学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

流布本も読んでみる。(その81)─「余に無慙なれば、助けんと思ふぞ、其代りには尼が首を取」

2023-07-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本と慈光寺本で勢多伽丸エピソードを比較してみると、記事の割合のみならず、情報の絶対量でも慈光寺本の方が相当に多いですね。
登場人物も、慈光寺本では御室の使者が一人増え、召し返した勢多伽丸を一時的に預かる「六郎左衛門」や北条泰時から返答を求められる「家子・郎等」など、少し増えています。
また、流布本では勢多伽丸の母は泣いたり北条泰時に(一時的に)感謝したりしますが、この状況では普通の対応であるのに対し、慈光寺本では、勢多伽丸に自分を殺して自害せよと求めるなど、相当に強烈な人物として造型されています。
他方、流布本では仁和寺御室・道助法親王の存在感が強いのに、慈光寺本ではその存在感が薄れていますね。
流布本では、御室は勢多伽丸を何とか救おうと工夫をこらしており、武家側から要請されていない時点で勢多伽丸を六波羅に出頭させたのも、先に申し出た方が助かる可能性が高いだろうと考えてのことです。
そして、使者の口上も念入りに工夫されており、何かあった場合には自分が責任を取るから、自分に勢多伽丸を預けてくれ、と言います。
この点、慈光寺本では御室は最初から諦めていて、単に勢多伽丸の亡骸を返してくれと希望するだけですね。
そして、慈光寺本では亡骸にすがってなく母の慟哭で終わるのに対し、流布本ではその後に御室の悲嘆が描かれます。
勢多伽丸エピソードは流布本でも全体の約3%を占める分量ですが、処刑が当然の状況であるところ、いったんは赦免が決まりながら、その決定が覆されて結局は処刑されるという、それなりに複雑なストーリーですから、流布本程度の分量になるのは自然といえば自然です。
しかし、慈光寺本では、悲劇を強調するためか、自害云々といった刺激的な表現が二箇所も追加されるなど、妙にゴテゴテと複雑な構成となっていますね。
私としては、勢多伽丸エピソードに限っても、慈光寺本が「最古態本」だという通説の説明は不自然で、むしろ、流布本のすっきりしたストーリーに飽き足らない慈光寺本作者が流布本を自分の好みに合うように改変・増補した、と考えたいですね。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p142以下)

-------
 其外、東国にも哀れなる事多き中に、平九郎判官胤義が子共五人あり。十一・九・七・五・三也。うばの尼の養ひて、三浦の屋部と云所にぞ有ける。胤義其罪重しとて、彼の子共、皆可被切に定めらる。叔父駿河守義村、是を奉て、郎等小河十郎に申けるは、「屋部へ参て申さんずる様は、『力不及、胤義御敵に成候し間、其子孫一人も助かり難く候。其に候者共、出させ可給』由申せ」とて遣す。十郎、屋部に参りて、此由申ければ、力不及、十一になる孫一人をば留めて、九・七・五・三になる子共を出しけり。小河十郎、「如何に、をとなしく御座〔おはしま〕す豊王殿をば出し給はぬ哉覧〔やらん〕」と申ければ、尼上、「余に無慙なれば、助けんと思ふぞ、其代りには尼が首を取」と宣ければ、現〔げ〕には奉公の駿河守にも母也、御敵胤義にも母也、悪〔にく〕ふも最惜〔いとほしく〕も有間、(十郎)力不及、四人計を輿に乗て返りにけり。鎌倉中へは不可入とて、手越〔たごし〕の河端に下し置きたれば、九・七・五は乳母々々に取付て、切んとすると心得て泣悲む。三子は何心もなく、乳母の乳房に取付、手ずさみしてぞ居たりける。何れも目も被当ぬ有様也。日已に暮行ば、さて可有事ならねば、腰の刀を抜て掻切々々四の首を取て参りぬ。四人の乳母共、空き質〔から〕を抱へて、声々に呼〔をめ〕き叫有様、譬〔たとへ〕て云ん方もなし。質〔むくろ〕共輿に乗て、屋部へ帰りて孝養しけり。祖母の尼、此年月育〔はぐく〕み立馴〔なれ〕なじみぬる事なれば、各云し言の葉の末も不忘、今はとて出にし面影も身に添心地して、絶入給ぞ理なる。
-------

【私訳】その他、東国でも哀れな事が多かったが、その中でも平九郎判官胤義の五人の子供の話は気の毒であった。
五人は十一・九・七・五・三歳であった。
祖母の尼が養育して、三浦の「屋部」(矢部)という所で暮らしていた。
胤義の罪は重いとされ、その子供は皆、斬られることに定められた。
「叔父」(正しくは伯父)の駿河守義村は、この命令を受けて、郎等の小河十郎に次のように語った。
「屋部に参上したら次のように申せ。『胤義が御敵となったので、私の力も及ばず、その子孫は一人も助けることができません。そちらにいる子供たちをお渡しください』と申すのだ」と言って派遣した。
小河十郎は屋部に参って、その旨を申し上げると、祖母の尼は、致し方ないと、十一歳の孫一人を残して、九・七・五・三歳の子供を小川十郎に渡した。
小河十郎が「どうして一番年上でいらっしゃる豊王殿をお渡しくださらないのでしょうか」と申し上げると、尼上は「あまりに無慙なので、助けようと思う。代わりに尼の首を取れ」とおっしゃったので、尼上は十郎が現に奉公している駿河守(義村)の母親であり、御敵の胤義にとっても母親であるから、その対応を憎らしくも気の毒にも思われ、十郎は仕方なく、四人だけを輿に乗せて帰った。
「鎌倉中」へは入れてはならないとのことなので、手越〔たごし〕の河端で輿から降ろすと、九・七・五歳の子は乳母たちにすがりついて、切ろうとするのだと気づいて泣き悲しんだ。
三歳の子だけは無心に乳母の乳房をまさぐっていた。
どちらも目も当たられぬほど気の毒な様子であった。
しかし、日も暮れて行ったので、そのままでおくこともできず、十郎は腰の刀を抜いて四人の首を切り、その首を義村の許に持参した。
四人の乳母たちが子供たちの亡骸を抱えて、大声で泣き叫ぶ有様は譬えようがなかった。
亡骸は輿に乗せて、屋部へ帰って供養した。
祖母の尼は、数年育てていた子供たちだったので、それぞれの言葉の端々も忘れることができず、今生の別れの際の面影も身に添うような心地がして気絶されてしまったのももっともなことであった。

とのことですが、『吾妻鏡』の宝治合戦の記事を見ると、胤義の子供たちは宝治合戦のときまで存命で、承久の乱の直後に殺されてはいません。
では、何故に流布本にはこのように記されているのか。
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流布本も読んでみる。(その80)─「空き形を成共〔なりとも〕、今一度見せよ」

2023-07-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本では、戦後処理は、

 後鳥羽院→土御門院→順徳院→六条宮・冷泉宮→公卿・殿上人→僧侶・武士

という順番で記されていて、「次々ノ人々モ、皆頸ヲゾ切レケル」と処刑された人々の名前が列挙され、最後に「熊野別当・吉野執行ニ至マデ、一人モ芳心ナク切終リヌ」とあります。
そして、

-------
「サテ、此〔この〕人々ノ子ドモ、一々次第ニ召出シテ、同〔おなじく〕首ヲゾ切給フ。中ニモ勝〔すぐれ〕テ哀〔あはれ〕ナリケルハ、甲斐宰相中将子息ノ侍従ト、山城守勢多賀児〔せいたかご〕ニテゾ留〔とどめ〕タル」。侍従ハ、生年〔しやうねん〕十六歳也。六波羅ノ大床〔おほゆか〕ニ召出シテ、武蔵守見給ヒ申サレケルハ、「是ヤ、承〔うけたまは〕ル宰相中将殿ノ御子ニテオハシマス。ミメウツクシサヨ。姿・事ガラノイトオシサヨ。我子ノ武蔵ノ太郎ヲ宇治・勢多・槙島ニテ思ヒシ思〔おもひ〕ハ、イカ計〔ばかり〕ゾ。サレバ侍従殿ヲバ生〔いけ〕マイラセタリトモ、泰時ガ冥加〔みやうが〕ノアラン限〔かぎり〕ハ、別〔べち〕ノ事、ヨモ候ハジ。侍従殿ヲ切マイラセタリトモ、冥加尽〔つき〕ヌルモノナラバ、世ニアル事有ベカラズ。サラバ、トクトク侍従殿ニハ暇〔いとま〕マイラセ候。帰ラセ給ヘ」トゾ申サレケル。聞〔きく〕諸人、「サシ当〔あたり〕テハ、神妙〔しんべう〕ナル計〔はから〕ヒ哉」トゾ讃〔ほめ〕アヒケル。冥加マシマサウ侍従殿ニテ、今ニマシマストコソ承ハレ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/107d679fb3666cc7fbc7b22c94dfd5c2

と続きますが、「甲斐宰相中将」、即ち水死での処刑を選んだ藤原範茂の息子「侍従殿」(藤原範継)の話は短く、しかも「侍従殿」は北条義時に助命されるので「勢多伽児」の引き立て役のような存在ですね。
ついで、慈光寺本では次のような展開となります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その72)─「カチハダシニテ、六波羅ヘコソ泣々ユケ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/159130b5fc95560bc728a087518afc26
(その73)─「勢多伽ニ暇ヲタブナラバ、信綱ハ御前ニテ自害ヲシテ失ナン」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39b70cb0af88f1207aa6c66f8e68a633
(その74)─「四郎左衛門、勢多伽ヲ賜テ、六条河原ニテ是ヲ切」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a66e5b8a928c21bccd2ddbf85e285dc

