学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

富樫高家宛ての尊氏袖判下文は信頼できるのか。

2021-08-30 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月30日(月)11時37分56秒

森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)によれば、尊氏が建武二年(1335)九月二十七日に発給した恩賞給付の袖判下文は全部で九点残存しているそうです。

「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820

『南北朝遺文関東編第一巻』(東京堂出版、2007)には七点掲載されていますが、その中に「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」を記す文書(296号)があり、その内容は次の通りです。

-------
〇 二九六 足利尊氏下文写
           〇広島大学文学部所蔵摂津四天王寺
           旧蔵如意宝珠御修法日記紙背文書

下 富樫介高家
 可令早領知加賀国守護職并遠江国西郷庄<小櫟孫四郎・同弥次郎・中原弥次郎跡>・
 信濃深志介跡事
 右人、為勲功之賞、所充行也者、守先例可致沙汰状如件、
   建武二年九月廿七日

 〇足利尊氏の袖判があったと推定される
-------

「足利尊氏の袖判」があれば花押を見て文書が真正かどうか確認できるのでしょうが、それが無理なので偽文書の可能性はゼロではありません。
古文書学の素養が皆無の私には特に意見はありませんが、この時代の古文書に詳しい専門家から見ると、守護職補任を袖判下文で行うことに若干の違和感があるようです。
ただ、同日付の三浦高継宛ての文書(290号)は、

-------
〇 二九〇 足利尊氏下文写   〇小田部庄右衛門氏所蔵宇都宮文書

    (花押)
下   三浦介平高継
 可令早領知相模国大介職并三浦内三崎・松和・金田・菊
 名・網代・諸石名、大磯郷<在高麗寺俗別当職>、東坂間、三橋、末吉、
 上総国天羽郡内古谷・吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、
 豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部
 内五戸、会津・河沼郡議塚并上野新田<父介入道々海跡本領>事
右以人、為勲功之賞所充行也者、守先例、可致沙汰之状如件、
  建武二年九月廿七日
-------

とあり、守護職ではなく「相模国大介職」ではあるものの、尊氏の花押のある袖判下文です。
また、野村朋弘氏(京都芸術大学准教授)の御教示によれば、建武四年の例ではあるものの、上杉朝定に丹後国守護職を補任する尊氏の袖判下文があります。

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0206?m=all&s=0206&n=20

詳しい検討は専門家に委ねるとして、富樫高家宛ての文書は同日付の他の尊氏袖判下文と文言が似ているので、私としては一応、その内容を信頼して議論を進めたいと思います。
なお、三浦高継宛下文は相模・上総・摂津・豊後・信濃・陸奥と極めて広範囲に亘る所領を給付しており、富樫高家宛下文も遠江国の所領を給付しています。
この他、『南北朝遺文関東編第一巻』の291号(阿曽沼師綱宛)は「阿曽沼下野権守跡三分壱」、292号(佐々木道誉宛)は「上総国畔蒜庄并真壁彦次郎跡伊豆国土肥・戸田」、293号(小笠原貞宗宛)は「信濃国住吉庄并武田孫五郎長高跡・市河掃部六郎跡」、294号(「倉持左衛門三郎入道行円跡」宛)は「信濃国香坂村<香坂太郎入道跡>」を給付しており、給付された領地の範囲は極めて広いですね。
さて、次に富樫高家がいかなる人物で、足利尊氏とどのような関係にあるのかも簡単に確認しておきます。
『石川県の歴史』(山川出版社、2000)によれば、

-------
地元守護の誕生●
 南北朝時代に加賀国の守護となった富樫氏は、室町幕府が送り込んできた外来者ではなく、石川郡の富樫荘(金沢氏南東部)を本拠に、平安後期から鎌倉期をとおして、着々と在地領主的基盤を固めてきた、地元武士であった。
 同氏は遠く藤原利仁将軍の流れをくむ加賀斎藤氏の一族とされ、平安末期以来、代々「富樫介」と称していた。地名プラス「介」を仮名〔けみょう〕に名のるのは、加賀ではほかに、林介・板津介・富安介が知られる。これらは平安中期以降の国司遥任化の過程で、再編された知行国主─受領国司─目代による在庁留守所の支配のもとで、在地の有力豪族が在庁官人となり、朝廷の除目に関係なく、それを僭称していたのである。【中略】
 鎌倉後期には、幕府の六波羅(京都の守護・公家方の監視および三河国以西の諸国の裁判・軍事以下の庶政を管掌)配下の「在京人(在京御家人)」として活躍がみられた。【中略】
 南北朝期初頭の建武二(一三三五)年九月、富樫高家(泰明の嫡男)が、足利尊氏から「加賀国守護職」に補任された。これは鎌倉幕府の滅亡に伴う六波羅の解体後、尊氏がその権限を掌握し、在京人たちの多くがそのものに帰属していくなかで、高家が尊氏といちはやく主従関係を結んで家人〔けにん〕となり、足利方の軍事行動に懸命な働きをした結果によるものである。
 ところで、富樫氏の発展をささえたものに、武士団としての族的結合の堅固さがあった。【中略】やがて惣領制(所領分割制)の矛盾が顕在化するなかで、庶流をいちはやく同族的立場から被官的立場へと変質させ、富樫嫡家の一族統制権のもとで強力な軍事力を形成し、鎌倉末期の内乱に積極的な参加をはかっていたのであった。さらに高家の父泰明が、同時期に加賀の守護支配の実務に関与していたという政治的立場も、富樫氏が守護に起用される背景となっていた。
 守護就任以後の富樫氏は、中央政局における権力抗争にさいしても、一貫して足利尊氏・義詮に属し、南北朝末期に至るまで、高家・氏春・昌家と三代五二年間にわたり、加賀国の守護職を継承した。【後略】
-------

とのことで(p94以下)、中先代の乱の直後の時期、尊氏による守護補任というと、『梅松論』に記された上杉憲房の上野守護の例が思い浮かびますが、上野国にとって上杉憲房は全くの「外来者」であったのに対し、富樫氏は代々地元に根を張っていた訳ですね。
そして富樫氏は鎌倉後期には六波羅探題配下の「在京人」であり、六波羅崩壊後に富樫高家が尊氏に密着した、という関係です。
富樫氏にとって、尊氏から「加賀国守護職」に補任されたことは、その後の加賀国支配にとって決定的に重要な出来事であったようですね。
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「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯」(by 桃崎有一郎氏)

2021-08-29 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月29日(日)11時09分20秒

今まで『太平記』に描かれた尊氏東下場面での尊氏の二つの要求のうち、「東八ヶ国の管領」は実際に後醍醐の勅許があったものの、後に後醍醐は中院具光を通じてこの勅許を撤回した、と考えてきました。
ただ、「東八ヶ国の管領」は『太平記』に即して考えても、その実質は「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限であり、「東八ヶ国の管領」という表現と正確に対応している訳ではありません。
また、九月二十七日に尊氏が恩賞として給付した土地は「東八ヶ国」より広い範囲に及んでいます。

亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc0f4edf1c7ac33e9a85447a3981beb8

この点、以前から気になっていたのですが、桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)を読み直してみたところ、「東八ヶ国の管領」問題に影響すると思われる記述がありました。
もともと私は桃崎氏の「建武政権論」をあまり高く評価しておらず、桃崎氏は佐藤進一説の駄目な部分をより駄目な方向に精緻化している人ではないかと思っていますが、当該部分には注目すべき指摘があるので、少し検討してみます。

「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69

「建武政権論」全体の構成は上記投稿を参照していただくとして、問題の箇所は次の通りです。(p66以下)

-------
   3 中先代の乱と室町幕府の成立

 建武二年(一三三五)七月、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵すると(中先代の乱)、直義は鎌倉を逐われ足利氏守護分国三河へ退却した(鎌倉に幽閉中で北条氏残党と通じた形跡がある政敵護良は、時行との合流を警戒され殺害された)。この危機に際し、尊氏は自らの出陣と征夷大将軍・諸国惣追捕使(守護を統括する幕府将軍の職権)への任命を希望したが、後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した。尊氏が八月に独断で下向すると尊氏の支持者が顕在化し、佐々木道誉以下多数の将士が従った。慌てた後醍醐は尊氏を征東将軍に任じ、乱が鎮圧されると「恩賞は京都にて綸旨で行う」と帰京を命じた。尊氏は従おうとしたが、京都の危険性(天皇への不信)と鎌倉の安全性を主張する直義に説得され、帰京命令を無視する。そればかりか尊氏は九月末に独断で謀叛人没収地の寄進・恩賞給与に踏み切り、一〇月半ばに「若宮小路の代々将軍家の旧跡」の新造御所に移った。直義が押し切る形で尊氏は幕府将軍たる自覚と独立を明示し、鎌倉府は念願の将軍を得たのである(制度上の将軍というより、将軍に相応しい血統・実績と自覚を有する人物)。尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる。ただし一一月二日に始まる軍勢催促があくまで後醍醐ではなく足利氏追討の命を受けた新田義貞の討伐を標榜し、同月中旬まで尊氏が後醍醐との和睦を画策した事実は、如上の既成事実を後醍醐が容認すると信じられた可能性、即ちこれを機に義貞を滅ぼし、建武政権内における幕府樹立を強行し、後醍醐に追認させる道が模索された形跡と解される。
-------

「後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した」云々は歴史研究者の共通認識ですが、私は『大日本史料第六編之二』以来の誤解だろうと考えています。

四月初めの中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

また、尊氏が「征夷大将軍・諸国惣追捕使」を要求した云々は『神皇正統記』に、後醍醐の帰京命令に尊氏が従おうとしたが直義の説得で止めた云々は『梅松論』に依拠しています。
この時期の大きな流れを描く史料のうち、その信頼性を、

