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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その12)

2023-05-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

野口実氏が「はじめに」で、

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 東国方面から大軍が京都に進入する際に、京都側にとって最後の防禦機能を担った宇治川は、鎌倉幕府確立に至る過程で惹起されたいくつかの内乱において戦場となった。まず、治承四年(一一八〇)五月、平家打倒に蹶起した以仁王を擁した源頼政が平家の派遣した追討軍と対戦(a)、寿永二年(一一八三)七月には、平家を追って木曾義仲とともに入京した源行家が大和方面から宇治川を渡っている(b)。翌年正月には、源義経が守備にあたっていた志田義広の軍を破って入京を遂げて義仲を滅ぼし(c)、鎌倉幕府確立のメルクマールとされる承久の乱においては、承久三年(一二二一)六月に北条泰時の率いる大軍がここを突破したのである(d)。
 この四度の宇治川合戦のうち、(a)は浄妙房や一来法師ら超人的な異能を発揮する悪僧達の活躍、(c)は源頼朝秘蔵の名馬「生食」と「磨墨」を駆った佐々木高綱と梶原景季の先陣争いの話で広く人口に膾炙している。しかし、これらがいずれも歴史的事実とは見なしがたいことは、夙に明らかにされている。実のところ、(a)は以仁王・頼政の軍勢が五十騎、追討にあたった平家軍が三百騎ほどの戦いに過ぎず、(c)に至っては、義経軍はほとんど抵抗を受けることなく渡河し、難なく鴨川左岸を北上して京都に進攻を果たしているのである。(b)も平家軍は結局宇治防衛を放棄して都落ちしているから、ほとんど合戦らしいものは行われなかったと考えられる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

と書かれているように、「源義経が守備にあたっていた志田義広の軍を破って入京を遂げて義仲を滅ぼし(c)」た際には、「義経軍はほとんど抵抗を受けることなく渡河し、難なく鴨川左岸を北上して京都に進攻を果たして」おり、合戦と呼べるような出来事はそもそも存在していなかった訳ですね。
『吾妻鏡』でも、寿永三年正月廿日条に、

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蒲冠者範頼。源九郎義経等。為武衛御使。率数万騎入洛。是為追罸義仲也。範頼自勢多参洛。義経入自宇治路。木曽以三郎先生義広。今井四郎兼平已下軍士等。於彼両道雖防戦。皆以敗北。蒲冠者。源九郎相具河越太郎重頼。同小太郎重房。佐々木四郎高綱。畠山次郎重忠。渋谷庄司重国。梶原源太景季等。馳参六条殿。奉警衛仙洞。此間。一條次郎忠頼已下勇士競争于諸方。遂於近江国粟津辺。令相摸国住人石田次郎誅戮義仲。其外錦織判官等者逐電云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-01.htm

と「佐々木四郎高綱」「梶原源太景季」の名前は出てきますが、非常にあっさりとした記述です。
それにもかかわらず、『平家物語』巻第九では「生ズキノ沙汰」で頼朝の余りに偏頗な対応から佐々木高綱・梶原景季のトラブルが予告され、「宇治川先陣」で両者の駆け引きと勝負の結果が詳細に描かれ、続く「河原合戦」でも、その冒頭に、

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 いくさやぶれにければ、鎌倉殿へ飛脚をもッて、合戦の次第をしるし申されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御尋ありければ、「宇治河のまッさき候」と申す。日記をひらいて御覧ずれば、「宇治河の先陣佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季」とこそかゝれたれ。
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と記されるように(『新日本古典文学大系45 平家物語 下』、p125)、『平家物語』における「宇治川先陣」エピソードへのこだわり方は尋常ではありません。
『平家物語』の作者は、いったい何故、これほどまでに詳細な架空合戦エピソードを創作したのか。
ひとつ考えられるのは、佐々木高綱の子孫が『平家物語』作者に何らかの影響を与えた可能性ですが、高綱は梶原景季をだますような人物として描かれていることを考えると、高綱の子孫が作者集団の一人だったとか、パトロンとして作者に経済的援助をした、というような単純な話でもなさそうです。
なお、この架空の「宇治河先陣」エピソードは『尊卑分脈』にも反映されていて、佐々木高綱には、

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杉山合戦七ヶ度懸前、元暦年中木曽義仲并平家等為令追伐之関東軍兵上洛之時、渡宇治川、懸一陣了、其時鎌倉殿賜第一名馬、乗之渡河了、為其勲功雖□北陸道猶依不本意、出家住高野了
-------

と記されています。
「杉山合戦七ヶ度懸前」云々は別のエピソードで、源頼朝が石橋山合戦で敗れ杉山に隠れた際に、佐々木高綱が頼朝を逃がすために特別な活躍したという『源平盛衰記』の話の反映のようですが、これも『吾妻鏡』等の他の史料には見られない独自記事です。
大森金五郎は「佐々木高綱の事蹟に関する疑義」(『武家時代の研究 第二巻』所収、冨山房、1929)の冒頭で、

-------
 佐々木高綱は近江源氏で源三秀義の第四子である。兄定綱、経高、盛綱等の事蹟は吾妻鏡、平家物語、尊卑分脈などに見えて居て、別段不審はないのであるが、ひとり高綱の事蹟に至つては如何なる訳か、早くより誇張付会が多くて、信じ難い所があるのである。殊に石橋山の戦及び宇治川先陣の条に於て然るを見るのである。いま夫等の事蹟について研究して見たいのである。
-------

と書いていますが(p331)、高綱は実像より、その軍記物における描かれ方において謎の多い人物ですね。
ま、少なくとも『平家物語』の「宇治川先陣」エピソードは、高綱の甥である信綱の承久の乱における活躍を素材に創作されたものであることは間違いなさそうです。

佐々木高綱(1160-1214)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E7%B6%B1

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その11)

2023-05-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『平家物語』巻第九「宇治川先陣」の続きです。(p122以下)

-------
 比〔ころ〕は睦月廿日あまりの事なれば、比良〔ひら〕のたかね・志賀の山、 むかしながらの雪も消え、谷々の氷うちとけて、水はおりふしまさりたり。白浪〔はくらう〕おびたゝしうみなぎりおち、灘まくらおほきに滝なッて、さかまく水もはやかりけり。夜はすでにほの/″\とあけゆけど、河霧ふかく立こめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。こゝに大将軍九郎御曹司、河のはたにすゝみ出で、水のおもてを見わたして、人々のこゝろをみんとや思はれけん、「いかゞせむ、淀・いもあらひへやまはるべき、水の落ち足をやまつべき」とのたまへば、畠山、其比はいまだ生年廿一になりけるが、すゝみ出て申けるは、「鎌倉にてよく/\此〔この〕河の御沙汰は候しぞかし。しろしめさぬ海河〔うみかは〕の、俄〔にはか〕に出きても候はばこそ。此河は近江の水海〔みづうみ〕の末なれば、まつとも/\水ひまじ。橋をば又誰かわたひてまいらすべき。治承の合戦に、足利又太郎忠綱は、鬼神〔おにかみ〕でわたしけるか。重忠瀬踏み仕らん」とて、丹の党をむねとして五百余騎、ひし/\とくつばみをならぶるところに、平等院の丑寅、橘の小島がさきより、武者二騎ひッかけ/\出できたり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、 内々〔ないない〕は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞすゝだる。佐々木四郎、「此河は西国一の大河〔だいが〕ぞや。腹帯〔はるび〕ののびて見えさうは。しめたまへ」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、 左右〔さう〕のあぶみを踏みすかし、手綱を馬のゆがみに捨て、腹帯をといてぞしめたりける。そのまに佐々木はつッとはせ抜いて、河へぞざッとぞうち入れたる。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
旧暦であっても「睦月廿日」はまだまだ雪解け水で増水するような時期ではないので、舞台設定の最初から適当に創作していますね。

「大将軍九郎御曹司」(源義経)は漲る水面を見渡して、「人々のこゝろ」を試そうとしたのか、「淀や芋洗に廻ろうか、それとも水嵩が減るのを待つべきであろうか」、などと言うと、畠山重忠二十一歳が進み出て、
「鎌倉出立のときから、この川のことは十分に検討されていたはずです。見も知らぬ海や川が突然に現れたならともかく、この川は琵琶湖の末ですから、待ったところで水嵩が減る訳でもありません。治承の合戦の際に、足利又太郎忠綱は鬼神だったから渡河することができたのでしょうか。いやいや、そんなことはありません。私が瀬踏みいたしましょう」
と言って、丹党を中心に五百余騎ですきまなくびっしりと馬首を並べていたところに、平等院の東北、橘の小島の先から、武者二騎が駆けに駆けて登場します。
一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱です。
梶原は内心では先陣を狙っており、佐々木に一段ほど進んでいましたが、佐々木が、「この宇治川は西国一の大河ですぞ。腹帯が延びて見えるので、締め直した方がよいでしょう」と言うと、梶原もそうかもしれないと思って、左右の鐙をはずし、手綱を馬のたてがみに投げかけて両手を自由にして腹帯を締め直していると、その隙に佐々木は梶原を抜いて川に馬を入れます。

という展開ですが、畠山重忠が言うところの「治承の合戦」とは、治承四年(1180)五月の以仁王の挙兵のことです。
このときは、三井寺から南都に向かった以仁王が平等院で休憩していたところ、六波羅から南下してきた平家側の軍勢が渡河した訳ですが、その際の「足利又太郎忠綱」の活躍は巻第四の「橋合戦」に詳しく描かれています。
さて、続きです。(p123)

-------
梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがてつゞいてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名〔かうみやう〕せうどて不覚し給ふな。水の底には大〔おほ〕づなあるらん」と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかゝりける大綱どもをばふつ/\とうちきり/\、いけずきといふ世一〔よいち〕の馬には乗ッたりけり、宇治河はやしといへども、一文字〔いちもんじ〕にざッとわたひて、むかへの岸にうちあがる。梶原が乗ッたりけるするすみは、河なかよりのためがたにおしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。佐々木、あぶみふンばり立ちあがり、大音声〔だいおんじやう〕をあげて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男〔しなん〕、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思はん人々は、高綱にくめや」とておめいてかく。
-------

