学問空間

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春祈祷

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)21時49分36秒 編集済

斎藤さん

いらっしゃいませ。

あの方は前副講長さんだったのですか。
調子に乗って無茶苦茶なことを書きまくってしまいました。
自分の投稿を見直したら部分的に手直しすることは不可能みたいなので、後でお詫びの言葉とともに若干の追記をさせていただきます。
春祈祷の様子もブログの方に載せておきます。

波伝谷に最初に伺ったとき、道路脇の焼け焦げた立木がまるで観音像のようだなと思ったのですが、地元でもそんな話があったそうですね。
私は防災庁舎だとか民宿の上に乗った船だとかを記念に残そうという考え方には反対で、津波の記憶は映像・写真などで保存すれば十分だと思っているのですが、あの立木はお寺さんかどこかで保存してもらえたらいいなあと思っています。

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柴田町

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)08時30分48秒

>筆綾丸さん
柴田町は私が今住んでいる大河原町の隣なのですが、いつでも行けるからと思っているうちに一年経ってしまって、町内はあまり歩いていませんでした。
船岡城址には行きましたが、震災後、暫く修復工事をやっていて、有名な樅の木には近づけず、未だに未見です。
来られるのだったら、やはり桜の季節が良いですね。
白石川の堤防に「一目千本桜」という桜並木があり、残雪の蔵王を背景に満開の桜の眺めるのは至福の時間です。

http://www.town.shibata.miyagi.jp/index.cfm/69,0,73,211,html

それと、原田甲斐の一件ほど有名ではありませんが、「白鳥事件」も興味深いですね。
平川新氏の『伝説の中の神─天皇と異端の近世史』にも詳しく紹介されています。

-------
明治元年(1868)、その白鳥をめぐって、戊辰の役後、進駐してきた官軍兵士と柴田家中との間で起きた事件は、柴田家の運命を大きく変えた「白鳥事件」 として今もなお人々に語り継がれている。
この事件の発端は、仙台藩降伏後、領内において官軍兵士が信仰の対象である白鳥を捕殺したことに端を発している。
その場に居合わせた柴田家中4名の内の一人が白鳥を守ろうと兵士に向かって発砲。その後この事件は仙台鎮撫使の知るところとなり事件に関与した家中たちは 処刑。事件の責任を取って柴田家14代当主意広も切腹した。
事件後、柴田家臣の多くが、苦悩の選択のなか、現在の北海道伊達市に移住を決定。新天地での新しいあゆみを始めた。
http://www.town.shibata.miyagi.jp/index.cfm/69,1406,72,150,html
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鈴木三郎重家と東北

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)06時49分28秒

「鈴木三郎重家」で検索すると、いろいろ出てきますね。
和歌山県海南市藤白に鎮座する藤白神社に関係する「藤白鈴木会」サイトによれば、

-------------
藤白神社に隣接している所に「鈴木屋敷」がある。藤白神社にある鈴木氏の系図によれば、「イザナギノミコト」からはじまって鈴木重吉(故人)氏まで百二十二代続く。いわば全国の鈴木氏の総本家ともいえる鈴木氏の屋敷がここにある。鈴木屋敷は平安期にこの地に作られたといわれており、鎌倉時代には、有名な源義経も幼年のころ度々この鈴木屋敷に訪れたそうだ。その関係で鈴木三郎重家という武将が義経の家臣となり、最後には奥州衣川で討ち死にする。この鈴木三郎重家こそ鈴木氏の誉れであり、全国に散在する鈴木氏の精神的支柱となっている。
http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/magoichi/fujisiro.htm

とのことですね。
鈴木三郎重家は『義経記』に登場しますが、その内容は「みやぎ観光Navi」サイトで見ることができます。
そして宮城県栗原市金成には重家の館跡と伝えられている大原木舘跡があり、また、南三陸町志津川には「重家の妻小森御前」の墓があるそうです。
http://www.pref.miyagi.jp/kankou/tourism/sightseeing/legend/07.htm

秋田県能代市の「富根報徳番楽」に関するサイトにも鈴木三郎重家の説明がありますが、このサイトは全体として非常に充実していますね。
http://www.k4.dion.ne.jp/~bangaku/odoru/odoru18.html

ちなみに鈴木三郎重家には「鈴木小太郎重染」という息子もいたそうで、岩手県江刺市には義経・重家・重染の供養塔がありますね。
これは以前、「鈴木小太郎」で検索していたときに気付きました。
http://t-aterui.jp/iwate/i-inasenowatari14.html

