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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)

2020-10-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月31日(土)17時12分45秒

前回投稿で引用した部分の最後、北条側に若干同情的に見える記述もありましたが、これも別に『太平記』の作者が心から同情している訳ではなくて、勝者と敗者の立場の違いをくっきりと描きたい程度の意図なのでしょうね。
さて、続きです。(p42以下)

-------
 四月二十七日には、八幡、山崎の合戦とかねてより定められければ、名越尾張守、大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道〔つくりみち〕より向かはる。足利治部大輔高氏朝臣は、搦手〔からめて〕の大将として五千余騎、西岡よりぞ向はれける。
 八幡、山崎の官軍、これを聞いて、「難所に出で合ひて、不意に戦ひを決せよ」とて、千種頭中将忠顕卿は五百余騎にて、大渡の橋を打ち渡り、赤井河原にひかへらる。結城九郎左衛門尉親光は三百余騎にて、狐川の辺に相向かふ。赤松入道円心は三千余騎にて、淀の古川、久我縄手〔こがなわて〕の南北に三ヶ所に陣を張る。これ皆、強敵〔ごうてき〕を拉〔とりひし〕ぐ気、天を廻らし地を傾くと云ふとも、機をとぎ勢ひを呑める今上りの東国勢一万余騎に対して、戦ふべしとは見えざりけり。
 足利殿は、かねてより内通の子細ありけれども、もしたばかりもやし給ふらんと、坊門少将雅忠朝臣、寺戸、西岡の野伏ども五、六百人駆り催して、岩蔵の辺へ向かはる。
-------

ということで、官軍側も上洛したばかりで気勢の盛んな東国勢に正面からぶつかろうとはせず、様子を見ています。
また、尊氏に「内通の子細」があることを知らされていた官軍側の「坊門少将雅忠朝臣」は、なお万一の謀略に備えて尊氏の動きを警戒していたとのことで、このあたりもそれなりにリアルな描写ですね。
以上で第二節が終わって、第三節「名越殿討死の事」に入ります。(p43以下)

-------
 さる程に、「搦手の大将足利殿は、未だ明けざる程に京を立ち給ひぬ」と、披露ありければ、大手の大将名越尾張守、さては早や人に前〔さき〕を懸けられぬと、安からぬ事に思はれて、さしも深き久我縄手の、馬の足も立たぬ泥土〔でいど〕の中へ馬を打ち入れ打ち入れ、われ前にとぞ進まれける。尾張守は、元来気早〔きはや〕なる若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚かすやうにして、名を揚げんずるものをと、かねてよりあらまされける事なれば、その日の馬、物具〔もののぐ〕、笠符〔かさじるし〕に至るまで、あたりを耀かして出で立たれたり。
-------

この後、名越高家の行装がいかに立派であったかが延々と語られます。
省略しようかなとも思いましたが、作者がそれなりに気合を入れて書いているであろう部分なので、そのまま引用します。(p44以下)

-------
 花曇子〔かどんす〕を滋紅〔こきくれない〕に染めたる鎧直垂〔ひたたれ〕に、紫糸の鎧の金物〔かなもの〕繁く打つたるを透き間もなく着下して、白星の五枚甲〔かぶと〕の、吹返〔ふきかえし〕に日光、月光の二天子を金と銀とを以て彫り透かして打つたるを、猪頸〔いくび〕に着なし、当家累代の重宝〔ちょうほう〕鬼丸と云ふ金作〔こがねづく〕りの丸鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を一振〔ひとふり〕帯〔は〕き添へ、鷹うすべ尾の矢三十六差いたるを筈高〔はずだか〕に負ひなし、黄瓦毛〔きかわらげ〕の馬の太く逞しきに、三本唐笠を金貝〔かながい〕に磨〔す〕りたる鞍を敷き、厚総〔あつぶさ〕の鞦〔しりがい〕の燃え立つばかりなるを懸け、朝日の影に耀かして光り渡りて見えたるが、ややもすれば軍勢より前〔さき〕に進み出で進み出で、あたりを払ひて懸けられければ、馬、物具の体〔てい〕、軍立〔いくさだち〕の様、今日の大手の大将はこれなりと、知らぬ敵はなかりけり。されば、敵も自余の葉武者〔はむしゃ〕どもに目を懸けず、ここに開き合はせ、かしこに攻め合はせて、これ一人を討たんとしけれども、鎧よければ、裏を掻かする矢もなし。打物〔うちもの〕の達者なれば、近づく敵の切つて落とされぬはなかりけり。その勢ひの参然〔さんぜん〕たるに辟易して、官軍数万の兵、すでに開き靡きぬとぞ見えたりける。
-------

ということで、衣装・武具・馬・馬具の全てが立派過ぎて、誰が見ても大将に見える名越高家めがけて官軍側の攻撃が集中しますが、鎧が良いので矢は射通せず、高家は剣の達者なので近づく敵も切って落とされ、あまりに高家の勢いが盛んなので官軍側も退却してしまいます。
ま、ここも高家の立派さを強調すればするほど、次の場面の描写が引き立つことを狙っての誇張表現なのでしょうね。
さて、「気早なる若武者」、名越高家の運命や如何に。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その3)

2020-10-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月31日(土)12時59分1秒

偽りの起請文を書いたって別にかまわないと直義が言うと、尊氏も直ぐに「至極の道理」だなどと納得してしまう場面、けっこう笑えるように思えますが、この記述に注目している研究者はあまりいないようですね。
直義の文書に関するドライな感覚は、建武二年(1335)十二月、後醍醐との対決を避けるために自分は出家するとゴネる尊氏を翻意させるため、たとえ出家しても勅勘は免れないのだという趣旨の偽綸旨を十数通偽造する場面でも遺憾なく発揮されますが(第十四巻、「箱根軍の事」)、こちらは宗教的権威ではなく天皇の権威の問題です。
この時、尊氏の依怙地さに周囲が困惑する中で、上杉重能が「謀(はかりごと)の綸旨を二、三通書いて、将軍に見せまゐらせ候はばや」と提案すると、直義はあっさり了解します。
そして重能に命じて名宛人を異にする十数通の綸旨を偽造させると、それを持った直義は建長寺(『梅松論』では浄光明寺)に籠る尊氏のもとに行って、敵から奪ったと称する綸旨を尊氏に見せ、「とても遁れぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思し召し翻して、氏族の浮沈を御扶け候へかし」と涙ながら訴え、それを聞いた尊氏は「謀書とは思ひも寄り給はず」、それでは仕方ない、自分も戦うぞと宣言します。(兵藤校注『太平記(二)』、p376)
綸旨の偽造だなんて天皇の権威を全く無視する恐ろしい所業ではないか、大変な犯罪ではないか、と思われますが、別に『太平記』は重能や直義を非難することもなく、直義の小芝居に騙された尊氏も、後から直義に苦情を言ったりはしません。
まあ、私は『太平記』を大河ドラマのようなものと考えるので、偽綸旨のエピソードも真偽不明と言わざるをえないと思いますが、しかし、『太平記』の作者は、綸旨の偽造ぐらい別にたいしたことじゃないよね、という基本的発想で書いていて、読者・聴衆も、まあ、そんなもんだよね、で納得してしまっているように思われます。
こうした文書に関するエピソードは、南北朝期において宗教的権威とはいったい何だったのか、天皇の権威とはいったい何だったのか、という問題を考える上では極めて大事な素材のように思いますが、こうした問題を追及している歴史学研究者は誰かいるのでしょうか。
国文学研究者では、小秋元段氏が「「雲景未来記」の批評精神と『太平記』の現実感覚」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019)で偽綸旨のエピソードについて少し検討されているので、後で紹介したいと思います。
さて、「降参」の問題に戻って、『太平記』第九巻「足利殿上洛」の続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p40)

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 足利殿御兄弟、吉良、上杉、二木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ。
-------

今川了俊がこの記述を見ていたとすれば、自分の家の順番など、相当に気になるところでしょうね。
上杉が「御一族」の中に入っていて、しかも吉良に次いで二番目というのはちょっと不思議な感じがしないでもありません。
また、足利の「御一族」が三十二人で「高家の一類」が四十三人ですから、数の上では高一族の方が三割強多くて、これも少し意外です。
以上で第一節が終わって、第二節に入ります。(p40以下)

-------
久我縄手合戦の事

 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足らずと欺〔あざむ〕きながら、宗徒〔むねと〕の勇士と憑〔たの〕まれたりける結城九郎左衛門尉、敵となつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外〔ほか〕国々の勢ども、五騎、十騎、或いは転漕〔てんそう〕に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢いよいよ重なり、武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり。かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。
 かかる処に、足利殿は、京着の翌日より、伯耆船上〔ふなのうえ〕へひそかに使ひを進〔まいら〕せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。
 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも寄るべき事ならねば、日々に参会して、八幡、山崎を攻めらるべき由、内談評定一々に、心底を残さず尽くされけるこそはかなけれ。「太行〔たいこう〕の路〔みち〕能〔よ〕く車を摧〔くだ〕く。若し人心に比すれば、これ平路なり。巫峡〔ぶこう〕の水能く船を覆す、若し人心に比すれば、これ安き流れなり。人の心の好悪太〔はなは〕だ常ならず」と云ひながら、足利殿は、代々、相州の恩を戴き、徳を荷〔にな〕うて、一家の繁昌、恐らくは天下に人肩を双ぶべき者ぞなき。その上、赤橋前相模守の縁になつて、公達あまた出で来させ給へば、この人よりも二心〔ふたごころ〕はおはせじと、相模入道ひたすらに憑〔たの〕まれけるも理〔ことわ〕りなり。
-------

ということで、尊氏は「京着の翌日」、即ち四月十七日に伯耆船上山の後醍醐に使者を送って自らの反逆の意思を伝え、後醍醐は格別に「叡感」があり、朝敵追罰の綸旨が下されたことが記されます。
他方、六波羅の両探題や名越高家は尊氏の陰謀を知る由もなく、日々参会して戦略を練っていたのははかないことであり、足利家は代々北条家の恩を受け、経済的に極めて豊かで、更に尊氏は執権赤橋守時の妹を正室に迎えたのだから、まさか裏切ることはないだろうと北条高時が思っていたのも理だ、という『太平記』の書き方は、けっこう幕府側に同情的なようにも思えます。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)

2020-10-30 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月30日(金)11時06分45秒

続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p36)

