投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月30日(月)23時39分32秒
>筆綾丸さん
あっと言う間に小亀レスになってしまいましたが、内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』を読んでみました。
漠然と疑問に思っていたところをいくつか綺麗に整理してもらってとても有難い本ですが、気になる点も多少ありました。
例えば禅助の紹介で、
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仁和寺禅助
禅助(一二四七~一三三〇)は洞院(とういん)通成の子で、仁和寺真光院の僧となり、永仁元年(一二九三)には大僧正となった高僧である。翌年には東寺長者ともなった。徳治二年(一三〇七)七月二十六日、後宇多院出家の戒師となった僧であることでも知られる。ゆえに真光院国師または禅助国師と称された。国師はいわずもがな後宇多院の戒師や伝法灌頂の阿闍梨となったからである。(p19)
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とありますが、「洞院」通成は「中院」通成の誤りですね。
洞院家は閑院流藤原氏で西園寺家の庶流、中院家は村上源氏です。
もちろん、こんなことは些細なケアレスミスですが、内田氏があまり貴族社会の人間関係には興味がなさそうなことは他の部分からも伺えますね。
両統迭立や「文保の和議」(ママ、p6)についての一般論も、少々古めかしい感じがします。
後醍醐天皇その人については、「象徴的かつ根本的なモノに固執する」(p117)側面が非常に気になりました。
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モノにこだわるという点で、坂口太郎氏の興味深い論考がある。後醍醐天皇が捕えられると、後醍醐天皇のいた二条富小路の内裏から数々の宝物が見出された。これに驚いた花園院は、宝物の多くが納められていた勝光明院と蓮華王院の宝蔵を確認させると、蓮華王院の宝蔵には後醍醐天皇天皇がことごとく召して出して、宝物がひとつもなかったという状況が確認されたのであった。王権のもと数々の重宝を集めていたらしい。(p118)
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坂口太郎氏の論文、「後醍醐天皇の寺社重宝蒐集について」(上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』所収、思文閣出版、2008)は未読ですが、非常に重要な指摘がなされているようなので、早く読んでみたいですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
文観房弘真 2010/08/19(木) 19:23:35
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1dd469ef15051063620106c305e5665f
『文観房弘真と美術』は、後宇多の法諱を「金剛性」としていますね。
「後宇多院は醍醐寺報恩院の憲惇に伝法灌頂を受け、院政を伏見上皇に譲った後は大覚寺
に住した。金剛性と諱し、また周囲からは大覚寺殿と称され、仏教に帰依すること篤い
上皇であったことはつとに名高い。特に密教に傾倒し、真言の高祖・空海に関係する遺品
や印信などを強く求めている」(同書86頁)
「文観房弘真」という名の由来は、面白いですね(103頁~)。
文は文殊菩薩の文、観は観音菩薩の観、弘は弘法大師の弘、真は空海の弟の真雅の真。
醍醐寺に来る前、西大寺にいた頃は、文殊と観音の後ろの字をとって、殊音。