流布本と慈光寺本で勢多伽丸エピソードを比較してみると、記事の割合のみならず、情報の絶対量でも慈光寺本の方が相当に多いですね。
登場人物も、慈光寺本では御室の使者が一人増え、召し返した勢多伽丸を一時的に預かる「六郎左衛門」や北条泰時から返答を求められる「家子・郎等」など、少し増えています。
また、流布本では勢多伽丸の母は泣いたり北条泰時に(一時的に)感謝したりしますが、この状況では普通の対応であるのに対し、慈光寺本では、勢多伽丸に自分を殺して自害せよと求めるなど、相当に強烈な人物として造型されています。
他方、流布本では仁和寺御室・道助法親王の存在感が強いのに、慈光寺本ではその存在感が薄れていますね。
流布本では、御室は勢多伽丸を何とか救おうと工夫をこらしており、武家側から要請されていない時点で勢多伽丸を六波羅に出頭させたのも、先に申し出た方が助かる可能性が高いだろうと考えてのことです。
そして、使者の口上も念入りに工夫されており、何かあった場合には自分が責任を取るから、自分に勢多伽丸を預けてくれ、と言います。
この点、慈光寺本では御室は最初から諦めていて、単に勢多伽丸の亡骸を返してくれと希望するだけですね。
そして、慈光寺本では亡骸にすがってなく母の慟哭で終わるのに対し、流布本ではその後に御室の悲嘆が描かれます。
勢多伽丸エピソードは流布本でも全体の約3%を占める分量ですが、処刑が当然の状況であるところ、いったんは赦免が決まりながら、その決定が覆されて結局は処刑されるという、それなりに複雑なストーリーですから、流布本程度の分量になるのは自然といえば自然です。
しかし、慈光寺本では、悲劇を強調するためか、自害云々といった刺激的な表現が二箇所も追加されるなど、妙にゴテゴテと複雑な構成となっていますね。
私としては、勢多伽丸エピソードに限っても、慈光寺本が「最古態本」だという通説の説明は不自然で、むしろ、流布本のすっきりしたストーリーに飽き足らない慈光寺本作者が流布本を自分の好みに合うように改変・増補した、と考えたいですね。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p142以下)
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其外、東国にも哀れなる事多き中に、平九郎判官胤義が子共五人あり。十一・九・七・五・三也。うばの尼の養ひて、三浦の屋部と云所にぞ有ける。胤義其罪重しとて、彼の子共、皆可被切に定めらる。叔父駿河守義村、是を奉て、郎等小河十郎に申けるは、「屋部へ参て申さんずる様は、『力不及、胤義御敵に成候し間、其子孫一人も助かり難く候。其に候者共、出させ可給』由申せ」とて遣す。十郎、屋部に参りて、此由申ければ、力不及、十一になる孫一人をば留めて、九・七・五・三になる子共を出しけり。小河十郎、「如何に、をとなしく御座〔おはしま〕す豊王殿をば出し給はぬ哉覧〔やらん〕」と申ければ、尼上、「余に無慙なれば、助けんと思ふぞ、其代りには尼が首を取」と宣ければ、現〔げ〕には奉公の駿河守にも母也、御敵胤義にも母也、悪〔にく〕ふも最惜〔いとほしく〕も有間、(十郎)力不及、四人計を輿に乗て返りにけり。鎌倉中へは不可入とて、手越〔たごし〕の河端に下し置きたれば、九・七・五は乳母々々に取付て、切んとすると心得て泣悲む。三子は何心もなく、乳母の乳房に取付、手ずさみしてぞ居たりける。何れも目も被当ぬ有様也。日已に暮行ば、さて可有事ならねば、腰の刀を抜て掻切々々四の首を取て参りぬ。四人の乳母共、空き質〔から〕を抱へて、声々に呼〔をめ〕き叫有様、譬〔たとへ〕て云ん方もなし。質〔むくろ〕共輿に乗て、屋部へ帰りて孝養しけり。祖母の尼、此年月育〔はぐく〕み立馴〔なれ〕なじみぬる事なれば、各云し言の葉の末も不忘、今はとて出にし面影も身に添心地して、絶入給ぞ理なる。
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【私訳】その他、東国でも哀れな事が多かったが、その中でも平九郎判官胤義の五人の子供の話は気の毒であった。
