学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

あなたの「国家」はどこから?─勝俣鎮夫氏の場合(その4)

2021-10-31 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月31日(日)16時07分37秒

「本書の構成とかかわる私なりの転換の指標」の(2)の途中からです。(p3以下)

-------
 このような、いわば呪術的観念の支配する社会から合理主義的観念の支配する社会への移行は、それぞれの社会で使用された言葉の意味内容を大きく変化させるのは当然であった。法螺貝〔ほらがい〕に対する呪術観念にもとづき、善神を呼び集め、邪気を祓う目的でさかんに吹き鳴らされ、その威力を発揮した状態をさす「法螺を吹く」という言葉が、今日の大言を吐く意味に変化したのもこの時代であった(3)。この変化は、法螺貝の呪術性を信ずる社会から法螺貝をたんなる大きな音をだす道具と考える社会への移行を象徴的にしめすものであった。同じく貝のもつ呪性から出発し、呪性の力を秘めたものとして、さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった。
-------

注(3)には藤原良章「法螺を吹く」(網野善彦ほか編『ことばの文化史』中世3、平凡社、1989)とあり、藤原論文自体は面白いものですが、さすがにこの程度の話だけで「呪術的観念の支配する社会」(=「未開社会」)から「合理主義的観念の支配する社会」(=文明社会)への移行を論ずるのは強引な感じがします。
また、鎌倉後期には中国から輸入された貨幣が相当大量に流通しているので、「さまざまな用途に用いられた貨幣が、たんなる交換の道具として広く使用されだすのも、この時代であった」も変ですね。
さて、次にいよいよ「国民国家」が登場します。

-------
(3)最後に、この時代は、日本列島に居住するさまざまな民族が国民として掌握され、この国民を構成員としてつくられた国民国家的性格の強い国家の形成期であった。ここで形成された国家の支配領域は、ほぼ現代の日本国家の国土に重なるが、この日本国家は、伝統的東アジアの国際的秩序である中国を中心とする華夷秩序から脱した独立国家として登場する。
 さらに、この国家は、王法と仏法は両輪といわれ「マツリゴト」を政治の基本とする国家体制から脱した、武家による俗的国家として成立した。武家勢力は強大な勢力をほこった寺社勢力を圧伏し、これらの勢力を解体して体制下にくみいれたのであり、ここにはじめて政教分離の俗権力による国家が成立した。
 戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され、さらにそれを統合することにより、豊臣秀吉によって日本国家が創出された。以上のように、この時代に形成された新しい日本国家は、旧来の日本国家が分裂し、それが再び統合されたのではなく、旧来の日本国家の規定制を強くうけながらも、それぞれの地域で下のほうから地域的統合がなされ、その上に新しい統一国家が形成されたのであり(4)、そこに内藤のいう「日本全体の身代の入れ替り」という現象がおこったのである。
 以上、主として戦国時代の社会の基層部の実態から、その転換の指標をのべた。本書では、このような観点から、新しい日本国家の成立過程(第一部)、村落共同体の成立(第二部)、戦国時代における地域と中世国家(第三部)、中世社会にみられる非近代的特徴(第四部)、という構成を試みた。
-------

注(4)には高柳光寿「中世史の理解─国家組織の発達について」(『日本歴史』8・9・10号、1947・48)とあり、石井進氏が「ともすれば常識として安易にうけとられがちな流通観念に対する解毒剤」としていた高柳説は、勝俣氏にとっては「解毒剤」ではなく、大真面目な説として扱われていますね。
そして、勝俣氏の理解では、「国民国家的性格の強い国家」、「武家による俗的国家として成立した」「政教分離の俗権力による国家」とは、具体的には「豊臣秀吉によって」「創出」された「新しい日本国家」なんですね。
また、「戦国時代においては、その前段階として、この日本国家の原型としての地域的国家が各地に形成され」たのだそうです。
さて、以上で「はじめに─転換期としての戦国時代」をすべて紹介しましたが、勝俣氏の「(国民)国家」がどこから来たかというと、その源泉は内藤湖南・高柳光寿・石井進氏あたりで、和風の色彩が濃いですね。
そして勝俣氏が把握された「国民国家」は、やはり世界史で通常言われている「国民国家」とはかけ離れている感じがします。
勝俣氏がどんなに力説しようとも、戦国時代の民衆(内藤湖南の用語では「下級人民」)は単なる統治の「客体」です。
西欧では、統治の「客体」であった民衆が、少なくとも理念的には統治の「主体」となり、ついで参政権の強化とともに実質的にも統治の「主体」となって行くのが「国民国家」であって、「国民国家」への移行に際してはフランス革命等の大変動が起きています。
戦国時代の日本には、そのような社会的大変動は起きていないのであって、それにもかかわらず「国民国家」を称するのはあまりに誇大、あまりに大袈裟、殆ど夜郎自大の所業であり、学問とは言い難いですね。
ということで、勝俣鎮夫氏の和風「国民国家」論は駄目理論だと私は考えます。
黒田基樹氏も「現代の国民国家が持つ、人々が帰属する政治共同体であるという性質の系譜を考えた場合、その前身にあたるのは、日本国という国家ではなく、戦国大名の国家であった」(『百姓から見た戦国大名』)などと言われていますが、何だかなあ、という感想しか浮かんできません。
ま、もちろん黒田氏は理論家タイプではないので、基礎理論が変であっても、その学問的業績にまでケチをつけるつもりはありませんが。

Venn diagram(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6989
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉座勇一氏の裁判について

2021-10-31 | 『鈴木ズッキーニ師かく語りき』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月31日(日)13時56分6秒

>筆綾丸さん
私も事情を全然知らず、単に当初契約の五年の任期が満期終了かと思っていたのですが、

-------
訴状によると、呉座氏は2016年、任期付きの教員として採用され、今年10月から任期のない定年制の資格を与えて助教から准教授に昇格する決定を1月12日付で受けた。しかし、SNS上での不適切発言を理由に8月、再審査の結果として資格の付与を取り消す通知を受けた。

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/667180

とのことなので、呉座氏側の「資格の付与は正社員としての採用決定に相当し、取り消しは実質的な解雇に当たる」との論理は説得的ですね。
参考になる判例としては、「大日本印刷採用内定取消事件」(S54.7.20最二小判)というのもあります。

「採用内定の取消」に関する具体的な裁判例の骨子と基本的な方向性(厚生労働省サイト内)
https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/hanrei/saiyo/torikeshi.html

経営的に苦境に陥った企業ならともかく、公的機関が採用内定取り消しをするとなると、ガチガチに法的根拠と手続きを固めておかなければ怖くてできないはずですが、呉座氏側の主張によれば、「被告側の内規に存在しない「再審査」が行われただけで懲戒審査委員会は組織されておらず」とのことなので、これが本当なら大変な話ですね。
この記事を見る限り、私は呉座氏側が十分に勝てる案件だと思っています。
ま、勝ち負けはともかく、今は一般的に若手研究者の身分が極めて不安定な状況が続いているので、この裁判は重要な社会的意義がありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「釈迦に説法ですが・・・「
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10932
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの「国家」はどこから?─勝俣鎮夫氏の場合(その3)

2021-10-31 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月31日(日)13時08分27秒

勝俣氏の主張は「はじめに─転換期としての戦国時代」に凝縮されていますね。(p1以下)

-------
 本書であつかう戦国時代は、日本史上の大きな転換期であるとされている。そして、この転換の意義も、これまで、政治社会体制のうえでの中世荘園公領制から近世幕藩体制への転換、社会構成史の観点よりの家父長的奴隷制から農奴制への転換など、さまざまなかたちで論じられてきた。
 ところで、近年、内藤湖南が一九二一年の講演でのべた次のような見解に代表される転換の意義がひとつの流れとしてクローズアップされつつある(1)。
 内藤は、歴史は下級人民の向上発展の記録であるという観点にたち、応仁の乱以後の百年は、日本全体の身代〔しんだい〕の入れ替りで、まったく日本を新しくしてしまった時代であるとした。そのうえで、「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は、外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと云っていいのであります」とのべ、戦国時代を近代日本の出発点とし、日本歴史を二分する大転換期と位置づけたのである(2)。
-------

注を見ると、(1)は尾藤正英『江戸時代とは何か』(岩波書店、1992)と朝尾直弘「近世とはなにか」(『日本の近世 第一巻』(中央公論社、1991)ですね。
また、(2)は内藤湖南「応仁の乱について」(『内藤湖南全集 第十二巻』、筑摩書房、1969)です。
この内藤湖南の見解は、勝俣著が出た後も、かなりの数の歴史研究者が言及していて、いちいち挙げるのも面倒なほどです。

