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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その12)─「29.洲俣の藤原秀澄の敗走 1行」

2023-10-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「加藤判官」エピソードは、拙訳を再掲すると、

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「伊勢国ノ加藤判官」光定に至っては、昔の平家の真似をした。
平家は東国を攻めに下ったとき、駿河国浮島沼で、あじ鴨の群の羽音に驚いて落ちて行ったが、その二番煎じで、尾張国鳴海浦の浦人が「山入」して山に火を付けて焼いたところ、たくさんの鳥が炎に堪えられずに伊勢国河沼浦に渡り、その中に白鷺が百羽ほどいたのを「加藤判官」が見て、「あれを見給え、殿原。沖の水軍が白旗を上げて、搦手として押し寄せてきたぞ。これは勝てそうにない」と言って、千年まで保とうと造った「長江館」と「マガリノ館」に火をかけて、天が霞むような勢いで炎上させた後、三千騎もの勢でありながら、矢を一つも射ずに落ちていったのだ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75d678c32fb74a42afe34e47e34dcd4c

となりますが、久保田淳氏の脚注によれば、

「河沼ノ浦」…河曲(かわゆ)の浦か。川曲は、現、三重県鈴鹿市。
「長江館」…伊勢国、永男(長用)御厨(現、三重県鈴鹿市)にあった館か。同御厨は長江とも呼ばれ、
      津島への渡場があった。
「マガリノ館」…伊勢国、勾御厨(現、三重県松阪市にあった館か。

とのことで、これらは相互に相当の距離があるばかりか、「食渡」(岐阜県羽島郡岐南町)からは直線距離で50~100㎞ほど離れた場所です。
「尾張国鳴海浦」(現、名古屋市緑区鳴海町)から「伊勢国河沼浦」、そして「長江館」・「マガリノ館」と実に雄大な話ではありますが、そもそも「食渡」との関係はどうなっているのか。
藤原秀澄の第二次軍勢手分では、何故か「食渡」だけ「食渡ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ」と具体的な人数が記されていて、こちらの場面でも「三千騎ノ勢ヲタナビキナガラ、矢一モ射ズシテ落ニケリ」とあるので、「三千騎」については「食渡」の記述を意識しているようです。
あるいは「加藤判官」が「食渡」から伊勢国に逃げてきて、鎌倉方の分遣隊が襲ってくると誤解して、「長江館・マガリノ舘」に火をかけたということなのかもしれませんが、「食渡」との関係を示さずに唐突にあれこれ言われても、何が何だか分かりません。
うーむ。
先にこのエピソードを「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と評価しましたが、何故にここに置かれているのか分からないという点では、むしろ上巻冒頭の仏教譚や「国王兵乱十二ヶ度」と一緒にして、例えば、

 E: 存在する意味が分からないので、信頼性を評価できない。

といった別のカテゴリーを設けた方が良いのかもしれません。
さて、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい」とされている野口実氏は「加藤判官」エピソードにどのような対応をされているのかが気になって「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)を見たところ、

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 板橋・伊義(生瀬)などの院方の防御線は幕府軍によって次々と破られ、ついには摩免戸を守る藤原秀康・三浦胤義軍も胤義が敵兵を多く討ち取ってみせたものの、結局退却を余儀なくされた。また、院方として伊勢にあった加藤判官(光兼ヵ)は、海を渡る白鷺の群れを白旗を掲げた幕府軍の兵船と誤解して、長江(三重県鈴鹿市)・勾(同松阪市)にあった自らの館に火を放ち、三千余騎を率いて撤退するという大失態を演じている。
-------

とありました。(p17)
野口氏もいろいろ悩まれたであろうと思いますが、実に見事な纏め方であり、「匠の技」ですね。
ただ、「食渡ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ」との関係を無視するのは、研究者の姿勢としてはいかがなものなのか、若干の疑問が生じない訳でもありません。
ま、それはともかく、

