学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

遠藤基郎氏によるストイックな『太平記』研究の一例

2020-09-30 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月30日(水)12時45分37秒

山口昌男の『太平記』論を紹介する前に、山口説と対照的な、極めてオーソドックスでストイックな『太平記』研究の一例として、東京大学史料編纂所教授・遠藤基郎氏の「バサラ再考」(『東京大学史料編纂所研究紀要』22号、2012)を少し見ておきたいと思います。
一般には入手が困難なこの雑誌に載った「バサラ再考」は、幸いなことにリンク先で読むことができます。

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-01.pdf

遠藤基郎氏には『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008)という一般人には近寄りがたい高度な専門書があって、あまりに高度なので、私には遠藤氏が後宇多院の没年を三年ほど勘違いしている程度のことしか指摘できません。

『中世王権と王朝儀礼』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98ea25202f216779a03d763b36806c37

さて、この論文の全体の構成は、

-------
はじめに
1 網野説の検討
(1)『江談抄』の賀茂祭説話
(2)『峯相記』の悪党
2 「婆娑」と芸能のバサラ
(1)真言院後七日御修法宿坊での「狂乱婆娑」
(2)舞楽の婆娑
(3)芸能のことば「バサラ」
(4)バサラ扇
3 南北朝期初期の過差禁制とバサラ
(1)建武政権の過差禁制
(2)『建武式目』以後の過差禁制
4 『太平記』のバサラ
5 バサラ再考─政治史として
(1)前史─芸能の婆娑・ら
(2)バサラの登場
(3)『太平記』とバサラ
むすびに
-------

となっていますが、「5(2)バサラの登場」に、遠藤氏による史料の引用の仕方が些か恣意的ではないかと思われる部分があります。
参照の便宜のために転載します。(p14)

-------
 権勢を誇る武士たちは、うかれてそぞろに出歩き、先々で茶会・酒宴の大宴会が催され、酔いにまかせて巷を闊歩した。まさに遊興三昧である。そうした有様を彷彿とさせるものこそ、次の一説である。
〔史料20〕『太平記』巻二三 土岐参向御幸致狼藉事
  此比殊ニ、時ヲ得タル物共ヨト覚シキ武士之太ク逞シキ馬ニ、千鳥
  足ヲ蹈セ、段子金襴之小袖、色々ニ脱係テ脇ヨリ余セルモ有リ、下
  人之頚ニ巻タルモアリ、金銀ヲ打クゝミタル白太刀共、小者中間
  ニ持セ唐笠ニ毛踏帯テ、当世早ヤル田楽節、所々打揚テ、酒アタヽ
  メ、殘セル紅葉手毎ニ折カサシ、五六十騎カ程、野遊シテ帰リケ
  ルカ、
 これは、有名な土岐頼遠による光厳院御幸射撃事件の直後の逸話であり、折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう。
-------

遠藤氏は「白川とは異なり、原『 太平記』にもっとも近いと考えられる西源院本( 大永・天文年間成立) を使用」(p11)されているので、内容は私が既に紹介済みの兵藤裕己氏校注の岩波文庫版と全く同一です。

『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1b1f8e19748a15aea2b63085b4c9593
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46025f24aba5b546df4fdc2830c7663f

遠藤氏は「折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう」としており、別に間違いではありませんが、しかし、「五六十騎カ程」の武士の方も、「すはや、これこそ件の院と云ふ恐ろしき物よ」と云ひて、一度にさつと馬より下り、哺蒙りを弛し、笠を脱いで、頭を地に付けてぞ畏まつたる」という「失態を演じて」しまっている訳で、遠藤氏は何故に武士側の行動を綺麗さっぱり除去してしまわれるのか。
遠藤氏の書き方だと、このエピソードが笑い話であることに気づかない読者が大半だと思いますが、真面目な議論をしたい遠藤氏は、あくまでこの話が歴史的事実の記録なのだと思わせたいのですかね。
私が思うに、このエピソードはおよそ歴史的事実の記録ではなく、あくまで創作、それも『太平記』の作者が練りに練って作ったスラップスティックコメディの傑作ですね。

『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f37c4b29b533c855865aab015a35eee

遠藤氏と同様に、『太平記の時代』の新田一郎氏も、このエピソードを真面目くさって論じているのですが、正直、笑い話を笑えない両氏はちょっと変なのではなかろうか、と私は感じます。
間違っているとまでは言えないけれど、ひどくズレている感じですね。

「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5

笑い話に溢れている『太平記』を題材にして、歴史学者が何故にこうしたストイックな議論をしがちなのかを考えると、それは、結局のところ、『太平記』は鎮魂のための書であるという基本的認識に由来するのではないかと思います。
遠藤氏は『太平記』について、

-------
 ところで『太平記』をめぐっては、その原形本を法勝寺慈鎮上人が、直義に読み聞かせたと『難太平記』にある。先行学説は、これを手がかりに、『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している。そしてこの慈鎮こそは、後醍醐政権において、「異類異形」と称された被差別民を統括する律宗の高僧だったのである。このことはバサラを考える上で、重要である。
【中略】
 歴史の現実にあって、律宗的な戒律主義と直義の伝統的な徳治主義とは「敗者」であった。『太平記』は、彼ら「敗者」の鎮魂のための物語である。その中で語られるバサラが、非難されるべきものとなったのは、以上の構図に由来すると思われる。
-------

と纏められる訳ですが(p16)、私は全く賛成できません。
注26を見ると、「『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している」「先行学説」は、

-------
(26)長谷川端『 太平記の研究』 ( 汲古書院、一九八二年) 、砂川博「太平記と中世律僧」 (『 軍記物語の研究』 桜楓社、一九九〇年) 、五味文彦「後醍醐の物語」 (『国文学―解釈と教材の研究』三六-二、一九九一年) 、松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』 (中公新書、中央公論新社、二〇〇一年)など。
-------

となっていますが、『太平記』が「鎮魂のための物語」だと最も強調するのは松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』ですね。
他人はともかく、自分では山口昌男「門下」と認めている私は、山口理論を導きの星として、この種の「鎮魂莫迦」たちと戦いたいと思っています。

※追記(2020.10.26)
「バサラ再考」において、遠藤基郎氏があまりに堂々と「法勝寺慈鎮上人」「慈鎮門下」「この慈鎮こそは」などと書かれているので、私も追随してしまったのですが、これは「恵鎮」なんでしょうね。
「慈鎮」は天台座主・慈円(1155~1225)の諡号で、「恵鎮」の別名が「慈鎮」という話も聞きません。
遠藤氏の単なる勘違いかと思いますが、引用部分で「慈鎮」となっているので、そのままにしておきます。
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「ストイック」ではない『太平記』研究の可能性

2020-09-29 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月29日(火)12時32分6秒

小秋元段氏の『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、2005)は、

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序章 『太平記』の成立・作者・諸本
第一部 『太平記』の成立と構想
 第一章 『太平記』第二部と「原太平記」の成立
 第二章 『太平記』観応擾乱記事の一側面-「雲景未来記事」を中心に-
 第三章 因果論の位相-巻三十五「北野通夜物語」論序説-
 第四章 巻三十六、細川清氏失脚記事の再検討
第二部 古態本『太平記』の諸相
 第一章 『太平記』成立期の本文改訂と永和本
 第二章 古態本『太平記』論への一視点-西源院本の表現をめぐって-
 第三章 南都本『太平記』本文考
第三部 『太平記』諸本の展開
 第一章 米沢本の位置と性格
 第二章 毛利家本の本文とその世界
 第三章 益田兼治書写本『太平記』について
 第四章 梵舜本の性格と中世「太平記読み」
 第五章 『太平記』と『三国伝記』に介在する一、二の問題
第四部 『梅松論』の基礎的考察
 第一章 『梅松論』の成立-成立時期、および作者圏の再検討-
 第二章 『梅松論』の論理と構成
 第三章 『梅松論』と『太平記』
-------

と構成されていますが、第一部の「雲景未来記事」「北野通夜物語」の分析は私の関心とも近くて、興味深く読みました。
それにしても、『太平記』諸本の緻密な比較は、未だ誕生していない「南北朝史を語るにあたっては、『太平記』など一切用いないストイックな仕事」ほどではないにしても、なかなか「ストイック」な世界であり、素人には近寄りがたいところがありますね。
「『太平記』など一切用いないストイックな仕事」は古文書・古記録の読解について専門的訓練を受けた優秀な歴史研究者に期待するしかありませんが、あるいは小秋元氏が絶賛されている『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書、2016)の著者、呉座勇一氏などは適任かもしれません。
最近は「陰謀論」をバッサバッサと斬り捨てることに生きがいを感じておられるらしい呉座氏は、児島高徳の実在を否定した「抹殺博士」重野安繹や「太平記は史学に益なし」と主張した久米邦武を彷彿させる鋭角的な風貌の持ち主で、現代の「抹殺博士」と呼ぶにふさわしい存在ですね。

呉座勇一の直言「再論・俗流歴史本-井沢元彦氏の反論に接して」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74400
「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65110

