学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その21)─坂井孝一氏は「消しゴムマジック」の名人

2023-10-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p181)

-------
 ただ、山田重忠は諦めていなかった。「慈光寺本」によれば、重忠は三百余騎を率いて東海・東山両道の合流地点である杭瀬河に向かったという。そこに武蔵七党(武蔵国を本拠として形成された七つの同族的武士団)の児玉党三千騎が攻め寄せた。重忠は「我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉、山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」と名乗りをあげ、「散々ニ切テ出、火出ル程」激しく戦った。あっという間に児玉党百余騎が討ち取られ、重忠勢も四十八騎が討たれた。その後も重忠は、敵が引いたらこちらも引き、敵が馬を馳せてきたらこちらも攻めるように指示を出し、「命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」と号令をかけて命の限り戦った。しかし、兵力の差はいかんともし難く、最後は都を指して落ちていった。かくして美濃の合戦は、わずか二日ほどで京方の大敗に終わった。
-------

杭瀬河合戦の場面の原文と拙訳は下記投稿を参照して下さい。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その51)─「杭瀬河コソ山道・海道ノタバネナレバ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a
(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6

坂井氏は「かくして美濃の合戦は、わずか二日ほどで京方の大敗に終わった」と書かれているので、山田重忠の杭瀬河合戦が六月六日の出来事だと考えておられることは明らかです。
『吾妻鏡』同日条にも、

-------
【前略】山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。【中略】官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「株河」が杭瀬河のことです。
そして、翌七日には「相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井両宿」とあって、北条時房・泰時以下の東山・東海道の軍勢は杭瀬河より西にある野上・垂井に移動していますから、杭瀬河合戦が六月六日の出来事であることは間違いありません。
しかし、坂井氏が引用する慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦は「承久三年六月八日ノ暁、員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各身ニ疵蒙ナガラ、院ニ参テ」尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告し、その報告を聞いた後鳥羽院が叡山に加勢を願うために御幸し、空しく帰って来た後の出来事となっています。
そして、宇治川合戦が存在しない慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦がその空白に置かれた「埋め草」になっています。
この間の事情を坂井氏は百も承知なのに、慈光寺本の引用に際しては何の留保もされません。
「海道大将軍」の場合、慈光寺本の引用そのものは正確ですが、こちらでは杭瀬河合戦について読者の誤解を誘う積極的な改変を行っていますね。
うーむ。
まあ、こちらも研究者としてはずいぶん危ない橋を渡っているような感じは否めないですね。
さすがに「詐欺師」とまでは言いませんが、坂井氏は「消しゴムマジック」の名人ではありますね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その14)─「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bf473f371becdfe9eee25a517c54300

なお、坂井氏は『曽我物語』の研究で有名で、関東の武士団についても熟知されている方ですから、「児玉党三千騎」が大袈裟な数字であることは百も承知だと思います。
おそらく誇大な数字は軍記物の通例とのことで、読者に対する注意喚起もされなかったのでしょうが、「児玉党三千騎」は一般論として相当変なだけでなく、慈光寺本自体に即しても明らかに変な記述ですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その2)─メルクマールの追加
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee79a59cf52d87a26a1e13cecaa38e76

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする