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天皇陛下の腹話術?

2016-07-30 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月30日(土)10時06分59秒

昨日のNHKニュースで、来月8日くらいに「天皇陛下がお気持ちを表される」だろうという予測が報じられましたが、私はどうもNHKのやり方が情報操作めいているように感じられて、薄気味悪いですね。
この前、NHKの「生前退位」ニュースのときにも書いたように、私は、実質的に天皇に皇室典範改正の発議権を認めるような対処は、天皇に「国政に関する権能」を認めることになってしまい、憲法違反ではないかと思っていますが、これは別に特異な見解ではなく、普通に憲法の一般的な教科書を読んだ人は同じような結論になるはずです。

NHK天皇退位報道への違和感

昨日のNHKニュースでも、

------
象徴天皇制のもと、天皇は憲法の第4条で、「国政に関する権能を有しない」、つまり、国政には関与しないと定められています。一方で「生前退位」の実現には、皇室典範の改正や特別法の制定など、国会における法律的な措置が必要になってきます。天皇陛下が退位の意向を公に表明されれば、政治的な発言と受け取られかねず、制度の改正に直結すれば、憲法との整合性も問われかねません。
このため、今回のお気持ちの表明では、天皇陛下は「退位」という言葉や直接的な意向の表明は避けられる見通しです。


と述べていますね。
そして、このNHKニュースが正しいのであれば、今後、天皇陛下が公式に発表されるであろう表現には憲法違反を疑わせる字句は一切ないけれども、しかし、国民は陛下のお言葉を文字通り素直に受け取ってはならず、その背後には実際には「生前退位」のご意向があり、従って陛下が「皇室典範の改正や特別法の制定など、国会における法律的な措置が必要」と考えられていることを理解しなければならないことになります。
一連のNHKニュースにより国民が天皇の言葉を素直に受け取れない、素直に受け取ってはならない状況が徐々に作り上げられている訳ですが、こうした情報環境は国民と皇室の関係として健全なものなのですかね。
天皇陛下の腹話術、といったら不謹慎ですが、国民が天皇陛下のお言葉を素直に受け取れず、どこから出ているかも分からない声にも耳を傾けなければならないとすれば、それは決して健康的な状況ではなく、現憲法下でそれなりに安定した皇室制度を傷つける可能性が大きいのではないか、と私は懸念します。

>キラーカーンさん
亀レスですが、私はキラーカーンさんと異なり、天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」(憲法1条)ものである以上、正規の憲法改正手続きを経て主権者である国民の意思が示された場合には、天皇制度の廃止も可能、即ち憲法改正の限界を超えるものではないと考えています。
また、現憲法下で「治天」などという地位を論じる余地は全くなく、無意味な混乱を招くだけと思っています。
私とキラーカーンさんの見解を混同する人は実際にはいないでしょうが、以前、某歴史研究者が私と筆綾丸さんの見解をごちゃ混ぜにして妙な批評をし、迷惑に感じたことがあるので、天皇という微妙な問題を扱っていることも考慮し、念のため、私がキラーカーンさんに賛成している訳ではないことを述べておきます。

ラウンド君の教訓

※キラーカーンさんの下記二つの投稿へのレスです。

譲位等々 2016/07/15(金) 23:41:54
確かに、純砲理論的には

>>実質的に天皇に皇室典範改正の発議権を認めるような対処は、天皇に「国政に関する権能」を認めることになってしまい

になってしまいます。
ただ、逆に、皇室典範については

皇族の身分に関することだけに「臣下」の国会議員が改正を議論すること自体が不敬

という心理状態に陥っている人も、ツイッターランドでは見受けられますし、
「当事者」である天皇・皇族の意向に反する典範改正議論ができるのか
という実際的な議論もありますので、

皇室典範が「法律」であることの妥当性についても疑問なしとはしません
皇室典範は「宮内庁令」とした方がよいのかもしれません

憲法的には摂政又は国事行為の委任で事足りるので「退位」が唯一絶対の解ではないのですが、
「太上天皇」として何らかの活動を行いたいという希望がおありなのであれば
天皇陛下自身の「(身心)の責任能力」がないことが前提となる摂政や国事行為の委任は
都合が悪いということになるのでしょう。
(太上天皇としての活動ができるなら、摂政や委任の必要はないということになります)

ネットのどこかで見ましたが今上陛下限定の「特別措置法」という方法もあるという気もしてきました。

建前的には、宮内庁長官・次長のように、「陛下の発言」の存在を否定して「一般論」として
皇室典範改正議論を進めるという方策を採らざるを得ないでしょう。

個人的には、皇室典範のみならず、
1 国事行為、公的行為、私的行為の整理(7条解散の明記、「総選挙の告示」という誤字の訂正を含む)
2 憲法尊重義務を天皇、摂政だけではなく、皇族を含める
3 皇位継承件を有する皇族が絶えたときには、最近親の「旧皇族」およびその男系子孫に継承
4 太上天皇の位置づけ
等々、この際に憲法まで改正したほうが「美しい」法体系になるとは思いますが

追伸(駄レス)
>>呉の海軍工廠における武蔵の竣工式
文中にあるように、武蔵は三菱長崎での建造なので、竣工式は三菱長崎ではという気がします
(一番艦の大和は呉工廠での建造でしたが)

>>艤装員長
艦艇が艤装段階になれば、乗組員要員は艤装員として、竣工に備えます
ということで、一般的には、艤装員長になれば、そのまま「初代艦長」に横滑りします。

諸々 2016/07/19(火) 00:16:14
>>その部分を変更するのであれば、本格的な憲法改正の問題になってしまいますね。
「なしとはしない」というもって回った表現になったのは、まさにそういうことなのですが・・・

>>天皇に関する第一章は国民主権の裏返しの問題ですから、
ということで、象徴天皇制の改正は 「憲法改正の限界を超える」 というのが個人的見解です
(憲法学上は、「天皇制の廃止は憲法改正の限界内」というのが「定説」ですが、
 それは、憲法学会内の「反天皇制」という「空気」を反映しているのではないかと推測しています)

比較憲法上
「国政に関する権能」がなくても、君主や元首であるの明らかなのにもかかわらず
天皇が君主(元首)か否かは「定義による」とするのが、憲法学会上の「定説」となっているのは
「天地がひっくり返っても」天皇を、君主とも元首とも呼びたくないという
反天皇制イデオロギーという憲法学会の「悲痛な叫び」であると個人的に解釈しています。

>>上皇が係る政争
譲位により、天皇と治天の君が分離されるとなれば、興味深い展開になります。
譲位が認められていない現行法制では

天皇=治天

となるのでしょうが、現行憲法上、皇室の長は何ら規定がないので

天皇≒治天

となっても、憲法上は許容される可能性があります
で、皇位継承規則と治天継承規則とが異なっていても、憲法上許容される可能性があります

>>野心的な天皇が退位して政治運動に身を投じ、総理大臣になったら困る
ブルガリアでそんな話があったような・・・

そもそも、譲位の習慣自体が「ガラパゴス」的継承だったのが、
「ジャパンオリジナル」の「国政に関与しない君主」という象徴天皇制が、
第二次大戦後の「立憲君主制」のスタンダードとなったから、
他国でも譲位が行われるようになったといえます。

(『英国王のスピーチ』でも、「前国王が健在の中即位した【初の】英国王」というせりふがありましたから)

日本国憲法の条文で、世界が手本にしたのは、「第9条」ではなく、
【象徴天皇制】だったという、「護憲派」からすれば、【あってはならない】現実だったわけです。

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ぼちぼちと。

2016-07-28 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月28日(木)09時58分9秒

突然、今年に入って二度目の掲示板休暇に入ってしまいましたが、八月に入ったら再開するつもりです。
つまづきの石は「国家神道」で、私の場合、掲示板での投稿は特定のテーマについて6割か7割くらい見通しがついたと思えた段階で始めると、その後も快調に進むことが多いのですが、「国家神道」についてはあれこれ読んでいるうちに自分なりの結論が出てしまって、掲示板への投稿にイマイチ新鮮な気持ちで取り組めません。
また、少し燃え上っていたライシテ研究熱は、『中央公論』2015年12月号の宇野重規・小熊英二対談を読んで消えてしまったのですが、考えてみれば、これは宇野氏のような中間解説者を介さずにフランスの思想家に直接当たればよいだけの話なので、マルセル・ゴーシュの『民主主義と宗教』(伊達聖伸・藤田尚志訳、トランスビュー、2010)などを少しずつ読んでいるところです。
それと、今まで掲示板ではあまり触れていませんが、少し前から日本の近代キリスト教受容史の勉強をしていて、群馬県にはけっこう良い材料があることに気づき、大濱徹也氏の『明治キリスト教会史の研究』(吉川弘文館、1979)などを手掛かりに資料を集めています。
といった具合で、別になまけている訳ではないのですが、直ぐに投稿に結びつくものもあまりなくて、何となく掲示板から遠ざかっていました。
そろそろ動き出します。
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『日本立法資料全集1 皇室典範』

2016-07-18 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月18日(月)11時41分9秒

芦部信喜・高見勝利編『日本立法資料全集1 皇室典範』(信山社、1990)という本を入手し、パラパラ眺めているのですが、けっこう面白いですね。
特に宮沢俊義の「天皇退位論」に載っていた南原繁の貴族院における質疑応答は興味深いです。(p385以下)

「平価切下げ」と「陛下切下げ」

1946年(昭和21)12月16日、まず、国務大臣男爵幣原喜重郎君が登壇し、「吉田総理は一両日来少し不快で引き籠つて居りますので、只今上程に相成りました皇室典範案に付きまして、私から其の提案の理由を御説明申し上げるやうにと云ふことであります」とのことで、簡単な提案理由の説明があります。
ついで副議長・伯爵徳川宗敬君が「質疑の通告がございます、佐々木惣一君」と佐々木惣一君に登壇を促し、佐々木君は上下二段組で11頁分ほど質問し、これに幣原君と国務大臣金森徳次郎君が回答します。
その回答に満足しない佐々木君は、少し遅刻したらしい議長・公爵徳川家正君の許可を得て再登壇し、退位について質問しますが、その途中で、議長の「質問の範囲で、御批判でなく質問の範囲で……」という発言があり、〔「簡単、降壇」と呼ぶ者あり〕という状況で質問を打ち切ります。
そして、次に南原繁君が登壇します。
南原君が上下二段組で6頁分くらい質問すると、幣原君がインフレがひどくなった場合の平価切下げ云々の回答をし、ついで金森君が退位規定が存在しない点について若干丁寧な回答をします。
そして更に国務大臣田中耕太郎君が登壇し、更に丁寧な回答をします。
その後、議長の許可を得て南原君が再登壇し、幣原君のインフレ云々発言に苦言を呈し、金森君に不満を述べるも、「田中文相は最後にさすがに此の問題を深刻に、私の問題を考へられて、道徳的問題と関連しまして、此のことの御答弁があつたことは私は稍々満足の至りであります、併しながら……」と続け、これから激論が始まるのかなと思いきや、「それ以上は意見の相違もございまするし、私は此の本会議の礼儀を重んじて私の質疑は之を以て終りと致します(拍手)」とのことで、意外とあっさり終わってしまいますね。
さすがに議事録には宮沢俊義が描写する、南原君が<「大臣返事は、な、な、なんと!」とりきみかえっていた>という雰囲気は再現されていませんが、宮沢君も佐々木・南原君と同じく勅選の貴族院議員として、南原・幣原・金森・田中君のやりとりを実際に見ているはずなので、宮沢君の若干シニカルな性格を差し引いても、南原君の幣原君非難は相当厳しい調子ではあったのかなと想像します。

>キラーカーンさん
>皇室典範が「法律」であることの妥当性についても疑問なしとはしません

その部分を変更するのであれば、本格的な憲法改正の問題になってしまいますね。
天皇に関する第一章は国民主権の裏返しの問題ですから、収拾のつかない大議論に発展しそうです。
ちなみに1946年4月、憲法改正草案が国民に公表される前に当時の枢密院官制によって枢密院で諮詢する手続きがとられた際に、美濃部達吉顧問官と入江法制局長官の間で、次のようなやり取りがあったそうです。(p8)

------
美濃部顧問官 皇室典範は法律の一種なりといふことに対しては疑あり。法律第 号として公布せらるるか。然らば皇室典範の特質に反す。皇室典範は一部国法なるも同時に皇室内部の法にすぎぬものあり。此の後者に天皇は発案件〔権〕も御裁可権もないことはおかしい。普通の法律とは違つたものである。天皇が議会の議を経ておきめになることにせぬと困る。

入江法制局長官 内容は現在の皇室典範がそのまゝと考へぬ。将来は国務に関する事項のみとし度い。内部のことは皇室自らおきめになるとよいと考へた。

美濃部顧問官 然らば皇室典範といふ名称はやめぬといかぬ。この名称は皇室の家法といふべきものなり。憲法と合併してその一部にするか普通の法律とすべし。
-------

>筆綾丸さん
>法改正にだらだらと時間をかけるふりをして

今上陛下は国民の多くに敬愛されているので、今後、正式に何らかの意思表示があった場合には、さすがに誠実な対応をしないとまずいんじゃないですかね。
個人的には皇室典範の摂政の規定を若干変えるだけ、というのが一番良いのではないかと思っています。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿に対するレスです。

譲位等々 2016/07/15(金) 23:41:54(キラーカーンさん)
確かに、純砲理論的には

>>実質的に天皇に皇室典範改正の発議権を認めるような対処は、天皇に「国政に関する権能」を認めることになってしまい

になってしまいます。
ただ、逆に、皇室典範については

皇族の身分に関することだけに「臣下」の国会議員が改正を議論すること自体が不敬

という心理状態に陥っている人も、ツイッターランドでは見受けられますし、
「当事者」である天皇・皇族の意向に反する典範改正議論ができるのか
という実際的な議論もありますので、

皇室典範が「法律」であることの妥当性についても疑問なしとはしません
皇室典範は「宮内庁令」とした方がよいのかもしれません

憲法的には摂政又は国事行為の委任で事足りるので「退位」が唯一絶対の解ではないのですが、
「太上天皇」として何らかの活動を行いたいという希望がおありなのであれば
天皇陛下自身の「(身心)の責任能力」がないことが前提となる摂政や国事行為の委任は
都合が悪いということになるのでしょう。
(太上天皇としての活動ができるなら、摂政や委任の必要はないということになります)

