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『帝室制度史』を読む(その11)

2017-05-31 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月31日(水)22時42分59秒

続きです。
追号の第四類型の話となります。(p732)

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第四、二天皇の漢風の諡号の各一字を採り之を併せて追号と為せるものには、称光、明正、霊元天皇の三例あり。称光天皇は称徳、光仁の上の一字を採れるものなれど、其の縁由は明らかならず。明正天皇は元明、元正の下の一字を採れるものにして、共に女帝なることの縁由に因る。霊元は孝霊、孝元の下の一字を採れるものにして、勅定の宸翰に因るものなれども、勅定の理由に付きては所伝なし。
------

三例、いずれも連続して在位した天皇の漢風諡号二文字のうち、「前・前」「後・後」の組み合わせで一字ずつ選ぶ訳ですね。
まず、称光天皇(1401-28)は病弱で特段の実績もないまま若死した人ですが、追号は称徳女帝(孝謙重祚、718-770)と光仁(719-782)からもらっていますね。
称徳は天武系で最後の天皇、光仁は久しく帝位から離れていた天智系の人で、称徳から光仁への皇統の移行に際しては妙な事件が多く、あまり目出度い先例のようにも思えません。
ま、それはともかく、「後」付き追号の例に倣って称光の没年(1428)から称徳と光仁の没年を足して二で割った数字(776)を引いてみると652年で、けっこう長いですね。

称光天皇(1401-28)

明正天皇(1624-96)は後水尾の皇女で、称徳以来の本当に久しぶりの女帝ですね。
追号は元明女帝(661-721)と元正女帝(680-748)からもらっていますが、明正の没年(1696)から元明と元正の没年を足して二で割った数字(734.5)を引いてみると961.5年で、「後」付き追号史における最長記録である後西の845年を軽く百年以上も上回ります。

明正天皇(1624-96)

霊元天皇(1654-1732)となると、第7代孝霊と第8代孝元はその事蹟どころか存在すら歴史の彼方に消えてしまっていて、没年の西暦換算は不可能、従って引き算も出来ません。
ここまで来ると過去の天皇との縁由も何もあったものではなく、単にその字が好きだった、程度の話じゃないですかね。

霊元天皇(1654-1732)

さて、今まで追号には四つの類型があると書きましたが、実はもう一つ、分類不能なものがあります。(p732)

------
以上の外、追号の典拠の明らかならざるものには桃園天皇の一例あり。此の追号は桜町天皇が親ら其の追号として定めたまひしものなれども、其の典拠は当時より不明とせられたり。
------

桃園天皇(1742-62)は桜町天皇(1720-50)の皇子ですから、「此の追号は桜町天皇が親ら其の追号として定めたまひしもの」という説明では訳が分かりません。
そこで注記に従って「定晴卿記」を見ると(p795以下)、桜町天皇が在位中、自分の追号を「桃園院」とする旨を宸翰に記して厨子に納め、その事情を「女院」に伝えていたにもかかわらず、崩御に際して「女院」はすっかりそれを忘れてしまっていて、結局、事情を知らない摂家以下が協議し、御所の名にちなんで追号を「桜町院」にしたのだそうです。
ところが後になって当該宸翰が出て来て、「女院」に聞いたら、そういえば、とやっと思い出してくれたものの後の祭り。
で、桜町天皇の遺詔を無視したのはまずかったということで、皇位を継いだ桜町天皇皇子の崩御の際に「桃園院」の号を贈ったのだそうですね。
要するに桜町天皇が自分用に定めた追号を皇子に流用してしまった訳です。
また、桜町天皇が「桃園院」と定めた理由は結局不明のままですね。

桃園天皇(1742-62)

>筆綾丸さん
>「其の縁由の明らかならざるものも少なからず」

後醍醐が「延喜天暦の治」に思いを馳せたように、「後」付き追号も年代差が四百年程度まではそれなりの縁由を感じさせたでしょうが、七百・八百年超えとなると単なるこじつけみたいな感じですね。
第四類型の一字ずつ組み合わせパターンも、霊元になると殆どシュルレアリスムの世界です。
そして最後の最後、全く典拠不明の桃園に到達すると、そこに待っていたのはまさかのトラジコメディの世界でした。
これはさすがに予想していませんでした。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

高野山にある北朝鮮のICBM 2017/05/30(火) 13:31:54
小太郎さん
「其の縁由の明らかならざるものも少なからず」と、『帝室制度史』ですらお手上げなのは面白いですね。「後」の付く天皇名には味わい深いものがあって、後白河、後深草、後嵯峨・・・が、「後」のない別の追号になっていたら、ずいぶんつまらなくなりますね。とりわけ、後鳥羽などは、もしこの追号でなかったら、まったく惹かれかなかったかもしれません。鳥のように羽があったら、都に飛んで帰れたろうに、帰思方悠哉とはまさに君のためにある、というような。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%8B%E5%BF%9C%E7%89%A9

「受布施派と不受不施派の対立」という視点は、なるほど、興味深いですね。

-----------------
 序章で見たように、中世において、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与えたのは、顕密仏教であった。つまり中世では、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想をトータルに捉え得る枠組みを提起したのは、顕密仏教であり、顕密仏教は中世政治思想の基軸なのである。これに対して、本書で明らかにしたように、近世においては、顕密仏教にとってかわって、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与え、近世政治思想の基軸となったのは、「太平記読み」であった。顕密仏教から、「太平記読み」へと、基軸となるイデオロギーが転換したのである。(『「太平記読み」の時代』184頁)
-----------------
というような記述は、初な娘のような、と云えば語弊がありますが、あまりにナイーヴな感じがしますね。

*追記
読み返してみると、わずか十行足らずの文章の内に、「領主層・思想家・民衆の政治意識・思想」が三回、「決定的な影響」が二回、「顕密仏教」が五回、「政治思想史の基軸」が二回、「太平記読み」が二回、「「国家」についての考え方を提示」が二回・・・繰り返される偏執的なまでにくどい文体で、まるで永劫回帰のようだな、と思いました。こんな文を書くと、普通なら、作文指導の先生に注意されますね。

http://www.bbc.com/news/in-pictures-39882614
高野山の宿坊は外国人に人気があるようですが、奥之院にはJAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)の法人墓のようなものまであるのですね。北朝鮮の大陸間弾道弾かと思いました。

明日(6月1日)から、小旅行をしてきます。
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『帝室制度史』を読む(その10)

