流布本の亀菊エピソードは、
-------
又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82
-------
又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82
というもので、亀菊が得たのは領家職であることが明確です。
ストーリーにも慈光寺本のような不自然さは全くありません。
なお、慈光寺本では後鳥羽院と義時の対立の直接の原因として亀菊エピソードのみが挙げられていますが、流布本では亀菊エピソードの前に仁科盛遠エピソードが出て来て、この二つのエピソードの分量はほぼ同じです。
ま、それはともかく、岡田著では承久の乱の合戦場面については叙述が淡泊で、メルクマールの、
(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
については特段の記述がありません。
岡田著には興味深い指摘が多々ありますが、現在問題としている論点とは離れてしまうので、とりあえず検討は以上に留めたいと思います。
さて、若手と長老クラスを見てきたので、いよいよ「慈光寺本妄信歴史研究者」の大将クラスの研究者の見解を見て行きたいと思います。
私は、野口実・高橋秀樹・長村祥知・坂井孝一・関幸彦の五氏を大将クラスと認定していますが、野口・高橋・長村氏の見解は相当紹介してきましたので、先ずは坂井孝一氏(創価大学文学部教授、1958生)の見解を『承久の乱』(中公新書、2018)に即して検討することとします。
-------
『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』
一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102517.html
早速、メルクマール(1)から見て行くと、意外なことに坂井氏は長江・倉橋荘の地頭を北条義時と断じてはおられないですね。(p110以下)
-------
【前略】『吾妻鏡』建保七年(一二一九)三月九日条によれば、忠綱は「禅定二品」政子の邸宅で後鳥羽の弔意を伝え、その後「右京兆」義時の邸宅に移り、「摂津国長江・倉橋」二つの荘園の地頭改補を要求する「院宣」を伝えたという。
長江荘・倉橋(椋橋)荘は、摂津国豊島〔てしま〕郡の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。「慈光寺本」は、後鳥羽が「寵愛双〔ならび〕ナキ」「舞女」の「亀菊(伊賀局)」に与えたのが「長江荘三百余町」であったと記す。神崎川流域には江口・神崎といった遊女の宿があり、後鳥羽は水無瀬殿に御幸した際、そこから遊女を召して今様・郢曲などを楽しんだ。亀菊は最も寵愛を得た遊女であった。また、倉橋荘は院近臣尊長(後出する一条能保の子で、兄に高能、信能、実雅らがいる)の遺領目録に「摂津国頭陀寺領、椋橋荘と号す」とみえる庄園である。
注目すべきは、両荘とも川を下れば大阪湾、瀬戸内海へ、川をさかのぼれば水無瀬・鳥羽、都へと至る海運・水運の要衝に位置していた点である。こうした交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう、後鳥羽は圧力をかけてきたのである。これはまた、実朝亡き後の幕府が圧力に屈して後鳥羽の意思を受け入れるか否か、後鳥羽が幕府をコントロール下に置くことができるか否かをみきわめる試金石でもあった。選択は幕府に委ねられた。
-------
別に坂井氏は長江・倉橋荘の地頭が義時自身とする慈光寺本の記述を積極的に否定されている訳ではありませんが、この話の流れでは、肯定するならば当然に言及があるはずです。
従って、メルクマール(1)については、坂井氏は慎重に判断を留保されているものと思われます。