「慈光寺本妄信歴史研究者交名」シリーズも三十回になったので、そろそろ纏めて次の話題に行きたいと思います。
五つのメルクマールに即して、若手・中堅・ベテラン・長老クラスの研究者を眺めてきて、後は「大将格」の高橋秀樹氏と長村祥知氏、そして「総大将」の野口実氏を残すだけですね。
高橋氏については近著の『人物叢書 三浦義村』(吉川弘文館、2023)が未読なので、同書を確認後とします。
長村氏の見解については今までかなり検討してきましたが、このシリーズでは、残された論点のうち野口氏と共通の問題点、即ち国文学者の西島三千代氏の影響を中心に少し論じたいと思っています。
そして西島説の影響を最初に受けたのは野口氏のようですので、野口氏の見解から見て行くことにします。
まずは五つのメルクマールに即して野口説を見て行くと、野口氏には「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)という論文があり、これは「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとするものなので、必然的に慈光寺本への依拠の度合は極めて高くなっています。
野口氏の基本姿勢については、リンク先の2020年5月31日の投稿を参照願います。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
まず、メルクマール(1)については、
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一方、京都の形成を察した幕府執権北条義時は、実朝の死んだ翌月に、自分の妻の兄にあたる伊賀光季と幕府の宿老大江広元の子親広を京都守護に任命するとともに、政所執事の二階堂行光を使者として京都に派遣し、かねてからの黙約にしたがって、皇子の東下を要請した。しかし、院はこれを留保する一方、実朝の弔問のために鎌倉に派遣した藤原忠綱に、自分の寵愛する遊女亀菊(伊賀局)の所領である摂津国長江庄(大阪府)の地頭職改補の要求を伝えさせた。長江庄の地頭は北条義時である。
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とあって(p9)、長江庄の地頭が義時と断定されていますね。
なお、細かいことですが、『吾妻鏡』と流布本では長江・倉橋庄の二つが問題となっているのに対し、慈光寺本では「長江庄三百余町」だけです。
次にメルクマール(2)については、
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光季は討死の前に、院の挙兵を鎌倉に伝える文書を下人に託していた。この下人が京都を発ったのは十五日戌刻(午後八時頃)であったが、これと同時刻に三浦胤義の使者も義村宛の書状を携えて鎌倉に向っている。また、院からは幕府の有力御家人である北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏らに、五畿七道諸国に宛てた義時追討の官宣旨と義時の幕政奉行を停止すべしとする院宣が下された(とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある)。これらを携えた院の下部押松が、鎌倉を目指して京を出発したのは、十六日の寅刻(午前四時頃)のことであった。
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とのことで(p11以下)、細かいところまで全て慈光寺本に沿っていますね。
ま、「北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏ら」と八名列挙した後の「ら」は変ですが。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3
それと「とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある」は史料的根拠のない推測ですが、時房の立場について、野口氏は、
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なお、この義村とともにとくに北条時房が蹶起を期待されたのは、彼こそが北条氏の在京活動の担い手として、院近臣の公卿たちとも親密な関係にあったからであろう。当時は北条氏嫡流(得宗家)の権力が確立していた訳ではなく、時房が義時から離反する可能性も否定は出来なかったのである。しかし、実質的に鎌倉将軍家と北条氏双方の家長の立場にあった政子の存在がそれを抑止したのであった。
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と考えておられるので(p13)、「時房が義時から離反する可能性」と連動した「可能性」ということでしょうね。
なお、幕府軍の構成について、一般には『吾妻鏡』(と流布本)に従い、東海道十万騎、東山道四万騎、北陸道五万騎の合計十九万騎とするのが通例ですが、野口氏は慈光寺本に即して、
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東海道軍は、先陣が北条時房(義時の弟)、二陣が泰時(義時の嫡子)、三陣が足利義氏(義時の姉妹の子)、四陣が天野政景(三浦義村の姉妹の夫で、義村の代官か)ら、五陣が木内胤朝と千葉泰胤(いずれも千葉市一族で、おそらく家督の胤綱が年少であるための名代)に率いられた都合七万騎。これがいわば大手軍で、総大将は泰時であったが、これを補佐して実質的にその役に当たったのは、泰時の舅の三浦義村であったようだ。
東山道軍は、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清を大将軍とする五万騎。北陸道軍は、北条朝時(義時の二男)を大将軍とする七万騎。三道の総勢十九万騎の陣容である。
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とされます。(p14)
ただ、北陸道ルートは東海道・東山道と比べて移動距離が長大で、実際にも北陸道軍は宇治河合戦に間に合わず、京都への到着は二十日(『百錬抄』。慈光寺本では十七日。『吾妻鏡』と流布本には記載なし)になってしまっています。
そして最初の主戦場が北陸道軍には無関係な尾張河(木曽川)流域となることも予想されていたでしょうから、総勢十九万騎という数字は大袈裟だとしても、
東海道:東山道:北陸道=10:4:5
という『吾妻鏡』(と流布本)のバランスはそれなりに妥当な感じであり、慈光寺本の、
東海道:東山道:北陸道=7:5:7
は不自然に思われます。
また、慈光寺本では、そもそも京方には東海道軍と東山道軍を分ける理由がないにもかかわらず、藤原秀康による第一次軍勢手分では、
東海道 七千騎
東山道 五千騎
北陸道 七千騎
となっていて、それぞれ幕府軍の十分の一であり、割合は、
東海道:東山道:北陸道=7:5:7
と、幕府軍と完全に一致します。
まるで示し合わせたかのようなこれらの数字はどうにも不自然ですね。
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その9)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)(続々)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f25e804b9632846bf3b25419a1518c6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b
