学問空間

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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その6)

2019-09-30 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月30日(月)10時55分20秒

前回投稿で触れた「『七十年史』の編集参与たちがマルクス主義的背景をもっていることはさきにのべた」(p138)の謎ですが、念のためと思って先程もう一度読んでみたものの、やっぱり存在していないですね。
草稿にあった文章を削ったのに関連部分の修正をしなかった、ということでしょうか。
それと、「宗教阿片論のように、マルクス主義と宗教は相容れないというイメージもあるが、両者が親和的な関係をもつことは別に奇妙なことでもない。マルクスやエンゲルスは宗教運動が革命的性格をもちうることを認めていた」(同)については、この部分だけ素直に読むと、ではレーニンはどうなんだ、生温いことを言ってるんじゃねーぞ、という素朴な疑問を抱かざるをえないですね。
レーニンに指導されたボルシェヴィキが教会財産国有化を断行し、聖職者の大規模処刑を行なったことは有名ですが、「戦闘的無神論者同盟」に属していた佐木秋夫もレーニン主義者ではなかったのか。
ま、永岡氏もレーニンの宗教に対する姿勢について知らないはずはなく、当面の論点とは関係ないということで触れなかったのでしょうが、佐木秋夫や村上重良のような共産党系の無神論者が宗教を研究する意義とも関係するので、レーニンについては後で論じたいと思います。
なお、レーニンによる聖職者殺戮の具体像はソ連崩壊後に詳細を知ることができるようになりましたが、ネットでは宮地健一氏の「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」が詳しいですね。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninrinri.htm

宮地健一氏は1937年生まれで、名大経済学部卒業後、損保会社を経て日本共産党の専従職員を15年勤めた人だそうです。
規律違反を理由に査問を受け、共産党を除名された後、党を相手に裁判闘争を行なっていたとか。

宮地健一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E5%81%A5%E4%B8%80

さて、永岡論文に戻って続きです。(p138以下)

-------
 その点、大本が二度の大弾圧を受けたという事実は、教団が近代天皇制国家における「民衆宗教」でありつづけたことの何よりの証拠として重視されることになる。それは、編纂会の討議で佐木秋夫がつぎのように発言していることからもはっきり読み取れる。

  〔第二次事件で、教団に治安維持法にふれる点が、引用者註〕あっ
  たところでかまわない。むしろあったほうがいい場合があるわ
  けですよ。つまり、戦争に適するものは利用するという姿勢が
  あるわけだから、協力しないで、拒否して、あたったほうがい
  いわけでしょ。

佐木は、いわば大本の反権力性をより純粋な形で表現するシンボルとして、治安維持法違反適用の"正当性"を主張していた。治安維持法が民衆を抑圧する悪法である以上、それに違反するのが「民衆宗教」のあるべき姿だという、きわめて明快な論理といえる。こうした立場を同時期の著書『新興宗教─それをめぐる現代の条件』(一九六〇年)によって補足しておこう。そこでは「天皇制の落とし子」としての大本によって「するどい社会批判がしめされ、神の力によってこの邪悪なケモノの世が破滅して正直な貧しい人々が永遠の幸福を与えられる、というような狂信めいた終末の夢」が広まったものの、「けっきょくこういう信仰は、大衆を米騒動のような現実のたたかいに参加させるのではなく、怒りをあ おりたて反抗の姿勢を固めながらも、それを神秘の夢に発散させ、国民を信者と非信者に分断してしまう」と批判的にのべている。しかし他方では、大本事件について次のようにいう。

  この経験は貴重なものだった。弾圧の「おかげ」で戦争協力の
  責任もまぬかれた。そういう歴史的な性格を身につけて、戦後
  の民主勢力の高まりに応ずることができた大本は、初期の積極
  的な面を生かして平和・友好と民主主義を強調し、原水爆反対
  や憲法擁護や中立政策のために広い民主勢力とともに活動して
  いる。
-------

長くなったので、いったんここで切ります。
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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その5)

2019-09-28 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月28日(土)11時23分22秒

続きです。(p137以下)

-------
 つまり、戦後の民衆宗教史研究が対象としてきた諸宗教(ここでは狭義の民衆宗教と呼んでおく)は、(1)近世後期から近代初期にかけて成立し、(2)支配体制(とくに、近代天皇制国家や資本主義社会)への反抗、対抗、代替といった性格を有している、(3)民衆を担い手とする宗教であると、さしあたりまとめることができそうである。そこをふまえない限り、戦前日本において一貫して"民衆的"な広がりをもっていた天理教や金光教が「後退」したという見解は理解できない。それらの教団は、支配体制に順応していったという点において、「「民衆宗教」から失格してしまったというわけである。
-------

これが上田正昭が担当した『七十年史』の「序説」に、「一八九二年の大本開教時には、天理教、金光教、黒住教が「公認をうけるために、最初に出されている開祖の教えを枉げて、後退して」いった」と記されている理由(と永岡氏が考えるもの)ですね。

-------
 『近代民衆宗教史の研究』の末尾を飾る「大本教の成立と展開」では、大本の歴史と性格についてつぎのようにまとめられている。

  日本の資本主義は、一貫して農村へのはげしい搾取のうえに発
  展したが、農村再建に基礎をおく大本教の国家改造論は、異端
  的ファシズムの民衆運動として急速に成長し、ファシズムの制
  覇に利用されながらも、やがて徹底的な弾圧をうけねばならな
  かつた。大本教の基底にある民衆的性格は、教義として天皇崇
  拝を強調しながらも、天皇制とその神話にたいする、異質の神
  話に立つ変革の主張として、支配階級のはげしい憎悪の対象と
  なつた。

この引用でもわかるように、村上における「民衆宗教」の概念は、「基底にある民衆的性格」と、天皇制にたいする「異端」性のふたつの要素を串刺しにしたものであり、近代天皇制国家と民衆が原理的に対立するものとしてあらかじめ設定されているのである。
-------

永岡氏の見解を言い換えれば、村上重良にとっての「民衆」とは、「近代天皇制国家」における「たんに非エリート層」というだけではなく、その中でも「近代天皇制国家」に反抗的な人々に限られることになります。
そして、『七十年史』の「序説」を書いた1964年時点での上田正昭も、その「民衆」概念を村上と共有していることになりますね。

-------
 ところで、『七十年史』の編集参与たちがマルクス主義的背景をもっていることはさきにのべた。宗教阿片論のように、マルクス主義と宗教は相容れないというイメージもあるが、両者が親和的な関係をもつことは別に奇妙なことでもない。マルクスやエンゲルスは宗教運動が革命的性格をもちうることを認めていたし、戦前日本のマルクス主義者のなかにも、宗教伝統の宗祖・祖師たちには革命家としての性格が認められる(ただし組織化・制度化以降は反動化する)という見方が存在していた。『日蓮』(一九三八年)を著した編集参与の佐木秋夫は、そのような立場を代表する存在だったといえるだろう。戦後の民衆宗教史研究は、イデオロギー的にはこうした系譜をひくものといってよい。
-------

うーむ。
実はここには些か奇妙な記述が多くて、まず、「『七十年史』の編集参与たちがマルクス主義的背景をもっていることはさきにのべた」とありますが、論文冒頭からここまでを目を皿のようにして読み返してみても、永岡氏は別にそんなことは言っていないですね。
本文に対応する注記(1)から(41)までを見ても、やはりそんな記述はありません。
そして、編集委員九人の中には、京都大学教授・柴田実のように「マルクス主義的背景をもっている」とは思えない人もいます。

『大本七十年史』執筆者における「左翼」の割合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38bb069b4f295c18136e8eae2c147fe3

