学問空間

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『花燃ゆ』と小田村事件(その3)

2015-10-30 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月30日(金)14時07分53秒

ま、長々と紹介しましたが、既に戦時中に弾圧され、戦後は時代に取り残されてしまった人々の話なので、特に感想がある訳ではありません。
大河ドラマで有名になる前は楫取素彦についてすら殆ど知識がなかったので、小田村寅二郎の名前にも興味を抱きませんでしたが、さすがに今は「寅二郎」はおそらく吉田松陰の幼名「寅次郎」にあやかったものであろうとか、周囲は第二の吉田松陰の誕生を期待したのかな、などと想像してしまいますね。
吉田松陰は1830年(文政13)の寅年生まれ、小田村寅二郎は1914年(大正3)の寅年生まれなので、年齢差は84歳ですね。
また、小田村寅二郎の祖父は楫取素彦と先妻「寿」の間の子なので、『花燃ゆ』のヒロイン「文」の直接の子孫ではありません。

丸山真男は小田村寅二郎に対してなかなか辛辣で、(その1)で紹介した部分の後、次のように述べています。(『聞き書 南原繁回顧録』、p230)

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南原 津田左右吉先生に質問攻撃をやったのも、その仲間でしょう。
丸山 そうです。そのころ小田村自身は停学中でその場には来ていませんでしたが…。この小田村君と私は中学が同級でよく知っていたのですが、金持の坊ちゃんで、中学時代にアメリカへ旅行したり、一高入試を何回も落ちて、結局、学年度は私より三年あとになりました。中学のころは軟派でどうしようもないくらいでしたが、アメリカから帰ってきてから、いつの間にか急速に右翼になりましてね。一高に入ったころにはもう極右ですよ。寮の委員長になって、一高が本郷から駒場に移転するときには、護国旗を先頭に武装行進しましたが、その先頭にいました。この処分のときも、ぼくの家までやってきましてね。先方はこのときのことを覚えているかどうか知りませんが、学生の学問的な質問に対して先生が返事をくれるのは当り前じゃないか、矢部先生はちゃんと手紙をくれたのに、田中・横田はなんら答えない、しかも処分とは何ごとかというんです。そこで時局論になって何時間も議論して、結局最後には、私は「こうなったら互いに信ずる道を歩むより仕方がないじゃないか。これで君とはきっぱり別れよう」といって、以来、一度もあっていません。
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南原繁と津田左右吉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bee91deefb5a73f43577dfc87ce2a43e

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『花燃ゆ』と小田村事件(その2)

2015-10-30 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月30日(金)13時16分43秒

小田村寅二郎は月刊総合雑誌『いのち』の昭和13年9月号(8月発売)に「東大法学部に於ける講義と学生思想生活─精神科学の実人生的綜合的見地より」という論文を寄稿し、河合栄治郎・横田喜三郎・宮沢俊義・矢部貞治・蝋山政道の五教授の講義内容を公開し、批判したのだそうです。
当該論文中には、河合が「我々は(自由主義者の意)今こそマルキストと手を握り、共に人民戦線として右翼に砲弾を打ちこまねばならぬ」と宣言したとか、横田喜三郎が「世界の文明国と云へば英米仏を挙げねばならぬ。日本精神の世界的優秀性をよく最近は云ふけれども、日本やイタリーの文化などはブラジルの文化に比すべきものである」と侮蔑的嘲笑を含めた口調で述べたとか、まあ、どこまで正確かは分かりませんが、小田村が聴講した講義内容を紹介した上で、「無自制的恣意精神による個我独断思惟の無統制的治外法権的宣説」などと蓑田胸喜的な言い回しで厳しく糾弾したのだそうです。
そして、これが法学部教授会で問題となり、田中耕太郎学部長が9月28日と10月3日の二度に亘って直々に小田村を事情聴取した後、10月7日の教授会で「学生の本分に悖るものとして」無期停学処分に付することを決定し、11月8日の評議会で正式決定となったそうです。
田中耕太郎は、学部長室で小田村に処分を申し渡した際、処分理由の説明を求めた小田村に対して、「発表した論文が学生の本分に反するのだ、外部と通謀して教授の講義の内容を雑誌に公表して、君の恩師を誹謗したこと、それが理由である」と述べたとのことなので(p176)、矢部との私信の公表云々という丸山真男と南原繁の説明は、少なくとも昭和13年の無期停学処分に関しては誤解のようですね。
国会図書館で検索したら、昭和16年に小田村等が組織した日本学生協会から「教育はかくして改革せらるべし : 東大政治学教授矢部貞治氏と学生小田村君の往復文書公表」という153頁の書籍が出ているので、矢部との私信の公表も問題にはなったのでしょうが、時期的にちょっとずれるようです。
井上氏の研究によれば、田中耕太郎が疑った外部との「通謀」、即ち原理日本社の蓑田胸喜、及び当時、激烈な派閥抗争で混乱していた経済学部の土方成美教授との「通謀」は実際には根拠が薄弱だったようですが、外部からの大学の自治への圧迫が極めて厳しい時期ですから、疑心暗鬼となるのもやむをえない感じはします。
さて、丸山が述べるように、小田村は無期停学処分を受けた二年後の1940年11月、今度は退学処分を受けますが、その間に政治活動を先鋭化させ、1940年5月に全国組織の「日本学生協会」を設立した際には、その設立準備会は「東京神田の学士会館に近衛文麿公爵をはじめ著名人を招待して賑々しく行われた」(p184)そうです。
また、1941年2月には「民間の同志結束のために精神科学研究所を設立して、以後日本学生協会と日本柱で運動を展開」しますが、日米戦の開始後、暫くして東條内閣への批判を強めたため特高や憲兵の監視の対象となり、1943年2月に両団体の関係者が一斉検挙されて運動は終息したそうですね。

土方成美『事件は遠くなりにけり』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef204485849995228fb25d18ce0a2089
「馬上の乃木将軍に遭った」(by 土方成美)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26dd4dadb60e51182b55746d3dfba467
「やとばかり桂首相に手取られし夢見て醒めぬ秋の夜の二時」 (by石川啄木)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5289d6cc1050a4735c4daa7b250cfbb

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『花燃ゆ』と小田村事件(その1)

2015-10-30 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月30日(金)11時46分24秒

ちょっと気になることがあって『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)を読み直してみましたが、田中耕太郎について若干の知見を得た今では、南原繁の見方をそのまま鵜呑みにできないなと思う箇所が多いですね。
ま、それはともかく、単純に時間が経過したことによって改めて注目した記述もあります。
それは小田村寅二郎(亜細亜大教授、国民文化研究会理事長、1914-99)という人物についての話です。
大河ドラマ『花燃ゆ』を見ている人なら「小田村」と「寅二郎」の組み合わせにアレっと思うでしょうが、この人は楫取素彦(小田村伊之助、1829-1912)の曾孫ですね。
たまたま小田村寅二郎が登場する箇所にケルロイターと大串兎代夫の名前も出てきます。(p228以下)

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南原 ケルロイターとはどうですか。矢部【貞治】君がナチの法制の問題を書いたのは昭和十年ごろと思うけれど。
福田 昭和十二年の『国家学会雑誌』の特集号ですね。ケルロイターと近いところを考えておいででした。
南原 ケルロイターにいちばん共鳴していたのは大串兎代夫君ですね。矢部君はベルリンで大串君と一緒でしたから、だんだんその傾向をとっていったということはありましょう。それと小田村寅二郎という学生に政治学の講義のことでくいつかれたね。あれは昭和十三年ですか、どういうことでしたかね。
丸山 小田村君から矢部先生にあてた質問状は、要するに先生の講義は「政治学」というのに日本の国体について全然ふれていないのはどういうわけか。「政治学」という以上、日本の政治学を樹立して日本の政治原理を論ずべきであるのに、先生の講義はヨーロッパの政治原理を論じているにすぎない。ヨーロッパの政治原理は日本に妥当するのか、というのですね。それに対して矢部先生は手紙で答えられた。ところが、小田村君はその手紙を『原理日本』という蓑田胸喜らのグループの機関誌に公表して、さらに批判した。
南原 小田村学生は、私信の公開つまり学生の先生に対する信義にかかわる問題だということ、そればかりでなく外部の勢力と結びついて教授の講義内容に対する政治的攻撃を行ったということで停学を命じられた。
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「福田」は福田歓一、「丸山」は丸山真男ですね。
小田村寅二郎についての丸山真男と南原繁の説明には、どうも事実関係に若干の混乱があるようですが、会話は次のように続きます。