佐々木高綱に騙されたと思った梶原景季も続いて川に馬を入れます。
そして、梶原が「やあ、佐々木殿、手柄を立てようとあせって失敗されますな。水の底には大綱がありますぞ」と言うと、佐々木は太刀を抜き、馬の足に引っかかる大綱をバッサバッサと切りまくります。
「いけずき」という天下第一の名馬に乗っているので、いかに宇治川の流れが早かろうと、佐々木は一直線にどんどん渡って対岸にうち上がります。
他方、梶原が乗った「するすみ」は、川中からゆるい弧状に押し流されて、遥か下流で対岸に渡ります。
佐々木は鐙を踏ん張って立ち上がり、大音声を上げて、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣であるぞ。我と思はん人々は、高綱と組んで戦え」と叫びます。

ということで、この『平家物語』の佐々木高綱・梶原景季の宇治川先陣エピソードは、流布本の佐々木信綱・芝田橘六の宇治川先陣エピソードと良く似ていますね。
流布本では、

-------
佐々木、前に立て、「爰が瀬か/\」と云ければ、「未〔いまだ〕遥か/\」とて、槙嶋の二俣なる所の、我瀬踏したる所へ馬の鼻を引向、岸破〔がは〕と落さんとす。芝田が馬は鹿毛なるが、手飼にて未乗入ざれば、河面大雨降て、洪水漲〔みなぎり〕落、白浪の立けるに驚きて、鼻嵐〔はなあらし〕吹て取て返す。引向て鞭を健〔したた〕かに打て落さんとす。佐々木、是を見て、こは如何に、彼〔かし〕こは瀬にて無き物をと思て引返し、芝田が傍〔そば〕より岸破〔がは〕と打入て渡しけり。佐々木が馬は、権大夫殿より給たりける甲斐国の白歯立、黒栗毛なる駄の下尾〔したを〕白かりけり。八寸の馬、其名を御局〔おつぼね〕とぞ申ける。駄の落るを見て、芝田が馬も続ひて落る。河中迄は佐々木が馬の鞭に鼻をさす程なりけるが、元来〔もとより〕馬劣りたれば、次第に被捨て、二段計ぞ下りたる。佐々木、未向の岸へも不襄〔あがらず〕して、「近江国住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱、今日の宇治河の先陣なり」と、高らかにぞ名乗ける。同続ひて、「奥州住人、芝田橘六兼能、今日の宇治河の先陣」と、同音に高らかにぞ訇〔ののし〕りける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84605dda3072149bc83316aa7937a382

とあって、佐々木信綱が芝田橘六に騙される側ですが、芝田の馬が訓練不足の貧馬なので川に入るのを拒否している間に、北条義時から拝領した名馬「御局」に乗った佐々木信綱は先に川に入り、続いて川に入った芝田の馬を川中で引き離します。
ただ、叔父の佐々木高綱と異なり、信綱は未だ対岸に上がる前に、「近江国住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱、今日の宇治河の先陣なり」と名乗りを上げたりします。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その10)

2023-05-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『平家物語』巻第九「生ズキノ沙汰」の続きです。(p119以下)

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 おの/\鎌倉をたッて、足柄をへてゆくもあり、筥根にかゝる人もあり。思ひ/\にのぼるほどに、駿河国浮島が原にて、梶原源太景季たかきところにうちあがり、しンばしひかへておほくの馬どもを見ければ、思ひ思ひの鞍をいて、色々の鞦〔しりがい〕かけ、或〔あるい〕は乗り口にひかせ、或は諸口もろ口にひかせ、いく千万といふ数を知らず。引〔ひき〕とをし/\しける中にも、景季が給はッたるする墨にまさる馬こそなかりけれとうれしう思ひて見る処に、いけずきとおぼしき馬こそ出来〔いでき〕たれ。黄覆輪〔きぶくりん〕の鞍をいて、小総〔こぶさ〕の鞦かけ、しらあはかませ、とねりあまたついたりけれども、なほひきもためずおどらせて出できたり。梶原源太うちよって、「それはたが御馬ぞ」。「佐々木殿の御馬候」。其時、梶原、「やすからぬ物也。おなじやうに召しつかはるゝ景季を、佐々木におぼしめしかへられけるこそ、遺恨〔ゐこん〕なれ。みやこへのぼッて、木曽殿の御内に四天王と聞ゆる今井・樋口・楯〔たて〕・禰井〔ねノゐ〕にくんで死ぬるか、しからずは西国へむかうて、一人当千〔いちにんたうぜん〕と聞ゆる平家の侍〔さぶらひ〕どもといくさして死なんとこそ思ひつれども、此〔この〕御きそくではそれもせんなし。こゝで佐々木にひッくみさしちがへ、よい侍二人〔ににん〕死ンで、兵衛佐殿に損とらせたてまつらむ」とつぶやいてこそ待〔まち〕かけたれ。佐々木四郎は、なに心もなくあゆませて出できたり。梶原、おし並べてやくむ、むかうさまにやあて落すと思ひけるが、まづ詞〔ことば〕をかけけり。「いかに佐々木殿、いけずきたまはらせ給てさうな」と言ひければ、佐々木、「あッぱれ、此仁〔このじん〕も内々〔ないない〕所望すると聞し物を」ときッと思ひ出して、「さ候へばこそ。此〔この〕御大事にのぼりさうが、定〔さだめ〕て宇治・勢田の橋をばひいて候らん。乗ッて河わたすべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも、御〔おん〕ゆるされないと承る間、まして高綱が申とも、よもたまはらじと思ひつゝ、後日〔ごにち〕にはいかなる御勘当〔ごかんだう〕もあらばあれと存〔ぞんじ〕て、暁〔あかつき〕たゝんとての夜、とねりに心をあはせて、さしも御秘蔵〔ごひさう〕候いけずきをぬすみすまひてのぼりさうはいかに」と言ひければ、梶原、この詞に腹がゐて、「ねッたい、さらば景季もぬすむべかりける物を」とて、どッとわらッてのきにけり。
-------

駿河の国浮島が原で梶原景季が小高いところで進軍中の軍勢を見て、「自分が賜わったする墨ほどの名馬はいないな」とニンマリしていると、「いけずき」と思われる馬を発見します。
近寄って誰の馬かを聞くと、佐々木高綱の馬との返事です。
これを聞いて、景季は頼朝が自分には与えなかった「いけずき」を高綱に与えたことを知って激怒し、頼朝がそんな「御きそく」(お気持ち)では、頼朝に忠義立てして木曽義仲や平家と戦って死んでも意味がない、いっそのこと佐々木を殺して、有能な侍が二人死んだのは残念だと頼朝に思わせようと考えます。
そして、何気なく歩いてきた佐々木高綱に、どうやって殺そうかと考えながら、それでもまずは言葉をかけることとし、「佐々木殿、「いけずき」を賜わったそうですな」と言うと、高綱は自分が相当に危険な状況にあることを察知します。
そこで、高綱は、頼朝が梶原の望みを拒否した以上、自分が「いけずき」を望んだとしても無駄だろうと判断して、後でどうなろうとかまわないから「いけずき」を盗んだのだ、と梶原に告げます。
景季はこれを聞いて「腹がゐて」(立腹が治まって)、「それだったら自分も盗めばよかった」と笑ったので、高綱は危機を脱します。

ということで、緊張感溢れる場面が一転して機知に富んだ笑い話になる訳ですが、「いけずき」エピソードはまだまだ続きます。(p121以下)

-------
 宇治川先陣

 佐々木四郎が給はッたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふとうたくましゐが、馬をも人をもあたりをはらッてくひければ、いけずきとつけられたり。八寸の馬とぞ聞えし。 梶原が給はッたるする墨も、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければ、する墨とつけられたり。いづれもおとらぬ名馬なり。
 尾張国より大手・搦手〔からめて〕ふた手にわかッて攻めのぼる。大手の大将軍、蒲御曹司範頼、あひともなふ人々、武田太郎・鏡美次郎・一条次郎・板垣三郎・稲毛三郎・榛谷四郎・熊谷次郎・、猪俣小平六を先として、都合其勢三万五千余騎、近江国野路・篠原にぞつきにける。搦手の大将軍は、九郎御曹司義経、おなじくともなふ人々、安田三郎・大内太郎・畠山庄司次郎・梶原源太・佐々木四郎・糟屋藤太・渋谷右馬允・平山武者所をはじめとして、都合其勢二万五千余騎、伊賀国をへて宇治橋のつめにぞをしよせたる。宇治も勢田も橋をひき、水のそこには乱ぐゐうッて、大綱はり、さかも木つないで流しかけたり。
-------

「いけずき」は馬でも人でも傍らにいる者に見境なく嚙みついたので、「生きているものに食いつく」という意味で「いけずき」と名付けられたのだそうです。
「する墨」の方は真っ黒だからですね。
大手は源範頼が率いて瀬田橋を攻め、搦手は源義経が率いて宇治橋を攻めるという話は、流布本でも、三浦義村の軍勢配置案に北条時房配下の本間忠家が文句をつけた際に、義村の反論の中に登場します。
ただし、

