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「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」(by 本郷和人氏)

2021-09-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月30日(木)10時36分57秒

東京大学教授・高橋典幸氏は承久の乱が幕府の完全勝利に終わり、三上皇配流・今上帝廃位以下の厳しい戦後処理がなされたとしても、「これによって朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」と言われる訳ですが、この見解に対しては、チコちゃん(五歳)でも次のような疑問を感じるのではないかと思います。
即ち、高橋氏は、一体どれほどの措置が行われたら「朝幕関係が一変」すると考えるのだろうか、と。
正直、高橋氏の見解には「ボーっと生きてんじゃねーよ」という感想しか浮かんでこないのですが、高橋氏と並んで鎌倉時代史研究をリードする立教大学教授・佐藤雄基氏も、「鎌倉幕府政治史三段階論から鎌倉時代史二段階論へ:日本史探究・佐藤進一・公武関係」(『史苑』81巻2号、2021)において、

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第三章、鎌倉時代史「二段階論」の可能性
 第一節、寛元・宝治の画期論

 公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考えるとき、誰しも想起するのは承久の乱(一二二一年)で二分する考え方であろう。現在に至る日本の通史像に影響を及ぼした新井白石『読史余論』(一七一二年)は、武家の世の「五変」として、源頼朝による鎌倉幕府の成立を第一の変とし、北条氏の政治を第二の「変」として位置づけていた。建武三年(一三三六)成立の「建武式目」が「鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し」たと語るように、二段階で鎌倉幕府の成立を捉える見方は中世人にも共有され、現在の研究者にもみられる幕府成立像であり、後鳥羽院政期までを院政期とする議論や、承久の乱を「山城時代」と「北条時代」を画する日本史上の転換点とする保立道久の議論も生まれている。【後略】
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とした上で、結局は「公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考え」たとしても、承久の乱より重要な画期があり、それは寛元 ・宝治期だとされます。

https://researchmap.jp/read0142021/published_papers
(※PDFで読めます)

しかし、マックス・ウェーバーの古典的議論を参照するまでもなく、国家にとって最も本質的なのは暴力装置であり、「公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考え」る場合、やはり承久の乱が最も重要な画期だと考えるのが自然です。
この点、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)の「第2章 承久の乱の史的位置」における次のような議論が参考になります。(p44以下)

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(2)朝廷の敗北と武力の蜂起
 (Ⅰ)武力放棄の院宣

 建保元(一二一三)年八月、山門末の清閑寺と清水寺の境争論は緊迫の度を深めていた。山僧数百名は洛中に陣を張り、軍事衝突は必至とみえた。後鳥羽上皇はこの事態を重く視、源頼茂・藤原秀能・大内惟信らを派遣した。彼らは軍勢を率いて係争地へ赴き、双方の悪僧多数を討ち、紛争を徹底的に弾圧している。
 ここで注目すべきは、幕府御家人の大内惟信であろう。【中略】つまり惟信は御家人でありながら、直接上皇の命をうけて動いていることになる。
 この時期、惟信のみならず、多くの有力な西国御家人が、西面の武士として上皇に仕えている。これに対し幕府は、本章(1)でも述べたように「至廷尉事者候西面之間、為仙洞御計歟、不及関東御沙汰」と、御家人と上皇との結びつきに干渉できなくなっていた。彼らは上皇の意を奉じて南都北嶺への抑えとなり、朝廷の守護にあたっている。そして承久の乱に際しても、その大半はそのまま京方に与している。
 しかし乱後、状況は一変する。六波羅探題が設けられるや京での軍事力は両探題に独占され、朝廷・京洛の守護は幕府に一任されることになる。それと並行して検非違使も軍事的機能を喪失し、囚人の禁獄すらできぬまでに弱体化する。朝廷の暴力装置として残されたのは馬部や駕与丁のみであり、このため篝屋役の廃止がいわれると、貴族から不平が述べられる始末であった。むろん、朝廷や廷臣が従者の礼をとる武士を駆使し、軍事活動の主体となっている例などみることがはできない。
 この急激な変化は、一体何によってもたらされたのか。広くいえば承久の乱の結果であることは言うを俟たないが、私はここで、乱の終結時に発されたという一通の院宣に注目したい。関東の大軍を率いて四辻の上皇の御所に迫った北条泰時に宛てられたそれは、次のようなものであった。

  秀康朝臣胤義以下徒党可令追討之由宣下既了、……凡天下之事於于今者雖不及御口入、
  御存知趣争不仰知乎、就凶徒浮言既及此御沙汰、後悔不能左右、……於自今以後者携
  武勇輩者不可召仕、又不稟家好武芸者永可被停止也、如此故自然及御大事由有御覚知
  者也、悔先非被仰也、御気色如此、仍執達如件、
     六月十五日       権中納言定高
   武蔵守殿

 いまだ治天の座に在った後鳥羽上皇は、ここで乱の原因を「凶徒」の介在に求め、二度と武勇を旨とする者を召し使わない、すなわち、武力を保有しないことを、幕府に対して誓っているわけである。
 奉者、文書の形式、言葉づかい等に格別の難点は見あたらないが、この院宣はあるいは後世の創作かもしれない。また真の院宣としても、これを直ちに変化の淵源とすることは妥当でないかもしれない。しかし乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない。乱の再発を警戒する幕府の監視のもと、朝廷はかつてのような強力な軍事力を行使することができなくなっている。この意味で本書では、この院宣を、重大な転換を示す象徴として位置づけておきたい。
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「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)

2021-09-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月29日(水)12時41分59秒

ウィキペディアの承久の乱の項目は詳しいことは詳しいのですが、「独自研究」色も強くて、「大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている」などとあります。


しかし、「父広元の嘆願」は史料で裏付けることは無理ですね。
御家人であるにもかかわらず後鳥羽に従った武士たちへの処分は峻烈で、殆ど死罪ですが、京都守護という重職にありながら幕府を裏切った大江親広だけが処刑されず、広元の所領である出羽の寒河江荘でのんびり余生を送ったのは確かに不思議です。
そしてその理由を考えると、上杉和彦氏の言われるように「幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざであるというしかない」のですが、しかし、それは「父広元の嘆願」と直結する訳ではありません。
鎌倉幕府の法を一身に体現するが如き存在の「大官令禅門」広元が作成した「事書」には息子の親広も原則通り死罪とし、それを義時等の広元以外の幕府首脳が宥免したか、あるいは正式には死罪のまま、親広の逃亡を事実上見逃した可能性も充分あると私は考えます。
さて、承久の乱の戦後処理が革命的だったなどと書くと、あるいはウィキペディアにあるような山本七平氏の見解(『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理』、PHP研究所、1982)を連想する方がおられるかもしれません。
私は同書は未読ですが、ネットで検索してみたところ、

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後鳥羽院は1221年5月 義時追討の「院宣・宣旨」を下す。大江広元を大将に京都へと出撃する。(手兵わずか18騎)


