学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

琥珀の町

2012-03-31 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月31日(土)08時11分20秒

昨日は岩手県遠野市から山間部の道を辿って久慈市に来ました。
標高が高いところは雪が相当残っており、また部分的に非常に道が細くなっていて、結構神経を使う走行でした。
廃線が決まった岩泉線に並行する道も通りましたが、よくこんなところに鉄道を造ったなあと感心するほどの山の中ですね。
今日は沿岸を南下するつもりだったのですが、天気が大荒れで良い写真が撮れそうもないので、青森県の原発地帯でも見てこようかなと思っています。
恐山はまだ道路が閉鎖されていて行けないみたいですね。


>筆綾丸さん
第二問はごくシンプルに「史料」だけを考えていました。
間違い易い字ではありますが、史料編纂所の存在が軽く見られていることの反映なんでしょうね。
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間違い探し(その2)

2012-03-30 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月30日(金)09時38分30秒

大河ドラマの「王家」問題は、とうとう国会で議論の対象となりましたね。
以下、片山さつき議員のホームページに出ていた「3月29日 総務委員会質問骨子」からの抜粋ですが、この中に明らかな誤りがあります。
それは何でしょうか。

それにしても、国会で本郷さんの名前が出てくるとは・・・。
大河ドラマの影響力はすごいですね。

------------
今低視聴率に喘いでいる清盛ですが、皇室の呼び名を王家という言葉を使っていることに大変な批判がでておりますが、この時代考証をやった方が東大資料編纂所の准教授の本郷さんという方で、この方の学説なんでしょうが、一般的な学説ではありません。文科省や教科書検定関係者にも聞きましたが、そうではありません。
1972年の新平家物語では吉川英治原作ということもあってか、皇室は皇室のままで、王家という呼称は使っておりません。何故この王家という呼称をNHKとして決定したのか。批判があってプロデューサーが一般的ではないということをおっしゃって、若干ホームページなどは直しておられるのですが、そういう修正をされるんだったら、何故もっと慎重にまた宮内庁にもお聞きになったのかと、皇室にとって先祖の呼称ですから非常に重要で、我が国でも平安時代の王家という呼称が、一般的であったとういう歴史教育のコンセンサスは全然ありません。そこはどう考えてこのような判断をされたのでしょうか。

http://satsuki-katayama.livedoor.biz/archives/6896824.html

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間違い探し

2012-03-29 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月29日(木)22時40分4秒

昨年8月、大船渡市三陸町綾里の雷神神社という小さな神社に参拝した際、丸石神を見つけました。
まるで中沢厚氏の『石にやどるもの』に出てきそうなきれいな丸石で、岩手県にもこの種の信仰があるのか、と少し驚きました。
ま、それはともかく、この神社の近くに「きさいん食堂」という不思議な響きの名前の食堂があったのですが、「きさいん」といえばサイン・キサイン・タンジェントくらいしか思い浮かばなかった私は、後で意味を調べようと思って写真を撮りました。
で、結局、全然調べていないのですが、「来なさい」「来てね」くらいの意味の方言ですかね。

きさいん食堂
http://www.hotpepper.jp/strJ000272333/map/

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6309



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二次方程式の解の公式

2012-03-29 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月29日(木)21時55分4秒

>筆綾丸さん
>交わり合いながら
これ、いいですね。
読書の楽しみのひとつとして誤植探し・勘違い探しがありますが、これは相当なお宝ですね。
前に書いたかもしれませんが、私のコレクションでの自慢の逸品は東京大学名誉教授で知的財産法の権威である中山信弘氏の『ソフトウェアの法的保護』(有斐閣, 1986年/新版, 1988年)です。
物理の法則や数学の公式は独占的な権利の対象とはなりえないことの説明の中に、例示として二次方程式の解の公式が出て来るのですが、それが間違っているんですね。
ルートの中の「b二乗-4ac」が「b二乗-ac」になっていて、知的財産権法の権威の方の本だけに結構笑えます。

中山信弘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E5%BC%98
二次方程式の解の公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F


※単独では意味不明ですが、これは筆綾丸さんの下記投稿を受けてのものです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6307

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「裏山」の混乱

2012-03-28 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月28日(水)10時39分44秒

「大川小学校の裏山」(その3)に写真を追加し、(その4)をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html