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丸山 法学部教授の講義内容や著書に対する蓑田一派の攻撃は、当時、矢部先生ばかりでなく、田中耕太郎先生、横田喜三郎先生、末弘先生、宮沢先生におよび、また経済学部の河合栄治郎先生にもむけられていましたね。「恩師に対して非礼である」といって、田中先生などカンカンに怒っておられた。それで教授会では、一、二の教授からこの処分には感情問題もあるのではないかという異議が出たのですが、結局は処分にきまった。
南原 当時の雰囲気としては、外部、とくに右翼の背景がある、こうした事件の処分には相当な決意が必要だった。どこにつながっているかわかりませんからね。
丸山 小田村君は停学中にもちっとも反省しないで学内学内の政治活動をやめなかった。それで昭和十五年に退学になる。そのときはぼくも助教授のホヤホヤで教授会に列していましたが、穂積先生が学部長で二、三の先生の反対を押し切って断を下された。温厚な先生としてはきわめて珍しいことだったそうですね。
-------

井上義和氏の「戦時期の右翼学生運動 東大小田村事件と日本学生協会」(『日本主義的教養の時代』所収、柏書房、2006)によると、昭和13年に小田村が停学処分となったのは矢部貞治との私信を『原理日本』に公表したからではなく、「生長の家」発行の『いのち』という月刊雑誌に小田村が発表した論文が不穏当だったからのようですね。

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孤独なアザラシの彷徨と咆哮

2015-10-28 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月28日(水)12時43分16秒

少し前に出た『現代思想』臨時増刊号「総特集◎安保法案を問う」をパラパラめくってみましたが、奥田愛基氏へのインタビュー記事を読むと、プロテスタントの牧師だという父親は子供から見てもちょっと変わった人だったとか、中学時代に不登校になり、八重山諸島の孤島の中学校に転校したとか、東日本大震災の後は岩手県大槌町の吉里吉里地区に行って、地元の人にここで暮らさないかと言われたとか、それなりにユニークな経歴の方のようですね。
孤島や海岸が好きなのは、いかにも若きアザラシたちのリーダーにふさわしい資質です。
私も井上ひさしが小説のタイトルに使った吉里吉里という奇妙な地名に惹かれて、震災後、吉里吉里地区に何度か行ったことがありますが、奥田氏のような騒々しい人が暮らすのはちょっと無理のような感じもします。
ま、語彙が貧弱で、抽象的な思考が苦手らしい点は気になりましたが、これだけ話題になるのですから、それらの欠点をカバーする何らかの特異な才能を持った人ではあるのでしょうね。

検索したら、佐高信氏の「学校教育に洗脳されなかった シールズ奥田愛基の野生」という記事が出てきましたが、『現代思想』のインタビューと同じような内容ですね。

http://diamond.jp/articles/-/78953

また、「樋口陽一」&「シールズ」で検索してみたら色々ヒットしましたが、樋口氏もすっかりお年寄りになり、三十数年前、東北大学から東大に来られた頃の颯爽たる雰囲気は全く消えて、いささかアザラシっぽいお顔になられたようですね。

>筆綾丸さん
>アメリカ海軍の特殊部隊
危険な任務だからこそ、アザラシにかけたユーモラスな名前にしたんでしょうね。
万人に通じるユーモア感覚とは言いがたいところはありますが。
以前、筆綾丸さんが紹介されていた映画『アメリカン・スナイパー』の主人公はシールズの人でしたし、また、20年間の輝かしい軍歴の後、47歳にして性転換手術を受けたクリスティン・ベック氏のような人もいて、スーパーエリート軍人にも実に様々な人生がありますね。

映画『アメリカン・スナイパー』 (筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7703
二人のクリス
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b45d1d29f0442a91c3d066ebaca2953a
米国のプリンセス戦士と大英帝国の司馬遼子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d2d6612a1bb988ae6d277cc5e2402bb

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

陸海空のためのデモクラシー 2015/10/27(火) 11:41:43
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/Navy_SEALs
シールズはアメリカ海軍の特殊部隊を意識したのかな、と思っていました。Sea, Air and Land のための Democracy 。日本のシールズに相応しい標語は、Ready to Lead(先導する準備は出来ている)か、the Only Easy Day Was Yesterday(楽できたのは昨日まで)か。

https://de.wikipedia.org/wiki/Tatenokai
盾の会の独訳は Schildgesellschaft なんですね。英訳の Shield Society や仏訳の Société du bouclier に比べて強そうです。

https://www.shinchosha.co.jp/book/128377/
http://www.yokufuukai.or.jp/history/
『原爆投下―黙殺された極秘情報―』の冒頭に、陸軍特種情報部が置かれた浴風会のことが出てきますが、こういう建築がまだ残っているのですね。
------------------
 東京都杉並区高井戸。
 京王井の頭線の高井戸駅のすぐ南。日々多くの車が行き交う環状八号線の喧騒もほとんど届かない、静かで落ち着いた住宅街。
 この物語の舞台となる洋館は、その閑静な住宅街の一角で、鬱蒼と茂る木々に隠れるように、ひっそりと建っていた。そこだけ、時の流れから取り残されたかのような空間。スクラッチタイル貼りの鉄筋コンクリート二階建て(一部三階建て)。中央に塔が配置された威風堂々たる建築は、周囲の近代的な家並みとはずいぶん異質な空気をまとっていた。それもそのはず、この建物は大正時代に建てられたもの。東京大学の安田講堂を手がけた内田祥三氏による設計で、東京都の歴史的建造物にも選ばれている。(18頁)
------------------

http://www.kadokawagakugei.com/topics/special/20080409_01/
http://www.yurindo.co.jp/yurin/4042
http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/2436/
五味文彦氏の執筆欲は旺盛ですね。
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『アカネ』における三井甲之と土屋文明の交錯

2015-10-27 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月26日(月)22時26分9秒

原理日本社ラッパー説、自分でもちょっと気に入って、そういえば蓑田胸喜自身が、自分が何故あのように太字や傍点がやたらめったら多い、しつこくて粘っこい文体で書くかについてクドクド弁明していた文章があったはず、と思って去年コピーした資料を漁ってみたのですが、なかなか見つかりません。
その代わりと言っては何ですが、片山杜秀氏が三井甲之について論じた文章の中に三井甲之と土屋文明の接点を伺わせる箇所を見つけたので、つい先日、土屋文明に少し触れたことでもあり、備忘のため引用しておきます。
片山氏が述べておられるように、普通の文学史では意図的に無視されている短歌史の一側面ですね。
出典は竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代』(柏書房、2006)所収の「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」です。(p106)

『日本主義的教養の時代』
http://www.kashiwashoboco.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=4-7601-2863-8