といった記述があるそうで、ここまで事実関係が雑であれば、理論面でもそのまま賛成できる内容ではなさそうです。
ただ、三上皇配流・今上帝廃位は律令法の大系では説明できない事象であり、これがいかなる事態かをきちんと法的観点から分析する必要があるはずですが、そのような分析はあまりなされていないようです。
多くの歴史研究者が、鎌倉幕府開創期の朝幕関係については法的観点から詳しい分析を加えているのに対し、承久の乱については、東国国家論に立つ佐藤進一氏の『日本の中世国家』(岩波書店、1983)ですら極めてあっさりした記述に留めています。
それは高橋典幸氏(東京大学教授)や佐藤雄基氏(立教大学教授)等の直近の論文でも同様で、例えば高橋典幸氏は「鎌倉幕府と朝幕関係」(『日本史研究』695号、2020)において、

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第二章 九条道家の登場
(1)道家の権力基盤

 承久の乱は鎌倉幕府の存在感を飛躍的に高めることになった。新補地頭の設置を通じて、鎌倉幕府の影響は西国各地へと空間的にも拡大していった。朝幕関係についても、幕府は承久の乱以前の政治姿勢を超える行動をとることになった。すなわち、後鳥羽院以下を配流に処し、仲恭天皇に代えて茂仁(後堀河天皇)を擁立し、その父守貞親王(後高倉院)を治天にすえたのである。頼朝さえなしえなかった皇位継承に介入し、実現したのである。その後も譲位や摂関の交替等に際して、幕府に事前照会がなされるのが通例となる。ただし、これによって朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない。幕府の狙いはあくまでも朝廷から後鳥羽の皇統を排除することにあり、それが維持されている限りは、朝廷の運営は貴族社会による自律的運営に委ねて、朝政に関与しようとはしなかったのである。やや後の史料になるが、御成敗式目の制定にあたって北条泰時が六波羅の北条重時に示しているように、幕府の関わる領域を朝廷の関わるそれと弁別したいというのが、当時の幕閣(少なくとも執権北条氏)の基本的な政治姿勢だったと考えられる。
 むしろこの時期の朝幕関係で注目されるのは九条道家の動きである。【後略】
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とされていて(p46)、承久の乱によっても「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」のだそうです。
しかし、律令法の大系で全く説明できないのは三上皇配流・今上帝廃位だけではなく、幕府が天皇になったことが一度もない「守貞親王(後高倉院)を治天にすえ」たことも異常です。
更に幕府が天皇家の荘園群をいったん全て没収した上で、それを後高倉院に返還したものの、幕府はその判断でいつでも取り返すことができると定めた点も異常です。
高橋氏はこれらの事象を法的観点から分析される必要を感じておられないようですが、その態度は私にはどうにも不思議に思われます。
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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その5)

2021-09-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月28日(火)13時10分40秒

『承久記』に描かれた北条義時は傲然たる独裁者ですが、『吾妻鏡』での義時は長老の意見をあちこち伺って最後には政子に決めてもらう事務方の役人みたいな感じで、特に落雷エピソードは何とも情けない話です。
上杉氏は「義時はこの出来事を、朝廷を打ち負かした報いではないかと恐れ」云々と書かれていますが、六月八日なので京都攻防戦はまだ始まっておらず、「朝廷を打ち負かした」と過去形で語ることはできません。
正確を期すため、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)で今野慶信氏の訳を参照させてもらうと、

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 同じ日の戌の刻に鎌倉で雷が義時の館の釜殿に落ち、人夫一人がこのために死亡した。亭主(義時)はたいそう恐れて大官令禅門(覚阿、大江広元)を招いて相談した。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」。広元が言った。「君臣の運命は皆、天地が掌るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断を仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は、関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に、奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のため占なわせてみて下さい」。(安倍)親職・(安倍)泰貞・(安倍)宣賢らは、最も吉であると一致して占なったという。
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といった具合いです。(p114)
ただ、よくよくこの話の経緯を考えてみると、果たしてこれは事実の記録なのか。
文治五年(1189)当時、「家子専一」、即ち頼朝の親衛隊長のような存在だった二十七歳の義時はもちろん奥州合戦に参加していますが、四十二歳の広元はずっと鎌倉にいました。
奥州合戦の陣中の出来事については義時は直接に見聞きした立場ですから、その義時に対して広元があれこれ教えるというのもずいぶん妙な話で、結局、このエピソードがある程度史実を反映しているとしたら、それは精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思われます。
なお、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』には、注71で「文治五年八月七日条参照」とあるので同日条を見ると、

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二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma09-08.htm

ということで、落雷は阿津賀志山での出来事のようですね。
二つの落雷エピソードは、「怪異」がどうしたこうした、という話が大好きな研究者には面白いのかもしれませんが、私には、義時もつまらない奴だな、という感想しか浮かんできません。
しかし、敢えてこのようなエピソードを載せた『吾妻鏡』の編者の意図は何だったのか。
あるいは広元の偉大さを強調するために、義時をダシに使っているのか。
ま、それはともかく、上杉著の続きです。(p165以下)

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 また、京都の泰時からの報告を受けて上皇方の貴族たちの罪名が検討されることとなった六月二十三日の評議に際し、広元は「文治元年の沙汰の先規」を調べ上げている。いうまでもなく文治元年の先例とは、広元自身が実務にあたった、治承・寿永の内乱終結後の戦後処理を指している。広元の指揮の下に作成された謀叛人処罰に関する朝廷への要求書は、二十九日に六波羅に届けられている。
 広元は、承久の乱における最大の功労者の一人であった。特に義時にとっての広元の存在は、有能な文官官僚であるのみならず、精神的支えともなるかけがえのない宿老であったといえよう。乱後、後鳥羽方についた親広は処刑を免れ、父の所領の一つである出羽国寒河江に隠れ住むことになるが、幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざであるというしかない。
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『吾妻鏡』の六月二十三日条には、

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去十六日。武州飛脚今夜丑刻到着鎌倉。合戰無爲。天下靜謐次第。披委細書状。公私喜悦。無物取喩。即時有卿相雲客罪名以下洛中事之定。大官令禪門勘文治元年沙汰先規相計之。整事書。進士判官代隆邦執筆註文云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、十六日発の飛脚が二十三日着というのはちょっと遅いような感じがしないでもありませんが、この報告を受けて「卿相雲客」(公卿・殿上人)以下の罪名が直ちに決定されます。
この決定の中心にいたのは「大官令禅門」大江広元で、広元は「勘文治元年沙汰先規」を勘案して「事書」を整えます。
ただ、「卿相雲客」の処分は先例があるとしても、三上皇配流・今上帝廃位については先例はありません。
先例どころか、律令法のどこを探しても、臣下がこのような処罰を行なえる規定があるはずもなく、軍事的勝利そのものより、むしろ三上皇配流・今上帝廃位の戦後処理の方がよほど革命的です。
この革命的な戦後処理は誰が発案し、誰が主導して決定したのか。
自邸への落雷に「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」と怯える義時に、このような戦後処理の発案・決定ができたのか。
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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その4)