2017-05-30 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月30日(火)11時56分18秒

ついで追号の第三分類に移ります。

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第三、前の天皇の追号に後の字を冠したる追号には、後一条天皇を最初として二十六例あり。後一条、後朱雀、後冷泉、後三条、後白河、後鳥羽、後堀河、後嵯峨、後深草、後宇多、後伏見、後二条、後醍醐、後村上、後亀山、後小松、後花園、後土御門、後柏原、後奈良、後陽成、後水尾、後光明、後西、後桜町、後桃園は是なり。此の中、後深草は仁明(深草)天皇、後小松は光孝(小松)天皇、後柏原は桓武(柏原)天皇、後奈良は平城(奈良)天皇、後水尾は清和(水尾)天皇、後西は淳和(西院)天皇の各別称に、後光明は光明院の追号に後の字を冠せるものなり。其の前の天皇の号を継承せる縁由に付きては、或は前の天皇の御子なるに因り、或は前の天皇と御在所の宮名同じきに因り、或は前の天皇と御事蹟相似たるに因る等種々あり。其の縁由の明らかならざるものも少なからず。
------

「後」の付く天皇と「後」の付かない天皇が、追号決定の時点において年代的にどれくらい離れているのかな、と思って、例えば最初の後一条天皇(1008-36)の没年から一条天皇(980-1011)の没年を引いてみると、25年ですね。
この二人は親子なので、まあ当たり前の年代差です。
次の御朱雀と朱雀は四世代離れていて93年。
同様に没年の引き算をしてみると、後冷泉:57年、後三条:56年、後白河:63年、後鳥羽:83年ですね。
ここまでは二桁ですが、後堀河(1212-34)と堀河(1049-1107)は127年、次の後嵯峨(1220-72)と平安初期の嵯峨(786-842)は実に430年離れています。
後深草も深草帝(仁明天皇の異名)との差が454年、後宇多も393年離れていますが、次の後伏見は伏見の子なので19年。
後二条は143年ですが、後醍醐:409年、後村上:401年で再び四百年越えです。
次の後亀山は119年ですが、後小松は小松帝(光孝天皇の異名)との差が546年。
そして後花園:123年、後土御門:269年を挟んで後柏原(1464-1526)になると、柏原帝(桓武天皇の異名)との差は実に720年、次の後奈良(1497-1557)も奈良帝(平城天皇の異名)との差は733年です。
後陽成(1571-1617)も668年と相当長いですが、次の後水尾は水尾帝(清和天皇の異名)との差が799年。。
ついで後光明:274年を挟んで後西(1638-85)となると、西院帝(淳和天皇の異名)との差が実に845年で、これが「後」付き追号史における最長記録ですね。
その後、後桜町は63年に縮小し、最後の後桃園(1758-79)は桃園皇子で17年差です。
二桁で始まった「後」付き追号ですが、鎌倉時代の後堀河で初めて百年を超えたと思ったら、次の後嵯峨で一気に四百年超えとなり、室町初期の後小松で五百年超え、戦国時代に入って後柏原で七百年超えですね。
ついで江戸時代の後水尾で八百年にギリギリ近づき、後西で845年の最長記録に達したとたん、急速に縮小して最後は最初と同じく親子で終わる訳ですね。
最初のころは人々の具体的記憶に残るような年代差だったのが鎌倉期にはずいぶん離れ、戦国・江戸期で七百・八百超えとなると、実際には、そんな人が昔いたね、程度の関係になってしまった、ということのようですね。
ま、だから何なんだ、という話ですが。
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『帝室制度史』を読む(その9)

2017-05-30 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月30日(火)11時54分37秒

ちょっと日が空いてしまいましたが、続きです。(p731)

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第二、山陵に因る追号には、醍醐、村上、東山天皇の三例あり。醍醐天皇は山城国宇治郡醍醐寺北後山科陵に、村上天皇は山城国愛宕郡村上陵に葬りしに因り、東山天皇は御陵所在の泉涌寺の山号に因るものなり。
------

平安時代の醍醐・村上天皇の場合は確かに山陵の名前ですが、東山天皇(1675-1710)の場合、「泉涌寺の山号」なので若干変な感じがしますね。
泉涌寺は5月27日の投稿で私が悪口を言った四条天皇の葬儀に携わったことをきっかけに天皇家の一大墓所となった寺で、同寺公式サイトにも、

------
大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。

http://www.mitera.org/outline/

などとあります。
要するに四条天皇以下の多くの天皇にとって「泉涌寺の山号」は縁があるのに、何故か東山天皇だけが独占するような印象を与える命名じゃないですかね。
「東山」という空間もあまりに広大、あまりに空漠とした感じがしないでもありません。
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不受不施派との思想闘争の副産物?

2017-05-30 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月30日(火)10時19分31秒

>筆綾丸さん
一昨日は父の四十九日の法要があり、昨日も雑用で『「太平記読み」の時代』を読み進めることが全くできなかったのですが、ご指摘の『理尽鈔』の(推定)著者と日蓮宗の関係はちょっと気になっていて、あれこれ考えていました。
私は日蓮宗の歴史に全く疎いのですが、仮に受布施派と不受不施派の対立を背景におき、陽翁=法華法印日翁(日応)が受布施派だったとすると、不受不施派という激烈な反体制派との思想闘争の中で相手を攻撃する論理を徹底的に突き詰めた結果、極端に体制擁護的な思想が生まれた可能性があるのでは、などと思っています。
こう考えると、岡山藩において、『理尽鈔』の思想を深く極めたらしい池田光政の下で徹底的な不受不施派への弾圧が行なわれたこととも整合性が取れそうな感じがするのですが、まだまだ思いつき程度のことなので、もう少し調べてみたいと思います。
近世史の専門家である若尾政希氏は、中世の理解としては黒田俊雄氏の権門体制論・顕密体制論に全面的に依存しているようですが、この点は若干の疑問が残ります。
富山県出身で、母親が浄土真宗のお寺さんの娘であった黒田俊雄氏は、エマニュエル・トッドの用語を借用するならば「ゾンビ真宗門徒」であって、中世社会の理解においても、一貫性のないところに過度に一貫性を求め、体系のないところで過度に体系化を推し進めた人ではないか、と私は思っていて、特に中世後期は既に宗教的にもバラバラな社会で、権門体制論・顕密体制論には無理が多いように感じます。

