学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」

2021-05-31 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月31日(月)11時13分37秒

(その7) 以来、久しぶりに松尾著に戻ります。
松尾氏は、

-------
【前略】彦七は将軍足利尊氏に二心ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
 以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c7e7b88c7867096d236504943aafbfa

と書かれていますが、松尾氏の説明は、私の分類では概ね第二幕までで終わっています。
しかし、原文を見ると、第三幕以下第六幕までが結構な分量であることは前回までに確認した通りです。
さて、松尾氏は大森彦七エピソードの総括として、次のように書かれています。(p40)

-------
 この話は、『太平記』以外の史料によって事実か否かを確かめられない。しかし重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である。『太平記』では、正成らの怨霊が鎮められ、南朝方の冥界の味方が抑えられた結果として、脇屋義助ら南朝の活動も鎮圧されたことを描いている。なお、脇屋義助は新田義貞の弟で、懐良親王を奉じて伊予に入ったが康永元(一三四二)年六月に病死した。
 このように、『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていたのであり、いうなれば、南北朝動乱史の展開の背後に、目に見えない怨霊たちの活躍をも見ていたのである。第一章では、後醍醐が怨霊となったことを述べたが、正成も、いわば、後醍醐の分身として死後に再び活躍していたのである。『太平記』では、破れし側は怨霊となり、それらが歴史の冥(目に見えないところ)の主人公として描かれ、勝利者は敗者の怨霊を静めることを期待されている。いわば、『太平記』は怨霊の物語といえる点を強調したい。もう少し怨霊となった人々をみてみよう。
-------

うーむ。
松尾氏は「『太平記』作者が、それを事実として受け止めた」、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」、と力説される訳ですが、私は懐疑的です。
『太平記』の長大な大森彦七物語を実際に読んでみると、多くの人が大森彦七はけっこう魅力的な人物に描かれているように感じると思います。
彦七は終始一貫、怨霊など全く恐れず、「彦七、元来したたかなる者なれば」(p79)、「彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ」(p81)、「盛長、これにもかつて臆せず」(p82)と堂々たる態度を貫き、正成の怨霊にどんなに脅されようと、「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進ずべからざる上は、早や御帰り候へ」(p83)と言い返すような人間として描かれています。
そして、何故に彦七が怨霊など全く恐れないのかといえば、それは彦七が無教養な乱暴者だからではなく、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」(p87)という禅の教えを自己の信念として骨肉化しており、「千変百怪、何ぞ驚くに足らん」(同)と考えている人だからですね。
怨霊という一種の宗教的権威に屈しないだけでなく、彦七は天皇の権威に屈することもなく、第三幕で仰々しく「先帝」後醍醐の綸旨を携え、「勅使」として登場した正成に対し、不敵にも「例の手の裏を返す如きの綸旨給ひても詮なし」(p88)と言い放ちます。
こうした彦七の描かれ方は、実は『太平記』の作者は彦七の怨霊に対する態度に共感しているのではないか、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」などということは全くないのではないか、という疑いを生じさせます。
このような観点から大森彦七物語全体を見直すと、特に興味深いのは彦七が「物狂ひ」(p88)として造型されていることです。
「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」ならば、即ち客観的に怨霊が実在していると信じていたならば、作者は彦七を「物狂ひ」とする必要があったのか。
彦七が「物狂ひ」となったとされるのは、私の分類では第四幕からですが、第一幕の美女が鬼となった場面でも、「怪物は掻き消すやうに失せて」(p80)しまって、彦七の下人たちが見たのは「茫然として人心地もない」(同)彦七だけです。
また、第三幕で綸旨を持参した正成が「先帝後醍醐」以下の同行者を紹介する場面でも、「この有様ただ盛長が幻にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂ふ声ばかりぞ残りける」(p87)とあります。
しかし、作者が客観的に「先帝後醍醐」以下の怨霊が実在していると考えるならば、何故に多くの人が怨霊を見たと書かないのか。
「物狂ひ」の人が「幻」を見ただけでは物語としては面白くも何ともないので、『太平記』の作者は様々に工夫を凝らして読者・聴衆を興奮させる波瀾万丈のストーリーを展開していますが、それは伝奇小説の作者が普通にやっていることで、別に『太平記』の作者が書いた内容を信じていることを保証している訳ではありません。。
私には、作者は一方で波瀾万丈の物語を工夫しながら、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった人の「幻」なんですよ、というヒントを提示してくれているように感じられます。
そして、その作者の提示する最大のヒントが、「霊剣」に対する直義の態度ではないかと思われます。
前回投稿では、「霊剣」に対する直義の態度については『太平記』全体における直義の評価をもう少し勉強してからまとめると書きましたが、ここは大森彦七物語だけで考えることもできそうです。
即ち、大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の評価は、このストーリー全体が一人の「物狂ひ」が見た「幻」なんですよ、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」なんですよ、という『太平記』の作者の怨霊に対するシニカルな態度の表明のように思われます。
そして「霊剣」に対する直義の態度が流布本・天正本でひっくり返ってしまっている点は、『太平記』の作者の問題ではなく、遥かに時代が下ってからの流布本・天正本の編者の問題ですね。
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松尾著(その14)「かの盛長が刀をば、天下の霊剣なればとて、左兵衛督直義朝臣の方へ奉りたりしを」

2021-05-30 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月30日(日)13時18分9秒

後日談と書きましたが、流布本では、今まで紹介した部分に対応する記述の後、直ちに、

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さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。
-------

と続きます。(『日本古典文学大系35 太平記(二)』、岩波書店、1961、p400、但し、読みやすくするためカタカナを平仮名に変換)
ところが、西源院本ではかなり後にこの話が出てきます。
即ち、西源院本第二十四巻は、

-------
1 義助朝臣予州下向の事、<付>道の間高野参詣の事
2 正成天狗と為り剣を乞ふ事
3 河江合戦の事、<同>日比海上軍の事
4 備後鞆軍の事
5 千町原合戦の事
6 世田城落ち大館左馬助討死の事
7 篠塚落つる事
-------

と構成されていますが、大森彦七の物語は第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」で大半が語られた後、しばらく四国での戦闘状況の描写が続き、第七節「篠塚落つる事」の最後に、

-------
 さても大般若経購読の功力〔くりき〕によつて、敵軍に威を添へんとせし正成が亡霊静まりければ、大将脇屋刑部卿義助、副将軍大館左馬助を始めとして、土居、得能以下〔いげ〕に至るまで、或いは病んで死に、討たれて亡び、或いは落ち行き、遁世して、四国、中国、期〔ご〕せざるに静謐しけるこそ不思議なれ。天竺の班足太子〔はんぞくたいし〕は、仁王経の功徳によつて、千王を害する事を止め、今の楠判官は、大般若の講読に鎮まつて、三毒を免〔まぬか〕る事を得たりき。 その後、かの盛長が刀をば、天下の霊剣なればとて、左兵衛督直義朝臣の方へ奉りたりしを、さしたる事あらずとて、賞翫の儀もなかりしかば、沙〔いさご〕に埋〔うず〕まれたる断剣の如くにて、凌天〔りょうてん〕の光もなかりけり。
-------

とあります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p110以下)
何故にこのような違いがあるかというと、西源院本を含む古本系では第二十二巻が欠巻となっているのに対し、流布本や天正本などは第二十二巻が存在していますが、これは古本系の第二十三巻以降の記事を繰り上げるなどして、あくまで形式的に欠巻を補填しているだけです。
そして、この組み換えの際に、古本系の構成も少し変えてしまっていて、その典型が大森彦七物語です。
西源院本第二十四巻に相当する部分は、大森彦七物語(第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」と第七節の末尾)を除き、流布本では第二十二巻に移っていて、大森彦七物語は第二十三巻の冒頭に置かれた訳ですね。
さて、流布本では、献上された剣を見た直義は「「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや」と賞賛したのに対し、西源院本では「さしたる事あらずとて、賞翫の儀もなかりしかば」という具合いですから、直義の態度は全く正反対です。
長谷川端校注『新編日本古典文学全集56 太平記(3)』(小学館、1997)によれば、天正本では流布本と同じく直義は「霊剣」を「賞翫」しており、他方、古本系の神田本は、

-------
さて其後かの盛長が刀ヲバ天下ノ霊剣なれバとて左兵衛督直義朝臣ノ方へ奉りたりしヲ、事まことしからずとてさして賞翫ノ儀もなかりシかバ、砂ニ埋マレたる断金ノごとくニて凌天ノ光りもなかりけり
-------

とのことで(p140)、直義の姿勢は西源院本と同じです。
このように古本系と流布本・天正本等で「霊剣」に対する直義の態度に顕著な違いがあることをどのように考えるべきなのか。
この点、少し検討してみたのですが、『太平記』全体における直義の評価と、その諸本間の異同について、もう少し勉強してからまとめた方が良さそうなので、暫くペンディングとしておきます。
次の投稿では、大森彦七物語についての松尾剛次氏の総括的な評価を紹介した上で、若干の検討を行います。
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松尾著(その13)「虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切る」

2021-05-29 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月29日(土)09時38分51秒

虚空には後醍醐に率いられた数万人の大軍団が遊弋し、大森彦七も「警固の者ども数百人」を擁する割には、具体的な戦闘場面は何だかショボいですね。
第一幕で登場した美女と第五幕後半で登場した「女の首」は同じ怪物のような感じもしますし、第四幕の「鞠の如くなる物」と第五幕前半の「手毬の如くに見えたる物」も同じ怪物かもしれないので、結局、大森彦七が二人(?)の怪物と一対一の取っ組み合いを繰り返しているだけのようにも見えます。
そして、様々な態様の笑い声が響き渡る不気味な神経戦が続いた後、第六幕に入って「或る僧」が登場します。
第五幕でも「大きなる寺蜘一つ、天井より下がりて、寝ぬる人の上をかなたこなた走」る様子を目撃する「禅僧」が登場しましたが、「或る僧」はその「禅僧」とは異なるようです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p94以下)

