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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その12)─「慈光寺本における作者の階層性をどうとらえるか」

2023-08-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
それでは第四節に入ります。(p105以下)

-------
  四

 以上をもって、慈光寺本『承久記』に見いだされる武家に対する言語待遇の具体相についての叙述を終える。独自的といい、個性的とも評した、その武家に対する言語待遇の特色を摘記すれば、次のごとくになる。

 一 なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ
   以下)まで及んでいるということである。
 二 その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ。
 三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大
   きい場合がある。

 こうした特色は、では、いかに解釈されるべきであろうか。最後にそれが問われなくてはなるまい。もし、『保元物語』『平治物語』そして『平家物語』、それから『承久記』と辿ってきて、そこに、源平二氏のみからはじまって北条氏が加わり、ついで中間層までへの拡がりが見られるようになるのは、武家の社会的存在としての重みが増し、評価がしだいに高まっていくその過程をそれぞれの時点で反映しているに過ぎないと断ずるのみですますとすれば、それはあまりにも単線的であり単純に過ぎるであろう。承久の乱以後の武家の支配権が確立したあとの作品においても、歴史もの以外に目を向けるならば、『古今著聞集』や、鎌倉時代の武士についての逸話がすこぶる乏しい作品ではあるが、『十訓抄』などのごとく、待遇基準に関しては公家一辺倒とは考えがたいものにおいても、依然として中間層クラスの武士に対する言語待遇は低いのである。
 ではどのような解釈が可能か。ポイントは、慈光寺本における作者の階層性をどうとらえるか、そしてどのような資料をどう利用していると考えられるか、そのあたりにあると思われる。
 言語待遇の与え方に即していえば、作者は、すくなくとも、中間層クラスの武士に敬語を適用することに異和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低い。言語待遇にはそのときどきの恣意によって微妙に左右されるところがありはするが、多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─においては、概してその作者の帰属する社会集団に一般的に認められる価値規範に則る傾向がある。そうした傾向にあわせて捉えるならば、公家出身である可能性ははなはだ低いとみるのが自然であろう。武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか。もっとも、武家については、宮廷武士はいざ知らず、『吾妻鏡』承久三年六月十五日の条の、泰時麾下の五千余輩のうち、院宣の文書を読める武士はわずかに武蔵国の藤田三郎くらいであり、彼が「文博士者」と称せられていたという有名な記事および御成敗式目の名称ならびに文体などについて説明した泰時の重時あて消息の「この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。(略)これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置れ候者也」(『中世政治社会思想上』─日本思想大系─四一頁)などからうかがえるように、東国武士などには識字の者がはなはだ尠かったらしいことを思うべきであろう。
-------

いったん、ここで切ります。
森野論文を引用する人は、森野氏自身が要約された上記三点の中の「一」と「二」を強調することが多いですね。
例えば日下力氏は『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)において、

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 森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」は、地の文における敬語使用の実態を調査、他の歴史的書物に比べて「異色の一語に尽きる」と言い切っている。氏の言葉を借りれば、「なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ以下)まで及んでいるということ」であり、「その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ」という。そして、「作者は、すくなくとも中間層クラスの武士に敬語を適用することに違和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低」く、「武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか」とし、更に「美濃・尾張という地域と密接な関係を持つ人物である可能性は大きい」とされる。無論それと関連して、勝敗の帰趨を決することになった宇治川の合戦は取りあげられず、「美濃・尾張での合戦にスペースを費やし」ているという、この本独自の特異なあり方にも言及されている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04f954817cedf066981f7b26a4ce17aa

と書かれていて、三点の中、「一」「二」は正確に引用されていても、「三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大きい場合がある」は除外されています。
しかし、私は「三」も重要だと考えており、私見は後でまとめて述べます。
また、森野氏は「多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─」とされますが、慈光寺本については私は賛成できません。
森野論文は今から四十四年、1979年の作品なので、慈光寺本の成立時期についての学説は固まっていませんでしたが、現在は1230年代成立と考える杉山次子説が定説となっています。
慈光寺本は北条義時を野心に満ちた大悪人として描いていますが、果たして1230年代の幕府は慈光寺本のような作品の公開を許したのか。
私は、少なくとも成立時には、慈光寺本は少数の限られた読者を想定した非公開本であったろうと考えています。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72fe0d90fca4e67eb57aeb65bc6aa0fd

なお、『吾妻鏡』承久三年六月十五日条の藤田三郎のエピソードについては、かつては武士のリテラシーの欠如に直結させて理解されていましたが、現在の学説はかなり複雑ですね。
森幸夫氏は「史料としての『吾妻鏡』」(菊池紳一監修・北条氏研究会編『北条義時の生涯』所収、勉誠出版、2022)において、藤田の子孫が祖先顕彰のために当該エピソードを入れた可能性を指摘されており、後で少し検討してみたいと思います。

『北条義時の生涯 鎌倉幕府の草創から確立へ』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101290
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その11)─「能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ」

2023-08-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
三浦胤義への敬語の使用が「結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて」(p105)ということは、尾張河合戦などで官軍の美濃・尾張の「中間層あるいはそれ以下のクラスにまで」敬語が用いられているのに対し、三浦胤義には敬語が用いられないということでもあります。
例えば、

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 板橋ニオハシケル萩野次郎左衛門・伊豆ノ御曹司カケ出テ戦ケリ。数多敵討取、終ニハシラミテ落ニケリ。
 伊義ノ渡ニオハシケル関田・懸桟・上田殿、坂東方ト矢合シテ戦ケルガ、敵数多討取、是モシラミテ落ニケリ。
 火ノ御子ニオハシケル打見・御領・寺本殿、尾張熱田大宮司ニ懸ツメラレテ、モロコシ河ニテ討レニケリ。
 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

などとあって(岩波新大系、p345)、「萩野次郎左衛門・伊豆ノ御曹司」「関田・懸桟・上田殿」「打見・御領・寺本殿」などに「オハシケル」と敬語が用いられているのに、官軍の総大将クラスである「能登守秀康・平判官胤義」には敬語が見られません。
胤義が渡辺翔・山田重忠(慈光寺本では「重貞」または「重定」)とともに後鳥羽院に敗戦の報告をする場面でも、

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【前略】胤義是ヲ承テ、翔・重定等ニ向〔むかひ〕テ申ケルハ、「口惜〔くちをしく〕マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀〔あはれ〕ナレ。何〔いづく〕ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路〔よどぢ〕ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞〔ひとことば〕云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同〔おなじく〕打具シテ、大宮ヲ下〔くだり〕ニ、東寺マデ打〔うち〕、彼寺ニ引籠〔ひきこもり〕テ敵ヲ待〔まつ〕ニ、新田四郎ゾカケ出タル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

とあって(p350)、胤義に敬語は用いられていません。
そして、

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 其次ニ、黄村紺〔きむらご〕ノ旗十五流〔ながれ〕ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益〔むやく〕ナリ」ト思ヒ、四墓〔よつづか〕ヘコソ帰ケレ。
-------

とあって(p350以下)、ここで初めて「平判官申サレケルハ」「散々ニカケ給ヘバ」と敬語が用いられる訳ですね。
このように、三浦胤義の場合、敬語の使用・不使用に一貫性が見られない以上、確かに「こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい」(p105)と思われます。
ちなみに、胤義と並記されることの多い藤原秀康についても、敬語の適用に一貫性は見られません。
藤原秀康は上巻に頻出しますが、敬語は用いられておらず、初めて敬語が使用されるのは下巻冒頭の押松帰洛の場面です。
即ち、

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 去程ニ、押松ハ大庭ニウツブシ様〔ざま〕ニゾ伏ニケル。能登守ノ申サレケルハ、「何ゾノ押松ガ、是程ノ晴ニ、南庭ニウツブシタル奇怪〔きつくわい〕サヨ。鎌倉ノ様〔さま〕、起上リテ、有ノ儘ニ申セ、押松」トゾ仰ラレケル。如此〔かくのごとく〕ニ三度仰ノ後、起居〔おきゐ〕ツゝ、涙ヲ流シテ申ケルハ、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/233d606a92d0f07c661e4806fddd6b6e

ということで(p333)、「能登守」藤原秀康に「申サレケル」「仰ラレケル」「ニ三度仰ノ後」と敬語が用いられています。
この後、秀康は軍勢手分を行い、そこでも、

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 能登守秀康ハ此宣旨ヲ蒙リ、手々〔てんで〕ヲ汰〔そろへ〕テ分〔わけ〕ラレケリ。【中略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

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 瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。【中略】
 宇治ノ手ニハ、甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道ヲ始トシテ、奈良印地〔ならのいんぢ〕ニ仰附ラレケリ。真木島〔まきのしま〕ヲバ、佐々木野中納言有雅、伏見ヲバ、中御門中納言宗行、芋洗〔いもあらひ〕ヲバ、坊門新中納言忠信、魚市ヲバ、吉野執行、大渡〔おほわたり〕ヲバ、二位法眼尊長、下瀬〔しものせ〕ヲバ、伊予河野四郎入道ニ仰付ラレケリ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

という具合に、「分ラレケリ」「仰付ラレケリ」と敬語が用いられていますが、しかし、先に見たように、この後、「大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ」(p345)などとあって、敬語使用に一貫性は見られません。
奇妙なことに、慈光寺本では「大豆戸ノ渡リ」云々以降、秀康が消えてしまい、秀康は後鳥羽院に敗戦の報告をすることもなく、戦後処理の最後に、その処刑が秀澄とともに一行で記されるだけです。
従って、秀康への敬語使用の変化を追う材料は僅少なのですが、秀康の場合、

 不使用→使用→不使用

と、まだら模様となっている点は、胤義より更に奇妙な感じもします。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その70)─「河内国ヨリ秀康・秀澄兄弟二人召出シテ、首ヲ切」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72ed803a7131ccf0ed12646f8768153a

さて、こうした敬語使用における一貫性の不在について、「作者の気まぐれ」以外の説明は可能なのか。
第四節で森野氏の考え方を見ることとします。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その10)─「こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが」

2023-08-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本の場合、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)の行数で計算すると、伊賀光季追討記事は上下巻全体の約16%を占めています。
流布本でも伊賀光季追討記事の分量は相当多いのですが、流布本には大量の宇治川合戦記事があるので、伊賀光季追討記事の全体に占める割合は約10%程度に留まります。
そして、両者の内容を比較すると、主要な相違だけでも25箇所ほどあり、同じ事件を扱ったにしては余りに異同が多いように感じます。
個々の出来事の時間・場所、登場人物の選択とその役割など、まるで同一内容になるのを意図的に避けているのではなかろうかと思われるほどです。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25b33642bd703dd0ec7407be3bd7fa12

特に、流布本では五月十四日に後鳥羽から光季への召喚があったとしているのに対し、慈光寺本では五月十四日に佐々木広綱と伊賀光季の酒宴場面を入れた結果、五月十五日に光季の召喚と戦闘が集中してしまい、何とも慌ただしい展開となっています。
そのため、遊女・白拍子との酒宴が、流布本では最後の別れとしてしみじみとした味わいのあるエピソードであるのに対し、慈光寺本では単なる宴会になってしまうなど、話の流れがチグハグです。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba727054dbbd9d689da0a798b3db294c

私としては、こうした両者の内容比較に加え、今回、森野論文で慈光寺本では酒宴場面と合戦場面での敬語の違いがあることを知ったことにより、あるいは慈光寺本では酒宴場面と合戦場面で作成時期が違うのではなかろうか、などと思っています。
即ち、慈光寺本作者はいったん合戦場面を書いた後、是非とも酒宴場面を加えたいと思って酒宴場面を追加した結果、全体の時間の流れが非常に不自然になってしまったのではなかろうか、などと思っているのですが、まだ思い付きの段階なので、後で再度検討したいと思います。
ま、それはともかく、続きです。(p104以下)

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 もっとも、この例のような不斉性に関しては、『平家物語』などでも、武士に対する敬語の適用は、武将としての言動を描いた合戦場面にもっとも顕著にみられるものであり、光季の場合もその類に属するにすぎないとする声があるかもしれない。たしかに『平家物語』などの戦記物語にはそうした傾向が見いだされるし、慈光寺本においてもそのような傾向がなくはない。しかし、それですべてが不足なく処理されるかというと、そうはいかないようである。
 そうした不斉性の例としては、三浦胤義の場合が興味深い。彼についての具体的な叙述部は、後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだりにはじまって諸処に見られるが、合戦場面での武将としての言動の叙述を含めて容易に敬語の使用が見られず、結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われるのである。こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい。
 先の光季の酒宴場面にしても、その場面構成の人的要素として公家が含まれ、公家本位の序列差別意識が作用して敬語が使用されなかったとでも解せられるのならばともかく、広綱は傍輩であり、しかも広綱の方には敬語の使用例が見られるというのでは、合戦場面ではないからという理由もいかにも苦しいことになるであろう。
 さて、こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが、そこに何等かの意味を見いだそうとすれば、慈光寺本『承久記』の性格をどう捉えるか、そこまで足を踏みこまざるを得ない。
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第三節は以上です。
三浦胤義については、次の投稿で若干補足します。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その9)─「合戦場面とまことに対蹠的」

2023-08-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。
第三節に入ります。(p103)

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 三 

 以上、慈光寺本における武家に対する敬語使用の拡がりを見た。中間層あるいはそれ以下のクラスにまで敬語適用範囲が拡がっていることは、特筆に価する事実であるが、しかしまた、その反面、その敬語適用のあり方が決して一律的斉一的ではないことをも見落してはなるまい。
 慈光寺本には、官軍、幕府軍さまざまな武士が登場する。右にみたごとく敬語の使用をもって待遇されている武士が多く拾い上げられる反面、中間層クラスはもちろんのこと、上層クラスの武士にであっても、その場合についての具体的な言動の叙述部があるにもかかわらず、敬語の使用が見られないという場合も、また尠くはないのである。さらにまた、敬語の使用が見られる場合であっても、すでに散発的に触れるところがあったように、きわめて頻度高く濃密にその使用例の見られる武士もあれば、一例程度といった武士もある。
 これが一律的斉一的ではない事実の一つである。ただ、こうした凸凹、不斉性は、多くの作品にまま見いだされることであって、かならずしも慈光寺本のみに指摘される特異な現象ではない。敬語の有無やその頻度は、具体的な言動の叙述部の量の大小とも相関するところがあるという点も考慮に入れてよろしかろう。北条氏以外では、敬語適用の密度が極めて濃密であるのは、これもすでに触れたように伊賀光季と山田重忠の二人である。二人ともに具体的な叙述部の量が大であることとも関係があろう。
 不斉性という点で注意すべきは、同一人物でありながら、その敬語の適用に、場面によって濃淡疎密の差が見られるという事実である。
 たとえば、今その名を出した伊賀光季の場合をみてみよう。彼についての詳細な叙述が繰り広げられるのは、光季と親交のある佐々木広綱が、院方に光季誅殺の謀議があることをそれとなく知らせようと、光季を招いて酒宴を張る武士の友誼を描いた挿話およびその後に続く光季館での壮絶な合戦のくだりである。後者においては、官軍方では広綱にのみ「山城守広綱(略)ト【宣給】ヘバ」(一九四頁)と一例敬語の使用がみられるのにとどまっているのに対し、光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて、彼を主体とする動作・存在の尊敬表現二三例、彼を客体とする動作の謙譲表現七例の計三〇例もの使用例が数えられる。しかるに、酒宴場面では、広綱に対しては「ワリナキ美女【召出シ】、酌ヲ【被】取テ」(一八八頁)のように敬語の使用例が見られるのに、光季については、もし、「(広綱ガ光季ヲ=筆者注)喚寄テ酒尽シテ打解テ遊ビ、【申シ】ケルハ(=新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ。筆者注)」(一八八頁)の類の「申ス」を謙譲語と見るならば、「申ス」に限っては、二例拾えることになるが、彼を主体とした動作・存在の表現では、「光季、心行テ打解ケレバ、申様(略)トゾ云ケル」(一八九頁)のように一切敬語の使用がなく、合戦場面とまことに対蹠的なのである。
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いったん、ここで切ります。
佐々木広綱と伊賀光季の酒宴場面は、岩波新大系(久保田淳氏)では、

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 サ申程〔まうすほど〕ニ、十四日ニモ成ニケル。山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ、山城守此由〔このよし〕聞付テ、伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思〔おもひ〕、喚寄〔よびよせ〕テ酒盛シテ、打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ、「判官殿、今日ハ心静〔こころしづか〕ニ遊ビ玉ヘ」トテ、追座ニ成テワリナキ美女召出シ、酌ヲ被取〔とられ〕テ、其ヲ肴ニテ、今一度トゾ勧メケル。光季心行〔こころゆき〕テ打解ケレバ、申様〔まうすやう〕、「此程、都ニ武士アマタ有ト承ル。何事故〔なにごとゆゑ〕ト難心得〔こころえがたし〕。過シ夜ノ夢ニ、宣旨ノ御使三人来〔きたり〕テ、光季張〔はり〕テ立タル弓ヲ取テ、ツカヲ七ニ切〔きる〕ト見テ候ヘバ、万〔よろ〕ヅ心細クアヂキナク候也。今日ノ交遊〔かういう〕ハ思出〔おもひいで〕ニコソ仕ラメ」トゾ云ケル。山城守是ヲ聞〔きき〕、弓矢取身〔とるみ〕ハ、今日ハ人ノ上、明日ハ身ノ上ト云事ノ有物ヲ、知セバヤトハ思ヘ共、光季ガ打レナン次日〔つぎのひ〕ハ、御所ニ聞食〔きこしめし〕、「広綱コソ中媒〔ちうばい〕シタリケレ。奇怪也」トテ、頸ヲ召〔めさ〕レン事、一定ナリ。乍去〔さりながら〕、余所〔よそ〕ノ様ニテ知セバヤト思ヒ、光季ニ申ケルハ、「院ハ何事ヲ思食ヤ覧。都中ニ騒事共〔さわぐことども〕有ト承ル。此世中ノ習〔ならひ〕ナレバ、人ノ上ニヤ候覧、身ノ上ニヤ候覧。若〔もし〕事モアラン時ハ憑〔たの〕ミ申ベシ。又憑マセ玉ヘ」トゾ云ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4

となっていて、森野氏の「新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ」という指摘にもかかわらず、久保田淳氏も「打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ」とされていますね。
ま、それはともかく、酒宴の場面では広綱に敬語が用いられているのに対し、光季には敬語が使用されていません。
岩波新大系では酒宴場面は15行なのに対し、これに続く合戦場面は9頁強、141行と長大なので全部は引用できませんが、確かに官軍では佐々木広綱に一例だけ敬語が用いられているのに対し、「光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて」いますね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その20)─「此等ノ家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
(その21)─「光季、物具ヲシテ軍ヲセバ、打勝ベキカ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb
(その22)─「草田右馬允」と「原田右馬允」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e1efa6121522e5ce8fd795c45cd9e70
(その23)─「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93
(その24)─「八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その8)─「何故に美濃・尾張の在地武士にこうも偏るのか」

2023-08-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p101以下)