-------
 以上のような内藤の見解の再評価の気運は一九七〇年代より盛んとなったが、それは一九六〇年代にはじまる、いわゆる高度経済成長期以降のわれわれが生きている同時代としての現代日本社会が、内藤が生きた近代社会と質的に異なる社会へ転換しつつあるという歴史認識から生みだされたものである。それゆえ、転換期としての現代日本社会への認識が今後いっそう深まり、その転換の意義が解明されるのに応じて、転換期としての戦国時代の転換の意義の解明もいっそう重要性をますという性格をもつといえる。
 さて、私も以上のような意味での転換を戦国時代に認める立場にたつが、この観点にたつとき、その転換期の名称はともあれ、一般にいわれる戦国時代より時間的にひろくとり、十五世紀から十七世紀なかばまでをひとつの時代として把握し、それを段階的にとらえることにより、この転換の意味はいっそう明らかになると思われる。本書であつかう時代は主としてその最初の段階で、いわば旧体制の破壊と近代への胎動の時代ということができるが、ここであらかじめ、なぜこの時代を以上のような転換期と考えるのか、本書の構成とかかわる私なりの転換の指標を簡単にのべておくことにする。
-------

「一般にいわれる戦国時代より時間的にひろくとり、十五世紀から十七世紀なかばまでをひとつの時代として把握」ということですから、ホブズボームの「長い十九世紀」という表現を借用するなら、「長い戦国時代」とでもなりそうですね。
そして勝俣氏は、通常の用法の、いわば「短い戦国時代」が「旧体制の破壊と近代への胎動の時代」だとされます。
さて、では、勝俣氏の挙げる「私なりの転換の指標」とは具体的にはいかなるものか。

-------
(1)この時代は、民衆が歴史を動かす主体勢力として、日本の歴史上はじめて、はっきりとその姿をあらわした時代であった。これら民衆の力は、個人個人によって発揮されたのではなかった。十三世紀ころよりすでに形成されていた貴族・武士などの「イエ」と同じような、祖先をまつり、家の存続・繁栄を最大の価値規範とする家族共同体としての家が、しだいに百姓の家として形成されてきた。そして、この永続する家の維持のため、百姓自身がつくりだした非常に強固な共同体が、惣村・郷村などと称される村であり、都市では町であった。十五世紀、天下一同の徳政を要求し、旧来の政治体制に大きな衝撃を与えた徳政一揆は、この惣村を基礎単位としてひろく結集した運動体の実力行使を象徴するものであった。戦国時代は、百姓たちがみずからつくりだした、自律的・自治的性格の強い村や町を基礎とする社会体制、すなわち村町制の体制的形成期であったのであり、戦国時代における政治的・社会的混乱は、村町制を基礎とする新たな体制・秩序を生みだすことに起因するものであった。そして、現代は、この時代につくられた家と村・町、およびそこではぐくまれた価値規範・行動規範の崩壊期であると位置づけられる。
-------

うーむ。
まあ、別に「国家」を論じている訳ではありませんから、エンゲルスの「四つの制度的指標」あたりと比較するのも変かもしれませんが、しかし、「民衆」というのはずいぶん曖昧な概念ですね。

石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f3ed16f85882fb5ab3deeb02f13f54f

また、「歴史を動かす主体勢力」「惣村を基礎単位としてひろく結集した運動体の実力行使を象徴」「百姓たちがみずからつくりだした、自律的・自治的性格の強い村や町」といった表現には、勝俣氏の「民衆」に対する強い信頼、肯定的評価が窺えますが、このあたりは東島誠氏の辛辣な批判の対象となっていますね。

「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa96203a1f89528a67b82a824305e274

ま、それはともかく、続きです。(p3以下)

-------
(2)つぎにこの時代は、原始社会以来の自然のなかの、自然に支配された、いわば「野生の時代」から、人間の生活、人間社会をしだいに分離独立させつつあった、いわば文明の時代へ離陸する第一歩となった時代である。もちろん、この過程は長い時間をかけて徐々に進行したのであり、律令・儒学・仏教などに代表される一種の普遍的価値観と体系性をもつ高度な中国文明が、なお未開性の強い土着文化のなかに浸透し、両者が混じり合って、広義の分化を生み出したのもこの時代であった。今日、日本の伝統文化とされる芸能など多くのものがこの時代に形をととのえて姿をあらわした。これらの芸能は、神々を喜ばす神事芸能から、人々が楽しむ芸能へと次第に移行した。農業でいえば、「田遊び」の農業から、農書の成立などにみられる生産を目的にした農業への移行であった。そして、このような技術革新の時代とされる戦国時代は、貨幣経済の発達、村や町にまでおよんだ文字の普及によって、西欧が生みだしたそれとは異なるとはいえ、一種の近代的合理主義の観念を社会に定着させた。
-------

うーむ。
「野生の時代」「文明の時代」は「民衆」以上に曖昧な概念で、これが「指標」となるのか。
また、「律令・儒学・仏教などに代表される一種の普遍的価値観と体系性をもつ高度な中国文明が、なお未開性の強い土着文化のなかに浸透し、両者が混じり合って、広義の分化を生み出した」というのは古代にもほぼ同様な事態があったはずで、それが「長い戦国時代」特有の現象なのか。
更に「技術革新の時代」といっても、「短い戦国時代」は戦乱で田畠も荒れ果てることが多かった訳ですから「農書の成立などにみられる生産を目的にした農業への移行」も限定的であり、「貨幣経済の発達、村や町にまでおよんだ文字の普及」も限定的ですね。
「西欧が生みだしたそれとは異なるとはいえ、一種の近代的合理主義の観念を社会に定着させた」というのは、「短い戦国時代」が終わって、近世に入ってからと考えるのが普通ではないかと思われます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

RE: 一揆契状

2021-10-30 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月30日(土)17時30分1秒

>筆綾丸さん
直前の御投稿だったので、前回投稿時には気づいておらず失礼しました。
呉座氏の件、ツイッターでの騒動の時点から、私は少し関わっていました。
呉座氏への処分は法的に相当問題がありそうなので、個人的には裁判になって良かったと思っています。
そもそも何故被告が国際日本文化研究センターでなく「大学共同利用機関法人人間文化研究機構」なのかなど、分かりにくい点がいくつかあるので、後で整理するつもりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「一揆契状」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10928
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの「国家」はどこから?─勝俣鎮夫氏の場合(その2)

2021-10-30 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月30日(土)14時24分1秒

「第Ⅰ部 国民国家の形成」の「第一章 戦国大名「国家」の成立」は、

-------
はじめに
一 下剋上の時代
 1 応仁の乱
 2 室町幕府の崩壊
 3 下剋上の思想と構造
二 戦国大名と「国家」の形成
 1 戦国大名の登場
 2 地域「国家」の形成
三 戦国大名の領国支配体制
 1 貫高制と検地
 2 社会的身分の形成と役の体制
四 倭寇的世界
 1 倭寇と日朝通交
 2 地域と国家
-------

と構成されています。
八年前の私も、別に丸島和洋氏の戦国大名が「国家」だという考え方を否定していた訳ではなく、理由づけの配列が変なんじゃないのかな、と言っていただけで、現在は、むしろ戦国大名は「国家」そのものという立場です。
従って、石母田正と並んで丸島氏の国家論の源泉となっている勝俣鎮夫説についても、戦国大名を「国家」とする点には特に異論はありません。

「職人さんとの対話」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d49c1468f83c47057d6d028924e42f5d

しかし、戦国大名が「国民国家」だとなると話は全然別で、通常の理解では「国民国家」は近代の産物ですから、戦国時代の日本にそんなものが存在するはずがありません。
そこで、「国民国家」は一般にどのように理解されているかを知るために、黒田日出男編『歴史学事典【第12巻 王と国家】』(弘文堂、2005)を見ると、同書では「民族国家(国民国家)」として立項されています。
冒頭から少し引用すると、

-------
民族国家(国民国家)
[英] nation(al) state [独] Nationalstaat [仏] État-nation

〔国民国家(民族国家)と国民〕
 国民国家(民族国家)とは、一般的に、「国境線に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人びと(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナショナル・アイデンティティ=国民的アイデンティティ)を共有している国家」(木畑洋一「世界史の構造と国民国家」歴史学研究会編『国民国家を問う』)ということができる。このように国民国家(民族国家)の概念は、領域主権国家などの概念とともに近代国家の特質を示す概念であり、とりわけ国家の成員=国民に注目し、彼らの合意と統合という側面から国家を捉えようとするものである。したがって、ここでは、国民的アイデンティティの創出=国民の創出が枢要な問題となる。こうした国民国家や国民への関心は、とりわけ1980年代以来多くの研究成果を生み出し、日本でも1990年代に国民国家を批判的に再検討する動きが盛んになった。
 国民国家を編成する国民(ネイション)という言葉には、大別して2つの捉え方がある。その1つは、フランス革命を通してあらたな内容を帯びて普及してくる国民概念である。シエイエス(Emmanuel Joseph Sieyès)の『第三身分とは何か』(1789)は、従来の国民概念の決定的な転換を促した。彼によれば、国民とは「共通の法律のもとに生活し、同じ立法機関によって代表される生活共同体である」。ここにつくり出される国民は、言語や宗教など客観的なものによって限定されるのではなく、市民的かつ主体的な面が非常に強い。国民は特権に対して「共通の利益」を体現していた。重要なのは、こうした公益を代表する市民を自覚して、フランス市民権を選択することなのである。つまり、市民自身の合意と意志が国民を決定するという考え方である。このような態度はその後のフランスの歴史を貫くことになり、革命のほぼ100年後文献学者ルナン(Ernest Renan)は、「国民とは日々の人民投票である」ことを強調している。
 一方ドイツにおいては、ナポレオンの大陸支配が当時の知識人の注意を国民という言葉に向けさせた。哲学者のフィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)は、ドイツの従属状態を改革し、あらたな世界や時代を切り開く主体として「ドイツ国民」を選び出した。連続公演「ドイツ国民に告ぐ」(1807-08)で示されるドイツ国民とは、もっぱらドイツ語によって結びついている一体としてのドイツ人である。ドイツがいまだ統一国家をもたず、領邦による分立状態にあるだけに、ここでは「民族」や言語の共通性に基づく国民概念が前面におし出されたのである。詩人・文筆家のアルント(Ernst Moritz Arndt)も、「ドイツ人の祖国とは何か」(1813)と問いかけた詩のなかで、「ドイツ語の響くところ」とうたっている。これらはいわば、国民の民族的な面の強調である。「民族国家」と訳される場合は、こうしたネイションに立脚した国家が念頭におかれている。
--------

