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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その70)─「河内国ヨリ秀康・秀澄兄弟二人召出シテ、首ヲ切」

2023-06-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分、「今日過ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル」の作者が流布本・『吾妻鏡』・『海道記』・『六代勝事記』では中御門宗行となっているのに、慈光寺本だけ葉室光親になっているのは奇妙です。
その他、処刑された日、処刑地など、細かな違いを言い出したらキリがないほど慈光寺本は他の資料と異なっていますが、慈光寺本の独自表現が作者の緻密な計算に基づくとはとても思えず、単に雑に書いただけのような感じですね。
もともと和歌が得意でない慈光寺本作者は、順徳院と九条道家の長歌の創作(偽造)で力を使い果たしてしまったのかもしれません。
なお、渡邉裕美子氏は「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)の「三、作り替えられる辞世歌」において、斬首の替わりに早河での水死を選んだ「甲斐宰相中将」藤原範茂の辞世の歌、「遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ」は、「歌壇活動に参加できる程度の心得はあったと思われる」(p81)範茂が「流れの早い川を前にして「千尋の底」と詠むとは考えられない。おそらくこの歌は物語に合わせて、慈光寺本作者が作ったものであろう」(同)とされています。
さて、続きです。(岩波新大系、p361)

-------
 刑部僧正ヲバ、陸奥国ヘ流シ奉ル。遂ニハ往生トコソ聞ヘシカ。
 次々ノ人々モ、皆頸ヲゾ切レケル。
 小山左衛門ニ仰附テ、清水山ヨリ与三左衛門召出、頸ヲ切。
 駿河入道ニ仰付テ、北山ヨリ斎藤左衛門召出シテ、首ヲ切。
 伊藤左衛門ニ仰付テ、八幡山ヨリ内蔵頭ヲ召出シテ、首ヲ切。
 四郎左衛門ニ仰付テ、近江国ヨリ山城守召出シテ、首ヲ切。
 後藤左衛門ニ仰付テ、桂里ヨリ後藤判官召出シテ、親の頸切コソアサマシケレ。
 平左衛門ニ仰付テ、河内国ヨリ秀康・秀澄兄弟二人召出シテ、首ヲ切。
 嵯峨野左衛門ニ仰付テ、般若寺ヨリ山田次郎自害ノ首ヲゾ召出ス。
 駿河次郎ニ仰付テ、木島ヨリ平判官ノ自害ノ首ヲゾ召出ス。
 熊野別当・吉野執行ニ至マデ、一人モ芳心ナク切終リヌ。
-------

ここは単なる人名リストなので現代語訳はしませんが、人名だけ少し補足しておくと、「刑部僧正」は長厳で、徳永誓子氏の「刑部僧正長厳の怨霊」(『怪異学の技法』、臨川書院、2003)には、

-------
 後鳥羽院の熊野詣に関しては、『明月記』建保元年(一二一三)十二月六日条に、以下のような話が見える。医王なる者が同年の参詣に供奉したが、那智飛龍権現の前で一時失神するという事件があった。那智の御所においても不思議な出来事があったため、後鳥羽院は熊野に所領を寄進し、熊野から戻った後に医王にも荘園を与えた。医王─医王丸は、成人して藤原能茂を名乗り、承久の乱後は配流先の隠岐にまで後鳥羽院に同行しており、その崩御後には遺骨を奉じて上洛したという。
-------

とあり(p126)、藤原能茂とも縁のある人ですね。

慈光寺本『承久記』を読む。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

「小山左衛門」は小山朝政ですが、「与三左衛門」は未詳です。
「駿河入道」は中原季時で、「斎藤左衛門」は斎藤親頼です。
「伊藤左衛門」は伊東祐時で、「内蔵頭」は藤原秀康の軍勢手分に際し、「北陸道大将軍」の最後に挙げられている「内蔵頭」と同一人物のようですが、未詳です。(※)

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その32)─「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

「四郎左衛門」は佐々木信綱で、「山城守」は佐々木広綱です。
「後藤左衛門」は後藤基綱で、「後藤判官」は父親の基清です。
「平左衛門」は未詳ですが、「秀康・秀澄兄弟二人」は暫らく逃亡しており、『吾妻鏡』十月十六日条に、

-------
六波羅飛脚到着。去六日寅刻。於河内国。虜秀康。秀澄等。是依彼後見白状也。同八日至六波羅云々。天下乱逆根源起於此両人謀計。重過之所当。責而有余歟云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-10a.htm

とあります。
慈光寺本で藤原秀康・秀澄が処刑者リストの一行で済まされているのは本当に不思議ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

「嵯峨野左衛門」は未詳で、「山田次郎」は山田重忠(慈光寺本では「重貞」または「重定」)です。
「駿河次郎」は三浦泰村で、「平判官」は叔父の三浦胤義です。
「熊野別当」は田辺法印快実(小松法印)のようですが、「吉野執行」は未詳です。
ということで、処刑者・被処刑者とも「未詳」の人がけっこう多いですね。

※追記(2023年7月3日)
久保田淳氏の脚注には未詳とありましたが、これは平保教でした。
『大日本史料 第五編之一』を見たところ、承久三年七月二十八日条に「幕府、内蔵頭平保教ヲ石清水善法寺ニ捕フ、保教自殺ス」とあり、『承久三年四年日次記』『石清水文書』等が引用されています。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その69)─「今ハヒタスラニ所々ノ夷トナラセ給ヒヌルコソ」

2023-06-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは6月20日の、

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その68)─「カヘリキネコン」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac9c74dd04956a63f6cdf2c054ddf179

の続きです。(岩波新大系、p359以下)

-------
 廿四日、六条宮ヲバ但馬ノ室〔むろ〕ノ朝倉〔あさくら〕ニ流シマイラス。此宮ヲバ、取分〔とりわき〕、宣陽門院ノ御子ニシマイラセラレテ、モテナシカシヅキ給ヒシニ、唯、女房、殿上人三四人ニテ出〔いで〕サセ給シモ、アサマシカリシ事ドモナリ。廿五日、冷泉宮ヲバ備前ノ小島〔こじま〕ヘ流シマイラセケル。方々〔かたがた〕別〔わかれ〕アツマラセ給テ、今ハヒタスラニ所々ノ夷〔えびす〕トナラセ給ヒヌルコソ、前業〔ぜんごふ〕ノ果ス所ト口惜〔くちをし〕ケレ。
 又、公卿・殿上人ヲバ、坂東ヘ下シ参ラス。按察〔あぜちの〕中納言光親卿ヲバ、武田承〔うけたまはつ〕テ下シ奉ル。中御門中納言宗行卿ヲバ、小笠原承テ下シ参ラス。坊門大納言忠信卿ヲバ、城入道承テ下シ奉ル。佐々木野兵衛督有雅ヲバ、伊東左衛門承テ下シ奉ル。甲斐宰相中将範茂ヲバ、式部丞朝時承テ下シ奉ル。一条少将能継〔よしつぐ〕朝臣ヲバ、久下〔くげ〕三郎承テ、丹波芦田〔あしだ〕ヘ流シ奉ル。其後、人ノ讒言ニテ程ナク頸切ラレ給ヌ。
-------

いったん、ここで切ります。

【私訳】七月二十四日、六条宮〔雅成親王、1200-55〕を但馬の室の朝倉に流し申し上げた。
この宮を宣陽門院の猶子とされて、特別に大切にお育て申し上げていたのに、ただ女房・殿上人三四人ばかりをお供としてのご出発は何とも情けないことであった。
二十五日、冷泉宮〔頼仁親王、1201-64〕を備前の小島にお流し申し上げた。
あちこちに分かれておられたのが戦乱で一旦はお集まりになって、今度は地方に遠ざけられて、全くの田舎人と同様になってしまわれたのは、前世の業の因果と思われるものの、口惜しいことである。
また、公卿・殿上人を坂東ヘ下し申し上げた。
「按察中納言光親卿」は武田信光が承って下し申し上げた。
「中御門中納言宗行卿」は小笠原長清が承って下し申し上げた。
「坊門大納言忠信卿」は「城入道」(安達景盛)が承って下し申し上げた。
「佐々木野兵衛督有雅」は「伊東左衛門」が承って下し申し上げた。
「甲斐宰相中将範茂」は「式部丞朝時」が承って下し申し上げた。
「一条少将能継朝臣」は「久下三郎」が承って丹波芦田へ流し申し上げたが、その後、讒言があって間もなく首を切られた。

ということですが、内容については流布本の対応場面と比較した上で、後で検討したいと思います。
なお、『吾妻鏡』を見ると中御門宗行は小笠原長清ではなく小山朝長の担当であり(七月十日条)、佐々木野(源)有雅は「伊東左衛門」ではなく小笠原長清の担当ですね(七月二十九日条)。
「一条少将能継朝臣」は藤原(一条)高能の子息ですが、『吾妻鏡』には流罪云々の記述はなく、『尊卑分脈』では兄の能氏が梟首されたとなっています。
さて、続きです。(p360以下)

------- 
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。

  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命

 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、

  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル

 甲斐宰相中将ヲバ、早キ河ニテフシ付〔づけ〕ニシ奉ル。中将、式部丞ヲ召テ仰〔おほせ〕ラレケルハ、「剣刀〔つるぎやいば〕ノ先ニカゝリテ死スル者ハ、修羅道ニ落ルナレバ、範茂ヲバフシ漬〔つけ〕ニセヨ」ト仰ラレケレバ、大籠ヲ組テ、ツケ参ラセケルニ、御台所〔みだいどころ〕ヘ御文書オキ給フトテ、

  遥ナル千尋ノ底ヘ入時〔いるとき〕ハアカデ別〔わかれ〕シツマゾコヒシキ

 兵衛督モ、同〔おなじく〕切ラレ給ヌ。
 坊門大納言ハ、鎌倉故右大臣殿ノ御台所ノ御セウト、強縁〔がうえん〕ニマシマセバ、命計〔ばかり〕ハ乞請〔こいうけ〕テ、浜名ノ橋ヨリ帰リ給フ。今ハト心安〔こころやすく〕テ、出家シテオハセシガ、又イカナル事カ聞ヘケン、後ニハ越後国ヘ流シ奉ケル。
-------