五つのメルクマールに即して、若手・中堅・ベテラン・長老クラスの研究者を眺めてきて、後は「大将格」の高橋秀樹氏と長村祥知氏、そして「総大将」の野口実氏を残すだけですね。
高橋氏については近著の『人物叢書 三浦義村』(吉川弘文館、2023)が未読なので、同書を確認後とします。
長村氏の見解については今までかなり検討してきましたが、このシリーズでは、残された論点のうち野口氏と共通の問題点、即ち国文学者の西島三千代氏の影響を中心に少し論じたいと思っています。
そして西島説の影響を最初に受けたのは野口氏のようですので、野口氏の見解から見て行くことにします。
まずは五つのメルクマールに即して野口説を見て行くと、野口氏には「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)という論文があり、これは「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとするものなので、必然的に慈光寺本への依拠の度合は極めて高くなっています。
野口氏の基本姿勢については、リンク先の2020年5月31日の投稿を参照願います。
「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
まず、メルクマール(1)については、
-------
一方、京都の形成を察した幕府執権北条義時は、実朝の死んだ翌月に、自分の妻の兄にあたる伊賀光季と幕府の宿老大江広元の子親広を京都守護に任命するとともに、政所執事の二階堂行光を使者として京都に派遣し、かねてからの黙約にしたがって、皇子の東下を要請した。しかし、院はこれを留保する一方、実朝の弔問のために鎌倉に派遣した藤原忠綱に、自分の寵愛する遊女亀菊(伊賀局)の所領である摂津国長江庄(大阪府)の地頭職改補の要求を伝えさせた。長江庄の地頭は北条義時である。
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とあって(p9)、長江庄の地頭が義時と断定されていますね。
なお、細かいことですが、『吾妻鏡』と流布本では長江・倉橋庄の二つが問題となっているのに対し、慈光寺本では「長江庄三百余町」だけです。
次にメルクマール(2)については、
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光季は討死の前に、院の挙兵を鎌倉に伝える文書を下人に託していた。この下人が京都を発ったのは十五日戌刻(午後八時頃)であったが、これと同時刻に三浦胤義の使者も義村宛の書状を携えて鎌倉に向っている。また、院からは幕府の有力御家人である北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏らに、五畿七道諸国に宛てた義時追討の官宣旨と義時の幕政奉行を停止すべしとする院宣が下された(とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある)。これらを携えた院の下部押松が、鎌倉を目指して京を出発したのは、十六日の寅刻(午前四時頃)のことであった。
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とのことで(p11以下)、細かいところまで全て慈光寺本に沿っていますね。
ま、「北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏ら」と八名列挙した後の「ら」は変ですが。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3
それと「とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある」は史料的根拠のない推測ですが、時房の立場について、野口氏は、
-------
なお、この義村とともにとくに北条時房が蹶起を期待されたのは、彼こそが北条氏の在京活動の担い手として、院近臣の公卿たちとも親密な関係にあったからであろう。当時は北条氏嫡流(得宗家)の権力が確立していた訳ではなく、時房が義時から離反する可能性も否定は出来なかったのである。しかし、実質的に鎌倉将軍家と北条氏双方の家長の立場にあった政子の存在がそれを抑止したのであった。
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と考えておられるので(p13)、「時房が義時から離反する可能性」と連動した「可能性」ということでしょうね。
なお、幕府軍の構成について、一般には『吾妻鏡』(と流布本)に従い、東海道十万騎、東山道四万騎、北陸道五万騎の合計十九万騎とするのが通例ですが、野口氏は慈光寺本に即して、
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東海道軍は、先陣が北条時房(義時の弟)、二陣が泰時(義時の嫡子)、三陣が足利義氏(義時の姉妹の子)、四陣が天野政景(三浦義村の姉妹の夫で、義村の代官か)ら、五陣が木内胤朝と千葉泰胤(いずれも千葉市一族で、おそらく家督の胤綱が年少であるための名代)に率いられた都合七万騎。これがいわば大手軍で、総大将は泰時であったが、これを補佐して実質的にその役に当たったのは、泰時の舅の三浦義村であったようだ。
東山道軍は、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清を大将軍とする五万騎。北陸道軍は、北条朝時(義時の二男)を大将軍とする七万騎。三道の総勢十九万騎の陣容である。
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とされます。(p14)
ただ、北陸道ルートは東海道・東山道と比べて移動距離が長大で、実際にも北陸道軍は宇治河合戦に間に合わず、京都への到着は二十日(『百錬抄』。慈光寺本では十七日。『吾妻鏡』と流布本には記載なし)になってしまっています。
そして最初の主戦場が北陸道軍には無関係な尾張河(木曽川)流域となることも予想されていたでしょうから、総勢十九万騎という数字は大袈裟だとしても、
東海道:東山道:北陸道=10:4:5
という『吾妻鏡』(と流布本)のバランスはそれなりに妥当な感じであり、慈光寺本の、
東海道:東山道:北陸道=7:5:7
は不自然に思われます。
また、慈光寺本では、そもそも京方には東海道軍と東山道軍を分ける理由がないにもかかわらず、藤原秀康による第一次軍勢手分では、
東海道 七千騎
東山道 五千騎
北陸道 七千騎
となっていて、それぞれ幕府軍の十分の一であり、割合は、
東海道:東山道:北陸道=7:5:7
と、幕府軍と完全に一致します。
まるで示し合わせたかのようなこれらの数字はどうにも不自然ですね。
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その9)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)(続々)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f25e804b9632846bf3b25419a1518c6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b