投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月31日(月)11時13分37秒
(その7) 以来、久しぶりに松尾著に戻ります。
松尾氏は、
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【前略】彦七は将軍足利尊氏に二心ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c7e7b88c7867096d236504943aafbfa
と書かれていますが、松尾氏の説明は、私の分類では概ね第二幕までで終わっています。
しかし、原文を見ると、第三幕以下第六幕までが結構な分量であることは前回までに確認した通りです。
さて、松尾氏は大森彦七エピソードの総括として、次のように書かれています。(p40)
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この話は、『太平記』以外の史料によって事実か否かを確かめられない。しかし重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である。『太平記』では、正成らの怨霊が鎮められ、南朝方の冥界の味方が抑えられた結果として、脇屋義助ら南朝の活動も鎮圧されたことを描いている。なお、脇屋義助は新田義貞の弟で、懐良親王を奉じて伊予に入ったが康永元(一三四二)年六月に病死した。
このように、『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていたのであり、いうなれば、南北朝動乱史の展開の背後に、目に見えない怨霊たちの活躍をも見ていたのである。第一章では、後醍醐が怨霊となったことを述べたが、正成も、いわば、後醍醐の分身として死後に再び活躍していたのである。『太平記』では、破れし側は怨霊となり、それらが歴史の冥(目に見えないところ)の主人公として描かれ、勝利者は敗者の怨霊を静めることを期待されている。いわば、『太平記』は怨霊の物語といえる点を強調したい。もう少し怨霊となった人々をみてみよう。
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うーむ。
松尾氏は「『太平記』作者が、それを事実として受け止めた」、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」、と力説される訳ですが、私は懐疑的です。
『太平記』の長大な大森彦七物語を実際に読んでみると、多くの人が大森彦七はけっこう魅力的な人物に描かれているように感じると思います。
彦七は終始一貫、怨霊など全く恐れず、「彦七、元来したたかなる者なれば」(p79)、「彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ」(p81)、「盛長、これにもかつて臆せず」(p82)と堂々たる態度を貫き、正成の怨霊にどんなに脅されようと、「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進ずべからざる上は、早や御帰り候へ」(p83)と言い返すような人間として描かれています。
そして、何故に彦七が怨霊など全く恐れないのかといえば、それは彦七が無教養な乱暴者だからではなく、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」(p87)という禅の教えを自己の信念として骨肉化しており、「千変百怪、何ぞ驚くに足らん」(同)と考えている人だからですね。
怨霊という一種の宗教的権威に屈しないだけでなく、彦七は天皇の権威に屈することもなく、第三幕で仰々しく「先帝」後醍醐の綸旨を携え、「勅使」として登場した正成に対し、不敵にも「例の手の裏を返す如きの綸旨給ひても詮なし」(p88)と言い放ちます。
こうした彦七の描かれ方は、実は『太平記』の作者は彦七の怨霊に対する態度に共感しているのではないか、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」などということは全くないのではないか、という疑いを生じさせます。
このような観点から大森彦七物語全体を見直すと、特に興味深いのは彦七が「物狂ひ」(p88)として造型されていることです。
「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」ならば、即ち客観的に怨霊が実在していると信じていたならば、作者は彦七を「物狂ひ」とする必要があったのか。
彦七が「物狂ひ」となったとされるのは、私の分類では第四幕からですが、第一幕の美女が鬼となった場面でも、「怪物は掻き消すやうに失せて」(p80)しまって、彦七の下人たちが見たのは「茫然として人心地もない」(同)彦七だけです。
また、第三幕で綸旨を持参した正成が「先帝後醍醐」以下の同行者を紹介する場面でも、「この有様ただ盛長が幻にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂ふ声ばかりぞ残りける」(p87)とあります。
しかし、作者が客観的に「先帝後醍醐」以下の怨霊が実在していると考えるならば、何故に多くの人が怨霊を見たと書かないのか。
「物狂ひ」の人が「幻」を見ただけでは物語としては面白くも何ともないので、『太平記』の作者は様々に工夫を凝らして読者・聴衆を興奮させる波瀾万丈のストーリーを展開していますが、それは伝奇小説の作者が普通にやっていることで、別に『太平記』の作者が書いた内容を信じていることを保証している訳ではありません。。
私には、作者は一方で波瀾万丈の物語を工夫しながら、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった人の「幻」なんですよ、というヒントを提示してくれているように感じられます。
そして、その作者の提示する最大のヒントが、「霊剣」に対する直義の態度ではないかと思われます。
前回投稿では、「霊剣」に対する直義の態度については『太平記』全体における直義の評価をもう少し勉強してからまとめると書きましたが、ここは大森彦七物語だけで考えることもできそうです。
即ち、大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の評価は、このストーリー全体が一人の「物狂ひ」が見た「幻」なんですよ、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」なんですよ、という『太平記』の作者の怨霊に対するシニカルな態度の表明のように思われます。
そして「霊剣」に対する直義の態度が流布本・天正本でひっくり返ってしまっている点は、『太平記』の作者の問題ではなく、遥かに時代が下ってからの流布本・天正本の編者の問題ですね。