「28.上瀬における重原・翔左衛門の戦い 6行」
「29.洲俣の藤原秀澄の敗走 1行」

に入ると、

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 上瀬〔かみのせ〕ニオハスル重原・翔〔かける〕左衛門、戦ケリ。翔左衛門申サレケルハ、「坂東方ノ殿原、我ヲバ誰トカ御覧ズル。我コソハ、王城〔わうじやう〕ヨリハ西、摂津国十四郡其中〔そのなか〕ニ、渡辺党、身ハ千騎ト聞〔きこえ〕アル其中ニ、愛王左衛門〔あいわうざゑもん〕翔トハ我事ナリ」トゾ名ノリケル。地体〔ぢたい〕ガ勢兵〔せいびやう〕ノ達者ニテハアリ、向フ敵十五騎、マノアタリニゾ射流〔いながし〕タル。懸組〔かけくみ〕入違〔いりちがひ〕、夥戦テ、「我ハ翔、々」ト馳廻テ、数ノ敵ヲ討取テ、明〔あく〕ル卯時マデコソコラヘタレ。振舞勝〔すぐれ〕テ見ヘケルガ、是モ終ニハ落ニケリ。
 洲俣固メタル河内判官ハ、夜ベノ戌時ニ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

ということで、慈光寺本作者の「天性臆病武者」藤原秀澄に対する視線は無視同然であるのに対し、渡辺翔に対しては非常に好意的ですね。
討ち取った敵の数など多少は大袈裟な点があるのかもしれませんが、それは軍記物の通例ということで、28・29の評価は「B」(積極的に疑う格別の理由がない)とします。
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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その11)─「27.伊勢国における加藤判官の戦い 8行」

2023-10-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「22.板橋における荻野次郎座衛門・伊豆御曹司の戦い 2行」
「23.伊義渡における開田・懸桟・上田殿の戦い 2行」
「24.火御子における打見・御料・寺本殿と尾張熱田大宮司の戦い 2行」
「25.大豆戸における藤原秀康・三浦胤義の戦い 4行」
「26.食渡における安芸宗左衛門・下条殿と関左衛門・大和入道・押野入道との戦い 8行」

の合計18行は、五つの渡河点に即して「落ニケリ」「討レニケリ」で終わる単調なエピソード群です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

「火ノ御子」の場所が不明で、「食渡」のエピソードが妙に細かく人名を挙げている点など、多少の不自然さはありますが、22・23・24・25・26いずれも「B」(積極的に疑う格別の理由がない)と判断します。
なお、流布本では大豆戸の藤原秀康・三浦胤義について、

-------
 平九郎判官、「已〔すで〕に大炊渡破るゝ事こそ安からね。胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向。能登守、被申けるは、「已大炊渡破れて、東山道の大勢打入たり。後ろを被推隔〔おしへだてられ〕、中に被取籠〔とりこめられ〕(ては)勇々敷〔ゆゆしき〕大事也。平九郎判官殿宣〔のたま〕ふは、事可然共不覚。君も『尾張河破れ(な)ば、引退て宇治・勢多を防げ』とこそ被仰下候しか。秀安に於ては罷上る成〔なり〕」とて引退く。平九郎判官、口惜は思へ共、宗徒の者共角〔かく〕云間、力不及引て落行けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024daabee36d9b91265f6459d2ecaf3

と、それなりの描写がありますが、慈光寺本は本当にあっさりしていますね。
さて、続く「27.伊勢国における加藤判官の戦い 8行」は、

-------
 伊勢国ノ加藤判官コソ、昔〔むかし〕平家ノマネヲバシタリケレ。平家、東国責〔せめ〕ニ下リケルガ、駿河国富士ノ沼ニテ、アヂ村ノ羽音ニ驚キ落タリケリ。其余〔そのあまり〕ニテ、尾張国鳴海浦ノ浦人ノ山入〔やまいり〕スルトテ、山ニ火ヲ付テ焼ケレバ、数ノツバサ、炎ニコラヘズシテ、伊勢国河沼〔かはぬま〕ノ浦ニ渡ケル中ニ、白鷺百羽計〔ばかり〕渡ケルヲ見テ、加藤判官云レケルハ、「アレ見給ヘ、和殿原。沖ノ船武者〔ふなむしや〕コソ、白旗サシテ、搦〔からめて〕手メグラシ押寄タレ。コソハ叶ハジ」トテ、千年マデアラント造並〔つくりなら〕ベタル長江館・マガリノ舘ニ火ヲカケテ、天下ヲ霞ト焼上テ、三千騎ノ勢ヲタナビキナガラ、矢一モ射ズシテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75d678c32fb74a42afe34e47e34dcd4c

