学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「宝物コレクター」後醍醐

2010-08-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月30日(月)23時39分32秒

>筆綾丸さん
あっと言う間に小亀レスになってしまいましたが、内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』を読んでみました。
漠然と疑問に思っていたところをいくつか綺麗に整理してもらってとても有難い本ですが、気になる点も多少ありました。
例えば禅助の紹介で、

-----------
仁和寺禅助
 禅助(一二四七~一三三〇)は洞院(とういん)通成の子で、仁和寺真光院の僧となり、永仁元年(一二九三)には大僧正となった高僧である。翌年には東寺長者ともなった。徳治二年(一三〇七)七月二十六日、後宇多院出家の戒師となった僧であることでも知られる。ゆえに真光院国師または禅助国師と称された。国師はいわずもがな後宇多院の戒師や伝法灌頂の阿闍梨となったからである。(p19)
-----------

とありますが、「洞院」通成は「中院」通成の誤りですね。
洞院家は閑院流藤原氏で西園寺家の庶流、中院家は村上源氏です。
もちろん、こんなことは些細なケアレスミスですが、内田氏があまり貴族社会の人間関係には興味がなさそうなことは他の部分からも伺えますね。
両統迭立や「文保の和議」(ママ、p6)についての一般論も、少々古めかしい感じがします。
後醍醐天皇その人については、「象徴的かつ根本的なモノに固執する」(p117)側面が非常に気になりました。

----------
 モノにこだわるという点で、坂口太郎氏の興味深い論考がある。後醍醐天皇が捕えられると、後醍醐天皇のいた二条富小路の内裏から数々の宝物が見出された。これに驚いた花園院は、宝物の多くが納められていた勝光明院と蓮華王院の宝蔵を確認させると、蓮華王院の宝蔵には後醍醐天皇天皇がことごとく召して出して、宝物がひとつもなかったという状況が確認されたのであった。王権のもと数々の重宝を集めていたらしい。(p118)
----------

坂口太郎氏の論文、「後醍醐天皇の寺社重宝蒐集について」(上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』所収、思文閣出版、2008)は未読ですが、非常に重要な指摘がなされているようなので、早く読んでみたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

文観房弘真 2010/08/19(木) 19:23:35

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1dd469ef15051063620106c305e5665f
『文観房弘真と美術』は、後宇多の法諱を「金剛性」としていますね。

「後宇多院は醍醐寺報恩院の憲惇に伝法灌頂を受け、院政を伏見上皇に譲った後は大覚寺
に住した。金剛性と諱し、また周囲からは大覚寺殿と称され、仏教に帰依すること篤い
上皇であったことはつとに名高い。特に密教に傾倒し、真言の高祖・空海に関係する遺品
や印信などを強く求めている」(同書86頁)

「文観房弘真」という名の由来は、面白いですね(103頁~)。
文は文殊菩薩の文、観は観音菩薩の観、弘は弘法大師の弘、真は空海の弟の真雅の真。
醍醐寺に来る前、西大寺にいた頃は、文殊と観音の後ろの字をとって、殊音。
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蘇洞門

2010-08-28 | 新潟生活
蘇洞門 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月28日(土)00時42分7秒

知人のお父さんが畑で農作業中に熱中症で亡くなったと聞き、今年の夏は本当に厳しいなあと改めて思いました。
私は先週、福井県の小浜に行ったとき、「蘇洞門めぐり遊覧船」に乗って小浜湾の断崖絶壁を眺めたのですが、小一時間ほどのコースの途中、大門小門という名勝で5分ほど上陸する機会がありました。
それまで大勢の乗客は冷房の効いた室内にいたのに、私だけデッキで帽子も被らず太陽の光を浴びまくり、更にわずかな上陸時間中に近くの石段を数十メートルほど駆け上がって船を見おろし、また駆け下りるという小学生並みの行動を取っていたところ、帰途の船内では尋常でなく気分が悪くなって、もしかしたらこのまま死んでしまうのではなかろうか、と思ったほどでした。
暑いときには無理をしたらいかんですね。
今週末は近場の温泉でのんびり過ごします。