【私訳】中御門中納言宗行卿は遠江国菊川の宿にて処刑された。
手や顔を洗うために民家に立ち入り、次のように書き付けられた。
  昔南陽県菊水……〔昔、中国南陽県の菊水では、下流でその水を汲んで飲むことにより寿命を
  延ばしたというが、私は今、東海道の菊川で、西岸のほとりに命を終えようとしている〕
按察卿は、駿河国浮島原にて処刑された。
死にあたり、光親卿は経を唱え、また次の一首を詠まれた。
  今日過ル……〔今日まで過ごしてきたこの憂き身も、その名も浮島が原に来て、私の命は
  露のように儚く消えてしまうのだ〕
甲斐宰相中将は早河で水死に処せられた。
中将範茂が式部丞(北条朝時)におっしゃるには、「剣や刃によって死ぬ者は修羅道に落ちると聞くので、私を水に漬けて殺してくれ」とのことであったので、大きな籠を組んで水に沈めたのだが、奥方に手紙をお書きになったとのことで、
  遥ナル……〔深く遥かな千尋の水底に入る時は、飽きもしないのに別れてしまった我が妻が
  恋しい〕
兵衛督(源有雅)も、同様に処刑された。
坊門大納言(忠信)は、「鎌倉故右大臣殿」(源実朝)の奥方の兄という強い縁故があったので、命だけは助かって、浜名の橋より帰って来られた。
安心して出家しておられたが、その後、いかなる事が鎌倉に聞こえたのか、越後国へ流罪となった。

ということですが、『吾妻鏡』や流布本・『海道記』・『六代勝事記』など他史料と比べると、様々な点で奇妙な食い違いがあり、全体的に慈光寺本の信頼性は低いですね。

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その4)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/980e422d8b3b66cdab3b0f448eba8b3c
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/082d6a1df74a8db8b23a7b3546cd0f87

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その10)

2023-06-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本の後鳥羽院・七条院・順徳院・九条道家の歌は全て慈光寺本作者の創作だとする渡邉論文の結論、私は納得しましたが、しかし、慈光寺本が制作された1230年代というと、七条院(1157-1228)は既に亡くなっているものの、後鳥羽院は延応元年(1239)まで存命、順徳院(1197-1242)・九条道家(1193-1252)も存命です。
そのような時期に、後鳥羽院・七条院・順徳院・九条道家の短歌・長歌を「物語に合わせて」自由に創作した「作り物語」を公表することが可能なのかは疑問であり、また、和歌関係以外でも、北条義時を大悪人として描く慈光寺本は大変な政治的トラブルの原因となりそうです。
そこで、慈光寺本の成立時期を1230年代と考える限り、少なくともその成立時には慈光寺本は広く一般の読者を予定していない非公開の作品だったと考えるのが自然です。
私自身は、慈光寺本において藤原能茂が極めて特異な描かれ方をされていること、慈光寺本では三浦一族が特別に重視されていること、そして『吾妻鏡』で「当世無双美人」と評されている「後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女」が三浦光村室であることから、慈光寺本の作者は藤原能茂で、想定読者は三浦光村ではないかと考えていますが、仮にこの私見が正しいのであれば、では何故にそうした非公開の作品が現存しているのか、という問題が生じます。
この点、私としては、光村の許に秘匿されていた慈光寺本が、宝治合戦の敗北後、幕府側に没収されたのではないかと考えています。
幕府内で極めて優遇されていた三浦一族が反抗したのは幕府首脳部にも極めて不可解であり、『吾妻鏡』承久三年六月二十四日条に、

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故能登前司光村染自筆。遣或所状。有献覽之人。陰謀之企頗揚焉。仮令雖不載于其詞。旨趣足推量也云云。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

と記されていることは、戦闘の終息後、相当熱心に原因の究明が行なわれ、調査の対象として強硬派の光村が特に重視されたことを示唆しているものと考えられます。
そして、光村が「或所」(九条道家?)に出した書状の控えなどとともに慈光寺本も没収されたのではないか、というのが私の想像です。
もちろん、そんな事実を直接的に証明できるはずもありませんが、ただ、『吾妻鏡』には編者が慈光寺本を参照したのではないかと疑われる箇所がいくつかあるので、それらを集めれば間接的な証拠にはなりそうな感じがします。
その一例はリンク先投稿に書きましたが、慈光寺本を全て検討した後、改めて整理したいと思います。

「進上判官代」と「進士判官代(隆邦)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5f57a7203a8e00d747b9a28d13b289a

さて、私は1月21日の「北条義時追討の「院宣」が発給されたと考える歴史研究者たちへのオープンレター」において、

-------
要するに慈光寺本の和歌は全て慈光寺本作者の創作と考えられるのですが、渡邉氏は別にこうした作者の態度を非難されている訳ではなく、藤原範茂の歌について、「こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう」(p81)とされています。
さて、慈光寺本にのみ載っている八人の有力御家人宛ての「院宣」を真実と考える研究者の方々は、こうした慈光寺本作者の和歌に対する態度を見て、どのように思われるでしょうか。
慈光寺本には北条義時追討の「院宣」の他、三浦胤義が兄・義村に送った手紙、後鳥羽院が亀菊の所領・長江庄に関して北条義時に送った「院宣」など、様々な書状が登場しますが、慈光寺本作者が後鳥羽院・順徳院・七条院・九条道家等の高貴な人々の歌を勝手に創作するような人物であるとしたら、各種書状も「物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることがあ」り、それは「作り物語では当然なこと」ではなかろうか、とは思われないでしょうか。
ということで、ここで、上記にお名前を挙げた研究者だけでなく、慈光寺本を信頼して北条義時追討の「院宣」の実在を信じる全ての歴史研究者への質問です。
大半の歴史研究者は和歌への興味など特になく、渡邉氏の論文も御存知なかったでしょうが、渡邉氏の見解を知って、どのように思われたでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94e39f6b117aa61c0aef682dc46feb0e

と書きましたが、渡邉氏の見解は現時点ではあくまでも新説であり、国文学界での評価が固まるのも当分先であろうと思います。
また、今回、岩波新大系の久保田淳氏の脚注を丁寧に見たところ、順徳院と九条道家の長歌も、それぞれを単体として見る限りはそれほど変ではなく、久保田氏が特に疑いを抱かなかったのももっともと思われました。
そして、贈答歌として対応していない点についても、渡邉氏のように崇徳院と俊成の例と比較するだけでは不十分ではないか、といった批判は充分考えられると思います。
ただ、渡邉説はきちんとした根拠に基づく主張ですので、歴史研究者も久保田説に安住することなく、渡邉説を考慮に入れた上で、改めて北条義時追討の「院宣」の問題を検討していただきたいと思います。

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その9)

2023-06-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

本格的に宝治合戦を論ずるのは後日となりますが、準備のためのメモとしてもう少しだけ書いておくと、三浦光村室の「後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女」が登場するのは宝治元年(1247)六月十四日条で、

-------
今度張本等之後家并嬰児等悉被尋出之。所謂泰村後家者。鶴岡別当法印定親妹也。有二歳男子。光村後家者。後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女。当世無双美人也。光村殊有愛念余執。最期之時。互取替小袖改着之。其余香相残之由。于今悲歎咽嗚云々。同有赤子。家村後家者。島津大隅前司忠時女子也。有三人嬰児。加妾服云々。是等皆所令落飾也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

とあります。
正確を期すため、『現代語訳吾妻鏡12 宝治合戦』(吉川弘文館、2012)の今野慶信氏の訳を借用すると、

-------
今度の首謀者らの後家や幼い子供などを全て探し出された。すなわち、(三浦)泰村の後家は鶴岡別当法印定親の妹で、二歳の男児がいる。(三浦)光村の後家は、後鳥羽院の北面であった医王左衛門尉(藤原)能茂法師の娘で、現在並びない美人である。光村は特に寵愛し、最期の時は互いに小袖を取り替えて着替えた。その香りが残っていると、今も悲しみ泣き叫んでいるという。同様に赤子がいる(三浦)家村の後家は、島津大隅前司忠時の娘である。(家村には)三人の幼児がいる。妾の子もいるという。彼女らはいずれも出家した。【後略】
-------

とのことですが(p99以下)、最後に小袖を取り替えたというのはずいぶん生々しいエピソードですね。
ま、そんなことを知っているのは生き残った能茂女だけなので、能茂女は事情聴取には協力的だったようですね。
二人の間には「駒王丸」という息子がいて、六月二十二日条の「去五日合戦亡帥以下交名」の「自殺討死等」には「能登前司光村」の次に「同子息駒王丸」とあります。
元服はしていなくても、父に従って自殺ないし討死したということはそれなりの年齢ですから、光村と能茂女の結婚は少なくとも十年程度前ではないかと思われます。
とすると、嘉禎四年(1238)に四代将軍藤原頼経が上洛し、二月から十月まで、約八ヵ月も京都に滞在した際に光村も同行しているので、この京都滞在中に光村と能茂女は結婚したのではないか、と私は想像しています。
さて、六月二十四日条には、

-------
故能登前司光村染自筆。遣或所状。有献覽之人。陰謀之企頗揚焉。仮令雖不載于其詞。旨趣足推量也云云。
-------

とあって、今野慶信氏の現代語訳を借用すると、

-------
故能登前司(三浦)光村が自筆で記し、ある所に遣わした文書をご覧に入れた者がいた。陰謀の企ては明らかで、たとえその文言を記していないとはいえ(陰謀の)趣旨は推量するに十分であった。
-------

とのことですが(p107)、いったい「或所」とは誰なのか。
この点、六月八日条で、天井に隠れていた承仕法師の供述として、

-------
【前略】就中。光村万事有骨張之気歟。入道御料御時。任禅定殿下内々仰旨。即於思企者。可執武家権之条。不可有相違云云。憖依随若州猶予。今非啻愁愛子別離。永欲残当家滅亡之恨。後悔有余者。【後略】
-------

とあるので、これは「禅定殿下」九条道家の可能性が高そうですね。
念のため今野慶信氏の現代語訳も載せておくと、

-------
特に光村が、たいそう強く主張していたようです。「入道御料(藤原頼経)の御時、禅定殿下(藤原道家)の内々の命に従ってすぐに計画していれば、武家の権力を握ったのは間違いない。不覚にも若州(泰村)が実行しなかったため、今となっては愛する子どもと別れる悲しみを味わうだけでなく、長く当家が滅亡する恨みを残すことになり、悔やんでも余りある」。
-------

