴の一理由を解明することに役立つであろう。
---------

高嶋米峰は9歳上ですが、「和歌の師」の三井甲之(こうし)は1歳上で、同年輩ですね。

高嶋米峰(1875-1949)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%8B%E7%B1%B3%E5%B3%B0
三井甲之(1883-1953)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E7%94%B2%E4%B9%8B
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)07時13分59秒

石母田正とは何だったのかを問うことは、戦後歴史学とは何だったのか、歴史学研究会とは何だったのかを問うことと同じなので相当しつこくやってきましたが、堀米庸三氏は出身地・学歴や歴史学者としての活動時期、社会的活動への関心のあり方等々、石母田氏と比較対照するための参考的位置づけなので、この掲示板にはそれほど書くつもりはありません。
ただ、少し前に書いた堀米庸三氏の紹介だけだと、裕福な家庭に生まれたスポーツ好きの好青年、みたいな軽いイメージを持たれる方がいるかもしれないので、「大学紛争と日本の精神風土─ひとつの体験的思索─」(『わが心の歴史』、新潮社、1976年)から若干補足しておきます。
なお、東大紛争に巻き込まれて健康を損ねたことが堀米氏の62歳という若さでの死去の原因のひとつで、この文章はタイトル通り大学紛争をテーマとしているのですが、当面の関心とは離れますし、また私自身、堀米氏の大学紛争に関する見解に必ずしも賛成している訳ではないので、ここでは大学紛争に関係する部分を特に引用も言及もしません。
そのあたりに興味がある人は『わが心の歴史』を読んでみてください。
同書の「年譜」も、堀米氏の人柄を反映した非常に面白い読み物になっているので、お奨めです。

--------
 私の語りたい体験というのは、私事にわたることであるが、父親に関することである。私の人間形成に決定的な影響を与えた人間をただ一人あげよといわれれば、私としては父をあげるほかはない。
(中略)
 前置きが長くなったが、私の父は一生を無名の町工場主として終った。零細企業の一つにすぎない。亡くなってほぼ二十年を経ている。父との関係で述べなければならなぬ人々も大方はすでにこの世の人ではない。
 父は無名の町工場主であり、学歴も中学中退という貧しいものであったが、語の真実の意味で学者といえる人間であった。私の家系は元来、東北地方の地主であり、同時にかなり手広く東北諸藩を相手に大名貸しをやっていた。少し以前の学術用語を用いれば前期的高利貸資本のカテゴリーに入るであろう。しかし明治維新の動乱にさいし、家運は傾き、父の青年時代にいたるまで、何度かの破産にあい、いたずらに格式のみ高い家柄となっていた。
 父は明治十七年の生れであるが、山形中学を三年で中退したのは、この破産のためであった。いわゆる「改革」のため、かつて最大の取引先であった伊達藩の仙台に一時居を移したとき、父は十七歳頃であった。もともと哲学的傾向をもっていた父は、ここで綱島梁川の門をたたき、梁川ならびにその同門の人々に深い感化を受けた。その頃の父を語るエピソードとして、つぎのようなものがある。
 昭和十七年であったか、当時神戸商大予科の最年少の教師であった私は、たまたま故安倍能成氏にあう機会があった。氏は私の名前をきいた途端に、「ひょっとして君は堀米康太郎氏の関係ではないか」とたずねられた。能成氏のことは何度か父にきいていたので、私も多少の期待がないわけではなかった。しかし四十年以上も昔のことをとっさに想い出した能成氏の強記もさることながら、それほどの記憶を十七、八歳の少年として与えた父の異才におどろかないわけにはいかなかった。
 父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。おそるべき博覧強記の父は、またその博引旁証で私を驚かせた。勉強は若い時代に限らず、何ごとによらず第一級の書物を読まずにはいられなかったらしく、マルクシズム関係の書物もかなりあったし、雑誌の『思想』や『理想』は、町工場主として生涯を終るその晩年にいたるまで、定期の購読をつづけていた。