不受不施派

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

法華宗の自己免疫 2017/05/28(日) 13:56:57
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98%E8%A9%95%E5%88%A4%E7%A7%98%E4%BC%9D%E7%90%86%E5%B0%BD%E9%88%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%AE%89%E5%9B%BD%E8%AB%96
若尾政希氏『「太平記読み」の時代─近世政治思想史の構想』を拾読みしてみました。
----------
・・・陽翁は、法華法印日翁(日応)とも呼ばれる法華宗(日蓮宗)の僧侶であり、『理尽鈔』の講釈を始めた人物として知られる。(30頁)
----------
ですが、川平敏文氏の以下の解説に興味を惹かれました。
-------------
・・・大運院陽翁をはじめとする日蓮門徒と「太平記読み」との関わりである。従来、仏教の僧侶が説教の合間に、聴聞者への娯楽的サービスとして『太平記』講釈を取り入れていたことが指摘されているが、それとは別に、近世初期の日蓮教学と『理尽鈔』の思想的対照、および、『理尽鈔』のなかに見られる仏教批判的言説ーあらゆる宗派が批判されており、日蓮宗もまた例外ではなかったーをどのように位置付けるかという点が、解明されなくてはならないだろう。(413頁)
-------------
『太平記評判秘伝理尽鈔』は、宗祖日蓮の攻撃的批判精神(『立正安国論』)を継承した法華宗の僧侶ならではの産物とみるべきなのか、あるいは、法華宗の僧侶が講釈を始めたのは唯の偶然であって他宗派の僧侶でもできたと考えるべきなのか。他宗派の僧侶が『太平記』のような軍記物に傾倒する姿は、教義上、なかなか想像しにくいものがありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%96%BE%E6%82%A3
日蓮宗自体も批判されるというのは、自己免疫(autoimmunization)を思わせるものがあり、それはそれで面白いものがありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88
公家社会の古今伝授と武家社会の太平記評判秘伝は、パラレルというか、糾える縄の如くに見えなくもないですね。
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『帝室制度史』を読む(その8)

2017-05-27 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月27日(土)21時29分12秒

続きです。(p728以下)

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光格天皇以後諡号の制再興せられ、院号を以て追号とすること亦随つて止みたり。明治天皇崩じたまふに至り、大正天皇は先帝御在位中の元号を以て先帝の追号に勅定したまへり。元号を以て天皇を称し奉ることは、平安時代以後其の例少からざれども、公に元号を追号として定められしは、之を以て最初と為す。蓋し明治の初に一世一元の制を定めたまひしに因る。大正天皇の追号も亦此の例に拠り勅定せられたり。
-------

「光格天皇以後諡号の制再興せられ、院号を以て追号とすること亦随つて止みたり」とサラッと書いてありますが、「光格」という生前の事績等を考慮して案出した美称としての「諡号」の復活、即ち長く続いた価値中立的な「追号」の停止という側面と、これも長く続いた「院号」を止めて古代の「天皇号」を復活させるという側面と、二つの側面が合体していますね。
これがちょっと誤解しやすいポイントですが、後で改めて検討します。

さて、この後は追号の分類です。
全部で四種類ありますね。(p729以下)

-------
平城天皇より後桃園天皇に至る歴代天皇の追号に就き其の典拠を案ずるに、第一御在所に因るもの、第二山陵に因るもの、第三前の天皇の追号に後の字を冠するもの、第四前の二天皇の諡号の文字を併せたるものゝの四種に分つことを得べし。

第一、御在所に因る追号には、更に地名に因るもの、宮名に因るもの、寺名に因るものゝの三あり。地名に因る追号は平城天皇の一例あるのみ。其の縁由に付きては既に述べたり。宮名に因る追号は二十四例に及び、就中、一条、堀河、近衛、二条の四天皇は在位中の皇居の宮名に因り、嵯峨、淳和、清和、陽成、宇多、朱雀、冷泉、三条、白河、鳥羽、六条、高倉、土御門、亀山、伏見、花園、桜町の諸天皇は譲位後の御在所の宮名に因るものなり。四条天皇は御葬家西園寺実氏の三条西洞院第を御在所に擬し特に四条院と称したるに因り、正親町天皇は御在所二条殿の面せる町名(正親町)に因り、中御門天皇は御在所に近き内裏の宮門待賢門の別称(中御門)に因る。寺名に因る追号には、円融、花山天皇の二例あり。円融天皇は譲位の後円融寺に御したまひしに因り、花山天皇は遜位の時元興寺(花山寺)に於いて出家したまひ、後京都の御在所を花山院と称したるに因る。此の外、長慶天皇は典拠不明なれども亦寺名に因るものゝ如し。但し長慶院の所在は明らかならず。
-------

いったんここで切ります。
「四条天皇は御葬家西園寺実氏の三条西洞院第を御在所に擬し特に四条院と称したるに因り」とありますが、やはりちょっと変則的な感じがしますね。
前回投稿で四条天皇の悪口を言ってしまいましたが、まあ、数えで12歳、今なら小学校高学年の児童ですから、悪戯が過ぎての事故死も仕方ないといえば仕方ない感じもします。
ただ、周辺はまさかその若さで死ぬとは全然予想していませんからびっくり仰天、対応に苦慮する訳です。
そして、当時権勢を振るっていた九条道家は後継には佐渡に流されていた順徳院の皇子が良いと判断し、幕府側の了解を待っていたところ、幕府は順徳院の皇子ではなく策士・土御門定通が庇護していた土御門院の皇子、即ち後の後嵯峨天皇を選択するという大逆転劇が起こってしまった訳ですね。
これをきっかけに九条道家の系統は急坂を転げ落ちるように没落し、その配下の貴族たちの人生も暗転します。
実は「徳」諡号の問題の背景にある「怨霊」騒ぎにはこうした事情も影響していて、「怨霊」がどーたらこーたらと熱心に記録に残している貴族たちは、自身に不利な政治的局面の打開のために「怨霊」に活躍して欲しい人たちでもあります。
川合康氏の「武家の天皇観」(『講座 前近代の天皇 第四巻』、青木書店、1995)などを読むと、まるで川合氏自身が何かに憑りつかれたかのように「怨霊」を熱く語っていてちょっと莫迦っぽいのですが、この種の記録は多少、というか、かなり割り引いて考えなければならないと私は思っています。

後嵯峨天皇(1220-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
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『帝室制度史』を読む(その7)

