学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

Memento mori

2009-02-28 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月28日(土)15時05分9秒

小松裕著『「いのち」と帝国日本』の「おわりに」から少し引用します。(p350以下)

-------
いのちを生きぬいた人びと

 私が本巻でとりあげた「いのち」の序列化に身をもってあらがった人物は、これまでの通史にはほとんどとりあげられなかった「無名」の人びとが多い。だが、あらためて確認するまでもなく、彼ら/彼女ら、もしくはそのようなくくり方になじまない人々こそが、歴史を、社会を支えてきた主体にほかならない(たとえば二〇〇〇人に一人の割合といわれるインターセックス[半陰陽]の人びとである)。
 そういった人びとを「無名」のままにしてきたのは、資料的な制約も大きいが、私たち歴史を研究するものの責任にほかならない。それは、これまでの「歴史」が、あまりにも政治史や経済史中心、そして男性中心的でありすぎたからである。
(中略)
 私たちは、藤本としや杉谷つも、金子文子などのように、歴史を生きた人びとが、どのように過酷な環境にあっても、楽しみや喜びを求め、精一杯いのちを輝かして生きぬこうとしてきたという、ごく当然のことを忘れてはならない。おそらくは、日々のそうした姿勢こそが、社会的矛盾に目を開かせる契機となるのである。
 戦争による犠牲者も、公害やコレラ・結核などの感染症による犠牲者も、帝国日本に抗して斃(たお)れていった人びとも、すべては田中正造が指摘した「非命(ひめい)の死者」にほかならない。いま私たちに必要なのは、アジアの人びとを含め、帝国日本の発展の陰に犠牲になった無数の「非命の死者」のいのちの叫びに耳を傾けることではないだろうか。
 私たちに、現在までに二万五〇〇〇人近い人びとがハンセン病療養所のなかで亡くなっている事実が見えているだろうか。薬害C型肝炎にみられるように、薬害問題も跡を絶たない。また、一九八九年以来、この国では一〇年連続で年間三万人以上の自死者を出している。人口三万人の市がまるごと消えつづけていることの異常さが最大の政治課題にならないのはなぜだろうか。この国の、いのちが喪われることへの鈍感さは、いまも変わっていない。
 これ以上「非命の死者」を生み出さないために、私たちは、あらためて歴史を学ぶ必要があるだろう。
-------

いろいろ疑問を感じますね。
「無名」の人々が本当に歴史を支えてきた主体なのか。
「インターセックス[半陰陽]の人びと」が歴史を支える主体として活動した事例が何かあるのか。
自殺者を出さないことを「最大の政治課題」にしろ、という発想は「異常」ではないのか。
「いのちの叫びに耳を傾ける」ことが歴史学者の役割なのか。
「非命の死者」を生み出さないことが、歴史研究の目的なのか。

私には、小松裕氏は「いのち」というより死者に取り憑かれた人のように思えますね。
「いつでもどこでも死を思え」と脅迫するのが歴史学者の仕事なんですかね。
まあ、こういう思想の人が歴史学者として通史を描くようになったのも、ごく最近の極めて歴史的な現象ではあります。
少し前まではマルクス主義の歴史学者も政治史や経済史を大切にして通史を描いてきたはずですが、今や、政治や経済を所与の前提として、時代の流れの中で右往左往する「無名」の人びとの個別エピソードを並べることをもって歴史学者の役割と考える人が、小学館のような一流出版社、もとい、それなりの出版社から通史を出すようになってしまった訳ですね。

『「いのち」と帝国日本』を最後まで読んで感じたのは、「いのち」に序列はないとしても、知性には序列があるなあ、という当たり前の事実です。
通史は政治史や経済史のしっかりした研究実績を持った優秀な研究者に書いてほしいですね。

Memento mori
http://en.wikipedia.org/wiki/Memento_mori
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妹君

2009-02-26 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月26日(木)01時22分5秒

石光真清の妹の結婚相手である橋本卯太郎は橋本龍伍(元厚生大臣)の父、橋本龍太郎(元首相)の祖父ですね。
ま、どうでもいいことですが。

橋本卯太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%8D%AF%E5%A4%AA%E9%83%8E

さて、「いい時代だった、俺は明日死んでも悔いることはない、恨むこともない。考えてもみろ、御維新前だったら、俺は熊本の片田舎の貧乏百姓で一生暮らさねばならんかったろう。貴様は武士の子だ、俺は百姓の子だ。貴様などと言ったらお手討ちになる・・・」との部分は重要で、これが当時の人の平等についての考え方の基本ではないかと思います。
何だかんだいっても、明治維新によって「機会の平等」が与えられたことは大きいですね。
「片田舎の貧乏百姓」の息子でも、才能によっては将官となる可能性を得た訳で、それを飛び越えて小松裕氏のように「結果の平等」がないと騒ぎ立てるのは、少々クレージーな感じがします。
明治時代に「結果の平等」なんかあるわけないだろ、と思いますね。

>筆綾丸さん
軍人同士の会話というのは、現代人にはどうしても芝居がかって聞こえてしまいますね。
数日後に死ぬことを予感するというのも作り話めいた雰囲気がありますが、ただ、これは旅順攻防戦の最中の話なので、客観的に死ぬ確率が極めて高かった特殊な状況下ではありますね。
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本郷源三郎大尉の場合-その2

