学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

ミスター宮内卿を探して

2020-03-31 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月31日(火)11時18分13秒

ということで、善鸞の「公名」である「宮内卿」、そして後鳥羽院宮内卿の「女房名」である「宮内卿」の由来を探す旅が始まったのですが、だいたいこの種の名前は、本人の父親か祖父あたりの官職に関係することが多いですね。
そこで、まずは『尊卑分脈』の索引で「宮内卿」「宮内卿局」「宮内卿公」などとある人々を全て確認してみたのですが、親鸞の周辺や源師光の周辺には「宮内卿」の官職を得た人を見出すことができませんでした。
実は私は源通親の周辺や四条家関係者に「宮内卿」がいないだろうかと見込んでいたのですが、これも駄目でした。
そこで、やはり『公卿補任』を丁寧に見て行くのが結局は近道だろうと思って「後鳥羽院」で始まる寿永三年(1184)から「宮内卿」を探してみたのですが、そもそも宮内卿は公卿が任ぜられる官職ではないので、なかなか出てきません。
そして建仁四年(元久元年、1204)に至って、やっと「宮内卿」を見つけることができました。
それは、この年に従三位に叙せられた源家俊の尻付です。

-------
従三位 源家俊 三月六日叙。宮内卿如元。
入道近江介俊光朝臣男。母。
応保二正五叙位(氏)。仁安三十一廿従五上(父近江介俊光朝臣大嘗会国司賞譲。嘉応元三五侍従(父俊光譲)。【中略】文治元六十従四上。同五十一十三宮内卿。建久元七十八正四下。正治元三廿三讃岐守。
-------

即ち、源家俊は文治五年(1189)十月十三日、宮内卿に任ぜられて、そのまま十五年間、宮内卿にとどまったようですね。
さて、源家俊は文治五年からずっと宮内卿ということですから、時代的には後鳥羽院宮内卿、善鸞のいずれにも合いそうですが、そもそも私は源家俊という人物について何も知りませんでした。
政治家としても歌人としても、更には宗教人としても、この人の名前を聞いたことがありません。
そこで、試しに「源家俊」で検索をかけてみたところ、「浄土宗西山深草派 宗学会」サイトで、吉良潤という僧籍の方が書かれた「親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆」という論文を見つけました。
通読してみたところ、吉良氏は「私たちも親鸞が九条兼実の七女・玉日と結婚したという親鸞門流の伝承が歴史的事実であると主張している」方であって、正直、私は「玉日」姫の関係については吉良氏の主張に賛成はできませんでした。
しかし、冒頭の「問題の所在」は、私にとって重大な示唆を与えてくれるものでした。
その部分を引用させてもらいます。

-------
藤原定家(ふじわらのさだいえ)(「ふじわらていか」と呼び習わす)の好敵手として『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原家隆(ふじわらのいえたか)は1206年(元久3年)1月13日、後鳥羽上皇から望みもしなかった宮内卿(くないきょう)の官職を与えられて感涙にむせんだ。そのとき上皇は宮内卿前任者であった源家俊(みなもとのいえとし)から宮内卿職を召し上げる代わりに、家俊の息子を侍従(じじゅう)に任命したのであった(『源家長日記』風間書房1985年)。
しかし国史大系『公卿補任(くぎょうぶにん)』(吉川弘文館)を見ると、源家俊は文治5年(1189)11月13日に宮内卿に任命されて以来、承元(じょうげん)3年(1209)2月18日に出家するまで、20年間の長きに亘って宮内卿職を勤めていたと記録されている。また同じ国史大系『公卿補任』によると、歌人・藤原家隆は元久3年(1206)1月13日から承久2年(1220)3月22日まで宮内卿であったと記録されている。そうすると、元久3年(1206)1月13日から承元3年(1209)2月18日までの期間、すなわち足掛け4年の間に二人の宮内卿が存在したことになる。

http://www.fukakusa.org/p005_detail.html?search=%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AE%E6%B5%81%E7%BD%AA%E3%81%AB%E7%B8%81%E5%BA%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E6%AD%8C%E4%BA%BA%E3%83%BB%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%EF%A7%9C%E3%80%94%E8%AB%96%E6%96%87%E3%80%95
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二人の「宮内卿」

2020-03-31 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月31日(火)09時40分4秒

三回にわたって本願寺第三代・覚如の華麗なる稚児遍歴を紹介しましたが、私は中世寺院社会における同性愛とかには特に興味はありません。
ただ、この一連の話で気になった点が二つあります。
まず第一に、この時期、親鸞の子孫たちは経済的に相当豊かであったのではないかと思われることです。
素人ながら浄土真宗の研究史をざっと辿ってみたところ、民衆宗教として発展した浄土真宗の祖師につながる人々が豊かな生活を送っていたというストーリーはあまり好ましくないためか、蓮如以前の本願寺は弱小教団で、親鸞の子孫たちも質素な生活を送っていたと描かれることが多いようです。
従来の研究に様々な点で批判的な今井雅晴氏すら、

-------
 文永七年(一二七〇)、覚恵に息子覚如が生まれた。【中略】覚恵一家がどうしていたかは不明であるが、覚如が生まれて二年後、母の中原氏の女が亡くなっている。覚恵に定収入はなく、後には父子ともに覚信尼に引き取られている。覚恵はおだやかだけが取り柄で、生活力には欠ける人間だったようである。
-------

と書かれています。(『親鸞と浄土真宗』、p134以下)
しかし、『慕帰絵詞』で興福寺一乗院門主の信昭が覚如の引き渡しを覚恵に求めた場面を見ると、信昭は「小野宮中将入道師具」に覚如の誘拐を依頼したり、配下の僧兵に覚如の強奪を計画させたりしていますが、その前段階として、覚恵に多額の金員を提供するなどの経済的な提案をしたことが当然に想像されます。
信昭は大変な金持ちですから、金で簡単に済む話を解決するために、いきなり配下の僧兵を送り込むはずがありません。
山門から寺門、更に興福寺へとわたり歩くほどの人気の的の稚児は、現代で言えば超有名芸能人みたいなものですから、最終的に覚恵が信昭の要求に応じた際には相当多額の経済的利益を得たものと考えるのが自然です。
しかし、少なくとも覚恵は信昭の要請を何度も拒んでいる訳ですから、多少の金では動かない程度には豊かな存在ですね。
第二に、親鸞子孫の周辺に複数の「小野宮」関係者が存在していることが非常に気になります。
「小野宮中将入道師具」が覚恵の「知音」だということは、親鸞の子孫と「小野宮」を号する源師光の子孫との関係が覚信尼の小野宮禅念との再婚で初めて生じたのではなく、相当以前からのものである可能性を示唆しています。
実際、貴族社会では特定の家同士の婚姻関係が数世代にわたることはごく普通の現象です。
そうした可能性を踏まえて親鸞子孫と源師光子孫の系図を眺めてみると、親鸞の息子で、後に義絶したとされる善鸞の最初の号が「宮内卿」であったことと、源師光に娘に天才的な歌人「宮内卿」が存在することが気になってきます。
善鸞は何故に「宮内卿」と号したのか。
そして後鳥羽院宮内卿は何故に「宮内卿」なのか。
ちなみに『尊卑分脈』等の系図類を見ても、親鸞の係累、また源師光の係累には「宮内卿」という官職を得た人を見出すことはできません。

善鸞(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E9%B8%9E
後鳥羽院宮内卿(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF
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『慕帰絵詞』に登場する「小野宮中将入道師具」

2020-03-30 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月30日(月)18時20分39秒

「小野宮中将入道師具」はすぐ後で検討しますが、とりあえず『人物叢書 覚如』の続きをもう少し引用しておきます。(p24以下)

-------
 信昭はそののちも思い切りえず、親の本懐どおり、やがて出家させることを約束したので、この上は、固辞の理由もないというので、まず、西林院三位法印行寛の弟子として入室、行寛の誘導により、摂津国原殿の信昭の禅房に参向した。しかし、信昭はまもなく死去したので、その弟子で、関白近衛基平の子の、僧正覚昭に相続給仕することとなった。大和菅原の覚昭の房においても、数多い稚児のうちでも、覚如は容顔ことにすぐれていたため、日夜寵愛をうけた。しかし、覚如自身は、このような生活に満足できず、来世の問題が次第に濃く、念頭にその影を宿してきた。
 弘安九年(一二八六)十月二十日夜、覚如は一七歳にして、行寛法印の甥、孝恩院三位僧正印寛について、出家受戒をとげた。そののち、奈良において、行寛について、法相宗を研学した。
-------

ということで、十四歳から十七歳までの覚如の人生はまことに波瀾万丈ですね、
「竹なか宰相法印宗澄」の下で天台宗教義を学び始めたばかりだったのに、園城寺南滝院の「右大臣僧正浄珍」配下三十余人によって誘拐され、南滝院で浄珍の寵愛を受けていたところ、「興福寺一乗院の門主、信昭」に目をつけられます。
信昭は覚如の父親・覚恵に何度も覚如の引き渡しを要求し、「小野宮中将入道師具」には誘拐を依頼し、また僧兵に強奪の計画も立てさせ、結局、覚恵は根負けします。
そして覚如が信昭の禅房に入室したところ、信昭はまもなく死んでしまい、今度は信昭の弟子で、関白近衛基平息の僧正覚昭の下で日夜寵愛を受ける身になったのだそうです。
実はこの経緯の中で少し不自然なところもあります。
というのは、「奈良興福寺一乗院の門主、信昭」は深心院関白・近衛基平(1246-68)の同母弟ですが、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によれば、

