学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その14)─「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」

2023-10-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「32.後鳥羽院、叡山御幸 5行」は、

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 去程ニ、酉時計〔とりのときばかり〕、東坂本ヘ御幸ナル。御勢纔〔わづか〕ニシテ、千騎トダニ見ヘヌゾ口惜〔くちをし〕キ。カゝルニ付〔つけ〕テハ、唯、都ノ騒〔さわぎ〕ナリ。何〔いか〕ナル御計〔おんはからひ〕ニカアレバ、又都ヘ帰リ入セマシマセバ、人ノ気色〔きそく〕、何トナクヨシト云ントスレバ、宇治・勢田両所ノ橋ヲ取破〔とりやぶり〕テ、軍場〔いくさば〕ト定メラル。公卿・殿上人モ、其道ニ叶ヒヌベキヲバ、皆差向〔さしむけ〕サセ給フ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

というものですが、リンク先の5月10日の投稿では「カゝルニ付〔つけ〕テハ、唯、都ノ騒〔さわぎ〕ナリ」云々がよく分からないと書きました。
ただ、ここは単に都が大騒ぎだというだけの話で、特に気にする必要はなかったのかもしれませんが、その次の「何〔いか〕ナル御計〔おんはからひ〕ニカアレバ、又都ヘ帰リ入セマシマセバ、人ノ気色〔きそく〕、何トナクヨシト云ントスレバ」は分かりにくいですね。
久保田淳氏は「何〔いか〕ナル御計〔おんはからひ〕ニカアレバ」について「どのような御計略があってのことであろうか。暗に、何らよい策はないのにという意を籠める」(岩波新大系、p348)とされ、また、「人ノ気色〔きそく〕、何トナクヨシト云ントスレバ」について、「文意不明。人心がやや落着いたことをいうか」(同)とされます。
私も特に久保田氏に付け加えるべきことは思い浮かばないのですが、何とも曖昧模糊とした書き方です。
ところで慈光寺本では「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」で、

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 瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者〔りつしや〕・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾〔みを〕ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向〔たちむか〕フ。行桁〔ゆきげた〕三間引放〔ひきはなち〕、大綱〔おほづな〕九筋引ハヘテ、乱杭〔らんぐひ〕・逆木〔さかもぎ〕引テ待懸〔まちかけ〕タリケリ。
 宇治ノ手ニハ、甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道ヲ始トシテ、奈良印地〔ならのいんぢ〕ニ仰附ラレケリ。真木島〔まきのしま〕ヲバ、佐々木野中納言有雅、伏見ヲバ、中御門中納言宗行、芋洗〔いもあらひ〕ヲバ、坊門新中納言忠信、魚市ヲバ、吉野執行、大渡〔おほわたり〕ヲバ、二位法眼尊長、下瀬〔しものせ〕ヲバ、伊予河野四郎入道ニ仰付ラレケリ。残ル人々ハ、按察殿ヲ始トシテ一千騎、高陽院殿ニゾ籠〔こもり〕ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

と尾張河合戦の前に瀬田・宇治にも軍勢を派遣したことになっていますが、軍事的には全く無意味であり、当該場面は本来、叡山御幸の後、まさにこの場面に置くべき記事ですね。
ここに挙げられた場所と人名は『吾妻鏡』とかなり一致しており、それなりに信頼できる内容ですが、しかし記事の位置がおかしく、結果的に「32.後鳥羽院、叡山御幸 5行」は本当に無内容になってしまっています。
ただ、曖昧模糊かつ無内容ではあるものの、32自体に脚色が多い訳でもないので、32は「B」(積極的に疑う格別の理由がない)と評価します。
さて、「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」ですが、これは全然駄目ですね。
杭瀬河合戦が六月六日の出来事であることは明らかで、叡山御幸の後というのは全く不自然です。
内容も「小玉党三千騎」はあまりに大袈裟で、軍記物の通例で済ます訳には行きません。
従って、私は33を「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と評価します。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d

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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」