とのことで(p96以下)、この後、光村は自分の顔を切り刻んで、誰か分からないようにした、と続きます。
このように光村と九条道家は極めて深い関係にあった訳ですが、こうした関係を念頭においた上で、慈光寺本作者が藤原能茂であり、読者が光村ではないかと仮定すると、もう少し推測できそうなことがあります。

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市川猿之助と「逆輿」の場面について(雑感)

2023-06-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

今日、市川猿之助が母親の自殺幇助の容疑で逮捕されたというニュースが流れました。
歌舞伎に疎い私にとって、猿之助というと去年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の文覚が一番印象に残っていますが、特に最終回の尾上松也(後鳥羽院)と猿之助の掛け合いは面白かったですね。
私は「逆輿」をきっかけに本格的に慈光寺本研究を始めたと言ってもいいくらいなので、特に印象に残っています。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c

「逆輿」の場面を慈光寺本に忠実に描いていたら、猿之助は文覚ではなく「医王左衛門入道」藤原能茂を演ずることになったはずですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その63)─「四方ノ逆輿ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

少し検索してみたら、「スポニチ」の2022年12月20日付記事に当該場面の台詞が載っていました。

-------
「逆輿とは、罪人が運ばれる時のしきたりである」(語り・長澤まさみ)

 後鳥羽上皇 「文覚、とっくに死んだのではなかったか」
 文覚(市川猿之助) 「隠岐は、いい所だぞ」
 後鳥羽上皇 「お、おまえも隠岐へ流された?」
 文覚 「隠岐は、いい所だ!」
 後鳥羽上皇 「あ~っ、あ~っ」
 文覚 「何もないぞ。一緒に暮らそう!(後鳥羽上皇の頭をかじる)」
 後鳥羽上皇 「あ~っ!嫌じゃ~!ああっ、待て。文覚、文覚」

「後鳥羽上皇は死ぬまで、隠岐を離れることはない」(語り・長澤まさみ)

 後鳥羽上皇 「頭まで噛んだではないか、おい」

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/20/kiji/20221219s00041000600000c.html

史実としては文覚は佐渡と対馬に流されていて、隠岐には行っていませんが、ま、それはどうでもよいことです。

文覚(生没年未詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

さて、上記記事に、

-------
 SNS上には「まさかの文覚」「お茶吹いた」「やりたい放題すぎやろw」「スピンオフ『上皇様と文覚の隠岐ゼロ円生活』を下さい」「もしかして文覚は幻覚?」「周りの従者のリアクション皆無なところを見ると、亡霊or幻覚だな」「文覚はやっぱり亡霊だったんだと思うけど、生霊的なもので、上皇が隠岐行ったら普通に生きてて再会したら面白いな」などの声が続出。爆笑と考察を呼んだ。
 義時と政子(小池栄子)による13分の壮絶ラストシーンに、SNS上は放心&号泣。最終回は笑いとシリアス、緊張と緩和を自在に操る三谷大河の極みだった。
-------

とあるように、このコミカルな場面は非常に評判が良く、私も爆笑しました。
しかし、先月18日の事件発覚以降、事件関係の大量の報道に接した人々が改めてこの場面を見た場合、かつてのように無邪気に笑えるかというと、そこには若干の微妙な感情が入り込みそうです。
猿之助が自分の父親と母親の自殺を幇助した、あるいは同意を得て二人を殺したという事件は、猿之助の役者としての活動とは特に関係のない話ですが、それを知ってしまった以上、事件以前の猿之助の演劇活動を見る目にも若干のバイアスをもたらします。
一般視聴者ですらそうなのですから、事件後にかつてと同じ共演者が集まって、全く同じ台本で同じ場面を再演しようとしても、事件の暗い影がつきまとって、楽しいコメディにはならないでしょうね。
ここで唐突に『承久記』に話が飛びますが、慈光寺本においても流布本においても、三浦義村・泰村等の三浦一族の登場場面は極めて多く、そこでは北条義時・泰時等との密接な協力関係が描かれています。
野口実・高橋秀樹氏等を中心に進められてきた近時の三浦一族研究の進展によれば、鎌倉前期の三浦氏の地位は従来考えられていた以上に高いものであったことが明らかになっており、慈光寺本・流布本における三浦氏の描かれ方は、当時の三浦氏の位置づけをかなり正確に反映していると言ってよさそうです。

高橋秀樹氏の研究史整理(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ebd70f362ddd69b46f617a8385ddb26
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d48cfba1b956fa3ec0aee0a64daef2b
高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e80a4adbf7ee279d940a0618604de9f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b4f19cb7bcce2473950e1db3873f1171

しかし、宝治元年(1247)の宝治合戦によって、幕府における三浦氏の地位は激変します。
形の上では佐原盛連・矢部禅尼の子孫が三浦嫡流を継ぎますが、かつて北条氏と肩を並べた存在であった頃と比べれば、弱小とまでは言わないにしても、一般御家人の少し上程度の存在になってしまいますね。
では、慈光寺本の作者、流布本の作者は宝治合戦を知っていたのか。
慈光寺本は1230年代の成立であることが明らかになっていますので、作者は宝治合戦を知らなかったことになりますが、流布本の作者はどうなのか。
細かく見て行くと、「小河太郎」エピソードのように、流布本での三浦一族の描かれ方には微妙な屈折が窺えるものもありますが、しかしそれらを含めて三浦一族が堂々たる雄族であることは自明の前提となっており、将来の没落を予見するような暗い影に彩られている訳でもありません。
私としては、流布本に三浦一族の描かれている分量と内容そのものが、流布本の成立も相当早く、作者は宝治合戦による三浦一族の没落を知らなかったことを示しているように思われます。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その21)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3463bbc6d7ae10ffb287d51c00486e2b

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その8)

2023-06-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

昨日は珍しく投稿を休んでしまいましたが、当面の方向性について少し考えていました。
私にとって渡邉裕美子氏の論文と藤原能茂に関する田渕句美子氏の論文は決定的に重要なものであって、この二つの論文により、私は慈光寺本の作者は藤原能茂、能茂が想定した読者は三浦光村だったのではないか、という仮説を立てました。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その10)(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3fcae1598ca4be2c8b4c9b0f6b40b64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f718cb2b8089ab4a5bcf414487d32f1

そして、この仮説で矛盾が生じないかを検証するために2月12日に「今後の方針」を立て、以後、四ヵ月半にわたって、鎌倉方が承久の乱で勝利するまで、慈光寺本と流布本の全ての記事、そして必要に応じて『吾妻鏡』の関係記事を検証してみました。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42

結論として、私としては自分の仮説に特に矛盾はないことを確認でき、残された課題は佐々木氏の位置づけくらいです。
そこで、2月14日の投稿、

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その3)─「正義の人」光村
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9bd98802a218d710599df27b3473a08

で少し書いておいた次の課題、即ち宝治合戦と慈光寺本の関係について進もうかなとも思ったのですが、慈光寺本・流布本ともまだ少し残っていますので、やはり全部を終えてから次の課題に進もうと思います。
なお、上記投稿で書いた、

-------
この顔面エピソードと、戦闘に向かう光村が妻の藤原能茂娘と小袖を交換したという『吾妻鏡』六月十四日条の小袖エピソードに加え、能茂が慈光寺本の作者であった可能性を考慮すると、私は光村が「正義の人」だったのではないかと想像します。
即ち、北条氏が後鳥羽院の帰洛の希望を最後まで峻拒したため、後鳥羽院の遺骨を抱えて隠岐から戻ることとなった能茂は北条氏を深く恨み、慈光寺本によって承久の乱の「真相」を娘婿の光村に伝えつつ、本来あるべきであった三浦氏と北条氏との「正しい」関係、本来あるべきであった三浦氏と朝廷との「正しい」関係を示唆し、光村に北条氏打倒を期待したのではないか。
そして、光村と能茂娘は単に愛情で結ばれただけの夫婦関係ではなく、「正しい」歴史観に基づく「正義」を共有する思想的「同志」であったのではないか。
そして、光村が「正しい」歴史観に基づく「正義の人」であった以上、光村とその影響を受けた「正義の人々」にとって北条氏との妥協はありえず、最後まで自分たちの「正義」を貫き通すしかなかったのではないか。
-------

という見通しを現時点で少し補足しておくと、後鳥羽院の「怨霊」問題と宝治合戦の関係はしっかり考えねば、と思っています。
後鳥羽院が延応元年(1239)二月に隠岐で崩御して以降、同年十二月に三浦義村が頓死、続いて翌延応二年(1240)正月、北条時房が頓死、更に仁治三年(1242)六月に北条泰時が病死するなど、後鳥羽院配流に関与した幕府要人が相次いで死去したことから、京都の貴族には後鳥羽院の「怨霊」を云々する者がおり、現代の歴史研究者でも当該時期の「怨霊」問題を重視する人もいます。
しかし、『吾妻鏡』を見る限り、後鳥羽院崩御後、その供養・追善記事の初出は寛元二年(1244)六月三日条です。(なお、『吾妻鏡』は泰時死去の仁治三年は欠落)
即ち、同日条には、

-------
今日。於大殿御方。被供養百部摺写法花経。盖是所被加後鳥羽院御追福也。形木則以彼勅筆被彫之云々。導師大蔵卿僧正良信。請僧七口。布施取。坊門少将〔清基〕。水谷左衛門大夫輔重(重輔)等云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma36-A06.htm

とあります。
正確を期すために『現代語訳吾妻鏡12 宝治合戦』(吉川弘文館、2012)の桃崎有一郎氏の訳を借用すると、

-------
今日、大殿御方で百部の刷った法花経が供養された。これは後鳥羽院の御追善である。版木は後鳥羽院の勅筆を用いて彫られたという。導師は大蔵卿僧正良信、請僧は七人。布施取は坊門少将(藤原)清基・水谷左衛門大夫重輔らという。
-------

ということですが(p4)、ここで後鳥羽院の「勅筆」を用意したのは誰なのか。
三浦光村室の藤原能茂女ならば、父親経由で入手は簡単ですね。
そして、その次に後鳥羽院が登場するのは三年後の宝治元年(1247)四月二十五日条で、

