投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月31日(日)16時07分37秒
「本書の構成とかかわる私なりの転換の指標」の(2)の途中からです。(p3以下)
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このような、いわば呪術的観念の支配する社会から合理主義的観念の支配する社会への移行は、それぞれの社会で使用された言葉の意味内容を大きく変化させるのは当然であった。法螺貝〔ほらがい〕に対する呪術観念にもとづき、善神を呼び集め、邪気を祓う目的でさかんに吹き鳴らされ、その威力を発揮した状態をさす「法螺を吹く」という言葉が、今日の大言を吐く意味に変化したのもこの時代であった(3)。この変化は、法螺貝の呪術性を信ずる社会から法螺貝をたんなる大きな音をだす道具と考える社会への移行を象徴的にしめすものであった。同じく貝のもつ呪性から出発し、呪性の力を秘めたものとして、さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった。
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注(3)には藤原良章「法螺を吹く」(網野善彦ほか編『ことばの文化史』中世3、平凡社、1989)とあり、藤原論文自体は面白いものですが、さすがにこの程度の話だけで「呪術的観念の支配する社会」(=「未開社会」)から「合理主義的観念の支配する社会」(=文明社会)への移行を論ずるのは強引な感じがします。
また、鎌倉後期には中国から輸入された貨幣が相当大量に流通しているので、「さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった」も変ですね。
さて、次にいよいよ「国民国家」が登場します。
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(3)最後に、この時代は、日本列島に居住するさまざまな民族が国民として掌握され、この国民を構成員としてつくられた国民国家的性格の強い国家の形成期であった。ここで形成された国家の支配領域は、ほぼ現代の日本国家の国土に重なるが、この日本国家は、伝統的東アジアの国際的秩序である中国を中心とする華夷秩序から脱した独立国家として登場する。
さらに、この国家は、王法と仏法は両輪といわれ「マツリゴト」を政治の基本とする国家体制から脱した、武家による俗的国家として成立した。武家勢力は強大な勢力をほこった寺社勢力を圧伏し、これらの勢力を解体して体制下にくみいれたのであり、ここにはじめて政教分離の俗権力による国家が成立した。
戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され、さらにそれを統合することにより、豊臣秀吉によって日本国家が創出された。以上のように、この時代に形成された新しい日本国家は、旧来の日本国家が分裂し、それが再び統合されたのではなく、旧来の日本国家の規定制を強くうけながらも、それぞれの地域で下のほうから地域的統合がなされ、その上に新しい統一国家が形成されたのであり(4)、そこに内藤のいう「日本全体の身代の入れ替り」という現象がおこったのである。
以上、主として戦国時代の社会の基層部の実態から、その転換の指標をのべた。本書では、このような観点から、新しい日本国家の成立過程(第一部)、村落共同体の成立(第二部)、戦国時代における地域と中世国家(第三部)、中世社会にみられる非近代的特徴(第四部)、という構成を試みた。
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注(4)には高柳光寿「中世史の理解─国家組織の発達について」(『日本歴史』8・9・10号、1947・48)とあり、石井進氏が「ともすれば常識として安易にうけとられがちな流通観念に対する解毒剤」としていた高柳説は、勝俣氏にとっては「解毒剤」ではなく、大真面目な説として扱われていますね。
そして、勝俣氏の理解では、「国民国家的性格の強い国家」、「武家による俗的国家として成立した」「政教分離の俗権力による国家」とは、具体的には「豊臣秀吉によって」「創出」された「新しい日本国家」なんですね。
また、「戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され」たのだそうです。
さて、以上で「はじめに─転換期としての戦国時代」をすべて紹介しましたが、勝俣氏の「(国民)国家」がどこから来たかというと、その源泉は内藤湖南・高柳光寿・石井進氏あたりで、和風の色彩が濃いですね。
そして勝俣氏が把握された「国民国家」は、やはり世界史で通常言われている「国民国家」とはかけ離れている感じがします。
勝俣氏がどんなに力説しようとも、戦国時代の民衆(内藤湖南の用語では「下級人民」)は単なる統治の「客体」です。
西欧では、統治の「客体」であった民衆が、少なくとも理念的には統治の「主体」となり、ついで参政権の強化とともに実質的にも統治の「主体」となって行くのが「国民国家」であって、「国民国家」への移行に際してはフランス革命等の大変動が起きています。
戦国時代の日本には、そのような社会的大変動は起きていないのであって、それにもかかわらず「国民国家」を称するのはあまりに誇大、あまりに大袈裟、殆ど夜郎自大の所業であり、学問とは言い難いですね。
ということで、勝俣鎮夫氏の和風「国民国家」論は駄目理論だと私は考えます。
黒田基樹氏も「現代の国民国家が持つ、人々が帰属する政治共同体であるという性質の系譜を考えた場合、その前身にあたるのは、日本国という国家ではなく、戦国大名の国家であった」(『百姓から見た戦国大名』)などと言われていますが、何だかなあ、という感想しか浮かんできません。
ま、もちろん黒田氏は理論家タイプではないので、基礎理論が変であっても、その学問的業績にまでケチをつけるつもりはありませんが。