というものですが、この「伊勢国ノ加藤判官」エピソードは何が何だか全然分かりません。
「加藤判官」(加藤光定)は、慈光寺本では「廻文ニ入輩」「諸国ニ被召輩」のいずれにも登場せず、藤原秀康の第一次軍勢手分にも登場せず、藤原秀澄の第二次軍勢手分に初めて「食渡ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ」と名前が出てきます。
そして二番目かつ最後に登場するのはこの場面です。
秀澄の第二次軍勢手分を整理すると、

-------
 阿井渡…△蜂屋入道
 大井戸…△駿河判官・△関左衛門・△佐野御曹司
 売間瀬…■神土殿
 板橋…■萩野次郎左衛門・■伊豆御曹司
 火御子…△打見・△御料・△寺本殿
 伊義渡…△開田・△懸桟・△上田殿
 大豆戸…◎能登守・◎平判官
 食渡…■安芸宗左衛門・■下条殿・■加藤判官(三千騎)
 上瀬…◎滋原左衛門・◎翔左衛門
 洲俣…■山田殿

(※◎は藤原秀康の第一次軍勢手分で「海道」、△は「山道」、■は第一次軍勢手分には登場せず)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d

となりますが、京方敗北エピソードは、

 大井戸・河合→鵜沼瀬(売間瀬)→板橋→「伊義ノ瀬」→「火ノ御子」→大豆戸→食渡

と続いて、「伊勢ノ加藤判官」エピソードに至ります。
そして、この後は、

 上瀬→洲俣

と続くので、「阿井渡」に関する記述がないのと、「火御子」「伊義渡」の順番が逆転していることを除き、秀澄の第二次軍勢手分の順番で話が進んでいます。
とすれば、「伊勢ノ加藤判官」についても担当の「食渡」での戦闘が記されてしかるべきですが、しかし、そこに出てくる地名は伊勢ばかりです。
何とも不思議ですが、とにかくこのエピソードがここに登場する意味が分からないので、27は「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と判断せざるを得ません。
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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その10)─「21.北条泰時による神土殿父子九騎の処刑 5行」

2023-10-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「14.武田・小笠原軍の渡河 2行」
「15.大内惟信と智戸六郎の戦い 3行」
「16.二宮殿と蜂屋入道の戦い 3行」

の合計8行は、短いので再掲すると、

-------
  其後、打ヒデ/\渡ス人々ニハ、一陣、智戸六郎、二陣、平群四郎、三陣、中島五郎・武田六郎ヲ始トシテ、五千騎マデコソ渡シタル。
 駿河大夫判官ト智戸六郎ト戦ケリ。判官ノ手ニカゝリ、河中ニテ廿五騎マデ射流〔いながし〕タリ。寄合〔よりあい〕、懸組〔かけくみ〕、判官ハ数多〔あまた〕ノ敵討取〔うちとる〕。子息帯刀左衛門討〔うた〕レニケレバ、後弱〔うしろよわ〕クヤ覚ケン、落ニケリ。
 二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ。蜂屋入道ハ、二宮殿ノ勢廿四騎マデ射流タリ。渡付〔わたりつき〕テ後、蜂屋入道ト二宮殿ト組タリケリ。蜂屋入道ハ多ノ敵討取テ、我身ニ痛手負〔おひ〕、自害シテコソ失ニケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3

となります。
武田軍の五千騎云々その他の数字は大袈裟かもしれませんが、軍記物の通例といえば通例ですし、後の杭瀬川合戦の児玉党三千騎のようにあまりに過大な訳でもありません。
そこで14・15・16は「B」(積極的に疑う格別の理由がない)とします。
次に、「17.市川新五郎と薩摩左衛門の戦い 3行」は、