-------
今日。被奉勧請後鳥羽院御霊於鶴岡乾山麓。是為奉宥彼怨霊。日来所被建立一宇社壇也。以重尊僧都被補別当職云云。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-04.htm

とあります。
この前後に将軍・頼嗣室(檜皮姫、北条時氏女、十八歳)の病気の話が頻りに出て来るので、それと後鳥羽院怨霊の関係を論ずる人はいますが、宝治合戦の直前の時期であることにも留意すべきではないかと私は考えます。
三年前に後鳥羽院供養・追福の儀礼を主催したのは「大殿」九条頼経でしたが、頼経は前年の宮騒動で京都に追放されており、この時点では鎌倉にいません。
では、宝治合戦の直前の時期に、後鳥羽院怨霊を宥めるために、その霊を勧請して「一宇社壇」を建てることを主導したのは誰なのか。
形式的には将軍・頼嗣(九歳)でしょうが、実質的な主導者としては、「大殿」頼経の二十年来の側近であり(『吾妻鏡』寛元四年八月十二日条)、その妻を通じて後鳥羽院と縁が深かった三浦光村の可能性も高そうです。
後鳥羽院の「怨霊」の扱いは、宝治合戦の直前の時期に、三浦氏と北条氏の間で微妙な問題となり、そのイデオロギー的性格から、両者の非妥協的対立の原因となった可能性もあるのではないかと私は考えています。
後鳥羽院の「怨霊」が光村を「正義の人」とする一因となったのではないか、という可能性ですね。

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その7)

2023-06-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「八 長歌贈答が語るもの」に入ると、渡邉氏は、

-------
 それにしても、なぜ後鳥羽院ではなくて、順徳院だったのだろうか。慈光寺本では、この贈答以前には、順徳院(「新院」)は乱の勃発時に「上皇」(後鳥羽院)や「中院」(土御門院)らとともに「一所ニゾマシマシケル」と記される程度で、登場場面はほぼゼロである。ところが、配所にいたって、突然、順徳院の歎きが噴出するように描かれ、道家もまたそれに呼応して(表現の内実では応答していないのだが)感情を露わにする。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b05d81ebef2e7d92f2e15bb693489ed8

という問題を提示されます。
この問題に対する答えとして、渡邉氏は「時代の奔流に飲み込まれて、王になり損なった順徳への同情も示しているのではないだろうか」とされた上で、論文の最後を次のように締めくくります。

-------
 崇徳の例を先蹤として、順徳に長歌の贈答をさせるならば、歌を贈られる臣下は道家以外考えられないように思う。道家は順徳の中宮立子の同母弟であり、乱後には摂政を停止され、近衛家実が摂政に還任した。また、文暦二年(一二三五)には配流地にある上皇たちの還京に向けて、鎌倉に働きかけている(『明月記』同年四月四日条)。
 慈光寺本が成立したとされる一二三〇年代と言えば、道家が奔走して後堀河天皇下命の九番目の勅撰集『新勅撰集』が編まれていた時期でもある。公家、武家を問わず、あらゆる階層で勅撰集撰進が関心事だった。完成前に崩御した後堀河に代わって、文暦二年三月、撰者の藤原定家から「発起からの実質的宰領者である道家その人に、『新勅撰集』の奏覧本たるべき清書本が提出された」。皇位がこの国の実質的支配者となった武家の意向に左右される時代が到来して、勅撰集は変質せざるを得ない。そのような中で道家は無理を押して、王権の象徴である勅撰集を成立させて、王朝社会が維持されていることを示したと言える。
 もし、承久の乱がなければ、その勅撰集は、道家が順徳院を輔弼して完成させたものではなかったか。『新古今集』成立時に良経が下命者後鳥羽院を輔弼したように。そんな永遠に失われてしまった未来の王と摂籙臣の歎きも、この長歌贈答は包含しているように読める。しかし、表現の内実まで掘り下げてみると、道家は現状を歎きつつも、順徳には応答していない。現実の世界でも、道家は配流された王と運命共同体ではなかった。いったんは摂政を辞めざるを得なかった道家だが、その後、鎌倉に下っていた第三子三寅(頼経)が嘉禄二年(一二二六)に将軍に任ぜられ、安貞二年(一二二八)には家実に替わって関白となり、西園寺公経と協調して朝廷政治を主導するようになっている。王権を喪失した敗者には容赦ない現実を、慈光寺本の長歌贈答は図らずも突きつけている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb62397dc9e151b0c81686908ac984f4

渡邉氏は道家による後鳥羽院等の還京運動といった政治的動向にも触れるものの、「永遠に失われてしまった未来の王と摂籙臣の歎き」云々と言われるので、これも慈光寺本の長歌贈答が順徳院への同情に基づく、という見解の繰り返しですね。
さて、結論として渡邊氏は、藤原範茂の辞世歌、後鳥羽院・七条院の「応答しない贈答歌」、順徳院と九条道家の長歌での「応答しない贈答歌」のいずれも、当該歌の名義人ではなく慈光寺本作者が創作した歌と判断されています。
しかし、渡邊氏は藤原範茂の「作り替えられる辞世歌」について、

-------
 こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう。
-------

と述べられているので(p81)、後鳥羽院・七条院・順徳院・九条道家の歌についても「作り替え」は「作り物語では当然」のことであり、「このような営為は自然」とされるのだろうと思います。
ただ、「慈光寺本が成立したとされる一二三〇年代」は、承久の乱の記憶がまだまだ生々しい時期であり、七条院は安貞二年(1228)に死去していますが、後鳥羽院は延応元年(1239)まで存命であり、順徳院(1197-1242)・九条道家(1193-1252)も存命です。
そのような時期に、後鳥羽院・七条院・順徳院・九条道家の短歌・長歌を「物語に合わせて」自由に創作した「作り物語」を公表することが果たして可能だったのか。
また、慈光寺本では北条義時が大野心家で卑小な私利私欲に満ちた人物として描かれていますが、義時をそのように描いたた「作り物語」を、1230年代の幕府は許容することができたのか。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3fcae1598ca4be2c8b4c9b0f6b40b64

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その6)

2023-06-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

順徳院と九条道家の長歌について、久保田淳氏の注釈・現代語訳を紹介しましたが、それぞれを単体で見ると、久保田氏の説明で納得してしまう人も多いと思います。
渡邉裕美子氏の見解の最も優れている点は、両者が贈答歌として対応していないことを明確にされたことですね。

-------
 さらに問題としたいのは、順徳の贈歌に対する応答の様相である。二首が取り上げた景物には、以下のようなものがある。

 順徳院歌…空ゆく月日、田面の雁、秋風、葛、露、道の草葉、真砂地、松、夜半の月、夕煙、
      呉竹、四方の紅葉、時雨、霜、山河、水の泡
 道家歌……空の雲、葵草、日影、風、綾席、入江の水、山の端、緑の空、日の色、薄き衣、
      下草、初時雨、淡雪、汀の千鳥、海人、里のしるべ、夕煙、波、初霜、白菊

これだけ多くの景物を取り上げながら、「夕煙」(順徳歌前掲③)しか完全には一致せず、他には「時雨」「霜」(⑤)くらいしか共通しない。また、詠み込まれた名所を見ると、

 順徳院歌…越路、〔有磯海(越中)〕、明石(播磨)
 道家歌……神山(山城)、飛鳥川(大和)、鳥籠山(近江)、有乳山(越前)

と、見事に一箇所も重ならない。
 歌い出しは「空」「月日」「曇る」(雲)など用語が一致し、何となく応答しているように見え、また、道家歌の「秋の都」は、順徳の「花の都」(①)と対になっていると言えようか。しかし、全体として見ると、一組の贈答としてはとても不自然なのである。
 詠歌内容を見ても、順徳院の歌に見られた「雲ノ上ニテ 見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ」(②)、「人ノコゝロノ クセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ」(④)という歎きに、道家歌はまったく応答していない。順徳歌の「ヌルモネラレヌ」(②)、「サナガラ夢ノ 心地シテ」(③)と、道家歌の「ネデモミヘケル ユメノミチ」は、表現は重なるが、応答としてはずれている。応答が成り立っていないのは、反歌でも同じである。

  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ(順徳院)
  イトヘドモ猶ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ(道家)

 後続の『承久記』諸本は、長歌は省略して、この反歌だけを贈答として取り込んでいる。順徳院歌は、生き長らえて、たとえ都に帰れたとしても、現世では「憂き」世が続くであろうと歎いている。道家の上の句は、厭世観は持ちながらもやはり行き長らえることを、下の句は「春ヲマツ」ことを順徳に勧めているのであろうか。それとも、道家自身の今後の身の処し方を読んでいるのだろうか。「ウキヲシラデ」とはつらい思いを忘れることを言っているのであろうか。含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

ということで、後鳥羽院・伊王左衛門・七条院の奇妙な贈答歌と同様、こちらも「応答しない贈答歌」ですね。
ただ、「後続の『承久記』諸本」の「反歌だけを贈答」している贈答歌について、渡邉氏は「含意が明瞭でなく、不自然な贈答と言うほかない」と評価されますが、この点については私に若干の意見があります。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbec9ae5f612c17e7234fd87da8885c8

リンク先投稿で縷々書きましたが、要するに私が言いたいのは、流布本の順徳院と九条道家の反歌だけの贈答歌は「含意が明瞭」であり、「自然な贈答」だということです。
他方、慈光寺本では順徳院・道家の長歌はともに非常に変であり、道家の反歌も少し変なので、結果として全体が非常に「不自然」な「応答しない贈答歌」と化しています。
この奇妙な関係をどのように考えるべきなのか。
私は、「不自然」な慈光寺本の贈答歌を基礎に「自然」な流布本の贈答歌が作られたのではなく、「自然」な流布本の贈答歌に、贈答歌の基本すら理解していない人が変な長歌を二つ追加し、さらに道家の反歌も駄目な方向に改変した、と考えるべきだろうと思います。
さて、「七、配所の王の長歌の先蹤」に入ると、渡邉氏は順徳院と九条道家の長歌が「応答しない贈答歌」であることをより明確にするために、「配所の王が臣下に贈った長歌の先蹤」として、「保元の乱で讃岐に配流された崇徳院」と俊成との長歌の応答を検討されます。
そして、結論として、