2009-02-26 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月26日(木)00時28分36秒

続きです。

---------
「嫌だろうが聴いてもらいたい」
「・・・・・・」
「十年間、背負っていた重荷を降ろさないでは死ねないよ・・・こうして思いがけず会えたのも、何かの引合わせかも知れないな。俺は会えてよかったと思う。貴様も忘れてはおるまい。十年前の、明治二十八年七月のことだ。台湾の安平鎮で決死隊十名が城壁を爆破して躍りこんだが、続いて躍り込むことになっていた俺の中隊は、とうとう俺が指揮刀を振らなかったために動かなかった。十名の決死隊は俺たちの眼の前で嬲り殺しにされた。俺は忘れてはおらん。忘れようたって忘れられるものか。貴様も覚えているだろう」
「・・・・・・」
「あの時、貴様は連絡将校として俺の近くまで来て立っておった。俺は突入しなかった。貴様の顔を見た。貴様は蒼い顔をこわばらせて、俺をぐっと睨んだ。喰いつきそうな顔だったぞ。俺の魂は凍った・・・決死隊の勇士を敵の青竜刀が斬り裂いたように、貴様は俺を寸断したかったろう。一寸刻みに斬っても飽き足らなかったろうと思う」
「・・・・・・」
「・・・だが、石光、俺は自分の生命(いのち)が惜しくて突入しなかったのじゃないぞ。貴様も見ただろう、爆破口があまりにも狭かった。決死隊も一名ずつしか入れなかった。あの時に俺が中隊を突入させたら、おそらく全滅は免れなかったと思う。俺はそう判断して踏みとどまったのだ、然るに貴様は、俺を軽蔑して去った・・・よく判っとる・・・まあ、聞いてくれ」
「待て・・・本郷。俺は卑怯だとも、軽蔑するとも言っておらん。この十年の間、俺を恨んでおったとはひどい。あの場合、・・・中隊を突入させないのが正当だったと思う。だが、十名の決死隊が嬲り殺しにされるのを見て、怒らん奴がどこにあるか。敵と一緒に貴様まで恨んだぞ。これは人情だ。だが戦(いくさ)というものは人情では割り切れんものだ。俺にも判っとる。やはり、あの場合は貴様の措置が正しかったと思う」
「・・・本当に、そう思うか?」
「思っとる、本当だ」
 本郷は酔っていたが乱れてはいなかった。私の肩を叩いたり手を握ったり、眼に涙をたたえて感謝した。十年前の安平鎮の怒りが、これほど彼を苦しめていたとは知らなかった。
「これで俺は安らかに死ねる」
 本郷は涙を流したり笑ったり酒をあおったりした。
「俺が貴様を絶交したのは、貴様の妹君に求婚して断られたからだ──考えてみれば俺たちは若かったなあ、いい時代だった。妹君はお元気か?」
「真津子か?元気だ。エビスビール(後の日本麦酒株式会社)の技師をやっとる橋本卯太郎(後の同社取締役)に嫁いで幸福に暮しとるよ」
「よかった、その方がよかったんだ。俺はうっかり陸軍大尉の若い未亡人にしてしまうところだったよ」
と本郷は初めて朗かに笑った。私は彼の飯盒に酒を満たした。
「いい時代だった、俺は明日死んでも悔いることはない、恨むこともない。考えてもみろ、御維新前だったら、俺は熊本の片田舎の貧乏百姓で一生暮らさねばならんかったろう。貴様は武士の子だ、俺は百姓の子だ。貴様などと言ったらお手討ちになる・・・」
と言って本郷は再び大声で笑い、私の肩を叩いた。
「いい時代だった。この時代のためなら俺はよろこんで死ぬ。親爺もお袋も悦んでくれるだろう。貴様も祝ってくれ、わかったな」
「・・・・・・」
 本郷は立ち上って椅子にもたれた。
「おい石光、これで俺はさっぱりした。有りがたいことだ。俺は卑怯者ではないぞ、わかったな」
 そう言いながら彼は雨合羽を小脇に抱えて、戸口に歩み出した。私は彼の片腕をとって不安定な身体を支えた。
「本郷、今夜はうれしかった。ありがとう」
「俺はな、石光、近く必ず死ぬ、それもここ数日のうちだ。死んだら、本郷はよろこんで死んで行ったと伝えてくれ・・・いいか、頼むぞ」
 本郷は私の手を振りほどいて、雨合羽も着けずに豪雨の中へ歩み去った。私は雨垂れの激しい戸口に立って雨の中の後姿を見送ったが、これが彼との永遠の別れになった。彼自身の予言の通り、その日から間もなくの東鶏冠山の激しい戦闘で、胸に貫通銃創を受けて戦死したのである。

旅順・東鶏冠山
http://www.webkohbo.com/info3/meiji/ryojun/ryojun2.html
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本郷源三郎大尉の場合-その1

2009-02-25 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月25日(水)01時21分31秒

小松裕著『「いのち」と帝国日本』を最初に読んだ時、私は小松氏が「軍隊ほど階級差が歴然としている社会はない」として、年金や戦死者に対する特別賜金の差、それも一兵卒から将官まで、たかだか数倍ないし十数倍程度の差があることを憤った挙句、「兵卒のいのちは、かように軽かったのである」と慨嘆するのを見て、ずいぶん奇妙な人だなあと感じました。
何となく「平等に憑かれた人々」という昔読んだ本のタイトルも思い浮かべました。
ま、人それぞれだとは思いますが、ただ、小松氏の平等観、「いのち」の重さに関する感覚はあまりに現代的で、明治の人々の感覚とは随分ずれているんじゃないですかね。
『望郷の歌』から、そんなことを感じさせる部分を引用してみます。
日露戦争の最中の出来事です。(p29以下)