-------
 小笠原ハ是ヲ見テ、三千騎マデ討ヒデタリ。一人モ漏サズシテ渡シケル。市川新五郎ハ、先ノ詞ネタガリテ、薩摩ノ左衛門ヲ目ニカケテ、押寄セ、熊手ヲ以〔もつて〕兜ノテヘンニ打立テ、懸テ引寄、頸ヲ討。
-------

というもので、これは「11.市川新五郎と京方・薩摩左衛門の言葉戦い 8行」を受けています。
このような戦闘場面は戦場でありふれたものでしょうが、11を「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と評価したので、11と密接不可分な17も「D」と判断します。
続く、「18.蜂屋蔵人の逃亡 4行」と「19.蜂屋三郎と武田六郎の戦い 10行」は、

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 蜂屋蔵人、是ヲ見テ、「加様〔かやう〕ノ所ハニグル甲〔かう〕ノ者、落ナン」ト思ツゝ、鞭ヲ揚テ、高山ヘゾ入ニケル。同三郎、是ヲ見テ、追付〔おひつき〕申ケルハ、「何〔いづれ〕ヘトテオハスルゾ。加程〔かほど〕ニ成ナンニ、落行〔おちゆき〕タリトモ、蝶〔てふ〕ヤ花ヤト栄〔さかゆ〕ベキカ。返シ給ヘ。父ノ敵〔かたき〕討ン、蔵人殿」ト云ケレドモ、聞〔きか〕ヌ顔ニテ落ニケリ。蜂屋三郎、力及バデヒキカエシ、武田六郎ト戦ケリ。蜂屋三郎申ケルハ、「武田六郎ト見奉ルハ僻事〔ひがごと〕カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。父ノ敵討ントテ、参〔まゐり〕テ候ナリ。手次〔てなみ〕ノホドモ御覧ゼヨ」トテ、上差〔うはざし〕抜出シ、滋藤〔しげどう〕ノ弓ニ打クハセテ、飽マデ引テ放〔はなち〕タレバ、武田六郎ガ左ノ脇ニ立タル一ノ郎等ノ冑〔よろひ〕ノ胸板、上巻〔うはまき〕マデ射通〔いとほし〕ケレバ、暫〔しばし〕モタマラズ馬ヨリ落テケリ。二矢〔にのや〕返シテ射タリケレバ、武田六郎ガ小舎人童〔こどねりわらは〕ノ頸骨ヲ、後ヘコソ射抜タレ。其後、六郎ト三郎ト引組〔ひつくん〕デ、共ニ馬ヨリ落ニケリ。上ニナリ下ニナリスルホドニ、三郎、腹巻通〔はらまきどほし〕ヲ抜出シ、六郎ガ甲〔かぶと〕ノテヘン、鎧ノワタガミマデコソカキ付タレ。六郎ハアブナク見ヘシ処ニ、武田八郎、落合テ、六郎ヲ引ノケテ、三郎ガ頸ヲ取〔とる〕。八郎ナカリセバ、六郎ヨモイキジ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

というもので、戦場では蜂屋蔵人のように裏切る人も出るでしょうし、武田六郎と蜂屋三郎の戦闘場面も全く不自然という訳でもないでしょうが、いずれも脚色が多いように感じます。
そこで、18と19は「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)と判断します。
続く「20.神土殿と上田刑部の降伏談義 9行」と「21.北条泰時による神土殿父子九騎の処刑 5行」は非常に面白いストーリーです。

(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

しかし、『吾妻鏡』六月二十日条には、

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【前略】及晩。美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人。於貴舟辺。本間兵衛尉生虜之。又多田蔵人基綱梟首云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、「美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人」が貴船近辺で「本間兵衛尉」に生捕りにされたという話は慈光寺本と矛盾します。
どちらが信頼できるかというと、武士の戦功と恩賞に関わる話は『吾妻鏡』の方が信頼できますね。
従って、20・21は「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と判断します。
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