さて、私の基本的関心は中世における天皇家の権威低下の原因と時期を探ることにありますが、そうした人々の心性、集合的な心理、社会の漠然とした雰囲気を再現しようと試みる場合、「『太平記』など一切用いないストイックな仕事」はあまり、というか全然参考になりそうもありません。
むしろ『太平記』こそが主たる素材になりますが、空気を掴むような困難な課題であるために、方法論が重要になってきます。
その方法論としては、およそ「ストイック」ではなかった山口昌男の笑いの研究が一番参考になりそうだ、というのが私の現時点での見通しであり、『太平記』の中から笑い話を抽出して、そこから天皇家の権威の低下の様相を探ってみたいと思っています。
奇矯な言い回しなので何を言っているのか全然分からないとは思いますが、とりあえず山口昌男による『太平記』研究の到達点を確認した上で、現在の歴史学の水準に照らして山口の誤解と混乱を整理し、山口理論のエッセンスを改めて『太平記』に適用した場合、何が見えてくるのかを検討したいと思います。
私にとって山口昌男は特別な存在で、私の『とはずがたり』と『増鏡』研究は山口アルレッキーノ論の応用問題でした。
山口自身は『歴史・祝祭・神話』(中央公論社、1974)の「日本的バロックの現像─佐々木導誉と織田信長」で、妙法院御所を焼いた導誉が流罪に処された際に叡山をからかった話や、大森彦七のもとに楠正成の亡霊が出た話などに触れている程度で、『太平記』に関するまとまった著作は残していませんが、中沢新一と行った対談「『太平記』の世界」(『國文學 : 解釈と教材の研究』36巻2号、學燈社、1991)には示唆に富む発言が多いので、とりあえずこの対談を手掛かりにしたいと思います。

「山口昌男と後深草院二条」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5180b315307f0e3bcf17c7920e79e98
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「小秋元段君は、初めから大器だったのではないか、と今でも時々思う」(by 長谷川端氏)

2020-09-28 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月28日(月)10時25分46秒

小秋元段氏の「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」、前回投稿で引用した部分の続きに、

-------
 かつて、文学や絵画をも歴史研究の資料として活用していこうという一時期がありました。そのとき、ちゃんと各伝本を見なければいけないと、論文にもそういう姿勢が現れていたかと思うのですけれども。あの時期に比べると歴史学の方々の文学の研究状況に対する関心は、やや後退しているように私には見えますね。
 最近、南北朝関係の本がたくさん出ていますが、そのなかで文学研究の成果が参考文献リストに載ることは極めて少ないと感じています。文学研究のほうでも実証的研究が進み、歴史学の研究に参考にしていただける成果はたくさん出ています。先ほど言いましたように、『太平記』では巻ごとの本文の古態が明らかになりつつあり、そこを踏まえていただくと、歴史学のほうでも『太平記』をひとつの着眼点として活用してもらえるのかなと思いますね。その一方で、一次史料を重視する姿勢をあくまでも貫くのなら、『太平記』など一切使わずに南北朝史を語る本が現れてもよいのかもしれません。
-------

とあります。(p41)
この後、「一次史料を重視する姿勢をあくまでも貫く」タイプとして呉座勇一氏の『応仁の乱』が絶賛され、最後は、

-------
 要するに、私の立場は、歴史研究に携わる方には文学研究の成果にもっと学んでもらいたいという気持ちがある一方で、南北朝史を語るにあたっては、『太平記』など一切用いないストイックな仕事が現れることを期待するという矛盾したものなのです。   (談)
-------

と締められています。
私も『太平記』に関しては「文学の研究状況に対する関心」が薄かったので、まずは小秋元氏の主著『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、2005)でも読んでみるか、と思って同書を入手し、パラパラ眺めてみたのですが、歴史学の研究者には些か煙たいであろう雰囲気も漂っていますね。

-------
南北朝の動乱を描いた 『太平記』の複雑な成立過程を踏まえて作品の構想・諸本の展開を詳細に考察する。 また、同時代に成立した 『梅松論』の成立・特質を論じ、 『梅松論』は 『太平記』とどのような関連・差異を持つのかを明らかにする。

http://www.kyuko.asia/book/b10784.html

まず、巻頭に長谷川端氏の「『太平記・梅松論の研究』に寄せて」という一文があるので、それを引用してみます。

-------
 小秋元段君は、初めから大器だったのではないか、と今でも時々思う。慶應の文学部長・大学院文学研究科委員長をしていらした関場武氏から、「小秋元君を育てて欲しい」と電話で依頼され、平成六・七年度(一九九四・五年)、非常勤講師を務め、学部と大学院(修士・博士両課程いっしょ)の二コマを担当した。学部では『太平記』の講義を、大学院では同書を院生の発表形式で読み進めた。毎週金曜日、名古屋から通い、大学の研究室前あるいは中で、小秋元君といっしょになり、コーヒーを飲んでから第一校舎の教室へ出向いて、六、七十名の学生を前にした。小秋元君は、資料があれば用意しておいてくれ、助手に徹してくれた。平成六年度は、確か博士課程の三年次で、秋の終りには江戸川女子短期大学への講師就任が決まっていたのではなかったか。翌年も、金曜日には必ず三田に現われて、小生の世話をしてくれた。帰りは三田通りにあった蕎麦屋に入って、ビールを少々と焼酎を一杯(それ以上は小秋元君が飲ませてくれなかった)飲み、板わさな何かをつまんでから、蕎麦を食べるのが、習いになっていた。小川剛生・神田正行君も、よくお相伴してくれた。このあと、小秋元君は私を東京駅まで送ってくれるのだった。今、考えてみると、小秋元君に励まされて東京通いを二年間やったようなものだとも言える。お陰で楽しい二年間だった。
-------

こんな具合に暇な年寄りの駄文、失敬、エッセイが巻頭に恭しく掲げられている訳ですが、奇異な感じは否めません。
もちろん長谷川氏の文章はこれで終わりではなく、この後に「初めから大器だったのではないか、と今でも時々思う」理由として小秋元氏の研究の概要が少し紹介されてはいますが、まあ、狭い世界での緊密な人間関係をアピールすることに主たる狙いがありそうなこの種の文章を巻頭に載せるというのは、歴史学の世界には存在しない慣習ですね。

長谷川端(中京大学名誉教授、1934生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%AB%AF

そういえば遥か昔、国文学界の雰囲気を知りたいと思って、和歌文学会の大会に行ってみたことがありますが、演台には花瓶があって、美しい花がてんこ盛りとなっており、良く言えば実務的、悪く言えば殺伐とした歴史学の学会とは全然違うなあと感心したことがあります。
やはり国文学と歴史学の間には、なかなか越えがたい深い谷がありますね。
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小秋元段氏「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」(その2)

2020-09-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月26日(土)10時13分54秒

『太平記』での足利直義の描かれ方ですが、例えば第十三巻の「兵部卿親王を害し奉る事」では、直義は淵野辺甲斐守(義博)に護良親王を「死罪に行ひ奉つれと申す勅許はなけれども、この次でに、失ひ奉らばやと思ふなり。御辺急ぎ薬師堂谷へ馳せ帰り、宮を差し殺し奉れ」と命じており(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p323)、その後には淵野辺による陰惨な殺戮場面が執拗に展開されます。
『太平記』が直義により検閲されているならば、こうした部分はもう少し柔らかく脚色されるのではないかと思いますが、小秋元氏の「直義・玄恵を中心とした視点」からはどのように説明されるのか。
ま、それは後で小秋元氏の論文で確認するとして、次の部分などは素直に納得できますね。(p40以下)

-------
 我われ国文学研究者は、文学作品、とくに軍記物語については、大きな歴史の流れや骨格はほぼ間違いなく維持されていますが、各場面の描写はフィクションだと考えています。
 『平家物語』にしろ『太平記』にしろ、今でいう大河ドラマと同じものと考えるべきだと思うのです。大河ドラマだって歴史の流れはほぼ間違ってないですね。だけどそのシーンごとには脚本家や演出家が創作したものが入っている。軍記物語はそれと同じものだと思います。
 たとえば『太平記』に、高師直が天皇は面倒くさいからどこかへ流しちゃって、代わりに木か金属で作ればいいと発言する場面があります。師直の人物像を説明する際によく引用される場面ですが、師直がそんな発言をしたなんて証明できる史料なんてありません。『太平記』の作者が、師直だったらこういうことをいうだろうとか、こういうことをいわせたら面白いと思い、こういう場面が作られたわけです。
 なので、『太平記』が、歴史学者が使う史料になるかというと、私はならないだろうと思います。ただし歴史的事実を究明するためではなくて、この時代の人たちはこういうことを考えていたとか、この時代の知識人の政治に対する見方はこうだったということを探るための資料として使うのは適切だと思います。場面場面や情報において、もしかすると史実にかなり近いものもあるかもしれないけれど、前提としてこれは創作物であるということを押さえて扱わないといけないでしょうね。
-------

私は『増鏡』については、どこまで「史料」として使えるかを「場面場面」で相当考えているのですが、少なくとも『太平記』よりは使える部分が若干多そうですね。
鎌倉・南北朝時代を専門とする歴史研究者は、『増鏡』の全体像を掴む努力をしないまま、自分の個別的な関心に関連する部分だけ、それも自説の見通しに合いそうな場面だけをつまみ食い的に利用することが多いように見受けられますが、『太平記』でも同様の傾向はありそうです。
現在の私の実力では『太平記』全体を論じることはできませんが、一つの練習として「高師直が天皇は面倒くさいからどこかへ流しちゃって、代わりに木か金属で作ればいいと発言する場面」、もう少し正確に言うと、妙吉侍者の讒言の中で高師直・師泰兄弟が言ったとされている当該発言を素材に、それを「歴史的事実を究明するためではなくて、この時代の人たちはこういうことを考えていた」ことを「探るための資料として」少し検討してみたいと思います。
ちなみに歴史学者による『増鏡』のつまみ食いの代表的な例としては、熊谷隆之氏の「六波羅探題考」(『史学雑誌』113編7号、2004)を挙げることができますね。

