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「神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」(by 伊藤博文氏)

2019-07-31 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月31日(水)11時17分55秒

三年前、宇野重規氏の『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書、2016)を少し検討したときに、宇野氏が伊藤博文の枢密院での演説に言及した部分を引用しました。

「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」(by 伊藤博文)https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e50dbf8594f70801e0a5b4f1bc70cd5

宇野氏も参照しておられる瀧井一博編『伊藤博文演説集』(講談社学術文庫、2011)を確認してみたところ、これはなかなか格調の高い名演説ですね。
4頁ほどの分量ですが、参考までに前半を引用してみます。(p17以下。フリガナはそのままでは若干煩雑なので、適宜省略)

-------
2 憲法草案審議開会演説
       明治二十一年六月十八日(枢密院)

 各位、今日より憲法の第一読会を開くべし。就ては注意の為め開会に先〔さきだ〕ち此〔この〕原案を起草したる大意を陳述せんとす。但し此原案の逐条に渉ては今日素〔もと〕より一々之を弁明すべきにあらず。
 憲法政治は東洋諸国に於て曽て歴史に微証すべきものなき所にして、之を我日本に施行するは事全く新創たるを免れず。故に実施の後其〔その〕結果国家の為に有益なるか或は反対に出づる歟、予め期すべからず。然りと雖〔いえども〕二十年前既に封建政治を廃し各国と交通を開きたる以上は其結果として国家の進歩を謀るに此れを舎〔す〕てて他に経理の良途なきを奈何〔いかん〕せん。夫〔そ〕れ他に経理の良途なし。而して未だ効果を将来に期すべからず。然れば則ち宜く其始〔そのはじめ〕に於て最も戒慎を加わえ、以て克く其終あるを希望せざるべからざるなり。
 已に各位の暁知せらるる如く欧洲に於ては当世紀に及んで憲法政治を行わざるものあらずと雖、是れ即ち歴史上の沿革に成立するものにして其萌芽遠く往昔〔おうせき〕に発〔ひら〕かざるはなし。反之〔これにはんし〕我国に在ては事全く新面目に属す。故に今憲法を制定せらるるに方〔あたつ〕ては、先〔ま〕ず我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云う事を確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は政其〔その〕統紀を失ひ国家亦〔また〕随て廃亡す。苟〔いやしく〕も国家が国家として生存し人民を統治せんとせば、宜く深く慮つて、以て統治の効用を失はざらん事を期すべきなり。
 抑欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又〔ま〕た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ。是を以て、此憲法草案に於ては専ら意を此点に用い、君権を尊重して成るべく之を束縛せざらんことを勉めたり。或は君権甚〔はなは〕だ強大なるときは濫用の虞〔おそれ〕なきにあらずと云ふものあり。一応其理なきにあらずと雖も、若〔も〕し果して之あるときは宰相其責〔せめ〕に任ずべし。或は其他其濫用を防ぐの道なきにあらず。徒〔いたずら〕に濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは道理なきの説と云わざるべからず。乃ち此草案に於ては君権を機軸とし偏〔ひとえ〕に之を毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧洲の主権分割の精神に拠らず。固〔もと〕より欧洲数国の制度に於て君権民権共同すると其揆を異にせり。是れ起案の大綱とす。
 其詳細に亘りては各条項につき就き弁明すべし。不肖数年前より勅命を蒙り之が起案の責に当る。是に於て浅学菲才を顧みず拮据経画微力の及ばん限り研究し、遂に此〔かく〕の如くなれば大体に於て過〔あやま〕つ所なからんと信ずる所を以て、之を陛下に上〔たてま〕つれり。然りと雖、事国家永遠の基礎に関し国家の面目を一新するの大事たるを以て、各位願わくば起案の主意如何〔いかん〕に拘らず、王家の為め、国家の為め、潜思熟考して充分に討議せられんことを希望す。
-------

宇野氏は「然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして一も国家の基軸たるべきものなし」の後を「かつて隆盛した仏教も今日では衰退に向い、神道もまた人々の人心をよく掌握できていない」と要約した上で「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」に繋げていましたが、この要約された部分を見ると、

(1)仏教は一たび隆盛の勢を張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。
(2)神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。

となっています。
伊藤は仏教は過去には「上下の人心を繋」ぐ力があったのに対し、神道は過去においてもそんな力はなくて、現在に至るまで、一貫して「宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」いと評価しているのですね。
まあ、現代人には当たり前の客観的な歴史認識だとは思いますが、これを聞いていた枢密院のメンバーの中には心穏やかでない人もいたでしょうね。

>筆綾丸さん
すみませぬ。
ちょっと外出しますので、レスは後ほど。

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「「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのである」(by 三谷太一郎氏)

2019-07-28 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月28日(日)12時20分15秒

ちょっと投稿を休んでしまいましたが、三谷太一郎氏の論文は内容が古すぎて、「他山の石」としても使い勝手が悪そうなので、他に何か参考になりそうなものはないだろうかと、山口輝臣氏の近著などを見ているところです。

>筆綾丸さん
自然科学と異なり、社会科学や人文学の世界では古い学説だから駄目ということはありませんが、1995年のオウム真理教事件の後では、宗教≒道徳みたいな議論は全体的に古臭くなってしまいましたね。

>キラーカーンさん
>伊藤「憲法伯」博文が、キリスト教の機能的等価物として天皇制を導入したのは日本政治史の世界では通説に近い有力説

「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」は三年前に少し検討しましたが、伊藤の枢密院での演説の全文は未確認だったので、ちょっと見ておこうと思います。
「「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのである」という三谷氏の書き方だと、憲法制定と天皇神格化が直結していて、その責任が伊藤にあるように読めますが、これはあまりに伊藤に気の毒ですね。
伊藤は個人として極めて醒めた宗教観の持ち主であっただけでなく、神祇官再興を止めるなど、国家に過度な宗教的色彩を与えることを断固拒否した人でもあります。
このあたり、「日本近代化と天皇」が書かれた1986年頃には近代政治史の研究者にもあまり知られていなかったのかもしれませんが。

「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」(by 伊藤博文)https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e50dbf8594f70801e0a5b4f1bc70cd5
伊藤博文と宗教
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a14c0873e1855ad8c2140ac4fe445819

三谷氏の思考過程が過度に拡張・一般化して行く例として、「日本近代化と天皇」の「補注」の続きも引用しておきます。(p203以下)

-------
 国家建設に当って、信仰としての宗教ではなく、社会的教育的機能としての宗教を重視する立場は福沢諭吉などに見られたが、これは憲法起草者としての伊藤博文にも共通していた。伊藤は国家の内面的求心力としての宗教を求めて、天皇制に逢着したのである。
 敗戦後マッカーサー連合国軍最高司令官は、日本をキリスト教国化することを占領政策の重要目的とし、これに対応して宮中にも植村環らによるバイブル・クラスが設けられたといわれているが、マッカーサーはかつて伊藤が欧米のキリスト教に相当する「国家の機軸」を天皇制に求めたのに対して、戦後日本においてそれをキリスト教そのものに求めたといえるであろう(レイ・ムーア「神の兵士 日本をキリスト教国とするマッカーサーの試み」、レイ・ムーアー編『天皇がバイブルを読んだ日』講談社、一九八二年所収参照)。マッカーサーの片山哲中道連立政権に対する支持は、日本における最初のクリスチャン首相への支持と結びついていた。占領終結とともにマッカーサーの試みは雲散霧消したが、戦後日本の「国家の機軸」を何に求めるべきかという問題はその後も残った。日本国憲法(とくに第九条)の改正論に対して、抵抗が強いのは、戦後日本において、そこに明治国家の天皇制に相当する「国家の機軸」を求めた国民が多かったからであろう。
-------

「国家の機軸」という表現も曖昧なので、憲法9条が「国家の機軸」かと聞かれたら、そうだと思う、と答える国民はけっこう多いのかもしれませんが、それが「明治国家の天皇制に相当する「国家の機軸」」かと聞かれたら、反応はずいぶん違ってきそうですね。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

化学的不等価物(chemical inequivalent)? 2019/07/25(木) 12:30:52(筆綾丸さん)
与太話で恐縮ですが。
琉球泡盛などは百年くらい寝かせないと本物にならない、とも言われますが、三谷氏の論文(エッセイ)も、あと百年ほど放っておかないと、芳醇な味わいにならないのかもしれないですね。もっとも、ヤシャゴの弟子が蓋を開けてみたら、酸化が進んで飲めない代物(化学的不等価物)になっていた、という可能性も僅かながらあります。いずれにせよ、梅雨明け近き夏の夜に読みたい本ではないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%93
というわけで、中国の大ベストセラーSF『三体』を読み始めたところです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%AD%A4%E7%8B%AC_(%E7%84%BC%E9%85%8E)
なお、『百年の孤独』は1万円くらいするので、なかなか、買う決断がつきません。たかが焼酎、ですからね。

駄レス 2019/07/28(日) 01:58:52(キラーカーンさん)
>>機能的等価物

これは三谷氏の「勇み足」かなぁ
伊藤「憲法伯」博文が、キリスト教の機能的等価物として天皇制を導入したのは日本政治史の
世界では通説に近い有力説だと思うのですが、伊藤が天皇制をキリスト教の機能的等価物として
導入した射程は、直接的には憲法という統治機構の範囲まででしょうし、広くとってみて
法制度までだと思います。

例えば、EU加盟には死刑廃止が絶対条件となっていますが、それもキリスト教的価値観の
反映であって、伊藤が機能的等価物として導入したのもそのような観点だろうと推測します。

それを一般的な意味での宗教にまで拡張するのは、三谷氏の専門からみた過度の拡張・一般化
ではないかと思います。
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三谷太一郎『近代日本の戦争と政治』を読んでみた。

2019-07-24 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月24日(水)12時52分51秒

『近代日本の戦争と政治』(岩波書店、1997)を確認してみたところ、同書「あとがき」によれば、「本書は、著者がこれまでに何らかの形で発表した論文やエッセイのうちから、主として近代日本が経験した諸戦争の時代とそれぞれの戦後との関係(とくに戦後の政治との関係)をテーマとするものを集め、一冊の書物にまとめたもの」(p393)で、「天皇制」はキリスト教の「機能的等価物」云々は「日本近代化と天皇制」というエッセイに出ています。
そして、これと『日本の近代とは何であったか』(岩波新書、2017)の「第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか」を読み比べると、後者の第1節「日本の近代を貫く機能主義的思考様式」と第2節「キリスト教の機能的等価物としての天皇制」は前者とほぼ重なりますね。
例えば、一昨日の投稿で引用した、グナイストが日本は仏教を国教にせよと提言した話の後に続く部分は、「日本近代化と天皇制」では、

-------
 しかるに伊藤は既存の日本の宗教の中には、ヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものを見出すことはできなかった。すなわち伊藤によれば、我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがなかった。そこで伊藤は「我国にあつて機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下す。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのである。
 福田恆存が『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承したが、日本近代は前近代から「神」を継承しなかった。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家をつくろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としていたものを他に求めざるをえない。それが神格化された天皇であった。天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物〔ファンクシヨナル・エクイヴアレント〕」(ウィリアム・ジェームズ)として観念されたのである。その意味で日本における近代国家はヨーロッパ的近代国家を忠実に、むしろ余りにも忠実になぞった所産であったのである。
 こうしてヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」としての天皇制は、当然に単なる立憲君主制以上の過重な負担を負わされることとなる。そのことはヨーロッパと日本とにおける君主観の顕著なちがいとしてあらわれた。
-------

といった具合です(p200)。
内容的には全く同一で、文体を「である」から「です」に換えただけであり、「機能的等価物」云々についての詳しい説明はありませんでした。
なお、このエッセイの「補注」には、

-------
 本論は、『言論は日本を動かす』(全一〇巻、講談社、一九八五-八六年)の第一巻『近代を考える』(一九八六年)の編者の「解説」として執筆されたものである。この巻には、著者自身を含む一〇人の筆者によって、日本近代をそれぞれの独自の立場から論じた一〇人の言論人(福沢諭吉・田口卯吉・長谷川如是閑・石橋湛山・田中耕太郎・笠信太郎・保田與重郎・大塚久雄・丸山眞男・司馬遼太郎)がとり上げられている。本論の中でこれら一〇人が言及されているのは、そのような理由による。したがって本論は元来「日本近代化と天皇制」を論ずる目的をもつものではなかったが、結果として標題についての著者の考えを要約したものとなった。
-------

とあり(p203)、結局、1986年当時の三谷氏の考え方が2017年の『日本の近代とは何であったか』にそのまま反映していることになりますね。
三谷氏は三十年以上経過しても自己の考え方を改める必要はないと判断されたのでしょうが、この間に宗教学や明治期の日本宗教史は格段に進展しており(例えば磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』<岩波書店、2003>等)、また、伊藤博文等の政治指導者についての個別研究も相当に深化しているので、私としては1986年の三谷氏のエッセイは検討の土台にもならないように感じます。
二年前に『日本の近代とは何であったか』にざっと目を通した時、私は「複数の古い革袋に残った酒を新しい小さな革袋に詰め込んで、ラベルだけ新しくしたような」本だなと感じたのですが、まさか31年前の古酒が含まれているとは思っていませんでした。
三十年間何も足さず、何も引かない。
匠の技ですね。

三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/463632d2cd053146c0c980e436ad1c01

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「つとに三谷太一郎氏も、「天皇制」はキリスト教の「機能的等価物」と観念されたと指摘している」(by 渡辺浩氏)

2019-07-23 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月23日(火)08時00分9秒

三谷太一郎氏が「明治前期の日本人の宗教観については、渡辺浩「宗教」とは何だったのか」(『東アジアの王権と思想』増補新装版、東京大学出版会、二〇一六年所収)を参照してください」(p214)と言われているので同書を見ると、その冒頭には、

-------
一 Religion の不在?

 徳川時代の末に日本を訪れた欧米人は、高い地位の日本人がいかなる religion も信じていないらしいことに気づき、口々にその驚きを語っている。
 例えば、ペリーの使節団は、「高位のよく教育を受けた人々はいかなる religion にも無関心で the higher and better educated are indifferent to all religions 、様々な空想的意見を抱いたり、広範な懐疑 a broad skepticism に逃げ込んだりしているようである」と報告している。
 ついで、アメリカの初代総領事、タウンゼント・ハリスは、その日記で、日本人には「religious な事柄に関するまったくの無関心」great indifference on religious subjects があり、「実のところ、高い身分の人々はみな無神論者だと思う」 I believe all the higher classes are in reality atheists.(May 27,1857) と断言している。
 また、『ニューヨーク・トリビューン』紙の記者でもあったアメリカ人貿易商、フランシス・ホールは日記にこう記している。

この国に上陸してから今に至るまで、日本人はその religion に何の尊敬も抱いていないという印象を私は受け続けている。(中略)教養ある上流の身分においては Among the learned and the better classes 、中国の官僚と学者同様に儒教 the system of Confucius が受け入れられていることになっている。しかし、実のところ、これらすべてについて不信仰である in reality there is a disbelief in all these forms 。現代ドイツにおいても、日本における実際上の無神論 practical atheism ほどに理性主義 rationalism が浸透しているとは、私には思えない。(March 25, 1860)

 同様に、イギリス初代公使、ラザフォード・オルコックによれば、教育のある階級 the educated classes は、霊魂の不滅やあの世での至福もしくは悲惨といった教義を蒙昧なる下層民のみにふさわしいものとしてあざけって scoff いた。
 そして、デンマークの海軍士官、エドゥアルド・スエンソンの回顧によれば、「日本人はこと宗教問題に関してはまったくの無関心で有名」であり、「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかをたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。」という。
 武士たちも、法事・墓参をし、時には神社にも参ったであろう。しかし、その「信心」の内容を問われれば、自分でも明確ではなかったのであろう(今の多くの日本人と同様に)。例えば福澤諭吉も、「我国の士人は大概皆宗教を信ぜず、幼少の時より神を祈らず仏を拝せずして、よく其品行を維持せり。」(『通俗国権論』一八七八年)と証言している。
 それ故、西洋を訪れた教養ある日本人は、逆に、西洋における religion なるものの繁栄に衝撃を受けた(「文明国」では「世俗化」が進んでいることに衝撃を受けたのではない!)。
 では、その religion なるものを、当時の指導的な日本人はどう理解したのだろうか。本稿では、その点に関し、従来見逃されていた面の解明を目指したい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8