2017-05-27 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月27日(土)07時48分28秒

あまり先走らず、「第二款 追号」の紹介を続けたいと思います。
「院号」の登場とその段階的増殖、そして大正時代に入ってからの消滅ですね。(p727以下)

------
天皇の追号に院号を以てすることは、宇多天皇を最初とし、在位に於いては是より先なれども其の後に崩じたまひし陽成天皇も亦其の例に拠れり。院は本来上皇の殿舎の称にして、転じて其の殿舎に在ます上皇をも某院と称し奉り、延きて崩後の追号にも院の字を附することゝなれるなり。宇多天皇の後、醍醐天皇は譲位の後数日にして崩御あり、村上天皇は譲位なかりしを以て、共に山陵に因る名を以て追号と為し、院号を以てせざりしが、冷泉天皇以後は、譲位ありしと否とを問はず、常に某院と称し奉る例となり、追号は即ち院号となるに至れり。是より以後は、啻に殿舎の称に拠る追号のみならず、殿舎に関係なき追号にも常に院の字を附することゝなり、崇徳、顕徳(後鳥羽)、順徳の三天皇に至りては、諡号にして尚追号に準じ、院の字を附せり。後世の文献には、冷泉天皇以後に在りても、某院と称せずして、某天皇又は某院天皇と記し、又は此等を混用して一定せざるものあれども、安徳天皇及び後醍醐天皇を除くの外、何れも某院と追号せられしことは資料に徴し之を窺ふを得べし。安徳に院の字を附せざるは諡号なるに因り、後醍醐天皇には、神皇正統記に「後の号をば、仰のまゝにて後醍醐の天皇と申す」とあるに拠れば、院の字を附せざりしが如しと雖も、他の諸書には後醍醐院と記せるものも少からず。大正十四年に至り従来某院天皇と称する例ありしを改めて爾後院の字を除くことに勅定せられたり。
------

漢風諡号が廃れて追号になってしまった原因について、『帝室制度史』では特に触れるところがありませんが、いくら美称とはいえ、天皇への評価はけっこう難しい問題で、廷臣たちにとってあれこれ考えるのが重荷になってしまった、という事情もありそうですね。
宮中殺人事件の容疑者である陽成天皇など、群臣協議の上、諡号を決定する必要に迫られたら議論が紛糾して大変な事態になったかもしれませんが、追号ならそのような難しい状況を簡単に回避できます。
歴代天皇の中には鎌倉時代の四条天皇のように、床に蝋石を塗って近臣を転倒させて笑おうと思っていたら自分が滑って頭を打ち、そのまま死んでしまいましたとさ、というような前代未聞のお莫迦で、誉めようにも誉める部分がひとつもない天皇もいた訳で、もしも諡号が必須だったら廷臣は頭を抱えてしまったはずです。
その点、追号は実に便利で、実際的ですね。
ま、それはともかく、「本来上皇の殿舎の称」であった「院」が上皇の追号となり、ついで在位中に死去した天皇の追号にもなり、更には崇徳・顕徳(後鳥羽)・順徳のように諡号にも付けられてしまうことになる訳ですが、しかし安徳に限っては、何故か「安徳院」ではなく「安徳天皇」とされています。
「安徳に院の字を附せざるは諡号なるに因り」とありますが、諡号である点は崇徳・顕徳(後鳥羽)・順徳も同じですから、何故に安徳だけ「安徳院」ではないのか、良く分からないですね。
ま、理由はともかく、事実として「安徳院」と称されたことはないようで、この点は光格天皇の諡号を定める議論の際にも重要な先例として参照されることになります。
なお、後醍醐については北畠親房が屁理屈を言っていますが、史料上、「後醍醐院」と呼ばれている例は山ほどありますね。
また、「大正十四年に至り従来某院天皇と称する例ありしを改めて爾後院の字を除くことに勅定せられたり」とありますが、この結果、一番気の毒な事態となってしまったのは後西院です。
後西院の追号は淳和天皇の異称「西院帝」にちなんだもので、「西」と「院」を切り離したら意味がなく、この人に限っては「後西院天皇」でもよかったはずですが、バッサリ切られて「後西天皇」になってしまいました。

陽成天皇(869-949)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
四条天皇(1231-42)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
後西天皇(1638-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87
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『帝室制度史』を読む(その6)

2017-05-27 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月27日(土)06時20分39秒

諡号についての解説がp657で終わった後、史料紹介が延々と続き、p725から追号の解説となります。

-------
第二款 追号

天皇崩後の称号に諡号と追号とを分つは、諡号は崩後聖徳を頌する美称を撰上するものなるに対し、追号は讃美の意を含まず、御在所名、陵名又は其の他天皇に縁故ある名辞を以て、天皇を称し奉るの別あるに因る。但し此の区別は公に定められたるものに非ず、両者を汎称して等しく諡号又は追号と謂へる例も少なからず。

御在所等の名を以て天皇を称し奉ることは、上古以来我が固有の慣習なりしが如く、称徳(高野)天皇以後は山陵名を以て天皇を称し奉る例をも生ぜりと雖も、漢風諡号の制起る以前に在りては、公に之を追号として定められしに非ず。諡号の制起るに及び、平安時代の初期に於いて、在位中に崩じたまひし桓武、仁明、文徳、光孝の四天皇には、何れも漢風の諡号を上りたれども、平城天皇は譲位の後、平城(奈良)を御在所と為したまひしに因り、平城天皇(又は奈良天皇)と称し奉り、漢風の諡号を上らず、後世之を以て公式の追号と為すに至れり。是より以後、譲位ありし天皇は譲位の後御在所の名を以て称し奉り、崩後も引続き其の称を用ふるの例を為し、遂に光孝天皇を最後として諡号撰上の事止み、一般に譲位後の御在所名を以て追号と為し、譲位の事なく在位中に崩じたまひし天皇は、皇居の宮名を以て追号と為すを定例とするに至れり。譲位なかりし天皇には、或は山陵名を以て追号と為せるもあり。更に後一条天皇以後は、前の天皇と御在所を同じくしたまひしこと又は其の他の縁由に因り、前の天皇の追号に後の字を冠して追号と為すの例を生じ、又称光天皇を最初として、二天皇の諡号の各一字を採り之を併せて追号と為すの例をも生ぜり。
-------