まあ、こちらは供養塔とはいっても、つい最近、観光協会によって建てられたものだそうですが。

----------
源義経・鈴木三郎重家・鈴木小太郎重染供養塔は義経の家臣だった鈴木三郎重家の子供の重染が建てたと云われる「鈴木山重染寺」の跡地にあります。
文治5(1189)年閏4月30日、源義経は衣川館において藤原泰衡の軍勢により自害したと言われています。家臣の鈴木三郎重家も同所で戦没しました。
その後、建久年間(1190~1198)に鈴木三郎重家の子、鈴木小太郎重染は、父の敵を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、この地に到った時、敵の顔に似た人面石を見て覚るところがあり、亡君源義経と亡父鈴木三郎重家のため追福のため一寺を建立して鈴木山重染寺(れいぼくさんちょうぜんじ)と称したと伝えられています。
平成17(2005)年4月30日、大河ドラマ「義経」放映にあわせて江刺市観光物産協会がこの伝承によってここ重染寺跡へ源義経、鈴木三郎重家、鈴木小太郎重染の供養塔を建立したものです。
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/414085/
http://blogs.yahoo.co.jp/dbxmr184/55960552.html


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「源義経の臣鈴木三郎重家」

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)06時04分8秒

>筆綾丸さん
宮城県神社庁の「県内神社紹介」で「八雲神社」を調べると、宮城県内に全部で34の八雲神社があるそうですが、入間田の八雲神社は次のように紹介されています。

---------
鎮座地: 宮城県柴田郡柴田町大字入間田字古内24
主祭神: 武速須佐廼男命
例祭日: 新暦4月9-10日(今宵の祭、神幸、浦安の舞奉納)、旧暦6月10日今宵の祭、元旦祭、1月14日ドント
由緒:
入間田に鎮座。八雲神社の旧称号は、祇園宮(除屋敷等控帳、入間田村風土記御用書出)、牛頭天王社(除屋敷等控帳、入間田村風土記御用書出)、祇園牛頭天王(入間田村鎮座祇園社別当大正院歴代家系)。当社の創立は第82代後鳥羽天皇の御代文治5己酉年(1189)陰暦6月10日、源義経の臣鈴木三郎重家の家臣水原平兵衛重氏の勧請するところにして、重家は紀州熊野藤代郡の産なり。源頼朝、藤原氏をして義経を討たしめんと聞き、義経の知遇の厚かりしを知り、弟の亀井六郎重保(シゲヤス)とともに国を出て、山伏の姿となり辛うじて平泉に至りし頃は、文治5年閏陰暦4月28日にして、義経兵力悉くつき、翌日衣川の舘、遂に陥り、義経以下戦死せり。兄弟今はこれまでと、共勇戦して討ち死にす。家臣水原平兵衛重氏、主の遺命令により鈴木氏の氏神祇園牛頭天王のご神体を背負い来たり。現在の地を卜して住民と力を合わせて山岳を切り開き祠を創祀せるなり。慶長13年(1608)聖護院宮興意法親王、諸国御巡行の砌、当社に御参拝の上(社参し)御一泊なされ、その際、寺山号を医王山大泉寺と賜わる。文化年中藩主伊達氏の武運長久を祈願。爾後、毎年正月3日祈祷をなし、御附を献上せり。伊達氏より三貫文田を封じられ社領に充てられた(地頭伊達勝三郎より社領3貫文田寄進)。明治4年(1871)2月8日八雲神社と改められ村社格に加列(列せられる。)。同7年6月郷社に昇格。同40年(1907)3月1日、神饌幣帛料供進神社に指定さるる(社領文書)。宗教法人により昭和21年5月25日届出、同年6月10日承認さるる。
---------

ご指摘のように、確かに左の色黒の人物は弁慶っぽいですね。とすると、中央はもちろん義経。
問題は右の人物ですが、他の二人より小さく描かれているものの、眼が細く鋭い感じで、男みたいですね。
そして山伏姿です。
義経の前に食卓があり、様々な食べ物が置かれています。
弁慶・義経は横一列に並んでいますが、右の人物は90度ずれて食卓の右側に位置し、左を向いているように描かれていますね。
神社の由来と照らし合わせてみると、どうも右の人物は「源義経の臣鈴木三郎重家」みたいですね。

宮城県神社庁
http://www.miyagi-jinjacho.or.jp/

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入間田の八雲神社(その2)