ま、この部分は永岡氏の単なる勘違いではなかろうかと思います。
なお、永岡氏は編集委員九人のうち、実際に執筆を分担した上田正昭・佐木秋夫・松島栄一・村上重良の四名しか挙げていないので、この四名に限れば、上田氏を含め「マルクス主義的背景をもっている」といっても間違いではないでしょうね。
また、永岡氏による佐木秋夫の評価についても若干の疑問がありますが、細かくなりすぎるので、今は取り上げないこととします。
「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」の役職にはついていなかったものの、関口精一氏の孤独な闘いを靖国問題と関係づけて全国レベルの戦いに連結・拡大させることに貢献した佐木秋夫はなかなかの策士であり、興味深い存在ですね。
ともに共産党員であり、『大本七十年史』の編纂、そして「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」では同志的存在であった佐木秋夫と村上重良は、後に村上が「創共協定」に関与した共産党の宮本顕治委員長(当時)を批判するようになると、佐木は宮本擁護の立場から村上に厳しく反論し、村上は離党することになります。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4273236f48b9ae878782d732ed89f0b3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70e7801b9995c4d81f65dc718918947c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea414cb6a3b15527a00a32f0b4029664
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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その4)

2019-09-27 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月27日(金)11時29分46秒

ということで、9月16日以来、久しぶりに永岡論文に戻って「三 民衆宗教史研究と大本という事例」に入ります。
この節の冒頭は既に紹介済みですが、参照の便宜のため、再掲します。

-------
 教外から参加した編集参与のうち、大本ともっとも深いつながりをもち、いわば大本と研究者たちのパイプとしての役割を果たしたのは、歴史学者の上田正昭であった。一九二七年に城崎の呉服屋の子として生まれた上田は、中学校を出るころ、母と親交のあった亀岡の小幡神社の社家・上田家を継ぐことになった。この小幡神社は出口王仁三郎の産土社であり、その縁から大本と深いかかわりをもつことになったという。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e96371956e7d080cd6a65e86072b844e

そして続きです。(p136以下)

-------
 その上田が執筆を担当した『七十年史』の「序説」は「あらたな民衆宗教」という小見出しから始まり、「民衆宗教」としての大本の性格がまずもって押し出されている。大本には「霊界と現世を統一的に把握し、現実を重視した、人間の活力を尊重する民衆思想のあらたないぶきがやどっており」、「開教のその時から、既成宗教や国家神道の教理とは相いれない独自の要素がみなぎっていた」とされる。一八九二年の大本開教時には、天理教、金光教、黒住教が「公認をうけるために、最初に出されている開祖の教えを枉げて、後退して」いったのにたいして、大本は「民衆のために生きる宗教としての、独自な性格と一貫性」をたもちつづけたという点を、上田は高く評価するのである。
-------

ここで「後退」という表現が用いられている点に注意する必要があります。
それぞれの教団関係者は別に「後退」などとは意識していないのに、なぜ上田氏から「後退」と決めつけられてしまうのか。
その理由については少し後に永岡氏の説明があります。

-------
 大本にたいするこうした性格づけは『七十年史』ではじめて現れたものではない。早くは佐木秋夫・乾孝・小口偉一・松島栄一『教祖─庶民の神々』(一九五五年)が、大本をふくめたいくつかの新宗教教祖の生活史を、社会的背景に目配りしつつ、また底辺民衆(庶民)としての彼ら/彼女らへの共感をもって描いている(このうち佐木、小口、松島は『七十年史』の編集参与)。
 そして上田の序説で採用されている「民衆宗教」という概念は、直接的には、編集参与となる村上重良の『近代民衆宗教史の研究』(一九五八年)によってもたらされたものとみてよいだろう。村上がいう「近代民衆宗教」は、単に非エリート層によって担われる宗教というだけではない。時期的にいえば、民衆宗教の源流ともいうべき富士講をのぞけば、黒住教、天理教、金光教、大本という、いずれも十九世紀に発生した宗教が選ばれている。つまり近世後期から近代初期にかけて成立したものが(近代)民衆宗教と呼ばれているのであり、たとえば「鎌倉時代の民衆宗教」とか「戦国時代の民衆宗教」などは、実質的に対象から除外されている。加えて、村上においては─これがより重要な点だが─民衆宗教ということばはイデオロギー的な含意を有している。島薗進が指摘するように、民衆宗教は「政治的な支配体制に対する反抗、対抗、代替の運動」として描かれ、「反抗的・対抗的、代替的なビジョンを描き、支配体制や日本近代社会のあり方に異議申し立てを行ったか、行う可能性があったもののみが注目される」のである。
-------

長くなったので、いったんここで切ります。
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中間整理(その3)

2019-09-27 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月27日(金)10時29分49秒

次いで出口栄二著『大本教事件』のベースとなった『大本七十年史』(上巻・下巻)について、少し検討しました。

出口王仁三郎と小幡神社
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3d1425b4817d39650a4bdd9071eb7b5
「西田文化史学を慕って受験しました」(by 上田正昭)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/544ec688bf4fa4f4fa8b6dfe3f67088e
『大本七十年史』執筆者における「左翼」の割合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38bb069b4f295c18136e8eae2c147fe3

『大本七十年史』は新興宗教と歴史学が接触・格闘した興味深い事例であるので、永岡崇氏の「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」(国際日本文化研究センター『日本研究』47号、2013)に即して、更に若干の検討に取り掛かりました。

永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf718cfd8bbee6cc1cc719310b9dda1e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f8d9fb32ec1382af1af7351bd4beeaa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9dbaecef11d9430c93c6048dc4863d4d

以上が中村翫右衛門と前進座に寄り道する前の当掲示板の状況です。
勢いで永岡論文に踏み込んでしまいましたが、『津地鎮祭違憲訴訟』(新教出版社、1972)から約四十年を隔てた宗教学の最先端の論文なので、一般読者にとっては些か難解であることは否めません。
そこで、当面は『大本七十年史』の「編集参与」で執筆も担当した四人(佐木秋夫・松島栄一・上田正昭・村上重良)のうち、「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」にも深く関与した佐木・松島・村上の三人が如何なる人物かを判断する材料となる部分のみを検討するにとどめたいと思います。
上田正昭氏は式内社・小幡神社の神職という社会的立場がありますから「守る会」には参加しにくかったでしょうし、おそらく理論的な面でも「守る会」に全面的に賛同する訳には行かなかったでしょうね。
ただ、『大本七十年史』の執筆時の議論では、「守る会」の理論的支柱となった村上重良とは意見が一致することが多かったようです。
そのあたりも丁寧に見て行きたいと思います。
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中間整理(その2)

2019-09-26 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月26日(木)12時01分29秒

次いで関口精一氏を支援した「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」がどのような団体であったのかを確認するため、同会編集の『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1972)を検討してみました。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その1)~(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06a313b431c646de160e7ee85e440483
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce777efeb99366cb769986f947a61b32

同書を読むと、関口精一氏にインタビューをした「政教関係を正す会」の佐伯真光氏の「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」という認識は不正確で、「守る会」の「代表世話人」の松島栄一氏をはじめ、共産党関係者がやはり多いですね。
中でも支援組織の全国拡大に重要な役割を果たしたのは、戦前から「日本戦闘的無神論者同盟」で活動していた共産党員で宗教学者の佐木秋夫です。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その3)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18da1944061a95b5d52dfb3b6c1aa432
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4273236f48b9ae878782d732ed89f0b3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70e7801b9995c4d81f65dc718918947c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea414cb6a3b15527a00a32f0b4029664

さて、一審で、地鎮祭など日常行われている単なる習俗行事で信教の自由・政教分離原則とは無関係、と一蹴されてしまった原告側は、二審では地鎮祭は「国家神道」と、従って「靖国の問題」と重大な関係があるのだ、と主張します。
その具体的内容を、今村嗣夫氏(プロテスタント)とともに弁護団の中心的存在であった小池健治氏(プロテスタント)の「戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」に即して少し検討しました。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その7)~(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a7c72ab4547e208657e716857bafa3d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80e958b70cd1f82f83864093255d30ab
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89e4aecc46b06c7b3a324d3dd4b246c1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7a8f8479742eaff0d68ebe569f4f1a5