大川小学校関係の新聞記事やネット情報を見ると、「裏山」の安全度に関する地元の人の評価が異なっていますが、これは「裏山」の範囲が明確でないためでしょうね。
人によって微妙に異なった場所を大川小学校の「裏山」と把握していて、それを現地の地形を知らないマスコミ関係者が分析をしないまま報道し、混乱を増幅させているようです。
(A)体育館裏の杉林、(B)斜面を切り崩した草付き、(C)竹藪、(D)竹藪の西の杉林、といった具合にゾーンを分けて、個々の証言の「裏山」がどの部分を指しているのかを明確にすれば、それなりに整合性のある理解が得られそうですね。
例えば亡くなった児童の父兄の一部が、「三角地帯」などより遥かに安全で、わずか数分で全員避難できたはずだと主張している(A)体育館裏の杉林は、『河北新報』2011年9月8日記事の写真に出ている範囲では倒木はありませんが、上の方に行けば倒木はあるので、倒木があると言っている人が嘘をついている訳ではないですね。
ただ、結論としては、私はこの父兄の意見に完全に賛成します。
判断の遅れについての批判はひとまず置くとして、現実に避難を開始した午後3時25分の時点において、「三角地帯」ではなく(A)体育館裏の杉林を選択すれば、午後3時37分の津波襲来まで12分間ありますから、全員が助かったでしょうね。

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_01.htm

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大川小学校の裏山再訪

2012-03-27 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月27日(火)09時30分51秒

「大川小学校の裏山再訪」(その1)~(その3)をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54643398.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54647116.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54649053.html

都司嘉宣氏は立派な業績を上げている方ですが、人間誰しも思い込みはありますからね。
同じ場所でも、最初の印象と再訪した時の印象がずいぶん違うことは結構あります。
都司氏が訪問した6月だと、草が旺盛に生えていて滑りやすくなっていたのかもしれないですし、暑くてこの場所に到着するまでに体力を消耗したといった事情があったのかもしれませんね。
いずれにせよ、一段目の草付きは「ほぼ傾斜角45度の急斜面」ではなく、60代前半でメタボ体型の都司氏には「草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」としても、運動神経の良い小学生だったら、それこそ数秒で駆け上がることのできる程度の斜面ですね。
雪がついていようが、登れる子は登れます。
もちろん、条件によっては、全ての子が登れるかというと、それは分かりません。
しかし、頑丈なコンクリートの石段がなければ駄目というものではなく、斜面にスコップで簡単なステップを切ったり、上からロープ一本たらしておけば、どんな子でも登れますね。

都司嘉宣氏
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/STAFF2/tsuji.html
http://diamond.jp/articles/-/15069
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都司嘉宣氏への提言:デブはデブとしての自覚をきちんと持て!

2012-03-25 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月25日(日)22時03分25秒

大川小学校のことを調べていたら、これは人災ではないかという考え方に傾いてきて、下の投稿を書いた時点では民事のみならず刑事手続きで事実を明らかにすべきではないかと思っていたのですが、刑事の方はやはり難しいですかね。
今日、左手にカメラ、右手に携帯電話をストップウォッチ代わりに持って雪が残る草付き部分の一段目を登ったところ、しっかり転びました。
そこで、カメラを肩から斜めにかけて、携帯電話を仕舞い、両手を自由にした状態で登り直したところ、今度は転びはしませんでしたが、やはり雪があると登りづらいですね。
ただ、気温がかなり高い状態だったので、雪そのものではなく、その下のゆるんだ泥で滑りました。
気温が低い場合はどうだったのかは分かりません。
完全に凍り付いているならともかく、固く締まっている状態なら、むしろ登りやすかったかもしれません。
都司嘉宣氏が「ほぼ傾斜角45度の急斜面」と言われている草付き斜面の角度ですが、これはいくら何でも大げさですね。
都司氏はスキーをした経験がないのでしょうか。
最大斜度35度を超える急斜面があれば、上級コースの中でも特に難易度が高いコースで、上から覗き込むと怖いような感じがしますね。

参考:「急斜面があるスキー場:35度を超えるコース」
http://airstyle.fc2web.com/kyuu-syamen/
http://airstyle.fc2web.com/kyuu-syamen/35-touhoku.html#3

大川小学校の裏山の草付き斜面はせいぜい30度程度ですね。
「大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」も単なるメタボの個人的感想に過ぎません。

ここで都司嘉宣氏への提言をまとめておきます。

提言その1;理系の学者は数字を正確に!
提言その2:デブはデブとしての自覚をきちんと持て!