2023-10-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
野口実氏が「加藤判官」を「光兼ヵ」とされるのは、おそらく『尊卑分脈』で加藤景員の孫、光兼が「承久乱時、被誅」とあって、子孫が断絶していることが根拠なのでしょうが、「加藤判官」エピソード全体が極めて怪しいので、あまり議論しても仕方ない話のように思われます。
また、前回投稿で渡辺翔の活躍を描く「28.上瀬における重原・翔左衛門の戦い 6行」を「B」(積極的に疑う格別の理由がない)と評価しましたが、翔は「34.渡辺翔・山田重忠・三浦胤義による後鳥羽院への敗戦報告 5行(☆)」で後鳥羽院への敗戦報告という重要な役割を演じており、流布本・『吾妻鏡』での藤原秀康の役割を翔が代替しています。
後鳥羽院への敗戦報告は単なる事実の報告ではなく、御所に立て籠もって戦うことへの後鳥羽院の許可を求める行為でもありますから、総大将としての藤原秀康にはふさわしくても、翔では軽すぎますね。
慈光寺本では34で翔を登場させる前提として、28で翔の活躍を描いたように見えるので、翔の行動について34を疑う以上、28は「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)が適切かもしれません。
この場合、ストーリーの骨格とは翔が「上瀬」に配置されたということですが、実はこれも慈光寺本の独自記事で、流布本や『吾妻鏡』には出てきません。
生駒孝臣氏の「後鳥羽院と承久京方の畿内武士」(『承久の乱の構造と展開』所収)によれば、

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 翔は幼少より寵童として後鳥羽院に仕えており、元久二年(一二〇五)四月の後鳥羽院主催の鞠会に「愛王」の幼名で参加していたことが確認できる。その後、後鳥羽院西面に編入され、承久の乱では官軍の主力の一人として活動することになるのだが、先行研究において、慈光寺本『承久記』での官軍としての活動は取り上げられることはあっても、乱以前の後鳥羽院との関係については言及されてこなかった。
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とのことですが(p139以下)、「乱以前の後鳥羽院との関係」という点では「愛王左衛門翔」(岩波新大系、p347)と「伊王左衛門能茂」(同、p353)の経歴はかなり重なります。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd

私は、慈光寺本において「慈光寺本『承久記』での官軍としての活動」が詳しく描かれるのは、慈光寺本作者の「伊王左衛門能茂」と「愛王左衛門翔」が幼少期から親しい間柄だったからではないかと考えています。
ちなみに渡辺翔は流布本には一切登場しません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その49)─「愛王左衛門翔トハ我事ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

ま、それはともかく、

「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
「31.後鳥羽院、二位法印尊長邸へ御幸 3行」

に進むと、これは、

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 承久三年六月八日ノ暁、員矢〔かずや〕四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各〔おのおの〕身ニ疵蒙〔かうぶり〕ナガラ、院ニ参〔まゐり〕テ申ケルハ、坂東武者、数ヲシラズ責上〔せめのぼ〕ル間、六日、洲俣河原ニシテ纔〔わづか〕ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル由ヲ奏シ申〔まうす〕ゾ、憑〔たの〕モシゲナキ。院イトゞ騒セ給ヒテ、院ニ宮々モ引具シ奉テ、二位法印尊長ノ押小路河原ノ泉ニ入セ給フ。公卿・殿上人、若キ老タル、皆物具〔もののぐ〕シテ、御供ニ候。ゲニゲニ矢一〔ひとつ〕射ン事、知ガタシ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abfe3f518960f8febf8b0841fc347508

というもので、岩波新大系では同じ段落になっていますが、内容が異なるので私は二つに分けました。
さて、慈光寺本では「員矢四郎左衛門久季」(糟屋久季)と「筑後太郎左衛門有仲」(五条有長)が尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告したことになっていますが、流布本ではこれは山田重忠の役割です。
即ち、

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 去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

とあります。
また、『吾妻鏡』六月八日条には、

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寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、後鳥羽院に報告したのは藤原秀康と五条有長とされています。
そして成立時期の早い『六代勝事記』では「糟屋の左衛門尉久季。筑後左衛門尉有永」(糟屋久季・五条有長)が報告者となっており、諸史料でバラバラですね。
この中で山田重忠の名前を挙げるのは流布本だけですが、ただ、重忠は最後まで踏みとどまって杭瀬河で戦ったのですから、重忠より前に後鳥羽院に尾張河合戦の結果を報告した者がいて、重忠はその後に報告したと考えることは可能です。
一番最初に成立した『六代勝事記』が糟屋久季・五条有長としているのですから、おそらくこの二人が最初の報告者で、重忠が追加的・補足的な報告者ではなかろうかと私は考えています。
慈光寺本は一番成立の早い『六代勝事記』に一致しているので、信頼性はありますね。

流布本と『吾妻鏡』における山田重忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff907bc44ef950c1da8300fab2f9e02e

また、「31.後鳥羽院、二位法印尊長邸へ御幸 3行」も特に疑わしい記述はありません。
ということで、30・31は何れも「A」(流布本や『吾妻鏡』その他史料との整合性があり、信頼性が高い)と評価します。
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