-------------
 豪雨と泥濘に立往生の第二軍の兵站線を補強のため、私が大連の兵站本部に派遣された頃は、もう雨季も終ろうとする気配が雲の切れ目に感じられた。馬も私も泥んこのズブ濡れ姿で久しぶりに大連の石畳の街並に入ると、あの惨憺たる泥濘の戦場が嘘のようであった。兵站営舎で要務を済ませてから割当てられた宿舎に行きかかると、建物の廻り角でバッタリ見覚えのある顔に出会(でくわ)した。はて誰だったかナ・・・と考える余裕もなく、ギクリと激しいものを胸に感じて動悸が高鳴った。
 すでに過ぎて十余年前、二十六年十月二十六日のことである。私が私の末妹への求婚を内諾しながら、その後になって易断に従って断ったために、私を絶交した同郷同期の秀才、本郷源三郎であった。東京の靖国神社裏手の母の家で、本郷が軍服の肘を張って最後に「おい、石光、君子は交りを絶つも悪声を放たず、ということがある。お互いに謹慎しよう」と言って帯剣の音をひびかせて玄関を去って行った姿が、脳裡をかすめて消えた。それから二年後の二十八年七月、台湾遠征の時には、城壁爆破の決死隊を見殺しにした彼の戦いぶりを見、胸中で畜生!と怒鳴り、唇を噛んだことを覚えている。その時本郷は赤黒く腫れあがった顔でじっと私を睨んでいたことを忘れない。それ以来、彼の姿を一度も見なかったのである。
(中略)
「本郷、お互いに若気の至りで義絶したが、ここは戦場だ。もう二人とも分別のある年配だ。十年の義絶を解こうじゃないか」
「よし!解いてくれるか?ありがとう」
 彼は立ち上がって私と大袈裟に握手し、またも大粒の涙を流した。
「俺はどうも、この戦いで死ぬ予感がある。それも近々数日のうちだ。笑うな。死ぬ予感というものは確かにある。恐らく、そうなるだろう。死ぬ前に貴様に理解してもらわねばならんことがある。この十年、俺は重荷を背負って暮らして来た」
「何を言い出すんだ?久しぶりに会ったんだ。そんな話はやめよう。まあ座れ、今夜はゆっくり思い出話でもして、失った十年を取り戻そうじゃないか」
 私は酒を用意し、薄暗くなった部屋にランプを点(とも)した。コップが見当たらなかったので、部屋にあった飯盒の蓋に冷酒を酌んだ。二人は飯盒の蓋を差し上げて、お互いの健康を祝った。私はまだ泥んこの長靴を履き、汚れた合羽を着たままでいるのに気がついた。それを脱ぐ私を眺めながら本郷が言った。
「貴様は随分苦労したそうだな。貴様がロシアに出かけた後は、色々と手を尽くして消息を得ようとしたが駄目だった。最近になってある人から詳しく聞いた。軍籍を去ったというが本当か」
「本当だ・・・」
「辞めなければ、ならなかったのか」
「うん。後悔はしとらん」
「貴様は名誉を棄てた・・・俺は生命(いのち)を棄てる」
「・・・・・・」
「貴様の境遇も随分変ったろうが、この十年、俺の生活にも変化が多かった。だが、そんなことはどうでもいい。俺は生涯の終りに当って、願いが一つある。覚えているだろう。今から十年前、台湾の安平鎮で・・・」
 その時、この言葉を聞いた私の顔に不快の色が浮かんだのであろうか、本郷は敏感に覚って口を噤んだ。またも豪雨が降り始めて戸口に雨垂れの音が激しかった。本郷はだまって飯盒の酒をあおった。
「石光、聞きたくなかろうが聞いてくれ。こんままでは俺は死ねん。死んでも成仏出来ん」
本郷はまたも酒をあおった。
「俺は何も考えてはおらんよ。聞こうじゃないか」
 私は大して好きでもない酒を汲んで身構えた。
 激しい雨垂れの音に聴き入るように、本郷源三郎大尉は机に頬杖をついて、薄暗いランプを凝視した。
「・・・・・・」
私は十数年ぶりに彼と言葉を交え、絶交を解いたことがうれしかった。けれども幼年学校入学当時、十六歳の頃から際立って才気走っていた秀才本郷源三郎についての記憶と、今私の眼の前に飯盒の酒をあおって、じっと死を見つめている本郷源三郎大尉の姿が一つにならなかった。
-------------


『平等に憑かれた人々-バブーフとその仲間たち』
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/1/4130270.html
Babeuf
http://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois-No%C3%ABl_Babeuf
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注意書き

2009-02-23 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月23日(月)23時56分51秒

『石光真清の手記』を読んで、その文章があまりに現代的であることに驚いた人も多いと思いますが、これには以下のような事情があります。
(『望郷の歌』中p6)

-------------
一 故石光真清が秘かに綴り遺した手記は、明治元年に始まり、大正、昭和の三代に亘る広汎な実録である。これを公刊するに当って年代順に整理編集し、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の四著に分類した。
(中略)
七 四著、それぞれの書名、章題、区分はすべて手記によらず、また文体、会話、地名などは出来るかぎり現代風に改めた。
八 四著をなす手記とそれに関する資料は厖大複雑であり、もともと発表する意思で書かれたものではなく、死期に臨んで著者自ら焼却を図ったものである。その中には自分を他人の如く架空名の三人称で表したものさえ多く、その照合と考証に多くの年月と慎重な努力を要した。従って焼却された部分や脱落箇所の補綴や、全篇に亘っての考証は、編者(嗣子石光真人)が生前の著者から直接聴き正し、また当時の関係者から口述を得たものによって行ったほか、生前の著者を知る多くの人の協力によって、全容の完成を見るに至った。しかし事実を述べるに、なんらの作為を弄せず、私見もさし挿んでいない。
-------------