さて、草付の二段目は少し角度が増していて、圧迫感がありますね。
私は登りやすそうな場所を探して、東端の竹藪との境の部分を登ってみましたが、二番目の平場に近づくと相当に高度感もあり、普通の小学生が登るのは無理かなと思います。
要するに、雪の状態が悪ければコンクリートの平場への草付き斜面を登れない子供が相当出る可能性があり、また、コンクリートの平場に登れたとしても、その上への逃げ場がないですね。
津波遡上高が海抜9.4メートルだと事前に知っていれば、ここは「理想的な避難場所」ですが、そんなことは誰にも分からないですからね。
とすると、結局、父兄の一部が言われている場所がやはり一番良いのかなと思います。
写真は二段目の平場と、そこから見た周辺の光景です。

>職人太郎さん
日文研の新所長に妖怪博士の小松和彦氏が就任すると聞いて驚きましたが、井上章一氏が所長となる時代も近いのですかね。
そうなったら少しコワい感じもします。

http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0004855757.shtml

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6304
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校長の認識

2012-03-25 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月25日(日)08時31分35秒

「記憶の部屋」というサイトに大川小学校関係の記事がまとめてあって便利なのですが、『毎日新聞』2011年4月19日付記事に次の記述があります。

---------
 なぜすぐに裏山に避難しなかったのか--。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。
 石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。
 校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、 恐らく40~50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html

ここで柏葉照幸校長が「裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいな」と言っている「裏山」とは草付きの部分みたいですね。
この認識がその後の石巻市教育委員会やマスコミの認識の基調になっているような感じがするのですが、柏葉氏はこの認識をどのように得たのですかね。
実際に草付の部分を歩いてみたことがあるのか、それとも下から見上げての思い込みなのか。
私の住んでいる宮城県南部では一昨日の夜から昨日の朝にかけて雪が降り、大川小学校付近も同様に雪が降ったらしいので、今日、もう一度行ってみて、雪が残っている場合に登れるのかどうかを調べてこようと思います。
柏葉氏の認識について、地元の人がどのように思っているのか、同じような認識を抱いているのかも少し調べてみたいですね。
また、この『毎日新聞』記事に載っている上空から大川小学校周辺を撮影した写真には、私が登ったコンクリートの平場が鮮明に写っていますが、更にその上に3本の線が見えていて、上にも平場があるようですね。
一昨日訪問した際に、一段上の平場があることには気づいていたのですが、実際には登ってみませんでした。
上の平場の様子も確認してみようと思います。
今日の正午くらいに裏山を登ったり降りたりしている長靴を履いた中年男がいたら、それは私ですので、地元の人でこの掲示板をご覧になっている方がいれば声をかけて下さい。

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暫定的な結論

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)21時12分46秒

「大川小学校の裏山(その4)」を追加しました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54611204.html

昨日の訪問を踏まえて、私が現時点で下している暫定的な結論は、意外なことに大川小学校には理想的な避難場所が現実に存在していた、というものです。
ブログの「大川小学校の裏山(その1)」に掲載されている写真をクリックして拡大すると、アドレスの末尾に数字が出てきますが、それを見ると、冒頭の校舎前の空地に車を停めて最初に撮影した写真が「2012_0323_115207-IMG_1406.JPG」で、草付き斜面のコンクリートの平場に登って直ぐに撮影した写真が「2012_0323_115718-IMG_1430.JPGの午前11」となっています。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54607605.html