小池氏が挙げる「戦前戦中の国家神道による人権侵害」の中で一番重大なのは大本教弾圧ですが、その実態は小池氏の説明とは相当にずれるように思われたので、弁護団が自己の主張を基礎づける書証として裁判所に提出した出口栄二著『大本教事件』(三一新書、1970)の内容を検討しました。

出口栄二著『大本教事件』(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7bbcbb7a410c4f7f897a3b6ec446658
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e96371956e7d080cd6a65e86072b844e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fb4b7b73af05337e85d24cb89ebc3630
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0475135a835d9b1002f8f89d7baf2ab7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4badf3a315df66268546d1a40b57f010

そして、大本教に対する吉野作造・姉崎正治等の見方を紹介した上で、小池氏の見解について若干の批判を行ないました。

「之は姉崎博士のいはるゝ如く思想上の低能児に多い」(by 吉野作造)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f41d5845670ca7f712f07afc079c263
「宗教政策の腕力を以てする圧迫は如何なる場合に於いても禁物」(by 吉野作造)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8207f229af5026e897b7adf383e930c
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e11a83af0a4cff43392988c5dd7141e
「大本教問題は、個人心理よりも、寧ろ社会心理の問題」(by 姉崎正治)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2aa87d65c6a0b6c6ffd889fdc2b2ca62
大本教は「なんらの社会的活動をしないとしても危険思想として注目された」のか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c9830c04ab682bce8f1da2a29b585add
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中間整理(その1)

2019-09-26 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月26日(木)09時43分2秒

前進座への寄り道から「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」に戻るに際して、少し整理をしておきます。
「国家神道」について自分なりにまとめておきたい、ということは私にとって三年越しの課題だったのですが、石川健治氏の「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」(駒村圭吾編『テクストとしての判決』、有斐閣、2016)という論文を読んで、その内容にはあまり感心しなかったものの、ちょうど良い手がかりだなと思いました。

テクストとしての石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c0729c9524b834063705870163f4ea5
石川健治「(憲法を考える)9条、立憲主義のピース」との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/676a91b239ed1c3ed5862bd6a5dd33c1

そこで、この長大な論文の最初の方を少し検討しました。
石川氏の見解に対する私見は既に三年前に述べておいたことがかなりあります。

「序 埋もれたテクスト構造」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3feaafdc8500aa4ad8423174a36bf76
矢内原忠雄『帝国主義研究』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c4e911c85839a7ea55a86452559839
「藤林というインテリ」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/96e718e217b7b61df70d532bbc09a3dc
「常に勝ち馬に乗ってきた」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8652d6c01a890d5f1b5d302629e889c1
「ほぼ原文のまま書き写す、という異例の方法」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22f0096ba8a78eb347062d24dbd332c1
「他人の文章の丸写しであって、論ずるに足りない」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e12a5d97ab8ab030a05d5761c647ffff
「藤林の仕掛けは不発に終わった」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e631f918046d7e9b3bb624d63bfa600
「越山が古巣の東京地裁に戻った時分」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/575b62974dc48cb1acd7f18bac645135
「たったひとりの闘いを開始」─「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」を読む。(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0902501af7bc46a2f134585e1b14d912

そして津地鎮祭訴訟を提起した共産党員の関口精一氏とはどんな人なのかが気になって、関口氏側に敵対的な「政教関係を正す会」の『法と宗教』(経済往来社、1972)に掲載されていた関口氏のインタビューや、関口氏を支持する田中伸尚氏の『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(岩波ブックレット、1997)などを少し検討しました。

「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」(by 佐伯真光氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2c1d321a6354d3aff64c888c9d16be3
関口精一、かく語りき(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d740cdc8fd451460c4281e32f0705083
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6471a23add0f5e06273681f4f15ae26
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0038c5a5d9d92481c278abd10a728a8d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ddce91dbc4a90a46e5d2b65300a81c7

田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4662923e213b927446f0d2f91a4b65e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c6632617302af3250b554a1af0440e9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed420cdb60ea979db13a65d4c98e5085
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「地鎮祭につきものの神主のお祓いは抜き」(by 中村翫右衛門)

2019-09-24 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月24日(火)10時47分33秒

NHKファミリーヒストリーの影響で、ちょっと前進座に寄り道してしまいましたが、そろそろ「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」に戻ろうと思います。
共産党の歴史の中でも前進座は面白い存在で、特に戦前、他の分野で共産主義運動が窒息させられた昭和十年代になって、むしろ劇団としての活動が活発化しているのは壮観ですね。
もちろん治安維持法の下で左翼的な主張を前面に出せるはずもありませんが、映画会社と提携することにより、前進座には多額の契約金が安定的に入るようになります。
その結果、「五万円の貯金」ができて、これで吉祥寺に二千坪の土地を購入し、「前進座演劇映画研究所」を作る訳ですね。
翫右衛門の『劇団五十年』には、

-------
 昭和十二年(一九三七)の三月の新橋演舞場公演中の八日、二月二十八日に着工した前進座演劇映画研究所の定礎式が吉祥寺の建設敷地でおこなわれた。【中略】地鎮祭につきものの神主のお祓いは抜きで、施主側の座員と家族たちが工事にあたる建築労働者とエンヤコラの綱を引いて「座歌」を歌った。式はわたしの司会で、座を代表して長十郎、次いで設計者の図師嘉彦、顧問弁護士の布施辰治がこもごも挨拶のことばを述べたあと、手打ちで終え、みんなで赤飯を祝った。
-------

とありますが(p183以下)、「地鎮祭につきものの神主のお祓いは抜き」というのはいかにも前進座的です。
しっかりした拠点を持つことにより運営体制が強化された前進座は公演・映画いずれも好調で、検閲の強化には苦しむものの、それこそ真珠湾攻撃の後ですら仕事自体はけっこうある状態が続きます。
1944年には劇場閉鎖が相次ぎますが、公演は継続され、映画も松竹提携で『宮本武蔵』を撮ったりします。
さすがに1945年に入ると空襲の影響で大都市公演は無理となり、細々と地方巡業となりますが、それでも終戦までやっているというのは驚きですね。
戦後、食糧難には苦しむものの、劇団員は意気軒昂、1949年の集団入党に至ります。
そして村山知義の新協劇団などは「五〇年問題」で分裂しますが、前進座は「所感派」でまとまっており、組織へのダメージは殆どなかったようですね。
さて、1960年に行われた前進座の中国公演の記録、『前進座中国紀行』(演劇出版社、1960)を読むと、参加者は口々に「人民公社」や「大躍進」、そして毛沢東を絶賛していて、二度と戻らない時代の雰囲気を感じさせますが、日中の共産党間の関係が悪化するのに伴い、前進座の内部でも分裂が起きます。
前進座は発足以来、河原崎長十郎と中村翫右衛門の二本柱で運営されて来た訳ですが、1966年、文化大革命がひろがりはじめた頃に行われた第二次中国訪問公演以後、「幹事長」の長十郎が毛沢東主義に嵌ってしまいます。

-------
 かれは第二次訪中から帰った二ヶ月後の十二月、新橋演舞場公演で『鳴神』を主演中、持病の糖尿病に肝炎を併発して入院し、退院してからも自宅静養をつづけて舞台は休演していた。病中の長十郎は、北京から来る『北京週報』などで、しきりに"文化革命理論"を"学習"していたようだった。そのかれが共産党を離党した旨を一新聞社に通知したため、これがそのころ社会的な大きな話題となっていた中国問題と関連して報道され、座の興行は各地で混乱した。甲信越などの巡演から帰京した八月三十日午後、副幹事長として病中の長十郎の代行者とされていたわたしは、かれの出席を求めて拡大幹事会を開いた。「体の具合が悪いから十分だけ」という条件で出席した長十郎は、冒頭からいきなり"毛沢東思想"の講義を三十分以上もしゃべりつづけた。かれ以外の全員は、「劇団の会議に政治問題を持ち込むべきではない。緊急を要する興行対策を協議しよう」という考えで、講義をつづけようとするかれと意見が食いちがい、多少の激論があってから、興行の混乱を収拾するための臨時総会を開くことが急務で、長十郎もそうしようといって、かれもふくめて決定された。ところが、総会の準備過程で、長十郎は前言をひるがえし「三日の総会を承認した覚えはない。幹事長の承認しない総会は成立しない」と伝えてきた。こうしたなかで村山知義、藤森成吉らが心配してかれを自宅に訪れ説得したが、がえんじなかった。
-------