さて、流布本と慈光寺本の勢多伽丸エピソードを比較してみると、以下のような違いがあります。

(1)流布本では武家の要請を待たずに仁和寺御室(道助法親王)が勢多伽を六波羅に出頭させるが、慈光寺本では北条泰時が御室に多数の武士を送り、「勢多伽給ラン」と要求。
(2)勢多伽丸の母は流布本では「鳴滝」、慈光寺本では「高雄」に所在。
(3)慈光寺本では、御室の御所は女人禁制だが「折ニコソヨレ」と勢多伽丸の母を呼ぶ。流布本には女人禁制への言及なし。
(4)御室に呼ばれた母は、流布本では「兎にも角にも御計ひに社」と特別な主張はしないが、慈光寺本では「六波羅ニ召出サレ、童ニウキメヲ見セ給ハンヨリハ、同事〔おなじこと〕ナリ、コゝニテ、先〔まづ〕童ヲ失ヒテ、和児モ自害セヨ。目ノ前ニテウキ目ミジ」と、勢多伽丸に自分(「童」はここでは自称)を殺してから自害するように求める。
(5)勢多伽丸に同行した使者は、流布本では「大蔵卿法印覚寛」一人。慈光寺本では「大蔵卿法印」と「土橋威儀師」の二人。
(6)御室の使者への伝言は、流布本では、「勢多伽丸を自分に預けてほしい、何か大事が出来したら自分が責任を取る」というものだが、慈光寺本では「首は切っても亡骸は返してほしい」のみ。
(7)流布本には御室の「埋木〔うもれぎ〕の朽はつべきは留りて若木の花のちるぞ悲しき」という歌があるが、慈光寺本にはなし。
(8)母が「歩跣し」「カチハダシ」で六波羅に行ったとする点は共通。ただ、流布本では勢多伽丸の車に乗るように言われたが拒否しているのに対し、慈光寺本では、そもそも車とは同行していない。
(9)流布本では、北条泰時は使者から「令旨の趣」を聞き、勢多伽丸を見て赦免を決定。慈光寺本では、使者からの「慇懃ノ仰」を聞いたことに加え、「争〔いか〕デカ山城守ノ妻ナドガ、カチハダシニテ泰時ガ門ニ立〔たた〕レ候ベキト、哀〔あはれ〕ニ覚〔おぼえ〕候ヘバ」と、母の態度も考慮して決定。
(10)赦免を聞いた母は、流布本では北条泰時を拝んで、「七代迄、冥加御座〔おはしまし〕候へ」と感謝。慈光寺本では、使者の二人の僧とともに「弥〔いよいよ〕、弓矢ノ冥加〔みやうが〕マシマセ」と手を合わせて喜ぶ。
(11)佐々木信綱は、慈光寺本では「清水ノ東ノ橋ヅメ」で勢多伽丸一行に出会い、六波羅に向かうが、流布本には出会いの記述なし。
(12)佐々木信綱は北条泰時に対して、流布本では勢多伽丸を赦免するなら自分は「髻〔もとどり〕切て、如何にも罷成〔まかりなり〕候はん」と言うが、慈光寺本では「勢多伽ニ暇〔いとま〕ヲタブナラバ、信綱ハ御前ニテ自害ヲシテ失〔うせ〕ナン」と述べる。「自害」という表現は勢多伽丸の母の発言にも出ている。
(13)佐々木信綱の発言を聞いた北条泰時は、流布本では「是〔これ〕は奉公他に異なる者也、彼は敵〔てき〕なれば力不及」と考えて、赦免の決定を撤回。慈光寺本では「鎌倉ヨリ我ニ打具シテ、千五百里ノ道凌〔しのぎ〕来テ、戦場ニ出〔いで〕テ命ヲ捨ケルガ、適〔たまたま〕生〔いき〕テアルニ、争〔いかで〕デ勢多伽故ニ、自害ヲバセサスベキ。左程ノ事ナラバ召返〔めしかへせ〕」と説明。
ただ、流布本では、佐々木信綱の宇治川先陣争いが詳細に描かれているので、信綱が「奉公他に異なる者」であることは自明だが、宇治川合戦の存在しない慈光寺本では、泰時にとって信綱が何故に重要人物なのかははっきりせず。
(14)慈光寺本には「武蔵守仰〔おほせ〕ラルル趣ハ真中〔まなか〕ナリ。四郎左衛門ガ申状〔まうしじやう〕、過分〔くわぶん〕放逸〔ほういつ〕ナリ」という世人の評価が記されているが、流布本には存在せず。
(15)慈光寺本では、泰時が勢多伽丸を召し返したことを聞いた母は、勢多伽丸と一緒に乗っていた車から降りて「今生〔こんじやう〕ニハ夢幻〔ゆめまぼろし〕ナラデハ、相見ル事叶〔かなふ〕マジ。中々見ジ」と思って泣きながら「宿所」に帰るが、流布本では、そもそも勢多伽丸の帰途の車に母が乗っていたかも不明で、「宿所」云々の話もない。
(16)慈光寺本では、勢多伽丸を召し返した北条泰時は、いったん「六郎左衛門」に預けるが、流布本には「六郎左衛門」なる人物は登場せず。
(17)慈光寺本では、泰時は家子・郎等を集めて、「此中ニ、誰カ勢多伽ガ首討〔うつ〕ベキ」と聞くが、誰も手を上げないので、「敵ナレバ、サリトテハ四郎左衛門ニ預ケヨ」と佐々木信綱に引き渡すが、流布本ではこのような場面は存在せず。
(18)流布本では、勢多伽丸の引き渡しを受けた佐々木信綱は郎等の「金田七郎」に渡して六条河原で処刑させるが、慈光寺本では「金田七郎」を含め、処刑担当者は登場せず。
(19)慈光寺本では、処刑に際して、佐々木信綱は「信綱ヲ恨メシト思給フナ。和児ノ父山城守ノ口惜ク当リ給シカバ、ネタキタウハ河ノ越ニテモト申ス譬〔たと〕ヘ候ヘバ、失セ奉ル」などと言い訳がましいことを言うが、流布本にはそのような場面は存在せず。
(20)流布本では、処刑に際して勢多伽丸が、御室から賜わった「朽葉の直垂」に着替えた旨が記されるが、慈光寺本では、そもそも勢多伽丸が御室から「朽葉の直垂」を賜ったことが記されていない。
(21)慈光寺本では、いったん「宿所」に帰ったはずの母が「猶〔なほ〕最後ノ有様見ントテ」処刑の場面に再び登場し、「尸〔かばね〕ニ取附〔とりつき〕、声ヲ上テゾオメキケル。見人聞人〔みるひときくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけき〕モ武〔たけ〕カラヌモ、皆トモニ涙ヲナガサヌハナカリケリ」で勢多伽丸エピソード全体が終わる。
流布本でも「母、空き質〔むく〕ろに抱付、絶入々々呼〔をめ〕き叫有様、目もあてられず。上下涙を流さぬは無りけり」という場面はあるが、最終場面ではなく、この後に「御室は、「空き形を成共〔なりとも〕、今一度見せよ」と被仰ける間、車にかき入て帰り参る。是を御覧ける御心の中、譬ん方も無りけり」とあって、仁和寺御室・道助法親王の悲嘆で全体が終わる。
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流布本も読んでみる。(その79)─「勢多伽童だに被助置候はゞ、信綱髻切て、如何にも罷成候はん」

2023-07-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(『新訂承久記』、p141以下)

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 さて大蔵卿法印・勢多伽、一車に乗具して遣〔やり〕出せば、母跡〔あと〕に歩跣〔かちはだ〕しにて、泣ともなく倒る共なく慕ひ行を、法印、(御いたはしく思〔おぼ〕して)「車の後〔しり〕に乗給へ」と云へ共不乗、六波羅へ行著〔つい〕て、勢多伽を先に立て、「御室よりの御使候」と云入ぬ。武蔵守出合たり。法印、令旨〔りやうじ〕の趣を申聞せければ、熟々〔つくづく〕と打守りて、「誠に能児にて候けり。君の不便に思召るゝも御理に候。左候はば、暫預進〔まゐ〕らせ候はん。此由を被申候へ」と被申ければ、勢多伽が母、庭に臥転〔ふしまろ〕びて泣悲けるが、此御返事を聞起揚り、武蔵守を拝み、、「七代迄、冥加御座〔おはしまし〕候へ」とて喜び(けるも理とぞ見へし。)
-------

【私訳】 さて、大蔵卿法印と勢多伽が一つ車に一緒に乗って出発すると、勢多伽の母はその後を裸足のままで、泣くともなく倒れるともなく慕って行くので、法印はいたわしく思われて、「車の後ろにお乗りなさい」と言ったが乗らなかった。
六波羅に到着して、勢多伽を先に立て、「御室よりの御使でございます」と言って入った。
武蔵守(北条泰時)が出て来た。
法印が道助法親王の令旨の趣旨を申し聞かせると、武蔵守は勢多伽をじっと見つめて、「誠に良い稚児でございますね。御室が気の毒に思し召されるのももっともです。そうした事情ならば、暫くお預けいたしましょう。その旨を御室にお伝えください」と申したので、勢多伽の母は、庭に臥し転んで泣き悲しんでいたが、この御返事を聞いて起き上がり、武蔵守を拝んで、「七代まで冥加がございますように」と喜んだのももっともであった。

ということで、北条泰時讃美のパターンで終わりそうな雰囲気になりますが、ここで佐々木広綱の弟、勢多伽の叔父である佐々木信綱が登場します。

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(角〔かく〕て)車に乗て返る程に、叔父の佐々木四郎左衛門尉信綱参りたり。「広綱と兄弟中〔なか〕悪く候し事、年比〔としごろ〕被知召〔しろしめされ〕て候。勢多伽童だに被助置候はゞ、信綱髻〔もとどり〕切て、如何にも罷成〔まかりなり〕候はん」と申ければ、是〔これ〕は奉公他に異なる者也、彼は敵〔てき〕なれば力不及とて、樋口富小路より召返て、信綱に被預。軈〔やが〕て郎等金七郎請取〔うけとつ〕て、六条河原にて切んとす。勢多伽、御所より給ひつる朽葉の直垂著替て、車より下、敷皮に移り、西に向て手を合せ、念仏百返計申、父の為に回向〔ゑかう〕し、我後生を祈念し宛〔つつ〕、首を伸て被打けり。母、空き質〔むく〕ろに抱付、絶入々々呼〔をめ〕き叫有様、目もあてられず。上下涙を流さぬは無りけり。御室は、「空き形を成共〔なりとも〕、今一度見せよ」と被仰ける間、車にかき入て帰り参る。是を御覧ける御心の中、譬ん方も無りけり。
-------

【私訳】このようにして、勢多伽が車に乗って帰る頃に叔父の佐々木四郎左衛門尉信綱が参った。
信綱は、「私と広綱の兄弟仲が悪いことは、長年のことなので御存知のはずです。それにもかかわらず勢多伽をお助けになるなら、信綱は髻を切って出家いたします」と申したので、武蔵守は、信綱は幕府への奉公が他と異なる者であり、勢多伽は敵の子であるので仕方ない、と思って、勢多伽を樋口富小路から召し返して信綱に預けた。
そして直ぐに信綱の郎等の金七郎が請け取って、六条河原で切ろうとした。
勢多伽は御室から賜った朽葉の直垂に着替えて車から降り、敷皮に移り、西に向いて手を合せ、念仏を百遍ばかり唱えて、父のために廻向し、自分の後生を祈念しつつ、首を伸ばして斬られた。
母は勢多伽の亡骸に抱きつき、絶え入りそうになりながら泣き叫ぶ有様は目も当てられなかった。
身分の高い人も低い人も、涙を流さない者はいなかった。
御室は、「たとえ亡骸であろうとも、もう一度見せよ」と仰ったので、抱き抱えて車に乗せて帰った。
これを御覧になった御室の御心の中は譬えることもできない。
-------

勢多伽丸のエピソードはこれで終りです。
分量は『新訂承久記』で49行で、上下巻全体が1530行ですから、記事の割合は、

 49/1530≒0.032

であり、全体の約3%ですね。
慈光寺本では勢多伽丸エピソードの直前に藤原範茂の息子「侍従殿」のエピソードがあり、こちらは泰時が助命しているので、勢多伽丸の悲劇を際立たせるための引き立て役のような話です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その71)─「冥加マシマサウ侍従殿ニテ、今ニマシマストコソ承ハレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/107d679fb3666cc7fbc7b22c94dfd5c2