-------
 かくてはいかがすべきと、思ひ煩ひける処に、或る僧、来たつて申しけるは、「そもそも、今現ずる所の怨霊どもは、皆修羅の眷属たり。これを静むる計り事を案ずるに、大般若経を読むに如〔し〕くべからず。その故は、帝釈と修羅と須弥の中央にして合戦を致す時、帝釈軍〔いくさ〕に勝てば、修羅小身〔しょうしん〕を現じて、藕花〔ぐうげ〕の中に隠る。修羅また勝つ時は、須弥の巓〔いただき〕に座して、手に日月〔じつげつ〕を拳〔にぎ〕り、足を延べて大海を踏む。しかのみならず、三十三天の上に登りて、帝釈の居所を追ひ落とし、欲界の衆生を悉くわが有所〔うしょ〕になさんとする時、諸天〔しょてん〕善法堂に集まつて、般若を講じ給ふ。この時、虚空より輪宝〔りんぽう〕下り、剣戟〔けんげき〕降つて、修羅の輩〔ともがら〕を分々〔つだつだ〕に裂き切ると見えたり。されば、須弥の三十三天を領じ給ふ(帝釈だにも、わが力の及ばぬ所には、法威〔ほうい〕を以て魔王を降伏し給ふ)ぞかし。況んや、薄地〔はくじ〕の凡夫、法力を借らずは、退治する事を得難し」と申しければ、「この儀、げにもしかるべし」とて、俄かに僧衆を請じて、真読〔しんどく〕の大般若を、夜昼六部までぞ読ませたりける。
 誠に般若読誦〔どくじゅ〕の力によつて、修羅威〔い〕を失ひけるにや、五月三日の暮程に、導師高座に上つて、啓白〔けいびゃく〕の鐘打ち鳴らしける時より、俄かに天掻き曇りて、雲の上に車を轟かし、馬を馳せ違ふ声止む時なし。矢先の甲冑を通る音は、雨の降るよりも茂く、刃の剣戟を交ふる光は、燿く星に異ならず。聞く人、見る人、ただ肝を消し、胸を冷してぞ怖〔お〕ぢ合へる。この闘ひの声止んで、天も晴れにしかば、盛長が狂気本復〔ほんぷく〕して、正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり。
-------

ということで、「或る僧」は大般若経を読誦するのがベストだと提案します。
「或る僧」によれば、かつて「帝釈と修羅と須弥の中央にして合戦を致」し、帝釈が劣勢となって修羅の支配が「欲界の衆生」全部に及びそうになった時、「諸天」が「善法堂」(帝釈天の宮殿、喜見堂の西南にある堂)に集まって大般若経を読んだところ、「虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切」ったとのことで、帝釈だって法力を借りたのだから、まして我らのような「薄地の凡夫」は法力を借りずに怪物を退治する事ができようか、という論理ですね。
この提案に従って「真読の大般若」を「夜昼六部までぞ読ませ」たところ、「五月三日の暮程に、導師高座に上つて、啓白の鐘打ち鳴らしける時より」、遥か彼方の天上世界で修羅軍と反修羅軍の一大戦争が勃発したらしく、大変な音と光のスペクタクルショーが演じられた後、世界は静謐を取り戻し、大森彦七の狂気も本復して、「正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり」となります。
大森彦七と怪物の地味な勝負が続いた後、最後の最後でスターウォーズが華やかに繰り広げられ、彦七の「狂気」も完全に治ったということで、全六幕の大森彦七物語は大団円を迎えます。
なお、西源院本では最終的解決をもたらした「或る僧」の宗派は分かりませんが、流布本では「彦七が縁者に禅僧の有けるが」となっていて、「禅僧」と明示されています。
このように、細部では西源院本と流布本に違いがあるものの、ストーリーはほぼ同一です。
しかし、この後の若干の後日談で、西源院本と流布本には大きな違いが出てきます。
流布本では、

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以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c7e7b88c7867096d236504943aafbfa

となるのですが、西源院本は全く違います。
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松尾著(その12)「眉太く作つて、金黒なる女の頸の、回り四、五尺もあるらんと覚えたるが」

2021-05-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月28日(金)23時08分34秒

「警固の者ども数百人」は蜘蛛の糸に絡めとられてしまって何の役にも立たず、大森彦七はたった一人奮戦して何かを取り押さえますが、彦七が膝の下に抑え込んだそれを、逃がすまいとして皆で押さえつけると「大きなる瓦気の破るる音して、微塵に砕け」てしまいます。
結局、それは「曝たる死人の首」、野ざらしになっていたしゃれこうべということで、これで一安心かと思いきや、彦七は肝心の剣がいつの間にか無くなっていることに気付いて驚愕します。
ただ、この後、次のような展開となります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p92)

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 有明の月の隈なく、中門〔ちゅうもん〕に差し入りたるに、簾台〔れんだい〕を高く巻き上げさせて、庭上〔ていしょう〕を遥かに見出だしたれば、空中より、手毬の如くに見えたる物、ちと光りて叢〔くさむら〕の中へ落ちたり。なにやらんと走り出でて、これを見れば、先に盛長に押し砕かれつる首の、半ば残りたるに、件〔くだん〕の刀自〔おの〕づから抜けて、柄口〔つかぐち〕まで突き貫ぬいてぞ落ちたりける。不思議なんど云ふもおろかなり。やがてこの首を取つて、火に投げくべたるに、火の中より跳〔おど〕り出でけるを、金鋏〔かなばさみ〕にてしかと挟みて、つひに焼き砕いてぞ捨てたりける。
-------

「空中より、手毬の如くに見えたる物」が落ちて来て、それは大森彦七に「押し砕かれつる首の、半ば残りたる」ものであって、そこに問題の剣が刺さっていた、ということですが、今一つ事情が分かりません。
怪物の実体は野ざらしのしゃれこうべであり、それは彦七との格闘中に彦七によって二つに割られてしまったか、あるいは自ら二つに分かれてたか、とにかく半分だけになってもしぶとく彦七の剣を奪って上空に逃れたものの、そこで剣が自発的に動き出し(?)、残り半分を刺し貫いた、ということでしょうか。
あるいは、彦七との格闘中、剣が「自づから抜けて」しゃれこうべを刺し貫き、そこで二つに割れて半分は彦七が抑え込み、残り半分は剣に突き刺されたまま上空に逃げたものの、力尽きて落ちて来た、ということでしょうか。
「自づから抜けて」というのは鞘から抜けたということでしょうから、後者の解釈の方が自然かもしれませんが、この辺り、ストーリーの展開がちょっと雑になっているような感じがしないでもありません。
また、第四幕では「怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり」とありましたが、この「鞠の如くなる物」は第五幕の「手毬の如くに見えたる物」と同じ物、即ち野ざらしのしゃれこうべということなのでしょうか。
いろいろ謎ですが、この後、更に続きがあります。

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 事静まりて後、盛長、「今はこの怪物〔ばけもの〕、よも来たらじと覚ゆる。その故は、楠がともなふ者七人ありと云ひしが、かくて早や来たる事七度なり。これまで(にて)ぞあるらん」と申せば、諸人、「げにもさ覚え候ふ」と云ふを聞いて、虚空にしわがれたる声にて、「よも七人には限り候はじ」と、あざ笑う声しけり。こはいかにと驚いて、諸人、空を見上げたれば、庭なる鞠の懸かりに、眉太く作つて、金黒〔かねぐろ〕なる女の頸〔くび〕の、回り四、五尺もあるらんと覚えたるが、乱れ髪を揮〔ふ〕り上げて、目もあやに打ち咲〔わら〕ひ、「恥づかし」とて後ろ向く。見る人、あつと怯えて、同時に地にぞ倒れける。
 かやうの怪物は、蟇目〔ひきめ〕の声にこそ怖〔お〕づるなれとて、夜もすがら番衆〔ばんしゅ〕を置いて、宿直〔とのい〕蟇目を射させければ、虚空にどつと笑ふ声、射る度〔たび〕に天を響かせり。さらば、陰陽師に四門〔しもん〕を封ぜさせよとて、符〔ふ〕を書かせて門々〔かどかど〕に押させければ、目に見えぬ物来たつて、符を取つてぞ捨てたりける。
-------

ここもちょっと変で、大森彦七は「楠がともなふ者七人ありと云ひしが、かくて早や来たる事七度なり」と言いますが、指折り数えても怪物が来たのは五回ですね。
あるいは、ここは彦七が相変わらず「物狂い」の状態に置かれていることを示しているのかもしれませんが、しかし、それでは「諸人」が「げにもさ覚え候ふ」と納得してしまうのが変です。
ま、それはともかく、彦七が怪物はもう来ないだろうと言ったそばから、不気味な女の首が登場し、「七人に限った訳ではないでしょうに」と嘲笑います。
「乱れ髪を揮り上げて、目もあやに打ち咲ひ、「恥づかし」とて後ろ向く」は第一幕に登場した美女を思い出させますね。
そして、怪物は「蟇目の声」、即ち鏑矢を射る時の音に怯えるだろうということで番衆に鏑矢を射させてみたところ、怯えるどころか、その度に「虚空にどつと笑ふ声」がするということで、女の首の登場以後、笑い声が連続して響きます。
更に陰陽師に護符を書かせて貼っておいても、「目に見えぬ物」が来て、護符を取って捨ててしまいます。
ここまでを第五幕と考えてよいと思いますが、とにかく決め手のないまま、ダラダラと神経戦が続いた後、「或る僧」が抜本的な対処方針を提案します。
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松尾著(その11)「大きなる寺蜘一つ、天井より下がりて、寝ぬる人の上をかなたこなた走りて」

2021-05-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月28日(金)10時49分2秒

大森彦七物語もかなり長くなったので、改めてここまでの話の流れを整理すると、

第一幕 大森彦七の背に負われた美女が突如として「長八尺ばかりなる鬼」に変身。「この怪物、熊の如くなる手にて、彦七が髻を掴み、虚空に上がらんと」して彦七と格闘となり、彦七が配下を呼ぶと「怪物は掻き消すやうに失せ」る。

第二幕 猿楽上演の途中に「黒雲の中に、玉の輿を舁いて、恐ろしげなる鬼形の物ども」が、「色々に鎧うたる兵百騎ばかり」を連れて現れる。雲の中から「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」との声があり、彦七と問答。正成は彦七の持つ剣の由来を説明し、引き渡しを求めるも、彦七は断固拒否。正成は怒るも特に彦七に危害を加えるようなことはせず、「何とも云へ、つひには取らんずるものを」という捨て台詞を残して、意外にあっさりと退去。

第三幕 黒雲の中から声があり、正成が後醍醐の綸旨を持参し、「勅使」を称して改めて彦七に剣を要求。彦七が同行者は誰か、正成は現在どのような境遇に置かれているのかを問うと、第二幕までは声だけの出演だった正成が「近々と降り下がつて」、彦七と対面で応答。正成が松明を振ると「闇の夜忽ちに昼の如くになり」、虚空には「玉の御輿」に乗った後醍醐以下、数万人の大軍団が出現。ただ、この一大スペクタクルは彦七以外には見えず。彦七が剣の引渡しを再び断固拒否すると、正成は「大きにあざ笑」たものの、特に彦七に危害を加えるようなことはせず、「この国たとひ陸地に続きたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上を通らんに、やる事ゆめゆめあるまじ」という捨て台詞を残して、意外にあっさりと退去。

第四幕 彦七が物狂いになったため、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固していると、ある夜、「数十人打ち入る音」がしたものの、敵の姿は見えず。しかし、「天井より、猿の手の如くに毛生ひて長き腕を差し下ろし、盛長が髻を取つて中に引つさげて、八風の口より出」ようとする。彦七は剣を抜いて怪物に何度も切りつけたところ、「怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり」。屋根の上には「一つの牛の頭」が残されていた。

ということで、第二幕と第三幕はパターンが似ていますね。
また、第一幕では怪物が「熊の如くなる手にて、彦七が髻を掴み、虚空に上がらんと」し、第四幕では「猿の手の如くに毛生ひて長き腕を差し下ろし、盛長が髻を取つて中に引つさげて、八風の口より出」ようとしたということですから、熊と猿の違いはあっても、何だか同じような展開です。
なお、松尾氏は第一幕で登場した美女が「実は正成の怨霊」だと言われますが、第四幕と比較すると、怪物は正成自身ではなく、正成の配下の「修羅の眷属」であって、怨霊ないし天狗としてもそれほどレベルの高くない存在と設定されているように思われます。

松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8889f9d5aa45ef8efbcd46429454402

さて、作者も第四幕での攻撃方法の単調さが気になったのか、第五幕ではもう少し手の込んだ手法が採用されています。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p90以下)

-------
 その次の夜も、月曇り、風荒くして、怪しき気色〔けしき〕に見えければ、警固の者ども数百人、十二間の遠侍〔とおさぶらい〕に並び居て、終夜〔よもすがら〕睡〔ねぶ〕らじと、囲碁、双六を打ち、連歌をしてぞ遊びける。夜半過ぐる程に、上下三百余人ありける警固の者ども、同時にあくびをしけるが、皆酔へる者の如くになりて、首をうなだれて眠〔ねぶ〕り居たり。その座中に、禅僧の一人〔いちにん〕、睡らでありけるが、燈〔とぼしび〕の影より見ければ、大きなる寺蜘〔てらぐも〕一つ、天井より下がりて、寝〔い〕ぬる人の上をかなたこなた走りて、また元の天井へぞ上がりける。その後、盛長俄かに驚き、「心得たり。さはせらるまじきものを」とて、人に引つ組んだる体〔てい〕に見へて、上になり下になりころびけるが、叶はぬ詮〔せん〕にやなりけん、「寄れや、者ども」と申しければ、あたりに伏したる数百人の者ども、起き上がらんとするに、或いは髻〔もとどり〕を柱に結ひ付けられ、或いは人の手を我が足に結ひ合はせられて、起き上がらんとすれども叶はず、ただ網に懸かりたる魚の如し。一人睡らでありつる禅僧、余りの不思議さに走り立つて見れば、さしも強力〔ごうりき〕の者ども、わずかなる蜘〔くも〕の井に手足をつながれて、ちとも働き得ざりけり。
-------

ということで、「警固の者ども数百人」が「終夜睡らじと、囲碁、双六を打ち、連歌をして」遊んでいたにも関わらず、何故か禅僧一人を除いて全員が一時に眠り込んでしまい、その隙に「大きなる寺蜘」があちこち駆け回って、蜘蛛の糸で全員を身動きできないようにしてしまいます。
何となく、昨年秋に公開されて話題になったアニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』を連想させるような展開です。
怪物と格闘するも戦況は極めて不利、「寄れや、者ども」と叫べども誰一人応援に来てくれない絶体絶命のピンチに追い込まれた大森彦七の運命やいかに。

-------
 されども、盛長、「怪物をば、取ちて押さへたるぞ。火をともして寄れ」と申しければ、警固の者ども、とかくして起き上がり、蝋燭ともして見るに、盛長が押さへたる膝の下に、怪しき物あり。何とは知らず、生きたる物よと覚えて、押さへたる膝を持ち上げんと蠢〔むぐめ〕きける間、諸人手に手を重ねて、逃がさじと押す程に、大きなる瓦気〔かわらけ〕の破〔わ〕るる音して、微塵に砕けけり。その後、手をのけて委〔くわ〕しくこれを見れば、曝〔され〕たる死人の首、眉間の半ばより破れて砕けたり。盛長、暫く大息ついて、「すでに奴〔きゃつ〕に刀を取られんとしたりつるぞや。いかにするとも、盛長が命のあらん程は、取らるまじきものを」と、気色〔きしょく〕ばうで腰を掻い探りたれば、刀はいつのまにか取られけん、鞘ばかりあつてなかりけり。これを見て盛長、「すでに妖鬼に魂を奪はれぬ。武家の御運、今は憑〔たの〕みなし。こはいかがすべき」と、色を変じ、涙を流し、わなわなと震ひければ、皆人〔みなひと〕、身の毛よだつてぞ覚えける。
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ということで、彦七の気づかないまま、剣は怪物に奪われてしまいます。
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松尾著(その10)「一翳眼に在れば、空花乱墜す」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)22時01分36秒

続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p87以下)

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 この有様ただ盛長が幻〔まぼろし〕にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂〔い〕ふ声ばかりぞ残りける。盛長、これ程の不思議を見つれども、その心なほも動ぜず、「「一翳〔いちえい〕眼〔まなこ〕に在れば、空花乱墜〔くうげらんつい〕す」と云へり。千変百怪〔せんぺんひゃっかい〕、何ぞ驚くに足らん。たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば進〔まいら〕せ候ふまじいぞ。さらんに於ては、例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし。早や、面々に御帰り候へ。この刀をば将軍へ進〔まいら〕せ候はんずるぞ」と云ひ捨てて、内へ入れば、正成、大きにあざ笑ひて、「この国たとひ陸地〔くがち〕に続きたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上〔かいしょう〕を通らんに、やる事ゆめゆめあるまじ」と、同音〔どうおん〕にどつと笑うて、西を指してぞ飛び去りける。
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兵藤裕己氏の脚注によれば、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」は『景徳伝燈禄』(北宋の道原撰の禅宗の僧伝)巻十に見える言葉で、「眼に一つでも曇りがあると、実在しない花のようなものが見える。煩悩があると種々の妄想が起こる意」だそうです。
「これ程の不思議を見つれども」全く動じない大森彦七は相当の人物ですが、その勇敢な行動を支える論理は、

「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という真理に照らせば、自分が見た数万人の大軍団も煩悩から生じた単なる妄想であり、「千変百怪、何ぞ驚くに足」りないのである。
  ↓
従って、自分は「たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば」絶対に渡さない。
  ↓
そうである以上、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」など貰っても意味がない。
  ↓
であるから、正成その他の連中は「早や、面々に御帰り」下さい。自分は「この刀をば将軍へ」進呈することにします。

ということで、大森彦七は決して無教養な乱暴者ではなく、禅宗をその思想的基盤とするなかなかの理論家として造型されていることが分かります。
また、大森彦七の発言の中で、「例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし」という表現は格別に面白いですね。
ここは禅宗とは関係なくて、むしろかつて後醍醐が綸旨を濫発して大混乱を起こした結果、多くの武家が味わった苦い経験を踏まえての「綸旨」に対する警戒的・軽蔑的姿勢の現れと考えることができそうです。
第二幕では手ぶらだった正成は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して仰々しく登場した訳ですが、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」などよりは将軍から戴く文書の方がよっぽど有難いぞ、という手厳しい反撃を受けたことになります。
さて、数万人の壮麗な大軍団であることを誇示したにもかかわらず、第二幕と同様、正成に率いられた怨霊(または天狗)の一行は、意外にあっさりと引き返して行きますが、話はまだまだ続きます。
第四幕に入ると、怪異に沈着冷静に対応していた大森彦七は「物狂ひ」になってしまい、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固するという展開となります。(p88以下)

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 その後〔のち〕より、盛長、物狂〔ものぐる〕ひになつて、山を走り、水を潜る事止む時なく、太刀を抜き、矢を放つ事隙〔ひま〕なかりける間、一族以下〔いげ〕数百人相集つて、盛長を一間〔ひとま〕なる処に押し籠めて置き、おのおの弓箭兵杖を帯して、警固の体〔てい〕にてぞ居たりける。
 或る夜、また雨風一〔ひと〕しきり過ぎて、電光〔いなびかり〕繁〔しげ〕かりければ、「すはや、例の楠〔くすのき〕来たりぬ」と怪しむ処に、案の如く、盛長が寝たる枕の障子をがはと踏み破つて、数十人打ち入る音しけり。警固の者ども起き騒ぎて、太刀、長刀の鞘をはづし、夜討〔ようち〕入りたりと心得て、敵はいづくにかあると見れども、更になし。こはいかにと思ふ処に、天井より、猿の手の如くに毛生〔お〕ひて長き腕〔かいな〕を差し下ろし、盛長が髻〔もとどり〕を取つて中〔ちゅう〕に引つさげて、八風〔はふ〕の口より出でんとす。盛長、中にさげられながら、件の刀を抜いて、怪物〔ばけもの〕の臂〔ひじ〕のかかりの辺を三刀〔みかたな〕差す。差されて少し弱りたる体〔てい〕に見えければ、むずと引つ組んで、八風より広廂〔ひろびさし〕の軒〔のき〕の上にころび落ちて、また七刀〔ななかたな〕までぞ差したりける。怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり。
 警固の者ども、梯〔はし〕をさして屋〔や〕の上に昇り、その跡を見るに、一つの牛の頭〔かしら〕あり。「これはいかさま楠が乗つたる牛か。しからずは、その魂魄の宿れる物か」とて、この頭を中門の柱に吊り付けて置いたれば、家終宵〔よもすがら〕鳴りはためきて揺るぎける間、微塵に打ち砕いて、則ち水の底にぞ沈めける。
-------