という事態となり(p376)、臨時総会では「幹事長不信任」とともに、「創立以来の功労者である座員河原崎長十郎氏について、その家族をふくむ生活、医療の不安がないように座が保障する」等の決議がなされます。
しかし長十郎は記者会見を開いて、「修正主義集団が蜘蛛の巣をはりめぐらして」座に圧力をかけている、といった主張を繰り返したので、結局、1968年7月に除名されてしまいます。
外部からの攻撃には強い集団であっても、内部分裂はなかなか厳しい試練だったようですね。
ま、1960年代の共産党の動向は当面の関心とは離れ過ぎますので、これで止めておきます。

河原崎長十郎(1902-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E5%B4%8E%E9%95%B7%E5%8D%81%E9%83%8E_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
「前進座の歴史」(前進座公式サイト内)
http://www.zenshinza.com/infomration/rekishi/history.html
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中村翫右衛門と赤平事件(その5)

2019-09-21 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月21日(土)12時15分43秒

昨日の投稿では「警察に翫右衛門と間違えられて逮捕された人が瀬川菊之丞ではなくて「三味線の杵屋十三郎さん」になっているなど、記録としての正確性には多少の疑問も感じます」と書いてしまいましたが、『前進座80年』には、

-------
 次の日は室蘭。警官隊が舞台と客席の間になだれ込み、翫右衛門に似ていると三味線の杵屋十三郎さんを逮捕していきました。舞台から必死で抗議しました。警官がソッと「楽屋に入ってください。済みません、お願いします」と言って、警棒で押すふりをしています。隊長の警官は鬼のような目つきで私たちを見ながら通ります。
-------

とあります(p74)。
他方、翫右衛門の『劇団五十年 わたしの前進座史』には、

-------
十三日の上砂川空知劇場公演は、北海道中の警官が動員されたということだった。わたしは劇場にはいることができず、菊之丞が替って俊寛をつとめたが、かれはわたしと間違えられて逮捕され、翌日、釈放された。北海道巡演は上砂川が打ちあげだった。劇団は全道各地の観客との約束を果すことができた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cb869b4c89b9225145cc95a159d8237

とあって(p328)、室蘭で杵屋十三郎、上砂川で瀬川菊之丞がそれぞれ翫右衛門と間違われて逮捕された、ということのようですね。
両書を読み比べると公演場所と日付のずれがかなりあって気になるのですが、あまりに細かくなるので省略します。
さて、赤平事件の結末ですが、『劇団五十年 わたしの前進座史』によれば、一審では起訴された「六人全員に二千五百円から二千円の罰金刑」だったものの、二審では「全員に六カ月ないし四か月の実刑」となり、最高裁に上告したものの棄却され、「六人はその刑期をつとめることになった」そうで(p331)、なかなか厳しいですね。
他方、中国に渡った翫右衛門は、

-------
 北京にきて半年ほどたったころ、わたしは脚気にかかり、その回復に努めるかたわら中国政府のいたれりつくせりの待遇を受けた。そしてこのころから次第にふえてきた日本各界の代表訪問団のお世話の手伝いをしたり、人生五十年をこえた自分を生いたちまでさかのぼって反省するために、発表はしないつもりで自伝的な記録を綴ったり、あるいは中国の新旧の芝居や演劇学校そのほかを見学したりの生活であった。
-------

とのことで(p336)、この「発表はしないつもりで」綴った自伝的記録が『人生の半分 中村翫右衛門自伝(上巻・下巻)』(筑摩書房、1959)ですね。
このように「いたれりつくせり」の恵まれた亡命生活ではあったものの、翫右衛門は次第にホームシックになります。
そして1954年、

-------
北京にきた鈴木茂三郎と岸輝子は、一しょになって叱るような調子でわたしに帰国の決意をうながした。わたしに異存のありようはなく、その好意に胸を熱くしたのだったが、たった一つの気がかりは、「羽田から留置所に直行」といったことになって、前進座に迷惑をかけはしないか、という危惧だった。そうしたことのないように尽力すると鈴木委員長はいってくれた。
-------

のだそうで(p341)、僅か二年で帰国に「異存のありようはなく」なってしまう訳ですね。
出入国管理令違反は明確だから「羽田から留置所に直行」は当たり前ではないか、贅沢言うな、という感じがしないでもないですが、社会党の鈴木茂三郎委員長は律儀に「警察庁長官や検事総長の打診」を行なってくれ、「さらに古くからの前進座ファンの久原房之助、北村徳太郎、松本治一郎、馬島僴といった政財界の有力者の親身の骨折りがあって、わたしの危惧はとりのぞかれていった」(同)のだそうです。
そして1955年11月4日、翫右衛門は羽田に着いて大歓迎を受けた後、

-------
任意出頭のかたちで蒲田署に行き、警視庁公安三課の三時間ほどの取り調べをうけた。わたしは赤平の小学校雨天体操場で舞台に立ったこと、法の手続きをせずに出国した事実は認め、しつこく訊ねられた出国経路などは答えなかった。そのまま帰宅を許され、なつかしい前進座研究所についたのは真夜中だった。その後、わたしは"建造物侵入"と"出入国管理令違反"の容疑で書類送検ということになった。
-------

ということで(同)、大勢の中国密航者が帰国後に受けた対応とは全く異なる恵まれた処遇ですね。
共産党員である翫右衛門の帰国に際し、尽力してくれた「政財界の有力者」のうち、鈴木茂三郎・松本治一郎は社会党、馬島僴も戦前からの左派の人ですが、久原房之助・北村徳太郎は少なくとも思想的には翫右衛門と共通するところはありません。
ま、単なる演劇ファンというよりは、共産圏との関係回復という意図もあったのでしょうね。

久原房之助(1869-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8E%9F%E6%88%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9
北村徳太郎(1886-1968)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E

では、この間、共産党は何をしていたのかというと、1955年7月の「六全協」で軍事路線を転換し、「五〇年分裂」以来の混乱の終息を図ることに大わらわで、翫右衛門の帰国などに関わっている暇はなかった訳ですね。

日本共産党第6回全国協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
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中村翫右衛門と赤平事件(その4)

2019-09-20 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月20日(金)10時16分13秒

中村翫右衛門の息子、梅之助(1930-2016)の『前進座80年』(朝日新聞出版、2013)を読んでみたところ、赤平事件に関する記述も若干ありますね。

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前進座は歌舞伎に反旗を翻して1931年創立の日本で一番歴史のある劇団。時代劇・現代劇・青少年劇など全国で人気を博している。戦後のGHQ干渉や劇団分裂危機などの経緯もふまえ、創立の前年に生まれた著者が波乱と感動の80年を描く。

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=14678

それなりに面白いことは面白いのですが、警察に翫右衛門と間違えられて逮捕された人が瀬川菊之丞ではなくて「三味線の杵屋十三郎さん」になっているなど、記録としての正確性には多少の疑問も感じます。
しかし、「赤平事件」の直前に1952年5月の「血のメーデー事件」をもってくる点などは、時代の雰囲気を感じさせて、翫右衛門の『劇団五十年 わたしの前進座史』よりむしろ親切ですね。(p72)