綱島梁川(1873-1907)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
安倍能成(1883-1966)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
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『国家学の再建 イェリネクとウェーバー』

2014-04-18 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月18日(金)20時59分37秒

>筆綾丸さん
>若年寄のような感じ
小川氏は中学生にして『尊卑分脈』を愛好していたという変人ですから、文章もいささかぺダンチックかつ古風ですね。

マックス・ウェーバーの二十代の論文ですが、三番目の『東エルベ農業労働者の状態』は、ポーランドなどからの外国人労働者受け入れに伴い、プロイセンの国民精神の基盤であったユンカーとその支配下の家父長制社会が根底から掘り崩されるという、当時としては非常に深刻な社会的問題を背景にしたものだそうですね。
ウェーバーはこの膨大な分量の論文のおかげで、二十八歳の若さで農業問題の専門家として有名になったそうですが、さすがに2014年の時点では食指が動かないですね。

牧野雅彦氏によれば一番最初の論文は次のようなものだそうです。(『国家学の再建』、名古屋大学出版会、2008年、p287、注8)

-------
ウェーバーの学位請求論文『中世商事会社の歴史』(一八八九年)の主題は、近代合名会社組織の基礎をなす特別財産と連帯責任の原理の起源がローマ法のソキエタス(societas)ではなく中世イタリアに求められることを明らかにすることにあった。その意味においてはウェーバーの学問的出発点はローマ法とゲルマン法をめぐるドイツ歴史法学の問題圏内にあった。後から振り返ってみるならば、ウェーバーはそうした問題を古典古代と中世・近代ヨーロッパ─さらにはそれらとアジア世界との対比─という比較社会学的な問題へと再構成していったということになるだろう。ローマ法のソキエタスとゲルマン法の原理を対比するギールケの議論については次章を参照。なおローマ法継受の問題についてはベロウがそれまでの論争を総括している。(後略)
-------

これ、数ヶ月前だったら私にとっても暗号に近い文章だったのですが、中世国家論をきっかけにドイツ法史を少し勉強したので、今なら無理でもないのかな、という感じがします。
すぐ手を出す余裕はありませんが、後で内容を確認してみたいですね。

『国家学の再建』、前半は私の当面の関心にあまり関係ないのでいささか退屈だったのですが、「第6章 西洋型国家の歴史的起源─「支配の社会学」と中世国家論争」以降は非常に刺激的で、夢中になって読んでいるところです。

-----
『国家学の再建 イェリネクとウェーバー』

はたして政治指導における責任とは何か―。国家と主権の本質、国家と法の関係、近代国家の歴史的起源等、イェリネクによって集大成されたドイツ国家学が先駆的に取り組んだ諸問題を引き受け、あらためて国家学の再構成を試みたウェーバー。主権国家の枠組みが問い直される現在、ドイツ国家学の達成と今日的意義を明らかにするとともに、二人の知的営為の核心に迫る。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

キメラ細胞のような文体? 2014/04/17(木) 17:01:52
小太郎さん
「若き時は、血気うちにあまり、心、物に動きて、情欲多し。・・・」(第172段)などが、若年寄のような感じがしないでもない小川氏には、「多感な青年期」を表象する susceptible なものと映ずるのかもしれないですね。

http://sankei.jp.msn.com/science/news/140417/scn14041711300006-n1.htm
時事ネタで恐縮ですが、笹井氏の記者会見をニコニコ動画で見ていて、問題の nature の論文には四種の異なる文体が混在しているが、あなたはどの部分に関わったのか、という女性ジャーナリストの質問にびっくりしました。さほど長くもない科学論文の文体の相違を四つも見分けられるというのは、キメラ細胞も魂消るほどで、ハッタリでなければ、質問者の英語力は相当なものなんでしょうね。(地の文体とコピペの文体の相違すら見抜けなかった笹井氏の英語力は大したものじゃない、と彼女は云いたかっただけなのか)
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「多感な青年期」

