それでは第四節に入ります。(p105以下)
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四
以上をもって、慈光寺本『承久記』に見いだされる武家に対する言語待遇の具体相についての叙述を終える。独自的といい、個性的とも評した、その武家に対する言語待遇の特色を摘記すれば、次のごとくになる。
一 なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ
以下)まで及んでいるということである。
二 その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ。
三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大
きい場合がある。
こうした特色は、では、いかに解釈されるべきであろうか。最後にそれが問われなくてはなるまい。もし、『保元物語』『平治物語』そして『平家物語』、それから『承久記』と辿ってきて、そこに、源平二氏のみからはじまって北条氏が加わり、ついで中間層までへの拡がりが見られるようになるのは、武家の社会的存在としての重みが増し、評価がしだいに高まっていくその過程をそれぞれの時点で反映しているに過ぎないと断ずるのみですますとすれば、それはあまりにも単線的であり単純に過ぎるであろう。承久の乱以後の武家の支配権が確立したあとの作品においても、歴史もの以外に目を向けるならば、『古今著聞集』や、鎌倉時代の武士についての逸話がすこぶる乏しい作品ではあるが、『十訓抄』などのごとく、待遇基準に関しては公家一辺倒とは考えがたいものにおいても、依然として中間層クラスの武士に対する言語待遇は低いのである。
ではどのような解釈が可能か。ポイントは、慈光寺本における作者の階層性をどうとらえるか、そしてどのような資料をどう利用していると考えられるか、そのあたりにあると思われる。
言語待遇の与え方に即していえば、作者は、すくなくとも、中間層クラスの武士に敬語を適用することに異和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低い。言語待遇にはそのときどきの恣意によって微妙に左右されるところがありはするが、多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─においては、概してその作者の帰属する社会集団に一般的に認められる価値規範に則る傾向がある。そうした傾向にあわせて捉えるならば、公家出身である可能性ははなはだ低いとみるのが自然であろう。武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか。もっとも、武家については、宮廷武士はいざ知らず、『吾妻鏡』承久三年六月十五日の条の、泰時麾下の五千余輩のうち、院宣の文書を読める武士はわずかに武蔵国の藤田三郎くらいであり、彼が「文博士者」と称せられていたという有名な記事および御成敗式目の名称ならびに文体などについて説明した泰時の重時あて消息の「この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。(略)これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置れ候者也」(『中世政治社会思想上』─日本思想大系─四一頁)などからうかがえるように、東国武士などには識字の者がはなはだ尠かったらしいことを思うべきであろう。
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いったん、ここで切ります。
森野論文を引用する人は、森野氏自身が要約された上記三点の中の「一」と「二」を強調することが多いですね。
例えば日下力氏は『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)において、
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森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」は、地の文における敬語使用の実態を調査、他の歴史的書物に比べて「異色の一語に尽きる」と言い切っている。氏の言葉を借りれば、「なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ以下)まで及んでいるということ」であり、「その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ」という。そして、「作者は、すくなくとも中間層クラスの武士に敬語を適用することに違和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低」く、「武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか」とし、更に「美濃・尾張という地域と密接な関係を持つ人物である可能性は大きい」とされる。無論それと関連して、勝敗の帰趨を決することになった宇治川の合戦は取りあげられず、「美濃・尾張での合戦にスペースを費やし」ているという、この本独自の特異なあり方にも言及されている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04f954817cedf066981f7b26a4ce17aa
と書かれていて、三点の中、「一」「二」は正確に引用されていても、「三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大きい場合がある」は除外されています。
しかし、私は「三」も重要だと考えており、私見は後でまとめて述べます。
また、森野氏は「多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─」とされますが、慈光寺本については私は賛成できません。
森野論文は今から四十四年、1979年の作品なので、慈光寺本の成立時期についての学説は固まっていませんでしたが、現在は1230年代成立と考える杉山次子説が定説となっています。
慈光寺本は北条義時を野心に満ちた大悪人として描いていますが、果たして1230年代の幕府は慈光寺本のような作品の公開を許したのか。
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四
以上をもって、慈光寺本『承久記』に見いだされる武家に対する言語待遇の具体相についての叙述を終える。独自的といい、個性的とも評した、その武家に対する言語待遇の特色を摘記すれば、次のごとくになる。
一 なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ
以下)まで及んでいるということである。
二 その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ。
三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大
きい場合がある。
