投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月30日(月)11時37分56秒
森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)によれば、尊氏が建武二年(1335)九月二十七日に発給した恩賞給付の袖判下文は全部で九点残存しているそうです。
「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820
『南北朝遺文関東編第一巻』(東京堂出版、2007)には七点掲載されていますが、その中に「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」を記す文書(296号)があり、その内容は次の通りです。
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〇 二九六 足利尊氏下文写
〇広島大学文学部所蔵摂津四天王寺
旧蔵如意宝珠御修法日記紙背文書
下 富樫介高家
可令早領知加賀国守護職并遠江国西郷庄<小櫟孫四郎・同弥次郎・中原弥次郎跡>・
信濃深志介跡事
右人、為勲功之賞、所充行也者、守先例可致沙汰状如件、
建武二年九月廿七日
〇足利尊氏の袖判があったと推定される
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「足利尊氏の袖判」があれば花押を見て文書が真正かどうか確認できるのでしょうが、それが無理なので偽文書の可能性はゼロではありません。
古文書学の素養が皆無の私には特に意見はありませんが、この時代の古文書に詳しい専門家から見ると、守護職補任を袖判下文で行うことに若干の違和感があるようです。
ただ、同日付の三浦高継宛ての文書(290号)は、
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〇 二九〇 足利尊氏下文写 〇小田部庄右衛門氏所蔵宇都宮文書
(花押)
下 三浦介平高継
可令早領知相模国大介職并三浦内三崎・松和・金田・菊
名・網代・諸石名、大磯郷<在高麗寺俗別当職>、東坂間、三橋、末吉、
上総国天羽郡内古谷・吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、
豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部
内五戸、会津・河沼郡議塚并上野新田<父介入道々海跡本領>事
右以人、為勲功之賞所充行也者、守先例、可致沙汰之状如件、
建武二年九月廿七日
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とあり、守護職ではなく「相模国大介職」ではあるものの、尊氏の花押のある袖判下文です。
また、野村朋弘氏(京都芸術大学准教授)の御教示によれば、建武四年の例ではあるものの、上杉朝定に丹後国守護職を補任する尊氏の袖判下文があります。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0206?m=all&s=0206&n=20
詳しい検討は専門家に委ねるとして、富樫高家宛ての文書は同日付の他の尊氏袖判下文と文言が似ているので、私としては一応、その内容を信頼して議論を進めたいと思います。
なお、三浦高継宛下文は相模・上総・摂津・豊後・信濃・陸奥と極めて広範囲に亘る所領を給付しており、富樫高家宛下文も遠江国の所領を給付しています。
この他、『南北朝遺文関東編第一巻』の291号(阿曽沼師綱宛)は「阿曽沼下野権守跡三分壱」、292号(佐々木道誉宛)は「上総国畔蒜庄并真壁彦次郎跡伊豆国土肥・戸田」、293号(小笠原貞宗宛)は「信濃国住吉庄并武田孫五郎長高跡・市河掃部六郎跡」、294号(「倉持左衛門三郎入道行円跡」宛)は「信濃国香坂村<香坂太郎入道跡>」を給付しており、給付された領地の範囲は極めて広いですね。
さて、次に富樫高家がいかなる人物で、足利尊氏とどのような関係にあるのかも簡単に確認しておきます。
『石川県の歴史』(山川出版社、2000)によれば、
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地元守護の誕生●
南北朝時代に加賀国の守護となった富樫氏は、室町幕府が送り込んできた外来者ではなく、石川郡の富樫荘(金沢氏南東部)を本拠に、平安後期から鎌倉期をとおして、着々と在地領主的基盤を固めてきた、地元武士であった。