2014-04-17 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月17日(木)08時49分51秒

>筆綾丸さん
第107段の「女の物言ひかけたる返事」かなと思ったのですが、これは自分の経験談ではないですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-107-onnano-monotoikake.htm

もしかしたら、第8段の久米の仙人の話かもしれません。
検索したところ、「徒然草~人間喜劇つれづれ」というブログによれば、

------
『集成』はこの段には「若き日の兼好の気持ちが、相当率直に表現されている」と言い、『全注釈』も兼好の「切実な嘆き」と言い、また「内省的、主体的な問題として取り上げ」「人間性の暗い一面に切り込んでいる」と評して
http://ikaru811.blog.fc2.com/blog-entry-9.html

いるそうですね。
『集成』は木藤才蔵氏の『新潮日本古典集成 徒然草』のことで、木藤氏は第8段に兼好の「多感な青年期」を読み取っている訳ですね。
なお、『全注釈』 は安良岡康作氏の『徒然草全注釈』のことですが、同書は上下二巻の非常に詳細な注釈書でありながら、随所に示されるトンチンカンな感想が楽しい名著です。

ところで磯田道史氏(茨城大学准教授)は、

------
二条良基は巨大な牛のような巨人で、牛を解体できる刀と技術を持った料理人でなければ、とても扱えない。だから二条良基の研究は小川さんだからこそできたのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c002dfe093cdd035ca24de729c4a79b5

と言われていますが、「巨大な牛のような巨人」を自在にさばく辣腕の料理人の小川剛生氏には「多感な青年期」があったのですかね。
ま、仮にあったとしても、どのように多感であったかについて特に興味はなく、ちょっと言ってみただけですが。
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「捏造だけが人生だ」(by 吉田兼倶?)

2014-04-15 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月15日(火)21時52分33秒

>筆綾丸さん
ありがとうございます。
そうですか。
新たな展望が開けたというより、「そして誰もいなくなった」という感じみたいですね。
吉田兼倶(1435~1511)については井上智勝氏の『近世の神社と朝廷権威』あたりしか読んでいませんが、「神祇管領長上」にしろ「宗源宣旨」にしろ偽造・捏造だらけなので、偽系図くらいで驚いてはいけないんでしょうね。
変わった人、というか一種の化け物ですが、知識は豊富だから意図的に捏造されたら同時代の人だって見抜くのは大変だったでしょうし、まして時代を経たら捏造の結果自体が伝統になってしまいますからねー。
吉田神社の大元宮、一度行ったことがありますが、いかにも胡散臭い感じがして、あまりきちんとお参りしませんでした。

吉田神社公式サイト
http://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

大元宮(個人サイト「神社参拝記」内)
http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/kyoto/daigenkyu.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7289


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「国家史のための前提について」

2014-04-15 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月15日(火)08時59分14秒

ウェーバー好きのあまり、石母田氏に過度にウェーバーの影響を読み込もうとするのも、贔屓の引き倒し的なところがありますね。
さすがに私は、東島氏のように「マルクスとはまったく関係がない」とまで言い切るつもりはありません。
石母田氏の『日本の古代国家』における問題意識は、基本的に1967年度の論文、「国家史のための前提について」(著作集第4巻)と同じだと思いますので、同論文の冒頭を少し引用してみます。(p83)