『神皇正統記』>『梅松論』>『太平記』

とするのは歴史研究者一般の傾向であって、桃崎氏特有ではありません。
ただ、「尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる」とされる点には桃崎氏の独自性がありそうです。
さて、私は九月二十七日に尊氏が複数の恩賞給付を行なった事実は、少なくとも尊氏の主観においては「独断」ではなく、あくまで後醍醐が認めた恩賞給付権限の行使であって、何ら越権行為ではないと考えますが、ただ、「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」は「東八ヶ国の管領」という『太平記』の表現に照らすと、やはり相当な違和感があります。
この点をどう考えるべきか、は私にとってはけっこう大きな問題です。
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>勝陽軍鑑さん

2021-08-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月28日(土)09時05分26秒

私は過去一年間かけて『太平記』に関係する様々な問題点を一つずつ検討してきており、それを踏まえて、一応の纏めを行ないたいと思っています。
そのような段階なので、まことに申し訳ありませんが、今は自分の課題に集中したく、この掲示板で、初歩的な誤解を含む勝陽軍鑑さんの多数の疑問やご意見に一つ一つ対応する余裕がありません。
なお、勝陽軍鑑さんがネット上にご自身の拠点を持たれたなら、それを前提に、話題を絞った上でツイッター等でやり取りすることは可能です。

追記:初歩的な誤解とは、例えば「現在歴史学者の間で論争になっていると思われる、「護良が征夷大将軍を要求した」という事」とありますが、そんなことは全然論争になっておらず、私がつい最近、信貴山に立て籠もった護良が征夷大将軍を要求したという話は『太平記』の創作ではないか、と言い始めただけです。
超絶単独説で、専門的研究者の世界には何の影響も与えていません。

※勝陽軍鑑さんの下記投稿へのレスです。

太平記の評価 2021/08/28(土) 01:00:59
申し訳ありません。投稿を止めようと決心したのですがまた書いてしましました。
勝陽軍鑑は素人ながら歴史学者を馬鹿にしており、特に呉座氏の態度は嫌いで今回の一件についてはざまを見ろとほくそ笑んでいる状況です。
その中で小太郎さんのブログを見て、太平記の評価を除いては共感できることが多く、勝手に信用できると思い込んだ次第です。
私は技術士なので、工学系です。技術士と博士の違いは、全体を俯瞰するのが技術士で、あくまで細部にこだわるのが博士です。
例えば家を建てる時に、安く住みやすい良い家を作ろうとするのが技術士で高度な技術は求めません。博士は幾ら価格が高くても強度のある材料を作り出すのを目的としており、それが評価されます。今の歴史学会は細かい事に拘る専門家ばかりで、全体を俯瞰できる存在が無いと思われるのです。歴史学の意味とは何でしょうか
歴史学の使命は。その歴史を後世に役立てる事であり、その為には歴史家が拘る1月1日が2日であっても問題は無いと考えます。
500~300までしかブログを読んでいませんが、小太郎さんは信用し尊敬できると思いました。それで投稿しました。
小太郎さんに分かって頂きたいのは、太平記は歴史書などとは一言も書いていません。仏教の啓蒙書であり、天の徳と地の道が乱れているので、南北朝の混乱になったので、後の人間はこれを参考に良い世にしろと言っているのです。
佐藤進一氏と、網野善彦氏は南北朝の混乱を後醍醐の資質に求めました。その強権と支離滅裂を指摘したのです。現代に置き換えると米元大統領や日本A首相やS首相です。強権を使用して官僚を委縮させ、支離滅裂な指示で世間を混乱に陥れます。天の徳が無いのです。一方で官僚は文章の改竄や処分、国会での偽証などを繰り返します。地の道が無いのです。
後醍醐の時代は、更に酷く西園寺や護良など理由もなく殺したり処分したりしています。この様な時代に官僚である公家達は、正確な記録を残すはずが有りません。後醍醐の命令に従い都合よく書き換えるのです。南北朝の資料が少ないのはその為で、残った物も信用できなと考えます。
歴史家はこれを明らかにして、現代の世に参考のできる様にするべきです。
「尊氏と後醍醐の仲が良かった」とする歴史学者は尊氏の追悼文を証拠にしますが、追悼文で馬鹿だ間抜けだと書く筈が無く、資料として用いる方が馬鹿だと思います。
太平記の目的を理解せず馬鹿にして、その一方で歴史を語る上で太平記に一言でも触れないで自説を語っている歴史学者を知りません。小太郎さんがどこかで触れられていましたが、「誰でも良いので太平記を用いずに南北朝史を纏めてみろ」という思いです。
太平記を非難するのであれば、無視して他の資料だけで自説を構築すれば良いのであり、適当に使い、引用するのは間違っていると思います。太平記を尊重すれば、現在歴史学者の間で論争になっていると思われる、「護良が征夷大将軍を要求した」という事にはなりません。太平記では護良が天皇の位又は春宮を要求しているのは一目瞭然です。これは岡見正雄が根拠を示さずに勝手に征夷大将軍とした事が悪いと考えます。
長くなりましたが、小太郎さんには太平記を否定するなら参照しないでほしいという事です。適当に参照して自論を組み立て、その上で太平記は下らないと言うのはおかしいと思います。
これは論争を仕掛けたいとか、この掲示板を潰そうと言うのではありません。歴史研究に身を置かない私は、傷つかない立場であり、しかも匿名なので絶対的に有利な立場です。
ただ、小太郎さんに理解していただきたいだけです。
ご理解を頂ければ幸いです。勝手ながらよろしくお願い致します。
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「この護良臣下は特定できないが、四条隆資・隆貞父子と想像できる」(by 山本隆志氏)

2021-08-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月27日(金)11時01分2秒

平成十七年(2005)は新田義貞研究の画期となった年で、五月に峰岸純夫氏が『人物叢書 新田義貞』(吉川弘文館)を出され、十月に山本隆志氏が『新田義貞─関東を落とすことは子細なし─』(ミネルヴァ書房)を出されています。
お二人は「両家奏状」に関しては対照的な見方をされていて、峰岸氏が「両家奏状」の内容は基本的に史実だとされるのに対し、山本氏は「述作」との立場ですね。

「『太平記』には尊氏奏状の本文が載せられているが、もとより述作であろう」(by 山本隆志氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e573877daa7dedb0b88e80195e89e401

この論点については私は山本氏に賛成ですが、ただ、山本氏も上記投稿で紹介した部分に続けて、ちょっと奇妙なことを言われています。(p183)

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義貞ら、足利討伐に向かう

 十一月十九日、尊良親王以下、東征に発った(元弘日記裏書)。『神皇正統記』には「追討のために、中務卿尊良親王を上将軍といひて、さるへき人々もあまたつかはさる、武家には義貞の朝臣をはしめて、おほくの兵を下されしに」と見えて、義貞が多くの武家を率いたことが分かる。
 ここでの義貞登場には護良親王臣下の働きかけがあったらしい。『保暦間記』は「故兵部卿親王(護良)ノ御方臣下の中ニヤ有ケン、尊氏謀叛ノ志有ル由讒シ申テ、新田右衛門佐義貞ヲ招テ種々ノ語ヒヲナシテ、左中将ニ申成テ、上野国ハ尊氏分国也、義貞ニ申充ケリ、何ナル明主モ讒臣ノ計申事ハ昔モ今モ叶ヌ事ニテ、尊氏上洛セハ道ニテ可打由ヲ義貞ニ仰ス」と記す。護良臣下が義貞を招き、(1)尊氏に与えられた上野国はもともとは義貞に与えられたものだ、(2)尊氏が鎌倉を発ち上洛に向かおうとしたら途中で討つように、(3)左中将にもしよう、との趣旨を言ったという。「左中将」任官は翌年二月であるが、(1)は義貞が心を動かされそうな言説である。この護良臣下は特定できないが、四条隆資・隆貞父子と想像できる。隆貞は護良親王令旨の奉者となっていることが多く、隆資には義貞は延元元年五月に鵤荘の件で書状を送り、問題処理を委ねている。また湊川合戦(延元元年五月)以後では後醍醐方軍のなかに四条隆資軍が見えて、義貞と共同戦線を張っている。義貞と四条隆資は近しい関係と見られるのであり、四条父子が義貞を、尊氏討伐の先鋒に引き出すことは十分に考えられる。
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『保暦間記』の当該記事は文意が取りにくいところがありますが、「故兵部卿親王ノ御方臣下」の誰かが「尊氏謀叛ノ志有ル由」の讒言を新田義貞に伝え、新田義貞がその讒言を後醍醐に言上し、「明主」の後醍醐は「讒臣」の陰謀に乗って義貞に「尊氏上洛セハ道ニテ可打由」命じた、ということのようですね。
山本氏はこの記述を信頼して、「この護良臣下は特定できないが、四条隆資・隆貞父子と想像できる」とされますが、隆資はともかく、隆貞はちょっと無理ですね。
というのは、護良親王の側近であった隆貞は、建武二年(1335)時点では存命していない可能性が高いからです。
四条隆資とその息子たちの動向について、諸史料を博捜された平田俊春氏の「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』所収、錦正社、1994)によれば、