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 それらに対して、懸桟、打見の御料、寺本などといった連中は、それぞれその在地では勢威を振った武士ではあろうが、幕府や宮廷においてしかるべき地歩を持つ上層クラスの武士であったとは思われない。『吾妻鏡』における承久の乱関係の記事にもその名が見えず、『承久記』の他の諸本にも登場しない。おそらくは上層の有力武士層より下の中間層あるいはそれ以下のクラスの武士であろう。荻野次郎左衛門、伊豆の御曹司、関田、懸桟、上田、打見の御料、寺本等は敬語の使用例が一例にとどまるが、そうであっても、そもそも、これらのより下層の武士にまで敬語の使用が見られるというその事実は、注目に値する。
 ところで、さらに注意を引くのは、これら敬語が使用されている中間層あるいはそれ以下のクラスかと思われる武士に、美濃・尾張を地盤とするものが目立つことである。
 三浦胤義を味方に引き入れることに成功した後鳥羽院が、城南寺における仏事の催しの守護にこと寄せて、諸国の武士を召集するくだりがある。一八七頁には、「諸国ニ被召輩ハ」として、三河以西から畿内、四国の伊予といった国々から召集に応じて参集した武士の名が列挙されている。その中には、敬語の使用が見られる武士として美濃・尾張以外でも摂津の渡辺翔がいるし、そこには名が見えないが、荻野次郎左衛門、伊豆の御曹司なども他国の武士と思われるが、関田・懸桟・上田・打見の御料・寺本は、美濃の輩としてそこに名を連ねている人物であり、尾張の輩として名が見える山田小次郎が山田重忠ならば、それも加えることができる。また小次郎が重忠でなくとも、山田重忠その人は源満政流の清和源氏として尾張に勢力を持つ御家人であることに変わりははない。一八七頁には名を連ねていない人物でも、神地蔵人は美濃の武士である。
-------

いったん、ここで切ります。
「諸国ニ被召輩」を整理すると、

-------
丹波国(5) 日置刑部丞・館六郎・城次郎・蘆田太郎・栗村左衛門尉
丹後国(1) 田野兵衛尉
但馬国(1) 朝倉八郎
播磨国(1) 草田右馬允
美濃国(10) 夜比兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・
       懸桟・上田・打見・寺本
尾張国(1) 山田小次郎
三河国(3) 駿川入道・右馬助・真平滋左衛門尉
摂津国(2) 関左衛門尉・渡部翔左衛門尉
紀伊国(2) 田辺法印・田井兵衛尉
大和国(1) 宇多左衛門尉
伊勢国(1) 加藤左衛門尉
伊予国(1) 河野四郎入道
近江国(2) 佐々木党・少輔入道親広

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

となって、「諸国ニ被召輩」では全31名のうち美濃が10人で、全体の約32%です。
尾張は「山田小次郎」1名だけですが、これを加えると美濃・尾張で全体の約35%となりますね。
なお、森野氏は「打見の御料」にこだわっておられますが、岩波新大系では、久保田淳氏は「打見・御料」としていて、特に解説もありません。
「打見の御料」では人名としてあまりに不自然なので、久保田説で良さそうですね。
さて、続きです。(p102以下)

-------
 このように尾張・美濃の在地武士の名が多く挙げられる一方、逆に、一八七頁に美濃・尾張から参集した輩として名が掲げられていながら、その具体的な言動の叙述部においてまったく敬語の適用が見られないのは、その行動の叙述には敬語の使用がないが、<殿>呼称は用いられている高桑を除くとすれば、分明ならざるところもあるが、二一三頁における美濃尾張の合戦の叙述部に登場する蜂尾入道父子三人にとどまるようである。
 何故に美濃・尾張の在地武士にこうも偏るのか。それは、承久の乱における決戦場が宇治川であり、合戦譚にふさわしい逸話もそちらの方が豊富であったように思われるのに、他系統の諸本と著しく相違して、慈光寺本では、本格的な攻防戦の見られなかった美濃・尾張での合戦にスペースを費やし、宇治川の合戦には筆を及ぼしていないということと絡んで、意味ありげである。
 なお、美濃・尾張の武士のなかでは、山田重忠の活躍記事が詳細であること、そして敬語の使用においても、「洲俣ニ【オハシ】ケル山田殿、此由聞付テ、河内判官(=藤原秀澄ヲ指ス。筆者注)請ジテ【宣給】フ様」(二〇八頁)を初見として、かなり斉一にかつ頻度高く、その使用例が見いだされることも注意されよう。
-------

第二節は以上です。
「高桑殿」は藤原秀康による軍勢手分において、

-------
山道大将軍ニハ、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・駿河大夫判官・関左衛門・佐野御曹司・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎ヲ始トシテ、五千騎ニテ下ルベシ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

とありますが、ここでは高桑・上田・寺本だけが「殿」となっていますね。
また、「高桑殿」は大井戸・河合の合戦において、武田配下の「荒三郎」という者に、

-------
水ノ底ヲ一時計〔ひとときばかり〕這テ、向ノ岸ノ端ニ浮出テ、高桑殿ヲ見附〔みつけ〕、「アハレ、敵〔かたき〕ヤ。討〔うた〕バヤ」ト思ヒケルガ、「討ハヅシツルモノナラバ、此〔ここ〕ニテ死ナンズ」ト思ヒケレドモ、ヌレタル矢ヲハゲテ、思フ矢束〔やつか〕飽マデ引テ放チタレバ、高桑殿ノ弓手〔ゆんで〕ノ腹ヲ、鞍ノ末マデコソ射附タレ。馬ヨリ逆〔さかさま〕ニ落テ、此世〔このよ〕ハ早ク尽〔つき〕ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88c823c32fa110d009d3bf7d40b7f892

と殺されてしまいますが、この場面での「高桑殿」の再登場は何とも唐突な感じです。
また、森野氏は「蜂尾入道」とされていますが、岩波新大系では「蜂屋入道」となっています。
「蜂屋入道」関係のエピソードは屈折していて、いかにも慈光寺本らしい奇妙な味わいがありますね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その44)─「二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3
(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その7)─「北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物」

2023-08-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p100)
傍線部分は【 】としています。

-------
 さて、これらの武士のうち、武田・小笠原・足利は、すべて河内源氏の有力な庶子流であり、承久の乱では各々幕府軍の大将軍の一人として重きをなした。甲斐源氏は、源平の兵乱から奥州藤原氏の討滅までは、有力な源家軍事力として重視され、また足利氏は、前記のごとく北条氏の閨閥として、北条執権体制下では、諸国に散在する地頭職も北条氏に次いで多く、幕府の重鎮として勢威を誇った。『吾妻鏡』でも、その一門のうちの武田信光・信長、小笠原長清にこそ敬語の使用例がないが、奥州平定までの記事では、頼朝の舎弟を除けば、甲斐源氏は、まれではあるが敬語<被>の使用が見られる例外的な源家の門葉であるし、足利氏も、義氏およびその子の泰氏に対してそれぞれ宝治元年七月十四日、建長三年十二月二日の条に一例ずつではあるが、北条執権体制下では例外的に<被>の使用が見られる源家門葉である。
-------

いったん、ここで切ります。
『吾妻鏡』宝治元年七月十四日条には、

-------
足利左馬頭政義依今度合戦賞。拝領上総権介秀胤遺跡。而相兼公私祈祷。以件上分。可奉寄太神宮之由。被伺申左親衛。尤可然之旨免許。仍被遣寄進状於本宮云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-07.htm

とあって、足利義氏が宝治合戦の恩賞に、三浦方についた千葉秀胤の所領をもらったが、収益の一部を伊勢神宮に寄進したいと思って、その許可を北条時頼に求めて了解を得た、という話ですね。
「被伺申左親衛」「被遣寄進状於本宮」と、確かに二箇所に渡って「被」が用いられています。
また、建長三年十二月二日条は、

-------
宮内少輔泰氏朝臣。於所領下総国埴生庄。潜被遂出家〔年三十六〕。即遂年来素懐云云。偏山林斗藪之志挟焉云云。是左馬頭入道政義嫡男也。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma41-a12.htm

というもので、義氏の嫡子・泰氏が下総国埴生庄で自由出家した、という話ですね。
「遂年来素懐」「偏山林斗藪之志」などとありますが、時期が怪しくて、了行事件と関わりがあるのではないか、とも言われています。
ま、それはともかく、ここでも「被遂出家」と「被」が用いられていますね。
さて、続きです。(p100以下)

-------
 伊賀光季も、『吾妻鏡』にこそ敬語の適用例が見られはしないが、その妹が義時の妻室に納っていて北条氏の閨閥を成し、自身も大江親広とともに京都守護として在京御家人を統率する重職に補された有力御家人である。その壮烈な最期は語り草になったらしく、『承久記』の諸本が詳しく描いているが、慈光寺本は「判官ハ心ヲシヅメ【ノ玉フ】様」(一九〇頁)を初出として、そのくだりには、かなり斉一に敬語の使用が見られる。北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物である。
-------

森野氏が「初出」と指摘される場面は、

-------
 判官是ヲ聞〔きけ〕ドモ少モサハガズ、光高ニ云ケルハ、「光孝ナンド討ント思食〔おぼしめ〕サンニ、左右ナク寄テハ、ヨモ討〔うた〕レジ。御使ハ給ハランズラン其間ニ、遊者〔いうしや〕共出サンニ、誰カハ留〔とど〕ムベキ」トテ後見〔うしろみ〕ノ政所〔まんどころ〕ノ太郎喚出〔よびいだし〕、「遊者共ニテンドウトラセヨ」トゾ云ハレケル。政所ノ太郎ハ内ニ立入〔たちいり〕、サマザマノ物共取出シ、飽〔あく〕マデトラセケリ。判官ハ心ヲシヅメ、ノ玉フ様、「光季ガナカラン後ノ恩ニモセヨ」トテ涙ヲ押ヘ、盃二ヲ取、別ノ盃左右ヘ指流〔さしなが〕サレケリ。其後ゾ、遊者共出サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa

というものですが、「光高ニ云ケルハ」に次いで「「遊者共ニテンドウトラセヨ」トゾ云ハレケル」とあって、「云ハレ」は尊敬語ですから、厳密には「初出」はこちらのようですね。
伊賀光季の動作が最初に描かれるのは、直前の佐々木広綱との酒宴の場面ですが、こちらでは、

-------
 サ申程〔まうすほど〕ニ、十四日ニモ成ニケル。山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ、山城守此由〔このよし〕聞付テ、伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思〔おもひ〕、喚寄〔よびよせ〕テ酒盛シテ、打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ、「判官殿、今日ハ心静〔こころしづか〕ニ遊ビ玉ヘ」トテ、追座ニ成テワリナキ美女召出シ、酌ヲ被取〔とられ〕テ、其ヲ肴ニテ、今一度トゾ勧メケル。光季心行〔こころゆき〕テ打解ケレバ、申様〔まうすやう〕、「此程、都ニ武士アマタ有ト承ル。何事故〔なにごとゆゑ〕ト難心得〔こころえがたし〕。過シ夜ノ夢ニ、宣旨ノ御使三人来〔きたり〕テ、光季張〔はり〕テ立タル弓ヲ取テ、ツカヲ七ニ切〔きる〕ト見テ候ヘバ、万〔よろ〕ヅ心細クアヂキナク候也。今日ノ交遊〔かういう〕ハ思出〔おもひいで〕ニコソ仕ラメ」トゾ云ケル。山城守是ヲ聞〔きき〕、弓矢取身〔とるみ〕ハ、今日ハ人ノ上、明日ハ身ノ上ト云事ノ有物ヲ、知セバヤトハ思ヘ共、光季ガ打レナン次日〔つぎのひ〕ハ、御所ニ聞食〔きこしめし〕、「広綱コソ中媒〔ちうばい〕シタリケレ。奇怪也」トテ、頸ヲ召〔めさ〕レン事、一定ナリ。乍去〔さりながら〕、余所〔よそ〕ノ様ニテ知セバヤト思ヒ、光季ニ申ケルハ、「院ハ何事ヲ思食ヤ覧。都中ニ騒事共〔さわぐことども〕有ト承ル。此世中ノ習〔ならひ〕ナレバ、人ノ上ニヤ候覧、身ノ上ニヤ候覧。若〔もし〕事モアラン時ハ憑〔たの〕ミ申ベシ。又憑マセ玉ヘ」トゾ云ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4

という具合に、佐々木広綱も伊賀光季も「トゾ云ケル」となっていて、敬語は使われていません。
このように、光季に対する「言語待遇」は敬語で一貫している訳ではありませんが、確かに敬語使用の頻度は高いですね。
少し寄り道が長くなりましたが、続きです。(p101以下)

-------
 三浦義村・胤義兄弟も、敵味方に分れはしたが、北条氏に比肩する大勢力を誇る三浦氏を代表する人物で、義村は幕府軍主力の大将軍の一人であり、胤義は官軍においてもっとも頼みとされた軍事指導者であった。小山の誤りかと思われる北山、その同族の長沼宗政をさす長沼五郎の誤りかと思われる中間五郎、そして宇津宮、佐々木等もすべて有力御家人である。
 非御家人であるが、藤原秀康・秀澄兄弟も、別の意味で上層クラスの武士である。院の北面の武士として後鳥羽院の信認厚く、ともに数か国の受領を歴任し、富裕をもって聞こえた。秀康は非力ながら官軍武士の総司令官を務め、秀澄も大将軍として戦った。
-------

ここまでは「上層クラスの武士」の話です。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その6)─「特定の武士に対する別格的待遇を云々することはできない」

2023-08-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p98以下)
「その叙述対象となっている武士に対して、一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名を、順を逐って挙示」したものですが、原文のままだと少し読みにくいので、森野氏による長めの解説がある人の前で改行することとします。
なお、「肩に◎印を付した人物は官軍方」です。

-------
◎佐々木広綱・伊賀光季・武田信光・武田信長(信光子息)・小笠原長清(信光のいとこ)・
北山左衛門(おそらく「小山」の誤りで、朝政のことであろう)・
宇津宮頼綱・
中間五郎(おそらく長沼五郎宗政のことであろう。「ながぬま」が誤って「なかま」になったのであろう)・
足利義氏・三浦義村・七条次郎兵衛(未詳)・
◎藤原秀康・◎藤原秀澄(秀康の弟)・◎下野守(未詳)・
◎山田重忠(二一七頁に「六孫王ノ末葉山田次郎重定トハ我事ナリ」と名乗っているのをはじめ、一貫して重定とするが、『吾妻鏡』、『沙石集』巻九─日本古典文学大系でいうと三七六頁─、『尊卑分脈』などにより、重忠の誤りと認める)・
◎神地蔵人(「神土」と記されているが、『吾妻鏡』により、神地とする。元和四年古活字本の「川瀬蔵人入道」もこれと同一人物か)・
◎荻野次郎左衛門(『吾妻鏡』建保七年一月二十七日の条の実朝鶴岳八幡参詣記事にみえる随兵荻野次郎景員のことか)・
◎伊豆の御曹司(未詳)・
◎開田(『吾妻鏡』の開田太郎のことか)・
◎懸桟(未詳)・
◎上田(尾張の武士団で、満政流の清和源氏上田氏と関係があろう)・
◎打見の御料(二〇六頁には「折見・御料・寺本殿」とあり、二一四頁の敬語を用いた箇所の「火ノ御子ニオハシケル打見ノ御料・寺本殿」と食い違うが、いかが。「折見」は「打見」のこととして、「御料」が別人なのか。「打見の御料」と同じで同一人なのか、未詳)・
◎寺本(未詳)・
◎惟宗孝親(「安芸宗左衛門」と記されている。元和四年古活字本、『吾妻鏡』では、安芸宗内左衛門尉)・
狩野宗茂・大和入道(未詳)
◎加藤光員(「加藤判官」と記されている。『吾妻鏡』により加藤光員とするが、元和四年古活字本では光定)・
◎重原(未詳)・
◎渡辺翔(「渡部朔左衛門尉」「翔左衛門」「愛王左衛門翔」と記されている。嵯峨源氏で摂津の武士。『吾妻鏡』承元二年五月二十九日の条にその名のある渡三翔、『古今著聞集』巻九弓箭第十三─日本古典文学大系でいうと二八三頁─に逸話の伝えられている源三左衛門尉翔と同一人物であろう。『尊卑分脈』によれば、『平家物語』にその逸話が描かれている渡辺競の叔父にあたる。射芸の名手としてその名が知られていたらしい)・
三浦胤義。
-------

いったん、ここで切ります。
先に森野氏は「信光の弟小笠原長清」としていましたが(p95)、ここでは正しく「信光のいとこ」としていますね。

(その3)

「打見の御料」等、若干の検討をしたい部分もありますが、森野氏の解説の後でまとめて整理したいと思います。
さて、続きです。(p99)

-------
 右のほかに、佐々木広綱の子息で仁和寺御室の寵童となり、広綱の子であるがゆえに哀れな死を遂げた勢多賀(元和四年古活字本や『吾妻鏡』では勢多伽丸、『楢葉和歌集』にもその名が見られるが、そこでは制多伽と表記)に対しても、「泣給フ」「ノ給ケル」(ともに二三一頁)と敬語の使用がある。
 右は、その武士を動作・存在の主体として尊敬語を用いた例、他の動作・存在の関与する客体として謙譲語を用いた例に限って列挙したものである。この他、人物呼称表現をも取り上げるなら、接尾語<殿>を使用した例が採取できる。「山田殿」「武田殿」「神土殿」「寺本殿」といった掲示ずみの人物と重なる人物を省けば、他に幕府軍で「二宮殿」、官軍で、「高桑殿」の例がある。<殿>呼称については、前田家本の成立時期を、足利氏に対する<殿>呼称に着目して、足利幕府開設前後の頃と推定する原井曄氏の論文「前田本承久記の作者の立場と成立年代」(「歴史教育」昭和四二・一二)が注目される。北条執権政治下における足利氏は、その親密な閨閥として格別の地歩を築いているので、<殿>呼称がただちに足利幕府の開設前後と連なるかどうかはなお検討を要しようが、たしかに前田家本では<殿>呼称の適用が限局され、足利氏優遇記事の散在と符合して、足利氏が他の源家門葉や一般御家人にくらべ別格扱いされている感を強く与える。それに比して慈光寺本は、<殿>の適用範囲においても拡がりを見せており、特定の武士に対する別格的待遇を云々することはできないようである。
-------

「佐々木広綱」から始まって、ここまでが二字分ほど下げて書かれている部分です。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その5)─「武家に対する言語待遇は、異色の一語に尽きる」

2023-08-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p96以下)
傍線部分は【 】としています。

-------
 さて、一般の侍クラスではどうか。そのクラスでは、ほぼ『平家物語』に類似する。ただきわめてまれながら、建保四年九月二十日の条の、大江広元についての「【被】申此由相州」、寛元三年八月十五日の条の、三浦義村、安達義景たちについての「若狭前司、秋田城介等面々【被】賀之」のように有力御家人に対しての敬語使用が拾い上げられることは注意してよろしかろう。はみ出し程度ではあるが、敬語適用の拡大が一応認められるからである。しかし、それは、あくまでも、はみ出しであり、例外的なのであって、基調は、『平家物語』と同一の枠内にとどまる。
 以上のように、伝統的な宮廷貴族社会の価値観とは性質を異にする基準を設定しそれに基づいて、武家に対する言語待遇に独自の方式を打ちだしたと考えられる『吾妻鏡』ではあるが、その方式は、あくまでも幕府上層部本位の待遇基準の堅持であって、一般の侍層以下に対してはすこぶるきびしく、冷淡なのである。
 このように広く歴史ものの世界を通観して、さて慈光寺本に目を転ずると、どうであろうか。その武家に対する言語待遇は、異色の一語に尽きる。
-------