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 相模入道、かかるべき事とは思ひもよらず、工藤左衛門尉を使ひにて、「御上洛延引心得候はず」と、一日が中に両度までこそ責められけれ。足利殿、反逆の企てすでに心中に思ひ定められければ、なかなか異儀に及ばず、「不日〔ふじつ〕に上洛仕り候ふべし」とぞ、返答せられける。
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上洛が遅いと責め立てる北条高時に対し、「反逆の企てすでに心中に思ひ定められければ」ということで、尊氏の倒幕の決意が既に確定的であることが再び強調されます。
この後、高時を補佐する長崎入道円喜の助言で、尊氏に対し、正室の赤橋登子と「幼稚の御子息」(千寿王=義詮)を人質とし、更に起請文を提出することが命ぜられます。

-------
 即ち夜を日に継いで打つ立たれけるに、御一族、郎等は申すに及ばず、女性〔にょしょう〕、幼稚の子息までも、残らず御上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道円喜、怪しく思ひて、急ぎ相模入道の方に参り申しけるは、「誠にて候ふやらん、足利殿こそ、御台〔みだい〕、君達まで皆引き具し奉つて、御上洛候はんずるなれ。事の体〔てい〕怪しく覚え候ふ。かやうの時は、御一門の疎かならぬ人にだに御心を置かれ候ふべし。況んや、源家の氏族として、天下の権柄を捨て給へる事年久しければ、もし思し召し立つ事もや候ふらん。異国よりわが朝に至るまで、世の乱れたる時は、覇王、諸侯を集めて牲〔いけにえ〕を殺して血を啜〔すす〕り、二心〔ふたごころ〕なからん事を盟〔ちか〕ふ。今の世の起請〔きしょう〕これなり。或いはその子を質に出だして、野心の疑ひを散ず。木曽殿、御子清水冠者を大将殿の御方へ出ださるる例、これにて候。かやうの例を存じ候ふにも、いかさま足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に留め申されて、一紙の起請文を書かせまゐらせらるべしとこそ存じ候へ」と申しければ、相模入道、げにもとや思はれけん、やがて使者を以て言ひ遣はされけるは、「東国は未だ世閑〔しず〕かにして、御心安かるべきにて候ふ。幼稚の御子息をば、皆鎌倉中に留め置きまゐらせられ候ふべし。次に、両家体〔てい〕を一つにして、水魚の思ひをなされ候ふ上は、赤橋相州御縁になり候ふ上、何の不審か御座候ふべきなれども、諸人の疑ひを散じ候はんためにて候へば、恐れながら、一紙の誓言を留め置かれ候はん事、公私に付けてしかるべくこそ存じ候へ」と申されたれば、足利殿、鬱陶いよいよ深まりけれども、憤りを押さへて出だされず、「これよりやがて御返事申すべし」とて、使者をば返されけり。
-------

「鬱陶いよいよ深まりけれども」、もちろんそんな感情を出すことなく使者を返した後、尊氏は弟の「兵部大輔殿」直義に相談しますが、これが『太平記』に直義が登場する最初の場面です。(p38以下)

-------
 その後、御舎弟兵部大輔殿を呼びまゐらせて、「この事いかがあるべき」と、意見を訪〔と〕はれければ、且〔しばら〕く思案して申されけるは、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道〔ぶとう〕を誅して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言〔せいごん〕は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞〔ことば〕を載せられ候ふとも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候ふべき。就中〔なかんずく〕、御子息と御台〔みだい〕とを鎌倉に留め置き奉らん事、大儀の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず。公達は、いまだ御幼稚におはし候へば、自然の事もあらん時には、そのために残し置かるる郎従ども、いづくへも懐き抱へて逃し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿さても御座候はん程は、何の御痛はしき事か候ふべき。「大行〔たいこう〕は細謹〔さいきん〕を顧みず」とこそ申し候へ。これら程の小事に猶予あるべきにあらず。ただともかくも相州入道の申されんやうに随ひて、かの不審を散ぜしめ、この度御上洛候ひて後、大儀の計略を廻らさるべしとこそ存じ候へ」と申されければ、足利殿、至極の道理に伏して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹をば、鎌倉に留め置き奉り、一紙の告文〔こうぶん〕を書いて、相模入道の方へ遣はさる。相州入道、これに不審を散じて、喜悦の思ひをなし、乗替〔のりかえ〕の御馬とて、飼うたる馬に白鞍置いて十疋、白覆輪〔しろぶくりん〕の鎧十両引かれけり。
-------

尊氏から相談された直義は、起請文など別に心配する必要はない、「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開します。
そして、正室と子息を人質の取られようとも、子息は幼児だから万一のときには郎従が抱えてどこにでも逃がせるし、正室は執権・赤橋守時の妹だから幕府も手を出すはずがない、「大行は細謹を顧みず」(大事業を行うときは、些細な慎みは顧みない)と言われているように、起請文や人質といった小さなことは気に懸けず、当面は北条高時の命令にハイハイと従っておいて、上洛した後に大事業を行いましょう、と提案します。
これを聞いた尊氏は「至極の道理」だと感心して、直義の提案を了解します。
ま、私は基本的に『太平記』を大河ドラマのようなものだと考えるので、以上の全てが歴史的事実を反映しているとは思いませんが、起請文に関する直義の極めてドライな感覚は面白いですね。
黒田日出男氏は起請文の決まり文句である「身の八万四千の毛穴毎に」といった表現を生真面目に受け止めて「中世民衆の皮膚感覚と恐怖」という陰気な論文を書かれており(『境界の中世 象徴の中世』所収、初出は1982年)、もちろん黒田氏の認識が全くの的外れということではないとは思いますが、しかし、一方では中世にも起請文破りを何とも思わない人たちが大勢いたはずです。

『起請文の精神史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90dbd4d5b3b86a9902c3934f5a587e24

直義自身が本当に上記のような理屈を述べ、それを尊氏が「至極の道理」と認めたかどうかはともかくとして、『太平記』の作者がこのような場面を設定し、多くの読者・聴衆もおそらく、さほどの抵抗感もなく受け止めたであろうことは、中世人の宗教観を正確に認識する上で極めて重要な事実だと私は考えます。
ま、それはともかく、『難太平記』が記すように、仮に尊氏が名越高家討死で初めて後醍醐への「降参」を決めたとするならば、この場面もどのような記述になるのか。
北条高時から人質と起請文を要求された尊氏が、特に悩むこともなく淡々と高時の要求に応じました、とでも書くのでしょうか。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)

2020-10-29 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月29日(木)10時00分29秒

『難太平記』の足利尊氏「降参」という表現は清水説の当否を超えた重要な問題なので、少し詳しく検討します。
清水氏の現代語訳はなかなかの名訳だとは思いますが、念のため少し範囲を広げて『難太平記』の原文を紹介しておきます。
これは国会図書館デジタルコレクションで読めます。
リンク先ページの「コマ番号」に「351」を入れると『難太平記』の最初のページが出てきて、「353」に下記箇所があります。

『群書類従. 第拾四輯』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783

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六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。返々無念の事也。此記の作者は宮方深重の者にて。無案内にて押て如此書たるにや。寔に尾籠のいたりなり。尤切出さるべきをや。すべて此太平記事あやまりも。空ごともおほきにや。昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに。おほく悪とも誤も有しかば。仰に云。是は且見及ぶ中にも以の外ちがひめ多し。追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞有之由仰有し。後に中絶也。近代重て書継けり。次でに入筆者を多所望してかゝせければ。人高名数をしらず書り。さるから随分高名の人々も。且勢ぞろへ計に書入たるもあり。一向略したるも有にや。今は御代重行て。此三四十年以来の事だにも。無跡形事ども任雅意て申めれば。哀々其代の老者共在世に。此記の御用捨あれかしと存也。平家は多分後徳記のたしかなるにて。書たるなれども。それだにもかくちがひめありとかや。まして此記は十が八九はつくり事にや。大かたはちがふべからず。人々の高名などの偽りおほかるべし。まさしく錦小路殿の御所にて。玄恵法印読て。其代の事ども。むねとかの法勝寺上人の見聞給ひしにだに。如此悪言有しかば。唯をさへて難じ申にあらず。
-------

このように確かに『難太平記』の原文にも「降参」という表現はあるのですが、私はこれは「宮方深重の者」「此記は十が八九はつくり事にや」などと同じく、かなり極端な誇張表現ではないかと疑っています。
従来の学説は「降参」を文字通りに受け取っていますが、そこに根本的な誤解があるのではないか、というのが私見の出発点です。
このように考える理由として、「降参」を文字通り受け取ると、今川了俊が見たという『太平記』に記された尊氏の叛逆は相当間抜けな物語になってしまうことが挙げられます。
仮に尊氏が名越高家戦死を知って初めて後醍醐帝への「降参」を決意したとしたら、『太平記』は一体どのような物語になるのかを、西源院本の第九巻に即して少し丁寧に考えてみたいと思います。
『太平記』第九巻は、

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1 足利殿上洛の事
2 久我縄手合戦の事
3 名越殿討死の事
4 足利殿大江山を打ち越ゆる事
5 五月七日合戦の事
6 六波羅落つる事
7 番場自害の事
8 千剣破城寄手南都へ引く事
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と構成されていて、「足利殿上洛の事」は次のように始まります。(兵藤校注『太平記(二)』、p35以下)

-------
 先朝船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。
 その中に、足利治部大輔高氏は、所労の事あつて起居も未だ快からざりけるを、また上洛のその数に載せて催促度々に及べり。足利殿、この事によつて心中に憤り思はれけるは、われ父の喪に居して未だ三月に過ぎざれば、悲歎の涙乾かず。また病気身を侵して負薪の愁へ未だ止まざる処に、征伐の役に随へて相催す事こそ遺恨なれ。時移り事反して、貴賤位を易ふと云へども、かれは北条四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。われは源家累葉の貴族なり。王氏を出でて遠からず。この理りを知りながら、一度は君臣の儀をも存ずべきに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖によつてなり。所詮、重ねてなほ上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきものをと、心中に思ひ立たれけるをば、知る人更になかりけり。
-------

足利尊氏は既に第三巻に登場していますが、こちらは元弘元年(1331)九月、笠置攻めの応援部隊として上洛した軍勢リストに名前が出ているだけです。(兵藤校注『太平記(一)』、p151)
本格的な登場は第九巻ですが、尊氏は第九巻の冒頭から「先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきもの」と決意しています。
清水氏流に言うならば、まことに「室町幕府創世記」の出発点にふさわしい尊氏の断固たる決意表明ですが、仮に尊氏が名越高家討死で初めて後醍醐への「降参」を決めたとするならば、この部分はどのような記述になるのか。
「源家累葉の貴族」である自分が「人臣に下つて年久し」い「北条四郎時政が末孫」ごときにあれこれ命令されてくやしいけれども、「ひとへに身の不肖によつて」だから仕方ない、と嫌々出かけて行ったと記すのか。
それとも尊氏の内心は一切語らず、淡々と出発の事実だけを記すのか。
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兵藤説の歴史学研究者への影響─清水克行氏の場合(その2)