-------
1253-1286 鎌倉時代の僧。
建長5年生まれ。近衛兼経(このえ-かねつね)の子。法相(ほっそう)宗。興福寺一乗院門跡(もんぜき)。文永10年興福寺別当となる。弘安(こうあん)2年再任。4年大僧正。弘安9年6月14日死去。34歳。
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%A1%E6%98%AD%281%29-1083064

とのことで、信昭没が弘安九年六月だとすると、その死後、覚如は覚昭の下に移り、更に弘安九年十月に出家受戒ということなので、覚昭の下にいた期間がずいぶん短いですね。
ま、多少の齟齬や脚色はあるのでしょうが、宗澄(山門)→浄珍(寺門)→信昭(興福寺)→覚昭(興福寺)という具合に、覚如が稚児として華麗な遍歴を重ねたことは事実なのだろうと思います。
さて、信昭が「覚恵と知音の小野宮中将入道師具に、覚如の誘拐を依頼した」場面を『慕帰絵詞』で確認すると、第二巻第二段に、

-------
さるほどに猶同年の事なりけるに、一乗院前大僧正正房、いかなる便にかこの童形の としのほどにも似ず、はしたなき懸針垂露の筆勢を御覧ぜられけるとて、ゆかしく思召けるにや、あまたの所縁につきて頻に気装し仰られけれども、厳親承諾し申さぬ故は、さのみ所々を経歴もしかるべからざる歟。其上尋常の法には、髪をさげて大童にて久くある事は本意ならず、たゞとく出家得度をもせさせてこそ心安けれとて、かたく子細を申けるに、或時は又小野宮中将入道師具朝臣[于時侍従]を連々御招引、知音なれば狂て誘てまいらせなむやと懇切に仰られけるとてヽ其旨を度々伝説しけれども、なを心づよくぞ難渋申ける。聞及やからは、人により事にこそよるに、是程時々の貴命をいなみ申はかへりて無礼にもあたり、人倫の法にも背ものをやなどいひあふもあり。或輩は又さる名家の一族なれば廉をたおさじと、至て古義を存せしむるもちからなき事歟、など申も有けり。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%85%95%E5%B8%B0%E7%B5%B5%E8%A9%9E

とあります。(『WikiArc』サイト内、「慕帰絵詞」)
「狂て」は少し変ですが、『続日本の絵巻9 慕帰絵詞』(小松茂美編著、中央公論社、1990)の「詞書釈文」を見ると「枉〔ま〕げて」とあり(p117)、こちらがよさそうですね。
「小野宮中将入道師具朝臣[于時侍従]」については、覚恵の「知音」だということ以外に説明はなく、他の場面にも登場しませんが、『尊卑分脈』を見ると源輔通の孫に「師具」がいて、「左中将」と書かれています。
源具親と「姫の前」の間には輔通・輔時兄弟が生まれていますが、兄の輔通(1204-49)に俊具・通俊と女子(源雅忠室)の二男一女がいて、俊具の一人息子が師具です。
中院雅忠の後妻である女性にとっては甥ですね。
なお、小野宮禅念は『尊卑分脈』には登場しませんが、禅念にとっては師具は異母兄・輔道の孫ですね。
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重松明久『人物叢書 覚如』

2020-03-30 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月30日(月)12時10分10秒

前回投稿、重松明久『人物叢書 覚如』(吉川弘文館、1887)では「若干のオブラートにくるまれている」と書きましたが、同性愛や男色という言葉を使っていないだけで、内容は同じですね。

重松明久(1919-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%9D%BE%E6%98%8E%E4%B9%85

同じというより、覚如の経歴に関する基本史料である『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』の内容を素直に反映していて、より露骨とも言えます。
少し引用してみます。(p16以下)

-------
 五歳ころからはじまる、覚如の修学の概略を、『慕帰絵詞』や、『最須敬重絵詞』等によって記しておこう。【中略】
 一三歳の弘安五年(一二八二)夏ごろから、天台学匠の名高かった、竹なか宰相法印宗澄について、天台宗教義を学ぶ身となった。宗澄は天台僧宗源法印の弟子で、法勝寺の東、下河原あたりに禅房をかまえていた。父覚恵が覚如の才能を見込んで、「本寺本山の学業」をとげ、僧官としての栄達を図らせたいとの配慮からであった。
 明けて、弘安六年(一二八三)一四歳、宗澄のもとで研学に励む覚如の身の上に、不慮の事件が勃発した。三井園城寺南滝院の右大臣僧正浄珍なる者が、覚如の垂髪の美貌ぶりを聞き伝え、人をやって、下河原の宗澄の房にいた覚如を、誘拐して、自房に連れ来ったという事件である。浄珍は北小路右大臣道経の孫、二位中将基輔の子で、法流は円満院の二品法親王円助の弟子で、智証大師の遺流を伝えていたといわれるので、いわゆる寺門派の僧であった。
 真俗にわたり時めいていた、浄珍の房に出入する人から、下河原の宗澄の房にいる、覚如の垂髪の稚児ぶりの目ざましさを聞いた浄珍は、ある時、自坊の若輩らの会合に、酒宴が加えられた席で、覚如誘拐のことを言い出した。その座には、本寺園城寺の衆徒(僧兵)等も数人いたのを棟梁とし、酔のまぎれに、誰れ彼れとなく加わり、若輩三〇余人が、甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した。
 ちょうどその時、宗澄は叡山へ登山中であり、房には、留守の者四-五人がいたにすぎなかった。折もよいというので、押入って覚如を馬にいだき乗せ、衆徒が前後を囲んで引きあげたので、留守の連中は手向かいも出来ず、覚如としては、全く突然の慮外の入室ということになった。浄珍は表面穏便でないことだといいながら、心中ひそかに、喜悦の念をいだいていた。
 下河原の房から、山上の宗澄へ急告したので、宗澄はとる物もとりあえず下山してきたが、ただ嘆息を洩らすばかりであった。宗澄の房にも出入する衆徒があり、口惜しいことだ、奪い返そうなどと相談していた。しかし宗澄は、こちらの思いを通そうとすれば、きっと闘戦に及ぶだろう。事件が拡大すれば、山(比叡山延暦寺)・寺(三井園城寺)両門の確執として、京中の騒動にもなる可能性がある。当方としては、留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない。覚如の器量こそ惜しいが、仕方がない。自然に離房したということにし、この事件は、絶対に口外してはいけないと、厳に制止を加えたので、衆徒らも静まり、これ以上紛争が発展することもなく、落着した。
-------

ということで、宗澄側も「留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない」という発想ですから、「甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した」浄珍配下の寺門の衆徒と同種の連中ですね。
従って、「覚如の器量こそ惜しい」といっても、何が惜しいのかは明らかです。
さて、もう少し続けます。

-------
 南滝院での覚如は、浄珍の愛翫をうけること、きわまりなかった。数多い稚児の中でも、阿古〔あこ〕々々と呼ばれて、寵愛をほしいままにした。将来は院家の管領とし、本尊・聖教の附属も約束された。覚恵はこのことを聞き、山・寺両門を経歴させるということは、自らの本意でもなく、そのうえ、南滝院に入室の事情も、穏やかでないと思ったが、それにしても、不思議な宿縁であると感じていた。
 浄珍は覚如を伴い、日々酒宴・遊宴をくりかえしており、そのほか、囲碁・雙六・将棋・乱碁・文字鎖など、長時間の遊戯にふけり、覚如の興を誘おうとつとめた。房中の人も、こぞって覚如を称美していた。ややましな行事としては、和歌・連歌の座も設けられたが、学問とよばるべきものは、内外典につけて、全くなかったので、覚如自身としては、このような生活が、味気なく、不本意に思われていた。
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念のため書いておくと、重松氏が史料としている『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』は、覚如がいかに素晴らしい人物であったかを賛仰するために、大変な費用と手間をかけて作成された絵巻です。
その中で、覚如の高僧との間の同性愛は特に否定的なものとして描かれている訳ではなく、むしろ当時の寺院社会では当たり前の話であることが前提として展開されています。
さて、この後に「小野宮中将入道師具」という人物が登場します。(p23以下)

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 さらに同年中に、覚如は、奈良興福寺一乗院の門主、信昭の室に入った。それについても、信昭が覚如のことを知り、これが誘引につとめた経緯がある。覚恵は覚如を、方々経歴させることは好ましくなく、いつまでも、垂髪の身でなく、早く出家得度させたいというので、信昭の申し出を断わり続けた。信昭は覚恵と知音の小野宮中将入道師具に、覚如の誘拐を依頼した。また、この年七月十二日夜、月光をたよりに輿をかかせ、武器を持った大衆(僧兵)をひきつれ、奪い取ろうと計画していたのを、密告する人があり、守備を堅めていたために、成功しなかった。
-------
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今井雅晴氏「若き日の覚如」

2020-03-30 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月30日(月)08時35分43秒

小野宮禅念をきっかけに、まだ大教団に発展していなかった時期の親鸞一族の問題に入り込んでしまった私ですが、この分野は宗門関係者を含め大勢の学者が細かな議論を重ねているので、今さら私にできることなどないだろうなと思っていたところ、意外に進展がありました。
まず、私は重松明久氏の『人物叢書 覚如』(吉川弘文館、1887)を読んで、小野宮禅念(?-1275)の息子である唯善(1266-?)と、その甥で本願寺第三代とされている覚如(1270-1351)の訴訟の経緯を確認してみたのですが、私にとって興味深かったのは覚如の若い頃の、現代人にとってはかなり奇妙に思える経歴でした。
重松著では若干のオブラートにくるまれているので、より率直な今井雅晴氏の「覚如と唯善」(『親鸞と浄土真宗』所収、吉川弘文館、2003)から少し引用してみます。(p161以下)

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(2)若き日の覚如

 検討の順序として、如信と唯円に教えを受けた十八歳と十九歳の覚如はどのような状況にあったのかを確認しておきたい。
 覚如は文永七年(一二七〇)十二月二十八日、京都で生まれた。親鸞の曽孫である。父の覚恵はこのとき三十五歳で、祖母の覚信尼は四十七歳であった。母は、『最須敬重絵詞』によれば、周防権守の中原某の娘であったという。この母は覚如誕生の二年後の文永九年八月二十日に亡くなってしまっている。【中略】
 弘安五年(一二八二)夏、覚如は天台宗の学者として名の高かった竹なか宰相法印宗澄の門に入った。【中略】
 竹なか宰相法印宗澄の門に入った翌年、十四歳のとき、覚如は園城寺南滝院の右大臣僧正浄珍にさらわれてしまった。覚如はいまだ正式の出家をしておらず、長い髪を後ろで束ねた美貌の稚児姿であった。浄珍は北小路右大臣道経という貴族の孫で、聖界・俗界にわたって勢力のあった僧侶であった。覚如は浄珍に非常にかわいがられたという。要するに同性愛である。
 同性愛は日本の歴史上では珍しいことではない。俗界においてもそうであったし、まして異性間の愛情交換が実際には建て前になってしまっているとはいえ、不淫戒として戒律で禁じられていた僧侶の世界ではごく普通のことであった。寺院の稚児は往々にして僧侶の性欲の対象となっていた。しかしまた、そのような関係のなかで、学問や修行も僧侶から稚児に伝えられることも多かった。ただ浄珍の南滝院においては、他の稚児も多く、また勉学どころか囲碁・双六・将棋など、遊ぶことばかりだったと伝えられている。
-------

今井氏は特に説明されていませんが、『尊卑分脈』を見ると、近衛基通(1160-1233)の息子で、猪隈関白・近衛家実(1179-1242)の弟に「道経」という僧侶がいて「北白河」と号したとあります。
そして「道経」の孫に大僧正「静珍」がいて、寺門の「南滝院静忠僧正資」とあるので、「北小路」と「北白河」、「浄珍」と「静珍」の違いはありますが、この人物で間違いないですね。

近衛家実(1179-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%AE%9F

さて、覚如が同性愛の関係を持ったのは浄珍だけではありません。

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 さらに同じ年、覚如は今度は奈良の興福寺一乗院の信昭の室に入った。これも最初、覚如の美貌ぶりを聞いた信昭がしきりに覚恵に入門させるよう望んだが、覚恵は承諾しない。そこで月夜に大勢の僧兵を引き連れて誘拐しようとしたけれども、浄珍側が噂を聞いて守備を固めていたので成功しなかったというから、どうもただごとではない。
 結局、覚如は西林院三位法印行寛という僧侶の弟子となり、その導きという形で信昭の室に入った。しかし信昭はまもなく亡くなったので、その弟子の僧正覚昭の門に入ることになった。覚昭は関白近衛基平の息子である。そして覚昭のもとにおいても、覚如は数多い稚児のなかでもとりわけ大切にされ、日夜寵愛を受けたという。少年の覚如は、よほどすぐれた美貌と好かれる性格を持っていたのだろう。『慕帰絵詞』第二巻第二段には、そのことについて次のように述べている。覚如が信昭の室に入ったときのことである。

  光仙殿とてあまたの垂髪共の外に一両人祗候しける上臈児の其一にて、
  心操たち振る舞も幽玄に、容顔ことがらも神妙、

と形容してある。「垂髪」「児」とは稚児のことである。
-------

ここも今井氏は特に説明されていませんが、『尊卑分脈』を見ると、深心院関白・近衛基平(1246-68)の同母弟に「信昭」がいて、「興福寺別当 法務 大僧正 一乗院」とあります。
基平・信昭の母は「摂政道家公女、従一位仁子」で、九条道家(1193-1252)の娘ですから、両親とも摂関家の嫡流です。
また、二人の同母姉に宰子(1241-?)がいて、この女性は鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王の室となり、その追放劇の原因ともされている人ですね。

近衛基平(1246-68)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3

そして、近衛基平の息子に、母を「左少将通能女」とする覚昭がいて、「大僧正 興福寺別当 一乗院」とあります。
また、覚昭の同母妹には亀山院妃の新陽明門院(近衛位子、1262-96)がいます。
『増鏡』に奇妙な記事がある女性ですね。

http://web.archive.org/web/20150918041646/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-shinyomeimonin.htm
http://web.archive.org/web/20150918011429/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/masu-nijosakushasetu.htm

新陽明門院(近衛位子、1262~96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BD%8D%E5%AD%90
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今井雅晴氏「唯善と山伏」

2020-03-27 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月27日(金)10時47分55秒

昨日、まったくもって不得意な分野である浄土真宗の本をいろいろ見てみましたが、唯善の関係で一番参考になったのは今井雅晴氏の「唯善と山伏」(『親鸞と浄土真宗』所収、吉川弘文館、2003)という論文でした。

-------
僧侶としては禁止されていた結婚を公認し、家族を持った親鸞。妻である恵信尼は夫をどのように見ていたのか。また親鸞の子・孫・曾孫はいかに「親鸞」を背負って生きたのか。その生活に一生つきあった家族の様々な葛藤によって親鸞の信仰体系が作り上げられたという視点から、家族と子孫の信仰・生活を具体的に究明し、浄土真宗の歴史を捉え直す。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32770.html

この論文は、

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はじめに
1 唯善の誕生と修業
(1)唯善の出身
(2)遺産継承問題
(3)山伏の修業
(4)河和田の唯円と唯善
(5)山伏弁円
2 呪術と奇瑞の世界に住む親鸞一族
(1)善鸞と御符
(2)如信の臨終
(3)覚恵の臨終
(4)覚如の臨終
3 唯善と親鸞教学
(1)唯善の帰京
(2)宿善・無宿善の論争
おわりに
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と構成されていますが、今井氏の問題意識を確認するために冒頭を少し引用してみます。(p131以下)

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はじめに

 唯善は親鸞の孫であるが、後世の浄土真宗教団からは異端児扱いを受けて嫌われてきた。それは浄土真宗教団の形成期において、その形成に努力した母の覚信尼の方針に背き、「野望」を抱いて兄の覚恵・甥の覚如と対立し、京都にあった親鸞廟堂(影堂)の管理権(「留守」。のちには「留守職」という)をめぐって十余年間も争い、争いに敗れると廟堂に安置してあった親鸞座像を持ち出して関東に逃げた人物、といわれてきたからである。「影堂の敷地を母に譲った禅念を父にもった唯善はこの職の横領をくわだて、あくどい策謀をめぐらした」と評した研究者もいる。
 また唯善は教学上でも覚如と争った。それは特に「宿善」の問題において顕著で、覚如が往生のための宿善を強調したのに対し、唯善はそれを否定した。それは反対のための反対であった、と唯善の異義が強調されてきたのであった。信仰の本質がわかっていない、という批評も、早くからあった(『最須敬重絵詞』『慕帰絵詞』)。唯善は、親鸞の息子善鸞に続く、初期浄土真宗教団の秩序を乱した悪い人間といわれてきたのである。
 唯善の人物像は、どのような立場から把握するかによって異なってくる。浄土真宗教団から見れば、確かに好ましからぬ人物には違いない。教団形成の邪魔をしたからであり、廟堂の親鸞座像は、唯善が持ち出したまま行方知れずである、とされてきたからである。唯善は親鸞の孫である。親鸞の血統をもって指導者に戴く浄土真宗教団を確立しようとした覚如にとっては、唯善は叔父という近親であるだけよけいに扱いづらい存在であったというべきであろう。
 最近、右の親鸞座像は失われたのではなく、今に至るまで実在しているという説が出ている。千葉県関宿町の常敬寺に安置されている親鸞座像がそれであるというのである。それに、唯善問題に関する史料はほとんどが覚如側の記録である。唯善への断罪は欠席裁判に近い状態である。加えて、唯善のころに浄土真宗教団が実態として存在していたかどうか、はなはだ疑問である。唯善に触れる場合には、このことを十分に考慮に入れるべきである。
 確実にいえることは、唯善は若いころに山伏としての修業をしたことである。そして呪術をこととする山伏が、浄土真宗教団の教学のなかで嫌われていたことも確かである。しかし、真宗教団の成員の実際の生活全般から見れば必ずしもそうではなく、山伏と呪術が真宗教団のなかに色濃く影を落としていたことも、これまた事実であるといわねばならない。
 本節では、唯善の活動をめぐっていかに山伏と呪術が初期真宗教団に影響力を持っていたかを考察しようとするものである。よい悪いではなく、それが中世の社会であったということを考えたい。
-------