ということで、画期となっているのはフランス革命ですね。
つまり、日本の戦国時代に「国民国家」が存在したということは、戦国時代にフランス革命に相当する大革命があったと言うに等しい主張です。
まあ、さすがにヘンテコな主張なので、丸島氏などは、

-------
 勝俣氏は国家について、主従制的支配権の客体としての「家」と、統治権的支配権の客体としての「国」の複合体と説明する(9)。戦国大名の用いる国家とは、いわゆる「日本国」ではなく、戦国大名領国を示しており、それは近世大名へと継承されていったもので、「地域国家」と位置づけられるものであったとしたのである。国そのものは国郡制の国を前提とはしているものの、地域的な共同意識(国共同体)が成立したとする。ここでは、戦国大名は「国民」に対する保護義務を負い、「国民」は国の平和と安全の維持に協力する義務を負うという双務的関係にあると位置づけられた。この後勝俣氏はこの論理を進めて、戦国大名の地域国家を、近代「国民国家」の萌芽と見通された(10)。
 勝俣氏の「国民国家」萌芽論は、大名滅亡の危機という非常時にのみ確認され、その上多くの制約を伴った民衆の軍事動員(11)を、戦国大名国家の一般的性質に拡大したものであるなど(12)、多くの問題を残す。特に大名側の一方的な支配論理主張(これはあくまで政治的フィクションに過ぎない)と、現実の政治状況が混同されている側面は軽視できない(13)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ba92511f4d25dfbe46a7a9afcf796dd

という具合いに、勝俣氏はあくまで「戦国大名の地域国家を、近代「国民国家」の萌芽と見通された」と慎重に書かれていますが、実際に『戦国時代論』を読むと、勝俣氏はけっこう本気で戦国時代に「国民国家」そのものが誕生したと考えているように見える記述が多く、そもそも「第Ⅰ部 国民国家の形成」というタイトルは本気でないと付けられないですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの「国家」はどこから?─勝俣鎮夫氏の場合(その1)

2021-10-29 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月29日(金)09時55分18秒

『日本史大辞典』の「国家」は近世以降を残していますが、とりあえず中世に焦点を絞りたいので省略します。
さて、前回引用した部分で石井進氏の国家論が紹介されていますが、石井説は権門体制論への批判としては鋭いところがあるものの、それ自体は相当問題がありますね。
そして、石井説の変な部分をより変な方向に精緻化したのが勝俣鎮夫氏(東京大学名誉教授、1934生)です。
八年前、丸島和洋氏とのプチトラブルをきっかけに戦国史研究者の国家論をいくつか見たところ、一番奇妙に感じたのは勝俣氏の『戦国時代論』(岩波書店、1996)でした。

-------
国民国家の形成,村や町の成立,呪術的観念の支配からの解放など近代日本の出発点としての戦国時代を描く.

日本社会はいま歴史上戦国期いらいの大変動を経つつあるという.では,近代日本の出発点に位置づけられる戦国期とはどんな時代であったのか.民衆の台頭,国民国家の形成,民衆自身による強固な共同体としての村や町の成立,呪術的社会から合理的観念が支配する社会への移行など,転換期としての戦国社会の諸相を描き出す.

https://www.iwanami.co.jp/book/b265002.html

同書は、

-------
 はじめに─転換期としての戦国時代
第Ⅰ部 国民国家の形成
第Ⅱ部 惣村の成立
第Ⅲ部 戦国時代の地域
第Ⅳ部 聖と俗のはざま
 あとがき
-------

と構成されていますが、「第Ⅰ部 国民国家の形成」の「第一章 戦国大名「国家」の成立」の冒頭から少し引用してみます。(p9以下)

-------
はじめに

 一九六〇年代、黒田俊雄が提起した「権門体制論」を契機に、中世国家論に関する論争がはなばなしく展開された。この状況のもとで石井進は、日本歴史上、日本が古来島国として独自に存続してきたことのうえにたって、律令国家のあとのつづく中世国家も中世の日本国全体をつらぬくひとつの国家権力機構・支配体制が存在したという考え方が常識とされているが、中世の日本に単一の国家機構があったというのは、必ずしも自明のことではないとし、次の如き高柳光寿の学説の再評価を提起した。
 高柳は、「古代国家日本は決して単一国家ではなかつた。原始神社は、それぞれ独立した政権であつた。それがだんだんと大きな一つの政権の政治機構の中に編入されて行つた」「要するに地方独立政権の中央政権への吸収といふことは長い時間を要したのであり、その完全なる中央の政治機構への編入といふことは近世を待たなければならなかつた」とのべ、中世を日本における統一国家形成過程の時代と位置づけた。そして、戦国時代にいたり、「完全に近き形において一地方を領有し支配する地方政権の成立を見」、戦国時代を経てはじめて、わが国は「中央集権的な有機的組織を持つ国家組織」へと発展することができたとして、日本国家成立の原点に戦国大名領国を置いたのである。
 以上の如き高柳の学説は、中世社会の実態─土地と人の支配の分裂、桝や田積にみられる度量衡の多様性、「租税」の多種多様な賦課形態など─から国家のありかたを検証するかたちでくみたてられたものである。この国家論の視角は、なお種々の問題を含んでいるとはいえ、石井進の評価するように、「もうひとつの国家論」構築の視角として、今日ますます重要性をましつつあるように思われる。
 本章では、高柳が日本国家形成過程における、その原型と把握した戦国大名権力が、下剋上の主体勢力として登場した人々を、いかにして国民として編成し、国民を構成員とする国家を形成していったのかについて考察することにする。
-------

石井進氏の「日本中世国家論の諸問題」(『日本中世国家史の研究』所収、岩波書店、1970)は、既に消滅してしまった私の旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』に載せておきましたが、今は INTERNET ARCHIVE で読むことができます。

http://web.archive.org/web/20070822113151/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ishii-susumu-kaikototenbo-02.htm

私も高柳光寿の二つの論文、「中世史への理解-国家組織の発達について-」と「国家成立過程における神社の意義」は未読ですが、石井氏が引用されている部分を見るだけでも、「原始神社」云々といった奇妙な主張が目立ちます。
石井氏も高柳説が「あまりにも古くさい」上に、「氏自身の積極的主張には、いささか不明瞭な点があることも否定でき」ないとしつつ、「それにもかかわらず、氏の所論が、ともすれば常識として安易にうけとられがちな流通観念に対する解毒剤として、大きな効用をはたすことはまちがいない」とされていますが、勝俣氏は高柳説をずいぶん生真面目に受容されていて、勝俣氏にとって高柳説は「解毒剤」ではなさそうです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その3)

2021-10-28 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月28日(木)10時24分20秒

マルクスの国家論が近代国家の構造・「矛盾」とその克服としての革命論を中心としていたのに対し、エンゲルスは国家の発生と本質、その展開についての歴史的関心が強かった人です。
そして、国家の「起源」を解明するために、エンゲルスは当時としては最新の歴史学・考古学・人類学等の諸学の知見を活用したので、その国家論と「国家の制度的指標」は、必ずしも史的唯物論という特殊な世界観に立脚しない研究者にとってもそれなりに説得力を持つものとなった訳です。
しかし、古代にいったん国家が成立した後、中世以降の国家を論ずるに当たって、エンゲルス的な「国家の制度的指標」はどれだけ役に立つのか。
特に日本のように、古代の段階で日本列島(北海道や一部島嶼部を除く)の相当広い範囲に律令国家の支配が及び、地域全体の知的水準がそれなりに向上して言語は概ね共通、宗教等の文化的要素も相当程度共通になってしまった後は、常備軍・官僚制・租税のような「国家の制度的指標」は、全くの無から新たに作り上げる必要はなく、その存在自体は自明の前提となります。
そのため、国家の成立時には、四つに限るかはともかく、いくつかの指標を用いて、一体いつ国家が成立したのかを確定する必要がありますが、いったん国家が成立した後は、国家の展開といっても、これらの指標を概ね充足した地域の分割だけが実際上の問題となりますね。
従って、史的唯物論の大御所たちの中世国家論でも、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』以来の「かの国家の制度的指標」の存在感が薄くなってしまいますね。
史的唯物論と距離を置く研究者の場合、それらの存在感は更に薄くなります。
ということで、続きです。