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 さて、隆資の子隆貞は北條氏討伐に際し、大塔宮を扶けて目ざましい功があつたが、中興なつてのちも、親王に仕え、元弘三年六月十六日本願寺に、九月二日および十月三日久米田寺・和田助家、並に和泉目代に発した奉書が存している。しかし、そののちの消息は全く見えない。大塔宮は中興後、足利尊氏の野心を看破し、しばしばその討伐をはかつてならず、ついにその謀略にかかり、建武元年十二月関東に流された。それとともに、親王祗候の人々も多く捕えられて誅されたことが『太平記』に、「此二三年、宮ニ附副奉リテ忠ヲ致シ賞ヲ待御内ノ候人三十余人潜ニ是ヲ誅セラル」と見えているが、『尊卑分脈』日野資朝の弟浄俊の條に、「律師、祗候大塔宮、建武元十二月被誅了」とあることは、これを証するものである。隆貞は親王に仕えた人々の中で、最も親近されていたのであるから、同様にこの際殺されたのであろう。『尊卑分脈』に、隆資の子隆童について「左少将、従四上、兵部卿親王祗候、打死」とあり、『断絶諸家略伝』には隆資の子隆重について「左少将、従四下、候兵部卿親王打死」とある。兵部卿親王とは大塔宮が中興後、兵部卿に任ぜられたので、このように称するのであるが、隆資の子に隆童または隆重の名は記録に出ていず、ことに兵部卿親王に祗候とあることから、これは隆貞の誤りであることは明瞭であり、「打死」とあればあるいは親王が捕われた際に浄俊とともに、これを防ごうとして打死したものかと思われる。北条氏討伐における活動を顧みると、隆貞は大塔宮とともに、建武中興において最も痛ましい運命をたどつた人であつた。

http://web.archive.org/web/20130212213433/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-toshiharu-sijotakasuke.htm

とのことで(p208以下)、隆貞の死の正確な日時はともかく、建武元年(1334)に誅されてしまった、との結論は動かないだろうと思います。
四条隆資は存命ですが、山本氏が指摘される事実関係を見る限り、二人が公的な立場を超えて私的に特別親しい関係であったことを示すものはなさそうです。
なお、私は『保暦間記』がどこまで信頼できるかについてはかなり懐疑的で、本件記事においても、例えば「上野国ハ尊氏分国也、義貞ニ申充ケリ」とありますが、建武政権下で義貞は上野国の国司(成良親王が「守」で、義貞は大介の立場ではあるものの、上野国宣を発給。p151)なので、この書き方は奇妙ですね。
そして、山本氏が「(1)尊氏に与えられた上野国はもともとは義貞に与えられたものだ」、「(1)は義貞が心を動かされそうな言説である」とされるのは二重に奇妙です。
また、後醍醐が「尊氏上洛セハ道ニテ可打由」を義貞に命じたという話は有名ですが、別に尊氏が一人で上洛するはずもなく、普段から大軍団に囲まれて移動する訳ですし、まして新田との緊張関係にあるこの時期、新田相手に油断するはずもないことは客観的に明らかですから、後醍醐がそんなことを命じたとは思えません。
まあ、この話は創作だろうと私は考えます。
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「支離滅裂」なのは後醍醐ではないか。(その4)

2021-08-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月26日(木)13時26分7秒

ということで『太平記』の新田義貞奏状を読み直してみると、まあ、直義による護良親王殺害以外は言いがかりですね。
まず、総論には、

-------
この時、尊氏、東夷の命に随ひ、族を尽くして上洛す。潜〔ひそ〕かに官軍の勝〔かつ〕に乗るを看て、死を免れん意〔こころ〕有り。然れども、猶心を一偏に決〔さだ〕めず、運を両端に相窺ふの処、名越尾張守高家、戦場に於て命を墜〔お〕としし後、始めて義卒に与〔くみ〕して、丹州に軍〔いくさ〕す。天誅命を革〔あらた〕むるの日、兀〔たちま〕ち鷸蚌〔いっぽう〕の弊〔つい〕えに乗じて、快く狼狽が行を為す。若〔も〕し夫〔そ〕れ義旗〔ぎき〕京を約〔つづ〕め、高家死を致すに非ずんば、尊氏、独り斧鉞〔ふえつ〕を把〔と〕つて強敵〔ごうてき〕に当たらんや。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/764f11e9a737d8e3ffce3715aaf34543

とありますが、尊氏が名越高家の討死を聞いて、やっと最終的に討幕を決意した、というのは『太平記』の創作だと私は考えます。
次いで八つの罪を論じる各論に入ると、第一・第二・第三の罪には、その前提となる事実関係に史実と適合しない脚色が多々含まれています。

「両家奏状の事」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3f8769a52a001e9447e5772b56f94fe

第四の罪は尊氏に成良親王への「僭上無礼」があったとの主張ですが、具体的事実の指摘はなく、そもそも鎌倉将軍府のお飾り的な存在である成良親王への「僭上無礼」自体が分かりにくい話で、単なる言いがかりです。
第五の罪は、

-------
前亡〔せんぼう〕の余党、纔〔わず〕かに存つて、蟷螂の怒りを揚ぐる日、尊氏、東八箇国の管領を申し賜り、以往〔いおう〕の勅裁を叙用せず、寇〔あた〕を養ひて恩沢を堅め、民を害して利欲を事とす。違勅悖政〔はいせい〕の逆行〔げきこう〕、これより甚だしきは無し。その罪五つ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcb2d4aef0659d140681ac911d464ae8

とのことですが、「東八箇国の管領」とは具体的には尊氏が独自の判断で恩賞を与えることができる権限であり、合戦の実情に適合した極めて合理的な権限であって、いったんこれを許可する「勅裁」があった以上、個々の恩賞付与に多少の偏頗があろうとも、それは尊氏に与えられた権限の正当な行使であって、「違勅」ではありません。
従って、これも単なる言いがかりです。
第六・第七・第八はいずれも護良親王関係で、第六は護良親王を「流刑に陥れ」たこと自体が尊氏の讒言によるものだとするものですが、護良の逮捕・流刑は後醍醐の正式な決定に基づくものであって、尊氏が「讒臣」ならば、後醍醐は「讒臣」を信頼した愚帝ということになります。
ま、これも言いがかりですね。
第七は、要するに護良親王を牢獄に監禁したのがけしからん、というだけの話ですが、流刑にした以上、牢獄に閉じ込めるのは当然です。
なお、『太平記』には「二階堂谷に土の獄を掘つて、置きまゐらせける」(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p278)とありますが、実際上、手間暇かけてそんな面倒なことをするとは思えず、これは明らかに『太平記』の創作ですね。
ということで、結局のところ、罪の名に値するのは第八の、

--------
直義朝臣、相摸次郎時行が軍旅に劫〔おびや〕かされて、戦はずして鎌倉を退きし時、竊〔ひそ〕かに使者を遣はして、兵部卿親王を誅し奉る。その意〔こころ〕、偏へに将に国家を傾けんとするの端〔はし〕に在り。この事隠れて、未だ叡聞に達せずと雖も、世の知る所、遍界〔へんかい〕蓋〔なん〕ぞ蔵〔かく〕れん。大逆無道の甚だしきこと、千古未だ此の類を聞かず。その罪八つ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae712c1ba858d2428a14c12571ed16e5

だけですね。
護良親王の流刑と監禁は後醍醐の「勅裁」の範囲内ですが、殺害は命じられておらず、こればっかりは明確に「違勅」です。
逆に言えば、尊氏の罪を問おうとしても説得力のある説明は不可能で、結局は直義の護良親王殺害の罪に連座させる以外になかった訳ですね。
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「支離滅裂」なのは後醍醐ではないか。(その3)

2021-08-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月26日(木)11時58分2秒

佐藤進一氏が言及された「敗残者であるはずの尊氏は「降参人の分際で何をいうか」と怒って、謁見を拒んだ事実」(『南北朝の動乱』、p121)については、現在では佐藤氏の『園太暦』解釈の誤りに起因する誤解はないか、とされる亀田俊和氏の見解(『観応の擾乱』、p116)が有力ですが、これ以外にも尊氏には周囲を困惑させた多数のエピソードがあります。
しかし、『臥雲日件録抜尤』の「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」という記事の信憑性を検討してみた結果、私は尊氏には「無私」を基軸とした尊氏なりの明確で一貫した理念と独自の価値観があって、ただ、それが他人とはちょっとずれていたために、周囲からは「変人」と思われることが多かっただけではないか、と考えます。

四月初めの中間整理(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1051df1b192c3b72790a7e12ff1f223

他方、後醍醐の場合、とにかく自分は正しいのだ、という信念については不動の一貫性があるものの、「三種の神器」を廻る騒動に典型的なように、前後で矛盾する行動を取る常習犯であり、約束を平気で破る面の皮の厚さは常人の理解を超えています。
こうした二人の人間性に鑑みれば、後醍醐と尊氏の対立のそもそもの発端は後醍醐側にあったに違いないと考えて、その具体的な原因を探ってみたところ、「東八ヶ国の管領」問題に突き当たった、というのが私の思考過程です。
さて、以上を前提に『太平記』を読み直してみると、『太平記』は本当に新田義貞を好意的に描いているな、と改めて感じます。
第十四巻第一節「足利殿と新田殿と確執の事」は既に紹介ずみですが、

-------
 足利宰相尊氏、討手の大将を承つて関東に下りし後、相摸次郎時行度々〔どど〕の合戦に打ち負けて、関東程なく静謐しければ、御勅約の上は何の相違かあるべきとて、未だ宣旨も成し下されざるに、その門下の人は、足利征夷将軍とぞ申しける。就中〔なかんずく〕、東八ヶ国の管領は勅許ありし事なればとて、今度箱根、相模川にて合戦に忠ありつる輩〔ともがら〕に、恩賞を行はれけるに、武蔵、相模、上総、下野に新田の一族どもが先立つて拝領したりける所々を、皆闕所〔けっしょ〕になして、悉く給人を付けらる。
 義貞朝臣、これを聞いて、安からぬ事に思はれければ、その替はりに、越後、上野、駿河、播磨国に足利の一族の知行せらるる庄園を押さへて、家人どもに預けられける。これによつて、新田、足利の中悪〔あ〕しくなつて、国々の確執休む時なし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f87168ccbf5066a169cbd3e34298f401

