投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月30日(水)12時45分37秒
山口昌男の『太平記』論を紹介する前に、山口説と対照的な、極めてオーソドックスでストイックな『太平記』研究の一例として、東京大学史料編纂所教授・遠藤基郎氏の「バサラ再考」(『東京大学史料編纂所研究紀要』22号、2012)を少し見ておきたいと思います。
一般には入手が困難なこの雑誌に載った「バサラ再考」は、幸いなことにリンク先で読むことができます。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-01.pdf
遠藤基郎氏には『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008)という一般人には近寄りがたい高度な専門書があって、あまりに高度なので、私には遠藤氏が後宇多院の没年を三年ほど勘違いしている程度のことしか指摘できません。
『中世王権と王朝儀礼』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98ea25202f216779a03d763b36806c37
さて、この論文の全体の構成は、
-------
はじめに
1 網野説の検討
(1)『江談抄』の賀茂祭説話
(2)『峯相記』の悪党
2 「婆娑」と芸能のバサラ
(1)真言院後七日御修法宿坊での「狂乱婆娑」
(2)舞楽の婆娑
(3)芸能のことば「バサラ」
(4)バサラ扇
3 南北朝期初期の過差禁制とバサラ
(1)建武政権の過差禁制
(2)『建武式目』以後の過差禁制
4 『太平記』のバサラ
5 バサラ再考─政治史として
(1)前史─芸能の婆娑・ら
(2)バサラの登場
(3)『太平記』とバサラ
むすびに
-------
となっていますが、「5(2)バサラの登場」に、遠藤氏による史料の引用の仕方が些か恣意的ではないかと思われる部分があります。
参照の便宜のために転載します。(p14)
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権勢を誇る武士たちは、うかれてそぞろに出歩き、先々で茶会・酒宴の大宴会が催され、酔いにまかせて巷を闊歩した。まさに遊興三昧である。そうした有様を彷彿とさせるものこそ、次の一説である。
〔史料20〕『太平記』巻二三 土岐参向御幸致狼藉事
此比殊ニ、時ヲ得タル物共ヨト覚シキ武士之太ク逞シキ馬ニ、千鳥
足ヲ蹈セ、段子金襴之小袖、色々ニ脱係テ脇ヨリ余セルモ有リ、下
人之頚ニ巻タルモアリ、金銀ヲ打クゝミタル白太刀共、小者中間
ニ持セ唐笠ニ毛踏帯テ、当世早ヤル田楽節、所々打揚テ、酒アタヽ
メ、殘セル紅葉手毎ニ折カサシ、五六十騎カ程、野遊シテ帰リケ
ルカ、
これは、有名な土岐頼遠による光厳院御幸射撃事件の直後の逸話であり、折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう。
-------
遠藤氏は「白川とは異なり、原『 太平記』にもっとも近いと考えられる西源院本( 大永・天文年間成立) を使用」(p11)されているので、内容は私が既に紹介済みの兵藤裕己氏校注の岩波文庫版と全く同一です。
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1b1f8e19748a15aea2b63085b4c9593
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46025f24aba5b546df4fdc2830c7663f
遠藤氏は「折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう」としており、別に間違いではありませんが、しかし、「五六十騎カ程」の武士の方も、「すはや、これこそ件の院と云ふ恐ろしき物よ」と云ひて、一度にさつと馬より下り、哺蒙りを弛し、笠を脱いで、頭を地に付けてぞ畏まつたる」という「失態を演じて」しまっている訳で、遠藤氏は何故に武士側の行動を綺麗さっぱり除去してしまわれるのか。
遠藤氏の書き方だと、このエピソードが笑い話であることに気づかない読者が大半だと思いますが、真面目な議論をしたい遠藤氏は、あくまでこの話が歴史的事実の記録なのだと思わせたいのですかね。
私が思うに、このエピソードはおよそ歴史的事実の記録ではなく、あくまで創作、それも『太平記』の作者が練りに練って作ったスラップスティックコメディの傑作ですね。
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f37c4b29b533c855865aab015a35eee
遠藤氏と同様に、『太平記の時代』の新田一郎氏も、このエピソードを真面目くさって論じているのですが、正直、笑い話を笑えない両氏はちょっと変なのではなかろうか、と私は感じます。
間違っているとまでは言えないけれど、ひどくズレている感じですね。
「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
笑い話に溢れている『太平記』を題材にして、歴史学者が何故にこうしたストイックな議論をしがちなのかを考えると、それは、結局のところ、『太平記』は鎮魂のための書であるという基本的認識に由来するのではないかと思います。