2020-10-28 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月28日(水)11時25分55秒

清水氏は兵藤説をベースに「『太平記』のなかの誤謬や誇張・歪曲も、単なる作者の不注意から来るのではなく、政治的な意図から発したものである可能性」があると考え、更に「『太平記』のなかの誤りや誇張に注目することで、逆に室町幕府の公的な立場や見解を読み取ることができるのではないだろうか」と想像される訳ですが、このような発想に基づいて清水氏が『太平記』の記事を具体的にどのように分析されているかを見て行きたいと思います。
まず「(1)西国への出陣要請と父貞氏の死」ですが、これは元弘三年(1333)三月、尊氏が父の喪中に幕府から出陣を要求される場面ですね。(p12)

-------
 その後の展開を考えると、この尊氏登場シーンはきわめて重要な意味をもつものであるが、実はここに一つの誤りがある。尊氏の父貞氏の死去は、正しくは二年前、元弘元年九月の出来事なのである(『尊卑分脈』『常楽記』)。尊氏は元弘元年九月にも西国出陣を命じられているから、たしかにこの一回目の出陣のときは貞氏の喪中であったことになる。そこで、通説では『太平記』の該当記述は、一回目の出陣と二回目の出陣を作者が混同したための間違いとされている。
-------

ところが「『太平記』以上に室町幕府の正当性を強調した史書『梅松論』」でも同様の間違いがあるので、清水氏は「この両書の誤謬を、単なる二人の作者の勘違い、あるいは一方から一方への誤伝として済ませることができるだろうか」として、

-------
 室町幕府創業者の行動を正当化しようとする両書の立場からすれば、尊氏の鎌倉幕府への叛逆は決して衝動的なものであったり、日和見的なものであってはならなかった。そこで、尊氏の叛逆をそれなりに理由あるものとするため、あえて一回目の出陣のときの事情を二回目の出陣のときの話として入れ替えることを図ったのではないのだろうか。
-------

と推定します。
そして更に、

-------
両書が同様に同じ間違いをしているところをみると、これは作者個人による過失というよりも、室町幕府によって意図的に流布された情報であった可能性すら考えられよう。
-------

と推測を重ねます。
まあ、軍事上の必要があれば個々の御家人の事情に関係なく出陣命令が出るのは武家の常識だったと思いますし、清水氏自身が『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)で明らかにされたように、貞氏と尊氏の関係は相当に微妙なものであったので、尊氏個人にとってすら喪中云々がそれほど重要であったとも思えません。
基本的に、私は小秋元段氏と同様に『太平記』全体をNHK大河ドラマみたいなものと考えるので、仮にこの誤りが『太平記』作者の意図的なものであったとしても、物語の雰囲気を盛り上げるためのちょっとした工夫程度のように感じます。
「室町幕府によって意図的に流布された情報であった可能性」となると、呉座勇一氏風に言えば「陰謀論」っぽい感じがしないでもありません。

小秋元段氏「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」(その2)

さて、二番目の事例に移ります。(p13以下)

-------
(2)六波羅攻撃と名越高家の戦死

 かくして、西上した尊氏は鎌倉幕府に叛き、京都の六波羅探題を攻撃する。この部分の『太平記』の記述に問題はないが、気になるのは、今川了俊の『難太平記』の次の記述である(以下、意訳)。
  「六波羅攻めのさいに、大将の名越が討たれたために、もう一方の大将である足利殿は朝廷側に
  降参したのだ」などと『太平記』には書いてある。かえすがえすも悔しいことだ。あの作者は朝
  廷側の者なので、武家の事情を知らないくせに無理してあんな本を書いたのではないか。まった
  くバカげた話だ。本当にこの部分は削除してほしい。
 尊氏が京都に向かうさい、幕府軍の大将は名越高家と尊氏の両名だった。ところが、一方の名越は京都郊外の久我縄手(京都市伏見区)で赤松軍と遭遇し、あっけなく戦死してしまう。その後、尊氏は朝廷側に寝返るわけだが、この間の経緯を『太平記』は、名越の戦死により力を落とした尊氏が朝廷側に「降参」したと表現しているというのだ。当然、今川了俊の立場としては、こんな屈辱的な記述を見逃すことはできず、『太平記』を感情的になって論難しているわけである。
 ところが、現存の『太平記』諸写本のどれを見ても、尊氏の裏切りの経緯をそのような事実関係で書いているものは存在しない。すでに述べたとおり、尊氏は鎌倉を発つときから裏切りの決意を固めていたことになっているのである。どうやら了俊の怒りなどをふまえて、現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい。
-------

うーむ。
『難太平記』の当該記述については今までの投稿でも何回か触れてきましたが、本当に謎が多いですね。
『難太平記』の成立は応永九年(1402)ですが、今川了俊は嘉暦元年(1326)生まれなので、この時点で七十七歳であり、相当に高齢です。
従って「降参」云々もちょっとボケが入っている可能性が一応は考えられますが、しかし『難太平記』の記述は全体的に極めて明晰であって、了俊の思考力・記憶力に顕著な減退の気配は伺えません。
とすると、了俊の見た『太平記』には確かに「降参」云々の記述があったと考えるのが自然ですが、そうだとすれば「降参」云々の箇所だけではなく、それ以前の尊氏に関する記述も全面的に現存の諸本と違う内容にならざるを得ません。
つまり、「現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい」という清水氏の推測が正しいのであれば、応永九年(1402)以降に巻九には極めて大規模な改変がなされたことになってしまいます。
この点は重要なので、次の投稿で改めて検討します。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
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兵藤説の歴史学研究者への影響─清水克行氏の場合(その1)

2020-10-27 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月27日(火)11時18分32秒

兵藤説が歴史学研究者に与えた影響を見るために、清水克行氏の「初代足利尊氏─初代将軍の神話と伝説」(『室町幕府将軍列伝』、戎光祥出版、2017)も少し検討しておきます。

-------
日本史上類を見ない、強烈な個性の将軍たち!! 頻発する将軍の暗殺、更迭、京都からの追放。波瀾万丈な将軍たちの生涯とは裏腹に、なぜ室町幕府は200年以上もつづいたのか!? 数々のエピソードから各将軍の人間性に迫り、新たな時代像を切りひらく! 付録として花押一覧、墓所・供養塔一覧を掲載。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/370/

この論文の構成は、

-------
 不当にマイナーだった存在
一、太平記の虚像と実像
 「室町幕府創世記」としての太平記
(1)西国への出陣要請と父貞氏の死
(2)六波羅攻撃と名越高家の戦死
(3)中先代の乱と征夷大将軍就任・「尊氏」改名
(4)尊氏決起
(5)新田義貞と足利直義
(6)武蔵野合戦
二、記憶のなかの足利尊氏
 諸家に伝わる尊氏伝説
 『源威集』のなかの尊氏
 "武家の棟梁"のイメージ
-------

となっていて、普通の論文の「まえがき」に相当する「不当にマイナーだった存在」の最後に、清水氏の問題意識が次のように記されています。(p10以下)、

-------
 そもそも、従来の歴史学では、「神話」や「伝説」は史実に迫るための雑音や不純物と考えられ、それ自体を研究対象としようという姿勢はなかなか成熟しなかった。しかし、近年では文学研究との協働により、「神話」や「伝説」のもつ歴史性に注目が集まっており、それ自体を分析対象としようという気運も高まっている。本章では、そうした成果に学びながら、まずは『太平記』を例にして尊氏の事績がどのように神話化されたのかを考え、ついで諸家に伝わる尊氏伝説に注目して、伝説を材料にして史実の尊氏像に迫ってみたい。
-------

そして「一、太平記の虚像と実像」の冒頭に、

-------
「室町幕府創世記」としての太平記

 足利尊氏を語るとき、それを抜きにして語ることのできないのが、軍記『太平記』である。とはいえ、『太平記』には文学作品特有の史実の誤りや誇張・歪曲が多く含まれることから、近代歴史学の勃興期には「太平記ハ史学ニ益ナシ」(久米邦武)とまでいわれ、歴史資料としての利用は長く慎重になされてきた。実際、以下に述べるように、尊氏一人の記述を見ても、そこに明らかな誤りを見つけるのは比較的容易である。しかし、近年、『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与していたことが指摘され、いわば室町幕府の準正史、「室町幕府創世記」としての性格をもつことが明らかにされている。
 だとすれば、『太平記』のなかの誤謬や誇張・歪曲も、単なる作者の不注意から来るのではなく、政治的な意図から発したものである可能性も出てくるだろう。私たちは『太平記』のなかの誤りや誇張に注目することで、逆に室町幕府の公的な立場や見解を読み取ることができるのではないだろうか。そこで、まずは史実との相違に注意して、『太平記』のなかでの尊氏の描かれ方を見ていくことにしよう(以下、断らない限り『太平記』は、よく古態を残しているとされる西源院本を利用する)。
-------

とあって(p11以下)、「『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与」、「室町幕府の準正史」という表現から、清水氏が兵藤裕己氏の直接的な影響を受けていることは明らかですね。
末尾の「主要参考文献」にも『太平記<よみ>の可能性』が挙がっています。
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「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(by 小秋元段氏)

2020-10-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月26日(月)16時45分10秒

兵藤裕己氏と呉座勇一氏のほのぼの対談を読んだ後、私は清水克行氏の「初代足利尊氏」(『室町幕府将軍列伝』、戎光祥出版、2017)に「近年、『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与していたことが指摘され、いわば室町幕府の準正史、「室町幕府創世記」としての性格をもつことが明らかにされている」(p11)とあるのに気づいて、清水氏も『太平記』の基本的性格については兵藤説完全支持であることを確認しました。
また、亀田俊和氏も『難太平記』の『太平記』に関する記述については基本的に兵藤説を支持されているようで、兵藤説の歴史学研究者への浸透度はすごいですね。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

兵藤氏の出世作『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ、1995)を見ると兵藤氏が網野善彦氏の多大な影響を受けていることが分かりますが、最近は歴史学では網野説批判が強く、兵藤説は梯子をはずされたような格好に見えます。
それなのに、網野批判の急先鋒の一人である呉座氏を始め、中世史研究をリードする歴史学研究者の多くが兵藤説に甘いのは何故なのか。
これは私にはちょっとしたミステリーなのですが、歴史学での高評価に対し、国文学の世界では兵藤説の評判はそれほどでもないように思われます。
この点、小秋元段氏の「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(『日本文学研究ジャーナル』第11号、2019年9月)が参考になるので、少し引用してみます。
まず、この論文の趣旨ですが、小秋元氏は冒頭に、