とあって(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p345以下)、最初に尊氏が義貞の権益を侵害し、義貞がこれに反撃した、という順番です。
しかし、史実としてはどうなのか。
この点、足利と新田のどちらが最初に仕掛けたかを示唆する一次史料は存在しないようですが、状況からみて、私はやはり新田の側ではないかと推測します。
『梅松論』によれば、元弘三年(1333)五月、極めて短期間に鎌倉を落とした英雄・新田義貞に対し、尊氏が派遣した細川和氏・頼春・師氏の三兄弟は相当強引な折衝をしたようで、

-------
 さても関東誅伐の事は義貞朝臣その功をなす所に、いかがありけむ、義詮の御所四歳の御時、大将として御輿に召されて、義貞と御同道にて関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座ありしに、諸将悉く四歳の若君に属し奉りしこそ目出度けれ。これ実に将軍にて永々万年御座あるべき瑞相とぞ人申しける。
 ここに京都よりは細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部介兄弟三人、関東追討の為に差下さるる所に、路次において「関東はや滅亡のよし」聞え有りけれども、猶々下向せらる。
 かくて若君を補佐し奉るといへども鎌倉中連日空騒ぎして世上穏やかならざる間、和氏・頼春・師氏兄弟三人、義貞の宿所に向ひて、事の子細を問尋ねて、勝負を決せんとせられけるに依りて、義貞野心を存ぜざるよし起請文を以て陳じ申されし間静謐す。その後一族悉く上洛ありける。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とのことですから、足利の圧力に負けて鎌倉を逃げ出した義貞は大変な屈辱を覚え、この恨みを晴らす機会を執念深く待っていたはずです。
『太平記』でも、上記引用部分に続けて、

-------
 その根元〔こんげん〕何事ぞと聞くに、去んぬる元弘の初め、義貞、鎌倉を攻め平〔たい〕らげて、その功諸人に勝れたりしかば、東国の武士は、悉くわが吹挙の下より立つべしと思はれける処に、足利宰相中将義詮、(その比)千寿丸とて三歳になり給ひしが、軍〔いくさ〕散じて後、六月、下野国より立ち帰つて鎌倉にぞおはしける。父尊氏卿、京都にして忠賞他に異なりと聞こえければ、その方ざまの大将に属〔しょく〕したらんずる者の、たやすく上聞〔しょうぶん〕に達して、恩賞をも給はらんずると思ひけるにや、ただ今まで義貞に付きたりける東八ヶ国の兵ども、次第に心替はりして、大半は義詮の手にぞ属しける。
 義貞、これを憤つて、すでに鎌倉にて合戦を致さんとせられけるが、上聞を憚つて黙〔もだ〕せらる。これより、新田、足利、一家の好〔よし〕みを忘れ、怨敵の思ひをなして、次〔つい〕であらば互ひに亡ぼさんずる企てを心中に挿〔さしはさ〕みけるが、事すでにはたして、早や天下の乱となりにけり。
-------

とあり、「新田殿と足利殿の確執」の「根源」は義貞が鎌倉を追放されたことですから、その「怨敵の思ひ」は加害者である足利よりも被害者である新田の方が強く、足利家の分裂を見た新田の方から仕掛けたと考えるのが自然だと思われます。
ただ、両者の私的な感情的対立はともかくとして、それを後醍醐率いる朝廷と「朝敵」足利との間の公的な戦争にするためにはそれなりの理由付けが必要ですが、これを探るヒントとなるのが新田義貞奏状ですね。
私は新田義貞奏状を『太平記』作者の創作と考えますが、対足利戦争の正当化のためには、これ以上の理屈はなさそうです。
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Re:太平記の真実について

2021-08-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月26日(木)09時15分43秒

>勝陽軍鑑さん
こんにちは。
拝見しましたが、あまりに大量の情報が詰め込まれているので、若干困惑しました。
いったん、ご自分の見解をまとめたホームページなりブログなりを作って、そこでご自身の見解への反応を探ってみたらいかがでしょうか。
とりあえず気になった点としては、用語に関しては、例えば「幕府大将(近衛大将)」といった表現があります。
「近衛大将」は分かりますが、「幕府大将」と聞いて理解できる人はいないと思います。
こういう独自の、唐突な表現があると、従来の研究を尊重しない人だな、と思われてしまうので、注意した方が良いと思います。
また、「建武元年に南禅寺に再入した夢窓疎石は法座で今上の聖躬と皇太子の尊躬を祈ってい」て、この皇太子が護良親王ではないか、とのことですが、諸記録では恒良親王が建武元年(1334)正月二十三日に皇太子となったと記されており、これを疑う理由は特にないと私は考えます。
本当に護良親王説を主張されるのであれば、相当な論証が必要であり、それは実際上無理ではないかと私には思えます。
「太平記の作者が藤房」との点も同様で、私にはこれは小説の世界でしか書けない話のように思えます。
それと、『太平記』を「あまり良い資料とは考えて」いないのは私だけでなく、ほぼ全ての歴史研究者の共通認識です。
『太平記』はあまりに創作的要素が強いので、古文書等に較べれば信頼性は著しく低いと言わざるをえません。
ただ、『太平記』は全くの虚構世界を作り出しているのではなく、例えば足利高氏が後醍醐から「尊」字をもらって「尊氏」と改名したという確実な史実を、元弘三年八月五日ではなく建武二年八月二日に二年間ずらしているように、歴史的事実を実際の歴史の流れからいったんバラバラにして適当に組み合わせる傾向が強いので、個々の記述を見ると相当なリアリティを感じさせる部分も多い作品です。
そこで、一定の学問的水準を維持しつつ『太平記』を論ずるためには、『太平記』とは何か、その作者・成立年代・制作目的等について、ご自身の見解を明確にした上で、一貫した方針で『太平記』を論じて行く必要があると思います。
私自身は、過去一年間、数百の投稿を通じて、一応は私の方針を明らかにしているつもりです。
別に私のやり方を真似した方がよいとは言いませんが、「歴史研究については全くの素人」と自認されておられる以上、他人に自説を読んでもらうためには基礎的な努力が必要で、それにはやはりご自身でネット上に何らかの拠点を作られるのが良いと思います。

※勝陽軍鑑さんの下記投稿へのレスです。
「太平記の真実について 」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10833
「勝陽軍鑑の太平記に関するスタンスについて 」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10834
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「支離滅裂」なのは後醍醐ではないか。(その2)

2021-08-24 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月24日(火)10時43分42秒

中先代の乱以降、確かに尊氏の態度は理解しにくく、『太平記』や『梅松論』を通読していると「支離滅裂」のようにも見えるのですが、しかし、この時期には尊氏以外にも理解しにくい人が大勢います。
例えば直義も、中先代の乱では初戦で次から次へとボロ負けして鎌倉を逃げ出し、尊氏の救援を得てやっと鎌倉に戻れたのだから、偉大な兄に頭が上がらない立場で、ちょっとバツが悪いな、などと思いつつ、暫くは大人しくしていそうなものです。
しかし、直義は、あまり時間を置かずに尊氏に反抗し、一門・家臣を反後醍醐にまとめ上げます。
尊氏が凱旋将軍として鎌倉に戻った僅か二ヶ月ちょっと後には、当主ではない直義が新田義貞討伐の軍勢催促状を大量に発給し、尊氏を差し置いて、まるで自分が足利家の当主なのだ、と言わんばかりに振舞い、更に尊氏を出家騒動にまで追い詰めて行くことになります。
いったい足利家に何が起きたのか。
尊氏は何故に足利家内で孤立し、奇妙な、いわば自発的「主君押し込め」状態になってしまったのか。
その原因を探ってみると、これは尊氏自身に何らかの落ち度があったからではなく、尊氏以外の誰かに足利家関係者にとって絶対に許せない背信行為があって、足利家関係者はみんな激怒、しかし尊氏はその誰かと密接に結びついていたために足利氏関係者の総意を汲んだ強い態度に出られず、結局、あんな人間に追随、ないし妥協する尊氏には従えない、ということになってしまったのではないか。
その誰かとは、もちろん後醍醐ですね。
こう考えると、凱旋将軍尊氏の急激な権威失墜と、直義の地位の急激な上昇がうまく説明できるように思います。
直義にしてみれば、別にずっと前から鎌倉幕府並みの武家政権の再興を虎視眈々と狙っていた訳ではなく、後醍醐の背信行為、即ちいったん約束した尊氏の恩賞付与権限を勝手に剥奪したことを見て、後醍醐には武家社会が全く理解できていない、やっぱり公武一統路線は駄目だ、自主独立の武家政権を樹立しなければならないと決意し、それに殆どの一門・家臣が賛同した、ということではないかと私は考えます。
他方、京都では新田義貞が二年前に鎌倉を追い出された恨みを忘れず、こちらは虎視眈々と足利家への反撃の機会を狙っていたところ、中先代の乱という素晴らしい出来事が起きます。
この乱自体はあっさり終わってしまったものの、後醍醐の軽率な行為により足利家に激震が走り、足利家はごく少数の尊氏派と圧倒的多数の直義派に分裂します。
しめしめ、足利家が分裂した今こそ絶好の復讐の機会だな、と見た義貞は、小さな火種を大きな火事に持って行く方法を様々に検討します。
そして、そこで上手く利用できそうに思えたのが直義による護良親王殺害の情報ですね。
子沢山の後醍醐にとって、護良親王も多くのコマの一つであり、建武元年(1334)十月に逮捕して翌月鎌倉に流したことにより、既にどうでもよい存在になっていたはずです。
もともと自分の軽率な行為が足利家との軋轢を生んだとしても、後醍醐は究極の自己中心的人間なので、約一年後、比叡山で堀口貞満が怒り狂って諫言したような特殊な場合以外は、絶対に自分の非は認めません。

