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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その1)

2022-01-31 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月31日(月)10時58分19秒

今月15日に実施された「大学入学共通テスト」の国語第3問は『とはずがたり』と『増鏡』を素材にしたものでした。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

『とはずがたり』は、例えば佐々木和歌子訳『とはずがたり』(光文社古典新訳文庫、2019)の宣伝広告で、

-------
宮廷のアイドルの 「死ぬばかりに悲しき」物語

後深草院の寵愛を受け十四歳で後宮に入った二条は、その若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められるのだった。そして御所放逐。尼僧として旅に明け暮れる日々……。書き残しておかなければ死ねない、との思いで数奇な運命を綴った、日本中世の貴族社会を映し出す「疾走する」文学!

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

などと紹介されている一種のキワモノ的な古典文学なので、『とはずがたり』が共通テストに登場したこと、そして出題された前斎宮の場面が、よりによって『とはずがたり』の中でも好色度が特に高い場面であったことは驚きです。
この場面が研究者にどのように見られているかは、例えば榎村寛之氏の『伊勢斎宮と斎王』(塙書房、2004)の記述などが参考になります。

「何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ……」(by 榎村寛之氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5a8e905a5b10939b566c81fe360300e

私もかねてから『とはずがたり』と『増鏡』の関係に興味を持っていて、前斎宮の場面については両者を詳しく比較検討したこともあるので、受験レベルを超えた観点から、この問題を少し整理しておきたいと思います。
なお、受験レベルの解説としては、例えばリンク先サイトなどを参照していただきたいと思います。

共通テスト古文2022年増鏡・とはずがたり全訳・解答・解説(吉田裕子氏)
https://ameblo.jp/infinity0105/entry-12721435008.html

さて、出題者は異母妹の前斎宮に執着する「院」が後深草院であることを前提としていますが、戦前の『増鏡』注釈書では「院」は亀山院に比定されていました。
例えば、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)では、

-------
まことや、文永のはじめつ方下り給ひし斎宮〔愷子〕は、後嵯峨院の更衣ばらの宮ぞかし。院〔後嵯峨〕かくれさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで、伊勢におはしまししが、この〔建治元〕秋の末つかた、御のぼりにて、仁和寺に、衣笠といふ所にすみ給ふ。月華門院の御次には、いとらふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてを、あはれにおぼしいでて、大宮院いとねむごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。十月ばかり、斎宮をもわたし奉り給はんとて、本院〔後深草院〕にも入らせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて御幸あり。その夜は、女院の御前にて、むかし今の御物語など、のどやかに聞え給ふ。
-------

という具合いに(p354以下)、大宮院が滞在する亀山殿に後深草院が訪問していることが明記されているにもかかわらず、以後、「院」には全て亀山院との傍注があります。(p356~362)
これは何故かというと、亀山院は『増鏡』の他の場面でも好色であることが露骨に描かれているので、異母妹に執着する変態の「院」は亀山院に違いないと思われていた訳ですね。
しかし、昭和十三年(1938)に山岸徳平が『とはずがたり』を「発見」し、『増鏡』には『とはずがたり』が大幅に「引用」されていることが判明すると、前斎宮の場面の「院」は後深草院であることが明確になった訳です。
ただ、山岸徳平 「とはずがたり覚書」(国語と国文学』17巻9号、昭和15年)を見ると、山岸は、

-------
 増鏡、草枕の巻に「なにがし大納言の女、御身近く召しつかふ人、かの斎宮にもさるべきゆかりありて、むつまじく参り馴るゝを召しよせて……」として、亀山院が、「なにがし大納言の女」に用件を御命じになつた事がある。この斎宮は、その頃、御上京中の、愷子内親王であつた。大宮院姞子が、この斎宮を、嵯峨の亀山殿へ御招きになり、亀山院も御列席遊ばされた。亀山院は、なほ打解けて斎宮に逢ひたいとの、御意がおありになつた。これはその際の記載である。

http://web.archive.org/web/20061006211020/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm

としているので、『とはずがたり』発見後も山岸は前斎宮の場面の「院」を亀山院と思っていたことが伺えます。
それくらい『増鏡』での亀山院の好色は印象的だったのですが、戦後『とはずがたり』が周知されるようになると、後深草院が陰湿な変態とされる一方、亀山院は単なる明るい好色家、という具合いにイメージが好転した感じがします。
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取り急ぎ

2022-01-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月30日(日)13時12分5秒

>筆綾丸さん
>「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」

その箇所、私も気になりました。
星論文には多数の参考文献が挙げられており、それらを網羅的に読めば参考になる事例があるのかもしれませんが、私も今はちょっと余裕がありません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

愚問ですが 2022/01/28(金) 15:18:42
小太郎さん
「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」という文章が、いまひとつ、よくわからないのですが、定家が属した公家社会の女性は、武家の女性とは反対に、婚姻関係なんて曖昧でもいいんじゃないの、と考えていたということですか。
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)

2022-01-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月27日(木)14時49分21秒

私は北条泰時(1183-1242)と時房(1175-1240)の関係が「北条本家」と「庶家」に固定化されていたとは考えませんが、時房の子息のうち、時村(?-1225)と資時(1199-1251)が若くして出家、朝直(1206-64)も愛妻との離縁を強要する父に反発して出家しかけたことを見ると、時房流が結果的に「庶家」となったのもやむを得ない感じがしますね。
前妻に未練を残していた朝直に嫁し、二人の子を産んだ後、名越光時に再嫁した泰時娘は、光時が宮騒動(1246)で流罪になってしまった後はどのような人生を送ったのか。

北条朝直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E7%9B%B4
名越光時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%85%89%E6%99%82

さて、朝直・泰時娘の離婚は泰時娘側の申し出による協議離婚ではないかと思われますが、妻の側の申し出による離婚の例をもう一つ引用させてもらうことにします。
山本みなみ論文で重視されている「牧の方腹」の宇都宮頼綱室の話ですね。(p286)

-------
  2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚

 藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。

(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
  金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
  もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>

 定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。
-------

この『明月記』の記載で、山本みなみ氏の言われる「牧の方腹」の「八女」が天福元年(1233)に四十七歳、従ってその生年が文治三年(一一八七)であることが分かる訳ですね。
星氏は「離婚の原因は不明であるが」と書かれていますが、シンプルに新しい男ができたから、と考えればよいと思います。
松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事ですね。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った訳ですから、政治的には敗者です。
しかし、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していて、こうした事情が分かる事例は本当に珍しいですね。
そして、藤原定家の目を白黒させた四十七歳の前・宇都宮頼綱室のあっけらかんとした自由気儘な行動も、おそらく彼女が相当の財産家であったことが裏づけとなっているはずですね。

松殿師家(1172-1238)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%B8%AB%E5%AE%B6

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8

なお、「田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが」に付された注を見ると、これは「日本中世社会の離婚」(『日本女性史論』、塙書房、1994)で、私は未読です。
ただ、「実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられる」こと自体は、古文書・古記録や系図類を扱っている研究者には常識的な話かと思います。
星論文にはまだまだ興味深い事例が載っていますが、いったんこれで紹介と検討を終えることにします。
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その4)

2022-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月26日(水)13時14分15秒

続きです。(p266以下)