2012-06-29 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月29日(金)08時28分0秒

拝殿に掲げられていた絵額の内、左は富士の巻狩りだと思いますが、ずいぶん大胆な構図ですね。
パラソルの下にいる源頼朝はどことなく中国人風で、荒れ狂う巨大なイノシシに周囲が慌てふためく様子はまるで「もののけ姫」みたいな感じ。
右下に「奉納 大正三年五月十五日」と書かれており、古いものではないですね。
右の絵のテーマは何ですかね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6455
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入間田の八雲神社(その1)

2012-06-29 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月29日(金)08時23分4秒

宮城県柴田郡柴田町に入間田(いりまだ)という地名があって、東北大学名誉教授の入間田宣夫(いるまだ・のぶお)氏のお名前を連想させるので、何となく気になっていたのですが、昨日行ってみました。
柴田町の公式サイトを見ても特別な記述はなく、正直あまり期待していなかったのですが、中世に開発された荘園なのだろうと思わせる雰囲気が残っていましたね。
地区の奥の方に八雲神社があり、ずいぶん斬新なデザインの石灯籠があるなあと思って近づいたところ、地震で上部が壊れていただけでした。
ま、それでも元々かなり凝った作りの石灯籠ではありますね。
森の中の長い石段を登って行くと、楼門の奥に立派な拝殿・本殿・鐘楼や鉄製の灯籠があって、地域の豊かさを感じさせました。
一番下の写真、鉄灯籠が左側だけに存在していて若干不自然ですが、右側のが地震で倒壊した訳ではなく、元々なかったみたいですね。

「入間田ホタルの里」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/otenki/tukinoki/irumada-hotaru.htm
「星・宙・標石・之波太(しばた)」
http://blog.goo.ne.jp/toyowoomera/e/b11b82e8db42315ffa6b0997353403a2

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6454
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除名決議について

2012-06-27 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月27日(水)23時01分46秒

群馬県桐生市の女性市議が除名された問題で、某所に投稿したものをこちらに保存しておきます。
私はネットで法律に関係する議論をするときには普通の人にも分かりやすい表現を使うように工夫しているつもりなのですが、専門用語を使って簡潔に論じた方がよいときもありますね。

---------
法律の細かい話なので続けるべきか迷ったのですが、一応書いておくことにします。
興味のない人はスルーしてください。

■■さんは庭山市議の問題について、次のように書かれました。

----------
除名決議が可決しても、職を奪うのは、司法の判断が必要です。市議がとどまると言えば、それまでです。市議の誰かが司法に決議の妥当性確認をする必要があります。
また。除名を受けた市議が、決議無効の司法判断をすればですが。任期終了後でも出来ます。
とういうわけで、除名決議をしました。よ。というだけです。任期終了まで、市議でおれます。次の選挙で当選すれば、良いことですし。
除名決議なんて、なんの効力もない。法的根拠はここのでも過去のコメント蘭に書いています。
公職選挙法で、選ばれた人間の職を奪えるのは、司法とリコールのみ。
----------

しかし、これらは全て誤りです。
地方議会における議員の除名決議は、特にこれに基づく執行機関の処分をまたず直ちにその議員をして議員たる地位を失わしめる法律効果を生ぜしめる行為です。
この点は明確な判例があり、学説にも異論がありません。
また、除名決議は講学上の「行政行為」に該当し、行政事件訴訟法3条2項にいう「処分の取消しの訴え」の対象となる「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」、即ち「処分」に該当します。
従って、「処分」である除名決議には「公定力」があり、仮に違法であっても、取消権限のある国家機関によって取り消されるまでは完全に効力を有し、何人(私人・裁判所・行政庁)もその効力を否定できません。
この点は行政行為と私人の法律行為との大きな違いです。
そして「処分」である除名決議の違法性を争う方法は原則として行政事件訴訟法の「取消訴訟」に限定され(「取消訴訟の排他的管轄」)、出訴期間の制限(6か月)もあります。
また、「処分」の「取消訴訟」は形成訴訟であって、原告勝訴の取消判決が確定して初めて「処分」の効力が処分当時に遡って形成的に消滅します。

■■さんは「除名処分執行停止申立をまずする必要があります」と書かれていますが、「執行停止」はそもそも除名処分に「公定力」があり、有効であるからこそ、仮の救済として認められている制度です。
民事事件と行政事件の違いを理解していないと執行停止制度の理解も困難なのですが、まず、行政事件では民事事件と異なり民事保全法に定める「仮処分」は認められていません(行政事件訴訟法44条)。
また、「執行停止」の申立ては、本案訴訟が適法に提起されていなければできず(行政事件訴訟法25条2項本文)、この点も一般の民事訴訟において、保全訴訟が本案訴訟から独立して可能であることと異なります。