「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4a2a2341d0681da234ee543b697d5a51
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92e2b2d6e03135e2b9912a49fe29f4fb

自分は絶対に正しいという不動の信念を持つ後醍醐は自分の命令を素直に聞かない尊氏に腹を立てますが、しかし尊氏はあくまで自分に忠誠を誓っていて謀叛の意志など欠片もなく、尊氏を非難しようにも説得力のある理由が見当たりません。
後醍醐が、何か良い理由がないかな、と思っていたところ、野心と下心に満ち満ちた義貞が直義の護良親王殺害の情報を持ってきます。
歴代天皇の中でも陰謀家・詐欺師としての才能においては傑出していた後醍醐は、護良のことなど殆ど忘れかけていたにもかかわらず、これは利用できるな、と喜びます。
生きた護良には利用価値が無くとも、死んだ護良に無限の利用価値が生まれた瞬間ですね。
中先代の乱に際して護良が殺害されただけだったら、まあ、あれだけの混乱だったのだから、そういうこともあるよね、で済んでしまったかもしれませんが、足利・新田の確執の中で、歴史的事実として護良の死が重要な問題として浮上し、そしてそれが『太平記』の中で更に大幅に増幅されて、ものすごい重大事件に発展してしまう訳ですね。
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「支離滅裂」なのは後醍醐ではないか。(その1)

2021-08-23 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月23日(月)15時23分39秒

佐藤進一氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において、中先代の乱以降の尊氏の動向を論ずる中で「人間尊氏」の「行動の複雑性」(p119)に困惑され、尊氏の「常識をこえた行動」について次のように書かれています。(p121)

-------
 もう一つ注目すべき点は、常識をもってはかりがたいかれのいくつかの行動である。もっとも顕著な例をあげれば、のち(一三五一年)のことだが、弟直義と争って、戦いに敗れた尊氏が、和睦ということで、ようやく体面を保つことができた際に、直義側の武将細川顕氏が拝謁を望んだところ、敗残者であるはずの尊氏は「降参人の分際で何をいうか」と怒って、謁見を拒んだ事実がある。負けていながら、勝ったと思い込んでいるふしがある。
 こんなことをいろいろ並べて考えてみると、尊氏は性格学でいう躁鬱質、それも躁状態をおもに示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。かれの父貞氏に発狂の病歴があり、祖父家時は天下をとれないことを嘆いて自殺したという伝えがあり、そのほかにも先祖に変死者が出ている。子孫の中にも、曾孫の義教を筆頭に、異常性格もしくはそれに近い人間がいく人か出る。尊氏の性格は、このような異常な血統と無関係ではないだろう。
-------

また、細川重男氏も「足利尊氏は建武政権に不満だったのか?」(『南朝研究の最前線』、洋泉社、2016)において、尊氏を「支離滅裂」と評されています。

「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824

しかし、尊氏ではなく後醍醐が「支離滅裂」なのではなかろうかと想像してみると、従来謎とされていた中先代の乱後の尊氏の行動がそれなりに合理的に説明できるのではないか、と私は考えます。
出発点として、『太平記』に描かれた関東下向の際の尊氏の二つの要求のうち、「東八ヶ国の管領」は史実であったと仮定してみます。
これは具体的には「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限なので、征夷大将軍任官とは対照的に、戦争の実態に適合した極めて合理的な要求ですね。
そして、「征東将軍」尊氏が、いつもらえるか分からない恩賞の約束を後醍醐に取り次ぐ仲介役ではなく、自身で迅速に恩賞付与できる新しい権限を得たからこそ、足利一門と家臣、従来からの味方、そして日和見を決め込んでいた連中も大いに奮起し、中先代の乱が短期間に平定できたとします。
しかし、中先代の乱が意外にあっさり終わってしまったのを見て、後醍醐が尊氏に恩賞付与権限を与えたことを後悔するようになった、と仮定を重ねてみます。
即ち、この権限付与は「天下治乱の端なれば」、自分も「よくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許」してしまったことだなあ、と反省した後醍醐は、中院具光を勅使として、「お前を従二位にしたよ」という手土産を持たせた上で、尊氏に与えた許可を撤回し、やっぱり恩賞は自分が決めるのだ、と言ったとします。
食言であり、「支離滅裂」な行動ですが、後に北朝に渡した三種の神器は偽物だと言ったり、恒良親王に皇位を譲ったと称したような行動に較べれば、「支離滅裂」の程度もそれほどではなく、後醍醐にしてみれば通常運転だったかもしれません。
さて、このように言われた尊氏としては、はいそうですか、と了解する訳には行きません。
自分に恩賞付与権限があるから一門・家臣、そして味方はみんな頑張ったのに、今さら自分にはそんな権限はないということになったら尊氏は詐欺師扱いされてしまい、足利家当主としての権威は失墜します。
そこで尊氏としては、一旦与えた権限の勝手な撤回などできない、という当然の事理を中院具光に主張することになりますが、具光も後醍醐の勅使である以上、尊氏卿のお考えはもっともです、納得しました、とは言えません。
そこで、尊氏としては、おそらく自分の主張を奏状に認め、具光に持たせてやるような対応を取ることになったはずです。
こうして『太平記』と『梅松論』に一応の手がかりがあるいくつかの仮定を重ねてみると、九月二十七日の恩賞付与は、尊氏から見れば後醍醐の委任の範囲内の行為であり、後醍醐から見れば越権行為、という状況が生まれることになります。
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尊氏関東下向記事についての『太平記』と『梅松論』の比較

2021-08-23 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月23日(月)11時50分43秒

建武二年(1335)八月二日、尊氏が関東に下向した際に征夷大将軍を望んだという『太平記』の記述に関しては、昨年の十二月頃、相当しつこく検討しましたが、「東八ヶ国管領」は未検討のままで、『太平記』の原文もきちんと紹介していませんでした。

四月初めの中間整理(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c

そこで、改めて原文を紹介した上で、『梅松論』の記事と比較しておきたいと思います。
『太平記』第十三巻第七節「足利殿東国下向の事」の冒頭から少し引用します。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p333以下)
なお、流布本でも内容は殆ど同じです。

-------
 直義朝臣、鎌倉を落ちて上洛せられけるが、駿河国入江庄は、海道第一の難所なり。相摸次郎が与党の者ども、もし道を塞〔ふさ〕がんずらんと、士卒皆これを危ぶめり。これによつて、その所の地頭入江左衛門春倫〔はるとも〕がもとへ、使者を遣はされて、憑〔たの〕むべき由を宣ひたりければ、春倫が一族どもに、関東再興の時刻到りぬと料簡しける者どもは、「ただ左馬頭を討ち奉つて、相模次郎殿に馳せ参らん」と申しけるを、春倫、つくづくと思案して、「天下の落居は、愚蒙のわれらが知るべき処にあらず。ただ義の向かふ処を思ふに、入江庄は、もと得宗領にてありしを、朝恩に下し給はつて、この二、三年が間、一家を顧みること皆日来〔ひごろ〕に勝れたり。これ天恩の上になほ重きを重ねたり。この時、いかが傾敗の弊〔つい〕えに乗じて、不義の振る舞ひを致しなん」とて、春倫、御迎ひに参じければ、直義朝臣、斜めならず悦びて、やがてかれらを召し具し、矢矧の宿に陣を取つて、ここに暫く汗馬を休め、京都へ早馬をぞ立てられける。
-------

西源院本では、入江春倫はこの場面だけに登場する人物です。
この時、直義の命運は入江春倫が握っていた訳で、直義の人生の中でも最大級のピンチですね。
このピンチを何とか乗り切った直義が京都へ早馬を送ると、尊氏が直ぐに救援に駆けつけてくれるかと思いきや、『太平記』では、先ず諸卿の会議で尊氏派遣が決まり、それを勅使が尊氏に伝えに行ったところ、尊氏は二つの条件を付け、それが受諾できないのなら他人を派遣してくれ、と返答するとの展開となります。

-------
 これによつて、諸卿議奏〔ぎそう〕ありて、急ぎ足利宰相尊氏を、討手に下さるべきに定まりにけり。則ち勅使を以て、この由を仰せ下されければ、相公、勅使に対して申されけるは、「去んぬる元弘の乱の始め、高氏、御方〔みかた〕に参ぜしによつて、天下の士卒皆官軍に属して、勝つ事を一時〔いっし〕に決し候ひき。しかれば、今一統の御代〔みよ〕、ひとへに尊氏が武功とも云ひつべし。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩〔ともがら〕、功によつてその位に居する例、勝計〔しょうけい〕すべからず。この一事、殊に朝のため、家のため、望み深き所なり。次には、乱を鎮めて治を致す謀り事、士卒功ある時、即時に賞を行ふに如〔し〕く事なし。もし注進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達〔きょたつ〕道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず。しかれば、暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下されば、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候。もしこの両条勅許を蒙らずは、関東征罰の事、他人に仰せ付けらるべし」とぞ申されたる。
-------

直義が早馬で救援を依頼してきた割には尊氏はずいぶんのんびりしていて、出立を自ら申し出ることなく、公卿の会議を経て尊氏発遣を決定した旨を伝える後醍醐の勅使に対し、二つの条件を付けます。
その第一は征夷大将軍任官で、「そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩、功によつてその位に居する例」云々とのもったいぶった口上が添えられています。
次いで第二は「東八ヶ国の管領」で、こちらは第一の要求と異なり、当時の合戦の実態に即した極めて合理的な要求ですね。
そして、もしもこの二つの条件が呑めないのだったら、関東征伐はどうぞ別の人に命じてください、とのことですから、まるで相手の弱みにつけ込む強請りのような言い草です。
この尊氏の条件に対し、

