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学問空間

今月中に「はてなブログ」へ引越し予定です。

ウナギ追いしかの山

2015-07-11 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 7月11日(土)21時40分0秒

>筆綾丸さん
>『東京帝大叡古教授』
著者は1971年群馬県生まれで、この作品は直木賞候補作なのですね。

http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun153KY.htm

書店で手に取ってみたのですが、どうも今は頭が小説モードにならないので、暫くお預け状態が続きそうです。
ちなみに直近で読んだ、というか読み直した小説はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』なのですが、これはヨーロッパ中世文化史研究者の辻佐保子氏がエッセイで言及されていたからで、同氏の著作を理解するための準備作業でした。

>『ヨルタモリ』
宮沢りえの会話のセンスと着物がいいなと思って時々見ているのですが、この回もたまたま眺めていて、大ウナギの歌はすごいなと思いました。
私もかつて「来ぬ人を まつほの浦の 海老ふりゃー 揚げて尻尾(しっぽ)も 身もこがれつつ」と詠みましたが、大ウナギに完全に負けていますね。

「習作」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f6d824dffebe7d3dc1cc1bdec1c503a

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「東京帝大叡古教授と権中納言定食」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7880
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後深草院二条と飯沼助宗

2013-04-06 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 4月 6日(土)23時03分51秒

>筆綾丸さん
週刊誌記者と高知県の神社の神職を兼ねている川村一代氏の『光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ』(晶文社、2012)という本に震災後の田代麻紗美氏の活躍が描かれていますが、私は素直に優れた人だと思っています。
早く落ち着いた日々を取り戻してほしいですね。

『光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ』
http://www.shobunsha.co.jp/?p=2289


>権勢家の得宗被官とはいえ、将軍の陪臣にすぎず、
>極官がせいぜい左衛門尉ごとき男

これは筆綾丸さんの、というか多くの国文学者・歴史学者の誤解なんですね。
平頼綱・飯沼助宗父子は武家社会の「特権的支配層」の最上層で、鎌倉には「もっと上流の階級」は存在しません。
これは細川重男氏が『鎌倉政権得宗専制論』・ 『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』で明らかにされたことですが、史料を緻密に読み込んだ強固な実証的研究の成果であって、この時期を専門的に研究している歴史研究者の間では既に共通認識でしょうね。
将軍は20年程度で交替させられるお飾りであり、朝廷の官位・官職も鎌倉での身分標識として便利だから借用しているだけで、鎌倉の身分秩序と朝廷の身分秩序は別物ですね。

>涙川、契り、濡れ衣・・・などから、男女の関係を
>想定したのでしょうが、網野氏の性的妄想

網野善彦氏にエロ親父的側面があるのは否定しませんが、この部分の解釈として男女の関係を連想したのは正しい、というか「涙川、契り、濡れ衣」という語彙から見て、それ以外の解釈は成り立たないと思います。
ただ、それは二条が『とはずがたり』の読者に、二条と助宗との間に男女の関係があったと思わせるように書いただけであって、実際に二人の間に男女関係があったかどうかとは別問題ですね。
証人が二条一人であり、そしてその唯一の証人は常に自分に都合の良いことだけを書く人ですから、客観的には事実の確定はできないですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6777
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兼好法師の遺跡?

2013-01-14 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 1月14日(月)13時20分49秒

検索してみたら花見の時期の美しい境内の様子を撮影した動画もありました。
2分過ぎくらいにチラッと出てくる稲荷社前の渋い狐、けっこう私の好みのタイプです。

http://www.youtube.com/watch?v=uLOaWu7B-CU

「兼好法師の庵」だったという話もあるそうですね。

---------
 摂津八十八ヶ所第32番霊場「正圓寺」境内に、「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。吉田兼好は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人であり、後宇多天皇に仕える北面の武士であった。
 1324年(正中元年)比叡山で剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、後には南北朝の戦乱を避け、彼の弟子の命婦丸(文献によっては命松丸)の里であった阿倍野丸山(現在の大阪市阿倍野区丸山通り付近)に移り住み、自ら藁を打ち、ムシロを織って、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われている。
 『兼好法師の藁打石』と伝えられる大石は、元は当寺院の北の方に丸山古墳があり、その近くにあった柘榴塚の大石が伝えられたもので、現在正圓寺門前の正面参道の石段のところに建つ「大聖歓喜天」と刻んだ標碑の礎石がその『藁打石』と言い伝えられている。
すぐ傍らに『兼好法師隠棲庵跡』の碑や『句碑』も建てられているが、これらの石碑は柵で囲まれており、石碑の建立年月などは確認できなかった。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage423.htm