岩波新日本古典文学大系では、

  侍従殿・勢多伽丸(共通)…2行
  侍従殿のみ…8行
  勢多伽丸…53行

となっていて、合計で63行となっており、慈光寺本では上下巻全体で1044行なので、

 63/1044≒0.06

と全体の約6%です。
勢多伽丸エピソードだけなら、侍従殿との共通部分2行と勢多伽丸単独の53行を足して、

 55/1044≒0.053

となり、全体の約5%ですね。
内容についての比較は次の投稿で行います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef2c3462c18b57069e06b1d9bc07a00e
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流布本も読んでみる。(その78)─「埋木の朽はつべきは留りて若木の花のちるぞ悲しき」

2023-07-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
いよいよ残りも僅かになってきましたが、私にとって勢多伽丸のエピソードは最後に残された謎です。
このエピソードは世人を感動させたであろう悲話には違いありませんが、何故に流布本、そして慈光寺本の作者は、これほどまでの分量で、感情を込めて語るのか。
その理由の検討は後で行うとして、先ずは原文を見ておきます。(『新訂承久記』、p139以下)

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 上つ方の御事はさて置ぬ、下様〔しもざま〕にも哀なる事多かりけり。佐々木山城守広綱が子に勢多伽丸とて、御室の御所に御最愛の児〔ちご〕有。「広綱罪重して被切ぬ。其子勢多伽さてしも候はじ。定て荒けなき武士共参て、責進〔まゐ〕らせ候はんずらん。佐〔さ〕ならぬ先に出させ御座〔ましまし〕候はんは、穏便〔おんびん〕の様〔やう〕に候なん」と人々口々申ければ、御室、「我もさ思」とて、芝築地上座信俊を御使にて、鳴滝なる勢多伽が母を召て、被仰けるは、「勢多伽丸七歳より召仕〔めしつかつ〕て、已〔すで〕に七八年が程不便〔ふびん〕に思召共、父広綱が罪深して被切ぬ。其子にて可遁共不覚。武士共参て申さぬ先に被出ばやと思召すは如何に」と被仰ければ、母承りも不敢、袖を顔に推当て涙を流し、「兎〔と〕にも角〔かく〕にも御計〔はから〕ひに社〔こそ〕」と泣居たり。勢多伽、今年は十四歳、眉目心様〔ざま〕・衣紋付袴の著様、世に超たれば、御所中にも双〔なら〕び無けり。「若〔もし〕此人被切給はゞ如何に」と、見人袖を絞りける。すみれ付たる浅黄〔あさぎ〕の直垂を著たりけるが、「最後の時は是を著替よ」とて、朽葉〔くちば〕の綾の直垂を給ふ。勢多伽、切られん事と聞ば、さこそ心細も思ひけめ、涙の進けるをも、さる者の子なればにや、去気〔さりげ〕なく持成〔もてなし〕けるぞ哀な(る。日)来馴〔なれ〕遊ける児達、出合て名残を惜み送らんとす。此程秘蔵せし手本、もて遊び(物)など賦〔くば〕り与へて、「各、思出し給ん時は、念仏申訪〔とぶらひ〕給へ」と云て、出にけり。御所中の上下、是を見に目も昏心迷ひ、袖を絞らぬは無りけり。
-------

【私訳】高貴な方々のことはさて置き、身分の低い人々にも哀れなことが多かった。
佐々木山城守広綱の子息で勢多伽丸という、御室の御所に最も愛された稚児があった。
「広綱は罪が重くて切られた。その子の勢多伽も無事ではすむまい。きっと荒々しい武士どもが参って、責め申し上げるであろう。そうならない前に、勢多伽の身を差し出すのが穏便のように思われる」と人々が口々に申すので、御室は「私もそう思う」といって、芝築地上座信俊を御使として、鳴滝に住む勢多伽の母を召して次のように仰った。
「勢多伽丸を七歳より召し仕って既に七八年程になるが、気の毒とは思召すけれども、父の広綱の罪は深くて切られた。その子である以上、逃げられるとも思われない。武士どもが参ってあれこれ申す前に差し出そうと思召すがどう思うか」
と仰ったので、母は承諾することもできず、袖を顔に押し当てて涙を流し、「何とも申し上げることはできませんが、お計らいに従います」と泣くばかりであった。
勢多伽は今年十四歳で、眉目秀麗で性格も良く、衣裳の着こなしも世の人を超えていたので、御所の中でも双ぶ者はいなかった。
「もし、この人が斬られてしまわれたらどんなに悲しいか」と、見る人は皆、袖の涙を絞った。
すみれを付けた浅黄の直垂を着ていたが、御室は「最後の時はこれに着替えよ」と朽葉の綾の直垂を賜った。
勢多伽は、切られるであろうと聞いたので、きっと心細く思っていたであろうし、涙も流したであろうが、しかるべき武士の子であるからか、さりげない様子でいたのは哀れなことであった。
日頃、慣れ親しんだ稚児たちは、出発に際して名残を惜しんで送ろうとした。
勢多伽は秘蔵していた書跡やすさび物などを形見として皆に配って、「皆様、私を思い出された時は、念仏を唱えて下さい」と言って出発した。
御所中の身分の高い者も低い者も、この様子を見て目が眩み、心が迷い、袖の涙を絞らぬ者はいなかった。

「御室」は後鳥羽院皇子の道助法親王で、「御最愛の児」は十四歳ということですから、承元二年(1208)生まれですね。
ただ、道助法親王も建久七年(1196)生まれですから、承久三年の時点でまだ二十五歳です。

道助法親王(1196-1249)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%8A%A9%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

さて、続きです。(p140以下)

-------
 大蔵卿法印覚寛を召て被仰けるは、「六波羅へ行て云様は、『山城守広綱が子、七歳より被召使て、不便に思召せ共、父罪深して被切ぬれば、其子難遁けれ共、是が稚〔いとけ〕なきには何事をか仕〔つかまつ〕り可出なれば、法師になして親の後世をも弔〔とぶら〕はせんと思召せ共、定て近仕の人人取沙汰申んずらんと覚る間、先〔まづ〕出し被遣也。余に不便なれば、我に預なん哉。大事有ば我に懸よ』と云て見よ」と被仰て、又勢多伽に仰けるは、「汝、不便さ限無けれ共、力不及、恨敷〔うらめしく〕思なよ。並〔ならび〕の岡をば死出の山と思ひ、鴨河をば三途の河と可思」と被仰含、(其後)我御身を被遊と覚しくて、
 埋木〔うもれぎ〕の朽はつべきは留りて若木の花のちるぞ悲しき
-------

【私訳】 御室は大蔵卿法印覚寛を召して次のように仰った。
「六波羅へ行ったらこのように申せ。
『山城守広綱の子を七歳より召し使っており、気の毒には思召すけれども、父の罪が深いので切られた以上、その子も遁れることは難しいのは承知しているが、まだ稚なき年頃であるので、何か事を起こすはずもなく、法師にして親の後世を弔わせようと思召すところ、きっと近く仕える人々が取沙汰するであろうと思われるので、先ず、差出します。本当に気の毒なので、私に預けてはもらえないだろうか。何か大事が出来したときは、私に責任を取らせなさい』
と言ってみるのだ」と仰った。
また、勢多伽には
「汝は本当に気の毒だが、私の力も足りないので、この程度のことしかできない。恨めしく思うなよ。(仁和寺の南の)並の岡を死出の山と思い、鴨河を三途の河と思うように」
と仰った。
その後、御自身を次のように詠まれた。
 埋木の…(埋もれ木のような私は朽ち果てずに生き残り、若木の花が散ってしまうのは悲しい)
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流布本も読んでみる。(その77)─「中々に萩吹風の絶よかし音信くれば露ぞこぼるゝ」

2023-07-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用部分の現代語訳です。

【私訳】 七月四日、六条宮は但馬国、二十五日に冷泉宮は備前児島へ御遷りになった。
残された方々の嘆きのほどは申すもおろかである。
中でも修明門院の御嘆きは大変なことであった。
後鳥羽院は隠岐へお遷りになった。
順徳院は佐渡へ流されてしまわれた。
太陽や月が西に傾くと、隠岐の御所へ伝言したいとお思いになり、雁が鳴きながら初めて訪れると、北の佐渡の御所のことをお聞きになりたいとお思いになられ、身を焦がして光っている蛍と同じように追慕の思いに身を焦がし、遠い山々に満ちた霧と同じように、お嘆きの霧は晴れない。
東一条院は、先帝(仲恭天皇)がいらっしゃるので、順徳院を偲ぶ御形見とお思いになられるけれども、嘆きを慰めることはできない。
七条院は、老齢の御身にはいつまでと期待もできない後鳥羽院の帰洛を、今日であろうか明日であろうかと思われて、御嘆きの様子が日毎に増されて、沈んだお気持ちでいらっしゃることを後鳥羽院がお聞きになって、隠岐の御所より、
   たらちめの…(私の帰洛を死ぬにも死ねない気持ちで待っておられる我が母の儚い
   露のような命が無常の風で消えてしまう前に、何とかお尋ねしたいものだ)
七条院の御返歌、
   中々に…(萩を吹く風のような音信なら、いっそのこと来ないでほしい。なまじに
   音信があると、風に零れる露のように私の命も絶えてしまいそうだ)
-------

七条院は保元二年(1157)生まれなので承久の乱の時点で六十五歳であり、後鳥羽院に会えぬまま、安貞二年(1228)に七十二歳で亡くなります。
東一条院(九条立子)は建久三年(1192)生まれなので順徳院(1197-1242)より五歳上であり、承久の乱の時点で三十歳ですね。

七条院(1157-1228)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AE%96%E5%AD%90
東一条院(1192-1247)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%AB%8B%E5%AD%90

渡邉論文の「『承久記』和歌一覧」によれば、後鳥羽院の「たらちめの」の歌は『六代勝事記』・『吾妻鏡』・『増鏡』にも載っていますが、『吾妻鏡』七月二十七日条では、

-------
上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

となっていて、まだ隠岐に渡る前、出雲国の大浜湊において、帰洛する武士に託した歌とされていますね。
『増鏡』では、隠岐に着いて「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け」の歌などを詠んだ翌年の秋、

-------
 たとしへなく眺めしをれさせ給へる夕暮に、沖の方にいと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎくるを、あまの釣舟かと御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。墨染の御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒に思ひやり聞えさせ給ひて、七条院より参れる御文ひきあけさせ給ふより、いといみじく御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましく、かくて月日へにけること。今日明日とも知らぬ命の内に、今一度いかで見奉りてしがな。かくながらは死出の山路も越えやるべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔に押し当てて、

  たらちねの消やらで待つ露の身を風より先にいかでとはまし
  八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえんと絶えぬ玉の緒

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/359c76affed0b6f092e399e9adcaf635