蘇洞門

>筆綾丸さん
>それほどの船なら
確かにそのとおりですね。
小路田泰直氏は非常に研究対象の幅が広い方のようで、まあ、そうなると雑なところは本当に雑になりますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日本海ルート? 筆綾丸:2010/08/26(木) 19:37:34
「神の移動は、観念の移動であるから一瞬のうちに行われる。しかし、トヨウケ姫の丹後から伊勢への移動は歴史的な積み重ねがあった。最近、小路田泰直は、有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程を日本海ルートし、投馬国(出雲)よりの「水行十日」によって丹後半島に到達し、由良川をさかのぼって、「陸行一月」、ほとんど全行程、平坦な道を通って、大坂平野から、大和国(邪馬台国)へ到達したという魅力的な見解を示している」(『かぐや姫と王権神話』67頁)

見解の相違ですが、このような日本海ルートが、保立氏には魅力的なようですが、私には、非常識なルートとしか思えないですね。フダラク渡海的な入水が目的なら、話は別ですが。
韓半島のどこを起点にしているのか、わからぬながら、三世紀に、日本海を横断して出雲に到達できるほどの船が造れたのか、という素朴な疑問があります。それほどの船なら、なにも出雲など行かなくとも、関門海峡を抜けて瀬戸内海を突っ切ればいいだろうに。日本海ルートが可能ならば、数百年後の遣隋使や遣唐使の船が、なぜあれほど難破したのか、黄海ごとき簡単に横断できる船が造れたろう、と思いますがね。曹丕の王朝も、技術は時代の制約下にある。森浩一氏が『倭人伝を読みなおす』で言及されているようなルートが、あの時代、もっとも合理的なルートだという気がします。
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「月の誕生石」

2010-08-25 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月25日(水)22時41分50秒

『かぐや姫と王権神話』p73に「天の香具山の月生み石。撮影:筆者」とのキャプション付きで、ちょっと不思議な雰囲気の写真が載っていますが、ネットで検索すると「月生み石」では出てきません。
「月の誕生石」と呼ばれることが多いようですね。


上記サイトの写真ではどこにでもありそうな石に見えますが、保立氏の写真の構図だとそれなりに神々しく、かつ少々なまめかしいような感じもします。

保立氏はつい最近ブログを始められたようで、益田勝実氏についても言及されてますね。


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火山

2010-08-24 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
火山 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月24日(火)23時24分38秒

>筆綾丸さん
『かぐや姫と王権神話』、通読してみました。
ご指摘のように確かに最初の方には無理な記述があって若干不安を感じましたが、「第三章 天武天皇と『脱神話化』する国家」以降は、『竹取物語』の内容が政治史の流れと綺麗に対応するような感じがして、面白く読めました。
もっとも私は古代の政治史にうといので、批判的に検討する能力もあまりないのですが。
「終章 物語の成立・神道の成立」も、歴史学研究会の指導的立場にあった保立氏(過去形はまずい?)の認識としては、なかなか興味深いものがあります。

-------
 しかし、私が網野と違うのは、日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、正面から考えるべきだという点である。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、その独自性と宗教史の展開、また天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレベルの常識とすることが望まれると思う。
(中略)
 私は、これらについての認識は、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また進歩と保守の間のバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくすると思う。そして、神道を支えた信条それ自身、「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取)の宗教性は尊重されるべきものである。教典もなく開祖もなく、現世を「言上げ」せず、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度それ自身は、日本の風土にそくした独特な思想信条たる価値を失わないと思うのである。(p207以下)
-------

保立氏は高取正男(『神道の成立』)・折口信夫・土橋寛(『古代歌謡と儀礼の研究』)・益田勝実(『火山列島の思想』他)氏らの認識を基礎に、更に神道の理解を深めて行くことを目指しているのですね。
この内、私は益田勝実氏とは全く発想のタイプが違うようで、『火山列島の思想』は途中で読むのを止めました。
『かぐや姫と王権神話』も、火山関係はどうにもついて行けないですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