-------
 この両条は天下治乱の端〔はし〕なれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて、「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」とて、則ち綸旨をぞなされける。これのみならず、忝なくも天子の御諱の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞなされける。
-------

とのことで(p335)、後醍醐は「東八ヶ国の管領」を簡単に認めてしまいますが、『太平記』の作者はこの後醍醐の対応について、「君もよくよく御思案あるべかりけるを」と厳しい批評を加えています。
なお、足利「高氏」が後醍醐から「尊」字をもらって「尊氏」に改名したのは、史実では二年前、元弘三年(1333)八月五日のことで、これはこの場面全般についての信頼性に疑問を抱かせる記述ですね。
以上で第七節は終わり、第八節「相模次郎時行滅亡の事、付 道誉抜懸け敵陣を破る 并 相模川を渡る事」に入ると、その冒頭に、駄目押しのように、

-------
 尊氏卿の東八ヶ国の管領の所望、たやすく道行きて、「将軍の事は、今度の功に依るべし」と、勅約ありてければ、(時日を廻らさず、関東へ下向せられける。
-------

との一文があります。(p335)
さて、『梅松論』の記述はどうかというと、これは『太平記』とは全く異なります。
『大日本史料 第六編之二』より引用すると、

-------
〔梅松論〕<〇前文七月二十二日ノ条ニ収ム> 扨関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依て、将軍<〇尊氏ヲ指ス、>御奏聞有けるは、関東にをいて、凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも、勅許なき間、所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て、八月二日京を御出立あり、此比公家を背奉る人々、其数をしらす有しか、皆喜悦の眉をひらきて、御供申けり、三河の矢作<〇三河碧海郡>に御著有て、京都鎌倉の両大将御対面あり、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714

とのことで、こちらは直義の危急を聞いた尊氏が、何の条件も付けることなく「いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも」、勅許が得られなかったので、「所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て」直義救援に向かった、という展開です。
『太平記』と『梅松論』の記述のどちらが正しいのかというと、『大日本史料 第六編之二』では西源院本とほぼ同一内容の流布本を引用しつつ、「東八ヶ国の管領」について、

-------
〇梅松論に拠るに、中院具光を鎌倉に遣りて、旨を尊氏に伝へしめられし時、軍兵の賞は、京都に於て綸旨を以て宛行ふべしとあれば、是時御委任なきこと知るべし。十月十五日の条参看すべし、
-------

とあって(p525)、『梅松論』が正しいとの判断がなされ、以後、これが歴史研究者の共通理解ですね。
ただ、『太平記』と『梅松論』の八月二日の記事に矛盾があって『梅松論』の方が信頼できるとされたのではなく、『梅松論』の後日の記事に基づいて『太平記』の八月二日の記述が否定されていることに留意すべきだと私は考えます。
また、『太平記』の八月二日の記事が全面的に否定されている訳ではなくて、尊氏が征夷大将軍を要求したとの点については史実とするのが従来の通説、というか歴史研究者の共通理解ですね。
こちらは『神皇正統記』に尊氏が「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと、征東将軍<〇印本征夷ニ作レルハ誤レリ、>になされて、ことことくはゆるされず」とあることが影響しているのだと思われます。
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亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その2)

2021-08-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月22日(日)11時23分58秒

続きです。(p180以下)

-------
 だが尊氏は、後醍醐の帰京命令を無視し、旧鎌倉幕府将軍邸跡に移住し、後醍醐に無断で恩賞充行袖判下文を発給し始めるなどした。これは尊氏にしてみれば、時行の残党を掃討するために必要不可欠な措置であったと筆者は推定している。事実、時行残党討伐を行なっていたことを裏づける史料も残るし、充行の袖判下文は陸奥将軍府の北畠顕家も同時期に大量に発給している。後醍醐に信頼されている自分なら、事後承諾してもらえると尊氏は考えていたのではないだろうか。
 だが結局、後醍醐は尊氏の行為を謀叛と判断し、十一月十九日に新田義貞を大将とする討伐軍を出陣させた。これに衝撃を受けた尊氏は家督を直義に譲り、浄光明寺に引きこもってしまった。これは古来より不可解とされ、ついには躁鬱病説まで出されたが、主君として心底から慕っていた後醍醐に誤解されて朝敵認定され、恭順の意志を示しただけであろう。
 しかし、直義の迎撃軍が義貞軍に連敗し箱根まで後退したのを見て、ついに尊氏は挙兵した。天皇か弟かの究極の選択で、弟を選んだのである。十二月十一日、箱根・竹ノ下の戦いで義貞軍を撃破した尊氏は東海道を西へ攻め上り、翌建武三年正月に京都を占領した。だが、奥州から陸奥国司北畠顕家の援軍が到着したことで形勢は逆転し、破れて西国へ敗走した。
-------

北条時行を鎌倉から追い出しただけで関東に静謐がもたらされたはずがなく、軍事的な緊張状態はなお継続し、時行残党による反撃は当然に予想されていた訳ですね。
従って、九月二十七日の恩賞給付は、私も「時行の残党を掃討するために必要不可欠な措置であった」と思います。
この点、森茂暁氏は「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」などと言われる訳ですが、もともと陸奥将軍府と鎌倉将軍府の権限には大きな違いがあって、北畠顕家は朝廷にいちいち伺いを立てることなく、独自に恩賞給付をどんどんやっていた訳ですから、尊氏が恩賞給付を始めたことは、尊氏が北畠顕家と同じ程度の立場に立っただけ、とも言えます。
ただ、亀田氏は尊氏の恩賞給付が越権行為であったとする点は従来の学説を維持され、「後醍醐に信頼されている自分なら、事後承諾してもらえると尊氏は考えていたのではないだろうか」とされる訳ですが、本当に越権行為だったのか。
そもそも『太平記』は八月二日、尊氏は征夷大将軍と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は前者は拒否したものの、後者は許可したという立場です。
史実として、尊氏がこの二つを本当に求めたのか、そして後醍醐が後者を本当に認めたのかは別途問題になりますが、少なくとも『太平記』は、「東八ヶ国の管領」については、尊氏が、

-------
乱を鎮めて治を致す謀り事、士卒功ある時、即時に賞を行ふに如く事なし。もし注進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず。しかれば、暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下されば、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候。
-------

と言上したので後醍醐はこれを認めた(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p334以下)、という立場です。
「乱を鎮めて治を致す」ためには大将が「即時に賞を行ふ」のが一番で、大将にその権限を与えず、注進を経た後にやっと恩賞が決定されるならば、「挙達道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず」となってしまうのだ、だから私に「暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下」して下さい、ということなので、「東八ヶ国の管領」とは、地域的な限定はあるものの、具体的には「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限のことですね。
そして、後醍醐は尊氏にそれを認める「勅裁」を下した訳です。
とすると、尊氏が独自の判断で恩賞を与えたことは後醍醐が与えた権限の範囲内の行為であって、越権行為でも何でもない、ということになりそうです。
この点は、義貞奏状に即して検討したことがあります。

「両家奏状の事」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcb2d4aef0659d140681ac911d464ae8

さて、『太平記』の「東八ヵ国の管領」に関する記述と、『梅松論』の勅使中院具光が「今度東国の逆浪、速に静謐する条、叡感再三なり。但し、軍兵の賞におゐては京都に於て、綸旨をもて宛行るべきなり。先早々に帰洛あるべし」と言ったという記述は整合性が取れるのか。
『太平記』と『梅松論』のいずれも、あるいは一方が虚偽と言ってしまえば話は簡単ですが、作り話が極めて多い『太平記』はともかく、『梅松論』の記述は、以後の展開を考えるとそれなりに史実を反映しているように思えます。
そこで、両者の記述を整合的に捉えようとするならば、時間的変化があった、ということになろうかと思います。
即ち、後醍醐は中先代の乱を鎮めるために、いったんは尊氏に「東八ヶ国の管領」、即ち独自の恩賞給付権を認めたものの、尊氏があっさり乱を平定してしまうと、この許可を勝手に撤回し、中院具光を通じてその旨を尊氏に伝えたのではないか、と私は考えます。
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亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その1)

2021-08-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月22日(日)10時57分49秒

最新の史料も紹介されている森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)を基礎にして、それと対比する形で自分の見解を述べて行こうと思ったのですが、「この武力騒乱が結果的に眠っていた尊氏の武門の棟梁としての統治権的支配権を目覚めさせたといえる」(p88)といった表現に窺われるように、森氏は未だに旧来の佐藤進一説の枠組みの中におられる研究者ですね。
また、森氏は、少なくとも私にはあまり重要と思えない論点にこだわったり、論理的一貫性を欠くように見えたり、その発想の基本的部分が理解しにくかったりして、どうにも私とは相性が良くなさそうです。

「後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/48e121f2f56d2e0f61081b09423540bf

そこで、いったん仕切り直しをして、亀田俊和氏の「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(『南北朝武将列伝 北朝編』所収、戎光祥出版、2021)に基づいて、当該期の大きな流れを掴んだ上で、私見を述べて行きたいと思います。(p179以下)