とあって、物語的な脚色が加えられていますね。
なお、七条院の返歌「中々に萩吹風の絶よかし音信くれば露ぞこぼるゝ」は、渡邉論文の「『承久記』和歌一覧」によれば「他出ナシ」とのことで、流布本作者の創作である可能性は排除できません。
さて、流布本ではこの後、佐々木広綱の息子・勢多伽丸の長大なエピソードとなります。
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流布本も読んでみる。(その76)─「たらちめの絶やらで待露の身を風より先に争でとはまし」

2023-07-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本では順徳院配流を七月二十二日としていますが、この日付は諸史料によって細かな違いがありますね。
慈光寺本には、

------
 新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移〔うつし〕マイラセ給フ。夜中ニ岡崎殿ヘ入セ給フ。御供ニハ女房二人、男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経ツケリ。少将宣経病〔やまひ〕ニ煩ヒ帰リ給ヘバ、イトゞ露打〔つゆうち〕ハラフベキ人モナシ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e871bad8ab958a721d2f4cce5366a8ac

とあって、七月二十日ですが、『大日本史料 第五編之一』を見ると、『六代勝事記』と『吾妻鏡』も七月二十日としています。
他方、『公卿補任』・『百錬抄』・『愚管抄』は七月二十一日ですね。
『百錬抄』には二十日に「今日新院御幸岡崎亭」、二十一日に「新院遷御佐渡国」とあって、慈光寺本と同じく「岡崎殿」(「岡崎亭」)が出てきます。
野口華世氏の「後鳥羽院をとりまく女性たち」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に、

-------
【前略】後鳥羽院が、承久の乱に敗れて鳥羽殿にて出家することになった時には、修明門院も一緒に出家した。隠岐に同行こそしなかったが、旅立つ後鳥羽院を七条院とともに見送っている。また子の順徳院とも、自身の岡崎殿で別れを惜しみ、佐渡へ旅立たせている。
-------

とあるので(p112)、岡崎殿は修明門院御所のようですが、後で確認してみたいと思います。
ところで、慈光寺本は上記記事の直前に、

-------
 十月十日、中院〔ちうゐん〕ヲバ土佐国畑〔はた〕ト云所ヘ流マイラス。御車寄〔くるまよせ〕ニハ大納言定通卿、御供ニハ女房四人、殿上人ニハ少将雅俊・侍従俊平ゾ参リ給ケル。心モ詞モ及バザリシ事ドモナリ。此〔この〕君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン。
-------

とあるので、普通に読んでいれば順徳院の配流も十月二十日なのかと思ってしまいますね。
ここはおそらく後から中院(土御門院)の記事を挿入したのでしょうが、その際に周囲の記事との整合性を確認していない訳で、慈光寺本の随所にみられる「やっつけ仕事」の一例ですね。
「新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移マイラセ給フ」も内容が重複していて、推敲していなさそうな気配が漂う文章です。
ところで『吾妻鏡』七月二十日条には、

-------
新院遷御佐渡国。花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経。上北面左衛門大夫康光等供奉。女房二人同参。国母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄録。羽林依病自路次帰京。武衛又受重病。留越後国寺泊浦。凡両院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚為之如何。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあり、慈光寺本・流布本・『吾妻鏡』で随行者を比較すると、

 慈光寺本:「女房二人」
      「男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経」
      (但し宣経は病気のため途中で帰洛)

 流布本:「冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経」
     (但し、為家は同行せず。茂氏は病気のため途中で帰洛。教経は寺泊で病死) 
     「上北面には藤左衛門大夫安光」
     「女房右衛門佐局以下三人」

 『吾妻鏡』:「花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経」
     (但し、能氏は病気のため途中で帰洛。範経は重病のため寺泊に留まる)
       「上北面左衛門大夫康光」
       「女房二人」

となっています。
人名表記に若干の異同はありますが、「花山院少将」が途中で帰洛したことは三つの史料で共通ですね。
慈光寺本は藤原範経が寺泊で重病(流布本によれば病死)となったことを記さず、上北面の名も記さないので、一番雑です。
藤原為家が同行しなかったことを記すなど、流布本が一番詳細であって、『吾妻鏡』は流布本を見た上で若干の簡略化を図っているように思われます。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p138以下)

-------
 同廿四日、六条宮但馬国、同廿五日、冷泉宮備前児島へ被移給ふ。
 懸〔かか〕る御跡〔あと〕の御嘆共、申も等閑〔なほざり〕也。中にも修明(門)院の御嘆、類〔たぐひ〕少なき御事也。実〔げに〕も一院は隠岐へ被移させ給ぬ。新院、佐渡へ被流させ給ふ。月日の西へ傾ば、隠岐の御所へ御言伝〔ことづて〕せまほ敷〔しく〕思召、初雁が音の音信〔おとづれ〕は、佐渡の御所の御事共問は(ま)ほ敷〔しく〕、人家を照す蛍は御思と共に焦れ、遠山に満たる霧は御嗟〔なげき〕と共に晴やらず。東一条院、先帝御座〔ましませ〕ば佐渡の院の御形見とは思召せ共、慰方も無りけり。七条の女院、老たる御身には何共〔いつとも〕期せぬ都返り、今日や明日やと思召、御嘆の色、日に随ひて増らせ給宛〔つつ〕、思召沈ませ御座〔おはします〕由聞召〔きこしめし〕及びて、隠岐の御所より、

   たらちめの絶〔たえ〕やらで待露の身を風より先に争でとはまし

七条院御返事、
   中々に萩吹風の絶よかし音信くれば露ぞこぼるゝ
-------

検討は次の投稿で行います。
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流布本も読んでみる。(その75)─「冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給」

2023-07-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本と『増鏡』を読み比べてみると、『増鏡』が後鳥羽院の「我こそは」と家隆の「ねざめして」の二首を選んだのは偶然ではなく、『増鏡』作者は流布本を読んでいて、そこからイメージを膨らませて格調の高い物語を作ったのだろうなと思われます。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p138)

-------
 同廿二日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。花山院少将は、路〔みち〕より労〔いた〕はる事有とて帰り被上ければ、いとゞ御心細ぞ思召ける。越後国寺泊に著せ給て、御船に被召けるに、甲斐兵衛佐教経、病〔やまひ〕大事に御座〔おはし〕ければ、御船にも不被乗、留められけるが軈〔やが〕て彼〔かし〕こにて失給にけり。新院、佐渡へ渡らせ給(へば)、都より御送の者共、御輿かき迄も御名残〔なごり〕惜ませ給て、「今日計〔ばかり〕、明日計」と留めさせ給。長歌遊ばして、九条殿へ進らせ給ふ。奥に又、
  存〔ながら〕へてたとへば末に帰る共憂〔うき〕は此世の都なりけり
九条殿、長歌の御返事有。是も又、奥に、
  いとふ共存へてふる世の中の憂には争〔いか〕で春を待べき
-------

【私訳】七月二十二日、新院(順徳院)は佐渡国へ移られた。
御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房は右衛門佐局以下三人が参られる。
とこのように聞いたのだが、冷泉中将為家朝臣は、ほんの少しも御送の役を勤めず、都に留まりなさった。
花山院少将は病気とのことで途中から帰られたので、順徳院は大変心細く思われた。
越後国寺泊に御着きになって、御船に乗ろうとされたところに、甲斐兵衛佐教経の病気が重くなって、御船にも乗ることができず、留まっていたが、そのまま寺泊で亡くなられた。
順徳院は佐渡へ御渡りになられたが、都より御送りしてきた者ども、御輿かきまでも御名残惜しく思われて、「今日だけでも、明日だけでも」とお留めになった。
長歌を詠まれて九条殿(道家)に送られた。
その奥に、反歌として、
  存へて…(この島で生きながらえて、たとえ将来都に帰ることがあったとしても、
  この悲しさは消えることはありません)
九条殿も御返事として長歌を詠まれた。その奥に、反歌として、
  いとふ共…(お言葉のようにこの世が憂き事ばかりであるならば、どうして人々は
  春を心待ちにすることがありましょうか)

「冷泉中将為家朝臣」は藤原定家の息子・為家ですが、為家が順徳院に供奉して佐渡に行く予定だったという話は他書には出てきません。
一応の噂があったものの、「一まどの御送をも不被申、都に留り給」ということで、結局行かなかったのだから歴史的には何の重要性もなく、記録にも残りにくい話です。
しかし、これが流布本に記されたということは、為家の身の処し方に好意的ではない流布本作者が、行くと決まっていたのに都を一歩も出ないなんてひどい奴だな、と筆誅を加えたように感じられます。
とすると、そうした一時的な噂話を実際に聞いた人が作者で、成立時期も承久の乱からさほど隔たっていない頃と考えるのが自然ではないかと思われます。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e968d1055c6c4e148ff37749449f6f6

順徳院と九条道家の長歌贈答については、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)に則して検討済みです。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)~(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03fff517002acc7df06cb6594b1f2a29
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72fe0d90fca4e67eb57aeb65bc6aa0fd
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流布本も読んでみる。(その74)─「我こそは新島もりよ隠岐の海のあらき波風心してふけ」

2023-07-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分、私は「女房一人」が即ち「伊賀局」であり、かつ「白拍子の亀菊殿」だと思って訳していますが、別の読み方も可能というか、素直に読めば二人ないし三人いるような分かりにくい書き方になっていますね。
流布本では亀菊は上巻に、

-------
 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

と登場した後、この隠岐御幸の場面に登場して歌を一首詠んでいます。
ちなみに、渡邉論文の「『承久記』和歌一覧」によれば、後鳥羽院の「墨染の」「立ちこもる」「都をば」の三首と亀菊の「月影は」の歌は、いずれも「他出ナシ」、即ち慈光寺を除く『承久記』の諸本以外には見出せず、流布本作者の創作の可能性は排除できません。
また、卿二位は流布本ではこの場面にチラッと姿を見せるだけで、慈光寺本において後鳥羽院を叱咤激励する強硬派として強烈な存在感を誇示しているのとは対照的です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

ま、それはともかく、後鳥羽院の隠岐御幸の場面の続きです。(p137以下)

-------
 美作〔みまさか〕と伯耆〔はうき〕との中山を越させ給ふとて、向の岸に細道有。「何くへ通ふ道ぞ」と御尋有ければ、「都へ通ふ古き道にて」と申ければ、法皇、

  都人たれ踏そめて通ひけん向の路のなつかしきかな

 出雲国大八浦と云所に付せ給ふ。見尾崎と云所也。其より修明門院へ御書を進〔まゐ〕らせ給。

  しるらめや浮身の崎の浜千鳥泣/\しぼる袖のけしきを

 是より御舟に召て、雲の波・烟〔けぶり〕の波を漕過て、隠岐国あまの郡苅田の郷と云所に、御所とて造儲〔つくりまうけ〕たりければ、其へ入せ給ふ。海水岸を洗ひ、大風木を渡事、尤〔もつとも〕烈〔はげ〕しかりければ、

