投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月31日(水)22時42分59秒
続きです。
追号の第四類型の話となります。(p732)
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第四、二天皇の漢風の諡号の各一字を採り之を併せて追号と為せるものには、称光、明正、霊元天皇の三例あり。称光天皇は称徳、光仁の上の一字を採れるものなれど、其の縁由は明らかならず。明正天皇は元明、元正の下の一字を採れるものにして、共に女帝なることの縁由に因る。霊元は孝霊、孝元の下の一字を採れるものにして、勅定の宸翰に因るものなれども、勅定の理由に付きては所伝なし。
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三例、いずれも連続して在位した天皇の漢風諡号二文字のうち、「前・前」「後・後」の組み合わせで一字ずつ選ぶ訳ですね。
まず、称光天皇(1401-28)は病弱で特段の実績もないまま若死した人ですが、追号は称徳女帝(孝謙重祚、718-770)と光仁(719-782)からもらっていますね。
称徳は天武系で最後の天皇、光仁は久しく帝位から離れていた天智系の人で、称徳から光仁への皇統の移行に際しては妙な事件が多く、あまり目出度い先例のようにも思えません。
ま、それはともかく、「後」付き追号の例に倣って称光の没年(1428)から称徳と光仁の没年を足して二で割った数字(776)を引いてみると652年で、けっこう長いですね。
称光天皇(1401-28)
明正天皇(1624-96)は後水尾の皇女で、称徳以来の本当に久しぶりの女帝ですね。
追号は元明女帝(661-721)と元正女帝(680-748)からもらっていますが、明正の没年(1696)から元明と元正の没年を足して二で割った数字(734.5)を引いてみると961.5年で、「後」付き追号史における最長記録である後西の845年を軽く百年以上も上回ります。
明正天皇(1624-96)
霊元天皇(1654-1732)となると、第7代孝霊と第8代孝元はその事蹟どころか存在すら歴史の彼方に消えてしまっていて、没年の西暦換算は不可能、従って引き算も出来ません。
ここまで来ると過去の天皇との縁由も何もあったものではなく、単にその字が好きだった、程度の話じゃないですかね。
霊元天皇(1654-1732)
さて、今まで追号には四つの類型があると書きましたが、実はもう一つ、分類不能なものがあります。(p732)
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以上の外、追号の典拠の明らかならざるものには桃園天皇の一例あり。此の追号は桜町天皇が親ら其の追号として定めたまひしものなれども、其の典拠は当時より不明とせられたり。
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桃園天皇(1742-62)は桜町天皇(1720-50)の皇子ですから、「此の追号は桜町天皇が親ら其の追号として定めたまひしもの」という説明では訳が分かりません。
そこで注記に従って「定晴卿記」を見ると(p795以下)、桜町天皇が在位中、自分の追号を「桃園院」とする旨を宸翰に記して厨子に納め、その事情を「女院」に伝えていたにもかかわらず、崩御に際して「女院」はすっかりそれを忘れてしまっていて、結局、事情を知らない摂家以下が協議し、御所の名にちなんで追号を「桜町院」にしたのだそうです。
ところが後になって当該宸翰が出て来て、「女院」に聞いたら、そういえば、とやっと思い出してくれたものの後の祭り。
で、桜町天皇の遺詔を無視したのはまずかったということで、皇位を継いだ桜町天皇皇子の崩御の際に「桃園院」の号を贈ったのだそうですね。
要するに桜町天皇が自分用に定めた追号を皇子に流用してしまった訳です。
また、桜町天皇が「桃園院」と定めた理由は結局不明のままですね。
桃園天皇(1742-62)
>筆綾丸さん
>「其の縁由の明らかならざるものも少なからず」
後醍醐が「延喜天暦の治」に思いを馳せたように、「後」付き追号も年代差が四百年程度まではそれなりの縁由を感じさせたでしょうが、七百・八百年超えとなると単なるこじつけみたいな感じですね。
第四類型の一字ずつ組み合わせパターンも、霊元になると殆どシュルレアリスムの世界です。
そして最後の最後、全く典拠不明の桃園に到達すると、そこに待っていたのはまさかのトラジコメディの世界でした。
これはさすがに予想していませんでした。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
高野山にある北朝鮮のICBM 2017/05/30(火) 13:31:54
小太郎さん
「其の縁由の明らかならざるものも少なからず」と、『帝室制度史』ですらお手上げなのは面白いですね。「後」の付く天皇名には味わい深いものがあって、後白河、後深草、後嵯峨・・・が、「後」のない別の追号になっていたら、ずいぶんつまらなくなりますね。とりわけ、後鳥羽などは、もしこの追号でなかったら、まったく惹かれかなかったかもしれません。鳥のように羽があったら、都に飛んで帰れたろうに、帰思方悠哉とはまさに君のためにある、というような。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%8B%E5%BF%9C%E7%89%A9