-------
 東山(東海両)道の大勢一に成て上りければ、野も山も兵共〔つはものども〕充満して、幾千万と云数を不知。野上・垂井に陣を取て、駿河守軍の手分けをせられけるは、「相模守殿は勢多へ向はせ御座〔ましまし〕候へ。供御〔くご〕の瀬へは武田五郎被向候へ。宇治へは武蔵守殿向はせ給ひ候へかし。芋洗〔いもあらひ〕へは毛利蔵人入道殿向はれ候べし。義村は淀へ罷向候はん」と申せば、相模守殿の手の者、本間兵衛尉忠家進出て申けるは、「哀れ、駿河守殿は悪〔あし〕う被物申哉。相模(守)殿の若党には、軍な仕〔せ〕そと存て被申候か」。駿河守、「此事こそ心得候はね。義村昔より御大事には度々逢て、多の事共見置て候。平家追討の時、関東の兵共被差上〔さしのぼせ〕候しに、勢多へは(大手なればとて)三河守殿向はせ御座〔おはしま〕して、宇治へは(搦手なれば)九郎判官殿向はせ給ひ、上下の手雖同、三河守殿、勢多を渡して、平家の都を追落し、輙〔たやす〕く軍に打勝せ給ふ。是は先規も御吉例にて候へばと存てこそ、加様には申候へ。争〔いかで〕か軍な仕〔せ〕そと思ひて、角〔かく〕は可申候。加様に被申条、存外の次第に候。勢多へは敵の向ふ間敷〔まじき〕にて候歟。軍は何〔いづ〕くも、よも嫌ひ候はじ。只兵〔つはもの〕の心にぞ可依」と申しければ、本間兵衛尉、始の申状は由々敷〔ゆゆしく〕聞へつれ共、兎角〔とかく〕申遣〔やり〕たる方もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/504cbf7657594c9ee392bd5d52dce132

とあって、木曽義仲追討ではなく、平家を都から追い出す話になってしまっており、流布本作者に若干の誤解がありますね。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その9)

2023-05-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

野口氏のコメントの三番目に移ります。

(ⅲ)『承久記』は、佐々木信綱の乗馬を北条義時から賜与された名馬とする。

流布本でのこの記述は、芝田橘六と佐々木信綱の先陣争いの中にチラッと出て来るだけですね。
即ち、

-------
佐々木、前に立て、「爰が瀬か/\」と云ければ、「未〔いまだ〕遥か/\」とて、槙嶋の二俣なる所の、我瀬踏したる所へ馬の鼻を引向、岸破〔がは〕と落さんとす。芝田が馬は鹿毛なるが、手飼にて未乗入ざれば、河面大雨降て、洪水漲〔みなぎり〕落、白浪の立けるに驚きて、鼻嵐〔はなあらし〕吹て取て返す。引向て鞭を健〔したた〕かに打て落さんとす。佐々木、是を見て、こは如何に、彼〔かし〕こは瀬にて無き物をと思て引返し、芝田が傍〔そば〕より岸破〔がは〕と打入て渡しけり。佐々木が馬は、権大夫殿より給たりける甲斐国の白歯立、黒栗毛なる駄の下尾〔したを〕白かりけり。八寸の馬、其名を御局〔おつぼね〕とぞ申ける。駄の落るを見て、芝田が馬も続ひて落る。河中迄は佐々木が馬の鞭に鼻をさす程なりけるが、元来〔もとより〕馬劣りたれば、次第に被捨て、二段計ぞ下りたる。佐々木、未向の岸へも不襄〔あがらず〕して、「近江国住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱、今日の宇治河の先陣なり」と、高らかにぞ名乗ける。同続ひて、「奥州住人、芝田橘六兼能、今日の宇治河の先陣」と、同音に高らかにぞ訇〔ののし〕りける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84605dda3072149bc83316aa7937a382

とのことですが、「佐々木が馬は、権大夫殿より給たりける甲斐国の白歯立、黒栗毛なる駄の下尾白かりけり」で、「駄」(牝馬)ですから、名前も「御局」と女性名な訳ですね。
「あやしの下臈の白髪なる翁」から浅瀬の所在を聞いていた芝田の方が先に川に飛び込もうとしますが、芝田の馬は「手飼にて未乗入ざれば」(充分に訓練されていないので)、「河面大雨降て、洪水漲落、白浪の立けるに」怯えて入ろうとしません。
しかし、佐々木の「駄」は北条義時から下賜された大変な名馬であって、訓練も充分に施されていますから、逡巡することなく川に飛び込み、「駄の落るを見て、芝田が馬も続ひて落」ちはしたものの、「元来馬劣りたれば」、どんどん引き離されてしまいます。
結局、芝田が佐々木に先陣を奪われてしまったのは馬の優劣の差であった、というのが流布本の描き方ですね。
さて、佐々木が北条義時から名馬をもらったというだけなら別にたいした話ではありませんが、この芝田と佐々木の先陣争いが『平家物語』の梶原景季と佐々木高綱の「宇治川先陣」エピソードを連想させるので、馬についても「いけずき」・「する墨」への連想が働きます。
『平家物語』の「いけずき」・「する墨」エピソードは分量も多く、相当に複雑な話ですね。
まず、巻第九の冒頭「生ズキノ沙汰」において、寿永三年(1184)正月、木曽義仲が平家追討のために西国に発向しようとしていたところ、源頼朝が義仲追討の軍勢を差し向けたことが記されます。
即ち、

-------
 同〔おなじき〕正月十一日、木曽左馬頭義仲、院参して、平家追討のために西国へ発向すべきよし奏聞す。同十三日、既に門出と聞えし程に、東国より前兵衛佐頼朝、木曾が狼籍しづめんとて、数万騎の軍兵をさしのぼせられけるが、すでに美乃国・伊勢国につくと聞えしかば、木曽大におどろき、宇治・勢田の橋をひいて、軍兵どもをわかちつかはす。折ふし勢もなかりけり。勢田の橋は大手なればとて、今井四郎兼平、八百余騎でさしつかはす。宇治橋へは、仁科・高梨・山田の次郎、五百余騎でつかはす。いもあらひへは、伯父の志太〔しだ〕の三郎先生義教〔せんじやうよしのり〕、三百余騎でむかひけり。東国より攻めのぼる大手の大将軍は、蒲の御曹司範賴、搦手の大将軍は、九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、都合其勢六万余騎とぞ聞えし。
-------

ということで(『新日本古典文学大系45 平家物語 下』、p118)、何だか承久の乱の宇治川合戦と殆ど同じような状況ですね。
そして、「いけずき」・「する墨」の話となります。

-------
 其比〔そのころ〕、鎌倉殿に、いけずき・する墨といふ名馬あり。いけずきをば、梶原源太景季〔かげすゑ〕しきりに望み申けれども、鎌倉殿、「自然の事のあらん時、物の具して頼朝が乗るべき馬也。する墨もおとらぬ名馬ぞ」とて、梶原にはする墨をこそたうだりけれ。佐々木四郎高綱がいとま申〔まうし〕に参ッたりけるに、鎌倉殿、いかゞおぼしめされけん、「所望の物はいくらもあれども、存知〔ぞんぢ〕せよ」とて、いけずきを佐々木にたぶ。佐々木畏〔かしこま〕ッて申けるは、「高綱、この御馬で宇治河のまッさきわたし候べし。宇治河で死〔しん〕で候ときこしめし候はば、人にさきをせられてンげりとおぼしめし候へ。いまだいきて候ときこしめされ候はば、さだめて先陣はしつらん物をとおぼしめされ候へ」とて、御前〔おんまへ〕をまかりたつ。参会したる大名・小名みな、「荒涼〔くわうりやう〕の申やうかな」とさゝやきあへり。
-------

頼朝が何故に佐々木高綱を贔屓するような選択をしたのかは説明がありませんが、とにかく梶原景季・佐々木高綱の間に諍いの種が蒔かれ、佐々木の不穏な発言も宇治川で何かが起きそうな雰囲気を醸し出します。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その8)

2023-05-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「藤戸」の続きも引用すると、

-------
 同〔おなじき〕廿六日の辰剋ばかり、平家又小舟に乗ッて漕出させ、「こゝをわたせ」とぞまねきける。佐々木三郎、案内はかねて知ッたり、しげめゆひの直垂に黒糸威〔くろいとをどし〕の鎧きて、白葦毛〔しらあしげ〕なる馬に乗り、家子〔いへのこ〕・郎等七騎ざッとうち入てわたしけり。大将軍参河守、「あれ制せよ、留めよ」とのたまへば、土肥次郎実平、鞭・鐙〔あぶみ〕をあはせておッつひて、「いかに佐々木殿、物のついてくるひ給ふか。大将軍のゆるされもなきに狼籍也。とゞまり給へ」と言ひけれ共、耳にも聞入いれずわたしければ、土肥次郎もせいしかねて、やがてつれてぞわたひたる。馬のくさわき、 むながいづくし、ふと腹につくところもあり。鞍つぼこす所もあり。ふかきところはおよがせ、あさきところにうちあがる。大将軍参河守是を見て、「佐々木にたばかられけり。あさかりけるぞや。わたせや、わたせ」と下知〔げぢ〕せられければ、三万余騎の大勢〔おほぜい〕みなうち入てわたしけり。平家の方には、「あはや」とて、舟共おしうかべ、矢さきをそろへて、さしつめひきつめさん/″\に射る。源氏のつは物共、是を事共〔とも〕せず、甲〔かぶと〕のしころをかたむけ、平家の舟に乗り移り/\、おめきさけんで攻めたゝかふ。源平みだれあひ、或〔あるい〕は舟踏み沈めて死ぬる者もあり。或は船引ッかへされて、あはてふためくものもあり。一日たゝか暮くらして夜に入ければ、平家の舟は奥〔おき〕にうかぶ。源氏は小島にうちあがッて、人馬〔じんば〕の息をぞやすめける。平家は八島へ漕〔こぎ〕しりぞく。源氏心はたけく思へ共、馬にて河をわたすつはものはありといへども、馬にて海をわたす事、天竺〔てんぢく〕・震旦〔しんだん〕は知らず、我朝〔わがてう〕には希代〔キたい〕のためし也」とぞ、備前の小島を佐々木に給はりける。鎌倉殿の御教書〔ミゲウしよ〕にものせられけり。
-------