--------
 日本の古代や中世の国家をわれわれが問題にするさい、その態度に大事なものが一つ不足していたのではないかと年来感じてきた。一つは、国家理論と歴史的事実の緊張関係が足りないことである。たとえば一~七世紀の日本で古代国家が成立する過程や諸段階を問題にする場合、あるいは叛乱武士団の暴力が解体期の律令制国家の諸条件のものにおいて、いかにして一箇の政治権力または国家にまで成長し得たかを問題にする場合、われわれは、国家についての一般的・理論的な問題、国家または政治権力の本質、構造、機能等の問題についての理論的見識なしにも、一応の研究は整えることができたし、それなりに研究の成果もみられた。しかしそこには、絶対主義国家についての近代史家の論議の真剣さも、また国家理論そのものをより豊富にし、そこに新しい知見をもたらし、理論的に解決すべき問題を提供するという態度も気迫もまだ不足しており、歴史家が理論的思考の主体として確立されていないから、その研究成果にも理論と事実との対立が生みだす緊張が足りなくなる。少なくともそのような欠点が目立ってくる。したがって、近代以前の「民族」の形成の問題と国家との関係についても、理論的にほりさげた議論がまだおこなわれていない。
(後略)
---------

また、ウェーバーに関しては、当時政治的に問題となっていた「期待される人間像」の「国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である」との文章との関連で、次のような記述があります。(p95)

---------
 また国家は「もっとも強力な集団」であるという意味もアイマイである。おそらく支配階級の組織された強力という国家のもっとも本質的な特徴を無視するわけにはゆかなかったので、それをこのような学問的に無意味な表現にあらためたのである。この起草者が、マルクス主義の国家学説については無知であっても、マックス・ウェーバーの国家についての有名な説まで知らないはずはない。ウェーバーは「すべての国家は強制の上にきずかれている」というトロツキーの発言を引用して、「これは実際正しい」とのべ、「国家は、合法的強制力なる手段を基礎とするところの、人間にたいする人間の支配関係である」といっている(『職業としての政治』)。国家は「もっとも有機的な集団」どころか、その内部に、支配と服従または隷属との対立関係をふくむところの組織体であり、かつ支配者の合法的強制力または強力の手段による統治を本質的特徴とすることを、ウェーバーも認めている。これらの、いわばマルクス以前の、普通に通用しているところの国家論さえ故意に無視し歪曲しているところに、この文書の特徴がある。
---------

まあ、「期待される人間像」批判という文脈の関係で否定的なニュアンスが強いですが、ウェーバーの理論は結局のところ石母田氏にとって「普通に通用しているところの国家論」のひとつ、ないしその中ではそれなりに優れたもののひとつ、程度の位置づけなんでしょうね。

1967年に『歴史評論』201号に掲載された「国家史のための前提について」は、「国家論の国際的潮流のなかで、より重要で深刻な理論的・実践的問題は、現在の歴史学が、「国家の死滅」が歴史の議事日程にのぼっている時代の歴史学でなければならない」という、今からみればいささか滑稽な時代認識や中国の文化大革命への好意的態度など、違和感を感じる部分が多い論文で、石母田氏が決して「ほや」顔の人情味あふれる素朴なおじさんではなく、死ぬまで革命家であったことを改めて思い起こさせる論文ですね。

「期待される人間像」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/661001.htm
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東島誠氏「非人格的なるものの位相」

2014-04-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月13日(日)09時48分43秒

古尾谷知浩氏が『律令国家と天皇家産機構』で言及されている東島誠氏の「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの』」(『歴史学研究』782号、2003年)という論文、冒頭部分を少し紹介してみます。

------
 はじめに

 石母田正の『日本の古代国家』発刊30年を記念する企てに私の論考を所望された理由が、3年前に公刊した拙著『公共圏の歴史的創造─江湖の思想へ─』が、石母田<交通>論の批判的継承という形で構想されているという、まさにその点にあるのだとすれば、事態はそれほど悲観的ではないだろう。ただここ数年、歴研日本古代史部会が「交通」や「都市王権」などを大会報告テーマに掲げながらも、拙著とほとんど論点の交差することがなかった一方の現実を振り返るならば、本稿で述べようとすることが、今次の特集からひどく乖離したものとなっているのではないかと思われなくもない。たとえば、本年4月に行われたシンポジウムのレジュメ集では、私も言及したことのある次の一節が、複数の論者によって引用されているのだが、拙著の理解とは容易に埋めがたい懸隔がある。