ということで、第四幕では彦七が問題の剣を振るって怪物の体の一部を切り落とす、というダイナミックな要素が加わっている点に若干の新味はありますが、怪物が大森彦七を空中にさらって行こうとするも失敗する、という展開は第一幕と同じですね。
ついで第五幕に入りますが、第四幕の攻撃方法が若干単調だったためか、第五幕ではより巧妙な手法が考案されています。
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松尾著(その9)「元来摩醯首羅の所変にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)14時39分36秒

第二幕では手ぶらで登場した楠木正成の怨霊(または天狗)は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して登場します。
大森彦七も、「初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞ」と思って「委細の問答にも及」ばなかったが、今回「慥かに綸旨を帯したるぞと承」ったので、本当に「楠殿にておはしけり」と信用し、「不審の事どもを尋ね申して候ふ」という展開となります。
「綸旨」の存在、より正確には「綸旨」が存在するとの正成の言明が身分証明として機能している訳ですね。
そして、大森彦七は「先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺は今、六道四生の間、いづれの所に生じておはするぞ。委しく御物語り候へ」と質問します。
これに対して正成は次のように答えます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p85以下)

-------
 その時、正成近々と降り下がつて、「正成が相伴ひ奉る人には、先づ先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加へて七人なり。その外〔ほか〕、数万人〔すまんにん〕ありと云へども、泛々〔はんばん〕の輩〔ともがら〕は未だ数ふるに足りず」とぞ語りける。盛長、「そもそも先帝は、いづくに御座候ふぞ」と問へば、正成、「元来〔もとより〕摩醯首羅〔まけいしゅら〕の所変〔しょへん〕にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」と云ふ。「さて、相順〔あいしたが〕ひ奉る人々はいづくにぞ」と云へば、「悉〔ことごと〕く脩羅の眷属となりて、(或時は天帝と戦ひ、)或る時は人間に下つて、瞋恚強盛〔しんいごうじょう〕の人に入り替はる」と答ふ。「さて、御辺はいかなる姿にておはするぞ」と問へば、「正成も最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼〔せんずおうき〕と云ふ鬼になつて、七頭〔しちず〕の牛に乗れり。不審あらば、いでその有様を見せん」とて、炷松〔たいまつ〕を十四、五、同時にさつと振り挙げたれば、闇の夜忽ちに昼の如くになりたり。
-------

ということで、正成に同行して来た怨霊(または天狗)六人とその現状は次の通りです。

「先帝後醍醐天皇」……「欲界の六天に御座」
「兵部卿」護良親王……「脩羅の眷属」
「新田左中将義貞」……同上
「平馬助〔へいうまのすけ〕忠正」……同上
「九郎大夫判官義経」……同上
「能登守教経」……同上

平忠正は平忠盛の弟で、保元の乱で崇徳院方に付いて敗れ、甥の清盛に斬られた人であり、平教経は平教盛の子、清盛の甥で、『平家物語』では勇猛な武人として活躍後、檀の浦に入水した人ですね。
この二人もそれなりの人物ではありますが、他の著名人と比べると、怨霊(または天狗)としてもちょっと格落ちのような感じがしないでもありません。

平忠正(?-1156)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%AD%A3
平教経(1160-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%99%E7%B5%8C

正成自身はというと、「最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼と云ふ鬼になつて、七頭の牛に乗れり」とのことで、自分が「罪障深」い存在だったから、「千頭王鬼と云ふ鬼」になってしまったと認めており、ある意味、謙虚な自己認識ですね。
そして、正成は、別に大森彦七が「不審」を表明している訳でもないのに、「不審あらば、いでその有様を見せん」と先回りして盛大に松明を灯します。
あたかも舞台の照明が一斉に点じられた如く、「闇の夜忽ちに昼の如くに」なって明らかになった光景は次の通りです。(p86以下)

-------
 その光に付いて虚空を遥かに見たれば、一村〔ひとむら〕立つたる雲の中に、十二人の鬼ども、玉の御輿を舁〔か〕いて捧げたり。その次に、兵部卿親王、八龍に車を懸けて扈従〔こしょう〕し給ふ。新田左中将義貞、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経、混甲〔こたかぶと〕五百余騎にて後陣に支〔ささ〕ふ。また四、五町引き下がりて、能登守教経、三百余艘の兵船〔ひょうせん〕を漕ぎ並べて、雲霞〔うんか〕の浪に打ち浮かべば、平馬助忠正、赤旗一流〔ひとなが〕れ差させて懸け出でたり。また虚空遥かに落ち下がりて、楠判官は、平生〔へいぜい〕見し時の貌〔かたち〕に変はらず、紺地の鎧直垂〔よろいひたたれ〕に黒糸の鎧着て、頭〔かしら〕の七つある牛にぞ乗つたりける。この外〔ほか〕、保元平治に討たれし者ども、近比〔ちかごろ〕元弘建武に亡びし兵ども、雲霞の如く充ち満ちて、虚空十里ばかりが間には、隙〔ひま〕透き間ありとも見えざりけり。
-------

ここで始めて、第二幕で「玉の輿」に乗っていた人物が後醍醐であったことが明確にされます。
さて、この光あふれる数万人の壮麗な大軍団を見せつけられた大森彦七の心境やいかに。
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松尾著(その8)「今夜、いかさま楠出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)11時58分13秒

大森彦七のエピソードは本当に長くて、兵藤裕己校注『太平記(四)』では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」は76~95ページまでの実に二十ページの分量があり、更に少し離れて第七節「篠塚落つる事」に関連記事が一ページ分あります。
前二回の投稿で紹介したのは、その中の最初の六ページ分だけで、全体の三分の一にも足りません。
そして、松尾氏が「彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった」とされる部分、実際に読んでみると従前よりも更に奇妙な記述が多いですね。
そこで、松尾氏のようなタイプの研究者が綺麗に整理した要約と、『太平記』を実際に読んだときに多くの人が感じるであろう印象の違いを確認するため、煩を厭わず、『太平記』の大森彦七エピソードの全文を紹介して行きます。
また、松尾氏は「以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという」とされており、これは流布本の記述としては正解ですが、西源院本では全く異なっています。
この点も後で検討します。
ということで、西源院本の続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p83以下)
博識でフレンドリーで「正直者」の正成の怨霊(または天狗)から、自分の持つ剣が檀の浦で悪七兵衛景清が海に落とした剣であることを教えてもらった大森彦七はどのように対応したのか。

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 盛長、これにもかつて臆せず、刀の柄を砕けよと拳〔にぎ〕つて申しけるは、「さては、先に女に化けて、我を誑かさんとせしも、御辺達の所行なりけり。御辺未だ存生〔ぞんしょう〕の時、盛長常に申し承りし事なれば、いかなる重宝なりとも、御用と承らん(に)惜しみ奉るべき事は一塵もなし。但し、この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと承らんに於ては、えこそ進〔まいら〕すまじけれ。身、不肖なりと云へども、盛長、将軍の御方〔みかた〕に於ては、二心〔ふたごころ〕なき者と知られまゐらせて候ひし間、恩賞あまた所給はつて、その悦びにこの猿楽を仕つて遊ぶにて候ふ。勇士の本意〔ほい〕、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々〔つだつだ〕に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進すべからざる上は、早や御帰り候へ」とて、虚空を睨〔にら〕みて立ち向かへば、正成、以ての外〔ほか〕に怒れる言〔ことば〕にて、「何とも云へ、つひには取らんずるものを」と罵りて、また元の如く光り渡り、海上遥かに飛び去りにけり。見物の貴賤、これを見て、ただ今天へ引つさげられて上がりぬと、肝心〔きもこころ〕身に添はねば、親は子を呼び、子は親の手を引いて、四方四角へ逃げける間、また今夜〔こよい〕の猿楽も、式三番にて止みにける。
-------

正成の怨霊(または天狗)は、長々と口上を述べた割には、拍子抜けするくらいあっさりと帰ってしまいますね。
他方、正成の脅しに全く屈することなく、「この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと」聞いたからには、「将軍の御方に於ては、二心なき者と」評判の自分は「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも」、この剣を渡す訳にはいかないと「虚空を睨みて立ち向か」う大森彦七はなかなか格好良く、この言葉に喝采を送る聴衆・読者も多かったでしょうね。
さて、続きです。(p84以下)
美しい女房が大森彦七の背中に乗るや怪物に変貌した第一幕、日を改めて猿楽を催したら、楠木正成が登場して自己紹介をした後、悪七兵衛景清からイルカ経由で大森彦七に渡った剣の由来を教えてくれた第二幕に続いて、正成の同行者が誰であったかが明らかになる第三幕の幕開きです。

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 また三、四日あつて、夜半ばかりに、雨一通り(降り)、風冷やかに吹いて、電光〔いなびかり〕時々しければ、盛長、「今夜、いかさま楠〔くすのき〕出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」とて、中門に敷皮〔しきがわ〕しかせ、鎧一縮〔いっしゅく〕して、二所藤〔ふたところどう〕の大弓に、中指〔なかざし〕二、三抜き散らし、鼻油〔はなあぶら〕引いて、怪物〔ばけもの〕遅しとぞ待ち懸けたる。
 案の如く、夜半過ぐる程に、さしも隈なかりつる中空の月、俄にに掻き曇り、黒雲一村〔ひとむら〕立ち覆へり。雲の中に声あつて、「いかに、大森彦七殿はこれにおはするか。先度〔せんど〕仰せられし剣〔つるぎ〕の事、新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり。剣を急ぎ進〔まいら〕せられ候へとて、綸旨をなされて候ふ間、勅使にて正成また罷り向かつて候ふぞ」とぞ申しける。彦七、聞きもあへず庭へ出で向つて、「今夜は定めて来たり給はんずらんと存じて、宵よりこれに待ち奉りてこそ候へ。初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及び候はざりき。今慥〔たし〕かに綸旨を帯したるぞと承り候へば、さては楠殿にておはしけりと、信を取る間、事永々〔ながなが〕しきやうに候へども、不審の事どもを尋ね申して候ふ。先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺〔ごへん〕は今、六道四生〔ろくどうししょう〕の間、いづれの所に生〔しょう〕じておはするぞ。委〔くわ〕しく御物語り候へ」と問うたりける。
-------