以上が「はじめに」の全文です。
「「影堂の敷地を母に譲った禅念を父にもった唯善はこの職の横領をくわだて、あくどい策謀をめぐらした」と評した研究者」は森竜吉氏(『本願寺』、三一書房、1959)ですが、『人物叢書 覚如』(吉川弘文館、1887)を著した重松明久氏の描く唯善像も相当の悪人ですね。
また、「右の親鸞座像は失われたのではなく、今に至るまで実在しているという説」を唱えたのは津田徹英氏(「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」、『美術研究』375号、2002)です。

千葉県指定有形文化財「木造伝親鸞聖人坐像」
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p131-048.html

さて、第1節「唯善の誕生と修業」の「(1)唯善の出身」には、

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 親鸞の晩年の面倒をみたのは覚信尼である。【中略】親鸞が亡くなったのち、覚信尼は小野宮禅念という貧しい貴族と結婚し、唯善が生まれたのである。『最須敬重絵詞』や『慕帰絵詞』によれば、禅念の父は朝廷の貴族で左近衛少将という職にあり、小野宮少将具親朝臣、あるいは中院少将具親と称した人物であるというから、村上源氏の末流である。村上源氏は名門であって、鎌倉時代の初めには太政大臣の土御門通親を出し、一族は土御門・久我・中院などを名のっている。覚信尼が若いころに仕えた太政大臣久我通光もこのなかの一人である。
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とありますが(p133以下)、「太政大臣の土御門通親」は誤解で、通親の極官は内大臣です。
また、今井氏は貴族社会にあまり興味がなさそうで、村上源氏の俊房流と顕房流の違いも分かっていないようですが、小野宮禅念の父・具親が属したのは俊房流であり、顕房流の通親の子孫で「土御門・久我・中院などを名のっ」た一族との関係は希薄です。
また、今井氏は上記引用の少し後に、

-------
 禅念の親族の関係であろう。唯善は幼いときは少将輔時の猶子となり、成人してからは亜相雅忠の子になったと、『慕帰絵詞』は記している。雅忠は前掲の太政大臣久我(中院)通光(一一八七─一二四八)の息子で、大納言(亜相)にのぼった人物である。通光は若いころの覚信尼が仕えていた人物であるから、唯善が雅忠の猶子になったのは、そのような関わりもあったと考えられる。
-------

と書かれていますが、唯善が中院雅忠(1228-72)の猶子になったのは、雅忠の父の久我通光が「若いころの覚信尼が仕えていた人物であるから」というよりは、小野宮禅念の異母兄である源輔通(1204-1249)の女子が中院雅忠の後妻であったことが直接的な要因でしょうね。
覚信尼が若いころに久我通光に仕えていた、という話は浄土真宗関係者の間では常識のようですが、覚信尼(1224-83)は若年で結婚し、まだ十四歳の嘉禎三年(1237)に覚恵(1237-1307)を生んでいますから、久我通光云々は本当なのかな、という感じがします。
ま、その点は後で史料的根拠を確認してみたいと思います。
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源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について

2020-03-25 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月25日(水)17時00分54秒

前回投稿で「具親の息子で禅念という僧になった人物は、浄土真宗の歴史を研究をされている方にとっては特に関心を惹く存在でしょうね」と書いたばかりですが、森氏の論文では、「四、源具親の子孫」の「2 子息禅念と孫唯善」の冒頭に、

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 源具親には禅念という僧になった子もいた。本願寺三世の覚如の生涯を描いた『慕帰絵詞』の第五巻第一段に、「鎌倉の唯善坊と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房真弟也」とみえる。真弟とは実の子という意味だから、唯善は禅念の子で、中院少将具親朝臣の孫であったと書かれている。具親には禅念という子もいたのである。
 実は禅念は、親鸞の娘覚信尼の後夫であって、文永三年(一二六六)二人の間に生まれたのが唯善であった。唯善の生年から判断して、禅念は承元元年(一二〇七)生まれの源輔時より年下であったと思われる。禅念は源輔通・輔時の弟であっただろう。ただしその母親は輔時を産んですぐに亡くなった姫前ではない。異母弟であったと考えられるが、母の出自は不明である。唯善は「幼年のときは少将輔時猶子」とも『慕帰絵詞』(第五巻第一段)にあるように、伯父源輔時猶子となった。文永三年の唯善誕生時には、禅念の長兄源輔通はすでに死去しており、このため次兄輔時の猶子とされたのであろう。輔時は朝廷内での地位は高くなかったものの、北条朝時・重時の弟であり、当時朝時・重時はともに故人であったが、北条氏と血縁関係を持つ、無視できぬ存在感があったものと思われる。
-------

とあります。(p87以下)
ふーん、そんな関係があるのか、とは思いましたが、とりあえず浄土真宗にはあまり興味がないから自分には関係なし、とスルーしていたところ、つい先ほどウィキペディアで「唯善」の記事を見たら、

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唯善(ゆいぜん、文永3年(1266年)- 文保元年2月2日(1317年3月15日))は、鎌倉時代後期の浄土真宗の僧。父は小野宮禅念。母は親鸞の娘覚信尼。幼名一名丸、字大納言弘雅阿闍梨。下総国関宿西光院(現在の常敬寺)の開山。
初めは少将輔時の猶子となり、ついで大納言雅忠の猶子となった。当初密教を学ぶ一方修験道をあわせて修めたが、その後唯円(河和田の唯円)により他力法門に接して浄土真宗に改宗した。異父兄の覚恵に請われて京都大谷に住した。
1303年(嘉元元年)関東における専修念仏が禁止されそうになると、関東にくだりこれを護った。その後、覚恵とその子の覚如との間で大谷廟堂の相続について争い、それに敗れて、親鸞の影像、遺骨を持って、相模国鎌倉に下った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%96%84

とあって、超びっくりです。
「初めは少将輔時の猶子となり」は森論文にもありましたが、「ついで大納言雅忠の猶子となった」は源輔通(1204-1249)の女子が中院雅忠の後妻であったことと明らかに関係していますね。
「字大納言弘雅阿闍梨」も中院雅忠の極官が「大納言」であったことを反映しており、「弘雅」は「雅忠」から一字をもらったものに違いありません。
うーむ。
このウィキペディアの記事には出典が全くありませんが、浄土真宗関係の書物を丸写しにしたような感じがするので、それなりの典拠はありそうですね。
浄土真宗は苦手とはいえ、これは調べざるをえません。
とりあえずは『慕帰絵詞』を見てみますかね。
また、森氏は上記引用部分の後にけっこう大胆なことを言われていますが、それが本当に正しいのかも気になってきました。
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紅旗征戎は吾が事に非ざれど……

2020-03-25 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月25日(水)10時36分23秒

前々回の投稿で引用した部分に続けて、森氏は次のように書かれています。(p84以下)

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 さて具親と再婚した姫前であったが、承元元年(一二〇七)三月二十九日に死去する。『明月記』同年三月二十八日条に、

  廿八日、天晴、辰時出京、於小野宮少将〔具親〕門前、訪妻室
  事、産後胞不下、度々絶入云々、

とあり、次いで三月三十日条に、

  卅日、天晴(中略)昨日、具親少将妻遂亡逝云々、

とあって、前日の三月二十九日に具親妻姫前が死去したことがわかる。三月二十八日条に「産後胞不下、度々絶入」とあったから、産褥が原因で亡くなったのであろう。年齢は不明だが、三十代くらいであったろうか。なおこの時姫前が産んだのは、輔通の弟源輔時とみられる。
 さて上記の『明月記』承元元年三月二十八日条で源具親が「小野宮少将」と呼ばれていたように、具親は小野宮邸を相伝していた。同記の元久二年閏七月二十九日条には、具親が「当時居住小野宮地事」につき山僧の濫訴を受けたので、摂政九条良経に訴えるため、藤原定家の許を訪れたことが記されている。九条家に仕えていた定家は、具親とともに九条家を訪れ、具親は小野宮の「相伝譲文等」を良経に進じた。「小野宮右府〔藤原実資〕、自筆被譲外孫女祐家〔藤原〕卿室文有之、殊有御感、祐家卿室、老後譲師頼〔源〕卿室<当時入道〔源師光〕母>、件室譲子師光〔源〕云々」とみえており、ここから藤原実資→外孫藤原祐家室(藤原兼頼女)→源師頼室〔藤原能実女(祐家室外孫)〕→源師光→源具親という、相伝関係を知ることができる。
------

元久二年(1205)、摂政九条良経(1169-1206)に訴えるために「九条家に仕えていた定家」に同行してもらった具親は、自分自身は九条家に仕えていない訳で、これも『玉葉』建久八年(1197)三月二十日条の「中将」が九条兼実(1149-1207)四男、良経弟の九条良輔(1185-1218)ではないことの証拠の一つですね。
具親が良輔の猶子であるならば、その伝手を使って自分一人で良経を訪問すればよいだけで、何も定家を頼む必要はありません。
また、具親が小野宮の「相伝譲文等」を良経に見せたところ「御感」があったという点、貴族社会において小野宮第が単なる財産ではなく、特別に文化的価値があるものと受け止められていたであろうことを窺わせますね。
もちろん小野宮第は大変な財産的価値もあった訳で、売却すれば相当巨額の対価を得ることができたはずです。
しかし、師光も具親も小野宮第を売り飛ばさずに保持していたということは、少なくとも同第を維持するだけの収入を別途確保していた訳で、およそ「斜陽貴族」(p82)とは言い難いですね。
森氏は『人物叢書 北条重時』において、

-------
 しかし『明月記』承元元年三月三十日条には、「昨日、(源)具親少将の妻、遂に亡逝すと云々」とあり、再嫁後、わずか三年ほどで京都で死去したこと知られる。年齢は三十代くらいか。婚家と実家との権力闘争が彼女の運命を狂わせた。薄幸な人生といわざるを得ないであろう。