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 「血のメーデー事件」となった五二年五月のメーデーに、人民演劇集団の構成員として座も参加しました。あの大騒ぎの中で「ドンドンドンドコドン」と、座のメンバーが打つ力強い大太鼓の音が、みなさんを励ましていました。あとで国民救援会から呼び出しがあって行きますと、部屋の奥に「殊勲甲」と札の張ってある大太鼓が飾ってありました。前進座が会場に置いてきてしまったものでした。前年の五月三十日、皇居前広場での集会にも、救援会の一員として参加していました。デモになりはじめ、MPが数人、カメラでときどきデモの列を撮影していました。そしてデモが帰ってきて解散の会場に入る前、突然MPが飛び込んできて、数人をつかまえて行きました。行きがけに写真を撮られた数人でした。朝鮮戦争が始まろうとするときで、実に双方が緊張していた時代でした。
-------

「朝鮮戦争が始まろうとするときで」とありますが、「前年(の五月三十日、皇居前広場での集会)」は1951年なので、朝鮮戦争は更にその前年、1950年6月25日に始まっていますね。
ま、梅之助が83歳のときの著作ですから、この程度の間違いはご愛嬌です。

血のメーデー事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

翫右衛門班が北海道巡演を始めたのは「血のメーデー事件」直後の1952年5月12日、赤平事件は同月24日で、共産党と警察の「実に双方が緊張していた時代」ですね。
おまけに北海道の場合は、同年1月21日に発生した白鳥事件のために警察側の共産党への態度が極端に硬化しており、翫右衛門の神出鬼没の逃亡劇は警察にとっては許し難い嘲弄であって、「(六月)十三日の上砂川空知劇場公演は、北海道中の警官が動員された」(『劇団五十年 わたしの前進座史』、p327)といった事態に発展したのでしょうね。
ただ、そうはいっても中国密航までやるか、という疑問は残りますが、翫右衛門も相当ハイテンションになっていて、劇団運営の悪化リスクとの比較考量といった合理的な計算とは別の世界に入り込んでいたのでしょうね。
他方、共産党指導部の発想としては、翫右衛門を中国に送ればすごい宣伝になるかも、といったあたりでしょうね。
前回投稿で翫右衛門の中国密航は志田重男の指示と承認のもとに行なわれた、みたいなことを書いてしまいましたが、翫右衛門クラスの超大物の場合、やはりそれを決められるのは北京の徳田球一ですね。

志田重男(1911-71)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%94%B7
徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80

翫右衛門も徳田球一を頼りにしたはずですが、あいにく翫右衛門が中国に渡ったころ、徳田は病気で入院してしまいます。
そしておそらく翫右衛門のあずかり知らないところで、「北京機関」内部では野坂参三・西沢隆二と伊藤律・聴濤克巳・土橋一吉の間で深刻な対立が生じ、伊藤律は軟禁され、査問を受けるような事態になります。

『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』(その1)─「名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない」(by 野坂参三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6b66688948185d29d55af4317e3e541
『伊藤律回想録』(その2)─「金庫の鍵をくれ」(by 野坂参三)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/86353b13188ce9407f2eb7804869df01
『伊藤律回想録』(その3)─「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」(by 志田重男)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e01a8d6ee3f70b0cc71800954376620d
『伊藤律回想録』(その4)─「野坂同志は延安で何年も粟飯を食べながら……」(by 毛沢東)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33fe3355157b8d1ad1b4c33cbca7e8b7
『伊藤律回想録』(その5)─「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」(by 安斉庫治)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b736c55183c8a3a86566f2ce4e2b87c

ま、こういうドロドロの権力闘争には翫右衛門は関わらなかったでしょうが、1953年3月にスターリンが死に、同年10月に徳田球一も死ぬと、翫右衛門もずいぶん戸惑ったでしょうね。
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中村翫右衛門と赤平事件(その3)

2019-09-18 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月18日(水)23時22分6秒

続きです。(p327)

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 逮捕された六人は起訴のうえ保釈された。七月の中国、関東巡演はわたし以外のメンバーで、わたしを逮捕しようとする私服警官につきまとわれながら、予定どおりおこなわれた。わたしは多くの人びとに守られてその後も官憲の追及をのがれ、伝手をえて北京へ"亡命"した。いわれのない逮捕という暴挙に対して基本的人権を守る立場をあくまでつらぬくためであった。また、サンフランシスコ条約が結ばれて以後の日本で、このような野蛮な弾圧が文化活動に向けられていることを、折りから北京で開かれることになっていた「アジア太平洋平和会議」に出席して訴える目的ももっていた。
-------

ということで、中国密航の経緯は「わたしは多くの人びとに守られてその後も官憲の追及をのがれ、伝手をえて北京へ"亡命"した」というだけの極めてあっさりした記述になっています。
翫右衛門のケースについて調べたことはありませんが、まあ、密航の手段は「人民艦隊」なんでしょうね。
大袈裟な名称ですが、要するに共産党がチャーターした漁船です。

人民艦隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%89%A6%E9%9A%8A

翫右衛門が密航した翌1953年、歴史学者の犬丸義一も松島栄一から指示されて「人民艦隊」で中国に渡りますが、犬丸の場合は静岡県の焼津港から出航したそうです。
松島栄一(1917-2002)は現在検討中の『大本七十年史』の編集参与の一人であり、「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」の代表世話人でもあった人ですが、東大史料編纂所ではずっと助手で、定年退職の前年にやっと講師になれた程度の人です。
でもまあ、共産党内の序列では相当高い地位にあったのでしょうね。
犬丸は密航前に当時の共産党地下指導部のトップ、志田重男と会ったそうですが、翫右衛門の場合も、志田と会っているかはともかくとして、志田の指示と承認のもとに中国に密航したのは間違いありません。

網野善彦を探して(その16)─「『井上清なり、山辺健太郎』なりを送るから待っていろ」(by 松島栄一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/97491474634c9e8f8f70bc5ffe3305ae
犬丸義一・中国へ行く(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c35192d470aa5d98f2636695bd71144d

さて、赤平事件に戻ると、いくら逮捕状が出ていたからと言って、たかが建造物侵入、それも経緯を考えればいくらでも反論ができそうな事案だったのに、いきなり中国に「亡命」するというのは飛躍がありすぎて、なかなか理解しづらいところがあります。
その疑問は、前進座の大幹部であった翫右衛門の「亡命」以後、前進座の経営が深刻な状況に陥った、という翫右衛門自身の説明により一層深まります。

-------
 わたしは日本を留守にするについて、いちばんの気がかりは劇団の団結だった。大劇場公演をあきらめてから足掛け七年の多班活動がつづき、長十郎班、翫右衛門班というかたちが固定化してくるにつれ、それぞれの班にいつとはなく垣根のようなものが感じられるようになり、劇団のなかに"長十郎派"と"翫右衛門派"といった空気が生れていた。これはわたしのもっともおそれていたことであった。また"赤平事件"のころの劇団の財政事情は『箱根風雲録』までの赤字の約千万円に北海道公演などの未収金二百万円余が加わってさらに悪化し、給料は遅配して電話がとめられるという事態まで起こった。わたしは同じ班で一しょにやってきた国太郎に、「どんなことがあっても長十郎中心に団結してほしい」と頼み、みんなにもいい、北京からもそういう趣旨をふくめた手紙をかれや劇団の仲間に何度もだした。
 わたしがいない期間の前進座は、ときにはコッペパンだけでその日をすごすような苦労もしながら全国巡演をつづけ、識者やファンのあいだに次第に強くなっていた要望にこたえるため、大劇場再進出への道を進めた。
-------

ということで、劇団内の不和と財政状態の悪化が目に見えているにもかかわらず、創設以来の大幹部が中国に「亡命」してしまう理由がどれほど重大なのかと思いきや、それはたかが建造物侵入罪です。
後に白鳥事件の関係者も多数が「人民艦隊」で中国に密航しますが、これは殺人罪、しかも公安警察官殺しという深刻な犯罪で、捕まったら場合によっては死刑を覚悟しなければならない、という話なので深刻さのレベルが違います。
いったい翫右衛門は何故、たかが建造物侵入罪で逮捕状が出ている程度の事情なのに中国に渡ったのか。
また、それを翫右衛門に命じた共産党地下指導部の意図はいったい何だったのか。
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中村翫右衛門と赤平事件(その2)