こちらは史実としてはかなり微妙な話ですが、近世に様々な形で広がった兼好伝説の一例としては面白いですね。
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『山家心中集』の成立時期

2012-08-25 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 8月25日(土)07時55分43秒

>筆綾丸さん
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」が詠まれた時期ですが、いつも参考にさせてもらっている水垣久氏の「やまとうた」には、

-------
【補記】いつの作とも知れない。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作とする。いずれにせよ「春死なむ」の願望が現実と化したことで、この歌は西行の生涯を象徴するかの如き一首となった。因みに西行の入寂は文治六年(1190)二月十六日。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった(藤原定家『拾遺愚草』)。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めたのだった。なお第二句は「花のもとにて」で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わるが、「花のしたにて」が正しいようである。
【他出】御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、古今著聞集、西行物語、六華集、兼載雑談
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

とありますね。
『山家心中集』の成立時期が重要なのでしょうが、五味文彦氏の『西行と清盛』p192には、

--------
 西行の歌集には『山家集』のほかに『山家心中集』と称される歌集があって、これと『山家集』を比較すると、歌数が三七四首といたって少なく、後年の歌をほとんど収録していない。その末尾には、西行が歌を集めて送ったことを語る、先に揚げた「花ならぬ」や「世を捨てて」という歌を載せているが、これらは『山家集』においては途中(一二三九と一二四〇)に収録されている。これらのことから、『山家集』に先立つ歌集であると考える見解が出されているが、その点はほぼ首肯できよう。
-------

とあります。
この後も説明が続きますが、結論として五味氏は四〇代の歌と位置づけていますね。
確かに死が現実のものとして差し迫った時期ではなく、四十代くらいの方がよさそうですね。

>四国八十八ヵ所の札所巡り
いいですねー。
『とはずがたり』に出てくる崇徳天皇の白峰御陵には前々から行ってみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。
それと、渋いところでは土御門天皇の配流地にも行ってみたいですね。

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源通光

2012-07-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 7月21日(土)09時47分42秒

>筆綾丸さん
きりぎりすを詠んだ和歌といえば後京極摂政太政大臣・藤原良経の

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む

が一番有名でしょうが、良経は建永元年(1206)に38歳の若さで急死しているので、翌建永二年の「最勝四天王院障子和歌」には名前が出てこないのですね。

藤原良経
http://blogs.dion.ne.jp/misohito/archives/8258149.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositune.html

源通光は後深草院二条の祖父なので、妙になつかしい名前のように思えてしまうのですが、この人は1187年生まれなので、建永二年(1207)には21歳ですね。
「やまとうた」から経歴を引用させてもらうと、

-------------
内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。
内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。
同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。
土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。
順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。
(後略)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

とのことで、2歳で叙爵、15歳で公卿、21歳で権大納言ですから、建永二年(1207)は恵まれた前半生の真っ最中ですね。
『最勝四天王院障子和歌』の

旅人の袖のあらしの秋更けてしらぬ露散る宮城野の原

は通光の歌としては特に優れたものではないでしょうが、手慣れた感じはしますね。

落たぎつ滝の白玉わが袖にかけてぞすずむ夏の日ぐらし(布引滝)
和歌の浦や汐干をさして行く鶴のつばさの波にやどる月影(和歌浦)
大井川入江の松をしるべにて昔の波にうかぶもみぢ葉(大井川)
おしねほす鳥羽田のくろにゐる雁の涙にむせぶ秋の稲妻(鳥羽)
涼しさに秋ぞうちいづる泉川柞の森の岸のした水(泉川)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/teika/saisyo.html

などは新鮮な感じがします。
後鳥羽院に気に入られただけあって、才能豊かな人ではありますね。


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東北の歌枕

2012-07-20 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 7月20日(金)08時27分0秒