-------
 当時執権となった武州・北条泰時の娘が、相州・北条時房嫡男四郎朝直に嫁す記事である。朝直は当時二十歳、すでに妻がいた。愛妻とは、伊賀朝光の息子光宗の娘である。朝直は泰時の娘との婚姻を断るが、父母は婚姻を熱心に勧めている。この婚姻は、武家家長である父親同士により決定されるものである。父は北条時房であり、母は安達遠元の娘という説もあるが定かではない。時房は初代の連署に就任しており、泰時の叔父にあたる。「承久の乱」では共に上洛し六波羅探題になるほど泰時を補佐し良好な関係にあった。一方、伊賀朝光の息子光宗は、妹が北条義時の妻となっており、妹の義時の間に政村がいた。光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して義時の女婿である藤原能保の息子・実雅を将軍にたて、北条政村を執権に就かせようとした「伊賀氏の乱」が失敗し、信濃国に配流されていた。その光宗の娘が正妻であり、愛妻であったことから、朝直は泰時の娘との婚姻を渋る。
 この婚姻を熱心に勧めた朝直の父である時房にとっては、すでに執権となった泰時の娘との縁組みは望むところであったろう。北条本家の娘が庶家に嫁すということは、泰時にも時房への懐柔・同盟強化の意図があったものと考えられる。朝直は光宗の娘との別れを悲しみ、出家も考えるが結局はそれも叶わず、光宗の娘とは離別し、泰時の娘を妻に迎える。父親への抵抗は出家をすることであるが、それはできず、そこには確かに家長の強大な権限が見て取れる。
 朝直は、光宗の娘との間には子供がいなかったが、泰時の娘との間には時遠・時直をもうけている。しかし、時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した。
 朝直の婚姻について、高群氏は、一族の家長の威迫と述べているが、双方の思惑が一致したためと考えたい。【後略】
-------

「光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して……」とありますが、僅か三歳で鎌倉に下った頼経は直ぐに征夷大将軍となった訳ではなく、宣下は嘉禄二年(1226)正月二十七日ですね。
『吾妻鏡』では同年二月十三日条に、

-------
佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.5-b02.htm

とあります。
その他、この時期の泰時と時房の関係が「北条本家」と「庶家」と固定化していたのかを含め、星氏の武家社会理解には多少の疑問を感じるところがありますが、とりあえずそれは置いておきます。
さて、伊賀氏の乱で実家の後ろ盾を失い、離縁を余儀なくされた光宗の娘は気の毒ですが、そうかといって新しく朝時の正室となった泰時娘が幸せだったかというと、そうでもなさそうですね。
朝時との間に「時遠・時直をもうけ」たものの、「時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した」訳ですから、結局は元妻に未練たっぷりの朝時とは上手く行かなかった訳で、朝時の再婚は誰一人として幸せにしない残酷なものだったということになります。
そして、朝時と泰時娘の間に二人の子供がいたとはいえ、それが決して夫婦間が円満であったことの証拠ではないという事実は、山本みなみ氏によれば「およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」義時と「姫の前」の関係を考える上でも参考になりますね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/babd1dd5ca102ffbaab5d68f32abce50
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その3)

2022-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月26日(水)10時33分7秒

前回投稿で引用した部分の続きです。(p264以下)
先行研究を踏まえた星氏自身の課題設定ですね。

-------
 鎌倉期の婚姻形態や婚姻決定権などについては、実態に即した実証的研究が少ないのが実情であるので、小稿では、藤原定家の『明月記』を素材として、中級貴族である藤原定家の見た婚姻について検証してみる。『明月記』は治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)、定家十九歳から七十四歳までの日記であり、そこには女性たちについての様々な記述がある。特に嘉禄年間(一二二五~二六)には、婚姻や男女間のことをめぐって興味深い記述が多い。ゆえに、短い期間ではあるが、小稿では先行研究を踏まえながら嘉禄年間の記述を主に、婚姻の決定権について武家と公家の違いや、婚姻・再婚の実態から見えてくるものを、そして離婚における女性の意思についても検証することとしたい。当時の離婚は家の形成にとって重要な役割を果たしていた。したがって、家族史研究にもささやかな寄与ができうるものと考えている。なお、『明月記』に関しては年月日のみをしるすこととする。
-------

嘉禄年間に着目された理由を星氏は明確に述べておられますが、この時期が承久の乱後の、まだまだ政治的・経済的、そして精神的混乱が続いている時期であることは留意すべきでしょうね。
承久の乱の戦後処理については多くの研究者が「前代未聞」「未曾有」「驚天動地」といった最大級の修飾語を工夫していますが、とにかく全ての価値の基準である天皇が廃位され、「治天の君」を含む三上皇が流罪となったのですから、従来の倫理秩序も動揺しないはずがありません。
朝廷は直属の軍事組織を失ってしまい、そうかといって幕府が責任をもって京都の治安維持を約束してくれた訳でもないので、強盗の横行など、社会秩序も乱れに乱れます。
こうした中で、結婚や夫婦間の関係についても当然に価値観の変動があったはずですね。
従って、『明月記』の嘉禄期の事例をどこまで一般化してよいのかという疑問はつきまといますが、全体的に記録が乏しい中で、やはり『明月記』の存在は貴重です。
さて、(その1)では「時房朝臣の子次郎入道の旧妾」であり、藤原公棟と再婚したものの、大酒飲みのために一か月で離縁となった「新妻」の例を紹介しましたが、優れた政治家とされている時房の周辺は、家族や夫婦の関係ではけっこうな騒動が多いですね。
まず「次郎入道」時村は承久二年(1220)正月十四日、弟の資時とともに突如として出家してしまいます。
兄弟二人一緒に出家というのは何とも異様な感じがしますが、これは『吾妻鏡』にも、

-------
相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。


と記されていますね。
その後、時村(行念)は親鸞との関係があったようですが、出典は宗教関係の史料なので、どこまで信頼できるのか若干の問題がありそうです。
ただ、出家しても女性関係は変わらないという点では、いかにも浄土真宗っぽい感じはしますね。

北条時村(時房流)

そして星論文では、「2 婚姻の成立と家長の力」に入ると再び時房の四男・朝直の事例が出てきます。

-------
  1 武家の場合

 『明月記』の嘉禄年間に記された婚姻の記述には、武家と公家では家長の関わり方に違いが見える。辻垣晃一氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期の婚姻形態について、重要なのはどこで婚姻儀式を行ったかではなく、婚姻の開始はどういう形式であり、誰が婚姻儀式を差配したかという点である、と指摘している。
 ここでは婚姻の決定過程に武家と公家の違いがあるのか、またある場合は何が違うのかを検証していきたい。第一に取り上げるのは、定家が関東の婿取りのこととして注目している、北条泰時の婿取りである。

(1)嘉禄二年(一二二六)二月二十二日条
  関東執婿の事と云々、武州の女、相州嫡男<四郎>・朝直に嫁す。愛妻<光宗女>があるにより、
  頗る固辞すと。父母懇切に之を勧めるによると云々。
(2)嘉禄二年三月九日条
  武州婚姻のこと、四郎<相州嫡男>猶固辞する。事已に嗷々と云々。相州子息惣じて其の器に
  非ず歟。出家の支度を成すと云々。本妻の離別を悲しむに依るなり。公賢朝臣の如きか。
-------