-------
 一九九九年七月刊行の日本文学研究論文集成『平家物語 太平記』(佐伯真一・小秋元段編、若草書房)末尾の「解説」において、筆者は一九八五年前後を一つの画期と見なし、それ以降、十三、四年間の『太平記』研究の来歴をまとめた。これを受け、本稿では九九年以降、二十年の動向を振り返りたい。【後略】
-------

と記されています。
全体の構成は、

-------
一、『太平記』とはいかなる作品か
二、『太平記』成立の文学的環境(一)─漢籍受容を中心に─
三、『太平記』成立の文学的環境(二)─和歌受容、史的背景を中心に─
四、諸本研究の進展
五、享受史研究の進展
六、日本語学的研究の可能性─むすびにかえて─
-------

となっていますが、私が興味を惹かれるのは第一節です。(p31)

-------
一、『太平記』とはいかなる作品か

 『太平記』をいかなる作品ととらえ、いかに評価するかという問題は、永積安明、続日本古典読本『太平記』(日本評論社、48年)以来、『太平記』研究の中心的テーマであった。戦乱を描いていながら「太平記」と名乗ること、「序」の政道論と「北野通夜物語」の因果論との矛盾、唐突な終わり方等々、『太平記』には作品をとらえるうえで課題となる点が少なくない。そして、この作品をとらえるための前提には、『太平記』固有の成立過程の問題があった。恵鎮によって足利直義のもとにもたらされた本が、直義や玄恵のもとで修訂される。その作業は中絶したあと、再び書き継がれる。完成期の『太平記』の作者には小嶋法師なる名も伝えられる。このようにして成立した『太平記』には、各過程の主題・構想・思想・意図が重層的に残存し、それが作品世界を複雑なものにしていると考えられてきた。したがって、『太平記』をとらえるにあたっては、成立論や作者論をもとに構想や思想を論じるという手法がとられる傾向があった。
-------

いったん、ここで切ります。
細かいことですが、小秋元氏は「完成期の『太平記』の作者には小嶋法師なる名も伝えられる」と書かれているので、『洞院公定日記』で「太平記作者」「小嶋法師」が死去したとされる応安七年(一三七四)四月の段階で既に『太平記』が完成していた、と考えておられるようですね。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63132f0b57a404768dfb1b07b436cd82

-------
 だが、現存本から各成立過程の古層を探ることは容易でない。私たちが手にしているのは現存本の本文だけで、恵鎮が直義のもとへ持参した段階の本文も、直義のもとで修訂された段階の本文も残ってはいないからだ。よって、成立論・作者論より類推される古層を現存本から透視し、各過程の『太平記』像をとらえる手法がとられたわけだが、それは聊か冒険的な試みを含むものであった。あくまでも現存するのは完成期の本文に過ぎないことに加え、成立・作者を論じるには資料があまりに少ないためだ。いきおい憶測が入りこみ、主観を交えた『太平記』像が構築される。そのようになることへの恐れからか、今期は成立過程を視野に入れ、『太平記』とはいかなる作品かを論じた成果は多くなかった。
-------

「成立論・作者論より類推される古層を現存本から透視し、各過程の『太平記』像をとらえる手法」の典型が兵藤説ですね。
兵藤氏は『難太平記』から三段階説・幕府「正史」説を導き、第一段階では「後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記」として「それなりに首尾一貫」していたが、第二段階で「足利政権周辺」の後醍醐への否定的評価が「混在」し、更に第三段階で後醍醐「怨霊化」などの「加筆・改訂」がなされた、と考えておられます。
しかし、そのように第一段階の「原太平記」、第二段階の改訂版「原太平記」を「透視」しようとする「聊か冒険的な試み」は、「あくまでも現存するのは完成期の本文に過ぎないことに加え、成立・作者を論じるには資料があまりに少ないため」、結局は「憶測」「主観を交えた『太平記』像」に止まることになり、後続の研究者にとって検証は不可能です。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

ということで、この後、小秋元氏は和田琢磨氏の「功績者尊氏像の形象法」(『『太平記』生成と表現世界』新典社、15年。初出、13年)や「武家の棟梁抗争譚創出の理由」(同所収。初出、04年)や市沢哲氏の「『難太平記』二つの歴史的射程」(『文学』隔月刊3-4、02年)などに言及されますが、いずれも兵藤説を補強するような方向での研究ではないようですね。
さて、では現在はどのような研究がなされているのか。(p32)

-------
 『太平記』の矛盾する叙述を成立過程をたどって分析する立場がある一方で、現存本を対象に矛盾を矛盾としてとらえる立場も存在する。大津雄一「『太平記』の知」(『中世の軍記物語と歴史叙述』竹林舎、11年)は、『太平記』における論争の場面がおびただしい知を動員しつつも、結局のところ、有効な結論を導き出せずにいることを指摘する。『太平記』にとっての知は、世界を一つの価値観にまとめあげるものでは決してなく、むしろその多声性をはらむ点に特徴があるという。大津のこうした指摘は、『太平記』のなかに一つの筋を見いだそうとする従来の構想論への批判でもある。
-------

大津論文は未読ですが、「『太平記』における論争の場面」とは、具体的には「北野通夜物語」(西源院本では巻三十五「北野参詣人政道雑談の事」)のことでしょうね。
大津氏が兵藤氏の好む「多義性」ではなく「多声性」という表現を使っておられることは極めて重要と思われます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b

この後も多くの論文が紹介されていますが、煩瑣になるので省略します。
結局、兵藤説は永遠の「不可知論」「水掛け論」であり、出発点と終点が同じ場所の循環論なので、後続の研究が生まれる可能性は最初から断たれているように感じます。
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史料編纂所蔵の西源院本『太平記』は「きわめて精確な影写本」なのか。

2020-10-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月26日(月)10時53分47秒

先日、ツイッターで松尾葦江氏の下記ブログ記事を知りました。

-------
和田琢磨さんの「西源院本『太平記』の基礎的研究ー巻1・巻21の書き入れを中心にー」(「国文学研究」190)という論文を読みました。西源院本ははやくから『太平記』の古態本として重んじられてきました。昭和4年に火災に遭い、一部が読めなくなり、忠実な写本といわれる史料編纂所の「影写本」(大正8年写)で代用されてきました。最近出た岩波文庫の底本もそうです。
和田さんは、現在京博に寄託されている原本を調査し、史料編纂所の「影写本」はじつは臨模本で、しかも巻によって書写の態度が異なることを指摘しました。原本には多様な書き入れがあり、本文の書写とは別筆の墨、朱、見せ消ち、胡粉による塗りつぶし、異文表記、圏点など、殊に巻1と21に多いが、それらは必ずしも史料編纂所の「影写本」に忠実に引き継がれていない。本文の中に取り込まれて混態現象を引き起こしているもの、削除されてしまったものなどがあるとしています。その結果、原本の書き入れは南都本系統によるものであり、史料編纂所本によったのでは原本を再現することができなくなっていると指摘しました。最後に、使用可能な西源院本の本文は、織田本を底本として校訂を加えて作る必要があると提言しています。

https://mamedlit.hatenablog.com/entry/2020/04/25/231643

しかし、兵藤裕己氏校注の岩波文庫版『太平記』全六巻の各巻冒頭に掲示されている「凡例」を見ると、

-------
一、本書の底本には、京都の龍安寺所蔵(京都国立博物館寄託)の西源院本『太平記』を使用した。西源院本は、応永年間(十五世紀初め)の書写、大永・天文年間(十六世紀前半)の転写とされる『太平記』の古写本である(本書・第四分冊「解説」参照)。
一、西源院本は、昭和四年(一九二九)の火災で焼損しているが(第三十八-四十巻は焼失)、東京大学史料編纂所に、大正八年(一九一九)制作の影写本がある。本文の作成にさいして、龍安寺所蔵本、東京大学史料編纂所影写本を用い、影写本の翻刻である鷲尾順敬校訂『西源院本太平記』(刀江書院、一九三六年)、影写本の影印である黒田彰・岡田美穂編『軍記物語研究叢書』第一─三巻(クレス出版、二〇〇五年)を参照した。
-------

とあります。
「本文の作成にさいして、龍安寺所蔵本、東京大学史料編纂所影写本を用い」とあるので、この文章を素直に読めば、兵藤氏は京都国立博物館寄託の龍安寺所蔵本を実際に確認しているものと考えるのが自然です。
念のため、第四分冊の「解説」を見ると、

-------
 西源院本は、京都市右京区の臨済宗寺院、龍安寺の塔頭西源院に伝わった『太平記』の古写本である。はやくから『太平記』の古本として知られたこの本は、元禄二年(一六八九)成立の『参考太平記』の校異に用いられている。
 旧国宝(現在、重要文化財)の西源院本は、昭和四年(一九二九)の龍安寺の火災で焼損しているが(巻三十八─四十は焼失)、幸いなことに、大正八年(一九一九)に東京大学史料編纂所で制作された、きわめて精確な影写本がある。本書岩波文庫本『太平記』では、本文の作成にさいして(本文の作成・校訂の方針については、「凡例」参照)、龍安寺所蔵本(京都国立博物館寄託)、史料編纂所蔵影写本を用い、また影写本の翻刻である鷲尾順敬校訂『西源院本太平記』(刀江書院、一九三六年)、影写本の影印である黒田彰・岡田美穂編『軍記物語研究叢書』第一─三巻(クレス出版、二〇〇五年)を参照した。
 西源院本『太平記』を最初に本格的に調査した鷲尾順敬によれば、西源院本は応永年間に書写され、現存本の転写が行われたのは、大永・天文年間であるという。
 すなわち、西源院本本巻二十九の巻末には、歴代の幕府執事(管領)の就任年と辞任年が記されるが、その末尾にみえる「細川右京大夫道観」(俗名満元)については、応永十九年(一四一二)の就任年のみが記され、同二十八年の辞任年が記されない。このことから、鷲尾は、西源院本の書写時期を応永二十八年以前であるとした。
 また、現存の西源院本は、四人の合筆によって書写されており(高橋貞一は、五人の合筆とする)、その第一巻の書風について、龍安寺誌の『大雲山誌稿』は、龍安寺第十世大休宗休(一四六八-一五四九)の書写になる『西源録』と同筆であるとする。鷲尾によれば、そのことは現存する『西源録』の筆跡からも確認できるのであり、したがって西源院本は、室町初期の応永十八年から二十八年の間(一四一一-二一)に書写され、現存本は、大休宗休らによって大永・天文年間(一五二一-五五年)に転写されたという。
 みぎの鷲尾の考証には、今日まで大きな異論は出されていない。【後略】
-------