「最勝四天王院障子和歌」から例えば「宮城野」を抜き出してみると、

------------
宮城野やあかつき寒くふく風になく音もよわききりぎりすかな 御製

草枕また宮城野の露にして浅くも秋をながめつるかな 慈円

旅人の袖のあらしの秋更けてしらぬ露散る宮城野の原 通光

宮城野の秋にみだるる虫の音に露とふ風をそでにまがへて 俊成女

宮城野の木の下わくる旅の袖露をたよりの秋の花ずり 有家

移りあへぬ花のちくさにみだれつつ風のうへなる宮城野の露 定家

宮城野は宿かる袖も松虫の鳴く夕かげの萩のうは露 家隆

ふる里をしのぶもぢずり露みだれ木の下しげき宮城野の原 雅経

宮城野の草葉の露をあらそひてまた故郷をたれおもふらん 具親

宮城野のうつろふ秋にあしびきの山立ちならし鹿ぞ鳴くなる 秀能
------------

ということで、後鳥羽院以下、どの人も一度も陸奥に行っていないのに実に見事に詠むものですね。
「宮城野&和歌」で検索したら、登米伊達家現当主の伊達宗弘氏のサイト(「伊達八百年の歴史とみちのくの文学散歩」)に、

--------
この能因法師はみちのくを二度訪れ、また、全国各地を行脚し、晩年、和歌の手引書を著しています。そのなかで能因は、みちのくを山城、大和に次ぐ第三の歌枕の国として位置付けています。能因歌枕によるとその数の多いのは、山城(京都〉の86、大和(奈良)の43、陸奥(むつ)の42、摂津(大阪)の35、出羽の19で、この陸奥の国と出羽の国を合せた東北全体では、歌枕としては京都に次ぐ数の多さです。
 ちなみに、仙台から松島の方を辿ってみても、つつじが岡、宮城野そして多賀城に入って野田の玉川、おもわくの橋、沖の石、末の松山、壷の碑、浮島を経て、塩釜、まがき島、松島、雄島と続きます(後略)
http://www5.ocn.ne.jp/~date0731/zuihitsu/txt94.html

とありました。
まあ、「最勝四天王院障子和歌」に陸奥の歌がやたらと多いのは別に特殊な理由によるのではなく、もともと陸奥に歌枕が多いだけ、ということですかね。
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「最勝四天王院障子和歌」

2012-07-20 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 7月20日(金)07時52分43秒

>筆綾丸さん
>和歌の名所は遠く陸奥という「幽玄」の名所にまで及び、

水垣久氏の「やまとうた」に「最勝四天王院障子和歌」が載っているのでどこの国が多いのかを数えてみたところ、

摂津(7)
山城・陸奥(6)
大和(5)
播磨(4)
伊勢・駿河(3)
紀伊・近江(2)
河内・肥前・因幡・丹後・尾張・遠江・信濃・武蔵(1)

となっていて、「統治」の対象としてはずいぶんバランスが悪いですね。
基本的には京都周辺しか関心がなくて、九州は松浦山(肥前)1箇所だけ。
東の方は駿河3、尾張・遠江・信濃・武蔵が各1なのに、何故か陸奥は6箇所、全体の13%で、突出して多いですね。
ちょっと不思議な感じがします。

「やまとうた」
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/teika/saisyo.html

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鬼怒鳴門

2012-03-09 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 9日(金)16時12分22秒

>筆綾丸さん
『中世尼僧 愛の果てに』を読んでみましたが、私もあまり感心しませんでした。
『とはずがたり』における遊義門院の描写は謎が多く、日下氏が遊義門院との関係の分析に力を入れている点は多少評価できると思いますが、結論として『とはずがたり』が遊義門院からの「援助の見返りとして書かれた可能性が高く、最初の読者には女院が想定されているのであろう」(p54)となると、賛成はできかねますね。
金目当てだったら、少なくとも母親の東二条院の悪口をあれだけ書きまくりはしないと思います。
読後感を少し気取ってニーチェ風にまとめると、「後深草院二条という怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。汝が『とはずがたり』の深淵を覗くならば、深淵もまた汝を覗き返すのだ」てな感じですかね。