(その7) 以来、久しぶりに松尾著に戻ります。
松尾氏は、
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【前略】彦七は将軍足利尊氏に二心ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c7e7b88c7867096d236504943aafbfa
と書かれていますが、松尾氏の説明は、私の分類では概ね第二幕までで終わっています。
しかし、原文を見ると、第三幕以下第六幕までが結構な分量であることは前回までに確認した通りです。
さて、松尾氏は大森彦七エピソードの総括として、次のように書かれています。(p40)
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この話は、『太平記』以外の史料によって事実か否かを確かめられない。しかし重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である。『太平記』では、正成らの怨霊が鎮められ、南朝方の冥界の味方が抑えられた結果として、脇屋義助ら南朝の活動も鎮圧されたことを描いている。なお、脇屋義助は新田義貞の弟で、懐良親王を奉じて伊予に入ったが康永元(一三四二)年六月に病死した。
このように、『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていたのであり、いうなれば、南北朝動乱史の展開の背後に、目に見えない怨霊たちの活躍をも見ていたのである。第一章では、後醍醐が怨霊となったことを述べたが、正成も、いわば、後醍醐の分身として死後に再び活躍していたのである。『太平記』では、破れし側は怨霊となり、それらが歴史の冥(目に見えないところ)の主人公として描かれ、勝利者は敗者の怨霊を静めることを期待されている。いわば、『太平記』は怨霊の物語といえる点を強調したい。もう少し怨霊となった人々をみてみよう。
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うーむ。
松尾氏は「『太平記』作者が、それを事実として受け止めた」、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」、と力説される訳ですが、私は懐疑的です。
『太平記』の長大な大森彦七物語を実際に読んでみると、多くの人が大森彦七はけっこう魅力的な人物に描かれているように感じると思います。
彦七は終始一貫、怨霊など全く恐れず、「彦七、元来したたかなる者なれば」(p79)、「彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ」(p81)、「盛長、これにもかつて臆せず」(p82)と堂々たる態度を貫き、正成の怨霊にどんなに脅されようと、「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進ずべからざる上は、早や御帰り候へ」(p83)と言い返すような人間として描かれています。
そして、何故に彦七が怨霊など全く恐れないのかといえば、それは彦七が無教養な乱暴者だからではなく、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」(p87)という禅の教えを自己の信念として骨肉化しており、「千変百怪、何ぞ驚くに足らん」(同)と考えている人だからですね。
怨霊という一種の宗教的権威に屈しないだけでなく、彦七は天皇の権威に屈することもなく、第三幕で仰々しく「先帝」後醍醐の綸旨を携え、「勅使」として登場した正成に対し、不敵にも「例の手の裏を返す如きの綸旨給ひても詮なし」(p88)と言い放ちます。
こうした彦七の描かれ方は、実は『太平記』の作者は彦七の怨霊に対する態度に共感しているのではないか、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」などということは全くないのではないか、という疑いを生じさせます。
このような観点から大森彦七物語全体を見直すと、特に興味深いのは彦七が「物狂ひ」(p88)として造型されていることです。
「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」ならば、即ち客観的に怨霊が実在していると信じていたならば、作者は彦七を「物狂ひ」とする必要があったのか。
彦七が「物狂ひ」となったとされるのは、私の分類では第四幕からですが、第一幕の美女が鬼となった場面でも、「怪物は掻き消すやうに失せて」(p80)しまって、彦七の下人たちが見たのは「茫然として人心地もない」(同)彦七だけです。
また、第三幕で綸旨を持参した正成が「先帝後醍醐」以下の同行者を紹介する場面でも、「この有様ただ盛長が幻にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂ふ声ばかりぞ残りける」(p87)とあります。
しかし、作者が客観的に「先帝後醍醐」以下の怨霊が実在していると考えるならば、何故に多くの人が怨霊を見たと書かないのか。
「物狂ひ」の人が「幻」を見ただけでは物語としては面白くも何ともないので、『太平記』の作者は様々に工夫を凝らして読者・聴衆を興奮させる波瀾万丈のストーリーを展開していますが、それは伝奇小説の作者が普通にやっていることで、別に『太平記』の作者が書いた内容を信じていることを保証している訳ではありません。。
私には、作者は一方で波瀾万丈の物語を工夫しながら、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった人の「幻」なんですよ、というヒントを提示してくれているように感じられます。
そして、その作者の提示する最大のヒントが、「霊剣」に対する直義の態度ではないかと思われます。
前回投稿では、「霊剣」に対する直義の態度については『太平記』全体における直義の評価をもう少し勉強してからまとめると書きましたが、ここは大森彦七物語だけで考えることもできそうです。
即ち、大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の評価は、このストーリー全体が一人の「物狂ひ」が見た「幻」なんですよ、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」なんですよ、という『太平記』の作者の怨霊に対するシニカルな態度の表明のように思われます。
そして「霊剣」に対する直義の態度が流布本・天正本でひっくり返ってしまっている点は、『太平記』の作者の問題ではなく、遥かに時代が下ってからの流布本・天正本の編者の問題ですね。