  我こそは新島もりよ隠岐の海のあらき波風心してふけ

都に家隆卿伝承りて、後の便宜〔びんぎ〕に、

  ねざめしてきかぬを聞て悲きはあら磯浪の暁の声
-------

【私訳】 美作と伯耆との中山をお越えになるとのことで、向の岸に細い道があった。
後鳥羽院が「どこへ通う道なのか」とお尋ねになったので「都へ向かう古い道です」とお答えすると、後鳥羽院は、、
  都人…(都の誰があの細道を初めて踏み分けて通ったのだろうか。古い道がひとしお
  懐かしく思われる)
と詠まれた。
出雲国大八浦というところに御着きになった。
見尾崎(美保関)というところである。
ここで修明門院へ御手紙を送られた。
  しるらめや…(あなたは御存知でしょうか。この見尾崎の浜千鳥のように浮き漂う身の
  私が泣きながら絞っている袖の様子を)
ここから御舟に乗られて、雲や烟のように遥かに続く波を渡って、隠岐国海部郡苅田郷というところに御所と称して建物を設けたので、そこへお入りになった。
海水が岸を洗い、大風が木を渡って激しく吹いていたので、
  我こそは…(我こそ隠岐の新しい島守だ。隠岐の海の荒い波風よ、それをわきまえて
  吹いてくれ)
と詠まれた。
これを都の藤原家隆卿が伝え聞いて、後の便りに、
  ねざめして…(ふと目が覚めて何も聞こえないのに聞こえたような気がして悲しく思
  えたのは、暁に隠岐の荒磯に寄せる波の音だったのだろうか)
-------

渡邉論文の「『承久記』和歌一覧」によれば、後鳥羽院の歌のうち、「都人」は「他出ナシ」ですが、「しるらめや」は『六代勝事記』と『吾妻鏡』に出てきます。
ただ、『吾妻鏡』七月二十七日条では、

-------
上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

となっていて、「浮身の崎の」が「憂メヲミヲノ」、「泣/\しぼる」が「嶋々シホル」となっています。
後者の「嶋々」は意味が分からないので、「泣々」または「鳴々」の写し間違いではなかろうかと思います。
また、「我こそは」の歌は『増鏡』で有名ですが、『遠島御百首』にも出ています。
『増鏡』には、

-------
 このおはします所は、人離れ、里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山陰にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、けしきばかりことそぎたり。まことに「柴の庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿思し出づるも夢のやうになん。はるばると見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、今更めきたり。潮風のいとこちたく吹きくるを聞しめして、

  我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け
  おなじ世にまたすみのえの月や見ん今日こそよそにおきの島守

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/359c76affed0b6f092e399e9adcaf635

とあり、家隆歌は少し後に、

-------
 初雁のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息のみ常は奉るを御覧ずるに、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、大方歌の道につけて、むつまじく召し使ひし人なれば、夜ひる恋ひ聞ゆる事限りなし。かの伊勢より須磨に参りけんも、かくやと覚ゆるまで、巻き重ね、書き連ね参らせたり。「和歌所の昔の面影、数々に忘れ難う」など申して、つらき命の今日まで侍ることの恨めしきよしなど、えもいはずあはれ多くて、

  寝覚めして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯浪の暁の声

とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたくしぼらせ給ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d316f87b728570bb425a396ec7f6ace

とあります。
家隆の家集『玉吟集』(『壬二集』)雑部には「承久三年七月以後、遠所へよみてたてまつり侍し時」との詞書の後に、
  
3161 頼みこし八雲の道も絶えはてぬ君も出雲のうらめしの世や
3162 いかにして海人の釣舟尋ねみん八十島出でし人や告げしと
3163 いかばかり都は辰巳ながむらん月も憂き世の沖つ島人
3164 かゝる世の波のさわぎにしく風のいかなる浦に月を見るらん
3165 思う方あなしの風に言とへど涙ばかりぞ袖に答ふる
3166 憂き秋の山田の稲もはしわびぬこきたれて泣く袖の涙に
3167 寝覚めして聞かぬを聞きてかなしきは荒磯浪のあかつきの声
3168 心憂き海人のすみかに墨染めの衣の袖も濡れぬ日やなき
3169 おのづから袖の絶えまもありなまし涙にものを思ひませずは
3170 この春は越路の西へ帰れ雁恋しき方に言つてもせん

と十首の歌が続いていて(久保田淳『和歌文学大系62 玉吟集』、明治書院、2018、p405以下)、その七番目が流布本に取られている訳ですね。
ま、流布本作者が『玉吟集』を見ていたのかは分かりませんが。
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流布本も読んでみる。(その73)─「御供には殿上人、出羽前司重房・内蔵権頭清範、女房一人、伊賀局、聖一人、医師一人参けり」

2023-07-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(『新訂承久記』、p136以下)

-------
 同十三日、隠岐国へ移し可奉と聞へしかば、文遊して九条殿へ奉らせ給ふ。「君しがらみと成て、留させ給なんや」とて、

  墨染の袖に情を懸よかし涙計にくちもこそすれ

加様に被遊けるとなん。御乳母の卿の二位殿、あはて参て見進〔まゐ〕らするに、譬〔たとへ〕ん方ぞ無りけり。七条院・修明門院も御幸なる。互の御心の中、申も中々疎〔おろか〕也。御供には殿上人、出羽前司重房・内蔵権頭〔くらのごんのかみ〕清範、女房一人、伊賀局、聖一人、医師一人参けり。已に都を出させ給、水無瀬殿を通らせ給とて、爰〔ここ〕にて有ばやと被思召けるこそ、せめての御事なれ。

  たち籠る関とはなさで水無瀬河霧猶晴ぬ行末のそら

 さて播磨国明石に著せ給て、「爰は何〔いづ〕くぞ」と御尋あり。「明石の浦」と申ければ、

  都をばくら闇にこそ出しかど月は明石の浦に来にけり

又、白拍子の亀菊殿、

  月影はさこそ明石の浦なれど雲居〔くもゐ〕の秋ぞ猶もこひしき
-------

【私訳】七月十三日、隠岐国へ移し奉るべき由をお聞きしたので、後鳥羽院は「九条殿」(道家)に書状を送られて、「あなたが柵(流れをせきとめるための杭)となって、私を京に留めてもらえないか」との趣旨で、
  墨染の…(出家して墨染の衣となった私に情けをかけてほしいものだ。私の袖は涙の
  ために朽ちてしまう)
と、このように詠まれたとか。
御乳母の卿の二位殿は慌てて見参したが、譬える術もないほど悲しんだ。
七条院・修明門院も御幸となった。
それぞれの御心の中は申すまでもない。
後鳥羽院のお供には殿上人として出羽前司重房・内蔵権頭清範、女房は一人だけで伊賀局(亀菊)、そして聖一人、医師一人もお供となった。
都をお出になり、水無瀬殿を横に見て行かれる際に、配流先がここであったら、とお思いになられたが、せめてもの事であった。
  たち籠る…(水無瀬河には一面の川霧が立ち込めているが、私を引き留める関にはならない。
  そして私の行末の霧も晴れない)
さて、播磨国明石に御着きになって、「ここはどこか」とのお尋ねがあった。
「明石の浦」と答えると、
  都をば…(都を暗闇の頃に出発したが、今はその名のように月も明るい明石の浦に
  来たことだ)
また、白拍子の亀菊殿は、
  月影は…(月影は明るい明石の浦ではあるが、宮中の秋がなお恋しい)
と詠まれた。

後鳥羽院の隠岐への旅の途中の歌が多いのは流布本と流布本を参照した後出諸本の特徴で、慈光寺本には一首もありません。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03fff517002acc7df06cb6594b1f2a29

また、慈光寺本では、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

とあって、同行者の筆頭は「医王左衛門入道」であり、他に「西ノ御方」(坊門信清女、頼仁親王母)・「大夫殿」(未詳)と女官、そして、どこかで御命が尽くされるかもしれない時の用意として、終焉に立ち会う「聖」一人、そして少し後に「医師仲成」も同行した旨が記されます。
慈光寺本・流布本・『愚管抄』・『吾妻鏡』で、後鳥羽院の随行者は、

 慈光寺本:「伊王左衛門入道」
      「女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者」
      (何所ニテモ御命尽サセマシマサン料トテ)「聖ゾ一人」
      「医師仲成」

 流布本:「殿上人、出羽前司重房・内蔵権頭清範」
     「女房一人、伊賀局」
     「聖一人」
     「医師一人」

 『愚管抄』:「俄入道清範只一人」
       「女房両三」
       「義茂法師(能茂とも書く。秀能の猶子。法名西蓮)参リカハリテ清範帰京云々」

 『吾妻鏡』:「御共。女房両三輩。内蔵頭清範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。
        施薬院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令参上云々」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed3eb83b741d2f72767c0c9bf3705741

となっていて、流布本は藤原能茂を全く無視しています。
なお、流布本の「出羽前司重房」は上杉重房の父・清房の誤りであろうとされています。
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流布本も読んでみる。(その72)─「とく御返有と御手にてまねかせ給ふ様也」

2023-07-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
七月六日の鳥羽殿御幸に「左衛門尉能茂」が西園寺実氏・藤原信業と共に供奉したという慈光寺本の話は『六代勝事記』や『吾妻鏡』にも出てきます。
『吾妻鏡』には、

-------
上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔実氏〕。左宰相中将〔信成〕。左衛門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閇扉。離宮芝砌。以兵為墻。君臣共後悔断腸者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、三人は後鳥羽院の牛車の後を騎馬で供奉した、という慈光寺本に存在しない情報も追加されていますね。
ただ、慈光寺本は、この後、

-------
 同十日ハ、武蔵太郎時氏、鳥羽殿ヘコソ参リ給ヘ。物具シナガラ南殿ヘ参給ヒ、弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」ト責申声〔せめまうすこゑ〕気色〔きそく〕、琰魔〔エンマ〕ノ使ニコトナラズ。院トモカクモ御返事ナカリケリ。武蔵太郎、重テ被申ケルハ、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶〔なほ〕謀反ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出サセオハシマセ」ト責申ケレバ、今度ハ勅答アリ。「今、我報〔むくい〕ニテ、争〔いかで〕カ謀反者引籠ベキ。但、麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」トゾ仰下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

と続きますが、これは他書には見えない慈光寺本独自の記事です。
北条時氏が「弓ノウラハズ」にて簾を掻き揚げるという行為は流布本での七月六日の時氏の行為と共通ですが、流布本では女車に「謀叛の者や乗具たるらんとて」、時氏が「弓のはずにて御車の簾かゝげて見奉」っただけで、「理〔ことわり〕ながら」とあるように、警固の武士としては常識的な対応です。
しかし、慈光寺本では時氏は鎧を着たまま南殿(正殿)にズカズカ上って「弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ」、流罪に決まったのだから早く出て来いと怒鳴るのですから、無礼さの程度が尋常ではありません。
果たしてこちらも史実なのか。
慈光寺本が「最古態本」で一番信頼できると考える研究者たちは、このエピソードも史実と考えるのかもしれません。
しかし、原流布本が「最古態本」だと考える私としては、流布本の常識的な「弓のはず(弭 )」エピソードを見た慈光寺本作者が、これはドラマチックな演出の材料として使えると思って、実際に後鳥羽院が「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」への深い愛情を語る場面に使用したのではないかと考えます。
ま、それはともかく、流布本の続きです。(p135以下)