2021-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月27日(月)09時05分27秒

『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)の「はじめに」には、

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 当然ながら広元の名は良く知られ、ほとんどすべての日本史の辞書・教科書・概説書の中で、幕府初代別当就任、頼朝にたいする守護・地頭設置の建議などを中心に、広元の事蹟に関する記述に一定の紙幅が割かれている。
 また、幕府政治における彼の役割の大きさを反映して、『吾妻鏡』の叙述に多く登場するなど、彼に関する史料の量は決して少ないとはいえない。だが、『吾妻鏡』の中で広元が登場する多くの場面は、頼朝(あるいは幕府)の政策決定・命令伝達に関わるものであり、純粋な意味で広元個人の事蹟とその意義を語る史料は、意外に乏しいといわざるをえない。これは、広元自身の伝記を著す上での困難さの要因の一つであるといえよう。
 本書の執筆にあたっては、そのような事情を十分に意識しながら、『吾妻鏡』の他、『玉葉』『明月記』などの公家日記、学界未紹介のものを含む文書史料、系図類などに基づいて、広元個人の事蹟を多面的かつ総合的に描くことに努めた。その結果として、単に「将軍に忠実な腹心」あるいは「実直な幕府の役人」というイメージに収斂しきらない、政治家広元の立体的な姿を復元できたならば幸いである。
 なお、広元の晩年の事蹟には、彼の後継者の立場にあった嫡子親広の活動が深く関わっており、広元の子孫の中で、親広の動向については、やや立ち入った叙述を行なった。
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とあります。
承久の乱はまさに広元が「単に「将軍に忠実な腹心」あるいは「実直な幕府の役人」というイメージに収斂しきらない」場面だった訳ですが、果たして上杉氏はここで「政治家広元の立体的な姿を復元できた」のか。
上杉氏は三年前、五十八歳で亡くなられてしまいましたが、『人物叢書 大江広元』の原稿を書かれていたのは四十代前半くらいの時期でしょうね。
正直、私は「かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強硬論を述べたのはなぜだったのだろうか」以下の叙述に、上杉氏の若さを感じないでもありません。
特に「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」は単なる勘違いだろうなと思います。

上杉和彦(1959-2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%92%8C%E5%BD%A6

さて、承久の乱の大勝利後、戦後処理が問題となります。(p164以下)

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 このいわゆる承久の乱の後、後鳥羽方の武士たちは厳しく処断され、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇も、それぞれ隠岐・阿波・佐渡に配流され(土御門は挙兵に関わりを持たなかったが、自ら望んで父後鳥羽・弟順徳とともに配流された)、仲恭天皇は廃位させられる。また、従来の京都守護の職を発展継承した六波羅探題が新たに置かれ、朝廷の監視・平安京内外の警護・西国地域の統括などにあたることとなり、上皇および上皇方の貴族や武士から没収された所領が、戦功をあげた御家人たちに恩賞として分け与えられている。
 以上紹介したものの他にも、『吾妻鏡』には、承久の乱における広元の存在感の大きさを示す記事がいくつも見えている。六月八日に義時邸の釜殿に落雷があり、一人の匹夫(身分の低い者)が落命した。義時はこの出来事を、朝廷を打ち負かした報いではないかと恐れ、広元に尋ねたところ、広元は、文治五年(一一八九)の奥州合戦の際に、幕府の陣に落雷があった先例にふれ、むしろ「関東において佳例」であると答えている。
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いったん、ここで切ります。
細かいことを言うと、土御門院は最初は土佐に流され、二年後の貞応二年(1223)五月に阿波に移っていますね。
『増鏡』には、

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 中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、
  うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな
せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

とあります。
この「若宮」(阿波院の宮)が後の後嵯峨天皇ですね。
さて、『吾妻鏡』の六月八日の記事は、

-------
同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆舘之釜殿。疋夫一人爲之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禪門示合云。武州等上洛者。爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禪門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决断。全非怖畏之限。就中此事。於關東爲佳例歟。文治五年。故幕下將軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

というものですが、落雷に怯える義時は、幕府の最高実力者としては些か情けない感じです。
何故に『吾妻鏡』にはこのような記事が入っているのか。
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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その3)

2021-09-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月26日(日)11時59分27秒

続きです。(p163以下)

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 だが、動員体制の整備を待つうち、御家人たちの間に再び迎撃論が強まった。この事態をみた広元は、五月二十一日の群議の場で、次のように発言して再び進撃論を主張する。

  上洛定まりて後、日を隔つるにより、すでにまた異議出来す。武蔵国の軍勢を待たしむ
  るの条、なお僻案なり。日時を累ぬるにおいては、武蔵国衆といえどもようよう案をめ
  ぐらし、定めて変心あるべきなり。ただいま夜中、武州(泰時)一身といえども鞭を揚
  げらるれば、東士ことごとく雲の竜に従うがごとくなるべし。

 「一旦進撃案が決定されたものの、軍勢の進発に時間をかけたために再び迎撃論がむしかえされてしまったのである。武蔵国の武士の集結を待つことは愚策で、いかに幕府の主力たるべき彼らも、日時の経過とともに心変わりする恐れがあるから、今夜に泰時は単騎でも出撃すべし」というのが広元の主張である。
 かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強硬論を述べたのはなぜだったのだろうか。幼い日に目の当たりにしたかもしれない保元・平治の乱や、頼朝の伊豆での挙兵、そして度重なる鎌倉幕府内部の武力抗争の勝敗の帰趨が、いずれも機敏な先制攻撃によって決してきたことを広元が熟知していたことは理由の一つにちがいない。また、頼朝の時代以来奉公を続けてきた幕府に戦いを挑んだ後鳥羽に対し、広元が心底より怒りを覚えていたという面もあったろう。あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない。
-------

いったん、ここで切ります。
「かつて「合戦のことはわからない」と語った広元」とは、比企氏の乱の時の話ですね。
比企氏の乱での広元の動きはなかなか微妙ですが、承久の乱に際しての苛烈さと比較するために少し紹介しておくと、

-------
 『吾妻鏡』同日条の広元の行動に関する記述を見よう。北条時政が広元邸におもむき、比企一族の横暴な振る舞いぶりと「逆謀」を企てている事実を語り、討伐の方針を示して意見を求めたところ、広元は次のように答えたという。

  幕下将軍の御時以降、政道を扶くるの号あり。兵法においては是非を弁ぜず。誅戮する
  や否や、よろしく賢慮あるべし。(私は、頼朝様以来政道を補佐するものではあります
  が、兵法のことはよく分りません。比企氏を討伐するかどうかについては、賢明な判断
  を下すべきです)

 「文士たる自分が合戦のことについて意見を述べることはできない」とした上で、慎重な態度を求める微妙な返答である。時政は、この言葉を比企氏討伐容認と解したらしく、ただちに合戦に臨む姿勢を見せ、政子邸(名越殿)で協議がなされ、広元も招かれた。
 広元は、随行を申し出る家人たちをおしとどめ、飯富宗長一人をともなってしぶしぶ政子邸に向かっている。【後略】
-------