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【前略】
 どうやら明治三十八年に、根岸短歌会に入会した甲之は、趣味と信仰、作歌と生活の、間髪入れぬ一致を説いて、子規の後継者として同会を主宰していた伊藤左千夫に、たちまち重用される。政治までを包括するものとしての歌の権能の回復を志向していた甲之が、芸術と生活、創作と実人生の一致を説くのはまずは当然であり、左千夫が、この甲之との本格的交際が始まるのと時期を同じくして、十九日会という「趣味と信仰との交話を目的」とする会合を主宰しはじめていることからも、当時の左千夫と甲之の蜜月の程合いが分かる。そして、明治四十一年一月、左千夫は根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の終刊を宣し、後継誌『アカネ』の編集代表者に甲之を指名する。ここに甲之は、子規、左千夫と受け継がれた根岸派の正系に、一時的にではあったが、位置づけられたのであった。
 しかし、『アカネ』は、単なる短歌誌としての性格を逸脱した編集傾向等により、短歌会旧同人たちとの溝を深めてゆき、反『アカネ』派は、同年十月『アララギ』を発刊するに至る。以後の文学史が、この『馬酔木』から『アララギ』への線を根岸派の正統の展開と見て、『馬酔木』から『アカネ』、次いで『人生と表現』から『原理日本』へという線をほとんど無視していることは、確認するまでもない。
 『アカネ』は、明治四十五年に『人生と表現』と改題され、一段と政治色を強めて、ついに大正十四年、『原理日本』の創刊につながる。『原理日本』は、「大東亜戦争」末期まで継続する。甲之が逝ったのは、昭和二十八年である。
-------

「一時的にではあったが、位置づけられたのであった」に注21と記され、注21を見ると「このあたりの事情については、山本英吉『伊藤左千夫』(東京堂、一九四一年)が詳しい」とあります。
ここで群馬県土屋文明記念文学館サイト内の「土屋文明略年表」を見ると、1908年(明治41)の項に<「ホトトギス」「アカネ」に投稿>とあります。

「土屋文明略年表」
http://www.bungaku.pref.gunma.jp/profile/chronologicaltable

三井甲之と土屋文明はともに旧制一高・東京帝大文学部というコースを歩みますが、三井は1883年(明治16)生まれ、土屋は1890年(明治23)生まれで、三井の方が7歳も上であり、三井が『アカネ』の編集代表者となって根岸派の分裂騒動を惹き起こした1908年の時点では土屋はまだ高崎中学校に在学中ですね。
翌年、土屋が上京して伊藤左千夫宅に寄宿した時点では分裂騒動は決着済みですから、三井と土屋との間には直接の接触はなさそうですが、念のため、後で山本英吉『伊藤左千夫』を見ようと思います。

なお、敗戦後の三井甲之については、昆野伸幸氏『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)の感想を兼ねて、以前少し書いたことがあります。

三井甲之の戦後
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a6024d8d9642b9d8f2eb8293290780c
「変節」「転向」「偽装」ではないけれど・・・
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a5f5d31b7d8616eee31d6fbaf2c046d

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「シールズ」 or 「スィールズ」

2015-10-25 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月25日(日)11時03分41秒

ここ数日、片山杜秀氏の本がマイブームなのですが、昨日は『続・クラシック迷宮図書館』(アルテスパブリッシング、2010)を読んでみました。

http://artespublishing.com/books/903951-29-4/

片山氏は久世光彦氏の『マイ・ラスト・ソング』(文藝春秋、2006)を論じた「『非在のユートピア』としての森繁節」において、森繁久弥主演のテレビドラマ『七人の孫』のディレクターとつとめたことをきっかけに森繁に傾倒したという久世の次の文章を引用しています。(p256)

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 私が体得したところでは、<森繁節>は次の三つの要諦から成る。①かなり極端なヴィブラート。言い換えれば<小節回し>。②任意の<rit.>。つまり楽譜に指定がなくても、歌っていて気持ちがよくなったら、客に構わず、勝手なところで好きなだけ伸ばす。③歌詞の中の<シ>は、かならず<shi>ではなく、<sy>イコール<スィ>と発音すること。<シレトコ>は<スィレトコ>、<カナシイ>は<カナスィ>と歌われねばならない。
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片山氏は①②は「要するに日本民謡の伝統的な歌い方だ」として、③を重視します。

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 そして、そんな<森繁節>をいよいよ<森繁節>たらしめるものは三つ目の要諦である。「シ」を「スィ」と歌う。「お寿司に新聞」が「オスゥスゥにスゥンブン」となるズーズー弁に近い気もする。ズーズー弁は日本人にとって田舎くささの象徴だ。喜劇役者たちはしばしばそれを使ってペーソスを醸しだしてきた。
 森繁もそうなのか。いや、ちょっとちがう。ズーズー弁の真似なら「シレトコ」は「スゥレトコ」でなければならない。伴淳三郎ならそう歌うだろう。
 ところが<森繁節>は「スィレトコ」だ。日本人が「シ」を「スィ」と歌うのは、たとえばシャンソンを日本語訳で、けれどフランス語っぽい響きでやってみせようとするときだ。その意味でなら「シ」を「スィ」と歌うのは戦前からハイカラだった。その手を森繁は、軍歌だろうが《知床旅情》だろうが、日本調の歌でもはでに使った。「スィレトコ」には、シャンソンのモダンとズーズー弁の土俗がだぶる。
-------

なるほどなとは思うのですが、<日本人が「シ」を「スィ」と歌うのは、たとえばシャンソンを日本語訳で、けれどフランス語っぽい響きでやってみせようとするとき>以外に、外国語で<shi>と<sy>を区別している場合、それを日本語で<シ>と<スィ>に反映させていることもけっこう多そうですね。
翻訳した歌詞の場合、それは当たり前なので片山氏はわざわざ書く必要を認めなかったのかもしれませんが。
ところで、安保法制で騒々しかった今年の夏、シールズという団体がにわかに有名になりましたが、私は当初、シールズはshield(盾)をかけているものと思い込んでいて、思想信条の違いはともかく、なかなか洒落た命名だな、センスが良いなと感心していました。
しかし、シールズの英語名は SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)だそうなので、<森繁節>に拠らずとも「シールズ」ではなく「スィールズ」、複数の「盾」ではなく複数の「アザラシ」なんですね。
ま、それを知ったときは、ちょっと興醒めでした。


♪スィレトコの岬に
  アザラスィの啼くころ
 思い出すぃておくれ
  俺たちのことを♪

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「憲法九条の大事に参ず」

2015-10-24 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月24日(土)08時57分41秒

昨日の投稿、まるで日本法理研究会と原理日本社を同じレベルであるかのように書いた点はちょっとまずかったですね。
蓑田胸喜と原理日本社の人々は、他人を説得しようとする緻密な論理を持たず、自分たちが一方的に敵と認定した人々を攻撃する過激な言葉を独自のリズムで執拗に繰り返しているだけなので、ある種のラッパーの集団ですね。
それに対し、日本法理研究会は、偏狭な面はあるとしても、あくまで論理を語っている学者・実務家の集まりです。
塩野季彦の「皇国の大事に参ず」など、その大袈裟な表現は現代人にはコミカルな印象を与えますが、用語をちょこっと変えて、

--------
 今年こそは憲法九条の敵を打破る年である。否打破らなければならぬ年である。
 戦局は愈々大詰に来た。苛烈とか、深刻とか、形容詞で現はすべき段階ではない。憲法九条が亡びるか、亡びないかといふ年である。
 憲法九条不滅はたしかに我々日本人の信念である。天佑と神助はまさに憲法九条の齎すところである。しかしそれは飽くまでも、我々自身が自らの全存在を憲法九条の運命に一体化せしめ、身を以て憲法九条の危急に殉ずることを前提としての立言であつて、かゝる積極的の心構へと実践なくして、いたづらに憲法九条の不滅を説き、神風に頼ることは、却つてこの戦争を傍観する者の態度であつて、この期に及んでは憲法九条の為に危険であると申さねばならぬ。
 かゝる他力本願的な観念を反省すると共に、一方、一局部面の小波瀾に一喜一憂することなく、世界史を動かす大きな底のうねりに真正面から取り組んで行く態度こそ、現下の日本人に求められるところであらう。
--------