-------
 同八日、六波羅より御出家可有由申入ければ、則〔すなはち〕御戎師を被召テ、御ぐしをろさせ御座〔おはしま〕す。忽〔たちまち〕に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召て、似せ絵に被写て、七条院へ奉らせ給ければ、御覧じも不敢〔あへず〕、御目も昏〔く〕れ給ふ御心地して、修明(門)院誘引〔いざなひ〕進〔まゐ〕らせて、一御車にて鳥羽殿へ御幸なる。御車を指寄て、事の由を申させ給ければ、御簾〔みす〕を引遣〔やら〕せ御座〔ましまし〕て、龍顔を指出させ給て見へ被参、とく御返有〔かへりあれ〕と御手にてまねかせ給ふ様也。両女院、御目も暮〔くれ〕、絶入せ給も理也。
-------

【私訳】七月八日、六波羅から御出家なさるべしとの申入れがあったので、御戒師を召して、剃髪なさった。
華やかなお姿が忽ちに御変わりになったので、藤原信実を召して似せ絵を描かせ、母の七条院へさし上げたところ、七条院は御覧になることもできず、目も眩みそうなお気持ちがして、修明門院(後鳥羽院妃、順徳母)を御誘いになって同じ車に乗られて鳥羽院へ御幸となった。
両女院がお車を寄せて、事情を申し上げなさったところ、後鳥羽院は御簾を引きのけなさって龍顔をお見せになったものの、早くお帰りください、と手を振って相図をされた。
両女院は御目も眩み、気絶なさったのももっともなことであった。

とのことですが、後鳥羽院の出家について、慈光寺本では、

-------
 其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

となっていて、

 後鳥羽院の「伊王左衛門能茂」に一目会いたいという気持ちに北条時氏が涙を流して感動。
    ↓
 時氏は父・泰時に手紙を書き、能茂に会わせるように説得。
    ↓
 時氏の手紙を見た泰時は、時氏が十七歳(実際には十九歳)の若さなのに、こんな立派な
 人間に成長したと感動し、「殿原」に時氏の手紙を見せる。
    ↓
 泰時は「伊王左衛門能茂」に出家を命令。
    ↓
 出家した「伊王左衛門能茂」が後鳥羽院に面会。
    ↓
 出家姿の「伊王左衛門能茂」を見た後鳥羽院は出家を決意。
    ↓
 後鳥羽院は仁和寺御室を御戒師として出家。
    ↓
 仁和寺御室以下、身分の高低に関わらず、猛き武士までも、皆、涙を流して感動。

という訳の分からない展開となっています。
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流布本も読んでみる。(その71)─「武蔵太郎近く参りて、弓のはずにて御車の簾かゝげて見奉こそ」

2023-07-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
それでは流布本の続きです。
既に「渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その6)」で紹介済みですが、六人の公卿の処分の総括として次の文章があります。(『新訂承久記』、p134)

-------
 偖〔さて〕も六人の公卿の跡の嘆共、申も中々疎〔おろか〕也。身を万里の外にやどし、詞〔ことば〕千年の間伝へず共、同世の栖〔すまひ〕ならば、見るよしもなどか無らん。冥途如何なる境ぞや、使も通ずる事不叶。黄泉如何なる旅なれば、帰る事を不得覧。ほのかに残る者とては、主〔ぬし〕を放れし面影、見ても弥〔いよいよ〕悲きは、すさみし筆の跡計也。
-------

【私訳】さて、後に残された六人の公卿の家族の歎きの程はあえて言うまでもないことである。
例え万里も離れた場所に住み、千年もの長い間、音信が不通であろうとも、同じ現世に生きているならば、めぐり合う機会もないとはいえないだろう。
しかし、冥途はどのような世界なのか、使者を送ることも出来ない。
黄泉へはどのような旅なのか、帰ることは出来ないであろう。
亡き人々の面影を偲ぶものとして微かに残るのは、見れば悲しさが募るばかりだが、慰み半分に残した筆の跡だけである。

流布本も処分の日付は明記していませんが、『吾妻鏡』を見ると、

 七月五日 一条信能、美濃遠山庄にて遠山景朝により斬首
 七月十二日 葉室光親、駿河国加古坂にて武田信光により斬首
 七月十四日 中御門宗行、駿河国藍沢原にて小山朝長により斬首
 七月十八日 高倉範茂、足柄山の麓の早河にて名越朝時により水死刑
 七月二十九日 源有雅、甲斐国稲積庄小瀬村にて小笠原長清により斬首
 八月一日 坊門信忠、赦免されて遠江国舞沢より帰京

となっています。
慈光寺本とは逆に、流布本はこれら公卿六人の処分を記した後で、後鳥羽院の隠岐配流の話となります。(p135)

-------
 去程に同七月六日、武蔵太郎・駿河次郎・武蔵前司、数万騎の勢を相具して、院の御所四辻殿へ参りて、鳥羽殿へ可奉移由奏聞しければ、一院兼て思召儲させ給ひたる御事なれ共、指当りては御心惑はせ御座して、先女房達可被出とて、出車に取乗て遺出す。謀叛の者や乗具らるらんとて、武蔵太郎近く参りて、弓のはずにて御車の簾かゝげて見奉こそ、理ながら無情ぞ覚へしか。軈て一院御幸なる。清涼・紫震の玉の床を下り、九重の内今日を限と思召、叡慮の程こそ恐敷けれ。東洞院を下りに御幸なる。朝夕なりし七条殿の軒端も、今は余所に被御覧。作道迄(は)武士共老たるは直垂、若は物具にて供奉(す)。鳥羽殿へ入せ給へば、武士共四方を籠めて守護し奉る。玉席に近づき奉る臣下一人も見へ不給。錦帳に隔無りし女御・更衣も御座さず、只御一所御座す御心の程ぞ哀なる。
-------

【私訳】さて同じく七月六日、武蔵太郎(北条時氏)・駿河次郎(三浦泰村)・武蔵前司(足利義氏)は数万騎の軍勢を伴って後鳥羽院の御所四辻殿へ参って、鳥羽殿へ移し奉るべき旨を奏聞したところ、後鳥羽院は兼ねてから予想されていたことではあるけれども、いざその時になってみると、やはり御心は落ち着かず、先ずは女房達を退出させることとして、出車に乗せて外に出した。
謀叛の者が乗っているのではなかろうかと疑って、北条時氏は近くに参って、弓の弭(はず)で御車の簾を掲げて拝見したが、武士の振舞いとしてはもっともではあるものの、情のないことと思われた。
そして後鳥羽院の御幸となった。
清涼・紫宸殿の玉の床を下り、九重の内も今日限りと思し召されているであろう叡慮の程を推し量るのも恐れ多いことである。
東洞院大路を南に向かっての御幸であった。
朝に夕に慣れ親しんだ七条殿の軒端も、今は見知らぬ場所のように御覧になる。
鳥羽の作り道までは、警固の武士のうち、老いたものは直垂、若き者は鎧にて供奉した。
鳥羽殿へ入御の後は、武士たちが四方を固めて守護し申し上げた。
玉席に近づき奉る臣下は一人も見えなかった。
錦の帳に身近に仕えた女御・更衣もおられず、ただお一人にていらっしゃる御心のほどは哀れであった。

ということですが、四辻殿から鳥羽殿への移動の場面は、慈光寺本と比較すると本当に様々な点で異なっていますね。
慈光寺本では、

-------
 去程ニ、七月二日、院ハ高陽院殿ヲ出サセ給ヒテ、押小路ノ泉殿ヘゾ御幸ナル。同四日、四辻殿ヘ御幸成。サラヌ御方々ニハ、是ヨリ皆我御所々ヘ帰リ入セ給フ。同六日、四辻殿ヨリシテ、千葉次郎御供ニテ、鳥羽殿ヘコソ御幸ナレ。昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業〔のぶなり〕、左衛門尉能茂許〔ばかり〕也。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

とあり、七月二日に高陽院殿から「押小路ノ泉殿」(二位法印尊長邸)、四日に「四辻殿」、六日に「鳥羽殿」と二日毎に移動しています。
しかし、流布本では、後鳥羽院は叡山説得に失敗した後、高陽院殿に戻らずに四辻殿に移っており、藤原秀康・三浦胤義・山田重忠が宇治川合戦の敗北を報告し、門前払となったのも四辻殿です。
そして、七月六日に四辻殿から鳥羽殿に移っているので、七月六日に鳥羽殿に移ったことは慈光寺本と同じですが、それまでの経緯はずいぶん異なりますね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その59)─後鳥羽院は四辻殿へは何時移ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f1e524dd5dbddf940d1e9ac2456a496

次に七月六日の移動の際に、流布本では北条時氏・三浦泰村・足利義氏が「数万騎の勢」を率いて供奉しますが、慈光寺本では「千葉次郎」が担当したとあるだけで、供奉の人数も記されません。
そして、流布本では公家の随行者は記されないのに、慈光寺本では西園寺実氏・藤原信業と「左衛門尉能茂」の三人が「昔ナガラノ御供ノ人」として登場しています。
慈光寺本では、「左衛門尉能茂」は藤原秀康の軍勢手分に「海道ノ大将軍」の一人として「伊王左衛門」の名前が出た後、戦場での動向は全く記されませんが、ここで久しぶりに登場した後、妙に重要人物らしい描かれ方が続きます。
三番目に、北条時氏は四辻殿において、「謀叛の者や乗具たるらんとて」、「弓のはずにて」「女房達」の「出〔いだし〕車」の「簾かゝげて見奉」ったとのことですが、慈光寺本にはこれに対応する記述はありません。
しかし、「弓のはず」云々は慈光寺本にも類似の場面があります。
ただ、慈光寺本では、後鳥羽院が鳥羽殿に移った後、十日の出来事になっており、時氏は武装したまま「南殿」に上がり込んで「弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ」流罪に決まったから早く出て来い、と言っているので、無礼さの程度が違います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
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渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その9)

2023-07-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
渡邉氏は「慈光寺本以降の作者が、「千尋ノ底」という範茂歌の表現に不満を持ったかどうかはわからない」ものの、流布本作者が「語りの増補に合わせた歌の差し替え」を行ったのではないかとされます。
第三節のタイトルに「作り替えられる辞世歌」とあるように、流布本作者が慈光寺本の範茂歌を作り替えた、という立場です。
『承久記』諸本のうち、慈光寺本が「最古態本」で、流布本は慈光寺本を参照して作られた「後続の諸本」のひとつと考えるのが国文学界の通説なので、通説に渡邉氏の新知見を加味すれば論理的にこのような結論が導かれますね。
しかし、今年の二月から約半年をかけて、慈光寺本の全ての記事、そして流布本の殆ど全ての記事を具体的に比較・検証してみた結果、当初の予想通り、私には流布本作者にとって慈光寺本を参照しなければ書けない記事は存在しないように思われます。
公卿処刑の場面が典型的ですが、慈光寺本作者には事実を正確に記録しようする基本的姿勢が欠如しているので、「後続の諸本」の作者は全てを一から調べ直す必要があります。
慈光寺本を参照するということは、出来の悪い学生のレポートを基礎として論文をまとめるようなもので、そんな面倒な作業をするよりは白紙の状態で書き始める方がよっぽど早く良い論文が出来ますね。
結局、流布本は慈光寺本には全く影響されていない「最古態本」だというのが私の立場であり、この点が渡邉説と根本的に異なります。
なお、渡邉氏が引用されている前田家本については、かつては若干の争いがありましたが、現在では前田家本は流布本を簡略化した上で一部の独自記事を追加した作品であることが分かっており、範茂入水の場面もそのような操作の典型ですね。
さて、範茂に歌人としての実績がない以上、私のような立場からも、流布本の範茂歌は流布本作者の創作だと考える方が自然かもしれません。
しかし、範茂の入水による処刑は、『吾妻鏡』七月十八日条にも、