石光真清は明治元年(1867)熊本生まれで、文章は古風だっただろうし、しゃべり方も熊本弁が残っていたでしょうね。
それを子息の石光真人氏が「出来るかぎり現代風に改めた」わけです。
もっとも、方言や古風な話し方を残した会話部分も多々ありますので、石光真人氏がどのように「現代風に改めた」のかは、個別に確認する必要があります。
ちなみに石光真人氏は1904年生まれ、1975年没で、『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』 (中公新書)の著者としても有名ですね。
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まとめ

2009-02-22 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月22日(日)23時59分6秒

水野福子は満州で生きてゆくための経済的後ろ盾を探していた。
そこで、水野福子は自分を援助してくれる候補者の一人として石光真清を熱心に観察した。
水野福子にとって「支那人の密偵」につけまわされている石光真清は得体の知れない人間ではあったが、もしかしたらすごい大物かもしれないと好奇心を抱き、石光真清に対して最も効果的と思われる方法で接近し、また同じく最も効果的と思われる自己の来歴を語った。
その来歴がどこまで真実を反映しているかは、よく分からない。
しかし、結局のところ水野福子は石光真清のあまりの朴念仁ぶりにあきれて、距離を置いた。
水野福子にとって、石光真清と「安東県という片田舎の土木業者」は同じカテゴリー、同じレベルの人間であった。

一応のまとめは、こんなところですかね。
それと、水野福子は「帝国日本」の満州進出を肯定し、「帝国日本」の支配下で自己の「いのち」を充実させようとした人ですね。
とすると、小松裕氏の言われる「いのち」の観点からは、ずいぶん微妙な人物になりますね。

>Akiさん
>あの女傑
『「いのち」と帝国日本』には全く出てきませんね。
あまりに生命力に溢れる人は、小松裕氏の「いのち」の観点からは排除されてしまうようです。
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虚実

2009-02-21 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月21日(土)00時52分26秒

続きです。
話のトーンが変化して、予想外の方向に進んで行きます。(『望郷の歌』p173以下)

-----------
 海賊仲間から久々に離れて、安東県の日本旅館の畳にあぐらをかき、裸になって扇を使うと、内地の気分が甦った。女中に案内されて一風呂あびに手拭をさげて階下に降りると、廊下でばったり知った顔の女に出会った。女も声をあげて立ちどまり、私もハテ・・・と足をとめた。
 水野福子であった。奉天の金城旅館で隣室に泊り合わせ、私たちに探偵がついていると知らせてくれた女である。戦死した亡夫の遺骨が二箱帰って来たことから、ついに自分で確かめるために満洲に出発してきた女であった。私がその愛情の深さ強さに心打たれて涙を流し、戦争の過酷な現実を説いて帰国をすすめたが、再び奉天に現われたと旅館の女中から聞いたが、こんなところにいるとは思わなかった。
 私は風呂場ゆきをやめて水野福子を私の部屋に案内した。彼女は部屋の入口の障子に寄り添って座りこみ、眼に涙をたたえてうつむいた。まあまあと座をすすめたが動こうとしない。なにか子細があるらしく、やがて畳に身を投げて泣き出した。
なだめすかして事情を聞くと、昨年の十一月に奉天で私に説教されて、一応は日本に帰る気になり、この安東県まで来て、この旅館に泊ったのだそうである。ところがすでに路銀を費い果して無一文であった。数日後に宿の主人に事情を打ち明けて救いを求めると、最初は主人も怒って警察に突き出すと嚇したが、内地から来た理由を聞くと同情して許してくれた。身許保証人もなしに、この宿の女中として雇ってくれ、そのまま、ずるずると厄介になっているのだと言った。
「おかしいなあ・・・・昨年から僕は四度もこの宿に泊まったのに、一度も会わないなんて、広くもないこの宿でさ・・・」
と笑うと、女は当惑の色を現わして沈黙した。
「まあ、それはともかくとして、今からでも遅くはないから郷(くに)へお帰りなさい。旅費は私が出してあげる。こんな所に、まともな人間がまごまごしているものじゃない。そんなことをしていると、やがては人が相手にしてくれなくなりますよ」
「ありがとうございます。今までの行きがかりもありますので、この宿の主人が許してくれさえすれば、お力に縋って、身の落着き場所を決めたいと思います。相談して参ります」
と言って部屋を出て行った。
 私は手拭をさげて風呂場に行き、汗を流して夕食の膳についたが、水野福子は現れなかった。
顔馴染の給仕女に問うと、
「ちょっと宿の用事で町まで出かけました。もうじき帰るでしょう」
とニヤニヤ笑っている。これは何か事情があるなと感じたので、黙っていると、
「旦那はよほど前からご存じなんですか」
と言う。
「ご存じというわけでもないがね、奉天で初めて会ったんだよ。早く内地に帰れとすすめたら、本人も承知のようだった。こんな所にいるとは思わなかったさ」
「へえ・・・その時、切れなさったんですか」
「なに?切れた?冗談じゃない、そんな仲じゃないんだよ」
「へえ・・・」
と言って、女中は相変らずニヤニヤしていた。話が妙だし、本人も現れないので、女中相手に事情を聞いてみると、最初この旅館に無一文で泊って、女中に住みこんだまでは、本人から聞いた通りであった。だがその後にこの土地にいる土木業者の二号になって、今はこの旅館の一室に囲われているのだそうである。私がこの旅館に来るごとに、
「あの旦那に見つかると具合が悪いから・・・」
といって近所の宿に泊り、私がいなくなると、またこの宿に戻って来るのだそうである。そんなわけで、いつの間にか私が彼女の「前の旦那」になっていた。今日まで前の旦那が来ること四回、蔭で女中どものいい話の種になっていたのだそうである。
 この事情を聞いて女中と一緒に笑い合った。水野福子という女が亡夫を思う純愛の深さは類がないほど麗わしく、単身渡満するほど強くもあった。けれども現実の世は厳しくて、彼女を受け容れる余裕がなかった。今さら郷に帰れぬまま、流され、もまれ、さいなまれて、安東県という片田舎の土木業者の二号に成り下がったのである。これから先、どこまで落ちてゆくことであろう。
--------------