ということで(『新日本古典文学大系45 平家物語 下』、p252以下)、分量的にも相当なものですね。
『平家物語』の「藤戸」と比べると、流布本の方は、

-------
 武蔵守、芝田橘六〔きちろく〕を召て、「河を渡さんと思が、此間の水の程には一尺計も増〔まさ〕りたるな。此下〔しも〕に渡る瀬やある。瀬踏〔せぶみ〕して参れ」と宣〔のたまひ〕ければ、「承〔うけたまは〕り候」とて、一町計打出たりけるが、取て返し、「検見を給り候ばや」と申。「尤さるべし」とて、南条七郎を召て被指添。二騎連て下様〔しもざま〕に打けるが、槙嶋〔まきのしま〕の二俣なる瀬を見渡けるに、あやしの下臈の白髪なる翁一人出来れり。是を捕ヘて、「汝は此所の住人、案内者にてぞ有覧〔らん〕。何〔いづく〕の程にか瀬のある。慥に申せ。勧賞申行べし。不申ば、しや首切んずるぞ」とて、太刀を抜懸て問ければ、此翁わなゝきて、「瀕は爰〔ここ〕は浅候ぞかし。彼〔かしこ〕は深候」と教へければ、「能〔よく〕申たり」とて、後には首を切てぞ捨にける。又人に言せじとなり。其後、馬より下りて裸かになり、刀をくはヘて渡る。検見の見る前にては、浅所も深様にもてなし、早所をも長閑〔のどか〕なる様に振舞て、中嶋に游ぎ付て見れば、向には敵大勢扣〔ひかへ〕たり。さて此河はさぞ有覧と見渡して取返し、「瀬踏をこそ仕〔し〕をほせて候へ」と申ければ、佐々木四郎左衛門尉、御前に候が、芝田が申詞〔ことば〕を聞も不敢〔あへず〕、(う)つたち馬にひたと乗て、下様に馳て行。芝田橘六、あな口惜、是に前をせられなんずと思て、同馳て行。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

とあるだけで、あくまで「芝田橘六」と「佐々木四郎左衛門尉」(信綱)の宇治川先陣争いの前提との位置付けです。
両者の内容を比較すると、

(1)流布本は渡河であるのに対し、「藤戸」は渡海。
(2)流布本では芝田は「南条七郎」を「検分」役として伴っているが、「藤戸」では「佐々木三郎守綱」は単独で行動。
(3)流布本では芝田は「あやしの下臈の白髪なる翁」を殺した後、一人で浅瀬の位置を確認しているが、「藤戸」では「浦の男」とともに浅瀬の位置を確認した後、男を殺害。
(4)流布本では芝田は北条泰時の指示を受けて浅瀬を探しに行くが、「藤戸」では「大将軍参河守」(源範頼)は佐々木の行動を一切知らず、浅瀬であることが判明した後、「佐々木にたばかられけり」と言う。

といった違いはありますが、分量的には「藤戸」の方が遥かに多く、内容も複雑ですね。
『新訂承久記』(現代思潮社、1982)の頭注で、松林靖明氏は、

-------
この老人に浅瀬を問う話、前田家本に見えない。平家物語・巻十・藤戸の佐々木三郎盛綱の話の影響を受けた流布本の虚構か。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84605dda3072149bc83316aa7937a382

と書かれていますが、流布本の成立時期が従来考えられているよりも早いのであれば、逆に「藤戸の佐々木三郎盛綱の話」が流布本の「影響を受けた」『平家物語』の「虚構」の可能性も出てきます。
そして、「馬にて河をわたすつはものはありといへども、馬にて海をわたす事、天竺・震旦は知らず、我朝には希代のためし」なので、「藤戸」の方がドラマチックですから、シンプルな流布本を素材としてドラマチックな「藤戸」が創作されたと考える方が自然のように思われます。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その7)

2023-05-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

供御瀬に配置された軍勢が流布本では一万騎、『吾妻鏡』では二千騎と大きく異なっていることは、「通行の承久記は、慈光寺本承久記と吾妻鏡を主材料としてつき合わせ、六代勝事記や平家物語その他を援用して出来たものと考えている」杉山次子氏とその支持者にとっては説明が難しいポイントですね。
ただ、私のように流布本は『吾妻鏡』に先行すると考えた上で、承久の乱に関しては、『吾妻鏡』は恩賞給付の関係で幕府に独自に集積されていた史料を「主材料」とし、鎌倉方が知り得なかった京都情勢については、流布本や『六代勝事記』等を「援用」して出来たものと考える立場にとっても、何故に『吾妻鏡』は供御瀬の軍勢を過小に、宇治橋を過大に計上したのか、という問題が生じます。
この問題は、他の論点の検討を踏まえた上で、改めて論じます。
ということで、野口氏のコメントの二番目、

(ⅱ)『承久記』には、地元の翁に浅瀬を問い、聞き終わると殺害するという『平家物語』の「藤戸」類似のエピソードが加えられている。

の問題に移ります。
そもそも「藤戸」とは何かというと、元暦元年(1184)、備前藤戸(岡山県倉敷市)の合戦で、海峡を挟んで対岸に陣を取る平家軍を攻めるにあたり、源範頼軍の佐々木盛綱が地元の浦人から浅瀬の所在を聞き出したが、他に漏れるのを恐れ、その浦人を殺してしまった、という殺伐としたストーリーです。

藤戸の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

『吾妻鏡』には、元暦元年十二月七日条に、

-------
平氏左馬頭行盛朝臣。引率五百余騎軍兵。搆城郭於備前国児島之間。佐々木三郎盛綱為武衛御使。為責落之雖行向。更難凌波涛之間。浜潟案轡之処。行盛朝臣頻招之。仍盛綱励武意。不能尋乗船。乍乗馬渡藤戸海路〔三丁余〕所相具之郎従六騎也。所謂志賀九郎。熊谷四郎。高山三郎。与野太郎。橘三。同五等也。遂令着向岸。追落行盛云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-12.htm

とありますが、『平家物語』では九月の出来事となっています。
『新日本古典文学大系45 平家物語 下』(岩波書店、1993)の「巻第十」から引用すると、

-------
 同〔おなじき〕九月十二日、参河守範頼、平家追討のために西国へ発向す。【中略】
 平家の方には大将軍小松新三位中将資盛・同少将有盛・丹後侍従忠房、侍大将には、飛騨三郎左衛門景経・越中次郎兵衛盛次・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清をさきとして、五百余艘の兵船にとり乗ッて、備前の小島につくと聞えしかば、源氏室〔むろ〕をたッて、是も備前国西河尻、藤戸〔ふぢと〕に陣をぞとッたりける。
 源平の陣のあはひ、海のおもて廿五町ばかりをへだてたり。舟なくしては、たやすうわたすべき様〔やう〕なかりければ、源氏の大勢むかひの山に宿して、いたづらに日数をおくる。平家の方より、はやりおの若者共、小船に乗ッて漕〔こぎ〕いださせ、扇をあげて、「こゝわたせ」とぞまねきける。源氏、「やすからぬ事也。いかゞせん」と言ふところに、同廿五日の夜に入ッて、佐々木三郎守綱、浦の男をひとりかたらッて、しろい小袖、大ロ〔おほくち〕、しろざやまきなンどとらせ、すかしおほせて、「この海に馬にてわたしぬべきところやある」ととひければ、男申けるは、「浦の者共おほう候へども、案内知ッたるはまれに候。此男こそよく存知して候へ。たとへば、河の瀬のやうなる所の候が、月がしらには東〔ひんがし〕に候。月尻〔つきズエ〕には西に候。両方の瀬のあはひ、海のおもて十町ばかりは候らむ。この瀬は御馬にては、たやすうわたさせ給ふべし」と申ければ、佐々木なのめならず悦ンで、わが家子〔いへのこ〕・郎等にも知らせず、かの男と只二人まぎれ出〔いで〕、はだかになり、件〔くだん〕の瀬のやうなる所を見るに、げにもいたくふかうはなかりけり。ひざ・こし・肩に立つ所もあり。鬢〔ビン〕のぬるゝ所もあり。深い所をばおよひで、あさき所におよぎつく。男申けるは、「これより南は、北よりはるかに浅う候。敵〔かたき〕矢さきをそろへて待〔まつ〕ところに、はだかにてはかなはせ給ふまじ。帰らせ給へ」と申ければ、佐々木、げにもとて帰りけるが、「下臈〔げらふ〕はどこともなき者なれば、又〔また〕人にかたらはれて案内をもをしへむずらん。我斗〔ばかり〕こそ知らめ」と思ひて、彼男をさし殺し、頸かききッて、捨ててンげり。
-------

ということで(p250以下)、確かに流布本の佐々木信綱のエピソードに似ていますね。

流布本も読んでみる。(その36)─「汝は此所の住人、案内者にてぞ有覧」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その6)

2023-05-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

宇治橋近辺に配置された軍勢が『吾妻鏡』では二万騎、流布本では一万余騎となっているのは野口実氏の言われる通りですが、『吾妻鏡』では瀬田川・宇治川・淀川の八か所に配置された京方軍勢の総合計が二万七千騎+α(真木嶋・芋洗・淀渡は人数不明)なので、そのうちの二万というのは大変な割合ですね。
人数が記されていない三箇所も、一千騎を越えているなら三穂崎・鵜飼瀬と同じく具体的な数字を出すでしょうから、仮に一箇所五百騎として三か所合計で千五百騎、総合計で二万八千五百騎とすると、宇治川の軍勢の割合は、

 20000/28500≒0.702

となり、約70%が宇治橋周辺に集中していたことになります。
他方、流布本では京方の総合計が二万五千騎で、供御瀬と宇治橋に各一万騎ですから、両者はともに、

 10000/25000=0.4

で、40%となります。
『吾妻鏡』と流布本では果たしてどちらが史実をより正確に反映しているのか。
まあ、私としては、藤原秀康と三浦胤義が置かれた供御瀬(『吾妻鏡』では食渡)が僅か二千、宇治橋の十分の一というのは余りに少ないので、ここは流布本の方が正しそうに思われます。
なお、『吾妻鏡』で「河内判官」(藤原秀澄)等、一千余騎が配されたという「鵜飼瀬」は場所がはっきりしませんが、仮にこれが供御瀬のすぐ近くだとしても、合計で三千余騎ですから、宇治橋二万と比較すると圧倒的に少数ですね。
ところで、供御瀬の扱いを流布本と『吾妻鏡』で比較すると、まず流布本では、