これは私が2012年3月23日の午前11時52分7秒に大川小学校の校舎前にいて、午前11時57分18秒には草付き斜面の平場にいたことを示しています。
経過時間は僅かに5分11秒です。
駐車した時点では、私はコンクリートの平場に登れるなどとは全く思っておらず、慰霊碑を撮影し、下のコンクリート壁周辺までゆっくり歩いて行って、コンクリート壁の裏側にまわり、「津波到達点」のプレートを見上げて踏み跡を辿り、プレートの周辺で周囲を撮影した後、更に上の平場に登って行きました。
その間、私は1406番から1430番までの25枚の写真を撮影していますので、仮に普通に歩いているだけだったら3分程度だったと思います。
都司嘉宣氏は、「裏山は、ほぼ傾斜角45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺(さんたん)し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。」と書かれていますが、「ほぼ傾斜角45度の急斜面」は、実際には特に登るのに困難はなく、私は一度も足を滑らせることなく、草をつかむこともなく、カメラを抱えてごく普通に登りました。
校舎が海抜2.5メートルの場所に存在し、コンクリート壁裏側の登り口は校舎より少なくとも2メートルは高い位置にありますので、プレートの位置が海抜9.4メートルだとすると、実際に登る必要がある草付き部分の高さはせいぜい4~5メートルです。
ちょうど1年経過していますから、草の付き具合は去年と同様だったと考えてよいと思います。
都司嘉宣氏は「大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」と書かれていますが、「ミツカン水の文化センター」の記事によると、都司嘉宣氏は1947年生まれとのことなので、2011年6月の時点で63ないし64歳とかなり高齢であり、また、写真を見る限り、かなりのメタボ体型の方のようですね。
とすると、「苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」のは、単に都司嘉宣氏の個人的な事情によるものではないかと思います。

http://www.mizu.gr.jp/fudoki/people/047_tsuji.html

1960年生まれで52歳、都司嘉宣氏より少しマシな程度のメタボ体型である私ですら何の苦労もなく津波到達点のプレートまで、そしてその2メートル上の平場まで登れましたので、身軽な小学生だったら全く楽々だったと思います。
雪が残っていたところで、田舎育ちの土に慣れた元気な子供たちには何の妨げにもならなかったでしょうね。
そして、コンクリートで固められた幅4メートルの平場は、周囲を見渡すのには絶好の場所です。
ここまで登れば、北上川(追波川)を津波がどのように遡上し、どの区域・集落に如何なる被害を与えつつあるかを、リアルタイムで完全に把握することができます。
この点が、父兄の一部が避難先とすべきだったと主張している地点との決定的な違いです。
『河北新報』2011年9月8日付記事が指摘する地点は、確かにそこに登るまでは緩やかですが、上に向かう踏み跡は溝状の地形をひたすら登ることを強いるもので、傾斜も急です。
また、鬱蒼たる木々に囲まれていて、周囲の展望が全く得られません。
ここにいたら、津波がどのような状況にあるのかを全く知ることができないですね。
ただし、この場所は、斜め上方のコンクリートの平場の東端に行く通過点としては非常に良い場所だと思います。
上部の藪の煩わしさだけ我慢すれば、傾斜はコンクリート壁の後ろの草付き部分より緩やかですね。
結局のところ、コンクリート壁の後ろの草付き部分に広い平場があるということさえ誰かが知っていたら、全員が僅か数分で理想的な避難場所に移動できたのではないかと私は考えます。

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大川小学校の裏山

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)11時44分9秒

「大川小学校の裏山」(その1)~(その3)をアップしました。
(その4)を書いてから、現時点での結論をまとめてみます。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54607605.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54607808.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54608100.html

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津波到達点の上にある平場

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)06時16分44秒

昨日、下の投稿を書いた後、もしかしたら自分が何か根本的な勘違いをしているのかもしれないと思って、大川小学校へ行ってみました。
私の現在の住所から大川小学校までは100㎞程度の距離なので、あれこれ考えているよりはサッサと行って確かめた方が早いですね。
まず、都司嘉宣氏が津波到達点のプレートに登ったルートですが、都司氏はコンクリート壁の西端から裏に廻り込んで、45度の草付きの斜面を登ったのですね。
私は亡くなった児童の父兄が避難すべきだったと主張しているコンクリート壁の東端の方にしか行っていなかったのですが、西端からも行けるし、その方が近いですね。
ただ、津波到達点のプレートは、その水平位置に特に意味があるものではないので、西端から行こうが東端から行こうが、どちらでもよいことです。
今回、実際に津波到達点のプレートまで登って驚いたのは、その地点の上を距離で3メートル弱、高さで2メートルほど登ると、幅が約4メートルのコンクリートで舗装された道路のような平場があったことです。
私は大川小学校は何度も訪問し、裏山の斜面も何度も見上げていたのですが、この平場の存在には気づいていませんでした。
45度の草付き斜面を登ることより、その斜面に留まっていることの方が厳しいので、私は今まで斜面に登る意味が全くないと思っていたのですが、平場が存在しているのであれば話は全く違ってきますね。
後でブログの方にまとめてみます。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6299