-------
 平安期の長歌は、短歌にはない「重み」と「威儀」を持ち、「訴嘆」の心情を表すために用いられ、平安末期には「出家や家族との死別など人生における重大事」に際して選択される傾向にあると指摘される。慈光寺本作者が「特別な教養」が必要とされる長歌を、先行する長歌を参照しつつ何とか作り上げて挿入するのは、そうした長歌の性格を理解してのことだと思われる。後続諸本が長歌を落としてしまうのは、その意義が理解されなかったからであろう。流布本では反歌贈答を載せるに当たって「長歌」の奥に記されたとするが、前田家本や『承久兵乱記』『承久軍物語』では「御書」の「奥」に記されたとする。つまり、長歌の存在自体が消されているのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13547ccf290ede9515eac558a3f65fdf

と言われるのですが、ここは私は賛成できません。
「特別な教養」がない慈光寺本作者が、「先行する長歌を参照しつつ何とか作り上げて挿入」した理由については、私は渡邉氏と全く異なる意見を持っています。
また、第七節の最後に記された、

-------
 慈光寺本の和歌から見えてくる作者像は、先にも少し触れたように、新古今時代の表現や勅撰集歌に接することのできる環境にあり、長歌の持つ意義も理解していると思われ、ある程度の和歌的な教養を身に付けているが、専門歌人ほどには和歌に習熟していない者である。それは久保田淳が推測する「宮廷社会と武士社会の双方に明るい、筆の立つ下級官人のごとき階層に属する人物か」という作者像と符合する。また、久保田は「九条家と何らかの接触のあった人物ではないか」という「憶測」を述べ、「新院(順徳院)の配流の模様はかなり細かく書き込まれており」「作者が新院母后修明門院に比較的近く、情報をえやすかったのではないか」とも指摘する。この発言は和歌は物語の創作ではないという前提に立つと思われるが、慈光寺本の長歌が順徳と道家に焦点を当て、良経歌以外には用例のほとんどない表現を参照していることから、指摘のような作者圏は十分想定できよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b05d81ebef2e7d92f2e15bb693489ed8

については、私も「九条家と何らかの接触のあった人物ではないか」には賛成しますが、「宮廷社会と武士社会の双方に明るい、筆の立つ下級官人のごとき階層に属する人物か」には賛成できません。

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その5)

2023-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

九条道家の長歌についても、久保田淳氏の注釈・現代語訳の素晴らしさを確認しておきたいと思います。(岩波新大系、p358以下。数字は注記の番号。19番が反歌)

-------
7 久堅〔ひさかた〕ノ 月日ヘダツル 空ノクモ [       ] ヨソニシテ
  イツトモシラヌ アフヒグサ

「わが君にお別れしてから月日は隔たり、空の雲……すっかり局外に置かれて、わが君にお逢いできるのはいつともわかりません」

8 日カゲニムスブ 心モテ 朝夕君ニ ツカヘコシ ソノカミ山ニ 吹風ノ 目ニミヌカタヲ
  オモヒヤリ サカヒハルカニ ナルマゝニ ヤスムコゝロモ

「摂政を解任されたわたしは日蔭の身で愁えに結ぼおれた心を抱きつつ、朝に夕にわが君にお仕えしてきたその昔を偲び、目に見えない遠く佐渡の方向を思いやり、そこが都から遥か彼方と思うと心安らぐ折もありません」

9 ナミダノミ トゞマラヌ日ニ 流レツゝ シヅミハツルモ アスカ河 キノフノハルノ
  イツノマニ 今日ノウキヨニ

「涙だけは過ぎてゆく日同様止まることなく流れ、すっかり沈淪してしまったにつけ、飛鳥川の淵瀬が変るように、昨日は我が世の春だったのにいつのまに今日の憂き世に遇ったのだろうかと思われます」

10 アフミナル トコノ山路ニ 有〔あり〕トキク イサヤアヤナク アヤムシロ 
  シキシノベドモ 

「近江の鳥籠(とこ)の山路にあると聞いている不知哉(いさや)川ではありませんが、さあわけもなく綾席を敷いて、わが君をしきりにお偲び申しあげますが」

11 シキシマノ 道ニハアラヌ

「和歌の道ではない。上の「シキシノベ」から言い起こす」

12 <本ノ> [   ] 

「底本で欠字となっていたことを示す」

※ 入江ノ水モ 山ノハモ ミドリノ空ニ 日ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ 

13 人メカレ行〔ゆく〕 シタ草ノ オトロヘハツル ハツシグレ フル<本ノ>[  ] 
  道ノソラ

「人の訪れも絶え下草もすっかりすがれ、初時雨の降る冬となりました」

14 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪 サムキヨノ ミギハノ千鳥 打ワビテ
  鳴音〔なくね〕カナシキ 

「空の様子も荒々しい愛発(あらち)山を越えて行く道には淡雪が降って寒い夜、汀の千鳥がわびしげに鳴く声も悲しい。

15 袖ノウヘヤ モシホタレツゝ

「わたしも袖の上に涙をこぼしています」

16 アマノスム 里ノシルベモ ユウケブリ 煙モ浪モ 立〔たち〕ヘダテ

「海人の住む郷のしるべとなる藻塩焼く夕煙ではありませんが、都から佐渡までは雲煙波濤を隔てています。「海人の住む里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人のいふらん」(古今集・恋四・小野小町)」

17 雲井ニミヘシ 在明〔ありあけ〕ノ アフギシ人ヲ マガヘツゝ コゝロノヤミノ
  ハレマナキ 

「かつて禁中で見た有明の月を仰ぎ見たわが君にまがえつつ、わたしの心の闇は晴れる間もありません」

※ 秋ノ都ノ ナガキヨニ

18 ハツシモムスブ 白〔しら〕ギクノ ウツロヒ行ヲ 白妙〔しろたへ〕ノ ウキヨノ色ト
  オドロケバ ネデモミヘケル ユメノミチ ウツゝニナラデ マヨフコロ哉

「初霜が置いて色うつろう白菊の色を憂き世の色かと驚くと、寝ないでもわが君にお逢いできるという夢を見ますが、それが現実のこととならないので、迷っているこの頃です」

19 イトヘドモ猶〔なほ〕ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ

「つらい世と厭うもののやはり生き永らえて、憂さつらさに堪えて春の訪れを待つべきでしょうか」
-------

以上、こちらも私が※を付した二箇所を除き、ほぼ全訳になっていますが、実に素晴らしい現代語訳ですね。
素人が普通に読んでいる限り、滑らかに意味が通じているように思えます。
しかし、渡邉裕美子氏は、7の「アフヒグサ」、8の「日カゲ」と「ソノカミ山」は「唐突に賀茂社の縁で歌い出している」点が不審だとされます。
そして、「細かな検討は、紙幅の都合上、省略に従わざるを得ないのだが、一点だけ確認しておきたい」と前置きした上で、「入江ノ水モ」から13の「ハツシグレ」、14の「アハ雪」までは、「四季の移ろいが歌われている。しかし、それぞれの季節の景がきちんと形象化されないまま、次の表現に流れてしまっている。連歌的とも言える表現方法で、和歌としてはとても落ち着きが悪い」とされます。
そして、結論として「やはり、代々歌壇の庇護者であった九条家の伝統を受け継ぎ、歌人として活動していた道家の歌とは到底思われない」とのことです。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37eac5fd77df4203bf373db57e9e6502

私には和歌の細かな表現を分析する能力はありませんが、「唐突」という点では、「アスカ河」以下、様々な地名が交錯するのも珍しく、渡邊氏の「連歌的とも言える表現方法」に倣えば「早歌的とも言える表現方法」なのかもしれませんが、「落ち着き」は悪いですね。
ただ、実は道家の長歌の最大の謎は、個々の表現にあるのではありません。
道家の長歌は順徳院の長歌に全く対応していない点が本当に奇妙なのです。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その4)

2023-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

順徳院と九条道家の長歌贈答に関する久保田淳氏の注釈・現代語訳がどれほど素晴らしいものであるかを確認しておくことにします。
まずは順徳院の長歌から見て行きます。(岩波新大系、p357以下。数字は注記の番号。途中で頁が変わって1に戻り、2番が反歌)

-------
28 天ノ原 空行月日〔そらゆくつきひ〕 クモラネバ 清キコゝロハ サリトモト
  タノムノ雁ノ ナクナクモ 花ノ都ヲ タチ放〔ハナ〕レ 

「大空をめぐる月や日は曇らないから、わたしの清廉な心はいくら何でもはっきりするだろうと、それを頼みにしつつ、雁が鳴くように泣く泣く花洛を離れた」

29 秋風吹〔フカ〕バト チギルダニ 越路ニオフル クズノハノ 帰ラン程ハ サダメナシ

「秋風が吹くころには帰れるだろうと約束したが、この越後路に生えている葛の葉は秋風に翻るけれども、いつ帰洛できることか、その期限ははっきりしない」

30 マシテアダナル 露ノ身ノ 道ノ草葉ニ ハルバルト ナニニカゝリテ 今日マデハ
  ナヲアリソ海ノ マサゴヂニ オヒタル松ノ音ヲヨハミ カハクマモナキ 袖ノ上ニ

「ましてはかない命は道の草葉の露と消えてしまいそうなのに、はるばる遠くまで来て、何をたよって今日まで生き永らえ、荒磯海の砂地に生える松の根のように泣く音も弱く、袖の上は涙で乾く間もない」

31 ヌルモネラレヌ 夜半〔よは〕ノ月 アフギテ空ヲ 詠〔なが〕ムレバ 雲ノ上ニテ 
  見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ 

「寝ても寝られぬまま空を仰いで夜半の月を眺めると、過ぎし日禁中で見た時のことも忘れられない」

※ マドロムヒマハ 無〔なけ〕レドモ サナガラ夢ノ 心地シテ

32 モユルオモヒノ 夕フ煙〔けぶ〕リ ムナシキ空ニ ミチヌラン 

「胸を焦がす憂苦の思いの火から立ち昇る夕煙は虚空に充ち満ちていることであろう」

※ ソレニ附〔つけ〕テモ 故郷〔ふるさと〕ノ 人ノ事サヘ

33 数々ニ シノブノノキヲ 吹結〔ふきむす〕ブ 風ニ浪ヨル 呉竹〔くれたけ〕ノ 

「あれこれと偲んでいるわたしの配所の軒に生えた忍ぶ草を風が吹き結び、浪が寄せる」

34 カゝルウキ世ニ メグリキテ 是モムカシノ 契リゾト オモヒシラズハ ナケレドモ
  人ノコゝロノクセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ 