-------
 爰に供御瀬へ、武田五郎・城入道奉〔うけたまはつ〕て向けるに、何〔いづ〕くより来とも不覚、上の山より大妻鹿〔めが〕一〔ひとつ〕落ちて来れり。敵・御方〔みかた〕、「あれや/\」と騒ぐ所に、甲斐国住人平井五郎高行が陣の前を走通る。高行、元来〔もとより〕鹿の上手に聞こへてはあり。引立たる馬なれば、ひたと乗儘に弓手に相付て、上矢の鏑〔かぶら〕を打番〔つが〕ひ、且〔しば〕し引て走らかし、三段計〔ばかり〕に責寄せて、思白毛の本を鏑は此方〔こなた〕へ抜よと丙〔ひやう〕と射る。鹿、矢の下にて転〔まろ〕びける。弓勢〔ゆんぜい〕、由々敷ぞ見へし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f444e077f91074b6372d92282ab4780

という具合に、戦闘は皆無、鹿騒動で終わってしまって、次の場面は、

-------
 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4a24d6b60603e0b9524e3ca7ed53ebe0

となっており、供御瀬は北条泰時の単なる通過地扱いです。
他方、『吾妻鏡』では、六月十二日条に「食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎」とあるだけで、続く十三日条は、

-------
相州以下自野路相分于方々之道。相州先向勢多之処。曳橋之中二箇間。並楯調鏃。官軍并叡岳悪僧列立招東士。仍挑戦争威云々。酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

となっており、「食渡」(供御瀬)は通過地としてすら登場しません。
その後は十四日条の最後の方に「相州於勢多橋与官兵合戦。及夜陰。親広。秀康。盛綱。胤義。棄軍陣帰洛」とあるので、「食渡」を担当していた「親広。秀康。盛綱。胤義」が帰洛したと記されるだけですね。
この間、「総大将」(と言われることの多い)藤原秀康や三浦胤義らが何をしていたのかは、流布本にも『吾妻鏡』にも全く記されていません。
そして、『吾妻鏡』六月十八日条の長大な人名リストに記されるのは、

 ①六月十四日に宇治の合戦で敵を討った人々
 ②六月十三日・十四日に宇治橋の合戦で負傷した人々
 ③六月十四日に宇治橋の合戦で河を越えて攻め進んだ時、味方の人々の内で死んだ者の記録

だけで、宇治橋とその下流で宇治川を渡河した人々以外の記事はありませんが、それ以外の場所ではどうだったのか。
瀬田橋では明らかに死者・負傷者が出ていますが、それらの扱いはどうなっているのか。
また、供御瀬では戦闘そのものがなく、鎌倉方に死者・負傷者は一切出なかったのか。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その5)

2023-05-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

第三節「『吾妻鏡』と『承久記』の記事の検討」に入ると、野口氏は第二節で行った『吾妻鏡』と『承久記』の要約に基づき、両者の「記事内容の対応関係」を十二項目にまとめて列挙されています。
そのうち、四つは単に同内容の記事が存在していることを示しているだけですが、残りの八つには野口氏の簡単なコメントが記されています。
煩瑣なので記事の対応関係は省略しますが、便宜的に(ⅰ)から(ⅷ)まで番号を付した上で、野口氏が付されたコメントを紹介すると、

-------
(ⅰ)『承久記』には武士名の追加のほか、奈良法師・熊野法師の存在が特記されている。また、兵力は『吾妻鏡』の二万騎に対し一万余騎とする。
(ⅱ)『承久記』には、地元の翁に浅瀬を問い、聞き終わると殺害するという『平家物語』の「藤戸」類似のエピソードが加えられている。
(ⅲ)『承久記』は、佐々木信綱の乗馬を北条義時から賜与された名馬とする。
(ⅳ)東軍の川に流された者八百(余)騎の数字が一致する。
(ⅴ)『承久記』は、着岸地点について中島と対岸かが不明確な記述になっている。『吾妻鏡』は佐々木信綱が対岸に渡った際に柵綱を切ったことを載せる。
(ⅵ)『承久記』は京方の武将の動きを個別に詳しく記す。『承久記』に「(佐々木太郎左衛門尉)氏綱」とあるのは「惟綱」の誤りであろうか。
(ⅶ)渡河に成功した時氏の軍は宇治川北岸の民家に火を放った。これが分散していた京方に敗北を知らしめ、戦意を喪失させたという『承久記』の記述は説得力がある。
(ⅷ)『承久記』では、関寺で京方から離脱した大江親広が三条河原に宿営するという矛盾した記述をしている。
-------

となります。(p80・81)
このそれぞれについて、更に私がコメントを付すと、まず(ⅰ)については、「京方の軍勢、手分けの事」に、

-------
佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊、武士には山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)、熊野法師には、田部〔たなべの〕法印・十万法橋・万劫禅師、奈良法師には土護覚心・円音、是等を始として一万余騎、宇治橋へ相向ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

とあり、確かに「熊野法師」「奈良法師」が宇治橋に配置されています。
なお、このときの京方の全体的な配置は、

-------
(1)勢多…二千余騎
   山田二郎重忠・山法師播磨竪者・小鷹助智性坊・丹後 
(2)供御瀬…一万余騎
   能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・
   安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉 
(3)宇治橋…一万余騎
   公家:佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊
   武士:山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)
   熊野法師:田部法印・十万法橋・万劫禅師
   奈良法師: 土護覚心・円音
(4)牧嶋…五百余騎
   長瀬判官代・足立源左衛門尉
(5)芋洗…一千余騎
   一条宰相中将信能・二位法印尊長
(6)淀…一千余騎
   坊門大納言忠信
(7)広瀬…五百余騎
   河野四郎入道通信・子息太郎

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d

となっていて、七箇所合計で二万五千騎で、供御瀬と宇治橋に各一万騎を配し、残り五千騎を勢多等に配分しています。
他方、『吾妻鏡』では、京方の軍勢手分は六月十二日条に記されていますが、整理すると、

-------
(a)三穂崎…一千騎 美濃堅者観厳
(b)勢多…三千余騎 山田次郎【重忠】・伊藤左衛門尉・山僧
(c)食渡…二千余騎
    前民部少輔入道【大江親広】・能登守【藤原秀康】・下総前司【小野盛綱】・
    平判官【三浦胤義】
(d)鵜飼瀬…一千余騎 長瀬判官代・河内判官【藤原秀澄】
(e)宇治…二万余騎
    二位兵衛督【源有雅】・甲斐宰相中将【藤原範茂】・右衛門権佐【藤原朝俊】・
    伊勢前司〔清定〕・山城守【佐々木広綱】・佐々木判官【高重】・小松法印【快実】
(f)真木嶋…【人数不明】 足立源三左衛門尉【安達親長】
(g)芋洗…【人数不明】 一条宰相中将【信能】・二位法印【尊長】
(h)淀渡…【人数不明】 坊門大納言【忠信】
-------

という具合に、八か所合計で二万七千騎+α、最多は宇治の二万騎で、次は勢多の三千騎となっています。
両者を比べると、流布本では供御瀬に宇治橋と同数の一万騎が配され、かつ、「総大将」(と言われることが多い)藤原秀康と、後鳥羽院から直接に諮問を受けることの多い三浦胤義の両名が含まれることから、宇治橋よりもむしろ供御瀬の方が重視されているように思えるのですが、『吾妻鏡』では供御瀬(食渡)には僅かに二千騎であり、流布本の五分の一です。
この落差はいったい何を意味するのか。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その4)

2023-05-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「承久宇治川合戦の再評価」(野口第二論文)の構成は、

-------
 はじめに
一、『承久三年四年日次記』など
 A.『承久三年四年日次記』
 B.『百錬抄』
 C.『皇代暦』巻四 九条廃帝
 D.『六代勝事記』
 E.『保暦間記』
二、『吾妻鏡』と流布本『承久記』
 F.『吾妻鏡』承久元年六月
 G.『古活字本承久記』
三、『吾妻鏡』と『承久記』の記事の検討
四、承久宇治川合戦の歴史的意義
 おわりに

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

となっていますが、第一節は、

-------
 一、『承久三年四年日次記』など

 この合戦に関する主要史料は『吾妻鏡』と流布本の『承久記』であるが、これを検討する前に、記事は少ないが比較的信憑性の高い、それ以外の史料を見たい。
-------

と始まって、

 A.『承久三年四年日次記』
 B.『百錬抄』
 C.『皇代暦』巻四 九条廃帝
 D.『六代勝事記』
 E.『保暦間記』

が具体的に紹介されていますが、いずれも本当に短いものですね。
そして、纏めとして、

-------
 以上の史料から判明するこの合戦の経過・状況を箇条書きに示すと以下のようになろう。

 ①京方が宇治橋を引いて備えていたために、東軍は渡河を余儀なくされた。
 ②渡河に際して、伊佐大進ら多くの東軍の武士が水死した。
 ③先陣を切って真木島(もしくは宇治川対岸)に渡ったのは佐々木信綱父子・芝田橘六
 (兼義または兼能)らであった。
 ④真木島に渡った東軍は京方の兵粮を奪取し、これが勝敗の帰趨を決定づけた。
 ⑤京方の藤原朝俊・小野成時は宇治橋近くで討死を遂げた。
 ⑥京方の総大将は高倉範茂であった。

  これによって、合戦の場が宇治橋周辺と真木島(槙島)に展開していたことがうかがえよう。
-------

とありますが(p73)、⑥は『保暦間記』の「宇治ヘハ甲斐宰相中将、大将軍ニテ発向ス」が典拠なので、信頼性に若干の問題がありますね。
さて、第二節では『吾妻鏡』と流布本『承久記』の記事が要約されて、

-------
 以上、両史料を対照させてみて、明らかなことは、『吾妻鏡』に書かれていることは古活字本(流布本)『承久記』(以下、『承久記』とのみ記す)に記されており、『承久記』にはさらに別の情報が付加されているということである。
-------