-------
甲斐宰相中将範茂。為式部丞朝時之預。於足柄山之麓。沈于早河底。是五体不具者。可為最後生障碍。可入水由依所望也。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

と記されているように歴史的事実であることは間違いなく、これを目撃し、最初に記録に残したのは範茂の護送・処刑担当者だった北条朝時です。
そこで、範茂歌の作者の第三候補として北条朝時も考えた方がよさそうです。

北条朝時(1193-1245)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82

鎌倉時代の武家歌人を概観するのに便利な外村展子氏の『鎌倉の歌人』(かまくら春秋社、1986)を見たところ、北条朝時の名前は系図に二箇所出て来るだけで作品は紹介されておらず、同母弟の重時のように著名な歌人と言えるような存在ではなかったようです。
ただ、藤原秀能の『如願法師集』には秀能との贈答歌が載っており(『新編国歌大観 第七巻』、四二七・四二八)、それは、

-------
   嘉禄三年三月尽に平朝時がもとより桜の花につけて
 うらみしなたが名かたらむさくらばなとはれぬままにはるもくれなば
   返事
 くれにけりひとのこころのはなざくらとはれぬままのうらみせしまに
-------

というもので、朝時が相当の歌好きであったことは間違いありません。
藤原秀能ルートと源具親ルートなどを通じて、承久の乱以前から後鳥羽院周辺の人々について相当の知識を持ち、歌好きでもあった朝時にとって、範茂の水死による処刑という稀有な場面は感慨深いだけでなく、詠歌のきっかけとなったとしても不思議ではありません。
この点、特に興味深いのは、渡邉氏も書かれているように、流布本の範茂入水場面には若干の「滑稽味」があることです。
「五体不具の者は往生に障り有なり」と心配した範茂の希望に沿って朝時が水死による処刑の準備を整え、範茂が歌を詠んでから入水し、念仏を唱えながら死んでくれたら悲劇は完成しますが、範茂の左右の足を縛った縄が切れてしまって、範茂はガバッと水面から飛び出し、せっかく築いてもらった堤も蹴破って、「え死なぬぞ」(死ねないぞ)と文句を言います。
そこで、再び堤を築き直し、縄も厳重に二重に縛って、「七八人して頭を押へて終らせ奉る」ということで、最期は悲惨ですが、全体としては単なる悲劇ではなく悲喜劇になってしまっていますね。

流布本も読んでみる。(その70)─「五体不具の者は往生に障り有なり。自入水せばや」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fde69eeb0f17bacce711fa717b36aea

果たしてこの悲喜劇は事実だったのか。
私は、この変なエピソードは、創作しようにもなかなか思いつけないほど変なので、逆にリアルなのではないかと感じます。
そして、「思ひきや苔の下水せき留て月ならぬ身の宿るべしとは」という歌は、死に行く自分を「月ならぬ身」と距離を置いて冷静に眺めているところに若干の滑稽味があり、入水エピソード全体の滑稽味に良く合っていますね。
単体としてはともかく、このエピソードの中に置かれた歌としては「思ひきや」歌は良く出来ていて、それなりに歌に慣れた人でなければ詠めない歌のように思われます。
そして、範茂の滑稽なまでの強情さは、あまり貴族らしくはないものの、武家の感覚ではそれなりに好ましいものであり、この歌は、範茂の悲喜劇に巻き込まれてしまった朝時が、範茂のために作ってあげた追悼の歌なのではないか、というのが私の結論です。
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渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その8)

2023-07-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
名越朝時の母は比企一族の「姫の前」ですが、「姫の前」は北条義時と離縁後、京都で源具親という歌人と再婚しており、具親は秀能と同じく和歌所の寄人です。
再婚後の「姫の前」は具親との間に輔通・輔時を産みますが、「姫の前」自身は二人を産んで間もなく死んでしまうものの、朝時と輔通・輔時の異父兄弟は非常に良好な関係を維持します。

「姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/48641808750a83d50a9a28a490c32683
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c37b5d63c266f8a5d8e3062a5b6a7c1d

源具親については森幸夫氏に「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)という論文があり、私も輔通(1204-1249)の女子が後深草院二条の父・中院雅忠の後妻になっていることから具親に興味を持って少し調べたことがあります。

(その3)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/224e32ebc96bd05bb37e911e224f9da0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

朝時は先に述べた藤原秀能ルートに加え、源具親ルートも確保していましたから、承久の乱以前から後鳥羽院歌壇、そして後鳥羽院の近臣についても相当の予備知識を得ていたはずです。
また、軍事的観点から京方の内実について興味を持っていたでしょうから、護送中の藤原範茂との間に話題は尽きなかったでしょうね。
もちろん、範茂が会話を拒否すればそれまでですが、朝時が手間がかからない斬首ではなく、範茂が望む通りに面倒な水死での処刑を認めてやったということは、朝時との間にそれなりに親しい交流があったからではないかと思います。
さて、以上を前提に、流布本の「思ひきや苔の下水せき留て月ならぬ身の宿るべしとは」の作者は誰だったかを考えてみたいと思います。
第一候補はもちろん高倉範茂ですが、範茂には歌人としての実績がなく、知られている歌は建仁元年(1201)九月十三日の「和歌所影供歌合」における一首のみです。
『新編国歌大観 第五巻 歌合編』(角川書店、1987)を見ると、この歌合は、題が「近野秋雨」「遠山暮風」「寄池恋」、参加者は「女房」(後鳥羽院)・宮内卿・越前・左中弁長房・左近衛権少将雅経・散位鴨長明・左兵衛少尉藤原秀能ら十八名ですが、その中に「肥前守範茂」がいます。
そして、十番以下が「遠山暮風」を題としており、範茂の歌は十四番に、

-------
   十四番 左持               相模
 夕ま暮こずゑをわたる風のおとにさびしさまさるみやまべの里
    右                   範茂
  くれかかる山路はるかに峰の松あらしとともに入逢の鐘
-------

とあって(p404)、「持」(引き分け)ですね。
渡邉氏は、

-------
範茂は、後鳥羽院近臣が多く参加した、建仁元年(一二〇一)九月十三夜「和歌所影供歌合」という当座歌合に出詠したことがある。この他には歌会などへの参加記録が残っておらず、新古今歌壇で活躍したとまでは言えないが、歌合の詠歌内容から見て、歌壇活動に参加できる程度の心得はあったと思われる。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4987bec6f47311b3f7262ada196d29d3

と言われますが、初心者が見様見真似でも詠めそうな平凡な歌であり、結局、これ以降は一切歌壇活動に参加していないのですから、「歌壇活動に参加できる程度の心得」があったのかは不明と言わざるを得ないと思います。
まあ、後鳥羽院を中心に異様な盛り上がりを見せていた新古今歌壇の隆盛期に全然歌を詠んでいないのですから、範茂が歌が好きではなかったであろうことは確かだと思います。
そんな範茂が、二十年後、死を目前にして突如として歌を詠むかというと、まあ、あり得ない訳ではないのでしょうが、比較の対象が二十年前の、これといって特徴のない平凡な一首しかないので、歌そのものから範茂作かどうかを判断するのは難しいですね。
次に、第二候補は流布本の作者です。
渡邉説はこの立場ですが、渡邉氏の場合、慈光寺本が「最古態本」で、流布本は慈光寺本を参照した「後続の諸本」の一つなので、慈光寺本の範茂歌が慈光寺本作者の創作と考える以上、論理的に流布本の範茂歌も流布本作者の創作となりますね。
ただ、渡邉氏も、

-------
 慈光寺本以降の作者が、「千尋ノ底」という範茂歌の表現に不満を持ったかどうかはわからない。特に流布本が、やや滑稽味を加えながら、範茂の「フシ漬」のいきさつを詳述していることからすると、どちらかと言えば語りの増補に合わせた歌の差し替えのように思われる。
-------

と言われているように、流布本の場合は範茂エピソードに「やや滑稽味」があり、歌にも死んで行く自分を笑うような微かな滑稽味があって、本文と平仄が合っているように思われます。
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渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その7)

2023-07-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本の公卿・殿上人の処刑記事に不正確な情報が連続している点、あまりに数が多いので、作者の単純な過失が重なったというよりは何らかの故意、更にはうっすらとした悪意を感じますね。
おまえらについてはこの程度書いておけば十分だろ、みたいな感じです。
慈光寺本に比べれば、少なくとも流布本の作者には事実関係を歪めようとする積極的な意図はなさそうなので、私は流布本の範茂処刑場面は相当に信頼してよいと思います。
そして、問題の範茂の歌ですが、渡邉氏は、

-------
 いずれにしろ流布本や前田家本が載せる「思ひきや」の歌も、和歌に習熟した者が作ったとは考えられないという点では同じである。この歌の「苔の下水」という表現は、『新古今集』に見える西行の「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水道求らむ」(春上・七)が初出で、以降、西行歌の影響下に詠まれている。西行歌は、初春に雪解け水が苔むした岩間をくぐり、流れ出した情景を歌ったもので、範茂が沈められたような、流れゆく川の描写に「苔の下水」は、やはりそぐわない。
 こうした例は、歌は物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることがあったことを物語る。作り物語では当然のことなので、このような営為は自然であったろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4987bec6f47311b3f7262ada196d29d3

とされます。
『精選版 日本国語大辞典』によれば、「苔の下水」は、

-------
苔の下を通ってゆく水。
※新古今(1205)春上・七「岩間とぢし氷もけさは解けそめて苔の下水道もとむらん〈西行〉」
[語誌]苔の下を水が流れていくという発想は、挙例の西行歌以前には見出し得ず、冬の暗く閉塞的な草庵生活の中で春を待望する心がとらえた、西行の新造語か。この表現は、以後の勅撰入集歌や謡曲など広範な分野に影響の跡がうかがえる。

https://kotobank.jp/word/%E8%8B%94%E3%81%AE%E4%B8%8B%E6%B0%B4-500203

とのことですが、西行歌の着想は面白いものの、雪が解け始める季節の苔は茶色っぽくなってしまっていて、ビジュアル的にはそれほど美しい景色でもなさそうです。

「冬の苔の育て方~茶色く干からびた苔を復活させる方法とは?」(『コケログ』サイト内)
https://kokelog.com/moss-in-winter/

ところで、流布本では、範茂が沈められた川は、

-------
彼宿の後ろの面に、細谷河流たり。名を瞋河と云。爰彼〔ここかし〕こ深淵を尋けれ共、山河の習浅ければ、責て水居長〔いたけ〕の程あらば能〔よか〕りなん、石を聚〔あつ〕めて堤ヲ築〔つき〕、流るゝ水をせき懸ければ、無程淵を成。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fde69eeb0f17bacce711fa717b36aea