六波羅の「檜皮屋」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5949ae29a3a1e352b87f78f1801a0258
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小秋元段氏「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」(その1)

2020-09-25 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月25日(金)11時25分6秒

図書館で洋泉社MOOK『歴史REAL 南北朝』(2017)を見かけ、率直に言って作りは安っぽいし、表紙に研究者の名前も出ていなかったので、あまり期待せずにパラパラと眺めてみたところ、執筆者は市沢哲・櫻井彦・谷口雄太・亀田俊和・生駒孝臣・新井孝重・岡野友彦・石原比伊呂・堀川康史氏等で、なかなか充実したラインアップです。
個人的に一番参考になったのは法政大学教授・小秋元段氏の「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」で、自分が『太平記』について漠然と考えていたことがまんざら的外れでもなかったことが確認できて、有難かったですね。
国文学方面の『太平記』研究史に疎い私は小秋元段氏のお名前すら知らず、どこまでが名字なのかも分からなかったのですが、「こあきもと・だん」だそうで、名字も名前もなかなか珍しい方ですね。

小秋元段(1968生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%AE%B5

冒頭を少し紹介してみます。(p38以下)

-------
 『太平記』は、そもそも応永九年(一四〇二)に今川了俊が著した『難太平記』という書物によれば、法勝寺の恵鎮上人から足利直義のもとにもたらされた三十数巻の『太平記』(ここでは「原太平記」と呼ぶ)というものが存在し、その後、直義が玄恵法印に命じて修訂や書き継ぎがなされたとあり、研究者の間では、こうした理解が概ね支持されています。
 たとえば『難太平記』に『太平記』の作者は「宮方深重のもの」ではないかという記述があり、一時期はそこが重視され、南朝よりの視点を持った作品だと捉えられていました。しかし近年では、やはりこれは室町幕府の立場から編集されたという理解でほぼ一致しています。私も『古典文学の常識を疑う』(勉誠出版、二〇一七年)のなかで直義・玄恵を中心とした視点を重視することを述べております。ただし私は、『太平記』を室町幕府の正史とまで位置づける考え方には疑問があります。
 恵鎮上人がほぼ原形を作り、それを直義のもとに持ち込んだという経緯からは、明らかに勅命によってなされた『六国史』とは事情が違いますし、何よりも『太平記』は歴史書の体裁を取っていません。幕府が最初から音頭を取って編纂事務室みたいなものを設けてやっていたかまではちょっといえないと思いますので、私自身は正史とまでは踏み込んではいません。
 また、正史というのは室町幕府公認の歴史ということですが、現存する『太平記』は、必ずしも室町幕府や北朝方を正当とする記述だけではないんです。たとえば、巻二十五以前のバサラ大名たちの行動に対してなど、室町幕府に対する批判が結構書かれています。
 そういう批判は後から加筆されたのかといえばそうなのかもしれないし、「原太平記」の段階からあったのかもしれません。もしその批判的要素が「原太平記」の段階からあったとするならば、私は、直義の厳粛な、政治家としての一面が『太平記』にも反映されているのかなというふうに思います。つまり直義が目指している方向とは違う武将たちが批判されていると考えられるわけです。
-------

うーむ。
「『太平記』を室町幕府の正史とまで位置づける考え方」が変なのは当然として、「直義・玄恵を中心とした視点を重視」ということも、ちょっと分かりにくいですね。
「直義が目指している方向とは違う武将たちが批判されている」とありますが、そもそも直義自身が『太平記』で終始一貫立派な人物として描かれている訳でもなく、その行動が否定的に評価されている部分も多いことはどう考えるのか。
直義は自身がいくら批判されてもかまわない、「表現の自由」に寛大な政治家だったのか。
私としては、『太平記』は幕府の統制が直接及ばない領域、すなわち寺院社会で生まれ、広く社会に受け入れられて人気を博したので、幕府の権力的介入も実際上難しく、幕府は自由勝手な記述の中で、どうしても許せない部分にだけ限定的に介入したのではないか、と思っていますが、この点はもう少し検討したいと思います。
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『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その3)

2020-09-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月24日(木)12時51分46秒

兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)の「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を全文紹介してみましたが、この話は全体で7ページほどの分量です。
もう少し細かく見ると、本文は1頁あたり14行ですが、「この年の八月は、故伏見院の三十三年の御遠忌に相当たりければ」から始まるしみじみとした序の部分が13行、「折節、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て帰りけるが」から始まる事件の展開部分が43行、そして「その弟に、周済房とてありけるを」以下の「笑い話」の部分が40行です。
大雑把な割合を見ると、序・中盤・「笑い話」がそれぞれ1割強、5割弱、4割強で、「笑い話」の分量が非常に大きいですね。
「笑い話」は更に三つに分かれていて、最初の狂歌話はそれなりに面白いものの『平家物語』レベル、新田一郎氏が重視する「人皆院、国皇と申す事を知らざりけるにや」を含む話は、ちょっとした軽口ですが、内容は極めて不謹慎で面白いですね。
そして三番目の貧乏貴族の話は作者が相当に力を入れて作り込んだ傑作であり、滑稽な動作とやり取りが目に浮かぶようで、これを現代の落語家・漫才師のような職業的な話し上手が演じたならば、聴衆からドカンドカンと大爆笑が起きそうです。
ま、それだけに、この話が歴史的事実とは考えにくく、種となる実話が存在していたとしても、それを何十倍・何百倍にも膨らませた、これぞ『太平記』という感じのレベルの高いスラップスティックコメディですね。
さて、私は『太平記』はあくまで文学作品であって、『太平記』のみに記され、他の史料の裏付けのない記事については基本的に創作と考えるべきだと思っています。
しかし、創作だからといって、そのような記事が歴史学にとって全く無意味なのではなく、当時の人々の集合的意識や思考様式を探る材料としては充分に活用できるものと考えます。
この立場から「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を検証すると、そもそも土岐頼遠が本当に「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と言ったかははっきりしないですね。
頼遠が「弘安の格式に定められたる」「路頭の礼」を全く無視し、更に光厳院の牛車に弓を射たことは客観的事実なので、そのような行為をする以上、この程度のことは言っていても不思議ではありませんが、他の同時代史料で確認できない以上、真偽不明と言わざるをえません。
しかし、『太平記』の作者は、「笑い話」の部分を含め、この話が聴衆・読者に大いに受けるだろうと予想して創作し、実際に相当に受けたであろうことは想像できるので、少なくとも路頭礼に対する反発、「院に出会ったからと言って下馬するなど馬鹿馬鹿しいなあ」という感覚は、同時代の相当多くの人が共有していたのではないか、と思います。
もちろん、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、多くの人が路頭礼のルール自体は知っていた訳ですが、建武新政を経て時代は大きく変化し、公家と武家の関係も変質した中で、いつまでもそんなルールに拘束されなければならないのは変ではないか、という違和感もあったはずです。
頼遠は人々のそうした違和感を実にあっさりと、豪快に体現してしまったので、結局は死罪になってしまった訳ですが、「別に院の牛車を弓で射た程度で、土岐頼遠のような大変な功績ある武士を殺すこともないのに」という感覚も、夢窓疎石を含め、足利直義以外の多くの人が共有していたはずです。
従って私は、「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」を示す典型例だと考える従来の説が正しいと思いますが、新田一郎氏はこうした考え方を否定し、「この一連の逸話が示しているのは、『太平記』自身が、「人皆、院・国王ト云事ヲモ知ラザリケルニヤ」としているように、日常的には交差することのなかった貴族と武士の動線が、同じ場で行き合い絡まり合うようになったという、新しい事態なのである」とした上で、

-------
 相互の振舞いを規律する作法が、そもそも実践の場で存立していない。それゆえ、武士たちが京都を中心とした「政治」の現場に、より深く、直接にコミットするようになったことによって、新しい環境と関係における武士の振舞いをどう規律してゆくかが、眼前の重要な問題として浮上したのではないだろうか。『建武式目』には「礼節ヲ専ラニスベキ事」を求めた箇条がある。「君ニ君礼アルベク、臣ニ臣礼アルベシ。凡ソ上下各々分際ヲ守リ、言行必ズ礼儀ヲ専ラニスベシ」と述べて、「国ヲ理〔おさ〕ム」ために武士たちを礼節の世界に参加させることの必要性を説いているのである。かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した、というわけではない。公家社会の尺度、礼節による規律は、武士たちに対してはようやく適用され始める途上にあった。その中で「天皇」の地位や役割も、武士たちに対して新たに語り直されてゆくことになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5

などと言われる訳ですが、少なくとも京都では「貴族と武士の動線」は既に鎌倉時代から「日常的に」「交差」しており、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、「相互の振舞いを規律する作法」も既に「実践の場で存立」していたはずです。
そして、本国が京都に近い土岐一族はもちろん、京都に上るような武士たちは当該作法を熟知していたはずです。
しかし、多くの人が、対外的な行動として示すかどうかは別として、内心では、そんな作法にはもう縛られたくないのだ、時代は変わったのだ、と思っていたことを「この一連の逸話」は示しており、「かつて高かりし天皇の権威」は「乱世に至り失墜した」のだ、と捉えるのが正しいと私は考えます。
新田一郎氏の誤解は、新田氏のような生真面目なタイプの学者には『太平記』の「笑い話」のレベルの高さが理解できないことに由来するのではないかと思います。
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『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その2)

2020-09-23 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月23日(水)10時56分31秒

続きです。(p62以下)
ここから「笑い話仕立ての話」が始まります。

-------
 その弟に、周済房〔すさいぼう〕とてありけるを、すでに切らるべしと評定ありけるが、その時の人数にてはなかりける由、証拠分明なりければ、死罪の罪を免れて本国へぞ下りける。
 夢窓和尚の、武家に出でて、「さりとも」と口入し給ひし事のかなはざりしを、欺〔あざむ〕く者やしたりけん、狂歌を一首、天龍寺の脇壁の上にぞ書いたりける。
  いしかりしときは夢窓に食らはれてすさいばかりぞさらに貽〔のこ〕れる
-------

土岐頼遠の弟・周済房(俗名、土岐頼明)もいったんは死罪の評定があったが、そもそも現場にいなかったことが証明されて、無事に本国へ帰ることができた。
夢窓疎石が直義を説得したにもかかわらず不成功だったことを嘲る者がしたことだろうか、天龍寺の脇壁に次のような狂歌が一首、書かれていた。
「うまい食事はすべて夢窓疎石に食われてしまい、酢菜(すさい)だけが皿に残っている」

ということで、斎(とき)と土岐、酢菜と周済(房)、皿と更に、が掛けられていて、なかなかの出来の狂歌です。
これが事実かは一応問題になりますが、あまり作り込まれた話でもないので、この程度のことは充分ありそうですね。
夢窓疎石をからかっているので、禅宗には好意的でない人が作って、禅宗には好意的でない『太平記』巻二十三の作者が採用したということかと思います。
『太平記』と並ぶ中世の軍記物語の代表格『平家物語』にも、巻第五の「五節之沙汰」など、狂歌を扱ったエピソードは若干存在しているので、「笑い話仕立ての話」といっても、ここまでならば『平家物語』と同レベルですね。

-------
 この時の習俗、中夏変じて蛮夷となりぬる事なれば、人皆院、国皇〔こくおう〕と申す事を知らざりけるにや、「土岐こそ、院の御幸に悪〔あ〕しく参り逢ひたる罪科によつて切られたれ」と申しければ、道を過ぐる馬上の客、相語らひて、「そもそも院だにも馬より下りんずるには、将軍に参り会うては、土を這ふべきか」などぞ欺きける。
-------

当時は都が一変して夷の地となってしまった時期なので、人はみな院や天皇という存在を知らなかったのであろうか、「あの土岐が院の御幸に運悪く出会ってしまった罪科により切られてしまったそうだ」とのことなので、道を通る馬上の者らが、「院ですら出会ったら馬より下りなければならないのだったら、将軍に出会った場合には土に這いつくばるべきなのか」と嘲笑ったものである。

「欺きける」の解釈にちょっと迷いますが、少し前に出てくる「欺く者やしたりけん」と同じく、嘲笑ったでよいかなと思います。
新田一郎氏は「人皆院、国皇と申す事を知らざりけるにや」という表現を重視して、「日常的には交差することのなかった貴族と武士の動線が、同じ場で行き合い絡まり合うようになったという、新しい事態」云々との緻密な議論を展開される訳ですが、先の狂歌と異なり、この話は全体として作り話めいていて、「人皆院、国皇と申す事を知らざりけるにや」も、話をちょっと盛り上げるための小細工のような感じもします。

-------
 されば、その比、いかなる雲客にてかおはしけん、破れたる簾より見れば、年四十余りばかりなる、眉作り鉄漿〔かね〕付けて、立烏帽子引きゆがめて着たる人、轅〔ながえ〕はげたるもなし車を、打てども行かぬ疲〔や〕せ牛に懸けて、北野の方へぞ通りける。ここに、この比、殊に時を得たる者どもよと覚しき武士の、太く逞しき馬に千鳥足を踏ませ、段子〔どんす〕、金襴の小袖、色々に脱ぎ懸けて、脇より余せるもあり、下人の頸に巻かせたるもあり、金銀を打ち含〔くく〕みたる白太刀ども、小物、中間に持たせ、唐笠に毛沓〔けぐつ〕帯〔は〕いて、当世はやる田楽節、所々打ち揚げて、酒温めて炷〔た〕き残せる紅葉、手ごとに折りかざして、五、六十騎が程、野遊びして帰りけるが、大贄〔おおにえ〕の野の辺〔ほと〕りにて、俄かにこの車を見て、「すはや、これこそ件〔くだん〕の院と云ふ恐ろしき物よ」と云ひて、一度にさつと馬より下り、哺蒙〔ほおかぶ〕りを弛〔はず〕し、笠を脱いで、頭〔こうべ〕を地に付けてぞ畏まつたる。
 車に乗りたる雲客、またこれを見て、「あなあさましや。これはもし、土岐が一族にてやあるらん。院をだにも射奉る者に合ひて、下りざらんはよかるまじ」と、惶〔お〕じ彷〔おのの〕きて、懸け弛さぬ車より遽〔おど〕り下りに蜚〔と〕び下りければ、車は先へ過ぐる。楔〔くさび〕に立烏帽子を突いて落とされて、髻〔もとどり〕放ちたる生陪従〔なまばいじゅう〕、片手には髻をとらへ、片手には笏を取り直して、富貴の前に跪〔ひざまず〕く。前代未聞の癖事〔ひがごと〕なり。
 その日は、殊更北野の縁日なりければ、往来の貴賤、群れをなして立ち停まり、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり。それにも、雲客、武士に会はば、車より下りて髻を放つべしとは、定められぬものを」と、笑わぬ人こそなかりけれ。
-------

そういう訳で、その頃、どのような殿上人であったろうか、破れた御簾から中を見ると、年齢は四十余りの、眉を描き鉄漿を付けて、立烏帽子をゆがませてかぶっていた人が、轅の塗りのはげた、おんぼろの牛車を、いくらけしかけても進まない痩せ牛につないで、北野天神の方へ通っていた。そこに、当時、とりわけ時勢に恵まれて羽振りの良さそうな武士たちが、太く逞しい馬に軽やかにステップを踏ませて、金襴緞子の贅沢な小袖を様々に脱ぎ懸け、脇から垂らしたり、下人の頸に巻かせたりし、金銀で装飾した太刀を小者、中間に持たせ、唐笠をかぶり毛皮の沓を履いて、近ごろ流行りの田楽節を歌いつつ、酒を温める際に焚いた紅葉の枝の残りを手に手にかざして、五・六十騎ばかり、野遊びからの帰りに、大嘗の野の辺りで、この殿上人の牛車に出会った。「おっと、これこそ例の院という恐ろしい者だぞ」と言って、一度にさっと馬から下り、頬かぶりをはずし、笠を脱いで、頭を地につけて畏まった。
牛車に乗っていた殿上人は、またこれを見て、「これは大変だ。もしやこれは、例の土岐一族であろうか。院すら射奉る恐ろしい連中に出会って、下りなかったらまずいだろう」と恐れおののいて、轅もはずさず牛につないだままの車から飛び降りたので、牛車は先に進み、殿上人は(車を車軸に止める)くさびに立烏帽子を突き落されて、髻がほどけてしまったので、片手に髻を抑え、片手で笏を取り直して、富貴な武士たちの前にひざまずいた。前代未聞の大間違いである。
その日はたまたま北野天神の縁日だったので、往来の貴賤が群れをなして立ち止まり、「路頭礼は弘安の格式にきちんと定められているが、それにも殿上人が武士に会ったら車から降りて髻を放つべし、などとは定められていないものを」と笑わぬ人はなかった。

内容の検討は次の投稿で行います。
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『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)

2020-09-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月20日(日)15時54分13秒

それでは『太平記』の性格と南北朝期の精神的土壌を考える素材として、『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を少し検討します。
引用は西源院本から行います。(兵藤裕己校注『太平記』(四)、岩波文庫、2015、p58以下)

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 この年の八月は、故伏見院の三十三年の御遠忌に相当たりければ、かの御仏事、殊更故院の御旧迹にて取り行はせ給はんために、当今、上皇、伏見殿へ御幸なる。
 この故宮、荒れて久しくなりぬれば、一村〔ひとむら〕薄の野となつて、鶉の床も露深く、庭の通ひ路絶え果てて、落葉まさに蕭々たり。その跡を問ふ物とては、苔泄〔も〕る閨〔ねや〕の夜の月、松吹く軒の夕嵐、昔の秋のあはれまで、今の涙を催せり。物ごとに悲しみを添へ、愁へを引く秋の気色を、導師、富留那〔ふるな〕の弁舌を暢べて、光陰人を待たず、無常の迅速なるに準〔なず〕らへ、数刻宣説し給ひければ、上皇を始め奉りて、旧臣老官悉く、袖を絞らぬはなかりけり。種々の御追善端〔はし〕多くして、秋の日程なく暮れはて、山陰なれば、月の上るを待ちて還御なるに、道遠くして、夜いたく深〔ふ〕けにけり。
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「この年」とは康永元年(1342)ですが、伏見院は遡ること二十五年の文保元年(1317)崩御なので、「故伏見院の三十三年の御遠忌に相当た」ってはいません。
作者の記憶違いというよりは、「三十三年の御遠忌」の方が雰囲気が出ていいな、程度の適当さで話を盛っているものと思われますが、それはともかくとして、「当今」は光明天皇(1322~80)、上皇は兄の光厳院(1313~64)ですね。
結局は「笑い話仕立ての話」で終わるこのエピソードは、このようにしっとり・しみじみした雰囲気で始まります。

