細かなことですが、『吾妻鏡』六月三日条には、
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関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
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関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあって、「昨日」、つまり六月二日に「関東大将軍」が「遠江国府」に着いたとの「飛脚」が「入洛」し、同日に「公卿僉議」があって、翌三日の「暁」に「官軍」が出発したことになっています。
しかし、流布本では、
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先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。大炊〔おほひ〕の渡へば、駿河大夫判官・糟屋四郎左衛門尉・筑後太郎左衛門尉・同六郎左衛門、是等を始として、西面者共二千余騎を被差添。鵜沼の渡へは美濃目代帯刀〔たてはき〕左衛門尉・川瀬蔵人入道親子三人、是等を始て一千余騎ぞ被向ける。板橋へは朝日判官代・海泉太郎、其勢一千余騎ぞ向はれける。気瀬〔いきがせ〕へは富来次郎判官代・関左衛門尉、一千余騎にてぞ向ける。大豆渡〔まめど〕へは能登守秀安・平九郎胤義・下総前司盛綱・安芸宗内左衛門尉・藤左衛門尉、是等を始として一万余騎にてぞ向ひける。食〔じき〕の渡へは阿波太郎入道・山田左衛門尉、五百余騎にて向ふ。稗島〔ひえじま〕へは矢野次郎左衛門・原左衛門・長瀬判官代、五百余騎にて向けり。墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce
となっていて、出発が「六月二日の暁」ですから、『吾妻鏡』より丸一日早いですね。
僅か一日の違いですが、尾張河の「九瀬」に配置された人々は合戦までに持ち場に到着すれば良いという訳ではなく、逆茂木を設けるなどの準備も必要だったでしょうから、六月二日の方が良さそうに思えます。
さて、私は坂井孝一氏の見解には殆ど賛成できませんが、坂井氏が、
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「天性臆病武者」の秀澄は、北陸道軍の朝時や東山道軍の武田・小笠原に挟撃される危険があるとして重忠の策を用いず、墨俣で鎌倉方を迎え撃つ消極策を選択する決断をした。鎌倉方が大江広元・三善康信の策を採用し、迎撃から出撃に戦術を変えたのとは対照的である。
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という具合に(p174以下)、山田重忠を大江広元・三善康信と対比されている点は興味深いですね。
私も、慈光寺本に描かれた山田重忠は何だか『吾妻鏡』の大江広元みたいな存在だなあ、と感じています。
そして、そういえば慈光寺本では広元はどのように描かれていたのだろう、と思って探してみたら、何と慈光寺本では広元の登場場面は皆無です。
『吾妻鏡』で圧倒的な存在感を示していた広元は、慈光寺本には名前すら出てきません。
これは何故なのか。
単純に慈光寺本作者が鎌倉事情に疎く、広元という存在の幕府における重要性に気づいていなかっただけなのか。
ここで気になるのは、慈光寺本では広元の嫡子・親広の存在感も極めて希薄で、京都守護扱いをされていない点です。
親広が伊賀季光と並ぶ京都守護であったことを慈光寺本作者が知らないはずはありませんが、しかし、慈光寺本には親広が後鳥羽院に召喚されて味方になることを説得(強要)される場面は存在しません。
それどころか、親広は「諸国ニ被召輩」の中で近江国の土豪扱いされてしまっています。
こちらは単なる無知とはとても思えず、故意(悪意?)の創作を感じさせますが、とすると広元の不在も何らかの作為を疑いたくなりますね。
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その16)─「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4df629b09b85f3308da2599a6bcdafca
ちなみに流布本でも広元の登場場面は僅か二箇所で、最初は実朝暗殺の直前、
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大膳大夫広元、「加様〔かやう〕の時は、御装束の下に為被召〔めされたら〕んに苦しくも候まじ」とて、唐綾威〔からあやおどし〕の御著背〔きせ〕(なが)一領進〔まゐ〕らせたりけるを、文章博士、「何条〔なんでふ〕さる事可有」とて留〔とどめ〕奉る。広元、頻〔しきり〕に「昼さて有ばや」と申けるを、仲章、「必〔かならず〕秉燭〔へいしよく〕にて仕〔つかまつる〕事なり」とて、戌の時とぞ被定〔さだめられ〕ける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f9f3f48e9827ac826520bebbb2c14da
と実朝に鎧を着用するように助言するも源仲章に拒否されるという情けない役です。
次は「鎌倉に留まる人々」の筆頭に、
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鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等也。親上れば子は留まり、子上れば親留まる。父子兄弟引分上せ留らるゝ謀〔はかりごと〕こそ怖しけれ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076
と「大膳大夫入道」の名前だけ出てきます。
流布本でも広元の扱いは決して大きくはありませんが、それにしても名前すら出さない慈光寺本は余りに極端ですね。
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