と書かれていますが、確かに産褥死という最後は気の毒ではあるものの、具親との結婚期間は「わずか三年」より長そうですし、「姫の前」自身は決して「薄幸な人生」とは思っていなかったんじゃないですかね。
年齢については、建久三年(1192)に「容顔太美麗」な「権威無双之女房」として源頼朝に仕えていた訳ですから、この時に十代ではちょっと若すぎるような感じもします。
とすると、この時に二十代前半として、十五年後の承元元年(1207)に三十代後半くらいでしょうか。
さて、呉座勇一氏の『日本中世への招待』(朝日新書、2020)をきっかけに、今月八日から「姫の前」について検討して来ましたが、森氏の論文「歌人源具親とその周辺」の「四、源具親の子孫」以降は私も森氏から新しい事実を教えてもらうばかりで、特に意見はありません。
北条朝時・重時と、その異父弟である具親子息の輔通・輔時との関係は極めて興味深く、また、具親の息子で禅念という僧になった人物は、浄土真宗の歴史を研究をされている方にとっては特に関心を惹く存在でしょうね。
私自身にとっては、源輔通(1204-49)の娘で「源雅忠室」となった人物が一番気になるのですが、今のところ『尊卑分脈』の僅かな記述以外に何の手掛かりもありません。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)

ということで、どの方向に進むべきか迷っているのですが、比企氏の乱はけっこう面白そうですね。
基本的に貴族社会にしか興味がなく、紅旗征戎は吾が事に非ず、と思って鎌倉幕府のことなど全く手を出さずにいた私ですが、比企氏の乱には貴族社会と武家社会の接点という要素も多少はありそうなので、もう少しだけ調べてみようかなと思っています。

>筆綾丸さん
>馬部隆弘『椿井文書ー日本最大級の偽文書』(中公新書)
「うまべ」かと思ったら「まべ」と読むそうですね。
最近、ツイッターで馬部氏のお名前を耳にする機会が多く、どんな研究をされているのか気にはなっているのですが、今はちょっと手が出せそうもありません。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話ー戯作三昧と尻拭い 2020/03/24(火) 11:28:29
無関係な話ばかりで恐縮です。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57118050T20C20A3CR8000/
馬部隆弘『椿井文書ー日本最大級の偽文書』(中公新書)で、椿井文書なるものの存在を初めて知りました。
人生を偽書の作成に蕩尽する人の、また、偽文書の研究に蕩尽する人の、かくも不吉な欲望とは何なのか(ウエルギリウス)、よく理解できませんが、「おまえが深淵を覗くとき、深淵もまたおまえを覗くのだ」(ニーチェ)と云ったような感じなのかもしれないですね。
さはさりながら、第二章まで読んでぐったりした、この徒労感は、何だろう?

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汚い言葉になるが、椿井文書を真正面から研究するには、歴史学の尻拭いをする覚悟が必要なのである。(228頁)
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比企尼と京都人脈

2020-03-23 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月23日(月)12時50分42秒

まあ、森幸夫氏も「敢えて推測するならば、能登国が両者の接点として指摘できると思う」、「それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない」とされているので、史料的根拠を見出せる可能性が限りなくゼロに近い苦し紛れの議論であることは認めておられるのでしょうね。
私がちょっと不思議に思うのは、森氏は何故に女系のルートを考えないのだろうか、ということです。
比企一族のゴッドマザーである比企尼は元々京都で源頼朝の乳母をしていた人ですから、京都との強い人脈を持っていて、それが他の関東の豪族と異なる比企氏の強みだったはずです。

比企尼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E5%B0%BC

比企氏研究の最新の成果の一つと思われる菊池紳一氏の「源頼家・実朝兄弟と武蔵国」(『将軍・執権・連署─鎌倉幕府権力を考える』(吉川弘文館、2018)を見ると、特に「系図1 比企氏を中心とする婚姻関係系図」に、比企尼が構想したであろう婚姻を利用した比企一族の勢力拡大策の周到さが窺えます。
そして、比企尼の孫にあたる「姫の前」と北条義時の婚姻は、仮にそれが『吾妻鑑』建久三年(1192)九月二十五日条の語るように北条義時の「姫の前」に対する執心に始まったとしても、その時点では比企一族にとって好都合な話だったはずです。
しかし、建久十年(=正治元年、1199)の正月、源頼朝が急死して間もなく、第二代将軍頼家の周囲に係累を張り巡らせた比企一族と、頼家の弟の実朝を囲繞した北条一族の間の緊張状態が始まり、それは建仁三年(1203)九月の比企氏の乱で激発するまで相当長く続きます。
「姫の前」が京都の貴族と再婚したということは、「姫の前」はもともと比企一族に満ちていた京都文化が好きで、何度も断った末に源頼朝の仲介で結婚させられた義時、そして北条一族に違和感を感じていたのではないか、そして、頼朝の死後、比企一族と北条一族の対立関係が明瞭になった段階で、別に自身が離縁しないとの起請文を書いた訳でもない「姫の前」の側から離縁を申し出た、と考えるのは一応合理的な推論の範囲だろうと思います。
その場合、「姫の前」が誰に再婚相手の相談をするかというと、当然に実家の比企一族の人でしょうね。
比企尼がいつまで存命だったかは分かりませんが、その娘たちも頼朝側近の藤九郎盛長、秩父平氏の河越重頼、信濃源氏の平賀義信といった有力御家人の妻となっており、これらの女性たちを含めた比企一族は比企尼から京都への親近感と人脈を受け継いでいるはずです。
従って、「姫の前」の京都での再婚は比企一族の京都との人脈を利用してまとまったと考える方が、少なくとも国司と守護といった公的なつながりよりは遥かに自然ですね。
まあ、森氏の場合、比企氏の乱の後に北条義時と「姫の前」が離縁したとされるので、その時点では既に「姫の前」を支援してくれるような人々も壊滅、京都とのネットワークも壊滅と考えるのかもしれません。
しかし、一切の係累をなくして孤児のようになった謀叛人一族の女性を京都の貴族が温かく迎えてくれるかというと、比企氏の乱後も続いた残党狩りの執念深さを思えば、そんなことはありえないでしょうね。
さて、このように、「姫の前」と義時の離縁が比企氏の乱の前だと考えると、他にも説明しやすくなることがたくさんあります。
例えば、比企氏の乱において、義時が全く躊躇せずに比企が谷に攻め込んでいることもその一つです。
『吾妻鑑』は源頼家と頼家を支えていた比企一族を真っ黒に描いていますから、比企氏の乱関係の記述の信頼性には多大な疑問が生じますが、その『吾妻鑑』ですら、比企が谷攻撃の筆頭に登場させているのは北条義時です。
例によって「歴散加藤塾」サイト内の「吾妻鏡入門」を借用させてもらうと、建仁三年九月二日条で、北条時政が比企能員を騙し討ちした後、

-------
仍彼一族郎從等引籠一幡君御舘。〔号小御所〕謀叛之間。未三尅。依尼御臺所之仰。爲追討件輩。被差遣軍兵。所謂。江馬四郎殿。同太郎主。武藏守朝政。小山左衛門尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光。畠山二郎重忠。榛谷四郎重朝。三浦平六兵衛尉義村。和田左衛門尉義盛。同兵衛尉常盛。同小四郎景長。土肥先二郎惟光。後藤左衛門尉信康。所右衛門尉朝光。尾藤次知景。工藤小次郎行光。金窪太郎行親。加藤次景廉。同太郎景朝。仁田四郎忠常已下如雲霞。各襲到彼所。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma17c-09.htm

という具合に、「彼一族郎從等引籠一幡君御舘」に攻め込んだ筆頭は「江馬四郎」北条義時、それに次ぐのは「同太郎主」北条泰時です。
妻の実家に率先して攻め込んで一族みんな皆殺し、というのは、いくら殺し合いが武家の習いとはいえ、さすがに相当の心理的抵抗を生じさせる行為だろうと思いますが、離縁が時期的に早ければ早いほど、そうした抵抗も薄れるはずです。
また、義時が「姫の前」から離縁されたことを比企一族による自分、そして北条一族への侮辱と捉えていたとすれば、比企が谷へ攻め込むことも、躊躇がないどころか、絶好の復讐の機会を得た、ということになりそうです。
比企氏の乱は「姫の前」と義時の離縁の原因ではなく、むしろ二人の離縁が比企の乱の原因の一つという可能性もありますね。
さて、では「姫の前」と源具親との再婚はどのようなものだったかというと、事前にしっかり打ち合わせた上で、富裕な実家からたくさんの随行者をつけてもらった「姫の前」が東海道をのんびりと京都まで上り、相応の格式を踏まえた婚姻の儀式をきちんと行い、周囲からも祝福された幸福な結婚だったのではないかと想像されます。
あるいは「姫の前」にはたっぷりと持参金がついてきて、源具親は喜んだかもしれません。
また、「姫の前」も、野蛮で野暮ったい北条義時とは違って、公家社会の中での位置づけはさほど高くはなくとも、小野宮第という豪邸で富裕な趣味人として楽しく暮らしていた源具親と再婚できて、けっこう幸せだったのかもしれないですね。
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「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)