諡号は「聖徳を頌する美称」であり、追号は「讃美の意を含まず、御在所名、陵名又は其の他天皇に縁故ある名辞を以て、天皇を称し奉る」価値中立的な称号ですが、実際にはそのように明確に区別して用いられている訳ではありません。
後で改めて検討しますが、この二つの用語の混乱に加えて「天皇号」と「院号」の区別が加わって混乱が増幅されます。
光格天皇に諡号を贈る決定がなされた経緯を見る場合には、個別の史料において、関係者がいかなる意味で「諡号」という用語を用いているのかを慎重に検討する必要があります。
東京大学名誉教授・渡辺浩氏の誤解の原因はこのあたりにありますね。
他方、藤田覚氏にはそのような概念の混乱はありませんが、残念ながら同氏には公家社会を理解する基本的なセンスが乏しいので頓珍漢な方向への暴走が見受けられます。
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山口昌男と後深草院二条

2017-05-26 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月26日(金)23時14分37秒

24日の投稿で書いたように、私は藤田覚氏の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という見解は単なる勘違いだと思っています。
そこで、近世において『太平記』の読者層は具体的にどのようなものだったのかを知りたくて若尾政希氏の『「太平記読み」の時代─近世政治思想史の構想』(平凡社ライブラリー、2012、初版は1999)読み始めたのですが、この本は異常に面白いですね。
若尾氏が着目する『太平記評判秘伝理尽鈔』は、日本の「宗教的空白」がいかにして生まれ、変容して行ったか、という私自身の問題意識に照らしても、参考にできる箇所が極めて多いように感じられます。
読み終わった後で少し感想を書きたいと思います。

『「太平記読み」の時代』
若尾政希氏

>筆綾丸さん
>あの労作
ありがとうございます。
熱心に更新していたのは最初の数年だけで、後は時々補充した程度、2005年あたりからは単に閲覧できるだけの状態だったのですが、それでも時には質問をもらったりしていました。
約20年の間、誰からも指摘されなかったのですが、私としては『後深草院二条』は山口昌男のアルレッキーノ論の応用問題という位置づけでした。
1990年頃、それなりの危機感をもって様々な本を読んでいた中で、私には山口昌男の著作が特別に光り輝くものに見えました。
そしてその数年後、『問はず語り』に出会い、次いで『増鏡』を読んで、この二つの作品の間にもの凄く頭が良くて冗談好きなアルレッキーノが隠れている、ここに山口理論を全面展開できる舞台がある、と確信して、憑りつかれたように中世文学・中世史の世界に分け入って行ったのですが、これは一生の間でもめったに味わうことのできない楽しい日々でした。
今年の二月、本当に久しぶりに山口昌男の読み直しを行なったところ、昔のように山口ワールドに楽しく没入することはできず、その限界をいろいろ考えさせられたのですが、それでも山口昌男は私にとってのかけがえのない先生ですね。
山口昌男は東大国文出身で、卒論も中世を扱っていますから、『問はず語り』を読んでいないはずがないのですが、不思議なことに山口が『問はず語り』に言及した文章を見つけることができません。
あるいは山口が理解できる「笑い」の質と、後深草院二条の「笑い」の質が違うのかな、などと考えたことがあるのですが、本人にお聞きする機会は永遠に失われてしまいました。

>オマール君
ウサギの世界にもネコ界のオマール君に匹敵する存在がいるようですね。


※追記(2018.5.22)
「山口昌男は東大国文出身で」は間違いで、文学部国史学科の出身です。
ちなみに大学院は国文学を希望したものの、落ちたそうです。

「山口昌男が大学院に落ちた理由」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Edo ergo sum 2017/05/26(金) 19:11:47
小太郎さん
『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について─』がインターネットから削除された理由は知りませんが、あの労作の消失はほんとに勿体ないことです。

http://www.bbc.com/news/world-australia-39931050
あのサイトには猫のイラストがいろいろ登場しましたね。世の中には大きな猫(体長120?、体重14?)がいるもので、Cogito ergo sum が似合いそうな風格がありますが、オマール君は、むしろ、Edo ergo sum というべきかもしれません。
http://mymemory.translated.net/ja/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E8%AA%9E/%E8%8B%B1%E8%AA%9E/edo-ergo-sum

-------------
"We buy human-grade kangaroo meat at the supermarket," Ms Hirst said. "It's the only meat we could find that he actually wants to eat."
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スーパーで human-grade kangaroo meat を買うというのは、お国柄ですね。
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諡号「顕徳院」が追号「後鳥羽院」になった理由

2017-05-26 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月26日(金)07時54分43秒

>筆綾丸さん
>「『徳』諡号と怨霊」は、懐かしい議論ですね。

私が『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について─』を開設したのは1996年で、歴史関係のそれなりに充実した分量の個人サイトとしてはかなり早い時期だったと自負しているのですが、野村朋弘氏は私よりも更に前に『鎌倉時代』を開設され、「諡法解」の元となる論稿も掲載されていましたね。
あれから二十年経ち、野村氏も今や「准教授」の称号の持ち主なので、昔のように「野村くん」などと気安く呼ぶことも躊躇われます。

久しぶりに野村氏の「『徳』諡号の示すもの」を読んでみると、後鳥羽が延応元年(1239)2月に隠岐で死去し、いったんは同年5月に「顕徳院」との諡号が贈られていたにも拘らず、仁治三年(1242)正月の四条天皇の頓死に伴なう政治的混乱の中で後嵯峨が皇位を継いだ後、同年6月に「後鳥羽院」との追号に改められてしまった経緯について、野村氏が、

-------
 しかし崇徳・安徳・顕徳・順徳の四帝のうち、顕徳は後嵯峨の登極と共に後鳥羽と称号を変更されてしまいます。この当時、承久の乱の勝利者である幕府側の重鎮は次々と死去し顕徳の恨み・怒りに因るものだとの風説が起きています。
 「徳」と云う美称を奉ると云うことは即ち、怨霊となる可能性が非常に高いとも云えます。それが故に顕徳から後鳥羽への「変更」は顕徳怨霊化を否定すると考えられます。
 鎌倉時代後期になると後鳥羽は朝廷内でも承久の乱をおこした悪王であるとの認識が出てくる事も怨霊ではないと云う捉え方が浸透したと表われでしょう。