ネットのどこかで見ましたが今上陛下限定の「特別措置法」という方法もあるという気もしてきました。

建前的には、宮内庁長官・次長のように、「陛下の発言」の存在を否定して「一般論」として
皇室典範改正議論を進めるという方策を採らざるを得ないでしょう。

個人的には、皇室典範のみならず、
1 国事行為、公的行為、私的行為の整理(7条解散の明記、「総選挙の告示」という誤字の訂正を含む)
2 憲法尊重義務を天皇、摂政だけではなく、皇族を含める
3 皇位継承件を有する皇族が絶えたときには、最近親の「旧皇族」およびその男系子孫に継承
4 太上天皇の位置づけ
等々、この際に憲法まで改正したほうが「美しい」法体系になるとは思いますが

追伸(駄レス)
>>呉の海軍工廠における武蔵の竣工式
文中にあるように、武蔵は三菱長崎での建造なので、竣工式は三菱長崎ではという気がします
(一番艦の大和は呉工廠での建造でしたが)

>>艤装員長
艦艇が艤装段階になれば、乗組員要員は艤装員として、竣工に備えます
ということで、一般的には、艤装員長になれば、そのまま「初代艦長」に横滑りします。

desire to abdicate 2016/07/17(日) 14:51:46
手塚正己氏の『軍艦武蔵』を眺めてみましたが、艦内神社への関心はないようで、沈没時に神社や祭神がどんな運命を辿ったのか、という記述もないですね。
艦内神社は一番副砲後方の司令塔あたりにあったのだろうか、という気がします。よもや艦長室ではあるまい。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/07/102387.html
刊行予定の『戦艦武蔵ー忘れられた巨艦の航跡』にヒントがあるかどうか。著者の一ノ瀬俊也氏については何も知らないのですが。

http://www.bbc.com/news/world-asia-36784045
退位に関する外国の報道ではBBCのものが標準的で、
-------------
However, both palace and government sources say the Imperial Household Law would have to revised to allow for the abdication to take place.
A change to the Imperial Household Law, which stipulates the rules of succession, would require approval by Japan's parliament.
-----------
法改正への言及はありますが、
The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in the Constitution and he shall not have powers related to government.(天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。)
という条文には触れてないですね。
日本のお国柄からすると、法改正にだらだらと時間をかけるふりをして、陛下の容態の悪化を待って摂政を置き、崩御後、結局何もしないで現行の皇室典範でゆく、ということになりそうな気がします。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259545/index.html
昨夜のETV特集に、ポナンザ開発者の山本一成さんが出ていました。この人は理系なので、文章は下手なんだろうな、と舐めていたのですが、昨年の王座戦第四局の観戦記を読んで、認識を改めました。僭越ながら、佳い文でした。
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NHK天皇退位報道への違和感

2016-07-15 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月15日(金)11時32分5秒

一時は「この人は凄そうだ」とそれなりに燃え上っていた私の宇野重規熱も、『中央公論』(2015年12月号)での宇野氏と小熊英二との「対談 安保国会と官邸前デモは何を示したか 民主主義のこれからについて話そう」を読んで、すっかり冷めてしまいました。
私はデモ煽動家の小熊英二が本当に苦手で、あのだらしない髪型とどんより濁った目が全く駄目です。
坊主憎けりゃ袈裟まで、ではありませんが、小熊英二のような人と仲良くデモ談義をしている宇野氏からも暫く遠ざかっていたい気分です。
また、「国家神道」について本格的に論じ始めたらおそらく100投稿、もしかしたら200投稿くらい必要になるなあ、と思うと、なかなか踏み込めません。
ということで、いささか足踏み状態が続いていますが、天皇退位問題はちょっと面白そうなので、当面のツナギ的な感じで少しやってみようかなと思います。
さて、私は7月13日のNHK報道に最初から非常に違和感を覚えたので、聞いた直後にツイートした内容をこちらにも転載しておきます。

天皇陛下 「生前退位」の意向示される
7月13日 19時00分
------
現在の皇室典範は「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(4条)となっているので、生前譲位を行うためには皇室典範の改正が必要だなあ。ちなみに明治憲法下と異なり、現行憲法下では皇室典範は普通の法律。

皇室典範16条2項、「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」を改正して摂政を置く場合の要件を緩和し、皇太子を摂政にするのがいいんじゃないかな。摂政だったら元号はそのまま。

「代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていない」とあるけど、天皇は「国政に関する権能を有しない」(憲法4条1項)のだから、皇室典範の改正の方向性を示すような意思の表明はまずいよなあ。

老齢なので負担が大きいから新しい仕組みを希望する、までは良いけど、ではその仕組みをどうするかの決定については、方向性の示唆を含め、天皇が関与してはならないはず。宮内庁職員が天皇の本当の意向はこれこれだ、という形で情報を流すことは問題が多い。
--------

要するに私が抱いた疑問は、実質的に天皇に皇室典範改正の発議権を認めるような対処は、天皇に「国政に関する権能」を認めることになってしまい、憲法違反ではないか、というものです。
その後、ネットを観察していたら、東京高裁裁判官の岡口基一氏が、小林直樹氏の『新版・憲法講義(下)』(東大出版会、1988)に参考になる記述がある旨をツイートされていたので、これを見たところ、確かに考察の出発点として役に立ちそうです。
そこで、まず、小林氏の見解を紹介しておきます。(p57以下)

-------
 皇位継承の原因は,天皇の崩御にかぎる.歴史上,生前の退位の例はかなり多いが,旧皇室典範は,これを廃した(天皇本人の意思で退位することも,病気その他による場合でも,退位を認めない).現憲法下では,戦争責任の問題で戦後一時,天皇退位論がおこなわれ,典範制定のときにも議論されたが,退位の規定はおかれず,一般に消極に解されてきた*.しかし,他方では,生前退位を制度上も認めるべきだという有力な議論がある.立法論的には多分に問題となる点であろう.

* その主な理由は,自由意思による退位を認めることにすれば,即位の場合にも継承順位該当者の自由意思を尊重すべきだということになり,「退位および即位の双方に自由意思を認めるとすれば,極端な場合を想定すれば,すべての皇族男子が退位し,かつ,即位を拒否することも考えられないではない」.これでは困ると考えた立法者は,「天皇に私なし,すべては公事であるという点に重点を置いて退位の制度は設けなかった」(憲調・運用の実際,第2編3章)のだという.もうひとつの理由としては,天皇の自由意思が偽装されて「退位」がおこなわれるといった,弊害が生じないともかぎらない,という配慮が働いたようである(同上参照).しかし,憲法上「退位」制は否認されているわけではなく,憲法政策としては論議に値するというべきである.
-------

そして、「生前退位を制度上も認めるべきだという有力な議論がある」に 32)との注記があり、それを見ると、

------
32)小島和司(「再び天皇制について」,公法研究10号所収)は,天皇に違憲行為がある場合,「最悪の場合には退位(憲法第2条の「世襲」はかならずしも終身制を要求しない)を考えて良いのではあるまいか,これを否定することは,あまりにも,明治憲法的『神聖不可侵』思想にとらわれているだろう」(同上43頁)とみる.稲田陽一「皇位」(講座,第1巻,226頁)も,立法論として,「不適格なる天皇は……皇位継承資格の順序変更との均衡をとるためにも,強制的に生前退位を認むべきであろう」,と提言している.同様に一円一億・憲法基本問題の研究(105頁)も,「天皇の退位を許さないと解すべき理由は存在しない」とする.少なくも「退位の制度を規定することも,理論的には可能である」(佐藤達夫,憲調三委での発言)し,実際的にも考慮さるべき問題だといえよう.
------

とのことで、かつては天皇の戦争責任のみならず、「天皇に違憲行為がある」とか、「不適格なる天皇」とか、なかなか物騒な状況を想定した天皇退位論が盛んだったようですね。
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「平価切下げ」と「陛下切下げ」

2016-07-14 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月14日(木)22時12分36秒

筆綾丸さんも言及されている昨日のNHKニュースを発端に、俄かに天皇退位・譲位をめぐる報道合戦が勃発していますが、宮沢俊義の『憲法と天皇─憲法二十年(上)』(東大出版会、1969)に「天皇退位論」という小論が載っていますので、冒頭部分を紹介してみます。(p127以下)

-------
 一昨年〔一九四六年〕の暮のことであった。
 皇室典範が貴族院に上程されたとき、南原繁東大総長は、質疑演説の中で、天皇退位の必要を説いて、なみいる議員に、にがい顔をさせた。もっとも、単刀直入に「天皇は退位すべきだ」と真正面からいったのではなく、「その御代において、わが国有史以来の大事がひきおこされたことについて、上御祖宗に対し、また下国民に対して、最も強く精神的・道義的責任を感じさせられるのは、陛下であろうと拝察する」といったぐあいの、遠まわしな表現を使ってはいたが、それにもかかわらず、「祖国再建の精神的礎石は、国民の象徴たる天皇の御進退にかけられている」とか、「いま混乱と変革の只中に、歴史的転換の大業を見届け給うことにより、いつの日にか、国民の道義的精神生活の中核として、天皇おんみずからの大義を明らかにし給はんことは、心ある国民のひとしく庶幾うところであろう」とかいう言葉により、そういう意味をはっきりいいあらわした。
 南原総長が、ここで、天皇退位の可能性─というよりは、むしろ、必然性─を強調し、それに備えるために、皇室典範に適当な規定を設けるべきことを主張したのに対し、幣原国務大臣は次のような意味の答弁をした(いま速記録が手元にないので、記憶によってだいたいの意味をしるす)。

「どうしても退位しなくてはならないという事情が生じたら、そのときにはまた皇室典範を改正すればいい。生じうるあらゆる場合のことを、はじめから規定しておく必要はない。たとえば、国家財政非常の場合に、平価切下げを行なう必要が生じうるからといって、はじめから平価切下げのことを規定しておく必要はない。その必要が生じたときに、法律を改正して平価切下げをやればいいのである」。

 つまり、いまから退位のことを規定しておく必要はない。その必要を生じたら、そのときに、国会で法律を改正し、ヘイカ切下げをやればいいじゃないか、というのである。「平価切下げ」が「陛下切下げ」に通じるところに、幣原大臣得意のだじゃれが含まれていたのであろうが、なにぶん相手は、天皇退位の爆弾質疑を政府に投げつけ、「大臣返事は、な、な、なんと!」とりきみかえっていたときだったので、だじゃれを解するだけの精神的余裕はなかったようである。
 南原総長の意見に対して、貴族院では、あまり賛成者はなかった。この際、退位など口にすべきでないという空気がつよかった。いやしくも、東大の総長の地位にある者が、そういうことをいうのは、けしからん、とふんがいした議員もいた。そして、結局、退位の規定は設けないことにきまった。
------

原文には<ヘイカ>、「平価切下げ」の<平価>、「陛下切下げ」の<陛下>の三ケ所に傍点が振ってありますが、戦前だったらこれだけで不敬罪に問われかねない際どい冗談ですね。
現在の天皇退位論は、御高齢の今上陛下の健康状態を考えると御公務の負担が大変だから、といった比較的穏やかな事情を前提としての議論ですが、かつての天皇退位論は天皇の戦争責任論と結びついた、極めて厳しい議論だった訳ですね。
宮沢も南原繁を<天皇退位の爆弾質疑を政府に投げつけ、「大臣返事は、な、な、なんと!」とりきみかえっていた>と評するなど、なかなかシニカルです。
宮沢のこの論文はけっこう面白いところが多いので、後でもう少し紹介してみます。

>筆綾丸さん
>氷川神社の神主が後二者の委託を受けて併せ勧請し祭ったのか。

私も神道の儀礼関係は全く門外漢ですが、斎主は複数の神社関係者の中で当該儀式を中心になって執行した人であって、他に地元諏訪神社の神主はもちろん参加しているでしょうし、伊勢神宮からも神主が出張しているのじゃないですかね。
また、その場合、それぞれの神社で分霊(?)の手続きを済ませているのだと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

武蔵の艦内神社 2016/07/13(水) 18:03:09
前後と関係がなくて恐縮ですが、吉村昭『戦艦武蔵ノート』(岩波現代文庫)で、呉の海軍工廠における武蔵の竣工式(昭和17年8月5日)に関して、次のような記述があります(143頁~。なお、「三、(三)軍艦旗掲揚式」、「四、雑件」、「受領書」は省略します。艤装員長は初代艦長有馬馨のことで、また、武蔵は三菱の長崎造船所で造られたので、長崎諏訪神社はいわば産土神の如きものに相当します)
-------------
  第二号艦竣工式実施要領
一、式場   第二号艦
二、開始日時 八月五日〇九〇〇
三、式次第
 (一)祭事
   (イ)祓詞
   (ロ)大麻行事 塩水行事
   (ハ)降神行事(警蹕)
   (ニ)献饌
   (ホ)斎主祝詞奏上
   (ヘ)斎主玉串奉奠
   (ト)監督長玉串奉奠
   (チ)艤装員長玉串奉奠
   (リ)造船所長玉串奉奠
   (ヌ)撤饌
   (ル)昇神行事(警蹕) 一同起立
 (二)授受式
   (イ)造船所長ハ監督長立会ノ上艤装員長ニ引渡書ヲ渡ス
   (ロ)艤装員長ハ造船所長ニ受領書ヲ渡ス
  (略)
 この引渡式には、有馬大佐の発案で、武蔵国の一の宮である埼玉県大宮市の氷川神社から神主が特に招かれ、祭事がすすめられた。むろん神主には、「武蔵」のことについて絶対に他言せぬよう注意した。艦内神社におさめられた御神体は、この氷川神社以外に伊勢神宮、長崎諏訪神社のものがおさめられた。
-------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
斎主は氷川神社の神主が務めたので、艦内神社に氷川神社の祭神(須佐之男命等)が祭られるのは当然として、長崎諏訪神社の祭神(建御名方神等)と伊勢神宮(おそらく内宮)の祭神(天照大神)は何時祭られたのか。氷川神社の神主が後二者の委託を受けて併せ勧請し祭ったのか。長崎諏訪神社と氷川神社はともかくとして、なぜ伊勢神宮が出てくるのか。何が言いたいかと言うと、祭事における降神・昇神の神(霊)とは、そもそも誰(の霊)なのか、ということなのです。須佐之男命等や建御名方神等は、あらずもがなの附属物にすぎず、主体はあくまでも天照大神だ、ということなのか。一号艦(大和)竣工式の祭事でも、同様に、降神・昇神行事があったはずですが、その時の神(霊)とは誰(の霊)なのか。この場合の神(霊)とは総論的なもので、個別の神(霊)を意味しない、ということなのか。単純な祭事のようでいて、実態はよくわかりません。
昭和19年10月24日、武蔵は何の戦績も残さずにシブヤン海に沈みますが、沈没時、艦内神社の祭神はどうしたのだろう、という疑問が湧いてきます。沈没の瞬間、フッと飛び立って東シナ海上空を天翔け日本本土に舞い降りたのか。あるいは、潔く武蔵と運命を共にして海底の藻屑となり果てたのか。軍艦が沈むとき、軍艦旗や御真影が運び出されるという話はよく聞きますが、艦内神社はどうしたのか、祭神はどうしたのか、という話は残念ながら聞いたことがありません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%82_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6)
自衛隊の「いずも」の竣工式(2015年3月25日)において、武蔵の時のような「祭事」は行われたのかどうか。

http://news.livedoor.com/article/detail/11747193/
この番組を暇潰しに見ていたのですが、「神武天皇以来の伝統を持った憲法を作らなければいけない」は驚きました。どんな憲法なのか。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html
今上陛下は、「神武天皇以来の伝統を持った憲法」には反対されると思われます。
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カミーラ・イェリネック

2016-07-10 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月10日(日)10時11分50秒

あまりドイツに寄り道していると「国家神道」もフランスのライシテも忘却の彼方に消えてしまいそうなので、そろそろ終わりにしますが、『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』にはイェリネック夫人もチラッと登場していて、その部分だけ少し抜き書きしておきます。
新カント派・西南ドイツ学派の創始者であるウィルヘルム・ウィンデルバント(1848-1915)とマックス・ウェーバー(1864-1920)の対立に関係する一挿話として、『マックス・ウェーバーの思い出』の著者である社会学者、パウル・ホーニヒスハイムが紹介するものです。(p156以下)
なお、当該挿話の部分は段落全体が一字分下げてあります。

------
【前略】ウェーバーはどうにもならぬという調子でこう嘆いたという。「ウィンデルバントと政治や女性問題の話をすることはまったく不可能だ」と。ホーニヒスベルクは、さらにウェーバーがいささか嘲笑的に語ったという一つの挿話を伝えている。

イェリネック夫人はウェイトレスを道徳的危険から守るために、とりわけ少女が夜アルコールを販売する店で給仕することを禁止する法律をつくろうとして努力していた。彼女はその請願のために署名を集め、その請願書は関係官庁に送付する手はずとなっていた。これにはウィンデルバント夫人も署名していたが、その署名のとき彼女は御主人のことを考慮に入れていなかったのだ。この御主人は、ウェイトレスのような存在にかかわりをもつ一文書に正教授(オルディナリウス)夫人の名が記されていることはその身分にふさわしからぬことと考え、彼女の署名を撤回するよう要求したものだ。そこでこの"ママヒェン"─とわれわれ若者たち、いやウェーバーもそうウィンデルバント夫人のことを呼んでいた─は、後悔してイェリネック夫人のもとに行った。イェリネック夫人は笑いながら彼女にその文書を渡すと、彼女は自分の名を抹消し、安心してふたたび赦しを与えてくれる夫のところへ帰って行った。

 いかにもハイデルベルク大学正教授・枢密顧問官ウィルヘルム・ウィンデルバントの人間的側面をよくうかがわせる挿話である。ウェーバーは、こういうドイツ大学人の官僚的・権威主義的な虚偽・欺瞞を嘲笑し、手厳しく批判したのである。
-------

カミーラ・イェリネック(1860-1940)が行った社会的活動については、たぶんマリアンネ・ウェーバー(1870-1954)の『マックス・ウェーバー』あたりを読めばもう少し詳しく分かるのでしょうが、今はそこまで手を伸ばす余裕がありません。

Camilla Jellinek

>筆綾丸さん
>生松というのは、返す返すも、妙な名前

読み方が「おいまつ」なら多少は優雅な趣があるでしょうが、「いきまつ」ですから、妙に生々しいですね。
小塩節氏の「解説」に「生そのもののうねりをあげて生きて」とありますが、これはたぶん「生松」のイメージを重ねているんでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

七夕のバイコヌール 2016/07/09(土) 11:25:38
小太郎さん
生松敬三の著書は一冊だけ読んだことがありますが、ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』という訳書でした。生松には、もう読むことはないと思いますが、森鴎外論もあるのですね。余計なことながら、生松というのは、返す返すも、妙な名前です。

この装幀、懐かしいなあ。原題「EXISTENTIALISME OU MARXISME?」からすると、原文は仏語のようです。独語なら EXISTENTIALISMUS ODER MARXISMUS? となるはずですものね。

悦ばしきことなんでしょうが、たかが地上上空 400?くらいの空間を「宇宙」と呼ぶのは、cosmos や universe に対する甚だしい僭称で、black hole や dark matter が聞いたら嗤うでしょうが、space の適当な訳語ないので仕方ないですね。
--------------
大西さんは日本の実験棟「きぼう」で、2つあるマウスの飼育容器の一方を回転させて地上と同じ重力をかけて育てる。宇宙と地上の重力の違いで、マウスに起こる変化を調べる。(7月8日付日経朝刊3面)
--------------
「宇宙」と言っても、まだ、この程度の実験しかしていないのか、と思います。メダカがマウスになっただけのことです。こんな実験に巨費を投ずる価値はあるのか、とは言いませんが。

「The original Baikonur (Kazakh for "wealthy brown", i.e. "fertile land with many herbs")」における Baikonur は、Baiko(茶色)+ nur(裕福な)なのか、Baiko(裕福な)+ nur(茶色)なのか。
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綾小路きみまろ的な感懐

2016-07-08 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 8日(金)08時15分43秒

『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』の著者・生松敬三氏の名前はこの掲示板で一回だけ触れたことがあって、それは網野善彦氏の東京高校時代の友人の一人としてでした。

「東高時代の網野善彦君」(その2)

本書は1946年、東京高校演劇部が行った「アルト・ハイデルベルク」の上演の思い出から始まっていて、生松氏はそのとき演出を担当したそうですね。
私が大学に入学した頃、というと四捨五入すれば四十年前になるので、綾小路きみまろの「あれから四十年」みたいな話になってしまいますが、当時は生協書籍部の哲学・思想コーナーに生松氏の難しそうな著書や訳書がズラズラ並んでいて、この人は何者なのだろうと思ったことがあります。
ま、私は別に哲学青年ではなかったので購入はしなかったのですが、今ごろになって生松氏の著書・訳書を読むと、昔はおよそ理解できなかったであろう難解な話もそれなりに理解できるようになっていて、ちょっと楽しいですね。
さて、講談社学術文庫版の小塩節氏の「解説」には、