みたいにしてみると、それほど古風でないばかりか、つい最近も聞いた覚えがあるような感じがしてきます。
例えば樋口陽一氏が「共同代表」で、長谷部恭男・石川健治・木村草太・高見勝利氏らの著名な憲法学者が「呼びかけ人」となっている「立憲デモクラシーの会」の「設立主旨」を見ると、

--------
安倍政権は、2つの国政選挙で勝利して、万能感に浸り、多数意思に対するチェックや抑制を担ってきた専門的機関――日本銀行、内閣法制局、公共放送や一般報道機関、研究・教育の場――を党派色で染めることを政治主導と正当化している。その結果現れるのはすべて「私」が決める専制である……

日本は満州事変以後の国際連盟脱退のように、国際社会からの孤立の道を歩もうとしている……

万能の為政者を気取る安倍首相の最後の標的は、憲法の解体である。安倍首相は、96条の改正手続きの緩和については、国民の強い反対を受けていったん引っ込めたが、9条を実質的に無意味化する集団的自衛権の是認に向けて、内閣による憲法解釈を変更しようとしている。政権の好き勝手を許せば、96条改正が再び提起され、憲法は政治を縛る規範ではなくなることもあり得る……

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/yobikakenin

などとあり、語彙は違っても、その表現の大袈裟さは塩野の「皇国の大事に参ず」と殆ど同じレベルであり、コミカルな感じもだいたい同じようなものに思えます。
(個人の感想です。)

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「そんなものに学者が入ったら…」(その4)

2015-10-23 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月23日(金)09時37分32秒

去年、蓑田胸喜と原理日本社に無闇に深入りして時間を無駄にしてしまったので、日本法理研究会にもあまり関わるつもりはありませんが、ちょこっとだけメモしておきます。
国会図書館の簡易検索でキーワードを「日本法理研究会」として検索してみると64件ヒットして、そのうち52件は昭和15年から19年にかけて「日本法理研究会叢書」として出版された書籍ですね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/Y2Q74SKLE2XHDJM79X7XE226QQLRTJ3RIY96C2I4UMUM5NENNR-24976?func=short-jump&jump=000001

若干の重複があるので、52種類出した訳ではありません。
個人名のものとしては、例えば、

小野清一郎 『日本法学の樹立:附・東亜の新たなる法律理念』
高柳賢三 『英国法に於けるキングの地位』
牧健二 『日本固有法の体系』
滝川政次郎 『日本法律思想の特質』
同     『日本法理と支那法理』
増田福太郎 『大東亜秩序と民俗』
安平政吉 『道義と刑事法』
里見岸雄 『帝国憲法の団体的法理』
久礼田益喜 『罪刑法定主義の日本法理的展開』
松下正寿 『大東亜国際法の諸問題』

といったものがあります。
「日本法理」「大東亜」「新秩序」みたいな言葉を入れた書名が多いですね。
また、増田福太郎著の書名に「民俗」が入っていますが、民俗学者執筆のものもあります。

柳田国男 『族制語彙』
橋浦泰雄 『日本民俗学上より見たる家族制度の研究』

柳田国男(1875-1962)の登場にはちょっとびっくりしました。
橋浦泰雄(1888-1979)は転向左翼ですね。

64件から戦前の52件を引いた12件のうち、白羽祐三氏が1995年から97年にかけて『法学新報』(中央大学法学会)に載せた論文9件とそれを一冊にまとめて1998年に出した『「日本法理研究会」の分析 : 法と道徳の一体化』の合計10件を除くと、残りは宿谷晃弘という方が2013年と2014年に『東京学芸大学紀要』に載せた僅か2件だけですね。
ということで、「日本法理研究会」は白羽祐三氏以外にはあまり熱心に研究した人がいないようです。
そして、その白羽祐三氏の研究は、「天皇制ファシスト・小野の政治的白痴」(p332)、「この狂気の戦争屋・西田【※西田幾太郎のこと】を確信的な天皇制ファシスト・小野清一郎は戦前・戦後を通じてことのほか崇拝していた」(p332)、「要するに小野清一郎法学は狂気の天皇制ファシズム法学であり、戦争屋(殺戮屋)の法学である。人類の幸福とか福祉などは全く眼中にないのである。あるのは自分自身と天皇制の守護だけなのである」(p333)、「正に正気の沙汰とはいえない。狂気の戦争屋(大量殺戮戦争屋)であり、殺人鬼・小野清一郎としかいいようがないではないか。小野・大東亜法学(『大東亜法秩序の基本構造』論)は、正に大量殺戮法学と位置づけることができるであろう。現代のオウム真理教(殺人集団)以上であり、それをはるかに超えるものである」(p338)といった激烈な表現に満ちた、かなり微妙なものですね。

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宮沢俊義と「黒い霧」の記憶

2015-10-22 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月22日(木)10時12分58秒

読売ジャイアンツ選手の野球賭博関与疑惑にからんで、西鉄ライオンズの「黒い霧」事件に言及する新聞記事をいくつか見ましたが、事件当時のプロ野球コミッショナーは宮沢俊義ですね。
『法学教室』320号(2007年5月)の奥平康弘・高見勝利・石川健治氏による「鼎談 戦後憲法学を語る」において、高見勝利氏(上智大学教授、当時)は次のように語っています。(p7)

-------
 僕の場合には、1964年ですから東京オリンピックの年に東京に出てきて、中央大学に入りました。憲法の授業は橋本公旦先生でした。【中略】
 教科書的なことで申しますと、僕のときには宮沢先生の『憲法Ⅱ』と、それから清宮先生の『憲法Ⅰ』はすでに揃って出ていました。面白いというか、無知を晒すことになるのですが、僕としては、宮沢先生も憲法学者だったのか、ということを1964年に初めて気がついたという印象です。田舎からぽっと出てきたせいもあるのですけれども、田舎で聞いていた宮沢先生の名前というのは、プロ野球のコミッショナーとしての宮沢俊義で、しかも西鉄ライオンズの池永(正明投手)を追放した血も涙もない法律家というのが僕の頭に入っていた宮沢像だったのです。ある日生協に行って書籍の棚を見ていたら、宮沢先生は憲法の本も書いている、というのが最初に宮沢憲法というものを知った体験でした。【中略】
-------

これを受けて、石川健治氏が、

-------
 高見さんは、宮沢俊義研究の第一人者で、法学教室での連載論文をも収めた『宮沢俊義の憲法学史的研究』(有斐閣、2000年)を、宮沢先生の生誕100周年にあわせて上梓しておられるほどなのですが、いまの話はとても面白かったですね。
-------

と述べます。
ま、他愛ない話なので、私もこのやりとりを初めて読んだときは、ふーん、と思っただけでしたが、改めて読み直してみると、高見氏の記憶には非常に奇妙な点があります。
というのは、「黒い霧」事件は1969年に表面化し、池永選手の処分は翌1970年の出来事ですから、高見氏が1964年の時点で「田舎で聞いていた宮沢先生の名前というのは、プロ野球のコミッショナーとしての宮沢俊義で、しかも西鉄ライオンズの池永(正明投手)を追放した血も涙もない法律家というのが僕の頭に入っていた宮沢像だった」ということはありえません。
高見氏は5・6年後の出来事を組み込んで1964年の思い出を語っている訳で、人間の記憶とは随分いい加減なものですね。

「黒い霧」事件

>筆綾丸さん
>平田神社
リンク先の「猫のあしあと」によれば、境内掲示に「国学の四大人の一人として崇められ、没後に神霊真柱上人という謚名霊神号を賜り、神として祀られました」とあるそうですが、誰から賜ったのだろうと思って検索してみたら、ウィキペディアの平田篤胤の項には「死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている」とありますね。
「神霊真柱上人」と「神霊能真柱大人」ではかなり違いますが、これはウィキペディアが正しいんでしょうね。