「受布施派と不受不施派の対立」という視点は、なるほど、興味深いですね。
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序章で見たように、中世において、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与えたのは、顕密仏教であった。つまり中世では、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想をトータルに捉え得る枠組みを提起したのは、顕密仏教であり、顕密仏教は中世政治思想の基軸なのである。これに対して、本書で明らかにしたように、近世においては、顕密仏教にとってかわって、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与え、近世政治思想の基軸となったのは、「太平記読み」であった。顕密仏教から、「太平記読み」へと、基軸となるイデオロギーが転換したのである。(『「太平記読み」の時代』184頁)
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というような記述は、初な娘のような、と云えば語弊がありますが、あまりにナイーヴな感じがしますね。
*追記
読み返してみると、わずか十行足らずの文章の内に、「領主層・思想家・民衆の政治意識・思想」が三回、「決定的な影響」が二回、「顕密仏教」が五回、「政治思想史の基軸」が二回、「太平記読み」が二回、「「国家」についての考え方を提示」が二回・・・繰り返される偏執的なまでにくどい文体で、まるで永劫回帰のようだな、と思いました。こんな文を書くと、普通なら、作文指導の先生に注意されますね。
http://www.bbc.com/news/in-pictures-39882614
高野山の宿坊は外国人に人気があるようですが、奥之院にはJAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)の法人墓のようなものまであるのですね。北朝鮮の大陸間弾道弾かと思いました。
明日(6月1日)から、小旅行をしてきます。
小太郎さん
「其の縁由の明らかならざるものも少なからず」と、『帝室制度史』ですらお手上げなのは面白いですね。「後」の付く天皇名には味わい深いものがあって、後白河、後深草、後嵯峨・・・が、「後」のない別の追号になっていたら、ずいぶんつまらなくなりますね。とりわけ、後鳥羽などは、もしこの追号でなかったら、まったく惹かれかなかったかもしれません。鳥のように羽があったら、都に飛んで帰れたろうに、帰思方悠哉とはまさに君のためにある、というような。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%8B%E5%BF%9C%E7%89%A9
「受布施派と不受不施派の対立」という視点は、なるほど、興味深いですね。
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序章で見たように、中世において、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与えたのは、顕密仏教であった。つまり中世では、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想をトータルに捉え得る枠組みを提起したのは、顕密仏教であり、顕密仏教は中世政治思想の基軸なのである。これに対して、本書で明らかにしたように、近世においては、顕密仏教にとってかわって、「国家」についての考え方を提示し、領主層・思想家・民衆の政治意識・思想に決定的な影響を与え、近世政治思想の基軸となったのは、「太平記読み」であった。顕密仏教から、「太平記読み」へと、基軸となるイデオロギーが転換したのである。(『「太平記読み」の時代』184頁)
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というような記述は、初な娘のような、と云えば語弊がありますが、あまりにナイーヴな感じがしますね。
*追記
読み返してみると、わずか十行足らずの文章の内に、「領主層・思想家・民衆の政治意識・思想」が三回、「決定的な影響」が二回、「顕密仏教」が五回、「政治思想史の基軸」が二回、「太平記読み」が二回、「「国家」についての考え方を提示」が二回・・・繰り返される偏執的なまでにくどい文体で、まるで永劫回帰のようだな、と思いました。こんな文を書くと、普通なら、作文指導の先生に注意されますね。
http://www.bbc.com/news/in-pictures-39882614
高野山の宿坊は外国人に人気があるようですが、奥之院にはJAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)の法人墓のようなものまであるのですね。北朝鮮の大陸間弾道弾かと思いました。
明日(6月1日)から、小旅行をしてきます。