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大川小学校の「裏山」の範囲

2012-03-23 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月23日(金)08時16分56秒

都司嘉宣氏は理学博士ですが、古文書・古記録を利用して地震研究を行っている人で、全国各地を実際に歩いて調査している方ですね、
だから、そんなにいい加減なことを書くはずがないと思いたいのですが、大川小学校に限っては疑問を抱かざるをえません。
「ミツカン水の文化センター」のサイトに載っている都司嘉宣氏の「古文書から読み解く地震、津波の正体~地震の癖を知って防災に役立てる~」という2011年12月9日付の文章には、

----------
 石巻にある大川小学校では、108人の生徒さんの7割が亡くなりました。13人の先生の内、10人亡くなった。大川小学校は北上川の河口から4kmほど内陸にあって、小学校の標高は2m半しかない。前には堤防があります。
 大地震があって津波警報が出たので生徒たちをいったん外に出した。生徒たちをちょっとでも高い所に連れていくのがいいというので、裏山に上がらせるか、北上川の自然堤防、標高6mの所に上がらせるかで議論が始まってしまった。最終的に、北上川の標高6mの自然堤防のほうに向かいました。ちょうど津波がくる方角に、生徒を一列に並ばせて歩いたわけです。それで前から順番に津波に飲まれてしまいました。
 裏の山に上がればよかったのに、とも思いました。しかし、実際に現地に行くと、後ろの山は45度の傾斜で、しかも3月11日の石巻ですから雪が積もっているわけです。私が行ったのは6月ごろですが、道も何もなくて、上がれるような状態ではありませんでした。せめて山道が1本つくってあれば、逃げられた。なんとか裏山に這い上がった数人の先生と生徒は、助かったのですから。
http://www.mizu.gr.jp/fudoki/people/047_tsuji.html

とあり、都司氏の認識は昨年6月の訪問時以降、全く変化がないようです。
ネットで得られる情報で私が一番信頼できると思ったのは、『中央公論』2011年8月号に掲載された菊地正憲氏の「なぜ大川小学校だけが大惨事となったのか」という記事ですが、この記事の中でも、

--------
「釜谷は三〇〇年以上、津波が来ていなかったと言われた地区で、五〇年前のチリ地震津波でも被害はなかった。津波への警戒心は薄く、実際に地元住民も多数亡くなっているんです。あの裏山は急斜面で、低学年の子では登れないと思います。私も息子も、たまたま助かっただけです。先生も死なせたくはなかったはずです。昔からの顔見知りばかりの集落の保護者の間に、悲しい温度差ができてしまったのは本当に残念です」
http://www.chuokoron.jp/2011/07/post_87_3.html

と言われている人がいます。
しかし、私は「河北総合支所地域振興課の及川利信課長補佐」の見解が一番正確だと思います。

----------
津波が来る直前、市河北総合支所地域振興課の及川利信課長補佐は、他の五人の支所職員とともに大川小付近にいた。拡声器で避難を呼びかけつつ、海に向かう車一台一台に引き返すよう説得していた。
「地区の人たちは、家の前で立ち話をするなどしてなかなか動こうとしませんでした。『ここまで津波は来ない』と考えていたのだと思います。実際、市の防災計画やハザードマップでも、釜谷での大津波は想定されていませんでした」
 しかし、間もなく大津波は襲ってきた。及川課長補佐は大川小のあの裏山にやっとの思いでよじ登り、命拾いをした。六人の職員のうち、一人は津波に流され死亡している。その夜、みぞれが降る寒空の中、一六人が焚き火をして過ごした。大川小の児童三人もいて、ずっと押し黙り、憔悴しきった表情だった。助かった大川小の教員も見かけており、小さくなって疲れ切った様子だったという。
「あれだけの津波は想定していなかったにしても、海沿いに位置し、裏山の斜面も急な、もっと条件の悪い近隣の相川小、雄勝小の二校では、三階まで波を被りながら、学校にいた児童全員が山に登って無事でした。あの裏山は、子供が登れない斜面ではありません。倒木も見当たりませんでした」
http://www.chuokoron.jp/2011/07/post_87_4.html