2020-03-22 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月22日(日)12時15分49秒

「「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線」シリーズ、当初は十回くらいを予定していたのですが、解決すべき課題が次々と出てきてしまいました。
このまま同じタイトルで続けると後で見返すときに不便なので、ちょうど「姫の前」の再婚問題を論ずる段階に到達できたこともあり、今後はタイトルを個別投稿の話題を反映したものに変更します。
それでは早速、森幸夫氏の見解を確認してみたいと思います。(「歌人源具親とその周辺」、p83以下)

-------
三、源具親の結婚

 源具親と姫前の結婚については拙著(四~八頁)で明らかにした。繰り返しになるが、行論の都合上、略述する。
 源具親が姫前と結婚したことは『明月記』嘉禄二年(一二二六)十一月五日条からわかる。すなわち、前日に源資(輔)通が侍従に任じられたが、その注記に「具親朝臣子、朝時同母弟云々、関東挙状、申相国云々」とあって、輔通が具親の子で朝時の同母弟であり、この侍従任官に際し幕府から朝廷に、「相国」つまり関東申次前太政大臣西園寺公経を通じ推挙があったと書かれている。朝時とは北条朝時のことである。その同母弟という関係で、輔通は幕府の推挙を受け侍従に任官したのであった。
 北条朝時の母は比企朝宗の女姫前である。姫前は源頼朝に仕えた「容顔太美麗」な「権威無双之女房」であったが、北条義時が彼女に懸想したため、頼朝は離縁しないと約諾させ、結婚を許可したという『吾妻鑑』建久三年(一一九二)十一月二十五日条の逸話はよく知られている。この日に姫前は義時に嫁している。義時と姫前との間には朝時(一一九四生)とその弟重時(一一九八年生)、さらに女子一名(生年不明、のち土御門定通室)の、少なくとも三人の子どもがいたことが知られる。しかし姫前は建仁三年(一二〇三)九月、比企氏の乱により北条義時に離縁された。比企氏が謀叛人として滅ぼされた以上、義時は姫前との婚姻を維持することができなかったと考えられる。姫前は上洛し、この年末ころに源具親と結ばれた。具親と姫前との間の子輔通が元久元年(一二〇四)に生まれているから、このように推定できる。この辺りのところまで拙著で明らかにした。本稿で考えるべきは、どのような経緯で具親が姫前と結婚したかである。
-------

「拙著」、即ち『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)での記述は既に引用済みです。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612

「姫の前」が「建仁三年(一二〇三)九月、比企氏の乱により北条義時に離縁され」、「姫前は上洛し、この年末ころに源具親と結ばれた」とする森説はスケジュール的に無理が多く、むしろ離縁は比企氏の乱の前とした方が自然ではないか、と私は考えますが、その点は後で改めて論じます。
続きです。(p84以下)

-------
 源具親と姫前との接点を明らかにするのは難しい。具親が弓や蟇目などを弄ぶ、どちらかといえば武を好む存在であったことは先にみたが、このような性格は、武士の娘を娶ることを拒否しない前提とはなっても、武士の娘を娶った理由とはならないであろう。具親と姫前とのより具体的、直接的関係が明らかにならねばならない。敢えて推測するならば、能登国が両者の接点として指摘できると思う。具親は建久八年から正治二年(一二〇〇)まで能登守であったことは先に述べた。一方、姫前の父比企朝宗は源頼朝の時代、能登を含む北陸道の勧農使として国衙在庁を指揮下に置き、守護と同等以上の権限を行使していたこと知られている。比企朝宗の北陸道勧農使任命は元暦元年(一一八四)のことで、建久二年には罷免されていたとする見解もあるが、能登国は、守護職として朝宗から比企能員に継承され、比企氏が建仁三年の滅亡まで在任していたとみる説がある。能登守護職はこののち朝時流北条氏に継承されるので、朝時の母姫前の実家比企氏との強い関係が想定される。従って建仁三年の滅亡時まで比企氏が能登守護に在任していた可能性は高いと思われる。とすると、源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。推論の域にとどまるが、ここでは、源具親が旧知の比企氏の関係者姫前の在京を知り、婚姻関係を結ぶに至ったと考えておきたい。
-------

注記は煩雑なので全部は引用しませんが、「比企朝宗の北陸道勧農使任命は元暦元年(一一八四)のことで、建久二年には罷免されていたとする見解」は佐藤進一説、「能登国は、守護職として朝宗から比企能員に継承され、比企氏が建仁三年の滅亡まで在任していたとみる説」は伊藤邦彦説です。
さて、森氏の見解には様々な疑問が湧いて来ますが、最大の疑問は、結婚という極めて私的な問題に、何故に「同じ国の国司と守護」という公的な関係を持ち出してくるのか、ということです。
私も数えたことはありませんが、鎌倉時代における公家と武家との間の婚姻は、どんなに多くても百には満たないと思います。
そして、その中で公家側が国司(の家族)、武家側が守護(の家族)の例があるかというと、ちょっと思い浮かびません。
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない」にしても、それは普通は仕事上の関係に止まるか、せいぜい友人・知人の関係程度のことであって、結婚にまで至るのは、むしろ「困難」ではないかと思います。
少し長くなったので、他の問題は次の投稿で検討します。
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)

2020-03-21 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月21日(土)11時08分56秒

歌人としての源具親の活動については、下記投稿で森幸夫氏の論文を引用済みです。

(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

ただ、森氏は源通親との関係については触れられていないので、参考までに井上宗雄氏の『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)も紹介しておきます。(p468)

-------
 正治二年、師光は六十九歳程であったが、この老年にして、後鳥羽歌壇の賑わいに遭遇する事となった。初度百首の人数に入って八月廿五日詠進(明月記)、同年第二度の百首には召出されたばかりの具親・宮内卿が入っている。九月三十日院当座歌合に能登守具親出席、十月一日歌合にも出。
 院は多くの歌人を出仕させたのだが、源家長日記に依ると、「又具親といふ人侍り、右京権大夫入道師光の子なり、仁和寺のほとりにかすかなるさまにて住み侍りしかば、召出されてやがて兵衛佐になされ侍りしを、父の入道の涙もかきあへず喜ばれしこそことはりと見え侍りしか、申せばかたじけなしや、かくまで沈み果て給〔侍〕べき身かは、父の思はぬよすがにひかれて身のいたづらになられし故ぞかし」とあって、父の無力の故であろうが、(能登守ではあったが)寂しく住んでいたのを召出されたのである(八、九月頃か)。何か歌の才ある挿話ぐらいはあったのだろうか。因みに兵衛佐の明徴は翌年二月八日(後述)のようで、家長日記によるとこれも院の思召しによったのである(以下、具親・宮内卿の詳細は別の機に考える事とし、師光を主に述べる)。
 正治二年十月十三日通親邸御幸には師光入道参仕、十一月七日院歌合に師光女宮内卿出席(明月記)。この頃から後鳥羽院に出仕したのであろう(文治元年生として十六歳)。十二月廿六日通親邸影供歌合に師光参会(明月記)。この年の三百六十番歌合に、生蓮・宮内卿が入っている。【後略】
-------

「生蓮」は師光の法名で(p467)、井上氏は史料の表記に従って「師光入道」「師光」「生蓮」と記述されているのでしょうね。
「建久七年の政変」から正治二年(1200)の頃は源通親が最も権勢を振るっていた時代であり、師光とは社会的地位は隔絶していますが、具親・宮内卿を含め、歌人としての交流はあった訳ですね。
具親・宮内卿が歌人としてどんなに優れた素質があったとしても、師光・具親が九条家に近い存在であったら、この時期に後鳥羽院の歌壇に入るのは難しく、具親が源通宗の猶子となっていたことは二人の歌人としての立身出世に極めて有利に働いたものと思われます。
さて、歌人としての具親についての森幸夫氏の説明は、いつもの固い論文と異なり、楽しそうに書かれていて、それはそれでよいのですが、ちょっと行き過ぎではないかと思われる記述があることは以前指摘しました。
特に森氏が、

-------
建仁元年、和歌所寄人となった年の八月十五夜の歌合で、具親は「いさゝか例ならぬこと」により退出したため、翌日後鳥羽院は「口をしさ思ひしつめがた」く、具親を和歌所に召し籠めた。やはり彼は怠け者的性質が強かったようである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

とされている点、井上氏は、

-------
十五夜には終夜歌合があったが、具親が「れいならぬ事いできて」早く退出したのを院が「くちをしさ思ひしづめがたし」として翌日和歌所に召籠め、具親の詠歌によって許したことが家長日記に見える。別に具親自身不風流ではなかったのだろうが、体調が悪いとか急用とかで帰宅したのを院に咎められたのである。
-------

と慎重な書き方をされています。(p469)
まあ、具親の退出の理由が分からないので何とも言い難いところですが、後鳥羽院は泳げない近臣二十人ばかりを船に乗せてから川に落とすような、なかなか臣下への思いやりに満ち溢れた方でもあるので、この件でも一方的に具親が悪いと決めつけるのはどんなものだろうかと思います。
さて、森氏は上記引用部分に続けて、

-------
具親と宮内卿は好対照な兄妹であった。なお具親は、後嵯峨院政期の弘長二年(一二六二)九月の『三十六人大歌合』にも沙弥如舜としてその名がみえているから、非真面目でストレスのあまりない性格も幸いしてか、かなりの長寿であったとみられる。おそらく八十歳は越えていただろう。
-------