-------
一進一退の建武の戦乱

 建武二年(一三三五)七月頃、得宗北条高時の遺児時行が信濃国で挙兵し、関東地方に侵入した。中先代の乱である。直義がこれを迎え撃ったが、連戦連敗で時行に鎌倉を占領されてしまった。
 八月二日、尊氏は直義を救うために京都から出陣した。このとき尊氏が征夷大将軍と諸国惣追捕使への任命を希望したことが、武家政権樹立の意向表明とされることがある(実際に任命されたのは征東将軍)。しかし、征夷大将軍は政敵護良親王もかつて自称し、後醍醐に追認された官職である(ただし短期間で解任されている)。尊氏の要求は幕府を開く目的ではなく、単に反乱鎮圧を容易にするための権威付づけを求めたにすぎなかったと筆者は考えている。
 ともかく、三河国矢作宿(愛知県岡崎市)で直義と合流した尊氏は、東海道各地で時行軍を撃破し、十九日に鎌倉を奪回した。この功で、尊氏は従二位に昇進した。また、十月中旬頃に尊氏は、建武二年内裏千首の歌を朝廷に提出している。この時期までは、尊氏と後醍醐の関係はきわめて良好であった。
-------

いったん、ここで切ります。
「尊氏が征夷大将軍と諸国惣追捕使への任命を希望」は『神皇正統記』の記述に基づいていますね。
この点、『太平記』では尊氏は征夷大将軍任官と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は前者は拒否、後者は許可したとしていますが、『梅松論』では尊氏は東下の勅許を求めただけで何も要求していません。
その他、諸史料の尊氏東下に関する記述については、下記投稿で『大日本史料 第六編之二』の記事を引用しています。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714

次いで、「十月中旬頃に尊氏は、建武二年内裏千首の歌を朝廷に提出している」は井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』の、

-------
 ところで、新千載六二六・一七八三によると「建武二年内裏の千首の歌の折しも東に侍りけるに題を給はりて詠みて奉ける歌に、氷 等持院贈左大臣〔尊氏〕」とあり、この千首歌の折に尊氏は関東にいたのである。建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが、仮にこの東下を八月二日以降のものとしたら、この千首もそれ以後に行われた事になる。十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0bf06ecacd790d39d7e14f7740533296

という見解に基づく推論と思われます。
従来、歴史研究者は国文学、というか井上宗雄氏の歌壇史研究の成果をあまり参照して来なかったので、尊氏と後醍醐の関係の分析にこうした視点が取り入れられている点は新鮮ですね。
ただ、尊氏が「建武二年内裏千首」に歌を寄せた時期が「十月中旬頃」かは確実な史料で裏付けられる訳ではなく、井上氏もあまり自信がなさそうな書き方ですね。
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「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)

2021-08-21 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月21日(土)11時27分5秒

新田義貞率いる東征軍が出発した時期について少し検討してみましたが、一番不思議なのは何故に森氏がこんな論点にこだわるのか、ですね。
『太平記』の流布本には「十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる」とあるので、『大日本史料 第六編之二』ではこの当否について一応の検討がなされていますが、十九日が正しいだろうという結論です。
そして、以後、この論点を真剣に論じている研究者はおそらくいないはずです。
この日時のずれが後醍醐・尊氏の関係を考察する上で重大な影響を与えるならともかく、森説においても特にそんなことはないようで、結局、森氏のこだわりの理由は謎ですね。

「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c8b87b0df9444dc6cfaf14304e3d0c

さて、森氏は「尊氏に即してみると、後醍醐の制止をよそに、すでに建武二年九月二七日には勲功の武士に恩賞給付の袖判下文を一斉に発給しながら、なおも後醍醐との決別を意図的に忌避していたことになる」(p110)とされていますが、こちらは森氏の独自説ではなく、佐藤進一氏を始めとして圧倒的な通説です。
ただ、亀田俊和氏が「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(『南北朝武将列伝 北朝編』所収、戎光祥出版、2021)において、「充行の袖判下文は陸奥将軍府の北畠顕家も同時期に大量に発給している」(p180)と指摘されているように、尊氏の権限が北畠顕家と同等になった程度の話ともいえます。
また、亀田氏を含め、従来の研究者は尊氏が後醍醐の命に反して、自己に与えられた権限を越えて恩賞給付を行なったとされる訳ですが、私はこの点にも疑問を抱いています。
そこで、中先代の乱勃発後の尊氏の権限の変化について検討したいと思いますが、私見を述べる前に、まずは森著を少し遡って、関係する文書の内容を確認しておきます。(p87以下)

-------
 さて本論に戻ろう。『梅松論』によれば、尊氏はこの乱を平定すべく同年八月二日に軍勢を率いて京都を立ち、力戦の末、同八月十九日鎌倉を奪回した。この武力騒乱が結果的に眠っていた尊氏の武門の棟梁としての統治権的支配権を目覚めさせたといえる。武士たちの武家政権樹立への期待感はとくに関東で急速に高まりかつ実質化したものと思われる。
 おりしも乱平定後、後醍醐は勅使を派遣して尊氏に帰洛を催促している。『梅松論』によれば、関東に下着した勅使頭中将中院具光は、

  今度東国の逆浪、速に静謐する条、叡感再三なり。但し、軍兵の賞におゐては京都に
  於て、綸旨をもて宛行るべきなり。先早々に帰洛あるべし。

と、つまり「兵乱の早期平定に後醍醐天皇はご満悦であるが、軍兵の恩賞沙汰は京都において天皇の綸旨をもって行うのでこれには関与することなく、まず京都に帰るように」との後醍醐の意向を尊氏に伝えている。要するに、後醍醐は尊氏に対して「恩賞のあてがいをしないように」とクギをさしているのである。
 しかし、封印されていた尊氏の袖判下文発給は、右述のように限定的ではあるが一旦再開され、まもなく全面的に解禁されることになる。それは建武二年九月二七日のことであった。時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう。この日は尊氏にとって生涯の一大転機となった。勲功の武士に対して恩賞地を給付する袖判下文がこの日付で全九点も残存している(「倉持文書」「佐々木文書」等)。尊氏にとっては、のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のときであったとみてよい。おそらく尊氏は中先代の乱で力戦した軍功の武士たちの要求の声に押されて、彼らに対する恩賞給付を行ったのであろう。
-------

「時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう」とあるので、森氏は中院具光の関東下向を九月中・下旬のことと考えられておられる訳ですね。
この点、私も以前に少し検討したことがあり、『大日本史料 第六編之二』では中院具光の下向記事は十月十五日条に置かれているものの、私は九月上旬くらいの出来事だったのでは、と考えていました。
中院具光については、後で再検討したいと思います。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8
「尊氏奏状が十一月十八日到達では遅すぎるか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7d739295be49fa2da42716bb912de7

さて、森氏はこの後、些か奇妙なことを言われます。(p89)

-------
 ここで注意すべきことがある。『太平記巻一三』「足利殿東国下向の事」によると、尊氏は中先代の乱鎮圧のために東下するとき、関東での裁量権について後醍醐と条件交渉をする場面がある。それによると、最終的には征夷将軍の称はお預けになったものの「直ニ軍勢ノ恩賞ヲ取行様ニ」(『太平記』三四七頁)、つまり軍功の将士に恩賞を直接与える権限を獲得することに成功するのである。右で述べた尊氏の袖判下文はこれを踏まえたものであると考えられるから、一方的な越権行為とはいえない。
-------

うーむ。
私は尊氏が八月二日の関東下向時に「後醍醐と条件交渉をする場面」は『太平記』の創作と考えますが、仮にこれが事実であり、しかも尊氏が「軍功の将士に恩賞を直接与える権限を獲得することに成功」していたならば、尊氏による恩賞給付は「一方的な越権行為とはいえない」どころか、尊氏の正当な権限の範囲内の行為であり、全く何の問題もないことになります。
とすると、何故に九月二十七日が「のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のとき」となるのか。
森氏の主張には論理的一貫性がないように思われます。
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「尊氏追討のための義貞関東下向(一一月上旬か)」(by 森茂暁氏)

2021-08-20 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月20日(金)10時11分4秒

続きです。(p110)

-------
 このように、尊氏の勲功賞をあてがう袖判下文の発給(建武二年九月二七日)から尊氏追討のための義貞関東下向(十一月上旬か)までに一ヵ月以上の時間的空白があった。それに加えて、尊氏が後醍醐天皇の綸旨によって追討される身になるのが建武二年一一月二二日、そして勅勘によって解官(直義も同様であったろう)されるのが同年一一月二六日であるから(「足利家官位記」。『公卿補任二』では二七日)、尊氏の軍勢催促状の発給(同年一二月一三日)はそれよりなお以降のこととなる。
 つまり結論的にいうと、鎌倉(足利側)と京都(後醍醐側)の対立は、第一に、中先代の乱鎮定ののち、まず足利直義と新田義貞の間で始まったこと、第二に、直義が義貞追討の目的で発給した建武二年一一月二日付の軍勢催促状をみた後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断して同一一月二二日に追討綸旨を発し、さらに同一一月二六日には勅勘という形で解官したこと、第三に、尊氏はこの段階に至って初めて軍勢催促状を発し、自らの意志で軍事行動を開始したこと、の三段階に整理することができる。
-------

うーむ。
直前に「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」、「となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる」と書かれていた森茂暁氏は、ここで「尊氏追討のための義貞関東下向(十一月上旬か)」と時期を限定されていますが、その理由については特に説明はありません。
まあ、強いて史料的根拠を挙げれば『太平記』の流布本ということになりそうですが、森氏は「『太平記』のテキストとしては基本的に古態本の一つ、鷲尾順敬校訂『西源院本 太平記』(刀江書院、一九三六年六月)を使用した」(p26)との立場なので、流布本に依拠されている訳ではなさそうです。
結局、様々な古文書の発給状況から「十一月上旬か」と判断されたのでしょうが、森氏の考え方に従ったとしても十一月上旬では早すぎるような感じがします。
というのは、森氏は、