とされているのは、ちょっと問題を一般化しすぎているような感じがしないでもありません。
諡号「顕徳院」から追号「後鳥羽院」への変更については川合康氏が「武家の天皇観」(『講座 前近代の天皇 第四巻』、青木書店、1995)において土御門定通の役割を強調され、また、川合説を受けて森幸夫氏も「あるいは定通に対し、幕府から改名への働きかけがあったのかも知れない。とすれば、その中心となったのは定通の義兄弟重時であったろう」などと言われているのですが(『人物叢書 北条重時』、吉川弘文館、2009)、私は森氏の見解には賛成できません。
後嵯峨践祚に貢献した土御門定通は屁理屈で周りを困らせる才能に恵まれた変人なので、仁治三年(1242)にはこの変人の不穏当な見解がまかり通ってしまったけれど、変人が宝治元年(1247)に死んでくれたおかげで、順徳院が佐渡で死去した建長元年(1249)には、やはり配流地で亡くなった天皇には「徳」諡号を贈りましょうという穏当な見解に戻った、それを主導したのは後嵯峨天皇だった、というのが私の考え方です。

土御門定通は変な人
後嵯峨院

※追記(2018.5.21)
上記文中、「順徳院が佐渡で死去した建長元年(1249)」と書いてしまいましたが、これは勘違いで、順徳院崩御は仁治三年(1242)九月です。
崩御後、暫くは「佐渡院」と呼ばれていて、諡号が贈られたのが建長元年(1249)です。
この点はリンク先の投稿(2017年6月6日)で補足しておきました。
土御門定通の専横の影響という趣旨はそのまま維持できるものと考えています。

順徳院について

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

建礼門院のこと 2017/05/25(木) 12:41:43
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%AC%A5%E8%B3%80%E5%AD%90
「延享元年甲子□月□日生于倉吉、宝暦二年従父入京師、同四年□月出テ仕櫛笥隆望朝臣家、同五年□月為御使番生駒左門<大江>守意養女於新崇賢門院御局針女出仕」
新崇賢門院は櫛笥家の出身で、磐代の父君と櫛笥家にはどんな関係があったのか、興味を惹かれますが、今となってはわからないのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%A9%8B%E4%BB%B2%E5%AD%90
さらに、新崇賢門院(櫛笥賀子)の院号がなぜ崇賢門院(広橋仲子)を踏まえたものなのか、これも興味を惹かれます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BE%B3%E5%AD%90
「『徳』諡号と怨霊」は、懐かしい議論ですね。
平徳子は諱とは云え、なぜ『徳』なのか、という疑問は依然として不明のままです。入内の時には諱がなければならず(おそらく)、徳子の諱は、崇徳の諡号以後で安徳の諡号以前、という一種不気味な時期に決められているわけですね。
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『帝室制度史』を読む(その5)

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)11時10分41秒

続きです。
平安初期に山鳥の尾のように長い長い和風諡号も消え、漢風諡号の全盛時代が到来するかと思いきや、実際には漢風諡号も間もなく絶えて価値中立的な追号の時代になってしまいます。(p652以下)

------
光仁、桓武、仁明、文徳、光孝の漢風諡号に付いては、光仁天皇の諡号告文が西宮記に見え、光孝天皇の諡号が寛平元年八月に定められしことが日本紀略に見えたる外には徴すべき資料の伝はれるものなし。

是より以後は諡号の制絶え、之に代へて専ら追号を定められしが、崇徳天皇の保元の変に拠り讃岐国に崩じたまふや、治承元年七月二十九日特に追尊して崇徳院の諡号を上り、爾来遠国に遷幸の後崩じたまひし天皇には特に諡号を上るの例を為し、長門国に崩じたまひし安徳天皇の諡号は文治三年四月に、隠岐国に崩じたまひし後鳥羽天皇の最初の諡号顕徳院は延応元年五月に、佐渡国に崩じたまひし順徳天皇の諡号は建長元年七月にそれぞれ定められたり。
------

その追号の大きな流れの中で、「崇徳」「安徳」「順徳」、そして後鳥羽院の最初の諡号である「顕徳」の四つの諡号が奇妙な小波を立てるのですが、これが「怨霊」と関係することは前々回の投稿「『徳』諡号と怨霊」で述べました。

「徳」諡号と怨霊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b0b80180555abf605b6f4cdecc1702c

そして、「順徳」以後、改めて続く追号の大きな流れに逆らって、19世紀に突如として登場するのが「光格」という諡号ですね。(p653以下)

-----
此等の諸例を除くの外、一般には歴代専ら追号を上るの例なりしが、光格天皇崩じたまふに及び、御子仁孝天皇は先帝御在位中故典旧儀を復興したまひし聖績に付き叡慮あり、久しく中絶したる諡号奉上の儀を再興したまひ、東坊城聡長等の勧進に依り天保十二年閏正月二十七日に陣儀を行はしめ、光格天皇の諡号を宣命を以て山陵に告げ、詔書を以て天下に宣示したまへり。之に依り諡号の制は再び開かれ、仁孝天皇及び孝明天皇の諡号はこの例に拠り相次いで勅定せられたり。明治維新の後に及び、明治三年七月二十四日従来諡号又は追号の沙汰なかりし大友帝に弘文天皇、廃帝大炊王に淳仁天皇、九条廃帝に仲恭天皇の諡号を定めたまへり。
------

弘文・淳仁・仲恭天皇の諡号は実に明治に入ってから贈られたものなんですね。
ま、これも面白い話がいろいろありますが、パスします。
次いで諡号を選ぶ手続きです。(p654以下)

------
光仁天皇以後に於ける此等の漢風諡号撰定の儀に付きては、西宮記所載の光仁天皇諡号告文に「考諸六籍、諮于百寮」と見え、又崇徳天皇の諡号は通典に拠り撰進せられたること玉葉に見え、光格天皇以後も同じく支那の古典より文字を撰び、公卿に勅問ありて定められたるを以て見れば、他の御歴代諡号に付いても同じく、支那の古典を典拠とし、公卿の儀に依り撰進せられたることを推し得べし。諡号定まれるときは、之を祭文を以て先帝の山陵に告げ、勅書を以て諸司に施行すること西宮記に見え、光格天皇の例も亦同様なれども、崇徳、顕徳の両諡号には勅書なかりしこと百錬抄に見えたり。
-------

この後、もう少し解説が続くのですが、省略します。
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『帝室制度史』を読む(その4)

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)10時38分7秒

「第一款 諡号」の続きです。(p650以下)