2019-09-18 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月18日(水)15時26分48秒

前回投稿の最後で杉之原舜一に触れましたが、杉之原には『波瀾万丈 一弁護士の回想』(日本評論社、1991)という著書があります。
私は未読ですが、その内容は、

-------
第1部 波瀾の半世紀(生いたち;一高から京大へ;九大時代;非合法共産党の幹部として;出獄;法大、北大、道労委)
第2部 自由と人権のまもり手として(東奔西走の日々―「今度死ぬのは杉之原さ」;旭川事件と小樽事件―火炎ビン事件の真実;釧路事件―破防法で初の無罪判決;外国人登録法違反事件―在日朝鮮人の人権をまもって;ラズエノイ号事件―おかしなスパイの物語;レッドパージ訴訟―無法と闘い抜いた30年;白鳥事件―秘術をつくした裁判闘争;芦別事件―官憲のでっち上げに抗して;運動と裁判―むすびにかえて)

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784535579743

というものだそうです。
杉之原は実際には白鳥事件が冤罪ではないことを熟知していたにもかかわらず、「秘術をつくした裁判闘争」を展開したようですね。
また、戦前、杉之原は学者グループから共産党への資金カンパを募る活動をしていましたが、特高に逮捕されると資金提供先を詳細に自白し、河上肇逮捕の原因を作ったことでも有名な人ですね。

-------
 前にちょっと紹介したように、河上が共産党のシンパとして資金カンパをはじめるのは、三一年の夏のころである。日大で民法の教授をしていた杉ノ原舜一が、「死んでも秘密を漏らすようなことはないから……」と、共産党への毎月一定のカンパを頼んだ。河上がそれを受けて、月百円から百五十円のカンパを引き受けたことはすでに述べた。三二年に入ると、
「党の要求は次第に逓増して来て、約束の定期寄付金の月額を殖したばかりではなく、千円、二千円と纏った臨時の寄付をせねばならぬ場合が何回か重なってゐた。その度毎に家内は銀行の預金を引出して来た」(『河上肇自叙伝』)
 河上はやがて党活動にどんどん深入りしていき、この夏には入党してしまう。そして九月上旬、党からのさらなる要請に応えて、実に一万五千円ものカンパを行なう。
「私は当日行はれたそんな事件の輪廓を聴き取りながら『これまで杉ノ原君の手を通して党に提供した資金は恐らく一万円近くに達してゐるだろうから、今度の分を加えると、彼れ此れ二万何千円といふものになる筈だ。新労農党時代に随分無駄な金を使つたものだが、それでもまだそれだけの金を提供することが出来たのか』と満足に思ふと同時に、『しかし後にどれほどの金が残してあるのだらう』と、家内の今後の生活のことがひどく気に懸つた」(同前)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcf7bc697571ed498569cd2c3d4a1b2

単に党周辺で金集めをしていただけで、しかも特高に迎合してカンパ提供者の名前をベラベラしゃべりまくったのに「非合法共産党の幹部」を自称するのはいささか厚かましい感じがします。

非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A

さて、『劇団五十年 わたしの前進座史』に戻って、続きです。(p327以下)

-------
 その後の各公演地との約束を破ってはならないと、不足の人員は東京から補充して、美唄、深川、夕張、余市と炭鉱地帯をまわって芝居をやり、六月一日、札幌についたとき、「翫右衛門に逮捕状が出た」と、インタビューにきた新聞記者が知らせてくれた。以後のあれこれはのちに『潜行記』(昭和二十七年九月・改造)などに書いたが、それを聞いたわたしやみんなの気持ちは、「約束した観客のために万難を排して舞台をつとめるのが俳優としての義務である」ということだった。逮捕されては舞台に出られなくなるから、相談のうえわたしはニコヨン労働者に変装してファンの家に身をかくした。
 三日と四日の札幌市民会館の公演には、私服の警官が張りこんでいた。わたしは戦前のことを思いうかべた。新協劇団や新築地劇団の公演は臨検の警官にたえず"中止"を命令され、やがて劇団は解散させられて、太平洋戦争になった。まるであの時代に逆もどりしたような"文化弾圧"にわたしたちはあっているのだった。わたしは何人かの仲間に守られ、舞台に立ち、そうした思いで超満員の観客に挨拶し、観客の眼の前でメイクアップをし衣装をつけて俊寛を演じ、終ると舞台裏から姿を消した。六日の昼はわたしを除く顔ぶれが、北海道大学職員組合の招きによって、北大のクラーク像の広場で『守銭奴』のページェントをやり、わたしは、その夜の室蘭大黒座公演、八日の函館共愛会館公演、十一日の小樽市議事堂公演といずれも『俊寛』だけに出演した。
 わたしは、魚屋のあんちゃんになったり、リュウとした紳士になったりの変装で、"潜行"をつづけた。だがいつ逮捕されるかしれなかったから、一しょに出演する座員たちにも、その日にわたしが出るか出ないかはいっさいわからず、とつじょ舞台にあらわれたのを見てそれを知った。だから、「おお俊寛どの、ひさしゅう会いませなんだ、無事でござりましたか」という成経、康頼との芝居のくだりをとっても、舞台には真実のこもった交流がおのずとわき、それがまた観客と交流した。演じるものも観るものも異常な状態におかれてのことではあったが、俳優としてのわたしには、あとにも先にも稀れな、しかも貴重な体験だった。
 十三日の上砂川空知劇場公演は、北海道中の警官が動員されたということだった。わたしは劇場にはいることができず、菊之丞が替って俊寛をつとめたが、かれはわたしと間違えられて逮捕され、翌日、釈放された。北海道巡演は上砂川が打ちあげだった。劇団は全道各地の観客との約束を果すことができた。
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番組では「わたしと間違えられて逮捕され」た瀬川菊之丞が警官に担がれて屋外階段を降ろされて行く様子を撮影した、たぶん当時のニュース映像が流されていましたが、菊之丞はずいぶん楽しそうで、報道機関の人々を含め、周囲も一種のお祭り状態でしたね。

瀬川菊之丞(六代目、1907-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B7%9D%E8%8F%8A%E4%B9%8B%E4%B8%9E_(6%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

それにしても「各公演地との約束を破ってはならない」、「約束した観客のために万難を排して舞台をつとめるのが俳優としての義務」、「劇団は全道各地の観客との約束を果すことができた」と何度も「約束」が強調されますが、単なる興業予定が変更されるのは普通のことです。
しかも劇団から逮捕者が出ているという異常事態である以上、興業予定を変更しても別に「全道各地の観客」から文句も出ないはずなのに、何故に翫右衛門と前進座はここまで意地になって巡演を続けたのか。
また、何故に警察は、翫右衛門側の多少大袈裟な表現とはいえ、「北海道中の警官が動員」されるような警備体制を敷いたのか。
これも1952年の共産党と警察との関係、そして北海道における特殊事情としての白鳥事件を念頭に置かないと理解困難ですね。
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中村翫右衛門と赤平事件(その1)

2019-09-18 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月18日(水)11時47分4秒

永岡論文の検討の途中ですが、16日に放送されたNHKの『ファミリーヒストリー』「中村梅雀~名優の家に生まれて 祖父の事件の真相~」が気になったので、少しだけメモしておきます。
この番組、最後の最後まで「共産党」という表現が登場しなかったのですが、翫右衛門の中国密航の経緯を「共産党」抜きで説明するのはいくら何でも無理で、視聴者の大半は訳が分からなかったでしょうね。
前進座が共産党系の演劇団体であることを知っている人であっても、赤平事件当時、北海道の共産党が置かれていた状況を正確に理解している人は稀なはずで、けっこう難しい話だったろうなと思います。

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中村梅雀さん63歳。祖父は中村翫右衛門。戦前から戦後と活躍した名優。父は「遠山の金さん」などでおなじみの、中村梅之助。今回、祖父・翫右衛門が関わった、戦後まもなくに起きた事件の詳細が明らかになる。警察から追われ、北海道から姿を消した翫右衛門。行方が分かったのは3か月後。中国・北京からのラジオ放送だった。驚きの真実が明らかになる。そして、父・梅之助の「遠山の金さん」秘話。激動の芸能一家の歳月。

https://www4.nhk.or.jp/famihis/x/2019-09-19/21/29254/1804167/

私は「五〇年分裂」当時の共産党に少し興味を持っていて、翫右衛門がどのようなルートで中国に密航したのか、中国でどのような生活を送っていたのか、野坂参三等の同時期の中国密航者とどの程度の接触があったのかが気になったのですが、今はちょっと調べる時間がありません。
そこで、とりあえず『劇団五十年 わたしの前進座史』(未来社、1980)で基本的な事実関係を確認しておくことにします。
まず、前進座は単なる共産党シンパではなくて、ほぼ全員が正式な共産党員ですね。

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 昭和二十四年(一九四九)、劇団員の多くが共産党に入党した。新聞は「既に時日の問題だけだったが、いよいよ全員が東京にそろったのを機会に五十余名が入党を決定、七日一時から研究所で徳田球一氏を迎えて入党式をおこなった。
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ということで(p306)、徳田球一に祝福された共産党のエリート宣伝部隊です。
ま、この時点では「獄中十八年」の徳田球一は絶大な権威を誇り、いかにも知的な風貌の野坂参三が「愛される共産党」などと戯言を言っていた訳ですが、翌1950年に入るとコミンフォルムの野坂参三批判で情勢が一変します。
共産党は徳田・野坂・伊藤律らの「所感派」と宮本顕治らの「国際派」に分裂し、1951年、徳田・野坂・伊藤たちは中国に亡命して「北京機関」を構成します。
他方、「北京機関」の包括的な了解の下、日本に残った志田重男らの地下指導部は武装闘争路線を推進し、「中核自衛隊」や「山村工作隊」などを組織して様々な騒擾事件、テロ事件を惹き起こします。
そして北海道では1952年1月21日、札幌市警の警備課長・白鳥警部がピストルで射殺されるという白鳥事件が起きます。

白鳥事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

当時の状況からすれば共産党が極めて怪しく、警察は必死に共産党関係者の捜査を行なっていた訳ですが、ちょうどその頃、北海道に現れたのが前進座の翫右衛門班です。

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 わたしたちの班は、『箱根風雲録』の撮影を終えた二月から四月にかけて、北海道、関東、信州、北陸とまわり、五月は十二日の富良野を初日に十九ヵ所二十ステージを予定する北海道巡演にはいった。帯広、足寄と無事に公演がすみ、十六、十七日は春採の太平洋炭鉱で公演する日程をたてていたが、会社側から「共産党の宣伝をするから」と会場の提供を断られた。【中略】二十四日は赤平炭鉱の組合主催の公演に出るはずだった。だが、ここでも会社と組合および講堂が会場に予定された豊里小学校側と、公演の実現に一ばん熱心だった豊里演劇愛好会とのあいだにいざこざがあったが、とどのつまりは「組合が責任をもつなら貸す」という学校の教頭のことばで、組合は代議員大会まで開いて「組合は責任をもって会場を借りる」と多数決で決めたのだった。ところが公演前日になって、学校側は「なにがなんでも使用させない」と態度を豹変させた。【中略】当日になり、開演時間がきて前売り券を買った人びとは入り口で待ちきれず、折からの雨もあって、やがて会場には二千人ほどの観客があふれた。切符を買って集まってくれた観客のために芝居をやるのはわたしたちの義務だった。『どんつく』の幕をあけ、裸電灯の照明で狭い演壇を舞台に芝居をした。その途中で武装した警官が会場を遠まきにしているという知らせがあった。わたしは客席の高揚した空気と演じるものの心が一つになるのを感じながら俊寛をつとめた。
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ということで(p325以下)、このあたりは「ファミリーヒストリー」でも一応の説明がありましたが、たかが劇団の公演になぜ警察がそこまでピリピリしていたかは、共産党地下指導部の武装闘争方針、そして白鳥事件という北海道特有の事情を知らなければ全然分からないですね。

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 その夜、わたしたちは全員がファンの家に分宿した。このころはどの班も旅館に泊ることは例外で、分宿し、宿泊さきで感じたままの感想や批判を聞き、それを芝居の肥しにするという生活をつづけていた。その夜から翌朝にかけて、若い劇団員四名、床山の青年、手伝いの青年、現地の青年等八名が逮捕され、六名が"建造物侵入"の容疑で起訴された。
 前進座の法律顧問として、布施辰治弁護士は、すぐに「即時釈放」を求める書面を札幌地方裁判所岩見沢支部に提出し、次ぎのように声明して、現地の杉之原舜一弁護士らとともに以後の弁護にあたった。
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布施辰治(1880-1953)は共産党系の自由法曹団の創設メンバーの一人で当時は顧問、杉之原舜一(1897-1992)は元九州大学助教授、元北海道大学教授の民法学者で、白鳥事件でも弁護団の中心になった人物です。
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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その3)

2019-09-16 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月16日(月)13時17分54秒

それでは「二 出口栄二と平和運動」に入ります。
まず、出口栄二氏の略歴ですが、

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 一九七九年にそれぞれ出口和明、栗原彬を相手として行なわれた対談において、出口栄二は自らの半生について詳しく語っている。これらの対談をもとに、彼の足跡をたどってみよう。栄二は、一九一九年に家口顕・いく夫妻の子として佐賀県で生まれた。八人きょうだいの六人目である。東邦電力の支店長を勤めた父の顕は一九二七年に亡くなり、それ以後は母・いくの下で育つことになる。いくは、顕の死後、栄二の姉・愛子のぜんそくをきっかけとして大本に出会い、一九二九年に入信したという。その後、栄二も亀岡で道場講座を受け、彼や兄弟姉妹も熱心に信仰するようになっていく。信仰にのめりこみすぎて、中学校を一年留年したほどであった。いくは一九三三年には佐賀の家を引き払って亀岡に移住したが、中学生だった栄二は佐賀市内に嫁いでいた姉とともに地元に残った。いく一家が熱心な信仰を始めた昭和初期には、大正天皇の大葬にともなう大赦で第一次大本事件が終息し、出口王仁三郎率いる大本は飛躍的に教勢を伸ばしていたのである。
-------

ということで(p133)、父が「東邦電力の支店長」ですからそれなりに裕福な家庭ではあったでしょうが、別に古参信者の家柄という訳でもないですね。

東邦電力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%82%A6%E9%9B%BB%E5%8A%9B

1942年に早稲田大学法学部を卒業後、栄二は亀岡に住むことになりますが、栄二が教団内で枢要な地位につけたのは、ひとえに「アジア・太平洋戦争末期の一九四五年四月、保釈中の王仁三郎の勧めにより、彼の孫娘(三代教主・直日の長女)である直美の婿として出口家に入った」(同)おかげです。
「王仁三郎が一九四八年に亡くなったあと、教団は王仁三郎の妻である二代教主のすみを戴いた体制に移行」(同)しますが、そのすみも1952年に亡くなってしまいます。
そして第三代教主・直日(1902-90)を直日の妹・八重野の夫の宇知麿(佐賀伊佐男、1903-73)が「総長」として支える体制になりますが、栄二は1958年、宇知麿の後を継いで「総長」となります。
ちなみに直日の夫・日出麿(高見元男、1897-1991)は京都帝大中退のインテリですが、特高の拷問で精神を病み、直日を助けることはできなかったようです。
なお、1979年という極めて微妙な時期に栄二と対談した出口和明(1930-2002)は宇知麿と八重野の間に生まれた人で、大本教の分裂後は直美・栄二氏とは別の教団(「いづとみづの会」、「愛善苑」)を作ることになります。

出口宇知麿(1903-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%AE%87%E7%9F%A5%E9%BA%BF
出口和明(1930-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%92%8C%E6%98%8E

さて、

-------
 一九五四年からは、大本は原水爆禁止運動へと乗り出していくことになる。直接的には、三月一日のビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験、そして第五福竜丸の被曝が契機となったが、それ以前より大本には人類愛善会を中心とした平和運動の基盤があり、いち早く原水禁運動に取り組んでいった。栄二は青年会長として先頭に立ち、原水爆禁止のための署名運動を展開していく。また、物理学者・湯川秀樹や四手井網彦【ママ】、経済学者・岸本英太郎ら京都大学の研究者と交流をもち、彼らを青年会の学習会に招いて原子力問題にかんする知識の共有に努めた。一九六二年にいたるまでの大本は、平和憲法擁護、世界連邦運動、原水爆禁止と世界的軍縮の推進、日本の再軍備反対、新安保条約批准反対といったテーマで、署名運動、デモ行進、国際会議への出席、学習会などの活動を精力的に行ったのである。
-------

ということで、ファシズムを推進する側であった「昭和神聖会」運動などに関わった信者からすれば吃驚仰天の教団運営が展開された訳で、反発も強かったようです。
1919年生まれの栄二が「総長」となったのは39歳、編纂会長となったのは41歳のときで、ずいぶん若いですね。
その若さゆえに第二次大本事件でも逮捕・投獄を免れ、王仁三郎の近くで「帝王教育」(?)を受けた期間も短いですから、結局、栄二による「支配の正統性」の根拠は出口家の長女の婿という親族関係だけといってもよさそうですね。
ちなみに七十年史の編纂が開始された1960年時点での執筆を担当した編集参与・編集委員の年齢を見ると、

上田正昭(1927年生、33歳)
佐木秋夫(1906年生、54歳)
松島栄一(1917年生、43歳)
村上重良(1928年生、32歳)
鈴木良(1934年生、26歳)
安丸良夫(1934年生、26歳)
前島不二雄(1931年生、29歳)

ということで、栄二は佐木の13歳下、松島の2歳下です。
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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その2)

2019-09-15 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月15日(日)09時55分38秒

「はじめに」には「研究対象を信仰の文脈から引き剥がすという暴力的な契機」(p127)とか、「ひとつの(たとえば信仰の)文脈から対象を引き剥がし、べつの(たとえば歴史学の)文脈へと翻訳するということの暴力性が、そういって悪ければ非自明性が、否応なく「意識化」されてしまう」(p129)といった難しそうな話が出てきますが、具体例に即して考えないと分かりにくいですね。
そこで、このあたりは後で見直すことにして、「一 大本の歩みと『大本七十年史』編纂事業」に入ります。
まず大本教の歴史ですが、第一次弾圧までは既に何度か触れているので、第二次弾圧を見ると、

-------
 その後、一九二七年に大赦によって免訴となった王仁三郎らは布教活動を再開、満蒙問題への発言や立替え立直しの主張などで注目を集めていく。一九三四年には外郭団体・昭和神聖会を結成し、軍人や民間右翼団体と提携しながら活発な政治的活動を行なおうとするが、これらの動きが不敬罪や治安維持法違反にあたるとして一九三五年に第二次大本教事件が勃発し、王仁三郎以下幹部が投獄され、教団施設は破壊、土地も不法に売却されるなど、徹底的な弾圧を受けた。
-------

ということで(p130)、ここで重要なのは「昭和神聖会」ですね。
出口王仁三郎が頭山満・内田良平と一緒に写った有名な写真がありますが、「昭和神聖会」は客観的には右翼団体であり、天皇機関説排撃運動にも加担します。
そしてこの「昭和神聖会」の活動が第二次弾圧事件のきっかけとなる訳ですが、治安維持法で弾圧された他の宗教団体とは異なり、大本教は「ファシズム」の単純な犠牲者ではなく、第二次弾圧事件前はむしろ国家の「ファシズム」化を積極的に推進した側ですね。
従って『大本七十年史』においては「昭和神聖会」は扱いが非常に難しいテーマとなり、執筆者の間でも論争を呼ぶことになります。

昭和神聖会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%A5%9E%E8%81%96%E4%BC%9A
出口王仁三郎(1871-1948)【頭山・内田との写真あり】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E
頭山満(1855-1944)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
内田良平(1874-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E8%89%AF%E5%B9%B3_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%AE%B6)

さて、「大本には二度にわたる弾圧事件をとおして形成された「邪教」としてのレッテルが、戦後にいたっても貼りつけられたままであった」(p131)ので、教団の「総長」であり、編纂会長を兼ねた出口栄二氏は「大本事件についての「はっきりした態度」を示し、「誤解」を解くこと」(同)を『大本七十年史』のひとつの大きな課題として、1960年に編纂事業を開始します。
しかし、その僅か二年後、「『七十年史』編纂が続くさ中の一九六二年一〇月、出口栄二は大本の総長ほか、ほとんどの役職を辞任することに」(p156)なります。
とはいっても、出口栄二氏は『大本七十年史』が完成するまで編纂会長に留まり、『大本七十年史』には出口栄二氏の個性が強く反映することになるので、次に出口栄二氏とは何者かを見て行きます。
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永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その1)

2019-09-14 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 9月14日(土)12時20分51秒

私も別に「左翼」が書いたから『大本七十年史』はダメ、と思っている訳ではありません。
上田正昭氏が自画自賛されているように、思想はともかくとして、それなりに優秀な歴史研究者・宗教研究者が参加したことにより、「異色でレベルの高い『大本七十年史』を完成した」(『アジアのなかの日本再発見』、p123)のは確かですね。

「出口王仁三郎と小幡神社」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3d1425b4817d39650a4bdd9071eb7b5

しかし、それが「教団史のあるべき方向を示唆する編纂となった」(同)かについては若干の疑問があります。
というのは、『大本七十年史』は1980年に起きた大本教の分裂の直接の原因ではありませんが、編纂の過程で大本教内部にもともと存在していた信仰上、思想上の対立を刺激し、亀裂を拡大させた面があるからです。
少なくとも新興宗教教団の内部の人から見れば、『大本七十年史』みたいなものを作ったら教団が分裂する前例を作った訳ですから、後に続く教団が出てくるとも思えません。
ま、それはともかく、『大本七十年史』は宗教と歴史学が接触・格闘した極めて興味深い事例ではあるので、永岡崇氏の「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」(国際日本文化研究センター『日本研究』47号、2013)に即して、もう少し検討してみたいと思います。
大谷栄一・菊地暁・永岡崇編『日本宗教史のキーワード 近代主義を超えて』(慶應義塾大学出版会、2018)の「編著者紹介」には、

-------
永岡崇(ながおか たかし)
大阪大学大学院文学研究科招へい研究員。1981年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門分野:日本宗教史、日本学。主要著作:『新宗教と総力戦』(名古屋大学出版会、2015年)、「宗教文化は誰のものか」『日本研究』47集(2013年)、「近代日本と民衆宗教という参照系」『日本史研究』663号(2017年)ほか。
-------

とありますが、今年4月から駒澤大学総合教育研究部文化学部門講師だそうですね。
駒澤大学サイトの写真を見ると、いかにも宗教史研究者らしい渋い顔をされておられますね。

https://researchmap.jp/ukon30/
https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/teachers/synthetic/culturology.html

さて、「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」の構成は、

-------
 はじめに
一 大本の歩みと『大本七十年史』編纂事業
二 出口栄二と平和運動
三 民衆宗教史研究と大本という事例
四 大本出現の意義、あるいは神がかりの意味をめぐって
五 大本の戦争観をめぐって
六 昭和神聖会・第二次大本事件・大本思想
七 『大本七十年史』とその後
 おわりに
-------

となっています。
「はじめに」はその一部を既に紹介しています。

出口栄二著『大本教事件』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e96371956e7d080cd6a65e86072b844e

なお、「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」は日文研サイトでPDFで読めます。

『日本研究』第47集
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=196&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese&page_id=41&block_id=63
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