-------
 右のようなマルクス・エンゲルスの流れをくむ諸議論と密接にからみつつ、それを深め、あるいはそれらへの批判を含む国家論が展開されていることを指摘しておく必要がある。たとえば佐藤進一は、官職国家たる律令国家が平安時代に解体して、上下貴族の諸家門による世襲的な官司請負制(官司運営を「家業」とみなす)王朝国家(「中世国家の祖型」)が成立し、さらに鎌倉幕府という、王朝国家と同質の構造をもちつつも、支配者集団が異質の故に独自性をもつ「第二の中世国家」が東国という辺境に成立したという。鎌倉時代はこうして二つの国家権力の併存の時代であり、両者が互いに相手を併呑しようとする確執の過程を経て、室町幕府を頂点とする統一的国家が成立したとされるのである。ここで武家政権の支配者集団の異質性というのは、かれらの間の主従制的結合という人的支配関係の要素を指すが、武家政権はこれとならんで、律令国家に由来する公的・領域的支配としての統治権的支配の要素を備えており、右の確執はこれをめぐる独占への志向の対立であった。
-------

段落の途中ですが、いったん、ここで切ります。
『日本の中世国家』(岩波書店、1983)で展開された佐藤進一氏の官司請負制論は実証面で弱くて、今では批判する人が多いですね。
「王朝国家論」もさほど支持者がいるようには思えませんが、「東国国家論」の基本的発想を支持する研究者はそれなりにいて、私もこの考え方が正しいと思っています。
さて、続きです。

-------
このように中世国家としての幕府権力が、統治権的支配の点で古代国家と連続する側面をもつことを、佐藤は指摘したのであるが、石井進は他方で、前述の黒田説を批判し、中世には、全支配階級の共同の支配を実現するための単一の国家などは存在せず、中世国家は多元的な権力の集合体として理解されなければならない、という。そしてこのことは、実は、古代についても古くから問題とされてきた点である。たとえば高柳光寿は、律令国家権力の在地に対する浸透度は中世よりも低かったものととらえ、在地に蟠踞する諸権力をも一種の国家権力とみなし得るとして、律令国家単一国家説を批判している。もっとも、高柳が前提とする国家概念の内容は必ずしも明らかでなく、四つの制度的指標をもつ国家の名に値するのはむしろ在地の諸権力で、当時の日本は複数のこうした小国家の併存状態にあったとみるのか、制度的指標にこだわらずに律令国家はやはり一つの国家だとみるのか、もし後者なら、マルクス・エンゲルス的な限定的国家概念とは異質の概念が想定されていることになる。なお石母田は、古代国家についても在地首長の自立性を認め、律令国家の公民支配を、この首長の自立的支配なしには成立し得ない「第二次的、派生的」生産関係としており、単純な単一国家論ではないことは留意されるべきである。
--------

石井進氏(1931-2001)がやたらと高柳光寿(1892-1969)の見解を持ち上げたので、これが勝俣鎮夫氏あたりにも影響を与えることになりますが、「高柳が前提とする国家概念の内容は必ずしも明らかでなく」、高柳説は国家の定義が存在しない国家論の典型です。
水林氏が、

-------
「国家」についての厳密な定義を欠いたままに、「国家」について論ずるものが少なくないという問題が存在する。一般に、重要な概念ほど、定義なしに、あるいは、意味がきわめて曖昧なままに使用される傾向があり、このことは不可避的に議論に混乱をもたらすことになるが─というよりも、定義が曖昧であるから厳密な意味での学問的論議・論争が成立しえない─、その典型の一つが「国家」概念ではなかろうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382

と嘆く事態の典型でもあり、一見すると深遠そうな雰囲気が漂う高柳・石井説が惹起したのは永遠の水掛け論ですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その2)

2021-10-27 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月27日(水)13時08分33秒

前回投稿での引用部分に「こうして Staat は、君主のもつあらゆる高権の総和を意味するものとなり、さらにその諸高権を執行する機関(官僚制・常備軍)と、それによって統治される客体としての領土・領民を包摂する一箇の組織体を指すようになった。現在の社会科学上の国家概念は、この近代直前に成立した用語法を前提にしている」とありますが、国際法の国家概念もこのあたりで固まってきたのでしょうね。
さて、続きです。

-------
 これに対して、わが国の歴史学においてはほとんどの場合マルクス・エンゲルスの影響を多かれ少なかれ受けた国家概念を用いて、各時代について多様な国家論が展開されてきた。マルクス・エンゲルスの国家論は、西ヨーロッパにおいて、官僚制・常備軍という支配機構とこれによって統治される客体としての領土・領民が国家という概念で表象されるに至った段階に即して、このような支配の形態が成立した歴史的必然性を、統治される側の人々の社会関係の基幹部分たる生産関係のあり方から説き明かそうという問題意識から生まれたものであり、終局的には、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』において、古典古代をモデルに、発達した機構としての国家は、社会における商品経済の全面的展開を基礎として成立する、というように定式化されるに至るが、わが国の学界ではこれが多少異なった形で理解され、商品生産の未発達な時代にも適用される、いわば歴史貫通的な国家論として受けとめられてきた。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「わが国の学界ではこれが多少異なった形で理解され、商品生産の未発達な時代にも適用される、いわば歴史貫通的な国家論として受けとめられてきた」はいかにも水林氏らしい指摘で、水林氏はこのあたりの議論を後に『天皇制史論』で整理されていますが、用語も独特なので、必ずしも多くの支持者を得てはいないようですね。

水林彪氏の「国家」の定義(その3)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4715c02e699e565fc9c97ab88fddc77
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ef709bee9a43ba397a48df5dfacf916
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce34c1cd71a58525b8074ca201f845b1

ま、それはともかく、続きです。

-------
すなわちわが国では、国家とは、人間集団の諸階級への分裂、社会における階級的支配従属関係の展開という状況において、その社会の支配階級(所有者階級)が個々の階級的支配(私的所有者権力)を共同で保障しあうために組織した公的権力体であり、その制度的特徴として、領域による国民の区分=国民の領域的支配、常備軍、官僚制、租税の四つをもつもの、と理解された。ただ、これを歴史貫通的に適用する際には、この定式、特に国家の四つの制度的指標を時代によっては緩やかに解釈する傾向が多かれ少なかれ見られるのは否定できない。
-------

史的唯物論の特殊な世界観を反映した議論なので、用語は難解ですが、単純といえば単純な話ですね。
ただ、こうした国家の本質論、特に「国家の四つの制度的指標」は、混沌とした無秩序から国家という秩序が生まれてくる過程の解明にはそれなりに役立ちます。

-------
 古代史は、このうち右の定式をほぼそのまま実証的な国家史研究のなかに活かすことが比較的容易な分野である。石母田正は、階級的構造の稀薄なアジア的共同体が根強く存続したものの、それが一程度変質したところに発生した階級的支配関係(共同体首長が他の共同体構成員をすべて自己の奴隷化した「総体的奴隷制」)を基礎に、前述の四つの制度的指標をみたす国家(東洋的専制国家)が律令国家という形で形成されたと説く。しかし石母田は、このように国家形成の内発的な契機を日本古代に見出しつつも、さらに、それとならぶ契機として、国際関係の重要性をあげる。この契機はどの国家についても常に無視できないが、特に階級関係の成熟度だけから見れば、早熟的に国家が形成されたというほかない日本古代の特徴、しかもその国家が律令国家という整備された集権的・専制的な形態をとったという現象を説明するには、中国がつくりだした古代帝国主義世界という国際関係が考慮されなければならない、というのである。
-------

「総体的奴隷制」についてはずいぶん議論があったようですが、石母田説は今でも古代史学界には強い影響力を及ぼしていて、大津透氏(東京大学教授、1960生)のように、石母田氏の『日本の古代国家』(岩波書店、1971)を「戦後の日本古代史研究の最大の成果」と絶賛する方もいますね。

あなたの「国家」はどこから?─大津透氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fb8e2cf4b4fb5ad5a2a29682818c648

ただ、古代は「右の定式をほぼそのまま実証的な国家史研究のなかに活かすことが比較的容易な分野」で、こうした国家の本質論がそれなりに説得力を持つとしても、中世以降はどうなのか。