そして行政事件訴訟法25条1項は「処分の取消しの訴えの提起は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない」ことを明確に定めており(「執行不停止原則」)、この「執行不停止原則」があるからこそ、原則の例外として、仮の救済の必要性が高い場合に限って「執行停止」を認める、という制度になっています。
行政事件訴訟法25条1項を読めば、「除名決議なんて、なんの効力もない」という■■さんの見解は全く成り立ちえないことは明らかです。

なお、以上は庭山市議の問題の特殊性を一切考慮していない一般論です。
一般論として■■さんの見解には正しいところが一つもありません。
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防波堤から見た仮設魚市場

2012-06-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月26日(火)13時01分24秒

志津川旭ヶ浦から東に伸びる防波堤(写真上)と、その先端の崩壊部分(写真中)、そしてそこから振り返った仮設魚市場周辺の様子(写真下)です。
仮設魚市場周辺は真新しい冷凍倉庫・冷凍工場などが続々と建てられていて、活気がありますね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6452
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新志津川漁港

2012-06-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月26日(火)12時29分57秒

こちらは志津川本浜町の新志津川漁港です。
瓦礫撤去作業が行われていた時期はダンプカーが頻繁に往来していて殺気立っていましたが、今は静かですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6451
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南三陸町にて

2012-06-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月26日(火)12時10分20秒

志津川町大森の道路脇、物置小屋(?)に海の中の絵が描かれていますが、空調の吹出口がエイの目になっています。
別の面に「宮城大学」と書かれているので、同大学の学生さんのアイデアだと思いますが、面白いですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6450
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大川小学校と安全配慮義務

2012-06-23 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月23日(土)12時31分8秒

大川小学校の「裏山」、草付きの部分を実際に測量された「2011年旭市の津波被害を記録する会」代表の春川光男氏と少し議論をしていますので、この問題に興味のある方は見て下さい。
1段目の平場までの角度は33度、1段目から2段目の平場までは40度近いとのことです。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54643398.html

コメント欄にも書きましたが、

----------
大川小学校の問題で不可解なのは、教頭以下の職員が、長時間逡巡したとはいえ結局は避難の必要性を認めたにもかかわらず、なぜ平行移動して「三角地帯」を目指したのか、ですね。
私もいろいろ考えたのですが、もしかすると「安全配慮義務」への過度の懸念が原因だったのかな、と想像しています。
学校で事故が発生した場合、在学関係にも「安全配慮義務」を認めて学校側の損害賠償責任を肯定する判例が最近目立っており、一般理論としては決して間違ってはいないのですが、学校側の責任ある立場の人から見れば、児童がちょっとでも怪我をしたら親から訴えられてしまう、といった発想になりがちなのかもしれません。

「裏山」を具体的にどこと考えるかはともかく、杉林・草付・竹藪など、いずれも避難時に多少の怪我をする可能性はある場所ですが、それに比べれば「三角地帯」までは道路を歩くだけで、怪我の恐れはありませんからね。
後から見れば、多少の怪我の心配などより命が大事なのは明らかですが、責任問題を避けたいという発想に慣れていると、本当の緊急時に本末転倒の結論を出してしまうのかもしれません。
-----------

というのが、現時点での私の考え方です。

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どちらが拒否したのか。

2012-06-23 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月23日(土)10時41分12秒

人の家のお墓をしげしげ眺めるのは趣味が悪いような感じもするのですが、地方におけるキリスト教布教史に関する一資料として注目しているつもりです。
念のため。

>筆綾丸さん
「墓誌」の後半を見ると、筆頭に明治2年に亡くなった先代の徳兵衛氏の名前が「宝照院釈明教居士 通称徳兵衛」とあり、ついで「きん子」氏の名前が特に法名・戒名をつけずに出てきますね。
以下、法名・戒名なしに女性・徳兵衛氏(昭和12年没)・毅一氏(長男)・女性・女性・道夫氏(毅一氏の長男)と続きます。
「昭和三年九月墓地改造※※父母ヲ追懐シテ其名ヲ墓誌ノ初頭ニ銘記ス」とあるので、先代徳兵衛氏の名前は書かれているものの、先代の徳兵衛氏とさらにその先祖は改葬はせず、元のまま萬福寺に置かれているようですね。
また、毅一氏の二男で民俗学者の厚氏の名前はないので、別のお墓なのでしょうね。