国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を統括しようとする立場に立つということは、この問題に無概念、無前提に接近するということではない。そのようなことが可能だと思いこみ、それが通用しているのは、歴史家たちの住むせまい世界の特殊性のためである。

 ここで石母田が言う「概念」「前提」を、論者の一人は「史的唯物論にもとづく社会構成史」であるとする。だがそれは、ほとんど致命的な誤読ではなかろうか。上の文章で石母田が念頭においているのはヴェーバーの<価値自由>と<理念型>の問題であって、マルクスとはまったく関係がない。
(後略)
---------

東島氏の原稿を受け取った『歴史学研究』編集スタッフの、「東島はホントに偉そうだよなー」とか「何様のつもりなのかしら」といった怒号や悲鳴が聞こえそうで、実に見事な文章ですね。
私も読者がムカつくであろう文章を書くのは好きなのですが、東島氏のようにムカつき成分100%の高純度ムカつかせ文章を書くことはできません。
もっと修行せねば。

ま、それはともかく、<ここで石母田が言う「概念」「前提」を、論者の一人は「史的唯物論にもとづく社会構成史」であるとする>というのは、確かににわかに信じがたいほどの「誤読」ですね。
石母田氏の戦前の論文をパラパラ見たところ、明らかにウェーバーの研究を前提にしているのにウェーバーに触れていないものがあり、そういうのは「誤読」しても仕方ありませんが、『日本の古代国家』はウェーバーの名前を明示している箇所がけっこうありますからねー。
うーむ。

ちなみに、この論文には水林彪氏の「日本的『公私』観念の原型と展開」(佐々木毅・金泰昌編『公共哲学3 日本における公と私』(東大出版会、2002年)に出てくる東島氏と水林彪氏のやり取りが再掲されていますが、水林彪氏も<石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言して>いることを理解されている一人ですね。
だからこそ、『天皇制史論』に石母田氏が引用したのと同じルソーの言葉を載せて、(私の解釈では)石母田氏へのオマージュとした訳ですから。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7246
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7245
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米・ゆず・紅花

2014-04-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月13日(日)09時14分51秒

>筆綾丸さん
>野州堀米村の間違い
堀「込」や堀「籠」はけっこう各地にありますけど、「米」は意外と珍しい感じがしますね。
おっしゃる通り、堀米家の伝承過程で生じた混同なんでしょうね。

>堀米ゆず子氏
「ゆず子」という柑橘系のお名前は珍しかったので税関トラブルのニュースも記憶にありますが、堀米庸三氏の姪だとは知りませんでした。
庸三氏の専門と教養からすれば、一族に有名な音楽家が登場するのも自然ですね。
私はもともと庸三氏にあまり興味がなかったので、「紅花資料館」には2011年の晩夏と翌年の早春、合計2回も訪問しているのに、庸三氏との関係を覚えていませんでした。
ただ、よくよく記憶を辿ると、村山農兵のけっこう本格的な武器を展示していた部屋に、確かに庸三氏に関するパネル展示もありましたね。
現在の「紅花資料館」は美しい庭園を含め、非常に充実した施設になっていますが、「我が家のこと」を読むと、堀米家が河北町を離れて以降は相当朽廃が進んでいたようで、河北町がずいぶん手をかけて復原したみたいですね。

筆綾丸さんが「アポロン的とディオニュソス的」で引用されている山之内靖氏の、「ヴェーバーの死の直前に書かれたもの」なので「深刻」だとか、「最終段階において、はっきり確認した」といった表現、 どうも気になります。
ウェーバーの死因は風邪をこじらせた結果の急性肺炎で、死去時点ではまだ56歳という若さですから、結果的に「死の直前」「最終段階」に書かれた文章であっても、ウェーバー自身はそれが「死の直前」「最終段階」になると意識していた訳ではないですね。
山之内氏のように妙に深読みするのはまずいんじゃないかな、と思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7285
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