-------
 石母田は同様の方法を中世についても適用し、国家の制度的指標を若干緩やかに解した上で、鎌倉幕府や戦国大名の権力が、国家権力の名に値するといえるような、いくつかの特徴をもっていると指摘し、さらにそれらが、在地領主と百姓の間の階級的関係(封建的生産関係)を基礎とする、封建的土地所有者=領主階級のつくり出した封建国家であると規定する。石母田の中世国家論の対象はこのように武家権力に限定されているが、黒田俊雄は、在地領主─百姓の関係ばかりか荘園領主─百姓の関係も封建的生産関係(農奴制)であるとし、かつ、中世の権力構造を、公家・寺社・武家という全支配階級が他の人民を総体として支配しているもの(「権門体制」)ととらえ、その総体的・単一的な機構を中世の封建国家と規定しているが、その際かの国家の制度的指標についてはあまり言及がない。この黒田説に対しては、荘園領主の性格を封建的、公武の「権門体制」を即封建的と評価することはできないとし、室町時代以降に、将軍権力が王朝権力から権力の実体的部分を割き取った段階で、天皇・将軍の結合体を封建的王権とする封建国家が成立したとする永原慶二らの説が対峙している。
-------

「石母田は同様の方法を中世についても適用し、国家の制度的指標を若干緩やかに解した上で」とありますが、『中世政治社会思想 上』の「解説」では「国家の制度的指標」みたいな話は全然出て来なくて、ウェーバーの影響が強い議論が続きますね。
黒田俊雄氏の場合は「かの国家の制度的指標についてはあまり言及が」なく、永原慶二氏の場合も同様です。
このように、立場は違えども自他ともに認めるバリバリのマルクス主義者、史的唯物論の大御所たちの中世国家論では、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』以来の「かの国家の制度的指標」の存在感が薄くなってしまいますが、それは何故なのか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その1)

2021-10-26 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月26日(火)13時23分52秒

『国史大辞典 第五巻』(吉川弘文館、1985)の「国家」の執筆者は石井紫郎・水林彪氏の連名となっていますが、文体が水林チックなので、水林氏が執筆、石井氏は監修という役割分担ではないかと思われます。
冒頭から順次引用します。

-------
 国家の意義は、史料上の意義と学問上の意義との二つの面において考える必要があるが、前者の歴史については、現在の研究水準では断片的に諸事実が知られるのみで、全時代を通ずる系統的な研究が存在せず、ここで正確な要約を試みることが無理なので、古代・中世において国家は「こくけ」「みかど」などと訓んで天皇ないし朝廷を指していたこと、これがはじめて支配者とその支配機構(家臣団)を指すに至るのは戦国大名においてであり、近世に入ってさらに支配対象(領国・領民)をも包摂するようになったが、通常は藩レベルについて用いられており、日本全土について用いられるようになるのは近代になってからであることを指摘するにとどめる。
-------

「これがはじめて支配者とその支配機構(家臣団)を指すに至るのは戦国大名において」であることから、戦国時代の研究者には「国家」という表現に妙な思い入れをしている人が多く、勝俣鎮夫氏はその代表ですね。

「国家」と「国家」の相違 (筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7146
史料上の「国家」と歴史理論上の「国家」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab55e8974c07567849ded1e3de160103
「国家」の中の「家」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/834490318fddae7b6262e09a6bf78082

それはともかく、続きです。

-------
 学問上の国家概念については、社会科学上の概念が一般的にそうであるように、西ヨーロッパ的概念の影響が大きい。西ヨーロッパ各国語の国家という言葉(state(英)・état(仏)・Staat(独)・stado(伊)・estado(西)など)はラテン語のstatusが派生したものである。それぞれの土着の言語には、王国、大公国、公国、伯邦などといった下位概念を包括する上位概念としての国家を指す言葉はなかった。ヨーロッパ中世の一般人は抽象的に国家を表象することをしなかったのである。僧侶を中心とする学識者だけがラテン語を用いて国家的事象を論じていたにとどまる。しかもそのさい国家を指すのにもちいられたのは、もっぱら res publica, civitas であり、status は身分や国制を指した。つまり status=国家が前提になって各国語の国家という言葉が生まれたのではない。事実、中世において当初これらの派生語は、状態・身分を意味した。ここから、地位、名声、偉大さ、威厳、宮廷、統治、支配、国庫会計・財政、国制の意味を経て、最後に国家の意味に到達するのに、各国とも三、四世紀を要している。このような共通的現象は純粋言語学的には説明できないもので、絶対主義国家の形成という歴史的事情にもとづくものである。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「status=国家が前提になって各国語の国家という言葉が生まれたのではない」という点はちょっと意外ですね。
このあたりの説明はけっこう難しいと思いますが、すぐ後にドイツ語の例が出てくるので理解の助けになります。

-------
ドイツ語(Staat)を例にとれば、すでに十五世紀には、帝国の状態、宮廷・廷臣、統治といった、国家の一歩手前の意味で用いられていたものの、これが国家を指すのはようやく一六四〇年代以降のことであり、この断絶を架橋したのが、十六世紀の国庫会計・財政の用法である。かつて中世においては、等族の課税同意権・財政監督権が君主の財政の自主性をはばんでおり、君主の統治府(廷臣等のスタッフ)はあっても、それが一箇の政治体を専権的に支配することはなかった。Kaiser und Reich という対句において Reich がもっぱら帝国等族を意味したことはこれを象徴している。ドイツ(神聖ローマ)帝国の支配権は皇帝と等族に分有されていたのである。ところが次第に領邦レベルでは、財政の一元化の進展に支えられて、君主による支配の独占化が進行し、いわゆる絶対主義国家が成立する。前述の一六四〇年代が、ドイツにおける領邦国家の(帝国からの)自立化にとって決定的な意味をもった三十年戦争の末期にあたることは偶然ではないのである。
-------

ここも段落の途中ですが、いったん切ります。
このあたりはドイツ特有の事情なので、ドイツ史の素養の乏しい私には難しいのですが、入手しやすいところでは新田一郎氏の『中世に国家はあったか』(山川出版社、2004)のウェストファリア条約に関する説明(p8以下)なども参考になります。
さて、続きです。

-------
こうして Staat は、君主のもつあらゆる高権の総和を意味するものとなり、さらにその諸高権を執行する機関(官僚制・常備軍)と、それによって統治される客体としての領土・領民を包摂する一箇の組織体を指すようになった。現在の社会科学上の国家概念は、この近代直前に成立した用語法を前提にしている。十九世紀のドイツ史学も、古代・中世の政治体の分析にあたってもこの概念を前提とする方法をとったので、その結果、そこに近代国家に似た特徴が見出し得るか否かをめぐってスコラ的議論を続けることになった。最近では、それまでのような支配機構中心ではなく、法共同体の問題として国家的事象を論ずる(政治体を法的・社会的人間関係によって織り成される団体とみる)傾向が強まり、国家という概念をあまり表面に出さず、国制(Verfassung)や社会構造(Sozialstruktur)という概念を用いることが多くなっている。
-------

以上が「西ヨーロッパ的概念」としての「国家」の説明ですが、日本には些か屈折した事情があり、それが「国家」概念にも影響を与えることになります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際法の国家概念の長所

2021-10-26 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月26日(火)12時34分1秒

現代国際法の国家概念などというと大袈裟な感じがしますが、日々、国際ニュース報道に曝されている我々にとって、むしろ国際法の国家概念こそが「常識的感覚」になっているのではないかと私は考えます。

あなたの「国家」はどこから?─総論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6593d078bacf58aac01ff2fd91d6c469

そして、この簡潔で機能的な国家概念を用いると、権力関係の大きな変化、時代の「画期」を鋭敏に捉えることが可能になるばかりか、様々な政治権力を一つの尺度で比較することが可能になりますね。
例えば、近時解明が進んで来た「領域型荘園」は「国家」なのか。
もちろん答えは否定的になりそうですが、それは国家の三要件(ないし外交能力を加えた四要件)のどれを欠くのか、という形で、他の政治権力ないし制度との比較の上で、その特徴が明らかになります。
同様に、平家政権は「国家」なのか、鎌倉府は「国家」なのか、戦国大名は「国家」なのか、江戸時代の藩は「国家」なのか、という形で、共通の尺度で諸々の政治権力を比較することができます。
平家政権は領域的支配を行なっていないので「国家」とは言えないでしょうし、鎌倉府は微妙なところがありますが、戦国大名は「国家」そのものですね。
私は丸島和洋氏の現在の見解に基本的に賛成しますが、丸島氏のように戦国大名特有の定義・要件を探るのではなく、単純に国家一般の要件に照らして戦国大名は「国家」なのだ、ということになります。

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cea66659dd786ab72c595cccb0b2c976
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ba92511f4d25dfbe46a7a9afcf796dd

江戸時代の藩については、幕府の命令一つであちこち移動させられた鉢植え大名は幕府の代官みたいなもので、とても「国家」とは言えそうにありませんが、薩摩・長州のように戦国大名期から支配していた領域を江戸時代を通して一貫して支配した藩の場合は事情が異なります。
こうした藩は、戦国大名としての「国家」性を潜在的にずっと維持していて、それが幕末の特定の時期に顕在化した、と考えることもできそうです。

獅子よ、あなたは眠りすぎ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a02f00dce47ee9db15da91b702e879a