------
漢風の諡号は神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武、仁明、文徳、光孝、崇徳、安徳、順徳、仲恭、光格、仁孝、孝明は是なり。
------

最後の三つだけが江戸時代で、これだけ見てもかなり異質な感じはしますね。
また、奈良時代の聖武・孝謙・称徳については、そもそもこれらが諡号なのか、という面倒な問題があり、若干の説明が出てきますが、古代史に深入りするのは避けます。

-------
此等の中、聖武、孝謙、称徳の号は、初めは尊号として上りしものにして、淳仁天皇の天平宝字二年八月百官及び僧綱上表して孝謙天皇に宝字称徳孝謙皇帝の号を上らんことを請ひ、勅してこれを許したまひ、次いで同月勅旨を以て聖武天皇に勝宝感神聖武皇帝の尊号を追贈したまひしに基づくものなり。天皇に漢風の称号を上れることの史に見えたるは、蓋し之を以て最初とす。称徳孝謙の号は天皇御在世中に上りたる尊号なれども、続日本紀に之に註して「出家帰仏、更不奉諡、因取宝字二年百官所上尊号称之」とあるに拠れば、尊号を以て後に諡号と定められしものゝ如し。聖武の号も亦当時は諡号は国風に拠るとの例なりしを以て、之を諡と為さず、尊号として追贈せられしものなれども、後に漢風の諡号行はるゝに至り、之をも諡号と定められたるが如し。
-------

また、神武以下の大昔の天皇の諡号は、実際には奈良時代に淡海三船が創作したものですね。

------
神武以下漢風諡号の撰定せられし事情に付いては、釈日本紀に「私記曰、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也」と見えたるに因り、淡海三船が勅を奉じて撰進したることを知るを得べく、其の時期は明らかならざれども、淡海三船は延暦四年に卒去したること及び垂仁、応神、仁徳、敏達等の諡号は続日本紀天応元年及び延暦九年の記事に見えたることに因り、奈良時代の末期に於いて撰進せられしものなることを推定し得べし。
------
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「徳」諡号と怨霊

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)10時03分29秒

>キラーカーンさん
>承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。

土御門院は討幕計画には当初から全く関係していなくて、京から離れたのは幕府による強制的な追放ではなく、父が遠国に流されているのに京で安穏としているのは畏れ多い、という気持ちからの自発的な引っ越しですね。
私のサイト『後深草院二条』が閉鎖される前は『増鏡』を直ぐに引用できたのですが、ちょっと検索してみたらsantalab氏の『Santa Lab's Blog』に、

-----
中の院は初めより知ろし召さぬ事なれば、東〔あづま〕にも咎め申さねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと畏れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多〔はた〕と言ふ所に渡らせ給ひぬ。
【中略】
せめて近きほどにと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。


とありました。
もちろん内心の問題ですから土御門院の真意がどこにあったのかは分かりませんが、少なくとも幕府を恨んで「怨霊」になるような人ではなかったことは明らかです。
保元の乱に敗れ、讃岐に流されて憤死した崇徳院以来、諡号の「徳」は「怨霊」と関係づけられていて、祟りを恐れて良い名前をつけて慰めるという意図があったそうですが、土御門院は怨霊候補ではないので「徳」を贈ろうという発想は全く出なかったようですね。
このあたりも野村朋弘氏の「諡法解」が参考になります。

「『徳』諡号の示すもの」(『鎌倉時代』サイト内)

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

素朴な疑問 2017/05/25(木) 00:50:53
>>「第四節 諡号及び追号」

承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。
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『帝室制度史』を読む(その3)

2017-05-24 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月24日(水)22時51分18秒

「第二節 敬語及び書式」「第三節 御名」は当面の問題には関係ないのでパスして、「第四節 諡号及び追号」に進みます。
天皇が死去した後の称号の問題ですね。(p648以下)

------
第四節 諡号及び追号
 第一款 諡号

天皇崩御の後聖徳を頌して諡号を上ることが、上古に於いて我が固有の習俗として行はれたりしや否やは、確証の伝はれるものなし。少くとも諡号が公の制度として認めらるゝに至りしは、支那の制度の影響に因るものゝ如く、大宝令公式令に平出すべきものの一として天皇諡を挙げたるは、蓋し我が国に於いて制度上に諡号の事を認めたる最初なり。令義解には諡に註して「諡者、累生時之行迹、為死後之称号。即経緯天地為文、撥乱反正為武之類也」と曰へり。現に諡号を上りしことの史に伝はれるは、文武天皇の大宝二年十二月持統天皇崩じたまひ、翌三年十二月諸王諸臣先帝を誄し、大倭根子天之広野日女〔オホヤマトネコアメノヒロノヒメ〕尊の諡号を上りしこと続日本紀に見えたるを初見とす。蓋し大宝令の制に拠りしものなるべく、爾来諡号を上ること相次いで行はるゝに至れり。

諡号には我が固有の国語を以てせる国風の諡と支那の諡法に出でたる漢風の諡との二種あり。

上代に於いては諡号は専ら国風に拠りたり。前に挙げたる持統天皇の諡号を初め、文武天皇の倭根子豊祖父〔ヤマトネコトヨオホヂ〕天皇、元明天皇の日本根子天津御代豊国成姫〔ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ〕天皇、元正天皇の日本根子高瑞浄足姫〔ヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメ〕天皇、聖武天皇の天璽国押開豊桜彦〔アメシルシクニオシハルキトヨサクラヒコ〕尊、光仁天皇の天宗高紹〔アメムネタカツギ〕天皇、桓武天皇の日本根子皇統弥照〔ヤマトネコアマツヒツギイヤテラス〕尊、平城天皇の日本根子天推国高彦〔ヤマトネコアメオシクニタカヒコ〕尊、淳和天皇の日本根子天高譲弥遠〔ヤマトネコアメタカユヅルイヤトホノ〕尊は何れも其の例なり。此等の中、元明天皇、元正天皇の諡号奉上に付いては所伝なしと雖も、持統天皇を初め文武天皇、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、淳和天皇は何れも崩御の後斂葬に先ち誄を奏するに当り諡号を上れること史に見えたり。又御出家ありし天皇には諡号を上らざるを例とし、聖武天皇は御出家ありしを以て、孝謙天皇の天平勝宝八歳五月崩じたまふに当り、勅して諡を上らざる旨を宣したまひしが、後淳仁天皇の天平宝字二年八月勅旨を以て国風の諡を上りたまひしは異例と為すべく、称徳天皇も御出家ありしを以て国風の諡を上ることなかりき。平安時代の初期に至るまでは、斯く国風の諡を上ることが行はれたれども、其の頃より専ら漢風の諡号又は追号を上るの例を為し、国風の諡の制は全く行はれざるに至れり。
-------