>朝美納豆
ドナルド・キーン氏は雅号を「鬼怒鳴門」とするそうですが、鬼が怒鳴るのではあまり雅とは言えないですね。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120308-OYT1T01125.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「朝美納豆」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6275

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「心の色を染めよとぞ思ふ」

2012-02-15 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 2月15日(水)01時52分6秒

>筆綾丸さん
五味文彦氏の『西行と清盛』を入手してパラパラと眺めてみたのですが、p156には、

--------
西行はこの信西の辣腕と平氏の躍進を目にしつつ、再び高野に帰って籠もるが、やがて聞こえてきたのが、かつて仕えていた徳大寺実能が保元二年七月に病によって出家し、子の公能(きんよし)が八月に右大将になったことである。それも束の間、九月に実能が仁和寺の堂で亡くなったという報が届いた。さらにその服も明けないうちに公能の母(白河院の近臣として知られた藤原顕隆の娘)も亡くなった。そこで西行が高野山から公能に寄せたのが次の歌である。

 右大将公能、父の服のうちに母亡くなりぬと聞きて、高野より弔ひ申しける
重ね着る藤の衣を便りにて心の色を染めよとぞ思ふ(七八五)
(喪服を二つ重ねて着るのを機縁に、仏の道に心を入れたらいかがでしょうか)

西行は出家しない公能に不満を示し、出家を勧めたのである。(後略)
--------

とありますね。
西行が公能に出家しろと言うのはいかにも僭越な、傲慢な感じがして、徳大寺家に仕えていた西行にふさわしいとは思えない感じがしたのですが、公能の返しを見ると、「出家を勧めた」は正しいのですね。
ただ、「出家をしない公能に不満を示し」は強すぎて疑問を感じます。

辻野武彦氏「西行学習ノート」
http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo9/p78_ryoushin1.html

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猫の弄斎

2010-04-30 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月30日(金)01時02分52秒

下で引用した部分、けっこう難しいところもあるので、田中氏の解説も紹介しておきます。(p38以下)
恐るべき才能ですね。

---------
 右句は恋煩いで悩んでいる猫を詠んでいる。「らうさいけ」は「労※気(ろうさいけ)」で気鬱症の兆候があるという意味である。この句の場合は恋の悩みによる気鬱症である。これに「猫のらうさい」という小歌のタイトルを掛けた。当時「猫の弄斎(ろうさい)」という小歌があったようだが、どのような小歌か不明である。「弄斎」というのは弄斎節のことで江戸初期に流行した歌謡である。
 この句をほめて「よい作にや」(よい作ではなかろうか)と記し、そのあとに「きんにや。うにや」と続けているが、この言葉は小歌の合の手の「きんにゃらにゃ」のもじりで、「よい作にや」の「にや」に「きんにや。うにや」と続けて、猫の鳴き声の「にや、にや、にや」(ニャー、ニャー、ニャー)を利かせたのである。このような駄洒落に近い言葉遊びは、芭蕉の得意とするところであった。
---------

>筆綾丸さん
四番はまだ上品ですが、二番のテーマは男色、二十番は更に際どい作品で、とても国語の教科書には載せられないですね。
これだけ諧謔の精神に満ちていた人が、なぜ漂泊の求道者に変化してしまうのか。
田中善信氏が見出した芭蕉像を演じる役者を選ぶとしたら、お笑い芸人からあれよあれよという間に芸術家に転進した片岡鶴太郎氏がいいんじゃないですかね。

http://www.kataoka-tsurutaro.com/
http://www.kataoka-tsurutaro.com/blog/

>法華寺の鳥居
検索したら「やまとかんなび」というブログに若干の説明がありました。
丁寧な解説ですが、出典を明記してくれるとありがたいですね。

http://kannabi653.at.webry.info/200707/article_1.html

>出羽村山郡の白岩一揆
発生した場所は寒河江の慈恩寺のすぐ近くなんですね。

http://homepage2.nifty.com/nenkin-akita/rekisi/rekisi16.html
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言葉の花がつを