五人は十一・九・七・五・三歳であった。
祖母の尼が養育して、三浦の「屋部」(矢部)という所で暮らしていた。
胤義の罪は重いとされ、その子供は皆、斬られることに定められた。
「叔父」(正しくは伯父)の駿河守義村は、この命令を受けて、郎等の小河十郎に次のように語った。
「屋部に参上したら次のように申せ。『胤義が御敵となったので、私の力も及ばず、その子孫は一人も助けることができません。そちらにいる子供たちをお渡しください』と申すのだ」と言って派遣した。
小河十郎は屋部に参って、その旨を申し上げると、祖母の尼は、致し方ないと、十一歳の孫一人を残して、九・七・五・三歳の子供を小川十郎に渡した。
小河十郎が「どうして一番年上でいらっしゃる豊王殿をお渡しくださらないのでしょうか」と申し上げると、尼上は「あまりに無慙なので、助けようと思う。代わりに尼の首を取れ」とおっしゃったので、尼上は十郎が現に奉公している駿河守(義村)の母親であり、御敵の胤義にとっても母親であるから、その対応を憎らしくも気の毒にも思われ、十郎は仕方なく、四人だけを輿に乗せて帰った。
「鎌倉中」へは入れてはならないとのことなので、手越〔たごし〕の河端で輿から降ろすと、九・七・五歳の子は乳母たちにすがりついて、切ろうとするのだと気づいて泣き悲しんだ。
三歳の子だけは無心に乳母の乳房をまさぐっていた。
どちらも目も当たられぬほど気の毒な様子であった。
しかし、日も暮れて行ったので、そのままでおくこともできず、十郎は腰の刀を抜いて四人の首を切り、その首を義村の許に持参した。
四人の乳母たちが子供たちの亡骸を抱えて、大声で泣き叫ぶ有様は譬えようがなかった。
亡骸は輿に乗せて、屋部へ帰って供養した。
祖母の尼は、数年育てていた子供たちだったので、それぞれの言葉の端々も忘れることができず、今生の別れの際の面影も身に添うような心地がして気絶されてしまったのももっともなことであった。
とのことですが、『吾妻鏡』の宝治合戦の記事を見ると、胤義の子供たちは宝治合戦のときまで存命で、承久の乱の直後に殺されてはいません。
では、何故に流布本にはこのように記されているのか。
登場人物も、慈光寺本では御室の使者が一人増え、召し返した勢多伽丸を一時的に預かる「六郎左衛門」や北条泰時から返答を求められる「家子・郎等」など、少し増えています。
また、流布本では勢多伽丸の母は泣いたり北条泰時に(一時的に)感謝したりしますが、この状況では普通の対応であるのに対し、慈光寺本では、勢多伽丸に自分を殺して自害せよと求めるなど、相当に強烈な人物として造型されています。
他方、流布本では仁和寺御室・道助法親王の存在感が強いのに、慈光寺本ではその存在感が薄れていますね。
流布本では、御室は勢多伽丸を何とか救おうと工夫をこらしており、武家側から要請されていない時点で勢多伽丸を六波羅に出頭させたのも、先に申し出た方が助かる可能性が高いだろうと考えてのことです。
そして、使者の口上も念入りに工夫されており、何かあった場合には自分が責任を取るから、自分に勢多伽丸を預けてくれ、と言います。
この点、慈光寺本では御室は最初から諦めていて、単に勢多伽丸の亡骸を返してくれと希望するだけですね。
そして、慈光寺本では亡骸にすがってなく母の慟哭で終わるのに対し、流布本ではその後に御室の悲嘆が描かれます。
勢多伽丸エピソードは流布本でも全体の約3%を占める分量ですが、処刑が当然の状況であるところ、いったんは赦免が決まりながら、その決定が覆されて結局は処刑されるという、それなりに複雑なストーリーですから、流布本程度の分量になるのは自然といえば自然です。
しかし、慈光寺本では、悲劇を強調するためか、自害云々といった刺激的な表現が二箇所も追加されるなど、妙にゴテゴテと複雑な構成となっていますね。
私としては、勢多伽丸エピソードに限っても、慈光寺本が「最古態本」だという通説の説明は不自然で、むしろ、流布本のすっきりしたストーリーに飽き足らない慈光寺本作者が流布本を自分の好みに合うように改変・増補した、と考えたいですね。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p142以下)