>解剖台の上でのミシンとこうもりがさ…
マン・レイに「ミシンと雨傘」という作品があるそうですね。


>プレ・ヘレニズム様式
命名の強引さが面白いですね。
大倉精神文化研究所サイト内に掲載されているあるエッセイによれば、女子美術大学教授・勝又俊雄氏の新説では「クレタ・ミケーネ様式」と呼ぶのが相応しいとか。


>大串兎代夫
名前に「兎」は良いとしても、名字が「大串」なので、組み合わせが微妙ですね。
何となくバーベキュー的な光景を連想してしまいます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
(「したらば掲示板」に移行の際に文字化けしています)

Quelles jolies lames! ーDr.URANO 2015/10/21(水) 14:28:17
https://www.shinchosha.co.jp/book/126011/
『昭和最後の日―テレビ報道は何を伝えたか―』を面白く読みました。
----------------
(昭和62年9月22日)午前七時。渋谷区代々木。執刀にあたることになった森岡恭彦東大教授は、自宅の前にある平田神社に詣でた。江戸時代の国学者、平田篤胤を祭った神社である。(64頁)
----------------
http://www.tesshow.jp/shibuya/shrine_yoyogi_hirata.html
地図を見ると、平田神社は明治神宮の北に位置しているのですね。幽明境を異にする篤胤大人も、そんな大事なこと、明治神宮に行ってくれよ、と思ったかもしれません。

http://pathol.umin.ac.jp/history.shtml
東大病理学教室の浦野順文教授が天皇の患部の病理組織検査を行ったが、
----------------
・・・詰めかけた取材陣に対して浦野教授は、自宅のマンションの扉に一枚の紙を張り出していた。それは、フランス語で書かれたメッセージだった。
??" Dr.URANO est absent. Son Message est suivant.
?? Quelles jolies lames!
?? Elles ne sont pas méchantes.
?? Elles sont gentilles comme notre Empereur."
(ドクター浦野は不在です。彼のメッセージは次のとおりです。なんときれいな標本だろう。それは意地の悪いものではない。それは我々の天皇陛下のようにやさしいものだ)
 その謎めいたメッセージを張り出しまま、教授はこの日も自宅には帰って来なかった。(93頁)
----------------
これは、本人の弁によれば、「腫瘍かないか、悪性であるかないか。迷うような標本ではなかった。そういうことですよ」(94頁)ということで、公表できないが、その意味するところは、ずばり悪性腫瘍であった、と。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3
新潮文庫には、浦野教授自筆のフランス語の写真が掲載されていますが、若い頃、パストゥール研究所あたりに留学したのだろうな、と思わせます。この時、教授自身、肝臓癌を患っていて、翌年の一月、亡くなったそうです。
天皇の患部の病理組織の標本が天皇のようにやさしい、とはかなりシュールな表現であり、留学中、研究の合間にシュルレアリスムの詩を愛読していたのではないか、とすら思われ、解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい、というロートレアモンの有名な詩句を連想してしまいます。
--------------
 天皇崩御の翌日、故浦野教授宅では身内だけの一周忌がしめやかにおこなわれた。
 浦野教授の作った二十三個の標本は高木侍医長が自宅に保管していたが、百十一日間の闘病を記録した拝診録とともに宮内庁書陵部に移されて永久保存されることになっている。(470頁)
--------------

小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%AE%87%E5%B9%B3%E6%B2%BB
大倉精神文化研究所の建築はプレ・ヘレニズム様式というようですが、ヘレニズム前の建築様式なんて、本当にわかるのかね、という気もします。設計者の長野宇平治は辰野金吾の弟子ですか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%B2%E5%85%8E%E4%BB%A3%E5%A4%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%96%BC%E8%8F%9F
国民精神文化研究所の大串兎代夫は、ほんとに兎年(1903年)生まれなんですね。森家のオットーは、菟を含みますが、寅年生まれですね。
コメント (1)
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「そんなものに学者が入ったら…」(その3)

2015-10-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月21日(水)09時56分15秒

続きです。

--------
 近時法学会に於て、中央の学会誕生の機運ありと聞く。まことに慶ぶべきことである。而してそれが、真に日本の中央法学会であるならば、恐らくは本会の同志がその中枢の大部分を占めることであらう。何となれば、現在最も真剣に、最も活発に日本の法学を研究しつゝあるのは本会であるし、又本会の同士達であるからである。
 私は学者でもない。又現在では司法の実務をも引退したものである。たゞこれ等の人々が集つて、ひたすら日本の法学、日本の法制を打樹てんとする懸命の努力に対して、傍にあつて世話をしてゐるに過ぎない。所謂ワキ役である。
 シテ役としては、例へば東京帝大の小野清一郎博士の如き、殆ど連日本会の各部会に出席して、共同研究の指導的役割をつとめて居る。又末弘巌太郎博士の如きも、法学部長の劇職にあり乍、本会の民事部会の主任者として多忙の時間を割いて参加せられ、国民精神文化研究所の大串兎代夫氏の如きも亦忙しいからだで本会の基本法理部会の責任者をつとめて居る。その他鵜沢聡明博士はじめ東大の高柳賢三、杉村章三郎、難波田春夫、中央大学の天野徳也、川原次吉郎、岩田新、早稲田大学の中村弥三次、内田繁隆、酒枝義旗、中村宗雄、遊佐慶夫、明治大学大谷美隆、慶応大学峯村光郎、英修道、国民精神文化研究所黒川真前、増田福太郎、大倉精神文化研究所長新見吉治、西田長男、商大常磐敏太、農大沢田五郎、日本外政協会松下正寿、太平洋協会平野義太郎等の諸氏も熱心な参加者である。又司法畑に於ても久礼田益喜、安平政吉、中島弘道、梶田年、犬丸巌、柳川昌勝等の諸君は、むしろ学者としての立場で共同研究に加はつて居り、一方、林徹、平出禾、関之、野間繁の諸君は幹事役として各部会の推進的役割を果してゐる。
 この人達を中心にして、在京の学者、実務家数十人が入れ替り一週三四回の研究会に出席して意見を闘はし、相共に日本の法学と、日本の法制を樹立せんと努力してゐるのが本会の内容である。この地方の学界にあつても、例へば京都帝大の牧健二博士、満州建国大学の滝川政次郎博士の如き、何れも上京の都度顔を出して、連絡と激励とを忘れない人達であるが、その他にも地方に在つて、文書によつて熱心に研究に参加する人数も相当に上つてゐる。
 我々は更に今年は、在野法曹の間に同志を見出して、この方面よりする司法制度の見直し、時局即応態勢強化につき大いに資するところあらんと期してゐる。
 素材既にあり、機構亦成る。日本法学樹立のこと何か成らざらんやである。
 日本法学の樹立は大東亜法秩序建設の根幹である。かくして我々は我々の立場に於て、皇国の大事に馳せ参ずるのである。
--------

小野清一郎(1891-1986)は刑法・旧派の大家ですね。
末弘巌太郎(1888-1951)は民法の大家であるとともに法社会学・労働法の開拓者としての功績があり、ちょっと前には蓑田胸喜あたりから攻撃を受けていた人なので、その思想的変化には興味深い点があります。
鵜沢聡明(1872-1955)は学者というより弁護士・政治家としての印象が強い人ですが、この当時は明治大学総長だったようですね。
戦後は極東国際軍事裁判で弁護団長を勤めています。
高柳賢三(1887-1967)は英米法の大家で、戦後は憲法調査会の会長としての活動が著名ですね。
杉村章三郎(1900-91)はここに出てくるのがちょっと意外ですが、蓑田胸喜らから厳しい攻撃を受けた一木喜徳郎枢密院議長の息子で、専門は行政法ですね。
難波田春夫(1906-91)は経済学者なので、何で日本法理研究会に入っていたのか不思議です。
中央・早稲田・明治・慶応大学の人は、正直、私は名前も聞いたことがありませんでした。
国民精神文化研究所の増田福太郎は筧克彦の弟子で、最近、ちょっと調べたのですが、細かすぎる話になるので紹介は控えます。
松下正寿(1901-86)は国際政治学者で、後に立教大学総長となった人ですね。
平野義太郎(1897-1980)は『日本資本主義発達史講座』の執筆者で、「講座派三太郎」の一人として著名ですが、思想的には何度も変節し、毀誉褒貶の激しい人ですね。
京都帝大・牧健二(1892-1989)の専門は日本法制史、満州建国大学の滝川政次郎(1897-1992)も日本法制史の研究者で、国学院大学名誉教授ですね。

小野清一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E
末弘厳太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BC%98%E5%8E%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E

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「そんなものに学者が入ったら…」(その2)

2015-10-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月21日(水)08時26分21秒

田中耕太郎が「そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」と「微笑を浮かべておだやかに」言ったという「日本法理研究会」、私も名前くらいしか知らなかったのですが、白羽祐三氏(中央大学名誉教授、民法学、1925-2005)に『「日本法理研究会」の分析』(中央大学出版部、1998)というそのものズバリのタイトルの本がありますね。
ざっと読んでみましたが、残念ながら白羽氏自身の分析はそれほど鋭いものではなく、というか頓珍漢な部分も多く、引用部分のみ資料集として役に立つ本でした。
備忘のため、若干の引用をしておきます。
まず、昭和15年7月に日本法理研究会を設立した塩野季彦の意図は何かというと、

--------
第四章 日本法理研究会の結成と目的
 第一節 日本法理研究会の設立

一 「法道一如」の信念
 前述の如く塩野は「自分一箇」の考えで研究会を創設しようとしたが、その考え方の大筋は彼自身の言を引用すれば次の如きものである。
 「現行法は翻訳法であって国民の生活や感情に即しないものがあり、道義は法律の裏づけで、此裏づけがあってこそ法律は適正に行われると考えられるのに、法律は道義を離れて別世界を形成しつつあるを憂慮し、法と道義との一体化を企図して見たらどうか、国民感情に添うように改良したらどうか」
ということであった。【後略】
--------

のだそうです。(p141)
私にとって一番興味があるのは参加した学者の名前で、小野清一郎・末弘巌太郎・高柳賢三の三人が参加したことはそれなりに有名ですが、他のメンバーについて、単純な名簿としてではなく、その実質的な役割への若干の評価を加えた上で列挙した資料としては、『法律新報』700号(昭和19年1月)の冒頭に掲載された塩野の「皇国の大事に参ず」という論説が役に立ちますね。
最初の方もそれなりに面白いので、少し長めになりますが、紹介しておきます。(p189以下)

--------
皇国の大事に参ず
    日本法理研究会長 塩野季彦

 今年こそは米英を打破る年である。否打破らなければならぬ年である。
 戦局は愈々大詰に来た。苛烈とか、深刻とか、形容詞で現はすべき段階ではない。国が亡びるか、亡びないかといふ年である。
 神州不滅はたしかに我々日本人の信念である。天佑と神助はまさに皇国の国柄の齎すところである。しかしそれは飽くまでも、我々自身が自らの全存在を皇国の運命に一体化せしめ、身を以て神州の危急に殉ずることを前提としての立言であつて、かゝる積極的の心構へと実践なくして、いたづらに神州の不滅を説き、神風に頼ることは、却つてこの戦争を傍観する者の態度であつて、この期に及んでは国家の為に危険であると申さねばならぬ。
 かゝる他力本願的な観念を反省すると共に、一方、一局部面の小波瀾に一喜一憂することなく、世界史を動かす大きな底のうねりに真正面から取り組んで行く態度こそ、現下の日本人に求められるところであらう。
 これを法律界に視る。
 今日学者たると、実務家たると、在朝と在野を問はず、法曹の職域にある者にして、真に亡国の国運を一身の双肩に担ふと自負し得るもの幾人かある。今日にして尚敵米英が思想の糟粕を嘗めて省みざるの徒ありとせば、まさに恥死すべきである。
 我々は日本法理研究会に於て、真に日本の法律人を求めた。こゝに集る人々だけは少なくとも法曹界に於て日本人たるに恥ぢざる人々であることを確信する。一度本会の研究会に臨み、その空気に触れた人ならば、真の日本の法学はこゝに生まれつゝあり、真の日本の法律人はこゝに育ちつゝあることを感じるであらう。
-------

いったんここで切ります。

塩野季彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E5%AD%A3%E5%BD%A6
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伊藤千代子と土屋文明

2015-10-19 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月19日(月)10時05分35秒

清宮四郎から田中耕太郎に脱線中、更に脱線気味になりますが、私には少し共産趣味があるので、「京城日報」1929(昭和4)年7月23日付記事には猫にマタタビ的な感じで惹きつけられてしまいます。
記事に登場する165名には岩田義道・亀井勝一郎(文芸評論家)・島野武(元仙台市長)・「徳田久一」(球一)・「野坂参弐」(参三)・「野坂りゅう子」(龍)・福本和夫・水野成夫(元産経新聞社長)・渡辺義通(歴史学者)など、その世界の有名人がたくさんいますね。
志賀義雄の三つ前に出てくる「下田富美子」は野呂栄太郎夫人の塩沢富美子のことですが、塩沢著『野呂栄太郎とともに』(未来社、1986)には東京女子大で知り合った伊藤千代子という人物が出てきて、第三章のタイトル(「上級生伊藤千代子」)にもなっています。
「京城日報」記事には「東京女子大学から三名の共産主義者犯人を出したがその三名の共産主義犯人中二名までも裁判官の令嬢であることは注目に値する」とありますが、伊藤千代子(記事ではチヨ子)は「裁判官の令嬢」ではない三番目の人ですね。
伊藤は逮捕された後、24歳の若さで市ヶ谷刑務所内で病死してしまいますので、共産主義運動史上の特別な業績はありませんが、歌人・土屋文明が諏訪高等女学校で教員をしていたときの教え子で、土屋文明に「高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき」という歌があります。
ま、私も土屋文明の歌でこの人の名前を知ったのですが、どういう人かはよく分からず、しばらく後になって『野呂栄太郎とともに』を読んで、やっと一応の知識を得ました。
「千代子こころざしの会」という団体のサイトを見ると、1997年には郷里の諏訪に顕彰碑が建てられたそうですね。

http://www.lcv.ne.jp/~tiyoko17/index.html

『万葉集私注』全20巻で有名な土屋文明(1890-1990)はアララギ派の重鎮の、まあ今の目から見れば少し古風な歌人で、特に共産主義に好意的だった人でもありませんが、昭和初期には、

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす

といった社会派っぽい歌も作っていますね。

土屋文明(「群馬県土屋文明記念文学館」サイト内)
http://www.bungaku.pref.gunma.jp/profile
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「四十年のふ思議なつきあい」(by 志賀義雄)

2015-10-18 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月18日(日)11時09分27秒

『田中耕太郎 人と業績』に、日本共産党の古参幹部で徳田球一と共に『獄中十八年』(時事通信社、1947)を著し、後に同党を除名されて「日本の声」を創設した志賀義雄(1901-89)が一文を寄せているので(p405以下)、どういう事情なのかと思いましたが、これは峰子夫人との関係みたいですね。

-------
【前略】
 私は一九二八年の三・一五事件でつかまったので、田中さんを知らなかった。予審が終結して、面会ができるようになったのは三〇年の四月ごろであった。妻も被告だったので、その所在を裁判所にはっきりしておかなければならない。そこで妻が友人の松岡道子さんに相談したら、田中先生のお宅に頼めば、裁判所も検事局も文句がないだろうということで、上京してしばらく田中さん御夫妻のごやっかいになった。田中さんとのつきあいもこの偶然の産物だ。
 ある時、妻が二十日大根を差入れしてくれた。「これは田中さんが御自分で種子をまいて、御自分でとって下さったものです」との話で「志賀君によろしくと言われました」。
 彼女はドイツ語を少しばかりやるので、田中さんは「これを読んでごらんなさい」と言われ、面会所にラートブルフの法哲学の本を持って来たこともある。
--------

その後、「峰子さんが妻と一緒に面会に来られた」こともあるそうです。
また、「公判廷にならんだ判事のうち、第一陪席の西久保良行判事も第二陪席の尾後貫荘太郎判事も、私より年上だが、友人であり知人であった」といった事情もあって、当初は多少は穏やかな待遇を受けていたようですが、1931年9月、「中国侵略戦争が勃発して、われわれをとりまく空気も急速に悪化」し、1935年の天皇機関説事件以降は「蓑田胸喜などが田中教授まで非難する空気なので、私は田中御夫妻宛の手紙はいっさい書かなかった」そうです。
そして、

--------
 十八年ぶりに出獄した翌年二月、一高の記念祭にまねかれた。天野貞佑さんが校長で、田中さんも安倍能成さんも来られた。その時、二人とも私のことにふれられたが、特に田中さんは「志賀君は未決時代から知っているが、多年獄中でがんばるなんて、史的唯物論では説明できない」と言われた。そのあとで私は「いやその史的唯物論にしたがって行動したまでです」と答えた。二人の話で会場はわいた。
--------

のだそうですね。
ちょっと興味を持って、志賀義雄夫人について検索してみたら、神戸大学電子図書館システムの「京城日報」1929(昭和4)年7月23日の「三・一五事件残余の分」という記事が出てきましたが、小見出しの「東京女大から三名の党員 何れも名家の出で花々しい女闘士」のあたりを読むと、

--------
東京女子大学から三名の共産主義者犯人を出したがその三名の共産主義犯人中二名までも裁判官の令嬢であることは注目に値する即ち東京女子大学から出た主義者波多野操子、志賀多恵子、伊藤チヨ子の三名中前二女は何れも裁判官の令嬢で操子の父君は北海道某地方裁判所から東京附近の某裁判所に転じ更に某控訴院に転じた人である、【中略】更に志賀多恵子(二四)も又某控訴院某部長の令嬢であり、福本イズム本尊福本和夫の股腹ともいうべき志賀義男の妻で埼玉県岩槻町太田に生れ大正十二年三月函館高等女学校を卒業し同年四月東京女子大学に入学昭和二年四月卒業をした才媛である、女大在学中波多野女や伊藤女等と共に社会科学研究に興味を持ち卒業後実際運動に身を投じしばしば検束留置等彼等のいわゆる名誉なる災厄を経て同志よりは勇敢なる婦人闘士の名を与えられるに至りその中同志の志賀と恋を語る事となり結婚したものであるが市ヶ谷刑務所に収容中本年一月突然発狂し看守を殴打したことありために保釈となったもので目下大阪の実家に引取られている、

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071436&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

などとありますね。
峰子夫人は東京女子大で志賀多恵子(旧姓高橋)と知り合いだったのでしょうか。
ま、背景を調べだしたら大変な手間と時間がかかりそうですが、出発点の志賀義雄の一文に戻ると、このエッセイにおける最大の謎は、タイトルの「四十年のふ思議なつきあい」の「ふ」がひらがなになっている点ですね。
これは宮沢俊義の「深い学識と強い信念」(p244以下)で、宮沢の肩書きが「元東京大学名誉教授」となっているのと並んで、『田中耕太郎 人と業績』の二大「ふ」思議です。
ま、たぶん単なる誤植なのでしょうが、個性の強い元共産党指導者ですから、かな遣いにも何かのこだわりがあるのかもしれません。
宮沢俊義の方は、ある時期まで「名誉教授」だったけれども、後にその資格を剥奪された、といった事情は考えにくいので、ま、単なる誤植なんでしょうね。

志賀義雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%BE%A9%E9%9B%84

>筆綾丸さん
>曰く、「余は如何にして信仰に入つたか」
>曰く、「余は如何なる人物を尊敬するか」
これは内村鑑三へのほのめかしではなく、直撃弾ですね。
田中耕太郎は宗教面では一切の妥協をしない強烈な性格なので、田中だけは許せん、と思う人も多かったのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Ipsedixism vs. Gemeinschaft der Heiligen 2015/10/17(土) 15:00:24
-------------------
 彼れは好んで、あらゆる機會にほこらしやかに自分について語る。或いは説教や演説において、或いは感想文において如何に自分が信仰を獲得したかを得々として述べる。その態度は恰も、他人がそれに當然傾聴しなければならぬ義務があり、自己が他人に説教する當然の権威を有することを前提とするもののごとくである。曰く、「余は如何にして信仰に入つたか」、曰く、「余は如何なる人物を尊敬するか」。常に「余」「私」、單數第一人稱で初まるところの、Ipsedixismである。かくして、その「余」は聖パウロや聖アウグスチーヌスや、聖トーマス・アキナスと同列に、否それ以上の地位に高められているのである。(田中耕太郎『信仰と體験』昭和23年、前掲書78頁~)
-------------------
http://www-lib.icu.ac.jp/collections/uchimura/uchi_photo/
https://ja.wiktionary.org/wiki/ipse_dixit
以上はプロテスタントへのプロテストの一部ですが、かつての師・内村鑑三を想定しているかのごとくです。国際基督教大学にある旧師のデスマスクなど、邪教のおぞましい Ipsedixism 以外の何物でもない、ということになるのでしょうね。

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 かくして個人の體驗は、他人の體驗によつて補われなければならない。我々が聖人や偉人の傳記を讀むのは、他人の體驗によつて自らの體驗の不足を補うことを意味する。かくして我々の體驗は個人的範圍を超越して全人類とその歴史に擴大されて行く。眞の教會は十二使徒達、聖パウロ、有名無名の諸の聖人達の體驗を集積して我々に遺産として傳えてくれている。それは汲めども決して盡きることのない靈的の泉である。人々は有機的な普遍的社會の肢體となることによつて、他人の體驗を我がものとし、又他人は我が體驗によつて裨益するのである。カトリック教會の信仰箇條中の諸聖人の通効即ち Gemeinschaft der Heiligen という偉大な思想の重要な一つの意義はここにあるのである。(同書88頁)
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プロテスタントとカトリックの相違は、仏教用語で言えば、自力本願と他力本願の相違に似ていて、Gemeinschaft der Heiligen は阿弥陀如来の御座す極楽浄土に似ている、と言えなくもありません。小太郎さんが引用された文にある「花園」や「法の窮極」も、詰まる所、Gemeinschaft der Heiligen の庭園の一部だ、というような感じがしてきますね。

前掲書にある田中耕太郎の年譜に、「大正四年 六月 明治神宮造營局兼内務属」とありますが、内務省における配属先は「明治神宮造營局」だったのですね。

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尾高朝雄と田中耕太郎

2015-10-17 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月17日(土)12時36分39秒

またまた『田中耕太郎 人と業績』からの長い引用で恐縮ですが、阿南成一氏(大阪市立大学名誉教授、法哲学)の「田中先生と現代自然法論」も興味深いですね。(p298以下)