そして、国際法の国家概念を用いると、こうした日本列島内の比較だけでなく、近隣諸国、そして世界各地の政治権力との比較も可能となりますね。
もちろん、この国家概念だけを比較の尺度にせよ、と言っている訳ではなく、比較のための道具概念はいろいろ考えられるでしょうが、国際法の国家概念はかなり便利で使い勝手が良さそうな感じはします。
ということで、私としては国際法の国家概念の利用はなかなか良いアイディアではないかと思うのですが、更に、この考え方が従来の国家理論のどこに位置づけられるかを少し検討してみたいと思います。
この点、『国史大辞典』の石井紫郎・水林彪氏による「国家」の項目は大変参考になるので、これを利用させてもらうことにします。
この記事の内容は以前、ほんの少しだけ紹介済みですが、改めて正確に引用した上で、私見を述べたいと思います。

石井紫郎・水林彪氏「国家」(『国史大辞典』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1c20151bd6a061873637cceb4b8292b7

>筆綾丸さん
>内乱罪は二審制で三審制の例外
本当に国家の緊急事態の話ですから、関係者を早く処断、できれば首謀者を死刑にして、反撃の火種を絶やしたいということではないでしょうか。
刑法改正で条文が優しい表現になってしまいましたが、旧法の「政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ」云々はリズミカルで良かったですね。
特に「首魁」には格別の味わいがあります。

-------
第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
 一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
 二 謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は三年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事
   した者は一年以上十年以下の禁錮に処する。
 三 付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、三年以下の禁錮に処する。
2 前項の罪の未遂は、罰する。ただし、同項第三号に規定する者については、この限りでない。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=140AC0000000045
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田日出男氏「国家の諸概念」について(その2)

2021-10-25 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月25日(月)12時15分31秒

黒田日出男氏(東京大学名誉教授、1943生)は『歴史学事典【第12巻 王と国家】』(弘文堂、2005)の編者でもあります。

-------
王と国家という、歴史学の中核をなす政治史の諸概念に多角的にアプローチ

王や国家は長い歴史を有し、地域や民族によって多様で独特な性格をもっています。歴史のどの側面・局面・場面も、大なり小なり王と国家に関わりがあり、歴史学は膨大な概念・用語を生み出してきました。本書『歴史学事典 第12巻』では、21世紀の歴史学研究にとって核心をなす項目が詳細に論じられます。

https://www.koubundou.co.jp/book/b156976.html

同書には「アジア的専制国家論」(吉田晶)、「家産国家論」(井内敏夫)、「家族国家論」(中村順昭)、「古代国家(日本の)」(吉田晶)、「古代国家(中国の)」(鶴間和幸)、「古代専制国家」(吉田晶)、「国家形成(近代日本の)」(三谷博)、「国家形成(近代中国の)」「国家の死滅」(藤本和貴夫)、「国家理性」(小沢弘明)、「国家論(マルクスの)」(吉田晶)、「国家論(エンゲルスの)」(吉田晶)、「国家論(ウェーバーの)」(伊藤貞夫)、「主権国家」(坂口修平)、「初期国家論」(白石太一郎)、「律令国家」(浅野充)、「領域国家」(谷口健治)といった具合に、「国家」を含む数多くの概念が立項されています。
この他、「領海」「権力」といった概念や人名等、およそ「国家」に関連する膨大な項目が立項されていて、全部で約八百頁という大著であり、黒田氏はこれら全てを読まれたのでしょうね。
そして、黒田氏が担当された「国家の諸概念」は、ありとあらゆる「国家」概念を渉猟された黒田氏が最終的に到達された境地の吐露とも言えそうです。

黒田日出男氏「国家の諸概念」(『歴史学事典』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b5ff2701f07eee1d1d79cf4733e2bfe

ただ、そこには「さまざまな変種の国家論が提出されては、消えていった」、「1970年代半ば以降になると、とくにマルクス主義理論におけるマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作に依拠した訓詁学的な理論は、歴史学のなかでも劇的なかたちで姿を消した」といった具合に、おそらく若き黒田氏自身も学問的情熱の燃やして参加したであろう、かつての華々しい「国家」論争の記憶と、あの論争はいったい何だったのだろうか、という苦い諦念が含まれているように感じられます。
まあ、古代や近代はともかく、黒田氏が専門とする「日本史上最も国家らしくない国家である中世国家」に関しては、今さら国家の本質論などどうでもよいではないか、という心境になられるのも理解できない訳ではありません。
「マルクス主義やヴェーバーの国家理論そのままを振りかざしても」、特に中世の「歴史研究者たちの賛意を得ることは困難」そうですね。
しかし、そうかといって、本当に「各時代の史料への読解を深めることによって、歴史的諸国家のより説得力のある、そしてより説明力のある概念を彫琢」することができるのか。
そもそも、「どの国家概念が有力かは、歴史的諸現実をどれくらい豊かに把握することが出来るかにかかっている」という黒田氏の基本的認識が正しいのか。
率直に言って、私には黒田氏が何のために「国家」を論ずるのか、という目的を見失っているように思われます。
果たして「国家」という概念は「各時代の史料への読解を深め」た結果、「彫琢」されるべき対象なのか。
それでは素晴らしい「〇〇国家」概念を「彫琢」することが自己目的になっているような感じですが、もしかしたら発想が全く逆であって、「国家」概念は「彫琢」されるべき対象ではなく、むしろ「歴史的諸現実」を「彫琢」するための、「豊かに把握する」ための道具に徹すべきなのではないか。
たまたま私は、現代国際法の「国家」概念を使うと、鎌倉幕府は十分に「国家」の三要件(ないし外交能力を加えた四要件)を満たすように思われ、そして鎌倉幕府を「東国国家」と把握すれば、三上皇配流・今上帝廃位という承久の乱の戦後処理が非常に合理的に説明できるのではないか、と考えてみました。

承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c

現代国際法の「国家」概念は、ウェーバーのように「支配の正当性」すら要求せず、要するに一定の領域を実効支配するだけの統治機構を整備しさえすれば「国家」なのだ、という非常にサバサバした簡潔で機能的な概念で、その体制の内実は問いません。
「文明国」であろうとなかろうと、民主的だろうと専制的だろうと、理念や宗教が何であろうと、とにかく実効支配さえすれば立派な「国家」候補であって、「イスラム国」だってもう少し頑張れば「国家」になれたかもしれないし、タリバンなどは、つい最近まで山賊並みだったのが、今や堂々たる「国家」の一歩手前、というか、既に「国家」と呼んだ方が良さそうな存在です。
そして、こうしたサバサバした簡潔で機能的な「国家」概念を用いると、権力関係の大きな変化、時代の「画期」を鋭敏に捉えることが可能になりますね。
これは国際法の「国家」概念の長所であって、承久の乱ではまさにそれが(私見では)成功しているように思えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お久しぶりです。

2021-10-24 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月24日(日)21時55分45秒

>筆綾丸さん
あの当時の筆綾丸さんとのやり取りを見直していたところだったのですが、時に暴走しつつも、我ながら短期間でけっこう良く調べたなと思います。
結局、私は水林氏の『天皇制史論』を一応理解できたつもりになって、それで満足してしまったのですが、筆綾丸さんは水林説にかなり懐疑的でしたね。
今では私も、ちょっと偏りすぎたなあ、と反省しています。
それと、あの騒動が石母田正をきちんと読むきっかけとなったので、これも結果的には良かったですね。
最初は、何だ、研究史と言ったって石母田どまりか、戦国史の連中は田舎臭い議論をしているな、などと軽く見ていたのですが、『中世的世界の形成』が苦手で食わず嫌いだった石母田氏の著書・論文を実際に読んでみたら、石母田氏はちょっと別格の知識人でしたね。
それでも、『日本の古代国家』に比べたら『中世政治社会思想 上』の「解説」は少しレベルが落ちるのでは、などと不遜にも思っていたのですが、今回読み直してみたところ、最後の最後にチラッと出てくる「礼」の秩序の話以外はすっきり読めて、これも私の誤解でした。
また、筆綾丸さんに特に感謝したいのは、筆綾丸さんの2013年12月22日の投稿に、東島誠氏の『公共圏の歴史的創造 ー 江湖の思想へー』に関して、

-------
謀反(謂謀危國家)と謀叛(謂謀背圀従偽)の差異について、前者は単一国家を前提にし、後者は複数の国家を前提にしたもので、ある時期以降、頼朝は大江広元の入れ知恵で両者を厳密に使い分けた、という論考をあらためて面白く思いました。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7085

とあったことです。
律令の枠を超えた承久の乱の戦後処理は「東国国家論」でないと説明できないのでは、と考えるようになった私は、三上皇配流・今上帝廃位を主導したのは大江広元であって、広元は当該処分の法的性格を理解していたはずだ、と推測するに至ったのですが、それは広元の頭の中に存在していただけで、史料に出て来るはずはないとも思っていました。
しかし、史料的に裏付けられる可能性がありそうなので、早急に東島著を確認せねば、と思っているところです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「残日録」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10914
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田日出男氏「国家の諸概念」について(その1)