遠藤氏は『太平記』について、
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ところで『太平記』をめぐっては、その原形本を法勝寺慈鎮上人が、直義に読み聞かせたと『難太平記』にある。先行学説は、これを手がかりに、『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している。そしてこの慈鎮こそは、後醍醐政権において、「異類異形」と称された被差別民を統括する律宗の高僧だったのである。このことはバサラを考える上で、重要である。
【中略】
歴史の現実にあって、律宗的な戒律主義と直義の伝統的な徳治主義とは「敗者」であった。『太平記』は、彼ら「敗者」の鎮魂のための物語である。その中で語られるバサラが、非難されるべきものとなったのは、以上の構図に由来すると思われる。
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と纏められる訳ですが(p16)、私は全く賛成できません。
注26を見ると、「『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している」「先行学説」は、
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(26)長谷川端『 太平記の研究』 ( 汲古書院、一九八二年) 、砂川博「太平記と中世律僧」 (『 軍記物語の研究』 桜楓社、一九九〇年) 、五味文彦「後醍醐の物語」 (『国文学―解釈と教材の研究』三六-二、一九九一年) 、松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』 (中公新書、中央公論新社、二〇〇一年)など。
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となっていますが、『太平記』が「鎮魂のための物語」だと最も強調するのは松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』ですね。
他人はともかく、自分では山口昌男「門下」と認めている私は、山口理論を導きの星として、この種の「鎮魂莫迦」たちと戦いたいと思っています。
※追記(2020.10.26)
「バサラ再考」において、遠藤基郎氏があまりに堂々と「法勝寺慈鎮上人」「慈鎮門下」「この慈鎮こそは」などと書かれているので、私も追随してしまったのですが、これは「恵鎮」なんでしょうね。
「慈鎮」は天台座主・慈円(1155~1225)の諡号で、「恵鎮」の別名が「慈鎮」という話も聞きません。
遠藤氏の単なる勘違いかと思いますが、引用部分で「慈鎮」となっているので、そのままにしておきます。
山口昌男の『太平記』論を紹介する前に、山口説と対照的な、極めてオーソドックスでストイックな『太平記』研究の一例として、東京大学史料編纂所教授・遠藤基郎氏の「バサラ再考」(『東京大学史料編纂所研究紀要』22号、2012)を少し見ておきたいと思います。
一般には入手が困難なこの雑誌に載った「バサラ再考」は、幸いなことにリンク先で読むことができます。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-01.pdf
遠藤基郎氏には『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008)という一般人には近寄りがたい高度な専門書があって、あまりに高度なので、私には遠藤氏が後宇多院の没年を三年ほど勘違いしている程度のことしか指摘できません。
『中世王権と王朝儀礼』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98ea25202f216779a03d763b36806c37
さて、この論文の全体の構成は、
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はじめに
1 網野説の検討
(1)『江談抄』の賀茂祭説話
(2)『峯相記』の悪党
2 「婆娑」と芸能のバサラ
(1)真言院後七日御修法宿坊での「狂乱婆娑」
(2)舞楽の婆娑
(3)芸能のことば「バサラ」
(4)バサラ扇
3 南北朝期初期の過差禁制とバサラ
(1)建武政権の過差禁制
(2)『建武式目』以後の過差禁制
4 『太平記』のバサラ
5 バサラ再考─政治史として
(1)前史─芸能の婆娑・ら
(2)バサラの登場
(3)『太平記』とバサラ
むすびに
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となっていますが、「5(2)バサラの登場」に、遠藤氏による史料の引用の仕方が些か恣意的ではないかと思われる部分があります。
参照の便宜のために転載します。(p14)
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権勢を誇る武士たちは、うかれてそぞろに出歩き、先々で茶会・酒宴の大宴会が催され、酔いにまかせて巷を闊歩した。まさに遊興三昧である。そうした有様を彷彿とさせるものこそ、次の一説である。
〔史料20〕『太平記』巻二三 土岐参向御幸致狼藉事
此比殊ニ、時ヲ得タル物共ヨト覚シキ武士之太ク逞シキ馬ニ、千鳥
足ヲ蹈セ、段子金襴之小袖、色々ニ脱係テ脇ヨリ余セルモ有リ、下
人之頚ニ巻タルモアリ、金銀ヲ打クゝミタル白太刀共、小者中間
ニ持セ唐笠ニ毛踏帯テ、当世早ヤル田楽節、所々打揚テ、酒アタヽ
メ、殘セル紅葉手毎ニ折カサシ、五六十騎カ程、野遊シテ帰リケ
ルカ、
これは、有名な土岐頼遠による光厳院御幸射撃事件の直後の逸話であり、折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう。
-------
遠藤氏は「白川とは異なり、原『 太平記』にもっとも近いと考えられる西源院本( 大永・天文年間成立) を使用」(p11)されているので、内容は私が既に紹介済みの兵藤裕己氏校注の岩波文庫版と全く同一です。
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1b1f8e19748a15aea2b63085b4c9593
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46025f24aba5b546df4fdc2830c7663f
遠藤氏は「折悪しくこの武士に遭遇した貧乏公家は、恐怖のあまり失態を演じてしまう」としており、別に間違いではありませんが、しかし、「五六十騎カ程」の武士の方も、「すはや、これこそ件の院と云ふ恐ろしき物よ」と云ひて、一度にさつと馬より下り、哺蒙りを弛し、笠を脱いで、頭を地に付けてぞ畏まつたる」という「失態を演じて」しまっている訳で、遠藤氏は何故に武士側の行動を綺麗さっぱり除去してしまわれるのか。
遠藤氏の書き方だと、このエピソードが笑い話であることに気づかない読者が大半だと思いますが、真面目な議論をしたい遠藤氏は、あくまでこの話が歴史的事実の記録なのだと思わせたいのですかね。
私が思うに、このエピソードはおよそ歴史的事実の記録ではなく、あくまで創作、それも『太平記』の作者が練りに練って作ったスラップスティックコメディの傑作ですね。
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f37c4b29b533c855865aab015a35eee
遠藤氏と同様に、『太平記の時代』の新田一郎氏も、このエピソードを真面目くさって論じているのですが、正直、笑い話を笑えない両氏はちょっと変なのではなかろうか、と私は感じます。
間違っているとまでは言えないけれど、ひどくズレている感じですね。
「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
笑い話に溢れている『太平記』を題材にして、歴史学者が何故にこうしたストイックな議論をしがちなのかを考えると、それは、結局のところ、『太平記』は鎮魂のための書であるという基本的認識に由来するのではないかと思います。
遠藤氏は『太平記』について、
-------
ところで『太平記』をめぐっては、その原形本を法勝寺慈鎮上人が、直義に読み聞かせたと『難太平記』にある。先行学説は、これを手がかりに、『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している。そしてこの慈鎮こそは、後醍醐政権において、「異類異形」と称された被差別民を統括する律宗の高僧だったのである。このことはバサラを考える上で、重要である。
【中略】
歴史の現実にあって、律宗的な戒律主義と直義の伝統的な徳治主義とは「敗者」であった。『太平記』は、彼ら「敗者」の鎮魂のための物語である。その中で語られるバサラが、非難されるべきものとなったのは、以上の構図に由来すると思われる。
-------
と纏められる訳ですが(p16)、私は全く賛成できません。
注26を見ると、「『太平記』が慈鎮門下によって編まれたと指摘している」「先行学説」は、
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(26)長谷川端『 太平記の研究』 ( 汲古書院、一九八二年) 、砂川博「太平記と中世律僧」 (『 軍記物語の研究』 桜楓社、一九九〇年) 、五味文彦「後醍醐の物語」 (『国文学―解釈と教材の研究』三六-二、一九九一年) 、松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』 (中公新書、中央公論新社、二〇〇一年)など。
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となっていますが、『太平記』が「鎮魂のための物語」だと最も強調するのは松尾剛次『 太平記―鎮魂と救済の史書』ですね。
他人はともかく、自分では山口昌男「門下」と認めている私は、山口理論を導きの星として、この種の「鎮魂莫迦」たちと戦いたいと思っています。
※追記(2020.10.26)
「バサラ再考」において、遠藤基郎氏があまりに堂々と「法勝寺慈鎮上人」「慈鎮門下」「この慈鎮こそは」などと書かれているので、私も追随してしまったのですが、これは「恵鎮」なんでしょうね。
「慈鎮」は天台座主・慈円(1155~1225)の諡号で、「恵鎮」の別名が「慈鎮」という話も聞きません。
遠藤氏の単なる勘違いかと思いますが、引用部分で「慈鎮」となっているので、そのままにしておきます。