といった具合です。(p111以下)
この後、広元が宗長に意味深長な発言をして、このあたりは比企氏の乱における謎の一つなのですが、今は深入りはできません。
ただ、「幕下将軍の御時以降、政道を扶くるの号あり。兵法においては是非を弁ぜず。誅戮するや否や、よろしく賢慮あるべし」は、自分は幕府内部の争いには関らない、という「文士」としての中立的姿勢を示したものと私は解しています。
そう考えると、承久の乱での広元の態度は、幕府内部の争いではなく、朝廷との関係はまさに京下りの「文士」である自分の専門分野であって、朝廷の本質を知らない武士たちには任せられない、自分だけが正しく是非を弁別できる、という自負の現れと解することができ、別に比企氏の乱での慎重な態度とは矛盾しないように思われます。
なお、上杉氏は「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」と言われますが、私には広元の態度は終始一貫、全くブレていないように見えます。
まあ、息子とはとうとう互いに分かり合えなかったな、という父親としての苦い感情はあったのかもしれませんが、そうした私的感情で公的判断を乱されるようでは、広元はとても幕府の宿老にはなれなかっただろうと思います。
さて、承久の乱に戻って、続きです。(p164)

-------
 広元の言葉は義時を強く動かし、さらに広元とともに文官官僚として幕府を支えてきた三善康信の病躯をおしての強硬策の提言もあって、ついに幕府は、軍勢を京都へ向けて出発させることとなった。五月二十二日から二十五日にかけて、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の三手に分かれて鎌倉を発った幕府軍は、各地で朝廷軍を破りながら西上した。そして、六月十四日に宇治川の防衛線を突破し、翌十五日に入京した幕府軍は、朝廷軍を完全な敗北に追い込んだのである。
-------

完全な勝利を得た幕府は、この後、三上皇配流を始めとする苛烈な戦後処理を行ないますが、果たして三上皇配流を決めたのは誰だったのか。
『吾妻鏡』が描く義時は決して独裁者ではなく、むしろ些か優柔不断なようにも見えますが、果たしてそうした義時が三上皇配流という驚天動地・空前絶後の戦後処理を主導できたのか。
仮に義時が主導したのでないとすれば、誰がそれを発案し、実現させたのか。
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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その2)

2021-09-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月25日(土)14時10分52秒

大江広元の長子・親広が源通親の猶子であったことは、必ずしも良質な史料で裏付けられている訳ではないようですが、上杉氏の説明を読むと特に疑う必要もなさそうですね。(p107)

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 頼家の時代には、広元の長子である親広が、父とともに頼家側近としての活動を行なうようになる。『吾妻鏡』における親広の初見は、正治二年(一二〇〇)二月二十六日の頼家の鶴岡八幡宮参詣に、広元とともに御後衆をつとめた記事である。親広は、諸史料の中では一貫して源姓で登場している。その理由は、『江氏家譜』に「久我内大臣通親公の猶子となり、源を号す」とあるように、源通親の養子になったことに求めることができる。もっとも『尊卑分脈』にはこの件に関する該当記事が見えず、親広が通親の養子となったことを明記する良質な史料はない。逆に『安中坊系譜』のような史料には「摂津源氏の武士である多田行綱が親広の外祖父であったことによる」という説明が見えるが、広元と通親の緊密な関係や、親広の「親」の字が通親に通じるものなどを考慮すれば、親広と通親の養子関係は事実であったと考えてよいだろう。
 すでにたびたびふれてきたように、通親は、頼朝に近い公卿である九条兼実の政敵ともいうべき存在であり、広元と通親のこれほどの近い関係は一見奇異にもとれるが、頼朝にとって、朝廷との交渉のパイプ役は兼実に限られていたわけではなく、広元の存在を利用して頼朝と通親の結びつきが確保されていた面もあったのだろう。
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『江氏家譜』に「猶子」とあるのに、本文では「養子」という表現になっているのが気になりますが、p161では「猶子」なので、上杉氏自身それほど神経質に使い分けている訳でもなさそうです。
さて、親広の妻が北条義時の娘であったことは当掲示板で何度か触れてきましたが、この女性は源通親の息子の土御門定通に再嫁しています。
つまり、この女性は源通親の養子の親広から実子の定通に乗り換えた訳ですが、少なくとも離縁後は、親広にしてみれば、源通親との縁はちょっと鬱陶しいものになっていたかもしれないですね。
そして、多くの研究者の思い込みに反して、二人の離縁の時期は承久の乱の前と考えられるので、親広にとっては北条義時との縁もちょっと鬱陶しいものになっていたはずです。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

ということで、私は京都守護の親広が後鳥羽に従った「格別の要因」は、「有力貴族である源通親の猶子となっていた関係から、朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志が強かった」ためではなく、北条義時の娘との離縁なんじゃないかなと思います。
これに遥か昔、通親との縁を作って、結果的に自分が妻から三行半を突き付けられる原因を作った父・広元への憎悪もあったのでは、などと想像すると小説でしか書けない話になってしまいますが。
ま、それはともかく、承久の乱に戻ります。(p161以下)

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 上皇挙兵の報が伝えられた日、未曽有の事態に浮き足立つ御家人たちに対し北条政子が演説を行ない、頼朝以来の将軍の御恩を思い起こさせ、それに応えて幕府を守る責務を果たすよう訴えた結果、御家人たちの結束が固められたことは、よく知られた逸話だろう。
 だが、朝廷と一戦を交える決定こそ下されたものの、具体的な戦い方をめぐっては、幕府首脳部の意見は割れた。群議の場で、足柄・箱根の関を固めて朝廷軍を迎えうつ案が出されると、これに反対して広元は次のような意見を述べている。

  群議の趣、一旦はしかるべし。ただし東士一揆せずば、関を守り日を渉〔へ〕るの条、
  かえりて敗北の因たるべきか。運を天道に任せて、早く軍兵を京都に発遣せらるべし。

 待機策を採って日数が経過するうち、かえって形勢は不利になるから、早く兵を京都に向かわせよ、というのである。御家人たちの意見が分かれたまま、義時は迎撃・進撃の両案を政子に示したところ、政子が広元の案に同意したために京都進撃の方針が固められ、武蔵国の軍勢が集結次第泰時・時房を大将軍として京都に攻め上ることとなり、遠江以東の十五ヵ国の御家人に軍事動員令が発せられた。
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ということで、これで一件落着と思いきや、少し時間を置くうちに、また迎撃論者がグズグズ言い始めます。
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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その1)

2021-09-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月25日(土)12時09分34秒

西田知広・白根靖大・近藤成一・下村周太郎の四氏の長村著への書評を読んで少し悲しかったのは、誰も大江親広の死に関する長村著の誤りについて触れていないことですね。
まあ、別に長村著での重要論点ではありませんが、ごく初歩的な勘違いなので、誰かがサラッと触れてくれても良かったように感じます。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d

細川重男氏は『古今著聞集』の一説話と、『平政連諫草』の義時は「武内大神再誕」だという記述を極めて重視され、この「得宗家の始祖神話は、得宗家が鎌倉将軍の「御後見」の「正統」の家であること、つまり北条氏得宗の鎌倉幕府支配(得宗専制政治)の理論的根拠となるものである」(『鎌倉北条氏の神話と歴史』、p30)とされますが、本当に義時がそのような神話的人物ならば、幕府の正史であった『吾妻鏡』にそうした義時像が反映されていてもよさそうです。
しかし、義時の神話化がなされるとしたら一番重要であろう承久の乱前後の『吾妻鏡』の記述を見ると、当時の幕府の実質的指導者であった北条義時がさほど称揚されている訳でもありません。
そして、その反面として大江広元の判断の的確さ、幕府における存在感の大きさが強調されていますね。
久安四年(1148)に生まれ、承久三年(1221)の時点では既に七十四歳という高齢であった広元は、乱後僅か四年の嘉禄元年(1225)に死去していますから、仮に後鳥羽がもう少し我慢して、広元が死んでから鎌倉を攻めたら、あるいは異なる結果が生じたかもしれません。
このあたりの事情を、上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)に即して少し確認してみます。(p159以下)