というもので、水量豊かな大河ではなく、あくまで「細谷河」、淵もない谷川ですから苔も生えているはずで、「苔の下水」は実景の描写としてもさほど的外れではなさそうです。
そして範茂が処刑された旧暦七月十八日(『吾妻鏡』)は、現在の暦だと八月ですから、苔も夏の強い光に青々と輝いて、西行歌よりもビジュアル的には美しい歌とも言えます。
まあ、さすがに私には西行歌をコケにする勇気はありませんが、「思ひきや苔の下水せき留て月ならぬ身の宿るべしとは」はそれほど悪い歌でもなく、渡邉氏の「和歌に習熟した者が作ったとは考えられないという点では同じ」、即ち慈光寺本の「千尋の底」と同じレベルの歌、という評価はいささか辛辣すぎるのではなかろうかと思います。
さて、流布本の範茂処刑の場面がそれなりに信頼できそうだと考えた場合、このエピソードはいったい誰が最初に伝えたのだろうか、という問題があります。
ま、素直に考えれば、それは範茂の護送と処刑の担当者であった名越朝時ですね。
水死させるよりも斬首の方が手っ取り早いに決まっていますから、朝時が範茂の面倒くさい希望をかなえてやったということは、朝時と範茂の間にそれなりの人間的交流があったことを意味します。
名越朝時はそれなりの武家歌人であったようで、承久の乱以前から京方の「総大将」藤原秀康の同母弟、藤原秀能(如願法師)と交流があったことが知られています。
田渕句美子氏『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第三章 藤原秀能」によれば、新古今時代の代表的歌人の一人である藤原秀能は、北条一族の四人、即ち北条時房の三人の息子、時村・資時・朝直と名越朝時に和歌の指導を行っていたようです。

田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その9)(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfabd4172383366001f8f48ce6ac2fae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/805c77ee1c3c257b301073c7f5c5b760

同書で田渕氏は、

-------
 北条(名越)朝時は北条義時の二男である。建久五年(一一九四)生、やはり評定衆・遠江守等を勤めた人物であるが、秀能はこの朝時とも贈答歌をかわしている(『如願法師集』四二七・四二八)。朝時は、泰時の弟にあたり、父義時から愛され、執権たる泰時に対抗し得る存在であって、泰時が没する直前に朝時が急に出家したのもその動きを未然に防ぐための泰時の作為であったと言われ、執権の座をうかがい得る程の権勢を持つ有力者であった。承久の乱でも、北陸道の大将軍として上洛に功をたてていることが『吾妻鏡』等に見える。名越家は北条得宗家と並び立つ存在であり、得宗家に次ぐ由緒ある家格であった。寛喜三年(一二四五)五十三歳で没した(『吾妻鏡』)。
【中略】
 以上のことから、秀能と北条家の人々とは、承久の乱以前より、それ以後長きにわたって、かなり親密な交友関係を維持していたことがわかる。彼らは、真昭・朝時・朝直のような現役の幕府の要人たちであり、しかもその詠は単なる儀礼的な歌ではなく、かなりの親しさを窺わせるものである。年齢的に、真昭・朝時・朝直は、いずれも秀能より約十歳から二十歳も年下であるから、秀能はたとえば和歌を指導する、師のような存在であったのではないか。 

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/606fb493801b1bd9032459862033f3bb

と書かれており、この記述自体には若干の問題がない訳ではありませんが、朝時は秀能を通じて後鳥羽院歌壇、そして後鳥羽院の周辺についても相当な知識があり、護送期間中、藤原範茂とそれなりに共通の話題があったはずです。
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渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その6)

2023-07-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本では処刑された公卿・殿上人に関する記事の分量が少ないだけでなく、その内容にも奇妙な点が多いですね。
特に最初の6行は、

-------
 又、公卿・殿上人ヲバ、坂東ヘ下シ参ラス。按察〔あぜちの〕中納言光親卿ヲバ、武田承〔うけたまはつ〕テ下シ奉ル。中御門中納言宗行卿ヲバ、小笠原承テ下シ参ラス。坊門大納言忠信卿ヲバ、城入道承テ下シ奉ル。佐々木野兵衛督有雅ヲバ、伊東左衛門承テ下シ奉ル。甲斐宰相中将範茂ヲバ、式部丞朝時承テ下シ奉ル。一条少将能継〔よしつぐ〕朝臣ヲバ、久下〔くげ〕三郎承テ、丹波芦田〔あしだ〕ヘ流シ奉ル。其後、人ノ讒言ニテ程ナク頸切ラレ給ヌ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2e5806ca4cbdad02046430f79d2e8dc

となっていて、「公卿・殿上人ヲバ、坂東ヘ下シ参ラス」とあるにもかかわらず、「一条少将能継朝臣ヲバ、久下三郎承テ、丹波芦田ヘ流シ奉ル」とあります。
『尊卑分脈』を見ると、この記述は誤りの可能性が高いのですが、そもそも『吾妻鏡』などの他書では「合戦張本」と扱われていない一条能継がここに登場するのが変であり、本来ならばその叔父で、遠山景朝によって美濃国遠山で処刑された一条信能について書かなければならないはずです。

流布本も読んでみる。(その69)─「一条少将義次」と「権亮少将信能」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa4022997ecec0303accb9119a4beec0

また、他書と比較すると中御門宗行を担当したのが「小笠原」となっているのも変であり(正しくは小山朝長)、源有雅の担当が「伊東左衛門」となっているのも変です(正しくは小笠原長清)。
そして残りの14行も、

-------
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル
 甲斐宰相中将ヲバ、早キ河ニテフシ付〔づけ〕ニシ奉ル。中将、式部丞ヲ召テ仰〔おほせ〕ラレケルハ、「剣刀〔つるぎやいば〕ノ先ニカゝリテ死スル者ハ、修羅道ニ落ルナレバ、範茂ヲバフシ漬〔つけ〕ニセヨ」ト仰ラレケレバ、大籠ヲ組テ、ツケ参ラセケルニ、御台所〔みだいどころ〕ヘ御文書オキ給フトテ、
  遥ナル千尋ノ底ヘ入時〔いるとき〕ハアカデ別〔わかれ〕シツマゾコヒシキ
 兵衛督モ、同〔おなじく〕切ラレ給ヌ。
 坊門大納言ハ、鎌倉故右大臣殿ノ御台所ノ御セウト、強縁〔がうえん〕ニマシマセバ、命計〔ばかり〕ハ乞請〔こいうけ〕テ、浜名ノ橋ヨリ帰リ給フ。今ハト心安〔こころやすく〕テ、出家シテオハセシガ、又イカナル事カ聞ヘケン、後ニハ越後国ヘ流シ奉ケル。
-------

とありますが、中御門宗行の処刑地は遠江の「菊川ノ宿」ではなく、駿河の藍沢であり、葉室光親の処刑地も「浮島原」ではなく、籠坂(加古坂)です。
そして葉室光親作とされている歌は、正しくは中御門宗行の歌です。
また、「兵衛督」源有雅の処刑地は甲斐国稲積庄小瀬村(『吾妻鏡』)ですが、慈光寺本作者は無視しています。
果たしてこれらの不正確・不十分な情報の数々は偶然なのか。
それとも慈光寺本作者の何らかの意図、例えば処刑された人々や処刑担当者への悪意が含まれているのか。
まあ、あまりに変な箇所が多いので単純な過失ではないように思われますが、少なくとも慈光寺本作者が「合戦張本」の公卿の運命に対して特段の関心や同情の念を持っていないことは確実です。
このような不正確な記述の中で、甲斐宰相中将・藤原範茂についてだけは慈光寺本作者は正確な情報を提供すべく鋭意努力したと考えるのは無理で、範茂についても適当に書いたのだろうなと思われます。
従って、「千尋の底」という表現から、この歌が実在した範茂の作品ではないとされた渡邉氏の判断は、周囲の記事の不正確さ、適当さからしても正しいものと思われます。
さて、では流布本はどうか。
流布本では、坊門忠信の記事の前に、

-------
 去程に武蔵守・駿河守は院の御所へ参らんとて、已に打立んずる由、一院被聞召て、下家司以被仰下は、「な参そ、張本に於は(交)名〔けうみやう〕を註〔しる〕し出さんずるぞ」と被仰下けり。上の者を以て重て此様を被仰ければ、「御所に武士やある。見て参れ」とて、力者を一人進〔まゐ〕らせければ、走帰て、「一人も不候」と申ければ、「左有〔されば〕」とて不参。公卿六人の(交)名を誌し被下。坊門大納言忠信卿・中御門(前)中納言宗行・佐々木前中納言有雅・按察使前中納言光親・甲斐宰相中将範義・一条宰相中将信氏等也。何れも六原へ被渡ければ、坊門大納言を千葉介胤綱に被預。中御門前中納言は小山新左衛門尉友長に被預。按察使前中納言は武田五郎信光に被預。佐々木前中納言は小笠原次郎長清に被預。甲斐守宰相中将憲村は式部丞朝時(に)被預。一条次郎宰相中将信能は遠山左衛門尉景村に被預けり。
 此人々の跡の嘆き、譬〔たとへ〕ん方も無りけり。座を双べ袖を連ねし月卿雲客にも遠ざかり、枕をかはし衾〔ふすま〕を重ねし妻妾・子弟にも分れつゝ、里は有共人無、宿所々々は被焼払ぬ。徒らに山野の嵐に身を任せ、心ならぬ月を詠めて、故郷の空に遠ざかり、被切事は近くなれば、只悲の涙を流てぞ被下ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5f72ed0b4cd7d283b730f4f86f33820

とあって、流布本作者の公卿六人と残された人々への同情の念は偽りとは思えません。
また、高倉範茂の記事の後には、全体の総括として、

-------
 偖〔さて〕も六人の公卿の跡の嘆共、申も中々疎〔おろか〕也。身を万里の外にやどし、詞〔ことば〕千年の間伝へず共、同世の栖〔すまひ〕ならば、見るよしもなどか無らん。冥途如何なる境ぞや、使も通ずる事不叶。黄泉如何なる旅なれば、帰る事を不得覧。ほのかに残る者とては、主〔ぬし〕を放れし面影、見ても弥〔いよいよ〕悲きは、すさみし筆の跡計也。
-------

とあって(『新訂承久記』、p134)、公卿六人と残された人々への同情の念が繰り返されます。
そして、間に挟まれた公卿六人の個別記事のどれを見ても、転写の過程で生じたと思われる誤字は少しありますが、他書、特に『吾妻鏡』と比べて不正確と思われる記述は見当たらず、処刑された人々、そして処刑した人々に対する悪意のある記述も見当たりません。
従って、流布本記事全体の信頼性は慈光寺本より遥かに高いように思われます。
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