現代の錬金術? 2010/08/22(日) 19:27:16
竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹取るに、節を隔てゝ節間毎に、黄金ある竹を見つくる事重りぬ。かくて翁、やうやう、豊かになり行く。
 (中略)
問題は、この竹の節のなかの黄金がどういう形をしていたかにある。絵本には竹の中から「小判」がザクザクというものもあるが、しかし、『竹取』の時代には、「大判・小判」はない。この時代、黄金は重さで流通しており、砂金のまま小さな袋に入れられるか、溶かされて金槐にされるのかのどちらかだった。この場合は、後者で、金槐が竹の中に嵌りこんでいたのであろう。「節をへだてゝ、節間ごとに、金ある竹」という「節間」とは竹の節と節の間のことをいうから、すべての節間に金の延棒が詰まっていたことになる。延棒の実際の形は、戦国時代に流通した「竹流し金」のことを考えてみればよい。竹流し金は、円筒形を中央からまっぷたつに縦割りにした形のもので、割竹に金地金を流し込んで作ったものである。
『今昔物語集』などでは、金槐を打ち欠いて使ったことは分かるが、金槐の形までは分からないから、『竹取物語』の記述は、この時代の金槐の形を示す貴重な史料である。竹流し金の形に作られ、計量されるという規準があったに違いない。教科書にもでる皇朝十二銭(銅銭)は、国家が粗製濫造による利益を目ざしたために、インフレーションが進み、その流通はたいへんに不安定であった」」(保立道久氏『かぐや姫と王権神話』32頁~)

『竹取物語』のわずかな記述から、この黄金は延棒で、戦国時代の竹流し金とよく似ていて、この形が当時の国家の計量単位であった、などと何故に断定的なことが言えるのか、まことに不思議な錬金術としか思われない。これだけ論理(?)が飛躍してしまえば、研究などしなくとも、どんなことでも言えますね。

対馬へ行く道 2010/08/24(火) 19:41:44
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480065582/
森浩一氏『倭人伝を読みなおす』の、次のような記述に、軽い衝撃を受けました。

「畏友の永留久恵氏は対馬在住の歴史学者であり、長年の研究をまとめて先日『対馬国試』の大冊を刊行された。古代から太平洋戦争後の新しい時代までを一人の目でまとめた労作であり、地域史の労作といってよかろう。
永留さんからずっと前にうかがい面白く思ったことがある。戦前に長崎の師範学校で学んでいた永留氏が、休暇で故郷の上県へ戻るのに汽車で長崎から下関へ、あとは船で下関から釜山へ、それから釜山から北岸の佐須奈へと汽船で航海してから、歩いて故郷まで帰ったということである」(同書70頁~)

朝鮮半島が日本の統治下にあったとは言え、「魏志倭人伝」の三世紀とはまた違う意味で、大変な detour だったのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC
律令制による対馬国の上県と下県の両郡は、上下が反転しているような気がしますが、島全体が経線に対して東に数度位ぶれているので、こうなったのだろうか、というような疑問があります。福岡や唐津から壱岐経由で対馬へ行けば、南の方が上県郡、北の方が下県郡、となるような気がするのですがね。
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敦賀にて

2010-08-21 | 新潟生活
敦賀にて 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月21日(土)21時37分22秒

今週末はのんびりドライブでもしようと思って特に目的もなく高速に乗ったところ、どうせ1000円なのだから、また福井県に行ったろかと考えて、ついつい敦賀まで来てしまいました。
1000円高速は明らかに地球環境に悪い影響を与えてますね。
明日は先週行きそびれた羽賀寺も回ってみるつもりです。
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『かぐや姫と王権神話』

2010-08-21 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月21日(土)07時25分24秒

>筆綾丸さん
今週は出張続きだったのですが、たまたま昨日、東京駅の書店でこの本を入手し、新幹線の中で読んでいました。
保立氏は1948年生まれだそうですが、国際基督教大学卒業という同世代の中世史学者の中では珍しいお洒落な経歴の持ち主で、文章もスマートな感じですね。
文学作品のつまみ食いをしないという姿勢は高く評価できると思いますが、『平安王朝』以降、反発も強いようですね。
まだ途中なので、全部読んでから感想を書いてみます。
内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』は注文済みで、到着を楽しみにしています。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

文観房弘真 2010/08/19(木) 19:23:35
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1dd469ef15051063620106c305e5665f
『文観房弘真と美術』は、後宇多の法諱を「金剛性」としていますね。

「後宇多院は醍醐寺報恩院の憲惇に伝法灌頂を受け、院政を伏見上皇に譲った後は大覚寺
に住した。金剛性と諱し、また周囲からは大覚寺殿と称され、仏教に帰依すること篤い
上皇であったことはつとに名高い。特に密教に傾倒し、真言の高祖・空海に関係する遺品
や印信などを強く求めている」(同書86頁)

「文観房弘真」という名の由来は、面白いですね(103頁~)。
文は文殊菩薩の文、観は観音菩薩の観、弘は弘法大師の弘、真は空海の弟の真雅の真。
醍醐寺に来る前、西大寺にいた頃は、文殊と観音の後ろの字をとって、殊音。

かぐや姫と推論の十二単衣 2010/08/20(金) 19:01:33
http://www.yosensha.co.jp/book/b67871.html
保立道久氏『かぐや姫と王権神話』は、後円墳のように推論が積み重ねられていて、挫折
しました。

「この第二章は限られた頁数の中にいくつもの目新しい論点を凝縮した上に、さらに前方
後円墳は火山を象徴するものであるという前代未聞の仮説まで提出してあるので、しば
しば叙述の飛躍を感じられるかもしれない。しかし、まずは読み通した上で判断をいた
だきたいと思う」(同書9頁)

「前方後円墳の墳形は、山を模した物とされるが、それはただの山ではなく、霊威ある
火山であったのではないだろうか。特に重要なのは、山を象徴する後円部がきまわめて
強い禁忌におかれていることと、火山山頂の強い禁忌が対応することである。タカミ
ムスビが火山神としての性格をもつとすれば、その系譜をひく王の墓が火山の山頂の
様相を帯びるのも自然なことで、王は人神Man-godとして昇天するのであろう。
ともあれ、以上のような火山神の系譜を確認すると、かぐや姫の神話の中核には、
火山のもつ幻想的な美しさがあったことになる。その神秘的な輝きkag-こそ、阿蘇火山
や神津島火山の描写において、「夜に奇光照り耀く」とか「金色眩曜」などと表現され
ていたのではないか。彼女は、非日常的で幻想的な光をもつ火山の女神、とくに夜の光
の女神として、タカミムスビを「祖」とする「月神」のそばにいる女神だったのでは
ないだろうか」(同書80頁~)
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網野ト玄入道

2010-08-19 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月19日(木)00時07分26秒

>筆綾丸さん
「太良庄」で検索したところ、何故か関西電力のサイトに太良庄についての簡明な解説と地図が載っていました。


写真は太良庄の水田地帯の中央から北方向を写したもので、羽賀寺の方向とは少しずれますね。
もっとも撮影場所と羽賀寺は直線距離で3キロほどしか離れておらず、山容は似ているのでしょうね。

日枝神社の鐘には「網野ト玄入道」と刻まれているそうですが、日没が迫っていたので訪問しませんでした。


>職人太郎さん
桑実寺の石段は実に風情がありますね。


※職人太郎さんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

桑実寺 2010/08/18(水) 18:23:47(職人太郎さん)
金剛輪寺、西明寺など湖東地区の主要な社寺は、ほとんど私どもが施工をしています。中世国宝の本堂や三重塔は、バスを連ねた観光客も多く、安全対策にも腐心します。

桑実寺(くわのみでら)に、汗をふきふき登る筆綾丸さんの姿が目に浮かぶようです。たぶん安土の石寺方面から階段を登られたのでしょうが、私は雨の日も風の日も職人たちと、まる2年通いました。本堂は室町前期で重要文化財ですが、小高い山にあるため観光化されておらず、プロの研究者向けの寺です。 工事中の写真は、『屋根-檜皮葺と柿葺』(法政大学出版局・2003)の口絵にありますので、図書館ででもご高覧ください。「ものと人間の文化史」のシリーズ112です。

社寺にも素人受けする所というのがあります。ああいう所は実につまらんですな(笑) 入山料は高く、特別な文化財を見ようとするとまた別途拝観料を取られる。維持管理に金がかかるのはわかるのですが・・・

晴の字 2010/08/18(水) 19:32:03(筆綾丸さん)
職人太郎さん
やはり、そうでしたか。職人太郎さんが手がけていらっしゃるのだろうな、と思いました。桑実寺で草臥れ果てて、近くの石馬寺はあきらめました。ご紹介の書、あとで確認させていただきます。

小太郎さん
http://www.city.obama.fukui.jp/oide/bunkazai/hagazi.htm
一番上の写真は、以前尋ねた羽賀寺のある山のようにみえますが、ちがいますか。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9985986636&BN=OFF
河内将芳氏『信長が見た戦国京都』は、永禄二年(1559)二月、信長上洛時の宿の所在地「室町通り上京うら辻」の考証をはじめ、実に面白い本ですが、疑問をすこし書いておきます。