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 翌承久二年(一二二〇)の広元の動向を『吾妻鏡』の記事より拾うと、五月二十日に北条義時・北条時房・足利義氏を自邸に招いて小弓会(左右に分かれて小弓の射手が争う競技)を行ない、六月十二日には、前年暮れに京都で見られた彗星に関する祈祷を鶴岡八幡宮で行なう件について沙汰していることが知られる。あるいは広元にとって、在京する親広の動向が気がかりであったかもしれないが、ただならぬ緊迫した朝幕関係が生じた前年とは対照的に、この年は表向き異変が見られず、広元の周辺にもあわただしい動きはなかった。だが、それは嵐の前の静けさともいうべきものだった。京都では、倒幕を決意した後鳥羽上皇の挙兵計画が着々と進められていたのである。
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いったん、ここで切ります。
後鳥羽上皇が「倒幕を決意した」ことは当然視されていて、2005年当時はこれが研究者の常識だった訳ですね。
なお、大江親広は承久元年(1219)二月二十九日に京都守護として派遣されています。
親広は「すでに建保二年以前の時点で京都守護の任にあったことは前述した通りであり、再度の任命」(p158)ですね。
さて、続きです。

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 あくる承久三年(一二二一)五月十九日、京都守護伊賀光季の使者が鎌倉に着き、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の命令書を発して挙兵したとの報が幕府に伝えられる。前月の二十九日には、順徳天皇が皇位を子の懐成親王(仲恭天皇)に譲ったことを伝える使者が広元邸に到着しているが、この突然の譲位は、父後鳥羽の挙兵に同意した順徳が、自らの立場を自由なものとしたと理解することができる。はたして使者をむかえた広元は、異変を悟っただろうか。
 後鳥羽上皇が期待をかけたのは、西面武士などの直属武力の他、在京・西国の御家人たちであった。京都守護であった伊賀光季・大江親広にも上皇の動員命令が下されたが、光季がこれを拒否して討ち取られたのとは対照的に、親広は上皇方の軍勢に加わることとなる。親広が後鳥羽方に加わった理由としては、後鳥羽方の軍勢の中で孤立したためやむなく動員令に従ったということがまず考えられよう。しかし、同じ状況にあった伊賀光季は幕府に殉じて後鳥羽上皇の命を拒んだのであるから、親広の行動には格別の要因があったといわなくてはならない。おそらく、有力貴族である源通親の猶子となっていた関係から、朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志が強かったものと思われる。やはり通親の猶子であった但馬国守護の安達親長も、承久の乱では後鳥羽方についている。
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うーむ。
「有力貴族である源通親の猶子となっていた関係から、朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志が強かったものと思われる」とありますが、源通親は十九年前の建仁二年(1202)に死去していて、猶子となったこと自体も親広の意志というよりは広元の意向でしょうから、あまり関係はないんじゃないですかね。

源通親(1149-1202)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA
橋本義彦『源通親』
http://web.archive.org/web/20150830053507/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto.htm
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その6)

2021-09-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月24日(金)10時50分11秒

近藤成一氏は「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっている」と言われますが、例えば近藤氏と研究上の接点が多い佐藤雄基氏(立教大学教授)は、「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)の注(58)で、

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(58) 承久の乱像に関しては長村祥知『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、二〇一五)。後鳥羽挙兵目的をめぐる論争(倒幕か北条義時追討か)がある。残存史料からは後鳥羽の真意は不明であるが、実朝暗殺後、北条政子が事実上鎌倉殿となり、義時がその奉行となっていたこと(『愚管抄』巻第六、三一三頁)、京方が勝利した場合、寺社権門と同様に、有力武士が個々に院によって統率され、幕府というまとまりは解体していた蓋然性が高いことなどを考えれば、倒幕と義時追討は現実には区別し難かったのではなかろうか。この点に関して、拙稿「鎌倉北条氏の書状 序説─北条時政・義時・泰時の書状について─」(『国立歴史民俗博物館研究報告』掲載予定)も参照。
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と書かれています。
「残存史料からは後鳥羽の真意は不明」ですが、後鳥羽は相当楽観的というか、ハイテンションだったでしょうから、やはり「幕府というまとまり」の「解体」を狙っていたのでしょうね。
ただ、戦後体制は戦争の具体的経過によって決定され、それは後鳥羽を含め、開戦時には誰も正確には予想できないものです。
従って、後鳥羽の当初の「真意」が何であれ、例えば三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して北条を打倒したならば関東中心の「幕府というまとまり」は「解体」されず、「北条幕府」が「三浦幕府」に変っただけ、という後鳥羽にとってあまり愉快ではない結果に終わったかもしれません。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されて官軍が勝利し、その勢いを維持したまま鎌倉に突入して関東武士を蹴散らしたなら、あるいは関東ではなく中京を中心とする「山田幕府」が成立したかもしれません。
ま、仮に官軍が勝ったとしても開戦時の「後鳥羽の真意」が実現されるかどうかは不明であって、「後鳥羽の真意」が倒幕か北条義時追討かを議論すること自体にあまり意味がないのかもしれません。
さて、さんざん悪口を言っておきながら今さらという感じがしないでもありませんが、私は長村著を極めて高く評価していて、第二章の後半とそれに関連する部分に疑問を抱いているだけです。
そもそも思想史までカバーする長村著の全体を評価する能力は私にはありませんが、私が一番面白いと思ったのは「第七章 『六代勝事記』の歴史思想─承久の乱と帝徳批判」です。
この点、白根靖大氏も長村著の書評(『歴史評論』813号)で、

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 また、承久の乱の総合的研究という意味では、思想史的研究に挑んだことも特筆できよう。たとえば、『六代勝事記』の帝徳史観に着目し、これは無常観に基づく歴史観とは異なる人間起因の歴史観であり、後鳥羽個人に承久の乱の責任を負わせ、乱後の後高倉・後堀河の権威を保つ言説の一つとして機能したと指摘する。神国思想の神孫君臨思想ともに、新たに推戴された皇統を支えたこの観念は、鎌倉後期の公家政権を見るうえで鍵となりそうである。
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と高く評価されていますね。(p95)
研究史上の評価ではなく、あくまで個人的関心からの感想ですが、私は第七章を読みながら細川重男氏の『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』(日本史史料研究会、2007)を連想しました。
そして、長村氏の見解は、私がもともと抱いていた細川著の根幹部分に対する違和感をある程度説明してくれるように感じました。
『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』は私にとってちょっとした因縁の書で、同書が出版される前に行われた細川氏の研究発表と、同書出版後の書評会において、私は細川氏の「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」説に疑念を呈し、私の批判の痕跡は同書に微かに記されています。
ま、別に長村氏が細川著に言及されている訳ではありませんが、「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」が生まれた当時の精神的風土を考える上で、長村論文は大変参考になりそうです。
なお、冒頭で紹介した論文で、佐藤雄基氏は細川説にかなり好意的な評価をされていますね。