さて、最初に受けた印象とは異なり、水野福子はずいぶん嘘が多い人間であることはわかってきたのですが、では、いったいどこまでが嘘で、どこからが真実なのか。
石光真清は「亡夫を思う純愛の深さ」は疑っていませんが、これもどうなのか。
そもそも二つの遺骨の話は事実だったのか、それとも同情を惹くための作り話だったのか。

それと、まあ、「その4」で話が終わったと思った私も間が抜けているのですが、小松裕氏の「水野福子は、まもなく石光の前から姿を消し、その後どうなったかはわからない」という書き方もかなり変じゃないですかね。
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奉天・小西辺門

2009-02-20 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月20日(金)00時32分30秒

>筆綾丸さん
>カナダ人がひそかに誇りとしている
派手な大国の隣で地味に暮らすカナダ人のささやかな喜びですね。

>仮説
石光真清と水野福子が出会ったのは奉天の小西辺門近く、金城旅館という宿です。
そこから旅順へ行った石光真清は、暫くして海賊の親玉・丁殿中と一緒に奉天に戻ってきます。(『望郷の歌』p148以下)
水野福子が女実業家として成功していた、なんていう展開になれば、私の仮説もそれなりに説得力が出そうですが、なかなかそんなにうまくは行かないようですね。

--------------
 明治四十年一月十八日、私と本間徳次と丁殿中は旅順を出発した。海路は危険だという丁殿中の意見に従って、奉天に出てから安奉線に乗り換える道を採った。私と本間徳次にとっては屈託のない旅行だが、丁殿中にとっては危機に満ちた脱出であったから、丁殿中を大商人らしく変装させた。美服を纏い、長い八字髭を垂らすと、青白い小男だが中々立派になった。この姿で二等車に乗りこみ、そのうしろから番頭姿の私と本間徳次が鞄をぶら下げて続いた。この変装のお蔭かどうか知らないが、翌日の夕方、無事奉天駅に着いた。
「もしもし、旦那、石光の旦那・・・」
 駅頭で呼びとめられてギクリとした。見れば、なんのことはない、先に長逗留した金城旅館の客引きであった。
「旦那、奥さんと御一緒じゃないんですか」
「奥さん?そんな者はおらん」
「おかしいな、確かに旦那の跡を追って行ったんですがな・・・旅順でお会いになったでしょう、例の年増美人と・・・」
「何を言うとる、そんな者は来やせん。今日は大切なお客様をお連れした。失礼のないように案内せい」
 客引は、悠然と胸を張っている商人姿の丁殿中に気がついて、急に低く頭を下げた。
「旦那、確かに旦那の所に行ったんですぜ。変だなあ、夫婦約束は出来ていると言ってましたがなあ、どうして行き違いになったんだろう」
と客引は私たち三人を案内しながら、また同じことを言っていた。
「ご親切にありがとう。だが心配せんでいいよ、あれっきり何の縁もないんだから」
 この会話を聞いて本間徳次がニヤニヤ笑った。日本語の判らない丁殿中は、胸に腕を組んで悠々と私の前を歩いていた。
 無事金城旅館に落着き、丁殿中を一番よい部屋に一人だけ入れて、私と本間徳次が隣室に陣取った。顔馴染みの女中が入って来た。
「おやまあ、奥さまは・・・」
とまた同じ質問である。
「・・・・・・・・」
「お連れじゃないんですか」
「馬鹿なことを、お前までがそんなことを言いおる」
「そうですか、違うんですか。へえ、実はね、あの御婦人はね、国へ帰ると言って出かけたでしょう、そして旦那が出発してからすぐでしたよ、宿に戻って来ましてね、旦那の行先を尋ねて、どうしても会わなければならない約束があるからって旅順に出発したんです。同宿している間によくあることですからね・・・出来たんだとばかり思っていました」
 本間徳次がプウッと吹き出した。私も笑ったが、何か笑い棄ててしまえないようなものが、胸の底に残った。
--------------

この後、「海賊稼業見習記」を挟んで、また水野福子に言及する箇所があります。

奉天小西辺門
http://www.lib.hokudai.ac.jp/faculties/slv/gall/houten/35-1.html
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茶碗を投げつける女

2009-02-18 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月18日(水)23時13分34秒

ま、私も発想はワンパターンで、認識する側と認識される側との知的能力の差に注意せねばならない、ということをいつも考えているんですね。
ちょうど頭の程度の低い西村検事が自分を佐藤優氏と対等の知性の持ち主だと思って調子に乗ってしゃべりまくっていたら、重要な秘密情報を全部佐藤優氏に吸い取られてしまっていたように、石光真清と水野福子との間でも、石光真清側に大変な誤解があったのではないか、「世間知らずの素朴」な女のはずの水野福子の方がむしろ頭が良くて、最初は丁寧に扱ってもらえたけれど、結局、この程度の頭の男を相手にしていても仕方ないと見放されてしまっていたのではないか、というのが私の一応の仮説でした。