第二十四巻第一節「義助朝臣予州下向の事、付〔つけたり〕道の間高野参詣の事」は、「暦応三年四月三日、脇屋刑部卿義助朝臣、吉野殿の勅命を含んで、西国征伐のために、先づ伊予国へ下向せらる」で始まっていますが(p73)、正成はこうした状況を踏まえ、「新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり」という具合いに、大森彦七に剣を求める理由を、前回より更に詳しく具体的に説明してくれます。
なお、史実では脇屋義助の伊予下向は暦応三年ではなく暦応五年(1342)の出来事です。

脇屋義助
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B1%8B%E7%BE%A9%E5%8A%A9

また、話の流れとは全然関係ありませんが、「遮つて待たばやと思ふなり」の「遮って」の用法は、元弘三年四月二十九日付の大友貞宗あて尊氏書状の解釈の関係で、森茂暁氏の見解を紹介したことがあります。

「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192

さて、大森彦七の問いかけに対する楠木正成の回答やいかに。
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松尾著(その7)「貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)21時45分1秒

松尾著の続きです。(p38以下)

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 しかし、せっかく準備してきたのだからというので、再び吉日を定めて舞台を造って準備したところ、また見物人が集まってきた。猿楽も半ばほどに進んだころ、後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた。見物人が恐れおののいていると、雲の中から、大森彦七殿に申しあげるべきことがあって楠木正成が参上した、と呼びかけた。彦七は、人は死して再び生き返るということはない。おそらく魂が怨霊となったのであろう。楠木殿はいったい何の用があってここに現れ、この私を呼ばれたのか、と問い返した。それに対して、正成は、私が生きている間は、種々の謀〔はかりごと〕をめぐらして北条高時の一族を滅ぼし、天皇を御安心させ、天下を朝廷のもとに統一させた。しかし、尊氏と直義兄弟が虎狼のごとき邪心を抱き、ついには帝の位を傾けてしまった。このため、死骸を戦場に曝した忠義の臣はことごとく阿修羅の手下となって怒りの心の安まる時がない。正成は彼らとともに、天下を覆そうと思ったが、それには貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣を必要とする。我ら多勢が三千世界を見渡すと、いずれも我が国にある。それらのうち、すでに二つは手にいれたが、最後の一つが貴殿の腰に帯する剣である。それは、元暦の昔に藤原景清が海中に落としたものである、という。彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
 以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。
-------

前回投稿で引用した部分、松尾氏は概ね原文に沿って丁寧に要約していますが、大森彦七の物語は本当に長大で、ここからは松尾氏の要約もかなり端折った形になっています。
ここでは煩を厭わず、原文を少しずつ正確に引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p80以下)

-------
 さればとて、この程馴らしたる猿楽を、さてあるべきにあらずとて、四月十五日の夜に及んで、件〔くだん〕の堂の前に舞台をしき、桟敷を打ち並べたれば、見物の輩〔ともがら〕群をなせり。猿楽すでに半ばなりける時、遥かなる海上〔かいしょう〕に、装束の唐笠ばかりなる光物〔ひかりもの〕二、三百出で来たり。海士〔あま〕の縄たく漁り火かと見れば、それにはあらで、一村〔ひとむら〕立つたる黒雲の中に、玉の輿を舁〔か〕いて、恐ろしげなる鬼形〔きぎょう〕の物ども、前後左右に連なる。その跡に、色々に鎧〔よろ〕うたる兵百騎ばかり、細馬〔さいば〕に轡〔くつがみ〕を噛ませて供奉〔ぐぶ〕したり。近くなるより、その貌〔かたち〕見えず、黒雲の中に電光〔いなびかり〕時々して、ただ今猿楽する舞台の上に差し覆ひたる森の梢にぞ止まりたる。
-------

松尾氏は「後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた」とされていますが、この段階では「玉の輿」に誰がいるかは不明で、この場面の後、三、四日経過して、再び怪しい一団が登場したときに、正成と一緒に来たのは後醍醐・護良親王・新田義貞・平忠正・源義経・平教経の合計七人だ、という正成の口上が出てきます。
ま、細かいことですが。

-------
 見聞〔けんもん〕皆肝を冷やす処に、雲の中より高声〔こうしょう〕に、「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」とぞ申しける。彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ、少しも臆せず、「人死して再び帰る事なし。定めてその魂魄〔こんぱく〕の霊となり、鬼となりたるにてぞあるらん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は何事の用あつて、今この場に現れて、盛長をば呼び給ふぞ」と問へば、楠、重ねて申しけるは、「正成存日〔ぞんじつ〕の間、様々の謀〔はかりごと〕を廻らして、相摸入道の一家を傾けて、先帝の宸襟を休めまゐらせ、天下一統に帰して、聖主の万歳〔ばんぜい〕を仰ぐ処に、尊氏卿、直義朝臣、忽ちに虎狼〔ころう〕の心を挿〔さしはさ〕みて、つひに君を傾け奉る。これによつて、忠臣義士尸〔かばね〕を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属となりて、瞋恚〔しんい〕を含む心止む時なし。正成、かれとともに天下を覆さんと謀るに、(貪瞋痴の三毒を表して、必ず三つの剣〔つるぎ〕を用うべし。)われら大勢〔たいせい〕忿怒の悪眼〔あくがん〕を開き、剰〔あまつさ〕へ大三千界を見るに、願ふ処の剣、たまたまわが朝の内に三つあり。その一つは、日吉の大宮にありしを、法味〔ほうみ〕に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童〔わらわ〕に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、御辺〔ごへん〕のただ今腰に差したる刀なり。知らずや、この刀は元暦の古〔いにし〕へ、平家壇浦にて亡びし時、悪七兵衛景清が海に落としたりしを、江豚〔いるか〕と云ふ魚が呑んで、讃岐の宇多津の澳〔おき〕にて死す。海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて、御辺がもとへ伝はりたる刀なり。詮ずる所、この刀だにも、われらが物と持つ程ならば、尊氏卿の天下を奪はん事は、掌〔たなごころ〕の内にあるべければ、急ぎ進〔まいら〕せよと、先帝の勅定にて、正成参り向つて候ふぞ」と云ひもはてず、雷〔いかずち〕東西に鳴りはためいて、ただ今落ちかかるかとぞ聞こえたる。
-------

大森彦七盛長は、『太平記』ではこの第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」(流布本では第二十三巻「大森彦七事」)だけに登場する人物で、そもそも『太平記』の湊川合戦の場面では、「この大森の一族等、宗と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり」などという記述は欠片もありません。
仮に同合戦で多少活躍したとしても、所詮、大森彦七は細川定禅の下で戦った大勢の武士たちの中の一人で(流布本による。西源院本には細川定禅の名前は出ておらず)、およそ楠木正成と対等に話し合えるような存在では全くありません。
しかし、この場面では、怨霊(または天狗)になった楠木正成は「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」という具合いに、ずいぶんと大森彦七に対して丁重です。
そして正成は、自分が大森彦七の前に登場したのは「貪瞋痴の三毒」を象徴する「三つの剣」のひとつを大森彦七が持っているので、それをもらいに来たのだと丁寧に事情を説明します。
ちなみに、残りの二つの剣は、「日吉の大宮にありしを、法味に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ」と、別に聞かれもしないのに取得の事情を説明し、更に大森彦七が持っている剣は、

平家が壇の浦にて滅亡した時、悪七兵衛景清が海に落とす。
  ↓
イルカが飲んで、讃岐の宇多津の沖で死ぬ。
  ↓
海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて浮上。
  ↓
(漁夫から何らかの経緯で)大森彦七が取得。

という由来があることを、これまた聞かれもしないのに丁寧に解説してくれます。
そして最後の駄目押しとして、三剣を揃える目的は「尊氏卿の天下を奪はん」ためだと、ずいぶん馬鹿正直に告白してくれています。
実に怨霊(または天狗)の正成は博識で、フレンドリーで、「正直者」です。
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松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)13時58分27秒

「第二章 登場人物から読む『太平記』」に入ります。
この章は、冒頭に、

-------
 これまで後醍醐の物語としての『太平記』、とくに怨霊となった後醍醐天皇に注目してみた。そこで、つぎに『太平記』を「怨霊の物語」という観点から見直してみたい。そのために、後醍醐以外の主要な登場人物に光を当ててみよう。
 なお、怨霊とは、恨みを含んだ死者の霊(死霊)または生霊のことで、この世に祟りをなすと信じられた。とくに、菅原道真のように非業の死を遂げた人が怨霊になると考えられた。仏教側は、怨霊となった人のために、お経を読んだり、寺院を建てるなどして供養すれば、怨霊は鎮魂される(鎮められ祟らなくなる)と説いたのである。
-------

とあって(p32)、その後、

-------
楠木正成
新田義貞
怨霊となった新田義貞父子
怨霊となった護良親王
足利尊氏と直義
足利直冬
怨霊を恐れる尊氏・直義
-------

という小見出しに従って、怨霊に満ち溢れた怪奇ワールドが紹介されます。
「楠木正成」については、最初の一般的な説明は省略し、怨霊に関係する部分から引用します。(p37以下)