とあります。(p459以下)
兵藤氏は「幸いなことに、大正八年(一九一九)に東京大学史料編纂所で制作された、きわめて精確な影写本がある」としているので、龍安寺所蔵本(京都国立博物館寄託)と史料編纂所蔵「影写本」を実際に比較し、史料編纂所蔵「影写本」は「きわめて精確」だと判断されたものと考えるのが自然ですが、これと「(和田琢磨氏が)現在京博に寄託されている原本を調査し、史料編纂所の「影写本」はじつは臨模本で、しかも巻によって書写の態度が異なることを指摘」云々との矛盾はどう考えるべきなのか。
和田琢磨氏の「原本には多様な書き入れがあり、本文の書写とは別筆の墨、朱、見せ消ち、胡粉による塗りつぶし、異文表記、圏点など、殊に巻1と21に多いが、それらは必ずしも史料編纂所の「影写本」に忠実に引き継がれていない。本文の中に取り込まれて混態現象を引き起こしているもの、削除されてしまったものなどがある」といった指摘は、原本と史料編纂所の「影写本」の些末な異同を大袈裟に言い立てているだけなのか。
まあ、和田論文を実際に読まないと何とも言えませんが、岩波文庫版の西源院本『太平記』を参照していれば大きな間違いは生じないだろう、と何となく思っていた私にとってはけっこう重大な問題なので、ちょっと留意しておきたいと思います。
なお、第四分冊の「解説」の構成は既に紹介済みです。

兵藤裕己氏「『太平記』の本文〔テクスト〕」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db63ea4c3d8fad2ca351f503f523a7d5
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)

2020-10-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月24日(土)21時44分47秒

数回のつもりで始めた兵藤・呉座対談の検討、ずいぶん長くなってしまいましたが、これが最後です。
前回投稿で引用した部分に続けて、兵藤氏が水戸光圀の『大日本史』や由井正雪などに言及し、「『太平記』の多義性というかテクストの重層的なあり方が、日本の近世・近代の政治史をつくりだしたようなところがある」という、兵藤著の読者にはお馴染みの議論をすると、呉座氏が「おっしゃる通りですね。【後略】」と受けます。
そして、兵藤氏が久米邦武の論考「太平記は史学に益なし」に「太平記の流毒」という表現があることを紹介し、久米の「太平記の流毒」を歴史学から遠ざけようとする「使命感」を論ずると、呉座氏が、

-------
呉座 久米事件以降のアカデミズム史学はその傾向がより顕著ですね。ただ、遮断してしまえば、アカデミズム史学のなかは安全、安心かもしれませんが、その外はどうすることもできないわけです。だから南北朝正閏問題などがどんどん出てきて、最後は「楠公精神だ!」という玉砕賛美の流れになってしまいます。アカデミズム史学がイデオロギッシュな物語から距離を置いても、外側の世界は結局『太平記』によって埋め尽くされてしまう。それはけっこう現代的な問題でもあるかな、と思います。
 『太平記』には、通俗的な歴史小説の原点のような性格があります。日本史学、歴史学で研究されている内容は、やはり一般の方にはあまり伝わっておらず、一般の人たちがどこで歴史を学び影響を受けているかというと、やはり司馬遼太郎らの歴史小説や大河ドラマなどになると思います。
 「太平記は史学に益なし」といって遮断したとしても、物語的な歴史観によって学界の外堀を埋められてしまう図式・構図は、長いあいだずっと変わっていないのかもしれません。
-------

と応答します。(p39)
このあたり、近年、「陰謀論」との戦いを繰り広げておられる呉座氏にとっては深刻な危機感の反映なのかもしれませんが、正直、私などには呉座氏の危機感があまり理解できず、アツモノに懲りてナマスを吹いている人を眺めるような若干の滑稽感すら感じます。

呉座勇一の直言「再論・俗流歴史本-井沢元彦氏の反論に接して」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74400
「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65110

ま、それはともかく、この後、

-------
兵藤 アカデミズム史学の外側で、『太平記』的な「物語」はどんどん増殖して、社会に甚大な影響を与えてしまうと。

呉座 与えてしまうわけです。そういう意味で、手を付けなければいという問題ではありません。近づくと危険なので、敬して遠ざけるようなところがずっとあったような気がしますが、やはり歴史学もきちんと『太平記』について語るべきだと思います。

兵藤 そうですね。今日は、呉座さんの歴史学の視点をとおして、たいへん刺激的で有意義な対談ができたと思います。ありがとうございました。
-------

ということで、年齢差三十歳の二人の対談は大団円を迎えます。
兵藤氏はマルクス主義の歴史にやたら詳しい、国文学の世界では異端的な「社会派」であり、呉座氏も近年「社会派」への道を歩まれているようなので、二人はとても気が合ったみたいですね。
さて、私も二人の対談を検討する過程で、ある程度自分の意見を言ってきたつもりですが、『太平記』が「複数の異質な成立段階を抱えこんで」いるがゆえに「テクストは重層的・多義的で、さまざまな読みを許容してしまう」(p38)という、兵藤氏の議論の出発点であり終点でもある論点については正面から批判はしてきませんでした。
詳しい議論は後で行いますが、私は巻二十七「雲景未来記の事」に登場する「愛宕山の太郎坊」に倣って「高見の見物史観」(仮称)というものを提示したいと思っていて、『太平記』の「重層性・多義性」を兵藤氏とは別の立場から論証するつもりです。
即ち、『太平記』は別に「複数の異質な成立段階を抱えこんで」はいないけれども、その作者は幕府に政治的・経済的に依存しない知識人の集団であって、それぞれ異なる専門分野と政治的立場で知識・経験を積んだ複数の知識人が自身の歴史観を率直に述べ、それらを無理に統一しようとしていない、と仮定します。
複数の素材をじっくり煮込んでドロドロにしたシチューのような料理ではなく、それぞれの素材の良さをそのまま生かしたサラダボウルのようなイメージですね。
このように仮定すれば、『太平記』は自然に「重層的・多義的」になり、「さまざまな読みを許容してしまう」とともに、相互に矛盾・対立があろうとも全然オッケーということになります。
ある人は幕府の要人を誉め、別の人はその悪口を言い、ある人は南朝を誉め、別の人は悪口を言う、といった具合いに、結果的に全方位的に悪口を言うことも可能となります。
従って、呉座氏の「義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか」(p34)や、「少なくとも今残っている『太平記』のテクストを見ると、結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります(笑)。すべてを批判しているという意味で公正中立と言えるかもしれません。ともあれ、そういう書きぶりが、特定の視点に立っている感じを読者に与えません。南朝も駄目、北朝も駄目、幕府も駄目、みんな駄目、という評価になっていることをどう捉えたらいいのでしょうか」(p35)といった「素朴な疑問」も解消されることになります。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その9)(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その16)

2020-10-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月24日(土)10時50分32秒

少し戻りますが、兵藤氏は「怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観」、呉座氏も「怨霊が大活躍する第三部は、もう本当に訳がわかりません(笑)」(p37)などと言われています。
しかし、『太平記』の怨霊エピソードはそんなに難解ですかね。
「怨霊史観」という表現は、当時の人々が本当に怨霊を恐れていたことを前提としているように思われますが、そうでもないなと思わせる話が『太平記』にはあります。
例えば巻三十四の「吉野御廟神霊の事」では、延文五年(1360)五月頃、南朝への幕府側の厳しい攻勢が続く中で、

-------
 ここに、二条禅定殿下の候人にてありける上北面〔しょうほくめん〕、御方の官軍かやうに利を失ひ、城を落とさるる体〔てい〕を見て、敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、わが身も今は髻〔もとどり〕切つて、いかなる山林にも世を遁ればやと思ひて、先づ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てて、主君に離れまゐらせ、この境ひを立ち去る事の悲しさよ、せめては今一度、先帝の御廟に参りて、出家の暇〔いとま〕も申さん
-------

ということで(兵藤校注『太平記(五)』、p329以下)、二条師基の家来であった上北面が、たった一人で後醍醐帝の御廟へ参り、「終夜〔よもすがら〕、円丘の前に畏まつて、つくづくと憂き世の中のなり行く様を案じ続」けている中に疲れて少しまどろむと、御廟が振動します。
そして、

-------
 暫くあつて、円丘の内より、誠に気高げなる御声にて、「人や候ふ、人や候ふ」と召されければ、東西の山の峰より、「俊基、資朝、これに候ふ」とて参りたり。この人々は、君の御謀叛を申し勧めたりし者どもなりとて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて工藤次郎左衛門尉に斬られし人々なり。貌〔かたち〕を見れば、正しく昔見たりし体にてはありながら、面〔おもて〕には朱を差したるが如く、眼〔まなこ〕の光り耀いて、左右の牙〔きば〕針を立てたるやうに上下に生ひ違ひたり。その後、円丘の石の扉を押し開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞竜〔こんりょう〕の御衣を召し、宝剣を抜いて御手に提〔ひっさ〕げ、玉扆〔ぎょくい〕の上に座し給ふ。この御貌も、昔の龍顔には替はつて、怒れる御眸〔まなじり〕逆に裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉羅刹の如し。誠に苦しげなる御息をつかせ給ふ度ごとに、御口より炎ばつと燃え出でて、黒煙〔くろけぶり〕天に立ち登る。
-------

ということで、何とも恐ろしい容貌の後醍醐帝が日野俊基・日野資朝に「君を悩まし、世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せ付けて罰すべき」と勅問すると、俊基・資朝は、「この事は、すでに摩醯首羅王〔まけいしゅらおう〕の前にて議定あつて、討手を定められ候ふ」と答えます。
そして、後醍醐帝が重ねて「さて、いかに定めたるぞ」と問うと、「今南方の皇居を襲はんと仕り候ふ五畿七道の朝敵ども」は楠木正成の担当、二木義長は菊池武時の担当、細川清氏は土居・得能の担当、「東国の大将にて罷り上つて候ふ畠山入道道誓」は「殊更瞋恚〔しんい〕強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興」の担当との返事があります。
もちろん楠木正成・菊池武時・新田義興らはこの時点でみんな死んでいて、それぞれの怨霊が「討手」となる、という話ですね。
この後、「主上、誠に御快〔こころよ〕げに打ち咲〔え〕ませて、「さらば、やがて年号を替へぬ先に、疾〔と〕く疾く退治せよ」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見まゐらせて、夢は忽ちに醒めにけり」と続きます。
さて、こうして長々と怨霊話が続いた後、どのような展開になるかというと、

-------
 上北面、この示現に驚いて、吉野よりまた観心寺に帰り参り、内々人に語りければ、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」とて、さして信ずる人もなかりけり。
-------

ということで、拍子抜けするほどあっさり終わってしまいます。
多くの人は後醍醐帝が登場する怨霊譚を、あってほしい事を夢に見ただけ、という何とも合理的な夢解釈で切って捨てた訳ですね。
もちろん、『太平記』の多くの場面では、この種の怨霊エピソードの後、みんなそんな話は信じなかった、などといったコメントは付されませんが、しかし、それは人々が怨霊話を信じたかどうかとは別問題です。
巻二十の「結城入道堕地獄の事」や巻二十四の「正成天狗と為り剣を乞ふ事」など、『太平記』の怨霊話はどれも念入りに作られた面白い話で、多くの人がこの種の怪談をエンターテインメントとして楽しんだ、と考えることも十分に可能であり、むしろ、こうした話を当時の人々がみんな信じ込んでいたと思うのは莫迦げている感じがします。
歴史研究者では、この種の怨霊話をまともに信じ込んでいる人の代表は山形大学名誉教授の松尾剛次氏で、松尾氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』(中公新書、2001)は、恵鎮周辺の人脈の分析などそれなりに鋭い指摘もあることはあるのですが、全体的にはかなり莫迦っぽい本ですね。

-------
足利尊氏や新田義貞、楠木正成ら名だたる部将が活躍する『太平記』。しかしこの名高い戦記物がめざしたのは、英雄譚と言うよりも、南北朝動乱を生きた、名もなき人々への鎮魂と救済ではなかったか。怨霊の跋扈する、不条理にも見える物語世界が内包する『太平記』の精神とは。また、登場人物たちの体現する儒教的道義論や因果応報論が担ったものとは何なのか。単なる戦記物の枠を超えた『太平記』の世界への招待。

http://www.chuko.co.jp/ebook/2013/07/514513.html
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その15)

2020-10-23 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月23日(金)12時58分46秒

呉座氏の「『太平記』が単純に、後醍醐の物語や源平交替の物語のような形できれいにまとまっていたら、もしかしたらここまでの影響を後代に与えなかったかもしれませんね」という発言に対し、兵藤氏は次のように応答します。(p38)

-------
兵藤 『太平記』は、複数の異質な成立段階を抱えこんでいますから、テクストは重層的・多義的で、さまざまな読みを許容してしまう。『平家物語』でしたら、テキスト【ママ】の一義的な読みを前提とした「平家物語史観」という言葉は、条件付きでしたら成り立ちます。しかし、複数の史観が輻輳・混在している『太平記』では、一義的な読みが成り立たない。一つの史観でくくるのは無理ですね。
-------

うーむ。
結局、兵藤説の核心は成立に関する三段階説ですが、呉座氏も小見出しの九番目、「『太平記』成立の三段階」の冒頭で、

-------
呉座 最近の国文学界では、「『太平記』は室町幕府の正史」という兵藤さんの説に対する批判も出ていますが、円観(恵鎮)・玄恵─小島法師といった関与者(知識人─語り手)の重層性(身分差)が、『太平記』の重層性・多様性を形作ったという点が兵藤説の核心であると私は思っています。要するに、「あやしき民」、卑賤の物語僧が関わったことで、源平交替史観といった大きな枠組みに収まりきらない語りが生まれる。兵藤さんが重視しているのは「室町幕府の正史」うんぬんではなく、むしろそこから逸脱している部分ですよね。そして、そうした逸脱は『太平記』が段階的に成立したこととも関連がある。現存史料では決着のつかない問題だと思いますが、『太平記』の成立が段階的だ、ということと作者の問題について、改めてお考えを聞かせていただけますか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

と言われていて、他の発言を見ても、三段階説には納得されているようですね。
さて、私は兵藤説の弱点のひとつは作者像の分析が弱いことではないかと思っています。
兵藤氏は妙に身分の低い芸能者の役割を強調されますが、素直に『太平記』の文章を見れば、作者が極めて高度な教育を受けた相当の教養の持ち主であることは明らかだと思います。
呉座氏も「「あやしき民」、卑賤の物語僧が関わったことで、源平交替史観といった大きな枠組みに収まりきらない語りが生まれる」などと兵藤説を高く評価されますが、高度な教育を受けていない階層の人が本当に『太平記』の本文に関与できたのか。
成立当初の『太平記』は、書物としてよりも、むしろ聴衆を前にしての語り物として世に広まったので、「卑賤の物語僧」が『太平記』を語る際にそれなりの改変をしたようなことはあったのでしょうが、それはあくまで付随的な役割であり、『太平記』の本文自体は高度の教育を受けた知識人が担ったものと考えるのが自然です。
具体的には「北野参詣人政道雑談の事」(北野通夜物語)に登場する三人、即ち「古へ関東の頭人、評定衆に連なりて、武家の世の治まりたりし事どもをさぞ偲ぶらんと覚えて、坂東声なるが、年の程六十余りなる遁世者」、「今朝廷に仕へながら、家貧しく身豊かならず、出仕なんどをもせず、徒らなるままにいつとなく学窓の雪に向かひて、外典の書に心をぞ慰むらんと覚えて、体なびやかに、色青ざめたる雲客」、そして「何がしかの僧都、律師なんど云はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を挑げんと、稽古の扉を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く痩せたる法師」といった人々ですね。
この三人は、若干の戯画化を伴ってはいるものの、『太平記』作者の実像を相当に反映しているのではないかと思われます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f

また、兵藤説に従えば、『太平記』は恵鎮が直義に「原太平記」を持参した1340年代から、応永九年(1402)に書かれた『難太平記』が言うところの「近代」、即ち兵藤説によれば南北朝の合一(1392)以降の足利義満の全盛時代まで延々書き継がれたことになるので、作者は二世代では足らず、おそらく三世代になったはずであり、作者像はいっそう複雑化しますね。
南北朝期は激動の時代なので、それだけの世代差があれば文体や記事内容にも相応の違いが出そうですが、兵藤説は永遠の「不可知論」、「水掛け論」なので、現在存在する古本系の諸本から世代間の差違を見分けることも実際上不可能です。
ま、それは兵藤説に従えば、という「条件付き」の話ですが、古本系の巻三十二に相当する巻だけが伝わる永和本の存在を考えると、永和本が書写された永和三年(1377)二月の時点で四十巻全て完成していた、『難太平記』に言う切り継ぎは完成後の僅かな変更だけ、と想定することもそれほど不自然ではありません。
そう考えれば『太平記』作者の世代はギリギリ一世代で済み、作者像もずいぶんシンプルになりそうですね。

兵藤裕己氏「『太平記』の本文〔テクスト〕」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08cde34f6467b40fc5afb2c868f48b53

そして、このようにシンプルに考えれば、兵藤氏のように「乱世の歴史を書き継ぐ『太平記』作者たち」の「史官意識というか、乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」といった、『太平記』の本文からは導き出せない過剰な想像も不要となります。
この「史官意識」云々は兵藤・呉座対談の中でも特別に変な感じがする部分ですが、読み返してみたところ、兵藤氏は、

-------
 その作者たち──具体的にどんな人たちをイメージしたらよいか、わたしにもまだよく分かりませんが、作者たちの共有した歴史家としての矜持のようなものが、乱世の歴史をともかくも書き継ぐという、一見不毛ともみえるモチベーションを支えたのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644

などと言われていて、作者像の弱さは認めておられるのですね。
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その14)

2020-10-22 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月22日(木)10時47分33秒

小見出しの十四番目、「『太平記』が放つ「流毒」」の続きです。
前回投稿で引用した発言を含め、この対談の中で兵藤氏は「天狗が予言した来世の未来記」である巻二十七「雲景未来記の事」に何度か言及されていますが、これは非常に面白いエピソードですね。
この話の位置は諸本によって若干の違いがありますが、西源院本では観応の擾乱の第一段階、足利直義が高師直を暗殺しようとして失敗、逆に師直が反撃して「御所巻」の事態となり、結局、直義が引退を余儀なくされ、直義側の上杉重能・畠山直宗が越前に流されて殺されるという話の後に登場します。
羽黒山の雲景という山伏が都に上って、天龍寺を見学しようと出かけたところ、途中で別の山伏に行き合い、「天龍寺もさる事なれども、それは夢窓の住所〔すみか〕にて、さしたる見所なし。われらが住む山こそ、日本無双の霊地にて侍れ。修業の思ひ出に、いざ見せ奉らん」(兵藤校注『太平記(四)』、p311)と言われて、愛宕山に行きます。
そして、更に愛宕山の「秘所」に案内されると、そこにはやたらと物知りの老僧がいて、この人は源頼朝・北条義時・後鳥羽院から北条高時・後醍醐天皇に至る時代の流れを滔々と弁じた後、後醍醐も「誠に堯舜の功、聖明の徳のおはせねば、高時に劣る足利に世をば奪われさせ給ひぬ」などと、仮に『太平記』が室町幕府の「正史」だとしたらとても許されそうもない過激発言をして、更に「持明院殿」、即ち北朝も「ひとへに幼児の乳母を憑〔たの〕むが如く、奴〔やっこ〕と等しくなりおはします程に、仁道の善悪これなく、運によつて形の如く安全におはしますものなり」などと切って捨てます。
そして、更に「三種の神器」に関する独自理論を展開した後、幕府の内訌が今後どのように展開するかを聞かれると、「天変はいかにもこの中にあるべし」(天がもたらす異変はまさしく近いうちに起こるだろう)などと不気味な予言をするものの、詳しい説明を避けたまま、「客来の事あり」などと言って消えてしまいます。
雲景が案内してくれた山伏に、あの人は誰なのかと聞くと、「今は何をか隠し奉るべき。世に人の持てあつかふ愛宕山の太郎坊にておはします。上座なりつる上綱は、諸宗の人集まり、徳業名望世に聞こえたる玄昉、真済、寛朝、慈恵、頼豪、仁海、尊雲等の高僧達よ。その上の座席に、玉扆〔ぎょくい〕を敷き並べたるこそ、代々の帝王、淡路の廃帝、後鳥羽院、後醍醐院、次第の昇進を遂げて悪魔王の棟梁となり給ふ、やんごとなき賢帝達よ」と言われます。
尊雲(護良親王)を含め、奈良・平安以来の一癖も二癖もある高僧や、「悪魔王の棟梁」となった天皇たちが軒並み天狗になって「愛宕山の太郎坊」を囲んでいて、特に後醍醐はけっこうな悪口を言われながら黙って聞いていたらしいこともちょっと面白いですね。
ま、この世界では、そのくらい「愛宕山の太郎坊」は偉いのだ、ということでしょうが。
さて、兵藤氏の発言を受けて、呉座氏は次のように応答します。(p37以下)