2021-10-22 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月22日(金)12時43分6秒

八年前、丸島和洋氏(1977生)との間でプチトラブルがありましたが、戦国時代に全く興味がなかった私が中世国家論について調べ始めたのは丸島氏の当掲示板への闖入のおかげであり、今ではまんざら冗談でもなく丸島氏に感謝しています。
当時、丸島氏からは、

-------
ブロックした相手一件。なんつうか、サロン的な掲示板を作っていて、僕の本も色々議論してくれているんだけど、ほとんど「想像」上の空論なんだよね。研究史は勉強していない/する気がないのに、研究史を踏まえて議論したつもりになっているというか。前々から敬遠していたんだけど、嫌悪感しかない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb

などと言われてしまいましたが、実際に研究史を遡ってみたところ、丸島氏自身も石母田正(1912-86)止まりでした。

石母田正は偉い人?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc3e222b8cce8002f30f7d28b9c322cf

私には石母田氏の戦国大名に関する議論がそれほど説得的とは思えなかった反面、新田一郎氏(1960生)の『中世に国家はあったか』で水林彪氏(1947生)の論文「原型(古層)論と古代政治思想論」を知り、次いで『天皇制史論』を読んで以降、今から思うと些か気恥ずかしくなるほど私は水林ワールドにどっぷり浸かってしまいました。
ただ、やはり近世の「藩」が全て「国家」だとする水林氏の考え方にはなじめませんでした。

<支配の正当性>史論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2a70643647ae5e286dbf566e472a9be
国家の水浸し(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e4766150966b6a1d64c6f57959e0e4e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0d03efe2a1c4b26ac45a0f226ef8c05

そこで、改めて基礎的なところを押さえておこうと思って、各種辞典類を確認してみたところ、『国史大辞典』(吉川弘文館)は「国家」の項目の執筆者が石井紫郎(1935生)・水林彪氏なので、私には読みやすかったですね。

石井紫郎・水林彪氏「国家」(『国史大辞典』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1c20151bd6a061873637cceb4b8292b7

どうにも奇妙だったのは『日本史大事典』(平凡社)で、カビの生えたような古臭い議論が続いた後、「人権宣言以降、基本的人権概念が定着するなかで、主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきたが、現実には国家的危機に瀕した際には、国家は自己決定組織として行動し、他のいかなる諸組織の決定にも従属しない」などという珍妙な主張が出て来て、変わった人が書いているなと思ったら、これは1995年に東大史料編纂所所長、2001年に国立歴史民俗博物館館長となる宮地正人氏(1944生)でした。

宮地正人氏「国家」(『日本史大事典』)(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8efa01d90ea67cfdcc039c6012ec7cc9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed4ea2f8386d8adfa8d2d7d3073df7f6

他方、シニカルで面白いのが黒田日出男氏(1943生)の「国家の諸概念」(『歴史学事典』、弘文堂)で、

-------
 歴史的諸国家に関して、日本の歴史学はこれまでさまざまな理論によって、その把握と説明を試みてきた。戦後日本の歴史学にあっては、とりわけマルクス主義的な国家論が盛行し、1970年代初めまでは歴史的な国家論の中心をなしてきた。それに対抗する、ないしはそれに大なり小なり批判的な国家理論としては、マックス・ヴェーバー(Max Weber)の国家論が、歴史家たちの依拠する理論となってきたと言えるであろう。
 日本史においては、とくに古代天皇制国家と近代天皇制国家をどのように把握するか、理論的に規定するかをめぐって多くの論争が繰り返されてきた。古代国家の場合、いわゆる総体的奴隷制に基づくアジア的専制国家論を軸に、さまざまな変種の国家論が提出されては、消えていった。近代天皇制国家についても同様で、天皇制絶対主義国家といった規定をはじめとする多種多様な国家理論が提出されてきた。但し、マルクス主義の国家論にせよ、ヴェーバーの国家論にせよ、主要なものだけでも幾つもの学説が提出されてきており、しかも、それらのどれも通説的な位置を占めることはなかったかに見える。しかも、1970年代半ば以降になると、とくにマルクス主義理論におけるマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作に依拠した訓詁学的な理論は、歴史学のなかでも劇的なかたちで姿を消した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b5ff2701f07eee1d1d79cf4733e2bfe

とあるのを見たときは、1995年にもなって『日本史大事典』に「訓詁学的な理論」を書いている宮地正人氏へのイヤミかな、とチラッと思いましたが、それは私の勘違いでした。
さて、石母田正『日本の古代国家』を絶賛された後、黒田氏は、

--------
 例えば古代国家・中世国家・近世国家・近代国家などと呼ぶのは、あくまでも歴史叙述上などの便宜にすぎないものであって、そうした呼称は、日本史学が未だに日本史上の諸国家の定義や規定において多くの困難な課題が残されていることの現れなのであろう。
 最早、日本史においては、マルクス主義やヴェーバーの国家理論そのままを振りかざしても、歴史研究者たちの賛意を得ることは困難である。これからの歴史学は、現代国家の新たな諸現象とそれらに関する歴史的・実証的諸分析から真摯に学びつつ、各時代の史料への読解を深めることによって、歴史的諸国家のより説得力のある、そしてより説明力のある概念を彫琢していかねばなるまい。どの国家概念が有力かは、歴史的諸現実をどれくらい豊かに把握することが出来るかにかかっているのであるから。
--------

と纏められるのですが、今の時点でこの文章を眺めると、やはり「各時代の史料への読解を深めることによって、歴史的諸国家のより説得力のある、そしてより説明力のある概念を彫琢していかねばなるまい」という黒田氏の発想は、古代はともかく、中世以降の国家論としては間違いだろうと私は考えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その2)

2021-10-21 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月21日(木)11時47分13秒

丸島氏の「国家」概念がどのように形成されたかは『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011)の「序章 戦国大名研究の現状と本書の視角」から窺うことができます。
これは2013年12月の投稿で紹介済ですが、参照の便宜のため、再掲します。(p4以下)

---------
 現代につながる戦国大名研究は、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて行われた議論を出発点としている。これは戦国大名が、いかにして権力を獲得し、公権力化していったかを探る視角である。この議論は二つの方向から検討がなされたように思われる。ひとつは、大名権力の淵源を「守護公権」に求める視点であり、藤木久志氏や宮川満氏の手によって進められた(4)。しかしその後の研究により大きな影響を与えたのは、いまひとつの「戦国法」研究であるだろう。その嚆矢となったのは藤木久志・勝俣鎮夫両氏の研究であり、在地法のレベルでは対処できなくなった状況に対応するために、戦国法(分国法)が形成されていく過程が論じられた(5)。
 戦国法を、中世法全体の中で位置づけられたのが石母田正氏である。石母田氏は戦国法の制定権が戦国大名にあり、その認証をもって完結すること、数郡~数ヶ国にわたる各大名の支配地域において一般法としての地位を占めていること、大名権力が家産官僚制を組織していることなどを指摘された。そして各大名がキリスト教宣教師といった国外勢力から「国王」と見なされていたことなどをあわせて考察され、戦国期を国家主権が戦国諸大名に分裂した時代、戦国大名領国を「主権的な国家」と評価されたのである(6)。永原慶二氏も、こうした議論を踏まえて、戦国大名を日本における「下位国家」と把握し、その自立性を高く評価するようになる(7)。
 次いで勝俣氏は戦国大名を「分国における最高の主権者」「前代のあらゆる公権力の権力の効力を断ちきって、自己を最高とする大名の一元的支配権を確立」した存在と位置づけた(8)。勝俣氏は、戦国大名が自身を公儀化するための新しい支配理念として「国家」を創出したと評価され、その構成員として「国の百姓」を想定している。
 勝俣氏は国家について、主従制的支配権の客体としての「家」と、統治権的支配権の客体としての「国」の複合体と説明する(9)。戦国大名の用いる国家とは、いわゆる「日本国」ではなく、戦国大名領国を示しており、それは近世大名へと継承されていったもので、「地域国家」と位置づけられるものであったとしたのである。国そのものは国郡制の国を前提とはしているものの、地域的な共同意識(国共同体)が成立したとする。ここでは、戦国大名は「国民」に対する保護義務を負い、「国民」は国の平和と安全の維持に協力する義務を負うという双務的関係にあると位置づけられた。この後勝俣氏はこの論理を進めて、戦国大名の地域国家を、近代「国民国家」の萌芽と見通された(10)。
 勝俣氏の「国民国家」萌芽論は、大名滅亡の危機という非常時にのみ確認され、その上多くの制約を伴った民衆の軍事動員(11)を、戦国大名国家の一般的性質に拡大したものであるなど(12)、多くの問題を残す。特に大名側の一方的な支配論理主張(これはあくまで政治的フィクションに過ぎない)と、現実の政治状況が混同されている側面は軽視できない(13)。
 しかしながら、地域国家という理解については、一定の評価を得つつあるように思われる(14)。もともと中世史研究においては、列島全体を支配した統一国家という概念が無限定に適用できるかという議論が存在し、重層的な国家像が提示されてきた(15)。戦国大名を地域国家とみなす理解は、そのような研究史の延長線上に位置づけられるものといえる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/274a621c58dfd23a83b0a63604bfd59c