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 折節、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今比叡〔いまひえ〕の馬場にて笠懸射て帰りけるが、端なく樋口東洞院の辻にて御幸に参り合ふ。召次ども、御先に走り散つて、「狼藉なり、何者ぞ。下り候へ」と申しけるを、二階堂下野判官は、聞きもあへず、御幸なりと心得て、馬より下りて蹲踞す。土岐は、元来〔もとより〕酔狂の者なりける上、この比〔ころ〕特に世を世ともせざりければ、御幸の前に馬を懸け居〔す〕ゑ、「この比、洛中にて頼遠なんどを下ろすべき者は覚えぬものを。かく云ふ者は、いかなる馬呵者ぞ。奴原〔きゃつばら〕皆一々に、蟇目負ふせてくれよ」と申しければ、竹林院大納言公重卿、「院の御幸に参会して、何者なれば狼藉を仕るぞ」と仰せられけるを、頼遠、からからと笑うて、「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と云ふままに、三十余騎ありける郎等ども、院の御車を真中に取り籠め、索涯〔なわぎわ〕を回して追物射にてこそ射たりけれ。御牛飼、轅〔ながえ〕を回して御車を仕らんとすれば、胸懸〔むながい〕を切られて軛〔くびき〕も折れたり。供奉の雲客、身を以て御車に中たる矢を防かんとするに、皆馬より射落とされて障〔さ〕へ得ず。剰え、これにもなほ飽き足らず、御車の下簾かなぐり落とし、三十幅〔みそのや〕少々踏み折つて、己が宿所へぞ帰りける。
-------

土岐頼遠は「からからと笑うて」いますが、もちろん笑い話の雰囲気は全くありません。
三十数人の騎馬の郎党が、光厳院の牛車の周囲を縄で囲って逃げられないようにし、文字通り犬追物のように蟇目(大型の鏑矢)を射まくった上、牛飼が轅(牛車を牛につなぐ棒)を回して牛車を動かそうとすると、胸懸(牛の胸から軛にかける紐)を切り、軛(牛の首につける轅の横木)を折ってしまって移動を不可能とし、更に騎馬で扈従する雲客(殿上人)が自分の体で院の牛車に矢が当たるのを防ごうとすると、全員馬から射落として邪魔をさせないようにし、剰え牛車の下簾(簾の内側にかける垂れ布)を引き落として院の姿を丸見えに晒し、最後に念入りにも三十幅(車輪の中心と輪をつなぐ放射状の三十本の棒)を踏み折るというのですから、本当に執拗で嗜虐的な、死者が出ても不思議でないほどひどい乱暴狼藉です。

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 聴くやいかに、五条天神は、殿下の御出を聞き給ひて宝殿より下り会ひ、道に畏まり給ふ。宇佐八幡は、勅使の下る度ごとに威儀を刷〔かいつくろ〕うて、勅答を申されき。いかに況んや、聖主、上皇の御幸に、忝なくも参り会ひて、いかなる禽獣なりとも、かかる狼藉を致す者やあるべき。異国にも未だかかる類ひを聞かず。まして本朝には、かつて耳にも触れぬ不思議なり。
 その比は、左兵衛督直義朝臣、尊氏卿の政務に代はつて、天下の権柄を把〔と〕りし時なれば、この事を聞いて、大きに驚嘆せらる。「その罪を論ずるに、三族に行ひてもなほ足らず。五刑に下しても何ぞ当たらん。直ちにかの輩〔ともがら〕を召し出だして、車裂きにやする、醢〔ししびしお〕にやすべき」と、評定ある処に、頼遠、行春等、伝へ聞いて、事悪〔あ〕しとや思ひけん、跡を暗うして、皆己〔おの〕が本国へ逃げ下る。さらば、やがて討手を差し下すべしと、沙汰ありける間、二階堂行春は、首を延べて上洛し、咎なき由を陳じ申しければ、事の次第精〔くわ〕しく糾明あつて、讃岐国へ流さる。
-------

当時、足利直義が「尊氏卿の政務に代はつて、天下の権柄を把」っていて、直義が激怒していることを聞いた土岐頼遠と二階堂行春はそれぞれ本国に逃げますが、もともと二階堂行春は御幸だと知って「馬より下りて蹲踞」していた訳ですから、土岐頼遠と郎党の暴行を止めなかったという非はあってもさすがに死罪は勘弁してもらい、流罪になります。

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 頼遠は、自科遁〔のが〕れ難しと思ひければ、美濃国に楯籠もりて、謀叛を起こさんと議しけれども、与〔くみ〕する宮方もなく、同意する一族もあらざりければ、ひそかに京都へ上り、夢窓和尚につき奉つて、「しかるべくは、命ばかりを扶〔たす〕けて給はり候へ」と歎き申しける。夢窓は、天下の大知識にておはする上、殊更当今〔とうぎん〕の国師として、武家の崇敬類ひなかりしかば、さりとも、かれが命ばかりをば申し宥〔なだ〕めんずるものをと思はれければ、様々申されけるを、直義朝臣、「事緩〔ゆる〕に行ひては、向後の積習たるべし」とて、つひに頼遠を召し出だして、六条河原にて首を刎ねらる。
-------

「与する宮方もなく」は興味深い表現で、仮に南朝と連絡が取れれば、頼遠は南朝に下った可能性はありそうです。
また、頼遠に頼られた夢窓疎石(1275~1351)は、「命ばかりをば申し宥めんずるものをと思」って直義を説得しますが、直義は許さず、結局、頼遠は首を斬られます。
夢窓疎石ですら別に死罪にすることはないんじゃないの、と判断したことは、直義の判断が当時の武家社会の常識に反していることを示しているものと思われます。
さて、以上で「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」の半分くらいを紹介しましたが、ここまでは新田一郎氏の言うところの「笑い話仕立ての話」は一切ありません。
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「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)

2020-09-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月19日(土)12時47分14秒

新田一郎氏の『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)を久しぶりにパラパラと眺めてみましたが、頻出する「均衡」といった語彙は新鮮で、新田氏が当時の歴史学界にあきたらない思いを抱かれていたであろうことが想像されます。
ただ、1960年生まれの若さでありながら、文章全体は落ち着いた、円熟した筆致で描かれていますね。
ま、ちょっと分別がありすぎて、年寄り臭い感じがしないでもありませんが。

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14世紀、動乱と変革の時代の諸相を描く。 建武政権の成立、皇統の分裂、足利氏の擡頭。武家の権能の拡大と日本社会の構造的変化。14世紀、動乱と変革の世に生きた人々の姿を追い、その時代相を解析する

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211391

土岐頼遠のエピソードは「第三章 将軍足利尊氏」の「3 「伝統」への回帰」に登場します。(p126以下)

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 ところで、この時期について、「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」が云われることが多い。たとえば、『太平記』巻第二十三に載せる、院の行幸の行列に行き会って下馬を求められた土岐頼遠が「何、院ト云フカ、犬ト云フカ。犬ナラバ射テ落トサン」と弓を射かけたという一件は、その象徴的なエピソードとしてしばしば引用される。頼遠はこれにより直義の怒りを買って誅殺されたのであるが、これにはなお続きがあり、この話を伝え聞いた武士が、貧乏貴族の車に行き会った際、「これが噂の院とやらであろうか。頼遠でさえこの恐ろしい者と出くわして命を落としたというではないか。ましてや自分如きはひとたまりもあるまい」と慌てて下馬して平伏した、一方の貴族のほうも、「これはもしや土岐の一族か」と恐れて跪き挨拶を返したという。笑い話仕立ての話なのだけれども、この一連の逸話が示しているのは、『太平記』自身が、「人皆、院・国王ト云事ヲモ知ラザリケルニヤ」としているように、日常的には交差することのなかった貴族と武士の動線が、同じ場で行き合い絡まり合うようになったという、新しい事態なのである。
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いったん、ここで切ります。
次の投稿で『太平記』の原文を紹介しますが、土岐頼遠から直義への仲介を頼まれた夢窓疎石が、死刑にすることはないんじゃないの、と直義に助言したことは重要と思われます。
当時の武家社会の常識からすれば、おそらく死罪は重すぎるという判断が当たり前であったのに、直義の倫理観は異常に潔癖で、周囲からは浮いており、これが後に観応の擾乱を生む原因の一つになったのではないか、という感じがします。
また、私にとって格別に興味深いのは、上皇に矢を射かけた有力武士が死罪になるという深刻な話が「笑い話仕立ての話」になっている点です。
佐々木導誉の妙法院焼き討ち事件も、『太平記』第二十一巻「天下時勢粧の事、導誉妙法院御所を焼く事」「神輿動座の事」では、山門の強訴を受けて配流となった導誉が、見送りの若党三百人に「猿の皮の靭に、猿の皮の腰当」をつけさせ、「道々に、酒肴を儲け、傾城を弄」んだという「笑い話仕立ての話」になっています。
また、妙吉侍者の讒言のエピソードは、それ自体は「笑い話仕立ての話」ではありませんが、「仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗ども、また天下を乱さんと様々に計らひし事の端」(第二十七巻「妙吉侍者の事」)であって、妙吉侍者は天狗となった峰僧正がその心に乗り移った存在であり、妙吉侍者の讒言は天狗の仕業なのだ、という奇妙な話です。
仁和寺の六本杉の梢云々の話は第二十六巻の「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」に出ていて、諸国を行脚する僧が仁和寺の六本杉の木陰で一夜を明かすことになり、念誦していたところ、夜更けに「愛太子〔あたご〕の嶽、比叡の山の方より、四方輿に乗つたる者、虚空より来たり集まつて、この六本杉の梢にぞ並み居たりける」という事態となり、僧が天狗たちの密談を聞いていたところ、天狗と化した大塔宮護良親王は妊娠中の直義の妻の子に入り込み、峰僧正は妙吉侍者に、智教上人は上杉重能・畠山直宗に、忠円僧正は高師直にそれぞれ乗り移って、天下に大きな合戦を起こしましょうと約束した、という、なんとも奇妙な話です。
こちらは怪談ですが、あまりに面白すぎる話なので、『太平記』の聴衆・読者がこれを真面目に受け取ったかというとそんなことは考えにくく、結局のところ妙吉侍者の讒言も「笑い話仕立ての話」の一環ではなかろうかと思われます。
総じて『太平記』の笑いのレベルは極めて高く、現代の生真面目な歴史学者たちが笑い話と認めない場面でも、実際には笑い話として受け止められていたのではなかろうかと思われる個所が相当あります。
この問題は後で改めて論じる予定です。
さて、新田著の続きをもう少し引用します。(p126以下)