『望郷の歌』を普通に読んでいると、石光真清の名文に感動させられて、この人は本当に頭の良い人だなあ、と自然に思ってしまいます。
実際、石光はロシア語・中国語に堪能で、記憶力は驚異的に優れており、文章のみならず弁舌の才能にも恵まれ、ホントにいいとこだらけの人なんですが、ただ、この人には非常に変なところもあって、個人の経済的活動においては頭の良さは微塵も発揮されず、失敗に次ぐ失敗を重ねるんですね。
わざわざ自分から不幸を選ぶ習性もあって、せっかく田中義一大佐(後の陸軍大将、首相)に関東都督府陸軍部(後の関東軍司令部)の通訳の仕事を斡旋してもらったのに、つまらない面子に拘って、わずか1時間で辞表を出してしまうような無茶苦茶な面があります。
そして、その後、危なっかしい事業に次から次へと顔を突っ込んで、結局、水野福子に会ったときにこの人が何をしていたかというと、憲兵隊から追われていた渤海湾の海賊の首領のために逃亡の手伝いをしてあげたり、非合法の仕事を合法的にみせかけるためのカモフラージュみたいなことを本気でやろうと思って動き回っていたんですね。
日本軍との人脈を利用して、海賊の顧問、高級用心棒みたいな真似をしていた訳です。
海賊の秘密アジトを訪問する際の記録など、非常に優れたルポルタージュで、面白いことは面白いのですが、やっていることは出鱈目なんですね。
他方、水野福子は、

(1)長年諜報の世界に生きてきた石光真清や本間徳次すら気づかないほど巧妙に行動していた密偵を見破る特別な観察力を有する。
(2)遺骨の箱が二つ来たとたん、礼拝も焼香も止めるほどサッパリした気性の持ち主。
(3)二つの遺骨の箱をまとめて風呂敷包みにして、たったひとり役場に乗り込み、村長はじめ村の有力者に談判する行動力を有する。
(4)家財を全部売り払って、たったひとり、日露戦争間もない時期の満洲に行く度胸を持つ。
(5)領事館の役人の対応が気に食わないと、机の上の茶碗を投げつける剛毅かつ凶暴な性格。

しみじみしたお話の部分を取っ払って水野福子の行動だけを見ると、この人はまるで田中真紀子のような女ではないか、という感じがします。
そして、真紀子の立場から真清を眺めると、最初のうちこそ深い見識と洞察力を感じさせる謎めいた男のように思えたものの、暫く話してみたら平凡で常識的な意見しか言わない退屈な人間、として愛想をつかされてしまったのではないか、と想像してみた訳です。
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寄り添いたがる人々

2009-02-17 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月17日(火)00時50分33秒

>筆綾丸さん
簡単な話のようにみえて、何か変な感じがするでしょう。これ。
実は私、『「いのち」と帝国日本』の宣伝文に出てくる「『生』の実相に徹底的に寄り添う」といった類の表現が非常に気持ち悪くて、「寄り添う」ことが歴史学者の仕事なのだろうか、そもそも「寄り添う」ことなど歴史学者にできるのだろうか、という疑問をかねてから感じていたんですね。
そこで、小松裕氏は、本人の主観的な意図はともかく、実際には全然、「『生』の実相」に「寄り添」ってなんかいないんじゃないの、という批判の一例として水野福子を検討してみようかな、と思ったのですが、実は私も少し困っております。
というのは、水野福子の話が「その4」までで終わっていたら、私も一応の見解を書くつもりで仮説を用意していたのですが、実は少し離れた場所にまだ続きがあったんですね。
そして、その続きの部分は、私の仮説とあまりしっくりこないのです。
その続きを紹介しないと不親切かつ不誠実なので後で載せますが、今日はちょっと疲れたので早めに寝ます。

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帝国日本の陰で、懸命に生きた人びとの姿。
日清戦争に始まり、10年ごとに繰り返された対外戦争で失われた無数のいのち。帝国日本の発展の陰で犠牲にされたこうした人びとの「生」の実相に徹底的に寄り添うことで、国益や国家目的の名の下に、人びとのいのちに序列をつけ、一方は優遇し一方は抹殺するという、いのちを選別し、管理し、支配し、動員してきた国家の実態をあぶり出す。さらには、この時代の「いのちを生き抜いた」人びとの言葉に耳をかたむけ、具体的には、兵士が見た戦争像や米騒動の実態、アジア諸国の人びととの関係、つまり戦争・デモクラシー・アジアの三つの視角から新たな近代史像を掘り起こし、いのちの基盤が弱まりつつある現在社会を考える手だてとする。
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http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784096221143
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水野福子-その4

