野口実氏が「はじめに」で、
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東国方面から大軍が京都に進入する際に、京都側にとって最後の防禦機能を担った宇治川は、鎌倉幕府確立に至る過程で惹起されたいくつかの内乱において戦場となった。まず、治承四年(一一八〇)五月、平家打倒に蹶起した以仁王を擁した源頼政が平家の派遣した追討軍と対戦(a)、寿永二年(一一八三)七月には、平家を追って木曾義仲とともに入京した源行家が大和方面から宇治川を渡っている(b)。翌年正月には、源義経が守備にあたっていた志田義広の軍を破って入京を遂げて義仲を滅ぼし(c)、鎌倉幕府確立のメルクマールとされる承久の乱においては、承久三年(一二二一)六月に北条泰時の率いる大軍がここを突破したのである(d)。
この四度の宇治川合戦のうち、(a)は浄妙房や一来法師ら超人的な異能を発揮する悪僧達の活躍、(c)は源頼朝秘蔵の名馬「生食」と「磨墨」を駆った佐々木高綱と梶原景季の先陣争いの話で広く人口に膾炙している。しかし、これらがいずれも歴史的事実とは見なしがたいことは、夙に明らかにされている。実のところ、(a)は以仁王・頼政の軍勢が五十騎、追討にあたった平家軍が三百騎ほどの戦いに過ぎず、(c)に至っては、義経軍はほとんど抵抗を受けることなく渡河し、難なく鴨川左岸を北上して京都に進攻を果たしているのである。(b)も平家軍は結局宇治防衛を放棄して都落ちしているから、ほとんど合戦らしいものは行われなかったと考えられる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248
と書かれているように、「源義経が守備にあたっていた志田義広の軍を破って入京を遂げて義仲を滅ぼし(c)」た際には、「義経軍はほとんど抵抗を受けることなく渡河し、難なく鴨川左岸を北上して京都に進攻を果たして」おり、合戦と呼べるような出来事はそもそも存在していなかった訳ですね。
『吾妻鏡』でも、寿永三年正月廿日条に、
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蒲冠者範頼。源九郎義経等。為武衛御使。率数万騎入洛。是為追罸義仲也。範頼自勢多参洛。義経入自宇治路。木曽以三郎先生義広。今井四郎兼平已下軍士等。於彼両道雖防戦。皆以敗北。蒲冠者。源九郎相具河越太郎重頼。同小太郎重房。佐々木四郎高綱。畠山次郎重忠。渋谷庄司重国。梶原源太景季等。馳参六条殿。奉警衛仙洞。此間。一條次郎忠頼已下勇士競争于諸方。遂於近江国粟津辺。令相摸国住人石田次郎誅戮義仲。其外錦織判官等者逐電云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-01.htm
と「佐々木四郎高綱」「梶原源太景季」の名前は出てきますが、非常にあっさりとした記述です。
それにもかかわらず、『平家物語』巻第九では「生ズキノ沙汰」で頼朝の余りに偏頗な対応から佐々木高綱・梶原景季のトラブルが予告され、「宇治川先陣」で両者の駆け引きと勝負の結果が詳細に描かれ、続く「河原合戦」でも、その冒頭に、
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いくさやぶれにければ、鎌倉殿へ飛脚をもッて、合戦の次第をしるし申されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御尋ありければ、「宇治河のまッさき候」と申す。日記をひらいて御覧ずれば、「宇治河の先陣佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季」とこそかゝれたれ。
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と記されるように(『新日本古典文学大系45 平家物語 下』、p125)、『平家物語』における「宇治川先陣」エピソードへのこだわり方は尋常ではありません。
『平家物語』の作者は、いったい何故、これほどまでに詳細な架空合戦エピソードを創作したのか。
ひとつ考えられるのは、佐々木高綱の子孫が『平家物語』作者に何らかの影響を与えた可能性ですが、高綱は梶原景季をだますような人物として描かれていることを考えると、高綱の子孫が作者集団の一人だったとか、パトロンとして作者に経済的援助をした、というような単純な話でもなさそうです。
なお、この架空の「宇治河先陣」エピソードは『尊卑分脈』にも反映されていて、佐々木高綱には、
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杉山合戦七ヶ度懸前、元暦年中木曽義仲并平家等為令追伐之関東軍兵上洛之時、渡宇治川、懸一陣了、其時鎌倉殿賜第一名馬、乗之渡河了、為其勲功雖□北陸道猶依不本意、出家住高野了
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と記されています。
「杉山合戦七ヶ度懸前」云々は別のエピソードで、源頼朝が石橋山合戦で敗れ杉山に隠れた際に、佐々木高綱が頼朝を逃がすために特別な活躍したという『源平盛衰記』の話の反映のようですが、これも『吾妻鏡』等の他の史料には見られない独自記事です。
大森金五郎は「佐々木高綱の事蹟に関する疑義」(『武家時代の研究 第二巻』所収、冨山房、1929)の冒頭で、
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佐々木高綱は近江源氏で源三秀義の第四子である。兄定綱、経高、盛綱等の事蹟は吾妻鏡、平家物語、尊卑分脈などに見えて居て、別段不審はないのであるが、ひとり高綱の事蹟に至つては如何なる訳か、早くより誇張付会が多くて、信じ難い所があるのである。殊に石橋山の戦及び宇治川先陣の条に於て然るを見るのである。いま夫等の事蹟について研究して見たいのである。
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と書いていますが(p331)、高綱は実像より、その軍記物における描かれ方において謎の多い人物ですね。
ま、少なくとも『平家物語』の「宇治川先陣」エピソードは、高綱の甥である信綱の承久の乱における活躍を素材に創作されたものであることは間違いなさそうです。
佐々木高綱(1160-1214)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E7%B6%B1