注記はこちらです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a147473466db3c552cc07d5f3024f07c

丸島氏は注(6)の石母田正『中世政治社会思想 上』(岩波書店、1972)の「解説」を極めて高く評価されており、有名な『中世的世界の形成』との相性が悪くて石母田氏の論文をあまり読んでいなかった私は些か奇異に感じたのですが、その後、私も石母田氏はすごいなと思うようになりました。
ただ、大津透氏が「戦後の日本古代史研究の最大の成果」と絶賛される『日本の古代国家』(岩波書店、1971)と比べると、中世に関する石母田氏の論文には疑問を感じる部分も多々あります。
ま、それはともかく、石母田氏の国家論はエンゲルスとウェーバー、そして文化人類学の成果を絶妙に組み合わせたものと私は考えますが、古代と異なり、『中世政治社会思想 上』の「解説」ではエンゲルスと文化人類学は影を潜めており、ウェーバー的な発想が基調となっていますね。
丸島氏の要約では「石母田氏は戦国法の制定権が戦国大名にあり、その認証をもって完結すること、数郡~数ヶ国にわたる各大名の支配地域において一般法としての地位を占めていること、大名権力が家産官僚制を組織していることなどを指摘された」という部分にそれが窺われます。
また、丸島氏は注(10)の勝俣鎮夫「戦国大名「国家」の成立」(『戦国時代論』、岩波書店、1996、初出1994)も高く評価されていますが、私にはあまり理論的な論文とは思えませんでした。
「戦国大名の地域国家を、近代「国民国家」の萌芽と見通された」などと言われても、勝俣氏の「国民国家」についての理解が正確なのか、疑問を感じます。
ついでですが、石母田・勝俣氏の「主権」概念も、必ずしもオーソドックスな理解に基づくものとは言えないのではないかと思います。
さて、結論として、丸島氏の国家論にはエンゲルスや文化人類学の影響は窺えませんが、ウェーバー的な発想はあるように感じます。
ま、ウェーバーの著作を直接読んで、というよりも、石母田氏を経由して間接的に、ということかもしれませんが。
『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』(吉川弘文館、2021)にも、前回投稿で引用した部分の少し後に、

-------
 つまり戦国大名とは、軍事力という「暴力」を背景とする権力体であるが、戦乱の世における軍事的保護(「軍事的安全保障体制」、第五章で詳述)と、実効性を期待できる裁判と紛争調停を期待され、社会的要請で生み出された存在でもあった。
-------

とありますが(p4)、これは戦国大名の「支配の正当性」の話ですね。
「暴力」とカギ括弧にしている点も、ウェーバーを意識しているぞ、というサインのように見えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その1)

2021-10-20 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月20日(水)20時39分4秒

ここで古代から離れて、唐突に中世後期、戦国時代に移ります。
近時の戦国時代研究者には戦国大名を「地域国家」と捉える人が多いのですが、その一人である丸島和洋氏を例として、丸島氏の「国家」概念がどこから来たのか、古代史研究者のようにエンゲルスか、ウェーバーか、それとも文化人類学か、はたまた別のどこかからなのかを見て行きたいと思います。
テキストは丸島氏の最新刊『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』(吉川弘文館、2021)とします。

-------
16世紀前半、東日本では古河公方の内紛と連動した戦乱から、戦国大名の衝突へ変化する。伊達・上杉・北条・武田・今川・織田―大名間「外交」と国衆の動静を軸に、各地の情勢を詳述。戦国大名確立の背景に迫る。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b548656.html

冒頭の「戦国大名の戦争と「外交」─プロローグ」から少し引用します。(p1以下)

-------
戦国大名という地域国家

 東日本の十六世紀前半は、各地で戦国大名が確立していった時代である。しかし歴史学の用語のなかで、戦国大名ほど定義が曖昧なものは珍しい。たとえば関東地方における戦国大名は、北条氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏・上総武田氏・里見氏・佐竹氏だけだとする研究者もいれば、戦国大名に相当するのは宇都宮氏と結城氏で、北条氏は「地域的統一権力」と定義すべき、という研究者もいる。なかなか議論が嚙み合わないが、戦国期における普遍的・代表的権力を戦国大名とする点は合意しており、どれがその対象かを議論しているに過ぎない。
 そこで本論に移る前に、筆者が用いている戦国大名の定義を示しておく。

 ① 室町幕府・朝廷・鎌倉府・旧守護家をはじめとする伝統的上位権力を「名目的に」
  奉戴・尊重する以外は、他の権力に従属しない。
 ② 政治・外交・軍事行動を独自の判断で行う。伝統的上位権力の命令を考慮することが
  あっても、それに左右されない自己決定権を有する。
 ③ 自己の個別領主権を越えた地域を一円支配した「領域権力」を形成する公権力である。
  これは周辺諸領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団に組み込むことを意味する。
 ④ 支配領域は、おおむね一国以上を想定するが、数郡レベルの場合もある。陸奥や近江
  のように、一国支配を定義要件とすることが適当でない地域が存在することによる。

 戦国大名の本質は、今川義元が『かな目録追加』で「只今ハをしなべて、自分の力量をもって国の法度を申し付け、静謐することなれば」と述べている点に象徴される。「大名の実力で法を定め、国内の内乱を鎮定して、「平和」状況を作り出した」権力、それが戦国大名なのである。
 こうした戦国大名は、しばしば自家およびその支配領国のことを、「国家」「御国」「公儀」などと称した。「公権力」という意識を前面に押し出した自己規定といえるだろう。
 第三者はどうみたか。イエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、「彼らは諸国の完全な領主であり、日本の法律と習慣に従い全支配権と命令権を有する」(『日本諸事要録』)として、ポルトガル・スペイン国王同様、「rei(rey)」つまり国王と呼称した。日本布教史たる『日本史』を著したルイス・フロイスも、序文で同様の記述をしている。
 そうした観点を総合し、現在、戦国大名を「地域国家」と位置づける研究動向が存在する。筆者もその一端を担っており、本書においてもその姿勢で臨む。
-------

戦国大名の「定義」として挙げられている①~④は、正確には戦国大名の「要件」ということでしょうね。
④は独立の要件というよりは内容の解説なので、定義ということであれば、①~③を要約して、「戦国大名とは、他の権力に従属せず、政治・外交・軍事行動を独自の判断で行い、自己の個別領主権を越えた地域を一円支配した公権力である」、とでもすべきかと思います。
表現としては、むしろ「大名の実力で法を定め、国内の内乱を鎮定して、「平和」状況を作り出した」権力、の方が定義っぽい感じがしますが、こちらは「法」を格別に重視する点で、①~③の要約である定義とはズレてきますね。
さて、実は私は丸島氏と特別にフレンドリーな関係にあって、2013年に丸島氏の著書『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ、2013)をめぐって若干のやり取りをしたことがあります。
『戦国大名の「外交」』では、丸島氏は戦国大名を「国家」と把握する理由を次のように三つ挙げていました。(p8以下)

--------
 その第一の理由は、戦国時代の法律、戦国法のあり方である。戦国法の制定権は戦国大名にあり、数郡から数カ国にわたる戦国大名の支配領域において、一般法としての地位を占めていた。【中略】戦国大名領国の主権は戦国大名に帰属し、室町幕府・鎌倉府をはじめとする従来の公権力が公認してきた慣習や特権を継続して認めるかどうかは、戦国大名の判断次第であった。
 そのことを象徴するように、戦国大名は自分の支配領域を指して「国家」「御国(おくに)」という表現を使用した。これが第二の理由である。戦国大名は、自分自身を領国における主権者すなわち「公儀」と位置づけて、自身の領国を「国」(支配領域)と「家」(「家中」=家臣団)の複合体、「国家」と表現したのである。
【中略】
 そして第三に指摘しておかねばならない大きな事実が、ポルトガル宣教師の視点である。ポルトガル宣教師は、戦国大名のことを”rei”、つまり「国王」と呼び、ポルトガル国王と同じ表現を用いて呼称しているのである。この点はイエズス会東インド巡察使アレッシャンドロ=ヴァリニャーノが一五八三年に「ある人々は位階と実権を得たが、それらの者の中で最高の者は屋形(やかた)と称せられる。彼らは諸国の完全な領主であり、日本の法律と習慣に従い全支配権と命令権を有するから、国王であり、その名称に相応している」(『日本諸事要録』『日本巡察記』九頁)と記している点に端的に表れている。
【中略】
以上のような理由から、筆者は戦国大名をひとつの「地域国家」と呼び、他大名との交渉を、「地域国家」の主権者による外交権の行使、という意味で「外交」と呼ぶのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/56882a93d2c19d3ef6af9556b59651e8

『戦国大名の「外交」』と比べると、『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』は議論がかなり整理されていますね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする