学問空間

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0131 後鳥羽院=プーチン説

2024-07-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第131回配信です。


一、前回配信の補足


権門体制論は承久の乱の戦後処理を説明できるのか。

新年のご挨拶(その2)〔2021-01-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c
川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その4)〔2023-03-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/445055e235c4074de2517fb032953962
0024 佐藤雄基氏の研究について(その1)〔2024-01-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b40ce7a34a7da740383ef93a82085e32

国家の本質を「正統的暴力の独占」と把握し、国際法上の「国家」概念に照らして幕府を「国家」と考えれば、承久の乱の戦後処理を合理的に説明できそう。
しかし、当時の人々は、当時の人々なりの「国家」「日本国」概念を持っており、幕府を含む「一つの国家」、「一つの日本国」の存在を疑ってはいなかった。
では、現代の歴史研究者は、当時の人々の「国家」「日本国」概念に従属しなければならないのか。

古文書・古記録の世界に沈潜している研究者は、「ひとつの国家」を疑う必要を全く感じていないように思われる人が多い。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その50)─高橋秀樹氏の場合〔2023-11-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c640dc22ec21d1fa533cf80b6b4e5e86

史料概念としての「国家」「日本国」と分析概念としての「国家」を切り離すメリットは何か。
抽象度の高い分析概念として「国家」を使用することにより、

(1)特定の政治権力を他の時代、他の地域の「国家のようなもの」と比較し、当該政治権力の性格をつかみやすくなる。
(2)国家論と社会論の役割分担が明確になる。

不明確な代表例
宮地正人等編『新体系日本史1 国家史』(山川出版社、2006)
https://www.yamakawa.co.jp/product/53010

『新体系日本史1 国家史』〔2013-12-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d11b8a4cd53f6ebeec7ada9557201c65
宮地正人氏「国家」(『日本史大事典』)(その1)(その2)〔2014-01-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8efa01d90ea67cfdcc039c6012ec7cc9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed4ea2f8386d8adfa8d2d7d3073df7f6

「史料概念」と「分析概念」〔2019-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72564c188bd1ced974a3406b89d38e62


二、後鳥羽院=プーチン説

「鎌倉クラスター向けクイズ」へのコメントで、筆綾丸さんがプーチンに言及。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac6d4eaa2383d39dc1dd244584ad5cfa

ウクライナ戦争は「国家」を考える上で絶好の素材。
プーチンは独自の歴史観から、ウクライナが「国家」であることをそもそも認めていない。
ソ連邦解体の混乱の中で、西欧諸国の陰謀により、ウクライナは「国家」であるかのような外形を一応整えた。
しかし、それは正しくない歴史であり、正しい歴史観に基づく秩序を回復しなければならない。

後鳥羽院は独自の歴史観から、鎌倉幕府が「国家」であることをそもそも認めていない。
治承・寿永の内乱の混乱の中で、源頼朝の策謀により、幕府は「国家」であるかのような外形を一応整えた。
しかし、それは正しくない歴史であり、正しい歴史観に基づく秩序を回復しなければならない。
コメント (4)
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0130 鎌倉クラスター向けクイズ【解答編】

2024-07-26 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第130回配信です。


武力「蜂起」→「放棄」のタイポ

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その17)─『承久兵乱記』の六月十五日付院宣〔2023-08-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63ce88e6d18a1403e4b2cad76aac8580

0111 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その1)~(その4)〔2024-07-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6345a16c7c0729fa520a1f463e51af15
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3fed1954fd5b3e398c7756891c78606
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91c38b7ee69fc4a0f3033e4490d0ab0d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cde924ebe81de0b34776b44df7117cd
0115 当面の運営方針について(再考)〔2024-07-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d9819f5f3f6d3c829cb1ebd56295380

高橋典幸(東京大学教授、1970生)
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鎌倉クラスター向けクイズ

2024-07-26 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
唐突ですが、ここで問題です。

【設問】
 下記文章は高橋典幸・山田邦明・保谷徹・一ノ瀬俊哉著『日本軍事史』(吉川弘文館、2006)の「古代中世 四 源平の戦いとモンゴル襲来」(高橋典幸担当)から引用した。(p71以下)
この中に重大な誤りがあるが、それを指摘した上で、どのような問題があるかを説明せよ。
なお、いわゆる倒幕説と義時追討説の対立とは関係がなく、その点は考慮する必要はない。

-------
承久の乱
 しかし、成立当初の鎌倉幕府の基盤は不安定であった。強力な御家人制が形成されたのは東国に限られ、頼朝が直接出向くことのなかった西国においては御家人になる者の数も少なく、頼朝との関係も東国武士に比べれば弱いものであった(田中稔・一九九一)。また、軍事体制が御家人制に一本化されたわけではなく、院政期以来の院を中心とする軍事体制も健在であった。とくに後鳥羽院は、新たに西面の武士を設置するなど、武士の組織化に積極的であった。以前から朝廷に仕えていた都の武士や、御家人とはならなかった西国の武士、さらには在京する御家人たちが院のもとに組織されており、実際に後鳥羽院はこれらの武士に直接宣旨や院宣を下して積極的に軍事活動を展開していた。鎌倉幕府成立当初は二つの軍事体制が並立しており、後鳥羽院もけっして軍事的主導権を幕府に譲っていたわけではなかったのである。
 一二二一年(承久三)に勃発した承久の乱は、こうした二つの軍事体制の衝突であった。後鳥羽院は自己の配下の武士を中心に、追討宣旨を下して幕府打倒を図ったのに対し、幕府は遠江以東一五ヵ国の御家人に動員令を下してこれに対抗したのである。これは軍事的主導権をめぐる争いであった。そうした意味で、幕府方の大勝利・後鳥羽院側の惨敗に終わった戦後、後鳥羽院が「武力蜂起」の院宣を発したとされることはたいへん興味深い(本郷和人・一九九五)。この院宣は『承久兵乱記』という軍記物にみえるもので、事実として他の史料で確認することはできないが、承久の乱を契機に院による独自の軍事組織・軍事体制はみられなくなることから、軍事的主導権が名実ともに幕府に移行したことを象徴する逸話と言えよう。
 毎年五月に京都の新日吉社で行われた小五月会の流鏑馬も、そうした変化を象徴するものとして注目される。すなわち、承久の乱以前は院の北面や西面に仕える武士が流鏑馬の射手を勤めており、院の軍事力を誇示する場となっていたのであるが、承久の乱後は幕府が京都に設置した六波羅探題に仕える御家人(在京人)によって担われるようになった。軍事的主導権の交代は、このように目に見える形で京都の民衆にも示されていたのである。
-------