「一ノ二」は以上です。
近時は野口実氏や高橋秀樹氏によって三浦義村の幕府における地位は相当高かったのではないか、といった議論もなされていますが、『吾妻鏡』編者による「言語待遇」としては、「あくまでも、はみ出しであり、例外的」に「被」が用いられる程度であって、将軍家はもちろん、北条氏とも隔絶した存在のようですね。
さて、続きです。
いよいよ慈光寺本の検討となります。(p97以下)

-------
 二

 さて、その慈光寺本『承久記』における武家に対する言語待遇である。官軍、幕府軍の別を問わず、その行動がもののふの道に照らして亀鑑たり得るか怯懦未練の見本として憫笑を買うかといった毀誉褒貶のいかんを問わず、上は将軍家そして北条氏から下は朝廷においても幕府においても格別の地歩を保持しない中間層クラスの地方武士に至るまで、敬語使用の幅が広範に拡がっているのが見いだされるのである。『吾妻鏡』にみられるような、将軍家そして北条氏に特定の敬語表現形式を適用して武家社会内部における序列構成上の卓越性を表示するといった方式は採っておらず、その意味では、『平家物語』などの戦記物語類と規を一にするが、『平家物語』には絶えて敬語の使用が見受けられず、『吾妻鏡』にもはみ出しぎみにごくわずかしか見いだせなかった武田、足利などの河内源氏の有力庶子流や、三浦氏のごとき北条氏に対抗し得る勢威を誇る有力御家人はもちろんのこと、『吾妻鏡』にも敬語の使用例を見ない中間層武士に対してまで、敬語が使用されているのである。このことはまことに異色と称すべく、強い関心がよせられるのである。
 では、その具体相はどうか。いま、新撰日本古典文庫所収のものに依り、武家についての叙述部について、将軍家そして北条氏に対する場合は改めて云々するまでもないこととして除き、かつ発言部、心話部の類の引用部とみなされるものも除き、考察の対象をいわゆる地の文、すなわち「鵜沼瀬ニ【オハシ】ケル神土殿(=後述スルヨウニ神地蔵人ノコト。筆者注)ハ、是ヲ見テ「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」ト問ハ【レ】ケレバ」(二一四頁)のごとき例に限って、その叙述対象となっている武士に対して、一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名を、順を逐って挙示すると次のごとくなる。
 ただし、「伊義ノ渡ニ【オハシ】ケル関田・懸桟・上田殿、坂東方ト矢合シテ戦ケルガ」(二一四頁)のごとき例については、「オハシケル」が、開田のみではなく、懸桟・上田殿にもかかるものとみなして処理することにする。また、それら人物のなかには、素性の文明ならざるものもかなりいるが─文明ならざる人物がしばしば登場するのも、持明院統の特徴で、研究者をしてその考証のむずかしさを嘆かせている─、それらについてはそのまま、ただ、<殿>の呼称が適用されているものについてはそれをはずして示すことにし、はっきりしているものについては、一般に知られている姓名によって示す。必要があれば、適宜( )内にそれを記すことにする。
 なお、肩に◎印を付した人物は官軍方である。
-------

ということで、この後、段を少し下げて人名が列挙されますが、「◎佐々木広綱・伊賀光季・武田信光……」といった具合にそのまま引用すると読みづらいですね。
少し工夫してみるつもりです。
なお、「神土殿」は慈光寺本と『吾妻鏡』の記事がかなり異なっている点で興味深い存在ですね。
慈光寺本は作り話ばかりと思っている私は、もちろん『吾妻鏡』の方が史実に近いと考えています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その4)─「将軍家を皇室と並ぶがごとき超越的権門として格づけする」

2023-08-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p95以下)

-------
 このように、どれほど強力な武士団の長であっても、源平棟梁家に服属する家人・郎従と呼ばれるクラスの武士として処遇される場合には、敬語の使用をみないのであるが、そのなかで唯一つ例外が存する。北条氏である。その長である時政も、公家の眼をもって見れば、「伝聞、頼朝代官北条丸、今夜可謁経房云々。(略)件北条丸以下郎従等(下略)」(『玉葉』文治元年十一月二十八日)と、軽侮感あらわに接尾語<丸>をもって呼称される微々たる存在にすぎなかったのであるが、『平家物語』では、散発的ながら、敬語が適用されているのである。前記の源家門葉と同格の待遇といってよく、幕府上層部の主導者として北条氏を別格視する風が、通念として社会的に根をおろすようになったその反映を、そこに見いだすことができるであろう。
-------

『平家物語』では、「平棟梁家に服属する家人・郎従と呼ばれるクラスの武士」には敬語が用いられないのが原則であるが、唯一の例外が北条氏とのことで、これは『平家物語』の成立時期に関係するのでしょうね。
そして、『平家物語』では北条氏が「源家門葉と同格の待遇」ですが、『吾妻鏡』はどうか。

-------
 戦記物語以外では、『吾妻鏡』が、武家に対する敬語の適用という点で注目される。特に北条氏に対する言語待遇の高さは、よくいわれることながら過度ともいえる感があり、『平家物語』における北条氏に対する敬語の使用も、それにくらべれば、まったく影を薄くする。北条得宗家による専政体制下に、幕府の正史としての性格を強く帯びる記録として編述されたという事情を反映してのことであろうが、得宗家を中心とした北条氏に対する言語待遇の高さは、ここでは源家門葉をはるかに凌ぎ、鎌倉殿たる将軍家に次ぐのである。
 源家門葉は、「九郎義経主」「北条時政主」のごとく、接民語<主>を用いた人物呼称─『吾妻鏡』の<主>は、他の作品にくらべてかなり重い待遇評価を荷なって用いられる─の適用においてこそ、北条氏と比肩するものの、動作・存在についての敬語表現では、散発的に<被>程度の敬語が適用されるにすぎない。北条氏の場合は、敬語の適用が斉一的であるのみでなく、<被><給>クラスにまざって、<令─給>という尊敬表現の適用例が見いだされるのである。これは、和文における<─せ(させ)給ふ>にあたるより高い待遇評価を示すもので、皇室、将軍家に対する場合に散見する、和文の<─せ(させ)おはします>相当の<令─御>に次ぐ重さを持つ。この<令─給>の適用例が見られるのは、皇室、将軍家といったところで、いわゆる侍クラスでは、北条氏の独占するところである。なお、将軍家に<令─御>をまじえ用いていることも注目すべく、『平家物語』などと異なって、将軍家を皇室と並ぶがごとき超越的権門として格づけする、王朝的秩序からはずれた非公家的価値観の反映がうかがえて興味深い。
-------

「接民語<主>を用いた人物呼称」とありますが、「接民語」は「接尾語」の誤記ですね。
『平家物語』では「源家門葉と同格の待遇」であった北条氏は、『吾妻鏡』では「源家門葉をはるかに凌ぎ、鎌倉殿たる将軍家に次ぐ」存在で、「<被><給>クラスにまざって、<令─給>という尊敬表現の適用例」までが用いられる存在です。
そして、北条氏をそこまで高める以上、将軍家はもっと高くなければならず、

 北条氏:<令─給> ≒ <─せ(させ)給ふ>
 将軍家:<令─御> ≒ <─せ(させ)おはします>

となって、「将軍家を皇室と並ぶがごとき超越的権門として格づけする」ことになり、「王朝的秩序からはずれた非公家的価値観」が「反映」されています。
ここで1979年の森野氏は「超越的権門」という表現を用いておられますが、これは2006年の川合康氏による「幕府の超権門的性格」の議論を先取りするような感じで、ちょっと面白いですね。

川合康氏「鎌倉幕府研究の現状と課題」を読む。(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d3942ccef43904d40d2affb13acd1ce
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605611b8db9d85327161d4bce4139188
第一回中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77fb0ef4bc57fe064f380ba09d0cbf3f
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その3)─「公家の枠を越えて裾野を拡げ、特定武士層にも及んでいる」

2023-08-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野氏は『増鏡』について「承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便がある」とされていますが、確かに『増鏡』作者は承久の乱について相当詳しく研究したことが窺えますね。
そして、『増鏡』作者が見出した承久の乱の本質が「かしこくも問へるをのこかな」エピソードに凝縮されているように思えます。

「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
「巻二 新島守」(その8)─後鳥羽院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

私は『増鏡』作者を後深草院二条と考えますが、二条の父方の祖父、久我通光は上卿として義時追討の官宣旨に関与したために長期間にわたって逼塞を余儀なくされ、それまで極めて順調だった人生は暗転していますし、母方の祖父・四条隆親も久我通光とともに甲冑を身に着けて後鳥羽院の叡山御幸に同行するなど、系図を辿れば承久の乱の関係者ばかりで、承久の乱の三十七年後に生まれたとはいえ、二条にとって承久の乱は決して遠い過去の記憶ではありません。
二条が慈光寺本を見ていたかは分かりませんが、流布本を見ていたことは確実のように思われるので、「『承久記』と比較し得る便がある」のは決して偶然ではなさそうです。