直義名義の十一月二日付軍勢催促状が全国各地の武士に送られる。
  ↓
「四国・西国ヨリ、足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書トシテ数十通是ヲ(後醍醐に)進覧」
  ↓
「後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断」
  ↓
後醍醐の指示で新田義貞率いる東征軍が出発

という順番で考えておられますが、直義の軍勢催促状(「足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書」)が「四国・西国」の武士たちに届き、そこから更に京都に送られて後醍醐に「進覧」されるまでの期間を加えると、義貞の出発が十一月上旬というのはあまりに慌ただしい日程です。
具体的に『大日本史料 第六編之二』に掲載されている十一月二日付の直義の軍勢催促状七通を見ると、例えば「広峯文書」のものは「本文、宛名を闕きたれども、本書前後の文書に参照するに、広峯社別当広峯貞長に与へしものなり」とのことです。
当時、鎌倉から京都へ使者を発遣した場合、相当急いでも五日くらいかかったはずなので、播磨の広峯社であれば、連絡に要する時間が鎌倉から六日、広峯社から一日として、後醍醐の許に十一月九日に「進覧」されることになり、直ちに後醍醐が準備万端整えていた新田義貞に出陣を命ずれば翌十日に出発、となってギリギリセーフですが、まあ、いかにも無理が多いですね。
結局、森氏の発想に従ったとしても、やはり十九日くらいが自然であり、西源院本等の十九日説を疑う必要はないと思います。
さて、森氏は「第二に、直義が義貞追討の目的で発給した建武二年一一月二日付の軍勢催促状をみた後醍醐が尊氏に謀叛の意図ありと判断して同一一月二二日に追討綸旨を発し」とされますが、直義名義の文書を見て「尊氏に謀叛の意図ありと判断」するのは論理の飛躍がありそうです。
後醍醐だけでなく、軍勢催促状を受け取った武士たちも、何故に十一月二日付の軍勢催促状が足利家当主の尊氏ではなく直義名義で出されているのか、という疑問を抱いたはずです。
室町幕府成立後の直義の活躍を知っている後世の学者から見れば、「二頭政治」を担った直義が軍勢催促状を発することにそれほどの驚きはありません。
しかし、建武二年(1335)十一月の時点では、同年八月に昇進したばかりの尊氏の官位は従二位、そして役職は参議・鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守という華麗さなのに対し、直義は従四位下、左馬頭・相模守であって、それなりの地位ではあるものの、尊氏に較べれば地味な存在です。
即ち、尊氏が足利家の当主であって、直義とは社会的地位が隔絶した存在であることは天下周知の事実です。
とすると、直義から軍勢催促状をもらった側としては、何故にこの文書は尊氏名義ではないのだろう、足利家にクーデターでも起きて尊氏が当主の地位を奪われたのだろうか、といった疑問を抱いても不思議ではありません。
足利家の内情に通じ、尊氏と直義が全く異なった考え方をしていることを熟知しているごく少数の人々を除けば、この直義の軍勢催促状はかなり不可解な文書ですね。
ま、この点は改めて論ずるとして、森氏の見解をもう少し見ておきます。(p110以下)

-------
 尊氏に即してみると、後醍醐の制止をよそに、すでに建武二年九月二七日には勲功の武士に恩賞給付の袖判下文を一斉に発給しながら、なおも後醍醐との決別を意図的に忌避していたことになる。その間に先行していた直義と義貞との間の軍事的抗争が尊氏の本意にたがう形で急速かつ激烈に展開し、そのあおりをうけた尊氏が勅勘による解官処分を受けたのち、やっと重い腰をあげて反撃の意思を固めた、というのが真相だったのではあるまいか。
 こうしたどちらかというと尊氏と後醍醐の間の緩慢な対応は、双方のこれまでの、特に討幕戦での艱難辛苦を通じて形成された連帯感・信頼感と、それに伴う離反するのは忍びがたいという心情が働いたからではあるまいか。
-------

うーむ。
「その間に先行していた直義と義貞との間の軍事的抗争が尊氏の本意にたがう形で急速かつ激烈に展開」とありますが、どうにも奇妙な書き方ですね。
仮に足利家に尊氏直属軍と直義直属軍が別個独立に存在していて、直義直属軍だけが十一月二十五日から始まる矢矧川合戦に先行して義貞軍と戦闘を開始していたとすれば、こうした書き方も納得できますが、それは仮想戦記の世界ですね。
その他の感想は次の投稿で書きます。
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「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」(by 森茂暁氏)

2021-08-19 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月19日(木)10時53分54秒

私は『太平記』の尊氏奏状は創作で、『神皇正統記』の「義貞を追討すべき奏状を奉る」という記述も不正確であり、尊氏奏状は義貞追討を目的としたものではないと考えますが、こう考えると建武二年十一月以降の各種古文書の発給状況を最も合理的に説明できるのではないかと思っています。
そこで、先ずは関係する古文書の概要について、最新の研究である森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)に即して基礎的事項を確認しておきます。
ただ、一般的な理解では、義貞に率いられた東征軍の京都出発は十一月十九日、実際の戦闘行為は三河矢矧川で十一月二十五日から始まるとされているにもかかわらず、森氏は「はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない」(p109)という立場なので、私にとっては不可解な記述も散見されます。
ま、それは個別に指摘することとして、同書の「第二章 足利尊氏と後醍醐天皇」の「三 建武政権からの離脱」から紹介して行きます。(p107以下)

-------
新田義貞との主導権争い

 足利尊氏が新田義貞と厳しく対立したのは事実で、その具体的様相については『太平記巻一四』の「足利殿と新田殿確執の事、付 両家奏状の事」に詳しく描かれている。その主導権争いは両者の軍事的立場から考えると、ある意味では必然的であったといえるが、その確執は具体的にはどのように進展したか特に文書史料を利用して検討してみよう。
 尊氏と直義の発した軍勢催促状を網羅的に収集し整理してみると、直義が尊氏に先んじて新田義貞誅伐の軍勢催促状を発していることがわかる。直義のそれは、建武二年一一月二日付がもっとも早く、この日付だけで一〇点が残存している(「入来院文書」『南北朝遺文 九州編一』三三二号など)。これを手始めにして、この種(義貞誅伐)の直義軍勢催促状は、建武三年八月一七日付(「朽木古文書」、『大日本史料六編三』七〇三頁)まで全部で二七点収集することができた。
 同様に尊氏についてみると、尊氏の義貞追討の軍勢催促状は、建武二年一二月一三日付(「大友家文書」、『南北朝遺文 九州編一』三五六号)を諸賢として、建武三年九月三日付(「安芸田所文書」、『南北朝遺文 中国・四国編一』四六六号)まで全部で三〇点収集することができた。
 これらのことから考えると、尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる(なお建武三年九月を最後に尊氏・直義の軍勢催促状に義貞誅伐の文言が登場しなくなる)。
-------

いったん、ここで切ります。
「尊氏・直義─義貞との間の軍事的抗争は、建武二年一一月初めにまず直義─義貞の間で始まり、それより約四〇日おくれて同年一二月半ばになって尊氏も行い始めたとみることができる」とありますが、別に足利側は尊氏に直属する軍隊と直義に直属する軍隊に分かれていて、それぞれが別個独立に「義貞との間の軍事的抗争」を行なった訳ではないのだから、少し変な書き方ですね。
なお、直義が十一月二日付で発した軍勢催促状の一例は既に紹介済みです。

「尊氏奏状が十一月十八日到達では遅すぎるか?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7d739295be49fa2da42716bb912de7

さて、続きです。(p108以下)

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 他方、『太平記』『梅松論』『保暦間記』などの記録類・編纂物によると、この間のいきさつについて様々に描くところがあるが、それらが事実か否かを裏付けるのは至難のわざである。しかしなかでも割と正確そうにみえるのが『梅松論』で、以下のように描く。

  今度両大将〔尊氏・直義〕に供奉の人々には、信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処に、
  義貞を討手の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職
  を上杉武庫禅門〔憲房〕に任せらる。

 このうち「信濃・常陸の闕所を勲功の賞に宛行はるゝ処」とは、先の建武二年九月二十七日の恩賞あてがいの尊氏袖判下文の大量発給のことをさすと考えられ、これをうけて「義貞を討手の大将として関東へ下向のよし」と続いている。
 はたして義貞の関東下向はいつのことか明確でない。このとき以下の『太平記巻一四』の記事が参考となる。すなわち、「四国・西国ヨリ、足利殿成レタル軍勢催促ノ御教書トシテ数十通是ヲ(後醍醐に)進覧ス」とし、それが後醍醐を尊氏追討に踏み切らせた決定的要因となったと記す点である。ここにみる「数十通」の「軍勢催促ノ御教書」とは先にみた、主として西国武将たちにあてて足利直義が建武二年一一月二日付で大量に発給した軍勢催促状であった可能性が高く、またそのことが義貞の関東下向という事態を引き起こしたと考えることができる。となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる。
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うーむ。
流布本を除く『太平記』の諸本には義貞が十一月十九日に京都を出発したと書かれており、『元弘日記裏書』にも「同十九日尊良親王以下東征」とあります。
また、矢矧川の戦闘が二十五日から始まったことは『太平記』以外の史料で裏付けられていて、京都から矢矧川への移動の行程を考えても十九日出発を疑う必要は特にないように思いますが、森氏は何故にこの点にこだわるのか。
「となると義貞の関東発向は建武二年一一月のこととみなされる」という結論は正しいでしょうし、この結論を疑った歴史研究者もいないはずですが、果たしてこれは『太平記』の曖昧な記述から推論しなければならないような話なのか。

「両家奏状の事」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8936a924b049ea0d11c4ca738d1083f3
「この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、普く知る人もなかりける所に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c8b87b0df9444dc6cfaf14304e3d0c
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