新年のご挨拶(その2)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その5)

2021-09-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月23日(木)11時43分38秒

『中世公武関係と承久の乱』については西田友広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号、2020)の諸氏が書評を書かれ、その内、近藤・下村氏のものは当掲示板でも少し紹介しました。

「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ…」(by 近藤成一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d370925b84000e9314bd5a7fea4683e
下村周太郎氏「書評 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8bba53adef094aa67272b0fb01167c3

一番最初に出た西田氏の書評では、私も疑問を感じた「奉行」について、若干の言及がありますね。(p38以下)

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 しかし、慈光寺本院宣がまず義時の奉行停止を命じている点は、慈光寺本『承久記』の物語展開との間の不整合のみならず、承久の乱自体の展開過程との間にも不整合があるのではなかろうか。慈光寺本院宣と同日付の官宣旨が明確に義時の追討を命じている段階にあって、義時追討の前段階としてその奉行停止を命じることはやはり不自然に思われる。また、恩賞に関する文言についても、慈光寺本院宣とは別に、胤義が京都で動員された際の情報と評価することもできよう。
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私は、慈光寺本院宣は相当正確に復元されていて、ただ「慈光寺本院宣がまず義時の奉行停止を命じている」という解釈が誤りではないかと思います。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171

この後、西田氏は葉室光親の処断について、

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 著者はまた、後白河院による源頼朝追討宣旨発給の関係者の処分と比較し、蔵人頭─太政官機構宛ての院宣の他に、慈光寺本院宣、すなわち東国の有力御家人に宛てられた、自立した文書としての院宣を発給したことを葉室光親が死罪となった原因とし、慈光寺本院宣の実在の根拠の一つとしている。しかし、頼朝追討宣旨が源義経の没落により実効性を発揮しなかったという結果を、幕府の京都守護が討たれ、大軍が上洛し大規模な合戦が発生したという結果と比較するならば、慈光寺本院宣の発給責任がなかったとしても、追討宣旨の発給による結果責任は、頼朝追討宣旨の高階泰経と、義時追討宣旨の光親とでは重大性に大きな差があると考えることも可能である。
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と書かれていますが、ずいぶん紳士的な書き方ですね。
私は、最高の発給責任者である後白河院が何の処罰もされなかった文治の例と、後鳥羽流罪という驚天動地の処罰となった承久の例を同等に論ずることができるはずもなく、高階泰経と葉室光親を比較すること自体が頓珍漢だ、という立場です。
さて、一年前の私はいろいろと偉そうなことを書いていましたが、では、義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を素材として、「ひとつの思考実験として、後鳥羽が勝利できた僅かな可能性を検討し、その際の戦後の公武関係を想像する」という自分で設定しておいた課題がどうなったかというと、これは尻切れトンボで終わってしまいました。
ま、「葉室定嗣」さんが登場されて、筆綾丸さんを交えた若干のやり取りに水を差されたという面もあるのですが、元々の課題がちょっと無理筋でしたね。
『葉黄記』に異常に詳しい「葉室定嗣」さん、私には心当たりがない訳でもありません。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10289
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10290
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10291
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10292
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10293

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「零落」の意味等について

2021-09-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月23日(木)10時52分18秒

投稿保管用のブログ「学問空間」の方に、「大江親広は「関寺辺で死去」したのか?」について、

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零落にはこんな意味もあったにゃん (♡長村先生全力応援ガチファン♡)
2021-09-22 23:26:03

『日本国語大辞典』
れい‐らく 【零落】
解説・用例
(3)死ぬこと。死去。
*凌雲集〔814〕「久在外国晩年帰学、知旧零落已無其人〈林娑婆〉」
*撰集抄〔1250頃〕二・五「あしたに世路にほこる類、ゆふべに白骨となり、月をながむるとも、前後にれいらくし」
*曹丕‐与呉質書「何図数年之間、零落略尽」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d

というコメントを頂きましたが、(3)は婉曲的・文学的な表現のような感じで、『吾妻鏡』の解釈としては適切でないように思います。
また、「土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について」に対しても、

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土御門定通と北条義時の娘の婚姻は承久の乱後だと思います! (♡長村先生全力応援ガチファン♡)
2021-09-23 00:08:14

土御門顕親の生まれ年が気になったので調べました。『大日本史料』5編22冊宝治1年6月2日には『公卿補任』と『葉黄記』と『百錬抄』を三つを引用していて『公卿補任』の年齢にはマヽと付けています。これは東京大学史料編纂所の先生も『葉黄記』と『百錬抄』の方が正しいと判断されたからだと思います。史学科の講読でも何とか補任の年齢を鵜呑みにしたら行けないと先生から教わりました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

というコメントをもらいましたが、私ももちろん『公卿補任』を鵜呑みにしている訳ではありません。
『公卿補任』の年齢に誤りが多いことは確かですが、「貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)」といった記述をどう考えるべきか。
これらも全て誤りなのか。
まあ、私としては一応これらの記述は正しそうだと思っていて、承久の乱の大騒動があった翌貞応元年(1222)正月二十三日に叙爵ですから、前年の誕生としても相当早い月であり、やはり前々年の誕生が自然だろうと思います。
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その4)

2021-09-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月22日(水)12時26分54秒

『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするのだそうで、「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」は長村著の最重要論文ですね。
この論文の前半では、「官宣旨」とは別に慈光寺本『承久記』が記す院宣が実際に発給されたであろうことを丁寧に論証しており、その手順は堅実で説得的です。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

ただ、長村氏が「後鳥羽の計画は、院宣によって彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得と(その不成立を見越して)殺害を命ずるとともに」と解釈される点は不自然ですね。

「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171

長村著には西田知広(『日本史研究』651号、2016)、白根靖大(『歴史評論』813号、2018)、近藤成一(『日本歴史』837号、2018)、下村周太郎(『歴史学研究』994号、2020)の諸氏が書評を書かれていますが、下村氏の義時追討説に関する指摘は私も概ね賛同できました。

下村周太郎氏「書評 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8bba53adef094aa67272b0fb01167c3

また、私は承久の乱後の処分に関し、後深草院二条の祖父・久我通光の処遇が弟の土御門定通に較べてずいぶん厳しいように感じていたのですが、長村論文によって通光が「官宣旨」の発給に上卿として関与したことを知り、処罰を免れることは無理だったのだろうなと思いました。

「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6

ま、些細な点は除き、長村論文の前半は良かったのですが、後半の葉室光親が死罪となった理由の論証となると、どうにも奇妙な論理のように思われました。
長村氏は文治元年の源頼朝追討宣旨に関与した人々への処分との比較で、承久の乱後の葉室光親の死罪という処分が極めて重いと主張されるのですが、そもそも義経に武力で威嚇されて嫌々ながら宣旨を出した文治元年の事例が比較の対象として適切なのか。

葉室光親が死罪となった理由(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d0e03db763715c4e02a5af35eaa8aff