同氏は遠く藤原利仁将軍の流れをくむ加賀斎藤氏の一族とされ、平安末期以来、代々「富樫介」と称していた。地名プラス「介」を仮名〔けみょう〕に名のるのは、加賀ではほかに、林介・板津介・富安介が知られる。これらは平安中期以降の国司遥任化の過程で、再編された知行国主─受領国司─目代による在庁留守所の支配のもとで、在地の有力豪族が在庁官人となり、朝廷の除目に関係なく、それを僭称していたのである。【中略】
鎌倉後期には、幕府の六波羅(京都の守護・公家方の監視および三河国以西の諸国の裁判・軍事以下の庶政を管掌)配下の「在京人(在京御家人)」として活躍がみられた。【中略】
南北朝期初頭の建武二(一三三五)年九月、富樫高家(泰明の嫡男)が、足利尊氏から「加賀国守護職」に補任された。これは鎌倉幕府の滅亡に伴う六波羅の解体後、尊氏がその権限を掌握し、在京人たちの多くがそのものに帰属していくなかで、高家が尊氏といちはやく主従関係を結んで家人〔けにん〕となり、足利方の軍事行動に懸命な働きをした結果によるものである。
ところで、富樫氏の発展をささえたものに、武士団としての族的結合の堅固さがあった。【中略】やがて惣領制(所領分割制)の矛盾が顕在化するなかで、庶流をいちはやく同族的立場から被官的立場へと変質させ、富樫嫡家の一族統制権のもとで強力な軍事力を形成し、鎌倉末期の内乱に積極的な参加をはかっていたのであった。さらに高家の父泰明が、同時期に加賀の守護支配の実務に関与していたという政治的立場も、富樫氏が守護に起用される背景となっていた。
守護就任以後の富樫氏は、中央政局における権力抗争にさいしても、一貫して足利尊氏・義詮に属し、南北朝末期に至るまで、高家・氏春・昌家と三代五二年間にわたり、加賀国の守護職を継承した。【後略】
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とのことで(p94以下)、中先代の乱の直後の時期、尊氏による守護補任というと、『梅松論』に記された上杉憲房の上野守護の例が思い浮かびますが、上野国にとって上杉憲房は全くの「外来者」であったのに対し、富樫氏は代々地元に根を張っていた訳ですね。
そして富樫氏は鎌倉後期には六波羅探題配下の「在京人」であり、六波羅崩壊後に富樫高家が尊氏に密着した、という関係です。
富樫氏にとって、尊氏から「加賀国守護職」に補任されたことは、その後の加賀国支配にとって決定的に重要な出来事であったようですね。
森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)によれば、尊氏が建武二年(1335)九月二十七日に発給した恩賞給付の袖判下文は全部で九点残存しているそうです。
「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820
『南北朝遺文関東編第一巻』(東京堂出版、2007)には七点掲載されていますが、その中に「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」を記す文書(296号)があり、その内容は次の通りです。
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〇 二九六 足利尊氏下文写
〇広島大学文学部所蔵摂津四天王寺
旧蔵如意宝珠御修法日記紙背文書
下 富樫介高家
可令早領知加賀国守護職并遠江国西郷庄<小櫟孫四郎・同弥次郎・中原弥次郎跡>・
信濃深志介跡事
右人、為勲功之賞、所充行也者、守先例可致沙汰状如件、
建武二年九月廿七日
〇足利尊氏の袖判があったと推定される
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「足利尊氏の袖判」があれば花押を見て文書が真正かどうか確認できるのでしょうが、それが無理なので偽文書の可能性はゼロではありません。
古文書学の素養が皆無の私には特に意見はありませんが、この時代の古文書に詳しい専門家から見ると、守護職補任を袖判下文で行うことに若干の違和感があるようです。
ただ、同日付の三浦高継宛ての文書(290号)は、
-------
〇 二九〇 足利尊氏下文写 〇小田部庄右衛門氏所蔵宇都宮文書
(花押)
下 三浦介平高継
可令早領知相模国大介職并三浦内三崎・松和・金田・菊
名・網代・諸石名、大磯郷<在高麗寺俗別当職>、東坂間、三橋、末吉、