とあります。
そして、この短い論文の最後は、

-------
 Atheists と呼ばれた日本の知的・政治的指導者たちは、西洋「文明国」が religion を重視し、往々「国教」さえ定め、それによって道徳を維持し、国民を統合しているらしいことに驚愕した。そして、日本の現状を憂慮した。その結果が、明治天皇制国家であった。それは、「日本的」ではない。おそらく、一面において、それは、中国的思考枠組みを持つ彼らが西洋をモデルに構築した、擬洋風の「教育」・「宗教」国家だったのである。
-------

で終わっていて(p283)、「その結果が、明治天皇制国家であった」に付された注(25)を見ると、

-------
(25) つとに三谷太一郎氏も、「天皇制」はキリスト教の「機能的等価物」と観念されたと指摘している。同氏『近代日本の戦争と政治』(岩波書店、一九九七年)、二〇〇頁。
-------

とあります。
このように渡辺浩氏と三谷太一郎氏の二人は互いの見解を高く評価し合っているのですが、これが共に東京大学名誉教授・学士院会員という碩学二人の美しいハーモニーなのか、それとも破れ鍋に綴じ蓋の不協和音なのかについては評価が難しいところだと思います。
私は後者の見方に傾いているのですが、『日本の近代とは何であったか』における「機能的等価物」云々の議論はあまりにあっさりした書き方なので今一つ理解できず、従って批判もしにくいですね。
そこで、『近代日本の戦争と政治』の内容を確認してから、三谷説の検討をしたいと思います。
同書についての岩波の宣伝文句には、

-------
日清戦争から第2次大戦後の冷戦にかけての,この百年の政治体制・政治思想の特質を,軍事化・民主化・植民地化の観点から徹底検証,特に近代天皇制については,天皇機関説事件と戦争責任論を手がかりに,国体論の文脈でその問題性をえぐる.さらに時勢にあらがって新たな国家構想を展開しようとした知識人達の思想と行動にせまる.

https://www.iwanami.co.jp/book/b261873.html

とあり、正直、聞き飽きた話のような感じがして、今回のようなきっかけがないとなかなか読みたいとも思えない本なのですが、一応確認してみます。

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「ヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」としての天皇制」(by 三谷太一郎氏)

2019-07-22 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月22日(月)12時50分26秒

前回投稿で引用した「一八八五(明治一八)年に伏見宮貞愛親王が聴いた講義の記録である『グナイスト氏談話』(東京大学法学部研究室書庫所蔵)」が語る「国家体制の基礎としての宗教の役割」は、実際にはドイツでもエルンスト・トレルチの所謂「古プロテスタント」が支配的な地域での国家と宗教の関係を前提とする話であって、「欧州の内富強と称する国」も宗教事情は様々な訳ですが、このあたりは伊藤博文にとってはもちろん、現代人にもなかなか分かりにくい点ですね。
個人的には、こうした事情については深井智朗氏の『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017)でスッキリと理解できたように思えたのですが、深井氏をめぐる近時の大騒動の結果、同書もなかなか微妙な存在になってしまいました。
同書に関する自分の投稿を振り返ると、我ながら妙な感じがしないでもないのですが、ただまあ、同書を社会的に抹殺すべきかというと、それなりに価値のある記述が多く、ちょっともったいない感じがします。
しかし、あんなことがあると、直接問題にならなかった書籍ですら引用するのに心理的な抵抗があって、深井氏の著作すべてが叩いても渡れない石橋になってしまいましたね。

「隣人を愛するとは、隣人を食べないことだ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b8b9f6c98b4e65053ee5530a07940827
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
「宗教改革は中世に属する」(by エルンスト・トレルチ)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa3fb1e23a7660da0fd358f3a2a5de04
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05c17e6a9f9523a67d4f569559ed713a
「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d

さて、グナイストに「日本は仏教を以て国教と為すべし」との勧告を受けた伊藤博文の対応について、三谷著からの引用をもう少し続けます。(p216以下)

-------
 しかし、日本の憲法起草責任者伊藤博文は、仏教を含めて既存の日本の宗教の中にはヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものを見出すことはできませんでした。伊藤によれば、我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがなかったのです。そこで伊藤は「我国にあつて機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下します。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。
 福田恆存が著書『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承しましたが、日本近代は維新前後の「廃仏毀釈」政策や運動に象徴されるように、前近代からの「神」を継承しませんでした。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家をつくろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としていたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」(ウィリアム・ジェームズのいう functional equivalent)とみなされたのです。その意味で日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。ここには日本近代の推進力であった機能主義的思考様式が最も典型的に貫かれているのを見ることができます。
 こうしてヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」としての天皇制は、当然にヨーロッパにおける君主制(特に教会から分離された立憲君主制)以上の過重な負担を負わされることになります。そのことは、ヨーロッパと日本とにおける君主観の顕著な違いとして現れました。
-------

うーむ。
新書という制約の中で、しかも一章で「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」を描くのは大変であり、簡単なスケッチにしかならないのは止むを得ないのですが、それにしても、やはり三谷氏の描く「ヨーロッパ的近代国家が前提としていたもの」はあまりに単純化されていますね。
そして「日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産」であり、天皇制がヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」だとする三谷氏の主張は、あまりにも乱暴な、殆ど荒唐無稽と言うべき主張ではないですかね。

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「日本は仏教を以て国教と為すべし」(by ルドルフ・フォン・グナイスト)

2019-07-21 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月21日(日)12時02分47秒

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』の「第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか」で私が違和感を覚えるのは、例えば次のような記述です。(p213以下)

-------
 2 キリスト教の機能的等価物としての天皇制

 福沢を経由して丸山にも及ぶ日本近代化の推進力としての機能主義的思考様式は、最も機能化することの困難なヨーロッパ文明の基盤をなす宗教をも基本的な社会機能ないし国家機能としてとらえ、キリスト教がヨーロッパにおいて果たしている、このような機能を日本に導入しようとしました。日本を近代化し、ヨーロッパ的な機能の体系として形成し維持するには、さまざまな諸機能を統合する機能を担うべきものを必要とします。明治国家形成にあたった政治指導者たちは、ヨーロッパにおいてこの機能を担っているものを宗教=キリスト教に見出したのです。明治前期の日本人の宗教観については、渡辺浩「「宗教」とは何だったのか」(『東アジアの王権と思想』増補新装版、東京大学出版会、二〇一六年所収)を参照してください。
 伊藤博文は一八八八(明治二一)年五月、枢密院における憲法案の審議の開始にあたって、憲法制定の大前提は「我国の基軸」を確定することにあることを指摘し、「ヨーロッパには宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」している事実に注意を促しています。ヨーロッパにおいてキリスト教が果たしている「国家の基軸」としての機能を日本において果たしうるものは何か。これが憲法起草者としての伊藤の最大の問題だったのです。
-------

「明治国家形成にあたった政治指導者たち」とありますが、三谷氏が実際に論じているのは伊藤博文とその配下の井上毅が中心で、指導層の全体をカバーしている訳ではありません。
もちろん、憲法と教育勅語の作成に中心的に関わったこの二人を見れば、一応の形式的な理屈の部分は確認できますが、宗教は理屈で動くものではないですから、ごく表面的な説明に終始しているように思われます。
ま、あまり先走らずに、伊藤に関する三谷氏の説明を聞いてみます。(p214以下)

-------
 このような問題意識を伊藤が持つようになったのは、伊藤が一八八二(明治一五)年から一八八三年にかけてヨーロッパに赴き、憲法起草のための調査にあたった際、講義を通して深い影響を受けたプロイセンの公法学者ルドルフ・フォン・グナイストの勧告によるところが大きいと考えられます。
 今日伊藤自身が直接に聴いたグナイストの講義の記録は残されていませんが、一八八五(明治一八)年に伏見宮貞愛親王が聴いた講義の記録である『グナイスト氏談話』(東京大学法学部研究室書庫所蔵)が残されています。これは憲法起草の参考資料として伊藤のもとに提出されたものですが、その中に国家体制の基礎としての宗教の役割が次のように強調されているのです。