疑問1
二条晴良(160頁)のフリガナが「はれよし」となっていて、二条家は将軍の偏諱を賜うのを通例とし、晴良は義晴の偏諱のはずだから、となると、義晴は「よしはれ」となるかと思いきや、「よしはる」(202)頁)となっています。また、勧修寺晴豊(204頁)のフリガナは「はれとよ」で、菊亭晴季(204頁)のフリガナは「はるすえ」です。要するに、偏諱らしき「晴」の訓読みに整合性がない。
この本には登場しないが、管領の細川晴元、越後の長尾晴景、甲斐の武田晴信の「晴」は、何と読めばいいのか。有り難い偏諱ながら、訓読みは別にするというのは、いくら下克上とはいえ、礼節に反する。義晴が「よしはる」なら、偏諱らしき「晴」の訓読みは統一したほうがいいような気がします。

http://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%9F%E6%99%B4%E5%AF%8C
「晴富宿禰記」(47頁)のフリガナは「はれとみのすくねき」で、これは年代的に、義晴と関係ないから、「はれ」でも「はる」でも、まあ、どうでもいいだろう。

疑問2
http://yuusuke.info/26/M26102.htm
上京の地名である「小川」のフリガナが、「こかわ」(44頁)と「おがわ」(88頁)になっていますが、どちらがいいのか。

疑問3
「雑賀」(136頁)のフリガナは「さいが」と濁音ですが、清音が正しいのですよね、甲賀と同じように、たしか。
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太良荘

2010-08-18 | 新潟生活
太良荘 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月18日(水)00時30分45秒

>職人太郎さん
>筆綾丸さん
15日に戻っているのですが、急な用事でなかなか時間の余裕がありません。
申し訳ありませんが、レスはのちほど。

ついでに太良荘の写真を少し貼っておきます。
太良荘には集落が四つあって、一番下の写真は日吉谷という集落の入口にある鳥居です。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5563
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エコに負ける

2010-08-13 | 新潟生活
エコに負ける 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月13日(金)16時08分24秒

>筆綾丸さん
『中世の借金事情』についてどうまとめるかを考えていたら、レスが遅くなってしまいました。
今日から若狭方面にちょっと行って来ますので、その後に書くつもりです。

今まで燃費の非常に悪い車に乗っていて、高速でプリウスあたりに抜かれると「エコカー如きに負けてたまるか」と抜き返していた私ですが、ガソリン代もなかなかバカにならず、とうとう車を替えることにしました。
エコカーです。
頼みもしないのに、合成音声で「昨日の平均燃費はリッター○○キロでした」と教えてくれたり、エコな運転の仕方をアドバイスしてくれます。
かなりうっとうしいです。
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粟島行き当たりばったり紀行(下)

2010-08-08 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 8日(日)23時46分48秒

内浦行きのバスと「粟島浦村資料館」の冷房で何とか思考力を回復させてから、すぐ隣の観音寺に移動しました。
海の側からみて手前に観音寺、奥に「やす突観音堂」と共同墓地があるのですが、中野豈任氏の『忘れられた霊場』に出てくる有名な金箔板碑は観音寺の裏手、一番奥にありました。
この板碑を前にしたとき、私の頭の中では「はるばる来たぜ~♪粟島~~♪」という北島三郎の演歌が鳴り響いていましたが、函館の聞き間違いだったかもしれません。
そして携帯で写真を撮っていると、腰の曲がった元漁師風のおじいさんが私の方をじっと見ているのに気づきました。
別にやましい行動をしていた訳ではないので、近づいて挨拶し、「立派な板碑ですね」と水を向けると、少なくとも80歳は越えていると思われるその人は、20年くらい前に発掘されたときはもっとずっと金箔が鮮やかだったとか、共同墓地のあのあたりに埋まっていたとか、いろいろ教えてくれました。
何でそのおじいさんが私を見ていたのかというと、観音寺の住職のお孫さんが久しぶりに島に帰って来るというのが近所の話題になっていて、私がそうなのかと思ったのだそうです。
おじいさんと別れると、岩船に向かう粟島汽船の最終便の時間が迫ってきて、一泊すべきか否か迷ったのですが、今回は着替えも持ってきていないのでおとなしく帰ることとしました。
午後1時半に上陸し、午後5時のフェリーで戻るという正味わずか3時間半の慌しい訪問でしたが、粟島はのんびりした良い土地ですので、また行きたいと思います。
さて、板碑についてもっともらしいことを少し書きたいような気もするのですが、リンク先のぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡めぐり」に詳しい説明がありますので、そちらに譲り、私は観音堂周辺の雰囲気を感じさせる写真をいくつか載せておきます。
三番目の写真、木の根元の石には五輪塔が線刻されてますね。