上総国天羽郡内古谷・吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、
豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部
内五戸、会津・河沼郡議塚并上野新田<父介入道々海跡本領>事
右以人、為勲功之賞所充行也者、守先例、可致沙汰之状如件、
建武二年九月廿七日
-------
とあり、守護職ではなく「相模国大介職」ではあるものの、尊氏の花押のある袖判下文です。
また、野村朋弘氏(京都芸術大学准教授)の御教示によれば、建武四年の例ではあるものの、上杉朝定に丹後国守護職を補任する尊氏の袖判下文があります。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0206?m=all&s=0206&n=20
詳しい検討は専門家に委ねるとして、富樫高家宛ての文書は同日付の他の尊氏袖判下文と文言が似ているので、私としては一応、その内容を信頼して議論を進めたいと思います。
なお、三浦高継宛下文は相模・上総・摂津・豊後・信濃・陸奥と極めて広範囲に亘る所領を給付しており、富樫高家宛下文も遠江国の所領を給付しています。
この他、『南北朝遺文関東編第一巻』の291号(阿曽沼師綱宛)は「阿曽沼下野権守跡三分壱」、292号(佐々木道誉宛)は「上総国畔蒜庄并真壁彦次郎跡伊豆国土肥・戸田」、293号(小笠原貞宗宛)は「信濃国住吉庄并武田孫五郎長高跡・市河掃部六郎跡」、294号(「倉持左衛門三郎入道行円跡」宛)は「信濃国香坂村<香坂太郎入道跡>」を給付しており、給付された領地の範囲は極めて広いですね。
さて、次に富樫高家がいかなる人物で、足利尊氏とどのような関係にあるのかも簡単に確認しておきます。
『石川県の歴史』(山川出版社、2000)によれば、
-------
地元守護の誕生●
南北朝時代に加賀国の守護となった富樫氏は、室町幕府が送り込んできた外来者ではなく、石川郡の富樫荘(金沢氏南東部)を本拠に、平安後期から鎌倉期をとおして、着々と在地領主的基盤を固めてきた、地元武士であった。
同氏は遠く藤原利仁将軍の流れをくむ加賀斎藤氏の一族とされ、平安末期以来、代々「富樫介」と称していた。地名プラス「介」を仮名〔けみょう〕に名のるのは、加賀ではほかに、林介・板津介・富安介が知られる。これらは平安中期以降の国司遥任化の過程で、再編された知行国主─受領国司─目代による在庁留守所の支配のもとで、在地の有力豪族が在庁官人となり、朝廷の除目に関係なく、それを僭称していたのである。【中略】
鎌倉後期には、幕府の六波羅(京都の守護・公家方の監視および三河国以西の諸国の裁判・軍事以下の庶政を管掌)配下の「在京人(在京御家人)」として活躍がみられた。【中略】
南北朝期初頭の建武二(一三三五)年九月、富樫高家(泰明の嫡男)が、足利尊氏から「加賀国守護職」に補任された。これは鎌倉幕府の滅亡に伴う六波羅の解体後、尊氏がその権限を掌握し、在京人たちの多くがそのものに帰属していくなかで、高家が尊氏といちはやく主従関係を結んで家人〔けにん〕となり、足利方の軍事行動に懸命な働きをした結果によるものである。
ところで、富樫氏の発展をささえたものに、武士団としての族的結合の堅固さがあった。【中略】やがて惣領制(所領分割制)の矛盾が顕在化するなかで、庶流をいちはやく同族的立場から被官的立場へと変質させ、富樫嫡家の一族統制権のもとで強力な軍事力を形成し、鎌倉末期の内乱に積極的な参加をはかっていたのであった。さらに高家の父泰明が、同時期に加賀の守護支配の実務に関与していたという政治的立場も、富樫氏が守護に起用される背景となっていた。
守護就任以後の富樫氏は、中央政局における権力抗争にさいしても、一貫して足利尊氏・義詮に属し、南北朝末期に至るまで、高家・氏春・昌家と三代五二年間にわたり、加賀国の守護職を継承した。【後略】
-------
とのことで(p94以下)、中先代の乱の直後の時期、尊氏による守護補任というと、『梅松論』に記された上杉憲房の上野守護の例が思い浮かびますが、上野国にとって上杉憲房は全くの「外来者」であったのに対し、富樫氏は代々地元に根を張っていた訳ですね。
そして富樫氏は鎌倉後期には六波羅探題配下の「在京人」であり、六波羅崩壊後に富樫高家が尊氏に密着した、という関係です。
富樫氏にとって、尊氏から「加賀国守護職」に補任されたことは、その後の加賀国支配にとって決定的に重要な出来事であったようですね。