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 昭和二十二年四月、ちょうど私が卒業して研究室に入ったときに、尾高朝雄先生の名著『法の窮極に在るもの』が上梓された。先生のお使いでその献呈本を持って田園調布の田中先生宅に伺った。先生はしばらく頁を繰っておられた。そうでなくても余りものを言われない先生がいつ何を言われるかと、私は固くなったまま待っていた。その間じっさいには十分位かもしれないが、私にはそれが三十分以上にも思われた。そして、開口一番、「君はもちろんこれを読んだだろうが、これは<自然法>に近いところもありそうだが、どう思うかね」と質ねられた。私はしどろもどろながらも、「<自然法>ということばを使うことを意識的に避けておられるように思います」というようなお答えをした。かねて、尾高先生の書かれたものや、ゼミその他での御口説からも、そう解してまちがいないと思われたからである。
 周知のように、そのごまもなく法学協会雑誌(六五巻一号)に田中先生が書評を書かれた。御記憶の向きも多いと思うが、「我々は著者につれられて広大な、百花らんまんたる花園を横切ろうとする。目的の地点がどこにあるか、それは我々に秘せられている。我々は……ヘルメスの塑像の由来についての著者の講義を聴く。次の広場には蜂房が置いてあり、……蜜蜂の生活についての薀蓄に耳を傾ける。第三、第四の広場でもそれぞれ面白い話題が発見せられる。我々はむさぼるような興味で話に聞き入るのであるが、我にかえって見ると多少の疲労を覚え、又日も傾き初め、目的の地点はどこか、又何時そこに着くかが気にかかり出した。ところが心配無用で、我々は飛んでもない所に連れられて行ったのではなく、これは花園の入口だったのであった。かようにして我々はペダゴーギッシュに甚だ有益な法律哲学的の散策を終えたのである。」という田中先生の書評の<むすび>は、『法の窮極に在るもの』の特徴を言い当てて妙であり、その強烈な印象を私は今もなお忘れえない。
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この後、尾高・田中間の<自然権>論争が簡単に紹介されます。
それにしても『法の窮極に在るもの』をこれほど芸術的な表現で的確に批評できる人は、同時代には田中以外にいなかったでしょうね。

>筆綾丸さん
>「一老人の幼時の追憶」
伊原元治・大沢章・植野勲氏との共訳で、大正3年に興風書院という出版社から『生ひ立ちの記』という題で出版され、大正15年に『一老人の幼時の追憶』と改題されて岩波書店から出て、更に昭和13・14年に岩波文庫で上中下の三巻本が出たようですね。
大正15年のものは755p、図版19枚だそうですから、なかなかの大著ですね。
時々行く図書館で閲覧できそうなので、後でどんな内容か確かめてみます。

>小泉信三
田中耕太郎夫人の父は松本烝治、母は小泉信吉の娘、すなわち小泉信三の妹なので、田中にとって小泉信三は義理の伯父になりますね。
もっとも小泉信三は1888年生まれなので、田中より2歳上なだけですが。

松本烝治(「歴史が眠る多摩霊園」サイト内)
小泉信三(同上)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

鷗外の序文を代筆した男 2015/10/16(金) 13:40:12
小太郎さん
『現代随想全集 27 田中耕太郎・恒藤恭・向坂逸郎 集』(昭和三十年 創元社)の内、田中耕太郎の解説をしている井上茂という人の文に、次のような箇所がありますが、佳話ですね。
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學生時代に博士から次のような話を聞いたことがある。大學時代、ウィルヘルム・フォン・キューゲルゲンの「一老人の幼時の追憶」を獨法の友人と飜譯し、これを出版することになつた。新渡戸博士の紹介で、森鷗外の序文をもらうことになつた。鴎外のもとに出掛けた博士は、彼をとりまく人々がずらりとならんでいる處で、來意を告げたところ、鷗外は快よく承諾してくれたが、その文章はそちらで書くようにとのことであつた。そこで、鷗外の序文は、田中博士が書くことになつた。「最近、小泉信三氏から、あの序文が今出ている鷗外全集に收められている、と云われて笑い合つた」と、博士はにこにこしながら語つたものである。昭和十四、五年のことであつた」(145頁~)
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田中耕太郎の随想集には、「ヴェネチアの印象」「ベートーヴェン的人間像」「繪畫放談」というのがあって、絵画や音楽に関する氏の造詣の深さには驚くばかりです。

向坂逸郎の『谷崎潤一郎と貨幣論』は、谷崎の小説『小さな王國』を題材に貨幣を論じたもので、とても興味深く、冒頭はこんな風です。
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ここに言う谷崎潤一郎氏というのは、小説家の谷崎潤一郎氏のことであつて、外に同名の經濟學者がいるわけではない。また、この谷崎氏が、經濟學の本や、貨幣についての論文を書かれたわけでもないのだから、この題は奇をてらつたようにとられても仕方がない。しかし、ある程度本氣なのである。詩人が、恐らく専門學者にとつて厄介な問題を、専門學者よりよく問題にしている例は、これまでにないわけではない。例えばゲーテやバルザックのある種の作品のように。また、トルストイの『戦争と平和』における歴史論のように。(271頁)
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恒藤恭の『友人芥川の追憶』には胸を打たれます。
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「そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」(by 田中耕太郎)

2015-10-16 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月16日(金)11時17分17秒

内藤頼博氏(元名古屋高裁長官、元学習院長、元子爵、1908-2000)の「田中先生の思い出」(『田中耕太郎 人と業績』p352以下)は、安保法制で騒々しかった今年の夏の憲法学者たちの様子を思い出しながら読むと、なかなか味わい深いものがありますね。

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 昭和一四年の秋のことである。私たちは司法研究所に入所した。その研修中に田中耕太郎先生が研究所に来られたときのことが、私には忘れられない。
 その頃の司法研究所は、いまの司法研修所とはちがう。当時、支那事変が進展して戦時の態勢に入るとともに、いわゆる国家総動員を目標に、時勢は軍国主義の色彩を次第に濃くしていた。司法研修所の研修も、この時勢に応じて、判事・検事の再教育を主眼とするものであった。
 当時入所したのは、任官後七、八年を経た判事と検事で、約五〇名であった。
 研修中には、塩野司法大臣の講演もあった。塩野法相は、その講演の中で"今日、検察も進歩したし、行刑も改善されたが、裁判だけは旧態依然たるものがある。"といって、当時の裁判のあり方を批判された。そういう情勢の下で、司法の正しいあり方を求めていた私たち判事仲間は、その"旧態依然たる"ことに内心誇りを感じていたものである。
 その少し前から、その塩野法相を中心に、日本法理研究会というものが作られていた。その会の実体を私は詳らかにしないが、判事や検事や大学教授などを集めて、民事・刑事その他各分野にわかれて研究会を作り、"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の法理を研究しようという、相当大がかりなものであった。多数の判事や検事がこれに参加し、大学の教授方も多数参加されて、当時は、これが法曹界・法学界の大勢を占める形となった。東大で私たちが教えを受けた著名な先生方も、すでに何人か参加しておられた。
 田中先生が司法研究所に来られたのは、そういう頃のことである。先生が教官室に入ってこられたとき、私はたまたまそこに居合わせた。すると検事の教官二人が早速先生をつかまえて、日本法理研究会に入って頂きたいとお願いした。ほんとうに何でもなく、気やすく引きうけて頂けるものと信じ込んでのお願いであった。
 すると、田中先生は微笑を浮かべておだやかにいわれた。"そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ。"二人の教官は唖然とした。全く二の句がつげない。痛快だった。そして感激した。本当の学者の土性骨というものを、そこにみた。そして、学問というものの真のきびしさに初めて触れた心地がした。
 "後世の笑いを買いますよ。"といわれた田中先生のお声が、三十数年を経た今日でも、妙に私の耳から離れない。田中先生が終生貫かれたのは、その学者としての態度であった。
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樋口陽一氏が山口二郎氏とともに「共同代表」をつとめる「立憲デモクラシーの会」に参加した憲法学者なら、安倍首相は"東亜の盟主"にふさわしい日本独自の憲法を制定しようとしており、その安倍が率いる国家権力に対抗する自分たちは、昭和14年の田中と同じく「後世の笑いを買」わないように今闘っているのだ、と言うかもしれません。
他方、改憲の動きと安保法制は別問題であると考え、「立憲デモクラシーの会」が行っていた大衆扇動に違和感を覚える少数(?)の憲法学者は、「立憲デモクラシーの会」のような団体に「学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」と思うかもしれませんね。

内藤頼博
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%8D%9A
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