『日本軍事史』(吉川弘文館、2006)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34646.html
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0129 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その9)

2024-07-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第129回配信です。


一、前回配信の補足

称名寺の剱阿宛ての書状(2)(3)が紙背文書として称名寺に残るのは良いとしても、私人間の書状である(1)が何故に紙背文書となっているのか。
あるいは倉栖兼雄が兼好から(1)を預かっていて、(3)の説明資料として、くれぐれも諷誦文の名前は「うらへのかねよし」にして下さいよ、と念を押すために添付したのか。

(2)の「こまちより」の女性を兼好の家族関係から切り離すのは、私の当初の目論見にとっては痛手。

『とはずがたり』には「土御門定実のゆかり」の「小町殿」が登場するが、この「小町殿」と「こまちより」の女性の関連を探そうと思っていた。
しかし、断念。
ただ、兼好の家族とは別に、「小町殿」と「こまちより」の女性が結びつく可能性はある。

『とはずがたり』巻4.「小町殿と交通、病臥、新八幡放生会」
http://web.archive.org/web/20150513072639/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-komachidono.htm

「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」〔2018-06-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4cb5a86407251620006b276ecee01602

土御門定実(1241‐1306)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%9A%E5%AE%9F

『徒然草』第196段は、第195段「ある人、久我縄手を通りけるに」と連続する久我通基(1240‐1308)のエピソード。
ここに「土御門相国」(土御門定実)が登場し、故実に関する通基の見解を批判。

-------
 東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿、大将にてさきを追はれけるを、土御門相国、「社頭にて警蹕いかが侍るべからん」と申されければ、「随身の振舞は、兵仗の家が知ることに候」とばかり応へ給ひけり。
 さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄を見て、西宮の記をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼・悪神を恐るるゆえに、神社にて、ことにさきを追ふべき理あり」との仰せられける。
-------

『徒然草』第195段「ある人、久我縄手を通りけるに」
http://web.archive.org/web/20150502062103/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-195.htm
『徒然草』第128段「雅房大納言は、才賢く」
http://web.archive.org/web/20150502075449/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-128-masafusa.htm

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実〔2018-03-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baa3418590f48ba4bdd2fc42981da81f


二、兼好と堀川家との関係

堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その2)〔2017-11-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c00fd81296ddc93e0110093a72a4e6f
0119 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その4)〔2024-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/14ed9a77d21c702fca914d30459decf7

延政門院一条との贈答歌

風巻景次郎「家司兼好の社会圏」四
http://web.archive.org/web/20061006214921/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kazamaki-keijiro-4.htm

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その11)〔2022-09-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7f8ee7d6c5c197c88510cc2314a0ccce
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0128 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その8)

2024-07-24 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第128回配信です。


一、兼好の家族関係についての暫定的結論

若干の疑問は残るものの、小川氏が想定された基本的な家族関係は正しいという前提であれこれ考えてきた。
しかし、(2)と(3)では故人の命日が一致しない。
(3)では「廿二日」に相当こだわっているので、二十二日が命日と考えざるをえない。
しかし、二十二日では(2)を説明するのは無理。

(2)は(1)(3)と切り離し、考察の対象から除外。
(1)は姉その他第三者を介在させずとも、直接に兼好自身へ宛てたものと読むことができる。
母親だから息子を「四郎太郎」と呼ぶのは不自然ではないし、諷誦文には「うらへのかねよし」ときちんと書くように、と言うのは母親の老婆心の現れ。
(1)(3)は内容上密接に関係していることは明らかであり、「故黄門上人位」は「うらへのかねよし」の父親で良い。
ただ、倉栖兼雄と兼好の関係は、倉栖兼雄が兼好の父親と親しかった、という以外ははっきりせず。


二、「玉造郡年貢結解状」と楊梅兼行

七海雅人編『東北の中世史2 鎌倉幕府と東国』(吉川弘文館、2015)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b201439.html

「二 東北の荘園と公領」(清水亮氏担当)

p74
-------
玉造郡の内部構成
 鎌倉時代における陸奥国玉造郡の地頭は、北条氏一門の金沢氏であった。玉造郡は国府周辺地域(第一地帯B)に属する所領である。弘安七年(一二八四)の玉造郡年貢結解状(年貢決算書)によると、地頭金沢氏が同郡に課していた年貢は砂金五十両・色々代銭八六九貫三七三文であり、そのうち五三貫六百文が「国司方御年貢」として京都に送進されていた。玉造郡内の某郷では、年貢賦課の対象となる「郷分九丁八段六合」のなかに「金田四丁」が設定され、「砂金四両」の賦課基準となっていた。そして、残る「公田四丁六段二号六夕七才」「下田一丁二段三合三夕三才」から布・藍・地皮・米が徴収されていたのである(以上、「金沢文庫文書」・入間田、二〇〇五)。
 「公田」とは所領内の年貢・賦課の基準となる田地のことであり、この場合は定田と同義である。すなわち、玉造郡においては、金年貢を徴収する基盤として「金田」が設定され、さらに「公田」においても米だけでなく布・藍・地皮などの地方特産物が賦課対象となっていたのである。
-------

永井晋『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33581.html

-------
第八 貞顕の所領
一 金沢家の所領
二 武蔵国久良岐郡六浦庄と下総国下河辺庄
三 下総国印西庄・埴生庄・埴生西条
四 常陸国茨城北郡と下総国東庄上代郷・加賀国軽海郷・因幡国千土師郷
五 甲斐国石和庄・八代庄
六 近江国柏木御厨と伊勢国志摩国守護領
七 信濃国太田庄大倉郷・石村郷と陸奥国玉造郡
八 越中国太田保・加賀国山代庄・加賀国菅谷・能登国仏木
九 丹後国大石庄と出雲国赤江保・周防国竈戸関
一〇 伊予国久米郡・野口保
一一 その他の人々の所領
-------

p192以下
-------
 陸奥国玉造郡(宮城県玉造郡岩出山町)は、定有書状に「奥州玉造郡は国領に候、地頭職においては代々当寺本願主御領に候、よって探題以下国方年貢御沙汰候」(『金文』一六六三号)と見え、金沢家嫡流の所領とわかる。『金沢文庫古文書』に伝来する弘安七年(一二八四)の年貢結解状は、砂金五十両、定銭八百六十九貫七百五十三文と記されている(『金文』五二二二号)。玉造郡内には貞顕の従兄弟越後大夫法印顕瑜知行分の二ヶ郷や賀島金吾知行分の所領が知られ、金沢氏が郡地頭職をもち、郷村単位で一族や被官人を給人としていたことがわかる。陸奥国玉造郡の支配構造は、入間田宣夫「金沢氏と陸奥国玉造郡地頭職」(『金沢文庫研究』一六七号)に詳しく解説されている。
-------

『金文』一六六三号

清水氏「砂金五十両・色々代銭八六九貫三七三文」
永井氏「砂金五十両、定銭八百六十九貫七百五十三文」

『金文』五二二二号を見たところ、清水氏が正しい。
永井氏はすぐ左側の行と混同。

(紙背)
「従三位臣藤原朝臣兼行
 正四位下行左近[    」

楊梅兼行(1254‐1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%A2%85%E5%85%BC%E8%A1%8C

「兼行」で自分のブログを検索してみたところ、意外に頻繁に登場。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その3)〔2017-12-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd7cde400fd771b8419e4f6d945796a9
『増鏡』序─補遺〔2017-12-29〕☆
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23
「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」〔2018-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171
「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)〔2018-03-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)〔2018-03-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)〔2018-03-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7906f955c00e7d249c9992755d6843d
「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)〔2018-03-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a58f07bed7b0300dbac5204ce193a25
「巻十 老の波」(その11)─後深草・亀山院の伏見殿御幸〔2018-04-23〕☆
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/950d40f0497e866de0648e9a267ed33b
後深草院との歌の贈答〔2019-04-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55637ad3bae6e5109bac7d840c50a293
後深草院との久しぶりの邂逅〔2019-04-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/775c237ff40bb0006550e62e2160b2fa

「船上連歌」の復元〔2019-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d0492375430fc07c6e9358420e09a9fc
「御賀次第」の作者・花山院家教〔2019-04-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82c86694ff4f2a83c124ac891a4bcca5
「変態繽粉タリ」(by 菅原道真)〔2019-04-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea65e0e55b870999f246496f5ed2c92
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その4)〔2022-02-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7b22a3ec381663ddd11440aacae72745
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その7)〔2022-02-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b29a325663b61fe0ac51c91d68c43adc

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)〔2022-02-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/01c6b23a2e5513ef170875fe9f555b2b
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)〔2022-04-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5
「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その8)〔2022-12-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/062809deba95cad0c3cc930cf7d25a0c
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0127 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その7)

2024-07-23 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第127回配信です。


一、前回配信の補足

「故黄門上人位」について

p52以下
-------
 これまで金沢貞顕書状とされて来たが、「拝謁」「何条の御事」という丁寧な言い回しから、倉栖兼雄書状とすべきであろう。
 二次利用面の六浦瀬戸橋造営棟別銭注文土代(金文五二四九号)によって、嘉元三年四月以前、あまりそれを遡らない頃の書状とみられる。「御寺」は称名寺に違いなく、恐らく剱阿宛てである。来る二十二日、前々と同じく「故黄門上人位」の仏事をきっと修されることであろう。「小林の女房」より布施として「五結」を進上した、些少で恥じ入っている旨よく申してくれと言われている。ともかく仏事は必ず聴聞したい、という内容である。
 故人の追善の話題であり、女性から布施が送られたこと、額が「五結」であること、少額と恥じ入るなど、二八〇一号の内容とよく一致する。同じ家族のことならば「小林の女房」が兼好の母、「故黄門上人位」が「こ御てゝ」、兼好の父となる。「黄門」は中納言の唐名だがここでは公名〔きみな〕か。公名とは大寺の童〔わらわ〕の、近親先祖の官名に因む幼名で、しばしば出家後も用いられた。また、「上人位」といえば法橋(法橋上人位。第三階の僧位)が思い浮かぶ。ならば「中納言法橋」と称された官僧となる。しかし法橋を「上人位」と略すのは異様であるし、仏事の催行形態や規模からも、大寺に属して官位を持つ僧とは思えない。「故黄門上人位」は、やはり公文所などに属し、金沢流北条氏ないし称名寺の庶政を支えていた出家者ではないかと想像されて来る。法体であっても、正式な僧ではない。
-------

そして小川氏は、「一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定」されている。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)〔2018-02-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d

「黄門」は公名(近親先祖の官名に因む幼名)に類する名称。
勝手に名乗ることは許されず、(養子・猶子関係を含め)近親に中納言がいなければならない。
しかし、「一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定」した場合、近親に中納言がいるような家系なのか。

祭主
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E4%B8%BB

「故黄門上人位」は堀川家に仕えた人なのではないか。
小川氏が切り捨てた堀川家の場合、大臣家なので中納言クラスはいくらでもいる。
「小林の女房」は「故黄門上人位」の没後、京都に戻っている。
鎌倉滞在期間はそれほど長くはないのではないか。
正応二年(1289)、堀川基俊(1261‐1319)が久明親王とともに鎌倉に下向した際に、同行したのではないか。