-------
 ところで従来は、『太平記』において正成が怨霊となったとされることは、英雄・知将・忠臣としての正成像に比較して、ほとんど注目されていない。その像は、戦前においては、帝国臣民の模範としての正成像にふさわしくないと考えられて無視されたのであろうし、戦後は、怨霊は非科学的で、文学的想像上の産物とされて軽視されたのであろう。
 しかし、先述のように、『太平記』において、正成は怨霊となったと記されている。生まれ変わっても朝敵を滅ぼしたいとした(巻十六「正成兄弟討死の事」)死に際の妄念によって、巻二十三「大森彦七の事」のように正成は怨霊となったのである。
 暦応五(一三四二)年の春のころ、伊予国(愛媛県)から幕府に急使が到来してつぎのような不思議なことを注進した。伊予国に大森彦七盛長という武士がいた。全くの怖いもの知らずで、力は世の一般の人よりも優れていた。彦七は、建武三年五月、足利尊氏が九州より攻め上ったさいには、湊川の戦いに足利方の細川定禅に従って奮戦し、楠木正成に自害させた者である。その勲功により数ヵ所の領地を恩賞として賜り、それに奢って、ぜいたくな生活を営んでいた。
 そして、猿楽は寿命を延ばすものだからとして、お堂の庭に座敷を造り、舞台を構え、種々の華美を尽くした歌舞をなそうとした。近隣の人々はそれを聞きつけて集まってきた。彦七自身は、出演者の一人として、装束を下人に持たせて楽屋へ向かった。その途中、歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)と出会う。その女に猿楽の場所を聞かれたが、彦七は、あまりの美しさに桟敷への道案内をかってでた。さらに、女が歩みかねている様子を見て、女を背負って桟敷へ行こうとした。半町ほど背負って行ったところ、女はとたんに身の丈八尺(二メートル四〇センチ)の鬼となり、両目は朱色で、上下の歯はくい違って口の端は耳の付け根ほどまで広く割れ、眉は黒く額を隠し、振り分け髪の中からは五寸(一五センチ)ほどの子牛のような角が鱗をかぶって生いだしていた。鬼は、彦七の髪を掴んで空中に引き上げようとした。彦七も剛勇の者なので、鬼を掴んで深田の中へ転げ落ち、助けを求めた。加勢の者が近づいた時には、鬼はさっと消えていた。彦七は呆然自失の状態であり、その日の猿楽は中止になった。
-------

いったん、ここで切ります。
まだ、大森彦七の話の半分ほどですが、ここも念のため、原文を西源院本で見ておきます。
松尾氏は流布本を用いておられるので巻二十三としていますが、西源院本では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」になります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p76以下)
流布本と西源院本では細かい表現にけっこうな異同がありますが、ストーリーの骨格は同じです。

-------
 その比、伊予国に希代〔きたい〕の不思議あり。当国の住人、大森彦七盛長と云ふ者あり。心飽くまで不敵にして、力尋常〔よのつね〕の人に超えたり。去んぬる建武三年五月に、将軍は筑紫より攻め上り、新田左中将は播磨より引き退いて、兵庫の湊川にて合戦ありし時、この大森の一族等、宗〔むね〕と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり。されば、その勲功他に異なる間、数ヶ所の恩賞を給はりてけり。この悦び、一族ども寄り合うて、猿楽をして遊ぶべしとて、あたり近き堂の庭に桟敷を打ち、舞台を構へて、様々の風流〔ふりゅう〕を尽くさんとす。これを聞いて、近隣傍庄の貴賤男女、群れをなす事雲霞の如し。
 彦七もこの猿楽の衆なりければ、様々の装束ども下人に持たせて、楽屋へ行きける道に、年の程十七、八ばかりなる女の、赤き袴に柳裏の五絹〔いつつぎぬ〕着て、鬢〔びん〕深くそぎたるが、差し出でたる山の端の月に映じて、ただ独りたたずみたり。彦七、これを見て、覚えず、かかる田舎なんどに、かやうの女房いづくより来たりぬらんと、目もあてやかにて、誰が桟敷へか入ると見居たれば、この女房、彦七に立ち向ひて、「道芝の露打ち払ふべき人もなし。行くべき方をも誰に問はまし」と、打ちしほれたる気色〔けしき〕なり。彦七、あやしや、いかなる宿の妻〔さい〕にてかあるらんに、あやめも知らぬわざは、いかでかあるべきと思ひながら、いはん方なくわりなき姿に引かれて、「こなたこそ道にて候へ。御桟敷なんど候はずは、たまたまあきたる一間の候ふに、御入り候へかし」と云へば、女少し打ち笑ひて、「あなうれし、さらば、御桟敷へ参り候はん」と云ひて、跡に付いてぞ歩みける。
 羅綺〔らき〕にだも堪へざるかたち、誠にたをやかに物痛はしげにて、未だ一足も土をば踏まざりける人よと覚えて、行きなやみたるを見て、彦七、「余りに道も露深くして、御痛はしく候ふ。恐れながら、あれまで負ひまゐらせ候はん」とて、前に跪〔ひざまず〕きたれば、女房、「便〔びん〕なう、いかが」と云ひながら、やがて後ろに負はれぬ。白玉か何ぞと問ひし古〔いにし〕へも、げにかくやと知らるるばかりなり。
 彦七、踏む足もたどたどしく、心も空に空に浮かれて、半町ばかり行きたるに、さしもうつくしかりつる女房、俄かに長〔たけ〕八尺ばかりなる鬼になり、二つの眼〔まなこ〕は血をといて鏡の面〔おもて〕にそそきたるが如し。上下の歯食ひ違うて、口脇〔くちわき〕耳の根まで広く裂け、眉は漆にて百刷毛〔ももはけ〕塗りたるが如くして、額を隠したる振り分け髪の中より、五寸ばかりなる犢〔こうし〕の角、鱗〔いろこ〕をかづき生ひ出でたり。彦七、きつと驚きて、打ち捨てんとする処に、この怪物〔ばけもの〕、熊の如くなる手にて、彦七が髻〔もとどり〕を掴み、虚空に上がらんとす。彦七、元来〔もとより〕したたかなる者なりければ、これと引つ組んで、深田〔ふけだ〕の中へ込〔ころ〕び落ち、「盛長怪物と組んだり。寄れや者ども」とぞ呼ばはりたる声に付いて、次に下がりたる下人ども、太刀、長刀の鞘をはづし、走り寄つてこれを見れば、怪物は掻き消すやうに失せて、彦七は深田の中に臥したりけり。暫く心を静めさせて、引き起こしたれど、なお惘然として人心地もなければ、これただ事にあらずとて、その夜の猿楽をば止〔とど〕めてけり。
-------
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松尾著(その5)「後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)10時47分42秒

紹介が遅れましたが、山形大学名誉教授・松尾剛次氏は仏教関係、特に真言律宗を中心に膨大な著作を発表されている方ですね。

松尾剛次(1954年生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%89%9B%E6%AC%A1

ただ、松尾氏の夢分析の具体例を見ると、率直に言って松尾氏は精神分析の初歩的な知識も持たれていないように思われます。
もちろん私自身にもさほどの知識はありませんが、ただ私は一時期、河合隼雄氏(1928-2007)の著作にけっこう嵌ったことがあります。

Only Yesterday─「立憲主義」騒動とは何だったのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51ead3ba5a2bdf00bf4e0e3ae943fe83
もう一つの「宗教と科学の接点」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5017f18626ffc831c4472179c01722fa

そこからさらにユングやフロイトに遡ってバリバリ勉強した訳ではありませんが、ユングやフロイトが日本人の夢を分析してくれている訳でもないので、日本人の夢の分析は、まあ、河合氏あたりの本を読めば素人としては充分だろうと思います。
そして、中世人の夢については、河合氏に『明恵 夢を生きる』(京都松柏社、1987)という著書があります。
少し検索してみたところ、大阪・中之島香雪美術館で明恵が見た夢をテーマにした特別展「明恵の夢と高山寺」を担当された学芸員の大島幸代氏が、河合氏の『明恵 夢を生きる』について、次のように書かれています。

-------
 「明恵の『夢記』は、今でいう夢日記。何月何日の夜にどんな夢をみたか、という形で記録されています。ただし、鎌倉時代の文体で書かれているうえに、ただでさえ夢というものはとりとめのない内容が多いので、全体像をつかむのはなかなか難しいと思います。夢分析で知られる心理学者の河合隼雄さんは、明恵がみた夢の世界とその意味を、分かりやすく解説しています。西洋の夢と比較しながら、仏教者であり日本人である明恵がみた夢を解釈していきます。現代から眺めると明恵の夢にはこんな意味づけができるのかと面白く読めます」

https://book.asahi.com/article/12222023

四十年間にわたって自分が見た夢を記録し続けた明恵はずいぶん変わった人ですが、この種のきちんとした夢の記録と比較すると、『太平記』の第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」において、「二条禅定殿下」(二条師基)の家来である上北面が見たという夢は、あまりに整然としすぎていて、曖昧な部分が一つもないという特徴があります。
まあ、この点だけでも、上北面が見た夢は中世人の実際の夢の記録ではなく、『太平記』の作者の創作であることが明らかですね。
松尾氏は「古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられた」という一般論から、いきなり、

この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない。
  ↓
実際、この夢のあとで足利方が兵を引いたことから、その夢は正夢として信じられたのである。
  ↓
後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援していると考えられていたことは明らかであろう。
  ↓
換言すれば、後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていたのである。

という論理(?)を展開されますが、この論理(?)に賛成できる人はあまりいないのではないかと私は思います。
『太平記』の作者(私見では複数)は本当に癖のある人(たち)であって、私自身は「後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていた」などとは想像もできません。
ここまで素直に『太平記』を読むことができる松尾氏は、私には本当に不思議な人に見えますが、それは松尾氏が「笑い」を全く理解しない人であることに関係しているように感じます。
「長崎の鐘」から始まった『太平記 鎮魂と救済の史書』は、『太平記』を素材としていながら最初から最後まで「笑い」が全く登場せず、相当に不気味な本でもあります。
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松尾著(その4)「この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない」

