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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)

2023-10-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で坂井孝一氏の見解は今まであまり参照してこなかった、みたいなことを書いてしまいましたが、承久の乱に興味を持ち出した初期の頃に沢山引用していましたね。
まず、2020年5月26日の投稿で『承久の乱』を「はじめに」を引用し、坂井著の目的が「先入観に基づく一般的イメージを払拭し、研究の進展に即した「承久の乱」像を描きたい」ということであることを紹介しました。
坂井氏の言われる「先入観」とは、主として「朝廷と幕府を対立する存在とみなす先入観」のことですね。
また、承久の乱に関する坂井氏の基本的認識に関する部分(p134以下)も引用しました。

「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821

そして、翌27日の投稿で、坂井氏による慈光寺本の義時追討院宣の現代語訳も引用しておきました。
坂井氏は「長村祥知氏の詳細・綿密な分析によれば、これは実在した院宣を引用したものであるという」と書かれていますが、坂井氏自身も長村新説に同意されていることは明らかですね。
そして坂井氏は「院宣の論理」を分析し、後鳥羽の院宣が「御家人の心を掴むのに十分な院宣」であって、「絶大な効果を発揮することは間違いない」と言われますがが、では、実際にこの院宣は「御家人の心を掴」んだのか、「絶大な効果を発揮」したのかというと、全くそんなことはなかった訳で、坂井氏の力強い文章は、私にはいささか滑稽に思われました。

「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66884f8742592d639b1fdc1f5c96d0e9

坂井氏は「後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、討幕でも武士の否定でもなかった」(『承久の乱』、p156)と言われますが、具体的に何を、どのように、どの程度「コントロール」するのかは明示されません。

「コントロール」の内実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67d8fa706c0e906d93e4e3f433651dfc

この点は坂井氏と同じく「義時追討説」に立つ野口実氏も同様ですね。
坂井氏の場合も野口氏の場合も、北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定されているのですが、その内実は不明確です。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

さて、2020年6月18日の投稿で、私は坂井氏による義時追討院宣の現代語訳、特に「奉行」の部分に若干の疑問を呈しましたが、今から考えると、自分の批判も若干的外れだったような感じもします。

「奉行」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23b3b482aed57e638ffd83f7f1e88171

この後はあまり坂井著に触れることはなく、坂井氏が高く評価される長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)の検討が中心となりましたが、私の坂井著に対する感想は、2021年9月20日の次の投稿で一応纏めておきました。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36

さて、坂井氏はメルクマールの、

(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。

に該当することは明らかなので、次の、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くことにします。(p175以下)

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恩賞のリアリティ
 六月五日、鎌倉方東海・東山両道軍は尾張国一宮に着くと、軍議を開き、攻撃の分担を決めた。『吾妻鏡』同日条によれば、それは以下の通りであった。【中略】
 「慈光寺本」はここで注目すべき叙述を挿入する。美濃国大井戸付近まで来た鎌倉方東山道軍の大将軍武田信光が、小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ(鎌倉方が勝つならば鎌倉方に付こう。京方が勝つならば京方に味方しよう。これこそ弓矢の道に生きる武士のしきたりだ)」と持ちかけたのである。ところが、武田・小笠原の出方を予測していた北条時房が書状を送り、大井戸・河合の渡河作戦を成功させたら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」、つまり恩賞として六ヵ国の守護職を保証すると提案した。リアルな恩賞を提案され、武田・小笠原は即座に渡河を決行したという。むろん、文学的な脚色や誇張が含まれている可能性もあろう。しかし、合戦の中で武士たちが戦況をみきわめ、優勢な側に付くという事例は他にもみられる。「慈光寺本」の叙述は、武士たちの価値観・行動パターンの一端を示したエピソードといえる。
 ただ、より注目すべきは、自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力である。六ヵ国の守護職の保証というのは誇張かもしれないが、武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示したのであろう。後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差がある。ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある。後鳥羽は追討の院宣で褒美を与える。官宣旨では院庁への参上と上奏を許可するという形で恩賞を示した。しかし、畿内近国はともかく、東国に本拠を置く武士にどれほどのリアリティをもって伝わったか疑わしい。後鳥羽の東国武士に対するリアリティの欠如は、合戦の勝敗をも左右するものだったと考える。
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検討は次の投稿で行いますが、果たして坂井氏自身に「東国武士に対するリアリティ」があるのでしょうか。
私は極めて懐疑的です。
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