-------
呉座 兵藤さんも書かれていますが、新田・足利の武臣抗争史や源平交替史、あるいは後醍醐の一代記といった大きな物語が、最終的に無効化されていくのですよね。『太平記』作者が提示したかったはずの大きな物語は無効化され、むしろ楠木正成に代表される身分制相対化の論理が作者の意図を超えて後代に影響を与えた、というのが兵藤さんのご意見ですよね。この逆説的な享受史が『太平記』の魅力だと思います。由井正雪や、尊王攘夷運動に与えた影響について考えるときも、そう感じます。
 『太平記』が単純に、後醍醐の物語や源平交替の物語のような形できれいにまとまっていたら、もしかしたらここまでの影響を後代に与えなかったかもしれませんね。
-------

うーむ。
ここから先は、兵藤氏の『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)を未読の人には分かりにくい話が続きますが、同書を読むと兵藤氏が網野善彦氏の多大な影響を受けていることが分かります。
同書が出版された1995年というと、一般の歴史ファンの間ではまだまだ「網野史学」が絶賛されてはいましたが、歴史研究者の世界では網野氏は「壊れたテープレコーダー」ではないか、と揶揄する声も増え、その後、網野説を批判する個別研究が続々と蓄積されて、現在では「網野史学」に誤りの多いことが研究者の「共通理解」であり、従って兵藤説は既に梯子をはずされているように見えます。
そして、呉座氏などは網野批判の急先鋒の一人で、兵藤氏が「網野史学」経由で自身の楠木正成像の造型に利用している『峯相記』などは、呉座氏の研究で評価が一変していますね。
それなのに呉座氏の兵藤説に対する評価はずいぶん甘いように思われますが、それは何故なのか。

呉座勇一氏『戦争の日本中世史』
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その13)

2020-10-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月21日(水)12時25分28秒

小見出しの最後、十四番目の「『太平記』が放つ「流毒」」に入ります。
兵藤氏の「巻二十一の後醍醐の崩御記事でも、生前の事跡をたたえる一方で、その怨霊化を予感させるような臨終時の悪相を語ります。この臨終の悪相がそのまま第三部の怨霊史観の伏線になるわけですから、ここにも第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂がうかがえるかと思います」という発言を受けてのやり取りです。(p37)

-------
兵藤 源平交替とか源氏嫡流の「国争ひ」といった構想では処理しきれなくなった段階で、怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観が持ち出されます。

呉座 そうですね。怨霊が大活躍する第三部は、もう本当に訳がわかりません(笑)。結局、儒教的徳治思想でも仏教的因果論でも説明できなくなったから怨霊を持ち出してきたように感じます。

兵藤 そうだと思います。説明できないから、怨霊とか天狗とかの助けを借りる。「雲景未来記の事」も、天狗が予言した乱世の未来記です。そんな不可知論的な史観を展開する一方で、きわめて倫理的な時勢批判もする。そのアンバランスが面白いですね。
-------

うーむ。
「説明できないから、怨霊とか天狗とかの助けを借りる」という兵藤氏の認識が正しいのかはともかくとして、この種の現代人にとっては奇想天外・荒唐無稽なエピソードが登場するのは決して第三部に入ってからではありません。
第一部・巻五の「相模入道田楽を好む事」には極めて有名な天王寺の妖霊星の話が出てきます。
田楽好きの相模入道・北条高時が酔っぱらって「酔狂の余りに舞」っていたところ、

-------
いづくより来たるとも知らぬ新座、本座の田楽十余人、忽然として座席に連なつてぞ舞ひ歌ひける。その興甚だ尋常〔よのつね〕に優れたり。しばらくあつて、拍子を替へて囃す声を聞けば、「天王寺の妖霊星を見ばや」などぞ囃しける。或る官女、この声を聞いて、余りの面白さに、障子の破れよりこれを見たりければ、新座、本座の田楽と見えつる者、一人も人にてはなかりけり。或いは嘴〔くちばし〕勾〔まが〕りて鳶の如くなるもあり、(或いは身に翔〔つばさ〕あつて頭は山伏の如くなるもあり。)ただ異類異形の怪物〔ばけもの〕どもが、姿を人に変じたるにてぞありける。
 官女、これを見て、余りに不思議に思ひければ、人を走らかして城入道にぞ告げたりける。城入道、取る物も取りあへず、中門を荒らかに歩みける足音を聞いて、かの怪物ども、掻き消すやうに失せにけり。相模入道は、前後も知らず酔ひ伏したり。燈を明らかに挑〔かか〕げさせて、遊宴の座席を見るに、天狗の集まりけるよと覚えて、踏み汚したる畳の上に、鳥獣の足跡多し。城入道、暫く虚空を睨んで立つたれども、あへて眼に遮る物なし。やや久しくあつて、相模入道、驚き醒めて起きたれども、惘然として更に知る所なし。
-------

という話ですね。(兵藤校注『太平記(一)』、p241以下)
また、怪異譚というほどではありませんが、巻十には「天狗越後勢を催す事」という小ネタがあります。
巻十二の「宏有怪鳥を射る事」は、元弘四年、紫宸殿の上に怪鳥が夜毎に来て「いつまでいつまで」と鳴いたので、勅定を蒙った隠岐次郎左衛門尉宏有が射落としたという話ですが、これはかなり不気味な雰囲気が漂っていますね。
巻二十の「結城入道堕地獄の事」は更に本格的に不気味な話で、結城上野入道道忠の乗った船が伊勢国安濃津に吹き寄せられ、病気で臨終となった道忠が「かつぱと起きて、からからと打ち笑ひ、わななきたる声にて」、「わが後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善を致すべからず。称名読経の追費をもなす事なかれ。ただ朝敵の首を取り、わが墓前の前に懸けて見すべし」と言って死んだという前段があります。(兵藤校注『太平記(三)』、p396以下)
そして、「その比、所縁なりける山伏、武蔵の国より下総へ下る事」があって、その山伏が楼門の額に「大放火寺」と書かれた寺に泊ったところ、「夜半過ぐる程に、月俄かに掻き陰り、雨荒く、電〔いなびかり〕頻りにして、牛頭馬頭の阿放羅刹ども、その数を知らず、大庭に群がり集ま」って、一人の罪人を念入りにバーベキューにする様子が詳細に描かれ、山伏が「これは、いかなる罪人をかやうに呵責し候ふやらん」と質問すると、道忠が「阿鼻地獄へ落ちて、呵責せらるる」様子だと言われた、という話が続きます。
更に、第三部に入れるべきかに争いはありますが、巻二十四の「正成天狗と為り剣を乞ふ事」も極めて有名な怨霊譚ですね。
伊予国の大森彦七盛長の前に怨霊となった楠木正成が登場し、その際に「正成が相伴ひ奉る人は、先ず先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加へて七人なり。その外、数万人ありと云へども、泛々〔はんぱん〕の輩は未だ数ふるに足らず」(兵藤校注『太平記(四)』、p85)ということで、後醍醐天皇・護良親王・新田義貞以下、数万人の怨霊が総出演する華やかな怨霊スペクタクルです。
こうして『太平記』の怨霊・天狗エピソードを眺めてみると、兵藤氏の「源平交替とか源氏嫡流の「国争ひ」といった構想では処理しきれなくなった段階で、怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観が持ち出され」るという認識、そして呉座氏の「儒教的徳治思想でも仏教的因果論でも説明できなくなったから怨霊を持ち出してきた」という認識は、事実の認識として誤りではないかと思います。
怨霊・天狗は決して第三部だけで「大活躍」している訳ではなく、第一部・第二部でもしっかり「大活躍」していますね。
ただ、兵藤説においては、第一部・第二部での怨霊・天狗記事は「第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂」ということになるのかもしれませんが、そもそも兵藤氏の三段階説は後続の研究者が帰納的な方法により検証可能な理論ではなく、「不可知論」ないし「水掛け論」に過ぎません。
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)

2020-10-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月19日(月)13時02分20秒

「もともとは、ある程度特定の構想、特定の立場に基づいて作ろうとしていたけれど」、現実が「混沌として複雑化していった」ために、「単一の視点で語ることができなくなってああいう形になったのか」、それとも「そもそも作者が現実に対して冷めた見方をしていて、南朝であろうと北朝であろうと、美化せずにすべて批判していくという視点を意図的に採用したのか」、「その辺はどうなのだろう、と思ったりします」という呉座氏に対し、兵藤氏は次のように回答します。(p36以下)

-------
兵藤 段階的な成立の問題を考慮に入れる必要があるでしょう。『太平記』の「三十余巻」だか「二十余巻」だかを所持・持参した恵鎮は、北条邸跡に建立された鎮魂の寺院、宝戒寺の開山になっています。そんな恵鎮の経歴を考えると、彼の周辺で作られた「原太平記」は、後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記でしょう。実際、巻一冒頭は、後醍醐の果断な政治をたたえていますし、その英邁ぶりを「命世亜聖」、聖人に準じると評しています。後醍醐の崩御を語る巻二十一でも、「聖主神武の君」とその死を悼んでいます。

呉座 それが原『太平記』で、そこには後醍醐天皇鎮魂の物語としての、一定のまとまり、整合性があった、ということですね。

兵藤 そうだと思います。成立の第一段階で、恵鎮が持参した『太平記』は、それなりに首尾一貫していたはずです。しかし先ほども言いましたが、巻一冒頭は、後醍醐を賛美する一方で、「君の徳に違ひ」という矛盾した評価を下します。果断な政治をたたえる一方で、その政治手法は王道ではなく覇道だったと批判します。たぶん成立の第二段階、足利政権周辺の評価が混在しているのでしょう。
 巻二十一の後醍醐の崩御記事でも、生前の事跡をたたえる一方で、その怨霊化を予感させるような臨終時の悪相を語ります。この臨終の悪相がそのまま第三部の怨霊史観の伏線になるわけですから、ここにも第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂がうかがえるかと思います。
-------

うーむ。
兵藤氏は『難太平記』から三段階説・幕府「正史」説を導き、第一段階では「後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記」として「それなりに首尾一貫」していたが、第二段階で「足利政権周辺」の後醍醐への否定的評価が「混在」し、更に第三段階で後醍醐「怨霊化」などの「加筆・改訂」がなされた、と考える訳ですね。
このように兵藤氏は『難太平記』を出発点とする独自の演繹的手法によって、第一段階の「原太平記」、第二段階の改訂版「原太平記」、そして第三段階の再改訂版「原太平記」を想像される訳ですが、現実には、たとえ古本といえども「原太平記」らしきもの、改訂版「原太平記」らしきものは存在せず、内容的には大同小異の再改定版「原太平記」(=現在の古本系『太平記』)しか存在しないのですから、兵藤氏の想像の当否は誰も検証できず、結局は水掛け論となりそうですね。
さて、現時点において兵藤氏の『難太平記』解釈が研究者コミュニティの誰しも賛同する「共通理解」かというと、さすがにそんなことはなくて、『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)の評価は未だ固まっておらず、あくまで四半世紀前に突如として登場した新学説に止まっていると思われます。
学問の世界の時間の流れからすれば、四半世紀は決して長い期間ではなく、そして兵藤氏が自ら認めておられるように、「研究というのは多数決の問題ではないし、新しい研究者の説がつねに正しいとも言え」ない訳ですからね。(p35)
そして、そもそも『難太平記』が史料としてどれだけ信頼できるのか、という根本的な問題も存在します。
呉座氏と並んで南北朝期の研究をリードする亀田俊和氏は、『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、