という結論が導かれていますが(p79)、宇治川合戦についての情報量は『吾妻鏡』よりも流布本の方が圧倒的に多いのですから、論理的には、流布本に「別の情報が付加」されたのではなく、逆に『吾妻鏡』が流布本の豊富な情報のうち、あまり重要とは思えないものを「除外」した可能性も充分考えられますね。
なお、ここに付された注(6)には、

-------
(6)杉山次子氏は、「私は通行の承久記は、慈光寺本承久記と吾妻鏡を主材料としてつき合わせ、六代勝事記や平家物語その他を援用して出来たものと考えている」と述べておられるが(「承久記諸本と吾妻鏡」『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)、後述するように、宇治川先陣譚などは『平家物語』の方が後出と見るべきであろう。
-------

とあります。
私は杉山説には全く反対で、慈光寺本が「最古態本」だという思い込みを離れて、慈光寺本と流布本の記事を具体的に比較してみると、流布本作者にとって慈光寺本を参考にしなければ書けない部分は乏しい、というか皆無であり、およそ慈光寺本は「主材料」にはならないと考えます。
また、十四世紀初頭の成立とされる『吾妻鏡』より流布本の成立が遅れるというのも杉山氏の思い込みで、杉山論文を読んでも、別にその点が論証されている訳ではないですね。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その1)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74731ba1e28a52da0e9b5e99a7f95137
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d56ed342156632414268e092bfe433e

野口氏が杉山論文を非常に高く評価されているようなので、私も承久の乱の勉強を始めた当初は杉山論文を熱心に読んでみましたが、現時点では、杉山氏の研究史上の功績は慈光寺本の成立が1230年代であることを明らかにしたことだけだと思っています。
後は全て単なる思い込みですね。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その3)

2023-05-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することが至難の業である根本的な理由は何かというと、それは、そもそも慈光寺本作者に事実を正確に記録しようとする姿勢が無いことでしょうね。
手間暇をかけて長大な歴史物語を紡いでいる以上、もちろん慈光寺本作者にも、作者が想定する読者に対して何かを伝えたいという強い意志はあるはずですが、しかし、それは承久合戦で起きた事実を正確に、客観的に伝える、といった現代の実証的な歴史学者のような姿勢ではありません。
慈光寺本には日付の記載が極めて乏しいことは、そうした慈光寺本作者の姿勢の典型的な現れですね。
例えば、慈光寺本では「押松」が鎌倉を出発した日も帰洛した日も書かれておらず、ただ、上巻の最後に「鎌倉ヲ出テ五日ト云シ酉ノ時ニハ都ニ上リ、高陽院ノ大庭ニゾ著ニケレ」とあるだけです。
「序論 承久の乱の概要と評価」(初出2009、以下、「野口第一論文」)において、野口氏は「押松」が鎌倉を出発した日を五月二十七日、帰洛した日を六月一日とされていますが(p15)、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するのであれば、これらの日付すら不明とせざるを得ないでしょうね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その31)─「此世中ハ闘諍堅固ノ世ト成テ、逆ニナル事、程モナシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/233d606a92d0f07c661e4806fddd6b6e

また、下巻に入って以降、最初に明確な日付が記されるのは「承久三年六月八日ノ暁」、糟屋久季と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)が後鳥羽院に尾張河合戦の結果を報告した場面であり、二番目は「六月十四日ノ夜半計ニ」、渡辺翔・山田「重貞」(正しくは「重忠」)・三浦胤義の三人が全面的敗北を後鳥羽院に報告した場面です。
逆に、これだけ日付を無視しているが故に、慈光寺本作者は、史実としては六月六日の出来事であることが明らかな山田重忠の杭瀬川合戦を六月十三・十四日の宇治川合戦の「埋め草」として利用する自由を獲得しているともいえますね。
自由な創作を望む作者にとって、正確な日付は自身を縛る桎梏です。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140

さて、野口第一論文における「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するとの野口氏の試みは、流布本においては全体の約23%を占める宇治川合戦が、慈光寺本には存在しないという絶対的な制約ゆえに極めて不充分なものとならざるを得なかった訳ですが、野口氏は「承久宇治川合戦の再評価」(初出2010、以下、「野口第二論文」)において、

-------
また、私は先に慈光寺本『承久記』を主たる史料として承久の乱の全過程を追うことを試みたが、この合戦については慈光寺本『承久記』に記述がないため、詳細は省略に委ねた。本稿はその補足の目的もあわせ持つものである。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

とされます。
では、「承久の乱の全過程」が解明された結果として、野口氏が得られた認識は、野口氏が慈光寺本研究の出発点に置かれていた「『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない」という認識とどのように関係するのか。
仮に野口第二論文によって「承久の乱の全過程」が解明された結果、「『吾妻鏡』や流布本『承久記』は…客観的な事実を伝えたものとはいえない」という結論が得られたならば、野口第一論文における氏の見通しの的確さが証明されたことになりますが、果たしてそうなったのか。
予め結論を言っておくと、残念ながらそうはならなかったようです。
野口第二論文によって、少なくとも宇治川合戦については『吾妻鏡』や流布本『承久記』はけっこう信頼できることを野口氏も認めざるを得なかった訳ですね。
そうなると、当然に宇治川合戦以外についても、『吾妻鏡』や流布本と慈光寺本のどちらが信頼できるのか、という問題が生じるはずですが、野口第二論文では、その点への言及はありません。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)

2023-05-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

宇治川合戦については野口実氏に「承久宇治川合戦の再評価」(野口編『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2010)という論文があり、私は今年1月26日の投稿で、少し検討してみたい、などと書いたのですが、その時点ではあまりに準備不足であったため、(その2)以下が続きませんでした。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

あれから四ヵ月経ち、流布本も宇治川合戦まで読み終えたので、改めて野口論文を検討してみたいと思います。
もともと野口氏は、先行する論文「序論 承久の乱の概要と評価」(上掲書所収、初出は2009)において、

-------
 従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

という問題意識の下、実際に「承久の乱の経過を再構成」された訳ですが、流布本と異なり、慈光寺本は歴史的事象の全体を概観した上で個別エピソードに入るのではなく、唐突に個別エピソードに入って妙に詳しい描写をする傾向が強く、結果的に最初から最後まで奇妙な個別エピソードが連続するので、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するのは本当に至難の業ですね。

「一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dff5c1b2c6954c573300de3316234306

ただ、「序論 承久の乱の概要と評価」を実際に読んでみると、不揃いの素材を寄せ集めたにしては実に綺麗にまとまっており、野口氏の熟練の匠の技を感じさせます。
しかし、さすがに山田重忠の杭瀬川合戦の扱いには無理がありますね。
史実としては六月六日の出来事である杭瀬川合戦は、慈光寺本では宇治川合戦(より正確には瀬田川・宇治川・淀川での合戦)が置かれるべき場所に「埋め草」のように置かれています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f96a42a494918c91c2619bcd8665636
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a52911b4d75fb26095129eac93be624

そして、慈光寺本では、本来であれば後鳥羽院の叡山からの還御後に置かれるべき公卿・殿上人の宇治・瀬田方面への派遣が尾張河合戦の前に行われていますが、これも極めて奇妙です。
野口氏は「序論 承久の乱の概要と評価」において、

-------
【前略】院はうろたえる公卿らを叱咤して、防戦のために官軍を発向させることを命じた。藤原秀康はこれをうけて、軍勢の手分けを行なった。
 こうして、東海道には秀康・秀澄の兄弟のほか三浦胤義・佐々木広綱・安達親長・小野盛綱・源翔らの七千余騎、東山道には蜂屋頼俊・開田重国・大内惟信らの五千余騎、北陸道には加藤光員・大江能範らの七千余騎、総勢一万九千三百二十六騎が三道に下され、のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである。【後略】
-------

とされ(p15)、ついで尾張河合戦の敗北の報が届き、叡山に行くも空しく還御した後、

-------
【前略】もはや院方にとって残された方策は、瀬田(滋賀県大津市)・宇治(京都府宇治市)に配置した兵力を頼みとし、宇治川に拠って京都を防衛するのみとなった。
 ちなみに、ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもので、瀬田には美濃竪者観厳ら七百人。そのうち、五百を三穂崎(滋賀県高島市)、二百が瀬田橋に配されていた。また、宇治には参議高倉範茂・右衛門佐藤原朝俊や奈良法師たち、真木島(宇治市槙島町)には中納言佐々木野有雅、伏見(京都市伏見区)には中納言中御門宗行、芋洗(京都府久御山町)には中納言坊門忠信、大渡(伏見区淀)には二位法印尊長、広瀬(大阪府島本町)には河野通信らが守備についていた。
-------

とされていますが(p18)、後者の「ちなみに」以下は前者の「のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである」の具体的内容です。
野口氏は慈光寺本では連続・一体化している記事を、3頁離して全く別の記事のように記述されるのですが、この操作は果たして「再構成」の範疇に含まれるのか。
私には野口氏が「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)したのではなく、慈光寺本自体を「再構成」しているように思われますが、読者への注意喚起もなく、こうした操作をすることは、研究者の姿勢としてはいかがなものか。

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70

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「惣判官代、宇治の北の在家に火を懸けたり」考

2023-05-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「惣判官代」(『新訂承久記』、p121)について、松林氏は頭注で、

-------
不明。前田家本「信濃国ノ住人浦野太郎」とする。内閣文庫本「槙判官代」。吾妻鏡・六月一四日条に、宇治川北辺の民屋に火を放ったのは北条時氏とする。
-------