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其外、東国にも哀れなる事多き中に、平九郎判官胤義が子共五人あり。十一・九・七・五・三也。うばの尼の養ひて、三浦の屋部と云所にぞ有ける。胤義其罪重しとて、彼の子共、皆可被切に定めらる。叔父駿河守義村、是を奉て、郎等小河十郎に申けるは、「屋部へ参て申さんずる様は、『力不及、胤義御敵に成候し間、其子孫一人も助かり難く候。其に候者共、出させ可給』由申せ」とて遣す。十郎、屋部に参りて、此由申ければ、力不及、十一になる孫一人をば留めて、九・七・五・三になる子共を出しけり。小河十郎、「如何に、をとなしく御座〔おはしま〕す豊王殿をば出し給はぬ哉覧〔やらん〕」と申ければ、尼上、「余に無慙なれば、助けんと思ふぞ、其代りには尼が首を取」と宣ければ、現〔げ〕には奉公の駿河守にも母也、御敵胤義にも母也、悪〔にく〕ふも最惜〔いとほしく〕も有間、(十郎)力不及、四人計を輿に乗て返りにけり。鎌倉中へは不可入とて、手越〔たごし〕の河端に下し置きたれば、九・七・五は乳母々々に取付て、切んとすると心得て泣悲む。三子は何心もなく、乳母の乳房に取付、手ずさみしてぞ居たりける。何れも目も被当ぬ有様也。日已に暮行ば、さて可有事ならねば、腰の刀を抜て掻切々々四の首を取て参りぬ。四人の乳母共、空き質〔から〕を抱へて、声々に呼〔をめ〕き叫有様、譬〔たとへ〕て云ん方もなし。質〔むくろ〕共輿に乗て、屋部へ帰りて孝養しけり。祖母の尼、此年月育〔はぐく〕み立馴〔なれ〕なじみぬる事なれば、各云し言の葉の末も不忘、今はとて出にし面影も身に添心地して、絶入給ぞ理なる。
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【私訳】その他、東国でも哀れな事が多かったが、その中でも平九郎判官胤義の五人の子供の話は気の毒であった。
五人は十一・九・七・五・三歳であった。
祖母の尼が養育して、三浦の「屋部」(矢部)という所で暮らしていた。
胤義の罪は重いとされ、その子供は皆、斬られることに定められた。
「叔父」(正しくは伯父)の駿河守義村は、この命令を受けて、郎等の小河十郎に次のように語った。
「屋部に参上したら次のように申せ。『胤義が御敵となったので、私の力も及ばず、その子孫は一人も助けることができません。そちらにいる子供たちをお渡しください』と申すのだ」と言って派遣した。
小河十郎は屋部に参って、その旨を申し上げると、祖母の尼は、致し方ないと、十一歳の孫一人を残して、九・七・五・三歳の子供を小川十郎に渡した。
小河十郎が「どうして一番年上でいらっしゃる豊王殿をお渡しくださらないのでしょうか」と申し上げると、尼上は「あまりに無慙なので、助けようと思う。代わりに尼の首を取れ」とおっしゃったので、尼上は十郎が現に奉公している駿河守(義村)の母親であり、御敵の胤義にとっても母親であるから、その対応を憎らしくも気の毒にも思われ、十郎は仕方なく、四人だけを輿に乗せて帰った。
「鎌倉中」へは入れてはならないとのことなので、手越〔たごし〕の河端で輿から降ろすと、九・七・五歳の子は乳母たちにすがりついて、切ろうとするのだと気づいて泣き悲しんだ。
三歳の子だけは無心に乳母の乳房をまさぐっていた。
どちらも目も当たられぬほど気の毒な様子であった。
しかし、日も暮れて行ったので、そのままでおくこともできず、十郎は腰の刀を抜いて四人の首を切り、その首を義村の許に持参した。
四人の乳母たちが子供たちの亡骸を抱えて、大声で泣き叫ぶ有様は譬えようがなかった。
亡骸は輿に乗せて、屋部へ帰って供養した。
祖母の尼は、数年育てていた子供たちだったので、それぞれの言葉の端々も忘れることができず、今生の別れの際の面影も身に添うような心地がして気絶されてしまったのももっともなことであった。
とのことですが、『吾妻鏡』の宝治合戦の記事を見ると、胤義の子供たちは宝治合戦のときまで存命で、承久の乱の直後に殺されてはいません。
では、何故に流布本にはこのように記されているのか。