四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8

なお、四条隆親の母は坊門信清の娘であり、隆親も一時は坊門信家の娘(房名母)を正室としていたはずで、四条家と坊門家の結び付きは強いですね。
私は『とはずがたり』に登場する「母方の祖母権大納言」も房名と同腹で、坊門信家の娘と考えています。

二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b

ま、それはともかく、森野論文の続きです。(p92以下)

-------
 一ノ二

 歴史もののなかで、武家に対して敬語の使用がみられる代表的なものは、戦記物語である。天皇を頂点とする公家に対する扱いが鄭重であり、武家と公家とに対する待遇評価の軽重が、特定の敬語表現形式を使い分けることによって差別的に表現されているという点では、やはり公家本位という基本線が貫かれているが、敬語使用の範囲は公家の枠を越えて裾野を拡げ、特定武士層にも及んでいるのである。次にその模様を概観してみよう。
 戦記物語については、諸本による異同がどのようであるかをおさえてかかることが必要であるが、いま、金刀比羅宮蔵本を底本とした日本古典文学大系所収の『保元物語』、『平治物語』についてみるならば、それぞれ、保元、平治の合戦当時において最大の武門の棟梁としての門地を誇る平清盛一家や源為義・義朝一家の人物に敬語の使用がみられる。ただし、源平二大棟梁家の支配下に服属する武士群は、いかにその名が知られる有力者で、やがて時代が下って鎌倉幕府の中枢を構成するような有力御家人の祖となるような人物であっても、敬語が適用されることはない。
 『平家物語』の敬語についての研究はすこぶる活発で、多くの論説がある。諸本の異同にもそれなりに目を配りながら、武家に対する敬語の適用の様相にも言及して概観した西田直敏氏の「平家物語の敬語」(敬語講座③『中世の敬語』所収)が便利なので、それをも参看しながら、竜谷大学図書館蔵本を底本にした日本古典文学大系所収の『平家物語』についてみるならば、平氏に対してかなり斉一に敬語の適用が見られるほか、源氏では、頼信を祖とする河内源氏の嫡流に対する配慮がこまやかで、ことに頼朝に対する敬語の使用が目立つ。その舎弟範頼、義経、そして河内源氏の庶子流ではあるが、頼朝とは別個の武士勢力を結集して棟梁としての評価を受けた義仲、同じく河内源氏の庶子流で頼朝の叔父にあたる、小規模ながら別格的扱いを受けている行家、頼光を祖とする摂津源氏の嫡流で、清和源氏の流れを汲む宮廷武士としての家系を誇り、清和源氏出身ではじめて三位に叙せられた頼政およびその子息仲綱といったところにも敬語の使用が及ぶが、そのへんが下限で、使用状態も、頼朝にくらべると疎密の差がある。後述するように、慈光寺本では、武田信光、その子息信長、信光の弟小笠原長清という河内源氏の庶子流甲斐源氏の武士に対しても、散発的な域にとどまるものの、敬語の使用が目につくが、『平家物語』では、同じく一条忠頼、安田義定、阿佐里義成等が登場するにもかかわらず、敬語が使用されることはない。『吾妻鏡』によれば、甲斐源氏に対し、頼朝はかなり肌理こまかな配慮をしていたことがうかがわれるし、『平家物語』巻十一の遠矢のくだりでも、義経の阿佐里義成に対する言葉づかいは鄭重であるが、頼朝麾下に服属する武士団として家人並みに扱い、一方の棟梁として処遇していないことの現われかと思われる。
-------

いったん、ここで切ります。
「信光の弟小笠原長清」とありますが、武田信光(1162-1248)の父・信義(1128-86)と小笠原長清(1162-1242)の父・加賀美遠光(1143-1230)が兄弟であって、信光と長清は従兄弟ですね。
信光と長清は東山道軍の総大将であり、慈光寺本では二人の奇妙な密談の場面があります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その40)─「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その2)─「若干の凸凹はあるものの、武家に対してはすこぶる冷淡」

2023-08-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』での森野宗明氏の肩書は「青山学院女子短大教授」ですが、後に筑波大学教授になられたそうですね。。
旺文社の大学受験ラジオ講座で有名な方だったようですが、私は利用したことがなく、お名前も知りませんでした。

森野宗明(1930-2022)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%AE%97%E6%98%8E

さて、続きです。(p92)
傍線部分は【 】とします。

-------
 『六代勝事記』も基本線は同様であるが、『群書類従』所収のものでみるかぎりにおいては、武家に対する言語待遇が若干緩やかであり、ひとり源実朝についてのみは、公家並みに敬語の使用例が散見する。
 『今鏡』は、文と武の平氏二流の朝廷中枢への進出が、公家社会の汚染でもなければ権威失墜を意味するものでもないことを論じていて興味深いが、「平氏初めは一つにおはしけれど、日記の家と、世の固めに【おはする】筋とは、久しう変りて、かたがた聞え【給ふ】を、いづ方も同じ御世に、帝、后、同じ氏に栄えさせ給ふめる」(日本古典全書、一五四頁)と、「日記の家」の文系平氏と込みにして述べたくだりに敬語の使用がみられるのみで、わずかながら言及記事が散見する正盛・忠盛・清盛についての具体的な叙述部には、一切敬語の使用がない。他の武士関係としては奥州藤原基衡や源光保・光宗・頼国・義光などについて言及した叙述部があるが、後に三位の序せられた頼政について、歌人としての逸話を記したところ─ 内聞き・巻十 ─に一例、「歌詠ま【る】なる人」と(る)が用いられているのが例外で、他は、敬語が用いられないこと、言うを俟たない。
 右等が伝統的な宮廷貴族社会における価値観に基づく、公家本位の王朝的秩序に則った言語待遇基準が支配している典型的な作品群であり、若干の凸凹はあるものの、武家に対してはすこぶる冷淡であることが明瞭である。これは歴史ものではなく、作り物語の系統を引く擬古物語であるが、『石清水物語』も、そうした言語待遇基準による武家の処遇がいかなるものであるかを象徴的に示す例として加えておきたい。この物語は、女主人公に配する最重要人物として坂東育ちの武士伊予守を登場させる。そこに前代とは異なる鎌倉時代の時代色を見てとることができるのではあるが、にもかかわらず、そしてその人物造型にあたって、単に秀れた武人として描くのみではなく、たとえていうなら平維盛・忠度的文雅人としての素養や品格をも十分に付与しているにもかかわらず、結局、地の文の叙述部においては、終始一貫、ついに敬語の使用がないのである。
-------

いったん、ここで切ります。
「石清水物語」は私は未読ですが、『百科事典マイペディア 』によれば、

-------
鎌倉時代の物語。2巻。13世紀半ば成立。作者不詳。伝本は多く,中に《正三位物語》と題する系統があるが,これは本居宣長の誤りをそのまま踏襲したもの。東国の武士出身の伊予守が,木幡の地で見出された美しい姫君を,男色関係にある中納言と争う。姫君は老齢の中務宮に嫁ぐが,帝が暴力的に介入,拉致幽閉される。悲しんだ伊予守は出家,後に往生する。主人公を武士とする点や,意思的な天皇などの造形に新しさが見られる。

https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E-32660

とのことで、なかなか際どい内容のようですね。
成立時期は辞典類によって異同があるようですが、13世紀末の成立とする説もあるそうで、そうであれば後深草院二条作の可能性もあるのではないか、などと妄想したくなってしまいます。
三角洋一氏の訳注で笠間書院から出ているそうなので、後で内容を確認してみようと思います。

『中世王朝物語全集5 石清水物語』
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305400857/

さて、続きです。(p92)

-------
 なお、付け加えていえば、公家本位の言語待遇基準を厳格に適用し、武家に対しては敬語を使用せずに叙述するという方針は、やや時代が下る『神皇正統記』、『増鏡』にもそのまま認められる。日本古典文学大系所収のものについてみるかぎりでは、前著に、頼朝に対して動詞および補助動詞としての<給ふ>を使用した例がそれぞれ一八六頁に例外として見いだされる程度で、武家は敬語適用外という方針が原則として維持されていることが確認できる。後者は、承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便があるが、後述するように慈光寺本で多量に敬語の使用例が見られる北条氏や京都守護伊賀光季について、まったく敬語の使用例がない等々一切敬語を用いた例が見いだせない。ただし、将軍といっても、摂関家から入った頼経などは別で、これは武家としてではなく、公家の人物として処遇され、敬語が適用されている。
-------

「一ノ一」はこれで終りです。
敬語の使用という観点から『増鏡』を読んだことはありませんが、承久の乱の場面を見ると、

「東の代官にて伊賀判官光季といふものあり。かつがつかれを御勘事の由、仰せらるれば、御方に参る兵押し寄せたるに、逃がるべきやうなくて腹切りてけり」
「(義時は)思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて都にのぼす」
「泰時を前に据ゑていふやう」
「泰時も鎧の袖をしぼる」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f04376b5554137bcb16be7814fce3d27

「かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり」
「義時とばかりうち案じて」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

といった具合で、確かに伊賀光季や北条義時・泰時らには一切敬語を使用していません。
他方、九条頼経(三寅)は、僅か二歳で鎌倉に下ったときから、

-------
 その年の六月に東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。むつきの中の御有様は、ただ形代などをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなれど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞはじめなるべき。かの平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8cd0bab5ec2728680efbf06ad21cb7bd

などと丁寧な敬語が用いられています。
宗尊親王も、もちろん最上級の敬語で遇されていますね。

「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その1)─「平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在」