宗尊親王とともに鎌倉に下向し、足利家に仕えることとなった上杉氏のような立場ではないか。

宗尊親王─土御門顕方─上杉重房(足利家に仕える)
久明親王─堀川基俊─「故黄門上人位」(金沢家に仕える)

二、金沢家と堀川家の関係

七海雅人編『東北の中世史2 鎌倉幕府と東国』(吉川弘文館、2015)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b201439.html

p92以下
-------
陸奥守・知行国主のゆくえ
 北条業時の後任の連署となった北条宣時は、正応二年(一二八九)六月、陸奥守の官職も合わせて継承する。これ以降、幕府滅亡にいたるまで、陸奥守は基本的に宣時の家(時房流北条氏=大仏氏)が独占する官職となった。宣時を継いだ宗宣・惟貞親子は、ともに六波羅探題南方を経て連署へ昇進している(宗宣は、さらに執権となっている)。したがって大仏氏は、得宗を頂点とする幕府家格秩序の一角を占める家として位置づけられるのであり、陸奥守は大仏氏家督を指し示す官途として定着していったといえる。
 また、陸奥国知行国主についても、十三世紀後半以降、堀川家が相伝すると考えられる。この家が属する村上源氏は幕府と良好な関係を築き、鎌倉殿伺候の廷臣を多く輩出した(湯山、二〇一三)。堀川基具の子息基俊も鎌倉へ下向しており、父の陸奥国知行とは別に、出羽国平賀(鹿)郡に所在した上溝・布曝両郷(秋田県横手市・大仙市)の地頭職を与えられている(遠藤、一九九九b)。実際の陸奥国知行の得分については、金沢北条氏所領玉造郡の弘安七年(一二八四)分「国司方御年貢」と、得宗領名取郡北方四郎丸内若四郎名の元応二年(一三二〇)分「恒例惣郷京進絹代」の二例を指摘することができるだろう(「金沢文庫文書」『鎌倉遺文』一五三九九号・「南部光徹氏所蔵遠野南部文書」『鎌倉遺文』二七七七六号)。前者については全所済額のうちの約七・二%(五三貫六〇〇文)、後者については約九%(二貫四〇〇文)が計上されていた。
-------

北条宣時(1238‐1323)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%A3%E6%99%82

『徒然草』第215段 平宣時朝臣、老ののち
http://web.archive.org/web/20150502065648/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-215-nobutokiason.htm
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0126 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その6)

2024-07-22 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第126回配信です。


一、前回配信の補足

(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

これが七回忌であるならば、この女性は日程について、(1)の「うらへのかねよし」(四郎太郎)や(3)の倉栖兼雄と調整を図らねばならず、その調整がついていることを剱阿に伝えなければならないはず。
しかし、彼女は自分の都合のみを記し、自分独自の判断で「はかなどへもまいりたく」と言っている。
従って、(2)は七回忌ではない。

小川氏は嘉元の乱との関係から、(2)について、「したがってこの書状は嘉元三年六月か七月となる。二八〇一号もその直前と定まる」とされるが、少なくとも後者は誤り。
七回忌がいつ行われたかは確定できない。
従って、「故黄門上人位」の没年も確定できない。

二、倉栖兼雄について

永井晋『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33581.html

p161以下
-------
三 倉栖兼雄

 倉栖氏は、下総国豊田郡来栖院(茨城県結城郡八千代町)を苗字の地とした一族と思われる。【中略】
 倉栖兼雄の母随了は、諷誦文の中で兼雄を次のように述べる。
  (前略)父の業を継いで以て父を添〔はずか〕しめず、文才を左にして
  政務を論じ、武略を右にして令申を布く、二代の賢太守に仕えて一家の
  管領の仁に当り、重々の切勲を策て、度々の使節を遂ぐ、(後略)
 この諷誦文は、兼雄が父の跡を継いで金沢家に仕え、顕時・貞顕の二代に仕えたと伝える。金沢家は実時の代から下河辺庄を領地としていたので、倉栖氏は実時ないし顕時の時代に金沢家の被官となったとみてよいだろう。
 倉栖兼雄の初見は、正安四年(一三〇二)四月三日付の金沢貞顕書状(『金文』一〇二号+四号)である。この書状は右筆書の貞顕書状のなかで最も年代が遡るもので、倉栖兼雄は貞顕が家督を継いだ頃から右筆として側近く仕えたことを推測させる。また、右筆倉栖兼雄の手になる貞顕書状が数多く残るのは、貞顕が六波羅探題南方を勤めていた時期である。この時期の金沢貞顕書状に見える世尊寺流のなめらかな筆跡は、倉栖兼雄の筆である。
【中略】
 このように、倉栖兼雄は貞顕の右筆として書状を作成し、また使節や奉行人としてさまざまな仕事をこなしていった。倉栖兼雄は文保三年(一三一九)五月三日に亡くなったが、その諷誦文は不惑をわずかに超えたと伝える。兼雄は弘安三年(一二八〇)から数えて一二年前に誕生したと推測することが可能なので、弘安元年生の貞顕とほぼ同世代である。このことが、二人の交流をさらに親密にしたことは推測にかたくない。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その1)~(その3)〔2022-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a127e55d7ba12584dae6f1729e85e0f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39a92a06f94ed59f7d6d9b9e2da4f333
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0125 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その5)

2024-07-21 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第125回配信です。


一、前回配信の補足

金沢貞顕の恐怖の記憶〔2014-06-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/096bb952f1ddd3d4d767277c56195f74

二、小川氏の推理の過程の問題点

(1)「うらへのかねよし」の現れる書状(金文二八〇一号)

「秘鈔口決」という聖教の紙背文書。
二百四十余点の書状群に含まれる。
「みょうにんの御房」とあるので、「剱阿の長老就任前、延慶元年十一月以前」
「復原された書状群の年代を考証すると、確実なもので最も遡るものは嘉元元年(一三〇三)二月二十六日、最も降るものは徳治二年(一三〇七)十月晦日」
「そしてこの二八〇一号氏名未詳書状も、ちょうどこの間、嘉元三年夏のものと考えられ」

(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

これも「秘鈔口決」の紙背文書。
「あすはこ御てゝの正日」とあるが、実際に墓参りに行ったのは十五日。

p50以下
-------
「こ御てゝの正日」のすぐ後に、「此御一しゆき」と出て来るので混乱するが、これは剱阿と関係の深い、別人の一周忌である。当時、剱阿がこれを修すべき人物といえば、前長老の審海しか考えられない。審海の一周忌は嘉元三年六月十二日だが、五月に鎌倉で騒動(嘉元の乱)が起き、市中は混乱の極みにあったから、その余波で延引され、八月と定められていたのであろう。したがってこの書状は嘉元三年六月か七月となる。二八〇一号もその直前と定まる。
-------

本来の命日の近辺には「さすけのれん花寺に如法経」があったので、当時籠っていた自分もそれを聴聞し、「おほやけの中のわたくしなる心地」がしたとのことなので、本来の命日は月の前半か。
前長老・審海の一周忌をずらすとしても、十二日は動かさないだろうから、六月ないし七月十二日ということか。
とすると、「こ御てゝの正日」も十二日くらいだが、そこに別件の仏事が入ったので、十五日に墓参りに行ったということか。
その場合、(3)で「廿二日」に「故黄門上人位」の仏事が行われていることとのズレがあるのではないか。

(3)倉栖兼雄の書状(金文五〇三号)

兼雄は在京中なので、嘉元三年(1305)夏ではありえない。
『金沢北条氏編年資料集』でも、嘉元3年4月28日付け「六浦瀬戸橋造営棟別銭注文土代」の紙背なので嘉元2年以前と推定して嘉元2年の年末雑載に収録」とのこと。

永井晋・角田朋彦・野村朋弘編『金沢北条氏編年資料集』(八木書店、2013)
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1679

結局、小川氏は(2)が嘉元三年(1305)に特定できるとして、(1)(3)も嘉元三年と判断されたのではないか。
(1)(3)は七回忌であることは明確だが、(2)は別と考えることもできるのではないか。
仮に(3)が嘉元二年(1304)ならば「故黄門上人位」の没年も一年遡ることとなる。
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0124 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その4)

2024-07-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第124回配信です。


一、兼好の家族関係に関する小川剛生氏の推理

三つの書状

(1)「うらへのかねよし」の現れる書状(金文二八〇一号)

小川氏の現代語訳(p43)
-------
 よい便があったので申します。今年は「こ御てゝ」(亡き御父上)の七回忌です。こちらでも造仏などをして仏事を営みましたが、形ばかりでもそちらで仏事を修しませんのも気が懸かります折から、些少ではありますが、用途五結(銭五百文)を差し上げます。これで食事など沙汰されて、僧衆へ差し上げられ、御父上の孝養をなさって下さい。これは「四郎太郎」が供養する分です。風誦(経文や偈頌を声を上げて読むこと)を捧げますならば、「うらべのかねよし」と申し上げて下さい。……ところで「下野殿」(旧知の女房か)の病気が革まったと聞きましたのは、その後どうなったでしょうか。このところ亡くなる人があまりに多くて、実にやるせない気分です。生きているうちにあなたにお目にかかりたいものです。明忍御房(剱阿)にも是非逢いたいものです。かしこ。
-------

(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

小川氏の現代語訳(p49)
-------
 いつも御音信いただける間柄とは思っておりますが、さしたる事もなく、距離もあるせいか、やや疎遠な御様子ですが、心ならず思っております。明日は亡父の正忌(「こ御てゝの正日」)でありますので、墓などへも参りたいと思っておりましたところ、この御一周忌(「御一しゆき」)が八月でありますのを、前にということで、御仏事を前倒しになされましたら、佐介の蓮華寺で如法経供養が行われましたのを、現在参籠しておりまして、御歴々みな参会されるので、これはまた皆様のことに私のことも兼ねた気持ちが致しまして、ともによい縁ではないかと思いました。すべて深く思われていらっしゃるので、墓前での宝篋印陀羅尼なども唱えて弔って下さっただろうと期待しております。十五日に墓参いたします。十四日はこちらの墓などに参り、写経立筆したいと思います。万事通り一遍でない感情も到底言い尽くせない気持ちです。かしこ。
-------

(3)倉栖兼雄の書状(金文五〇三号)

小川氏の読み下し文(p51)
-------
 先日拝謁の後、何条の御事候や、久しく案内を啓さず候の際、不審少からず候、そもそも来る廿二日は故黄門上人位の仏事、先々の如く御寺に於いて定めて行はるべく候か、よつて小林の女房よりかの仏事の為に五結進らせられ候、最少の事に候ふ事、返す返す歎き入り候の由、よくよく申さるべく候ふ由、内々申し遣はされて候、□分何様にも廿二日ハことさら聴聞<〇後闕>
-------

『金沢文庫古文書 第一輯』(金沢文庫、1962)
-------
五〇三 金沢貞顕書状

先日拝謁之後、何条御事
候乎、久不啓案内候之際、不
審不少候、
抑、来廿二日、故黄門上人位
仏事、如先々、於御寺定可被行
候歟、仍、自小林女房為彼仏
事、五結被進之候、微少事
候事、返々歎入候之由、能/\可
被申候由、内々申遣されて候、
□□何様にも廿二日は、故、聴聞

(備考)コノ状ハ嘉元三年四月廿八日付覚恵ノ瀬戸橋造営棟別銭注文案ノ紙背ニアレバ、コノ年月以前ノ書状タルコト明ナリ。其ノ手跡ヨリ推スニ多分金沢貞顕書状ナルベシ。
-------

-------
 以上、金沢文庫古文書から得られた情報をもとに、兼好の在俗期を再現してみたい。
 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍坊釼阿とも親しく交流し、正安元年(一二九九)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(一三〇五)夏以前、恐らくはこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(一三〇八)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d

二、(1)~(3)は本当に嘉元三年(1305)の書状なのか

特に問題となるのは(3)。
「来る廿二日」の「故黄門上人位の仏事」に、本人も「聴聞」に行くことになっていないか。
しかし、嘉元三年(1305)夏には倉栖兼雄は在京。

永井晋『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33581.html

p39以下
-------
  三 嘉元の乱

 嘉元三年(一三〇五)四月二十二日、得宗北条貞時は鎌倉の宿館が焼失したため、執権北条師時の館に遷った。翌二十三日、内管領北条宗方は得宗の仰せと称して連署北条時村を誅殺した。このことを知らせる鎌倉の使者が六波羅北殿に到着したのは、四月二十七日辰刻のことである。六波羅探題は知らせを受けてすぐに御教書を作成し、異国警固を勤める鎮西探題北条政顕と長門周防守護代のもとに使者を派遣した。長門周防の守護は誅殺された北条時村であり、在国する守護代小笠原蓮念への説明は慎重を要したことであろう。
 また、貞顕は被官人鵜沼某を京都の情勢を伝える使者として鎌倉に下向させた。不穏な情勢を察知した在京人や探題の被官人が続々と六波羅に集まってきたので、両探題は六波羅評定衆や在京人を御前に集め、鎌倉から届いた御教書を読み聞かせた。また、両探題は宿直以外の者は宿館に帰ることを命じた。
 この事件で、貞顕は困難な立場に立たされることになった。誅殺された連署北条時村は貞顕の舅にあたる。鎌倉からの第一報が届いた時、六波羅南殿は「上下色を失い、公私声を呑み候」という状況に陥った。貞顕の右筆倉栖兼雄は、宿館に待機させられた時の心情を「恐怖の腸、肝を焼き候き」と吐露する。【後略】
-------

嘉元の乱
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0123 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その3)

2024-07-19 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第123回配信です。


一、前回配信の補足

『とはずがたり』のみならず、『増鏡』も、その原型(『増鏡』を構成する個々のエピソード)の主たる読者として想定されたのは幕府の「特権的支配層」。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)〔2020-01-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4

『増鏡』第十一「さしぐし」「掄子女王と源有房」
http://web.archive.org/web/20150516000203/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-arifusa.htm
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)〔2022-05-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/19c179315a06cf09305cda3654717d96

六条有房(1251‐1319)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E6%9C%89%E6%88%BF
『徒然草』第136段「医師篤成、故法皇の御前に」
http://web.archive.org/web/20150502062058/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-136-kusushiatushige.htm

『「和歌所」の鎌倉時代』(NHK出版、2024)において、小川氏は歌壇の動向を描くに際して『増鏡』を多量に引用。
これは『増鏡』に描かれた歌壇情報が正確であることの反映。
→鎌倉の武家歌人にも役立つ情報。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された時点では、昭慶門院は女院号を得ておらず。
にもかかわらず、『拾遺現藻和歌集』では「昭慶門院二条」が参加したとされている。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)〔2022-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba239fca9ea719a85c4aa76e98c8ccb0
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)〔2022-09-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7233f3ad4f365e54f0280694dc7248cd
2022年10月の中間整理(その1)~(その5) 〔2022-10-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51ac87b2f3a875e870d8c9f1d1663e6
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f8d739b09248d618852064d57b27c8d

二、兼好法師の一族

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)~(その5)〔2018-02-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2232c8d85546a8eedeb2b26d79a0d1e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812300a147aea9cb5f760c2d0b02c991
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3e5fd3f9025de85df9bca99a9db52bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6dd5400cf3558146b3121ae16bb3953

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その6)〔2018-03-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/480f0740a50d940ffaffa0d51f469815

『とはずがたり』の政治的意味(その1)〔2022-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bb6604fe41c778bbff02b322540603e
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0122 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その2)

2024-07-18 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第122回配信です。


一、前回配信の補足

兼好法師は『とはずがたり』(と『増鏡』の原型)を読んでいたのではないか。
私が想定する『とはずがたり』(と『増鏡』の原型)の主たる読者は東国の「特権的支配層」。

『とはずがたり』は社交の道具。
『増鏡』の原型は、大覚寺統こそが後嵯峨院の「素意」にかなう正しい皇統なのだというプロパガンダ。

「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔

兼好法師は『とはずがたり』(と『増鏡』の原型)に描かれているところの、後深草院二条によって誇張・歪曲された多くの人物像に違和感を抱いたのではないか。
その修正が『徒然草』執筆の動機の一つ。
ただ、別に直接的に非難している訳ではなく、『とはずがたり』(と『増鏡』の原型)に描かれている人たちには別な側面がありますよ、と婉曲に示唆。
分かる人には分かってほしい、程度の書き方。

二、外交官一族としての通親流村上源氏

兼好法師の一族と後深草院二条の接点を探る前に、後深草院二条の一族の位置づけを確認しておきたい。

「関東伺候廷臣」(土御門顕方と堀川基俊の類似性)

『とはずがたり』の政治的意味(その1)〔2022-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bb6604fe41c778bbff02b322540603e
「母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇」(by 兵藤裕己)〔2018-05-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b29cde93866ef766ee3a5823bfe9dacc

土谷恵「東下りの尼と僧」(『新日本古典文学大系月報』52、岩波書店、1994)
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
高橋慎一朗「『親玄僧正日記』と得宗被官 」(『日記に中世を読む』所収、東京大学出版会、1998)
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm

系図 皇室・村上源氏
http://web.archive.org/web/20150512043613/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/keizu01.htm
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0121 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その1)

2024-07-18 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第121回配信です。


一、前回配信の補足

堀川基子(西華門院、1269‐1355)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%9F%BA%E5%AD%90

『続史愚抄』弘安八年(1285)三月一日
【前略】今夜。二条局源朝臣基子〈称東方。東宮権大夫〈具守〉女。今上妾。新陽明門院官女也。無名字。後年院号時治定基子。〉降誕皇子。〈或作二日。後二条院也。〇実躬卿記、増鏡、歴代最要、【後略】〉

徳治三年(1308)十一月二十七日
先帝母儀源朝臣基子尼〈四十四歳。右大将〈具守〉女。依先帝崩先日落飾。法名清浄法。元為前新陽明門院官女也。因無名字。俄治定。法皇被執申云。〉有叙位〈従三位。〉宣下。〈口宣歟。未詳。〉奉行蔵人頭右兵衛督為藤朝臣。【後略】

同年十二月二日
此日。被行賀茂臨時祭。次従三位源朝臣基子尼〈先帝母儀。右大将〈具守〉女。〉有准三宮宣下及院号定。為西華門院。上卿按察大納言。〈実泰。〉已次公卿西園寺大納言〈公顕。〉已下六人参仕。奉行蔵人右衛門権佐長隆於本所〈北白川殿。〉補院司。奉行院司〈法皇院司。〉右大弁経世朝臣。〈〇実躬公記、公秀公記、女院傅、続女院傅、歴代最要〉

『続史愚抄』弘安八年(1285)(その1)〔2020-02-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36b257a712d6bcccdc554169dd302968

『増鏡』第十 老の波 邦治親王(後二条天皇)誕生
http://web.archive.org/web/20150918073840/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kuniharushinno-tanjo.htm
 『増鏡』第十 老の波 北山准后(貞子)と大宮院
http://web.archive.org/web/20150909231957/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugoto-omiyain.htm
 『増鏡』第十 老の波 北山准后九十の賀(一)
http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)〔2022-07-05〕
「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)〔2019-05-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0b691ccc5fa57eff6c585a2b8b1ce41
源彦仁と忠房親王(その2)〔2018-02-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1768aa3f700fbc2a017bd5f41652d245

二、外交官一族としての通親流村上源氏

土谷恵「東下りの尼と僧」(『新日本古典文学大系月報』52、岩波書店、1994)
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
高橋慎一朗「『親玄僧正日記』と得宗被官 」(『日記に中世を読む』所収、東京大学出版会、1998)
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm

系図 皇室・村上源氏
http://web.archive.org/web/20150512043613/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/keizu01.htm
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0120 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その5)

2024-07-17 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第120回配信です。


一、前回配信の補足

小川剛生氏の新説によれば、徳治三年(1308)に死去した後二条天皇の追善のため、西華門院という非常に高貴な女性が、生前の後二条と全く縁がなく、正和三年(1314)以降に金沢家を通して多少の関係が生じた兼好法師程度の低い身分の者に和歌を依頼したことになるが、そんなことがあり得るのか。
西華門院は「後二条院のかゝせ給へる歌の題のうらに、御経かゝせ給はむとて」「人々によませられ」たのだが、そもそも故人と全く縁もゆかりもない人に追善和歌を求めるようなことがあるのか。
何らかの関係があったからこそ兼好は「人々」に入れてもらえたのではないか。

後二条天皇(1285‐1308)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
堀川基子(西華門院、1269‐1355)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%9F%BA%E5%AD%90

二、旧サイトで私が堀川家に着目した理由

『とはずがたり』と『徒然草』の登場人物はかなり重なっている。
特に注目すべきは後深草院二条の従兄の久我通基。

原文を見る-『徒然草』-

若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外)〔2022-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411468de46c22d2b7bd2122e22b842a7
『とはずがたり』と『徒然草』に登場する久我通基〔2017-11-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbca183556381323530d10235e6a82a0

『兼好法師自撰家集』に登場する堀川具親〔2017-11-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdd304f9796231fd758da650a9d63610
『増鏡』に登場する堀川具親〔2017-11-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a743a888079b9b7e5ecb9ffeee1bca98

『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』の関係について〔2017-12-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62535f75170a4e3aae07abc9d453aee1
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0119 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その4)

2024-07-16 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第119回配信です。


一、前回配信の補足

小川氏は風巻景次郎以来の通説を批判。
確かに兼好が堀川家の家司だったとの従来の通説を維持するのは無理。
しかし、小川氏が、

-------
 通説では兼好の主家とされてきた公家、堀川家との縁も、実は兼好出家後の正和年間後半、真乗院と金沢貞顕を介して結ばれたと考えられる。
【中略】
ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
-------

とされるのも問題。

堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)(その2)〔2017-11-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a555dacdfa3c255e4ffe5f8979a992f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c00fd81296ddc93e0110093a72a4e6f

金沢貞顕と堀川家の関係は貞顕が東二条院蔵人に補任された永仁二年(1294)に遡る。
従って、兼好と堀川家との関係も正和三年(1314)に突然始まった訳ではないと考えるべき。

二、兼好と堀川家との関係に関する従来の通説

旧サイト(『後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について- 』)において、風巻景次郎説を基礎とする見解をいくつか紹介しておいた。

『徒然草』-久我家と堀川家の対立を軸として-従来の学説とその批判
http://web.archive.org/web/20150831083955/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ture-juraino-gakusetu.htm
五味文彦「堀河家の記憶」(『「徒然草」の歴史学』、朝日選書、1997)
http://web.archive.org/web/20061006214944/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/gomi-rekishigaku-horikawake.htm
風巻景次郎「家司兼好の社会圏-徒然草創作時の兼好を彫塑する試み-」
http://web.archive.org/web/20061006214926/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kazamaki-keijiro-1.htm

三、小川剛生氏の新説

小川『兼好法師』p89以下
-------
生前の後二条天皇とは無関係

 これまで兼好の伝記では、早くに堀川家との縁が生じ、そこから後二条天皇に親しく仕えたと考えられてきた(図版3-6)。後二条の母は具守の娘基子〔きし〕で、堀川家は外戚であったからである。しかし、後二条朝の蔵人在職の事実はなく堀川家との関係も兼好三十代になって初めて確認されるとすれば、後二条との関係も再考すべきである。
 家集・五七番歌は、その後二条の追善のため、生母の基子(延慶二年正月院号宣下、西華門院と号す)の命に応じた詠歌で、兼好と後二条との関係を考えるのに必ず引き合いに出されていた。

  後二条院のかゝせ給へる歌の題のうらに、御経かゝせ給はむとて、
  女院より人々によませられ侍しに、夢逢恋を
うちとけてまどろむとしもなきものをあふとみつるやうつゝなるらん
(夢で思う人に逢えましたが、その逢瀬は気を許してまどろむことすらなかったのに、それでも逢ったと思えたのは、結局そちらが現実なのでしょうか)

【中略】詞書は省略があって分かりにくいが、これも後二条が生前に書いた歌題に従って新たに歌を詠み、その和歌の料紙を継いで、裏面に写経したのである。したがって必ずしも没後すぐの催しではない。むしろ、こうした追善和歌は七回忌の例が最も目立ち、十三・三十三回忌の例もある。後二条の七回忌は正和三年(一三一四)、十三回忌は元応二年(一三二〇)、三十三回忌は暦応三年(一三四〇)、いずれかの機会であろう。なお施主の西華門院は文和四年(一三五五)まで健在であった。
 兼好が西華門院・堀川家との関係により加えられたことは確かであるが、生前の後二条に知られていたとか、まして恩顧を蒙ったとはいえないのである。また和歌も純粋な題詠であり、追悼の意は見出せない。
-------

「追善和歌は七回忌の例が最も目立」つのであれば、兼好が参加した追善和歌は正和三年(一三一四)の可能性が最も高い。
しかし、小川新説によれば、まさに貞顕が「正和三年(一三一四)十一月に六波羅探題北方の職を解かれて東下した。その直前、定有なる人物が、貞顕の女子一人を堀川家に迎えることを称名寺の剱阿に持ち掛けた」はず。
時間的に無理が多く、また西華門院側の感情としても、兼好の参加は不自然であろう。
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0118 兼好法師と堀川家の関係についての小川剛生氏の誤解(その3)

2024-07-14 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第118回配信です。


一、前回配信の補足

『金沢文庫古文書』
-------
一六六三 定有書状

先日推参之時、委細申奉候之
条、真実本意満足喜悦之外
無他候、抑、粗令申候、彼御方、御
捨子一人、両人之間、猶子事、預御秘計
候之条、可為何様候乎、彼黄門姉
女御代無一子候、又黄門母儀も、此卿之外、
無他子候、其□□□母儀者真乗院
一躰之条、定御存知候歟、任小坂禅尼
遺命、預扶持候、仍真乗院与彼卿、当
時無内外申奉候、旁以其寄候歟、
御女子多御座候之由承候、其中定

御捨子御座□□猶々御和讒候者、
喜存候、且以彼卿可申行当寺檀那
一分候、奥州玉造郡は国領候、於地頭
職者、代々当寺本願主御領候、仍
探題以下国方年貢御沙汰候、以彼年貢
寄進当寺候者、旁可宣候歟、若又此所
御所存候者、雖為他所申沙汰之条、一切不
可有子細候、且永代以彼年貢等、為当寺
寺用之条、自他可宣候歟、猶々相構、彼卿
成為悦之思様、御和讒候者、殊畏存候、
其間事、尚可参申候、恐々謹言、
  十二月五日  定有(花押)

    (切封ウハ書)
    『   
 称名寺方丈   定有』


二、堀川具守の弟・基俊について

永井晋氏『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)

p130以下
-------
 それでは、『徒然草』の作者兼好法師と鎌倉・金沢の関係はどのようなものだったのだろうか。兼好法師は、「久我カ徳大寺ノ諸大夫ニテアリシナリ」(「徹書記物語」)と伝えられていた。風巻景次郎氏は史料を博捜した結果、兼好が村上源氏堀川具守に家司として仕え、西華門院を通じて、後宇多上皇・後二条天皇・東宮邦良親王といった大覚寺統嫡系のもとに出入りしていたことを明らかにした(風巻景次郎「家司兼好の社会圏」『西行と兼好』所収)。風巻氏は言及されていないが、邦良・康仁二代の養母となった宗尊親王の娘永嘉門院の別当は堀川具守であり、堀川具守の弟基俊は将軍家久明親王に供奉して鎌倉に下向して亀谷家〔かめがやつけ〕をおこしていた。堀川家は、後二条天皇の外戚をつとめる京都の本家と、将軍家久明親王の後見として鎌倉亀谷に館を構えた分家亀谷家に分かれていた。このふたつの家が、京都と鎌倉との間で使者をやりとりさせた可能性は高いだろう。兼好の鎌倉下向は、堀川家と亀谷家が使者を往復させるなかで行われたと考えられる。
-------

堀川基俊(1261‐1319)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%9F%BA%E4%BF%8A
金沢貞顕(1278‐1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95

金沢貞顕は永仁二年(1294)に東二条院蔵人に輔任されている。
当時、十七歳の貞顕は鎌倉在住であり、東二条院蔵人はあくまで形式的な資格。
ただ、東二条院は後深草院の正室であり、久明親王は後深草院の息子。
東二条院蔵人補任に際しては久明親王(=堀川基俊)を通したはず。
この時点で金沢貞顕は堀川基俊と面識があったと考えるのが自然。

『徒然草』第99段.堀川相国は
http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm
『徒然草』第162段.遍照寺の承仕法師
http://web.archive.org/web/20150502055456/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-162-henjoji.htm

『とはずがたり』巻4.「新将軍久明の東下」
http://web.archive.org/web/20150918033341/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
『増鏡』巻十一「さしぐし」 新将軍久明親王の下向
http://web.archive.org/web/20150918073152/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-hisaakirashinno.htm
『増鏡』巻十二「浦千鳥」 後宇多院の後宮
http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

福田豊彦「第八代 久明親王」(『鎌倉・室町将軍家総覧』、秋田書店、1989)
http://web.archive.org/web/20150512030150/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fukuda-toyohiko-hisaakisinno.htm

「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)〔2019-05-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0b691ccc5fa57eff6c585a2b8b1ce41

「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」〔2018-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171
「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧〔2018-01-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb
『五代帝王物語』に描かれた「富小路殿舞御覧」と「後嵯峨院五十賀試楽」〔2018-01-30〕
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