文治元年のケースでは、朝廷としては頼朝・義経兄弟間の争いに巻き込まれるのは迷惑千万で、頼朝追討の宣旨など全然出したくなかったのですが、土佐坊昌俊に襲撃された直後、頭に血が上った義経から宣旨を出せと迫られたので仕方なく出した訳です。
この状況は、朝廷側が自発的に北条義時追討「官宣旨」を出した承久三年五月十五日とは全く異なります。

葉室光親が死罪となった理由(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/324ab0b5154b1db54f911cf3cae41462

また、頼朝は追討宣旨には慣れていて、別に怒ってはおらず、朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかけ、新たな権益を確保しようとしただけですが、承久の乱では義時以下、実際に殺されそうになったのだから本気で激怒しています。

葉室光親が死罪となった理由(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e50927d87c2f438ad99af3935b577ac

結局、葉室光親の死罪は宣旨または院宣という紙切れの形式的記載だけで判断された訳ではなくて、後鳥羽による戦争計画の立案と遂行に果たした実質的役割が追及され、「合戦張本」の一人と誤解された結果であることは『吾妻鏡』を読めば明らかです。
そんなことは明々白々だったので、従来の研究者も、光親の処分が文治元年の高階泰経に比べて厳罰すぎる、などといった頓珍漢な議論はしなかった訳ですね。
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

葉室光親が死罪となった理由(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1055641c3aa05a0defdabe2a3b8ba23
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c07bc4c7c6a769979bbe38c9e1ba04
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その3)

2021-09-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月21日(火)12時07分6秒

従来、承久の乱の目的が倒幕であることは誰も疑っておらず、『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)の段階でも、「近年では【中略】院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されている」(川合康氏)程度の扱いだったのが、2015年に長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』が出て雰囲気が変わり、2018年には近藤成一氏をして、義時追討説が「ほぼ学界の常識」となった、と言わしめるに至った訳ですね。

「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ…」(by 近藤成一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d370925b84000e9314bd5a7fea4683e

ただ、私なりに義時追討説と倒幕説の主張を検討してみたところ、両者は相互に排他的な二者択一の問題ではなく、後鳥羽が戦争に勝利した後、東国武士に対する「コントロール」をどのようにしようと構想したかという、ある程度の幅を持った問題と捉え直す方が良いのではなかろうかと感じました。
実際には戦争は僅か一ヵ月で後鳥羽の全面敗北で終わってしまったので、後鳥羽の戦後構想も何もあったものではない訳ですが、しかし、ひとつの思考実験として、後鳥羽が勝利できた僅かな可能性を検討し、その際の戦後の公武関係を想像することも全く意味がない訳でもなさそうです。
このような観点から野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を眺めてみると、京方が勝利する可能性のひとつとして、三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して義時を打倒するというケースが一応考えられます。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されるというケースも、もう一つの京方勝利の可能性を感じさせます。
そこで、この二つの可能性に関連する部分を中心に、慈光寺本『承久記』を読んでみることにしました。

慈光寺本『承久記』を読む。(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26f779297c2163cdb0576f9070a37cb1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6596f9364d5ed04b9b546d542014a272
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

ところが、慈光寺本『承久記』の検討を始めたばかりの段階で長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)を入手し、同書を先に検討することになりました。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』の奇妙な読後感
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/798750ad8eb09758aeeb2ba36512c538

私は同書に若干の否定的な先入観を持っていたのですが、実際に読んでみたところ、世評が高いだけあって全般的に優れた本でした。
ただ、いくつか初歩的な誤りもあります。
その中で、大江親広が「姫の前」所生の北条義時女と結婚していた事実を長村氏が知らなかった点は、かなり重大な問題のように思われました。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d

さて、同書で長村氏は「もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではないが、鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解であれば、見直す必要があると思われる」と言われています。
承久の乱に関する従来のほぼ全ての学説を渉猟したであろう長村氏にしても、従来説が「具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」とされるのは少し意外でした。
ただ、仮に討幕説=「鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解」だとすれば、逆に「鎌倉殿」を存続させ、「御家人制度を解体」しないことを最低ラインとし、これさえ守れば、朝廷側の幕府に対する「コントロール」がどれほど強いものであろうと、それは義時追討説ということになるのか。
また、長村氏自身は、後鳥羽の戦後構想としては、どの程度の「コントロール」を予定していたものと考えているのか。
こうした点は、同書では必ずしも明確ではありません。

「先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bc9bc0f4b97db14222213ef8f0f3bcf8
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その2)

2021-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)12時57分54秒

坂井孝一氏と野口実氏は北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していることを確認した後、本郷和人氏より若い世代の「倒幕説」として、田辺旬氏の「第3講 承久の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』、ちくま新書、2020)を少し検討してみました。
そして、田辺氏の論稿で長村祥知氏が「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはずであり、後鳥羽院には幕府そのものを打倒する意図はなかった」と主張されていることを知り、正直、私には長村説を少し軽んじる気持ちが生じました。
これではあまりに形式論に過ぎますし、宛先となった武士たちにとっても、僅か四歳の幼児(藤原頼経、1218-56)や六十六歳の老尼(平政子、1156-1225)を追討しましょうと言われても、なかなか気分が乗らないはずです。

「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f1a44db9f7736795561e163dc58f0ba

ただ、北条政子の「和字御教書」の検討を踏まえて、「実朝暗殺後の鎌倉幕府では、幕政運営や文書発給において、北条政子が実質的な将軍として意思決定を行っており、義時は執権として政子の政務を補佐していた。【中略】こうした幕府政治のありかたを踏まえれば、後鳥羽院の義時追討命令は、政子が主導する幕府の政治体制そのものを否定することを目指したものであり、院の挙兵目的は討幕であったと考えるべきであろう」とする田辺説にも論理の飛躍があり、法的な分析が貧弱のように思われました。

「義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しい」(by 田辺旬氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd9588cbe7b76610f5b943ea1ea30202

本郷和人氏の見解も、やはり法的分析が貧弱のように思われますが、しかし本郷氏の「さらに重要なのは、鎌倉幕府を支える御家人たちの間で、義時追討令とは幕府を倒すことだという認識が共有されていたことです」との指摘は私には説得的なように感じられました。
現代の義時追討説の論者は後鳥羽の「官宣旨」・「院宣」の細かい文言に拘泥していますが、「鎌倉幕府を支える御家人たち」にとってはそんなことはどうでもいい話で、彼らはろくに「官宣旨」・「院宣」を読みもしないまま「義時追討令とは幕府を倒すことだという認識」を共有していたのは間違いなさそうです。

「幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/684bbbcb98a9e9354d41cea40cb49e59
「幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ff823345f50613aaa82731c9fe2aaab
「朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/453cc9f910599c456ac20abce15f93d2

さて、川合康氏は『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)所収の「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」において、「近年では、後鳥羽権力が幕府権力を前提に形成されたことに注目して、院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが、こうした見解には、北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」とされていますが、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」は、言い換えれば義時追討後の戦後構想の問題です。
そこで、野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を用いて、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」ないし後鳥羽の戦後構想を少し考えてみることにしました。

「義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」(by 川合康氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88df33953e68d18233f06c2c90334d70
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長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)

2021-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)10時49分3秒

征夷大将軍の問題は重要なので、下村論文に即して改めて検討する予定です。
また、「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想が生まれた時点についても、後で若干の補足を予定しています。
さて、鈴木著の「序章」に戻ると、鈴木氏は承久の乱についてはごく簡単に次のように述べられているだけですね。(p9以下)

-------
承久の乱
 実朝の死から二年後の承久三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は全国の武士にあて、北条義時を討てという宣旨を出した。承久の乱の勃発である。
 後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかったとも言われている(長村 二〇一五)。ただ、この時、義時は事実上の幕府最高権力者であり、彼だけを倒せという命令を出したとしても、実質的には討幕と同義であったと考える。
-------

ここで紹介されている長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)については、この掲示板でも昨年五月から六月にかけて、少し検討しました。
その内容はブログ「学問空間」では「長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」というカテゴリーに入れておきましたが、内容を概観できるようにまとめてはおかなかったので、ここでプチ整理しておきます。
私が承久の乱を調べようと思ったきっかけは岩田慎平氏の「「我又武士也」小考」(『紫苑』20号、2020)という論文で、岩田氏は比企朝宗女「姫の前」所生の北条義時女が土御門定通と再婚した時期について、「承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい」と書かれていました。
しかし、二人の再婚は承久の乱の前であることが明らかです。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

土御門定通は承久の乱に積極的に加担したにもかかわらず処分を免れており、これは義時娘を妻としていたためですね。

「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c9b2e18e6868f44b698d21898577992e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e091c3125d7f725ea770c2505e7b8c6

そして承久の乱についても、少しきちんと調べてみたいと思って野口実氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)を読んでみたところ、同書はなかなか充実した論文集でした。

「貴族が軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な事件」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ae44d1b4f6e8ebbef13119ed27e46d
野口氏の記述について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3628ef7077194bbb7aeba4f13fc1e256

この論文集で、野口実氏の周辺では「後鳥羽の目的は、義時討伐のみで、倒幕の意図はなかった」説が常識化していることを知ったのですが、私には納得しかねる点もありました。
それは、仮に後鳥羽が戦闘に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想の問題です。

北条義時追討説への若干の疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec5e9c47c9c9a0994709fd7a2b74bd3

そこで、義時追討説を詳しく論じた坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)と、討幕説を維持する本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)を読み比べてみました。
すると、近年の研究を丹念にフォローし、史料も丁寧に紹介している坂井著は確かに「読者に迎合しない良質な歴史本」(呉座勇一氏)である一方、本郷著はテレビ番組での解説をそのまま文章化したようなお手軽さで、参考文献も全く載っていない雑な本ではありました。
ただ、本郷氏もこの時期は若き日に相当熱心に研究されているので、ところどころ鋭い指摘がありますし、老獪な古狸となった本郷氏がボソッと呟く人物評などもそれなりに味わいがあります。
他方、誠実一筋の坂井著は、政治的人間への洞察の面で相当に甘さがあるのではないか、と思われました。

坂井孝一『承久の乱』 VS.本郷和人『承久の乱』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b126c431faabcd58416010b5e0224841
「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821
「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66884f8742592d639b1fdc1f5c96d0e9

さて、義時追討説に立つ坂井孝一氏は、後鳥羽の目的を単純に義時を排除することではなく、「義時を排除して幕府をコントロール下に置くこと」とされているのですが、この「コントロール」の内容は明確ではありません。
「コントロール」の具体的な内実を詰めて考えて行くと、坂井理論は討幕説とどこが違うのかも不鮮明になってくるように思われました。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc

そして野口実氏も「コントロール」という表現を使われるのですが、その内実はやはり明確ではありません。
また、野口氏は北条政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われますが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の「すり替え」に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価です。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
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鈴木由美氏『中先代の乱』(その2):「源頼朝の再来として」

2021-09-18 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月18日(土)14時15分51秒

「序章」の征夷大将軍に関する記述は「終章」の最後の最後、「あとがき」の直前に置かれた次の記述に対応していて、これが鈴木由美氏にとって長年の北条時行研究の到達点ですね。(p190)

-------
源頼朝の再来として
 北条時行や彼を担ぐ者たちが当初目指したのは、鎌倉幕府と北条氏の再興であっただろう。北条氏が執権となり、持明院統の親王を将軍にいただく、鎌倉時代後期の体制をとった鎌倉幕府の復活を目的としていたと考える。中先代の乱で占領下にあった鎌倉で発給された文書の形式が得宗家公文所奉書に類似していたことから、北条時行自身が鎌倉幕府の将軍になるという発想はなかったことがわかる。
 中先代の乱に敗れた後、時行や北条一族の目的は打倒足利氏にシフトしたものと考えられる。足利氏が接近し担いだ持明院統と再び手を組むことは不可能であるからだ。時行たちに、南朝のもとで鎌倉幕府を再興するという明確な意図があったかどうかはわからない。
 一方、時行や尊氏の支持基盤である武士たちは、親王将軍を仰いで執権北条氏が権力を握る体制ではなく、尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めたのではないか。そのため時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱は、頼朝の再来である尊氏の勝利に終わったともいえるだろう。
-------

私自身は「時行や尊氏の支持基盤である武士たち」が「尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めた」のではなく、むしろ南北朝の対立の中で、足利氏の軍事力が全国を制圧するほど圧倒的に強大ではなく、また足利氏が依拠する北朝に南朝を凌駕するほどの権威がなかったために、足利氏側には「支配の正統性」を補強する必要が生じ、その補強策のひとつとして「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダが生まれたものと考えています。
つまり、「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは足利家が考案し、展開させたもので、一般の武士はプロパガンダの単なる受容者という考え方です。
山家浩樹氏は『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リプレット、2018)において、足利氏が「支配の正統性」補強のために考案した様々なプロパガンダを丹念に拾い集めておられますが、その中には例の家時置文のようにロクに世間に広まらなかった失敗例もあります。
「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは、足利家が考案した複数のプロパガンダの中では最も成功したケースであり、しかも『太平記』という当時最強のメディアによって、足利家の統制を離れて異常に拡大され、結果的に『太平記』によって、征夷大将軍という存在が極めて重いものだ、という認識が普及することになった、というのが現時点での私の見通しです。

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8a490f48853111af52b74ef418ccbd

私はこのように考えるので、建武二年(1335)八月、「時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱」の時点では「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想自体が生まれておらず、それはもう少し先、尊氏が北朝から征夷大将軍に任官された建武五年(暦応元、1338)八月までの間のいずれかの時点に生まれたものと想定しています。
中先代の乱では、僅か二年前に親兄弟・一族・友人・知人を皆殺しにされて復讐の念に燃える時行側にとって、尊氏は絶対に許すことのできない卑劣な裏切り者です。
従って、共に天を戴くことのできない仇敵同士の両者の間には「鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰」などといったのんびりした情緒が介在する余地は全くなく、実力で相手を粉砕・殲滅する以外選択肢がない殺伐とした世界だったと私は考えます。
総じて鈴木著は「支配の正統性」に関する理論的考察が弱く、それは鈴木著が大きく依拠している『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)等の細川重男氏の著作でも同様なので、必要に応じて細川著への批判も少し行う予定です。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「書評会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ae96ccb2823387e39cc2c6ef107347a
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