2023-08-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて」シリーズも21回までになってしまいました。
実はまだ書きたいことが結構あって、特に佐々木氏の問題が残っているのが気になっているのですが、現時点では今一つスッキリした見通しが立たないので、いったんここまでとしたいと思います。
この後、「(その1)─今後の課題」で書いた宝治合戦像の再構成と東国国家論の再生という二つの課題に取り組むことになりますが、その前に、「(その18)─慈光寺本の敬語使用の特異性」で触れた森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』所収、雄松堂書店、1979)を少し丁寧に検討しておきたいと思います。
私は今まで慈光寺本・流布本・『吾妻鏡』の比較を通して慈光寺本の特異性を浮き彫りにしてきたつもりですが、あくまで記事内容の比較だけを行っていました。
森野論文は、国語学的見地から、『承久記』諸本だけでなく、鎌倉時代を中心とする非常に広い範囲の作品について、武家への敬語使用の態様を横断的に比較されており、その結論も独創的です。
四十四年も前の刊行でありながら本当に刺激的な論文なので、少し丁寧に見て行きたいと思います。(p90以下)

-------
 はじめに

   或僧承久トハ万ノ軍ヲ云トシリテ、「イヅレノ承久ト申候ヘ共、宝治ノ承久程ニ、自害多ク
   シタル承久候ハズ」トゾ云ケル。ヲカシクコソ

 これは、『沙石集』(日本古典文学大系による。巻八・一七。三五三頁)に見える烏滸咄である。烏滸咄ではあるが、源平の兵乱が遠い往昔のこととなった鎌倉時代の人々にとっては、朝敵の汚名のもとに、幕府軍が官軍を撃滅し、幕府が公家に対する政治的支配権を確立する基となった承久の兵乱が、いかに強い印象を伴って銘記されたかということをしのばせていて、興味深い。承久の乱に先立つ建保元年(一二一三)の和田合戦にしても、乱後の宝治元年(一二四八)の宝治の合戦にしても、鎌倉を舞台とした激戦ではあったが、ともに幕府上層部内の権力闘争であって、内訌にすぎず、その規模の大きさや重要性において承久の乱の比ではなかった。
 さて、その承久の乱を主題とした戦記ものが、いうまでもなく『承久記』である。古来保元・平治・平家の三戦記物語と合わせて、四部之合戦書と呼ばれたが、三戦記物語、特に『平家物語』が脚光を浴びて、『承久記』ひとり、すこぶる影の薄い感がある。研究界においても、近時ようやく本格的な研究の始動がみられるようにはなったが、作者像、成立事情、諸本の関係等をはじめとして、不分明なままに残されているところが大きい。ことに言語面における研究は、ほとんど手をつけられぬままに放置されているといっても過言ではないのが現状である。しかし、言語面についての関心は大いに寄せられるべきではなかろうか。諸本のうち、近世までその成立が下るとされている『承久軍物語』、また成立は遡るが流布本系や前田家本系のものはともかくとして、慈光寺本については、その言語面、特に言語待遇面において異色ある事象が看取され、その独自性の解明は、鎌倉時代における言語待遇研究の一環として、本格的に取り組まれてしかるべき意義を持つと思われるのである。
-------

「宝治元年(一二四八)の宝治の合戦」とありますが、宝治元年は西暦だと1247年ですね。
ま、そんな細かな点はともかく、続きです。(p91以下)

-------
 一ノ一

 さて、小稿では、その慈光寺本の『承久記』に看取される個性的な言語待遇について、結果として表層レベルの整理の域を超えることはむずかしかろうが、考察を試みたい。
 ここでいうところの個性的な言語待遇とは何を指すか。武家に対する言語待遇における敬語使用範囲の拡大である。その武家に対する敬語使用にどのような独自性が認められるかを述べる前に、まず一通り広く、歴史ものについて、武家に対する言語待遇がどうなっているかを見渡しておくことにしたい。
 史論・史書・歴史物語・戦記もの、一括して歴史ものを通覧すれば明らかなごとく、武士層がいわゆる武家として、公家に拮抗しさらに凌駕圧倒する政治勢力を形成するに至った鎌倉時代になっても、諸作品にみられる武家に対する言語待遇は冷淡であり、後述する『吾妻鏡』のごときものもありはするが、大勢としては依然公家本位の王朝的秩序に則った待遇基準の適用が主流を占める。
 鎌倉時代成立の歴史もののうち、公家本位の言語待遇が全体を貫徹して鮮やかなのは、なんといっても『愚管抄』であろう。本書の設定する身分的序列階層は、「マヅハ摂籙臣ノ身々、次ニハソノ庶子ドモノ末孫、源氏ノ家々(=公家トシテノ源氏デ村上源氏。筆者注)、次々ノ諸大夫ドモ」(巻七。日本古典文学大系。三五〇頁)によく窺えるが、その言語待遇基準はきわめて高く、摂関家庶流あたりに置かれているようで、源通親のごとき人物の場合においてさえ、その著者の出自する九条家にとっては憎い政敵という点を割り引くにしても、その叙述部に敬語の使用されている例はごくわずかにとどまっている。それくらいであるから、「次々ノ諸大夫ドモ」より劣る武士層は、たとえ、それが朝堂の顕官をほぼ独占したかの観のある平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在であり、敬語の使用された例は皆無である。鎌倉殿すなわち将軍家もまた、その例外ではない。
-------

いったん、ここで切ります。
「平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在」はともかく、いくら政敵とはいえ、内大臣であった源通親にすら敬語を使わないとは、慈円の差別意識は凄まじいですね。
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慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その21)─「美徳であると同時に、悲しみの輪廻の源」(by 日下力氏)

2023-08-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)の「あとがき」には、

-------
 本書は、ここ八年ほどの間に集中して公表してきた論稿に、それと関連する旧稿数篇を加えて一書としたものである。新たに判明した事柄を書き足し、誤りを補正、全体の叙述を整えるなどして、加筆した紙数は相当量に達した。より多くの方に読んでもらいたいと考え、結果的に振り仮名を多めに付すことにもなった。
 自らの敵を倒すことが美徳であると同時に、悲しみの輪廻の源でもあることを知っていた時代の様ざまな言葉は、普遍的な響きを内在させているように私には感じられる。そうした言葉によって織り成されている作品を扱った拙著のなかに、汲みとっていただけるほどの、戦争と平和と文学とにかかわる何がしかのサジェストが含まれているとしたら、うれしく思う。
 私の長兄は、ベトナム戦争取材のために、フジテレビ記者としてカンボジアのスバイリエンに赴き、拉致されて行方不明となったまま、今日に至っている。一九七〇年四月六日、三十六歳。その兄のために、本書を捧げることをおゆるしいただきたい。
   二〇〇一年一月十一日  母の命日に
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とあります。
2008年の自分の投稿を見たら、今はリンクを追えないサイトに「羽茂で一年上の弘仁寺の日下陽氏がフジTV記者としてベトナムから陸路カンボジア入り行方不明となりました」とあり、日下力氏の長兄のお名前は日下陽氏ですね。
また、日下氏の実家は佐渡の旧羽茂町の弘仁寺という真言宗智山派のお寺のようです。

ベトナム戦争
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6d23384ecef0d5a3eef217434e8036a
弘仁寺
http://www.kouninji.jp/

日下陽氏のお名前で検索すると、「日本記者クラブ」サイトの「私の取材余話」に、

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カンボジア断想1 平和は衝撃的だった(友田 錫)2011年10月

【中略】わたしのいた産経新聞の兄弟会社であるフジテレビの特派員二人、日下陽、高木裕二郎氏が取材中に、プノンペンから東へ、ベトナム国境に向かう国道1号線上で行方不明になった。日下記者とは3年前の1967年、南ベトナムの民政移管のための大統領選挙を取材するために、まるまる一週間、メコン・デルタを一緒に駆け回った間柄だ。【後略】

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/23479

などとあり、この記事を見ると日下陽氏が行方不明となった事情は本当に悲惨だったようですね。
こういう経験をされている以上、日下力氏が「自らの敵を倒すことが美徳であると同時に、悲しみの輪廻の源でもあることを知っていた時代の様ざまな言葉」に「普遍的な響き」の「内在」を感じ、「そうした言葉によって織り成されている作品」を通して「戦争と平和と文学とにかかわる何がしかのサジェスト」をしたいと思われることは理解できないではありません。
しかし、私には、戦争一般について、日下力氏のようにシミジミと戦争を語るタイプの人には認識できない領域があるように感じます。
「自らの敵を倒すことが美徳」である戦争には、優れた将軍の卓越した指導力があり、超人的な豪傑の痛快な活躍があり、機略縦横の参謀の英智の煌めきがあり、更には頓智で敵を出し抜いた兵士の愉快な笑い話も多々あります。
果たして日下力氏のような、「悲しみの輪廻の源」がどうしたこうしたと言い続ける研究者は、軍記物語のそうした側面をきちんと把握しているのか。
慈光寺本にも、私には日下氏のような「シミジミ莫迦」「鎮魂莫迦」タイプの研究者には理解できない領域があるように思えます。
例えば日下氏は、「第二章 源仲兼一族の足跡─軍記作者の影」に続く「第三章 道元説法の力─『承久記』誕生の背景」において、慈光寺本の「世界観」が「いかなる所に生じたのであったろうか」と問い、「一二三〇年代から活発な不況を繰り広げていた道元の説法に、淵源があるやに思う」(p267)とされます。
しかし、第三章を最後まで読んでも、私には慈光寺本と道元の思想の関連がサッパリ理解できず、何だかなあ、という感想しか浮かびません。
「シミジミ莫迦」「鎮魂莫迦」タイプの研究者は、いったん方向を間違うと、とんでもなく遠くまで行ってしまいますね。
ちなみに歴史研究者にも「鎮魂莫迦」タイプの人は多いですね。

歴史研究者における「鎮魂莫迦」の系譜について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8df56f47ac1e7fc5b7ba0fffbab8503
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慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その20)─「かも知れない、と思われてきたりするのである」(by 日下力氏)

2023-08-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
宇多源氏の慈光寺家を慈光寺本作者と結びつけようとする人たちは、みんな作品そのものから遊離した議論を延々と繰り広げる傾向がありますね。
日下力氏の場合、順徳院と九条道家の長歌贈答に限っては辛うじて作品論と作者論が結びついていますが、これも渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)が出た後では些か微妙な議論です。
当該部分は、

-------
 また、久保田氏は、順徳院の配流の模様が詳しく、院と九条道家との間で交わされた長歌がそっくり収められている実状から、「作者が新院(順徳院)の母后修明門院に比較的近く、情報を得やすかったのではないか」と想像されているが、安嘉門院は修明門院とごく親しい関係にあり、しばしば修明門院御所に長期逗留していることなど、第二部第二章で詳論したところであった。しかし、それよりも、美濃国の知行権が一二三三年の正月、道家の女の中宮竴子に譲渡された事実の方が、示唆的なように思われる。仲遠はそれを契機に、道家の屋敷にも出入りするようになり、歌に嗜みのある彼のことゆえ、例の二つの長歌を引き写すことも許されるに至ったのではなかったか。作品の終り近く、道家邸で催された西園寺公経の内大臣就任の大饗記事で、御遊の際の拍子・笛・笙などの演奏者の名前まで具体的に記録されていることも、改めて見直す必要がありそうである。もっとも藻璧門院を称することになった竴子は、この年の九月十八日に薨じており、その後の同国の知行権の行方はいまだ定かではない。
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というものですが(『平家物語の誕生』、p260)、「美濃国の知行権が一二三三年の正月、道家の女の中宮竴子に譲渡された事実」から「仲遠はそれを契機に、道家の屋敷にも出入りするようになり、歌に嗜みのある彼のことゆえ、例の二つの長歌を引き写すことも許されるに至ったのではなかったか」という相当に強引な推論をされた後、しかし、「竴子は、この年の九月十八日に薨じており、その後の同国の知行権の行方はいまだ定かではない」とされるのですから、正直、私は「ずっこける」という古語でしか言い表せない心境となりました。

九条竴子(1209-33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%AB%B4%E5%AD%90

竴子が「美濃国の知行権」を保有していたのは僅か九カ月程度ですから、その程度の短い期間で、「例の二つの長歌を引き写すことも許されるに至った」などという親密な関係が形成されることがあり得るのか。
極めて強引な推論をした後で、自らその推論の基礎をひっくり返す日下氏の「ちゃぶ台返し」論法に対して、私は呆然と見守るしか術がありませんが、日下氏自身には変な議論をしているという自覚が全くないのでしょうか。
そして、順徳院と九条道家の長歌贈答は慈光寺本作者の創作とする渡邉裕美子説が正しいのであれば、藻璧門院を介しての源光遠と九条道家との間の細い糸を辿ろうとした日下氏の努力は全くの無駄になってしまいますが、果たして日下氏は渡邉論文をどのように評価されているのでしょうか。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)~(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03fff517002acc7df06cb6594b1f2a29
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72fe0d90fca4e67eb57aeb65bc6aa0fd

ま、それはともかく、この後も日下氏は、

-------
 もう一、二、気になる点を付け足せば、但馬へ流された後鳥羽院の皇子、六条宮雅成親王について、「此宮ヲバ、取分、宣陽門院ノ御子ニシテマイラセテ、モテナシカシヅキ給ヒシニ」と書いている点がある。仲遠の父仲兼は、宣陽門院蔵人で、甥四人までがその宣陽門院の養女鷹司院の蔵人となっていた。あるいはこの一文の背後には、宣陽門院とこの一族の親しい関係が意識されていたのかも知れない、と思われてきたりするのである。
 次に、実朝の未亡人である坊門信清の女西八条禅尼に関わる記述。兄の坊門大納言忠信は院方として参戦、関東へ送られ処刑されるところであったのを、「強縁〔がうえん〕ニテマシマセバ、命計〔ばかり〕ハ乞請〔こいうけ〕テ、浜名ノ橋ヨリ帰リ給フ」と、彼女の尽力を語る。また、姉の西の御方が、後鳥羽院の供をして隠岐に渡ったことも記されている。仲兼の子息たちが彼女のもとに近侍していたこととの関連性が、想像されなくもないわけである。
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などと書かれる訳ですが、宣陽門院が六条宮を猶子としたこと、西八条禅尼の北条政子への懇願で坊門忠信が命拾いしたこと、「西の御方」が隠岐に行ったことは、いずれも極めて有名な話だったはずです。
従って、慈光寺本がそれを記したからといって、仲兼・仲遠父子と宣陽門院・西八条禅尼との関係に結び付けるのは強引すぎるように思われます。
そして、「かも知れない、と思われてきたりするのである」・「想像されなくもないわけである」といった風が吹けば桶屋が儲かる的な表現は、エッセイ集ならともかく、論文には相応しくないですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その69)─「今ハヒタスラニ所々ノ夷トナラセ給ヒヌルコソ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2e5806ca4cbdad02046430f79d2e8dc

なお、慈光寺本には坊門忠信に関する記述に誤りが多く、分量・内容とも流布本より更に坊門忠信に冷淡な感じです。

流布本も読んでみる。(その61)─「鎌倉の八幡宮にて、拝賀可有とて、公卿五人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a967dc69dd2d49427d34c6d527b6de58
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慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その19)─日下力氏の慈光寺本作者=源仲遠説について

2023-08-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私は国文学界で慈光寺本研究を間違った方向に牽引しているのは日下力氏(早稲田大学名誉教授、1945生)と大津雄一氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授、1954生)の早稲田コンビだと思っています。
大津雄一氏は後進の研究者に役立つ研究の基盤を形成する意思が殆どなくて、いかに自分が頭が良いかをアピールすることに熱心な人で、歴史学界で言えば東島誠氏(立命館大学教授、1967生)のような存在です。

大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07a3c0aa92664d6fb1f0edd2cd08ec
【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55ba16ae9afea6e4e705e5b08a304837

他方、日下力氏には田中尚子・羽原彩氏との共編の『前田家本承久記』(汲古書院、2004)のような立派な基礎的業績があり、文章も外連味のない穏当な文体で綴られているので、歴史研究者には親しみやすく、呉座勇一氏や佐藤雄基氏なども日下氏の『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)に相当の信頼を置かれているようです。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c

しかし、多くの史料を挙げて慎重に論理を進めているかのように見える日下氏の手法は、実際には相当乱暴な面があります。
慈光寺本に限っても、作者を「該本の出処のみを論拠として慈光寺家周辺に作者圏を求める」杉山次子氏の「仮説を一歩前進させた」日下氏の源仲遠説は相当に問題ですね。
前回投稿では『平家物語の誕生』第三部第二章の「源仲兼一族の足跡─軍記作者の影」から少し引用しましたが、この論文は、

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 はじめに
一 承久の乱までの仲兼一族
二 新体制下の足跡
三 慈光寺本『承久記』の作者
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と構成されています。
日下氏は慈光寺本作者を「該本の出処のみを論拠として慈光寺家周辺に作者圏を求める」杉山説に「飛躍」があることを認めているのですから、その「飛躍」を埋めるために何らかの努力をされているかというと、それは特にありません。
そして、「飛躍」を放置したまま、慈光寺家の周辺に関する細かな事実を積み上げて、何となく源仲遠が慈光寺本作者のような雰囲気を高めて行きます。
しかし、別に源仲遠には国文学史に残るような特別な業績がないどころか、その思想を窺うことができるような史料は一切存在せず、結局のところ日下氏が行なったのは慈光寺家の家系図への肉付け程度です。
そして、「飛躍」は全く解消されないまま、

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 森野氏が語法上から限定された慈光寺本『承久記』の作者の条件は、仲遠の場合、階層的にも、美濃という土地との絡みからも、よく合致する。東国とのつながりもあり、情報を得るのは容易であったろう。後堀河朝の蔵人を勤めあげ、女院の領有する美濃国の権守となった彼には、それなりの誇りもあったであろうし、もちろん現体制は肯定されるべきものであった。美濃権守の役職は、やがて九条家との接点をも拡大させ、かつ、在地地主に関する知識をも自然に蓄積させることにつながったに違いない。慈光寺家の祖にあたる仲清は、この叔父が伊賀守となった仁治三年(一二四二)十月三日の除目で同時に但馬守になっていたし(前述)、『尊卑分脈』に安嘉門院の院司ともあった。すでに書き上げられていた『承久記』は、ごく自然に甥の目に触れるところとなったのではなかろうか。諸点を総合的に考え合わせると、この作品の作者に、現状では彼〔源仲遠〕がもっともふさわしいように推考される。無論、より有力な証拠が今後も求められ続けなければなるまいが、ひとまず、作者説の「一説」として、源仲遠の名前を、ここに掲げておきたいと思うのである。
 以上、『平家物語』に源仲遠譚が取り込まれた必然性を探るとともに、慈光寺本『承久記』の作者についても思いを巡らしてみた。
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などという結論で終わってしまっています。(p261)
果たしてこの程度の論理構成の、風が吹けば桶屋が儲かる程度の連想を重ねた文章が「論文」と言えるのか。

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『平家物語の誕生』
自らの敵を討ち取ることが誉れであると同時に,あらたな悲しみの輪廻のはじまりであることを知っていた時代,人々は何を思い物語のことばを紡いでいったのか.承久の乱以降,激動する歴史の更新のなかで,宮廷社会における平氏たちの後栄,武家社会の動向,そして一般世情を視座に,物語の生成と展開を総合的に展望する.

https://www.iwanami.co.jp/book/b265715.html
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