【以下、引用部分は各行二字分下げ】
人間自由の社会を成さんとするには一の結付〔むすびつき〕を為す者あるを要す……。即ち宗教なる者ありて、人々互に合愛し合保つの道を教へて人心を一致結合するものなかる可〔べ〕からざる所以なり。……宗教の内自由の人民に其の善く適当とすべきものを可成〔なるべく〕丈〔だ〕け保護し、民心を誘導し、寺院を起し、神戒を説教し、深く宗旨を人心に入らしむるに非〔あらざ〕れば、真に鞏固なる国を成すことを得ず。……兵の死を顧みずして国の為めに身を犠牲に供するも亦只此義に外ならざるなり。静に欧州の内富強と称する国を見る可し。先づ寺院を興し、宗教を盛にせざるはなし。皆宗教に依て国を立つるものと知る可し。
-------

グナイスト(1816-95)は伊藤博文(1841-1909)より二十五歳上で、二人が出会った1882年には六十六歳ほどですね。
ドイツにおける宗教事情も複雑で、ルターの宗教改革以来、熾烈な宗教戦争を挟んで地域によりかなり異なる宗教的な風土が形成されていた上、啓蒙思想の影響や科学の発展、特に進化論の普及などの影響で信仰が強固だった地域も相当に動揺していた訳ですが、伊藤がそうした事情を正確に理解できたはずもありません。
引用部分を見る限り、グナイストの国家と宗教の関係についての理解はかなり醒めた、「機能主義的」なものと見えないでもないですが、なにしろグナイストは日本の宗教事情を全く知らない訳ですから、グナイストが伊藤に教示した具体的勧告はちょっとすごいですね。(p215以下)

-------
 こうした一般原則を前提として、グナイストは「日本は仏教を以て国教と為すべし」と勧告しました。そしてグナイストは日本がモデルとした一八五〇年のプロイセン王国憲法の中で、第一二条の「信教の自由」の規定は日本の憲法には入れず、改廃の容易な法律に入れるべきこと、さらに第一四条の「キリスト教は礼拝と関係する国家の制度の基礎とされる」という条文中の「キリスト教」を日本の場合には「仏教」と置き換えるべきことを説いたのです。
-------

これを聞いた伊藤はどう思ったのか。
まあ、「グナイスト先生、それはちょっと……」と頭を抱えたのではないかと思います。

グナイストの記事、ウィキペディアでは何故か英語版が一番詳しいですね。

Rudolf von Gneist
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_von_Gneist
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三谷太一郎氏への違和感

2019-07-20 | 石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月20日(土)22時07分59秒

>キラーカーンさん
>「統帥権の独立」

三谷太一郎氏の『日本の近代とは何であったか』は以前少し検討しましたが、これは同書における徳富蘇峰・深井英五に関する引用の仕方が妙な具合だったのがきっかけでした。
そのため、同書にはあまり良い印象がなかったのですが、今回、最初から読み直してみたら、割と素直に読めて、ご指摘の統帥権の独立に関する記述などスッキリと分かりやすく、あれれ、意外と良い本ではないかと思ったものの、「第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか」に入ると、やはり変な記述が多いですね。
「国家神道」を含め、宗教は三谷氏の世代の「リベラル」な学者たちの共通の弱点だなあと改めて思います。
そして、「終章 近代の歩みから考える日本の将来」は違和感を覚えるところだらけで、三谷氏との深刻な断絶を感じました。
『日本の近代とは何であったか』、改めて少し真面目に検討してみますかね。

「深井君、よく考えて見ると、露帝も独帝もわが輩を改宗せしめた恩人だよ」(by 徳富蘇峰)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1543ee9d89dede0bfc90a8223effdce3
「君は寧ろ小心に過ぐると云ふべき程、堅実性に富んだ人」(by 徳富蘇峰)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17178b5822ec444daee2a9189daf90d8
三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/463632d2cd053146c0c980e436ad1c01
渡辺浩『東アジアの王権と思想』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43c3ac99f60328684c051ac54137a751

>筆綾丸さん
>「幕府」否定論者たちの、かくも不毛な情熱

渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』は「序 いくつかの日本史用語について」がダメなだけで、後はけっこう良い論文集ですね。
特に「増補新装版」で加えられた「「宗教」とは何だったのか」は本当に優れた論文です。
「序 いくつかの日本史用語について」は「と、殿、御乱心!」てな感じですね。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2019/07/20(土) 02:10:33(キラーカーンさん)
お久しぶりです

>>「統帥権の独立」
米国憲法でも、「大統領(PRESIDENT)」と「最高司令官(COMMANDER IN CHIEF)」は
併記されていますので、本来的な統帥権の独立は

>>あくまでも権力分立制のイデオロギー
といった所だったのでしょう。

個人的には、政府の長が有している権限をめぐる行政権VS執政権論争に
それを解くカギがあるとにらんでいますが。

衒学参謀 2019/07/20(土) 12:12:59(筆綾丸さん)
https://urag.exblog.jp/7626055/
ヴェルギリウス『アエネーイス』の「 quae lucis miseris tam dira cupido ? 」(光へのかくも不吉な欲望とは何なのか)ではありませんが、「幕府」否定論者たちの、かくも不毛な情熱は何処からくるのか、といったところで、要するに、閑人なのではあるまいか、という気がします。

芥川龍之介『玄鶴山房』をもじって、東島氏を「衒学参謀」とでも褒めておきますか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B3%B6%E4%BA%80%E4%BA%BA
参謀といえば、東島氏とは何の関係もありませんが、黒島亀人という衒奇症的なヒトがいましたね(このヒトは、亀なのか人なのか、よくわからないところがミソですが)。

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蘇える印籠

2019-07-19 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月19日(金)11時48分28秒

7月9日の「與那覇潤・安冨歩・東島誠のトライアングル」で東島誠氏の「「幕府」論のための基礎概念序説」を少し真面目に検討すると言ってから、この投稿で既に13投稿目になりますが、そろそろ潮時ですかね。
東島氏は、「ひとたび中世史から一歩外に出れば」(p29)と、中世史研究者になじみのない分野の文献を権威主義的に引用し、その高圧的な姿勢に読者が戸惑っている隙に自らの見解を押しつけようとしますが、引用元の文献を丁寧に確認してみると、それほど説得的な内容ではなかったり、東島氏の論旨との関係が不明だったりして、結局のところ、虎の威を借りた騒々しいだけの論文ですね。
東島氏が頼る最大の虎はやはりマックス・「ヴ」ェーバーで、

-------
ここにおわす御方をどなたと心得る、
「価値自由」と「理念型」で名高い天下の知識人、マックス・ヴェーバー大先生なるぞ、
頭が高い、控えおろう!
-------

などとドイツ製の高級印籠を掲げられると、普段、社会科学の「方法論」みたいなものを意識したことのない人は、「はは~」とひれ伏したくなってしまうかもしれませんが、ニ十世紀初頭、ウェーバーが頻りに「価値自由」だの「理念型」だのを論じたのは、その時代特有の背景があってのことですね。
1920年にウェーバーが没してから既に一世紀が過ぎ、社会科学の個々の分野で「方法論」の精密化が進展する一方、歴史学のような分野では、しっかりした指導者の下で、大学院できちんと学問的訓練を受け、査読のある学会誌への投稿などを重ねていれば、一定のレベルの「客観性」は自ずと保たれるんじゃないですかね。
いわば「歴史研究者共同体」が全体で「客観性」を担保しており、個々の研究者はそれほど「方法論」を意識する必要もないんじゃないかなと思います。
そんな中、唐突に「価値自由」だ「理念型」だ、などと叫ぶ人が出てくると意外に新鮮な感じがしないでもないですが、まあ、時代錯誤ですね。
東島氏がウェーバーの次に繰り出す「皇国史観禁止」と書かれた渡辺浩先生の印籠は、敗戦により「皇国史観」自体がほぼ消滅して幾星霜の2019年では、これまた時代錯誤ですね。
渡辺氏は存在しない敵に向かって風車に突進するドン・キホーテであり、渡辺氏に従って「皇国史観による武家政権観の臭味を帯び」た「幕府」を使わないと誓った苅部直氏はサンチョ・パンサがお似合いです。
また、東島氏が渡辺氏の次に繰り出す三谷太一郎先生の印籠は、それ自体は非常に立派なものだと思いますが、何故にこのタイミングで出て来るのかが分かりません。
「そこはあくまで余興」ということでしょうか。