こうした特色は、では、いかに解釈されるべきであろうか。最後にそれが問われなくてはなるまい。もし、『保元物語』『平治物語』そして『平家物語』、それから『承久記』と辿ってきて、そこに、源平二氏のみからはじまって北条氏が加わり、ついで中間層までへの拡がりが見られるようになるのは、武家の社会的存在としての重みが増し、評価がしだいに高まっていくその過程をそれぞれの時点で反映しているに過ぎないと断ずるのみですますとすれば、それはあまりにも単線的であり単純に過ぎるであろう。承久の乱以後の武家の支配権が確立したあとの作品においても、歴史もの以外に目を向けるならば、『古今著聞集』や、鎌倉時代の武士についての逸話がすこぶる乏しい作品ではあるが、『十訓抄』などのごとく、待遇基準に関しては公家一辺倒とは考えがたいものにおいても、依然として中間層クラスの武士に対する言語待遇は低いのである。
ではどのような解釈が可能か。ポイントは、慈光寺本における作者の階層性をどうとらえるか、そしてどのような資料をどう利用していると考えられるか、そのあたりにあると思われる。
言語待遇の与え方に即していえば、作者は、すくなくとも、中間層クラスの武士に敬語を適用することに異和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低い。言語待遇にはそのときどきの恣意によって微妙に左右されるところがありはするが、多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─においては、概してその作者の帰属する社会集団に一般的に認められる価値規範に則る傾向がある。そうした傾向にあわせて捉えるならば、公家出身である可能性ははなはだ低いとみるのが自然であろう。武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか。もっとも、武家については、宮廷武士はいざ知らず、『吾妻鏡』承久三年六月十五日の条の、泰時麾下の五千余輩のうち、院宣の文書を読める武士はわずかに武蔵国の藤田三郎くらいであり、彼が「文博士者」と称せられていたという有名な記事および御成敗式目の名称ならびに文体などについて説明した泰時の重時あて消息の「この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。(略)これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置れ候者也」(『中世政治社会思想上』─日本思想大系─四一頁)などからうかがえるように、東国武士などには識字の者がはなはだ尠かったらしいことを思うべきであろう。
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いったん、ここで切ります。
森野論文を引用する人は、森野氏自身が要約された上記三点の中の「一」と「二」を強調することが多いですね。
例えば日下力氏は『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)において、
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森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」は、地の文における敬語使用の実態を調査、他の歴史的書物に比べて「異色の一語に尽きる」と言い切っている。氏の言葉を借りれば、「なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ以下)まで及んでいるということ」であり、「その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ」という。そして、「作者は、すくなくとも中間層クラスの武士に敬語を適用することに違和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低」く、「武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか」とし、更に「美濃・尾張という地域と密接な関係を持つ人物である可能性は大きい」とされる。無論それと関連して、勝敗の帰趨を決することになった宇治川の合戦は取りあげられず、「美濃・尾張での合戦にスペースを費やし」ているという、この本独自の特異なあり方にも言及されている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04f954817cedf066981f7b26a4ce17aa
と書かれていて、三点の中、「一」「二」は正確に引用されていても、「三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大きい場合がある」は除外されています。
しかし、私は「三」も重要だと考えており、私見は後でまとめて述べます。
また、森野氏は「多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─」とされますが、慈光寺本については私は賛成できません。
森野論文は今から四十四年、1979年の作品なので、慈光寺本の成立時期についての学説は固まっていませんでしたが、現在は1230年代成立と考える杉山次子説が定説となっています。
慈光寺本は北条義時を野心に満ちた大悪人として描いていますが、果たして1230年代の幕府は慈光寺本のような作品の公開を許したのか。
私は、少なくとも成立時には、慈光寺本は少数の限られた読者を想定した非公開本であったろうと考えています。
渡邉裕美子論文の達成と限界(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72fe0d90fca4e67eb57aeb65bc6aa0fd
なお、『吾妻鏡』承久三年六月十五日条の藤田三郎のエピソードについては、かつては武士のリテラシーの欠如に直結させて理解されていましたが、現在の学説はかなり複雑ですね。
森幸夫氏は「史料としての『吾妻鏡』」(菊池紳一監修・北条氏研究会編『北条義時の生涯』所収、勉誠出版、2022)において、藤田の子孫が祖先顕彰のために当該エピソードを入れた可能性を指摘されており、後で少し検討してみたいと思います。
『北条義時の生涯 鎌倉幕府の草創から確立へ』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101290
渡邉裕美子論文の達成と限界(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72fe0d90fca4e67eb57aeb65bc6aa0fd
なお、『吾妻鏡』承久三年六月十五日条の藤田三郎のエピソードについては、かつては武士のリテラシーの欠如に直結させて理解されていましたが、現在の学説はかなり複雑ですね。
森幸夫氏は「史料としての『吾妻鏡』」(菊池紳一監修・北条氏研究会編『北条義時の生涯』所収、勉誠出版、2022)において、藤田の子孫が祖先顕彰のために当該エピソードを入れた可能性を指摘されており、後で少し検討してみたいと思います。
『北条義時の生涯 鎌倉幕府の草創から確立へ』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101290