------
本書の圧巻
 こうして本書第四章は、二十世紀のハイデルベルク大学の記述となる。ここが分量的にも本書の約半分を占めるところだが、最大の圧巻は、生松敬三氏がみごとに理解し咀嚼しつくしたマックス・ウェーバーについて、その生活と学問について語っているところだ。
 哲学者リッケルトらと同時期にこの大学で教えたマックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇年)は、病身にもかかわらず、社会学や経済学の理論的開拓者であり、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をあらわした稀代の学者であることは、今の日本の高校生でも教えられている。しかしM・ウェーバーの膨大な著作をほんとうに自分で読み通し読みこなした人は、残念ながら極めて少ない。生松氏は、そのごく少数の一人なのである。
 僅か五十六年の生涯(一九二八~一九八四年)を、痛ましい癌で閉じなければならなかったこの朗らかで、伝法な口ききさえ多くの人の心をとらえた学究は、若き日の著作『森鴎外』(東大出版会、昭和三十三年、三十歳)をはじめ、自著約二十冊、編著九冊を著しただけではない。ルカーチ、フロイト、カッシーラー、ジンメル等の大作の訳書を四十数点も出版した人でもある。彼は蒼ざめたいわゆる講壇哲学者ではなかった。生そのもののうねりをあげて生きて、自ら考える哲学者だった。その彼が深い畏敬の念をこめて記しているのが、このウェーバー論、あるいはウェーバー・スケッチである。
-----

とありますが(p254以下)、生松氏がマックス・ウェーバーと同じく56歳で亡くなっているのを知って、ちょっとドキッとしました。
生松氏に比べれば、煙草をパカパカ吸っていた網野善彦氏が74歳まで生きたのは、むしろ長生きだったような感じもします。

生松敬三
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「生きのびるための唯一の可能性は人目につかないこと」(by カール・ヤスパース)

2016-07-07 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 7日(木)09時42分43秒

またまた脱線してしまいますが、ナチス時代のハイデルベルクの雰囲気はどのようなものだったのだろうと思って、ちょっと調べてみたら、生松敬三著『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』(TBSブリタニカ、1980)のカール・ヤスパースに関する記述が参考になりますね。
ヤスパースは1883年生まれで、ヴァルター・イェリネックより2歳上です。
本人はユダヤ系ではありませんが、妻・ゲルトルートがユダヤ系だったので、ナチス時代には非常に苦しい状況に置かれていたそうですね。
少し引用してみます。(引用は講談社学術文庫版、1992、p214以下から)

-------
ナチス時代─その恐怖と迫害

 ゲルトルートは、病弱なヤスパースの良き看護婦でもあり、また同じく哲学を志す学徒でもあった。けれども、彼女がユダヤ人であるがゆえに、ヤスパース夫妻は一九三三年以後のナチス時代には、迫害と死の危険を覚悟しなければならなかったのである。
 三三年にヤスパースは、大学の管理的役職に就くことを禁じられ、三七年には教授職を剥奪され、翌年には執筆および著作の公刊まで禁じられた。すでに三三年のナチ政権樹立のときに、友人エルンスト・マイヤーは「我々ユダヤ人はいつかある日バラックに連れ込まれ、バラックには火がつけられるだろう」と、ヤスパースに語ったという。当時はまだ、そんな「極端な帰結」は「空想」でしかないだろうところを斥けることもできた。しかし、事態はしだいにマイヤーの予言どおりに深刻なものとなっていったのである。
 一九三八年十一月には、公然とユダヤ人の住居や店を破壊し、ユダヤ人を追放、殺害した恐怖の「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」が訪れる。ヤスパースは言う。「その時以来、不安が高まったし、戦争中は非常に不安であった。私たちがたえず生命の危険に曝されていることは疑いえなかった。このような世界の中でどうして私たちが生きてきたかというと、その原則は、生きのびるための唯一の可能性は人目につかないことである、ということであった」。
------

ゲルトルートはエルンスト・マイヤーの姉で、二人の結婚は1910年だったそうですね。
引用を続けます。

-------
 ナチス時代における大学の荒廃は、なにもハイデルベルク大学だけのことでなかったことは言うまでもない。三六年、リッケルトは七十三歳の高齢で失意のうちに死んだ。この年、ハイデルベルク大学創立五五〇年記念祭が行われたが、これはもはやナチス一色のもので、招待を受けたイギリスやアメリカの学界も参加を拒否したという。翌三七年六月には、ノーベル賞受賞者で「アーリア的物理学」「ドイツ的物理学」の主唱者となったフィリップ・レーナルトの七十五歳誕生日を祝して、ハイデルベルクの町では学生たちが松明行列を催した。人目につかないように身を潜めていたヤスパース夫妻は、こうしたハイデルベルクの出来事をどのような思いで送り迎えしていたのであろうか。三九年から四二年にかけてのヤスパースの「日記」の一部分が公開されているが、その中心課題は、離婚、亡命、自殺といった重苦しい問題ばかりである。

カール・ヤスパース(1883-1969)

>筆綾丸さん
>イェリネックは親子ともども飛び抜けた学者なんですね。

確かにそうなんですが、人見剛氏がこの本を出すまでは、狭い行政法学界においてすら息子は地味な存在だったはずで、人見氏の文章の冒頭、「周知のように」はちょっと変な感じですね。

人見剛(早稲田大学大学院法務研究科、教員プロフィール)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ゴンベエさん 2016/07/05(火) 16:11:07
小太郎さん
イェリネックは親子ともども飛び抜けた学者なんですね。
VWもフォルクスワーゲンで定着していますが、ゲシュタポ(Gestapo)は、不思議なことに、ゲスタポとは言わないですね。

キラーカーンさん
伊藤之雄氏『山県有朋』(文春新書)も、「シーメンス事件」になっています(387頁)。あの時代の日独関係を考えると、ゴンベエさんをはじめとする海軍の上層部(及びメディア)は、「ジーメンス」と発音していたろう、という気がします。戦後、アメリカの影響を受けて、「シーメンス」になったのでしょうか。「シーメンス」というと、なぜか、シーラカンスを連想します。

たしかに、「最年少A級陥落」は神武以来の天才の不滅の記録でしょうね。また、ピンさんの段位は誰も超せないですね。なんたって、1239段ですから。

今期名人戦の3局、4局、5局は羽生さんの完敗で、ポナンザとプロ棋士の勝負を見ているようでした。また、今期の棋聖戦挑戦者ですが、王者羽生があれほど負け越している棋士はほかに記憶にありません。

阪大哲学科休学中の前竜王糸谷哲郎さんは、7月4日付日経将棋欄で、将棋は民衆の娯楽として楽しめる方向性でいくのがいちばんよく、伝統的な権威づけには警戒すべきだ、と言っていますが、羽生さんはいつか文化勲章という伝統的な権威づけがなされるかもしれません。もっとも、文化勲章などより将棋のほうがずっと伝統がありますが。(将棋は徳川将軍家による権威づけ、文化勲章は天皇による権威づけ、という日本固有の悩ましい問題は考えないことにします)

日曜日のNHK「将棋フォーカス」で、最近数年間におけるプロ公式戦の勝率は先手53%と言っていました(以前は51%ほどでした)。序盤の研究が進み、先手の勝率が60%を超えるような事態になれば、ルール改正が問題になってくるでしょうが、囲碁のコミのように、4目半⇒5目半⇒6目半・・・と安直にいかないところがネックですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E9%9B%B6%E5%92%8C%E6%9C%89%E9%99%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
将棋も、詰まる所、先手必勝の「二人零和有限確定完全情報ゲーム」だ、ということになってしまうのか。まあ、そうなったとしても、世界は何も変わりませんが。 
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ナチス時代のイェリネック一族

2016-07-05 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 5日(火)11時27分33秒

Walter Jellinek についてはウィキペディアもドイツ語版だけで、しかもずいぶんあっさりしていますね。


私の当面の関心とはズレますが、ものはついでと思って少し調べてみたら『近代法治国家の行政法学─ヴァルター・イェリネック行政法学の研究』(人見剛著、成文堂、1993)という本の冒頭に「ヴァルター・イェリネックの生涯と業績」のまとめがありました。
少し引用してみると、

------
一 周知のように、ヴァルター・イェリネック(Walter Jellinek 1885-1955)は、オットー・マイヤー(Otto Mayer 1846-1924)とならんでドイツ行政法学の父と呼ばれ、ドイツ行政法学の形成期を担った最も有力な学者の一人であると共に、「国法(学)から独立した独自の行政法学の形成に寄与した最後の学者」、いわば「行政法学の最後のクラシカー(der letzte Klassiker)」であった。即ち、イェリネックは、O・マイヤーがドイツにおける行政法学を構築し始めた帝政期から、ヴァイマル期、ナチス期そして第二次大戦後の共和政期に至るまで四つの時代を生き、各時代に数多くの優れた業績を残した傑出した公法学者であった。本節では、イェリネックの行政法学を考察する前提として、まず彼の生涯と業績を素描することにしよう。
二 ヴァルター・イェリネックは、一八八五年七月一二日、当時ウィーン大学で教鞭をとっていた著名な国法学者ゲオルク・イェリネック(Georg Jellinek 1851-1911)とウィーン大学医学部教授グスタフ・ヴェルトハイム(Gustav Wertheim 1822-1888)の娘カミーラ(Camilla 1860-1940)の息子として、ウィーンのフュッテルドルフ(Hütteldorf)に生まれた。イェリネック一家はその後、父親ゲオルクがバーゼル大学(一八九〇年)、ハイデルベルク大学(一八九一年)へと移動するに伴って転居し、一九〇三年、彼はハイデルベルクでその大学生活を始めた。【中略】なお、大戦開始前の一九一四年四月三日には、バーデンの上級事務次官(Ministerialrat)の娘で、彼の幼なじみのアレクサンダー・ヴィーアー(Alexander Wieher)の妹イルムガルト・マリー(Irmgart Marie 1891-1976)と結婚し、以後一九一五年から二五年までの間に二男三女をもうけている。【中略】
三 前述したように、ヴァルター・イェリネックは一九二九年、ボンに移ったR・トーマの後任としてハイデルベルク大学に招聘され、父ゲオルクがかつて担当した講座を受け継ぐこととなった。少年・学生時代の大部分を過ごした第二の故郷ともいえる西南ドイツのハイデルベルクの地に戻り、そして彼は、その死までこの地に居を定めることになるのである。ここでも、イェリネックは法学部長(Dekan der Jur. Fak.)、評議員(Mitgl. des Engeren Senats)等の要職を務めつつ、一九三五年、ユダヤ系の故に公職追放されるまで、旺盛な研究活動を続けた。一九二八年には公法国際協会(Institut International de Droit Public)の非常任メンバーに選ばれ、三〇年には常任メンバーとなっている。
-------

といった具合で、「一九一五年から二五年までの間に」生まれた「二男三女」の一人が Barbara(1917-1997)のようですね。
この後も特に亡命等の記述がないので、ナチスによる公職追放後もヴァルターはハイデルベルクにとどまったようです。
ただ、人見氏は特に言及していませんが、父ゲオルクと母カミーラのウィキペディアの記述によれば、二人の間には六人の子が生まれ、成人した四人の中でDoraはテレージエンシュタット収容所で「安楽死」させられ、Ottoもゲシュタポによる虐待の結果、死に至ったそうなので、ヴァルターの生活もおよそ安穏なものではありえなかったでしょうね。


>筆綾丸さん
>「シーメンス事件」
私もついつい習慣で「シーメンス」と書いてしまいますね。
また、筆綾丸さんはいつも「マックス・ヴェーバー」と書かれますが、私は「ウェーバー」じゃないと何だか別人のような感じがして、これもなかなか直りません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

市営墓地にて 2016/07/04(月) 15:51:23
小太郎さん
https://de.wikipedia.org/wiki/Bergfriedhof_(Heidelberg)
小太郎さんの推論のほうが合理的だと思います。
佐々木惣一の思想とイェリネックの埋葬の関係に拘るのなら、Bergfriedhofを管理するハイデルベルク市に行って関連資料を渉猟するとか、墓地管理事務所に照会するとか、現地であたってみれば、ある程度、墓の時代的変遷が判明したのではないか、と思われるのですが、石川氏はパセチックな詩的想像をしているだけで、そういう地味で下世話なことはしてないようなんですね。『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』を読めば、氏はドイツ語が相当できるのだから、勝手な想像を廻らす前に、「憲法考古学者」として、もっと基礎的な調査をすべきなんですね。

前回、「紙面をハイジャックする」という石川ワードに苦言を呈しましたが、現代の若者なら、「ハッキング」という用語を使うでしょうね。

------------
・・・山本権兵衛内閣も、疑獄事件(いわゆるシーメンス事件)に対する世論の批判を受けて、最終的には総辞職・・・(245頁)。
------------
日本近代史では学問的に「シーメンス事件」で定着しているのか、知りませんが、ドイツ語の Siemens はジーメンスとしか読めません。ヴァーグナーの Meistersinger はマイスタージンガーであって、マイスターシンガーと言ったら、シンガーソングライターの元締めのようです。

将棋のこと
http://www.asahi.com/articles/ASHBL5G7NHBLPTFC00G.html
http://www.shogi.or.jp/kisen/shourei/sandan/59/index.html
4冠全部の喪失もありうるほど羽生さんは不調です。藤井聡太(13歳)くんはプロ最年少の記録を塗り替えるのではないか、と注目を集めています。
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イェリネックの墓(その3)

2016-07-04 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 4日(月)11時06分56秒

>筆綾丸さん
>イェリネックの埋葬式
森英樹・篠原巌訳『イェリネク「少数者の権利』(日本評論社、1989)の「訳者解題」に、「イェリネックの葬儀(1911年1月15日)を知らせる大学の通知(1月13日付)」が載っていますね。(p265)
佐々木惣一もおそらくこの通知を見て参列したのでしょうが、式次第には特に墓石の存在を伺わせるものはありません。
また、この「訳者解題」には、「イェリネックの墓。妻カミラとともに眠る。反対側にはブルンチェリ、20mほど南にはヴェーバーの墓もある(Bergfriedhof)」とのキャプションが付いたイェリネクの墓の写真もありますが、1989年刊行の書籍に出ている写真ですから、当然のことながら、

------
Georg Jellinek
 1851-1911
Camilla Jellinek
 1860-1940
-------

との銘板だけが写っていて、

-----
Barbara Jellinek
 1917-1997
-----

の銘板は存在しません。
考えてみれば、Camilla が亡くなった1940年はナチス支配下の極めて過酷な時期であって、ユダヤ人がまともな葬儀を営めたとは思えません。
もしかすると、息子のハイデルベルク大学教授・Walter Jellinek(1885-1955)がイェリネック没後まもなく建てた最初の墓がナチス時代に荒らされてしまって、1955年のWalterの没後、敗戦後のドイツもようやく落ち着きを取り戻した時期にWalterの娘のBarbara が祖父母の墓石を立て直した、といった事情があるのかもしれないですね。
私の想像も、あるいは石川健治氏と同レベルの妄想に近づいているのかもしれませんが。


>オーストリアの憲法裁判所はイェリネックとケルゼンに負うところが大きいのですね。

その通りですね。
ご紹介のクリストフ・ベツェメク氏の講演記録「オーストリア憲法裁判所─その制度と手続」(戸波江二訳)を読んでみましたが、ちょっと変なミスがありますね。

------
 特別の憲法裁判所という考えは、イェリネクが国事裁判所を提唱した18世紀中葉にさかのぼる。イェリネクは、異なった立法者の権限争議のみでなく、法律の実体的合憲性に関する議会内での多数派と少数派の権限争議の問題についても決定を下す国事裁判所を構想した(5)。


とのことですが、「18世紀中葉」はいくら何でも早すぎるので、この注(5)を見ると、

Georg Jellinek, Ein Verfassungsgerichtshof für Österreich(1885)

となっていますから、「19世紀末葉」とすべきでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

豊饒の墓 2016/07/02(土) 21:23:25
小太郎さん
石川氏の非実証的な思い入れは薹が立った文学青年のようですが、氏の斬新奇抜な仮説によれば、佐々木惣一『立憲非立憲』はイェリネックの墓から生まれたことになるようですね。Schein(幻相)としてではなく Wirklichkeit(実相)として。
---------
この間、佐々木の法理論は、大転回を経験している。そのきっかけの最大の一つが、イェリネックの埋葬式であったに相違ない。(236頁)
この『立憲非立憲』のなかで最も有名なパッセージは、ハイデルベルクに瞑目するイェリネックの墓前に立ったあの日から続く、佐々木惣一の思索の結晶にほかならない。(244頁)
---------

---------
・・・キャッチーなタイトルに加えて内容も非常に良く工夫された、論説「一票の投げ所」。(247頁)
---------
http://www.uta-net.com/movie/124230/
「キャッチーを科学する」という歌があるのですね。作詞家の意図に反して、意味は単純だと思いますが。

http://mainichi.jp/articles/20160702/k00/00m/030/111000c
http://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-045030085.pdf
石川氏の解説にもある憲法裁判所ですが、オーストリアの憲法裁判所はイェリネックとケルゼンに負うところが大きいのですね。
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憲法学界のルー大柴

2016-07-02 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 2日(土)13時53分13秒

投稿に少し間が空いてしまいました。
今までの流れから行くと、そろそろこのあたりで「国家神道」についてそれなりに本格的に論じなければならないのですが、その方法についてちょっと迷っているところです。
従来の論争を紹介して若干の私見を加えるのが通常ルートでしょうが、この問題は純粋に学問的な地点から相当離れて、政治の泥沼に入り込んでしまっているので、正確さを維持しようとすればあまり愉快でない政治的議論を延々と紹介することになりかねません。
それは面白くないので、ちょっと工夫したいと思っています。

>筆綾丸さん
>お名前がやけに democratic
そうですね。
キラキラネームの対極にある平凡で庶民的な名前ですが、頭脳は庶民的ではなく、当時からかなり目立っていましたね。

>『三四郎』に出てきそうな問答
「解説」の留学中の写真を見るとずいぶん老成した雰囲気ですが、1878年生まれの佐々木がまだ三十代前半の頃の話ですね。
佐々木は五歳上の美濃部達吉と並び称されることの多い人ですが、この問答を見る限り、性格的には万事に剃刀の如く明晰な美濃部と正反対のようです。
仮に佐々木が朝永でなく美濃部にこうした相談をしたら、瞬時に罵倒されるか、あるいは氷のように冷ややかな軽蔑の視線に曝されたでしょうね。

>漫才や落語ならともかく
いつでもどこでも大げさな石川健治氏の言語感覚は、芸能界ではルー大柴に似ていますね。
『立憲非立憲』の宣伝文句に言うように、確かに異彩を放っています。

「ルー大柴オフィシャルブログ」

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

フリーメーソンとホモ・デモクラティクス 2016/06/30(木) 13:30:10
小太郎さん
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Kaspar_Bluntschli
http://www.r5r.de/
(英)He was a Freemason and was Master of Lodge Ruprecht zu den fünf Rosen.
(独)1864 wurde er Freimaurer und Mitglied der Loge Ruprecht zu den fünf Rosen in Heidelberg, wo er durch sein Wirken als Meister vom Stuhl die Loge prägte.
ブルンチュリはフリーメーソンの一員で、ハイデルベルクの Lodge Ruprecht zu den fünf Rosenに属していたとあるので、墓石に彫られたものは星ではなく fünf Rosen(五弁の薔薇?)を表しているのでしょうね。夫婦墓の二輪の薔薇からすると、夫人もまたフリーメーソンだったのですね。
(独)Von 1872 bis 1878 war er Grossmeister der Grossloge ≪Zur Sonne≫ in Bayreuth.
バイエルン支部「Zur Sonne」の支部長(1872-1878)も歴任したのだから、法学者である以上にバリバリのフリーメーソンであったのであり、ostentatoire(仏)なギリシャ神殿様式の破風よりもむしろ、石工がさりげなく彫った地味な fünf Rosen に言及すべきなんでしょうね。

ご同窓の中村民雄氏は、お名前がやけに democratic なんですね。
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トクヴィルが「諸条件の平等」という概念を通じて論じようとした、このような新しい想像力を持った人間を、以下、<民主的人間(ホモ・デモクラティクス)>と呼ぶことにしよう。(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』61頁)
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幸田露伴には驚きました。今時の学生さんは、倖田來未とか幸田真音とかは知っていても、露伴は知らないのではないでしょうか。 

横山大観 2016/07/01(金) 16:00:13
『立憲非立憲』の解説を読んでみました。
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・・・佐々木は朝永に、「どうも自分は、強いような又弱いような、俗なような又俗を離れたような、正しいような又正しくないような、きちんとしたような又だらしないような、いわば矛盾した人間でつまらぬ」、と打ち明けている。これに対して、朝永は、いつになく「真面目な顔つきで」間髪を入れずに、こう応えた。「ふん、それでいいのだ、矛盾でいいのだよ」。(233頁)
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この会話(1911~12頃)の数年前に、漱石『三四郎』が朝日新聞に連載されましたが、佐々木惣一を小川三四郎、朝永三十郎を佐々木与次郎に置き換えれば、『三四郎』に出てきそうな問答ですね。

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『大阪朝日新聞』は、一九一六年の元旦第一面を、ひとり佐々木のためだけに提供した。(224頁)
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次頁の第一面のコピーをみると、上半分に、大きな二匹の昇り竜(雌雄?)の絵の下に社説如きものと門松めいた植物の絵があり、下半分には、佐々木の論説を真ん中で断ち割った窓の中に、横山大観画伯の漫画のような富士山と朝日と雲の絵があり、さらに左端には横書きの英文らしきものもあるといった感じで、「ひとり佐々木のためだけに提供した」とはとても云えない構成になっています。

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・・・佐々木惣一もまた、元旦の紙面をハイジャックするに足る論説の構成に呻吟しながら・・・(228頁)
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石川氏は巫山戯ているわけではないのですが、漫才や落語ならともかく、hijack という言葉は terrorism や kamikaze と同じく、普通の人なら如上の文脈では使わないはずで、氏の言語感覚が理解できません。

1930年の名著『日本憲法要論』(初版、金刺芳流堂)ですが(242頁)、出版社は渓斎英泉の浮世絵の版元のような名称ですね。
コメント
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