※追記
マックス・「ヴ」ェーバーと書いたのは「気取ってんじゃねーぞ」みたいな悪意の現れではなくて、私は学生時代から「ウェーバー」に慣れてしまっているので、東島氏の表記の仕方がちょっと気になった、程度のことです。
最近の研究者はむしろ「ヴ」派が多数なんでしょうけど、ツイッターで少し話題になった佐藤俊樹氏の大澤真幸『社会学史』への書評(『UP』(2019年6月号)で、大澤氏が「ヴ」派なのに対し、佐藤氏が「ウ」派だったので、同志発見、と思ってしまいました。

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「王政復古の政治的意味は、……天皇を代行する覇者を排斥すること」(by 三谷太一郎氏)

2019-07-18 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月18日(木)11時10分16秒

既に引用した部分と重複しますが、東島誠氏は三谷太一郎氏(東京大学名誉教授・学士院会員、日本政治外交史)の見解にも言及されています。

-------
 ただし、ひとたび中世史から一歩外に出れば、渡辺浩は、「幕府」とは、王道を覇権の上に位置付ける後期水戸学の尊王思想の中で勃興した、戦前の皇国史観の象徴のような語なのだから、学術用語として用いるべきでない、と提言しているし、また三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きを「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した。
 つまり、本来「幕府」の語は、佐藤学説に最もそぐわない語ではなかったのか。これは、東国国家の朝廷に対する独立性を徹底的に重視し、執権政治の合議制のなかに、専制、ひいては天皇制を相対化する可能性を見出そうとする佐藤史学にとって、誠に不都合な話であろう。かりに「幕府」を佐藤が定義した通り、史料概念ではなく分析概念として用いるにせよ、史料概念の「幕府」が皇国史観の色のついた言葉であるならば、そもそも分析概念として同じ記号表現を用いる必要など、一切ない、ということになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70bc57994e17dc4477d1670b229c9396

そして、「三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように……「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した」に付された注(13)を見ると、

-------
(13) 近著では、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(岩波新書、二〇一七年)
-------

となっています。
私も一応、同書を既に読んでいて、同書には渡辺氏のように「幕府」をNGワードとしたり、「幕府的存在」や「覇府」といった表現の使用自体に懸念を示されているような箇所はなかったはずだな、とは思いましたが、でもまあ、念のため改めて同書を最初から確認してみました。
東島氏が言及されているのはおそらく次の部分ですね。(「第1章 なぜ日本に政党政治が成立したか」、p67以下)

-------
幕府排斥論と権力分立制

議会制は既にみたように、維新革命の所産でした。維新革命の理念は、一つは王政復古です。王政復古の政治的意味は、諸侯の旗頭であって天子の政をとる者、つまり天皇を代行する覇者を排斥することでした。また、覇者の組織・機構であり、覇者の拠点となるのが覇府ですが、そうした覇府を排斥することを意味しました。いいかえると、王政復古というのは幕府的存在を排除することを意味したわけです。
 そして、幕府的存在を排除するために最も有効なものとして考えられたのが、議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす天皇大権のメダルの裏側であったのです。つまり、明治憲法が想定した権力分立制というのは、幕府的存在の出現を防止することを目的とし、そのための制度的装置として王政復古の理念に適合すると考えられたのです。権力分立制の下では、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえません。要するにかつての幕府のような覇府たり得ない。このことが、明治憲法における権力分立制の政治的な意味であったのです。
 憲法起草責任者であった伊藤博文は特に議会について、議会こそまさに覇府であってはならないという点を強調しました。「王政復古は所謂統治大権の復古なり。吾等は信ず、統治の大権、覇者に在る者を復し、直に之を衆民に附与して皇室は依然其統治権を失うこと、覇府存在の時の如くせんと云ふが如きは、日本臣民の心を得たるものにあらず。況んや我国体に符合するものにあらず」というふうに、伊藤博文は述べたわけです。
 この伊藤の覇府排斥論というものは、議会だけでなくて他の国家機関にも共通に適用されなければならないものでした。それは当然、軍部についても例外ではありません。要するに「統帥権の独立」というのは「司法権の独立」と同じように、あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。したがって、それは軍事政権というようなものが出現することを正当化するイデオロギーではありえなかったわけです。太平洋戦争中、東條内閣が東條幕府という名によって批判された所以はそこにありました。また、大政翼賛会が幕府的存在(あるいはソ連国家におけるボルシェヴィキに相当する組織)として当時の貴族院などにおいて指弾されたのも、はやり権力分立制の原則にそれが反すると考えられたからです。
-------

正確を期すためにかなり長めに引用しましたが、三谷氏は明治憲法下において「幕府排斥論」、すなわち「幕府的存在」や「覇府」、あるいは「軍事政権というようなもの」の出現を許さない、という主張があったことを縷々説明されてはいても、「幕府的存在」や「覇府」といった表現自体を忌避するような態度は一切示されていません。
また、「幕藩体制」といった表現はどしどし用いられているので、三谷氏の見解には渡辺氏の「幕府」論の影響は全くありません。
ということで、東島氏の、

-------
三谷太一郎が論じた明治以降の「幕府的存在」のように、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きを「覇府」と見なす言説も歴史上に存在した。
-------

という指摘それ自体は別に間違いではないでしょうが、なぜこれが渡辺説の後に置かれているのか、が分かりません。
そして、これが、直ぐ後の「つまり、本来「幕府」の語は、佐藤学説に最もそぐわない語ではなかったのか」という東島氏の意見とどのように結びつくのかも分りません。
私に唯一可能な説明は、東島氏には論理的に思考する能力、そして思考の結果を文章に表現する能力のいずれか、あるいは両方に何らかの欠陥があるのではなかろうか、というくらいですね。

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「(藩が)一種の衒学的な流行語となったきっかけは、……人気学者荻生徂徠が愛用したこと」(by 渡辺浩氏)

2019-07-17 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月17日(水)23時00分20秒

渡辺浩氏が提唱する日本史NGワード四天王のうち、最弱なのは三番目の「天皇」ですね。
渡辺氏の基礎的な事実認識に誤りがあるので、説得力に乏しい論証になっています。

「従来の日本史用語の思想性も衝き,斬新なパースぺクティブを提示」しているのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba4cc945ee3685187fa0a01889bdf430
一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b

そして四番目の「藩」ですが、こちらも快刀乱麻とは言い難く、かなり屈折した説明になっていますね。(p8以下)

-------
 四 「藩」

 周知のように、「藩」の語は、江戸時代においては公式の用語ではなく、明治二年(一八六九)の「版籍奉還」からその二年後の「廃藩置県」までの間、公式の名称であったにすぎない。一般化したのは十八世紀半ば以降である。
 先駆的には、例えば木下順庵が「宗藩甲府君。好学楽善」(「賜五経四子記」)、「肥州細川公。西国大藩也」(「静女赤心図」)と書き、その弟子新井白石が、徳川綱豊(後の家宣)の邸を「藩邸」と呼び、書簡でも「賢藩へさし上候ひし迄にて」等と書き、そして『藩翰譜』を著した例がある。しかし、一方で、伊藤東涯は「本鎮」「鎮兵」「江州膳所ノ鎮ニ仕ヘ…」等と書いている。享保頃でも「藩」が一般的だったわけではない。
 しかし、それが一種の衒学的な流行語となったきっかけは、東涯の同時代人、人気学者荻生徂徠が愛用したことであろう。彼は「貴藩」「弊藩」「吾藩」「親藩」「外藩」「大藩」「一藩」「藩大夫」「藩有司」「藩門」「長藩」「常藩」等と、頻繁にその文集で書いている(『徂徠集』)。門人、服部南郭も、これに倣っている(『南郭先生文集』)。その後、徐々にこの語の漢学臭も薄れていったのである。
 それは、単に言葉の問題ではなかったであろう。「御家中」と「藩」は違う。「誰々家来誰々」と「何々藩誰々」は違う。「誰々様の下より出奔」するのと「脱藩」するのは違う。その背後には、江戸時代の間に武士たちが、いわば、「主君に仕える武者」から、「藩に勤める役人」へと変身したという事実、その組織の在り方も、いわば個人的忠誠関係の束から、一種の「株」となった「家」々の連合体へと変質したという事実が、あった。その新しい状況に対応して、新しい語が必要となり、たまたま(例えば「鎮」ではなく)「藩」が採用されていったのであろう。
 だとすれば、江戸時代中期以降ならともかく、その初期について「何々藩」などというのは、誤解を招きやすい時代錯誤的表現だということになる。
 本書では、「藩」の語は、その点を注意して用いることにする。また、「幕藩体制」の語は、「幕」も「藩」も問題含みである以上、用いないことにする。
 江戸時代の政治体制は、端的に「徳川政治体制」と呼ぶ。
-------

「藩」については、僅か二年間ではあっても「公式の名称」になったことがあり、そうした公式採用の前提に「十八世紀半ば以降」、既に「一般化」が進んでいたという実情がありますから、現代の「抹殺博士」である渡辺氏も全面的な使用禁止に踏み切ることはできず、「注意して用いることにする」という具合に曖昧な対応ですね。
「江戸時代中期以降なら」「誤解を招きやすい時代錯誤的表現」でもなく、まあ、よかろう、ということらしいですが、具体的な区別には困難を感ぜざるをえない曖昧な基準です。
『東アジアの王権と思想』をざっと眺めると、やはり「藩」はそれほど頻繁には登場せず、「大名」「大名家」などに置き換わっているようですが、例えば、

-------
 ところが、十八世紀も半ばを過ぎると、大名が家来のために学校(藩学、藩校)を設ける例が尻上りに増加する。石川松太郎氏によれば、宝暦─天明の間(一七五一年-一七八八年)に五〇、寛政─文政の間(一七八九年-一八二九年)に八七、天保─慶応の間(一八三〇年-一八六七年)に五〇の大名家で、規模は様々であるものの、武士のための教育施設が設けられたという。
-------

といった文章(p125以下)を見ると、やはり渡辺氏は「藩」を含む派生語の扱いに苦労されているようですね。
ま、傍から見ると、あまり生産的ではない苦労のような感じがしますが。

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「公儀」と師弟愛(その2、増補新装版)

2019-07-17 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月17日(水)12時14分59秒

「幕府」「朝廷」「天皇」「藩」の四つの語を使わずに近世史を論じるのはなかなか大変そうなので、渡辺浩氏に追随する研究者が存在するのかが気になるところですが、私も最初は、

-------
渡辺氏のような、特定の概念だけに偏執的なこだわりを見せる変人が「幕府」ではなく「公儀」と呼ぶべきだと主張しても、ま、結局は誰からも相手にされずに終わるのではないかと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c98d53b1b8c239d74840025286625cc

などと思っていました。
しかし、苅部直氏(東京大学法学部・大学院法学政治学研究科教授、アジア政治思想史)は「幕府」をNGワードにされていますね。
同氏の『歴史という皮膚』(岩波書店、2011)の最終章、「「利欲世界」と「公共之政」─横井小楠・元田永孚─」の注31には、

------
(31) 本章では「幕府」ではなく「徳川政権」の呼称を用いる。徳川時代には、(最末期を例外として)江戸の「御公儀」を、京都の「禁裡様」からの委任を受けて権力を行使する「幕府」と呼ぶなどということは一般にはなかったことを重視し、皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用したのである。ちなみに、一八七七-八二(明治十-十五)年刊行の田口卯吉『日本開化小史』(岩波文庫、一九六四年)は「徳川政府」と呼んでおり、明治時代には徳富蘇峰や山路愛山も「徳川政府」の語を用いている。一九三八(昭和十三)年の長谷川如是閑『日本的性格』第五章(『近代日本思想大系15 長谷川如是閑集』筑摩書房、一九七六年、所収)にも「徳川政府」の呼称が見えることを考えると、歴史叙述用語として使われるのが「幕府」のみとなったのは、いくぶん新しいことと思われる。
------

とあります。(p269)
渡辺氏に従って「皇国史観による武家政権観の臭味を帯び」た「幕府」は使わないけれども、代替として「公儀」ではなく「徳川政権」を採用されたのですね。
ただ、『歴史という皮膚』の六年後に出た『「維新革命」への道―「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書、2017)の用例を見ると、苅部氏は「徳川政権」よりむしろ「公儀」を多用されており、何故に「徳川政権」で一貫させないのか、ちょっと不思議です。
あるいは六年の間に師弟愛がいっそう深まったのでしょうか。

「皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用」(by 苅部直)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3e7d16b53c4196faa65ea0bea225418
「公儀」と師弟愛
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddd3bf147869a0ba31c9d500db9c45e6

苅部氏の『「維新革命」への道』は世間的には評価が高いようで、例えば山崎正和氏は毎日新聞の書評欄で同書を「2017 この3冊」の一冊に選ばれていますが、私はあまり感心しませんでした。

山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81a04f41be09e3c6518fc6d6fd26b766

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「史料概念」と「分析概念」

2019-07-16 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月16日(火)11時23分52秒

「序 いくつかの日本史用語について」は、結論には賛成できないものの、思考実験としては非常に面白いですね。
渡辺氏が提唱する日本史NGワードは「幕府」「朝廷」「天皇」「藩」の四つですが、個人的に一番参考になったのは「朝廷」です。

-------
二 朝廷

 藤田東湖が嘆いたように、江戸時代には公儀が、往々「朝廷」と呼ばれている。現に「天下」を統治している君主の政庁をそう呼ぶのは、不自然ではなかった。
 比較的知られている、『赤穂義人録』『国喪正議』における室鳩巣、その文集における荻生徂徠、『経済録』における太宰春台ばかりではない。湯浅常山は(熊沢蕃山につき「東都ノ朝廷ニ封事ヲ奏シテ海内ノ政事ヲ更始セントス」と記し(「備前国故執政大夫熊沢先生行状」)、松浦静山は、(徳川綱吉を指して)「此時朝廷御子無きを以て」と書いている(『甲子夜話』巻四七)また、南川維遷は「当今ハ封建ノ制ナルユヘ、朝廷ノ大法アレドモ、又ソノ国々ノ律有テ」(『金溪雑話』)と、和学者高田與清は「学者」を批判して「朝庭〔おほやけ〕の政事〔まつりごと〕をかれこれと論ずる者もあり」(『積徳叢談』)と、述べている。高田與清の振仮名の示すように、「おほやけ」「お上」「公儀」とほぼ同義で、「朝廷(庭)」は使われるのである。高野長英が「蛮社の獄」の顛末を記して、「官〔カミ〕の逆鱗」「朝廷を誹謗」等と書いたのも(「わすれがたみ」)、同様である。
 なお、漢文の素養のある人々は、「公儀」では外国人に通じないとは考えた。日本独特の語だからである。そこで、レザノフに長崎退去を命じた公儀の「申渡」は、自ら「朝廷の意かくの如し」と述べた(文化二年)。そして佐久間象山は、ハリスとの折衝案に、くりかえし「吾朝廷」という語を用いた(安政五年)。彼等はそれが京都に対して僭越であるなどとは考えなかった。
-------

ということで(p6)、ここまでは渡辺氏の薀蓄の豊富さに、なるほどなあ、と感心するのですが、問題はやはり代替案ですね。

-------
 「朝廷」といえば、当然京都にあり、江戸にあったのは「幕府」だったという通念が、実は水戸学的であり、「近代的」なのである。水戸学に同情的でもない歴史家が「近世の朝幕関係」を論じたりするのは、いささか奇妙ではあるまいか。
 では、何と呼ぶのが適当だろうか。江戸時代に最も普通の「禁裏」「禁中」であろう。「朝廷と幕府」ではなく、「公儀と禁裏」と表現する時、現在の通念とはやや違う図柄が浮かび上がってくるはずである。
-------