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 相互の振舞いを規律する作法が、そもそも実践の場で存立していない。それゆえ、武士たちが京都を中心とした「政治」の現場に、より深く、直接にコミットするようになったことによって、新しい環境と関係における武士の振舞いをどう規律してゆくかが、眼前の重要な問題として浮上したのではないだろうか。『建武式目』には「礼節ヲ専ラニスベキ事」を求めた箇条がある。「君ニ君礼アルベク、臣ニ臣礼アルベシ。凡ソ上下各々分際ヲ守リ、言行必ズ礼儀ヲ専ラニスベシ」と述べて、「国ヲ理〔おさ〕ム」ために武士たちを礼節の世界に参加させることの必要性を説いているのである。かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した、というわけではない。公家社会の尺度、礼節による規律は、武士たちに対してはようやく適用され始める途上にあった。その中で「天皇」の地位や役割も、武士たちに対して新たに語り直されてゆくことになる。
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「ところで、この時期について、「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」が云われることが多い」から始まった新田氏の議論は、「かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した、というわけではない」で終わっていますが、どうなんですかね。
院政期以降、少なくとも京都では、武士の振舞い・礼節については厳格な規律があり、それが武士の実力の向上に伴って変化はしたものの、鎌倉幕府の倒壊までは一応維持されていたのではないかと私は思います。
土岐頼遠・佐々木導誉の事件などは鎌倉時代にはおよそ考えられない異常な事態であって、大局的に見れば、やはり建武の新政以降、「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」が起き、「かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した」と考えるのが素直ではなかろうかと私は思います。
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「つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう」(by 佐藤進一氏)

2020-09-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月17日(木)12時19分48秒

土岐頼遠のエピソードについては、後で新田一郎氏の『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)に即して検討することにして、佐藤著の続きをもう少し引用します。(p216以下)

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 また近江の守護佐々木の一族に属して数ヵ国の守護にまで成り上がった佐々木導誉(高氏)にも同様の事件がある。暦応三年(一三四〇)十月、導誉と子の秀綱が東山で鷹狩りをしての帰途、光厳・光明の兄弟で当時天台座主であった妙法院宮亮性法親王の邸に、些細なことから焼き打ちをかけて、重宝を奪いとった事件である。叡山はさっそく、導誉父子を死罪に処すべしと抗議したが、幕府は導誉の権勢をはばかって極刑に処するわけにはいかず、けっきょく、導誉は出羽、秀綱は陸奥に流罪ときまった。その流罪もまったくの申しわけで、導誉は見送りと称して三百余騎の従者をつれて、配流地に旅立ったが、
 「道々ニ酒肴ヲ設テ、宿々ニ傾城ヲ弄ブ」
という調子であった。もちろん予定地まで行く気もなければ行きもしなかったのである。
 こう見てくると、師直兄弟も頼遠も導誉も古い秩序と権威の束縛から解放された人間ということができようが、このことは、かれらが古い秩序の中では運命を切り開く機会をもてそうもない人々であったことと無関係ではない。鎌倉幕府の下では、師直兄弟は一守護の家来、頼遠は源氏の流れとはいえ美濃の土豪にすぎず、事あれば守護北条氏ににらまれ、圧迫されていた。導誉もまた名門とはいえ佐々木の庶流であって、権勢の地位はおろか、守護になる可能性もなかった。
 それが、磐石のごとくに見えた鎌倉幕府は音を立てて崩れ去り、一統政府もまた天皇・貴族の無力を天下に暴露しつつ自壊した。いや自壊ではない、師直も導誉も頼遠もそれぞれにその解体に手をかしたのである。つまり師直らの古い秩序と権威の否定は、かれら自身の力にたいする信頼によって裏打ちされているのである。軽薄で反倫理的ですらあるかれらの言動の中に、人間肯定の激しい息吹きをきくことができる。師直のこういう性格は、先天的なものに根ざしているのはもちろんだが、かれの幕府での地位や政治的立場によって、よりいっそう助長された。つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう。そしてこれはひとり師直に限らない。直義・尊氏そして後醍醐についても同様である。
-------

佐々木導誉の一件は「光厳・光明の兄弟で当時天台座主であった妙法院宮亮性法親王」に絡むものですから、天皇家の権威という要素は若干ありますが、基本的には宗教的権威の低下の問題ですね。
さて、実際に『太平記』を読むと、足利直義についても結構ろくでもない人間として描かれているエピソードが多いのですが、佐藤氏はそうした部分は引用せず、一貫して直義を素晴らしい指導者として描いています。
他方、高師直・師泰については、「これらの挿話に描かれている師直兄弟の言動の真偽を一々確かめることはできないけれど」などと多少は慎重さを装いつつ、「師直・師泰兄弟はおよそ直義とは対蹠的なタイプの人間だった」と断定していますね。
近時の研究水準に照らすと、高兄弟についての佐藤氏の評価は相当問題がありますが、少なくとも土岐頼遠と佐々木導誉については確かに「古い秩序と権威の束縛から解放された人間」といってよさそうです。
そして、頼遠・導誉が「古い秩序と権威の束縛から解放された人間」となった時期はいつかというと、佐藤氏は特に明言はされていません。
ただ、佐藤氏は「外的な条件が人間的な特徴を決定づけ」るという基本的な人間観の持ち主であり、かつ、その「外的な条件」とは「磐石のごとくに見えた鎌倉幕府は音を立てて崩れ去り、一統政府もまた天皇・貴族の無力を天下に暴露しつつ自壊した」ことですから、建武新政に近い時期を想定しているように見受けられます。
もちろん、頼遠も導誉も、相当以前から、あるいはもしかしたら物心がついた頃から既に自分の境遇にブータラブータラ不満を抱いていたかもしれませんが、その時点では「外的な条件」はまだまだ熟しておらず、「磐石のごとくに見えた鎌倉幕府」の打倒に自ら奮戦する過程の中で、そして「一統政府」が「天皇・貴族の無力を天下に暴露し自壊」するのを目撃する中で、「古い秩序と権威の束縛から解放され」、反天皇的・反宗教的傾向の人間となっていったのだ、というのが佐藤氏の認識ではないかと推測します。
なお、私は佐藤氏の精神分析の能力について、特に信頼はしていません。

清水克行氏による「尊氏の精神分析」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25befb1f5a691966a61ffe63c2baecc3
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「こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある」(by 佐藤進一氏)

2020-09-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月16日(水)10時12分25秒

ちょっと間が空いてしまいましたが、またボチボチと投稿して行きます。
中世における天皇家の権威低下の時期と原因という問題を検討するにあたって、まず基礎的な知識の整理ということで、佐藤進一氏の古典的業績、『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965)から少し引用します。(p214以下)

-------
高兄弟

 師直・師泰兄弟はおよそ直義とは対蹠的なタイプの人間だった。たとえば師直は一条今出川にあった護良親王の母親の旧邸を改築して、壮麗な邸宅を営み、人待ち顔の斜陽貴族の娘はおろか、摂関家・皇族の娘のもとにまで通って、つぎつぎと子を生ませたので、
 「執事ノ宮廻リニ手向〔タムケ〕ヲ受ヌ神モナシ」
と京中の笑い草になった。現に師直の愛児師夏は、師直が二条前関白の妹を盗み出して生ませた子供である。以上は『太平記』にのっている話だが、そのほかに、師直が『徒然草』の著者で有名な吉田兼好に恋文を代筆させた話も伝わっている。最近の研究では、兼好は倉栖という武士の一族で、金沢文庫を経営した北条一門金沢氏の右筆をつとめた倉栖兼雄は兼好の兄弟だというが、師直の家来の中に倉栖某という武士がいるから、兼好の代筆一件はまんざらの作り話ではないかもしれない。
 『太平記』はまたこんな話も伝えている。師直の家来が、恩賞にもらった所領が小さい、なんとかしてほしいと嘆願すると、
 「何を嘆くことがあるか。その近辺の寺社本所領をかってに切り取れ」
と命じ、罪を犯して所領を没収されることになった武士がなんとかお力で助けていただきたいと頼むと、
 「よしよし、わしは知らん顔をしていよう。幕府からどんな命令がでてもかまうものか。
  そのまま居すわっておれ」
と答えた。
-------

いったん、ここで切ります。
足利直義、そして高師直とその一族の評価については、最近の亀田俊和氏の研究により劇的な変化が生じていますね。
当掲示板でも『高師直 室町新秩序の創造者』(吉川弘文館、2015)等の亀田氏の著作に若干言及したことがあります。

「第五章 貴顕と交わる右筆」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/123decd4e2cf5386ec04a383a940595c
「尊氏は、生真面目な弟とは違って適当な人間である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9771b1e1d8aa827144a122c0d9a7ded1
「さすがにその呪縛から解放されるべき研究段階」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6b791d02e92f7d0def9dcdce06749c3

また、「最近の研究では、兼好は倉栖という武士の一族で、金沢文庫を経営した北条一門金沢氏の右筆をつとめた倉栖兼雄は兼好の兄弟だというが」とありますが、これは林瑞栄氏の説ですね。
網野善彦氏も「倉栖氏と兼好─林瑞栄氏「兼好発掘」によせて」(『文学』52巻7号、岩波書店、1984)という論文を書いていますが、林説にはもともと無理が多く、最近の小川剛生氏の研究で完全に過去の遺物になってしまいました。
「師直が『徒然草』の著者で有名な吉田兼好に恋文を代筆させた話」は『太平記』第二十一巻の「塩谷判官讒死の事」に出てきますが、そもそも兼好法師と吉田家は全然関係がないことが小川氏の研究により明らかとなり、「吉田兼好」という表現自体が過去の遺物になりつつありますね。
ちなみに吉田兼倶の系図偽造前に成立している『太平記』西源院本では、兼好は「兼好と云ひける能書の遁世者」「兼好法師」として登場しており(兵藤裕己校注『太平記』(三)、岩波文庫、2015、p442・443)、「吉田兼好」ではありません。
これはおそらく他の本でも同様だと思います。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f8a40b01d861705b1c8291f30001971

さて、佐藤著の続きです。(p215以下)

-------
 師泰の暴虐ぶりも師直におとらなかったが、『太平記』の著者をして「あさましき限り」と慨嘆させたのは、かれら兄弟のつぎのことばだった。
 「都ニ王ト云フ人ノマシマシテ、若干(多く)ノ所領ヲフサゲ、内裏・院ノ御所ト云フ所ノ有テ
  馬ヨリ下ル六借〔ムツカシ〕サヨ。若〔モシ〕王ナクテ叶〔カナフ〕マジキ道理アラバ、木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、
  生〔イキ〕タル院・国王ヲバ何方〔イヅカタ〕ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」
 これらの挿話に描かれている師直兄弟の言動の真偽を一々確かめることはできないけれど、こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある。たとえば青野原の戦いで奮戦して幕府の危急を救った美濃の守護土岐頼遠は、康永元年(一三四二)九月、京都で光厳上皇の行列に行きあって、「院の御車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
 「何ニ、院ト云フカ。犬ト云フカ。犬ナラバ射テヲケ」
と、上皇の車を取りかこんで、矢を射かけて去った。そのうえ、事件が問題になると、幕府の許可なくかってに本国に引き上げた。幕政を主宰する直義は事件を重大視して、頼遠を召喚して斬罪に処した。
-------

土岐頼遠の件は事実ですが、「木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、生タル院・国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」云々は『太平記』第二十七巻「妙吉侍者の事」に出て来て、『太平記』の作者自身が怪僧・妙吉侍者の讒言と認めている叙述の中の表現ですね。
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ちょっと仕切り直しします。

2020-09-14 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月14日(月)10時30分19秒

前回投稿まで呉座勇一氏の『戦争の日本中世史』を参照してきましたが、これは現在の私が一番興味を持っている問題、即ち中世における天皇家の権威低下の時期と原因という問題が鎌倉幕府の権威低下と連動するのではないか、という見通しがあったからでした。
そこで、

-------
私が重要と考えるのは「体制の構造的矛盾」と「体制崩壊の直接的契機」の間にあるものであり、楠木正成や護良親王、足利尊氏や上杉憲房といった超反抗的な人々が全国一斉にワラワラと湧いて出てくるこの時期の社会的雰囲気、そしてそうした精神的土壌を生み出した契機です。


と書き、この精神的土壌を生み出した契機として天皇家の権威低下の状況を論じようと思ったのですが、しかし、再考してみたところ、天皇家の権威低下は幕府のそれとは別個独立に考察した上で、改めて幕府との関係を検討した方が適切のように思えてきました。
ま、率直に言うと、呉座氏の見解を自説の展開にうまく利用できるように思ったのですが、ちょっと無理が多そうなので、ひとまず呉座氏の見解、そして幕府滅亡の原因の問題から離れてみることにします。
これは呉座氏の認識を肯定する訳でも否定する訳でもなく、判断を一時的に保留するということです。
ちなみに名城大学教授・伊藤俊一氏は9月10日のツイートで、

-------
鎌倉幕府が滅びた原因が分からないって、あんなえげつないことしてたら、いつか滅びるに決まっておろう。北条氏に荘園を取られた御家人がどれだけ居ることか。
取った荘園のあとに入る地頭代はただの事務屋だから、幕府の武力は落ちているはず。特に西国。
あげくに悪党に舐められ、幕府の屋台骨である軍事力に疑問符が付いた。


と書かれていました。
これは呉座氏の見解と真っ向から対立するように見えますが、呉座氏も、

-------
 御家人・非御家人を問わず、鎌倉幕府、特に北条氏の専制に不満を持っていた人は確かに大勢いただろう。鎌倉幕府の中枢にあって甘い汁を吸っていた特権的支配層を除く九九パーセントの人間が反感を抱いていたと言っても過言ではない。だが、そのことと、彼らが幕府打倒、北条氏打倒を現状打開の手段として現実に検討するかどうかは、全く別の問題である。


という認識を前提としており、伊藤氏も「階級闘争史観」的な「下部構造」、即ち社会経済的要因ではなく、「上部構造」としての精神的状況を問題にされているようなので、呉座氏の見解と意外に近いようにも感じられます。

>筆綾丸さん
レスが遅れて失礼しました。
最近、テレビで陽水の歌声を聞いて、昔の高音の伸びの良さなどはすっかり失われてしまったなあ、と少し寂しく思ったのですが、年齢には勝てないから仕方ないですね。
陽水は1948年生まれ、忌野清志郎は1951年生まれで同世代ですが、サイクリングにはまって極めて健康的に見えた清志郎の方があっさり先に死んでしまいましたね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
2020/09/09(水)
「閑話」
小太郎さん
井上陽水&忌野清志郎の名曲『帰れない二人』などはどうでしょうか。曲の浪漫的リリシズムに反して、帰れない二人(足利尊氏と後醍醐天皇)に、みんな、ぞろぞろついてきちゃったわけですが。
あらためて聴くと、歴史的巨星への美しいバラード(レクイエム?)のような感じもしてきますね。
https://youtu.be/0XNcjYwEjrg
歌:公武合唱団
作詞:尊治
作曲:尊氏
(編曲:師直)
思ったよりも 幕府は弱くて
二人の声も うわずっていました
Ah Ah Ah Ah Ah Ah
Ah Ah Ah Ah
「僕は君を」と 言いかけた時
都の犬が 消えました
もう 兵は 帰ろうとしてる
帰れない二人を残して
・・・・・・・・・・
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呉座説も「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」

2020-09-09 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 9日(水)10時26分23秒

『戦争の日本中世史』から「鎌倉幕府滅亡の原因は何か」という「難問に対する日本中世史学界の最新の回答」を紹介してきましたが、ここで改めて私の立場から問題を整理してみます。
呉座氏は、

-------
 今まで多くの研究者が、鎌倉幕府滅亡の原因を考察し、色々な仮説を提示してきた。しかし、皮肉なことに、研究が進めば進むほど、それらの仮説が成り立たないことが明らかになっていき、「分からない」という悲しい結論に陥ってしまったのである。
-------

と総括される訳ですが(p98)、これらの研究者の大半は「階級闘争史観」・「革命の実現を熱望したマルクス主義歴史学」に立脚、ないしその影響を受けていた人々なので、彼らの「仮説」は社会の「下部構造」、即ち客観的な社会経済的要因に「鎌倉幕府滅亡の原因」を求めるものです。
そして、呉座氏はそれらの「仮説」は全て実証的根拠を欠くのだとバッサバッサと斬り捨てる訳ですが、しかし、呉座氏自身の「楠木正成が頑張りました」説は、楠木正成の奮闘が周辺の人々の「今まで心中に秘めてきた不平不満」を「噴出」させた、ということなので、実は呉座説も「皮肉なことに」、「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」なのではないか、「マルクス主義歴史学の残滓」なのではないか、という感じがします。
さて、呉座氏の鮮やかな殺陣を眺めつつ、私の心の中のマリー・アントワネットは、「下部構造」がダメなら「上部構造」で考えればいいんじゃないの、と囁きます。
そして、「下部構造」ではなく「上部構造」、即ち人間の精神的活動の問題を取り上げる際には、呉座氏のように「今まで心中に秘めてきた不平不満」がどーしたこーしたという陰気な話ではなく、新しい秩序を求めようとする人々の野心を刺激するような雰囲気、「希望」といったら綺麗ごとに過ぎるとしても、未知の将来に対する楽観的な展望をもたらすような精神的土壌を検討した方が「生産的」なのではないかと思われます。
「体制の構造的矛盾」・「体制崩壊の根本的要因」を提示するのが無理だとしても、話をいきなり「体制崩壊の直接的契機」・「鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけ」に矮小化するのは飛躍が大きすぎて、その間を埋める中間的な問題意識が重要ではないかと私は考えます。
その点については次回以降の投稿で検討しますが、「鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけ」というマイナーな問題に限っても、呉座氏の「楠木正成が頑張りました」説には若干の疑問を抱きます。
ちなみに亀田俊和氏は9月3日のツイートで、

-------
鎌倉幕府が滅亡した原因は結局、護良親王の「世界精神」であったと私は考えています。


と書かれているので、「護良親王が頑張りました」説ということになると思いますが、この説にも私は賛成できません。
倒幕の経緯を素直に見れば、「結局足利尊氏の寝返りが決定打となって、鎌倉幕府は滅亡した」(亀田俊和氏『高師直 室町新秩序の創造者』、p35)のは明らかです。
元弘三年(1333)五月七日、足利尊氏が丹波篠村で裏切りを決断せず、予定通りに後醍醐天皇が拠点を置く船上山に向ったならば、楠木正成や護良親王がどんなに頑張ろうと、せいぜいダラダラと蜂起と逃亡を繰り返す程度の展開となり、鎌倉幕府はなお相当期間、余命を保ったはずです。
従って、呉座氏と同じレベルで議論するとすれば「足利尊氏が頑張りました」説が正しそうですが、より細かく見れば、優柔不断な尊氏を最終的に説得したのは上杉憲房なので、「上杉憲房が頑張りました」説が一番妥当かな、と思います。
ま、以上は冗談であって、私が重要と考えるのは「体制の構造的矛盾」と「体制崩壊の直接的契機」の間にあるものであり、楠木正成や護良親王、足利尊氏や上杉憲房といった超反抗的な人々が全国一斉にワラワラと湧いて出てくるこの時期の社会的雰囲気、そしてそうした精神的土壌を生み出した契機です。
この課題を検討する準備は一応できているのですが、呉座著の「参考文献」に出ていた松本新八郎『中世社会の研究』(東京大学出版会、1956)を入手してパラパラ眺めたところ、意外にも参考になりそうな記述が多かったので、次の投稿はこの本を読んでからになります。
さて、唐突ですが、本日の投稿の最後に竹内まりやの「恋の嵐」を歌いたいと思います。

-------
上杉憲房の説得に
心が揺れる夜は
秘め続けた想いさえも
隠せなくなる

北条家とは友達でいたいけど
動き出したハートは
もうこのまま止められない
罪の始まり

Chance chance chance
まだ今なら
帰る場所を選べるわ

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「そのように発想を転換した場合、楠木正成の果たした役割は極めて大きい」(by 呉座勇一氏)

2020-09-07 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 7日(月)10時30分45秒

鎌倉幕府滅亡の原因について、「階級闘争史観」の立場から提示されてきた諸学説をことごとく撫で斬りにされた呉座勇一氏は、更に「日本の歴史学界」における「体制崩壊の直接的契機より体制の構造的矛盾を指摘した方がエラいという風潮」を批判されます。
そして、「体制の構造的矛盾」ではなく「体制崩壊の直接的契機」、即ち「鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけ」を「真剣に考えてみることも必要」だと主張されるのですが、しかし、その後で呉座氏が具体的に提示する「体制崩壊の直接的契機」は、私にはいささか拍子抜けの回答でした。(p101以下)

-------
 そのように発想を転換した場合、楠木正成の果たした役割は極めて大きい。元徳三年(一三三一)四月、吉田定房の密告により後醍醐天皇の討幕計画が幕府にもれ、幕府が後醍醐の処分を決めかねている間に後醍醐は京都を脱出、九月には山城国(現在の京都府)の笠置山(上の地図参照)にたてこもった。楠木正成はこれに呼応して挙兵し、河内国の赤坂・千早の両山城(現在の大阪府(現在の大阪府南河内郡千早赤阪)を拠点に一年半にわたって山岳ゲリラ戦を展開したのである。
 大軍をもってしても千早城を落とせない、鎌倉幕府、というか北条氏の"不敗神話"が崩れていく。勝ち続けることで支配の正当性を維持してきた北条氏にとって、これは致命傷であった。人々が<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像し始めたことで、今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出していく。
 市沢哲氏は、千早城を攻囲する武士たちが、厭戦気分にとらわれていく中で倒幕という選択肢の存在に気づき、その意思を共有していったのではないか、と推測している。千早城合戦は鎌倉幕府にとって、蟻の一穴だったのである。
-------

うーむ。
「鎌倉幕府滅亡の根本的原因」・「体制の構造的矛盾」についての諸学説をバッサバッサと切り捨て、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」的状況を作り出した呉座氏の手腕は見事ですが、しかし、呉座氏自身が提示する「体制崩壊の直接的契機」についての回答が「楠木正成が頑張りました」なので、正直、いささかコミカルな印象を受けます。
「北条氏の"不敗神話"が崩れていく。勝ち続けることで支配の正当性を維持してきた北条氏にとって、これは致命傷であった。人々が<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像し始めたことで、今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出していく」云々も、安っぽい二時間テレビドラマのストーリーとしては見事ですが、実証を重んじる歴史研究者の叙述としてはいかがなものか。
呉座氏が集団心理に着目したこと自体は評価できそうですが、しかし、「北条氏の"不敗神話"」=「勝ち続けることで支配の正当性を維持」→「<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像」→「今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出」という心理過程を実証的に根拠づけることはおそらく無理でしょうね。
市沢哲氏の「千早城を攻囲する武士たちが、厭戦気分にとらわれていく中で倒幕という選択肢の存在に気づき、その意思を共有していった」という心理過程の「推測」も、同様に実証的に根拠づけることはおそらく無理で、あくまで「推測」もしくは「憶測」、または「妄想」に止まらざるをえないと思います。
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「ひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか」(by 呉座勇一氏)

2020-09-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 6日(日)21時13分23秒

『戦争の日本中世史』の「参考文献」を見たら、第二章関係に松本新八郎『中世社会の研究』(東京大学出版会、1956)が出ているので、「御家人の家における惣領と庶子の対立に注目する意見」は松本説ですかね。
さすがに松本新八郎あたりは古臭い感じがしてあまり読んでいないのですが、後で確認してみたいと思います。
さて、続きです。(p100)

-------
 後世の歴史家は「専制支配によって表面的には人々の反発を抑え込むことができたが、社会の深奥では矛盾が拡大していった」などともっともらしく解説するが、それは結果を知っているから言えることであって、当時の人間は鎌倉幕府の滅亡など想像もしていなかった。後醍醐天皇の倒幕計画は、北条氏の専横を苦々しく思っていた側近の貴族、吉田定房からも「東国武士は一騎当千の強者ぞろい、幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません。倒幕は時期尚早で、現時点では敗北の公算が大です。天皇家がここで滅んでしまっても良いのですか」(吉田定房奏状)と諫められるほど無謀なものだった。
-------

「専制支配によって表面的には人々の反発を抑え込むことができたが、社会の深奥では矛盾が拡大していった」は「深奥」云々が網野チックな感じがしますが、これは「参考文献」の『蒙古襲来』からの引用でしょうか。
また、吉田定房奏状の「幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません」云々は、これがいつの時点での定房の認識かが重要です。
吉田定房奏状の作成時期については元徳二年(一三三〇)説が通説だったところ、佐藤進一氏が正中元年(一三二四)説、村井章介氏が元亨元年(一三二一)説を唱え、なかなか微妙な問題となっていました。
しかし、両説、特に村井説はあまりに早すぎて不自然であり、結局は元徳二年(一三三〇)説が一番妥当な感じですね。
呉座氏も元徳二年(一三三〇)説です。

呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

さて、この後は世相漫談的な記述も出てきますが、正確を期して、省略せずに引用しておきます。(p100以下)

-------
 そもそも前近代の権力はおしなべて専制的であるので、「専制支配への不満が高まり、体制打倒の気運が生じた」といった説明は無内容なのだ。日本の保守派の評論家は一〇年以上前から「民衆の生活を省みず先軍政治を続ける北朝鮮の命脈は長くない」「貧富の差が拡大し続ける中国はいずれ崩壊する」と説いてきたが、御覧の通りである。
 現代日本も同じだ。「今の政治に不満を持っていますか?」と質問したら、ほとんどの人が「はい」と答えるだろうが、だからといって現在の政治体制が革命によって崩壊することはあり得ない。結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論は、革命の実現を熱望したマルクス主義歴史学の残滓でしかない。
 研究が今後さらに進めば、もしかしたら鎌倉幕府滅亡の根本的原因がわかるようになるかもしれない。だが現時点では「分からない」が良心的回答である。分からないのにムリヤリ答えをひねり出しても仕方ない。
 そこで、ひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか。「階級闘争史観」の影響が残っているからか、日本の歴史学界では体制崩壊の直接的契機より体制の構造的矛盾を指摘した方がエラいという風潮があるが、体制への不満分子を「発見」して「これが体制崩壊の根本的要因だ。〇〇は滅ぶべくして滅んだ!」と決めつけることが生産的とも思えない。鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけを真剣に考えてみることも必要だろう。
-------

「前近代の権力はおしなべて専制的」だから「得宗専制」なんていう表現はそもそもおかしいのだ、といった主張を私は秋山哲雄氏から聞いた覚えがありますが、「参考文献」には特に秋山氏の著書・論文は出ていませんね。
ま、当たり前と言えば当たり前の話です。
呉座氏の見解の引用はもう少し続きます。
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