先代徳兵衛氏は明治2年没ですからキリスト教徒のはずがありませんが、その妻で明治37年に76歳で亡くなった「きん子」氏は法名・戒名がないことと「家族改宗」との文言から、息子の徳兵衛氏と同時期かは分かりませんが、亡くなるまでの間にキリスト教に改宗したと考えるのが素直なんでしょうね。
だからこそ墓地の問題が現実化したのではないかと思います。
キリスト教への改宗は、それが内心の問題である限り地域社会とは直接の関係を持ちませんが、葬儀となると正面からぶつかる可能性が出てきますね。
丸石神を祀っているような素朴な風土の中で、地域の有力者である徳兵衛氏とその家族がキリスト教に改宗し、日下部教会も着実に根付きつつある状況を考えると、仏教関係者も心穏やかではなかったと思います。
徳兵衛氏自身はお墓は浄土宗の寺の境内でもよいという考え方ですから、拒否したのは浄土真宗の萬福寺側じゃないですかね。

少し検索してみたら「死者儀礼から見た宗教的多元性─日本と韓国におけるキリスト教の比較より」という論文がありましたが、ここで紹介されている櫻井圀郎氏の論文を読んでみたいですね。

http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/3_tetsugaku2/3_02.pdf

なお、「墓誌」の中の「一門」という表現が若干気になったのですが、光の具合で微妙ではあるものの、他の字には見えません。

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「家族改宗」

2012-06-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月21日(木)09時34分18秒

>筆綾丸さん
今、ちょっと時間がないので後でまとめて書きますが、墓誌にいう「家族改宗」とはキリスト教への改宗なんですね。
以下、八田政季氏「水底の翳」よりの引用です。

-------------
 祖父徳兵衛(1857~1937)は、下神内川村における「豪農」であった。山梨県においては、幕末・明治以降の養蚕業、製糸業の発展に呼応して地主制が一挙に拡大した。農民の8割が自・小作農または小作農民であり、小作地率は全国最上位 に近かった。中澤家は自作地ももつ中堅地主(所有農地約4.5ヘクタール)であった。染色業、運送業等も営み、地域の人望が厚かった。
 1877年、南巨摩都南部村にあった近藤喜則設立の「蒙軒学舎」にカナダ・メソジスト教会のC.S.イービーが招かれ、翌年には甲府に入った。81年までの布教活動のなかで山中笑、平岩宣保、結城無二三等の有能な牧師、伝道師が育てられ県内各地に「受洗」者が増えていった。
 徳兵衛は、結城が日下部村八日市場或いは八幡村に開いた聖書講義所に出席し、八幡村の飯島信明とともに山中笑によって受洗している。1889年、32歳である。土塚村(現一宮町)の古屋いちとは、その数年前に結婚していたと思われる。
http://www.digi-ken.org/archives/minasoko/hb-mo01.html

1889年というと明治22年ですので、墓地移転の相当前ですね。
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将軍地蔵

2012-06-20 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月20日(水)21時50分20秒

近づいて撮った将軍地蔵の写真も載せておきます。
また、掲示されていた文章も転載しておきます。

----------
将軍地蔵(しょうぐんじぞう)

 将軍地蔵は「勝軍地蔵」とも書き、中世武士の地蔵信仰を背景
に、室町時代に入って生み出された地蔵で、騎馬武者姿で表わさ
れることが多く、その名から特に戦国武将に信仰された。
 本像は、光背型石仏の将軍地蔵立像で、正確に「将軍地蔵」と
刻まれている。甲冑(かっちゅう)を着け天衣を垂らし、左手に幡(はた)と思われる棒状
のもの、右手に剣を持っている。
 石仏としては、本像を含めて市内に一例しか確認されておらず、
数少ない将軍地蔵信仰の一端を示すものとして貴重である。
----------

「本像を含めて市内に一例しか確認されておらず」というのは文章として若干変ですが、これは「例」の前の数字を消して「一」に書き換えているためですね。
また、「室町時代に入って生み出された地蔵」とありますが、大原嘉豊氏はもっと古いと言われていますね。
ただ、大原氏の「高野山親王院所蔵『勝軍地蔵』画像に関する考察」(『尭榮文庫研究紀要』6,2005)という論文で紹介されている高野山親王院蔵の勝軍地蔵像は武人には見えず、普通の勝軍地蔵のイメージとは全く異なります。

高野山親王院
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/751a7c8784642ad84a5ea0d48e239b8d

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6444
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かのかわ古道(その4)

2012-06-20 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月20日(水)11時38分53秒

最後は馬頭観音と将軍地蔵ですね。
(その1)が一番南で、次第に北に移動しています。
西称院は「かのかわ古道」の途中、少し東に離れた位置にあります。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6443

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