Venn diagram(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6989
「本書の構成とかかわる私なりの転換の指標」の(2)の途中からです。(p3以下)
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このような、いわば呪術的観念の支配する社会から合理主義的観念の支配する社会への移行は、それぞれの社会で使用された言葉の意味内容を大きく変化させるのは当然であった。法螺貝〔ほらがい〕に対する呪術観念にもとづき、善神を呼び集め、邪気を祓う目的でさかんに吹き鳴らされ、その威力を発揮した状態をさす「法螺を吹く」という言葉が、今日の大言を吐く意味に変化したのもこの時代であった(3)。この変化は、法螺貝の呪術性を信ずる社会から法螺貝をたんなる大きな音をだす道具と考える社会への移行を象徴的にしめすものであった。同じく貝のもつ呪性から出発し、呪性の力を秘めたものとして、さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった。
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注(3)には藤原良章「法螺を吹く」(網野善彦ほか編『ことばの文化史』中世3、平凡社、1989)とあり、藤原論文自体は面白いものですが、さすがにこの程度の話だけで「呪術的観念の支配する社会」(=「未開社会」)から「合理主義的観念の支配する社会」(=文明社会)への移行を論ずるのは強引な感じがします。
また、鎌倉後期には中国から輸入された貨幣が相当大量に流通しているので、「さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった」も変ですね。
さて、次にいよいよ「国民国家」が登場します。
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(3)最後に、この時代は、日本列島に居住するさまざまな民族が国民として掌握され、この国民を構成員としてつくられた国民国家的性格の強い国家の形成期であった。ここで形成された国家の支配領域は、ほぼ現代の日本国家の国土に重なるが、この日本国家は、伝統的東アジアの国際的秩序である中国を中心とする華夷秩序から脱した独立国家として登場する。
さらに、この国家は、王法と仏法は両輪といわれ「マツリゴト」を政治の基本とする国家体制から脱した、武家による俗的国家として成立した。武家勢力は強大な勢力をほこった寺社勢力を圧伏し、これらの勢力を解体して体制下にくみいれたのであり、ここにはじめて政教分離の俗権力による国家が成立した。
戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され、さらにそれを統合することにより、豊臣秀吉によって日本国家が創出された。以上のように、この時代に形成された新しい日本国家は、旧来の日本国家が分裂し、それが再び統合されたのではなく、旧来の日本国家の規定制を強くうけながらも、それぞれの地域で下のほうから地域的統合がなされ、その上に新しい統一国家が形成されたのであり(4)、そこに内藤のいう「日本全体の身代の入れ替り」という現象がおこったのである。
以上、主として戦国時代の社会の基層部の実態から、その転換の指標をのべた。本書では、このような観点から、新しい日本国家の成立過程(第一部)、村落共同体の成立(第二部)、戦国時代における地域と中世国家(第三部)、中世社会にみられる非近代的特徴(第四部)、という構成を試みた。
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注(4)には高柳光寿「中世史の理解─国家組織の発達について」(『日本歴史』8・9・10号、1947・48)とあり、石井進氏が「ともすれば常識として安易にうけとられがちな流通観念に対する解毒剤」としていた高柳説は、勝俣氏にとっては「解毒剤」ではなく、大真面目な説として扱われていますね。
そして、勝俣氏の理解では、「国民国家的性格の強い国家」、「武家による俗的国家として成立した」「政教分離の俗権力による国家」とは、具体的には「豊臣秀吉によって」「創出」された「新しい日本国家」なんですね。
また、「戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され」たのだそうです。
さて、以上で「はじめに─転換期としての戦国時代」をすべて紹介しましたが、勝俣氏の「(国民)国家」がどこから来たかというと、その源泉は内藤湖南・高柳光寿・石井進氏あたりで、和風の色彩が濃いですね。
そして勝俣氏が把握された「国民国家」は、やはり世界史で通常言われている「国民国家」とはかけ離れている感じがします。
勝俣氏がどんなに力説しようとも、戦国時代の民衆(内藤湖南の用語では「下級人民」)は単なる統治の「客体」です。
西欧では、統治の「客体」であった民衆が、少なくとも理念的には統治の「主体」となり、ついで参政権の強化とともに実質的にも統治の「主体」となって行くのが「国民国家」であって、「国民国家」への移行に際してはフランス革命等の大変動が起きています。
戦国時代の日本には、そのような社会的大変動は起きていないのであって、それにもかかわらず「国民国家」を称するのはあまりに誇大、あまりに大袈裟、殆ど夜郎自大の所業であり、学問とは言い難いですね。
ということで、勝俣鎮夫氏の和風「国民国家」論は駄目理論だと私は考えます。
黒田基樹氏も「現代の国民国家が持つ、人々が帰属する政治共同体であるという性質の系譜を考えた場合、その前身にあたるのは、日本国という国家ではなく、戦国大名の国家であった」(『百姓から見た戦国大名』)などと言われていますが、何だかなあ、という感想しか浮かんできません。
ま、もちろん黒田氏は理論家タイプではないので、基礎理論が変であっても、その学問的業績にまでケチをつけるつもりはありませんが。
Venn diagram(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6989