「新潟県北部の史跡めぐり」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42406877.html
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42449001.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5557
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粟島行き当たりばったり紀行(上)

2010-08-08 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 8日(日)10時15分52秒

昨日は「笹川流れ」に行こうと思い、途中で岩船港にちょっと寄ったところ、5分後に高速船が出港するとのことだったので、急遽予定を変更し、駆け込むように乗船しました。
約1時間で内浦港に着き、観光案内所でパンフレットを見ていると、コミュニティバスが出発しますという放送があり、適当なところで降りればいいや、と思って乗り込むと、粟島には集落と呼べるものが二つしかなくて、結局終点の釜谷(かまや)で降りました。
海水浴やキャンプに向かう人たちと別れると、特に目的もない私はとりあえず神社に寄ることにして、塩釜六所神社への石段を登ってみました。
高台からの釜谷港の景色はきれいでしたが、せっかく登ったのに降りるのはもったいないような気がしたので、横に移動することにし、1キロほど離れた八幡神社と八幡鼻の展望台に向かってみました。
炎天下、何とか八幡神社まではたどり着きましたが、その先の八幡鼻展望台までの往復はしんどそうだったので断念し、ダラダラ汗を流しながら釜谷港まで戻りました。
体力消耗のため、この後、のんびりと観光船の粟島半周コースにするか、内浦地区の観音寺板碑見学にするかだいぶ迷ったのですが、粟島に来て板碑を見ずに帰る訳にはいかんと思い直し、バスを待って内浦に戻り、「粟島浦村資料館」見学後、隣の観音寺に行きました。

粟島浦村
http://www.vill.awashimaura.lg.jp/awashima/index.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5556
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「近代債権論」の謎

2010-08-06 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 6日(金)00時24分23秒

>筆綾丸さん
井原氏は「近代債権論」を厳しく批判されるのですが、実は私、今までこの言葉を聞いたことがなかったんですね。
そこで、ふと、この言葉はどんな使い方をされているのだろうと思って、グーグルで「近代債権論」を「" "」で囲んで、五文字連続の表現だけを検索したら65件ヒットしたのですが、これが全て、この掲示板を含め、井原氏の『中世の借金事情』に関係するページでした。
とすると、「近代債権論」はもしかしたら井原氏の造語ではなかろうか、という疑問が生じてきました。
井原氏が「近代債権論」を説明している部分を、若干くどくなりますが、改めて引用してみると、

-----------
 現代人の第一の社会常識は、他人の土地や資本を借りたら、利子をつけて返却しなければならない。なぜなら、他人の土地や資本は、私的所有権が絶対であり、売買によってしか所有権は移転しないからである。
 第二の社会常識は、債務不履行は自由契約の原則に反する。債務不履行の場合には、抵当・担保が質流れになって清算され、債務の返済がなされなくてはならない。返済は絶対の義務である。
 第三の社会常識は、自由契約での貸借契約がつづくかぎり、利息制限法の下でも利子は無限に増殖するので、債務者はどんなに巨額になっても返済しなければならない。
 以上の原則から成り立っている近代債権論は、債権者の権利保護を優先しており、債務者の免責はなきに等しい。(川島武宣『所有権法の理論』岩波書店、一九四九)。金銭を借用した場合には、債務者はどんな災害や戦争にみまわれても、不可抗力による抗弁権すら認められていない(長尾治助『債務不履行の帰責事由』有斐閣、一九七五)。二〇〇六年正月十三日、日本の最高裁判所は、利息制限法の上限を超えるが罰則のないグレーゾーン金利について、「上限を超えた部分の利息の支払いは無効」とする判決を言い渡した。日本で初めて債務者を保護する必要性を認めた司法判断といえよう。しかし、債権者の権利保護優先の原則はまったく微動だにしない。現代社会においては、債権者の権利は絶対であり、債務者保護の考え方すら存在していない。
-----------