2021-05-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月25日(火)21時42分56秒

前回投稿で引用した記事の内容を整理してみます。

1. 皇居、観心寺に移るも戦況悪化。
2.「二条禅定殿下」(二条師基)の家来である上北面、出家を決意。
3.「先帝」(後醍醐)の吉野の「御廟」に参り、終夜、「円丘」の前で思案。
3. 少しまどろんで夢を見ると、夢の中で「御廟」が振動。
5.「円丘」の内より「人や候ふ」という気高い声が発せられる。
6.「東西の山の峰」より、「俊基、資朝、これに候ふ」との返事あり。
7. 日野俊基・日野資朝の怨霊登場。
8.「円丘」の石の扉を押し開く音。
9. 後醍醐の怨霊登場。
10.後醍醐の怨霊、「君を悩まし、世を乱る逆臣」を誰に命じて罰するかを「勅問」。
11.俊基・資朝の怨霊、「すでに摩醯脩羅王の前にて議定」があり、討手は決定済み、と回答。
12.後醍醐の怨霊、「さて、いかに定めたるぞ」と重ねて「勅問」。
13.俊基・資朝の怨霊、役割分担を報告。
 (a)南方皇居を襲おうとしている「五畿七道の朝敵ども」……楠木正成
 (b)仁木義長……菊池武時
 (c)細川清氏……土井・得能
 (d)畠山道誓……新田義興
 (e)「道誓が郎従」の「江戸下野守、同じき遠江守」……俊基・資朝
14.後醍醐の怨霊、愉快そうに笑って「年号を替へぬ先に、疾く疾く退治せよ」と言いつつ「御廟」の中へ入る。
15.上北面、吉野から観心寺に戻り、人に語るも信用されず。

この後、流布本では「吉野の御廟神霊の事」の続きとして、西源院本では「諸国軍勢京都へ還る事」と節を変えて、次のような記述があります。
内容はほぼ同じですが、西源院本から引用します。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p334以下)

-------
 誠にその験〔しるし〕にやありけん、敵寄せば、なほ山深く主上をも落とし奉らんと、逃げ方を求めて戦はんとはせざりける観心寺の皇居へは、敵かつて寄せ来たらず。剰〔あまつさ〕へさしてし出だしたる事もなきに、南方の退治、今はこれまでぞとて、同じき五月二十一日、寄手の惣大将、宰相中将義詮朝臣、尼崎より帰洛し給へば、畠山、仁木、細川、土岐、佐々木、宇都宮以下、すべて五畿七道の兵二十万余騎、われ先にと上洛して、各〔おのおの〕が国々へぞ下りける。
 さてこそ、上北面が見たりと云ひし霊夢も、げにやと思ひ合はせられて、いかさま仁木、細川、畠山も、亡〔ほろ〕ぶる事やあらんずらんと、夢を疑ひし人々も、却〔かえ〕りてこれを憑〔たの〕みけり。
-------

ということで、

16.敵は観心寺の皇居は襲わず、撤退。
17.上北面の夢を信用しなかった人々も、改めてこれを信頼。

という展開になります。
夢の内容があまりに御都合主義的なので、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」と冷笑していた人々も、事後的な展開から信用するに至った、とのことですね。
さて、松尾氏がこの話をどのように解釈されているのかを確認したいと思います。(p28以下)

-------
 この『太平記』の記事は、宮方の廷臣の夢物語にすぎないと思われがちである。しかし、古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられたのである。それゆえ、この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない。実際、この夢のあとで足利方が兵を引いたことから、その夢は正夢として信じられたのである。後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援していると考えられていたことは明らかであろう。換言すれば、後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていたのである。
 以上のように、『太平記』を通覧してみて、『太平記』は三部を通じてひとまず後醍醐天皇の物語であったと納得していただけたと思う。
-------

うーむ。
「古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられた」云々は、まあ、そういうことを言う人がけっこういますので、一般論としては間違いではないと思います。
しかし、この一般論を「吉野の御廟神霊の事」にそのまま当てはめて、「この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない」としてよいのか。
私見は次の投稿で述べます。
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松尾著(その3)「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」

2021-05-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月25日(火)08時33分2秒

松尾氏は「怨霊となった後醍醐」について、最初に『太平記』第二十三巻「大森彦七が事」を紹介して、後醍醐が「怨霊楠木正成の背後にいて指図し」、「崩御後も怨霊の頭目として、足利尊氏たちと戦い続けていた」とされますが、「大森彦七が事」は後で検討したいと思います。
ついで第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」に関し、次のように書かれています。(p27以下)

-------
 さらに、延文五(一三六〇)年五月ころ、後村上天皇をはじめとする南朝方はしだいに敗色が濃くなり、皇居を金剛山の奥、観心寺(大阪府河内長野市)に遷し、君臣一同が、いつ敵に襲われるかと戦々恐々としていた。宮方の将来に絶望した一人の廷臣(『太平記』には上北面とあるから、院の御所の上北面に伺候した武士)が、出家しようと思い詰めたが、せめて現世の別れに、多年仕えた先帝後醍醐に暇乞いを申し上げようと御廟に参り、祭壇の前で通夜をした。その時に彼は、以下のように泣く泣く訴え祈り続けた。
 いったい今の世の中はどうなっているのか。威力があっても道義のない者は必ず滅ぶと言い置かれた先賢の言葉にも背いている。また、百代までは王位を守ろうと誓われた神約も実現されず、臣が君を犯しても天罰なく、子が父を殺しても神の怒ったためしがない。これはいったいいかなる世の中であろうか。
 夜通し嘆き続けているうちに疲れ果て、ついまどろんでしまったその時、夢に、御廟が振動して先帝が現れた。その姿は、次のようであった。

 昔の龍顔にはかはつて、怒れる御眸〔まなじり〕さかさまに裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉・羅
 刹の如くなり。まことに苦しげなる御息をつがせたまふ度ごとに、御口より焔〔ほのお〕はつと燃
 え出でて、黒煙〔くろけぶり〕天に立ち上る。 (巻三十四「吉野の御廟神霊の事」)

 すなわち、昔のお顔(龍顔とは天皇の顔のこと)とは大きく異なり、怒りに満ちた眼は逆さまに裂け、鬚は左右に分かれて、ただ夜叉(鬼神)・羅刹(人間をだまし、その肉を食うという悪鬼)のようなもの凄い形相であったという。また、まことに苦しげに息をつぎ、そのたびに口からは焔が出たという。
 そうした姿の後醍醐は、日野資朝・俊基を呼び出しており、足利討伐の謀議を始めたが、彼らの姿も「面〔おもて〕には朱を差したるがごとく、眼の光耀いて、左右の牙〔きば〕銀針〔ぎんしん〕を立てたるやうに、上下〔うえした〕におひ違ひたり」、すなわち、顔は朱に塗ったように赤く、眼は爛々と輝き、歯は銀の針を立てたように上下互い違いになっていた。ようするに、彼らも怨霊の姿であった。この時、日野資朝・俊基らが足利氏掃討の戦術を奏上すると、先帝は「まことに気持ちよさそうに笑って、さらば年号の変らないうちに、急いで退治せよ」と命じて御廟の内へお入りになったという。
-------

松尾氏の説明は『太平記』の記述を概ね正確になぞったものですが、念のため、原文も紹介しておきます。
なお、松尾氏は流布本(岩波大系)を用いておられますが、西源院本を引用します。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p329以下)
細かい表記の違い等を除き、内容的には殆ど同じです。

-------
 南方の皇居は、金剛山の奥、観心寺と云ふ深山〔みやま〕なれば、左右〔そう〕なく敵の近づくべき処ならねども、隻候〔せっこう〕の御警固に憑〔たの〕み思し召したる龍泉、平石、赤坂城も、攻め落とされぬ。昨日今日まで御方〔みかた〕なりし兵ども、今は皆、心を替へ申して御敵〔おんてき〕になりぬと聞こえしかば、「山人〔やまうど〕、杣人〔そまうど〕を案内者として、いかさまいずくの山までも、(敵)攻め入らんと申す」と、沙汰しければ、主上を始めまゐらせて、女院、皇后、月卿雲客には、いかがすべきと、怖〔お〕ぢ恐れさせ給ふ事限りなし。
 ここに二条禅定殿下の候人〔こうにん〕にてありける上北面、御方の官軍かやうに利を失ひ、城を落さるるの体〔てい〕を見て、敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、わが身も今は髻〔もとどり〕切つて、いかなる山林にも世を遁ればやと思ひて、先づ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てて、主君に離れまゐらせ、この境ひを立ち去る事の悲しさよ、せめて今一度〔ひとたび〕、先帝の御廟に参りて、出家の暇〔いとま〕をも申さんとて、ただ一人、御廟へ参りたるに、この騒ぎに打ち紛れ、人参り寄るとも覚えずして、荊棘〔けいぎょく〕道を塞ぎ、葎〔むぐら〕茂りて旧苔扉〔とぼそ〕を閉ぢたり。いつの間にかくは荒れぬらんと、ここかしこを見奉るに、金炉に香絶えて、草一叢の煙を残し、玉殿燈なくして、蛍五更〔ごこう〕の夜を照らす。
 飛ぶ鳥もあはれを催すかと覚え、岩漏る水の流れまでも、悲しみを呑む音なれば、終夜〔よもすがら〕、円丘の前に畏まつて、つくづくと憂き世の中のなり行く様を案じ続くるに、「そもそも今の世、いかなる世ぞや。「威あつて道なき者は必ず亡〔ぼう〕ず」と云ひ置きし先賢の言〔ことば〕にも背き、百王を護らんと誓ひ給ひし神約も誠〔まこと〕ならず。また、いかなる賎しき者までも、死しては霊となり、鬼となりて、かれを是し、これを非する理〔ことわ〕り明らかなり。況んや君、すでに十善の戒力〔かいりき〕によつて、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨はたとひ郊原の土に朽つるとも、神霊は定めて天地に留まつて、その苗裔を守り、逆臣の威をも亡ぼされんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せども、天罰もなし。子父を殺せども、怒りをも未だ見ず。こは何となり行く世の中ぞや」と、泣く泣く天に訴へて、五体を地に投げ、礼をなす。余りに気くたびければ、首をうなだれ、少しまどろみてある夢の中に、御廟の震動する事やや久し。
 暫くあつて、円丘の内より、誠に気高げなる御声にて、「人や候ふ。人や候ふ」と召されければ、東西の山の峯より、「俊基、資朝、これに候ふ」とて参りたり。この人々は、君の御謀叛を申し勧めたりし者どもなりとて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて工藤二郎左衛門尉に斬られし人々なり。貌〔かたち〕を見れば、正しく昔見たりし体〔てい〕にてはありながら、面〔おもて〕には朱を差したるが如く、眼〔まなこ〕の光り耀いて、左右の牙針を立てたるやうに上下に生ひ違ひたり。その後、円丘の石の扉を押し開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞龍〔こんりゅう〕の御衣〔ぎょい〕を召し、宝剣を抜いて御手に提げ、玉扆〔ぎょくい〕の上に坐し給ふ。この御貌〔おんかたち〕も、昔の龍顔には替はつて、怒れる御眸〔まなじり〕逆に裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉羅刹の如し。誠に苦しげなる御息をつかせ給ふ度ごとに、御口より炎ばつと燃え出でて、黒煙天に立ち上る。
 暫くあつて、主上、俊基、資朝を御前近く召して、「君を悩まし、世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せ付けて罰すべき」と勅問ありければ、俊基、資朝、「この事は、すでに摩醯脩羅王〔まけいしゅらおう〕の前に(て)議定あつて、討手を定められ候ふ」。「さて、いかに定めたるぞ」。「先づ、今南方の皇居を襲はんと仕り候ふ五畿七道の朝敵どもをば、楠木判官正成に申し付けて候へば、一両日の間に、追つ帰し候はんずるなり。仁木右京大夫義長をば、菊池入道寂阿に申し付けて候へば、伊勢国へぞ追つ下し候はんずらん。細川相模守清氏をば、土居、得能に申し付けて候へば、四国へ追つ下し、阿波国にて亡ぼし候はんずらん。東国の大将にて罷り上つて候ふ畠山入道道誓をば、殊更嗔恚強盛〔しんいごうせい〕の大魔王、新田左兵衛(佐)義興が申し請けて、治罰すべき由申し候へば、たやすかるべきにて候ふ。道誓が郎従をば、所々にて首を刎ねさせ候はんずるなり。中にも、江戸下野守、同じき遠江守二人をば、殊更悪〔にく〕い奴にて候へば、辰の口に引き居ゑて、わが手に懸けて切り候ふべし」と奏し申されければ、主上、誠に御快げに打ち咲〔え〕ませ給ひて、「さらば、やがて年号を替へぬ先に、疾く疾く退治せよ」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見まゐらせて、夢は忽ちに醒めにけり。
 上北面、この示現に驚いて、吉野よりまた観心寺へ帰り参り、内々人に語りければ、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」とて、さして信ずる人もなかりけり。
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もう少し続きがありますが、いったん、ここで切ります。
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松尾著(その2)「室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書」