-------
 『難太平記』によって尊氏が「弓矢の将軍」と評価され、直義については同書等の諸史料が「政道」の側面を強調していることも、二頭政治論の根拠によく出される。しかし軍事・警察を掌握しているのは直義であったから、少なくともこの時期においては「弓矢」さえも直義の専権であったと言わざるを得ない。
 『難太平記』の著者今川了俊は優れた歌人で、同書以外の著書も多く文筆に優れていたので、彼の証言は学術研究においても頻繁に引用される。しかし彼の活動期間は南北朝後期であり、先に見た足利家時置文の件などからも窺えるように、後世の結果論による誇張や潤色も多いようだ。原則として、彼の言ったことをあまり真に受けるべきではないと思う。
-------

と述べられています。(p70)
この評価は直接には「弓矢の将軍」云々に関するもので、同書「第四章 直義主導下における幕府政治の展開」の「1 宗教政策・文化事業」を見ると、亀田氏は『難太平記』の『太平記』に関する記述についてはそれなりに信頼されているようです。(p113以下)
しかし、疑問は残ります。
例えば『難太平記』には「六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり」(大将の名越高家が討たれたので、もう一方の大将の足利殿は先皇〔後醍醐天皇〕に降参されたと太平記に書かれている)とありますが、現存する『太平記』にはこのような記述は一切ありません。
今川了俊が見たという『太平記』は現存する古本系『太平記』のどれとも一致せず、今川了俊はいったい何を見て『太平記』の成立について語っているのかすらも分からない訳です。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

『難太平記』自体がその程度の不安定な史料であるにもかかわらず、兵藤氏は「恵鎮は、北条邸跡に建立された鎮魂の寺院、宝戒寺の開山になっています。そんな恵鎮の経歴を考えると、彼の周辺で作られた「原太平記」は、後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記でしょう」などと言われますが、恵鎮が後醍醐に「鎮魂の寺院」宝戒寺の開山となること命じられたからといって、なぜそれが後醍醐の「鎮魂の物語」を自ら作ることに結びつくのか、私には理解できません。
幕府から後醍醐の「鎮魂の寺院」の開山となることを命じられるのなら、まあ、僧侶の本業ということで一応の論理が通りそうですが、そちらは天龍寺が存在していて、恵鎮は鎮魂担当から外されていますね。
また、『難太平記』には「昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに」とあるだけで、恵鎮が「原太平記」に関与した程度、役割は不明です。
恵鎮がたまたまどこかで「原太平記」を見つけて、その内容をロクに確認もしないまま直義に持っていって、何じゃこれは、と怒られたのか(最弱パターン)、あるいは恵鎮が自分の所管する寺院に『太平記』編纂所を設けて、配下の僧侶に個別具体的な指示を与えて分担執筆させ、自身が編集者となったのか(最強パターン)。
まあ、直義は恵鎮に命令すれば一時的な差し止めは可能と判断したようですから、さすがに最弱パターンはないでしょうが、それ以上には恵鎮の関与の程度は全く不明と言わざるをえないですね。
総じて『難太平記』という不安定な史料に基づき、根拠の薄い想像を重ねる兵藤説は、砂上の楼閣とまでは言わないにしても、薄氷の上の論理だな、という感じがします。
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)

2020-10-18 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月18日(日)12時48分42秒

兵藤氏の発言に出てきた巻三十五の「北野参詣人政道雑談の事」(北野通夜物語)は、兵藤校注『太平記(四)』(岩波文庫、2015)で数えると合計38ページにも及ぶ、『太平記』全体の中でも屈指の長大かつ複合的なエピソードですね。
菅原道真を祀る北野天満宮で三人が語り合うという設定ですが、登場するのは「古へ関東の頭人、評定衆に連なりて、武家の世の治まりたりし事どもをさぞ偲ぶらんと覚えて、坂東声なるが、年の程六十余りなる遁世者」(p360)、「今朝廷に仕へながら、家貧しく身豊かならず、出仕なんどをもせず、徒らなるままにいつとなく学窓の雪に向かひて、外典の書に心をぞ慰むらんと覚えて、体なびやかに、色青ざめたる雲客」(同)、そして「何がしかの僧都、律師なんど云はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を挑げんと、稽古の扉を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く痩せたる法師」(同)です。
最初に「儒業の人かと覚しき雲客」(同)、即ち貧しい公家が、元弘以来三十年間も世が乱れているが、何故なのか、と問うと、鎌倉幕府の高官だったという坂東声の遁世者が、菅原道真を流罪にした醍醐帝が地獄で苦しむ話、明恵上人の北条泰時に対する助言と泰時の善政、出家後の北条時頼が全国を廻り、親族の横領に苦しむ地頭一族の尼を助ける話、そして青砥左衛門の廉直ぶり等を、合計19ページ分ほど語ります。
ついで「それがしも、今年の春まで南方に伺候して候ひしが、天下を覆されん事も、守文の道にも叶ふまじき程を至極見透かして」(p380)、遁世しようと京に戻ったという貧乏公家が7ページ分ほど語りますが、その大半が兵藤氏の採り上げた玄宗皇帝と「太史の官」の話です。
この公家が何故に「太史の官」を詳述したかというと、結局、南朝にはそうした立派な臣下も主君もいなかった、という苦い思い出を語るためで、兵藤氏の言う「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持」といったものは、少なくとも直接のテーマではないですね。
そして、三番目に「内典の学匠にてぞあらんと見えつる法師」(p386)が、「天下の乱をつらつら案ずるに、公家の御過ちとも、武家の僻事とも申し難し。ただ因果の感ずる所とこそ存じ候へ」(p386)として、目連尊者と釈尊のやり取りなどの話を11ページ分ほど語り、

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 かようの仏説を以て思ふにも、臣君を褊〔さみ〕し、子父を殺すも、今生一世の悪にあらず。武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶも、皆過去の因果にこそ候ふらめ」と語りければ、三人ともに、からからと笑ひけるが、晨朝の鐘の鳴りければ、夜もすでに朱の瑞牆立ち出でて、おのが様々に帰りにけり。
 これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑〔たの〕もしくこそ覚えけれ。
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という具合いに終わります(p396)。
さて、兵藤・呉座対談に戻ると、「太史の官」云々の兵藤氏の話に呉座氏は次のように応じます。(p36)

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呉座 結論が不明瞭な『北野通夜物語』が象徴するように、『太平記』作者の意図はつかみにくいですね。
 もともとは、ある程度特定の構想、特定の立場に基づいて作ろうとしていたけれど、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱を含め、内乱に次ぐ内乱が起こる。現実が構想を追い越してしまい、どんどん混沌として複雑化していった。それゆえに、単一の視点で語ることができなくなってああいう形になったのか。それとも兵藤さんが今おっしゃったように、そもそも作者が現実に対して冷めた見方をしていて、南朝であろうと北朝であろうと、美化せずにすべて批判していくという視点を意図的に採用したのか。その辺はどうなのだろう、と思ったりします。
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まあ、確かに三人がそれぞれ個別エピソードを一方的に語っただけで、それらを受けて互いに議論する訳でもないですから、呉座氏の言われるように「結論が不明瞭」はその通りですね。
ただ、最初から最後まで明るい話題は一切なく、「臣君を褊し、子父を殺す」、「武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶ」といった殺伐としたエピソードの連続の後で、「三人ともに、からからと笑」って帰り、「これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑もしくこそ覚えけれ」と妙に明るく終わるのは面白いですね。
なお、旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」を運営していた頃、私は『増鏡』に登場する北条時頼廻国伝説に興味を抱き、いろいろと調べたことがあります。
その際、『太平記』の「北野通夜物語」では、北条時頼ばかりか北条貞時も廻国修業を行っていて、しかも貞時が救済した相手が「久我内大臣」となっているのに驚き、もしかしたらこのエピソードは『増鏡』と『太平記』の関係を解く鍵になっているのではなかろうか、などと妄想したことがあります。
当時、私は『太平記』の諸本の違いなどは全く意識しておらず、旧サイトに掲載したのは長谷川端氏校注・現代語訳の小学館『新編日本古典文学全集』だったのですが、これは底本が天正本ですね。
そこには、

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 後の最勝恩寺貞時も、先縦を追つて、また修行し玉ひしに、その此久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ玉ひて、家領悉く収公せられ玉ひしかば、城南の茅宮に閑寂を耕してぞ隠居し玉ひける。貞時斗藪の次でにかの故宮の有様を見玉ひて、『何なる人の棲遅にてかあるらん』と事問ひ玉ふところ、諸大夫と覚しき人立ち出でて、しかじかとぞ答へける。
 貞時具に尋ね聞きて、『御罪科さしたる事にても候はず。その上大家の一跡、この時断亡せん事勿体なく候ふ。など関東様へ御歎き候はぬやらん』と、この修行者申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ、この御所の御様昔びれて、かやうの事を申せば、「さる事やあるべき。我が身の咎なき由を関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家この時亡ぶとも、如何でか臣として君の非を挙げ奉るべき。力なし、時剋到来歎かぬところぞ」と仰せられ候ふ間、御家門の滅亡この時にて候ふ』と語りければ、修行者感涙を押へて立ち帰りにけり。
 誰と云ふ事を知らざりしに、関東帰居の後、最前にこの事をありのままに執り申されしかば、仙洞大いに御恥あつて、久我の旧領悉く早速に還し付けられけり。さてこそこの修行者をば、貞時とは知られけれ。

http://web.archive.org/web/20150515190108/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-taiheiki-38-saimyoji.htm

という具合いに、久我家に極めて好意的な感動ストーリーが描かれていますが、岩波文庫版(西源院本)だと、そもそも北条貞時の廻国話自体が存在せず、従って「久我内大臣」も登場していません。
他の諸本ではどうなっているのか気になりますが、それが分かったところで、久我家寄りの感動ストーリーを誰が何時の時点で加えたのか、の解明までは難しそうですね。
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