「朝廷」は京都、「幕府」は江戸という通念が歴史的に形成された経緯は理解できましたが、では渡辺氏の提案に従って「朝廷」を「禁裏」「禁中」に置き換えてみるとどうなるか。
ま、機械的な置き換えは単なる馴れの問題として解消できるのかもしれませんが、派生語は非常に作りにくくなりますね。
あっさりと淡白な「朝」に比べ、「禁」には濃厚な意味が充満しているので、例えば「朝政」「朝臣」「朝堂」を「禁政」「禁臣」「禁堂」と置き換えてみると、混同・混乱の可能性は大きそうですね。
また、そうした現実論とは別に、渡辺氏の置き換え方針が理論的に正しいのだろうか、という疑念もあります。
東島氏の論文に引用されている佐藤進一の「史料概念」と「分析概念」の把握の仕方と照らし合わせてみると、渡辺氏の基本的な発想は、従来用いられてきた「分析概念」に「水戸学」や「皇国史観」の残滓といった何らかの瑕疵がある場合、「当時最も普通の呼称を使うのが、自然」(p5)であるから「史料概念」に置き換えよ、ということになります。
しかし、個々の史料に即して考えてみると、複数の史料に同一の「史料概念」が記されてあっても、それが同じ意味で用いられている保証はありません。
同時代史料であっても異なる意味で用いられている可能性はありますし、まして時代が経過すれば意味の変遷も当たり前です。
ということは、「当時最も普通の呼称を使うのが、自然」という渡辺氏の方針に従うと、論理的な明晰さが要求される「分析概念」に「史料概念」の曖昧さが混入することを許す結果となります。
これは重大な欠陥であって、「自然」を大切に、という渡辺氏の方針は現実的に無理が多いだけでなく、理論的にも根本的な欠陥を抱えているのではないかと思います。

>筆綾丸さん
>氏偏愛の「江湖」に、臆面もなくよく曝せたものだ

東島氏は歴史学研究会・史学会・政治思想学会・東京歴史科学研究会に所属しているそうですが、さすがにこの内容だと査読のある学会誌に載せるのは無理っぽい感じですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「黒社会(黒道)」2019/07/15(月) 16:09:45
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B9%96
「花幕府」のところですが、こんな駄文を、氏偏愛の「江湖」に、臆面もなくよく曝せたものだ、とその度胸に呆れました。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B9%96
中文には、江湖は黒社会(黒道)の代称とあるので、これによって、黒幕の傀儡が江湖のパシリだということがわかりますね。
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「「室町幕府」の代案はあるのか、という、ささやか過ぎる疑問に対しても、一応お答えしておきたい」(by 東島誠氏)

2019-07-15 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月15日(月)10時02分44秒

>筆綾丸さん
>渡辺氏は「幕府」否定論の黒幕で、東島氏はこの黒幕の傀儡(puppet)

「幕府」は後期水戸学が一般化のきっかけをつくり、幕末、じゃなくて「江戸時代末期のあの政治状況の中」で流行語となった「皇国史観の一象徴にほかならない」のだと説く渡辺浩氏の「幕府」論の射程はもちろん近世以前に及んでいて、渡辺説に素直に従うならば「鎌倉幕府」「室町幕府」は全廃し、江戸期の「公儀」に対応する別の呼称を考案しなければならないはずですが、東島氏の立場はずいぶん中途半端ですね。

-------
 以上のことから、本章では、中世史において「幕府」という用語を用いること自体を再審に付することとしたい。いささか結論先取り的に言えば、中世の「幕府」用例には、佐藤の言う「抽象的な歴史的存在」としての「幕府」用例もまた確かに存在するし、さらには、中世の「幕府」用例の特有の文脈に着目するならば、おそらく鎌倉幕府は「鎌倉幕府」と呼んでよいが、室町幕府を「室町幕府」と呼ぶのはおよそ正しくない、という結論に逢着しうる。近年「公武統一政権」が盛んに論じられ、論者によってはすでに「室町幕府」に替えて「室町政権」の語を用い始めている者もいるが、そうした状況を踏まえても、もはや「室町幕府」という概念は必要ないのではないか、それが本章で論じたい点である。


と暫定的な結論を出した後で(p30)、東島氏は「ⅱ武家政権としての「幕府」用例」と「ⅲ「関東幕府」と「東関柳営」」に関する史料を検討した後、

-------
 「東関柳営(幕府)」「関東幕府」に相当する語がない以上、室町幕府なる語を使用することには大いに躊躇される。それが前節より得られる結論である。東国国家論に立つならば、「〇〇幕府」は、鎌倉幕府、鎌倉府のようにあくまで関東に樹立された軍政府のみを指して用いるべきであろう。
-------

という結論を出します。(p35)
渡辺氏によれば「幕府」は「皇国史観の一象徴にほかならない」邪悪な概念なのだから「鎌倉幕府」概念も追放するのが当然であるのに、東島氏は「鎌倉幕府」概念の存続を許すばかりか、「鎌倉府」も「幕府」として認めるのだそうです。
しかし、「鎌倉府」の名前はどうするのか。
「後期鎌倉幕府」とでもしなければ通常の「鎌倉幕府」と区別がつかなくて大混乱になりますが、それもずいぶん面倒な話です。
そして、肝心の「室町幕府」の代替案ですが、これに関しては東島氏が何を言っているのか、私には全然理解できません。
即ち、

-------
 そのことを踏まえた上で、本章の最後に、では「室町幕府」の代案はあるのか、という、ささやか過ぎる疑問に対しても、一応お答えしておきたい。もっともこの問いは本来、足利将軍家の権力機構を、義満以前も以後も同じ呼称で通すという、きわめて乱暴な前提を容認しないと答えられないはずなのだが、そこはあくまで余興である。じつは史料上の語は皆無ではない。なぜなら、『花営三代記』の「花営」とは「花洛」における柳営の意であるのだから。そもそも元「花亭」にして「花御所」となった「伏見殿御所」を「故大樹」義詮が「買得」し、義満が「大樹上亭」とした周知の事実も 「花洛」における御所(花営)として象徴的な場所たりえたからであろう。ならば、室町幕府に替えて「花幕府」とでも呼ぼうか?―もちろん否であろう。だがもしも否であるならば、論者は真剣に呼称を、しかも権力の各段階に相応しい呼称を考えるべきであろう。
-------

とのことですが(p35以下)、東島氏は本来は「足利将軍家の権力機構を、義満以前も以後も同じ呼称で通すという、きわめて乱暴な前提」を容認しない立場のようですから、義満以前の「室町幕府」と義満以後の「室町幕府」を別々の呼称にすべきだと考えているようです。
しかし、「そこはあくまで余興である」として、両者をひとまとめに「花幕府」と提案するのかと思ったら、「もちろん否であろう」とひっくり返します。
この一人芝居はいったい何なのか。
そして、更に「だがもしも否であるならば、論者は真剣に呼称を、しかも権力の各段階に相応しい呼称を考えるべきであろう」と言われるのですが、ここに出てくる「論者」とはいったい誰なのか。
「室町幕府」概念の追放を狙う「論者」は東島氏以外誰か存在するのか。
東島氏自身が「真剣に」考えていないのに、いったい誰が「真剣に」考えるのか。
ということで、この部分は酔っ払いか、それとも変なクスリをやっているヤバい人の戯言としか読めません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

灰色の猊下(Éminence grise) 2019/07/14(日) 15:57:16
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B9%95
不遜な言い方を敢えてすると、渡辺氏は「幕府」否定論の黒幕で、東島氏はこの黒幕の傀儡(puppet)、ということになりますかね。
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「水戸学的な江戸・京都の関係解釈を特権化する」(by 渡辺浩氏)

2019-07-14 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月14日(日)10時55分47秒

さすがに学士院会員・東京大学名誉教授・法政大学名誉教授だけあって、渡辺浩氏の薀蓄の豊富さ、その博引旁証の緻密さはたいしたものだとは思いますが、「幕府」使用禁止令が発布された場合の大混乱を想像すると、あまり感心ばかりしている訳にも行きません。
さて、「「幕府」とは皇国史観の一象徴にほかならない」と説く渡辺氏の考える「幕府」概念の弊害、そして「幕府」の代替案は何かというと、

-------
 それは、江戸時代の中で、江戸と京都の関係が大きく変化したという事実を見えにくくする。そして、水戸学的な江戸・京都の関係解釈を特権化する。さらには、古代以来、「天皇」家が(「武家」との関係においても)変転に変転を遂げ、そのことによってようやく生き延びてきたという事実を忘れがちにさせる。それ故、特に「幕府」の含意や語感が必要であるとき以外、その語とその派生語(「幕末」「幕政」「幕臣」「幕吏」「幕議」「幕閣」等は用いないこととする(本書収録論文で、かつてそれらの語を用いた個所は全て書き改めた)。

 では、何と呼べばよいだろうか。「徳川政権」等も考えられる。しかし、当時最も普通の呼称を使うのが、自然であろう。それは、「公儀」である。この「公」は、無論、西洋語の public 等とは違う(中国語の「公」とも違う)。したがって、「公権力」「国家公権」「領土公権」を含意するなどと、簡単に言うことはできない。「公儀」や「公方」の語の成立と普及の歴史については、その点を明確に意識した少なくとも中世以来の慎重な再吟味を要しよう。しかし、江戸時代の人々は、単に現代日本語の一般名詞、「政府」の意味で─無論現代語より敬意はこもっているが─用いているように、往々見える。現に、「官」の字で、それはしばしば言い換えられる。そこで、ロシアの「官府」も、「こうぎ」である(桂川甫周『北槎聞略』)。清朝中国の「官船」も「こうぎのふね」である(中川忠英編『清俗紀聞』)。
 江戸時代に現実に中央の政府として機能を果たしていた組織は、原則として「公儀」と呼ぶのが、少なくとも「幕府」よりは、適当であろう。
-------

とのことです(p4以下)。
ふーむ。
まあ、「江戸時代の中で、江戸と京都の関係が大きく変化したという事実を見えにくくする」「古代以来、「天皇」家が(「武家」との関係においても)変転に変転を遂げ、そのことによってようやく生き延びてきたという事実を忘れがちにさせる」のかもしれませんが、別に見えなくしたり、忘れさせたりする訳ではないので、ちょっと注意すればいいだけの話じゃないですかね。
また、「水戸学的な江戸・京都の関係解釈を特権化する」などと言われても、「水戸学」の信奉者が、仮に僅かに残っているとしても殆ど「絶滅危惧種」だろうと思われる今どきの歴史学界においては、渡辺氏の懸念はそれこそ『水戸黄門』的な時代劇の中の科白のように響きます。
そして渡辺氏が「幕府」の代替案として提唱する「公儀」に対しては、いくら何でもそれはちょっと、という違和感を覚えざるを得ません。
渡辺氏は「この「公」は、無論、西洋語の public 等とは違う(中国語の「公」とも違う)」と言われますが、「公儀」という表現が、二つ(あるいは三つ)の「公」が違う「という事実を見えにくくする」ことは明らかです。
従って、「公儀」の「公」は「「公権力」「国家公権」「領土公権」を含意する」のではないか、という混乱を助長することにもなります。
これに対し、「幕府」の「幕」は、それ自体は単に空間を区分する布をイメージさせるだけの価値中立的な表現であって、「公」のような混乱を惹起させる可能性は皆無ですね。
そして、「幕府」を機械的に「公儀」に置き換えるだけならまだしも、「幕末」「幕政」「幕臣」「幕吏」「幕議」「幕閣」等の「派生語」の処理は大変で、そんな苦労をするくらいだったら、「皇国史観」の僅かな臭み程度は我慢すればいいんじゃないですかね。
まあ、歴史学研究会や歴史科学協議会系の研究者だって「幕府」を使いまくっている訳ですから、別に「幕府」に「皇国史観」の臭みを感じないのが現代の歴史研究者の大勢であって、渡辺氏が極端に神経質なだけのような感じがします。
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「現在のように「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある」(by 渡辺浩氏)

2019-07-13 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月13日(土)22時19分30秒

ついで「ある政治思想史的問題が伏在している」具体的状況の説明となります。(p3以下)

-------
 現在のように「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある。寛政三年(一七九一)、藤田幽谷は「幕府、皇室を尊べば、即ち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、即ち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後、上下相ひ保ち、万邦協和す。」と主張した(「正名論」)。そして、その弟子会沢正志斎、その子藤田東湖等は、しきりに「幕府」の語を用いた。とりわけ、東湖の『弘道館記述義』(弘化四・一八四七年、再稿完成)が、江戸時代末期に、「尊王攘夷」の語とともに「幕府」という名称が流行語になる直接の原因となったと思われる。
 では、何故、後期水戸学者はこの語を用いたのだろうか。「正名論」の示すように、徳川政権があくまで京都から任命された「将軍」の政府であることを強調するためである。そして、その正統性根拠を(一般に「皇国」の自己意識が高まる中で)明確化し、体制を再強化するためである。「幕府」とはそれを意図した、正に為にする政治用語だった。水戸学者たちがしきりにこの語を用い始めた時、奇異に感じた人々もいたであろう。『弘道館記述義』が「尊王攘夷」の項で「しかるに無識の徒、或は幕府を指して「朝廷」と曰ひ、甚しきはすなはち「王」を以てこれを称す。」と非難しているような状況が、一方にあったからである。「幕府」の語は、徳川側が用いればやや謙遜した自己弁護の意味合いを持つ。そして反徳川側からすれば、当時普通の「御公儀」「公辺」等を敢えて使わず、所詮京都の権威の下にあるべきものと位置づけた、やや軽くみる意味合いを含んでいる。光格天皇が、(「関東」と言わず)「下は執柄・幕府の文武両道の補佐を以て、在位安穏なること、既に二十有余年に及べり」(即位は安永八・一七七九年)と称した(「賀茂石清水両社臨時祭御再興の宸翰御趣意書)時も、京都側の権威の向上に努めた彼の気持ちがこもっていたのかもしれない。
 そして、江戸時代末期のあの政治状況の中で、「幕府」の語はみるみる流行し、普及していった。「公儀御役人」を「幕臣」「幕吏」等と呼べば、時に不遜に、時に小気味よく響いたことであろう。やがて、「王政復古の大号令」は「自今摂関・幕府等廃絶」と宣言した。そして明治以降、学校教育の助けを得て「幕府」の語は完全に定着した。無論、それは、天皇が「日本」の歴史を通じて唯一の正統な主権者であり、徳川氏も、せいぜい天皇から「大政」を「委任」されて統治者たりえていたのだという(江戸時代の始めには無かった)歴史像と結合していた。
 このような意味で、「幕府」とは皇国史観の一象徴にほかならない。
-------

「江戸時代末期のあの政治状況の中で、「幕府」の語はみるみる流行し、普及していった」に付された注(15)には、

-------
(15) 三谷博氏は、その著『明治維新とナショナリズム─幕末の外交と政治変動』(山川出版社、一九九七年)において、「日本の近世国家」を論じ終えて日米和親条約以降の政治史をたどり始める時点で、次のような示唆的な註を付している。「以下では、徳川「公儀」に替えて、「幕府」という名を用いる。それは、この時期に「朝廷」が京都の天皇政府の独占的呼称となり、これに対応して徳川政権を「幕府」と呼び、「朝廷」の下位に立つ「覇府」という意味を託す習慣ができたからである。」(三四九頁)。
-------

とあり、渡辺氏の認識は学界で孤立した特異な見解でもなさそうですね。
さて、以上で渡辺氏の問題意識は理解できましたが、では学術用語として「幕府」を用いると具体的にどのような弊害があるのか、が次に問題となり、そして更に最大の難問として、「幕府」の使用を止めた場合、それに代替すべき表現は何か、という問題が出てきます。
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