という具合に、具親の「非真面目でストレスのあまりない性格」を改めて強調された上で、第二節を次のように閉じます。

-------
 さて源具親は後鳥羽院に見出され、その側近歌人として活動したが、家格も低く、また怠惰な性格も災いしてか、高い官位を得ることは出来なかった。能登守・左兵衛佐に次いで元久二年四月、右少将に任じられた。これが彼の極官である。父師光はかつて少将任官を望んだものの果たせなかったわけだから、一応具親は父の先途を越えたわけである。彼はこのまま、公家社会に低迷する歌詠みとして生涯を終えるかにみえた。だが具親は北条義時の前妻姫前と結婚し、これが彼とその子どもに「光華」をもたらすこととなる。次節以下でこれらにつきみてみよう。
-------

具親が右少将に任じられた元久二年(1205)の前年、輔通が生まれているので、具親と「北条義時の前妻姫前」の結婚はさらにその前となるはずですが、これがどこまで遡るのかが問題となります。
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その13)

2020-03-21 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月21日(土)07時56分32秒

前回投稿、源具親をめぐる最大の難問、とか言いながら、右中将がダメなら左中将でいいんじゃないの、で終わってしまいましたが、まあ、九条兼実だって『玉葉』の読者として想定している自分の子孫に向かって謎をかけている訳ではないですから、ちょっと考えれば分かる程度の記述で丁度良い具合ですね。
もっとも私も最初から源通宗に着目した訳ではなくて、むしろ四条家に適当な人はいないかと思って四条隆房(1148-1209)や隆衡(1172-1255)などの経歴を見てみたのですが、「中将」の該当者はいませんでした。
さて、源具親が九条兼実の息子である良輔の猶子ではなく、九条兼実の宿敵である源通親に近い人物と考えると、森幸夫氏が指摘されている次のような問題も理解しやすいのではないかと思います。
森氏は、

-------
具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4

に続けて、次のように書かれています。(p82)

-------
 実は具親は、このころから近衛家に仕えていたようである。建久九年四月、摂政近衛基通が賀茂社に参詣した時、具親は舞人・陪従の饗料を負担し、正治二年(一二〇〇)正月に基通息右大臣家実が春日祭上卿として参向した際には、東遊装束の青末濃袴十四腰を調進している。具親は正治二年十一月までは能登守在任が知られるが、これらの負担は能登国司としての公役負担とみるよりは、近衛家家人としての負担と考えるべきであろう。建久末・正治ころ具親は近衛家に仕えていたとみられる。前節でみたように、父師光は九条兼実に仕えたのであるが、具親はそのライバルともいえる近衛基通・家実父子に奉仕していたのである。当時九条家は建久七年の政変で凋落していたから、具親は父が祗候した九条家ではなく、近衛家に仕えたのであろう。そうすると、先にみたような、具親が九条良輔の猶子であった点も誤りの可能性がさらに高くなる。師光・具親が九条家から近衛家に奉公先を替えたことは、斜陽貴族ともいえる村上源氏俊房流一族にとって、生き残るための必須の選択であったといえるだろう。このような時期に具親は後鳥羽院に見出されたのである。
-------

「前節でみたように、父師光は九条兼実に仕えたのであるが」とありますが、「前節」即ち「一、源具親の父祖」では、『玉葉』養和元年(1181)閏二月十四日の記事に基づき、九条家に初参した源師光が九条兼実から「件人、和歌之外、無他芸」と酷評されたことが記されています。
ただ、まあ、これは養和元年の話であり、その後の政治情勢は変遷を重ね、「九条家は建久七年の政変で凋落」しています。
従って、「具親が九条良輔の猶子であった点も誤りの可能性がさらに高くなる」訳ですね。
仮に具親が九条良輔の猶子であったら建久七年の政変のとばっちりで大変だったはずですが、具親はこの政変の僅か四か月後、建久八年(1197)三月二十日に四条隆保のおかげでちゃっかり能登守になっており、九条家に近い存在のはずがありません。
逆に、九条兼実の宿敵であり、歌人としても有力な源通親に近い存在であったからこそ、その後、具親と妹の宮内卿が「後鳥羽院に見出された」ことが理解しやすくなります。
なお、森氏が「斜陽貴族ともいえる村上源氏俊房流一族にとって、生き残るための必須の選択であった」とされている点は、いささか大袈裟にすぎるように感じます。
師光は小野宮第を承継している財産家である上に、具親を能登守にさせるような人脈を持っている訳ですから、官位官職は劣っていても「斜陽貴族」ではありえません。
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その12)

2020-03-20 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月20日(金)11時14分21秒

それでは源具親をめぐる最大の難問、『玉葉』の建久八年(1197)三月二十日条について検討してみたいと思います。
井上宗雄氏の『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)から少し引用します。(p467)

-------
 八年二月廿日の玉葉に、七条院が新造の三条烏丸第に移徒、造国司の能登守隆保(隆季男)は叙従三位、「以能登国中将猶子源具<師光入道子云々>」とみえる。補任隆保の条に「造進七条院御所三条殿賞、右京大夫如元、止能登守、以源具親申任之」とある。中将は兼実男良輔らしいが、具親は良輔の猶子となっていたのだろうか(良輔は文治元年生れで、具親の方が年長と思われる。具親が文治二年以後の生れであることは上記のように殆ど考えられない)。そして何故隆保が能登守を良輔─具親に譲ったのか明らかでない。諸事分明でないが、師光・具親がこの頃兼実方に接近し、具親が能登守となったのは確かである。
-------

井上氏は「中将は兼実男良輔らしい」としながら「師光・具親がこの頃兼実方に接近し、具親が能登守となったのは確かである」と断定してしまっています。
確かに「具親が能登守となった」のは他史料からも明らかですが、「師光・具親がこの頃兼実方に接近」は「中将」が良輔であることを前提としており、奇妙な文章ですね。
ところで、私は今まで一度も『玉葉』など読んだことがなく、また、名著刊行会版の『玉葉』を所蔵している近くの図書館がコロナ騒動で利用できないので、そちらが利用可能になるまで待つしかないかなと思っていたら、国会図書館デジタルコレクションで読めますね。
リンク先で「コマ番号」を469とすると問題の部分が出てきます。

『玉葉』第三(国書刊行会、明治39-40)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772051


そこには、

-------
此夜、七条院被渡三条烏丸亭、公卿廿二人供奉、右大将已下云々、親信卿寄御車、有黄牛二頭、水火童等云々、判官代盛経行之、泥々云々、造国司隆保朝臣、叙従三位、上臈数輩超越、不便由、関白雖令申、無勅許云々、以能登国、中将猶子源具親<師光入道子云々>
-------

とありますが、関白の近衛基通(1160-1233)が、四条隆保を従三位にすると上臈数人を超越することになるので良くない、と意見したにも関わらず、後鳥羽天皇に無視されたようですね。
さて、井上氏が「中将は兼実男良輔らしい」とされているので、『公卿補任』で九条兼実の四男、良輔(1185-1218)の経歴を見ると、建久六年(1195)六月に「転中将」、正治二年(1200)十月に従三位、「右中将如元」とあり、良輔は建久八年(1197)三月の時点で確かに右中将ですね。

九条良輔(1185-1218)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%89%AF%E8%BC%94

私は源具親の「親」は九条兼実の宿敵、源通親からもらったものではなかろうかと思って通親の周辺で「中将」を探してみたら、長男の通宗(1168-98)が建久七年三月の時点で左中将ですね。
『公卿補任』によれば、通宗は安元二年(1176)に九歳で叙爵、文治四年(1188)に左少将、建久二年(1191)二月に「転左中将」、建久九年(1198)正月に任参議ですが、この時「左中将如元」なので、建久二年から九年まで、ずっと左中将ですね。
ただ、通宗はこの年の五月、三十一歳の若さで死んでしまいます。

源通宗(1168-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E5%AE%97

井上宗雄氏は「宮内卿を文治元年生れとして、具親は数歳上(治承頃生?)であろうか」とされていて(p465)、私もその推定は説得的だと考えますが、具親が治承(1177-81)生まれであれば仁安三年(1168)生まれの通宗の猶子として年齢的にはおかしくなく、文治元年(1185)生まれの九条良輔より遥かに自然ですね。
ということで、私は「中将」は源通宗だろうと思いますが、「中将」をめぐる解釈の混乱は、九条兼実が対象を明確に特定せず、「中将」などと妙に曖昧な表現にしていることに根本的な原因があります。
では、なぜ兼実はこんな曖昧な表現にしたのか。
良輔説からは、自分に親しくて自明だから簡略な書き方をした、と説明することになりそうですが、逆に、自明の存在ではあるけれども、名前も書きたくないほど嫌いだから避けた可能性もあると思います。
建久八年三月二十日は「建久七年の政変」で九条兼実が失脚してから僅か四か月弱ですから、源通親とその長男の通宗は、九条兼実にとって名前を見るだけでも腹立たしい存在であったのではないかと思われます。
なお、猶子と名前とは直接の関係はありませんから、通宗の猶子でも「親」は別におかしくはないですね。
別途、通親が具親の烏帽子親となっている可能性もあると思います。

建久七年の政変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B9%85%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その11)

2020-03-19 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月19日(木)17時20分33秒

前回投稿で、源師光の男子に関し、

-------
長男の「俊信」が後に「泰光」と改名したと考えれば矛盾はなくなりますが、更に「任加賀守(泰通卿知行)」であることを勘案すると、「俊信」は藤原泰通の猶子になるなどして泰通から「泰」の字をもらって「泰光」と改名したのではないかと思われます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4