「このような憂くつらい世の中に転生輪廻してきたのも前世の因縁なのであろうと悟らない訳ではないが、人心の常だから心の慰めようもない」

35 是ハ明石ノ 秋ナレバ 四方〔よも〕ノ紅葉ノ 色々ニ タノムカゲナク シグレツゝ
  我身ヒトツニ ウツロヒテ 霜ヨリサキニ クチハテン 

「明石の浦の秋も同じだから四方の紅葉は色とりどりだが、わたしが身を寄せる木蔭もなく、やがて時雨が降り、散ってしまい、霜の降りる前に朽ちはててしまうだろう」

1  ウキナハサテモ 山河ノ 色ニタゞヨフ 水ノアハノ キヘヌモノカラ ナガラヘテ
  イカナル世ヲカ ナヲタノムベキ 

「わが憂き名はそれでもやまず、紅葉が彩る山川の水の泡が消えないように、死なないものの、生き永らえて、どのような世の中をなおも期待したらよいのであろうか」

2  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ

「たとえ生き永らえた末に帰洛できたとしても、この世は憂くつらいことの多い都であるよ」
-------

以上、私が※を付した二箇所を除き、ほぼ全訳になっていますが、実に素晴らしい現代語訳で、これを読んだ人は特に変な歌とは思わず、順徳院の歌であることを決して疑わないと思います。
しかし、渡邉裕美子氏によれば、29の「「葛」を「越路ニオフル」とする点は、やや不審」で、何故なら「伝統的な歌ことばの世界では、「葛」は「越路」の景物として認知されていない」からだそうです。
また、30の「ハルバルト」という副詞句も変で、そもそも何に掛かっているのかすら分からず、「何とも落ち着きが悪い」上に、「有磯海」は「院政期以降、越中の名所と捉えられるようになっている」にもかかわらず、「佐渡の海を目前にして、海を隔てた越中の「有磯海」を取り上げるのでは理屈が合わない」そうです。
そして特に問題なのは32の「モユルオモヒ」と「ムナシキ空ニミチヌ」で、こうした「恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」とのことです。
後半に入ると、33の「吹結ブ」に「「露(玉)」等の目的語があれば問題ないが、当該歌では何を「吹結ブ」のか明確では」なく、35の「明石」も「なぜ唐突に出て来たのか理解し難い。佐渡の秋が「明石」と同じであることを言うのであろうか。であるとすれば、相当、舌足らずな表現」とのことです。
同じく35の「タノムカゲナク」は「臣下が主君を思って詠む表現である。王が詠むべき表現ではない」とのことです。
頁が変わって1の「山河ノ色ニタゞヨフ水ノアハ」については、「紅葉の散り敷いた川面に浮かぶ水の泡を表現しようとしているのであろうか。それが消えることのない「ウキナ」(憂き名)の比喩なのだろうか。表現として不十分であるし、比喩として適切であるとも思われない」とのことです。
このように久保田訳を読んでいれば何となく分かったような気分になる箇所も、渡邉氏の解説を聞くと、やっぱり変に思えてきますが、しかし、これは本当に微妙な、和歌の専門家だけに違いが分かる高度なレベルの話ですね。
久保田氏にすれば、渡邉氏に反論したい部分があるのかもしれません。
しかし、「恋心と結びつけられてきた表現は、臣下に贈る述懐歌にはどうにもそぐわない」といった点は、私には致命的な問題点のように思われます。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b9827f1d9d41a2a0dcc3ce0e2e3fed
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bfcfb2614c9d9de0a3660ef4c0261b4

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その3)

2023-06-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は田渕句美子氏の「藤原能茂と藤原秀茂」で、能茂の娘が三浦光村室であったことを知りました。
その事実自体は別に秘密でも何でもなく、『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月十四日条に、

-------
光村後家者。後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女。当世無双美人也。光村殊有愛念余執。最期之時。互取替小袖改着之。其余香相残之由。于今悲歎咽嗚云々。同有赤子。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

と、宝治合戦で死を覚悟した光村が妻と互いの小袖を取り替えたというエピソードが記されていますが、この妻が「後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女」だった訳ですね。
ここで藤原能茂と三浦光村の緊密な結びつきが確認できたのですが、能茂が慈光寺本作者であれば、能茂が創作(偽造)した順徳院と九条道家の長歌は、能茂が九条道家と親しい関係にあることを示唆し、更に能茂を介して三浦一族と九条家が結びついた可能性も示唆します。
これは宝治合戦の経緯を知る者にとっては、なかなか不吉な連想ですね。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3bf634d5a4254f70a203b669c775288
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ca6d33e117a14d9dd7df1b14b26ef

また、田渕氏が言われるように、「この光村が、どのようにして後鳥羽院と最も近しい能茂の女と婚したのか」のかは永遠の謎でしょうが、仮に能茂が慈光寺本『承久記』の作者であれば、能茂の娘も「持参金」ならぬ「持参本」として慈光寺本の写本を鎌倉に持って行き、光村に見せた可能性が生じます。

(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58d88be0900cedfdbd79ed8793d9f809

ところで、田渕氏は「西蓮は後鳥羽院と浮沈を共にし、特に晩年の院には分かち難く結びついていた存在であったと言えよう。そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されている」と言われますが、具体的にどのように「反映」されているのかについては、この論文では検討されていません。
ただ、まあ、それは実際に慈光寺本を読めば明らかで、能茂が北条泰時に命ぜられて出家し、その出家姿を見た後鳥羽院が自発的に出家を決意するという場面では、二人は「分かち難く結びついて」いますね。
また、後鳥羽院・能茂と七条院の「応答しない贈答歌」では、後鳥羽院と能茂の歌が「分かち難く結びついて」いて、その分離不能な統一体に対して、七条院が返歌するという形になっていますから、ここも「そのような関わりが、慈光寺本『承久記』にも反映されている」部分です。
この二つの場面は慈光寺本独自のエピソードであり、特に能茂が実質的に後鳥羽院の出家の導師のような重要な役割を演じている後者は、『愚管抄』を見れば虚偽であることが明白です。
これだけ疑わしい材料が揃っている以上、私には今まで慈光寺本の作者を能茂と考える研究者が存在しなかったことが不思議に思えてきます。
その理由としては、慈光寺本にそれなりに後鳥羽院に批判的な部分があることが考えられますが、その批判の程度は流布本に比べればたいしたものではないですね。

何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eabb3d82a87a07dbc7a4cbad9bbd1f93
慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59

さて、以上の検討を踏まえて、改めて渡邉論文に戻って順徳院と九条道家の長歌を検討してみました。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/066c90a15de1d51bec8007bce452c64f

この検討に際して、私は、

-------
それでは渡邉裕美子先生の解説を拝聴することにしましょう。(p83以下)
古文書・古記録は読めても、名誉教授・教授・准教授といった立派な肩書を持っていたとしても、大半の歴史研究者の文化・教養の水準は隠岐の海を泳いでいるクジラやイルカとたいして違わないのだから、謙虚な気持ちで、心して聞くように。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b9827f1d9d41a2a0dcc3ce0e2e3fed

などと書いてみたのですが、冗談はともかく、今まで多くの歴史研究者が慈光寺本をそれなりに丁寧に読んでいたはずなのに、何故に慈光寺本の和歌に関して誰も疑問を抱かなかったのかは、それ自体が一個の問題となり得ます。
私は、これは歴史研究者の責任というより久保田淳氏の責任であり、罪ではなかろうか、と思っているのですが、そんなことを言うと、またまた悪い冗談に聞こえるでしょうか。
慈光寺本を論ずる歴史研究者も、さすがに水府明徳会彰考館文庫に伝わった写本を見ている人は極めて稀なはずで、実際には『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)を見ている訳ですが、この解説・注記を担当されているのは久保田淳氏(東京大学名誉教授・日本学士院会員)です。
そして、久保田淳氏の和歌についての脚注は本当に懇切丁寧で、久保田氏の説明を読んでいると、素人には慈光寺本の和歌がそれほど変ではないどころか、けっこうまともな和歌に見えてきてしまうのですね。
久保田氏自身は、おそらく渡邊裕美子氏が抱いたような疑問を多々感じられたのでしょうが、校注の作業をしていると、どうしても全体を綺麗に纏めたくなりがちです。
また、久保田氏の文章はもともと格調が高いので、変なところが多い原文も、久保田氏の文章を通すと僅かずつ格調が高くなり、それが積み重なると、全体的な印象が相当変わってきてしまうのですね。
結果的に、素人にとっては原文の変なところ、特に和歌の変なところが正確に伝わらず、よく分からないけれども、久保田先生のお墨付きがあるから、そんなに変な和歌でもないのだろう、という感じになり、きちんと突き詰めて考えようとする歴史研究者が出て来なかったのだろうと私は思っています。

久保田淳(1933生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E6%B7%B3

-------
久保田 淳氏は、和歌文学史を中心として中世文学全体にわたり研究し、多面的かつ多量の業績は学界における高い声価が保持され、影響力は広く強大です。その理由は精緻な文献学的実証作業と先学の研究遺産の誠実な批判的摂取によって培われた高い見識との均衡調和する魅力的な学風が一貫しているからでしょう。日本の文化伝統と風土との関係、幽玄や「もののあはれ」などの日本的心性を究明する数々の堅実な労作も同氏の研鑽とすぐれた感性の証として注目されています。

https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/1/kubota_jun.html

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その2)

2023-06-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

自分のツイートを確認してみたら、私が渡邉論文を初めて読んだのは今年の1月20日でした。

-------
渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの」(『国語と国文学』98巻11号、2021)を読んでみたところ、早河での水死を選んだ藤原範茂の時世の歌は和歌に習熟した者が作ったとは考えられず、慈光寺本作者の創作だそう。

また、配所の後鳥羽院と母の七条院の贈答歌も、後鳥羽院が安易に用いるとは思えない表現があり、七条院の返歌は後鳥羽院の歌に対応していない変な歌だそう。

順徳院と九条道家が交わした長歌も変で、順徳院の方は「何とも落ち着きが悪い」表現があり「いろいろと不分明なことが多い」そう。道家の返歌も「代々歌壇の庇護者であった九条家の伝統を受け継ぎ、歌人として活動していた道家の歌とは到底思われない」そう。