いったんここで切ります。
死去した天皇に対し、その人柄や業績などを褒め称えて立派な名前を贈るのが諡号であり、特に褒め称えたりせず、在所名その他の当該天皇にゆかりのある価値中立的な名前を贈るのが追号ですね。
諡号にはやたらと長い和風諡号と漢字二文字が通例の漢風諡号の二種類があり、和風諡号は平安初期には廃れてしまう訳ですね。

『帝室制度史』はそんなに難しい内容ではないのですが、表現が古風なので、この種の文章に馴染みのない方には読み進めるのがけっこう大変かもしれません。
諡号・追号については京都造形芸術大学准教授・野村朋弘氏のサイト「鎌倉時代」内に「諡法解-皇位継承権内に於ける諡号制の位置-」という充実したコーナーがあり、初心者にも、また理解を深めたい人にもお奨めです。

http://www.toride.com/~sansui/
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html
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大江神社の御祭神

2017-05-24 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
(※前回投稿が長すぎたので、二つに分けて、後半を改めて投稿します。)

>筆綾丸さん
『光格天皇実録』巻一の冒頭は、

-------
光格天皇

天皇、諱ハ兼仁、初名ヲ師仁ト曰フ、閑院宮典仁親王ノ第六王子、母ハ贈従一位岩室磐代ナリ、後、妃成子内親王ヲ養母ト為ラル

〔閑院宮系譜〕
  【中略】

〔御系譜〕
  【中略】

〔岩室家系譜〕
<初名常衛門宣休> <初名千代子>留子 号阿鶴又阿賀久
宗賢----------女子   母林子某氏女、

延享元年甲子□月□日生于倉吉、宝暦二年従父入京師、同四年□月出テ仕櫛笥隆望朝臣家、同五年□月為御使番生駒左門<大江>守意養女於新崇賢門院御局針女出仕、同年侍成子内親王入閑院宮、爾後閑院二品親王殿下乞御息所内親王殿下為侍妾、称号磐代、明和八年辛卯八月十五日分娩若宮、奉称祐宮、後継大統、<○中略>明治十一年三月十六日贈正四位、

〔閑院宮日記〕
  【中略】

〔官報〕 明治三十五年六月三日
叙任及辞令 明治三十五年六月二日
贈従一位      贈正四位 大江磐代
------

となっています。
藤田覚氏の記述と比較すると「鳥取池田家の家老の家臣でその後浪人となった家」を除いて、むしろ「岩室家系譜」の方が詳しいですね。
「倉吉観光情報」サイトによれば、大江磐代君(おおえいわしろのきみ、1744-1813)は贈従一位の栄誉を受けたばかりか、大江神社の御祭神になられているそうですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

大江磐代 2017/05/20(土) 11:47:21
------------
 光格天皇について最近かかわったことから紹介してみたい。それは、本書ではまったく触れていない生母のことである。
 生母は大江磐代君という。二〇一二年十月から十一月にかけて、鳥取県倉吉市の倉吉博物館が没後二百年を機に特別展覧会「大江磐代君顕彰碑」を開催した。見応えのある展覧会の講演会に招かれたのだが、生母について不明にしてよく知らなかった。
 光格天皇は、閑院宮家の王子から後桃園天皇の養子になり皇位を嗣いだ。江戸時代は天皇の子女が皇位についてきたのに対して、宮家の出自のため周囲から軽く見られ、自身も傍系・傍流をたえず意識せざるをえなかったことはわかっていた。母は閑院宮典仁親王の妃、養母は後桃園天皇女御とされていたので、生母について関心がなかった。
 ところが生母は、現在の倉吉市に生まれ、鳥取池田家の家老の家臣でその後浪人となった家の娘だった。さまざまあって閑院宮の女房となり、光格天皇を生んだ。しかし、天皇になるや、生母の存在は表面から消えた。(『幕末の天皇』学術文庫版あとがき 263頁)
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こんなことまで、ほんとにわかるものなのか? 仮にそうだとして、「顕彰」というのも、なんだかなあ、という感じがしますね。
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「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)

2017-05-24 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月24日(水)15時32分54秒

『幕末の天皇』では、筆綾丸さんが18日の投稿「天皇の号が此度世に出て」で引用された部分の後、諡号と追号についての説明を挟んで、次のような記述があります。(講談社学術文庫版p141)

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 ちなみに、我々はたとえば「後醍醐天皇」などと呼ぶが、江戸時代の人はそうは呼ばずに「後醍醐院」と呼んでいた。院号なのである。院号であることが気になったのか、明治時代に入ると、政府は「……院天皇」と称したりしたが、なお「……院」を引きずっていた。このような「……院」と院号をおくられた歴代天皇について、「院」を省いて「……天皇」と称するようになったのは、大正十四(一九二五)年に時の政府が決めたからである。「後醍醐天皇」などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない。
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江戸時代には『太平記』の人気が極めて高く、多数の刊本が流通し、また「太平記読み」などと称して講談師のような商売をしていた人が沢山いたことは近世に疎い私でも知っていたのですが、そういえば『太平記』の巻一は後醍醐で始まるけど、あれも「後醍醐院」と書かれていたのかなあ、と思って『岩波古典文学体系34 太平記一』(岩波書店、1960)を見てみたら、

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太平記巻第一

 序
  【5行略】
 ○後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事
爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。
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ということで、いきなり「後醍醐天皇」で始まっていますね。
(※読みやすさを考慮してカタカナをひらがなに変更)

参考:ウィキソース(原本の明示なし)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E4%B8%80

岩波古典文学大系本の底本となったのは「慶長八年古活字本」だそうですから(凡例)、慶長8年(1603)当時の人々は普通に「後醍醐天皇」と呼んでいたんじゃないですかね。
そうだとすれば、藤田覚氏の説明とは異なり、人々が「後醍醐天皇」などと呼びはじめたのは、たかだか四百年ほど前からに過ぎないかもしれないですし、あるいは『太平記』が最初に書かれた14世紀まで遡るのかもしれないですね。
ま、それでもたかだか六百数十年ほど前の話ですが。

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