と書きましたが、『尊卑分脈』によれば藤原泰通の母は「大納言〔源〕師頼女」なので、師光(1131頃生)の姉妹ですね。
師光は源師頼(1068-1139)が六十歳を超えてからの晩年の子なので、おそらく藤原泰通の母が師光の姉です。
そして藤原泰通(1147-1210)と源泰光(1167生)は、年齢は二十歳離れていますが、従弟同士ですね。
これだけ関係が密であれば、泰光が藤原泰通から「泰」をもらって改名したと考えて間違いなさそうです。
また、以上の関係は女系でのつながりという点でも興味深いところがあります。
小野宮第の伝領は女系継承となっている点に関心が持たれていて、高群逸枝は『招婿婚の研究』の「第七章 その経過(三)─純婿取婚」「第九節 純婿取期の族制」に「小野宮家の女系伝領」という項目を立て、9ページにわたって詳論しています。(『高群逸枝全集』第三巻、理論社、1966、p730~738)
高群の文章の雰囲気を味わうため、ほんの少しだけ引用してみると、

-------
小野宮家の女系伝領

 一女系継続の例として、ここに小野宮家のことを引いてみよう。小野宮家は、摂政小野宮実頼(摂政忠平長男)が、小野宮惟喬親王第(大炊御門南、烏丸西)を領得して、本第とした時から始つている。実頼の長男敦敏は早逝、二男頼忠は関白氏長者は嗣いだが、父子異居図でみたように、父の小野宮第は嗣がず、はじめ四条第、のち三条第を本居とした。小野宮第は三男斉敏の次男右大臣小野宮実資にゆずられた。実資からが女系継承となるのである。
 小野宮第は、実頼の時から、名第として知られていたが、実資の代になると、【中略】とあるように華美をきわめた第宅であつた。
【中略】
 この師頼は、前記「長秋記」筆者師時の兄で、「分脈」村上源氏系図に、小野宮大納言と注してある。晩年の婿住であるらしく、その所生師光は、生後まもなく父を失い(師頼は保延五没)、不遇のうちに人となつたらしい。「台記」によれば、師頼を師とする頼長の申請によつて、ようやく昇殿のことなども許されたという。「台記」仁平元、二、二、三に、
「師光昇殿事、法皇有可許。……先日余奏曰、先師師頼卿以師光属愚臣。…臣以為己子。論其実、師頼卿子、能実卿外孫、於人不賤。不聴昇殿、奉仕舞人、非無哀憐矣。」
 とある。師光を能実の外孫で師頼の子であると明記してある点、小野宮女系の所生であることがわかる。「今鏡」にも、
「ほりかはのおとど(源俊房)の御子は、太郎にて、師頼の大納言とておはせし。…大納言の御子は、…師光などきこえ給。…師光は、小野宮の大納言能実のむまごにて、小野宮の侍従など申にや。」
 と見えている。この小野宮侍従師光の父の小野宮大納言師頼も、その舅の小野宮大納言能実とおなじように、妻家小野宮第に住んだことは、「百錬抄」天養元年、一二、一一に、「小野宮焼亡。大炊御門室町。故師頼卿家。」とあることでうかがわれる。【中略】
-------

といった具合です。
ただ、「この第も師光からは、男系伝領となるのである。すなわち、師光の次代には、男具親が小野宮第に在り、小野宮少将(「明月記」承元四年、四、二八)といつた」(p734)という事情で、高群の記述も基本的には師光の代で終わってしまっています。
しかし、具親の兄の泰光については、名前だけですが、女系が強く意識されているようで、これは家族史・女性史的な観点からもけっこう面白い事実ではないかと思います。
泰光・具親兄弟は、「泰光」が小野宮の系統を意識している反面、村上源氏の要素が皆無なのに対し、「具親」には小野宮の要素が全くありません。
そして、仮に「親」が源通親に由来するのであれば、「具」とともに純度百パーセントの村上源氏の名前となって、兄の「泰光」と対照的ですね。

高群逸枝(1894-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%BE%A4%E9%80%B8%E6%9E%9D
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)

2020-03-18 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月18日(水)12時13分23秒

前回投稿では宝治二年(1248)の時点で中院雅忠が四条隆親の影響下にあるような書き方をしてしまいましたが、中院雅忠と四条隆親女「大納言典侍」との婚姻の時期がはっきりしないので、この時点では隆親との関係も分からないですね。
『公卿補任』で雅忠の経歴を見たところ、嘉禎三年(1237)に侍従に任ぜられて以降、それなりに順調に昇進しているので、源通親の孫、久我通光の四男である以上、宝治二年での叙従三位はごく当然の処遇なのかもしれません。
ただ、ちょっと奇妙なのは、『公卿補任』では雅忠がこの年に二十四歳と記されていることで、雅忠は安貞二年(1228)生まれのはずですから、本来であれば二十一歳であり、三年ずれています。
『公卿補任』をずっと追ってみると、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
以後は再び単純に一歳ずつ加算されて文永九年(1272)に四十五歳で死んでいるので、こちらで逆算すると安貞二年(1228)生まれとなりますね。
まあ、どうでもいいことですが、ちょっと妙な感じです。

中院雅忠(1228-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%BF%A0

さて、村上源氏の傍流(俊房流)の源泰光と輔通の伯父・甥が宝治二年(1248)に従三位に叙せられた理由について、四条隆親の影響を想定してみたのですが、あるいはちょっと考えすぎだったのかもしれません。
森幸夫氏は源具親と再婚後に「姫の前」が生み、従って北条朝時・重時の異母弟である源輔通・輔時兄弟には朝時・重時の支援があったことを強調されるので(「歌人源具親とその周辺」、p85以下)、泰光の処遇を含め、そちらでも説明はできそうです。
ただ、もう少し四条家にこだわってみると、泰光の経歴の中で、建仁三年(1203)に「任加賀守(泰通卿知行)」となっている点が気になります。
この「泰通卿」は藤原北家中御門流の藤原泰通であって四条家(藤原北家魚名流)の人ではありませんが、泰通の正室は藤原隆季女であり、四条隆房(1148-1209)と四条隆保(1150-?)の姉妹です。

藤原泰通(1147-1210)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E9%80%9A

ところで、『尊卑分脈』における泰光の記載に若干の混乱があることは(その7)に書きました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd10557d5d5004a8c2490580064024f1

即ち、『尊卑分脈』では師光の子女のうち、僧侶二人と女子(宮内卿)を除くと、俊信・具親・泰光の順に男子がいることになっているのに、俊信に「本名泰光」と付されていて、この二人は重複しています。
泰光は宝治二年(1248)に八十二歳(『公卿補任』)なので、逆算すると仁安二年(1167)生まれであり、具親より年上です。
とすると、長男の「俊信」が後に「泰光」と改名したと考えれば矛盾はなくなりますが、更に「任加賀守(泰通卿知行)」であることを勘案すると、「俊信」は藤原泰通の猶子になるなどして泰通から「泰」の字をもらって「泰光」と改名したのではないかと思われます。
その時期は分かりませんが、泰光は藤原泰通、そして四条家と相当に近い存在ですね。
そして藤原泰通は「源博陸」源通親(1149-1202)とも極めて親しい存在であることが知られています。
とすると、泰光の弟である源具親の名前も気になってきます。
泰光・具親兄弟の父である源師光の「師光」という名前には村上源氏の要素が皆無ですが、これは師光(1131頃生)が父の「小野宮大納言」源師頼(1068-1139)から小野宮第を継承したことを反映しています。
すなわち、血統はともかく、文化的には藤原北家小野宮流の継承者であるとの宣言ですね。

源師頼(1068-1139)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E9%A0%BC

藤原泰通から「泰」、父から「光」をもらった泰光にも村上源氏の要素は皆無ですが、「具親」は泰光と異なり、父師光から一字も得ていません。
「具」は村上源氏が村上天皇の皇子、具平親王(964-1009)から始まったことに由来するので、村上源氏には「具」を含む名前が溢れていますが、「親」はどこから来たのか。
私は、これは源通親ではなかろうかと思います。
師光は九条兼実から「和歌之外無他芸」(『玉葉』治承五年閏二月十四日)と酷評された人物ですが、源通親主催の歌合に参加するなど、歌好きの源通親との接点はかなりあります。
ただ、具親が源通親から一字をもらうほど親しい関係であったと仮定すると、その仮定とどうにも整合性が取りにくい史料があります。
それが、『玉葉』建久八年三月二十日条です。
森幸夫氏の論文から再度引用させてもらうと、この記事をめぐっては次のような問題があります。

-------
 ところで、「かすかなるさまにて」という表現からは具親が世間から忘れ去られた存在であったような印象を受けるが、具親はすでに建久八年(一一九七)に能登守に任じていた。『玉葉』同年三月二十日条に、

  以能登国、中将〔九条良輔〕猶子源具親、<師光入道子云々、>

との任官記事がある。また『公卿補任』建久八年条の藤原隆保項に拠ると、隆保は上階して能登守を辞し源具親を任じたとある。隆保は能登知行国主となったらしい。藤原隆保は自身の分国の国司として具親を任じたのであるから、具親と何らかの関係があったとみられるが、詳細は不明である。また『玉葉』に拠れば、具親は九条兼実の息良輔の猶子となっていたとあるが、良輔は文治元年(一一八五)の生まれであり、正治ころから歌人として活動する具親との猶子関係が成り立つかどうかはなはだ疑問である。具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。

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