2021-05-24 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月24日(月)13時51分46秒

果たして「長崎の鐘」と『太平記』はどのように結びつくのか。
続きです。(pⅲ以下)

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 昭和二十四(一九四九)年七月、サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲した、この「長崎の鐘」は藤山一郎の歌声とともに大ヒットした。この歌は、その年の一月に出版された永井隆(一九〇八~五一)の小説『長崎の鐘』に触発されたものである。
 永井は長崎医大助教授のとき被爆し妻を失った。『長崎の鐘』は、爆心地から七〇〇メートルの大学で被爆した瞬間と、それに続く長い救出・治療の模様の記録である。敬虔なクリスチャンだった永井は、重症を負いながら、医局の部下たちを励まし血まみれで被災者の治療に当たった。自宅にいた妻は即死、その骨を拾ったのは被爆三日目のことという。
 この歌の内容を説明する必要はない。だが、この歌が人々の心をとらえ、国民の愛唱歌になった理由は何だったのだろうか。第二次世界大戦の敗戦から四年、当時の日本人の多くが、空襲そのほか、多かれ少なかれ、永井と似たような体験、いや、思いをしていたはずだ。廃墟の中で、残された者同士はなぐさめあい、励ましあい、死せる者へは鎮魂(弔い)をしながら、前むきに生きていこうとしていた。人々は、自己の体験を永井のそれと重ね合わせて理解したのだろう。いわば、この歌は、約三百十万の死者を出した未曽有の敗戦の後で、生き残った者にとっては人生の応援歌、死者へは鎮魂の歌として受け入れられた。
 『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ。本書の主要なねらいこそ、それを明らかにすることにある。もっとも、『太平記』が扱う南北朝の動乱は、戦争の主体が武士であり、かつ、たとえば足利尊氏(一三〇五-五八)と直義(一三〇六-五二)兄弟、尊氏と直冬(生没年不詳)親子が敵味方となって戦ったように、一族が北朝方・南朝方に分かれ骨肉相争う国内戦であったのに対して、他方の第二次世界大戦は総力戦で、名も無き庶民も駆りだされた外国との戦いであった。そのように、戦争といっても、その規模や条件などには大きな相違がある。また、「長崎の鐘」にはキリスト教的救済が背景にあるのに対し、『太平記』は仏教による救済がある。さらに、「長崎の鐘」は歌手によって歌われるのに、『太平記』は太平記読という講釈師によって語られた、といった相違があることは承知のうえだ。
 『太平記』といえば、南朝方の人が南北朝動乱を描いた戦記物語というのが、教科書的な常識であるが、私は、十四世紀前半から末までの、世に南北朝の動乱と呼ばれる、うち続く戦争によって死んだ後醍醐天皇(一二八八-一三三九)をはじめとする人々への鎮魂と、その廃墟の中から立ち上がろうとし、室町幕府に結集した人々(とその子孫)の「応援歌」であったと考えている。いうなれば、室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書であったと主張したい。
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「『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ」という主張は一応理解できましたが、果たして松尾氏は「それを明らかにすること」に成功したのか。
まあ、正直言って私は全く納得していませんが、私は自分の意見を人に押し付けようという志向はあまりないので、あくまで松尾氏の説明内容と『太平記』の原文を比較し、松尾氏の見解にどれだけの説得力があるのかを見て行きたいと思います。
さて、「はじめに」はこの後、「『太平記』は史学に益なし?」との小見出しの下、若干の説明がありますが、久米邦武等に関する一般的な説明なので省略します。
次いで「第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』」に入ると、

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三部構成のあらまし
物語を貫く主人公とは
後醍醐天皇とはどんな人か
仏となった後醍醐
黒衣僧文観
第一部の後醍醐観
第二部の後醍醐観
第三部での後醍醐
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という順番で説明が続きます。
「後醍醐天皇はどんな人か」までは一般的な説明、「仏となった後醍醐」は神奈川県藤沢市の清浄光寺に伝わる後醍醐の有名な肖像画の話で、黒田日出男説が紹介されています。
「黒衣僧文観」は「官僧(白衣僧)」「遁世僧(黒衣僧)」といった松尾氏特有の用語はありますが、文観についての、今では若干古くなった感じがしなくもない説明です。
「第一部の後醍醐観」「第二部の後醍醐観」も一般的な説明ですが、「第三部での後醍醐」に入ると「怨霊となった後醍醐」についての若干詳しい説明があります。
「怨霊となった後醍醐」については、一般的な通史等ではあまり触れられないので、次の投稿で松尾氏の見解と『太平記』の原文を紹介します。
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松尾剛次著『太平記 鎮魂と救済の史書』(その1)─「長崎の鐘」と『太平記』

2021-05-24 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月24日(月)11時35分54秒

中世史を専門とする職業的な歴史研究者は、みんな古文書・古記録をきちんと読む訓練を積んでおり、生真面目で粘り強い知性であることの保証書付きといえますが、生真面目にも色んなタイプがあります。
「戦後歴史学」の全盛期には「階級闘争史観」が一世を風靡したので、歴史学界には今でもその系統を継いた「科学運動」や「民衆史」が大好きなタイプの生真面目さんたちが相当の勢力を占めていますね。
呉座勇一氏は中世史学界に「階級闘争史観」が残存していることを厳しく批判されましたが、勇ましい語彙・文体から「階級闘争史観」の持ち主であったことが明らかな佐藤和彦氏(1937-2006)あたりの世代はともかくとして、今はせいぜい「階級闘争史観」の「残滓」、ないし「気分」が残っている程度ではないかと私は感じています。
例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)を読むと、二十五人もの分担執筆者がいながら誰一人として歌人としての尊氏について論じていないといった不満はありますが、「階級闘争史観」みたいな古めかしい表現が似合いそうな硬直した論文は見当たりません。

全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33840f0de304fea204b7155b8464491e

また、かつてマックス・ウェーバーが大流行した名残として、「支配の正統性」や「理念型」等の難解な議論が大好きなタイプの生真面目さんもいて、東島誠氏あたりはその代表ですね。
更に、類似のタイプとして丸山真男流の「古層」「通奏低音」みたいな話が大好きな生真面目さんもいます。
ただ、南北朝時代に関して私が相当に問題だなと感じているのは、「怨霊」や「鎮魂」の話が大好きな宗教がらみの生真面目さんです。
山家浩樹氏もこうした傾向があるように感じますが、ただ、山家氏は非常に慎重な書き方をされる人なので、山家著にはこの種のタイプの問題点が鮮明には出てきません。
そこで、山家氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)の検討に戻る前に、もう少し分かりやすい研究者の議論を紹介しておきたいと思います。
いわば「怨霊莫迦」「鎮魂莫迦」とでも呼ぶべきこの種のタイプの生真面目さんの代表者は、何と言っても山形大学名誉教授・松尾剛次(まつお・けんじ)氏ですね。
ということで、松尾氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』(中公新書、2001)を少し見て行きたいと思います。
同書は、

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はじめに
第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』
第二章 登場人物から読む『太平記』
第三章 『太平記』の思想
第四章 『太平記』の作者と作品論
おわりにかえて
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と構成されていますが、「はじめに」は何の説明もなく、唐突にサトウハチロー作詞の「長崎の鐘」から始まります。
「長崎の鐘」と『太平記』の間に、一体どんな関係があるのか。

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  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  召されて妻は 天国へ
  別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの
  鎖に白き わが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  こころの罪を うちあけて
  更け行く夜の 月すみぬ
  貧しき家の 柱にも
  気高く白き マリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る
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参考:藤山一郎『長崎の鐘』
https://www.youtube.com/watch?v=z-000VudpMg
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