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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その15)─坂井孝一氏の場合

2023-10-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本の亀菊エピソードは、

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 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

というもので、亀菊が得たのは領家職であることが明確です。
ストーリーにも慈光寺本のような不自然さは全くありません。
なお、慈光寺本では後鳥羽院と義時の対立の直接の原因として亀菊エピソードのみが挙げられていますが、流布本では亀菊エピソードの前に仁科盛遠エピソードが出て来て、この二つのエピソードの分量はほぼ同じです。
ま、それはともかく、岡田著では承久の乱の合戦場面については叙述が淡泊で、メルクマールの、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

については特段の記述がありません。
岡田著には興味深い指摘が多々ありますが、現在問題としている論点とは離れてしまうので、とりあえず検討は以上に留めたいと思います。
さて、若手と長老クラスを見てきたので、いよいよ「慈光寺本妄信歴史研究者」の大将クラスの研究者の見解を見て行きたいと思います。
私は、野口実・高橋秀樹・長村祥知・坂井孝一・関幸彦の五氏を大将クラスと認定していますが、野口・高橋・長村氏の見解は相当紹介してきましたので、先ずは坂井孝一氏(創価大学文学部教授、1958生)の見解を『承久の乱』(中公新書、2018)に即して検討することとします。

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『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』

一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102517.html

早速、メルクマール(1)から見て行くと、意外なことに坂井氏は長江・倉橋荘の地頭を北条義時と断じてはおられないですね。(p110以下)

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【前略】『吾妻鏡』建保七年(一二一九)三月九日条によれば、忠綱は「禅定二品」政子の邸宅で後鳥羽の弔意を伝え、その後「右京兆」義時の邸宅に移り、「摂津国長江・倉橋」二つの荘園の地頭改補を要求する「院宣」を伝えたという。
 長江荘・倉橋(椋橋)荘は、摂津国豊島〔てしま〕郡の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。「慈光寺本」は、後鳥羽が「寵愛双〔ならび〕ナキ」「舞女」の「亀菊(伊賀局)」に与えたのが「長江荘三百余町」であったと記す。神崎川流域には江口・神崎といった遊女の宿があり、後鳥羽は水無瀬殿に御幸した際、そこから遊女を召して今様・郢曲などを楽しんだ。亀菊は最も寵愛を得た遊女であった。また、倉橋荘は院近臣尊長(後出する一条能保の子で、兄に高能、信能、実雅らがいる)の遺領目録に「摂津国頭陀寺領、椋橋荘と号す」とみえる庄園である。
 注目すべきは、両荘とも川を下れば大阪湾、瀬戸内海へ、川をさかのぼれば水無瀬・鳥羽、都へと至る海運・水運の要衝に位置していた点である。こうした交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう、後鳥羽は圧力をかけてきたのである。これはまた、実朝亡き後の幕府が圧力に屈して後鳥羽の意思を受け入れるか否か、後鳥羽が幕府をコントロール下に置くことができるか否かをみきわめる試金石でもあった。選択は幕府に委ねられた。
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別に坂井氏は長江・倉橋荘の地頭が義時自身とする慈光寺本の記述を積極的に否定されている訳ではありませんが、この話の流れでは、肯定するならば当然に言及があるはずです。
従って、メルクマール(1)については、坂井氏は慎重に判断を留保されているものと思われます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その14)─「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」の意味

2023-10-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
岡田清一氏は、

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 この間の事情について、慈光寺本『承久記』に、

 義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ十善ノ君ハ、加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、
 百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ、義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍
 〔サナガラ〕頸ヲ被召トモ努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

とあり、頼朝から初めて給わった所領であることを理由に、しかも三回にわたって下された院宣を拒否したとある。この院宣拒否の姿勢が、義時に新たな不安をもたらすことになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/655b39a76d172f8a5dce8d20931ec7bb

と書かれていますが、この書き方だと、一般読者は北条義時宛ての院宣が三度にわたって下され、義時も三度続けて拒否したように思うはずです。
あるいは岡田氏自身もそのように解釈されているのかもしれませんが、しかし、慈光寺本では、亀菊エピソードは四つに部分から構成され、最初に、

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 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

とあって、後鳥羽院は摂津国長江庄を自身の「一期ノ間」に限り、亀菊に与えるとの「院宣」を下します。
これは領家職を与えるとの院宣だろうと思いますが、一般論として、領家職自体は別に地頭職と抵触するものではありません。
それにも拘わらず、亀菊の父「刑部丞」は、「庁ノ御下文」を持参して長江庄に行き、「此由執行」しようとします。
すると、長江庄の「坂東地頭」は「刑部丞」に「長江庄は頼朝様より北条義時様が賜わった庄園なので、たとえ「宣旨」があろうと、私に退去を命ずる義時様の正式な書状がなければ絶対に退去しません」と応えて「刑部丞」を追い返したとのことですが、文章に飛躍がありますね。
おそらく「坂東地頭」(地頭の義時から現地の支配を命ぜられた地頭代)は、亀菊に領家職を与えたとの「院宣」に基づく「庁ノ御下文」を地頭代への退去命令と理解し、それを拒否した、ということだろうと思います。
しかし、領家職自体は地頭職と併存可能ですから、何故に亀菊への「院宣」と「庁ノ御下文」が地頭代への退去命令となるのかが分かりません。
「院宣」ないし「庁ノ御下文」が「坂東地頭」の返事の中では「宣旨」に変わっているのも奇妙です。
次に、

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仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。
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とありますが、「長江庄に行って地頭を追い出せ」という「仰」があり、その「仰」を受けた「医王左衛門能茂」が「地頭」(代)を追い出そうとしたけれども、「地頭」(代)は拒否します。
あるいは、この「医王左衛門能茂」への命令が第二の「院宣」の可能性もありそうです。
ついで、

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能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。
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という展開となりますが、「義時ガ詞ヲモ聞召テ」とはどういう意味なのか。
能茂経由で聞いた「地頭」(代)の発言を「義時ガ詞」と表現しただけなのか。
それとも、「末々ノ者」に過ぎない「地頭」(代)ではなく、何らかの方法で鎌倉の義時にも問い合わせて義時自身の見解を質した上で、「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」との「院宣」を下したということなのか。
前者では表現が不自然で、後者では時間的な流れが不自然ですね。
ま、それはともかく、最後に、

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義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。
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とあるので、三度の「院宣」を、

(1)亀菊宛ての「院宣」
(2)「医王左衛門能茂」宛ての「地頭」(代)を追い出せとの「仰」(「院宣」?)
(3)義時宛ての「院宣」

と考えると、(1)(2)は直接には「地頭」(代)が、(3)は義時本人が「背」いたという違いはあるものの、合計三度で一応自然な流れとなりますね。
義時宛ての同一内容の院宣が三度下され、義時がそれを三度拒否したというのはあまりに変な話です。
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