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)22時20分57秒

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 水野福子の身の上話を聞いているうちに、私の眼頭も熱くなった。愛情というものは、このように深く、また強くもあり得るものかと、不思議な未知の世界を見せられたように感じた。世間知らずの素朴さ、打算を離れた純粋さ、犠牲を厭わない、ひた向きな強情さに、驚異を感じないではいられなかった。
「あなたの御主人に対する深い愛情を羨ましくも思い、また、ご同情もしますが、私も守備隊長と同じ意見です。戦争というものは本当にひどいものですよ。お帰りなさい。帰ってご主人の両親に尽くしてあげるのが、ご主人の遺志ではないですか」
「皆さんがそうおっしゃるなら、考え直してみましょう。お金も心細くなりましたし・・・・」
「とにかく帰国して、落着いてからゆっくり考えてみることですね」
「・・・・そうしましょう」
 こう言って水野福子は自分の部屋に引揚げた。翌日、私の部屋にやって来たが、考えは前と少しも変っていない。
「村を出ます時に、親も兄弟も親戚も不同意でした。母は泣いて思いとどまるようにと縋りついていましたのに、私は振り切って出て来たのです。領事館で笑われ、守備隊で説諭され、何一つ手懸りも掴めずに郷に帰るわけにはいきません。このざまで帰ってごらんなさい。村の人から馬鹿の標本にされ気違い扱いされて、結局はまた村を出なければならないでしょう。私はもう帰りません」
と決意のほどを示した。これを傍らで聞いていた本間徳次が、あわてて防戦に乗り出した。
「水野さん、そりゃ無理ですよ。僕等も満洲の風来坊でね、計画したことは次々に壊れてしまう。僕等自身が迷っているのに、あなたまで救えませんよ。薄情者だと思うでしょうが、ここは貴女も馬鹿になって、目をつぶってお帰りなさい。村の衆は同情しますよ。馬鹿にしたり笑ったりはしませんよ。帰るのが一番ですなあ」
 水野福子はだまって聞いていたが、ややあってから、
「・・・・帰りましょう」
と言って座を立った。
 その翌日、水野福子は黙って宿から姿を消した。
「本間君、あの女は宿を引き払ったが・・・・ありゃあ郷へなんか帰りゃせんぞ、あの様子ではねえ・・・・」
と私が言うと、本間徳次も、
「そうかも知れませんなあ」
と言って、ごろりと横になった。私も座蒲団を折って枕にした。意地を張って満洲に来て、郷に帰れなくなった女の行く末を頭の中で追っているうちに、いつしかそれが私自身の孤独な姿になっているのを知って起き上った。
 傍らの本間徳次は眼を閉じたまま動かなかった。
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これで水野福子の話はお終いです。
さて、この話をどう読んだらいいのか。
「いのち」の歴史家 ・小松裕氏のように、「兵卒の遺骨をぞんざいに扱った国に身をもって抗議し、自分の意思で生きようとした女性」と捉えるのがオーソドックスな解釈と言えるのかもしれませんが、少し釈然としないものも残ります。
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水野福子-その3

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)21時50分31秒

続きです。

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 奉天へ来てから、すぐ戦死地を探しました。公報に三十八年三月八日李官堡付近の戦闘で戦死と書いてありましたから、支那人の案内人を雇って李官堡という所に行ってみました。行ってみたところが、ニ、三軒の百姓屋と畑があるだけで、戦いの跡など何もないのです。いたって平和な農村で、髪を振り分けて編んだ小さい女の子が、綿入りの綿服に着ぶくれて、不思議そうに私を眺めているだけです。この農村をひと巡りしましたが、墓標らしい一本の記念物も見つけ出せずに帰って来ました。
 これでは駄目だと思いましたので、当てにしていませんでしたが、領事館を訪ねて満洲に来た目的を話して援けを請いました。ところがどうでしょう。役人がにやにや笑って相手にもならないのです。私はかっとなって、机の上にあった茶碗を投げつけて帰りました。辺りにいた男たちの笑い声がまだ耳についています。くやしくて堪りません。私は気違いでしょうか。それとも、あの男たちが気違いなのでしょうか。宿に帰ってからも口惜しさがこみ上げて来て、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
 最後の手段として、この地の守備隊長に会って相談してみようと訪ねてゆくと、快く会ってくれました。
『御心中はお察しします。ですが奥さん、戦争というものは、奥さんのお考えになっているようなものではないのですよ。そんなことを遺族の方々にお話しするに忍びないのですが、戦争というものは残酷な、無惨なものです。お互いに恨みも憎しみもない者同士が、殺すか殺されるか、そんなことすら考える暇もなく、敵も味方も折り重なって死んでしまうのです。砕け散って肉片になっているもの、黒焦げのもの、腐って発見されるもの、敵中に飛びこんで、敵の手で埋葬される者、発見されずに支那住民の手で始末される者、それはそれは千差万別で、実のところ、氏名が確認された者は幸福者ですよ。それに、御主人の亡くなられた奉天前面の戦いは十日間も各所で続けられたので、戦場の整理に手間取り、確認できない者が大変多かったのです。人の霊魂というものは、何も遺骨につきまとっているものではないでしょう。あなたの心の中に生きておられると思います。そう信じて冥福を祈ってあげて下さい。御主人の霊魂はあなたの行く末を案じていますよ。早く郷へお帰りなさい。奉天には人間に化けた狼どもが、うろうろしています。早くお帰りなさい』
 こう諭されて私は泣きました。戦争というものは、そんなにひどいものでしょうか。そんなにひどいものだと知ると、その中で無惨に死んで行ったあの主人(ひと)が、いたわしくて、いとしくてなりません。この年になって、娘のようなことを言うのは恥かしいと思いますが、私の気持ちは今でも変りございません。ひょっとしたら・・・・生き残っていて、この辺の街角でばったり会わないでもないと、夢のようなことを考えて、あてもなく歩くこともあります。時々、ふと冷静になって、悪女の深情け、女の執念などという厭な言葉が冷たく背筋を走ることもありますが・・・・本当にそうかも知れません」
------------

李官堡の戦い
http://www.z-flag.jp/blog/archives/2008/03/post_581.html

干洪屯三軒屋附近の激戦
http://ww1.m78.com/sib/kankyoton.html
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「よろしゅうございましょうか」

2009-02-15 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月15日(日)11時11分54秒

>筆綾丸さん
戦死した場所は、戦死の公報で一応特定されているようです。
後で続きを載せます。
『石光真清の手記』は本人の遺稿を息子の石光真人氏が編集した際に若干の加筆改変があるそうなので、意外に取り扱いが難しい史料なのかもしれないですね。
水野福子に関して気になるのは、その語り口が明らかに高崎近郊の農家の人のものではないことです。
何らかの事情で本人がそもそも北関東方言で話していなかったのか、石光真清が記憶を整理した時に変わったのか、それとも編集時に何か改変があるのか。
水野福子に関する詳しい事情が分かれば、逆に『石光真清の手記』の記録としての価値を判断する材料になるのかもしれませんね。

国会図書館・石光真清関係文書
http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishimitsumakiyo.html
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水野福子-その2

2009-02-14 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月14日(土)11時34分22秒

続きです。

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「私は群馬県高崎市の在に住む農家のもので、水野福子と申します。主人は水野八次郎といって、明治二十九年の徴兵で高崎連隊に入り、三十二年に除隊しました。除隊後に親から田畑を分けてもらって分家し、私と結婚したのです。愛情も深く野良仕事にも熱心で、これといって不幸はなかったのですが子供が出来ません。これがただ一つの不足でした。
 ところが大きな不幸というものは突然来るものですね。明治三十七年の二月に第一師団に動員令が下って村から二人召集されましたが、その年の八月に主人も歩兵第十五連隊に招集されました。前の晩には村の衆が集まって大変な歓送会でした。宴が終ってから主人は私に、こんどの戦争は新聞でも判るように大変な戦争のようだ。下手をすれば日本の国が亡びてしまう。露助の奴が国に暴れこんで来るかも知れないんだ。俺も生きて帰ることは出来ないだろう。戦死と聞いても取りみだしてはならんぞ、いいか。これが二人の持って生まれた運命だ。俺は今日までお前に何一つ不平がなかった。ありがとうよ。ただ気の毒でならないのは、子供がないことだ。俺の戦死した後、お前は一人で暮らさなければならないねえ・・・・と言って涙ぐみました。私も主人に縋りついて泣き明かしました。
 明治三十八年の三月、奉天会戦大勝利の報が村に伝わったのが十日でした。村の衆は鎮守様に集まってお礼参りをし、万歳の声が夜半まで続きました。片輪でもよいから帰ってもらいたい・・・・神様、それが、かないませんなら腕一本でも・・・・と心を籠めて祈りましたのに、三月の二十五日に戦死の公報が村役場から届きました。
 私は幾度か死のうと思いました。父や母や兄弟から慰められて、毎日仏壇の前に座り込んでおりました。遺骨が白木の箱に納められ、白布に包まれて帰って来たのは五月でした。村長を始め、村の代表が大勢集まってお葬式を出してくれました。ところが、どうしたことでしょう、それから一ヵ月後に、また主人の遺骨が帰って来たのです。
 私の欲しいのは生きている主人です。遺骨を幾箱貰ったって何になりましょう。それにしても、何というひどいことをするんでしょうねえ。私はその日から礼拝も焼香も止めました。得体の知れない骨灰など要りません。私は二つの遺骨の箱をまとめて風呂敷包みにして、自分で役場に返しに行きました。役場では村長を始め皆の衆が大変同情してくれましたが、どうしても遺骨を引き取ってくれないのです。二つのうちの、どちらかが間違いであろうから、問合せの返事のあるまで、大切に祭っていてもらいたいと言うのです。私はまた遺骨の箱を二つ提げて帰宅しました。押入れの奥に納めて、もうお祀りをする気にもなれません。
 それからまた一ヵ月後のことです。役場から取調書が届けられました。
 ──水野八次郎君の遺骨につき取調べ候所、其当時の取扱者判明せず、正確な事は申上兼ね候も、火葬後、灰骨を袋に納めたる際、水野君に付しありし表標を除去せざりしため、未だ採取せざるものと誤認し、他の取扱者が残骨を採取したるものと思われ候。両方共に水野君の遺骨たることは確実と思われ候に付、左様御取扱い下され度候──。
 なんという馬鹿な、情けないことでしょう。私はくやしくて、くやしくて、泣きました。私の主人は一兵卒です。ですがお国のために死んだことは、偉い将校さんたちと同じではありませんか。そうでしょう。将校さんは奥さんにとって大切な御主人でしょうが、一兵卒でも私にとっては大事な夫です。それなのに、私の主人は犬や猫の死体と同じように始末されたのです。くやしくて、くやしくて・・・・ようし、そんなことをするんなら、もう私はお国の世話にはならない、お父っつぁんやおっ母さんには済まないけれど、家と田畑は姑に返して、家財は全部売り払って満洲に飛び出して来たのです。必ず必ず自分の力で主人の遺骨を探し出して見せると、心の中で誓って出てきたのです。探し出せるものではないかも知れませんが、主人の埋まっているこの満洲に私の骨を埋めることが出来れば満足です。私はもう郷(くに)には帰りません。
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『高崎市史』に何か参考になるような記事がないかなと思ってパラパラ見てみましたが、特にないですね。
人名索引でも水野姓は市会議員一人だけでした。
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男装の麗人

2009-02-13 | 小松裕『「いのち」と帝国日本』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 2月13日(金)23時56分3秒  

>筆綾丸さん
>大正天皇と京極派の関係
いえいえ。
関係というより単なる年表程度のものですが、きちんと調べれば何らかの接点が出てくるのかもしれませんね。

>原采蘋
この人も女傑ですね。

「うりざね顔の美人で大女、酒豪で、男装帯刀し一人旅に出、一流の文化人の中でも臆することなく朗吟し、艶聞の噂も多かった」
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo39.htm

>日田金
これは知りませんでした。
日田は往時の豊かさを感じさせる街ですね。
普通の舗装道路になっているのが少し残念で、石畳にでもすればより風情が出そうです。

http://takahira.cool.ne.jp/furuimatiB/kyuusyu-okinawa/hita-mameda.htm
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