とされていますが、「判官代」に注目して少し記事を遡ると、北条時氏と共に宇治川を渡った人物に「関判官代実忠」がいます。
即ち、

-------
 武蔵太郎殿は其も渡さんとて、河端へ被進けるを、「如何に泰時を捨んとはせらるゝ哉覧〔やらん〕。一所にてこそ兎も角も成給はめ」と宣ひければ力不及して留りけり。去共〔されども〕猶渡さんとて、河端へ被進けるを、小熊太郎取付て、「殿は日本一の不覚仁や。大将軍の身として、如何なる謀をも運〔めぐら〕し、兵に軍をさせ、打勝むとこそ可被為〔せらるべき〕に、是程人毎〔ごと〕に流死る河水に向て、御命を失せ給ては、何の高名か可候」とて、馬の七付〔みづつき〕に取付けるに、「只放せ」とて、策〔むち〕にて臂〔ひぢ〕を健〔したた〕かに被打ければ、「左有〔さら〕ば」とて放しける。其時、武蔵太郎颯と落す。関判官代実忠、同渡しけり。小熊太郎も渡す。三騎無煩〔わづらひなく〕向の岸に著にけり。茲に万年九郎秀幸は、真先に渡したるぞと覚敷〔おぼしく〕て、向様にぞ出来たる。武蔵太郎、是を御覧じて、「汝が只今参たるこそ、日比〔ひごろ〕の千騎万騎が心地すれ」と宣ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3c0d630affce86087ce36c3fd193bba

とあって、「武蔵太郎」「関判官代実忠」「小熊太郎」の「三騎」が無事に渡河したことが記されています。
時氏と一緒に渡河しているのだから、「惣判官代」は「関判官代」の誤記と考えてよさそうですが、渡河した軍勢の司令官は時氏で、放火も時氏の指示ないし了解の下にやっているはずですから、『吾妻鏡』には時氏の行動として記されてもおかしくはないですね。

関実忠(?-1265)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AE%9F%E5%BF%A0

「関判官代実忠」の名前は、流布本全体を通して上記の一箇所にしか登場しませんが、『吾妻鏡』六月十八日条には、

-------
【前略】今日。遣使者於関東。是今度合戦之間。討官兵。又被疵。為官兵被討取者。彼是有数多。関判官代。後藤左衛門尉。金持兵衛尉等尋究之。注其交名送武州。仍為被行勳功賞所遣也。中太弥三郎為飛脚云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、続く「六月十四日宇治合戦討敵人々」の長大な人名リストの最後に、「已上九十八人〔此内衛府五人生取七人〕判官代日記定云々」とあります。
「後藤左衛門尉」(基綱)・「金持兵衛尉」等とともに宇治川合戦で敵を討ち取った者、負傷・死亡した者の膨大な人名リストを作成している訳ですから、「関判官代」は武者として優秀であるとともに、優れた事務処理能力を有する人でもあったのでしょうね。
なお、ウィキペディアには参考文献として柴田厚二郎編『鈴鹿郡野史』(名著出版、1973)が挙げられていますが、この本は国会図書館のデジタルコレクションで読めます。
「刊行にあたって」を見ると、柴田厚二郎(龍渓隠史、本業は亀山の医者)が昭和二年に出した本の復刊だそうですが、同書には「関氏ノ起源」として、

-------
嘉応二年平重盛ノ次子越前守資盛途ニ摂政藤原基房ニ逢ヒ礼ヲ失ス重盛其無状ヲ責メ之ヲ伊勢鈴鹿郡久我庄ニ謫ス居ルコト六年一子ヲ挙ク平太郎盛国ト名ツク安元元年資盛免サレ主馬判官盛久ニ伴ハレ帰洛ス盛国独リ久我ニ留ル寿永四年平氏西海ニテ滅ビ遺臣等深ク盛国ヲ隠匿ス源頼朝、北条時政ヲシテ平氏ノ遺孼ヲ索メシメ悉ク之ヲ誅ス而シテ独リ盛国ヲ赦シ時政ノ邸ニ置ク蓋内府重盛ノ旧徳ニ報セシ者ナリ盛国ノ子実忠関谷ノ地頭ニ補セラレタル後始メテ関氏ト称ス(平重盛廿八世孫加太邦憲著鹿伏兎氏族譜)
-------

とあり(p11)、また、

-------
承久三年(一八八一)五月北条義時追討ノ院宣下ル義時兵ヲ出シ京師ニ向ハシム関谷及亀山ノ地頭判官代平実忠遣中ニ在リテ鎌倉ヲ発シ東海道ヲ進ミ尾張大豆渡ニテ京軍ヲ撃破シ進テ宇治川ニ陣ス偶豪雨大ニ至リ河水漲リ東兵溺死算無シ北条時氏馬ヲ躍ラシ死ヲ決シテ河中ニ突進ス実忠之ニ次キ時氏ノ手兵五百又続進ス実忠衆ニ先チ騎渉ヲ遂ケ岸ニ上リ大ニ奮闘シ厚ク賞セラル<東鑑承久記北条九代記関家文書〇此役宇治河ニテ溺死セル関左衛門尉政綱ハ久我流関家ノ人ニ非ラズ>
-------

とあります。(p12)
ま、これらの記述の信頼性には多少の問題もあるでしょうが、私は「此役宇治河ニテ溺死セル関左衛門尉政綱」の関氏しか知らなかったので、なんだか妙に面白く感じられました。
政綱の方の関氏は藤原秀郷流ですね。

関氏(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%B0%8F-1179281

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流布本も読んでみる。(その45)─「泰時爰に候。小勢にて打寄らせ給へ。可申合事あり」

2023-05-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p120以下)

-------
 熊野法師田部法印が子息千王禅師とて、十六歳に成けるが、親子返合散々に戦けるが、千王禅師被取籠被討ぬ。法印は落行けるが、馬を捨て、ある畠の中に這隠たり。敵数多〔あまた〕続て上を越けれ共、是を不知〔しらざる〕は、偏〔ひとへ〕に権現の御扶〔たす〕けに社〔こそ〕と、頼敷〔たのもし〕く覚へて哀なり。
-------

【私訳】「熊野法師田部法印」の子息「千王禅師」十六歳は父とともに散々に戦ったが、敵に取り囲まれて討たれてしまった。
父・法印は落ちて行ったが、馬を捨ててある畠の中に這って隠れていたところ、大勢の敵がその上を越えていったのに気づかれなかったのは、ひとえに熊野権現のお助けによると頼もしく思ったのは哀れであった。

とのことで、こちらも運よく鎌倉方の残党狩りを免れた点では「奈良法師土護覚心」エピソードと同じですが、神仏の加護の話になってしまって、コミカルな要素に乏しい退屈な話ですね。
とにかく、これで六連続京方エピソードは終り、京方の全面的な潰走となります。(p121)

-------
 去程に京方の軍破ければ、皆々落行所を、横河の橋・木幡山・伏見・岡の屋・日野・勧修寺に至迄、所々にて組落し/\是を討。されば坂東勢共、一人して首の七つ八つ取ぬ者もなし。惣判官代、宇治の北の在家に火を懸たりければ、是を見て、供御の瀬・鵜飼瀬・広瀬・槙嶋、所々に向ひたる勢共、(「すはや宇治川破れぬるは」とて)皆落行て、留まる者一人も無りける。少輔入道親広、近江関寺より引別れて行けるが、四百余騎に成にける。其も次第々々に落散て、三條河原にては百騎計に成にけり。爰にて夜を明す。
-------

【私訳】京方が(宇治川で)敗れたので、皆落ちて行ったが、横河の橋・木幡山・伏見・岡の屋・日野・勧修寺まで、至る所で落武者狩りが行なわれた。
そのため、坂東勢は一人で敵の首の七つ八つも取らない者はいないほどであった。
「惣判官代」が宇治の北の在家に放火したので、これを見て、供御瀬・鵜飼瀬・広瀬・槙嶋等に配置された京方も、宇治川が破れてしまったのか、と思って皆落ちて行き、残る者は一人もいなかった。
(供御瀬に配されていた)「少輔入道親広」(大江)は、近江関寺から分かれて進んだが、四百余騎となっていた。
それも次第次第に減って行き、三条河原では百騎ばかりとなっており、ここで夜を明かした。

とのことですが、「惣判官代」は未詳です。
ただ、『吾妻鏡』六月十四日条では、

-------
【前略】武蔵太郎進彼後。令征伐之。剩放火於宇治河北辺民屋之間。自逃籠之族。咽煙失度云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「宇治河北辺民屋」に放火したのは「武蔵太郎」北条時氏となっています。
さて、続きです。(p121以下)

-------
 武蔵守、其子の太郎・伊具次郎・駿河次郎、僅に五十騎計の勢にて、深草河原に陣を取。人、是を不知。駿河守は淀近所に堂をこぼち、筏〔いかだ〕に組で河を渡し、高畠に陣を取。武蔵守、「泰時爰に候。小勢にて打寄らせ給へ。可申合事あり」と宣ければ、駿河守三十騎計にて来り加〔くははり〕ける。
-------

【私訳】「武蔵守」北条泰時とその子の「(武蔵)太郎時氏」・「伊具次郎」と「駿河次郎」三浦泰村は僅かに五十騎ばかりの勢で深草河原に陣をとったが、人々はこれを知らなかった。
「駿河守」三浦義村は淀の近くで堂を壊し、筏に組んで渡河し、高畠に陣を取った。
泰時は義村に、「私はここにおります。小勢にてお越しください。相談したいことがあります」と連絡したので、義村は三十騎ばかりで深草河原にやってきた。

ということで、これで流布本全体の約23%を占める長大な宇治川合戦は終了です。
流布本において「伊具次郎」はここ一箇所だけに登場しますが、伊具姓では他に「伊具六郎有時」がいて(p89、92)、こちらは義時の子、泰時の弟の北条有時です。
従って、この場面の「伊具次郎」は「伊具六郎(有時)」の誤記と思われます。
結局、深草河原に集まったのは北条泰時父子と泰時の弟、三浦義村父子の五人となり、これがいわば鎌倉方の臨時の総司令部を構成していた、というのが流布本作者の見方ですね。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d

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流布本も読んでみる。(その44)─「坊主無何心、物具傍に居たりけるを」

2023-05-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本と『平家物語』の関係については「小河太郎」エピソード以外にも気になる点が多数存在しますが、今はまだ検討の準備が整っていないので、後日の課題としたいと思います。
流布本の宇治川合戦に関する記事がまだ残っているので、それを見て行きます。(『新訂承久記』、p119以下)