2010-04-28 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月28日(水)01時13分21秒

>筆綾丸さん
『芭蕉 「かるみ」の境地へ』はまだ途中ですが、面白いですね。
p36以下、少し引用してみます。

---------
 四番
   左      信乗母
さかる猫は気の毒たんとまたゝびや
   右勝    和正
妻恋(つまごい)のおもひや猫のらうさいけ
  猫にまたゝびを取つけられたる。左の句珍しき。ふしを。いひ出(いで)られたるは。言
  葉の花がつをともいふべけれ共(ども)。きのどくといふことば。一句にさのみいらぬ事な
  れば。少(すこし)難これ有て。きのどくに侍る。右又「猫のらうさい」と。いふ小哥(こうた)を。
  妻恋にとりあはされたるは。よい作にや。きんにや。うにや。
  (後略)
---------

戯文の天才で「陽気な野心家」であった芭蕉が、なぜ生真面目な俳聖になってしまったのか。
著者の説明はそれなりに説得的ですが、まだ何かあるような感じもします。
『芭蕉 二つの顔』も読んでみるつもりです。

>法華寺
聖徳宗は法隆寺を中心にして昭和25年(1950年)に法相宗から独立したそうで、こちらは戦後の混乱期の出来事といえそうですが、法華寺の光明宗は平成11年(1999年)に真言律宗から独立ですか。
まあ、想像される原因としてはやはり人事問題なんでしょうね。
そういえば、つい最近、宇佐八幡宮の宮司職をめぐって到津家の人が裁判を起こしたというニュースがありましたね。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/oita/news/20100423-OYT8T01362.htm
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「不思議な何箇条」

2010-04-26 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月26日(月)00時42分0秒

>筆綾丸さん
全く読まずに批判めいたことを書くのもどうかなと思って、『源氏物語とその作者たち』を途中まで読んでみました。
第三章のまとめとして、p86に、

-----------------
 桐壺から紅葉賀に至る七巻は現存する源氏物語の冒頭部として、物語世界の概略を紹介すべき重要な任務を負っているにも拘らず、
 ▽一貫した時間が流れていない。
 ▽作者の主人公光源氏に対するスタンスが一定しない。
 ▽巻と巻との関連が明らかでないものがある。
 ▽話に欠落があるのではないかと疑われる。
などという不思議な何箇条かがあって、読者を疑惑の雲に包んでしまう。源氏物語が一方に大きな人気を持っていながら、他方読みにくい、分からないと言われ、敬遠されている最大の理由はここにあるだろう。
-----------------

とありますが、▽の部分程度で「不思議」「疑惑の雲」がある、だから『源氏物語』は複数の人間が書いたのだ、と主張する西村氏に対しては、だったら時間的な矛盾や欠落が遥かに大きい『とはずがたり』は一体何人が書いたと思っているのだ、と質問してみたいですね。
西村氏が描く『源氏物語』の享受の様子は別に間違いではないでしょうが、だからといって読者が直ぐに作者に転化できたのか、紫式部レベルの文学的才能の持ち主がそんなにゴロゴロいたのか、は非常に疑問ですね。
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『芭蕉 「かるみ」の境地へ』

2010-04-22 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月22日(木)01時02分46秒

>筆綾丸さん
購入してみました。
「水無月の恋」はお洒落な表現ですが、129ページを見たところ、「水無月の鯉」になっていますね。
『源氏物語とその作者たち』は購入すべきかどうか迷ったのですが、ご紹介の文章を見て、やめることにしました。

ゲレンデの恋 左勝 水無月の花嫁

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『源氏物語とその作者たち』

2010-04-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月21日(水)00時34分15秒

>筆綾丸さん
「性の手ほどき」=「そのような教育」なので、おそらく後深草院の「新枕」の相手が二条の母、大納言典侍であったという話のことを言っているのだと思います。
一部の学者が真言立川流に関係すると主張している場面ですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm

ご紹介の文藝春秋のサイトには、西村亨著『源氏物語とその作者たち』の説明として、

------------
王朝文学の最高傑作にして、世界最古の長編小説とも言われている『源氏物語』。一般的には紫式部の作とされていますが、400字詰め原稿用紙に換算して2500枚にもなる長大な物語を、本当に彼女が1人で書いたのでしょうか。西村さんは、文体や登場人物の扱いなどに着目し、錯綜(さくそう)する物語の展開を少しずつ解きほぐしていきます。その結果見えてきたのは、光源氏死後の話である「宇治十帖」のみならず多くの部分が、読者によって自由に加筆や修正が行われ「成長」していった事実でした。最後に浮かび上がる男性筆者の存在とは――推理小説顔負けの面白さです。
------------

とありますが、まるで小川剛生氏の『増鏡』作者論のようですね。
複雑なストーリーは大勢で作ったことにするのが若手の学者の流行かと思ったら、西村亨氏は1927年生まれの慶応大学名誉教授なんですね。
語彙もいかにも折口の弟子っぽいですが、鎌倉時代の貴族社会の最上層を民俗学に結び付けるのは無理が多い感じがします。
笑いのセンスがなさそうなところも先生譲りのようですね。
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『二条良基研究』

2010-03-17 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)23時08分30秒

小川剛生氏の『二条良基研究』は1万4千円(税別)もするので購入時には若干躊躇いましたが、内容はその金額にふさわしい充実ぶりですね。
笠間書院のホームページには井上宗雄氏、五味文彦氏の推薦文が載っていますが、国文学・歴史学の両碩学からここまで絶賛される書物も珍しいでしょうね。

http://kasamashoin.jp/2006/10/28.html

今日、入手した『三田評論』(2007年5月号)には、「話題の人 『二条良基研究』で角川源義賞を受賞 国文学研究資料館准教授小川剛生さん」というインタビュー記事が掲載されており、小川剛生氏が二条良基研究を始めたきっかけが書かれているので、少し紹介してみます。
「インタビュアー」は『武士の家計簿』の著者、磯田道史氏(茨城大学准教授)ですね。

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──このたびは『二条良基研究』で最年少での角川源義賞受賞おめでとうございます。最初にどうして二条良基という人物を研究しようと思ったのかをおうかがいしたいのですが。

小川 まず二条良基が作者として最もふさわしいと言われている『増鏡』が好きで読んでいたということがあります。『増鏡』は鎌倉時代の宮廷を描いた歴史書ですが、動乱の世にこんな優雅なことを書いていていいのかと、時代錯誤だとしてあまり評価されていなかった。だけど、乱世のなか平安時代の残っている優雅な面を書いているわけですから、これはちょっと尋常な精神の持ち主じゃないなと逆に思ったんですね。実際文学として読んでみるとなかなか一貫性のあるおもしろい読み物だし、時代に背を向けているのは、それはそれで一つの主張を持った人物の生き方ではないか。それで良基について書かれたものを読んでみたら、これが『増鏡』の作者だということと切り離して考えても、おもしろい人物だったんです。(中略)

──良基は非常に大きな幅の広い人物ですよね。歴史学者や国文学者は解剖学者のように、分析する対象を捌くのですが、二条良基は巨大な牛のような巨人で、牛を解体できる刀と技術を持った料理人でなければ、とても扱えない。だから二条良基の研究は小川さんだからこそできたのではないか。
 この研究のすごさは、歴史叙述から、和歌や連歌から、一番大切な南北朝時代の朝儀の復興、つまり天皇をいかに即位させ、維持していくかという儀礼の問題まで研究し捌いていること。これは、歴史学者であり、和歌や有職故実の研究者であるような人でないとできない。小川さんの場合、二条良基が大きな人だということは、『増鏡』から入って感じられたのですか。

小川  そうです。『平家物語』のように、古典文学はたいてい作者不明で、作者探しというのは魅力的なテーマなのだけど、たいてい作者としてこの人がふさわしい、という推測にとどまる。『増鏡』については、逆に二条良基の伝記、業績の研究から入って、結果的にどう見えてくるかとい手法でやったほうがいいと思った。非常に迂遠だけど、初心忘れるべからずという感じでやったんです。
(後略)
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「牛を解体できる刀と技術を持った料理人」という磯田氏の表現は、随分と生々しい比喩ですね。
言いたいことは何となく分かりますが、牛を解体するのは料理人とは別の職業なので、単に洗練されていないだけでなく、適切でもない比喩ですね。
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