この後の説明がちょっと長いので、いったんここで切ります。
時村・資時の出家により朝直が嫡男とされていたようですが、その朝時まで出家してしまったら時房の権威は丸つぶれ、目も当てられない事態ですね。

>筆綾丸さん
本郷和人氏も重視する比企能員のカモネギ的行動ですが、『吾妻鏡』の記述をどこまで信頼できるかという問題がありますね。
ま、疑い出したら本当にキリがありませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

能員というカモネギ 2022/01/25(火) 18:00:27
小太郎さん
離婚が家と家との結合の破綻であるとすれば、姫の前と義時が離婚したあとなのに、能員は義政の招きに応じて、まるでカモネギのように(六代将軍義教が鴨の子に誘われて赤松邸で殺されたように)、なぜ平服でのこのこ名越邸に赴いたのか、という疑問が残りますね。
姫の前と義時の離婚は、朝宗と義時の関係が破綻しただけで、能員と義政の関係が破綻したのではない、と能員は考えたのか。あるいは、義政の仏事供養という招きは、比企家と北条家の関係修復の絶好の機縁と考えたのか。あるいは、たんに能員は烏滸だったのか。
比企氏滅亡の話を遠く京都で聞いて、聡明な姫の前は何を思ったか、興味は尽きないですね。
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その2)

2022-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月25日(火)11時21分46秒

星倭文子氏には『会津が生んだ聖母 井深八重―ハンセン病患者に生涯を捧げた』(歴史春秋出版、2013)という著書があって、その著者紹介によれば「1939年水戸市生まれ。福島大学大学院地域政策科学研究科修了。総合女性史研究会会員」だそうですね。

-------
会津藩家老西郷頼母の一族に生まれた井深八重は、同志社女子学校を卒業し、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任しました。その後身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて神山復生病院に入院しましたが、それは誤診だったのです。しかし八重は病院を去る事はありませんでした。看護婦としてハンセン病患者の看護に一生を捧げた生涯でした。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784897578118

「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」は冒頭の学説史整理がありがたいですね。

-------
1 はじめに

 婚姻形態についての本格的な研究は、高群逸枝氏が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に始まるといっても過言ではない。高群氏は古代から現代までの婚姻体系を提示し、歴史的変遷を明らかにした。古代は群婚から妻問婚をへて婿取婚へ、平安中期は純婿取婚、平安末期は経営所婿取婚とし、鎌倉時代になると、婿取儀式形式を残しつつ、次第に夫方居住に移行をはじめ、それに伴い、家父長権が絶対的なものとなった、と指摘している。その結果、室町時代から嫁取婚が行われるようになり、婚姻も男女よりも家と家の結びつきが濃厚になった、とする研究である。
 その後、関口裕子氏は、高群氏の主張と実証が乖離しているとしながらも批判的に継承している。一方、高群説には多くの問題があると批判している研究者は、主として江守五夫氏、鷲見等曜氏、栗原弘氏の三人である。さらに、服藤早苗氏は、高群氏が婿取婚とした平安時代の婚姻形態に関し、最新の研究成果から、①「婿が妻族に包摂されないので、婿取婚の用語は不適切」、②「居住形態からは妻方居住を経た独立居住と当初からの独立居住」、③「十世紀以降の婚姻決定は妻の父であり、夫による離婚が始まるので、家父長制下の婚姻形態」との特徴を持つ、と述べている。
 小稿で検討する鎌倉期の婚姻形態については、次のような研究がある。辻垣晃一氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の公家の結婚形態についての検討で、石井良助、高群逸枝、関口裕子各氏の嫁取婚成立時期に関する研究は十分な史料的裏付けに基づいて展開されていないと指摘し、独自の史料検討を行った結果、一般的な婚姻形態は婿取婚だった、と結論づけている。また、辻垣氏は、武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている。一方、五味文彦氏は「『明月記』の社会史」「縁に見る朝幕関係」「女たちから見た中世」などで、杉橋隆夫氏は「鎌倉初期の公武関係」で、政治的背景や社会史の面から具体例を検証しているが、婚姻形態の専論ではない。
 婚姻決定権については、奈良時代までの婚姻形態は、男女ともに婚姻決定権・離婚権があり、両者の合意により婚姻関係が発生し、どちらかの一方が婚姻を解消したい場合は、自然解消している。平安時代には、妻方の両親が婚姻決定に介入し、次第に妻方の父親が婚姻の決定権を持つようになる。鎌倉時代になると夫方の父が婚姻決定に介入し、夫方・妻方ともに父が決定権を持つ、とするのが通説的見解のようである。
-------

いったん、ここで切ります。
私の関心からは、鎌倉時代は公家の場合「一般的な婚姻形態は婿取婚」で、「武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている」辻垣晃一氏の見解が気になります。

https://researchmap.jp/tsujigaki

また、婚姻決定権については、「姫の前」の場合は「夫方・妻方ともに父が決定権を持」っておらず、頼朝が事実上の決定権を持っていたという非常に特殊な例ですね。
義時としては、おそらく「姫の前」の父親ないし比企一族の最有力者に手を廻して「姫の前」を説得してもらおうとしたのでしょうが、「姫の前」の強烈な個性に拒まれ、最後は頼朝に泣き寝入りという感じだったのでしょうか。
さて、星論文の続きです。(p263以下)

-------
 離婚については、栗原弘氏の『平安時代の離婚の研究』、田端氏の「中世社会の離婚」「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」、脇田晴子氏の「町における女の一生」などの研究がある。栗原氏は、平安時代の離婚は夫婦二人の問題であり、当事者主義が原則的で、夫は妻の過失の有無にかかわらず、妻を離別することが認められていた、と主張する。その背景には、夫は結婚・再婚に経済的負担がないため、安易に結婚・離婚・再婚を行うことが可能であったこと、両性の権利の不均衡の淵源は古代社会が一夫多妻制であり、離婚の権利を男性が所持していたこと、などを述べている。さらに、離婚された女性は、離婚をドライに受け止め、新しい結婚生活へ立ち向かおうとする積極的な姿勢が乏しい、あるいは、離婚後の女性の明るい話がほとんど見られないことなども述べている。だが、果たしてそういいきれるだろうか。
 田端氏は、鎌倉期の離婚について次のように説明している。まず、鎌倉期には婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれたので、武家社会で公然化された。そのため離婚は、家と家との結合の破綻を意味することになり、これも公然化する必要が出てきて、宣告離婚が発生した、と述べている。首肯しうる見解であるが、貴族社会については具体的・実証的検討はされていない。
-------

田端氏の見解について、星氏は武家社会については「首肯しうる」とされていますが、田端説が正しいのであれば、「姫の前」についての私見、すなわち「姫の前」は比企氏の乱(1203)の結果、義時と離婚させられたのではなく、その前に「姫の前」の側から離婚を「宣告」した、という考え方(超絶単独説)は、政治史の面にも波及しますね。
鎌倉期の武家社会が、当事者、というか夫の意思で自由に離婚できる社会から「婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれた」社会になっていたとすると、義時と「姫の前」の離婚は北条家と比企家の「結合の破綻を意味することになり」ます。
とすると、二人の離婚が比企氏の乱の原因の一つではなく、主因であった可能性すら出てきますね。
ま、私見では、「姫の前」はそんな面倒くさい家と家の関係など知ったことか、とさっさと義時に三行半を突き付け、のんびり京都まで大名旅行をして、義時のような野暮ったいマッチョとは異なる教養溢れる歌人の源具親と再婚して楽しく暮らしていたのだろうと思いますが。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/babd1dd5ca102ffbaab5d68f32abce50
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67926550b1660dd6064a65b821b6b46a
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b876a9cd6219d69351ec2679a7f2c2c1
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」

2022-01-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月24日(月)21時58分56秒

山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。

-------
成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。


星論文の構成は、

-------
1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
 1 武家の場合
 2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
 1 藤原実宣の場合
 2 藤原国通の場合
 3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
 1 藤原公棟の婚姻と離婚
 2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
 3 離婚不当の訴え
5 おわりに
-------

となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)

-------
 1 藤原公棟の婚姻と離婚

(18)嘉禄二年五月二十七日条
   中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
   といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。

 ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、

(19)嘉禄二年六月十日条
   世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
   定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。

とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
-------

結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。

北条時村 (時房流)

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。

>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、

これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

宗親と時親に関する宝賀寿男氏の意見 2022/01/23(日) 09:41:28(ザゲィムプレィアさん)
1/21の投稿「牧宗親は池禅尼の弟か? 」で紹介した宝賀氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』から引用します。
----------
大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(
比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
 『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、
その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
 これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。
----------

なお愚管抄について「時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」
を引用していて、同時代史料と認めた上で以下のように述べています。
----------
『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
----------

大河寸評 2022/01/24(月) 21:41:37(筆綾丸さん)
『鎌倉殿の13人』第3回は、文覚(市川猿之助)が頼朝の前に伝義朝髑髏を放り投げて辞すときの、
「(そんなものは)ほかにもまだあるから」
という捨て台詞が素晴らしかった。猿之助は三谷映画の端役として絶妙な味を出していますが(『ザ ・マジックアワー』では、まだ亀治郎だったので、往年の時代劇スター・カメという端役でした)、これも大河ドラマの名場面になるかもしれません。

慈円は、
おほけなくうき世の民におほふかな
わが立つ杣に墨染の袖??(小倉百人一首95番)
などと殊勝な歌を詠んでますが、愚管抄の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹二子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ」というような一文を読むと、天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、とあらためて思います。
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「いまどき連名の論文は珍奇なようであるが」(by 細川重男・本郷和人氏)

2022-01-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月22日(土)23時30分4秒

念のため書いておくと、前回投稿の「「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので」云々はもちろん冗談です。
ま、近時のある出来事をヒントにはしていますが。
さて、従前の常識に従って時政と牧の方の結婚が牧の方の父の承認を得た政略結婚であり、かつ身分違いの年の差婚であったとするならば、時期的にはやはり頼朝が石橋山合戦の敗北から奇跡的に立ち直って、東京湾を一周廻って鎌倉に入った治承四年(1180)十月六日以降じゃないですかね。
牧の方の父としては、それまでは北条など身分違いと思っていたとしても、時政の地位が劇的に向上したのを見て、世の中、やっぱり金と実力だよね、という方向にあっさり転換し、娘を嫁がせたのではなかろうかと私は想像します。
そして、山本みなみ氏によれば、牧の方は文治三年(1187)に宇都宮頼綱室、文治五年(1189)に政範を生んだ後、もう一人娘(坊門忠清室)を生んでいて、都合「一男五女」という多産の女性ですが、婚姻のときに三十歳くらいまでであれば「一男五女」を生んでもそれほど不自然ではないはずです。
山本みなみ氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)によれば、

-------
 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。


とのことですが(p2)、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当な理解だと思います。
ただ、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
うーむ。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように感じます。
なお、細川・本郷論文の「はじめに」には、

-------
 鎌倉幕府を領導した北条氏とは、そもそもどのような家であったのか。そしてどのようにして武家政権の中枢に近づいていったのか。五味文彦先生の『吾妻鏡』の研究会を通じ、細川と本郷は共通の疑問をもち、議論を重ねてきた。そしてその作業の中から、いま一定の知見を得るに到った。そこで本稿を公にし、大方の批判を待ちたいと考える。
 いまどき連名の論文は珍奇なようであるが、本稿は両名共同の研究作業の成果であり、やむを得ずかかる形をとることにした。1は本郷、2と3は細川が主に叙述したが、私たちは本稿全体への責任を共有するものである。
-------

とありますが、二十年前の両者の関係とその後の推移を知っている私としても感懐の深いものがあります。

>筆綾丸さん
>牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。

そうですね。
女優ですから本気で化粧すれば十代にも化けるのでしょうが、自然な年代設定でしたね。

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の出自と池禅尼との関係については、ツイッターでも「千葉一族」というホームページを運営されている方からご意見を伺っています。
正直、つい最近、この問題に関わるようになった私には対応する能力がありませんが、大河ドラマの進展に合わせて、もう少し深めて行きたいと思います。

-------
武者所宗親と大岡時親は同一人物ではないかと思っています。あくまでも推測ですが。
『愚管抄』によれば、「大舎人允宗親」は「牧の方」と「大岡時親」の父。『吾妻鏡』では「牧の方」の兄弟が「武者所宗親」。(続く)

-------
牧の方の父「大舎人允宗親」や「牧武者所宗親」と同一人物とされる、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は、保延2(1136)年12月21日に諸陵助に任じられています(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。

※筆綾丸さんとザゲィムプレィアさんの下記三つの投稿へのレスです。

炯眼 2022/01/21(金) 19:24:11(筆綾丸さん)
小太郎さん
牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。野暮なのは研究者だ、と。

https://www.nhk.or.jp/bunken/accent/faq/1.html
NHKは、北条を頭高型(ホウ\ジョウ)で発音するのですが、平板型の発音に慣れている私には、別の氏族のような違和感があります。

牧宗親は池禅尼の弟か? 2022/01/21(金) 21:16:29(ザゲィムプレィアさん)
小太郎さんが紹介された野口実氏の『伊豆北条氏の周辺』を読み、改めて池禅尼の周辺を調べてみました。

宝賀寿男氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
結論は弟であることを否定しています。系譜研究者の文章は慣れていないのですが、なかなか興味深いものでした。
なお、(2002.8.9記)という文章です。

以前に紹介した『資料の声を聴く』を運営している原慶三氏が宝賀氏を取り上げているのですが、そこで『諸陵助宗親について』を見つけたので引用します。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1180.html
----------
 池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
 まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
 兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
 源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢を歴代下野守に挿入可能な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。
----------
可能性としては死亡以外に長患い或いは出家もありますが、いずれにしてもこのようなキャラクターが地方に下り荘官になることは無いでしょう。
この結論が正しいとすれば、時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚ということになります。

幽霊 2022/01/22(土) 13:13:55(筆綾丸さん)
ザゲィムプレィアさん
幽霊の正体見たり枯尾花
といったところでしょうか。
余談ですが、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の主人公は牧文四郎といいますね。
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「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)

2022-01-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月21日(金)13時50分40秒

>筆綾丸さん
>「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、

全くその通りですね。
18日の投稿で引用したように、呉座氏は、

-------
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。


と書かれていたので、私は山本みなみ氏の推定が相当確実なのだろうと判断し、そうであれば「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」も考慮すべきなのかな、と思ってしまいました。
しかし、「杉橋氏のシミュレーション」を修正した山本氏の「一次方程式」と杉橋説では、いくら野口実氏の太鼓判がついていようと、少なくとも時政・牧の方の結婚時期については全く説得力がありません。
牧の方の結婚時の年齢についても、私は「平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚」で、かつ親子ほどに年齢が離れた究極の年の差婚であることを考えると、牧の方も再婚のような感じがするのですが、研究者が誰もその可能性に言及しないのは不思議です。
いずれにせよ、結婚というのは好き嫌いという感情を含め、偶然の事情が大きく左右するので、例えば牧の方が、最初は身分と年齢の釣り合いがとれた貴族社会の男性と結婚したものの、相手が死ぬか「性格の不一致」で離婚して、実家に戻っていたところ、それを心配した父親が、まあ、身分不釣り合いの年の差婚でも仕方ないか、ということで、政治情勢とは全く関係なく、結婚を認めた、という可能性もありそうです。
また、牧の方は時政失脚後も離婚などせず、伊豆北条で落魄の時政の世話を続けていたようですから、時政への愛情は深かったように思われますが、そうであれば、時政・牧の方の間に頼朝と政子のようなラブロマンスが絶対になかったとも言い切れません。
「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので、もともと貴族社会の軟弱男など好きでなかった牧の方は時政のワイルドな魅力に惹かれ、父親が身分違いだの年の差がありすぎるなどと反対したにもかかわらず、駆け落ち同然に時政邸に赴いた可能性だって絶対にないとは言い切れないはずです。
とか書きながら、まあ、それは多分なかったと思いますが、とにかく結婚というのは様々な偶然が関るので、特定の政治状況から、直ちにその時期を確定するなどというのはおよそ無理ですね。
そして当時の政治状況にしても、山木邸襲撃はともかく、石橋山合戦は、よくまあここまで無謀な戦いに生き残れたものだ、と感心するような悲惨な戦闘です。
頼朝の挙兵は乾坤一擲の大博奕で、普通だったらあっさり敗北して時政も野垂れ死だったはずが、奇跡的に何とか生き残った訳ですからね。
その後、東京湾を一周廻っている間に頼朝の勢力は急速に膨張しますが、その結果を遡らせて、まるで頼朝が勝つのが当然だった、頼盛も頼政も、牧の方の父親も、みんなそれを予知していた、みたいな書き方は、「むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」とトーンダウンさせても、やはり無理が多く、呉座氏が嫌う「結果論的解釈」そのものではなかろうかと思います。

呉座勇一氏「源頼朝は朝廷からの独立を目指したか?」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

三頼説? 2022/01/21(金) 10:48:30
小太郎さん
「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、まるで、頼朝は成功すべくして成功したのだ、と言っているように素人には思われます。伊豆の流人の存在感が眩しすぎてクラクラします。
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「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)

2022-01-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月20日(木)22時02分35秒

「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」という山本みなみ説を数式で表すと、

(時政・牧の方の結婚時期)=(八女頼綱室の生年)-3×(政範の生年-八女頼綱室の生年)-1

となりますね。
二年の間隔で四女(稲毛重成室)・五女(平賀朝雅室)・七女(三条実宣室)・八女(宇都宮頼綱室)の四人が生まれ、八女の生年は1187年ですから、四女が生まれたのは2×3年前の1181年、そして時政・牧の方の結婚はその一年前の1180年という計算です。
これはたまたま(政範の生年-八女頼綱室の生年)=2の場合の話ですが、もう少し一般的に、

Y:時政・牧の方の結婚時期
X:政範の生年-八女頼綱室の生年

とすると、

Y=1187-3X-1=1186-3X

ですね。
従って、

仮に政範と八女が1歳違いであったならば、Y=1183
仮に政範と八女が3歳違いであったならば、Y=1177
仮に政範と八女が4歳違いであったならば、Y=1174

となります。
こう書くと、まるで私が山本説を莫迦にしているように見えるかもしれませんが、「機械的」な「仮定」がある種の滑稽感を伴うことは否めないですね。
そして、山本氏は牧の方が「二十代で一男五女を儲け」たと「仮定」するので、「牧の方腹」の最初の娘が生まれたときに牧の方は二十歳とされますが、これも格別の根拠はないはずです。
身分違いの結婚で、しかも夫の年齢が相当に上となると、牧の方が再婚の可能性もあって、その場合、三十歳くらいまでだったら「一男五女を儲け」ることもさほど不自然ではないはずです。
ま、結局は良く分らず、時政・牧の方の結婚時期は不明といわざるを得ないですね。
しかし山本氏は、「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされるので、その理由を探ったら、杉橋隆夫氏の見解に野口実氏が同意したというだけの話のようです。
まあ、私は杉橋論文をあまり高く評価できないので、山本氏の最終的な結論にも賛成しがたいですね。
ところが、呉座勇一氏は山本氏の見解を妥当とされているようで、『頼朝と義時』において、先に紹介した部分に続けて次のように書かれています。(p36以下)

-------
 前述の通り、池禅尼は死罪になるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願している(20頁)。その実子が、先に触れた平頼盛である。池禅尼は清盛生母(既に死没)よりはるかに身分が高く、朝廷内に広い人脈を持っていたため、清盛にとって頼盛の存在は脅威であった。池禅尼が亡くなると両者の関係は悪化し、清盛は頼盛を一時失脚させている。政界復帰後の頼盛は清盛に従順になったが、清盛と後白河法皇の関係が険悪になると、後白河と親しい頼盛の立場も微妙なものになった。
 頼朝と政子が結婚した治承元~二年頃は、平家打倒の陰謀が露顕したとされる鹿ケ谷事件の直後である。そして平清盛によるクーデターである治承三年の政変で、頼盛は一時失脚している。
 以上の状況において、平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚が、頼盛と無関係に行われたとは考えにくい。頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう。むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか。
 頼朝と政子が結婚した当時、伊豆国の知行国主は源頼政であった。知行国主とは受領(国守)の任免権を持つ者のことである。この場合、頼政は伊豆守を任命でき、嫡男仲綱を伊豆守にしている。すなわち、頼政は伊豆国の最高権力者であった。
 源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、武門源氏の中で最も羽振りが良かった。平清盛と良好な関係を保ち従三位まで昇叙したが(武門源氏初の公卿)、一方で源義賢(19頁)の遺児仲家を養子にするなど、源氏一門の生き残りを保護していた。また頼政は八条院に奉仕していた。
 八条院暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院の娘で、亡き鳥羽法皇から膨大な荘園群を相続していた。平頼盛は八条院の乳母の娘を妻に迎えており、多数の八条院領荘園の管理を任されていた。清盛に敵対する意思は八条院本人にはなかったが、八条院の周囲には清盛に対して複雑な感情を抱く政権非主流派が集まっていたのである。
 平頼盛─源頼政─源頼朝の提携という政治的動きの中で、頼朝岳父である北条時政と、牧の方の婚姻は進められた。時政にしてみれば、頼朝への先行投資が早速実を結んだ、といったところだったろう。だが自体は、時政の思惑を超えて急転する。
-------

うーむ。
最初にこの文章を読んだときは、呉座氏の洞察は鋭いな、と思ってしまったのですが、山本論文の結論があまり信頼できないとなると、呉座氏の見解も些か微妙な感じがしてきますね。
薄氷の上に積み重ねた議論、砂上の楼閣ではなかろうか、という疑問を抱かざるをえません。

>筆綾丸さん
先崎彰容氏の斎藤幸平批判はネットでも読めますね。
私にも多少の感想がありますが、また後程。

「ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2022/01/20(木) 14:47:00
大森金五郎の「マンマと」とか「ムチャな」とかの語彙をみると、歴史学の泰斗というより、落語好きの下町のオヤジのような趣があります。夏目金之助と同い年なんですね。

文藝春秋二月号に、『「鎌倉殿の13人」を夫婦で楽しむ』と題して、本郷恵子・本郷和人両氏の対談があります。
----------
本郷和人??こうやって夫婦で対談するのは、初めてだね。
本郷恵子??そうね。
(中略)
恵子??(藤原)邦通は頼朝のために目代の館で行われる酒宴に参加し、現地を調査して館とその周辺の地図を作成している。映画『幕末太陽傳』でフランキー堺さん演じる佐平次のような人物を想像してください。お酒も飲めて場を盛り上げるし、手紙の代筆もできて、いろいろな知識もある・・・・・・。
和人??それじゃ、僕みたいだ(笑)。
恵子??いや、そんなことはない。フランキー堺はもっと垢抜けてる(笑)。(354頁~)
----------
狸夫婦の漫談ですね。

同月号に、先崎彰容氏が、「人新世」の『資本論』に異議あり、と斎藤氏を批判しています。宗教じみた主張をするな、正義に飛びつくな、と。
----------
結局、私たちの歴史がマルクス主義から得た苦い経験とは、「行動」と「連帯」が人々の自由を奪ってきたこと、大量の粛清を許し、管理社会を生みだしてしまう「逆説」にあった。正義が、義侠心が、大量の死者を生みだすことは逆説以外の何ものでもないではないか。(295頁)
----------
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野口実氏「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」

2022-01-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月20日(木)13時33分29秒

ひょんなことから野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を都合三回精読する羽目になりましたが、この論文は非常に面白いですね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

全体の構成は、

-------
はじめに
一、北条時政に対する諸家の評価
 (一)大森金五郎
 (二)佐藤進一
 (三)上横手雅敬
 (四)安田元久
 (五)河合正治
 (六)福田以久夫
二、中世成立の北条氏系図の比較と検討
三、北条時政の係累
 (一)北条時定と服部時定
 (二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠
 (三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親
むすびに
-------

となっていますが、私は特に第三章の第二節と第三節に刺激を受けました。
まず、「(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠」には、

-------
 ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(二〇〇四年)第二編第五章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、一九九七年)。
 この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(一一九二)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(一一八一)二月ごろ加賀にあり、同年十月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(一一八五)八月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。【後略】
-------

とありますが(p101以下)、ここでは国文学と歴史学・考古学の見事な連繋を見ることができますね。
また、「(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親」には、

-------
 『吾妻鏡』に記されたこの痴話話のなかで納得できないのは、北条氏よりも高いステイタスにあり、牧の方の父である宗親がどうして政子に仕えるような境遇にあるのか。そして、たとえ頼朝の怒りを買ったとはいえ、当時の社会における成人男子にとって最も恥辱とされるような羽目に陥らざるを得なかったのかという点である。
 宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる。また、その官歴について『愚管抄』は大舎人允、『尊卑分豚』は諸陵助としている。ところが、亀の前の事件を記す『吾妻鏡』に、彼は「牧三郎」として登場し、文治元年(一一八五〉十月二十四日条からは「牧武者所」となり、最終所見の建久六年(一一九五)三月十日条まで変わらない。大舎人允や諸陵助の官歴を有するものが武者所に補されることは考えがたく、ここには何らかの錯誤を認めざるを得ないのである。
 私は『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親にかかるものであると推測する。同書建仁三年(一二〇二)九月二日条に「判官」として初見する大岡時親を宗親と混同して伝えたものと考えるのである。この記事は『愚管抄』の「大岡判官時親とて五位尉になりて有き」という記事に符合する。ついで時親は『明月記』元久二年(一二〇五)三月十日条や『吾妻鏡』同年八月五日条に備前守として登場するが、武者所→判官→備前守という官歴は制度的にも年代的にも整合するところである。したがって、『吾妻鏡』に見える宗親の所見はすべて時親に置き換えられるべきで、宗親は頼朝挙兵以前に死没していた可能性が高いのではないだろうか。
-------

とあります。(p104以下)
「宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる」にもかかわらず、『吾妻鏡』には妙に軽い存在として描かれている謎は、「『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親」であるならば、確かに綺麗に解けそうです。
まあ、『吾妻鏡』の原文を正面から否定することには若干の躊躇いは感じますが、『吾妻鏡』編纂時には、牧氏関係者は全体としてその程度の扱いを受けるほど軽い存在になっていた、ということなのかなと思います。
編纂当時に牧氏の子孫が幕府内でそれなりの存在感を維持していたら、「亀の前」事件が全面削除される可能性もあったでしょうね。

池禅尼(1104?-64?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
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山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その3)

2022-01-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月20日(木)11時35分21秒

山本氏は「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」とされます。
この「仮定」は何とも強引なものですが、この強引な「仮定」に基づいて遡っても、北条時政と牧の方の婚姻時期は治承四年(1180)止まりですね。
しかし、山本氏は更に「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされています。
そこで、その理由を知ろうと思って、「婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる」に付された注53に従って野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を読んでみたところ、不思議なことに野口氏はそのようなことを書かれていません。
この野口論文は京都女子大学サイトで読めるので、私は昨日二回、今朝も一回読んでみましたが、やっぱりありません。

「伊豆北条氏の周辺 : 時政を評価するための覚書」

そもそも山本氏の注記には些か不審なところがあって、

(53)野口B前掲注(4)論文。

に従って、注(4)を見ると、

(4)野口実A「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・品川氏と北条氏を中心に─」(『研究紀要』一九号、京都女子大学宗教・文化研究所、一九九九年)、同B「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書─」(『研究紀要』二〇号、京都女子大学宗教・文化研究所、二〇〇〇年)【後略】

となっているのですが、A論文が発表されたのは2006年、B論文は2007年ですね。
そこで私は、もしかしたら山本氏はA論文とB論文を取り違えているのではなかろうかと思ってA論文も読んでみました。

「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」

この論文は、

-------
はじめに
一  大井・ 品川氏と品川湊
二  伊豆北条氏の系譜とその本拠
 1 北条氏の出自
 2 伊豆国衙周辺の人的環境
 3 円成寺遺跡の語るもの
むすびに
-------

と構成されていますが、「1 北条氏の出自」の「時政が池禅尼の姪にあたる中流貴族出身の女性( 牧の方)を妻に迎え」(p57)に付された注(10)(p66)に、

(10)杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年) 。この論文における牧の方の年譜のシュミレーションには、政範の出産を四十六歳の時とすることなどに無理を感じざるを得ないが、時政と牧の方との婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることについては間違いないと思う。

とあって、私が探し求めていたのはどうやらこの記述のようですね。
ただ、ここには別に野口実氏の独自の見識は披露されておらず、杉橋論文に対する単なる感想ですね。
うーむ。
私の努力はいったい何だったのでしょうか。

>筆綾丸さん
>①五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)

当時、貴族社会では鎌倉の有力者の娘を妻に迎えることが出世と財産獲得の極めて有力な手段になっていたので、正妻と離縁して武家の娘を妻に迎えるような例もありました。
従って、時政娘の場合、「側室」ではなく「正室」と考えるべきだと思います。
ただ、系図類の作者は、ここは身分違いだから「妾」だろう、みたいな解釈を加えていることがありそうです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

婚姻のかたち 2022/01/19(水) 12:46:02
小太郎さん
牧の方の娘のうち、貴族に嫁した者は、
①五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
②七女(実宣の側室)
③八女(頼綱の正室、のち、師家の側室)
④九女(忠清の側室)
というような理解でいいのでしょうね。
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山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)

2022-01-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月19日(水)12時21分16秒

牧の方と「牧の方腹で貴族に嫁した」四人の女性については『サライ』サイトの山本氏の記事を参照して頂きたいと思います。

京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1033821
続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1036729

念のため「表Ⅰ 時政の娘たち一覧」から、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人以外の娘たちの母親と婚姻相手を挙げると、

 長女(政子) 先妻(伊藤祐親娘か) 源頼朝
 二女     先妻(不明)     足利義兼
 三女(阿波局)先妻(不明)     阿野全成
 四女     後妻牧の方か     稲毛重成
 六女     先妻(不明)     畠山重忠→足利義純
 不明     不明         河野通信
 不明     不明         大岡時親

とのことで、牧の方が産んだ娘は貴族との婚姻率が極めて高いですね。
さて、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人のうち、生年がはっきりしているのは「宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女」だけで、この人は『明月記』に再嫁の時の年齢が四十七歳と明記されているので、文治三年(1187)生まれとなります。(p6)
また、男子は政範が八女の二歳下で、文治五年(1189)生まれですね。
ここまでは山本氏の論証は丁寧で説得的ですが、肝心の時政・牧の方の婚姻時期の推定は些か荒っぽいように思われます。
即ち、「二、牧の方の評価」の「(一)時政・牧の方年譜の再検討」に入ると、最初に杉橋説が成り立ちがたいことを検討された後で、

-------
【前略】前章で検討した娘たちの生年も含め、牧の方の年齢を再検討したのが上記の年譜である。生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした。
 杉橋氏は「時政・牧の方年譜」において、藤原為家と宇都宮頼綱の娘(牧の方の孫娘)との間に生まれた為氏が貞応元年(一二二二)の誕生であることなどから、頼綱室の生年を承安二年(一一七二)と仮定されているが、彼女は天福元年(一二三三)に再嫁したとき四十七歳であり、生年は文治三年(一一八七)に確定する。また、細川氏・本郷氏は五女(朝雅室)・八女(頼綱室)・政範の生年を仮定されているが、うち後者二名について生年が判明することはすでに指摘したところである。
 稲毛重成室の母は不明であるが、杉橋氏・野口氏が指摘されているように、稲毛重成の行動形態からみて牧の方腹の可能性が高いと考え、年譜に加えた。下線部分は史料による裏付けを得るものである。
 時政と牧の方の年齢差は二十四、牧の方は政子の五つ年下となる。重要なのは杉橋氏の指摘②③に関わる、時政と牧の方の婚姻時期はいつなのかという問題である。牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となったが、治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか。したがって、婚姻を平時の乱以前まで遡らせ、頼朝配流の背景に牧の方を介した池禅尼と時政の関係を推定する杉橋氏の見解に従うことはできず、平治五年(一一五九)には牧の方はまだ生まれてさえいなかったのではないかと思われる。
-------

とされるのですが(p9以下)、「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」との山本氏の発想にはちょっと驚きました。
このような、私にはどうみても強引と思われる仮定の結果、山本氏は「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」において、

治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か/八月頼朝挙兵
養和元年(1181)四女(重成室)誕生 <牧の方20歳)>(細川・本郷氏は時政・牧の方の婚姻を推定)
寿永二年(1183)五女(朝雅室)誕生 <牧の方22歳)>
文治元年(1185)七女(実宣室)誕生 <牧の方24歳)>
文治三年(1187)八女(頼綱室)誕生 <牧の方26歳)>
文治五年(1189)政範誕生(時政52歳)<牧の方28歳)>(細川・本郷氏は牧の方21歳と推定)
建久二年(1191)九女(忠清室)誕生 <牧の方30歳)>

とされるのですが、まあ、単なる数字合わせ以上のものではないですね。
「他の子女も機械的に二年ごとの出産」というのは、あるいはそのくらい間隔を置いた方が子育てがしやすいだろうという事情も考慮されたのかもしれませんが、それは現代人の発想であって、当時の有力武士クラスの女性は自分で子供を育てる訳ではなく、乳母にまかせるのが普通のはずです。
結局、山本氏の「牧の方腹で貴族に嫁した」女性たちの検討結果にもかかわらず、時政と牧の方の婚姻時期は分からないとしか言いようがありません。
そして山本氏自身も「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」では「治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か」としながら、結局は「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう」とされる訳ですが、これは野口実氏の研究を加味した推論です。
そこで、山本説の当否を判断するには野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)という論文を検討する必要が生じてきます。
なお、「機械的」云々は、2007年に政治問題化した柳澤伯夫氏(当時厚生労働大臣)の「女性は生む機械」発言を連想させ、ちょっとドキッとしますね。

柳澤伯夫(1935生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%BE%A4%E4%BC%AF%E5%A4%AB
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山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)

2022-01-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月18日(火)22時30分17秒

ツイッターで野口実氏が紹介されていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)という論文を入手したので、その感想を少し書きます。
野口氏らが提起された「北条氏は都市的な武士か」という問題に関連して、「北条時政とその後妻・牧の方の結婚時期はいつか」という問題が近時議論されています。
論点を明確にするため、呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)から少し引用させてもらうと、

-------
 北条時政が都市的な武士であるという新説は、時政の結婚をも根拠にしている。時政の後妻は牧の方だが、その出自は長らく不明だった。ところが杉橋隆夫氏が、牧の方は平忠盛(清盛の父)の正室である宗子(池禅尼)の姪であることを明らかにした。牧の方の父である牧宗親は、池禅尼の息子である平頼盛(清盛の異母弟)の所領である駿河国大岡牧(静岡県沼津市・裾野市)の代官を務めていた。
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
-------

といった具合です。(p35)
まあ、杉橋説はいくら何でも無理だろうと思いますが、山本氏が「二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前」、「頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定」した理由が気になります。
そこで山本論文を見ると、まずその構成は、

-------
 はじめに
一、牧の方腹の娘たち
(一)婚姻関係の検討
   ①五女(平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁)
   ②七女(三条実宣と婚姻)
   ③八女(宇都宮頼綱に嫁したのち離縁し、松殿師家に再嫁)
   ④九女(坊門忠清に嫁す)
二、牧の方の評価
(一)時政・牧の方年譜の再検討
(2)晩年の牧の方
 おわりに
-------

となっています。
「はじめに」では、杉橋隆夫・野口実氏の業績に触れた後、

-------
興味深いことに、牧の方腹の娘は鎌倉幕府に仕える有力御家人だけでなく、京都の貴族にも嫁いでおり、私見では北条氏の政治的地位や姻戚関係を考察する上でも貴重な手がかりになると考える。そこで、本稿では北条氏を評価するための基礎的研究として時政の子女、殊に牧の方が産んだ娘たちに注目し、その生年や婚姻関係を論じたい。さらに、娘たちの検討を踏まえて、牧の方と時政との婚姻時期や、晩年の牧の方と幕府の関係についても考察したい。
-------

とされています。(p1)
そして「一、牧の方腹の娘たち」に入ると、

-------
 本章では、時政と牧の方との間に生まれた娘について検討する。系図や記録から時政の子女と見なされる者は十五名にのぼり、うち男子は宗時・義時・時房(以上先妻腹)・政範(牧の方腹)の四名、女子は十一名である〔表Ⅰ参照〕。
 女子十一名のうち、牧の方腹で貴族に嫁したのは以下の四名である(再嫁も含む)。
 ①平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁した五女
 ②三条実宣に嫁した七女
 ③宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女
 ④坊門忠清に嫁した九女
 以下、それぞれの娘を検討したい。なお、娘の生年順は、野津本「北条系図・大友系図」(田中稔「史料紹介野津本『北条系図、大友系図』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、一九八五年。『福富家文書─野津本「北条系図・大友系図」ほか皇学館大学史料編纂』皇学館大学出版部、二〇〇七年)に拠るものである。
-------

とあります。(p2)

>筆綾丸さん
>昨日の『鎌倉殿の13人』

時政・牧の方の描かれ方は「北条時政が都市的な武士であるという新説」にずいぶん寄っている感じでしたね。
まあ、野口実氏はおそらく満足されていないでしょうが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

かに くり あをな うり かうし 2022/01/17(月) 13:30:19
小太郎さん
http://www.transview.co.jp/smp/book/b442696.html
まだ読んでませんが、西村玲氏が存命なら、宗教的空白あるいはゾンビ・ブディズムに関して、どんな見解を有したか、訊いてみたいところですね。

昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の好物として、かに、くり、あをな、うり、かうし、と和紙に達筆で記してあるシーンを見て吹き出してしまいました。
かには平家蟹、くりは勝栗、うり(瓜)は挙兵間近で今が売り、というパロディーだと思いますが、あをなはわかりません。かうし(柑子)は、現在の伊豆に多い蜜柑畑を踏まえ、都育ちの頼朝が伊豆に流されて蜜柑好きになった、ということなんでしょうね。歴史に残る名場面だと思いました。話の展開は、まあ、どうでもいいようなことです。
付記
頼朝は政子が出したアジを食べてましたが、東伊豆の湯河原、熱海、伊東と言えば、蜜柑の他ではアジの干物が有名ですね(小田原は蒲鉾と塩辛です)。ただ、伊豆の北条という地からすると、海の幸よりも、狩野川のアユ(塩焼き)のほうが相応しかったのではないか、という気がしました。
徒然草第40段に、栗をのみ食らう異様な女の話がありますが、佐殿は好き嫌いがあるとはいえ、バランスよく食べていたようです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8F%9C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
あをなは、落語の「青菜」を踏まえ義経を暗示しているのだ、ということかな。
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社会の精神的安定にとって必要なのは「ビリーフ」ではなく「プラクティス」である。

2022-01-16 | 『鈴木ズッキーニ師かく語りき』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月16日(日)15時40分6秒

「宗教的空白」についてあれこれ考えてみたのは2016年のことで、同年の「新年のご挨拶」で「グローバル神道の夢物語」という妙なシリーズを始めるぞと宣言し、森鴎外の「かのやうに」を出発点に日本人の宗教観を検討してみました。

「新年のご挨拶」(2016年)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd7ebd22440a7d381781be52797bfd0a

そして、その一年間の一応の成果は翌2017年1月3日の「古代オリンピックの復活」という記事に、

-------
神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する松岡正剛氏に対しては、そんなに興奮することもないのになあと同情しつつ、実際に廃仏毀釈に多数の「殉教者」が出たのかを検討してみたところ、「大浜騒動」など浄土真宗関係の「護法一揆」で多少の死者は出ているものの、まあ、実態は酔っ払いの暴動みたいなものが多く、純度100%の「殉教者」は皆無、という暫定的結論を得ました。
また、「真宗王国」の富山藩における廃仏毀釈の経緯が結構面白いことに気づき、これを主導した林太仲と、その養子でパリを拠点に美術商として活躍した林忠正、また富山出身の近代民衆宗教の研究者で、現在でも極めて世評の高い『神々の明治維新』の著者でもある安丸良夫氏等について検討するうちに、安丸氏の「国家神道」論は「ゾンビ浄土真宗」とマルクス主義の「習合」ではなかろうか、などと思うようになりました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b11b2faf32eea6192d065e73d0231766

などと纏めておいたのですが、結局、同年中は「夢物語」と言えるような話にはなりませんでした。
その後も「宗教的空白」について時々検討しましたが、江戸末期には本当に徹底した「宗教的空白」が存在しており、明治に入ってむしろ、文明国には「宗教」が必要ではないかと考えてキリスト教に入信する人、逆にキリスト教に対抗するために仏教を革新するのだ、といった方向に目覚めた人が増えて、「宗教的空白」の範囲はかなり縮小していますね。
これはもちろん私の発見ではなく、例えば渡辺浩氏の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『東アジアの王権と思想 増補新装版』、東京大学出版会、2016)には、明治維新前後の頃の「宗教的空白」がいかに徹底したものであったかが具体的に描かれています。

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4374da95a1226e9bc0ea736416ba2c70

細かいことを言えば渡辺論文には問題が多いのですが、基本的な認識については私も渡辺氏に同意できます。
そして、武士のみならず上層農民レベルでも、近世の相当早い時期に「宗教的空白」の存在が確認できますね。

『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c50e451a30bc8476cb288a49b36481
『東アジアの王権と思想』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3bd3406a87113eb41b992b55eaa44cdf

私は最初は「宗教的空白」が歴史的にどこまで遡れるのか、という観点から調べていたのですが、過去に遡れば遡るほど宗教感情が篤いということではなくて、拡大と縮小の大きな周期があるようです。
もちろんいつの時代にも篤信者と「狂信者」はそれなりの割合で存在しますが、中世まで遡ってみたところ、南北朝期は日本史上「宗教的空白」が特別に拡大した時期ではないかと思われます。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ec9ad3c8d2402ccd944273dbe413d

南北朝の動乱が終わって以降の「宗教的空白」の変動については未検討ですが、近世に入ると「宗教的空白」は徐々に拡大して、幕末に最も増大する感じですね。
ただ、以上に述べてきた「宗教的空白」とは、磯前順一氏の用語に従えば、「ビリーフ」(概念化された信念体系)が「空白」だということで、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)は一貫して、広く薄く継続して来たように思われます。
そして、日本社会に精神的安定をもたらしたのは、少数の「ビリーフ」派ではなく、大多数の「プラクティス」派だろうというのが私の暫定的な結論です。

資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1039590e0e95bd9c21a8ee30f8ba03fe
コメント
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