-------
 又、京方より、「佐々木太郎左衛門尉氏綱」と名乗て懸出たり。叔父四郎左衛門尉、是を見て、「太郎左衛門、能敵ぞ。中に取籠、討や、者共」と下知しければ、太郎左衛門尉何とか思けん、かいふいて引所を、三浦秋庭三郎寄合て、押双べて組で落つ。秋庭三郎は十七に成けれ共、大力成ければ取て押へて首を取る。
 又、京方より萩野次郎、懸出たり。是も被組落て被討にけり。中条二郎左衛門尉は、奥州の住人宮城小四郎と河端にて寄合て、押双て組で落。何れも大力なりけるが、御方の運にや引れけん、次郎左衛門被組伏て被討けり。
-------

【私訳】また、京方より「佐々木太郎左衛門尉氏綱」と名乗る者が駆け出てきた。
叔父の「四郎左衛門尉」(信綱)はこれを見て、「良い敵だ。中に取り込めて討て。者ども」と下知すると、氏綱は何を思ったのか、逃げ腰になって引いたところを、「三浦秋葉三郎」に組み落とされた。
秋葉はわずか十七歳だったが、大力なので、氏綱を取り押さえて首を取った。
また、京方より「荻野次郎」が駆け出てきたが、これも組み落とされて討たれた。
「中条次郎左衛門尉」は「奥州の住人宮城小四郎」と河端で馬を並べ、組み落ちて戦ったが、共に大力であったものの、京方の運の悪さに引かれたためか、中条は宮城に組み伏せられて討たれた。

六連続京方エピソードの三・四番ですが、いずれも短いものですね。
「太郎左衛門尉」については、松林氏の頭注に、

-------
吾妻鏡・六月十四日条、および十八日、宇治川で敵を討った者の条の「佐々木四郎右衛門尉(信綱)」の注に「一人、手討、佐々木太郎右衛門尉」とある人物であろう。なお、信綱と叔父甥の関係にあって、しかも宇治川で戦死した者に氏綱なる人物はいないが、佐々木太郎左衛門ならば、広綱の子惟綱、定高の子時定が該当するが、いずれかは不明。
-------

とあります。
さて、続きです。(p120以下)

-------
 奈良法師土護覚心、散々に戦て、今は叶間敷〔かなふまじ〕とや思けん、落行けるを、敵三十騎計にて追懸たり。覚心元来〔もとより〕歩立〔かちだち〕の達者成ければ、馬乗をも後ろに不著、三室堂のある僧房へ走入て見れば、坊主かと覚敷〔おぼしく〕て、白髪なる僧あり。彼が前に物具脱で置て、髪剃〔かみそり〕の有けるに、水かめを取具して縁に出て、自剃して居たり。敵続て来りければ、坊主無何心、物具傍に居たりけるを、是が敵ぞと心得て、取て押ヘて首を取、無慙なりし事也。其後覚心は奈良の方へぞ落行ける。
-------

【私訳】「奈良法師土護覚心」は散々に戦って、もはや勝ち目がないと思ったのか、落ち行くのを鎌倉方は三十騎ばかりで追いかけた。
覚心はもともと健脚だったので、騎馬の連中にも追い付かれることなく、三室堂(三室戸)のとある僧房に走り入ると、その主かと思われる白髪の僧がいた。
覚心は鎧を脱いで僧の前に置いた後、剃刀があったので、それと水甕を持って縁側に出て、頭を自分で剃った。
追って来た敵は鎧の傍らにいる僧を見て、これを覚心と勘違いし、取り押さえて首を取ったのは無慙なことであった。
その後、覚心は奈良方向に落ちて行った。

とのことですが、「無慙なりし事也」という一言はあるものの、とぼけた味わいのあるコメディとなっています。
土護覚心は瀬田橋の場面でも、

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 京方より奈良法師、土護覚心・円音二人、橋桁を渡て出来り。人は這〔はひ〕々渡橋桁を、是等二人は大長刀を打振て、跳〔をどり〕々曲を振舞てぞ来りける。坂東の者共、是を見て、「悪〔にく〕ひ者の振舞哉。相構て射落せ」とて、各是を支〔ささへ〕て射る。先立たる円音が左の足の大指を、橋桁に被射付、跳りつるも不動。如何可仕共〔すべしとも〕不覚ける所に、続たる覚心、刀を抜て被射付たる指をふつと切捨、肩に掛てぞ引にける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

という具合に敵を挑発するのが大好きな悪僧ですが、「指をふつと切捨」の冷静過ぎる判断力と実行力がすごいですね。
こちらもどこかコミカルで、土護覚心は『太平記』の乾いた笑いの世界を先取りしているかのようなキャラクターです。

「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ec9ad3c8d2402ccd944273dbe413d

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そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その3)

2023-05-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は今まで流布本を何回か通読していますが、三浦泰村の乳母子だという小河太郎については特に注目したことがありませんでした。
流布本の宇治川合戦は、鎌倉方の行動が描かれた後、

(1)京方の「右衛門佐朝俊」エピソード
(2)京方の「金黒」武者と小河太郎・平間太郎エピソード
(3)京方の「佐々木太郎左衛門尉氏綱」エピソード
(4)京方の「萩野次郎」と「中条次郎左衛門尉」エピソード
(5)京方の「奈良法師覚心」エピソード
(6)京方の「熊野法師田部法印」と「子息千王禅師」の父子エピソード

と京方公家・武士・僧兵の六つのエピソードが連続した後、「去程に京方の軍破ければ、皆々落行所を……」と京方の総崩れの様子が描かれます。
ついで北条泰時が深草河原に陣を取り、藤原秀康・三浦胤義・山田重忠が後鳥羽院に敗北を報告に行ったら「武士共は是より何方へも落行」けと言われたという展開となり、以後は敗戦後の混乱と戦後処理の話となってしまいます。
小河太郎が関わる(1)・(2)もこうした六連続京方エピソードの一部であり、これら全体の前後により重要な場面が多々ありますから、それほど目立ちもせず、今まで注目した研究者もあまりいないように思います。
しかし、(1)・(2)は、『平家物語』の「忠教(忠度)最期」と照らし合わせてみると、様々な要素がそっくりで、何とも不思議な話ですね。
(1)で「是は駿河殿の手者」と言った者について、私はまさか藤原朝俊が駿河殿(三浦義村)の「手者」のはずはないから、これは謎の第三者が言ったのだろうと解釈しましたが、文章を素直に読めば、唐突に第三者が登場するより、藤原朝俊がそう言ったと解釈する方が遥かに自然です。
とすると、(1)は「駿河次郎手の者、小河太郎」程度の雑兵を相手にしたくないと思った朝俊が、その場しのぎに適当についた嘘を、小河があっさり信じて逃がしてしまった、という話となり、小河の愚かさを笑っているようです。
そう考えると、(2)の名前も分からない「金黒」武士が「打笑」って登場した点も、あるいは藤原朝俊と小河太郎のやり取りを見ていて、小河は馬鹿だなあと笑っていたのではなかろうか、などとも思えてきます。
また、(2)では、小河太郎が甲を打たれてボーっとしている間に「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎」が「金黒」武士の首を取ったものの、小河が「駿河次郎の手の者」であることを知って返してくれたのにもかかわらず、小河は首の受け取りを拒否します。
小河は誰が首を取ったのかも分からないような体たらくだったのですから、客観的には「金黒」武士を討ち取ったのは平間太郎の功績ですが、首の受け取りを拒否した小河が潔よく平間の功績を認めたのかと思いきや、小河は後日の論功行賞の場でネチネチと文句をつけ、結局は「平間太郎が僻事也、小河が高名にぞ成りける」という結果を得ます。
しかし、はたして流布本の作者は小河の行為を高く評価しているのか。
私には、屁理屈を並べたてて何とか「高名」を勝ち取った小河を、流布本作者は小賢しくて卑怯な人間だなと薄く笑っているように思われます。
このように考えると、宇治橋の場面や渡河の場面を含め、小河は流布本作者に、一貫して莫迦だなと笑われている存在のように思われてきますが、果たして何故に小河はこのような人物として描かれているのか。
流布本作者は小河と直接の面識があり、小河の愚行を記録に残しておきたいと思ったのか。
それとも、流布本作者は小河程度の下っ端には特に興味がなく、小河のような愚かな側近を持っていた三浦泰村を批判し、笑いたかったけれども、泰村自身を直接の対象とするのは色々と差支えがあったので、小河を笑うことによって泰村、ひいては三浦一族への軽蔑を表現したかったのか。
小河に比べれば、小河を「駿河次郎の手の者」と知って「金黒」武者の首を返そうとした「武蔵太郎殿の手者」平間太郎は、政治的配慮のできる優秀な人物であり、小河は平間太郎の引き立て役になっています。
また、宇治川渡河の場面では、小河の愚かなアドバイスに従って直ちに渡河を決断しなかった三浦泰村は北条時氏の引き立て役です。

流布本も読んでみる。(その40)─「殿は日本一の不覚仁や」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3c0d630affce86087ce36c3fd193bba
そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2ca32711f396cb77748e3d132da7be8

更に遡れば、同母弟・胤義からの手紙を直ちに北条義時に提出し、義時から「さては御辺の手にこそ懸り進らせ候はんずらめ」との際どい冗談を言われて、平伏して義時への忠誠を誓った三浦義村も、偉大な指導者である北条義時の引き立て役のようです。

流布本も読んでみる。(その11)─「さては御辺の手に社〔こそ〕懸り進らせ候はんずらめ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

このように、小河太郎エピソードを手掛かりに流布本における三浦一族の位置づけを再考してみると、流布本作者は一貫して三浦義村一族を北条義時一族の引き立て役として描いているようです。
そして、流布本作者は内心では三浦義村一族を深く軽蔑しつつも、その軽蔑をあまりあからさまに表現しないように工夫しているように思われるのですが、この点は流布本を最後まで読んだ後、改めて検討することとします。

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