渡邉氏は別にそうした行為が悪い事と非難している訳ではない。まあ、歴史物語というのはそんなもの。しかし、後鳥羽院や順徳院の歌を勝手に創作する慈光寺本の作者が、例の院宣だけはきちんと正確に再現したのだろうか、という疑問は当然に生じる。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1616376345248010241

このツイートをした前日に、

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター(2023年1月19日付)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

を書き、渡邉論文を読んで、その翌日に

北条義時追討の「院宣」が発給されたと考える歴史研究者たちへのオープンレター(2023年1月21日付)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94e39f6b117aa61c0aef682dc46feb0e

を書いたという順番ですね。
しかし、この時点では私も、藤原能茂が慈光寺本の作者ではないか、と疑ってはいませんでした。
流布本では藤原能茂は京方の北陸道軍として派遣されたことが簡単に記されているだけで、全く目立たない存在ですが、慈光寺本では上巻で亀菊エピソードに登場した後、下巻で頻りに登場します。
そしてその登場の仕方が奇妙なので、非常に気になる存在ではあったのですが、一般的にはそれほど重要人物と思われている訳ではなく、先行研究も乏しくて、私は2020年6月にほんの少し検討しただけでした。

慈光寺本『承久記』を読む。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

しかし、やはり能茂はしっかり調べねばならないな、と思って田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読んでみたところ、これは非常に充実した論文集で、一気に展望が開けたような感じがしました。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee67ada9eeeeca23f3d8d5485199ac5b

さて、慈光寺本の作者が能茂ではないかと疑っていた私にとって、一番確認したかったのは能茂の歌人としての才能でした。
渡邉論文に従えば、慈光寺本作者が創作(偽造)した可能性が高い慈光寺本の和歌はどれも非常にレベルが低いものであったので、能茂が優れた歌人であれば、能茂を慈光寺本作者候補から外さなければなりません。
では、能茂の歌人としての才能はどのようなものだったのか。
田渕著の「第四章 藤原能茂と藤原秀茂」は、

-------
第一節 藤原能茂
 一 後鳥羽院との関係
 二 『尊卑分脈』の問題
 三 三浦氏との関わり
 四 伝承と霊託の世界へ
第二節 藤原秀茂とその子孫
 一 閲歴
 二 西園寺家の周辺
 三 秀能への敬愛
 四 子孫の繁栄
-------

と構成されていますが、冒頭に、

-------
 藤原能茂(西蓮)は、勅撰歌人ではなく、家集もなく、今その作として伝えられている和歌は、慈光寺本『承久記』に見える「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」という一首のみにすぎない。この歌も能茂作とは必ずしも断定し難いであろう。後鳥羽院隠岐配流後も隠岐で院に仕えていたが、隠岐で編まれ初学の人も出詠した『遠島御歌合』に詠進していないから、おそらく和歌は苦手としていたのだろう。しかし、能茂の存在は、秀能や後鳥羽院を考える時に無視できぬものがあり、特に晩年の後鳥羽院との関わりは非常に深く、そして伝承の世界へも広がりをみせている。本節では能茂について述べておきたい。
-------

とあります。
この冒頭の一文で、能茂作とされている和歌は慈光寺本の「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」だけであり、能茂は『遠島御歌合』にすら詠進していないことを知り、私は本当にホッとしました。
隠岐で後鳥羽院はおよそ文化的とは言い難い環境に置かれており、もちろん才能のある歌人も僅少でしたから、後鳥羽院は仕方なく『遠島御歌合』には相当レベルの低い人も参加させていたのですが、能茂の和歌の才能がそのレベルにも達していないのであれば、慈光寺本の和歌作者として実にピッタリだからです。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd

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渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)

2023-06-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

国文学研究者・櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号、2004)は、頼朝が征夷大将軍任官を希望したことを自明としていた歴史研究者に大変な衝撃を与えましたが、私は渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)は、少なくとも承久の乱に関心を持つ歴史研究者にとっては、櫻井論文に匹敵するほどの破壊力を持つ論文ではないかと思っています。
そこで、今年一月・二月に行った検討と重なりますが、改めて歴史学にとって渡辺論文が持つ意味とその限界を検証してみたいと思います。
渡邉論文は、

-------
一、はじめに
二、『承久記』所収和歌の概要
三、作り替えられる辞世歌
四、応答しない贈答歌
五、順徳院の長歌
六、道家の返歌
七、配所の王の長歌の先蹤
八、長歌贈答が語るもの
-------

と構成されていますが、「一、はじめに」の冒頭には、

------- 
 承久の乱の顛末を描いた『承久記』の諸本は、現在、慈光寺本、流布本(古活字本)、前田家本、『承久軍物語』の四系統に分類されるのが一般的である。そのうち最古態本とされるのが慈光寺本で、一部加筆が見られるものの、成立は仁治元年(一二四〇)以前にさかのぼるとされる。
-------

とあります。
この後も渡邉氏は「後続の諸本」という表現を繰り返されるので、慈光寺本を「最古態本」とする立場に賛成されていることは明らかです。
しかし、慈光寺本は語彙・文体・内容が非常に個性的で、和歌に関しても、「なんと言っても注目されるのは、慈光寺本に見える順徳院と九条道家の長歌贈答」で、「他の軍記物語を見渡しても、長歌を載せている例は簡単には見出せず、希有な例」とのことですから、「後続の諸本」からは孤立しています。
このような孤立的・個性的・独創的作品が最初に出現し、「後続の諸本」はそこから個性的・独創的な記述を丁寧に削除して、あまり面白くない平板な作品に変えて行った、という流れは、私にはどうにも不自然に感じられます。

渡邊裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/56caf9976eac24e7ca2c54afc81626e6

さて、「二、『承久記』所収和歌の概要」に入って、渡邉氏は諸本の和歌を網羅的に整理された後、慈光寺本の特徴を三点指摘されます。

(1)慈光寺本は他の諸本に見られる、後鳥羽院の配流先への道行きの歌にまったく関心を示していない。
(2)慈光寺本の和歌は上皇配流後の贈答に集中し、しかも、それらは後続諸本以外には一切他出が知られない。
(3)処刑された範茂の辞世歌の位置が諸本と異なる。

渡邊裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/539dde20f4869b0252b1c636692ec5b0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/440dee9893f138a3d2b407fc3e466abe

前回検討に際しては、この後、渡邉氏が依拠されている慈光寺本が「最古態本」だとの近時の通説的な見解に若干の疑問を呈するなど、いったん渡邉論文を離れて、慈光寺本の周辺を少し探りました。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c25a682f90750c44c19caed426eb4141
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/163881a9ba2466771003a2000f2fe64d

大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07a3c0aa92664d6fb1f0edd2cd08ec

『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fe371163038f874da844371f30c93c8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb541a7acb9f83e2f97658944be699e
『葉黄記』寛元四年三月十五日条の「或人」のことなど。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2d39376be5361026cada799b379ceb7

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

そして、渡邉論文に戻る前の準備作業として、承久の乱で後鳥羽側の敗北が決定した後の戦後処理のうち、特に公卿・殿上人の処分が流布本と慈光寺本でどのように描かれているかを確認してみました。

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a1f999a76d4276037c63f2f39ee598
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c4940d614c7baa80f97b4bfd483e20d

一次史料の『葉黄記』が二次史料の『承久記』に「汚染」された可能性について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2cf0a2e77d6fab5859a22adcc9e1f21

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その7)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/082d6a1df74a8db8b23a7b3546cd0f87

また、長江荘について改めて検討しているときに、慈光寺本の亀菊エピソードに登場する藤原能茂という人物が非常に不思議な存在に思われてきました。

「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

そして、慈光寺本の作者は藤原能茂ではないかという仮説に至りました。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/870b1319bf4c43646f8d868ba2830b4b
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/460d88959eeb1d2c67f1431cf0abc2bf

この仮説を踏まえて、久しぶりに渡邉論文に戻ることとしました。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/046b68ab2d02709e3bead37a73118c2f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その68)─「カヘリキネコン」

2023-06-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で引用した部分、順徳院と九条道家の長歌については渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)に譲り、それ以外の部分だけ、拙訳を試みておきます。

【私訳】
新院(順徳院)を佐渡国にお流し申し上げた。
(七月)二十日にお移し申し上げる。
夜中に岡崎殿へお入りになった。
御供には女房二人、男は花山院少将宣経と兵衛佐教経の二人だが、少将宣経は病気を患って帰ってしまわれたので、配所への御幸の露払いをする人もいない有様である。
秋になるのが遅いかと、佐渡のあたりを都の方へ鳴いて過ぎて行く初雁も羨ましくお思いになられて、帰洛する少将宣経に託して「奏上せよ」とおっしゃる。

   逢坂ト聞モ恨シ中々ニ道シラズトテカヘリキネコン

兵衛佐教経もまた病気となって帰ってしまった。
また佐渡へ戻って来るようにと順徳院はお約束なさったけれども、亡くなってしまったので参ることはできず、憂き世もさらにつらくお思いになられる。
ところで順徳院のお住まいとなったのは草深い粗末な家で、風も防ぎきれないほどであり、都のことは露もお忘れにならない。
御母の女院(修明門院)や中宮(東一条院)などへも、御使いをお送りになった。
そしてまた、「前摂政殿」(九条道家)へのお手紙は次のようなものであった。

いったん、ここで切ります。
順徳院の歌について、久保田淳氏は脚注で、

-------
初雁は逢坂の関のあなた、都の方に飛んで行くと聞くにつけても恨めしい。行かずにかえって道がわからないといって帰ってきてほしい。第五句は疑問がある。
-------

と書かれていて(p357)、「カヘリキネコン」に疑問を呈されます。
私には何か変だなと思われるくらいで、どこがどのように変なのかは分かりませんが、まあ、全体的にあまり良い歌ではないですね。
また「奏セヨ」とありますが、誰に奏上せよと命じているのか。
久保田氏は「今の御門に申しあげよ、の意か」とされますが、新帝・後堀河天皇(1212-34、承久三年には十歳)が順徳院にとって歌を贈る相手としてふさわしいのか疑問であり、かといって他にふさわしい相手も想像できません。
いろいろと不審な点が多いのですが、この歌は他の史料には登場せず、相当なレベルの歌人である順徳院がこんな変な歌を詠むことが一番不審ですね。
さて、順徳院の長歌については、渡邉論文の第五節を参照して下さい。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b9827f1d9d41a2a0dcc3ce0e2e3fed
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bfcfb2614c9d9de0a3660ef4c0261b4