となっています。
「近代債権論」は三つの「社会常識」の「原則」から成り立っているそうですが、大屋氏の指摘のように三つとも誤り、ないし非常に不正確ですね。
後半も誤りだらけです。
「債務者保護の考え方すら存在していない」のだったら「二〇〇六年正月十三日」の最高裁判決も存在していないはずですから、最後のまとめも誤りです。
とすると、我々は風車に向かって突進している El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha の冒険譚について論じていることになるのでしょうか。
今まで私は井原氏に対してそれなりに敬意を抱いていたのですが、この本を読んで、井原氏の議論の仕方をチェックしてみて、この人は本業の中世史についても本当に大丈夫なんだろうか、と思わざるを得なくなりました。
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step by step

2010-08-04 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 4日(水)00時07分3秒

「現代と中世の借金(2)」
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000650.html

大屋氏が「現代と中世の借金(2)」で『中世の借金事情』p3を引用している部分の直後に、同書では次のような記述があります。

--------
 金銭を借用した場合には、債務者はどんな災害や戦争にみまわれても、不可抗力による抗弁権すら認められていない(長尾治助『債務不履行の帰責事由』有斐閣、一九七五)。
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これは実に面白い文章ですね。
事情を知らない人がこれを読むと、日本の法律は何とひどいのだろう、不可抗力のときでも支払いを強要するなんて血も涙もないではないか、と悲憤慷慨するかもしれないですね。
しかし、これはそんなたいした話ではないんですね。

--------
民法第419条
 金銭の給付を目的とする債務の不履行については、その損害賠償の額は、法定利率によって定める。ただし、約定利率が法定利率を超えるときは、約定利率による。
2.前項の損害賠償については、債権者は、損害の証明をすることを要しない。
3.第一項の損害賠償については、債務者は、不可抗力をもって抗弁とすることができない。
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井原氏は民法第419条第3項のことを言われているのですが、まずこれは「金銭を借用した場合」に限定される訳ではなく、「金銭の給付を目的とする債務」について、つまり金銭債務一般についての話です。
売買代金債務だろうが請負代金債務だろうが、とにかく金銭を払う債務一般について不可抗力免責は認められません。
ただし、これは第1項・第2項とセットになった規定であって、これら全体が民法第416条という債務不履行の損害賠償の原則についての例外規定になっているんですね。

--------
第416条
 債務の不履行に対する損害賠償の請求は、これによって通常生ずべき損害の賠償をさせることをその目的とする。
2.特別の事情によって生じた損害であっても、当事者がその事情を予見し、又は予見することができたときは、債権者は、その賠償を請求することができる。
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金銭債務以外は、不履行によって生じた通常損害と(予見可能性がある場合の)特別損害を請求できる訳ですが、その損害は債権者が立証する必要があります。
それに対し、金銭債務は損害の立証を不要として、法定利率(民事、年5%。商事、年6%)で定型的に処理してしまう。
特定の物とは違って金銭債務に履行不能はない(世の中からマネーが消えてしまうことはない)ので、履行遅滞だけが問題となりますが、不可抗力で支払いが遅れたとしても、法定利率分を払えばよいだけのことですね。
金銭債務は膨大な数が存在しますから、その支払い遅れのトラブルが裁判所にもちこまれたときに、個別案件ごとにいちいち損害額がいくらかとか、本当に不可抗力といえるのかとかを争っていたら面倒くさくて仕方がないので、そんなことをせずに、決まりきった方法でシャカシャカ処理しましょう、という非常に合理的な制度ですね。
井原氏のように、こんな条文にハーハー興奮していたら、変態と言われても仕方ないですね。

>筆綾丸さん
初心者がいきなり難しい本を読んでも駄目なのは、どの学問分野でも同じですね。
step by step で基礎を固める努力をせず、いきなり難しい本を読んだら、誤解や妄想が拡大するだけです。
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コインの裏表

2010-08-03 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 3日(火)01時27分18秒

今日は信濃川河川敷の土手に寝そべって、日本一を自称する長岡の花火大会を見ていました。
途中までは柏崎の方がよかったなあ、などと思っていたのですが、だんだん迫力が増してきて、最後の方は尋常ではない興奮を味わえましたね。
それにしても、新潟県民の花火に対する思い入れは何だかすごいです。
どんより雪雲が垂れこめる冬の間のうっぷんが夏に爆発するのかもしれません。

さて、債権と債務ですが、これはコインの裏表のような関係であって、大屋氏が言われるように同じものを別の方向から見ているだけですね。
そして債権債務の発生原因のうち、一番重要なのは契約であり、かつ契約は大多数が双務契約ですから、当事者の双方が債権者であり、かつ債務者という関係が非常に多く見られます。
売買契約だったら、売主は目的物の引渡し義務(債務)を負い、代金請求権(債権)を持つことになり、買主は逆に目的物の引渡し請求権(債権)を有し、代金支払い義務(債務)を負担することになります。
これが賃貸借契約とか雇用契約とかの継続的契約になると、双方に無数の債権債務が次から次へと生じてくることになりますね。
債権債務の束が契約関係だということもできます。
こう考えると、債権者は強者、債務者は弱者だから、債務者を保護しなければいけませぬ、債権者と債務者は共存しなければなりませぬ、というような井原氏の発想は、債務者と債権者の関係を固定的に捉えている点だけをとっても、ずいぶん奇妙な感じがします。
井原氏は独自の正義感・倫理観に溢れていて、債権債務という一般的・抽象的・技術的レベルで自己の正義感・倫理観を貫こうとするのですが、それぞれの正義感・倫理観を持った普通の人はそんなことは考えず、誰のどういう債権を保護すべきか、逆に誰のどういう債権は権利行使を抑制せねばならないか、という発想をしますね。
労働者の賃金債権は重要だから国が企業に働きかけて確実に弁済されるようにしなければいかんとか、下請けの中小・零細業者が大企業にいじめられないようにするため、その手形債権(大企業の手形債務)の弁済期はあまり長期ではいかんとか、社会的に重要な債権は現行法でもいろんな形で保護が図られている訳ですね。
他方、例えば消費者金融業者の債権は立法や判例によって様々な制約を課せられています。
債権債務は多種多様、債権者・債務者も多種多様だから、誰のどういう債権を問題とするのかという観点を抜きに、広く債務者一般を保護しようなどと考えると、ずいぶん奇妙な帰結が生じてきます。
私も野球賭博のことなど良く知らないので、下の設問は適当に考えたのですが、要は債権者・債務者は別に固定的な関係ではなく、また債務者が常に弱者である訳でもない(債務者である暴力団は弱者とはいえないし、かといって高額のあぶく銭を賭け事に使う相撲取り側が弱者ともいえない)という当たり前の事実を確認してみたかった訳です。

>筆綾丸さん
>公序良俗違反の法律行為
契約が無効というのは契約に基づく債権債務は発生しないという意味ですね。
外形的には債権債務のようなものがあったとしても、国家はそれを債権債務とは評価しない、従って債権者を称する者が裁判所に訴えても、裁判所はその債権の実現に協力しない、ということですね。
とはいっても、暴力団などはそもそも国家の助力を得ようとは思っていないのですから、理屈を言っても仕方がないといえば仕方ないですね。
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身近な応用問題

2010-08-02 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 8月 2日(月)00時38分17秒

[設問]
暴力団の構成員であるAさんは、所属暴力団が行っている野球賭博において、顧客の注文を胴元に取り次ぐ大切な仕事をしています。
あるとき、大口顧客の相撲取りであるBさんが、300万円分の賭けを携帯メールで申し込み、胴元側も承諾して、賭博契約が成立しました。

(1) Bさんは賭けに負けましたが、約束した金員を支払おうとしません。
この場合、債権者である胴元側、またはAさんは債務者であるBさんに対して、どのような手段により債権の回収を図るべきでしょうか。

(2) Bさんは賭けに勝ち、1000万円の払戻し金を受け取る権利を得ましたが、胴元側およびAさんは、約束した金員を支払おうとしません。
この場合、債権者であるBさんは胴元側、またはAさんに対して、どのような手段により債権の回収を図るべきでしょうか。

(3) 上記(1)(2)の場合において、「債務者と債権者が共存しながら債務紛争を解決していく」ためには何をしたらよいでしょうか。

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