市役所職員で、現実に津波に遭遇した及川氏が「あの裏山は、子供が登れない斜面ではありません。倒木も見当たりませんでした」とする一方で、地元でも「あの裏山は急斜面で、低学年の子では登れないと思います」と言う人がいる訳ですが、「裏山」の範囲に認識の違いがありそうですね。
木が伐採されている部分を「裏山」と考えれば間違いなく「急斜面」ですが、範囲を少し広げれば「急斜面」でないところはありますね。

(追記)
新聞だと『河北新報』2011年9月8日付記事が一番わかりやすいですね。
http://memory.ever.jp/tsunami/images-NP/0908-shogen_okawa1_NP.pdf

(追記2、2016年10月26日)
本日の仙台地裁判決を受けて「大川小学校」・「裏山」を検索してこちらに来られた方がいるようですが、この記事は中間的なもので、私の見方は下記に出ています。
ご参考まで。

「春の大川小学校」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55492680.html
「大川小学校の裏山再訪(その4)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html
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都司嘉宣氏の謎

2012-03-22 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月22日(木)20時47分40秒

都司嘉宣氏のエッセイ(?)に載っている写真、瓦礫がそれなりに整理されているように見えたので、最初に読んだときは現在の写真なのかなと思ってしまいました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/photos/120322/dst12032208070001-p1.htm

しかし、慰霊の祭壇が問題の斜面を背景にしているので、これはずいぶん前の写真ですね。
2011年9月11日の私の写真では同じ方向ですが、現在は祭壇に向かうと背景が校舎になっていて、角度にすると90度変化しています。
http://chingokokka.sblo.jp/article/53278917.html

そこで、この写真はいつ撮影されたのかが気になって少し検索したところ、同じ産経新聞の「パノラマ写真館」に2011年6月11日に撮影したという周囲360度を写した鮮明なパノラマ写真が出ていました。
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2011/0611ookawa/

これと比較すると、エッセイ添付の写真は都司嘉宣氏自身が昨年6月の訪問時に撮影した可能性が高いですね。
ところで、この写真を見ると、斜面の下の瓦礫は綺麗に排除されてコンクリート壁がはっきりと見えており、都司氏の言う「津波が到達した位置を示す木札」と私が2011年9月11日に撮影した木札が同じものだとすれば(まあ、同じものだと思いますが)、都司氏の文章は一段と謎めいてきます。
木札の真下は登るのが絶対無理なコンクリート壁ですから、都司氏はコンクリート壁の端から横に進んだことになりそうですね。
うーむ。
コンクリート壁の端に行けば、木札とは反対の方向へ自然と向かうように思うのですが、あるいはそちらにはまだ瓦礫があったのでしょうか。
都司氏のエッセイは一読して変なところだらけですが、東京大学地震研究所の准教授という立派な肩書の方なので、私としては、①そもそも都司氏には調査能力がない、②都司氏には調査能力があるが、瓦礫が残っていたために十分な調査ができる環境になかった、の二つの可能性のうち、後者ではないかと思っていたのですが、正解は前者のような感じもしてきました。

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東大地震研の都司嘉宣氏は調査不足

2012-03-22 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月22日(木)09時56分48秒

今日の産経新聞の記事です。

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【温故地震】大震災編 都司嘉宣 大川小学校の惨事 必要だった裏山の避難路

 東日本大震災発生後の1年間に計14回、震災による津波被災地を訪問し、津波の浸水範囲や到達した高さなどの調査を行った。現地で被災者に話を聞かせていただき、津波来襲時の写真や映像も数多く拝見した。そこから生々しく浮かび上がったのは、多くの人々がほとんどなすすべもなく、千年に一度の規模の巨大津波にのみ込まれていった凄惨(せいさん)な実態だ。命を救う方法はなかったのか。私たちは被災ケースを一つ一つ検証し、今後の津波防災の教訓にしなければならない。
 今回は、宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2.5メートルのくぼ地となっている。ここで、全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。
 地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。
 最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。「なぜ裏山に登らせなかったのだろう」と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を訪ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。
 裏山は、ほぼ傾斜角45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺(さんたん)し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。
 津波の防災対策は、千年に一度の巨大津波でも人の命だけは助けられるものでなくてはならない。それでは、大川小のケースでどんな対策があれば、児童の命を救えたのだろう。
 私は、この斜面を楽に歩いて登っていけるような、ジグザグの津波避難路を設けておくべきだったと考える。夜間の発生にも備え、太陽光発電の照明灯も設置しておけば万全だったのではないか。(つじ・よしのぶ 東大地震研究所)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120322/dst12032208070001-n1.htm

都司氏は「昨年6月に大川小を訪ねる機会があり疑問は氷解した」と書いていますが、その時点では瓦礫が大量に残っていて、周囲の状況をきちんと認識出来なかったのかもしれませんね。
記事の写真が何時撮影されたのか分かりませんが、「津波が到達した位置を示す木札」は木が広範囲に伐採されている部分の比較的下の方にあり、更に下には垂直に近いコンクリート壁が横に広がっています。
都司氏が「大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」という地点まで進んだルートが今一つよく分かりませんが、コンクリート壁は瓦礫に覆われていて、草付きのところだけを登ったのですかね。
あるいは、向かって左のコンクリート壁の端から右上に進んだのでしょうか。
いずれにせよ、「津波が到達した位置を示す木札」があるところは確かに急斜面で、小学生レベルの判断力があれば、わざわざに登らなくても避難が無理なことを理解できます。
亡くなった児童の父兄が避難すべきだったと主張している場所は、そんな急斜面ではなくて、記事の写真の範囲よりもっと左の方ですね。
ブログでも紹介しておきましたが、私はそこへ実際に行って、小学生でも全く「苦心惨憺」せずに上に行けることを確認しています。
都司氏の文章は至るところ疑問だらけで、「周辺は海抜約2.5メートルのくぼ地となっている」とありますが、釜谷から長面まで、北上川南岸は全般的に低い土地であって、別に大川小学校周辺が窪地という訳ではないですね。
あるいは昨年6月の時点では瓦礫が相当残っていたので、捜索のために瓦礫撤去を優先した大川小学校周辺が窪地のように見えたということなのでしょうか。
また、「大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという」とありますが、これもきちんとした時系列を踏まえた記述ではないですね。
石巻市教育委員会も、避難が開始されるまで約40分間、何もせずに校庭にとどまって、結果的に貴重な時間を浪費したことを認めています。
津波から一年以上たって、事実関係も相当明らかになっているのに、東大地震研の准教授が何で今頃このレベルの文章を書くのかが理解できないですね。
亡くなった児童の父兄がこの文章を読んだら、あまりにいい加減だと怒り出すでしょうね。

昨年9月11日時点での大川小学校周辺
http://chingokokka.sblo.jp/article/51376866.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/51384328.html

リンク先に載せているのと同じ写真ですが、こちらにも貼っておきます。
一番上のコンクリート壁の上にあるのが「津波が到達した位置を示す木札」で、手がかりのない垂直の壁を登るのはロッククライマーでも困難ですね。
二番目はコンクリート壁の端を横から撮ったもので、ここから「津波が到達した位置を示す木札」まで登ることは可能ですが、登る意味がありません。
この場所に立った人は「津波が到達した位置を示す木札」とは逆の方向に進み、林の中を登って行くのが普通でしょうね。
その林の中から学校を撮ったのが三番目の写真です。
この上にはしっかりとした踏み跡がありました。また、ここに上るまではガラス片等が散乱していて、足元に注意する必要がありますが、津波前は上部と同様の踏み跡があったでしょうね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6296
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『週刊現代』と小出裕章助教

2012-03-20 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月20日(火)09時42分48秒

>筆綾丸さん
そうですね。
裁判所に要求する仮処分の内容は明確でなければなりませんが、今の段階ではちょっと無理、との判断なんでしょうね。
新聞や週刊誌の記事だけを基礎にして議論するのは怖いなと思って、きちんとしたものがないか探していたのですが、ご紹介の記事は気づきませんでした。
確かに良くまとまっていますね。
それと、「法学部で民法をきちんと勉強した人なら誰でも考えるオーソドックスな論理」は少し言い過ぎでしたね。
物権的請求権を認めるとどうなるか、という法律効果から、逆に「物」とは何か、と法律要件を絞り込んで行く発想は、法学部で一応勉強して単位を取りました、というだけの人では無理かもしれません。
裁判所も無主物との主張をそのまま認めている訳ではないですから、難しい問題ではありますね。

ついでですが、『週刊現代』では、

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■恥ずかしくありませんか
この無責任な主張を、京都大学原子炉実験所の小出裕章助教は強く批判する。
「東電は、実に恥ずかしい会社だと思います。いくら法律上、そうした用語なり概念があるとは言え、誰が考えてもおかしい理屈です。
 もともと東電がウランを買ってきて所有し、それを核分裂させて生成されたのが、セシウムなどの放射性物質。れっきとした東電の所有物とみなすべきです。
 だいたい、これまでずっと東電は『原発は絶対に安全です。決して放射性物質をバラ撒いたりしません』と、主張していたのですよ。なのに結局は無主物どころか、強烈な毒物をバラ撒いたわけです。これで『自分たちには責任がない』と言うとは、どういう精神構造をしているのでしょうか」
 さすがに、この東電サイドの「セシウム無主物論」は、東京地裁に認められなかった。裁判所も詭弁が過ぎると判定したのだろう。
 しかし、裁判の「結果」は別だ。サンフィールド社が求めた除染実施の仮処分申し立ては、10月31日の決定で却下されてしまった。
 東京地裁(福島政幸裁判長)は、「サンフィールド社が東電に除染を求める権利はある」としながら、一方で「除染は国や自治体が行うもの」だから、東電はやるべきではない、だから申し立ては認められない、というのである。
 では、国や自治体が東電に代わってすぐに除染をしてくれるのかと言えば、そうでもない。「除染の方法やこれによる廃棄物の処理の具体的なあり方がいまだ確立していない」ので、すぐにできないという。
 同様に、8700万円の休業補償の請求についてもあっさり却下された。こちらも東電の主張そのまま、「文部科学省が4月に出した学校の校庭使用基準である毎時3.8マイクロシーベルトを下回っているから、ゴルフ場を休業する必要はない」と言うのである。

■裁判官もしっかりしないと
 サンフィールド社の弁護団の1人は、こう憤る。
「4月の文科省の基準はもともと暫定値。実際に8月には、『年間1ミリシーベルト以下、毎時1マイクロシーベルト以下』と変更になりました。被曝線量がそれを超えた場合、速やかに除染せよ、というのが新たな文科省の見解です。
 にもかかわらず、10月末に出た決定で、なんで『毎時3.8マイクロシーベルト』の基準が根拠になるのか、意味が分かりません」
同じく弁護士の紀藤正樹氏もこう首を傾げる。
「『除染方法や廃棄物処理のあり方が確立していない』とまで言うのは、裁判長の個人的な価値観や政策評価が出過ぎています。これでは、現在行われている除染処理のあり方を否定することになってしまう。
 また『毎時3.8マイクロシーベルト以下なら営業に支障がない』という部分にも、裁判官の価値観が色濃く出ています。風評被害もあるわけですから、営業に支障がないと言い切るのは無理があります。
 全体に、裁判官の心証、価値観が東電側に傾いているようで、不公平な決定という感じがしますね」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/29579?page=4

とありますが、裁判の記事に何で「小出裕章助教」が出てくるのか、訳が分かりません。
法律のことなど理解しているはずがないのに、何にでも口を挟む方がよっぽど恥ずかしい態度であり、「どういう精神構造をしている」のかと思います。
それと弁護士の紀藤正樹氏が明晰さを欠く論評をしていますが、この人は小佐古敏荘氏の「内閣官房参与の辞任にあたって」を「小佐古敏荘氏の学者としての良心を感じます。名文として、後世に残ると思います」と評価した人なので、私は以前からちょっと変わった弁護士だなと思っていました。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5835
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5837
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