この長歌の後、

【私訳】
御物思いが積み重なり、御体調も日々に悪くなられたので、京からは医師なども参ったようである。
順徳院のお手紙を(修明門院や東一条院など)所々では待ち遠しく御覧になって、「御手跡は昔のままであることよ」などと千々に御心が乱れるのも、言うまでもないことである。
さて、「殿」(九条道家)の御返事には、

とあって、その後の道家の長歌は、渡邉論文の第六節を参照して下さい。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37eac5fd77df4203bf373db57e9e6502
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

私には内容面で渡邉氏の解説に何かを付け加える能力はないのですが、とにかくこの順徳院と九条道家の長歌贈答は分量が凄いですね。
岩波新大系で、配流された後鳥羽・土御門・順徳・六条宮・冷泉宮関係記事の分量を比較すると、

後鳥羽院 55行
土御門院 4行
順徳院  44行
六条宮・冷泉宮(二人まとめて) 5行

となっていて、後鳥羽院と順徳院関係記事で大半を占めていますが、順徳院の方は九条道家との長歌の贈答で膨れ上がっている訳ですね。

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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その67)─「此君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」

2023-06-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(岩波新大系、p356)

-------
 十月十日、中院〔ちうゐん〕ヲバ土佐国畑〔はた〕ト云所ヘ流マイラス。御車寄〔くるまよせ〕ニハ大納言定通卿、御供ニハ女房四人、殿上人ニハ少将雅俊・侍従俊平ゾ参リ給ケル。心モ詞モ及バザリシ事ドモナリ。此〔この〕君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン。
-------

【私訳】十月十日【正しくは閏十月十日】、中院〔土御門院〕を土佐国の「畑」という所にお流し申し上げた。
お送りする御車を寄せたのは大納言土御門定通卿である。
御供は女房四人、殿上人は少将雅俊・侍従俊平の二人が参った。
心も言葉も及ばない出来事である。
この君の晩年を拝見するにつけても、天照大神・正八幡もどんなにいたわしいこととお思いになさったであろうか。

一応、以上のように訳してみましたが、「此君ノ御末ノ様見奉ルニ」については「御子孫が繁栄されるご様子を拝見するにつけても」と解釈する立場があります。
承久の乱から二十一年後、仁治三年(1242)に後堀河天皇の皇子・四条天皇が頓死し、土御門院皇子の邦仁親王(後嵯峨天皇)が即位して、以後は土御門院の子孫が繁栄する訳ですが、それを慈光寺本作者が知っていたと考えたのが益田宗氏です。
ただ、この見解は杉山次子氏に批判されており、私はこの点では杉山説に賛成です。
野口実氏も次のように書かれていますね。

-------
 慈光寺本については、早く富倉徳次郎「慈光寺本承久記の意味─承久記の成立─」( 『 国語・ 国文』第一三巻第八号、一九四二年)が、その成立年次を「大体承久の乱の翌年の貞応元年以後貞応二年五月までの約一年間」とする説を提出していたが、これに異論をとなえたのが益田宗「承久記─回顧と展望─」(『国語と国文学』軍記物語特輯号、一九六〇年)である。すなわち、同本に「此君ノ御末ノ様見奉ルニ天照大神正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」とある記事をもって「此君」=土御門院の皇子後嵯峨天皇・皇孫後深草天皇の即位以降の成立と見るべきだとし、また作者を「鎌倉武士の立場」に求めたのである。
 これを批判・克服したのが、杉山次子「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」(『 軍記と語り物」第七号、一九七〇年)である。杉山は「末=すゑ」の用法を検討して益田の上記引用部分に対する解釈を難じた上で、成立の上限を「惟信捕縛」の記事から寛喜二年(一二三〇) 、下限は北条泰時に助命された十六歳の「侍従殿」=藤原範継の没年から仁治元年(一二四〇)としたのである。さらに、杉山は「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」(『日本仏教』第三一二号、一九七一年)において、慈光寺本に三浦氏の記述が詳しいことに着目して作者圏を源実朝室の側近だった源仲兼周辺の一団に求め、また「承久記諸本と吾妻鏡」(『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)では、慈光寺本は『吾妻鏡』とは無関係に、藤原将軍期に成立したと述べている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ac49db44731e38d2798af164b05c3c1

さて、続きです。(p356以下)
ここから長大な順徳院の配流の話となりますが、これは七月の出来事なので、閏十月の土御門院の遷幸の後に出て来るのは少し変な感じがします。

------
 新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移〔うつし〕マイラセ給フ。夜中ニ岡崎殿ヘ入セ給フ。御供ニハ女房二人、男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経ツケリ。少将宣経病〔やまひ〕ニ煩ヒ帰リ給ヘバ、イトゞ露打〔つゆうち〕ハラフベキ人モナシ。秋ヤオソキト、鳴テ過ル初雁モ羨シク思召レテ、少将ニ付テ「奏セヨ」ト思食ス。

  逢坂ト聞モ恨シ中々ニ道シラズトテカヘリキネコン

 兵衛佐モ又煩〔わづらひ〕テ、帰リケリ。又ト契ラセ給タリケレドモ、墓〔はか〕ナク成テ参ラザリケレバ、イトゞ憂世モ今更ニゾ思食レケル。サテ渡ラセ給ヒ付タ所ハ、草ノ戸ザシ、風モタマラヌホドニ、都ノ事、露モ御忘レナシ。御母女院・中宮ナドヘモ、御使参サセ給フ。サテ又、前摂政殿ヘノ御文ニハカクナン、

  天ノ原 空行月日〔そらゆくつきひ〕 クモラネバ 清キコゝロハ サリトモト タノムノ
  雁ノ ナクナクモ 花ノ都ヲ タチ放〔ハナ〕レ 秋風吹〔フカ〕バト チギルダニ 越路
  ニオフル クズノハノ 帰ラン程ハ サダメナシ マシテアダナル 露ノ身ノ 道ノ草葉ニ
  ハルバルト ナニニカゝリテ 今日マデハ ナヲアリソ海ノ マサゴヂニ オヒタル松ノ
  音ヲヨハミ カハクマモナキ 袖ノ上ニ ヌルモネラレヌ 夜半〔よは〕ノ月 アフギテ空
  ヲ 詠〔なが〕ムレバ 雲ノ上ニテ 見シ秋ノ 過ニシカタモ ワスラレズ マドロムヒマ
  ハ 無〔なけ〕レドモ サナガラ夢ノ 心地シテ モユルオモヒノ 夕フ煙〔けぶ〕リ ム
  ナシキ空ニ ミチヌラン ソレニ附〔つけ〕テモ 故郷〔ふるさと〕ノ 人ノ事サヘ 数々
  ニ シノブノノキヲ 吹結〔ふきむす〕ブ 風ニ浪ヨル 呉竹〔くれたけ〕ノ カゝルウキ
  世ニ メグリキテ 是モムカシノ 契リゾト オモヒシラズハ ナケレドモ 人ノコゝロノ
  クセナレバ ナグサム程ノ 事ゾナキ 是ハ明石ノ 秋ナレバ 四方〔よも〕ノ紅葉ノ 色
  々ニ タノムカゲナク シグレツゝ 我身ヒトツニ ウツロヒテ 霜ヨリサキニ クチハテ
  ン ウキナハサテモ 山河ノ 色ニタゞヨフ 水ノアハノ キヘヌモノカラ ナガラヘテ
  イカナル世ヲカ ナヲタノムベキ 
  ナガラヘテタトヘバ末ニカヘルトモウキハコノ世ノ都成ケリ

 御物思ノツモリ、日ニソヘテノミ、ナヤマセ給ヘバ、京ヨリモ薬師〔くすし〕ナド参ルナルベシ。此〔この〕御文ドモヲ所々ニハ待ツケ御覧ジテ、「御手バカリハアリシナリケリ」ト御心マドヒドモ、申〔まうす〕モオロカナリ。殿ノ御返事ニハ、

  久堅〔ひさかた〕ノ 月日ヘダツル 空ノクモ [       ] ヨソニシテ イツトモ
  シラヌ アフヒグサ 日カゲニムスブ 心モテ 朝夕君ニ ツカヘコシ ソノカミ山ニ 吹
  風ノ 目ニミヌカタヲ オモヒヤリ サカヒハルカニ ナルマゝニ ヤスムコゝロモ ナミ
  ダノミ トゞマラヌ日ニ 流レツゝ シヅミハツルモ アスカ河 キノフノハルノ イツノ
  マニ 今日ノウキヨニ アフミナル トコノ山路ニ 有〔あり〕トキク イサヤアヤナク
  アヤムシロ シキシノベドモ シキシマノ 道ニハアラヌ [   ] 入江ノ水モ 山ノハ
  モ ミドリノ空ニ 日ノ色モ ウスキ衣ニ 秋クレテ 人メカレ行〔ゆく〕 シタ草ノ オ
  トロヘハツル ハツシグレ フル[  ] 道ノソラ 空ノケシキモ アラチ山 道ノアハ雪
  サムキヨノ ミギハノ千鳥 打ワビテ 鳴音〔なくね〕カナシキ 袖ノウヘヤ モシホタレ
  ツゝ アマノスム 里ノシルベモ ユウケブリ 煙モ浪モ 立〔たち〕ヘダテ 雲井ニミヘ
  シ 在明〔ありあけ〕ノ アフギシ人ヲ マガヘツゝ コゝロノヤミノ ハレマナキ 秋ノ
  都ノ ナガキヨニ ハツシモムスブ 白〔しら〕ギクノ ウツロヒ行ヲ 白妙〔しろたへ〕
  ノ ウキヨノ色ト オドロケバ ネデモミヘケル ユメノミチ ウツゝニナラデ マヨフコ
  ロ哉
  イトヘドモ猶〔なほ〕ナガラヘテ世ノ中ニウキヲシラデヤ春ヲマツベキ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/066c90a15de1d51bec8007bce452c64f

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